PDFはこちら - 一般財団法人 熊本公徳会

社会教育講演会
たてながら紹介した。
講演するノンフィクション作家の中田整一氏 断ち切ることを訴え続けた淵田の姿を、ビデオ上映を交えて臨場感をかき
講演では、回顧録に書かれた太平洋戦争の秘話と、戦後に憎しみの連鎖を
講師は、玉名市出身のノンフィクション作家中田整一さん。中田さんは
淵田が書いた二千ページの回顧録を発掘し、それを基に取材を重ねて出版。
ける。
て伝道のためにアメリカへ渡り、
﹁ノーモア・パールハーバー﹂を訴え続
会い敗戦を見届けた男でもある。そして淵田は戦後、キリスト教に回心し
淵田は昭和二十年九月二日、東京湾上のミズーリ号で降伏調印式にも立ち
を切った。この機動部隊の指揮をしたのは淵田美津雄中佐︵当時︶だった。
日未明、日本海軍機動部隊がハワイ・真珠湾に突撃し太平洋戦争の火ぶた
真珠湾攻撃総隊長の回想﹂
。七十年前の昭和十六︵一九四一︶年十二月八
熊本公徳会の平成二十三年度の第一回社会教育講演会が四月十六日、熊
本市のホテル日航熊本で開かれた。演題は﹁ノーモア・パールハーバー∼
ノンフィクション作家 中田整一氏
﹁ノーモア・パールハーバー∼真珠湾攻撃総隊長の回想﹂
太平洋戦争 周年秘史
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淵田美津雄、人生を二度生きた男
いうことを考えました。世界の人類が平和を保っていく
ためにはどうすればいいか、ということを本当に真剣に
考えたのです。なぜかというと、人類が原爆を持ったと
ら、秘話満載の太平洋戦争の物語をお話します。それか
に書くことしかできません。今日も資料をひもときなが
ばかりやってきました。私は資料を基にひたすら真面目
ると本当にちっぽけと書いています。原子力が〝もろ刃
の英知というものはちっぽけなもの、宇宙や自然に比べ
意識を、昭和二十年代後半に持ったのです。淵田は人類
核戦争が起きたら人類は滅びてしまうだろうという危機
い う こ と で す。 原 子 爆 弾 を 人 類 が 持 っ た こ と に よ っ て、
ら戦後の淵田美津雄がなぜ伝道師になったか、その感動
の剣〟になると早くも感じているわけです。そういうこ
私はノンフィクション作家として物書きをしています。
玉名市の出身です。三十数年、長いことNHKで昭和史
的な話をご紹介させていただきたいと思います。
これは日米合作の映画にもなり、淵田の役は田村高廣が
リ︶と暗号電報を打って、世界的に有名になった男です。
珠 湾 の 上 空 か ら、
﹁ ト ラ ト ラ ト ラ ﹂︵ ワ レ 奇 襲 ニ 成 功 セ
機の日本海軍飛行機を率いて真珠湾を攻撃しました。真
まだリメンバー・パールハーバーの雰囲気が満ち満ちて
き ま す。 淵 田 が ア メ リ カ に 行 っ た 昭 和 二 十 六 年 当 時 は、
ら戦後は、聖書を片手に単身でアメリカに乗り込んでい
本軍機を率いて、戦争の口火を切った男である。それか
一言で言いますと、淵田という男は人生を二度生きま
した。一つは真珠湾攻撃の総隊長として三百六十機の日
とで、彼は平和運動に走って行く。そういう男でした。
演じました。私は五年前、淵田が亡くなるまで書き続け
いまして、憎しみを抱いて、彼を見つめたアメリカ人は
今 年 は パ ー ル ハ ー バ ー か ら 七 十 年 で す。 昭 和 十 六
︵一九四一︶年十二月八日未明、淵田美津雄が三百六十
た二千ページにおよぶ回顧録とアメリカで巡り合いまし
彼はそういう勇気ある男であったということです。
たくさんいました。その中に単身乗り込んでいくのです。
淵田は戦争で生き残った自分ができることは何か、と
て、世に紹介させてもらいました。
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「ノーモア・パールハーバー∼真珠湾攻撃総隊長の回想∼」の講演にはおよそ450
人が参加した。
(平成23年4月16日 ホテル日航熊本)
淵田のアメリカ伝道の旅は十五年におよび、しかもハ
ワイには三回訪れています。ハワイに何しに行ったかと
いうと、真珠湾攻撃のときに、五十四人の自分の部下た
ちが戦死しています。最初に行ったときは、部下たちの
墓か遺骨がないだろうかと探しに行きました。アメリカ
軍に頼んで探してほしいと探し回っています。アメリカ
軍はきちんと戦死した人を弔っていました。そこで、淵
田は、部下たちに見捨てて悪かったとお詫びをしていま
す。
﹁ニイハフ島事件﹂と外務省文書
皆さんはおそらくご存じないと思います。ニイハフ島
事件というのがあります。ハワイの沖合に、日本に一番
近い方に個人所有の島があります。この島がニイハフ島
です。私は去年その島に行き、船の上から周りを見まし
た。 そ の 島 に、 真 珠 湾 攻 撃 で 被 弾 損 傷 し た 日 本 軍 の 飛
行機が不時着します。淵田は連合艦隊の司令部に頼んで、
﹁自分の部下たちを見捨てたくない。不時着した兵士た
ちは、必ず潜水艦で迎えに行ってくれ﹂と約束を取り付
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けていました。そこで、実際に潜水艦が救助に向かいま
に行って見てみました。そこに淵田が登場していました。
なぜ私がこういう話をするかと言いますと、外務省が
一昨年に初めて公開した外交文書の中にニイハフ島事件
不時着したパイロットは、西開地という二十三歳の兵
曹でした。彼は人事不省で海岸にいました。迎えの潜水
昭和二十八︵一九五三︶年、ハワイを訪ねた淵田がその
した。
艦に救助されることはありませんでした。ニイハフ島は
話を聞いて、二人のお墓を探しています。
というのがあったのです。私はすぐ外務省の外交史料館
牧畜の島で、ロビンソン家が所有していました。地元の
人たちはパールハーバーで何が起こったかということを
この放火自決事件があり、原田さんの奥さんは国家反
逆 罪 で 太 平 洋 戦 争 中 は ハ ワ イ の 刑 務 所 に 入 れ ら れ ま す。
てやってほしいと頼みます。ハワイ総領事はクリスチャ
まだ知らなったものですから、負傷した西開地を自分の
ニイハフ島には、日本から移民した原田義雄さん一家
が住んでいました。原田義雄さんは西開地を助けようと
ンで、日本政府に原田一家を救ってやってほしいと嘆願
子どもが三人いました。その子どもたちは児童施設に預
通 訳 を や っ て い た の で す け ど、 西 開 地 兵 曹 が﹁ 捕 虜 に
書を出しました。それが一昨年になってやっと公開され
家に連れて行き介抱しました。そのときにピストルと一
なったら生きて帰れない。何とか暗号表だけは取り戻し
た。どうして外務省がこの事件のことを隠していたかは
けられます。淵田が訪ねたときには、極貧の生活をして
た い ﹂ と 言 う の で、 原 田 氏 は 西 開 地 と 一 緒 に 、 現 地 人
知りませんが、一昨年に出てきた。淵田はハワイとはそ
緒に日本海軍の通信暗号表も持ち帰りました。
の家に暗号表を取り戻しにいきます。でも返してくれな
ういう縁があります。
いました。そこで、淵田はハワイ総領事に、何とか救っ
いので、暗号表を燃やしてしまおうと家に火を付けます。
現地の人たちは怒って彼らを追いかけました。日本人二
人は追い詰められて自決します。
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淵田家訪問 家の建築と回顧録
が残っていました。私は﹁この家はご主人一人で造られ
たのですか﹂と聞きました。すると、奥さんは﹁この家
ていることを淵田の戦友に聞きました。それで、私は奈
なって四年後、淵田さんが晩年まで自分の回顧録を書い
い る と き に、 淵 田 美 津 雄 さ ん が 亡 く な り ま し た。 亡 く
らしいです。棟上げして、瓦葺きまでし、おまけに井戸
事を見よう見まねで独習し、最初は鶏小屋から出発した
カーに載せて、二年間かけて運びました。淵田は大工仕
奥さんの家が奈良県の明日香村の山持ちの家だったの
で、山から材木を一家四人で切り出したそうです。リヤ
は、私たち家族四人で造りました﹂とおっしゃいました。
良県橿原市にある淵田の家にすぐ行きました。奥さんが
まで淵田が一人で掘ったそうです。この話を聞きまして、
私が淵田美津雄の回顧録に巡り合ったことからお話さ
せていただきます。今から三十数年前、大阪に勤務して
着物姿で出てこられました。いきなり行ったので、玄関
何と実行力のある、すごい男だな、と淵田に非常に興味
を持ったのです。
先で話しました。
そのとき、いかにも淵田らしいエピソードを聞きまし
た。 戦 後、 淵 田 は 公 職 追 放 に な っ て 失 職 し、 い ろ ん な
ね。そのとき一家四人で造った家が、私が訪れたときの
自分の住むところは自分で作るのだ﹂と決心するのです
るもの、小鳥も虫も自分の巣は自分で作っている。俺も、
暇と知恵はある。森羅万象を見ていると、生きとし生け
事業をやっていました。その息子さんが、淵田の自叙伝
なります。そしてマンハッタンで、非常に手広く建築の
て、ニューヨークのコロンビア大学を卒業して建築家に
た こ と が 子 ど も 心 の 中 に、 非 常 に こ び り つ い て い ま し
う返事でした。長男の淵田善彌さんは、家族で家を建て
それで、私の一番の狙いだった淵田の回顧録のことを
奥さんに尋ねました。﹁息子が持って行きました﹂とい
家でした。これが本職の大工が造ったのと何の遜色もな
を持って行っていました。私は実際にニューヨークから
人生の悲哀を味わいます。そのときに、
﹁金はないけど、
いのです。私が行ったときは、建て増しするための基礎
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車で四十分ぐらいのニュージャージー州に行き、淵田善
彌さんを訪ねました。書庫をのぞかせてもらうと、淵田
が書いた自叙伝が製本されて、未公開のままありました。
そこには、われわれが知らなかった太平洋戦争の秘話が
たくさん書いてありました。
しておいてください﹂という書き出しから始まります。
真珠湾攻撃でみせた責任感
私 が 淵 田 に 感 じ 入 っ た の は、 彼 の 責 任 感 の 強 さ で す。
こ れ を パ ー ル ハ ー バ ー で 見 事 に 見 せ ま す。 パ ー ル ハ ー
バ ー で、 彼 が 乗 っ て い た 艦 上 爆 撃 機 は、 航 空 時 間 五 時
彼は、晩年は糖尿病で失明します。六十五歳で伝道師
の生活を一切やめて、六十五歳から自叙伝を書き始めて
三 時 間 上 空 で 何 を や っ て い た か。 彼 は 部 下 た ち が ど う
に三時間とどまり、ぎりぎりで帰ってくるのです。彼は
間で燃料が切れます。航空母艦﹁赤城﹂から飛び立って、
八年がかりで書き上げます。晩年はほとんど失明状態で
いう働きをするか、敵といかにたたかったかを、観察す
﹁夏は近い﹂︱核の時代への警鐘
すから、奥さんが新聞など資料を読んで、事実関係に間
るのです。部下たちが一機もはぐれないように、母艦に
人類の危機の予兆を意味する聖書の言葉に﹁夏は近い﹂
合、 人 類 は 危 機 に 瀕 す る、 淵 田 は そ う 思 っ て い ま し た。
う が い い ﹂ と い う が、
﹁まだ帰らない。その代わり、操
うち二本が切れる。パイロットが﹁隊長、もう帰ったほ
しかも、彼が乗っていた飛行機が高射砲で被弾するの
です。操縦かんと後ろの方向舵をつなぐ三本のワイヤの
最初に飛び立って、一番遅くまでいたのが淵田です。
帰り着くまでは、自分は見守る責任があるということで、
だいたいパールハーバーまで一時間、攻撃のために上空
違いがないかを確認しながら書いています。
そして、最後に序文を書いています。序文のタイトル
は﹁夏は近い﹂です。人類が原子爆弾を持ち、第三次世
と い う の が あ る ら し い の で す。 こ れ か ら 取 っ て い ま す。
縦はていねいにやれ﹂と言って、最後までとどまる。三
界戦争が起これば必ず原爆を使うだろう、そうなった場
序 文 は、
﹁ 神 様、 私 を こ の 回 想 録 を 書 き 終 え る ま で 生 か
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れた飛行機がおそらくいるので、それを拾って帰る﹂と
う一つやります。﹁もう一回見回れ﹂と命令する。﹁はぐ
時間たって、そろそろ燃料が切れるというとき、彼はも
よ う な 書 き 出 し か ら 入 る わ け で す。 な る ほ ど う ま い な、
田の青春は運命的にパールハーバーの一日だった。この
パールハーバーに行く、彼はこの一日にかけていた。淵
の青春は、その一日のためにあった﹂
。彼は海軍に入り
彼はその中で、真珠湾攻撃の真実をたくさん明らかに
しているわけです。彼が書いたのは、戦後の日本人に対
言うのです。案の定、二機がはぐれていた。その連中を
そのときにみんなが驚きます。燃料はゼロに近く、ワ
イヤが二本切れている。みんな、このことで淵田隊長に
する遺書なのです。これから、秘話の幾つかをお話しま
と思って、何度も読ませていただきました。
対して信頼を寄せます。淵田はパールハーバーで自分の
す。
引き連れて、最後に着艦する。
責任を全うしたのです。
て作戦の起案があります。文書は簡潔直裁で気品を備え
淵田は非常に文章が上手な人です。海軍でも名文家と
して知られていました。軍隊では参謀の重要な仕事とし
真珠湾攻撃の戦況を聞きたがっているということでした。
すぐ大本営から電話があり東京に戻ります。天皇陛下が
昭和十六︵一九四一︶年十二月二十三日、淵田らは真
珠湾攻撃を終えて鹿児島の錦江湾に着きます。そのとき、
天皇に拝謁し軍状奏上
ていなければならない。淵田が書いたものは漢文調で凜
永野軍令部総長が皇居に付き合います。当時、淵田は中
回顧録の書き出し
としていました。これは父親から学んだ漢学によるもの
佐です。佐官級が天皇に軍状奏上するということは、本
のことでした。淵田は特別機を東京まで飛ばして、十二
来ならばありません。陛下が会いたいということで特別
でした。
回顧録の書き出しはどういうふうだったか。
﹁国家十
年兵を養うは、一日これを用いんがためなりという。私
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会場では大勢の聴衆が中田さんの話に聞き入った
月二十六日に皇居に向かいました。
天皇に、真珠湾攻撃で撮ってきた航空写真をお見せし
ながら、戦況を説明します。約束の時間は三十分でした。
しかし天皇が非常に興味を示されて、結局一時間半にな
り ま し た。 そ れ で、 話 が 終 わ っ て 帰 ろ う と す る と、 天
皇 が﹁ そ の 写 真 は ど う す る の か ﹂ と お 聞 き に な り ま す。
﹁これはちゃんと装丁して、陛下に差し上げる予定であ
り ま す ﹂ と 答 え る と、 天 皇 は﹁ そ れ な ら、 置 い て い け。
皇后に見せたいから⋮﹂とおっしゃいました。
私が思うに、昭和天皇は皆さんもご存じのように、戦
争には心配し反対されていました。皇后も相当心配され
ていたわけです。それで、安心材料として皇后に見せる
ために、とにかく置いていけということで、写真を取り
上げられたのでしょう。
アリゾナのウソから始まる大本営発表
実 は、 こ れ か ら が 日 本 の 歴 史 が 間 違 っ て 行 く の で す。
淵田が拝謁で上京しているとき、潜水艦参謀の有泉龍之
介中佐がやってきました。有泉は﹁アリゾナの撃沈をわ
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いる。海底まで十二メートルしかないものですから、ア
で沈めるのを轟沈というらしいのですけど、轟沈させて
メートル上から二発落として轟沈させます。一分間以内
が沈めたのです。戦艦長門の砲弾を改造して、高度三千
ことにしてくれ、ということです。アリゾナは淵田たち
メリカ軍の戦艦アリゾナを特殊潜航艇が沈めたという
陣訓﹂の﹁生きて虜囚の 辱 をうけず﹂との掟で捕虜は
中に捕虜第一号の酒巻和男少尉が出てきます。当時﹁戦
なっていたのです。昨年、私は﹃トレイシー 日本兵捕
虜秘密尋問所﹄︵講談社︶という本を書きました。この
れは有名な話ですけど、十人のうち一人は捕虜第一号に
す。未帰還兵が十人いたのになぜ九軍神かというと、こ
アリゾナは二人乗りの特殊潜航艇が沈めたということ
にし、生還しなかった人を戦死として九軍神をつくりま
れわれの戦果にくれないか﹂と言います。要するに、ア
リゾナの上の部分は浮いたかたちなります。
魚 雷 は ま ず ベ ス タ ル に 当 た る よ う に な っ て い た の で す。
アリゾナの外側にはベスタルという工作艦が横付けに
なっていまして、もしも真珠湾に日本の潜水艦が来ても、
ます。その取っかかりがアリゾナなのです。その事実を
神と崇めて、どんどん持ち上げて、軍国美談を作り上げ
十人で写った写真から酒巻少尉を消してしまいます。軍
出してはいけないことになっていた。それで、出撃前に
淵田は﹁絶対、アリゾナは潜水艦に沈められないように
淵田はきちんと書き残しています。
アリゾナの論功行賞を誤ったことが、ミッドウェー海
戦にまで尾を引いてきます。この事実も淵田が書いてい
ミッドウェー敗因は論功のごたごた
なっていた﹂と言うのですが、ただ淵田が日本に帰る前
の十二月十八日、アリゾナは特殊潜航艇が沈めたと海軍
まざるを得なくなるのですけど、そこから大本営発表が
ます。ミッドウェー海戦で、日本の海軍が徹底的に負け
が新聞発表していました。一回ウソをついたので、この
始まるのです。大本営はそれから八百何十回ウソをつく
戦 に 入 っ て い き ま す。 ミ ッ ド ウ ェ ー 海 戦 の と き の 戦 艦
ウソは覆されない。結果としては、この要求を淵田はの
のです。
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昭和十七︵一九四二︶年四月十八日、ドゥーリトル爆撃
隊が東京、名古屋、神戸と、本土初空襲をやるわけです。
﹁ 飛 龍 ﹂ は、 佐 世 保 が 軍 港 だ っ た の で 熊 本 の 人 が け っ こ
う乗っていました。ミッドウェーでは、日本が油断して
アメリカ陸軍B
ノース・アメリカン十六機によるもの
いたときに、暗号電報を盗まれて、太平洋艦隊司令長官
淵田はニミッツとは、戦後、非常に心温まる交流をしま
ニミッツの戦略、戦術にはまってしまうことになります。
慌 て て ミ ッ ド ウ ェ ー 作 戦 を 立 て る の で す。 も と も と な
でした。それで帝都防衛で面目を失くした山本五十六は
た。こういうことを、淵田が書き残しています。彼は山
かった作戦なのです。それにミッドウェー作戦はアリゾ
五十四人が死んだ空中攻撃隊はほとんど表彰の対象に
ならず、山本五十六が感状を渡すのを渋りました。なぜ
本五十六に大きな不満を持っていたようです。淵田は山
す。ミッドウェー海戦がなぜああいう負け戦になったか
かというと、真珠湾攻撃ではガソリンタンクを攻撃せず
本五十六の批判を三つ書いています。淵田は山本五十六
ナの論功行賞でごたごたしたことによって作戦準備がほ
に残したまま日本に帰って来ました。これに対して、山
を信奉していました。でも三つ間違っていると言ってい
というと、アリゾナの論功行賞がごたごたしたからです。
本五十六は不満を持っていました。そのため感状を出す
ます。
います。日本も大艦の﹁大和﹂や﹁武蔵﹂の時代でした。
は防御に弱いといわれた。六隻まとめて真珠湾に行って
まで行き、飛行機でたたくという発想です。しかも空母
もイギリスもしていなかった。航空母艦で相手のところ
真珠湾攻撃が成功したのは空母編成によるものでした。
空母編成は日本が初めて考え出した戦術です。アメリカ
とんどできていない。そのような状況で飛び出していっ
のを渋っていた。この対応に空中攻撃隊の連中がむくれ
たわけです。特別攻撃隊には九軍神まで出して、
﹁武勲
抜群﹂という感状をやっている。このような論功問題で、
これも、それからの作戦計画にかかわってきますけど、
淵田の﹁山本五十六凡将論﹂
参謀長が肝心の作戦を練る時間がなかったのです。
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リアナ沖海戦直前まで大鑑巨砲主義でした。続くレイテ
空母時代だ、と戦略転換します。日本はその二年後のマ
湾攻撃でアメリカは自国の軍艦がやられて、これからは
アメリカもそれまでは日本と同じでした。しかし、真珠
これが二つ目です。
とを淵田は横で見ながら歯ぎしりをして悔しがるのです。
優秀なパイロットと飛行機がたくさん失われる。このこ
うの上空で十五分しかとどまれない。このとき、非常に
えました。淵田は、世界の三バカは、
﹁万里の長城﹂と
と こ ろ で、 無 線 を 聞 き な が ら 指 揮 す る の で す。 ミ ッ ド
そして、三つ目がミッドウェー海戦です。山本五十六
は真珠湾攻撃のときは船にいました。広島の柱島という
沖海戦はじつは淵田が連合艦隊航空参謀として作戦を考
﹁ピラミッド﹂、それから戦艦﹁大和﹂と言っています。
旗 艦﹁ 大 和 ﹂ に 乗 っ て い ま し た。 山 本 五 十 六 が い る の
し た。 そ し て、 南 方 の 作 戦 に 空 母 を 回 し た り し ま し た。
す。戦艦が、一番大事な空母ではなくて、山本五十六が
で、たくさんの戦艦が﹁大和﹂にくっついていくわけで
ウェー海戦のときは、彼はミッドウェーまで行くのです。
淵田が批判したのは、一つは山本五十六が真珠湾から
帰ってきてから、すぐ空母編成を解いてしまったことで
これからアメリカと戦わなければならないのに、なぜ空
乗った﹁大和﹂を守った。こういう戦術を山本五十六が
に山本はいるのです。
本はそのとき空母が四隻沈められた。その五百キロ後方
やったということに対して、淵田は批判的なのです。日
母編成を解くのだ、と淵田は思います。
ガダルカナルの戦いが、昭和十七︵一九四二︶年八月
から始まります。この戦いのとき、山本五十六はミッド
ウェーで負けた責任を感じて、ラバウルに行きます。空
母も行くのですけど、山本五十六はアメリカの消耗戦に
確 か め て い た。 山 本 五 十 六 は 現 場 ま で 行 っ て、 そ こ で、
一方、ニミッツは必ずハワイで指揮していました。た
だしニミッツは、戦争の前に前線に行って、必ず自分で
ラバウルに上げてしまう。ガダルカナルからラバウルま
多くの人たちが無駄死にする。しかし、山本五十六がこ
引 き ず り 込 ま れ て し ま う。 空 母 編 隊 を 解 い て、 み ん な
で千キロある。零戦で行って帰って、終わりです。向こ
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参謀たちがやったという説もあります。山本五十六は責
の作戦を自分で本当に考えたのかは分かりません。彼の
いです。日本の海軍はそれで瀕死の状態になります。
墜されたのです。それを有効に使ったのがマリアナの戦
らなくても、近くに弾がくれば破裂して、その破片で撃
こ の と き、 淵 田 は 連 合 艦 隊 の 参 謀 で、 航 空 の 全 責 任 を
争 で し た。 多 く の 遺 骨 は ま だ そ の ま ま 埋 も れ て い ま す。
十カ月で四十八万人が死んでいます。これだけ過酷な戦
最後の特攻作戦が、実はレイテ作戦です。フィリピン
の攻略戦で、昭和十九年十月から二十年八月十五日まで
任を感じて、ガダルカナルの戦いのときに、自ら出陣し
て昭和十八︵一九四三︶年四月に戦死します。
こういうことで、淵田は山本五十六を批判しています。
これを、淵田は﹁山本五十六凡将論﹂と言っています。
淵田が考えたレイテ沖作戦
か っ た、 原 爆 に 次 ぐ よ う な 新 兵 器 を 開 発 し て い ま し た。
しまっていました。アメリカは、日本が戦後まで知らな
大戦争をやっていて、ほとんど空母も戦闘機も失われて
と思います。レイテ沖海戦の三カ月前にマリアナ海域で
い う こ と を 書 い て い ま す。 そ う 言 わ れ る と、 な る ほ ど
れます。レイテ沖海戦の戦術は、淵田は自分が考えたと
から始まります。このとき初めて、神風特攻隊が結成さ
艦﹁大和﹂の砲弾でマッカーサーの輸送船団を攻撃する。
たことがなく、全然役に立っていなかった。そこで、戦
やるかというと、戦艦﹁大和﹂はそれまで砲弾を発砲し
その間に栗田艦隊をレイテ湾に突入させる。そして何を
いました。このハルゼー艦隊を小沢艦隊でおびき寄せて、
田が戦後に地団駄を踏んで悔しがった、ハルゼー提督が
母艦だけから船で南下させます。アメリカ艦隊には、淵
一つは、瀬戸内海から空母艦隊の小沢艦隊をおとりに
して南下させる。空母に載せる飛行機はないので、航空
持っていた。彼が考えたのには二つありました。
弾 が 当 た ら な く て も 自 動 的 に 破 裂 す る、VT 信 管 と い
淵田が考えたのは、輸送船団に三十万人のアメリカ兵が
マリアナ沖海戦が終わり、レイテ沖海戦で日本の連合
艦隊は完全に滅びてしまいます。これは昭和十九年十月
う電子兵器でした。特攻隊はそれを知らずに、弾が当た
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いる、それを徹底的にたたいて、血みどろの戦いにして、
言っていました。そこいた矢野参謀長から淵田に電話が
東 京 近 郊 の 日 吉 台 に あ り ま し た。 そ の こ ろ 海 軍 総 隊 と
の夕方に広島から奈良の大和基地に行きます。そして八
アメリカにそろそろ戦争をやめにしようかという気にさ
しかし栗田艦隊の謎のUターンがあります。輸送船団
を攻撃に行っていた栗田艦隊が途中からUターンします。
月六日の朝、朝飯を食べていたら、﹁広島に爆弾が落ち
あり、
﹁広島から大和基地に行ってくれ。無線状況が悪
栗田たちは大艦巨砲主義にとらわれていたのでたかが輸
壊滅状態なので調査に行ってくれ﹂と電話がありました。
せ、和平に持ち込むということでした。
送船を攻撃するのをいさぎよしとしなかった。淵田の作
淵田は何も分からずに広島に立ちます。
いので指導してくれ﹂と言われます。そこで、八月五日
戦がよく伝達されていなかったのです。小沢艦隊がおと
りと分かったハルゼー艦隊が帰って来て戦艦﹁大和﹂と
十五分は広島で朝飯を食べている時間です。当然、彼は
八月七日の朝、このとき広島の惨事を目の当たりにす
る の で す。 彼 が 広 島 に 居 た ら、 原 爆 が 落 ち た 六 日 八 時
カーサーは無傷で上陸します。マッカーサーが回顧録に、
跡形もなく消えているはずです。彼は克明に広島の惨状
やり合い、このとき戦艦﹁武蔵﹂だけが沈みます。マッ
あのとき栗田艦隊がUターンしなかったら、レイテ沖海
を書いています。戦争というものの悲惨さを広島で感じ
ます。
戦の成功はおぼつかなかっただろうと書いています。
広島と長崎の惨事を目の当たり
そうしたら、こともあろうに、今度は八月九日に長崎
に原爆が落ちます。淵田は、すぐ長崎に行って、実状調
す。こういう日本人はほかにはいないでしょう。淵田が、
査をやっています。また長崎で原爆の惨状を見るわけで
島の爆心地細工町に住んでいました。一カ月ぐらいそこ
戦争はもう終わらなければならないという思いを強く持
日本は本土決戦を考えます。そのとき、淵田は航空参
謀として広島で本土決戦の準備をさせられます。彼は広
に と ど ま っ て、 八 月 五 日 夕 方、 連 合 艦 隊 司 令 部 は 当 時、
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つのは、広島と長崎を見たからです。
その後、帰って軍令部に報告します。そのときに、参
謀長が淵田に﹁君は本当に広島と長崎に行ったのか﹂と
た。 ま ず 日 本 側 の 重 光 葵、 梅 津 美 治 郎 が 署 名 し、 マ ッ
カーサーが連合軍の代表としてサインしました。ニミッ
んど死んでしまいます。彼だけ、あれだけの放射能を浴
いやったのはニミッツ元帥でありハルゼー大将、スプル
淵田は本当に日本の連合艦隊を滅ぼしたのはマッカー
サーではないという思いがありました。日本を破滅に追
ツ元帥はアメリカ合衆国の代表としてサインします。
びてまだ生きている。淵田は気づいたら、自分だけ生き
アンス提督だと考えていました。アメリカ海軍に日本は
言います。一緒に行った調査団の連中は二次被爆でほと
残っていた。それぐらい、広島と長崎を体験し生きてい
やられたのだという思いがありました。淵田は戦争を始
め、戦争に立ち会って、戦争の最後を見届けます。
る人は非常に数少ないのです。
戦争の最後を見届ける
戦後、淵田の人生がガラリと変わります。公職追放に
なり、仕事がない。今まで真珠湾のヒーローとしてあが
息子の受験指導法
コーンパイプにサングラスで降り立ったときに、出迎え
め奉られていた男が、今度は国賊になります。みんな離
淵田は戦争を始めた男です。マッカーサーが厚木基地
に着いたときの有名な映像があります。マッカーサーが
たのも淵田なのです。このとき、淵田はマッカーサーに
れてしまう。人心の離反を身に染みて感じるのです。そ
淵田の息子が小学六年のとき、地元名門校の旧制畝傍
中学への進学を志望していました。ところが、﹁お宅の
三反ばかりでした。
こで、田舎に帰り農業をします。農業といってもわずか
憎しみを覚えながら、見つめたと言っています。
昭和二十︵一九四五︶年九月二日、アメリカ海軍の戦
艦ミズーリ号で降伏調印式を行います。このとき連合艦
隊の一員として準備をしたのも淵田です。ただし、彼は
随員ではなかったので、一段下の甲板から眺めていまし
23
息子はとても通りませんよ。二つぐらいレベルを下げな
いうのに、制帽を買ってやると言い出します。息子さん
行ったそうです。息子さんが掲示板の上のほうから自分
としては、まだ合格発表を見てもいないのに、恥ずかし
そして、息子に﹁あしたからお前は学校を休め。おれ
が全部教える﹂と言います。そして口実を作り、学校を
の番号がないかを見ていたら、淵田が﹁お前はどこを見
いと無理ですよ﹂と先生に断念するように言われる。そ
休ませます。四畳半一間を親子の勉強室にして、三月ま
ているんだ。お前がそんな上で通っているはずがない﹂
くてしょうがない。それも大きな声で言う。それで仕方
で、まったく一歩も外に出ずに息子と二人で受験勉強を
と言います。下から見ていくと、三番目にあったそうで
の話を淵田が聞きます。
し ま す。 小 学 生 の 低 学 年 か ら 全 部 教 科 書 を 持 っ て こ さ
す。
部チェックしていきました。そして、
﹁ここさえ分かっ
それで、彼はおやじと呼ばれ、いろんな人たちが彼を信
やってみて、やらせて、ほめて、人を動かす。そうい
う教育をした。これを海軍でも淵田はやっていたらしい。
なく、制帽を買ってもらい、それをかぶって発表を見に
せ、一つ一つやっていきました。低学年からやってきて、
たら、もう大丈夫だ﹂と淵田が言ったら、そこからスラ
奉 し て い ま し た。 親 分 肌 の 男 で、 豪 傑 で、 勇 気 が あ り、
﹁お前、ここで間違っている。ここでつまずいた﹂と全
スラと六年までできるようになります。この話は長男の
肝が据わっていた。淵田は日本の負け戦が決まったとき、
駄目だ、十年若返らせろ﹂と言っています。
の若返り﹂を説いています。
﹁提督たちはみんな石頭で
島 田 繁 太 郎 と い う 海 軍 大 臣 兼 軍 令 部 総 長 に、
﹁海軍十年
善彌さんから直接聞きました。
受験のときも一緒に行き、寒風吹きすさむなか、息子
の試験が終わるまで待っていたそうです。試験が終わっ
たら、﹁ここはどうだった﹂と聞いていき、﹁大丈夫﹂と
言ったそうです。そして合格発表を見に行きます。校門
の前に制帽屋がありました。これから発表を見に行くと
24
人がそれをアメリカ軍に知らせ、その情報が彼女に届き
彼女は日本人が憎くてしょうがないはずですけど、な
ぜか傷痍日本兵を手厚く看護する。淵田は、彼女の両親
ます。
戦後、GHQ ︵連合軍最高司令官総司令部︶に呼び出
されます。彼は戦犯裁判で証人として立ちます。このと
が日本兵に打ち首になるとき、お祈りをしていたという
マーガレット・コペルとの出会い
き連合軍の一方的な裁判を憎み、浦賀港に帰還した捕虜
話を聞いて、彼は何と美しい話だと思います。
ジェイコブ・デイシェイザーとの出会い
からいろいろ聞いています。捕虜だった一人が、
﹁私た
ちがユタ州の捕虜収容所にいたとき、アメリカの娘が献
身的に面倒をみてくれた。痒いところに手が届くぐらい
それから、昭和二十四︵一九四九︶年になり、淵田は
で、 何 か ほ し い と 言 う と、 す ぐ 買 っ て き て く れ た の で、
またGHQ に呼び出されていました。そのとき、渋谷の
ハチ公前で、宣教師が﹃私は日本の捕虜だった﹄という
なぜ私たちに親切にするのだ﹂と聞いたら、
﹁私の両親
が日本軍に殺されたからです﹂と答えたというような話
冊子を配っていました。ジェイコブ・デイシェイザーと
始めます。
始まっていました。淵田はそれを見て興味を持ち、読み
いう人です。冊子は偶然にも書き出しが真珠湾攻撃から
をしました。淵田は、その話に興味を持ちました。
このアメリカ人の娘はマーガレット・コペルといいま
す。両親は横浜の関東学院というミッションスクールの
チ ャ プ レ ー ン︵ 宗 教 主 任 ︶ を や っ て い て、 開 戦 直 前 に
フィリピンに逃れたそうです。日本軍が負け戦になった
の 三 人 の 命 が 助 か り ま す。 五 人 は 上 海 で 処 刑 さ れ ま す。
東京初空襲のドゥーリトル攻撃隊で八人が捕虜になり
ます。昭和天皇が死刑を認めなかったので、八人のうち
持っていたので、それを無線通信機と間違えて、しかも
助かった一人がこの男です。捕虜収容所に入れられ、日
と き に、 両 親 を 発 見 し ま す。 そ の と き、 短 波 ラ ジ オ を
スパイと見なして、両親を即座に打ち首にした。現地の
25
二十三年に再び日本に来て伝道を始めます。
ます。戦後、アメリカに帰ってから宣教師になり、昭和
み、その憎しみを断ちます。そしてキリスト教に回心し
本人が憎くてしかたがなかったのが、あるとき聖書を読
バー﹂を、アメリカに渡り、訴えていこうと考えます。
て、人類の滅亡を救うために、﹁ノーモア・パールハー
日まで気づかぬほど愚かだったんだと後悔します。そし
自分はパールハーバーで三千人も人殺しをした。なぜ今
ストが処刑されるとき、自分を殺そうとしている連中の
を知らざればなり﹂
︵ルカ伝二三・三四︶
。イエス・キリ
イエス言いたまう、父よ、彼らを赦し給え、その為す処
ス・キリストが十字架に掛けられる場面です。
﹁かくて
ん で い た ら、 ル カ 伝 の 第 二 十 三 章 に 入 り ま し た。 イ エ
とから、彼は聖書を読み始めます。あるとき、聖書を読
淵 田 は、 マ ー ガ レ ッ ト・ コ ペ ル と ジ ェ イ コ ブ・ デ イ
シェイザーの心を変えた聖書とは何だろう、と思ったこ
ルーマンにも会っていますし、ドゥーリトルやニクソン
ま す。 マ ッ カ ー サ ー に は 親 近 感 を 示 し て い ま せ ん。 ト
ただの老いぼれたじいさんという感じだったと書いてい
GHQ 連合軍の司令官だったころの面影はまったくない、
アパートに住んでいました。淵田はマッカーサーはもう
パーク街の豪華ホテルがあるビルのフロアーを占有する
た敵将たちも訪ねます。マッカーサーはニューヨークの
淵田がアメリカに渡り、いろんな人たちに会い、いろ
んなことを体験します。かつて太平洋で死闘を繰り広げ
﹁ノーモア・パールハーバー﹂の旅
ために祈ったときの言葉です。突然、淵田はこの言葉が、
とも会見しています。いろんな連中に会いますけど、特
キリスト教に回心
マーガレットとジェイコブに結びつきます。マーガレッ
に二人に淵田は感心しています。
一人はアイゼンハワー大統領です。淵田の伝道の手配
をしていたサックスという宣教師が、アイゼンハワー大
ト・ コ ペ ル の 両 親 が 祈 っ た の は こ の 言 葉 だ。 ジ ェ イ コ
ブ・デイシェイザーが祈ったのもこの言葉だ、と思いま
す。淵田は天の啓示を受けて、クリスチャンになります。
26
統領に淵田との会見を申し込む電話をします。すると秘
フをする大統領を描いた絵が届けられました。するとま
で、お断りします﹂と断ったら、その日のうちに、ゴル
か﹂と電話が掛かって来ました。
﹁ゴルフはやらないの
ら、﹁明日、大統領がゴルフをやるから一緒にやらない
暇 人 で は な い ﹂ と 断 る。 す る と、 し ば ら く し て 秘 書 か
があります﹂という返事します。淵田は﹁私はそんなに
してくるのを待ちかねている父親のような風情であっ
かざしながらこちらを眺めています。﹁孝行息子が帰省
ミッツが坂道の途中で待っています。一人の老人が手を
の シ ー ン が 感 動 的 で す。 淵 田 が 車 で 訪 ね て い く と、 ニ
がきました。淵田はすぐ行きます。この会いに行くとき
したら、﹁すぐに来てくれ。ぜひ会いたい﹂という返事
一番感心したのはニミッツ元帥です。サンフランシス
コ郊外のバークレーに住んでいました。会いたいと電話
ニミッツ元帥との深い交流
た 秘 書 官 か ら、
﹁大統領が教会にお祈りに行くから、あ
た﹂と淵田は書いています。アメリカの最高位、元帥ま
書 官 は、
﹁大統領はホワイト・ハウスのベランダに一日
なたも一緒にお祈りしないか﹂と電話を掛けてきました。
で務めた男が淵田を道路にまで出て待っていてくれたの
何 回 か 出 て く る の で、 そ こ で 待 っ て い た ら、 会 う 機 会
それには﹁喜んで行きます﹂と答えました。
です。そして、着いたら肩を抱きかかえんばかりに、部
別れる。それだけの話ですけど、日本では首相とはそん
しかし彼は真珠湾攻撃の責任から更迭されます。しかし
ニミッツは非常にキャパシティーのある男です。真珠
湾攻撃のときにはキンメルが太平洋艦隊司令長官でした。
屋に招き入れて、いろんな昔話をするのです。
なに気軽に会えないでしょうが、アメリカではそれほど
後任のニミッツはキンメルの部下を一切更迭しなかった。
大統領が一伝道師にすぎない日本人に、これだけのこ
とをしてくれたことに淵田はいたく感動します。二人は
大統領が気さくに会ってくれる。淵田はアメリカがそれ
全 部 自 分 の 部 下 に 取 り 込 ん だ。 そ れ に、 自 分 の 参 謀 に、
教会で隣合わせに座り、一緒に賛美歌を歌い、握手して
だけ開かれていることに感心します。
27
ものすごくできる男たちをたくさん自分で選んで、その
連中の意見を聞き、最後の決断は自分でスパッと決める。
そして戦争になる前に、必ず現地を見に行き、ちゃんと
﹁一所不在﹂の人生︱人類のために
昭和二十七︵一九五二︶年以来、淵田が出かけたアメ
リ カ 伝 道 の 旅 は 八 度 に 及 び ま す。 ハ ワ イ に は 三 度 も 訪
に 対 し て は、 自 分 の 良 心 が 許 さ な い ﹂ と 言 っ て い ま す。
であり、海軍で育った自分がよその飯を食うということ
ぜ か と い う と、
﹁自分が若者たちを戦場に送った張本人
天下り先が山ほどあったのに、一切それを断ります。な
ニミッツが元帥をやめたとき、いろんな大企業や大学
などから、彼の名声を慕って誘いがあります。要するに、
を回っています。まさに﹁ノーモア・パールハーバー﹂
夢は枯れ野をかけめぐる﹂
、まさにその心境でアメリカ
不住の旅を続けています。いわゆる芭蕉の﹁旅に病んで
る。
﹁ノーモア・パールハーバー﹂を訴えながら、一所
米四十九州のうち四十八州をしらみつぶしに回ってい
り と も、 と ど ま っ た と こ ろ は な い の で す。 ず っ と、 全
調べる。そういう男です。
淵田が訪ねたときは、地元のカリフォルニア大学の一評
﹁ノーモア・ヒロシマ﹂の人生でした。
れ ま す。 淵 田 の 人 生 を 見 て み ま す と、 戦 後 は 一 カ 所 た
議員でした。彼は生前に自分の伝記を一切誰にも書かせ
彼はキリスト教に回心したとき、海軍仲間が猛反対し
ま せ ん で し た。
﹃ニミッツ提督﹄という本がありますが、
ました。﹁あいつは、俺たちを裏切った。敵国の宗教に
回心するとは何事か﹂と特攻隊の生き残りが短刀を持っ
これはニミッツが亡くなってから、彼のことをよく調べ
て、アメリカ海軍兵学校のポッター教授が書いたもので
て来たこともある、と奥さんから聞きました。そういう
教という相手の土俵にのって憎しみの連鎖を断つために
す。自分は決して謝りに行くのではないんだ。キリスト
状況の中で、彼はあえて、アメリカに乗り込んで行きま
す。
淵田はニミッツと深い触れ合いをし、
﹁ニミッツ元帥
は神を懼れる人であった﹂と、最終章にひとこと、ぽつ
んと書いています。
28
かして達した男です。
て非常に高邁な哲学、思想を、自分のいろんな経験を生
行くのだという強い信念を抱きました。彼は人生におい
州大学法学部を卒業後、NHK に入局。﹁日本史探訪﹂
昭和十六︵一九四一︶年、玉名市生まれ、熊本高校、九
中田整一︵なかた・せいいち︶
日本の戦争を始めた船と終戦を告げた船です。真珠湾か
受セヨ﹄二・二六事件秘録﹂をはじめ文化庁芸術祭優秀
メンタリー番組の制作に携わる。﹁戒厳指令﹃交信ヲ傍
日 本 で は 戦 後 六 十 六 年、 平 和 な 時 代 が 続 い て い ま す。 ﹁歴史への招待﹂など歴史教養番組の制作を担当したの
真 珠 湾 に 行 く と、 ア リ ゾ ナ 号 と ミ ズ ー リ 号 が あ り ま す。 ち、プロデューサーとして、現代史を中心としたドキュ
ら日本の戦後が始まったのです。そして真珠湾から日本
賞、放送文化基金本賞、日本新聞協会賞など受賞。
市在住。
日出版文化賞、吉田茂賞、
﹃トレイシー 日本捕虜秘密
尋問所﹄で講談社ノンフィクション賞受賞。東京都日野
退局後、ノンフィクション作家となり、
﹃満州国皇帝
の秘録︱ラストエンペラーと﹁厳秘会見録﹂の謎﹄で毎
の戦後が始まり、今まで六十六年間にわたって平和が続
いていると言ってもいいのではないでしょうか。
淵田美津雄︵ふちだ・みつお︶
明 治 三 十 五︵ 一 九 〇 二 ︶ 年、 奈 良 県 生 ま れ。 大 正 十 三
︵一九二四︶年、海軍兵学校卒業。昭和十六︵一九四一︶
年十二月八日、真珠湾攻撃。十九年、大佐任官。二十年
八月十五日、終戦の詔勅を聞く。二十四年、ディシェイ
ザーの冊子と出合う。二十六年、洗礼を受ける。二十七
年、米国伝道の旅へ出る。五十歳。四十二年、回顧録を
書き始める。六十五歳。五十一年、七十三歳で永眠。
29
﹃公徳﹄創刊
号記念座談会
出席者
︵熊本公徳会事務局長︶
水野 公寿氏 ︵熊本近代史研究会会員︶
友道氏 ︵熊本保健科学大学学長︶
小野
森 まゆみ氏 ︵作家︶
上 智重氏 ︵熊本近代文学館館長︶
井
進行
佐渡
滋
ついて、自由に話し合っていただきました。
代 を つ く っ た 人 の 中 に、 熊 本 人 に は ど う い う 人 た ち が い る の か ﹂ に
た東京在住の森まゆみさんにも特別に加わっていただき、﹁日本の近
作家で樋口一葉や森鷗外に詳しく、また地域雑誌に長くかかわられ
近代史研究家の水野公寿氏、医学者で文学や歴史にも造詣が深い
小野友道氏、熊日で文化部長や編集委員を務めた井上智重氏、そして、
政治、医学、教育⋮各界に人材を輩出
﹁日本の近代をつくった熊本人﹂
20
熊本の近代化に重要な役割を果たした人物について
話し合った座談会
(平成23年3月18日 ホテル日航熊本)
30
近代日本のプランナー横井小楠
井上 遅れてすみません。実は珍客をお連れしました。
作家の森まゆみさん。
小野 ええっ! あの森さん。本当だ。
井上 熊本近代文学館の閉館間際、いらっしゃいまし
てね。菊池市でのまちづくりシンポに招かれたついでに
﹃五足の靴﹄を調べようと阿蘇から熊本市に回ってこら
れた。﹃五足の靴の物語﹄という本を書かれた小野友道
先生にいまからお会いする、ご一緒しませんかとお誘い
したところです。
佐渡 ぜひ、この座談会に加わってください。
小野 大歓迎です。いやァ、大輪の花が突然、出現し
たようで。
井上 小野先生は皮膚科の
先生、熊大の医学部長、副学
井上智重氏
森 ああそれで木下杢太郎
の研究を。杢太郎は太田正雄
といって、皮膚科の医学者でしたね。突然参りましたの
に仲間に入れていただいて光
栄です。
森 ありがとうございます。
小野 こんど、拙著をお送
りします。
小野友道氏
会の講演会で指摘されましたが、熊本からは大政治家は
おり、対象にはなりますね。松本健一先生が昨年の公徳
月、京都で白昼、暗殺される。明治にぎりぎりかかって
佐渡 いま、蘇峰、蘆花が出ましたが、横井小楠から
論じてもらいましょう。小楠は明治二︵一八六九︶年正
高群逸枝なんかも。でも面白そう。
森 北里柴三郎なんかも熊本でしょう。徳富蘇峰とか
蘆花とか、選ぶのは大変ですね! いま、熊本近代文学
館で見せていただいたのですが、女性でも中村汀女とか
佐渡 では、始めさせていただきます。近代日本にお
ける熊本の人物十人を選ぼうという大座談会です。
助かります。
(熊本保健科学大学学長)
出ていない。しかし、政治思想家は出ている、その代表
31
長をされました。
(熊本近代文学館館長)
の娘が嘉悦学園をつくった嘉悦孝子です。
森 ああ、東京にあります
ね。俳人の鈴木真砂女がそこ
に学んでいます。
水野 同じ小楠の弟子なが
ら、嘉悦と相反する道を歩い
れています。彼は井上毅らと中央から熊本に紫溟会をつ
本県のリーダーとなっていく。明治九年に発足した県民
会の主要なメンバーは小楠の弟子です。その三年後の県
くらせる。
小野 そちらの方が格好よく映る。
井上 小楠の弟子には二グループある。一つは豪農の
ず、どちらかといえば、反体制ですかね。
い﹂と言いますね。弟の民蔵や滔天なんかも官職に就か
小野 判官びいきですかね。
水野 西南戦争で熊本協同隊長の宮崎八郎が戦死した
ら、 父 親 が﹁ こ れ か ら は 息 子 た ち に 官 の 飯 を 食 わ せ な
会でも議長など要職を小楠の弟子たち︵嘉悦氏房、岩田
俊貞ら︶が占めますが、明治十八年ごろになると、主要
なポストを紫溟会に取って代わられる。
井上 その代表的人物が嘉悦氏房ですね。彼も戊辰戦
争後、東北で地方官として活躍しますが、熊本に戻って
くる。白川県︵熊本県の旧称︶の権参事も務めるが、安
岡県政に反対し、下野し、広取塾を開き、実学派の子弟
の教育にも尽くす。県会議長や衆議院議員にもなる。そ
32
が小楠だと。
水野 近代日本のプランナーみたいなところが小楠
に は あ り ま す。
﹁肥後は維新のバスに乗り遅れた﹂とい
う表現があります。これは大宅壮一の言葉のようですが、
非常に分かりやすいのですけど、決して肥後藩は乗り遅
れてはいない。小楠の弟子たちは、明治初年には地方官
たのが安場保和ですね。
水野公寿氏
小野 近年、ずいぶん評価が上がっている。
でいう県知事ですが、中央政権で薩長の勢力が強くなり、
井上 ええ、しかし、県の近代文化功労者にも選ばれ
その地位を奪われ、熊本に帰ってきて、県会をはじめ熊
ていない。高橋公園にある小楠門下の群像からも除外さ
として全国各地で活躍しています。その人たちは、いま
(熊本近代史研究会会員)
二百石で、郡代の家です。小楠の兄は郡代を歴任してお
グ ル ー プ、 も う 一 つ は 藩 士 の グ ル ー プ で す。 横 井 家 は
場保和の墓は東京・駒込の吉祥寺にあります。
地方の占領政策に当たったというのは面白いですね。安
されますね。薩長に代わって、熊本が戊辰戦争で敗れた
小野 よくご存知ですね。
佐渡 小楠の優等生は安場
です。彼が胆沢県時代、県庁
り、惣庄屋などの豪農たちと密接な関係がある。小楠は
弟であり、養子にでも行かない限り、妻帯も出来ない身
分。山本周五郎の小説などによく出て来るやっかい叔父
です。しかし、とても頭がよく、時習館の居寮生に選ば
れる。今でいうと県庁のキャリアが約束される。江戸に
遊学を命じられますが、態度が横柄で、酒癖も悪い。酒
で失敗し、熊本に帰され、失職してしまう。そこで私塾
﹁ 小 楠 堂 ﹂ を 開 く。 最 初 に 入 門 し た の が 惣 庄 屋 系 の 徳 富
の給仕として採用したのが後
藤新平、斎藤実︵海軍大将・
首相︶たちで、安場は後藤を娘婿にしていますね。
小野 ﹃
﹁城下の人﹄の石光真清の叔父が野田豁通で
しょう。彼が面倒を見たのが会津人の柴五郎ですね。
北諸藩で占領政策を担うわけ
戊辰戦争後、賊軍となった東
ループが安場であり、嘉悦、野田豁通たちです。彼らは
る。廃藩置県を最初に言い出したのは熊本で、その仕掛
久が藩政改革をやるとき、安場は胆沢県から呼び返され
ます。もう少し説明しますと、明治三年、藩知事細川護
きた。アメリカからジェーンズを迎えて熊本洋学校が開
け人が安場です。そういうことが最近の研究で分かって
彼を食べさせるためでもあったでしょう。藩士の子弟グ
井上 そうです。安場保和の東京の留守宅に柴を預け、
を小楠の塾に通わせる。小楠が優秀でもあったのですが、
軍人になるよう勧めている。人柄がやさしい。勧めてい
一敬です。そして、横井家と同クラスの藩士たちが子弟
佐渡滋氏
校しますが、ジェーンズが横浜に着いたときに胆沢県の
33
(熊本公徳会事務局長)
です。
(作家)
森 仙台藩は六十二万石
だったのが二十八万石に減ら
森まゆみ氏
は岩倉使節団にも加わっており、福島県令、愛知県令を
若者、山崎為徳を熊本洋学校に入れたのも彼です。安場
井上 教科書では、明治憲法の草案をつくったのは伊
東已代治、金子堅太郎、井上毅としていますが、憲法草
と研究すべきだとつくづく最近思うようになりました。
と き の 仲 間 と 立 ち 上 げ、 青 森 ま で 鉄 道 を 通 し て い ま す。
民が井上の清廉さなどを高く評価していますが、実は兆
案の百パーセント近くが彼の手になるものです。中江兆
歴任、元老院議官も務め、日本鉄道株式会社を使節団の
九州鉄道を造ったのも彼です。福岡県令時代に。愛知県
民は岡松甕谷の玄関番書生だったことがあり、甕谷の四
佐 渡 西 南 戦 争 に 敗 れ た 熊 本 隊 の 佐 々 友 房 は 赦 免 後、
教育の根っこを築いた佐々友房
ね。
水野 立憲君主としての天皇の側面と神権的な天皇の
側面と明治憲法にはそういう二面性があると言われます
使った人材が熊本出身の国文学者池辺義象です。
存在があり、どう位置づけるかに悩みます。そのときに
この国にはこの国の歴史の持続性があり、ことに天皇の
井上はヨーロッパ型の近代憲法を導入しようとしますが、
井 上 だ と い う こ と が 最 近 の 研 究 で 分 か っ て き て い ま す。
近い関係であった。土佐の植木枝盛に憲法を教えたのは
男匡四郎が井上の養子となり、跡を継ぐ。意外と両者は
令のときの事務官が宮本百合子の祖父で⋮。
森 そうです。宮本百合子の祖父、中條政恒は福島県
の安積疎水を造った人として有名ですね。
﹃貧しき人々
の群れ﹄に書かれた⋮。
知られていない井上毅の功績
佐渡 安場が地方を重視したとするなら、中央で活躍
したのが小楠学校の井上毅ということがいえますね。井
上は明治憲法の策定にかかわり、皇室典範、教育勅語に
もかかわって、最近では明治近代国家のグランドデザイ
ナーと呼ばれてもいるようで、果たした役割はとてつも
なく大きいと思いますが、その割には、地元でありなが
水野 その通りだと思います。井上毅についてはもっ
らも語られることがあまりないような気がいたします。
34
佐々友房は熊本の教育の根っことなったものをつくった
の流れの学校がたくさんできました。そういう意味では、
同心学舎を創立し、それが濟々黌になり、熊本県下にそ
います。
が、思想は国権主義に基づく考え方が一貫していると思
です。政治、教育、新聞に佐々友房は関係していきます
え 方 と し て は 尊 皇 攘 夷 に 若 い 人 は 魅 力 が あ る わ け で す。
て開国になっていきます。大きな流れは開国だけど、考
攘夷に魅力がありました。明治になると、国家体制とし
水野 佐々友房は幕末期には尊皇攘夷です。幕府は幕
末に開国したが、肥後藩ばかりでなく若い人たちは尊皇
は蘆花に魅かれてのことで、小楠の遺髪墓を詣でていま
山形県人の大川がなぜ、熊本の学校を選んだのか、それ
社会主義を五高に持ち込んだのは大川だといわれますが、
な る ほ ど と 思 い ま し た。 大 川 周 明 は 熊 本 の 五 高 に 学 び、
攘夷論がアジア主義といった意味のことを述べています。
といえるのではないでしょうか。
だ か ら、 上 昇 思 考 的 に 考 え る と、 攘 夷 を 捨 て な い と い
す。
井上 尊皇攘夷というのは、一種のナショナリズムで
す。大川周明は消極的な攘夷が鎖国制であり、積極的な
けない。そこに、いろいろな変わり方がありました。時
ちの二つグループがあった。佐々友房は西南戦争で西郷
のが、明治になると欧米勢力をアジアから排除しようと
水野 攘夷の夷が、幕末から明治になるとかたちを変
えてくるんですね。幕末では夷を日本から排除していた
代に合わせていく人たちと、なかなか納得できない人た
方に付いたわけです。そこで大きな挫折を感じます。そ
するようになる。攘夷論のかたちが違ってくるんですね。
森 アヘン戦争︵天保十一︵一八四〇︶∼十三年︶が
起きたとき、高杉晋作が大陸の租界の現状を見て、日本
宮崎滔天より女房ツチこそ評価すべき
れで、教育のほうに目を向けて同心学舎、同心学校、そ
して済々黌をつくります。そのときに政治から教育に変
わったということでもない。佐々の教育は政治と絡んで
います。政治的な教育なわけです。﹁紫溟新報﹂︵のちの
九州日日新聞︶が創刊されますが、この新聞もそうなの
35
ろんなものが一斉に入ってきたわけですけれども、例え
すね。日本は二百六十年間鎖国していて、開国したらい
傾きます。それは、当時は共通した認識であったようで
がこんなになってはいけない、困るということで攘夷に
です。
ジンバラ大学に入った福田令寿が帰国後頼ったのが佐伯
オイラーに直接学んだ唯一の日本人です。イギリスのエ
学んでいます。内科の神様的存在であるウイリアムス・
佐伯は熊本医学校を卒業し上京、ペンシルベニア大学で
でこの事件について発表しました。毒殺の理由などは触
本出身の医師で京都産院などを設立した人ですが、学会
十五︵一九四〇︶年に佐伯理一郎という人、この人は熊
だ と い う 話 が ず っ と く す ぶ っ て い ま し た と こ ろ、 昭 和
だということで毒殺した。それを主導したのが岩倉具視
明天皇が天然痘になったそうです。そうしたら、この際
が孝明天皇の暗殺にかかわったという話があります。孝
る。滔天は二本木の女将にお金を借りています。その手
あちこちうろうろして、よその女性と家庭を持ったりす
妻 の ツ チ こ そ 評 価 す べ き だ と 思 い ま す。 亭 主 の 滔 天 は
びながら、本を読めるようなくつろげるところがあった。
庭 の 雰 囲 気 に あ っ た と 思 い ま す。 訪 ね て 行 っ て、 寝 転
ね。孫文が魅かれたのは、妻のツチがかたちづくった家
天 と い う ひ と は 運 動 家 と い う よ り、 文 学 者 と 思 い ま す
井上 中国での滔天の評価はいまもって高い。駐日大
使 が 代 わ る と、 必 ず 東 京 の 宮 崎 家 に 挨 拶 に 来 ま す。 滔
うに評価しましょうか。
のですけど、宮崎兄弟の八郎、民蔵、滔天をどういうふ
佐渡 荒尾出身の宮崎滔天が上海に渡ったのが明治
二十四︵一八九一︶年です。孫文の中国革命党を助ける
ば、伝染病が入ってくると、戦争で殺されるよりはるか
に多い人たちが死んでしまったりする。日本も開国でい
ろんな病気が入ってきたのでしょうね。
小 野 コ レ ラ、 ペ ス ト が あ り ま す。 コ レ ラ は 安 政 五
︵一八五八︶年に入ってきました。天然痘だけはずっと
れていませんけれども、岩倉具視の妹か誰かが女官とし
紙も残っています。ツチは前田案山子の娘で、夏目漱石
昔からあります。ちょっと余談になりますが、岩倉具視
て 入 っ て い た の を 利 用 し て、 毒 殺 し た と 言 っ て い ま す。
36
の﹃草枕﹄に出てくる那美のモデルであるツナの妹です。
宮崎家と前田家は宮本武蔵の二天一流の仲間です。実は
安場もそうなのです。安場と前田案山子、宮崎兄弟の父、
性ではどういう人が挙げられるでしょうか。
水野 ﹁肥後の猛婦﹂と大宅壮一が言ったのは、竹崎
順子、矢島楫子、嘉悦孝子、久布白落実、河口愛子、高
歴史をこういう面から見ると面白いですね。安場が福
岡県令になったとき、頭山満が安場に協力すべきかどう
学全集の一巻に加えるという話も出ている。日本人の作
佐渡 この六人の中から、誰を選ぶかとなると難しい
ですね。また最近、石牟礼道子の﹃苦海浄土﹄を世界文
群逸枝の六人です。
か、炎天下、裸足で歩いて、前田案山子のもとまで訪ね
品はこの一作だけということで話題になりました。石牟
みんなが剣術仲間です。
て来ています。そのとき、前田案山子は﹁安場は俺と剣
礼はどうでしょうか。
礼。
性を挙げるとしたら、高群逸枝、中村汀女、それに石牟
学です。ただ良い翻訳に恵まれていない。文学の中で女
が選ばれる傾向が見られ、石牟礼文学はまさに辺境の文
井上 日本からノーベル賞文学者が出るとすれば、村
上春樹ではなく、石牟礼ではないかと思う。辺境の文学
術仲間で、いい男だ﹂と答え、頭山は安場と組むわけで
す。炭坑の権利を安場が頭山らに与えたと私は思ってい
ます。その権利でもって大金を得て、大陸への活動資金
小野 また安場が出てきましたね。
にしたのではないかと⋮。
肥後の猛婦をはじめ女性も多彩
森 当 時 の 熊 本 の 男 性 は 豪 傑 な 方 が 多 い よ う で す ね。
森 高群逸枝、石牟礼道子など、火の国の女というか、
滔天もそうですが、女性関係も派手なようですが、それ
すごく巫女的な感じがしますね。
佐渡 肥後の猛婦ということが出ましたけれども、女
は熊本の風土的なものでしょうか。
37
木下一族を語ることで日本近代史が見える
佐渡 男性作家では、まず徳冨蘆花でしょうか。
水野 ことしは蘆花の﹃謀叛論﹄から百年です。
小野 ﹃自然と人生﹄などずいぶん読まれたようです
ね。﹃ 不 如 帰 ﹄ も 新 派 の 芝 居 な ど に な り、 大 ベ ス ト セ
ラー作家です。
井上 木下順二の祖父は菊池木下家から玉名の伊倉木
下家に養子に入るのですが、その養家から同じ惣庄屋の
竹崎家に養嗣子に行ったのが茶堂ですね。この菊池木下
家から幕末の儒者䧰村が出ている。伊倉木下家に養子と
なった助之、順二の祖父は、䧰村の弟です。そして䧰村
の二男、広次は京大初代総長です。䧰村塾からは竹添進
一郎、井上毅らが出ており、井上毅は後妻に䧰村の娘を
国民史﹄という長大な歴史書を残していますが、熊本の
いまでは忘れられた文豪ですが。兄の蘇峰は﹃近世日本
科 書 に は、 漱 石 な ど よ り 蘆 花 の 方 が 出 て き た よ う で す。
森 有名人が続々登場しますね。
井上 京大初代総長の息子が終戦後、昭和天皇の侍従
次長となった木下道雄です。
﹃側近日記﹄で知られてい
﹃柔術﹄を書きますね。
小野 外交官で漢学者の竹添の娘婿が嘉納治五郎。嘉
納 が 五 高 の 校 長 の と き、 小 泉 八 雲 が 英 語 の 教 師 と な り、
もらっています。
新は、明治三年に来ました﹂といったフレーズがよく使
ます。この木下道雄と木下順二はいとこであり、順二の
井上 森繁久彌は世田谷の蘆花公園に散歩に出かけて
いたようで、蘆花の文章を朗々と暗誦したそうです。教
われる。むしろ、蘇峰の文章より蘆花の文章で語られま
異母姉が道雄の妻です。
近 代 史 を 語 る 場 合、
﹃竹崎順子﹄に出てくる﹁肥後の維
すね。
森 みんなつながっているのですね。
水野 竹崎順子の夫である茶堂は、小楠の弟子ですが、
井上 木下一族やその門下を語ることで、日本の近代
木下順二の﹃風浪﹄に出てくる。蚕堂のモデルが茶堂で
史が語れるくらい面白い人物群が出ています。
すね。
38
森 私は木下順二先生にはとても応援していただきま
した。先生は東京の千駄木にお住まいで、私たちが地域
雑誌﹃谷中・根津・千駄木﹄
︵ 谷 根 千 ︶ を 始 め る と き に、
それを新聞に大きく書いて下さいました。不忍池の地下
駐車場の反対運動の会合にも来て下さって、
﹁僕は勉強
に来ただけですから﹂と言って黙って聞いておられた
小野 医者である父親は足穂といって、北里柴三郎と
一 緒 に 古 城 医 学 校 に 学 ん で い る。 東 京 で も 親 し い 関 係
だったようです。
佐渡 政治家では、熊本から清浦奎吾と細川護煕の二
人の総理大臣を出しています。ほかにも園田直、松野鶴
平、坂田道太などがいます。
小野 園田直は魅力がありますね。厚生大臣として水
俣病の公害認定をしていますし、なんといっても日中平
こともあります。木下先生は文壇政治もやらなかったし、
井 上 清 浦 の 後 ろ 盾 に な っ た の は 桂 で す か ね。 安 場、
野田豁通も彼を支えてやっている。
官からもらう賞は一切受けませんでした。戦後民主主義
や六〇年安保の流れの中で、一貫して闘われた文学者だ
と思います。
宗不旱、高群逸枝、山頭火、徳永直、谷川雁。八雲、漱
大正四︵一九一五︶年の総選挙で立憲同志会を勝利に導
城 新 報 を 創 立 し、 閔 妃 事 件 に 連 座 す る。 代 議 士 と な り、
佐渡 ほかにどんな作家が出ていますか。
和友好条約の締結という業績がある。
井上 熊本近代文学館で常設コーナーに大きく取り上
水野 安達謙蔵を忘れてはいけません。濟々黌に入り、
げ て い る の は、 蘇 峰・ 蘆 花 の 兄 弟、 八 雲、 漱 石、 汀 女、 佐々友房の信任を得て、佐々に随行し、朝鮮に渡り、漢
石、山頭火は熊本人ではありません。あとは詩人の蔵原
き、﹁選挙の神様﹂と呼ばれる。
した井上毅らがつくらせたものです。ねじれが生じてい
井 上 そ の 総 選 挙 は 大 隈 重 信 を 押 し 立 て て の 選 挙 で、
実は熊本の国権党の前身である紫溟会は、大隈を野に下
伸二郎、作家の耕治人、小山勝清⋮。長田秀雄・幹彦兄
弟。兄は劇作家で、弟は祇園もので知られる。長田兄弟
の祖父は菊池神社の神主で、父親は医者で、兄弟が実際
生まれたのは東京では。
39
書いています。
去したとき、蘇峰は﹁わが国民新聞の読者を失った﹂と
る。﹁選挙の神様﹂と名づけたのは蘇峰です。佐々が死
いた。その影響を受けたのが松本零士です。産学共同の
辞め、開墾生活をしながら、子ども向けに宇宙の本を書
秀樹、朝永振一郎に量子学を教えている。敗戦で京大を
農業は松田喜一、横井時敬
小野 日本の政党の変遷史はわかりにくいですね。ま
教育をめざし、京都産業大学を創立してしまう。
あ、いまの民主党もそうですが。安達はメーデーを認め、
小野 実業家はなかなか出てきませんが、学校の創立
者は少なくない。女子美を創ったのは横井玉子でしたね。
婦人参政権に理解を示しているようですね。
井上 佐々の孫の佐々淳行は危機管理で、姉の紀平悌
子は市川房枝の弟子。姉弟でこれですから。
水野 松田喜一は残念ながらほとんど研究されていま
せんね。
熊本では農業の神様のように評価されています。
佐渡 農業では松田喜一がいます。松田喜一は松橋の
小 野 細 川 護 煕 に は、 近 衛 と 細 川 の 血 が 流 れ て お り、
行政を文化の中にとらえようというところがありますね。 出 身 で、 松 田 式 麦 作 法 を 考 案 し 日 本 の 農 法 を 確 立 し た。
佐渡 教育の分野では、松前重義はどうですか。東海
大学の創設者であり、無装荷ケーブル方式を発明してい
ます。松前が果たした功績は大きいと思います。
す。足尾銅山の鉱害問題では、田中正造より早く取り組
は、ライフスタイルとして農業を見ていることにありま
ありき、農村ありきのひとですね。彼が今日的なところ
漱石旧居のところで生まれた。農学者なんですが、農民
井上 農業で見るならば、ジェーンズの弟子の横井時
水野 松前は工学博士であり、元官僚で社会党の衆議
院 議 員 で も あ り、 柔 道 で も 功 績 が あ る、 清 濁 併 せ 持 つ、 敬がいます。横井時敬は東京農大の初代学長。内坪井の
熊本人らしいおもしろさがありますね。
井上 熊本近代文学館では夏休みの企画として、
﹁大
宇 宙 へ の 旅 荒 木 俊 馬 展 ﹂ を 開 き ま す。 京 都 産 業 大 を
創ったひとです。もともと宇宙物理学者で、京大で湯川
40
ル賞にノミネートされますが、同門のジフテリアを研究
します。そして、日本を背負って立つのです。北里柴三
佐渡 松田はどちらかというと農業技術を研究し、自
らが先頭になって普及した人です。もともとは農業試験
していたベーリングが受賞します。北里はペスト菌も発
んでおり、むしろ彼の方が功績があるのでは。
場の先生で、若者たちの教育に尽力しました。今でも農
見します。
郎はドイツで破傷風の血清療法を発見して第一回ノーベ
業者には、尊敬と親しみを持たれています。
原田雪松という人がいます。彼は天草の獣医さんで、村
井上 農業教育ということでは合志義塾もありました。
明治時代からは少しはずれますが、伝染病でははずせ
合志義塾は農業学校でありながら、そこからいろんなタ
な い 二 人 が い ま す。 一 人 は 誰 も 知 ら な い と 思 い ま す が、
イプの人物が育っている。
長、県会議員を務めています。狂犬病はずっとこわい病
ら雇ってきました。当時、五百円という非常に高い給料
ども、その人たちがマンスフェルトいう外国人を長崎か
森 お医者さまにはどなたかいらっしゃいますか。
小野 西洋医学に変わったときに、再春館をたたみ古
城医学校ができました。内藤泰吉らが設立したのですけ
日本では一例も狂犬病は出ていません。これはとんでも
制定されます。それによって昭和三十二年から現在まで、
昭和二十五︵一九五〇︶年に議員立法で狂犬病予防法が
要ということで、衆議院選挙に出て当選します。そして
気 と し て 恐 れ ら れ て い ま し た。 戦 後、 狂 犬 病 が 増 え 長
で連れてきたのですけど、それが当たりで、北里柴三郎
な い 業 績 で す。 大 変 な 病 気 が 日 本 か ら 消 え た わ け で す。
恐ろしい伝染病を熊本一県で背負った
が 育 っ て、 東 大 の 初 代 の 産 婦 人 科 教 授 に な る 浜 田 玄 達、
最後は日本獣医学会の会長を務めました。
蟻田功先生は天然痘です。五高、熊本医科大学出身で
をしなくてはいけない、そのためには狂犬病予防法が必
崎で流行しました。そこで、原田は全部の犬に予防注射
東 大 で 衛 生 学 講 座 を 創 設 し た 緒 方 正 規 ら が 生 ま れ ま す。
この三人がマンスフェルトから三年間学んで東大に入学
41
れ で ア フ リ カ に 行 き、 そ の ま ま 居 着 い て し ま い ま し た。
天然痘を手伝ってくれないか﹂という手紙が来ます。そ
す。厚生省の役人のころ、WHOから﹁誰かアフリカの
いうことが言えませんか。
に評価されていますね。近代熊本をある面では支えたと
挙げられます。浜田知明の戦争を描いた銅版画は世界的
がありますね。
志向的なところがあります。堅山南風は意外に文章も味
うです。画学生のころから歌舞伎に親しみ、東京の下町
井上 漆工芸の高野松山が人間的にも面白い。牛島は
ノーベル賞にもノミネートされました。天然痘、狂犬病、
二本木の生まれで、実家は大地主で、楼主でもあったよ
破傷風、ペスト、このこわい伝染病を熊本県の一県で背
負っているのです。
森 私は百万人に五人といわれる自己免疫疾患の原田
病なのですけれども、大正十五︵一九二六︶年にそれを
発見してくださったのが原田永之助先生です。天草の非
れました。斎藤茂吉の弟子の歌人だった原道子と結婚し、
能人では歌手の水前寺清子、八代亜紀、石川さゆり。俳
国民栄誉賞をもらった柔道の山下泰裕などがいます。芸
佐渡 大衆という視点で、スポーツ、芸能面を見てみ
ましょうか。プロ野球の川上哲治、マラソンの金栗四三、
道子が長崎の眼科開業医の娘だったので医院を継がれま
優の笠智衆、映画監督の牛原虚彦などがいます。川上哲
常に貧しい家に生まれて、苦労して五高から東大に行か
した。原爆後の医療に携わり、昭和二十一年に亡くなら
治は入るでしょうね。人吉には﹁故郷の廃家﹂﹁旅愁﹂
小野 種痘を熊本に持ち込んだ寺倉秋堤のひ孫に当た
は熊本の血ですし、岡田嘉子も熊本の血を引いています。
井上 柔道では牛島辰熊がいます。その後が木村政彦
ですね。役者では木村駒子がいます。山田五十鈴も半分
の犬童球渓。
れました。
佐渡 画家では牛島憲之、堅山南風、浜田知明などが
大衆の分野でも多士済々
小野 原田永之助先生が熊本の人ということは、医者
もほとんど知りません。
42
りますね。
森 お相撲さんはいないのですか。魁皇は福岡に影響
を与えていますよね。
脇役や番外のほうが面白い
清、戦争終結に努力した高木惣吉、軍神といわれた松尾
ど多かった。電通の光永星郎も忘れてはいけません。笠
井上 毎日新聞の中興の祖、本山彦一もいます。毎日
新聞には、石を投げれば、熊本人に当たるといわれるほ
佐渡 ジャーナリストでは徳富蘇峰がいます。ほかに
は池辺三山、鳥井素川、後藤是山など挙げられます。
敬宇、文学者でもあり三島由紀夫に影響を与えた蓮田善
智衆がそうであるように、熊本人は主役よりも脇役がと
佐渡 天草出身の大関に栃光がいますね。軍人ではど
うでしょうか。武藤章、軍人であり作家でもある石光真
明などがいます。
ても個性的で面白い。
小 野 福 田 令 寿 は 医 者 で あ り 宗 教 家 で も あ り ま す ね。
番外では、医学の中興の祖、山崎正薫がいます。土佐人
水野 熊本では、大将になったのは林仙之と古荘幹郎
の二人です。中将はいっぱいいます。
佐渡 ﹁肥後の中将、薩摩の大将﹂と言いますね。
井上 民俗学では、高木敏雄という人物がいます。民
俗学者の柳田國男と一緒に仕事しました。松村武雄もい
ですけど、熊本にずっといて、愛知に行き、また熊本に
森 財界人はいらっしゃいませんか。宗教家はどうで
しょう。
ますね。熊本で初めて文化勲章を受章したのは支那学の
帰り、結果的に化血研をつくりました。熊本医大の学長
本初のベンチャービジネスです。当初の名前は実験医学
出して役に立てようとして設立したのが化血研です。日
のときに微生物教室がワクチンを作ります。それを外に
狩野直喜です。漱石と同時代の人物で、京大教授。
佐渡 元田永孚はどうでしょうか。
水野 元田永孚は教科書にも出てきますよ。教育勅語
を作ったことで知られています。
研究所でした。戦後、昭和二〇年一二月に化血研として
43
出発しました。歴史家として﹃横井小楠伝﹄を書いてい
ます。これがなかったら、横井小楠の研究は進まないと
いうほど重要な本です。
佐渡 ブラジル移民の父、上塚周平の話は出てきませ
んでしたが、日伯の関係を築きました。彼なども重要な
人物ですね。
話は尽きないのですけども、いままでの話の中で出て
きた、横井小楠、安場保和、井上毅、佐々友房、徳富蘇
峰、蘆花、北里柴三郎、横井時敬、安達謙蔵、上塚周平、
高群逸枝、中村汀女、川上哲治、木下順二、
、松前重義、
松田喜一など、日本の近代をつくった熊本人を挙げると
︵文中敬称略︶
きりがないのですが、いろんな分野で近代熊本を築いた
人々を語っていただきました。
44
平成 年度﹁﹃熊本の心﹄に関する作文﹂
最優秀賞受賞の3作品
最優秀賞の三作品を掲載します。学校・学年は表彰当時です。
大会で、最優秀賞を受賞した松橋養護学校高等部三年、渡邊健太郎
さんら三人が朗読し、共感を呼びました。
今回は、県内の小・中・高校生と一般から五千六百十九編の応募が
あり、最優秀賞三、優秀賞三、入選六の計十二編を表彰しました。
後援︶で表彰しました。
に熊本県庁で開いた県民大会︵県教委主催、財団法人熊本公徳会など
の心﹂をテーマに募集していた作文の優秀作品が決まり、二月十五日
る﹁心豊かな熊本を創る運動推進協議会﹂
︵星子弘毅会長︶が﹁熊本
熊本の歴史と伝統と文化によって育まれてきた﹁助けあい、励まし
あい、志高く﹂をスローガンに﹁熊本の心﹂運動推進事業を行ってい
「熊本の心」作文の表彰式。左から渡邊健太郎さん、
福島かれんさん、山根千明さん
(平成23年2月15日 熊本県庁)
45
22
山鹿市立山鹿小学校五年
﹁ねん願の本丸御殿﹂
︻熊本日日新聞社賞︼
山根 千明
わ た し に は 九 十 歳 に な る ひ い お ば あ ち ゃ ん が い ま す。
長年農作業をがんばってきたので今は足が悪く、つえを
ついに夏休みに熊本城に行くことになりました。お父
さんはひいおばあちゃんがなるべく歩かなくていいよう
に、熊本城の事務所の近くに車を止めてくれました。事
務所の方に車いすの事をお願いすると、
﹁わたしが車の
と こ ろ ま で 持 っ て く る の で い い で す よ。
﹂ と 言 わ れ て、
汗をいっぱいかきながら走って車まで車いすを持って来
などいろいろ調べてくれました。そして、家族でも話し
すを借りられるか、車いすのままでお城の中に入れるか
なりました。お父さんがインターネットで熊本城で車い
え て あ げ よ う。
﹂と言って、旅行の計画を立てることに
たけれど、お父さんが、
﹁ひいおばあちゃんの願いを叶
うのです。おじいちゃんやおばあちゃんは無理だと言っ
くできた本丸御殿を生きている間に一度見てみたいとい
た。 二 十 年 く ら い 熊 本 城 に は 行 っ た こ と が な く、 新 し
回熊本城の本丸御殿に行ってみよごたる。
﹂と言いまし
族は車いすがあるので、ゆっくりしか行く事ができませ
光客の人もたくさんいらっしゃったのですが私たちは家
した。本丸御殿の中には、細いろうかがありました。観
んが手伝って下さったのでスムーズに行くことができま
後ろ向きにして坂を下りていました。急な坂は警備員さ
くつも坂がありましたが、お父さんは、安全なようにと
るなんてえらいなぁと思いました。熊本城に行くまでい
アでされているのだそうです。みんなのためにして下さ
りやすく説明して下さいました。その方は、ボランティ
熊本城の門を入ると案内して下さる方がいらっしゃい
ました。熊本城にまつわる歴史を写真などを使って分か
て下さいました。みんなでお礼を言いました。
合って役わり分たんを決めました。私は車いすをおす役
ん。でも、後ろの人達は何も言わず、待っていて下さい
つかないと歩けません。そのひいおばあちゃんが、
﹁一
です。
46
ました。そんな気づかって下さる人達、お父さん、平ら
な道で車いすをおす私にも、ひいおばあちゃんは笑顔で
﹁ありがとう。﹂と言いました。熊本城まで来られた事が
とてもうれしかったんだと思います。そして、たくさん
﹁強さ﹂
︻熊本県教育委員会賞︼
渡邊健太郎
僕は、お母さんは強いと思います。お母さんの強さは
世界一です。もしかしたらKー1に出たら優勝するかも
帰りの車の中でひいおばあちゃんが、
﹁今日はとても
楽しかった。幸せ、幸せ。
﹂と言ってくれました。今日
しれません。僕のお母さんだけではなく、世の中のお母
熊本県立松橋養護学校高等部三年
のひいおばあちゃんの﹃幸せ﹄はみんなのおかげだと思
さん達はみんな強いと思っています。みなさんは、どう
の親切に出会えた事に心から感謝したんだと思います。
います。一つ一つの小さな思いやりが集まると、だれか
思いますか。
僕のお母さんは、いつも介護や身のまわりのことをし
てくれます。いつも仕事などで忙しい中、疲れている中、
の大きな喜びになることをこの旅行から学びました。わ
たしも自分にできることを周りの人にしてあげられたら
と思います。
本当に感謝しています。僕を応援してくれる大切な存在
です。
僕は、今年高校三年生になりました。もうすぐ卒業で
す。僕が通っている学校は養護学校で、僕は、小学校か
ら通っているので、十二年間通ったことになります。こ
の慣れ親しんだ学校ともいよいよお別れかと思うと、寂
しい気持ちでいっぱいです。そのうちの六年間を、お母
47
さんは学校まで毎朝送ってくれました。本当に大変だっ
緊張して、声が出なくなるのです。出そうとしてもどう
と が で き ま せ ん で し た。 人 の 前 に 出 て 話 そ う と す る と、
僕 は、 中 学 一 年 か ら 寄 宿 舎 に 入 っ て い ま す。 僕 は、
引っ込み思案で、小学校の頃から、人前で話しをするこ
のが辛い日もあったと思います。でも、いつも明るく接
いるので、疲れている日や、僕の身の回りのことをする
してくれたことを忘れません。お母さんは、仕事もして
感じるようになりました。いつも笑顔で、僕を支え励ま
寄 宿 舎 で 過 ご す 中 で、 小 学 校 に 毎 日 仕 事 を し な が ら、
送り迎えをしてくれたこと、食事や身の回りのことをし
し て も 出 ま せ ん で し た。 そ ん な 僕 で す か ら、 今 で こ そ、
してくれました。僕だけでなく、家族の中心となって本
たと思います。
寄宿舎に仲間ができ、楽しく過ごしていますが、入舎し
当に元気に明るく、毎日を過ごしていました。家族の太
陽のような存在です。本当に感謝しています。
てくれたことが、どんなにありがたく、大変だったかを
たときは、寂しくてしかたありませんでした。
ある日、僕がお母さんに寄宿舎から電話したことがあ
りました。その時、お母さんの声を聞いただけで、僕は
が強くなるために、ただ黙って支えてくれました。その
の時、お母さんはどれほど心配したでしょう。でも、僕
僕の泣き声を電話先でただ黙って聞いてくれました。あ
何も言うことが出来ませんでした。お母さんは、そんな
う と し て も 次 の 言 葉 を 言 お う と す る と、 涙 が 止 ま ら ず、
さんが支えてくれたのでがんばれました。こういう病気
ました。手術後もリハビリをしてきつかったけど、お母
ました。でもお母さんが側にいてくれたので、がんばれ
戦っていました。不安で不安で、怖くてずっと泣いてい
で の 手 術 で し た。 僕 は、 身 体 を 切 ら れ る と い う 恐 怖 と
が﹁がんばって﹂と言ってくれたことです。わずか三歳
それから、もう一つ感謝していることがあります。そ
れは、僕が三歳の時に、足の手術をした時に、お母さん
おかげで、少しずつ、人前で話すことができるようにな
になったけど、お母さんがいたからここまでくることが
涙が溢れてしまい、言葉になりませんでした。何か話そ
りました。
48
できました。感謝しています。本当にありがとう。
︻心豊かな熊本を創る運動推進賞︼
山鹿市立菊鹿中学校三年
福嶋かれん
﹁誰かを支えられる人に﹂
ようになった。
人はみんな支え合いながら生きているのだと私は思う。
五年前に母を病気で亡くしたのをきっかけによく感じる
これからは一人でできるものを増やしていきたいです。
卒業したら、僕はしっかり働きたいと思います。そして、 お母さんや家族に恩返ししたいと思います。泣き虫だっ
た僕とは違います。学校を卒業するとともに、弱い自分
も卒業しようと思います。
僕は、お母さんに負けないくらい、強くなります。こ
れからも、見守っていて下さい。
母が亡くなってからは周りの私に対する態度がガラ
リ と 変 わ っ た 気 が す る。 私 を 見 る と 色 々 な 人 が 母 の こ
とで同情して声をかけてくれた。担任の先生は、
﹁先生
のことをお母さんと思っていいから。
﹂と目に涙をため
て言ってくれたし、地域の人に会うと初め残念そうな顔
をして、
﹁きつかったね。これから頑張っていかなんた
い。
﹂と明るく言ってくれた。言葉をかけた人からすれ
ば私のことを本当に思ってとった行動なのだ。でも私に
は、それらの言葉が単なる哀れみの言葉にしか聞こえず
母の死から少し経って、私はやっと現実を受け入れる
うっとうしく感じていた。
49
あの時かけてくれた言葉がじいんと胸に響いた。私は一
こ と が で き 初 め て 涙 が 止 ま ら な い 時 が あ っ た。 す る と、
て一人では生きていけないのだ。
えられ、自分も誰かを支えながら生きている。人は決し
いた言葉が私の中で大きな支えとなっていたことに気づ
私の家族は祖父母しかいないのにとても迷惑をかけてい
私は家族から一番支えられていると思う。でも、支え
てくれることに感謝するどころか毎日反抗ばかりである。
人じゃないんだと強く感じた。その時初めて、もらって
いた。知らない間に私は周りを頼り言葉を心の支えにし
るなと思う。なのでこれからは何かしてもらった時﹁あ
いきたい。
また、出来ることは手伝って二人を少しずつでも支えて
りがとう﹂と必ず言って感謝の気持ちを伝えていきたい。
ていた。
また、多くの支えをもらったのは私ばかりではなかっ
た 。 あ る 日、 母 の 部 屋 を 整 理 し て い て 一 冊 の ホ ル ダ ー
を 見 つ け た。 中 に は 五 年 前 の 母 宛 の 年 賀 状 が た く さ ん
つ ま っ て い た。
﹁家族みんなで祈ってるよ。頑張れ!﹂
る文章ばかりで母もどんなに励まされただろうと思った。
いからでもある。この夢を絶対に叶えて病気に苦しむ人
母が医療関係の仕事に就いていたことや人の力になりた
最後に一つ、私には夢がある。それは医療関係の仕事
に就くこと。もちろん理由には母の病気のこともあるが、
きっと母には、たった一人の娘を残しての闘病生活は私
も支えられる人になりたい。
﹁元気な顔見られるの楽しみにしてるよ!﹂など心温ま
の何十倍も苦しく辛いものだったと思う。そんな母を支
え て く れ た 人 が こ ん な に い た こ と を 嬉 し い と 思 え た し、
何より幸せなことだと感じた。
私は母の死を通して、母が色々な人に励まされながら
病気と闘っていたことや自分がどれだけ周りの人に支え
られているのかを改めて知った。人はみんな誰かから支
50
平成 年度後期 ││││││││︻抄録︼
こころの時代を考えるセミナー
51
22
熊本公徳会は、平成九年から毎年二回、各五回シリー
ズで講演会﹁こころの時代を考えるセミナー﹂を開催し
第6回
戦闘者における性とこころ
│ 武家の世界 │
田真祐さん、熊本保健科学大学学長小野友道さん、
﹁語
でおり、二十二年度後期は、財団法人島田美術館館長島
どよりもずっと以前から長い長い時間をかけて学び続け
の働き、習性のことです。それは、人類が、心の働きな
性とは、習い、慣らい、つまりは生まれての性質、あ
るいは、そう考えなくても自然にそうなってしまう身体
島田美術館館長
祐
氏
島田真
り座﹂代表寿咲亜似さん、映画評論家園村昌弘さん、九
て き た 生 存 の た め の 技 術、 方 法 だ っ た と い え ま し ょ う。
て い ま す。 毎 回、 教 育 や 青 少 年 の 心 理、 老 後 の 暮 ら し、
州ルーテル学院大学学長清重尚弘さんに講演していただ
ところが、数十万年がたち、その生命がけで習得された
芸術、歴史、依存症など県民の関心が高いテーマを選ん
きました。
性は、ずっと後発し、遅々とした速度で進化した心の働
きと様々な場で衝突し、捻り合い、行き違い、格闘する
に至ります。ことに、その悲痛な相克は、武の、戦闘者
平 安 時 代 の 中 頃、 丹 後 守 藤 原 保 昌 の 家 来 に 弓 箭︵ 弓
の世界において顕著です。
52
夢 の 中 で 母 は、
﹁前世の悪業の報いで現在は鹿の身体に
催 の 鹿 狩 り の 前 々 日 の 晩、 亡 く な っ た 母 の 夢 を 見 ま す。
矢・射術︶の達人がいました。その男は、主人丹後守主
男に即座の出家を選ばせます。
せん。自死するだけではつぐなえぬ痛切な悔恨の激浪が、
実母射殺という惨劇の当事者のとるべき道は他にありま
なって、明後日にお前たちが狩りをする山に住んでいる。
このように、ことに身近かな者の死に直面しての悲痛、
哀悼、悔恨、挫折、失意などの衝撃が、心の働きを培う
武者のどうしようもない性を描写するのに、何とも明快
見レバ、現ニ我ガ母ノ顔ニテ有リテ、痛イナド云フ⋮。﹂
腹ヨリ彼方ニ鷹股ヲ射通シツ。鹿射ラレテ見返タル顔ヲ
程ニ、此ノ男夢ノ告皆忘レニケリ。箭ヲ放ツ。鹿ノ右ノ
合セテ弓引キテ、鐙ヲ踏ミテ馬ニ押シアテ、掻キアフル
心でいましたが、大きな雌鹿を目にした瞬間、
﹁弓手ニ
の厳命により致仕方なく参加。当然夢のお告げを守る決
悩み、体調不全を理由に狩りを休もうとしますが、主人
大きな雌鹿が現れたら決して射るな﹂と頼みます。男は
れて興味深いものがあります。
戦闘者︵武者︶の性と心の様々な関係の有り様が読みと
また﹁保元・平治物語﹂
、﹁平家物語﹂などの戦記群には、
遺物語﹂など中古、中世に成立した多くの説話の発心譚、
を異にする心の働きが育ちます。﹁今昔物語﹂
、﹁宇治拾
挫折を経験することで、ただの粗暴で勇猛な性とは趣き
荒々しく粗暴でした。それが、東征の途次でさまざまな
神話時代のヤマトタケルも初めの頃の行動はいかにも
しく野蛮でした。つまり性を磨く時代が長かったのです。
切実な磁場の一つとなりました。古代の人は一般に荒々
狩りのときは私はお前の方へ逃げて行くから、目の前に
にして悲痛な表現です。
﹁其ノ時ニ男、夢ノ告ヲ思出シ
テ、悔イ悲シブト云ヘドモ甲斐無クシテ、忽チ馬ヨリ踊
落チ、泣々弓箭ヲ投棄テテ、其ノ庭ニ髻ヲ切テ法師ト成
リヌ。﹂予告され懇願されておりながらの母殺し、しか
も習性となるまでに身についた己れの高度な技能による
53
第7回
﹁いままでの私でなくな﹂って仕舞うほどです。
フランスの皮膚科医で精神科医でもあるダニエル・ポ
メ レ は﹁ 皮 膚 の 病 変 の 深 刻 さ は、 心 的 な 打 撃 の 深 刻 さ
むけるほど、こすりました。
・・・家へ帰って鏡台のま
お風呂で、お乳の下をタオルできゅっきゅっと皮のすり
豆 粒 に 似 た 吹 出 物 が、 左 の 乳 房 の 下 に 見 つ か り、・・・
表題は、太宰治が昭和十四年﹁文学界﹂に発表した小
説の題名そのものからいただきました。
﹁ぷつッと、小
た働きをもたらすのだ。もう一度、同じことを繰り返す。
ントロールのきかない感情がきえていく。痛みがそうし
せたその痛みが彼女をしゃんとさせていた。荒々しくコ
た。ちょっとした切り傷程度のものだけど、自分に負わ
の刃を肌にあてた。それから、ゆっくり慎重にきりつけ
皮膚と心
に 比 例 し て い る ﹂ と 述 べ て い ま す。 逆 に 、 心 的 な 病 変
が、皮膚に表出されることもしばしばです。例えば﹁リ
ストカット﹂です。﹁手首まである袖をぐっとまくりあ
げ、 前 腕 の 内 側 を さ ら す と、 そ こ に は 古 い の や ら 新 し
え に 座 り、 胸 を ひ ろ げ て、 鏡 に 映 し て み る と、 気 味 が
今度は、もっと長くもっと深く切れた。血が滲んできた。
熊本保健科学大学学長
氏
小野友道
わるうございました。私は地獄絵を見たような気がして、
皮 膚 の 上 で 点 々 と 赤 い し ず く と な っ た 血 を 見 て い る と、
い の や ら、 合 わ せ て 何 十 条 も の 傷 跡 が あ っ た。 肘 に 近
ずっとあたりが暗くなりました。その時から、私は、い
さらに気持ちが落ち着いてくる。心臓は正常なリズムを
める。痛みのおかげで意識のピントが合い、精神が、身
取り戻し、呼吸も楽になってきた。腕の血をじっと見つ
い。傷跡のない部分を見つけ、ためらうことなくハサミ
ままでの私でなくなりました。﹂
太宰のこの小説の出だしを読んだだけで、皮膚の病変
が 心 に 及 ぼ す 影 響 の 大 き さ が 見 事 に 表 現 さ れ て い ま す。
54
体という組織体の主座におさまった。もう真っ白にはな
*
皮膚はヒトの外側を形成している臓器です。個体を守
る 機 能 を 備 え、 一 方 で 内 臓 の 状 況 を 表 現 す る デ ィ ス プ
まさに心の傷が、皮膚を傷つけることで代償的に癒さ
れているのです。
番号の刺青などいくらでも例を挙げることができます。
人権を根こそぎ奪いその代わりのアウシュビッツの囚人
毛を抜く﹁抜毛癖﹂は、ストレスに対する反応なのです。
さらに、その皮膚の病変が生じたら、それらは自分自
身はもとより他人からも認識されてしまうのです。見ら
レーの役を担っているのです。例えば顔色が悪い、黄疸
*
らないとわかる。
・・・今はもうすっかりリラックスし
が出たなどなどです。さらに皮膚は外観を構成していま
れてしまうのです。その精神的苦痛は、想像を絶するも
す。それで、個人の年齢・性・職業その他を表現もして
さて、ヒトは進化の過程で毛皮を捨てました。それは
化石と遺伝子などの研究からおよそ百六十万年前には現
ていた。痛みのおかげだった。まるで薬みたい﹂
、これ
いるのです。すなわち皮膚は、個人を認識するアイデン
在のヒトに近い皮膚に代わったらしいのです。毛皮を捨
のがあります。さらにさらに皮膚病は自分でも作れるの
ティティの臓器ともいえます。ですから、皮膚は美しく
て、汗の腺をたくさん皮膚に持つことにより熱発散が効
はレベンクロン︵杵淵幸子・森川那智子訳︶の﹃自傷す
なければならない運命にもあるのです。それを補うため
率的になり、熱に弱い脳が大きく発達できるようになり
です。リストカット以外にもタバコの火を押し付けてわ
に化粧があり、美容形成があるようです。刺青なども一
ました。しかし、今も裸の皮膚において産毛が生えてい
る少女﹄︹集英社文庫・一九九九︺の一節です。
部その範疇でしょうか。皮膚は他の臓器と異なり厳しく
る意義は大きいのです。フランスの哲学者ディディエ・
もあります。虐待の刻印としての出血などの外傷、あの
いや自分ばかりではない、皮膚病は他人が作れる病変で
ざとヤケドをしてみたり、子どもによく見る自分で頭の
働き、華麗に生きなければならない臓器なのです。
55
第一の道具である﹂と喝破しました。毛には多くの神経
ムであると同時に、われわれが他人と交流を行うための
アンジューは﹁皮膚はわれわれの個体を保護するシステ
しょうか。
膚と心の関係が極めて緊密であることの証左ではないで
テーマが取り上げられていることは、とりもなおさず皮
が周囲を取り囲んでおりそれは産毛も例外ではありませ
ん。
そ れ で、 毛 は 皮 膚 に 存 在 す る 感 度 の 良 い 触 覚 の セ ン
サーなのです。その意味からも肌と肌が触れ合う意義は、
母と子、男女いろいろの場できわめて重要なのです。ス
キ ン シ ッ プ は 心 の 交 流 に 欠 か せ な い の で す。 ち な み に
は英語の辞書をめくっても出てきません。厳密
skinship
な和製英語ではないですが、それに近い言葉です。つま
り、英語圏では通じないのです。しかし、私はこのスキ
ンシップなる言葉が好きです。特に母と子の間で重要な
言語であり、行為です。
そもそも脳と皮膚はともに発生学的に外胚葉という組
織から発生する非常に近い仲間なのであり、内なる脳と
外 な る 皮 膚 は、 常 に 緊 密 に 交 信 し て い る 存 在 な の で す。
かつて安部公房は﹁人の魂は皮膚にあるのか﹂と問いか
けました。けだし名言です。多くの小説に皮膚に関する
56
第8回
心癒される語りの世界
肥後の歴史物語と民話の会
﹁語り座﹂代表
演ができるまでになりました。皆さんの支えがいかに偉
大かということを改めて感じています。
私のおしゃべり人生のルーツがどこにあるのかと考え
てみたところ、それは子供の頃に、祖父や父からいつも
民話を聞いていたからだと思い当たりました。私は富合
町 大 町 の 生 ま れ で す。 祖 父 は 近 所・ 近 辺 の こ と を よ く
知っていました。すぐそばに六弥田橋という橋があるの
磨くついでに、笑うヨガの研修にも参加しましたのでご
はじめは﹁笑うヨガ﹂で、心と体をリラックスさせて
聞いて、いただきましょう。東京へ毎月出かけて話術を
弥田橋になったという話をしてくれました。その時、私
さんの足を止めたということから、その名前を取って六
という人が﹁ここは通さんぞ﹂と陣取り、一日、清正公
寿咲亜似氏
一 緒 に ど う ぞ、 呼 吸 法 を と り 入 れ て 元 気 よ く 笑 う こ と
は子供でしたから、清正公さんもよく知りませんし、じ
ですが、祖父によると、あの橋は、清正公さんが宇土に
に よ っ て、 体 が 活 性 化 し て、 心 が イ キ イ キ し て き ま す。
いさんが作り話をしていると思って聞いているだけでし
た。でも脳裏には染み付いてたんでしょうね。
攻めて来た時、小西行長方の農民だった藤井六弥田さん
︵笑うヨガを実演︶
私は長く一人で語ってきましたが、二〇〇九年の七月、
肥後の歴史物語と民話を語る﹁語り座﹂というのを立ち
まつわる話をいろいろ聞かせてもらう機会がありました。
その後、熊本シティ FM で﹁森の都歴史ウォーク﹂
と い う 番 組 を や っ て い て、 熊 本 市 内 の い ろ ん な 場 所 に
は組織を作らなければと思い続けていたら、応援してく
清正公さんの話も聞きました。六弥田さんの話は、関ヶ
上げました。肥後の民話を皆さんに知ってもらうために
ださる方がいて実現し、昨年は崇城大学市民ホールで公
57
め落としに行く途中の出来事だったということが分かっ
ていた清正公さんが、西軍が負けたと聞き、宇土城を攻
原の合戦で西軍の小西行長が負け、徳川方の東軍につい
いと思います。
らいでいくのを感じます。大勢の方にこの感じを伝えた
のルーツで、祖父の語りを思い出すと、懐かしく心が安
たわけです。本でも調べ、祖父の言っていたことは作り
また、雁回山伝説のある木原山には、弓の名人だった
鎮西八郎為朝が城を築いていたといわれています。それ
と 誘 っ て も、 い つ も﹁ 私 は お ば あ さ ん だ か ら 行 か な い
いました。おばあさんと仲良しの猫が﹁遊びに行こう﹂
私の子供がまだ小さかった頃、近所の子供たちを集め
て 本 の 読 み 聞 か せ を し て い ま し た。 そ の 中 に ﹃ だ っ て
も祖父の作り話だと思っていました。ところが鎮西八郎
よ﹂と言っていた九十八歳のおばあさん。そのおばあさ
話じゃなかったことが分かり大変感動しました。もっと
為朝は源義経の叔父にあたる人で、本当にいた人だった
んの九十九歳の誕生日に、ケーキに立てるロウソクを買
だってのおばあさん﹄という本がありました。当時、私
ということが分かりました。私が歩いた所を通っていた
うお使いを頼まれた猫が、帰りに九十四本を落としてし
前から知っていれば、もっと大勢の人に教えてあげられ
かも知れないのです。七百年も前の昔の話が、何千、何
まい五本しか残らなかった。おばあさんは﹁五本でもい
は三十五、六歳で福岡で司会の仕事をしていたのですが、
万の人々の口から耳へと語り継がれて伝わってきたので
いよ、五歳の誕生日だねえ﹂と言いながら誕生日を祝い
た の に と 思 っ た の が 肥 後 の 歴 史 物 語 と 民 話 の 会﹁ 語 り
す。そして祖父の口から私の耳に入ったのだと思った時
ました。翌日、また猫が﹁魚釣りに行こう﹂とおばあさ
周りからちょっと老けて見られたことがあって、少々落
に、時代の流れを感じると共に、自分も歴史の流れの中
んを誘うと、
﹁私はいいよ﹂と一度は断るのですが、﹁あ
座﹂を作るきっかけになりました。
にいるということをひしひしと感じて、これを自分の所
ら五歳だったわね﹂と思い直して魚釣りに行き、一日楽
ち込んでいた頃でした︵笑︶
。そんな時にこの本に出合
で断ち切ってはいけないと思いました。それが今日の私
58
だからと思っていると、負のスパイラルに巻き込まれて
しく過ごし、元気になるというお話でした。もう年寄り
さんにお話していきたいと思っています。
い話がたくさんあります。私はそれを掘り起こして、皆
というのが今の私の思いです。熊本にも埋もれているい
を映しながら語る︶
最後に、私が一番好きな話、ボランティア精神の原点
ともいえるお話﹁鬼がら﹂を語ります。
︵スライドで絵
いくけれども、プラス思考で、まだ若いんだと思えば何
でもできると思いました。
私 は そ の 本 一 冊 で 変 わ り ま し た。 そ れ で 何 を し た か
と い う と、 テ レ ビ 局 の ク イ ズ 番 組 の ア シ ス タ ン ト 募 集
に 応 募 し た の で す。 残 念 な が ら そ の 番 組 に は 落 ち ま し
たが、﹁局でこんな仕事がありますよ﹂と違う仕事を紹
介していただくことができました。行かなかったらテレ
ビ の 仕 事 と も 縁 が な か っ た で し ょ う。 そ の 後、 平 成 八
︵ 一 九 九 六 ︶ 年 の シ テ ィ FM 開 局 の 時 に 応 募 し、 採 用
され﹁ボイスステーション﹂や﹁森の都歴史ウォーク﹂
、
﹁お話の森﹂などをやらせていただくことになったのです。
人としての心は民話から教わることが多いですね。教
訓めいたことを押し付けるのではなく、物語を聞いてい
るうちに自然とそういう気持ちにさせられるというのが
いいと思います。民話は、 昔
「 昔 あ る と こ ろ に、 こ ん な
人がいた 」という話なんですが、民話が生まれる背景に
は歴史があります。そこをもうちょっと詳しく知りたい
59
第9回
﹁東京物語﹂小津安二郎の
心とまなざし
小津安二郎監督作、全五十四本中の第四十六作、戦後
でいえば八本目。この﹁東京物語﹂
︵一九五三年︶は日
て﹂を受けて﹁そう、いやなことばっかり﹂と応じてい
もう一つは次男の未亡人である紀子のせりふにありま
す。 こ の 家 の 三 女 と の 会 話 の 中 で﹁ い や ね、 世 の 中 っ
0
0
えなっています。幾度も小津の﹁アイ、アイ、アイ﹂と
した。三男敬三役の大坂志郎へのダメ押しは語り草にさ
度、音楽に至るまで凝っていました。役者はしごかれま
とによって心理的緊張が高まっていきます。紀子の〝隠
めなのさ﹂という小津の持論があります。それを隠すこ
は懐ろになにか刃物みたいなものをのみこんでなきゃだ
サード助監督についた高橋治は﹁小津は出演者に﹃隠
せ隠せ﹄と言い続けた﹂と記しています。
﹁映画の人物
60
しょうか。当時四十九歳だった笠智衆もラスト近くでし
ごかれました。
﹁老いてない、老いていないぞ﹂と小津
の叱咤がとんできました。
さて、この映画にはふしぎに思うことが少なくとも二
点あります。一つは上がりかまちに置かれた鶏頭の鉢で
す。ふつう鶏頭は鉢植えなどしないし、もし鉢に植えて
も家の中には置かないでしょう。それを小津はあえてそ
本はもとより世界規模で最高傑作に押す映画関係者は多
ます。そのいやなこととは、その時話題になっている目
映画評論家
弘
氏
園村昌
い。どこにどう魅せられるのかを念頭においていろんな
先 の こ と で は な く、 も っ と 興 味 深 い 所 を 指 し て い ま す。
うしています。その理由は何か。
角度から探っていきたいと思います。
0
それは一体何なのか。小津は決して明かしません。
0
い う 叱 咤 が あ り ま し た。 な ぜ そ こ ま で こ だ わ っ た の で
この映画の撮影はとりわけ厳しかったと聞きます。徹
底したロケハン、俳優選び、念入りな脚本、カメラの角
0
でその人は生きていたのにもう居ないという生と死の暗
ある〝誰もいない風景〟に繋がっていきます。今の今ま
画の張りつめた顔なのです。そして、小津映画の特徴で
し〟は他にも何箇所もあります。つまり、紀子はこの映
年︶ではないでしょうか。これは大切な時間を共有した
とりも直さずフォード映画﹁黄色いリボン﹂︵一九四九
ラスト近くで笠智衆扮する義父が原節子扮する紀子に
亡 妻 の 形 見 と し て 時 計 を 贈 る 場 面 が あ り ま す。 こ れ は
スターの曲が使われたことを思い浮かべてしまいます。
者同士の訣別を意味しているのです。
示でもあります。そうか、小津映画に脈打っているのは
〝隠しの美学〟なのかと思われてくるのです。
さらに、公開当時、この映画が興行的にも成功したこ
とにも触れておきたいと思います。
るのは私の独りよがりなのでしょうか。
小津に引き継がれ、
﹁東京物語﹂で見事に開花したとみ
た夢と挫折、老いたる者の辿る運命、訣別︱ そのまま
につけ現場に臨んでいます。ムルナウ映画の主題であっ
用していた白い帽子と白衣、小津もこれに類した物を身
に心酔していた時期があります。ムルナウが撮影時に着
と こ ろ で、 ド イ ツ 無 声 映 画 時 代 の 巨 匠 F・W・ ム ル
鶏頭と戦争未亡人に小津が託したものは何であったか。
ナウにも触れないわけにはいきません。小津はムルナウ
たどっていけば、二十九歳で戦病死した盟友山中貞雄の
影がちらついてきます。山中は鶏頭が好きだった!
さて、小津は十三か十四歳のころからアメリカ映画に
夢中でした。監督になってからもアメリカ映画を百本余
り夢中になって見たという話もあります。
﹁東京物語﹂のころはアメリカの映画監督であるウイ
リ ア ム・ ワ イ ラ ー と ジ ョ ン・ フ ォ ー ド が ひ い き で し た。
とりわけ﹁東京物語﹂にはフォード映画の匂いが漂って
い ま す。 長 男 の 中 学 生 に な る 息 子 が 喜 び を 体 現 し て 口
笛を吹きます。曲はフォード映画﹁駅馬車﹂
︵一九三九
年︶の主題曲です。ラストではフォスター作曲の唱歌が
流 れ ま す が、
﹁駅馬車﹂でルーシーのテーマとしてフォ
61
第 回
金・格差社会の出現など多くの問題点があると言うこと
ス 面 が あ る と い う こ と で す。 例 え ば、 教 育・ 医 療・ 年
に、物質的に豊かになった半面、失った数多くのマイナ
マイナス面を考える時期に来ていると思います。要する
か し 今 日、 こ こ ら で 立 ち 止 ま っ て、 そ の 発 展 の プ ラ ス、
良かったって思う時があるだろう︱ ﹂と答えるのです。
と寅さんは﹁難しいことは分からないけど、生きていて
に﹁人間は何故生きるの﹂と問う場面があります。する
よ ﹄ が あ り ま す が、 そ の あ る シ ー ン で 満 男 君 が 寅 さ ん
ですが、もっと分かりやすく言えば、映画﹃男はつらい
人間の生命には、いつか必ず終わりがあります。﹁人
間は何故生きるのか﹂
、そこには宗教が絡んでくるわけ
62
中で日本の自殺率は際立っています。まさに、モノの時
代から心の時代に移行していかなければならないと思っ
ています。
それでは、なぜ、このような生きる力を失うような社
会になってきたのか、その一つの原因に業績主義がある
と思います。競争原理の中、業績のグラフでその人の価
値観が計られる⋮、これは子供の時代においても教育に
偏差値が用いられ、競争原理が仕込まれています。人間
の値打ちは、本来、そのような数値で決められるもので
しょうか。本当は、人間一人一人の存在を認め合う社会、
です。この十二年、日本では自殺者が年間三万人を超え
私もそれだと思います。
心の豊かさを持てる社会であるべきなのです。
ています。世界で五番目という高い割合です。先進国の
適さを享受できることに感謝しなければなりません。し
たちはその発展によってもたらされた、豊かな文明や快
日本は、戦後の焼け野原の無一文の時代から立ち上が
り、今日まで素晴らしい経済発展を続けてきました。私
清重尚弘氏
九州ルーテル学院大学学長
﹃私の心の三ヵ条﹄
10
例えば、大リーガーのイチロー選手がそうだと思います。
ね。〝笑う門に福来る〟これはまさに真理ですね。キリ
イチローみたいに楽しくやっている人は、健康なんです
ス ﹂ だ と 言 っ て い ま す。 私 も そ の よ う に 思 っ て い ま す。
ストも﹁人生は楽しいものだ。喜ばしいものだ﹂と言っ
百 五 十 年 ほ ど 前 に 活 躍 し た ド イ ツ の 詩 人、 フ リ ー ド
リ ッ ヒ・ ケ ッ ペ ル は﹁ 人 生 は 何 か を す る た め の チ ャ ン
ま た 、 小 説﹃ 夜 と 霧 ﹄ を 書 い た ユ ダ ヤ 人 の 精 神 分 析 医
ています。
いうことです。
次 に 第 二 条 が﹁ 本 気 で や る ﹂ と い う こ と で す。 イ チ
ローの素晴らしいプレーのように本気で、真剣にやると
ヴィクトール・フランクルは、生きるために三つのこと
を言っています。
一つ目は、芸術や音楽や日常生活の中の育児であって
も﹁創造的な価値観﹂を持つこと。
です。反対に人間は無視されることがいちばん哀しいこ
顔です。要は相手に良いストロークをどんどん出すこと
あります。プラスストローク、良い刺激のいちばんは笑
手を良い気持ちにさせる刺激と、不愉快にさせる刺激が
プラスストローク︵刺激︶とマイナスストロークとい
う〝ストローク理論〟とありますが、ストロークには相
いとできません。
うことです。お互いに認め合う関係、意図的に努力しな
二つ目は、旅行などの﹁体験的な価値観﹂を持つこと。
そ し て 第 三 条 が﹁ み ん な で や る ﹂ と い う こ と で す。
そして三つ目に、人生に対してどういう態度で生きる
﹁ み ん な に 分 か ち 合 う ﹂ と い う、 聖 書 に も 書 い て あ る
のか、人生に対してどのような生き方をするのかという
メッセージと同じことなのです。独り占めをしないとい
﹁態度による価値観﹂です。
以 上 の こ と か ら、 私 な り に ま と め れ ば 、 要 す る に
﹁ チ ャ ン ス に 向 か っ て、 ど う い う 態 度 で 臨 む か ﹂ だ と
言っていいと思います。
それで、次に私自身が思う﹃心の三ヵ条﹄とは、
﹁ど
ういう態度で生きていくか﹂と言うことです。
その第一条は﹁チャンスに楽しく向かう﹂ということ
することです。
です。楽しくやると言うことです。 Enjoy
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とです。子供のいじめ問題なんかも、マイナスストロー
クが原因です。学校で子供が毎日、毎日、先生までも一
緒になってマイナスストロークを言われたら、誰だって
学校に行くことがいやになりますよね。人間関係にして
も、夫婦関係においてでも、相手が悪いと思ったら駄目
です。自分に矢印を向けて、毎日起きたら、お互いにプ
ラスストロークを出し合っていただきたいと思います。
人生はチャンスです。
﹃今日という日は、私の残りの
人生の最初の日﹄だという教えがあります。
﹁もう、こ
の年齢だから⋮﹂と思う必要はありません。いつでも人
生はチャンスだと思って、いつまでもお元気でがんばっ
ていただきたいと思います。
64