新婚旅行で行ったスペイン。初めてのヨーロッパ。右も左もわからない中

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日立保険NEWS
Vol.46
新婚旅行で行ったスペイン。初めてのヨーロッパ。右も左もわからない中なんとか妻にいいところを見せようと奮闘しました。旅の後半、マドリードからバルセロナへは夜行
列車を利用したのですが、慣れない旅の疲れかワインの飲み過ぎか、熱を出してしまいました。それでも翌朝、食堂車から朝の海を眺めながらとった朝食は忘れられな
い思い出です。
タイトル「初めての新幹線しかもグリーン車」
東海道新幹線が開通してから半世紀たちましたが、群馬県に住んでいる私には新幹線に乗る機会も必要もありませんでした。
年をとり、ゆとりもできましたので、このたび、はじめての四国旅行に妻といきました。
旅行会社のツアーに参加し、電車はグリーン車、バスはデラックスタイプという豪華さ。
はじめて乗る新幹線は、外から見るよりも、車内からの方が速度は早く感じました。
5泊の旅でしたが、はじめて乗った新幹線が一番印象に残りました。
厳冬の2月釧路沖地震発生時、根室にいて、釧路空港は大事無いとかで、そこへ行こうとJR根室駅から発車するも、途中で停車するかもしれないこと了解くださいと言わ
れ、冬の北海道の、厳冬の空を見いてた不安な気持ちは今も忘れられない。釧路には無事着きました。
30年前に青森へ旅行に行き津軽鉄道のストーブ列車に乗ったときストーブの周りで世間話や観光地の話をしてくれたけど、訛りが強くよく分からなかった。でも、とても楽
しかったのを思い出します。また機会があれば乗ってみたいと思います。
夫の勤続15周年のご褒美に会社の補助制度で北海道旅行に。行きは飛行機だったのですが、帰りは夜行列車の北斗星で。当時は時間優先の生活をしていたので、ワ
ザワザ夜行でと思いましたが、ゆっくりゆっくり東京に近づく「あぁ、楽しかった旅行も終わってしまうんだなぁー」...旅の余韻と名残惜しさというものを生まれて初めて感じま
した。
約20年前、趣味の将棋で羽生名人が5冠達成したさいに、名人の生い立ちや将棋の修行場所を見てみたいと、妻を誘い田舎から東京へ電車に揺られて行きました。道
に迷いつつも、たどりついた将棋会館をみて羽生名人の軌跡に思いを馳せ、普段の生活を離れて妻と話が弾みとてもよい思い出になりました。
1度は小学生高学年のころ地方ローカル私鉄が好きでお小遣いを貯めては乗りに行ったこと。大阪にすんでいましたが和歌山の方や京都の日本海側まで行ったもので
す。お小遣いが少なかったので何ヶ月かに一回の楽しみでした。
2度目は大学の卒業旅行の際、中国の西安から西寧というところまで24時間普通の座席で乗りました。かなり辛かったですが良い思い出です。帰りは上海まででしたが、
懲りて寝台車にしました。
黒部渓谷のトロッコ列車。見事な錦の山々、眼下には翡翠色の水、若き日の一日を今も鮮明に浮かびます。風の匂い、冷たさ、感動の言葉を著せないのが心のこりで
す。もう一度行きたいとは思いません。記憶を大切にしたい、あの感動を!!
三歳になる娘と特急列車に乗って東京へ遊びに行きました。普段車での移動が多く、電車で遠出をしたのは久しぶり。帰りに、電車で食べたお弁当がとても嬉しかったよ
うで、その後は「楽しかったねー。また乗りたいねー。」と毎日のように口にしていました。親子ともに良い思い出になりました。
SLの絵を見て思い出す事が有ります、未だ子どもが小学生の頃母親の実家が福島の金山町の大塩でしたので年に一度のの頻度で叔父の居る母の実家に行ってまし
た、其の頃は未だ交通の便が悪く朝一番に日立を出てもその日に着くのは夜遅く成ってしまいます、幸い父の実家が会津若松の中心街で旅館を営んで居て祖母も私達
孫に逢うのを心待ちにして居るのでそこで一泊して行くのが何時ものルートでした、翌日只見線で大塩へ向かうのですが途中の只見川の川沿いの絶景をSLの車窓から
を見ながらの旅が最高でした、只見線は急高配が多くスピードダウンして線路沿いの道を女子中学生の自転車がSLを追い越して行くのを見ながら家族皆んなで腹を抱
えて大笑いをしたり、又着いた駅がホームだけの駅舎も駅員も居ない無人駅に子どもたちもびっくり大はしゃぎしてたのがまるで昨日の出来事の様に懐かしく鮮明に思い
出しました、最近は車での夫婦二人での旅ですが車では車での別の楽しみ方を満喫してます。
今から45年以上前のことです。近所のお友達家族と私の兄妹が、母親に連れられて大阪駅に行きました。そこに待っていた列車は「ポンパ号」でした!!
全国を周って大阪へ来たそうです。「ポンパ号」が日立の列車と知ったのは入社してからです。(笑) 思い出します、母親と懐かしい子どもの頃を・・・
20年程前になりますが、オーストリアに旅行した時ザルツブルグからウィーンまで鉄道で移動しました。その車両は映画で見て憧れていたコンパートメント車で、コンパー
トメント席に座った雰囲気と、ドナウ川沿いの美しい景色に感動し忘れられない思い出となりました。
43年前新婚旅行で初めて新幹線のグリ-ン車に乗っりました。
帰路別府から新婚旅行の定番・別府航路で大阪へ→東京の3時間のグリ-ン車で気持ちの良いひと時でした。しかし東京駅で現実に戻り、また明日から
勤務を考えると、気が重くなったことを思い出します。
長女がインターネットで申し込んだ「50歳以上の方の関西旅行」で関西まで新幹線”のぞみ”で行き、広島居住の次女と合流、老夫婦と娘二人で京都、大阪、奈良を巡っ
てきました。これまで見落としていたお寺、町並みなどゆっくり観光できました。
これまでの飛行機旅行と違って、新幹線の中からゆったりした気分が観光でもそのままの気分で落ち着いて記憶に残る良い旅行となりました。
私が小学校4年の時、一つ下のいとこと映画を観る為、初めて二人で電車で乗りました。わずか3駅、時間にして15分程の距離でしたので、鉄道旅行というには大げさか
もしれませんが、その時間は何だかとても大人になった気分でした。
子どもの頃、夏休みには必ず、ひとつ下の弟と二人で片道三時間半の祖父母の家に電車に乗って遊びに行っていました。田舎だったこともあり、当時は電車の事を『汽
車』と呼んでいました。都会に出てきて20年、今だに電車の事を『汽車』と言いそうになることがあります。
修学旅行の思い出
昭和36年中学校の修学旅行に、長崎県の田舎駅から南九州2泊3日の旅でした。真夏で、冷房もなく、一泊目は車中泊で、4人掛けの座席に板を敷き寝床にし、通路
にはゴザを敷き、パンツとランニング1枚で寝ました。今では、忘れられない思い出です。
鉄道旅行の話しではありませんが、忘れられない45年前の鉄道の旅です。
現在は残念ですが実現出来ません。
岡山から東京に就職試験で上京した時の思い出です。
往路は東京まで乗り換えなしの寝台列車に8時間ほど揺られ到着しました。
復路は東海道本線の鈍行夜行列車に揺られ関西まで、その後は山陽本線準急列車で昼過ぎに岡山到着です。
のんびりした忘れられない鉄道の旅でした。
小さい時に東京まで行った電車。毎年叔母の所へ春休みに行ってたのですが、まだ新幹線がなかったので、長旅の為に床に新聞紙を敷き靴を脱ぎ、窓からお茶と弁当
を買うのが楽しみでした。今では自販機、コンビニがあり、何でもどこでも手に入りますが、その時その場所でしか買えないからこそ楽しみで、嬉しいものでした。
今から30年前、主人と二人で東北へ出かけました。当時共働きでしたので会社帰り上野駅で待ち合わせをし夜行列車で青森へ。路線バスと三陸鉄道を乗り継ぎ八幡
平、奥入瀬、十和田湖、盛岡、三陸と巡りました。
インターネットもスマホもない時で時間がゆっくり流れていた良い旅でした。
2011年9月、震災6か月後に復興支援で三陸鉄道に乗車しました。がれきの山、無くなってしまった街並みにショックを受け、津波の恐ろしさを感じました。三陸鉄道に乗
車すると景色のよい橋の上で列車を止めてくれて心ゆくまできれいな三陸の海を眺めることができます。また復興途中の新たな三陸鉄道を見に行きたいです。
高校の長野のスキーの修学旅行です。九州へ帰る日、少し時間があったせいか、ホテルのロビーで体育教師の説教が始まり、結局予定の列車に乗り遅れることに。長
野から名古屋までの特急(?)と長野から新大阪までの新幹線はずっと立ちっぱなしでした。いくら若かったとはいえ、スキーの後は疲れており立ったまま居眠りも。今と
なってはこれも思い出ですが、当時はこの先生を恨みました。
私の故郷は田舎。
修学旅行で新幹線にのる練習を体育館でやったことがあるほど!
今でも東京駅に行くとその事を思い出してクスッとしてしまいます。
入社4年目の年末、飛行機チケットが取れず、千葉から北海道まで鉄道を乗り継いで帰省しました。朝5時に出発して夜の11時に到着。18時間におよぶ長旅でしたが、釜
飯、いかめし等、各地のグルメを満喫できて忘れられない鉄道旅となりました。
大学生時代に、インドへ旅行に行った際、デリー、コルカタ間を列車で移動しました。窓から見える異国の景色、熱気に溢れた車内、動物がプラットホームにあふれてい
た、トイレの穴から地面が見えたなど、忘れられない思い出が沢山できました。当時は大変だったけど、思い出すと懐かしい列車のたびでした。
【入社後初めての帰省】:新幹線なら三時間三〇分の旅。友と二人、仕事を終え、土産を抱えて飛び乗った東京発の夜行列車自由席。当然座る席などない。通路に持ち
込んだ新聞を敷いてやっと腰を落ち着ける。長い長い旅の始まり。列車で旅する度、一晩語り明かした友とこの夜行列車の旅を想う。
子どもが電車好きで、どこに旅行に行っても必ず駅に行かされます。
こちらは観光がしたいのですが、「○時の電車が来るまで待つ!」と動きません。
でも、こちらもだんだん面白くなっていって、
『5色の電車を全部乗る』とかプランを考えるようになってきました。
次はどの電車を見に行こうかな。
入社してすぐ、同僚3人で箱根温泉へ電車旅行をしました。今から30年位前になります。あの頃は携帯などない時代、電車の時刻表片手に楽しい旅でした。
最近、あの時の写真を見てニヤニヤしちゃいました。
電車の座席には今では無いテーブルが、そのテーブルには懐かしいMAXコーヒー、何より3人のファッションが、時代を感じさせます。今でも3人、年に一度旅行を楽しん
でます。(車ですが…)
20代の頃,青春18切符で広島県から福岡に一泊の一人旅をしました。帰りに山口あたりで窓からの景色が変哲もなかったことを覚えています。
学生時代やっとの思いで入手した北斗星で姉と寝台列車旅。一人個室しか取れなかったためチョッと小腹空いた時はお互いの部屋で食べることに。私は何を間違ったか
ゆで卵を姉の部屋で食べその後たいそう臭ったそうです。。若かりし頃の印象深い思い出です。
学生時代、夜行列車「ムーンライトながら」を使って東京から大垣経由で京都へ行きました。0泊3日の弾丸ツアーでした。今考えればゆっくり観光すれば良かったと思いま
すが、当時は京都観光よりも弾丸ツアー自体が目的だったのでそれはそれで楽しい思い出です。
発車ベルに気が付かず・・・!?
大学生の頃、長距離恋愛をしていた当時、彼女が新宿駅発特急で信州へ帰る際、発車時間までと思って車内で名残を惜しんでいたら、発車ベルに気が付かず自分も同
乗したまま列車は動いてしまいました。乗務員に事情を話したところ、何やらメモを書いてくれ、次の停車駅で折り返して無事発車した駅まで戻ることができました。
東北旅行で次の単線列車の発車時刻まで30分までの待ち時間に、
どうしても温泉に入りたくて、急いで入浴。気持ちよかった~!
でも、列車に乗り遅れそうなので、慌てて駅までダッシュ~。
おかげで、汗だくになりました。トホホ。
1961年(昭和36年)4月日立市の小平会館で行われた日立製作所の入社式のために新入社員の約半数(確か350名位)が常磐線上野駅から日立駅まで途中の駅には一
度も停車することなく将に”お召列車”で連れて行って戴いたのは九州からこの時初めて上京した自分にとっては生涯 わすれられない鉄道旅行 でした。
御殿場線での思い出 夏休み国府津駅から沼津駅に出かけた時、石炭列車(蒸気機関車)が走っていた頃の思い出ですが、窓を開け気持ち良い風と景色を眺めていた
頃、汽笛が鳴りトンネルに差し掛かると、皆さんあわてて窓を閉め始めました。気持ちい風なのにと思いながら石炭の臭いで充満し、隣のおばちゃんに早く窓を閉めなさ
いと言われ、私もあわてて閉めました。トンネルの中は燃えた石炭のすすが充満し、体にも付着するとの事で、窓を閉めなければならない事を教わりました。時たま、煙を
上げ蒸気機関車が走っているニュースを見ると、当時の石炭の臭いを懐かしく思い出されます。
車がない時代、田舎の祖父母の家に行く時は、数時間かけて、電車を乗り継いで行ったものでした。乗り継ぎの駅で食べた立ち食いそばが美味しかったです。
40年ほど前、お盆休みを利用して、友人は実家に里帰り私は東北旅行、上野発夜10時、車内は大変な混みようで、中ほどの通路に新聞紙を広げ横になりました。
人々の話し声や、蒸し暑さで眠れず、翌朝 水沢駅に降りたときは、おもいきり、両手を上げ、大きく背伸びをした時の気持ち良さ、その後友人のお母さんの手料理、お頭
付きの汁椀、ずんだ餅、きんぴらごぼう、等々格別に美味しかった事、今でも、忘れられません。
蒸気機関車を目の前にして
北陸本線電化直前のこと、米原・敦賀間で増結された機関車が正面を客車側に向け走っており、通路連結部からその力強い雄姿を目の前にした感動は幼かった私です
が、50数年以上経過した今も脳裏を離れません。
毎回楽しく見ています。かなり前ですが「忘れられまい鉄道旅行」は中国の上海に旅行をしたとき空港から上海までリニアカーに乗って時速300km以上のスピードを経験
したことです。
20代のある12月25日、栂池に年末スキーに行った帰り松本から新宿行の夜行に乗った。空いていたのでワンボックスを専有し駅弁を食べていると場違いな綺麗な女の
子が何と前に座った。彼女は松本の銀行に塩尻から通勤するOLで、今日は終業後クリスマスのお祝いでワインを飲んだそうで口は滑らかだった。真っ暗な車窓とは裏腹
に話が弾み塩尻までの楽しい数十分があっという間に過ぎた。懐かしい思い出です。
地元に新幹線が通ってなく、20年前の中学校の修学旅行以来乗ったことがありませんでした。そこでこの夏に新幹線の旅を企画しました。行きは飛行機、帰りは新幹線
だったのですが、あまりの疲れと快適な乗り心地に寝て終わってしまいました。
1980年山口から東京に引っ越した。家族5人、あこがれのブルートレインで子どもたち大喜び。その後妻の納骨のため山口へ、そして墓を建てて迎えに行ったのもブ
ルートレイン。もう乗ることない思い出の列車。
幼稚園の頃に乗ったSLやまぐち号が煙突から大量に煙りを吐き出しながら走るあの迫力と感動が忘れられない良い思い出です。
5年前にお気に入りのデジカメを購入したので網走方面を一人のんびり旅行しました。
流氷ノロッコ号・・じっくりと景色を眺めながらののんびりとした旅ができました。氷原の旅。
その景色、脳裏に焼きついて忘れられないい思い出になりました。
いい写真もたくさん撮れました。
憧れの鉄道旅行。。。いつも車なのでいまだ行った事がありません。
今は子どもがまだ小さいので、いつか子育てが落ち着いたら豪華寝台列車の旅にのんびりと出たい!何十年後かの夢です。
終戦前の幼稚園児の頃、父が富山市内の教職勤務で夏・冬休みに一家で高山本線で実家の岐阜に帰省していた。沿線は飛騨川渓谷沿いの風光明媚でトンネル・鉄橋
の連続である。当時は蒸気機関車で冷房もなく夏季には窓を開けないと暑くてやりきれない。しかしトンネルに入ると煙や煤が車中に入り息苦しくなるし眼等にも入ってし
まう。窓をトンネルでは閉め、抜けると開ける連続であり楽な旅行でもなかったが今では大変良い思い出である。昨年70年ぶりに乗車したが冷暖房完備の気動車で早く
快適な旅であった。
機関車トーマス
今年の夏、大井川鉄道で機関車トーマスが運行されると聞いて、妻と二人で見物に行きました。
実物大トーマスのすばらしい出来の良さに笑ってしまい、それいらい毎週通ってます。
横浜に住んでいた学生時代、長期休暇の度に、青春18キップで一人旅してました。兵庫県高砂で焼きアナゴ、明石で明石焼きなど、食べ物の記憶ばかりですが。
初めて乗った寝台車が北斗星でした。道中、次々と変わる景色を眺めながらゆっくりと時間が過ぎていきました。北海道新幹線ができると、この線も廃止になるそうです。
寝台車がだんだん少なくなるのは淋しい気持ちです。
2014年5月、大阪のビジネス街を発った列車は、千年の古都・京都で由緒ある寺院に見送られ、一路北を目指す。
琵琶湖の穏やかな湖面に別れを告げると、幾つかの長いトンネルを抜け田園風景の中をひた走る。
加賀百万石の城下町・金沢を過ぎると、雪化粧した雄大な立山連峰の大パノラマが目に飛び込んでくる。
親不知の断崖絶壁を突き進み、日本海に沈む夕日を眺めながらグラスを傾け至福の時間を過ごす。
越後平野が途切れる頃、夜の帳がおりる。
翌朝、駒ケ岳の雄姿が出迎えてくれる。
内浦湾の煌く朝陽を浴びながら北の大地を進んで行く。
牧歌的風景の中をラストスパートを駆け、空港が見えてくるとやがて終着駅の札幌へ滑り込んだ。
日本最長距離の寝台特急「トワイライトエクスプレス」22時間の旅。
廃止の知らせを聞いたのは、その直後だった。
エジプト旅行の時に乗った寝台列車。トイレに行くと便座の横に蛇口とバケツがあり、自分で水を流すタイプに、噂には聞いていたが、やはり驚きました。
欧州旅行の際、ロンドンからパリへの移動にユーロスターを利用しました。300km/hでも安定し、とても快適でした。日本の新幹線が一番だと思っていた私にとって、大き
な衝撃でした。また機会があれば海外の高速列車を利用したいと思っています。
子どもが1歳の時に秩父にSLを見に行きました。
煙を出しながら音を立てて走るSLを見て怖かったのか、繋いでいた手をギューッと握ってきたのが、とても可愛らしかったです。今では手を繋ぐことも減ったので懐かしい
思い出です。
10年くらい前に初めてサンライズ瀬戸に乗りました。到着したホームで朝の空気がとても気持ち良かった事を思い出しました。
青春18キップの旅
福岡の最寄り駅を朝6時半に発ち、夜10時過ぎに大阪の娘家族の家に着いた。普通と快速の電車を乗り継いでの旅である。のんびり車窓から景色を眺め、乗り降りす
る人々の様子からその土地の日常生活を垣間見た。時には居眠りし、途中広島では降りて名物のお好み焼を食べた。気持ちは青春、69歳の鉄道旅行であった。
鉄道旅行。憧れます。私の住んでいる沖縄県は電車がありませんので、テレビなどで鉄道旅行などぎ放送されるとのんびり景色を見ながらの旅をしてみたくなります。
もうすぐ子育てが終わるので、それからのんびり旅に行きたいです。
ななつ星に乗車できたことです。高倍率の乗車抽選に当たったと連絡があった時はビックリ! 1泊2日でしたがこれ以上ない贅沢な旅で夢のような時間を過ごすことがで
きました。
夏休みに東京に行ったのに、仕事が休めない彼(現夫)。
私の貴重なお休みがもったいない!とインターネットで調べて、次の日には、鈍行電車で北海道に向かい、一人で北海道を回ったこと。
全く計画性がなかったのですが、一人旅の人も多く、楽しく過ごせました。
鉄道旅行というテーマからは離れますが、高校時代2時間の通学手段は蒸気機関車で、約20のトンネルを通過する際は、窓を締め切っても隙間から入ってくる黒煙で
顔が汚れ、降車駅では必ず洗顔するのが常でした。夏場は暑さも加わって耐え難いものでした。ちなみにその路線は大震災で大欠損し、廃止路線の方向とのこと。
三世代で富士登山列車に乗りに行ったところ、テレビの取材が来ており全国デビューしてしまいました。
今からおよそ30年前、夏休みに家族旅行で生まれて初めて新幹線に乗りました。当時の新幹線にはまだ食堂車があり、そこで皆でビーフシチューを頂きました。当時小
学生だった私には、とても贅沢で忘れられない素敵な思い出になりました。今でも新幹線に乗ると当時のことをよく思い出します。
新婚旅行に行けませんでしたが、今年の夏、運よく寝台特急カシオペアのスイート の予約がとれて、北海道旅行に行き、忘れられない思い出になりました。
昭和29年3月に大分県の田舎の中学を卒業した私は、東京の高校に進学するため、国鉄の急行寝台で2日がかりで上京。横浜線に乗り換え目的地へ向かいました
が、その時お上りさんの私は、電車の扉が自動で開、閉するのを見て、びっくり。ショックを受けました。いまだに忘れられない思い出です。
蒸気機関車が大好きな息子。
いつか本物を見せてあげたいと思っていたら、なんと!イベントで実家の近くの線路を通るとのこと。
有休を取得して、家族で帰省し、見せてあげることができました!
息子はもちろん、私達も両親もとてもいい思い出になりました。
私が子どもの頃、初めて列車にのって出かけたとき、それこそいっちょうらの洋服を着て窓際の席につき、そとの景色にみとれていたとき、トンネルに、入り、・・・トンネル
から出たとき、真っ白なブラウスに黒い点々がついてしまい、泣き顔になった・・・50年以上も前の思い出でです。
いつも楽しく読ませていただいています。
小学校4年生の時、初めて兄と二人で寝台特急に乗って、秋田のおばあちゃんの家にいきました。ウォークマンで好きな曲を聴きながら車窓から見る、夜の駅を通過して
いく景色を今でも忘れられません。初めて両親と離れて旅行をする嬉しさと不安の入り混じった気持ちを思い出すと今でも胸がキュンとなります。
娘の婿にと
20代半ばの頃、上野駅から猪苗代へ夜行列車でスキーに行く列車内、会社の仲間と日本酒の一升瓶を抱えて酒を飲み交わし談話中していた。ふと斜め前の席を見ると
一人でワンカップ酒を飲んでる中年男性、カップの少なくなった酒を見て注ぎに行った。世間話をしている内に青森からの出稼ぎで帰省中とのこと。いきなりその年配の
方が私に娘の婿になってくれと自宅の住所と地図をメモした紙切れを差し出し、自宅へ来てくれと言われた。
今から15年ほど前にロシアのサンクトペトロブルグからモスクワまでの寝台列車に乗りました。乗客にはパンなどが入った朝食セットが配られます。また、客車の中に給
湯器があり、ロシアンティー(ジャムティー)のセルフサービスもあります。窓の外はまだ一面暗闇でしたが、列車の中でのロシア風朝食は美味しかったです。
四十数年前、笠戸工場から寝台特急に乗って本社へ転勤しました。
初めての東京、初めての一人旅、新職場の仕事等で不安一杯の鉄道旅行でしたが、何故か電車内の「日立」の銘板が目に入り眠れたのを覚えています。
中学校の修学旅行で関西へ行きました。初めて九州を離れての長距離旅行で、数校の中学校による夜行のSL臨時列車で出発しました。車中でトランプ遊びをしたり、ワ
イワイ騒いだり、楽しい車内でした。そのうち眠たくなってウトウトしてしまいましたが、当時九州の田舎で育った私にとって、大阪の大都会はどんな所だろうとワクワクして
熟睡できませんでした。昭和38年の懐かしい思い出です。
旅行中の失態。電車で出発し、何もすることがなく、2時間以上の移動時間を寝て過ごすことに…。気が付いたら駅員に肩を叩かれ、終点で1人取り残されていました。す
かさず逃げるようにしてホームを出て行きましたね。
東京へ就職が決まり、3/31に乗った電車。大きな荷物、名古屋→東京を立ち乗り、車窓からの富士山は忘れません。
息子がまだ幼かったころ、自分は定期券で入って電車好きの息子のために、いろんな駅、いろんな景色、そしていろんな車両を見に行きました。自分たちがいつも利用し
ていた電車が引退することになり、そのラストランでは、大きくなった息子とその思い出のつまった電車を涙で見送りました。
彼女との旅行(伊豆)で初めて乗ったスーパービュー(←ここ大事です)踊り子号。まるで飛行機のような内装と外の景色が広々見えることに感動しました。
小学6年の修学旅行で日光へ行った時の貸し切り列車が一番の思い出です。クラスの皆とUNOやトランプなどで盛り上がり、あっという間に時間が過ぎ目的地へ。クラス
替え直後の旅行だったのに、すぐに皆と仲良くなれました。
ドイツに留学中の彼女に会いに行き、ミュンヘンのオクトーバーフェストへ鉄道で行きました。行きは車窓から見える移り変わる景色にワクワクしていたのですが、帰りは
また離ればなれになるのかという思いで、風景画とても切なく感じました。
中学生の修学旅行で始めて青函トンネルをくぐった時は、内心、崩れないか心配だった…
2012年。仙台から東京へ数回出張で新幹線に乗りましたが、3回止まりました。1回目は、列車の故障、2回目は台風。3回目は地震。但し2013年以降止まることはなくなり
ました。社内では私が新幹線に乗ると止まるという伝説が生まれました。
高校の卒業旅行で行った北海道での鉄道旅行が忘れられません。あの年すごいくだらない事で盛り上がった気がします。
大井川鉄道でSLに乗り、アプト式鉄道にも乗ったこと。途中、湖上の駅で結婚式をしていたのが印象的で、新郎新婦が列車に乗ってきたこと。HAPPY!
出張での移動でしたが、石川県から長野県へ鉄道で移動した際、妙高高原の雪景色や、長野の「おばすて駅」など、とても景色の良い場所を通りました。時間はとてもか
かりましたが、疲れを忘れるような素晴らしい景色で、出張も楽しめました。
学生を卒業した時に、友人と2人でイタリアを鉄道でめぐる旅行にいった。ツアーではなかったので、切符の手配など何もかも自分達でやることに。当時、イタリアの駅は
階段のみ。列車も出発まで変わったり、発車のベルもならず、次の駅のアナウンスもイタリア語でわからず、日本の鉄道旅とは全然違うことを思い知らされた。アクシデン
トも多かったけれど、親切にしてくれた人たちにも助けられて、何とか無事に旅できました。日本って便利な国だと改めて感心しました。
東京から福岡に転勤することになり、妻と一緒にブルートレイン(特急富士)に乗って行きました。約17時間かけて福岡に着きました。車窓から見える各地の景色に感動し
たのを今でもはっきりとおぼえています。今は、ブルートレインはなくなってしまいましたが、懐かしい思い出です。
今の会社の入社面接で、栃木県から山梨県まで、お金がないからすべて鈍行で行ったら、交通費を往復でくれたが、帰りも鈍行料金しかくれず、また5時間ぐらいかけて
帰ったことです。特急できたら、特急料金をくれたそうだったので大変な思いをしました。
中学生時代に友人3人と青春18きっぷで北海道まで行きました。これが友達だけで行った最初の旅行だったので、楽しく大変印象に残っています。
大学生のとき、広島から大分の実家まで、在来線(普通)をいつも使って帰省していた事。お金のない頃でしたネ。それが旅行の様で、長時間の旅でした!!
リフレッシュ休暇の時に1人で北斗星に乗り、北海道に行きました。冬の北海道はとてもきれいで、心が洗われるようでした。
ゆふいんの森に乗って大分まで行きました。温泉に浸かり、リフレッシュできた事、ゆふいんの森での窓からの景色は忘れません
高校生の頃、山岳部に所属し、遠方まで1日がかりで電車旅行をしたこと。友人と会話をしたり、駅弁をたべたりと、とても長い時間でもあきることのなかった青春。
プロポーズ旅行-おれんじ食堂- 9年間お付き合いしていた彼女にプロポーズする為、九州旅行を計画しました。その際、新八代~川内間のおれんじ食堂に乗車し、おい
しいごはんやご当地のお土産を買いました。昔から電車で旅行したいと考えており、よかったです。
娘一家の転勤で先に出発した両親にかわり、2歳、4才の孫娘、そして、はじめて主人とうれしい列車の旅と楽しみに出発しました。ところが、じっとしていない子、眠くなっ
て泣き出す子と4時間の旅はてんやわんやでした。到着した駅でほっとして椅子に座っている私達に、迷惑をかけてしまった同乗の方々から「たいへんでしたね」と声をか
けていただき、とてもうれしかったです。あれから10数年、主人は亡くなり、中高生の2人、今では忘れられないとても大切な思い出となりました。
東京にいた20才の頃、年末に実家の新潟へ帰る新幹線。足の踏み場もない程混んでいたデッキにいた私は、片足しかつけませんでした。そんな中、みんなで声をかけて
荷物を積み上げ、何とか両足をつくことができました。
旅行ではありませんが、昔付き合っていた方が少し遠くへ異動となり、車でも行ける距離でしたが、仕事の疲れもあるので、よく電車で1時間以上かけて会いに行っていた
事を思い出しました。分かれてしまってから電車に乗ることはほとんど無くなったので、電車の思い出は甘酸っぱい思い出です。
初めて乗った新幹線(徳山-広島)です。ほんの数十分でしたが、あまりの速さにおどろいた記憶があります。
就職赴任時の寝台電車です。どの都市に就職するのか?どんな仕事なのか?夢一杯に語り合って交流したことを憶えています。
思い起こせば、数十年前、山梨県の小海線で甲斐小泉駅で降車しようとしたら、ホームが短く降りれず清里(昔はそれほどメジャーではなかった)まで行ってしまったこと
を思い出しました。
大学時代、京都から福岡博多まで在来線で12時間かけて一人旅したこと。途中途中、人との触れ合いが忘れられない思い出となった。
大学時代、私のわがままと言うか、一度は乗ってみたいと思っていた寝台列車に乗って天龍下りの旅をしました。初めて乗った寝台は狭くてびっくり。友達と大笑い。で
も、いつの間にか狭さとガタガタの中、休んでいました。たった一度の寝台列車の素敵な旅。大切な思い出の1ページになりました。
初めての夜行列車。40年前、友達3人で上野から夜行列車で木曽路に出かけました。松本に到着したのが朝方で、次に乗る電車まで2~3時間あり、駅の待合室で仮眠
をとりました。今では新幹線があるので、すぐ行けますね。
昨秋、何十年かぶりで東北地方に列車で団体旅行に行き、ゆっくりと色々な景色を見て、紅葉も始まり、何時もと違う旅でした。たまには列車もいいナ~と感じました。ホ
テルの食事もドンドン出て美味しかった。朝食のバイキングなんでもあり(洋、和)、日本って幸福と痛感した。
鉄道と言えば。やっぱり寝台列車をイメージしますね。学生時代はゆうづる、そして会社員になってからは銀河、出雲と結構乗りました。今では身体的に無理ですけど。
外国人との出会い。私が小学生の頃、家族で電車で2時間程のところにある動物園に出かけた時の事です。当時は少なかった外国人の方と一緒になりました。すると父
が英語で話しかけ、みかんを分けてあげたり、私が仮面ライダーを好きである事など話ました。私は外国人と話す父を見て感動したことを憶えています。そして今、TOEIC
を勉強しています。
入社して1~2年ぐらいは、まだ新幹線も開通しておらず、生活費にも余裕がなかったため、横浜から田舎の山形に帰省するのに夜行列車「津軽」を使っていたのが今でも
忘れられません。東京を夕方に出発して山形に翌朝到着のため、心身共に疲れますが、若かったから出来た事ですね。
県外に嫁いだ友達に会いに、他の友人達と電車に乗って会いに行きました。乗り換えの時、あやうく間違えそうになりながら、無事、友達のいる駅に到着。前と変わらな
い笑顔の友達を見て安心しました。
学生の頃、和歌山の友人に会いに名古屋から青春18きっぷを使って普通列車で行きました。朝、家を出て夕方に目的地へ。くたくたの身体で友人と健康ランドの温泉に
浸かり、疲れを癒しました。お金はないが、時間はあったからこそできたのかも。
中学、高校の修学旅行で、青森-上野まで寝台列車に乗りました。3段ベッドで快適とは言えない旅でしたが、それも含めて修学旅行のよい思い出です。いつか寝台列車
の個室で旅行をしてみたいと思っていましたが、廃止が決まって残念です。
青春18きっぷを利用した、小学生の子ども2人との夏休み旅行です。日立~十和田湖~一関。十和田湖畔の民宿で食べた姫マスが美味でした。湖畔の船着場ではとん
ぼがたくさんいて、息子達の指に自然と止まりました。ゆったりとした旅でした。
中学校の修学旅行の時、京都まで夜行列車(貸切)で行く車内で、友達とトランプをして、下を向いてばかりなので列車酔いした苦い思い出があります(50年程前)
翌日に結婚式列席を控え、九州旅行からの帰路、最終のぞみに乗り遅れガクゼン。まだネット検索がない時代、慣れない時刻表を見てどうにか東京まで帰れないかを調
べました。寝台列車に乗ったのは初めてでした。夫婦でカーテン越しに手紙のやりとりをしたことは、修学旅行気分を味わえた時間でした。
随分昔、房総へ両国より始発の汽車に乗り行った事。最後の蒸気機関車の旅でした。
栃木県まで夫とスペーシアに乗って旅行へ行ったこと。
高校のクラブで、大阪から鹿児島までの電車移動で、各県の駅弁を食べられたことです。みんなで楽しく、食べました。
初めての海外で乗車したユーロ鉄道。やはり日本の鉄道が最高。速く、正確、安全、きれい。
中学の時の修学旅行で九州方面へ行った時、高松→宇野港へ連絡線に乗り、宇野→岡山までの宇野線での普通列車からの岡山の田園風景がすごく印象的で、今でも
あの風景を思い出すと、頭と心がスッキリするのです。
小学2年の時の冬休み、父母と妹と4人で山形県の米沢に汽車で出かけた時。父に長靴を持っていくように言われた。雨も雪も日立は降っていないのに、なぜ?と思いな
がら、子ども心に出かけました。6時間位の後に、その理由がわかりました。米沢市内は1m位の大雪が積もっていました。大雪にとても驚いた思い出でした。
家族10人で北斗星の旅。今から15年以上前、実家の両親、姉、私の妹の家族10人で、あこがれの北斗星寝台列車の旅に出かけました。子ども達は小学生で、初めて乗
る寝台列車に興奮して寝られず、翌朝の朝市での朝食は居眠りしてごちそうもいただけませんでした。今でも悔やんでいるようです。
今から37年前の高校時代の修学旅行の思い出です。当時、札幌市内から九州への旅行でしたが、東京から博多まで新幹線ひかりで8時間もかかりました。今では何と5
時間の所要時間となっており、良き思い出です。
大学を卒業して茨城の会社に入った頃、金沢近郊の自宅へ帰省する交通手段は、いつも夜行列車だった。夜中に上野や大宮を出ると朝には故郷に着いていた。急行
「能登」特急「北陸」は、今はなき両親の記憶と共にある。
1年前の11月に青森-秋田日本海沿いの五能線の旅はすご~くよかったです。三味線を聴きながら、あたたかな言葉が忘れられない寒い日でした。
学生時代、関西の知人を訪ねて初めて利用した自動改札。目的地に到着して改札を出ようとしたら、切符が戻ってこないので立ちつくしてしまいました。現在はICカード、
未来の改札は、どこまで便利になるのか楽しみです。
私が小学生に上がる前、4~5歳の頃だったと思います。まだ蒸気機関車の頃、弟と母とおばと4人で仙台の七夕祭りを見につれて行かれた事がありました。トンネルに入
ると、窓を閉めるように言われたのを憶えています。煙が中に入ってくるから。初めて乗った汽車にとても興奮し、七夕のことはあまり憶えていません。しその葉で巻いた
おにぎりの味だけは忘れられません(汽車の中で食べた母の手作り弁当)
まだ子ども二人が小さい頃(4歳、7歳)、突然(スーパーひたち)に乗りたいと言い出し、勝田-上野まで私一人で二人を連れて電車に飛び乗った思い出が今でも忘れられ
ません!! 自由席だったので、子ども一人と私はずっと立ったままでした。
電車で旅行した時、寝過ごしてしまい、違う駅で降りたが、そこはまた素晴らしい景色が広がっていて、結局間違った駅で楽しんだ。
小学校低学年の頃、母と4人兄弟で新宿駅から山梨市の笛吹川沿いにある母の実家へ行った。蒸気機関車の旅。新宿駅で軍服を着たアメリカ人にシャツにバッジを付け
られた。窓から視える田畑野原、トンネルの煙り。スイッチバックでの登坂。遠くに視える山々。そして実家に向かって歩きながら見上げた空に煌いた無数の星。
初めての新幹線。中学校の修学旅行の事。今は亡き母が魚肉ソーセージで「ミニアメリカンドック」をたくさん作ってくれた。仲良しグループでケチャップをいっぱいつけて
食べたなぁ~!
15年前の夏休み、たまたま小学生の娘と二人きり。思い立って「スーパーひたちに乗ってパンダを見にいこう!」と上野動物園へ。はじめてのスーパーひたち、はじめての
パンダ、終始うれしそうな娘、楽しい父娘旅でした。
昔、数十年前、夜行列車で田舎に帰る途中、だんだん田舎に近づいてくる中、車窓から眺める風景が懐かしく思いました。
オレンジ鉄道にのって窓から外を見ると工場から手を振ってくれた人を思い出します!
もう40年も前になりますが、上野駅から夜行列車で北海道の田舎へ里帰りしたとき、青森駅まで寝台車、青森から函館まで連絡線でした。連絡線に乗るのに桟橋を一斉
に走り出すことが忘れられない出来事です。
初めての出雲旅行へあこがれの「サンライズ出雲」に乗車!ゆっくりと景色を味わい、到着までも、いい旅、夢気分に感動しました。
十数年前の事ですが、インドを旅行した時に長距離の移動に鉄道を利用しました。そこでトイレに入った時に「えっ!」とびっくり。ただの穴しかなく、線路が見えていまし
た。日本との違いを改めて実感した瞬間でした。
新婚旅行で念願のマチュピチュへ!!マチュピチュまでは世界で2番目に高いところを走ると言われる鉄道で行くのが一般的です。車窓からのアンデスの絶景の景色を
楽しもうと奮発してパノラマ列車を予約したものの、あまりの標高の高さに軽い高山病に…。せっかくの景色を楽しむ余裕もなく、4時間の列車の旅は終わりましたが、マ
チュピチュ遺跡は最高でした。
26年前に妻と山口方面に旅行した時、SLが走っていたこと(今も週末は走っています)。車内でご婦人に写真を撮っていただき、こちらも撮ってあげて、後日送らせていた
だき、その縁で26年間ずっと賀状のやりとりをさせていただき、時にはアルバムを見て、当時の思い出としており忘れられない鉄道旅行でした。
初めての一人旅で北海道へ行き、そのほとんどが列車(ディーゼルなので電車ではないそうです)での移動でした。一人で旅することが初めてなので緊張していたのです
が、駅から駅までの距離がとても長く、いつの間にか眠ってしまい、せっかくの景色をほとんど憶えてなく、残念でした。
幼い頃「機関車トーマス」が大好きだった息子のための旅行です。富士急ハイランドにある「トーマスランド」への旅行、それも小さな鉄道旅行。福島の磐城車線のSLに乗
る旅、息子のためにと言いつつ、自分たちもずいぶん楽しませてもらったなと思います。最近、大井川鉄道で本物の(?)トーマスが走っているとニュースで知りました。あ
の頃だったら絶対行っていただろうなと大きくなってしまった息子と話しています。
20年以上昔のことになりますが、石川から大阪へ進学のため、父母と鉄道旅行をしました。家族旅行をめったにしない家でしたので、寂しく、嬉しく、複雑でした。でも、大
阪で帰りを見送ったときは、たまらず大泣きしました。いつかまた両親と旅行がしたいです。
10年前に行った函館本線(青森-函館)に乗った時の不思議な感じは…。どうしても海の中を走っているということが信じられませんでした。
25年前の事、秋田から新庄-鳴子経由、仙台行き特急に初乗りの頃、新庄駅で停車、陸羽東線に入線変更で車輌が移動しました。その時小生はホームの売店で買い物
中(一時下車して)、後を見たら列車が発車。列車を追いかけ驚いていると、駅員さんの説明あり、一安心。
中学生の時、初めての一人旅で周遊券を使って夜行列車の乗り継ぎをして一夜を明かしたことが忘れられません。
高校の修学旅行の時、初めて新幹線に東京から中国地方(山口)まで行きました。1日かかりましたが初めてだったのでワクワクして、友達とトランプとかしてました。夕方
雨が降りましたが、2日目からは天気にも恵まれ、楽しかったことを思い出します。
社会人になった年の連休に友人と千葉の房総南まで時間に縛られることなく気ままに電車に乗って旅をした事が今でも忘れられません。時間に縛られない幸せをもう一
度…。
中学の修学旅行で初めて新幹線に乗りました。ホームに到着したひかり号を見た時は、嬉しくて思わず撫ぜてしまいました。今では毎日のように新幹線を見る生活です
が、それでも車両を見ると当時のことを時々思い出します。
数年前に夫と高山へ旅行した際、帰りの電車で乗り合わせた10人位の女性達、大きなリュックを側に山登りの帰りの様子。60~70歳位にお見受けしたのですが、関西弁
で話に花を咲かせて…。大阪出身の私は懐かしさで心が弾み、旅行が倍楽しかったです。
新潟県村上市で大自然を満喫しました。今年の春に義父が他界し、義母と義姉夫婦と私達夫婦5人で上越新幹線、羽越線に乗り継ぎ、義父の写真と鉄道旅行でした。天
気に恵まれ、汽車の窓から見る金色の稲穂、日本海の夕陽に感動しました。父もよろこんでいたことでしょう。
中学時代、京都への修学旅行の際、田舎の学校だったので、電車や新幹線の乗り降りを練習してから行きました。
北海道への修学旅行の列車の旅です。もうずいぶん昔の話になりますが、上野駅からの夜行列車、函館からの列車の中でたくさんのカニを食べながら過ごしたこと。い
い思い出となっています。
次男の大学入試の為、京都に行き、帰りの新幹線で後ろの席の(やはり受験生だと思いますが)男性が荷物を降ろそうとした時、私の頭にものさしが落ちてきて… 心配
したとおり受験結果も落ちてしまいました。ガッカリ。
子どもが小さい時、SLに乗って遊びに行きました。SLに興奮しすぎたのか、おやつのキャラメルを食べすぎたのか、SLの車内でゲボッと吐いてしまいました…。あーあ。
楽しい旅行が、着替えさせたり処理したりで大変でした。
初めての北海道旅行、「寝台特急北斗星」。あこがれの初めての車内「ディナー」に一喜一憂し、乙女心をドキドキさせながらの女子二人旅でした。30数年前の楽しかった
思い出です。60才の乙女より。
義父の25回忌で九州へ帰った際、初めての長旅だった3歳の娘は、電車の中でずっと固まっていました。すごく緊張していたのか、九州に着いたらバタンキューで25回忌
の法事の間、ずっと寝てしまっていた事を思い出しました。
学生時代の最後、予定を立てずに「青春18きっぷ」を買って旅行に出かけました。東北を一周、各駅停車の旅…。無計画のたびなんて時間があった学生時代だったから
できたこと。とても良い思いで画つくれました。二度とできない経験かな。
子どもが小さい時、真岡鉄道のSLに乗りました。益子から真岡まで行き、SLが方向転換するのを見て、又、SLで益子まで帰ってきました。小さい子ども達は大喜びでし
た。
北陸の電車の旅は、たくさんの虹を窓から見ることができました。雨上がり(雨・くもり)が多い地方なんですね。
初夏の頃、乗り物全般が好きな娘3歳を連れてSLやまぐち号に乗りました。夫と私と娘と、皆初めての蒸気機関車で子どもより大人の方が楽しんでいました(笑)。津和野
で散策し、初めての家族旅行は大満足で良い思い出です。
小学生時に祖母の家へ電車で行っていました。富海の海が非常に美しく、キラキラした海面を見つめていた記憶が強く残っています。新幹線では味わえない「ゆとり」を
現代でも欲しいものです。
大学の卒業旅行でパリに行きました。一人で乗った列車は、終点駅に到着。知らずに座っていたら、車庫に入ってしまいました。さあ大変。5分くらい閉じ込められて泣き
そうでした。結局、運転手が来て下さり、無事救出されました。
子どもが小さい頃、新幹線のグリーン個室に乗りました。東京で降りる時、同じ出口に志茂田景樹さんが!!TVに出てるド派手ファッションそのままでビックリでしたが、
とても穏やかで優しそうな方でした。
「母と乗った寝台特急」 小さい頃、母の実家がある九州に行くとき、寝台特急に乗りました。1つの寝床に2人で寝て、真夜中に1人でカーテンの隙間から停車駅をのぞい
たり。乗り合わせたサラリーマンの方にお菓子をもらったことも良い思い出です。
30年位前、親子5人で夏休みに新宿から中央線で、信濃大町からバス、トロリーバス、ケーブルカーと乗り継いで「黒4ダム」を見学、室堂泊、子ども達は喜びをかくしきれ
なかった。翌日は宇奈月温泉、黒部渓谷までトロッコ電車、色々な乗り物の旅、家族旅行が忘れられません。
私の故郷は長崎の離島です。就職の為、関東に上京し、子どもも生まれ、生涯の半分以上を過ごしました。家族で私の故郷に帰る時は、片道5時間半かけて新幹線で移
動します。普段、乗りなれていない子ども達が嬉しそうに窓の外をのぞいていたことを思い出します。飛行機が身近になり、時間もはやいので、新幹線に乗っていません
でしたが、昔を思い出して、また家族で乗りたいです。
読書をしていると、隣り合わせた女性の方が「何の本を読んでいるんですか」と話しかけてきました。それをきっかけに話しはじめ、目的地に着くまでのときを楽しみまし
た。別れるのが名残惜しい程、あったかい人で、ぜひ連絡をとりたいと思いましたが、名前を聞かずに別れました。時々、今もお幸せでおられることを祈りつつ、思い出し
ているよい思い出です。
海外一人旅でパリからスイスに行くはずが間違えて南仏行きの特急に飛び乗ってしまった。検札に来た車掌さんが気付いて切符の裏に事情を書いて乗換えを調べてく
れた。その後、車掌から車掌に切符と私本体が引き継ぎされて、無事にスイスのバーゼル駅に到着できた。3人の車掌さんのおかげで旅ができた。
学生時代にヨーロッパを一人旅した時に、オーストリア発ベネチア行きの夜行列車に乗りました。車内で勧告やアメリカから来ている学生バックパッカーと仲良くなり、夜
通し語りつくしたせいで明け方にベネチアに着いたときには寝不足でヘトヘトでしたが、朝もやの中から現れたベネチアの美しさに一瞬で目が覚め、大変感動した事は、
一生忘れられない宝物となりました。
つきみ野から田園都市線が東武東上線につながり、足利まで行けるかと思っていたのに、東武動物公園からはローカル線でノロノロと田園風景を見ながらの旅になりま
した。普段はあまり主人と話す機会もないのですが、その時ばかりは子どもの話を2時間以位ゆったりした電車の中でしました。こんな時も今までになかったね。これって
電車のおかげでしょうか。
小学生の時、夏休みの帰省(母の実家)で寝台列車に乗りました。ベッドに寝ている感じでワクワクしたのですが、次の日乗り物酔いで気分不快になり、食堂車で朝食を
注文したけど食べられなかったことがあります。残念!!
昔、ヨーロッパを貧乏旅行した時、二等列車の寝台に乗ったら4段ベッド!?(クシェットと呼ばれていた)でした。どうにか寝られたけど、若いからできた旅でした!
高校の修学旅行で関西方面に出かけました。初めて新幹線に乗り、車窓の景色を楽しんでいましたが、大きな窓枠に絵のように富士山がおさまった時の一瞬の美しさ、
50年近くすぎた今でも目にうかびます。
始発の新幹線に乗るために、東京駅の1番ホームから端まで重いスキー用具をかつぎながら走り、無事乗れました。出発のベルがとてもんがかったのは、多分私の為に
鳴らしてくれたんだと思います。
昭和20年代、列車と言えばSLでした。小学生の時、岩手県の山田線で盛岡から宮古までの鉄道旅行が忘れられません。それは山田線は80%がトンネルでトンネルに入
るたびに窓の隙間から煙が入ってくるため、宮古に到着した頃には、皆んなの顔がすすで黒くなっていたのを今でも時々思い出します。
小学生の頃、寝台車に乗って九州(?)へ行った思い出です。狭い寝台に、落ちないかと心配し、一人で寝る心細さ。固い寝台の寝心地の悪さに眠れる夜を過ごしたこと
を憶えています。
昔、蒸気機関車で帰省した時に、窓をあけていて、顔を出していて顔がススで黒くなっていたこと。
入社して2ヶ月の社員旅行。同期の子と二人で座った席。その前に二人の先輩の男の子。ドキドキした気持ちは今も忘れません。その後二組の夫婦となり、同じ年の同じ
日に男の子が生まれ、その息子達も今年38歳。楽しい社員旅行でした。
お金が無かった学生時代、それでも旅行に行きたくて「青春18きっぷ」を駆使して四国へ、北海道へ、京都へ…。新幹線では味わえない趣き…。楽しかったなあ。今では
あの時間がなくてお金には換えられない時間でした。
和歌山へ旅行した帰り、6:30頃の混雑した時間帯になり、当時は6才の息子が電車の中で立ったまま寝てしまい、まわりから笑いがおこっていました。その息子も高校生2
人のお父さんになっています。
フリーパスの乗車券を使って、房総半島一周して来ました。孫4歳と8歳の女の子、女房と4人。駅名を覚えてもらおうと各駅停車に乗って、孫は駅名と車窓を眺め、心に写
し込み、一生懸命でした。外の景色を見ていると、海が見え、田畑が見え、とても気分が落ち着き、私の方がリラックスできました。のんびり各駅停車の旅でした。
父に初めて新幹線に乗せてもらった時、1駅でUターン。後から母に「あれは駅に入るお金しか払ってなかったのよ」と聞き、こんな親にはなりたくないと心から思いました。
まだ小学生ぐらいの頃、両親と熱海に旅行するために乗車した電車を憶えています。当時は日本も活気があり、電車は満員。床に座って時を過ごしました。やっと着いた
熱海の海では楽しく遊びました。そして、その帰りの電車も床に座って帰ってきました。今では床に座るなんてことは想像もつきませんが、なぜかよく憶えています。
海外テロ問題で急遽国内に切り替えた「リフレッシュ旅行」。滑り込みでゲットした「トワイライトエクスプレス」でしたが、乗車後、北陸あたりで妻の「アイロン入れっぱなしか
もっ!」との暗雲巻き起こる発言にパニックに。息子の携帯にやっと連絡つき、「お母さん、コンセント抜けてるよ」の返信でやっと楽しい夕食にありつけました。強烈に思い
出に残る北海道への鉄道旅でした。
昭和36年の小学校卒業旅行で東京へ行った帰り、列車「希望号」が故障等で車輌通路で寝て帰ったこと。今の卒業旅行と場所・車輌等で大きな違いを感じます。
47年前、高校の修学旅行で、青森から上野までの夜行列車で、各人座席や通路、荷棚に雑魚寝した遠き思い出。
【電車の後部の車両が切り離しになり!】 鉄道旅行ではありませんが、今から約40年前の昔話になりますが、同窓会の行事で東京の日劇に観劇に行くのに、常磐線勝
田駅から電車の後部の車両に乗車した人が身と駅で後部の何両かが切り離しとなり、水戸駅で足止めとなり、慌てて次の電車に乗って追いかけ、何とか観劇に間に合っ
たという今では懐かしい笑い話がありました。
寝台列車の旅 この度の北海道旅行で、久し振りに寝台列車に乗りました。その昔、出張で東京まで寝台急行「安雲」に乗車して以来です。往路は新幹線、特急、フェ
リーを乗り継いで翌日苫小牧に上陸し、道内を観光、帰路は札幌駅から大阪駅迄の22時間を寝台特急「トワイウライトエクスプレス」に乗車して、プレミアムな体験を致し
ました。この列車は北陸新幹線開通に伴い来春で廃止が決まっています。感激して一段とアップし、忘れられない旅になりました。
昭和50年10月、夜行に乗り、室蘭には夕方着。次の日よりSL撮り、まず母恋駅を出発する列車を夕張線、川端、滝ノ上間の鉄橋での1枚と、歌志内線、枝線鶉駅?近く
での1枚は我ながら良く撮れたと思っている。他には、幌内、万学線、石炭列車でいづれも廃線となってしまい、寂しい思いである。
約30年前になるが、出張で山陰から上京する時によく寝台特急「出雲」を利用したものだ。そして食堂車で食事と飲酒をするのが楽しみでもあった。毎回、ラストオーダー
まで居座り、車掌に退席を促されてからやっと腰を上げるという醜態を晒していたのも思い出である。
小さい頃、家族で夜行列車に乗った事です。電車のベッドは狭く寝にくいながらも、テンションが高く楽しい思い出です。今は新幹線に変わってしまい寂しいです。
主人が長野へ出張していた時、仕事が金曜日で終わる予定だから、塩尻駅で合流しようとなり、2歳と4歳の子を連れてバスに乗り、電車へと乗り継ぎました。その電車の
中で子どもが飽きてグズリだした時はハンカチで塔を作ったり、だまし舟をつくったりして乗り切ったり、又、電車に女優さんが乗ってきたのも楽しい思い出です。
北海道へ鉄道旅行。帰り道、雪で電車が動かなくなってしまったことも良い思い出です。
子どもの頃、母の実家(大分県)に帰省する際、JR日豊本線(?)に乗っていると、元国鉄社員だった祖父の知り合いに偶然会うことが何度かあり、祖父の話やお世話に
なりました…などと話しかけられているのを聞いていて、おじいちゃんってすごいなあとうれしかったことを思い出しました。
高校時代の修学旅行での事。旅行会社の担当の方が日程を間違えて普通電車で新幹線の発着駅へ行き、たまたま自分のクラスはグリーン車にあたって初新幹線がグ
リーン車で京都旅行が出来た事です。
夫婦で行った、黒部アルペンルートの旅。夫がパーキンソン病なので、団体旅行が無理なので、旅行会社に頼んで、すぐ近くの駅からスケジュールを組んでもらいまし
た。松本駅から歌で有名な「あずさ2号」に乗った時は、二人ともうれしくて感動しました。
私が大学1年生の時、新潟の友人宅に向かう列車の中で老夫婦と知り合いになりました。遠くで生活をしている息子を思い出すと言う老夫婦にお弁当をごちそうして頂い
たことがあります。その時のお弁当の味をいまでも忘れることがありません。
地区の班旅行で参加した大井川鉄道の旅です。窓から見える大井川や紅葉に彩られた奥大井の山々。その中を黒い煙を吐きながら近R強く走り抜ける蒸気機関車。家
族4人で参加した15年前。目を輝かしていた子ども達。子ども達が独立した今、主人と二人でのんびり再度旅してみたいです。
宇奈月温泉トロッコ電車、まるでアドベンチャー施設のようだった。
10代の終わりに夜行寝台列車で名古屋から熊本まで一人旅をしました。眠れなくて通過する駅の明かりを見ながら旅の気分を味わっていました。
初の新幹線乗車、最後のSL乗車 当時、名古屋市立高校の修学旅行の定番は、中国、四国地方。初日は新幹線で新大阪へ、その先は山陽本線で広島へ。最終日、岡
山から姫路までSL乗車え感動。その後、これが山陽本線最後のSLと知って、もう一度感動。今でも忘れられません。
今から35年前の大学生の時、周遊券を使って北海道に夏冬5回程行きました。節約の為、札幌を基点に釧路、網走、稚内を結ぶ夜行急行を乗り継ぎ、宿代を浮かしまし
た。体力的にキツかったですが、今は廃線となった所も多く、乗っておいて良かった。学生時代の懐かしい思い出です。
東北新幹線に初めて乗り、岩手、青森、秋田を旅行し、震災の復興がまだまだだと、忘れてはいけないと実感しました。
小学生の頃、九州への家族旅行で、寝台特急「あさかぜ」に乗車。関門トンネルに入る瞬間を見逃さないように頑張って起きていました。睡魔に勝てず眠ってしまい、悔し
い思いをした記憶。小学生の私は、関門トンネルは海の中に入っていくので、直前は海が見えるばかりと…。
結婚30周年の記念に「箱根」に旅行に行きました。新宿駅から小田急ロマンスカーに乗車。車内で「これからも同じルートに乗ろうね」と二度目のプロポーズをしました。
東京から島根への出張。あろうことか最終飛行機に間に合わず、鉄道の旅を決意。乗り換えの岡山で銭湯に入ったり、真っ暗な中国山地を駆け抜けたり、エキサイティン
グな出張となりました。
広島に勤務中、九州新幹線が開業され、幸せにもJR西日本の試乗新幹線に乗れました。車両の素晴らしさに感動したのを記憶しています。
高校の鉄道旅行の時が、生まれてはじめての列車に乗り、一夜をかけて行った事と、電車のガタンゴトンの音と揺れにびっくりした旅を思い出します。
子どもが小学生の時、四国への帰省は飛行機であったが、寝台列車に乗りたいと息子に言われ、寝台列車で帰省することにした!瀬戸大橋を通過する時、橋から見え
る島々が綺麗であったことが印象に残っている。
子どもの頃の列車は電車ではなく汽車でした。窓を開けていると、手や顔がすすで黒くなったことを覚えています。今では考えられないですが…。
真岡鉄道カタコト機関車。以前、家族みんなで蒸気機関車に乗ってきました。今では少なくなったアナログの力強さ、「感動」でした。車内で揺られながら食べる駅弁も、と
ても美味しかった。今では家族みんなの良い思い出です。
社会人1年目、青森に住む友人にねぶた祭りに来ないかと誘われ、行く!と返事。しかし、飛行機も新幹線も満席。仕方なく大阪から夜行列車で向かったのですが、これ
がとても楽しくて!夜中の駅舎に寝台、初体験だらけでほとんど眠れないまま到着。思い出深い一人旅となりました。
在阪のあるプロ野球段に在籍していました。1人で入団発表に上阪する際、はじめての寝台夜行列車の旅と、希望と不安でなかなか寝つかれなかったのを今でも思い出
し、ハッと目が覚めることがあります。
小学生の時、友達3人でそれぞれの弟や妹も連れて、地元のローカル線に乗りました。駅員さんに「6人兄弟」と言って、楽しく話をした事をよく覚えています。だまされたふ
りをしてくれた優しい駅員さんでした。
初めて夫の実家に新幹線に乗って行った時に窓から富士山がとてもきれいに見えて感動しました。
車内で熱々のカニを食べた忘れがたい思い出。山好きの私達は新婚旅行でアルプスの裾野を廻る旅に出ました。常磐線、中央本線、大糸線、北陸本線、高山本線と乗
り継ぎ、高山市へ。当時(昭和20年代)じゃ街頭でカニを蒸しあげて売っていて、私達も熱々のカニを沢山買い込みました。名古屋に向かう車中で人目もはばからずお腹
いっぱい食べました。セータールックのラフないでたちだから出来た事かも。
古き昭和の時代に結婚した私達は田舎の実家で挙式を行い、朝から夜まで祝いの宴会で盛り上がり、新婚旅行の騒ぎではなく、次の日に急遽夜に行くことになり、その
時代はマイカー等はなく汽車でした。予定もなく急に旅行する事で旅先も決めず汽車に飛び乗り、途中汽車が終電で田舎の町に下りることになり、旅館も見つからず予定
の無い汽車の旅に苦労したのが、今更ながら列車を見る度思い出します。マイカーの無い時代の忘れられない鉄道新婚旅行でした。
女房に「自立しろ!」と言われて、初めて宿を決めず4泊の1人旅をした。東日本大震災の前の年の11月。気仙沼線や三陸鉄道等を乗り継ぎ、石巻から八戸まで陸中海
岸を北上した。お客が私1人しかいなかった電車内で若い女性車掌さんに恐る恐る話しかけたら笑顔で応じてくれ、写真も撮らせてもらった。楽しい思い出。だが震災でど
うなったか心配。また行きたい。
2泊3日の妻と九州旅行の出来事。空港で手荷物検査の時、1個の荷物の忘れ物に気がつき、そのまま飛行機で九州出発…添乗員にそのことを話したら連絡がとれ無事
荷物が届きました。年齢と共にどこか忘れているなと改めて決意しようと思いました。
【寝台車で、帰省】 小学校低学年の頃の話です。家族3人で両親の実家がある島根に、寝台車で帰省しました。私には個室が与えられ、1人で寝ることとなりました。夜、
トイレに行こうとドアを開けようとしても、開くことができませんでした。部屋のドアは暗証番号を設定し、鍵の開閉を行うもので、そのやり方がわからず部屋に閉じ込められ
ました。結局、呼び出しボタンで係の方に助けてもらいました。その日はドアを半開きの状態で眠りました。この経験が忘れられず、あれ以来寝台車には乗っていません。
20才のときに北海道までトワイライトエクスプレスに乗って行きました。電車での長旅、わくわくしておりましたが、酔ってしまい、ずっと横たわり、青函トンネルは夢の中
…。車内のフランス料理も食べられず…。悲しい思い出です。
帰省先の関西から東京へ戻る新幹線車中でのこと。検札が終わった頃「席を間違えてました」と私の隣へ移動してきた方がいました。そのエピソードがきかっけで話がは
ずみ、とても楽しい時間を過ごせました。この一期一会がいつか再会につながらないかとわずかな期待を待ち続けています。
会社の入社試験の際、台風接近に伴い、飛行機ではなく寝台列車で福岡から神奈川まで行きました。初めての一人旅行で期待と不安でドキドキしたのを覚えています。
私が高校3年生の時、学校の代表としてあるクラブの全国大会に出席する事になり、東京からたぶん岡山までだったと思いますが、生まれて初めて寝台車の安芸に乗っ
たこと、今では走っていなくて残念ですが、50年位たった今でも同行した先生、後輩のことを思い出します。
さいたまの大宮で電車が入線するとき、銀河鉄道999のテーマが流れるところがあった。さぞ大きな電車がくるものと思いきや、バスを6連につなげたようなかわいらしい
電車がきて予想外。近くに鉄道博物館もあるので、鉄道ファンにはたまらないのかも。
30年以上も前のこと、子ども2人と列車で帰省中、駅のトイレへ長男を…。戻ってきたらベンチで待っている筈の次男がいない!!ホームを必死で探し回ってやっと見つけ
ると、次男も泣きながら走って来た。列車は何秒か待っていてくれましたが私にとっては何10分にも感じられ、今でも時々思い出します。
子どもと2人で初めての新幹線、特急に乗り、帰省した時のことです。楽しく、子どもの成長を感じながら、話しながら過ごすはずが、私の仕事疲れ、久々の子どもとの会
話でイライラしてしまい、行きも帰りも子どもを大泣きさせてしまったことです。ごめん。
独身最後の東北一人旅。昭和40年、東北州有権が3500円だった。初めての一人旅、晴れ男の私は、天候に恵まれ、松島、浄土ヶ浜、奥入瀬、十和田湖の美しさに感激
しました。3.11の災害で、どんな風に変わってしまったのか、恐くて行けません。
中学の修学旅行で初めて新幹線に乗り京都へ。そして今年、娘も初めての新幹線で京都へ行きました。25年前の思い出がよみがえってきて、また京都へ行きたい気持
ちになりました。
はじめて友達と列車で出かけた時のこと。下り列車に乗らなければいけないのに、反対の上り列車に乗ってしまい、終点まで気がつかず、20分で行ける所に2時間もか
かって到着しました。約束していた方を待たせ、親にも笑われ、恥ずかしい1日でした。
今を去ること50年前、友人と二人でリュックを背負い18泊19日で回った北海道旅行です。どこまでも真っ直ぐ走る列車の旅でした。
昔々、私が短大生だった時。夏休みに友人の大学関係で安く泊まれる宿が下田の先に…。お金はなくても時間が沢山あったあの頃。各駅電車で下田まで行き、バスに
乗り換えて…の長旅。長い時間、電車に乗って…今ではできないな。若いからできたのねぇ…・。
息子の話ですが、小学校の修学旅行に行った時、もうすぐ京都に着く頃、担任の先生が、さあ、みんな降りてと言うのであわてて降りると、ひとつ手前の駅。自分たちのク
ラスだけ後から来た電車に乗って行ったそうです。先生の青くなった顔が目に浮かびます。
高校通学中に見た青森行きの特急「白鳥号」電車が憧れでした。それから10年後、札幌へ旅行した時、あこがれの「白鳥号」に乗車し、食堂車でランチを食べた事が、今
でも忘れられない思い出です。
中学の時の宿泊学習。青春18きっぷが配られ、班ごとに鉄道旅行。宿までの間に、班ごと途中下車。私の班は、きつねのお面を作った。事前準備をみなでした事。ドキド
キしながら電車に乗った事。たのしい、なつかしい思い出です。
久し振りに家族旅行へ新幹線で行きました。トイレへ行った時の事です。前に入っていた女性が無理矢理ドアを開けて出てきたので、私も無理矢理開けて、閉めてトイレ
へ入りました。その後、「トイレのドアは自動ドアなのに…」と恥ずかしくなりました。
昔、九州に帰る時に、寝台車でずっとバターピーを食べ続けて、気持ち悪くなり、それ以来ピーナッツが嫌いになった。
家族でユニバーサルジャパンに電車で行った際、30分だけ新幹線に乗る区間がありましたが、乗り換えの時間が非常に短く、子どもと母もホームに残し弁当を買いに
ホームから階段で下に降りて売店で物色していたら時間が迫り、みんなで私を探しにきてしまい、全員全力でホームを駆け上がり、新幹線に飛び乗って帰路につきまし
た。30分はぐったりでした。
寝台列車に乗った時、その日は疲れていたのか大いびきをかいて寝てしまった。自分のいびきで目が覚め、周囲の人のヒソヒソ声が聞こえてきた時は、とても恥ずかし
かった。
スキーで使った新幹線のグリーン車。とてもゴージャスな気分を味わえました。
50年も昔のことですが、家族で山奥の温泉に1泊で行きました。汽車の本数も少ないのに、私はベンチに帽子を忘れたので、ホームに降りて帽子を手にしたとたんに、私
以外の家族を乗せたまま汽車は出発してしまいました。1時間ぐらいたってから、下りの電車でみんながもどってきました。涙が止まりませんでした。
子どもと初めて電車に乗って動物園に行ったときのこと。子どもが3歳になって初めて電車で少し遠出してみようと思い、モノレールにも乗って行きました。動物園も楽し
かったですが、行き帰りの電車も楽しく、子どもを連れて初めてのモノレールは忘れられない思い出です。
初めての修学旅行。小学生の時、初めての汽車による修学旅行でした。新しい白いシャツを着てワクワクしながら行きました。ところが汽車はトンネルの手前で汽笛を鳴
らし、後、顔もシャツも真っ黒になりました。現在も、小中学生の同窓会では必ず話題になり、60代になっても楽しかったことを思い出されます。
出張で九州に行った際、九州の電車は個性的な車両が多く、プライベートの旅行でもう一度ゆっくり回ってみたいと思ったものです。なかなか実現できないが。
約4年前に、実家の両親を連れて、子どもの好きなSL(真岡鉄道)に乗りに行きました。母の出身が始発駅(真壁駅)近くであり、遠い記憶を巡って散策したり、目的駅の
益子駅で有名な益子焼祭りを楽しんだり、親孝行?しながら全員一日を楽しめました。
「アソボーイに乗れた」 熊本県で乗れるアソボーイに子どもを連れて行きました。車内にはキッズスペースがあり、遊ぶことができます。まだ1才半だったため、一緒に遊
んでいたら電車に酔ってしまい、途中で席に戻って普通の電車旅になりました。
里帰りして出産を済ませて福島→大阪間を帰る途中、台風が通過する間、新幹線が2時間ほど遅く到着。家族4人家に着いたらヘトヘトでした。当時は東北新幹線もなく
懐かしい思い出です。
子ども達が小さい時(10歳、7歳、3歳)、私の仕事が車両関係のこともあり、鉄道旅行をした。勝田→水戸から水郡線で郡山へ、郡山から新幹線で小山へ、小山から水戸
線で水戸、勝田へ。1日中機動車、電車に乗っていた旅だったが、子ども達は駅弁を食べたり、色々な車両に乗って、楽しい旅の一日だったです。でも疲れた一日でした。
寝台特急「サンライズ瀬戸」一度乗ってみたくてワクワクしながら乗車!!何度も「地震!!」と思って目が覚めました。
子どもの頃は、家族5人で車で外出が多く、中学3年生のときの修学旅行で東海道新幹線が友達とみんなで乗って楽しかった思い出です。
初めての一人旅は、足尾線で終点間藤まで行きました。渡良瀬線沿いを走る電車(まだ電化されていない)からの風景は、中学生の私にもとても記憶に残る旅でした。そ
れからというもの鉄道での旅鉄は続いています。
私の実家(熊本県)へ墓参りを兼ねて8歳の孫を初めて連れて行きました。羽田からの飛行機に乗るのも初めて、九州新幹線も初めてで(私も妻も九州新幹線は初めてで
した)「雲の上でフワフワしていて気持ちが悪い」が第一声でした。新幹線はきれいで座席も広く、速くて気持ちがよいと言っていました。
高校1年、2年と友達と「青春18きっぷ」で東北へ旅行へ行きました。女子旅ほど楽しい旅行はないですね。その後、社会人になってからは、飛行機のたびへ移行しまし
た。
家族での旅行は、いつも車で行くのですが、1階だけ列車で行ったことがあります。2泊3日のディズニーランドとディズニーシー、とても楽しかった思い出です。もう一度行
きたいです。
学生時代、帰省するのに使った夜行急行、すいている時はベンチシートを外して床に置いてベッドのかわりにして寝ていた。
今から25年程前になるかと思いますが、高崎駅から水上駅迄SL(D-51)が走るというので家族で水上へ行ったのですが、帰りの出発迄の2時間、寒い時期だったので時
間潰しが大変でした。
アメリカ(LA)へ7/15~8/15、30日間行ってきました。幾つかの目的を果たし、たいへんな緊張をしましたが、何とか無事に成田へ到着しホッとし肩の荷が降りました。
新幹線の無かった50年程前の若い頃、夜行列車を使っての、夏は登山、冬はスキーがブームでした。座席の下に潜り込んで仮眠しながらの旅行が忘れられない思い出
です。
たった一度の列車の旅 黒部ダムに向けて、たった一度の列車の旅をカミサンとしました。24年前の7月初めの事です。ダム下の扇沢は小雨、霧でダメだと思いました。と
ころがダムの天気は「晴れ」の表示盤があり、雲の上へ。そこは快晴で、ダムの放水や散策途中では雷鳥も現れ、感激でした。案内人によればこの季節3日に1日は下か
ら雨が降るとの事。幸運な一日を今でも時折思い出します。
中学の修学旅行で台風の為鉄道が立ち往生してしまい、長時間閉じ込められたあげく、近くの駅の簡易旅館に泊まったことがあります。帰宅して伊勢湾台風だったことが
わかりました。朝食はコッペパン1つでした。
大学生の時、イタリア横断鉄道旅行をしました。その時、知り合った黒人老婦人(アメリカ人)とはメル友で、今も交流があります。来年の春、日本に来られるそうで、案内
します。
去年、JR、近鉄を利用し、伊勢参りに行ってきました。もう一年になります。外は猛暑と人の列で、電車の中だけが涼しく快適でした。
JRがまだ国鉄と呼ばれていた頃、幼い私は家族旅行で新幹線に乗っていました。ものめずらしさもあり、食堂車に行ったのですが、その時に食べた「オートミール」のまず
かったこと。当時国鉄職員だった父も亡くなって、今年で32年、命日が近づくたび、あの時のオートミールの味が思い出されます。
大学浪人中の夏、当時国鉄が最後のSLを運行するため、乗りテツの私は北海道まで追いかけに行きました。その時の雄姿は今でもまぶたに残っています。これからも
頑張れSL!
電化されない頃の電車(汽車)の中、トンネルを出たときのまわりの方々の顔がすすだらけだった時の事を思い出す。
SLに乗って、桜咲く津和野の旅&小京都の旅はよかったね!歩いても見て歩ける街であり、良い街です。
今では鉄道連絡線がなくなったが、鉄道+連絡線の旅は、ゆったりしていた。宇高連絡線で食べた「さぬきうどん」はとてもおいしく、四国に近づいたな~という気持ちにも
なった。当時をなつかしく思っています。
高校3年生の夏。私の母校である熊本工業高校が、甲子園出場を決めたので、私は友人と鈍行列車を乗り継ぎ、15時間かけて熊本から兵庫まで応援に行きました。残
念ながら試合は負けてしまいましたが、男3人、青春18きっぷの旅。
2014年9月10日、せっかく行った北海道が大雨。いろいろな企画したものが中止になるなか、釧路湿原ノロッコ号だけは乗れました。本当にうれしかったです。
鉄道の二文字に心躍ります。昔の日立駅から統一周遊券で、北海道、九州、東北、四国をめぐりました。リュック姿はカニ族といわれました。楽しかったー!!
生まれて初めて乗った新幹線が、中学3年生の京都奈良方面への修学旅行の時でした。東京から京都までノンストップ特別列車で、友達とずっと楽しく過ごして京都に向
かいました。なつかしいなあ。
今年7月に社内の有志8名で、大分・湯布院温泉へ旅行しました。由布院までは、特急「ゆふいん号」で向かいましたが、最後尾の席で景色もすばらしく、何より車掌さん
に車掌用の帽子をかぶせてもらい、記念撮影には感動しました。
小学生時代、家族と新幹線に乗りに旅行した時の事。駅のホームから見下ろした線路を見て、「まくら木が木でないこと」「線路の幅が広いこと」に驚いた記憶があります。
高校生の時、京都へ旅行にいった時に電車でしたねー。初めて長い時間電車に乗ったけど、かっこいい添乗員さんがいたので、写真を撮ってもらったり、ワーワーキャー
キャーやっていたのを思い出します。
岐阜県に住んでいた20代の頃、実家に(九州)戻った彼に逢いに、年末、普通列車、新幹線を乗り継ぎ、大阪より寝台列車に飛び乗った一人旅。帰路は延々普通列車で
12時間以上。
黒部渓谷のトロッコ列車。見事な錦の山々、眼下には翡翠色の水、若き日の1日を今も鮮明に思い浮かびます。風の匂い、冷たさ、感動の言葉を著せないのが心残りで
す。もう一度行きたいとは思いません。記憶を大切にしたい、あの感動を!!
北斗星に乗る!! 容易に手に入らない北斗星の切符をやっと取得し、函館まで乗車。その後はレンタカーで登別温泉、洞爺湖、定山渓温泉、札幌、小樽、ニセコを廻
り、函館に戻り、再び北斗星で帰ってきた。北海道の自然の豊かさとグルメの旅を満喫し、懐かしく思い出している。
1967年頃、修学旅行で初めて新幹線に乗った車内で、機械から冷たい水を紙袋で飲んだ水のことが今でも忘れられない。
大井川鉄道SLと才又峡の秋 もう25年前のことになります。南アルプス南端の光岳を下山した時の思い出です。秋の才又峡温泉で一泊し、次の日、大井川本流を蛇行し
て走るSLで紅葉を見ながら帰路につきました。
カナダの鉄道で大陸を横断したこと。丁度秋の終わり頃で、気候も良く、良い記念となりました。
5歳の頃、母につれられ上野から八戸まで冬の寒い時期、車内は暖房が効きすぎて、熱くて気分が悪くなったとき、周囲の大人が親切にしてくれた。母と子の旅は、母の
実家へ帰るときのことでした。昭和26年2月のことでした。
今のだんなさんとまだ付き合いたてのころ、青春18きっぷで川崎から神戸まで鈍行列車で丸1日かけて行きました。行く時は仲良く行ったのですが、着いてからしょうもな
いことでケンカし、最低な旅行に…(泣) 今では良い思い出です。
子どもの頃、東京から秋田(小坂)の祖父母宅へ行く時に乗ったブルートレイン。朝もやの中の田んぼや風鈴が沢山下がっている駅など、目覚めてから到着するまでの時
間が素敵でした。
先日、プラレール好きの息子の誕生日に埼玉県にある鉄道博物館に行ってきました。食事をしながら大きな窓越しに見える電車に息子は大喜び。私も天皇陛下などが
乗った御料車を見て、その豪華絢爛ぶりに感動しました。
7年前ぐらいに、私がスランプになっていた時に娘と旅行に行きました!!とっても楽しかったのと、とってもハードな旅で、飛行機の時間に間に合わず、死ぬほど走らさ
れて、何とか乗れました。二十四の瞳のロケ地では、最終の船も出てしまい、私と娘とでヒッチハイク!!辛くも楽しい、忘れられない旅に!!
今年、「サンライズ出雲」のシングルに乗りました。ほんとうはツインに乗りたかった。
中学3年生の修学旅行は、市内の中学校全校で行きました。江ノ島、鎌倉、箱根方面へ貸切の専用蒸気機関車でした。車窓を開けて、全員喜色満面でしたが、黒煙で白
いシャツは灰色となりました。友達との二泊三日は、毎晩枕投げの夜と化し、女生徒のさわやかさは、53年後経って見ると、面影のある人は2~3人です。男子は少なく
なった頭髪を大切にしています。
初めての東北地方(秋田)のローカル電車に乗った時、車内で話す言葉がわからず、外国に来た様な気分でした。
遠い昔ですが、松島へ旅行した時です。丁度仙台で七夕祭りをしていたで途中下車して見学しました。いよいよ目的の松島へ行こうと、乗り継ぎ駅へ着きましたが、切符
が見当たらない。妻に渡したと責めましたが、見つかりません。私もあちこち探したが無い。仕方ないので切符を買おうとサイフを開けた所、なんとその中にありました。あ
の時を思うと、身の置くところがないのです。
何年か前に乗った只見線です。雪深く、車窓から見える只見川の絶景は時折思い出されます。
韓国のKTXに乗った時に、車内で日本スタイルでビールを飲んでいたら周囲に見つめられた(韓国ではない習慣)
旅行ではありませんが、初めて秋田から就職の為汽車に乗った時、15歳だった私は、サッサと車内に入ってしまいました。1年後、母が突然亡くなりました。見送りに来て
くれた母の顔が、今でも忘れられません。
大学入学に伴い、初めて半球電車に乗った時のこと、当時電車の色はシルバーか白だと思っていた私の目に、強烈な紫の車体が入ってきました。その時、当たり前と
思っていたことがそうではないと新生活に不安と期待の両方を覚えた瞬間でした。
大学時代、友達と北海道に鉄道旅行に行った時のことです。国鉄マンの叔父に鉄道関係の宿泊所を予約してもらいました。ある駅に隣接している宿泊所に泊めていただ
いた時、夜、みんなでボリボリボリボリ。最初で最後の(?)ノミ体験でした。
大月から河口湖まで、富士登山電車に乗りました。窓が額縁のようになっていて、富士山が絵のようでした。特に富士のよく見える場所では減速し、説明もあり、楽しい列
車旅でした。
ブルートレインで青森まで寝台車に乗ったこと。あまり眠れなかったけれど、初めで最後の思い出となりました。
息子2人は、鉄道大好きな子ども、いわゆる鉄です。今まで電車に興味のなかった私も詳しくなり、いつもなら車で行く所でも、電車を使うようになりました。新幹線や観光
列車にも乗りましたが、いつも車で行く場所に電車で行くのも楽しい、プチR旅行の気分になります。
まだロシアがソヴィエト連邦だった頃、出張でモスクワからキエフ(ウクライナ)に行きました。モスクワを夜中に出発した後、車窓から雪景色を眺めて、思わず「雪の白樺
並木…」とトロイカを皆で口ずさみました。しかし、ずっと変化の無い同じ雪景色で、ロシアの広さを感じました。到着時には太った女性の車掌さんが熱い紅茶をふるまって
くれましたが、今ではモスクワとキエフの間には国境があり、往来はどうなっているのでしょうか?
青春の思い出:アプト式機関車による峠越え。新潟上越から茨城に就職して、年に1回の帰省は信越線です。アプト式機関車によるゆっくり走る碓氷峠、夜行列車で早朝
に横川で信州側を掻っ込むと、故郷へ帰ってきたと、懐かしさと安堵感を覚えたものでした。鈍行も良かったですね。
今年4月、東北新幹線に初めて乗り、みちのくの旅が身近となり、残雪の八甲田山が更に大きく見え、2泊3日の旅でも余裕ありでした。
近場の温泉地しか連れて行っていない全盲の妹を楽しませようと思った。それは新幹線で「マグロ三昧の宿」の旅であった。車体を触らせ、次に車両間のドアと思ったら
自然に開いた。妹に理由を説明するのに苦労した旅であった。しかし、妹は新幹線の旅をとてもよろこんでくれた。大成功!!
昭和35年日立に入社した当時、笠戸工場の友達と一緒に鹿児島へ夜行列車で旅行に行ったことです。高千穂と指宿に2泊しました。座席で約10時間乗ってました。今で
は信じられませんが、でも仲間と過ごした旅は今も忘れられません。
昔、青森-函館まで、寝台車で行った時、狭く寝られなかったが、朝着いた時の景色の良さが、電車の疲労を忘れさせてくれました。
国鉄の時刻表を見ながら、東海道線大垣経由の夜行で京都に一人旅に行った時のことが今でも思い出します。
東京出張の際は、いつも特急「あさかぜ」を利用。当初は寝台で寝付かれず、モンモン…。よく車窓から夜景を眺めたものです。
夏、スイスの観光 氷河特急に乗りました。晴天、素晴らしい景色ですが、ガラス張りの為、暑くまぶしく、頭からスカーフをかぶって目だけ出して眺めました。(8時間位
乗っていたと思います)
50年程前、航行を出て会社に入社してすぐ、一人で四国旅行に行ったのを思い出します。色々な所に行って帰ってきたが、家に帰って財布の中身が150円しか残ってい
ませんでした。今考えると若気の無謀な旅行でしたが、懐かしい思い出です。
列車とバスの組み合わせのツアーの思い出話あります(いい話です)。バスの運転手(ツアー)が交通違反で罰金を払うことになり、命を預けている運転手さんの為に、ツ
アー有志で募金して2万円以上集まり喜んでました。
この3年間兄弟での旅行を心掛けている。一番上は86歳で、一番若いのが71歳の8人グループ。普段足腰を鍛えており、温泉宿での飲食より、名所、景色を見て歩くのが
得意。但し雨男、雨女が多いのか、天候に恵まれないのが玉にキズ。
伊勢神宮、二見浦、真珠の養殖… 小学校の修学旅行をたどって、一泊二日の旅に行ってきました。
30年以上も前、夜行急行がありました。金沢から東京(?)、時間調整で30分以上も駅に止まったまま。列車でしたので、ドアは開いたままではありませんでしたが、一両
に私一人。眠れず寒い一人旅でした。
定年退職を機に大井川鉄道のSLに乗りに旅行しました。桜の満開時期で桜のピンクと茶畑の緑がとてもきれいでした。ふる里の岡山で子どもの頃乗ったSLと風景に大
変満足でした。第一線を退いたSLと定年退職した自分が重なり、感無量でした。これからもSLのように力強く生きていこうと思います。帰りに立ち寄った○○湖(読み取
れず。日貫湖?)の富士山にも感動しました。
小さい頃、毎年夏休み家族で父の会社の寮、軽井沢の別荘に出掛けた。鈍行列車で、油くさい床に新聞紙を広げ足を投げ出し、冷凍みかんをほおばる。窓からの生ぬ
るい風に吹かれ、楽しみは峠の釜飯弁当。今はなぜかあの油くさい床のにおいがとても懐かしい。
関西方面が主流の修学旅行(中学)でしたが、わが校はなぜか東北でした。最後の夜は、青森からの寝台列車で上野に向かいます。青森の銭湯でサッパリして列車に乗
り込み、宿とは違う一夜を友と過ごしました。おしゃべりでほとんど眠らぬ身体に、早朝上野での解散が、何とも言えない思い出となっています。
子どもが赤ちゃんの頃から帰省をする際にはサンダーバードを利用していました。ちっちゃな頃は「サンダーバード」を「サンバーダード」と言い間違えていて、かわいかっ
たな~
今から50年は前になるでしょうか。汽車に乗って修学旅行、東京までガタンゴトン煙をはきながらシュッシュッポッポ3時間以上かかりました。窓を開ければススで顔が真っ
黒に、こすってまたまたヒゲが生えたり、楽しかったね!!今ではわずか1時間。進歩しましたね。
海外に不慣れで英語も上手く話せない者だが、台湾旅行に夫と行った。専らMRT(地下鉄)に乗って郊外まで行ったり近場にととても便利。英語は分からなくとも漢字は分
かるので、不慣れな地でも安心して旅することが十分にできた。むしろ日本の鉄道が分かりにくいなと感じる位…。
約50数年前の中学3年の修学旅行で、列車で日光に行きました。当時、旅館で食べるご飯の米を持ち込みで、私は大きな紙袋に入った米の運搬係でした。この係は、列
車の中の座席には座れず、デッキに米を置いたため、この番兵役として、ずっとデッキでの列車旅でした。それでも楽しい修学旅行でした。
仕事で全国各地を鉄道利用することが多くありました(旅行でなく申し訳ありません)。網棚に乗せたバッグから突然“大きな音”。当時、不審な荷物について敏感な時代。
バッグの中身は私が持っていた工具の音。車掌立会いでバッグを開けるとさらに大変なものが出てきた…。
子どもが小さいころ、廃線になってしまう路線に乗りました。旅行とまではいきませんでしたが、ふだん車にしか乗っていなかったので、子ども達は喜んでいました。その2
人の子も大学生、高校生となり、月日の流れを感じています。
定年退職後、趣味として始めた城巡りの旅。ある年の夏、若い人の特権だと思っていた「青春18きっぷ」を利用して、時刻表片手に作成した計画で4泊5日の行程で、東
海・北陸12城を巡った。移動はのんびり地元の人とのふれあいもあり、城見学は汗だくとなり、明知鉄道・長良川鉄道・九頭竜線など地方鉄道も楽しみ、良い思い出となり
ました。
電車で実家(山形)に。就職して初めて帰省した時に、山形に入った山の中の駅で停車→発車した時に福島にバックして、山形(米沢)の方へ再び前進しておどろいた(来
た方向へ戻るかと思った)
今から50余年前、高校を卒業し、田舎から集団就職列車に乗り上京した時の思いがよみがえります。故郷を初めて離れ、後にした気持ちは、期待と不安の入り混じった
複雑な思いで一杯でした。私にとっては初めての旅行とも言えるものでした。今では懐かしい思い出の一つとなっています。
箱根に家族4人でロマンスカーでBOX状に座って旅行に行くのが念願でした。ようやく実現し、離れて暮らす娘2人も一緒に、新宿からニューロマンスカーに乗り、久しぶり
に家族水入らずの楽しい旅行ができました。その時の車内の写真が、先日娘が結婚式をあげ、プレゼントされたアルバムに載っていたのが感激でした。
生まれて初めてグリーン車に乗りました。東京から岡山まで至れり尽くせりで、いつもの自由席と違って夢見心地の時間でした。その後の出雲大社もRichな気分で過ごせ
ました。
イベントで鉄道に乗りながら納豆を食べる(笑)のが楽しくて、家族でまた参加したいです。
初めて新幹線に乗った時、うれしくて、めずらしくて、東京から新大阪まで?寝ないで過ごした事。小学生の時の楽しい思い出です。
ケルンかウィーンに移動するときに、旅費をけちって夜行列車にしました。同室の旅行者と仲良くなって、3年経った今でも連絡を取り合っています。
小学生の時、初めて乗った寝台列車で大興奮して、夜景を見たりして、車内での旅を楽しんだ。初めて聞く車内放送は、なぜか心が落ち着き、安心して、いつのまにか
眠ってしまっていた。今は、寝台列車も少なくなったが、また寝台でのたびを楽しみたい。
小学6年生の時、駅弁が食べてみたくて、初めて友達と電車に乗りました。当時は4駅乗って行くことが大冒険で、駅弁にもとても感動したことを思い出しました。
小学生の頃に電車へ乗る前にころんでひざを打って血を流してしまったのですが、手当てする間もなくあわてて乗りこんで席に座りました。その時、前に座った方が私の
ひざを見て、持っていた薬を塗って、手当てをしてくれました。本当にありがたかったです。
小学生の頃「ミステリーツアー」に参加した。友人とお座敷列車に乗って、どこにつれていかれるのかわくわくした。3年ほど前、上越国際にスキーに行き、子どものころに
来たのがここだと思い出した。
新婚時代、身籠る妻と帰りの席がとれなく自由席で立って家まで帰ったのを思い出す。
空路、大分まで行き、そこから日豊本線で特急「にちりん」に乗車して宮崎へと向かった。しかし特急とは家、単線の上、カーブも多く、速度は30km位に落ちることも。更に
右は山、左は海に落ちるガケと、日本の秘境を感じながら着いた宮崎は太陽が近かった。
大学生の時、青春18きっぷで東京-鹿児島を往復しました。いろいろな駅で途中下車し、名物を食べました。乗換えで何もない駅で1時間以上待ったことも。ハードな旅で
したが、若いころにしかできない良い思い出です。
6歳の長男と初めて電車に乗ったのが、わたらせ渓谷鉄道でした。水沼温泉で折り返した帰りの電車の中で、だまりこんでしまった長男。どうしたのか心配したら、後で話
してくれたのが、渓谷がこわかったとのこと。線路ギリギリが谷なので、両足をつっぱって真剣な顔をしていたのを思い出しました。2年後に行った時は、少しだけこわかっ
たと言っていました。
今では普通に乗っている新幹線ですが、初めて乗った小学生の時は、あまりの速さに驚きの連続でした。特に、線路わきに立っている電柱の通過速度が速すぎて全く見
えなかったので、東京→京都の間、ずっと窓ぎわで通過する電柱を見定めようとしていました。
小学2年生の頃、初めて新幹線ひかり(こだま?)に乗りました。速度や景色よりも、車内の給水器の水がとっても冷たくておいしく、何度も何度も水を飲んで目的地まで行
きました。ちょっとした事ですが、幼心にとても印象に残っています(笑)
30歳の頃、クラブの仲間で能登へ旅行に出かけた。初めての寝台特急でゴトンゴトンと線路と車輌の音で寝付かれなかったが、翌日の能登の海岸を走った事が懐かし
い。
社会人になって一年目、初めて友人と会津方面に一泊旅行をしました。磐城西線、東線を利用し、ローカル線ならではののどかな風景と季節を感じながら、おしゃべりを
した事を思い出します。移動手段がほとんど車の今、時にローカル線に乗ってみたくなります。
戦争が終わって、列車はすごい混み様。幼児の私は、窓から何人もの人に抱えられて、おろしてもらった。母もたぶん窓から下車したのだろう。テレビで見るインドの列車
のようで、SLの石炭の上にも乗車していた。
今から47年前の20才の時、東京駅から長崎までの旅です。寝台車がとれず、普通席での長時間の旅、大変でしたが、朝長崎に着いた時の景色は、今でも思い出せるぐ
らいです。
(新幹線に初めて乗って) あこがれの東海道新幹線での旅行は、忘れられません。大阪、東京とわくわくしながら目まぐるしいスピードを身体で感じた事を思い出します。
車内でのお弁当もおいしかったです。
友達と3人で京都へ旅行で東京駅へ向かう電車でとちゅう止まった時に友達が売店へ…。そしたら電車に乗り遅れ私一人。あとから特急電車に乗ったらしく(別料金)東
京駅で合流できました。
北海道まで寝台列車の旅行に行った時、4人部屋だったのでドキドキしてたら、自分達だけしかいなかったのでのんびり幸せな時間を過ごせたのが忘れられません。
今年の2月に札幌の雪まつりのツアーに参加した時です。帰路は寝台特急「カシオペア」に乗車してきたのですが、明け方の5時(?)頃から動かなくなってしまいました。
大雪の影響でした。車内に閉じ込められましたが(10時間以上)、ベッドがあり、テレビがありで、何とか過ごせました。貴重な体験でした。
子どもが生まれる前に、夫婦で「北斗星」に乗り北海道へ行きました。初めての寝台列車にわくわくしました。狭かったけれど、うるさかったけれど、案外眠れたし、とても
良い思い出になりました。いつかまた寝台列車で旅行したいです。
孫からの一言 岡山の孫から、SLに乗りたいと電話、早速予約した。当時、SL山口号に出迎えを受けて新山口に到着、乗り場ホームは乗車人の多さにびっくりしながら
も、孫たちと記念写真に納まり乗車した。孫たちは、物珍しさで車内を駈けずり回るたびに、人様に迷惑をかけないか、ケガはしないかと心配であとをつき歩くのに疲れた
が、夕食時に「じいじ今日は楽しかったよ」の一言に心が癒され、楽しい思い出の引き出しが増えました。
両親の帰省 子どもの頃、信越線で上から信州へ。もうもうと煙をはくSLです。窓にしがみついて飛び去る景色を眺めました。横川駅のホームで釜飯売りのおじさんが走
り回っていたり、驚き一杯でした。
会社に勤めていて出張で利用した鉄道(駅)がテレビに映ると思い出し、家内ともう一度乗ってみたい。
<写真の中の思い出に触れて> 幼少期、宮城に住んでいましたが、思い出は、家族で地下鉄に乗っている写真だけでした。就職を機に仙台で一人暮らしを始め、地下鉄
に乗った時、家族写真とそこに映る家族の笑顔を思い出し、涙が流れました。今も、地下鉄に乗ると、家族の笑顔を想い出します。
2003年~2007年の中国駐在期間中、片言の中国語を覚えた2005年以降は、月に一度は夜行列車の旅に出ていました。中でも内モンゴルの蒸気機関車に会うため、北
京駅からの旅は忘れられません。当時の北京北駅は小さなチャペル風の建物で、薄暗いホールをゆっくりと離れる寝台車の中で、何ともいえない旅情を感じました。
小学校低学年の頃、気動車で遠足に出かけた時につり革に手が届くかどうか皆でやっていると、先生に一喝された。でも、少し手が届いただけで大人になったみたいで
大喜び。今は少しでも若くしたい。
常磐線で上野まで行き、新幹線に乗るために東京駅に行かなくてはならないので山手線に乗った。上野から東京まではすぐだなと思っていたのになかなか着かないから
おかしいなと思ったら、反対回りに乗ってしまった。けっこう進んでしまったので、そのまま東京へ向かった。数分の区間が約1時間かかってしまった。(20才の頃)
初めての新幹線乗車 EXPO’70万博を見に行くのにS45年に初めて新幹線に乗車した時は、速さと乗りごこちの良いのにビックリしました。車窓の景色がジェットコース
ターの様に流れていたのが今でも想い出します。
家族で初めてグリーン車に乗り横浜まで。くつろぎながら、子ども達は大はしゃぎ。とても良い時間でした。
昭和40年代の初め、まだSL汽車が走っていて、夏に真っ白のワンピースを着ていましたが、トンネルの中でススが車内に入ってしまい、鼻の穴も顔も白いワンピースもス
スだらけになってしまいました。まわりの人はいそいで窓をしめていたのに気づかなくて…。はずかしい思い出です。
“ぷらっとこだま” こだま利用で京都出発(住居)から広島へと、当時小4の末娘と二人旅しました。長時間かかりましたが、ガラガラ貸切車両で、西日本の新幹線駅名を
確認しながら。とてもゆったりした旅行ができました。
家族旅行で鳥取に行った時、岡山へ帰る電車が落石のため動かなくなり、一時カンヅメ状態。結局バスで移動となり、岡山での観光時間もなくなりました。今となっては良
い思い出です。
小学生の時、初めて1人で新幹線で名古屋まで行った。隣に座った若いおねえさんが冷凍ミカンをくれたのを今でも憶えています。
熊本へ行った時に九州新幹線に乗りました。内装がモダンで各車両ごとデザインが違うのです。予想以上の出来に満足しました。
娘と2人で新幹線に乗り、ジャニーズのライヴへ。アンコールを見たかったが、最終の新幹線に間に合わず、後ろ髪を引かれる思いで最終新幹線に飛び乗った夏休み
…。新幹線は便利だけど、最終が9時台はツライ。
高校最後の夏休み、友人とアルバイトしたお金で四国へ旅行しました。電車に乗り合わせた若い男の人と話をしたのがとても楽しかったです。あとで友人から親が国鉄勤
務なので電車賃が半額と聞いてショックでした。
かつて子ども達が幼い頃、福岡の実家に帰省する時には大変な移動でした。新幹線を利用したり、ブルートレインを利用したり…。混んだ駅のホームで迷子になったりし
て、ハラハラの里帰りでした。
学生時代の帰省は新幹線と在来線でした。自分の結婚式の一週間前、友達の結婚式の時、はじめて寝台特急に乗って小倉から鹿児島まで…。寝れなくて友達の結婚
式は眠くて…。今では楽しい思い出です。
高校の修学旅行は九州でした。行きは寝台車、帰りは新幹線。寝台車は今は無くなったブルートレイン「さくら」。女子校での貸し切り列車だったので、とても安全に、とて
も楽しく過ごせた思い出です。
小学校一年のとき、鹿児島本線の蒸気機関車に乗ったことが今だに忘れられません。トンネルの直前で窓を閉める叔父たちの動きに驚いたものです。
水上温泉へ行きました。そこで初めて「SL」にも乗りました。モクモクと煙を吐く姿が、とても力強かったです。その姿を、地元の方々が手を振って見送ってくれて「SL」なら
ではかな、と感じました。車内ジャンケン大会で優勝し、記念のキーホルダーをもらうことができました。こんなことも初めて。
大学生の頃、友人と夜中の電車に乗って大船から大阪まで行ったことです。青春18きっぷだったので、ずーっと普通電車!!夜通しおしゃべりしながら大阪までの長い旅
が印象深いです。若かったなー!!
15年程前、出張で青森に行った時、仕事の合間に青森から津軽海峡線で青函トンネルを乗車し、日帰りで函館見物やトンネルの長さを実感した事が忘れられません。
小学校の低学年の頃、初めて東京のおばの家に遊びに行くときに乗った中央線で初めて体験したスイッチバックを今でもはっきり憶えています。それ以来、機会があれ
ば電車に乗っています。
昨年、おばあちゃんの米寿祝をする為、8歳、6才の孫とその親と計6人で新幹線で九州に行きました。上の孫は新幹線マニア。下の子はこの旅行がとても心に残ったらし
く、又おおババに会いに行こうと言う。おおババと過ごした4日間は楽しかったらしい。米寿祝も食事、花束、プレゼント渡し、写真撮影と。上の孫は年2回おおババに会い
に大好きな新幹線で行っている。
私が20才の時、北海道の山に大学のワンゲル部で行きました。函館まで青函連絡船で渡り、札幌で味噌ラーメンを食べて、北大のポプラ並木を観て、一路旭川へ。SLが
2台連結されたライラックで異国情緒の大自然を勇ましく汽笛を鳴らし、煙をモクモクと吐きながら、コトコト走るライラック…。この時から鉄道マニアになってしまったのか?
2006年の11月、長男の結婚式がオーストラリアのケアンズで行われました。結婚式終了後、妻と2人で「キュランダ鉄道」に乗りました。キュランダ駅を出発し5分ほど行っ
た所のバロンホール駅というところで一旦停車をしホームに出て自然の雄大な滝を見学しました。滝は余りにも雄大でデジタルカメラのシャッターを押しっぱなしでした。そ
の後1時間ほど自然の雄大さに目を奪われ、写真もずいぶん撮りました。最後に最も有名なポイントに入りました。それはヘアピンカーブの鉄橋で列車が180度進行方向
を変える場所です。列車の前に乗っていたので窓から顔を出すと後ろの車両が数珠つなぎになっているのが見事に見られました。さっそくシャッターを押そうとしましたが
シャッターが下りません。おかしいなと思い調べたところバッテリーが切れていることに気がつきました。予備のバッテリーは持っておらず、一番記憶に残したい場面を撮
れなかった悔しさは今でも忘れられません。
中学生の頃、「まだ新幹線に乗せてあげた事がないから」と急に思い立った母が、突然群馬から東京への家族旅行を決行しました。1ヵ月後に私は修学旅行で京都まで
新幹線で行く予定だったので、なぜこのタイミングで思いついたのか…。と思いましたが、家族旅行はいついも車だったので、思い出深い旅行となりました。
岡山→箱根に行く際(今から30年以上前ですが)寝台列車で行きました。狭かったけど紺色のカーテンを閉めるとワクワクした記憶があります。懐かしい思い出です。
6月JR切符を使って道東のひとり旅を企画立案、道東の大自然に接し大満足!旅の当日、JR北で脱線事故が発生、青森-函館が不通となる。急遽フェリーに変更し、深
夜札幌に到着できた。急遽変更できた裏には車中で隣席の方々のアドバイスとスマホで乗り継ぎ時刻などを調べて頂けたからできたこと。これには感謝。小生を含め、
多数の方々がJR(東・北)の事故対応に激怒の声あり、でも津軽海峡を船で渡る経験は不幸中の幸い。今後も日本の素晴らしさを求める旅を続けたい。
夜行列車(ブルートレイン)に乗って、横浜-山口県岩国までの思い出が忘れられません。横浜でシューマイ弁当を買い、夕方に出発、夜間通過する駅、車窓からの眺
め、合席となった方々との会話等、思い出がたくさんありました。
息子二人共やっと社会人になりました。子どもが小学生の頃、旅行貯金をして、熱海温泉へ行きました。神戸から新幹線に乗りました。車内でお弁当を食べ、はしゃぐ子
ども達、本気で注意しない主人、ドキドキ、ワクワク楽しい旅でした。
私は50才代の頃、3人で大阪から丹後半島まで鉄道の旅でしたが、車内の中では女3人、ず~っとおしゃべりでしたので、車窓の風景など何もおぼえていません旅でし
た。
今も忘れられない思い出、それは、30年も前の事でしたが、私鉄と国鉄を走る珍しい特急「北アルプス」だ。都会の名鉄新名古屋と富山間を走る縦断列車、名古屋の地
下ホームにディーゼル音を響かせて颯爽と現れた列車に乗ると、電車では味わえない独特の振動と音に揺られ、名鉄新鵜沼駅から連絡線で高山線に乗り入れると景色
は一変した。紅葉の山麓と澄み切った清流に目を奪われた。いくつかのトンネルと鉄橋を交互に抜け、どんどん変わる風景が、まるで映画の様だった。今はもう、この特
急も連絡線も消えた。もう一度、今度は特急「ひだ」で秋の紅葉を楽しみたい。
若い頃、ユースホステルを利用し鉄道で日本全国を旅しました。北陸へ旅した時のこと、新潟方面から金沢を目指し、どこの駅で買ったか覚えていませんが、カニの駅弁
のおいしかった事。50年近くたった今でも忘れません。
当時4歳の娘は初TDLへ初新幹線で行きました。小学生になり、「また行きたい!」と言うので、よっぽどTDLが楽しかったのだと思ったら、車中でお弁当を食べられるから
だそうで…
家族でSL列車に乗って初めてSL体験し、体で感動し、音、振動、汽笛と、家族と子どもとの体験で忘れられないで~す。また機会があったら乗ってみたいです。
大学3年の時、友人とヨーロッパはドイツを中心に1ヶ月の間、バックパックを背負って放浪した。ユーレイルパスという欧州鉄道乗り放題のパスで色々回った。当時ベルリ
ンの壁が取り壊されて間もなかったので、東西ドイツの落差にがく然とした覚えがある。
40数年前のことですが、北海道の旅行に行くため、上野から夜行列車に乗りました。当時の常磐線は、横揺れがひどく、一睡もできなかったです。今はなつかしい鉄道旅
行となりました。
息子が7ヶ月の頃、天草で友人の結婚式があり、家族旅行に行きました。初めての長旅だったので、妻と何度も道中のシュミレーションをし、荷物もバッチリ!安心の
旅!!のはずだったのですが、真夏の熊本をナメてはいけませんね。38度の猛暑におそわれました。ホテルに着いたときのビールの味は、人生の中で一番ウマかった
かも…。
昭和39年、東京オリンピックの頃、東京出張は夜行列車で行ったものです。新入社員時代は、上司から座席で寝て行けといわれ、しばらくすると寝台車に乗る事が出来
た。いずれにしても朝着時に八重洲の朝風呂に入り、疲れを取り、仕事していた事が懐かしく思われます。
やはり中学1年生の時に友達と行った旅行です。初めて親のいない旅行でした。帰りの電車、小腹のすいた私は途中の駅でお菓子を買うために降りたのですが、間に合
わず。当時は携帯もなく親に大変心配をかけてしまいました。
高校の卒業旅行、クラス全員で2泊3日青春18きっぷで白浜方面へ行きました。一泊は電車で過ごした。若かったからこそできた、安くて体力のいる鉄道旅行。あれ以来
青春18きっぷは購入したことはない。
初めて新幹線に乗ったのが、小学6年生の時でした。トンネルが多いなあ。そして、停車する駅が少なかった事におどろきました。最近ではほとんど乗る事がないので、
久々に乗りたくなりました。
東北新幹線新青森までの“はやぶさ”でグランクラスに乗り、“のっけどん”を食べにだけ3人で旅した事です(笑) JR東北の企画で1万で乗り放題でしたが、グランクラス
は別料金ですので、ずい分高い食事旅行でした。
と言えば、定年になって家族(女房と娘)3人で行った北九州方面の旅です。特に三日目、福岡から湯布院への鉄道旅行は四国では見られない景色が多く、忘れられない
ものとなりました。
おととし妻と京都を訪れた際に乗った、嵐山のトロッコ列車が思い出深いです。景色も紅葉も美しかったのですが、イスが木だったためお尻が痛くなりました。写真を撮る
スポットで停まったりする列車だったので、また乗ってみたいです。
寝台列車で移動するのが好きで、旅行とは言わず出張にもよく使っていました。余り熟睡とは行きませんが、レールをカタカタと通過する音を聞きながらと朝日の車窓は
思い出に残っております。今では夜行列車も数が少なくなり寂しい限りですが、機会があればゆったりとした夜行列車の旅を楽しみたいと思っております。
はじめて1人でいとこの家に行った時のことです。小学4年生で岐阜から大阪までの在来線で2時間半ぐらい。緊張していたのに途中でウトウトしてしまい、目が覚めたとき
に乗り過ごしていないかドキドキしました。
学生時代、1人旅で久留米から普通列車を乗り継いで山陰線経由にて松江まで行った。海岸沿いをのんびり走る車窓から見る、きらきらと光る日本海の素晴らしい景色
が今も鮮明に記憶に残っている。今から40年前の事である。
新幹線にて、流れる景色をつまみにビールを飲むのが楽しみでした。注文は何故かいつもビールとカレーライス。ビュッフェが懐かしい。
今から20年程前、4人グループで行った初めての海外旅行(アメリカ)。ニューヨークで宿泊する予定が、夏休み中ということもあり、お手ごろ価格のホテルはどこも満室。
仕方なくボストンまで行って泊まることになり、アムトラックに乗車。流石、広いアメリカ。何時間もかかった。でも少しの緊張感と高揚感に包まれ、4人でおしゃべりに興じた
あの楽しい時間。格別の思い出です。
鉄道旅行はいろいろ楽しいことが思い出されますが、それと別に… 小1の頃、おじさん宅からの帰りの際、乗り物酔いをして洗面所で1人吐いていたところ、通りがかりの
誰かが背中をさすって下さった時、初めて人の親切を感じた事です。
東北出身の私は、三陸の鉄道からの景色が好きでした。復興はまだまだ途中。がんばれ!東北!
男三人で京都旅行に行った事かな。大原、嵐山、清水寺など秋の京都のもみじ色があざやかで目に焼きついています。機会があればもう一度行ってみたいです。
ブルートレインがなくなるというので、鉄道好きの夫と子ども3人と2段ベッド向かい合わせに乗りました。末っ子が幼児だったので、私はせまいベッドに2人で。きゅうくつで
よく眠れなかったけど、良い思い出になりました。かわいかった末っ子も今は小6、大きくなりました!
50年前3月 東京→東海道→大阪 中ノ島公園野宿(寒い)→京都→奈良シカ公園公衆トイレで一泊(寒い) ほんとにさむい 四国→九州をまわって山陰(鳥取へ)、大雪
になり列車が立ち往生のため、東京に戻れないため車中一泊。次の日少し動きまた泊。少しずつ少しずつ行って金沢へ。そこからなんとかして大阪へ。できたばかりの新
幹線で東京に戻れた。
東京から仙台方面へ向かう新幹線で自由席に座れなかったとき、出入り口付近で旅人らしき方とずっとお話していました。「人と話さなきゃ損だよ」と言われ、感心したこと
を憶えています。
昭和46年、当時札幌に住んでいた私は、親父の故郷の鹿児島の隼人まで、2泊3日の鉄道の旅をしました。2泊3日とは、片道です。青森-上野間と大阪-鹿児島間の2回
寝台車に乗った記憶とともに、函館-青森間は青函連絡船に乗った記憶は鮮明です。6歳の私の大旅行でした。
<関東サイコロの旅>入社1年目の夏休みに会社の同期と関東サイコロの旅をしました。これはある番組の企画にあった“サイコロの出た目で行き先を決める”というもの
で、JRの青春18きっぷを購入して、1泊2日で様々な地へ行ってはまたサイコロを振るという楽しい旅でした。
小学6年生の時、水戸から福井までの始めての1人旅。名古屋駅の始発電車に乗って、次第に明るくなってくる車窓がとてもきれいで印象的でした。ドキドキワクワクしま
した。
1993年、茨城県から山口県へカートレインで帰省した。帰る日は台風が接近しているというので乗車駅の広島駅に急いだ。早目に到着し車を貨車に積み込みホッとした
が、肝心の小倉駅発のカートレインが来ない。台風の影響で途中駅で停まっていた。駅で一晩過ごしたが、カートレインは来ず、車を置いて新幹線で帰り、東京の子ども
の下宿先で待ったが、帰ってきたのは2日後。炎天下の車の中、みやげの野菜や果物は腐っていた。
青春18きっぷで5人旅。ゆったり楽しい旅でした。
私が幼い頃のことです。旅行と言う程ではありませんが、住んでいた最寄の駅から母の実家のある駅まで鉄道でおよそ60分の旅。私たち家族はキッチンを別にするとあ
と2間しかない狭い市営住宅に厳しい姑、両親、子ども3人がひしめき合って暮らしていました。3人のおばがひんぱんに出入りし母は全ての家事を1人でこなしていまし
た。父も厳格で子ども心にも恐い存在でした。行きはニコニコ顔の母ですが、帰りの列車の中では涙が音もなく止めどもなく流れて、大好きな祖母とさよらならしてきた私
は言葉も出ずただ旨がギュッとしめつけられるようで、母の顔を見つめるばかりでした。
高校卒業の記念に女友達と東北本線で那須に旅行したことです。黒磯駅で長い待ち時間を時間がありあまる私達は多くを語りました。
私の誕生祝にと推理小説好きの主人が選んだのは寝台列車「カシオペア」での北海道旅行をプレゼントしてくれました。十津川警部こそ現れませんでしたが、意外にゆと
りあるベッド、車内での食事など、十分楽しみ、朝方、北海道の海が出迎えてくれて良い思い出となりました。
新婚旅行の帰りの新幹線で! 飛行機で海外旅行に行き、帰りの新幹線のことは考えていませんでしたが、義父が予約をしてくれていました。このとき初めてグリーン車
に乗りました。疲れた体に義父の優しさが身にしみました。
結婚前のあいさつで妻の実家へ行く日、起きたら乗る予定の新幹線が出発する時間でした…。あわてて後続の新幹線に飛び乗り、向かいましたが、約2時間、車内でどう
言い訳すべきか考え続けていました。それ以来、寝坊はしていません。
出張先で反対方向の列車に乗り、気付いた時には全く見知らぬ土地に。戻る列車も1時間後と、思わぬ鉄道旅行となりました。
35年前、職場の旅行で夜行列車に乗って東京から長野に行きました。職場の仲間と酒をくみかわしながら、時の経つのも忘れて、ワイワイと楽しい話をしたことが忘れる
ことができません。眠い目をこすりながら、重い足取りで、善光寺や戸隠高原を見学したのが、良い思い出となっています。
小学校の修学旅行で乗った、甲府から東京まで乗った電車の中で、仲間と線路の音に同調してガタガタガタン、ガタガタガタンと窓際の木部を叩いて調子を取った事を60
才過ぎても憶えています。電車に乗って東京に行くのが初めてで、心躍って新鮮だったのだと思います。
両親の還暦祝いで熱海に行った時のこと。5ヶ月の娘にとっては初めての新幹線。いとこ(3歳と8ヶ月)2人も一緒ということで、おチビちゃん3人が周りのお客さんに迷惑を
かけないか、気が気でない数時間を過ごしました。なんとか無事に過ごせたのでホッと一安心。
昭和50年代、まだ山陽新幹線が開通していない時、ブルートレイン「あかつき号」で大阪→鹿児島約15時間かけて、お盆休みに帰省したことを懐かしく思いますが、子ど
も達もその時は楽しんでいたのに、今では「あまり記憶にない」。2、3歳の頃やから、仕方ないかな。
50年以上前の事ですが、山陽本線で家族旅行に出かけた時の事、蒸気機関車で座っていて、トンネルに入る前に父が「トンネルだ、窓を閉めろ!」抜けると開けて、又、
トンネルが近づくと父の合図で必死で閉めたのを思い出します。
学生の頃に青春18きっぷを使い、広島から京都へ遊びに行きました。まだ10代で初めての一人旅で、時刻表を見ながらドキドキして行ったのを憶えています。京都で友
人と会い、少しほっとしました。
中学校の修学旅行で大阪-東京間を修学旅行専用列車「希望号」で貸切りで行きました。国会議事堂を地元出身の議員が案内してくれた思い出があります。
どうしてもがまんできずに電車からおりて駅のトイレに行ったら、その間に待ってるはずの家族がいなくなっていた。
主人が茨城に4月から単身赴任になって、はじめての夏休み、20才と16才の息子と普通列車でお迎えに…。20才の子が青春18きっぷで旅行後で、まだ1回分券が残って
いたので、思い切って行く事に…。帰りは皆で主人の車で帰ってきましたが、ゆったり電車の三人旅を楽しみました。遠くで頑張っている主人に感謝!!
家族で福岡から別府までローカル線で、温泉観光旅行に行きました。車と違って、ゆったり、車窓からの眺めが素晴らしかった事を思い出します。ちょっぴり親孝行させて
頂きました。
小学生の時に、北海道まで夜行で青森まで行き、連絡線に乗ったのですが、青森のホームで船に乗り遅れないように急いでいたのに吐いてしまったけど駅長さんに助け
てもらった。
40年以上前、上野から常磐線の特急に乗って食堂車でビールを飲んでいたとき、揺れが激しくて飲み終えるまでビンを持ちっぱなしで旅したことが懐かしいです。
今は廃線となってしまった電車が、私が初めて乗った思い出の電車です。大好きな祖母と2人で、今思えば、たった10分の出時間でしたが、夢のような時間でした。今度
は子どもにそんな夢の時間を与えてあげたいと思います。
初めて乗った新幹線で駅弁を買うためにホームに降りている間にドアが閉まってしまい、駅に置いてきぼりになり途方にくれた高校生の時の苦い思い出があります。
夏休みに京都に夫婦旅行を決めた後、妻の妊娠が。そのまま行ったのですが、暑さとつわりで…。違う意味でわすれられない鉄道旅行になりました。その時の子が来年
成人式を迎えます。
仲の良い夫婦3組で青森へ旅行した際、夕方の新幹線に乗車し、車内販売で夕食予定が全て販売中止となり、実質13時から食事が一切取れず、空腹状態で東京駅迄
の我慢の旅となりました。今思い出すと良い思いでの旅行となりました。
若い時にスキーに行くのに夜行列車でスキーを抱きかかえて立って寝たことがありましたが、今の人にこんな話をしても信じてくれないかも!!
初めての鉄道旅行は卒業旅行での海外ツアーの中でした。とにかく友達とワイワイ騒いで、疲れて寝てしまい到着地についてしまったという事でしたが、鉄道旅行より友
達と一緒で楽しかったという思い出だけが残っており、一体どこを通ったのかさえ思い出せない旅行でした。
JRのレディースプランで、ちょっとリッチな温泉をリーズナブルに泊まれる平日プランを利用して、女友達と旅行へ行きました。2人とも、結婚前で独身生活最後を満喫する
列車の旅でした。普段は車で移動する道も列車だと景色がちがって見えたのを憶えています。
20代のころ、山登りの帰り、SLに乗りました。トンネルに入る前の汽笛に気付かず煙が中に入り、まわりの人に怒られました。
大学生の時ユースホステルを利用しながらブルートレイン、ローカル線に乗り、山陰-山陽を一週間旅した事。途中、山登りも楽しかった思い出です。
昭和25年夏、九大本線の由布院から南大分まで列車の最後部連結器の上、通路に腰掛けてトンネルの中を楽しみました(小学6年生)。煙と煤で大変でしたが良い思い
出です。
小さい頃、毎週日曜日になると列車に乗ってデパートに行っていた。でも、子どもはお金を払っていないと言って、母親はいつも立っているように言っていた。でも、空いて
いる列車では、靴を脱いで椅子に座り、お菓子を食べてもよく、この時すごく嬉しかったことを覚えています。
定年旅行で妻と一緒に東北新幹線、ローカル線で秋田の小安郷の日本秘湯の宿に行き、紅葉のきれいさに感動しました。今だに思い出します。
小学生の時、町田に住んでいて、新宿に出かけた帰りは必ず小田急ロマンスカーに乗りたいと母にお願いしていた電車の思い出があります。40年前ですかね…。
会社から休みがもらえて妻とスイス旅行をしました。ユングフラウでの鉄道はとても素晴らしく、秋だったのですが、上の方は雪ばかり、寒かったです。でも景色は最高でし
た。
寝台列車の旅 もう数十年前の若い頃、初めて夜行寝台列車に乗った折、薄明るい人気のない町中、真暗い山中を車窓から眺め、お酒を飲みながら、この先の人生に
思います。ふけった一晩。
初めて東北に行った時、県境のトンネルを越えたら雪国で、川端康成だ、と感激しました。
ずーっと昔、九州へ一人旅した。帰りは西鹿児島から東京まで特急列車、20時間以上かかった。長かった。
学生だった20年前、仙台の大学に進学した友人のところに遊びに行く為、日立駅から鈍行列車に乗りました。お金はないけど時間はたっぷりあったあの頃、一緒に乗っ
た友人と飽きることなく車内で語り、忘れられない旅です。
国鉄の東海道線が全線電化になった時に真新しい電車に乗り京都に行った時の車両のにおいを思い出す。
上野駅の改札口で遅れている友人を待っていると、背広姿のガタイのでかい男の人が近寄ってきて、威圧感のある口調で色々と聞いてくる。よくよく聞いてみると、家で
少年と間違えられたことが解り、社員証を見せて事情を理解して頂いた。20才過ぎているのに中学生に見られたことの恥ずかしさを抱え、友人とし旅行に出発しました。
2年前に日本一周の旅をした。その土地土地のお弁当を食べ、グリーン車の旅は快適そのままだった。
我家では、息子が旅行の荷物を1人で持てるようになったら電車で毎年1度は家族旅行をするという条件で、息子4歳頃から必ず行くようにしています。現在では息子も31
歳となりましたが、毎年行くようにしています。息子も電車が好きで、仕事も鉄道会社に勤めるようになりました。今は1人でどこまでも電車に乗りに行っているようです。子
どもの頃から電車に乗るのが楽しみだったようで、今も続いているようです。
20代の頃、まだ新幹線がなく、長距離の移動は夜行寝台車だった。寝台1階に寝ていたら、すぐ上のお客さんが飲んでいたビールをこぼして頭上からたれてきた。思わず
寝小便かと思い、ビックリした。
世界で最も美しい列車の旅と言われる「フロム鉄道」です。ノルウェーのフィヨルド地域を走る全町20km、1時間の山岳鉄道です。周囲の雄大な山々、滝、沿線の村々など
の素晴らしい景色に目を奪われました。また車掌さんが愛想良くて、カメラを向けるとポーズをとってくれました。
会社の仲間と、東北へお座敷列車へ、15年前に参加しました。1列車、貸切でしたので、飲んで歌って大ハッスル…。仙台へついた時は、皆フラフラ、観光もままならず、
松島の船の中では船酔いでさんざんでした…。
夏休み中の小5の孫が、江ノ島水族館見学の後、初めて自宅に1泊(1人で)してくれたことが家内(60代)とうれしかった。
子どもの頃は蒸気機関車でした。当然冷暖房はないので、夏は窓を開けていますが、トンネルに入ると蒸気が車内に入ってきて、咳き込むような事がありました(旅行の
話ではありませんが…)
東京から博多まで、主人より先に4人の子を連れて帰省した時、新幹線のトイレに1人ずつ連れて行って戻るとき、2人目までは何ともなかったのですが、3人目~4人目と
同じ母親が行ったり来たりしてたので、さすがに不思議そうな目で見る人が多かったです。この子達が今や父親母親になりました。新幹線をみると当時が懐かしく思い出
されます。
高校の修学旅行の時。初めての東日本方面への旅だったのですが、新幹線の車窓から初めて肉眼で富士山を見て、とても感動したのを覚えています。友達みんなで夢
中で窓際から写真を撮りました。現像したら富士山の写真が一番多かったです(汗)
福塩線(広島県)に乗って、スキー場へ行ったのがなつかしいです。低学年の私と5歳上の姉、2歳下の妹、母と祖母、祖父とゴトゴトと揺られ、電車を降りると一面銀世界
にびっくりし、とても楽しく雪遊びしました。30年以上経ちますが、次は私の子ども達と行ってみたいですね。
20代の頃、友人と山登りに行く列車の中で、ボックスシートの下に潜って床に寝たことです。
よく妻と旅行をしますが、いつも車で出かけます。昨年、初めて新幹線を利用して広島の宮島などに行きました。「旅の楽しみはおいしいものをいただく事」、おいしい食事
にはおいしいお酒が欠かせません。鉄道旅行は昼からお酒をいただけるのがいいなぁーと感じました。
オーストラリアのケアンズで家族全員で乗ったキュランダ鉄道に乗りワクワクした。とっても景色が良く、幸せを感じた。今から20年前の出来事!
昭和22年頃の小学校の修学旅行、まだ車など普及していなく、前日に近所の同級生2~3人でタクシーを予約、新幹線の中から見た富士山が、今でも目に浮かびます。
20才~30才かけて、夜汽車に乗って九州まで行ったり、北海道は寝台車に乗らず、座席を下に下ろして寝たりしながら行った思い出があります。
小学校6年生の時の修学旅行。東北新幹線で仙台まで。1クラス40名以上×6クラスというマンモス校だったので、駅の停車の短い時間で乗車する為に、グランドに新幹
線を見立てた白線を書き、何度も練習させられました。学年で一体感が生まれました。
子ども達がSLに乗ってみたいと言うので、2011年3F月の春休みにSLを予約しましたが、3.11の地震でガソリンが手に入らず行けない為、やむなくキャンセル。その後3人
の子ども達の予定が合わず今だに乗れていません。いつか家族で乗りたいです。
「念願(?)の九州新幹線に」 埼玉で生活している私達夫婦、生まれは福岡県と熊本県です。今年の春、法事で帰省先の久留米駅から熊本駅への移動列車を考えまし
た。ネットで調べると在来線は1650円で1時間15分、新幹線は3380円の20分です。料金と時間に夫々の重みがあり、どちらにする?と決めかねていました。が、駅に着い
たら新幹線ホームに居ました。斬新なデザインの車内の人となり出発です。あっという間に新大牟田駅を過ぎると、幾つものトンネルを抜けたら直ぐに熊本に到着した。
景色を楽しむ間もない、速くて楽しい新幹線の旅でした。話題として残りましたね。
娘が2歳の頃、主人が単身赴任をしておりました。春になり季節もよくなった頃、私と母と娘で主人の単身先に旅行に行きました。ホテルに泊まり、楽しく2泊した後、私達3
人は帰るので、主人が駅のホームまで見送ってくれました。2歳だった娘はパパに抱えられ、ちょこんと電車に乗せられました。思い出しても涙が出ます…。2年間の単身
赴任も無事に終わり、娘は10歳になりました。
青春18きっぷを使って鉄道旅行をしたこと!大学時代、友人といつ出発するかとか、乗り換えの鉄道がうまく繋がらないであまり計画より先へ進めなかったことなど、日本
列島をいろいろめぐったことが楽しかった。
大学時代に寝台列車「北斗星」に乗って、北海道に行ったことがいい思い出です。あの頃はバイト代を貯めて一番安い「ソロ」の部屋でしたが、今度は一番高い「ロイヤ
ル」にしたいです。
日光へ行く時のことです。押上の駅でホームが沢山ある事がわからず、千葉方面の電車に乗り、あわててひきかえして日光行きの電車に乗り遅れた3年前の思い出は、
都会を知らない田舎者そのものでした。
高校生の頃、夏休みに海に行く時に乗ったSLで、当時クーラーなんかついていない為、トンネルに入った時窓を閉め忘れて友達とススだらけになった顔をお互いに大笑
いした事を思い出します。
子どもの頃は、新幹線に乗るのが特別なことで嬉しく、夏休みに家族皆で新幹線に乗るのがとても楽しみでした。
家族で香川県に行った時、子どもがまだ小さく、新幹線の中で大泣きして大変!!その後もぐずり続け「子どもが小さいうちは旅行するんじゃなかった…」と後悔し始めて
いたら、乗り換えた次の電車がたまたまアンパンマンの列車だったんです!!列車の中でもアンパンマンがいっぱいで、子どもの機嫌もすっかり良くなり、楽しい旅行に
なりました。
幼い頃、両親とふる里から大阪に向かう列車は蒸気機関車で、トンネルを通過する度に窓を閉めていました。列車の中でいただくゆで玉子がおいしく、からをむくのも楽し
い思い出です。
“旅はネットを閉じて” とは言っても便利なスマホやタブレットは旅予約、時刻表代わりなど等手放せませんね。私の失敗は門司港の観光を終え、小倉から中津までのつ
もりでソニックに飛び乗りました。中津城の情報をネットで夢中の間に“次は別府ー、別府ー”のアナウンス。結局別府から折り返しで3時間のロス。中津城は翌日とあいな
りました。これも旅なんですかね。まあ歩いて観光中くらいはスマホは閉じたいですね。
亡くなった祖母と毎年私鉄に乗って海水浴に連れて行ってもらいました。発車の「ピー」を聞くと、いつも思い出します。
4/7、飛騨高山を旅行中、娘より孫が肺炎で入院したので来て欲しいと言われ、旅行を断念し仙台へ。下呂駅より高山本線で岐阜駅へ行く途中、満開の桜を見て美しさに
びっくり!!心がほっこり。今年は九州から東北まで桜の開花に沿って移動し、孫が退院してから蔵王まで連れて行って頂き、そこも桜が満開でした。
カートレイン 25年前には、名古屋から門司まで自分の車を積んで行ける「カートレイン」が走っていましたので、それを利用してマイカーによる九州一周を家族で行いまし
たが、帰りは台風に遭遇して大変な思い出になりました。
学生の時、一人で東北へ旅しました。あこがれの五能線の景色も最高でしたが、電車の中で出会った高校生男子が教えてくれた青森弁、津軽弁は、今でも忘れられませ
ん。一人旅の寂しさが吹き飛びました。
東北の四大祭を鉄道を利用しながら堪能できました。各祭に日立が活躍しているのにさらに嬉しさ倍増。計らずも○○さんと声かけて下さる社員の方がいて感激しまし
た。
大学受験の為、高校卒業を前に、開業して興味のあった新幹線に、長兄の付き添いを受けて初めて乗った。名古屋から東京への鉄道旅行であった。希望と緊張が同居
した旅行で、名古屋からずっと立ったままで行ったが、疲れはなかった旅でした。
30年以上前の話。両親の突然の入院の報を受けた私は、夜行列車で実家に急行した。幸い大事ではなかったが、縦・横・前後の揺れで眠れなかった事。又次の日、妻
子も夜行列車で私の後を追ってきた。駅に担いだ幼子2人の手を握って改札口を出てくる妻の安堵の表情は今でも忘れられない。
高校を卒業して、特急出雲号に乗り、東京で常磐線に乗り換えて、日立市に着いた時、当時23時間はかかった事を思うと、今は交通が便利になったかと思います。
就職が決まって、仙台から上のまで夜行列車で来て、日立市までの貸切列車に乗ったこと。日立駅前のガソリンスタンドのサボテンマークを見た時は、大変なところに来
たものだと思った。辺りから風が吹いて砂塵を巻き上げていたことは、その感を一層強くした。
高校生の時の事です。修学旅行の際後の夜に友達数人と酒を飲んでしまい、それが先生に見つかってしまいました。お陰で最終日は別行動。電車の座席も皆から隔離
され、口を聞くことも許されませんでした。今となっては忘れられない思い出です。
隣町の花火大会 これが私が友達とだけで行く初めての鉄道行です。短い距離ではありましたが、当時の僕たちには大冒険だったように思います。懐かしいです。
青春18きっぷで。 私は青春18きっぷが発売されると毎回利用します。主人が健在の時は、友人も誘って日帰りですと5人迄可能です。常磐線で仙台迄行き、松島迄足を
のばし、海と島々の風景を満喫して帰ってきました。
初めて新幹線に乗った時、あまりの速さにびっくりしました。車内で食べたアイスクリームがとってもおいしかったです。
以前、GWに家族と四国旅行をしたとき、はじめてトロッコ列車に乗りました。新緑の空気を思い切り感じることができ、忘れていたワクワク感もよみがえった楽しい鉄道の
旅でした。
十数年前、家族で北海道旅行をした帰りに、寝台特急「北斗星」に乗りました。当時小学生の子ども達は、北海道観光以上に楽しいものだったようです。
中学生になって初めて母の実家まで1人電車を乗り継いで行ったことです。優しいお姉さんが声をかけてくださり、お菓子を頂いたことが懐かしいです。
青年海外協力隊赴任中、時々任地からダッカへ列車に乗りました。屋根の上は辛いよ、と言われ客室へ…。暗闇の中、皆が席まで助けてくれました。子連れのママさん
から赤ちゃんを抱っこさせてもらったり、バスよりゆっくりのた旅、格別でした。乗り心地は??ですが♪
20代前半に友人達と常磐線の夜行列車で北海道へ旅行した事です。途中、青森県内で水害の影響でバスの代行区間があったり、北海道内では帯広-札幌間の夜行列
車では可愛い赤ちゃんの泣き声で一晩中起きていたことが忘れられない良い思い出となっています。
厄も通過した年ですが、親に連れられ山陽新幹線の試乗のことはまだ覚えているので、よっぽどのインパクトがあったのだと思う。幼稚園休んでラッキー。
北海道旅行の帰り、連絡線で青森につき、キップも買わず東京行きの特急に飛び乗り(40~43年前。あの頃は出来た)、満席なので盛岡で降りてもらうと言われ、夜中の
2時ごろに降ろされてもとねばり、乗務員室に連れて行かれ、疲れて座ったまま寝ていたら空席があったので、移動してくれといわれ、無事帰ってきた。
中学の修学旅行での帰りの新幹線の中、行いが悪かったとして、小田原に到着するまでずっと怒られていた。正座させられたのを思い出しました。今となっては、それも
思い出です。
入社してから5年目に自分の研究開発した耐寒性バッテリーに関して、生まれて初めて北海道の札幌をはじめ、帯広、北見のユーザーや代理店を訪問し、極寒の美瑛町
での立会試験に成功し、真っ白な大雪原を走った(特に帰り)鉄道旅行が目に焼きついています。
昨年、寝台特急北斗星に乗って、函館に旅行したことです。夫がサプライズで計画して、親子6人初めて電車に宿泊しました。電車の中をいろいろ見て回って、こんなふう
になっているんだと感心させられました。夜明けの海や、外の景色を楽しみました。帰ってから職場の人に「なかなか切符取れないよね」といわれ、殊更感謝しました。函
館もとてもよかったです。
旅行の帰り、車内販売の駅弁を楽しみにしていたが、乗客が多く、夕食時であった為、完売で買えず、5歳の娘の悲しそうな25年前の顔を今でも思い出します。
新婚旅行で自分が作った電車に乗りたいと言われ、わざわざ海外に行き乗ってきました。うれしそうに中の説明をしていた夫が、1年後そこで働くようになり、いやでも乗
るようになったので、どうせなら違う所に行きたかったなーと思う今日このごろです。
仙台より埼玉に帰る時のこと…ホームにて姉と別れて帰宅する際、発車ベルが鳴り、慌てて反対方向の列車に乗り、気付いた時は盛岡で、他の列車に乗り継いで、無事
戻れたことでーす
今年の夏に、函館でSL列車に乗ったこと。友人が、もうしばらく走るのが見られなくなるとのことで、一緒に乗りましたが、実際に動いているところを見て感動した。またSL
列車が走るのをひそかに待っています。
30年前、毎年の帰省で四国高松まで出掛けていました。新幹線の車窓から横切る一級河川の名前を言い合いながら、岡山までマリンライナーに乗り換え、瀬戸大橋を
渡る時、きれいな風景がすばらしい。5分程の短い時間でもう少しゆっくり走ってと思うくらいです。最近は飛行機利用が多くなり、鉄道も良いなぁと思っています。
今年の夏休み、孫と近くの嵯峨嵐山駅からトロッコ列車に乗って亀岡まで行き、電車に乗って。帰りは保津川下りが台風の影響で中止になっていたので、帰りも列車に
乗って帰りました。孫が言った一番の思い出は、床が網になっていて鉄橋の下に川が見えて恐かったこと。そう言えばそんな列車、私も初めてだった。
家族で行った北海道旅行で北斗星に乗ったことです。JRでトラブルがあり、出発時間が1時間ほど遅れたけれど、それも旅の一つの良い?思い出でした。
幼い頃、毎年夏伊休みに母の実家の丹波篠山へ一週間程遊びに行っていました。その頃はまだ煙をはく機関車だったので、トンネルに入る直前に皆窓を閉めて煙が入
らないようにしていました。閉め忘れたり遅れると、鼻の穴が真っ黒になった記憶があります。
昨年の夏、家族で四国に旅行に行った時、サンライズ瀬戸に乗りました。鉄道ファンの長男は大喜びで車内を端から端まで見て回り、夜中もラウンジに座って、真暗な外
を見て、それでも楽しんでいました。朝日が昇るのもいっしょに見ましたよ。
昨月末、夫婦と友人三人で京都、奈良の旅をしてきました。こだまでゆっくり、たっぷり歩いて見物が出来て楽しかったです。何回行っても京都、奈良はいいですね。
今まで電車(鉄道)は出張や遊びの移動手段という考えだった私ですが、縁あって結婚した彼は鉄道大好きな鉄ちゃんでした。それまではどれも同じと特に気にせず乗っ
ていたものも、車両の色や車内の様子、電車の作り、そして窓からの景色など、楽しめることの多さに魅力を感じるようになりました。これからたくさんの場所を鉄道旅行
で巡るのが楽しみです。
昔は旅行で新幹線に乗ろうとプラットホームで待っている時、新婚旅行に出かけようとするカップルと、そのカップルを見送る一団をよく見かけたような気がします。海外旅
行が主流の今、全く見なくなりましたね。
掛川-新前原(静岡)までの天竜浜名湖鉄道に家族で乗車し、子どもと一緒に一番前の運転席横に立ち、車窓からの景色をずっと眺めて楽しみました。迫力があり、臨場
感たっぷりでした。
黒部ダムに行く時に乗った「はくたか」のんびりしすぎておもしろかった。宇奈月で乗ったトロッコもおもちゃみたいで良かった。
愛知で兄の結婚式の帰りに、あこがれの新幹線のグリーン車に乗った(貸しきり状態)。あまりの心地良さに、乗車直後から終点まで寝てしまい、堪能できた?のか?
若い頃はリュックを背負って夜行列車で山登りによく行きました。山から下りてきて、有名な温泉めぐりをして帰省しました。若い時に行っておいて良かったと思います。
S48年年末、東京から鹿児島へ帰省中、帰途中、博多駅手前で列車事故に遭い、バス、列車に乗り継ぎ、帰宅したのは予定より8時間以上かかったこと。
イギリスに行った時、ロンドン⇔エクセター間を電車で移動しました。車内でも紅茶が売られていて、乗務員も休憩室の様な場所で紅茶を飲んでいました。さすが、紅茶の
国!と思いました。
大学時代に中国へ留学していたときのこと。修学旅行で上海-西安を列車で往復しました。片道48時間…寝てもさめても列車の中。三段ベッドの真ん中に寝そべりなが
ら、世界各国から集まってきた学生たちとお喋りしたりゲームをしたり。移りゆく車窓の景色にも旅情をそそられて、とても思い出深い旅となりました。もちろん目的地の西
安観光も素晴らしかったです!!
今、2歳になる娘は、3ヶ月のときに電車デビュー。乗っている時に丁度大泣きをしてしまい、私はアタフタしていたら、隣に座っていたおばあちゃんが一生懸命あやしてく
れました。すごく嬉しかったし、助かりました。おばあちゃん、ありがとー!!
子どもの頃、家族旅行に行き、電車に乗るとき、1人だけ置いてきぼりになりました。すぐに駅員さんが気づいてくれて、泣いていた僕を駅員室に連れていってくれました。
電車が好きだったので、少し得した気分になり、恐かったけどいい思い出になりました。
酪農体験のため別海町へ行くのに、夜、札幌を出て、朝、釧路に着く列車に乗りました。学生だったので宿泊費を浮かし、鈍行で電車賃も安く上げ、ウッシッシの私。でも
実際乗ってみると、一車両には私とおじさんの2人。ドキドキの旅でした。途中から車掌さんがひんぱんに往来してくれて、安心して眠りにつきました。
夫と私がまだ若かった頃。初めて二人で旅行を計画。大阪と神戸へ行くことにしました。私はとても楽しみにしていたのに、前日全く眠れず、新幹線でも眠れず。ホテルに
チェックインした途端、泥のような眠気に襲われ、翌日まで続きました。結局1日目と2日目の大阪で夫はちっとも楽しめなかった。もう二度と大阪には来たくないと怒り、3
日目の神戸でも不機嫌に。そんな思い出の大阪へ、結婚10年を機にまた訪れました。なんとまあ交通の便の良い所だったんでしょうね。とても楽しかったです。今度は神
戸ももう一度二人で行ってみたいです。
社会人になって初めて研修で大阪まで一人で行った時の事。研修も終わって新大阪の駅で迷いに迷って新幹線に乗り遅れそうになった事を、今でもドキドキ思い出しま
す。
我が家は子どもの頃車がなかったため、夏休みの旅行といえば特急電車で出かけていました。シートを向かい合わせに動かし、駅弁を食べながら窓からの景色を楽しん
だり、おしゃべりしたり…。なつかしく楽しい家族の思い出です。
結婚し、久し振りの里帰りで、子ども達、おじいちゃんおばあちゃんと新山口-津和野まで乗ったSLやまぐち号の旅が忘れられない。もくもくと出る煙、機関車の発した音や
力強さに子ども達もびっくり。客車のレトロな雰囲気もとても良かった。
38年前、高校の卒業旅行で東北に出かけた。鈍行列車の4人が座れる対面式の座席に座り、出発の前にリンゴを4人でまるかじり、旅への開放感とわくわく感でいっぱい
の古き良き時代でした。
独身時代、友人と北海道旅行の時、乗ったSL。すっごくかっこよくて…。沿道にはカメラマンがいっぱい!私もかっこよく撮ってね!と思わずポーズしたり(でも人物を撮っ
ているわけではなく…)。目的地に着いた時、顔や髪がすすで真っ黒に!洗うの大変でした。
昭和45年頃、会社の仲間で青森に夜行列車で行くことになり、駅から乗る際、満席で(夜中の時間帯)ドアから入れず窓から乗った思い出があり、なつかしくなりました。
れSY差の中も通路に紙を敷き、座っていた思い出があります。今では考えられないですね。
数年前、期間限定のSL列車に乗った時、ゆっくり走る窓の外は山や川そして石炭の匂い。窓の外は小旗を振って歓迎している人々に思わず静かに手を振ってしまった、
豊かな秋の一日でした。
修学旅行で初めて乗った新幹線に感動したことを今でもはっきりと覚えています(初恋の思い出といっしょに)
妻と行った北海道のツアー旅行でした。それ以前から楽しみにしていたのですが、旅行中に体調が悪くなり、私たちだけタクシーでホテルに戻った事。
5月のGW、息子と初めて行ったSLの旅です。1歳の息子が「おっー」と感動しながらニコニコ笑顔で乗っていました。うれしかったです。
まさに、今回ぴったりのタイムリーな鉄道のテーマ投稿です。今年の7月に東京の母を連れて九州の旅へ!86歳の母にはもう遠出は無理かなと心配していたのですが、
新幹線のグリーン車を使い、ホテル移動もレンタカーで、できるだけ歩かないで良い方法で、プランを立て、指宿では「たまて箱列車」も乗り最高の旅を満喫できました。母
の元気に大感謝です。
30年以上前、北京→西安→洛陽を汽車で旅した。当時23歳のOL。7日間のあわただしい旅行だったが、中国の乾いた土の色、洞窟のような人々の住居、何もかも珍し
く、そしてなぜか懐かしく不思議だった。
小学校時代、東京の叔父さんの家へ行く時、初めて見たおばけ煙突にビックリした。
独身の頃、女友達と行った列車泊の金沢の旅です。るるぶ片手に宿をとり、行き当たりばったりの楽しい旅でした。その頃はまだ列車も4人掛けのボックスの席があり、リ
クライニングもない硬いシートで夜中眠りました…。まあ、若いからあんな旅できたのでしょうね。今は絶対にムリです。
新婚旅行でイタリアに行ったとき、ローマからミラノまでユーロスターに乗りました。海外で初めて電車に乗ったので感激でした。景色も自然がいっぱいで、素晴らしかった
です。
社員旅行で京都へ行く新幹線の中で、大切な指輪を紛失し、車内を皆で探し回ったが見つからず。あきらめて席へ戻って仲間と談笑していたら、太ももの裏に違和感が。
でも席を立っても何もなく、ズボンを触ってみると、ズボンと太ももの間に指輪がはさまっているではないですか!!トイレに行った時に入り込んだようで、皆で大笑いし、
京都旅行もより楽しくなりました。
4歳の孫の「鉄道旅づくり」に付き合わされた。僅か15㎞のローカル線で「僕達は列車で行くのでジジは車で行って待っていて!」との要求に将来の思い出作りに役立つの
ならとかなり不経済なドライブをしてしまった!!
黒四ダムが完成した次の年、無尽の仲間10人と出かけ、あこがれのトロッコ電車へ。ワイワイ騒いでいたら突然の雨。吹き降りの中、カッパだビニールだとてんてこ舞い、
その時写した一枚、帰ってからその姿を見て、皆して大笑い。今も続いている無尽、時々話題にのぼり、なつかしく忘れられない思い出となっています。
嵐山嵯峨野トロッコ列車。桜の季節でその景色が素晴らしく忘れられません。帰りの保津川下りも一層の感激をくれました。今度は紅葉の季節に訪れたい。
20代最初の出張の帰り、新幹線の自分の指定席に外人の方が座っており、身振り手振りで自分の席だと伝え、ドキドキした。
ディズニーランドで置いてけぼり 小学生の頃、家族旅行で初めて乗った新幹線から乗り継ぎ複数回繰り返し、ようやくついたディズニーランド!しかし、当日券がなく、そ
のままUターン。今でも苦い思い出となった旅行でした。
55年程前になります。茨城県の日立工場に入社した時期、家族が福島県二本松市から東北本線、磐越東線、常磐線と乗り換えなしの準特急列車で赴任、そして帰省し
たものです。(その列車は数年後ダイヤから無くなりました)
愛知県豊橋をAM7:00に出発し、1日で角館のしだれ桜と弘前公園の桜を鑑賞し、いずれも満開でカメラのシャッターを切り続けた感動の1日でした。
帰省する時、今では飛行機です。前はブルートレインでした。朝夕の食事は食堂車で頂き、楽しく、ワクワクしていました。夜も寝台車で、ガタンゴトンと懐かしい思い出で
す。
子どもが幼稚園の時に、私も生まれて初めてSLに乗りました。大井川鉄道で雪見に出かけた時です。時代を感じてたいへん感動しました。気持ちよかったことを思い出し
ます。その時、名物車掌さんがいて大変おもしろい説明をしてくれたことが忘れられません。
新幹線やブルートレインの車窓から見る富士山に登山したいと思っていましたが、退職後66歳で念願かなって登山出来、以降72歳の現在迄、剣岳、穂高岳等すっかりは
まってしまいました。富士川からの車窓が原因です。
三世帯でつばめの旅(いつかななつぼしに乗りたいな…) “つばめ”が運行を始めて少しした頃、父がJR勤務でもうすぐ定年退職という事で、父、母、私、子どもとで“つ
ばめ”“ソニック”を乗り継いで、北九州-鹿児島まで旅行に行きました。普段は車が多いのでとても楽しかったです。
五能線の旅 五所川原からウエスパー椿山までリゾートしらかみ号で日本海の夕陽が海に反射しながら目に映る光景は、今も忘れられない思い出となっている。
カシオペアに乗り、北海道に行きました。夜行列車とは思えない程快適な部屋やディナーコースもすてきでした。近い将来なくなるという話ですが、もう一度乗ってみたい。
今から27年前、幼い2人の子ども達と4人で新潟の湯沢へ行きました。私も子ども達も始めてのスキーでしたので、支度の段階から楽しくて楽しみで楽しみで。子ども達に
とっては新幹線を間近で見られて、物凄い、何とスゴイ旅行なのか!親の目から見ても驚きと感動と興奮をどうしたら良いのかわからなくなる様に見えました。その後の
旅が終わるまで、夢の様な内容で、今でも忘れられない思い出です。
東北三大祭巡り 日立入社(1970)に日立から夜行十和田で青森へ。ねぶた祭り(キドカラーテレビの宣伝)を楽しみ、秋田へ竿燈祭り(額台に乗せる)に驚き仙台へ七夕
祭りでお願いして急行で日光へ戻った。途中で腹痛となりトイレの前にずっと立っていたことが懐かしい思い出です。
先月、ベトナム、ダナンからフエまでの南北縦断鉄道の旅へ行ってきました。フランス植民地時代の国旗の色の車体で古い列車です。37の室内、天井の壊れかけた扇風
機、トンネルに入ると埃で咳き込みます。堅い木の座席、窓は鉄錠網、3時間あまりの体験は、今のわが国では経験できないことで、とても良い思い出となりました。海の
色が澄んでいました。
子どもの頃、博多から京都への旅で、寝台列車に乗り、初めての二段ベッドに興奮して、上に寝ていることを忘れ、夢を見て「ふわっ」と浮いた時には下に落ち、目が覚め
たことを思い出しました。
家内と二人の海外旅行の際、フライトに間に合わすため、急ぎTGVでパリに向かったが、急に便意をもよおし、TGVのトイレの使い方がわからず大変困りました。
私がパートでためた預金で家族旅行に伊豆に行った時の家族の笑顔が20年経った今も忘れられません。川崎から東海道線で行きました。
30年位前、子ども達の希望により夜行列車で北海道へ。常磐線の寝台列車は3段ベッドでユラユラと興奮したのか、眠りつけず、早朝青森に着き、青函連絡船で函館
へ。寝台列車も殆ど廃止され、今となっては良き思い出です。
いまや高校の修学旅行と言えば、飛行機に乗って沖縄や海外等へという時代ですが、私のその時代は、当時住んでいた北海道から青函トンネルを通って青森へ行くも
のでした。列車に揺れながら楽しく談笑した頃が懐かしいですね。
50年前、友人と二人での東北一周の鉄道旅行、夜行列車は混雑しており、自由席は床にゴロ寝の時、親切な自衛隊に席を譲られて感激。翌日は東京オリンピックの開
会式を携帯ラジオを聴きながら、おいらせを歩いたこと。その友人と会っては思い出話にひたっております。
列車で新婚旅行に行き、ある観光地でカメラを置き忘れ、あわてて探し回り、やっと見つかった時の冷や汗と安堵感を思い出します。
子どもの時、鴨川に住んでいて、特急わかしおに乗り家族で2時間半かけて上京し、初詣をしたことです。昔は、加茂川にあまり物や店がなかったので、初めての東京に
はびっくりしました。
2006年に広島から青森・大湊まで当時小4、小2、年少の孫達に会うためフルムーンで旅をした。強風に揺れる列車に乗り大湊へ12時間の旅である。近くの釜伏山のス
キー場で遊んだ事は、今では宝物です。帰りには私のオーバーコートのボタンを引っ張り「帰っては駄目」と言った。その孫も今は東京の小学校6年生。兄たちと仲良く過
ごし誕生日にはお花を送ってくれる。“ありがとう”である。
子どもを連れて真岡鉄道、蒸気機関車に乗車しようとしたら、長男が高熱を出し乗れず、妻と次男は機関車に乗車し、長男を車に乗せ、車で機関車を急いで追いかける
際に駐車場で車をスッた苦い思い出。
主人と付き合っていた頃、青春18きっぷで日帰り旅行をしようということになり、出発しました。しかし主人は「~へ行った」というのは「~の駅に降りたor通った」という人な
ので、一般的な旅行とは違います。なので、到着すればゆっくり見学したり、名物を食べたりすることなく、常に小走り状態。今はそれをわかっているので主人とあまり鉄
道旅行に行きたくないです。
家族旅行で新幹線に乗った時、必ず食堂車でカレーライスを食べるのが楽しみでした。自分の座席にいるより食堂車のテーブルにいる方が長かったような…
今から20年前、当時70代の母と娘5人との初めての列車の旅。帰りの列車の中、母は急にお腹をこわしトイレが間に合わずおもらしをしてしまったのです。まわりに気付
かれないようにしていたのですが、乗客の一人が「いやに“くさや”の臭いがするな~」と言ったのにはさすがに動揺し、早々と列車を降りたイヤーな思い出。今では亡き母
のくさーい笑い話で楽しんでいます(汚い話ですみません)
昨年8月に青春18きっぷを利用して15日間の九州旅行をしました。福岡、熊本、宮崎、大分、長崎をめぐり、特に阿蘇山をヘリコプターに乗り火口見物をした時は最高の
思い出だった。
子どもの頃、家族旅行で何度もブルートレインに乗りました。寝台列車の夜の雰囲気は、幼いながらにもロマンチックに感じた事を思い出します。そして、揺られながら食
べた食堂車での朝ごはん。目玉焼きおいしかったです。
中学時代修学旅行の思い出です。当時八幡製鉄所の煙突から(7本あり)七色の煙が出ると言われ、車窓から見たものです。が、今では公害のおおもとで、すっかり煙突
がなくなりました。
5歳くらいのとき、4つ上のいとことD51に乗っておばあちゃんのところへ行った事が忘れられません。途中で駅弁を買い、食べました。45年前の事、5歳の子どもを汽車に
乗せるなんて、今の私には考えられない。昔は良かったのかな。
40年位前、父、姉夫婦、妹とまだ夜行の普通列車の頃、箱根の保養所に2泊3日の旅。途中乗客の乗車等で眠れず、朝着いた鎌倉の鶴岡八幡宮は静かで気持ちがよい
1日を迎えました。
以前、静岡から九州へ新幹線で旅行しました。九州の列車は車両もおしゃれで、室内もゆったりしてサービスが行き届いていたのが忘れられません。
故郷へのお墓参りの為に乗った寝台車「瀬戸」です。思いの他快適で、神戸付近で見た夜明けの風景を忘れる事ができません。
かつて仕事をしていた頃のこと、休日を利用しての旅行は往復共夜行列車。日中は目いっぱい観光をして、夜行列車の椅子で眠り(寝台ではない)、朝着くとそのまま会
社に直行して仕事する… 今ではできない、忙しくても楽しかった旅行です。
今から60年前、初めて東京の叔父宅へ一人で遊びに行きました。帰りは上野駅で常磐線に乗るところ、途中でおかしいと気が着いたのは、東北本線の間々田駅でした。
田舎者が間違って乗車したことを駅員にお話し、上野駅まで戻り、無事に日立に帰る事ができました。
新婚旅行「カシオペア」と「トワイライト」を利用しました。とてもぜいたくな旅行でしたが、今でもお料理、景色を思い出します。カードキーもアルバムに貼り、乗車記念にペ
アマグカップやキーホルダーも。現在も愛用しております。「トワイライト」が明年3月で終わってしまうのは残念でなりません。旅は列車でのんびりが一番ですね。
長男が1歳になり、私と長男と私の母と3人で初めての新幹線に乗りました。グズったりしないかとても不安でしたが、息子もとても嬉しそうで楽しく過ごせました。母にも親
孝行に少しなったかな♪特別な思い出の新幹線旅行になりました!
初めての幼稚園の遠足で電車に乗った時に好きなキャラクターのハンカチが窓から飛んでいき、とても悲しかったです。今は窓が開いている電車が少なくなり、今では良
い思い出です。
「父も喜んでくれたかな」 12年前のことですが、亡くなった父の遺骨を静岡の菩提寺に預けていたのですが、住まいの近くに墓園が出来、購入する事が出来たので、父
を迎えに母と妻、息子2人の家族全員、新幹線でやっと行けました。
旅行といえば、50年以上前の小学校6年生の時の修学旅行で、京都、奈良へ行った時、スケジュールの家計でおみやげを買う時間がなく、旅館の中だけで大仏の置物を
買った事だけが、記憶に残っています。
私夫婦と姉夫婦で旅行した際、男2人は喫煙所に、女2人は久々の旅行におしゃべりに夢中。目の前に止まった新幹線に、何も疑わず乗車、2階指定席へ向かったが2階
がない。間違いに気付き下車しようとした瞬間ドアがピシャリ!しまった!幸い次の停車駅で合流。その後、“ばかだなあ~”がつきまといました。今となっては良き笑える
思い出です。
新婚旅行でスペインに行き、特急電車に乗りました。1車両がバーになっていて、2人でビールを飲んだ味は今でも思い出のひとつです。外はずーっとオリーブ畑が広がる
のどかな景色でした。
テープカットを東京駅で見学したあこがれの東海道新幹線に、3年後、新婚旅行で初めて乗車でき、二重の幸せを感じる事ができた。
もう70年位前、太平洋戦争も始まる前であった頃、東京から大阪へは蒸気機関車が一等車、二等車、三等車の車輌を引いて十時間以上かかって走りました。父と母につ
れられて丹那トンネルを通るとき、急いで窓を閉めて煙を防いだのを思い出しました。
若い頃、大雨で京都から帰るのに途中で動けず一晩車内で過ごしたのが最初で最後の懐かしい思い出です。
入社した年、同期3人で青春18きっぷを使って金沢まで鈍行で鉄道旅行をしました。ただ、鈍行列車の乗り継ぎで移動時間が長いため、お尻が痛くなったことは今でも忘
れられません。
高校を卒業した後、友人と「これで制服を着るのも最後だから」と、制服を着て電車で行ける所まで行きました(確か秩父の方)。見知らぬ駅を散策し、これからの進路など
について放しながら帰途につきました。懐かしい思い出です。
大学院の卒業旅行でヨーロッパ旅行に行った時、イタリアからパリに行くのに寝台特急に乗りました。日本では味わえない、鉄道で国境を越えるという経験ができたことに
加え、同室に日本人の女の子がいて仲良くなれたのも良い思い出です。
はるか昔、家族との旅はすべてSL列車でした。大阪-金沢が多かったのですが、ススが車内に入るので、トンネルの度に開けたり閉めたり…!懐かしい思い出です。
東京オリンピックの年、中学の修学旅行で前準備として体育館にイスを並べ列車の座席を作り、4クラス全員が旅行かばんを持ち、乗り降りの練習をしてから青函連絡船
を乗り継ぎ北海道へ渡りました。
アジサイに感激 梅雨の季節に箱根登山鉄道に乗った時、左右の車窓から見えるアジサイに感動しました。
帰省した際に新幹線を利用しましたが、なんと1車両うちの家族以外におらず、貸切状態となったことがありました。車掌さんも好きな席に座ってOKですよ~との事でし
た。
中学修学旅行の時の寝台車の旅。東北への修学旅行の帰り、青森→上のまで夜行寝台車に乗りました。東北新幹線がまだ開通していなかった頃の懐かしい思い出で
す。海岸線の夜の景色が少し恐かったです。
列車の思い出は土讃線です。一家が高知で帰省の折には必ず乗りますが、小さな駅が増えていたり、沿線の水田や四季折々の花が気持ちをほっとさせてくれます。単
線なので途中の駅で10分近く停まったりと、のどかです。
大学生の頃、友人達と青春18きっぷで北海道まで(神奈川から)行ったのがいい思い出です。駅前の商店街のベンチや駅構内での野宿。今じゃ考えられないですね(笑)
岩手の三陸鉄道(北リアス線)が震災後に再開した時に観光に行きました。ドラマ「あまちゃん」の影響もありとても活気があったことを覚えています。
中学3年生の修学旅行、山形から東京まで夜汽車で行った。通路にむしろが敷かれていた。初めての長旅なので、ほとんど眠れなかった。
30年前、入社のため北海道の函館から東京上のへ青函連絡船と列車を乗り継ぎ行ったこと。会社の総務課長が日本酒を差し入れてくれて、同期の皆と飲んだ酒が忘れ
られない。
初めての九州旅行、ゆふいん号で前から2列目の席でたのしい旅行であったはずが、通路をはさんだ隣に来た客がタンスから出してすぐ着て来なのでしょう、ナフタリン
臭が強く、気分が半減。これから通勤電車でもいるでしょうね。
出張の帰りに乗った列車で、偶然同席した女子旅の女の子達と仲良くなり、何回か手紙のやり取りをした事が、良い思い出です。
旅行回数の少ない中で、羊蹄山の2つの顔を拝めた事がいい思い出です。ニセコ方面から来るまで見た羊蹄山、友人と小樽よりローカル線で出かけ、急に突然に現れた
荒々しい羊蹄山が忘れられない良い思い出です。
新婚旅行で乗ったカシオペア!暗証番号を間違えてドアが開かずドキドキしました。子どもが乗りたい!と言っていますが、ツインだから…と言ってあきらめさせていま
す。3人家族なので…
修学旅行で昔は列車の窓がしたから開けられ、友人が窓に立てかけておいたサイフが他の友人が窓を開けて落ちてしまい、少ない大事なこづかいを泣いていました。
九州産の器材を使った新幹線にGOOD!一度乗ってみたいと思っていた新幹線に、特に九州新幹線の車輌には心憎いばかりの逸品が使用されていて、特に洗面台に
小さな小物にも心憎いばかりの品物、ゆったりと故郷に一路!
本年8月、祖母がなくなり、当日の仕事を終え羽田-千歳経由札幌-旭川を列車で帰りました。祖母との思い出をかみしめ、深夜最終列車に間に合い式に参列する事が出
来ました。一人の考えさせられる旅でした。
急行「高千穂」と急行「佐渡」が一番思い出に残っています。高卒で上京し初の正月帰省で徹夜で東京駅地下に並んで乗り、20時間以上かけて通路に新聞紙を広げて苦
労して大分に帰った事。スキーで石打から東京に帰る際、2人の女性と同席し、運よく電話を聞きだした1人が今の妻です。もう1人は今頃どうしてるかな~。
何年も前、中国に旅行した時、西安から北京まで寝台列車で移動した。夜、二段ベッドの下の寝台から窓を通して見えたのは、満天の星空。気分はまさに銀河鉄道だっ
た。
中学の修学旅行は、東京オリンピックの年で、行き先は東京でした。乗ったのは、修学旅行専用列車「おもいで号」でした。田舎者ばかりの学生だったので、このようなき
れいな列車は初めてなので、皆で座ったとたん、喚声を上げたのが思い出されました。
ハネムーンで行ったフィンランドのサンタクロースエクスプレス。シャワー付の個室だったのですが、ほぼ水しか出てこず…。北極圏で水シャワーはきつかったですが、良
い思い出になりました。
鉄道が好きな息子の影響で、母親の私は「鉄ママ」になってしまいました。車で行った九州旅行をした時、どうしても九州新幹線「つばめ」に乗りたくて、1区間だけ乗りまし
た。内装がカーペットにもつばめの絵。窓にはのれん、日本風の広々とした座席に感動!九州はまだまだ乗りたい鉄道があるので、また行きたいです!!
(不安と期待のブルートレイン) 会社に就職の為、親友と一緒にブルートレインに乗り、下関から東京まで行きました。旅行とは言えないけれど、楽しい時間を過ごしまし
た。
中学の修学旅行で乗った夜行列車
昨年、東北旅行を計画し、大宮駅で東北新幹線はやぶさと秋田新幹線こまちが連結してホームに停まっているのを見た時、カッコ良さに圧倒され、ワァーと声を出してし
まいました。そしてはやぶさに乗り宮城、蔵王方面へ旅行し、又はやぶさに乗り仙台から帰ってきました。
昭和46年、就職の為大分から横浜に特急「富士」にて18時間かけて移動しました。18歳でした。当時の二等寝台は三段で、一番下の切符を持っていたのですが、おばあ
さんが三段目なので替わってあげました。その日は雨で一晩中屋根を打つ雨音で寝られなかった思い出があります。大昔の思い出です。
電車好きな息子を連れて、大井川鉄道にSLを見に行きましたが、あまりに迫力のあるSLの汽笛におどろいてしまい、泣き出してしまいました。早々に帰宅しましたが、い
い思い出です。
旧信越線の碓氷峠のトンネル時代に蒸気機関車から出る石炭の煙で顔を黒くしながら窓から顔を出して母の実家のある小諸まで行った、あの煙のにおいが忘れられな
い。60年近く昔の思い出。
子どもの頃、母の実家へ遊びに行く為、寝台列車に乗りました。姉と一緒に列車の小窓から観た星空が忘れられません。
38年前、東京発で九州まで寝台特急で行き、うれしさとガタンゴトンの音で一晩寝られませんでした。おかげさまで着いた日のバスの中はほとんど寝ていた事を思い出
し、懐かしく思います。いっしょに乗ったライバル社の人と楽しく旅行できました。
蒸気機関車に乗っていた人たちは、70歳以上?今の子ども達は知らない子が多い(めずらしいだけ)ゆっくり、のんびりの列車が良い。
人生初のグリーン車。30数年前の新婚旅行で北海道へ行く時、東京まで新幹線で移動しました。初めてグリーン車に乗り、そのゆったりしたスペースに感動したものです
が、その後60過ぎになる今までグリーン車に乗ったことがありません。
20年前、新婚旅行でイタリアに行き、ローマからミラノまで電車に乗りました。日本人は私と妻だけで、電車の中はイタリア人ばかり。治安も悪いと聞いていたので、ハラハ
ラしながらの車中でした。
学生時代、青春18きっぷを使って東京から香川まで旅行した。長旅であったが、香川で食べるうどんは最高に美味かった。
大学生時代の女二人ローカル電車の旅。夜行列車や普通電車を乗り継いで、長野の松本→鳥取、島根まで。砂丘と出雲大社を目指しました。行き当たりばったりでバス
に乗ったり、現地で宿泊したり、2人だったから出来たこと。縁結びを願った二人ですが、現在はそれぞれ家庭ができ、幸せな毎日を過ごしています。
3年前の2月北海道に嫁ぐ娘と妻と三人で鹿児島に旅行して「指宿のたまて箱号」に乗りました。沿線でたくさんの人達が手を振って歓迎してくれました。
主人が単身赴任の時、お互いの中間地点の途中の駅で待ち合わせて、知らない街でデートをしました。新鮮でドキドキしながら駅で待っていたのを思い出しました。
1960年代の中央線(甲府-新宿) 私がまだ小学1年生の頃、初めて両親と一緒に中央線に乗って東京へ行きました。勝沼からトンネルが多くなり、トンネルに入るたび恐
い気持ちになり、無事通り抜け出来るよう祈ってました。
国鉄からJR東日本に変わる、確か3/31だったと思います。その日1日は特急などが乗り放題で(事前にチケット1人1万円だったような)、会社の同期の友達と仙台へお寿
司を食べに行きました。朝5時台の電車で甲府から東京へ行き、仙台までたぶん新幹線だったと思います。お寿司を食べたことは覚えていますが、他に何をしたかは
…?帰りのことも電車で寝て帰ってきたぐらいしか記憶にはありません。でも楽しかった思い出です。
娘が結婚して最初の住まいが福岡で、初めて東京から博多まで新幹線意乗って会いに行ってきました(飛行機が嫌だから)。長時間でも久し振りにアッという間に着きま
した。現在は転勤で近くに引っ越して来ました。
20代の頃、茨城から石川までの旅で、東京から乗った寝台列車は今も忘れられません。ドキドキとワクワクで眠れぬまま朝を迎えると、日本海がとてもきれいでした。
入社25年目で、伊勢の旅に行った時の事をとてもなつかしく思い出します。駅弁も食べながら、ゆったりと車窓を眺め、楽しいひと時を過ごしました。
40年以上前の話。周遊券を使い、夏休みに北海道一周の旅をしたが、当時は電車の速度は遅く、夜行列車も多数走っていた。列車の中で一夜を明かしながら次の目的
地へ。寝台列車も廃止されていく中、貴重な忘れられない鉄道旅行となりました(笑)
青春18きっぷでの旅。最終日の足のむくみがサリーちゃん並でビックリした(笑)
家族3人とも鉄道好き♪北海道旅行の際は、あこがれのカシオペアを予約しました。その時、息子は5歳。寝台車の部屋でクッションを外すわ、ボタンをいたずらするわで
大変でした。今息子は9才になりましたが、残念ながら覚えていません。しっかり覚えていられる今、また乗りたい!です。
結婚前に今の主人と「普通列車1日3千円で乗り放題」で、広島⇔神戸を往復しました。途中、列車事故で列車がSTOPしてしまい、神戸での観光時間はごくわずか。ギリ
ギリ迄観光して帰りの列車に乗るため、もうダッシュ!あの頃は若かったから楽しいばかりで疲れ知らずでした。
スイスからイタリアへ、ベルニナ急行。学生時代の旅行中、景色が見たくて日帰りの往復でこの鉄道に乗車。予想以上の絶景に大満足!ただ、当時はまだユーロではな
かったので、スイスフランを使えるお店を探すのに一苦労…。やっとありつけたラザニアの味も忘れません。
家族でニューヨークに旅行に行った時のこと。地下鉄で移動していたが、土日運休の路線があることを知らず、目的地までどうやって行けばよいのか、途方にくれました。
言葉もよくわからず、何とか苦労して着いた時はうれしかった。
幼い頃、特急に乗ってはポリ袋に入ったお茶を買ってもらうのがうれしくて。家に空きの容器を持って帰ってはおままごとに使ってました。
旧制中学の最終卒業生だった同級生の旅だった。上野から人気の寝台列車「北斗星」で北海道へ向かった。切符は入手できたが、食堂車の手配がなく、同行の婦人連
中のみ夕食にありついた。男共は差し入れのウイスキーなどで空腹を満たし、しゃべりまくって過ごした。二人用個室寝台「デュエット」には誰も入らず、札幌へ着いてし
まった。あれから21年にもなるが忘れられない旅だった。同行した友人も4割近く彼岸へ行ってしまった。
北海道出身の私にとっては、高校生での修学旅行が印象に強く、道内から青函連絡船、夜行列車で上野、更に新幹線で教徒へ。復路も同じ経路でとても長く、でもとても
楽しい旅でした。
長野県から東京都へ遊びに行くとき、開業して丁度1年が経過した長野新幹線「あさま」に乗りました。開業1年を記念して、絵ハガキを乗客に配っていたのをもらい、今も
大事に保管しています。
小学校、中学校、高校と行った修学旅行が、全て京都、奈良でした。中でも中学校のとき、東大寺でおみくじが人生で初めて「大吉」だったので、忘れられません
昔、兄とおばあちゃんの家に初めて二人で行った事です。乗換えがわからなかった時、地元の人達が温かく教えてくれた時です。田舎の人たちは本当に優しかったです。
高校生の時、男女各4人ずつで岐阜から長野へキャンプに行きました。出発前、皆で献立を考えながら買い物をし、いざ列車に乗り込みました。中央線、篠ノ井線を乗り
継いで麻積駅で…。はしゃいで下車したのですが、買い込んだ食材を列車に忘れて…。少ない材料で考案した食事、なんとか2泊3日持ちこたえました(汗)
九州の某路線で、乗客は私と友人2人だけ。車掌さんが横に座り、ずっと観光案内をしてくれた。終点駅で下車、常務を終えた車掌さんが駅舎の食堂に誘ってくれて、うど
んをごちそうしてくれた。
結婚する前に初めて行った夫との神戸の旅行です。私が横浜の高校に通っていたのですが、神戸が横浜と似ているのにとても感激しました。夫とは初めてのデートも横
浜で、今は家が横浜なので、改めてとても縁を感じています。
鉄道好きな息子を連れ、大井川鉄道のSL機関車に乗りに行った事は思い出に残っています。お弁当を予約し、車を駅に預け、ゆっくり時間をかけての列車の旅。ついで
に日本でここしかないというアプト式の電車にも乗り、子どもは大満足。
大学生の頃、一人で訪れたインドでは常に満員電車。荷物置き場のはずの網棚が特等席になります。現地の方に混ざって網棚にのぼり、リュックサックを枕にし、爆睡し
てしまったのが忘れられない思い出です。
昭和41年、出産のため山形県へ里帰りの妻と、うまれたばかりの長男を迎えに行った時のことです。蒸気機関車の窓ガラスのすきまから煙ススが入り、小さい、まっしろ
い赤ちゃんの顔にふりかかり、黒くなってあわててガーゼでふき取り続けました。親子3人初めての鉄道の旅の思い出です。
東京から京都まで、家族で帰省時、新幹線車内に切符を落としてしまい、改札を出られなくなりました。無線で連絡してもらい、座席側に落ちていたのを確認して、ようやく
出してもらいました。
学生時代、初めて夜行寝台列車で九州へ行きました。お金がないので二等寝台のいちばん上のベッド、狭いのと音とで一晩中崖崩れや地震の夢を見ながらうとうとし通
しで、次の日がしんどかったです。
鳥取へ寝台車で旅行に行く事になり、友達がチケットを送ってきた。静岡発23:50だった。家内が日付に気付いて「これ明日じゃない?」と言ったが、今まで失敗するような
友達ではなかったし10分で次の日になるから「これでいいんだよ」と言って列車に乗った。「あれ?俺たちの席にひとが寝ている」車掌さんに強く文句を言ったら「これ、明
日のですヨ」。アチャー!やっぱり!急に低姿勢になり、他の席にしてもらい鳥取まで何とか連れて行ってもらった。
今から63年前の昭和26年10月(小学6年生)に修学旅行で磐越西線のSLが牽引する客車に乗り、新宿から会津若松まで行きました。阿賀野川に沿って走行するため眺
めは紅葉で美しく、窓を開き景色を見ている。トンネルに入る前に汽笛が鳴り、急ぎ窓を閉めるのが間に合わずSLの煙が入り、顔が煙のすすで黒くなった懐かしい思い
出。
その昔、山好きの父に半ば無理矢理連れられて、夏には長野の山に行くことがありました。新宿駅(?)「アルプス広場」で夜行列車の順番&時間待ち。夜行と言っても寝
台ではありません。ボックスシートの一般車輌…。大半の大人の方は床に新聞を敷いて雑魚寝です。幼かった自分はシートを使わせてもらえましたが、肘掛けが邪魔で
体を伸ばせず、山に着く前から全身がイタイ…。それにしても、あれで盗難とかなかったのですから、今思うとスゴイ!古き良き時代だっということでしょう!?
今年の8月に家族5人で初めて地下鉄に乗りました。常磐線とは違いビックリしましたが、子ども達は嬉しそうだったので、また機会があったら乗ってみたいという体験をし
ました。
結婚した年の夏、北海道の道東旅行中、十勝から知床半島に向かう急行列車の窓からみた夕陽の輝きです。広大な台地を駆け抜ける列車に対して、のんびりたたずむ
牛馬が夕陽をあびてこちらを見ているのが何となく対照的な印象で、今でも思い出します。
乗り物酔いしてしまうので、窓側の座席に座ることが多いのですが、ある時、特急の指定席を予約(もちろん窓際希望)し、いざ車内へはいると最前列…。窓側でも前方に
閉塞感があり、結局気分が悪くなってしまいました。
初めて修学旅行で新幹線に乗った時、座席シートが対面に切り替えられることを知り、驚いたものだ。
価値ある卒業旅行 大学の卒業旅行に友人と3人で行った時のことです。海外に卒業旅行に行く他の友人たちが多い中、私達は広島へ。行きは箸が転げてもおかしいく
らい笑い、原爆ドームを見た帰りは真剣に意見を交換しました。楽しかったというだけでなく、最後の旅行で友人の考えを聞けた、貴重な体験で、今も胸に残っています。
30年前、札幌から京都まで修学旅行に行きました。5泊7日でしたが、行きも帰りも寝台特急でした。ガタンゴトンという振動も楽しく、お友達とのおしゃべりは止まりません
でした。懐かしい青函連絡船も今は昔、高校時代の思い出です。
東京発の夜行列車は、松江に到着。初めての寝台車に心ワクワク!レールの音でよく眠れなかったけれど、ガタンガタンのリズムは体に染み込んで、思い出と共になつ
かしい。山陰から山陽地方を親友と廻った、40年前の話です。
新婚旅行で行ったノルウェーのフロム鉄道。フィヨルドクルーズへ向かうために乗ったのですが、窓から見えるノルウェーの大自然に心が洗われていく様でした。
社会人なりたての頃、会社の旅行で初めての九州、ワクワクしながら寝台列車に乗ったものの、三段目の一番上段、体を思うように動かせず、頭をゴンゴンぶつけながら
眠れぬ夜を過ごしました。
初めて上野から寝台車でグループ旅行をする時のこと。上野駅で出発待ち時、地震に遭遇。蛍光灯が落ちてこないか心配する程でしたが、列車は少し遅れただけで出
発。無事を喜び、金沢まで話題で持ちきりの旅でした。
主人の定年の記念にと、あこがれのトワイライトに乗って北海道旅行に行ったのを思い出します。豪華で、ゆったりとした時間、ディナーもおいしく、最高の旅行でした。感
謝、感激!
中学生の時に始めて乗った新幹線でグリーン車に乗せてもらい、親せきの家へ遊びに行った事。ワクワクして良かった。
大学生の時友人と2人で箱根ロマンスカーに乗って旅行へ。ところが当日新宿で発覚したのは往復共に1日間違えたという事。予約したのは私。でも友人は「ハプニング
がある方が思い出に残るよ」と笑顔で言い、私を責めませんでした。間違えた分と新たな分の旅費も自分で払ってくれました。
まだ子ども2人が小さい頃、母も含め妻との5人家族で中尊寺に出掛けました。常磐線で平(現在いわき)で乗り換えする際、6分しかなく、小さい子どもを抱きかかえ、必
死で走り、無事間に合うことが出来ました。それらを含め楽しい旅行となりました。
姉と2人で行った、立山、黒部旅行です。結婚後、2人ともまだ子どもがいなかったので、最後のチャンスと姉妹2人旅を計画。私たちが小学生の時、夏休みに家族で行っ
た黒部ダムを見ることに!新大阪からサンダーバードで富山へ、トロッコにも乗ってトローリーバスで黒部ダム、長野県へまわり新幹線…といいたいところでバスを乗り間
違えタクシーで駅に向かい、ギリギリ乗れました。子どももでき、しばらくはいけませんが、年をとったら、また姉と2人で旅行したいです。楽しかった2泊3日でした。
ママ友とその子ども達、総勢12人で泊まりの旅行へ。当時、子どもは小学生。電車の中で騒がないようにとマンガ本など用意したのですが、拍子抜けするほど静かでし
た。ママ友同士のおしゃべりが周囲の方に迷惑をかけていたかも…!!
今年の夏に静岡の大井川に来た本物の機関車トーマスに会いに息子と行きました。2歳の息子ですが言葉が少なく悩んでいましたが、トーマスを見て「マス!マス!」と
それらしいことを覚えることができ、わあ~っと感動!とてもステキな思い出ができました。
子どもの時の鉄道旅行で食べた冷凍みかんが忘れられません
50年前頃、旅行した時、車窓を開け風景を観て楽しんでいました。トンネルに入り顔、首まで真っ黒になり、友人とお互いに顔を見合わせて大笑いした事が、今は懐かし
い思い出です。
学生の時、新潟-大阪間の寝台車に乗りました。学生には少々高く(約7000円)なので、さぞ寝やすいと思ったら、とっても狭かったのを覚えています
小学校の頃、弟を連れて東京に住む祖父母の家へ行ったことです。親がいない電車がとても心細く感じました。無事到着した時は、安心感もありましたが、それ以上に達
成感が高かったです(笑)
双子の息子の誕生日のお祝いに、1区間だけ新幹線に乗りました。初めての新幹線に、2人は大はしゃぎ。親の私たちもすごく幸せを感じました。20年前の出来事です。
2歳か3歳の頃、初めて寝台特急(富士)に乗り、九州から東京へ。途中の関門海峡に差し掛かる前に、父が「海の下を通っている」と言うので「魚が見えるかも」と窓ガラ
スから必死に外を見ていましたが、真っ暗で何も見えず。当たり前ですよね。ちょっぴり笑える思い出です。
家族で行った京都、奈良、黒部ダム、初めてのグリーン車を体験して、お金持ちになった気分でした
中学の修学旅行は東京でした。疲れて寝てしまった帰りの新幹線。寝顔を「パシャ」写真を撮られてしまいました。旅行の思い出よりも、寝顔を撮られた事が印象に残って
います。
中学生の時、初めて電車に乗り東京まで遊びに行きました。友達と行ったのですが、大人のいない旅行は初めてで、電車に乗るとドキドキしました。良い思い出です。
旅先の駅でガラスの扉を突き破ったとき 5歳の頃、ピカピカに磨かれたガラス扉に気付かず、扉の向こうにいた親のほうへ猛ダッシュ。頭から突っ込みましたが、ケガひ
とつしませんでした。親があわてた事だけ鮮明に覚えています。
静岡に嫁ぎ、九州の実家に帰るとき、まだ運行していたブルートレインの富士に乗りました。帰りの時間は過ぎるのが遅く、気持ちは早く早くとあせってばかりいました。夜
眠れなくて駅につくと窓から明かりを見ては、ぼんやりしていたものです。
特急の指定席を取っていたのに、座ろうとしたら見ず知らずの方が…。声をかける勇気もなく、車掌さんも来られないし、ひと駅間立っていたら、次の駅で降りて行かれま
した。どうやら外国の方が列車を間違えて乗ったみたいですが、こっちの方が焦ったぁー!!
「子どもの成長」 自分が名古屋へ単身赴任中、小6の娘が1人で新幹線に乗り、会いに来てくれたことが、子どもの成長を感じ、うれしく思い、一生の思い出になりました
何十年前の高校の修学旅行の時、電車での移動中のこと、修学旅行中便秘でお腹がパンパン状態。電車を降りようとした時にくしゃみにおそわれ「ハックション」その時
スカートのカギホックが切れ、スカートがバッサリ!!ひえ~~~~ 50代女性でよろしく!
若い頃、青春切符を使ってのんびり?お得に旅を楽しんだ。しかし翌日疲れて困ったのを思い出すなぁー
勤めている頃、名古屋-小田原間を「寝台快速 銀河」で旅したことがあります。AM1:00~AM4:00という短時間、短い距離をわざわざ夜行で行きました。深夜、貨物列車な
どに追い越されるゆっくりさで夜景をながめながら非日常の気分にひたりました。たまにはいいものです。またいつか夜行で旅したいです
あこがれの寝台特急「北斗星」に乗車し、1人個室で満喫してました。ところが次第に個室独特の臭いに酔ってしまい、せっかく予約したディナーも無理して食したが、あえ
なくトイレに直行…。翌朝北海道に到着するまで地獄の一晩でした。次は「カシオペア」にチャレンジしたいと、懲りずに考えています
初めて1人でおばあさんに会いに6年生で特急に乗りました。ポテチとコーラを買って、窓の景色をみて、3時間程のたびですが、大冒険でした
大学生の時に日立-松島を青春18きっぷで行ったこと。今はもうできないんだなー(原発)
昨年10月に北海道(札幌)→東京間をカシオペアに乗りました。札幌16:00頃出発したので、景色はまっくらであまり楽しめませんでしたが、飛行機とは違い、のんびりとし
た時を過ごすことができました。
今から約25年前、常磐線で茨城県から青森まで行けた頃。小学生の娘が、祖母の家に一人で寝台特急で遊びに行ったのを懐かしく思い出されます。そして車掌さんに
娘の事をお願いしたりして、社会が今より安全だったことを思い出します
中学生の修学旅行で初めて新幹線に乗りました。ピカピカの車両と速いスピードの電車に、ワクワクしたのを覚えています。今でも新幹線に乗ると、その時のワクワクを
思い出し、懐かしい思いがこみ上げてきます。
北海道の鉄道旅行で、帯広駅で幸福駅迄等のキップを買い、その時代人気のあった旅行を楽しみました
鉄道…未だ乗った事がないです…。今後家族で行ってみたい!きっと子ども達も喜ぶだろうな。
高校の通学では蒸気機関車だった為、トンネルを通過する度に窓から黒煙が舞い込んできて、夏場は大変だったことを思い出しました
五能線に乗った時、景色の良いのに感動したこと
退職して紀州から松坂、亀山、草津を一人旅しました。一人だけで6日間いろいろ人生を振り返り、ゆっくりその土地の名産を食べながらの旅行でした。
勤続15周年の休暇のとき、夜行列車で北海道を往復した旅行を思い出します。ご当地も印象深い地でしたが、往復の時間の流れは忘れがたき大切な過ごし方で宝物で
す。我が家のとっておきの思い出のひとつ。
10年前の黒部ダム旅行でトロッコ電車から眺めた黒部川の景色に神秘的で自分の心が癒されました「みどり野に青く流るる黒部川」
家族で初めて石川県に帰省した際、新幹線と特急の乗り継ぎでみんなグッタリ。それからは飛行機で帰省していました。来年3月に北陸新幹線が開通。久し振りの電車
帰省をしてみようと思っています!
未だ現役で勤務していた頃のことですが、九州出張に飛行機を利用せず、ブルートレインの寝台車で行った事が懐かしく思い出されます。同行者は飛行機で行ったので
すが、小生は夜行列車を利用。ブルートレインに乗りたかったと同行者には言い訳しましたが、本当は飛行機に乗るのが恐かったのです。
家族旅行で。今から16、17年前、ディズニーランドの帰りに大阪まで乗った寝台列車で誰が何段目に寝るか決めるのが大変でした
夫と結婚する前のこと。彼は転勤で福井県に行っていたので、よく名古屋からJR特急「しらさぎ」に乗って会いに行ってました。遠距離恋愛だったので、デート=旅行のよ
うなものだったのです。福井県に近づくにつれてドキドキしていたのが懐かしいです
北海道滝川出身だった自分が当時の入社テストを受験するため、生まれて初めて汽車に乗り東京まで来たのですが、キップの買い方も種類も知らなかったため、28時間
急行指定で神田まで一人で来て、その日の宿もとっていなかったので、神田駅でホームレスのおじさんと一晩過ごしたことです
小学生の時、単身赴任の父に会いに青春18きっぷで名古屋まで旅をしました。道中長く、もう帰りたいと弱音を吐いてましたが、久々に父に会えて嬉しかったのを覚えて
います。
遠い昔?!高校の修学旅行で九州に行った事…座席を向かい合わせてワクワクしながら乗った新幹線、しばらくそんな女子旅してない↓青春でした。思い出すとキュン
とします。
昔、OL時代に初めて大阪出張の際、新幹線に乗ったこと
長男の結婚が決まり、両家顔合わせの食事会をする事になりました。こちらは岐阜県から東海道新幹線で、相手方は岩手県から東北新幹線に乗り、東京駅付近にてラ
ンチをしました。とても便利になったと改めて感じた日帰り鉄道旅行でした。
小学6年の修学旅行は会津へSLでした。それから5年後の高校2年は京都から新横浜まで新幹線でした。鉄道の進歩には驚きの時代でした。
小6の修学旅行(東京)へ行った。前夜は嬉しくて眠れなかった。確か1人500円くらい持ってお土産代として使ったような記憶がある。今思い出すと笑ってしまうことが、あ
の頃は大きな心配と喜びで満足していた。なつかしい人生の1コマである。
41年前、妻と故郷の福岡に帰省した。その際、筑豊本線を走るSLに乗せたが、妻は大感激であった。
GWにローカル線列車(2両しかなく単線)の旅に夫婦と犬1匹で出発した。客も少なく、一番前に乗ると、まるで自分が運転しているような感じ。気が向いた駅で降りて、ま
た列車に乗るのんびり旅で、世間のGWとは別世界で思い出に残っています。
結婚する前にだんなさんと京都旅行をしました(お付き合いしている頃)。新幹線に乗って駅弁を食べて…。沢山の思い出があります!今は2人の子どももいる為なかな
か鉄道を使って旅行は難しいけど、いつかはパパとママが巡ったところを2人を連れて行きたいなぁ。
地方から上京してきた私は帰省費用を抑えるため、深夜快速と鈍行列車を乗り継いで帰る事にしました。しかし、深夜快速は車内消灯もなくなかなか寝れず実家に帰っ
た連休初日から昼夜逆転の生活に。社会人になってから初めての休日の過ごし方は大事と気付かされました。
青春18きっぷの旅です。20代の頃、母と東北の祖母の家へ行く際に利用しました。毎年東北新幹線を利用していましたが、時刻表とにらめっこしながらの普通列車の旅
は楽しいものでした。都会から田園風景に変わっていく車窓の景色は心の洗濯そのものでした。
大学時代に友人と二人での鉄道旅行。北海道からフェリーで宮城まで移動した後、青春18きっぷで徳島まで行きました。鈍行に乗りっぱなしでお尻が痛くなりましたが、
忘れられない思い出です。
水郡線で、大子、水戸で乗り換え、いわきで一泊、次の日いわき、郡山で乗り換え、水郡線で帰る、ぐるっと一周、地図上ではすぐそこなのに、長い旅でした。
鉄道旅行と言えば思い出すのは駅弁です。ホームでの停車時間が数分の間に父が走ってお弁当を買いに行くのですが、本当に間に合って帰ってくるか心配な気持ちで
した。そして当時はペットボトルなどなかったので、プラスチックの上にコップの付いたお茶がありましたね。なつかしいです。
自分の両親へ結婚の報告をする為に新幹線に乗ったこと。うれしいような照れくさいような不思議な気持ちでした。気が早いですが(心の中では新婚旅行へ行っているよ
うな気持ちでした)
中学校の修学旅行でドラえもん海底列車に乗り青森-函館へ行ったことです。初めてのクラスメイトとの旅行でウキウキしている気持ちに、更にドラえもんの車内アナウン
スやイラストで興奮したのを思い出します。今では運行が終了されたドラえもん列車。忘れられない良い思い出です。
JRの「トワイライト号」がスタートして直ぐに乗車券の確保ができて、家族3人で北海道を楽しんできました。鉄道マニアの長男(小学6年生)も興奮気味のトワイライトの旅
でしたが、京都駅から自宅までのタクシーの中にカメラを忘れてしまい、手を尽くしての調査でもカメラは出て来ず、誠に残念無念の旅となりました。トワイライト号の運行
がストップするとのこと、当時の事を思い出します。
子どもを電車に乗せてあげようと小旅行を計画。子どもは嬉しくてはしゃいでいましたが、普段電車に乗らない私は内心ドキドキ。キップを買うときも何度も料金を確認。
不安がばれると子どもも心配すると思い誰にも聞けず。とても勉強になった一日でした。
憧れの食堂車:私が小学生の頃、家族旅行の際に親にせがんで食堂車に連れて行ってもらったことが、今も忘れられません。大好きなレモンスカッシュを飲みながら景
色を眺め、大人びた気分に浸ったことを覚えています。今ではほぼ廃止されてしまいましたが、食堂車は今も昔も私の憧れです。
夫の還暦のお祝いに 友達のすすめで寝台特急カシオペアで行く北海道旅行を計画しました。上野発札幌行き17時間の鉄道の旅です。上野を午後4時頃出発して、翌
朝9時半頃札幌に着きます。夫は時間がもったいないと言っていましたが、ゆっくりと夫婦で夜景を眺めながら過ごすことが出来、良い思いでになりました。
昨年秋、新幹線と三陸鉄道(南リアス線と北リアス線)を利用して潮騒の三陸海岸とレストラン鉄道の旅をしました。鉄道は昔から大好きで、小学生から汽車通学だったこ
ともあり、年平均2回の旅行は主に鉄道を利用しています。
かつて、主要幹線であった、JR線、新幹線が、別ルートで通ってから20年ぶりに乗ったが、列車から見るさびれた街並みと自然いっぱいの景色、複雑な気持ちがした。
10年程前のこと、関東から九州にある実家へ帰省していた際、台風が九州へ接近。帰りに乗る予定だった飛行機は欠航になってしまい、当時はまだ走っていた寝台列車
に乗り、台風に追われながら帰宅しました。翌日からの最後とに間に合うかドキドキしながら過ごした寝台列車での夜は、今でも印象深い鉄道の旅となりました。
25年前の修学旅行で新幹線に初めて乗った事。あとにも先にも新幹線に乗ったのはこの時だけです。車社会の今、老後は電車旅行をしたいです。
日本桜名所百選の一つ、青森県の芦野公園は吉永小百合が芦野駅のホームに立ち桜を眺める写真があり、どうしても行きたいと昨年津軽鉄道に出向いた。駅には目
的の写真もあった。「ああっ、ここだ!」正に吉永小百合が立つホームに自分も立って、時間がかかった桜名所追っかけだったが、大いに満足した。
「世界の車窓から」のオープニングで見た憧れの鉄道、オーストラリアのキュランダ高原列車に乗車した思い出です。車窓から広がる熱帯雨林が織りなす雄大なパノラマ
は圧巻でした。渓谷に沿ったカーブの絶景や荘厳の滝など、素晴らしい景色を満喫しました。
私は4人姉妹の上から2番目です。いつも4人で仲良く出かけていました。でも10年前、末の妹が乳癌でこの世を去りました。手術の後、4人で神奈川県の叔母の家に出か
けた時のこと、スーパー日立の列車の中で、妹を気遣いながらたわいのないおしゃべりをしたのが最後の旅でした。忘れられない思い出です。
今は無くなってしまった「特急あさま」に乗って夏休みに信州上田の祖父母宅へ行ったこと。トンネルの数を数えながら「峠の釜飯」を食べて、楽しいひと時を過ごしまし
た。新幹線とは違う、のんびりしたスピードが懐かしいです
高校2年(17歳)の時、修学旅行で初めて新幹線に乗りました。車窓から初めて見た富士山、琵琶湖等の光景は忘れません。
BSの列車旅番組や寝台車の旅に憧れています。日々の生活に追われて実現できていないのですが、今年こそと思いつつ、又秋が過ぎていきます
大学受験の時、千歳空港から帯広への旅が忘れられません。当時は九州に住んでいたので、一面の銀世界に感動し、絶対ここに住むぞ!と決意しました。
箱根ロマンスカー! 今、中1の長男がまだ3歳だった頃に、電車好きで親子3人で旅行に行った。今は柔道でたくましくなり、あの頃のあどけなさ、ロマンスカーをみてニコ
ニコしていたのが懐かしい限りです。今は5人家族になったので、また行きたいです。
若かりし頃は、連休になると旅行の行き先を考えるのが楽しみだった。行き先が決まらなかった時は、とりあえず東京まで行き、金沢行きの夜行列車に乗り、床に新聞紙
を敷いて寝たのを覚えています。今は新幹線。時代は変わりました。
初めて修学旅行で寝台列車での旅、眠れず外の景色を見ていました。今でも忘れられない思い出です。
インドでタージ・マハルを見に行くため、ニューデリーからアグラまで電車に乗りました。車内にはネズミやゴキブリが大量にいて、10時間以上共に過ごし、忘れられない思
い出になりました。
広島と東京の子ども達から私の還暦祝いにと2泊3日の熱海温泉へのプレゼントがありました。それも可愛い孫達も含めての8人での小旅行となりましたが、楽しさも思い
出もたくさんたくさん多くをもらって、忘れられない思い出のひと時だったと、当時を思い出しています(孫も8歳と5歳になりました)
田舎で結婚式を挙げるため、仕事を終えてから帰路のため寝台車(出雲)に乗った。ひとり旅っていいなと思った。
東京オリンピックの年、新幹線が開業したのでなんとしても乗りたく、当時は余裕がなかったので東京から名古屋まで新幹線、帰りは鈍行で往復した事が懐かしい。
台湾旅行の帰り、新大阪駅で夕食の弁当を買っていたらホームに電車が来て2人はぐれてしまいました。新幹線には乗れたのですが、結局目的地まで2人バラバラで、夫
は大きなスーツケースを2つひきずって家に帰っていました。
小さな娘を連れて初めて2人で乗った新幹線。緊張したのか、急に吐いてしまった娘に、まわりの方々がとっさにタオルや新聞を「これを使って!大丈夫?」と渡してくださ
いました。気分を害するだろう状況に、たくさんの人が手を貸してくださった事をずっと感謝しています。私も心の広い人間になりたいです!!
数年前、家族で草津へ旅行した時の話です。車で行きましたが、途中雪が降り出してしまい、慣れない雪道の運転ということもあり、スリップ事故を起こしてしまいました。
車が使えなくなり、やむなく翌日電車での帰宅となりました。無事に家に帰れた安心感は、今でも忘れません。
小学校高学年の冬休み、家族旅行で秋田へ行きました。雪には強いはずの東北の電車でも、運行不能となるくらいの大雪でビックリしました!!でも、かまくらも見たり
楽しかったです。
高校の修学旅行で初めて新幹線に乗りました。スピードが速いので必死に景色を見ていたら気持ち悪くなったのを覚えています
小学生の頃の忘れられない恐かった思い出がある。夏休み、1人で父親の実家に汽車で行った。帰りにホームで待っている時、岩瀬、笠間方面の人は一番線でお待ちく
ださいとの放送があった。それを聞いて私はひどくビックリ仰天した。あれ!!いつの間に自分の家のある駅を通らない路線ができたのか?家に帰れるのか?胸ドキド
キであった。
初めて東海道新幹線で東京-浜松間を乗った事。当時なかなか新幹線に乗る機会のなかった私でしたが、入社5年程たって仕事もそれなりに出来るようになったころ、浜
松への出張があり、乗ることができました。まさにそのスピード、夢のようでした。それから約40年、仕事で利用した回数は1000回を越えています。仕事の技術革新も日進
月歩でしたが、新幹線のそれも目覚しいものがあり、今日があります。そしてこれからも世界を相手に改良が加えられ世界のトップを走っていく日本の技術力に感動で
す。
スキーの帰りに秋田の友人宅へ汽車で山形→能代市に行きました。12月31日のことで、能代市のナマハゲのおそろしいこと。一軒一軒酒をふるまわれ大アバレ… それ
はおそろしい光景でした。翌日元旦、能代を夕方の鈍行で上野まで… ナント翌朝6時上野着、12時間くらいかかったのかナ。当時上野には浮浪者が水道の中で寝てい
ました。とにかくおそろしい時代でした。S47年頃の話です。
北海道旅行 どうしても乗りたかった「旭山動物園号」、子どもたちに混じって写真を撮りまくりました。
もう50年も前、小倉から東京の兄の結婚式へ夜行寝台列車で上京した時、初めての東京駅で八重洲で待ち合わせが、分からず、母と2時間以上待つ心細い思いをしまし
た。夜行に慣れず、あまり寝ていなくて、結婚式は眠気と疲れできつい思いをしました。でも東京見物でタワーに上りました。いい思い出です。
今から30年以上前、新幹線の車内販売でぶどうジュースを買ってもらいました。ワクワクしながら飲むと、丸いグニャリとした物体が口の中に入ってきてびっくり!!果肉
入りジュースなど飲んだことがなかった当時の思い出です。
中3の修学旅行で鎌倉大仏前での全員記念写真、時間を間違えて大仏の中に友達3~4人で入ってしまい写っていません。卒業アルバムを見るたびに残念でなりませ
ん。58年前の思い出です。
初めての鉄道旅行は主人とお付き合いしている時金沢への旅行でした。いつも車でのデートでしたが、ゆっくり、のんびり、2人でお弁当を食べながらですごく楽しかった
です
入社して間もない20代の頃、北海道に帰省する時は上野-青森間を12時間かけて東北本線で移動しました。今とは比べ物にならない、苦労の多い旅でした。
今では簡単に乗り継ぎの時刻が検索できますが、私の学生の頃はぶ厚い時刻表を片手に旅をしたものです。そんな旅の途中に見た、東北、青森の岩木山の雄大な姿
は今でも目に焼きついています。
孫が3歳、2歳の頃、新幹線のことをいろいろと聞いてくるので「百聞は一見にしかず」。東京から大阪の祖母を訪問する計画を立てました。いつも車でばかりの移動の2人
の孫も乗車するやいなや、好奇心旺盛で楽しい旅でした。
40年前、高校の修学旅行の帰り、長崎からブルートレイン特急「さくら」に乗りました。土産で買った球磨焼酎を車内で開けたところ、その強烈な匂いで先生に見つかり、
通路に1時間正座させられました。今となっては良い思い出です。
小学生のとき、学校で鎌倉旅行に行き、江ノ電に乗りました。あまりにのどがかわいて耐えられなくなったとき、「しばらく停車します」とアナウンスが流れたので、目の前
の自販機ですぐに買って戻ろうとしたら、降りた瞬間に扉が閉まり、1人ホームに取り残されてしまいました
今夏、夫婦で青森県の五能線に乗りました。弘前を出発して、しばらくは岩木山の雄姿を堪能しました。鯵ヶ沢駅では、ホームに地元の方々や名物犬の「ワサオ」君が出
迎えてくれ大さわぎでした。乗り継ぎの深浦駅でも、流しそうめんを催していたりと、人々の町興しの想いが伝わる旅でした
初めて息子とスーパー日立に乗って東京に行ったとき、筑波山を見て「わあ!!ふじさんだ!!すごいね!」と車内にひびきわたる声でさわがれたこと…。喜ぶ子どもを
前にどうしていいか分からず、ただ笑ってました…
初めて新幹線に乗ったのは、高校生の修学旅行でした。新幹線の窓から富士山が見えたのが今でも忘れられません。
ヨーロッパ旅行の折、一度は乗ってみたかったパリからロンドン行きのユーロスターに乗車出来、胸がワクワク。又その時の夕飯が幕の内弁当で、日本茶付き。日本のも
のより少し見劣りはしましたが、味は“Good”でした。思い出が一つ増えました。
20代の頃、会社の同僚4人と寝台車で金沢方面に行った時、初めての事もあって眠れず、丸い窓から暗い景色?をずっと見てた事、そして、駅を通り過ぎる時の灯りがす
ごくきれいだったのを覚えています。
高校通学の時毎日乗っていた日立電鉄線です。今は廃線になってしまった電車ですが、毎日多くの事を学びながら人生の旅をさせていただいたと感謝しています。
東北新幹線に乗った時、売り子さんの方言での案内を聞き、思わず「ニコッ」とした。
小学生の頃、初めて弟と二人で長距離電車に乗ったとき(3時間程度ですが)、車掌さんが車両に入ってくるたびに切符をわざわざ見せに行ってました。
昭和30年代の登山ブ^ム、退勤後、日立駅から新宿駅に、3時間程待って夜行列車に乗り込みます。都心から遠い我々はいつも座席が取れなくて、床の上に新聞を敷い
て長野に向かいました。何年続いたでしょうか、今では忘れられない遠い日の思い出となっております。
新婚旅行でスイスに行き、登山列車に乗りました。車窓からの風景が素晴らしく、忘れられない旅となりました。日本語の音声ガイドがハイジの声優さんの声で、思わず
車内から歓声が上がりました。
今年の6月津軽の竜飛岬の帰りの車中、地元に住む方といろいろな話をしました。冬の竜飛は寒さが厳しい事、今日はホタテの漁業をしている妹のところに手伝いにゆく
ことなど、話は尽きませんでした。
故郷(鹿児島)に帰省列車で同郷を共にする同士で故郷の言葉で語り合う車中は旅行気分でした。現在、夜行列車がなくなり、懐かしい思い出です。
鉄道が好きで宮脇俊三さんの本を読んでいますが、実際に乗ることが少なく、日本国内でも未乗の路線が多く残っています。
京急で電車にカバンを忘れてしまった。次の日、品川から三崎口までカバンを取りに行き、マグロを食べて一泊して帰ってきた。忘れ物を取りに行ったつもりが、とてもよ
い旅行になってしまった。
今夏、大井川鉄道のトーマス号に乗りました。孫といっしょで楽しい思い出が出来ました。
富山で結婚式の為、親戚一同に切符を渡し、電車に乗り込んだが、車内で宴会が始まり1人が切符を失くした。車掌さんに事情を説明し、料金支払わず無事に降りる事
が出来た。
大学受験の帰りに東京からの新幹線に乗りました。名古屋で降りなければいけなかったのですが、完全に眠ってしまい、気付くと岡山駅でした…。駅員さんに事情を話
し、戻れました。ほっ(笑)
中学生の頃、駅に早く着いて先生も生徒もやることがなくなった。なので、「COSMOS」をみんなで大合唱!300名の声は、旅行先の大阪まで届いたかな…。いなかならで
はの思い出…。
中学の修学旅行で新幹線に乗り京都に行きました。帰りも新幹線の予定でしたが、何かのトラブルで新幹線が使えず、寝台列車で帰ることになりました。初めての寝台
車、初めての3段ベッド。修学旅行も一日伸び、かなり興奮した思い出です。
東海道新幹線開業50周年、オリンピックのときに開業、その時は小学校6年生で、新幹線を見学しただけだった。初めて乗ったのはそれから7~8年後、名古屋まで仕事
でとてもうれしかったことと緊張したことを覚えている。
東北本線で福島からSL(蒸気機関車)で青森へ。トンネルのたびに窓を開けたり閉めたり。忘れると窓からススや煙が入り、手や顔が汚れたものです。青森から函館連絡
線に乗りあこがれの北海道へ。約50年前の青春の思い出です。
高校の修学旅行で、初めて関西に行った時のことです。私は生まれも育ちも熊本で、電車は路面電車以外乗ったことがないという、のんびりした学生でした。その私が関
西で初地下鉄、初新幹線を経験。引率の先生から「新幹線はホームに着いたら2分で出発するからな、乗り遅れるなよ!」というおどしにすごくびびらされました。今は出
張でもよく利用しますが、ホームで鳴る出発のベルの音は、今だに苦手です。
中学生の頃の思い出。修学旅行の帰り道、新幹線の揺れも心地よく、うっかり居眠り。口をポッカリ開けた私は同級生のおもちゃに。チョコが次々ほうりこまれ、甘さで眼
を覚ました私。いい笑いものになりましたが、素敵な思い出です。
新婚旅行にて九州のリゾート列車を利用しました。目的地に着くまでに十分楽しめ、車内の珍しい装備や車内販売の限定グッズに台興奮でした。
5年前、父と息子とカシオペアに乗り、函館から道南の温泉旅行に行きました。勤続10年のリフレッシュ休暇を利用し、また結婚してから父への感謝をこめて、この旅行を
プレゼントし、大変よろこんでくれました。孫との旅の思い出は、忘れられないでしょう。
シンガポールに赴任していた時、小学生だった息子の修学旅行の行程はマレーシア鉄道でマレーシアに行き、帰りは飛行機で帰ってくるものでした。親子共々とても楽し
みにしていて、外国の鉄道からの景色はどんなものだろうと想像をふくらませていましたが、9.11事件によって中止になってしまいました。これが我が家の鉄道旅行の苦
い思い出です。
転勤でいわき市に住んでいたとき、実家の名古屋まで青春18きっぷで帰ったこと。とにかく時間がかかった…。お盆休みだったので静岡あたりで海水浴帰りの人が多くて
休暇のはじまりにワクワクした。
秋田新幹線が開業した頃、グリーン席に安く乗せてもらって大学受験に行ったのをよく覚えています。
名古屋から勝田へ行った帰り、常磐線の電車の遅れで最終の名古屋までの新幹線に間に合わず、寝台列車に切り替えてもらい、通常は停車しない名古屋に臨時停車
してもらい、早朝に帰宅した思い出があります。
中学生の時、林間学校で長野へ向かう車中のことです。車内販売でアイスが売られていて、となりの車両の生徒たちが買い始めました。私たちもサイフを出して車内販
売が来るのを待っていたのですが… なんとその前に先生から「アイス禁止!!」の指示が出てしまい、買うことができませんでした。30年以上たった今でもくやしい思い
出です!!
出張で中国地方に行った時、関東地区では見ることの出来ない500系新幹線「こだま」に乗りました。平日昼間なのでガラガラ!なおかつ、通過待ちで時間はかかりまし
たが、写真撮り放題で仕事の疲れを癒してくれました。
初めてひとりで会津若松まで鉄道で旅行しに行きました。その時乗った鉄道が“会津野石鉄道”です。12月末に乗ったので雪がうっすら積もっていて渓谷が美しかったで
す。また、会津野石鉄道のデザインがレトロでわたし自身とっても気に入りました。楽しい冬の旅でした。
中国でリニアモーターカーに乗ったことです。約10年前になりますが、外の景色がビュンビュンとすぎていくスピード感が今でも忘れられません。
我が家は、夫婦、子ども3人で、子どもが小さい頃、家族揃って出かける時はほとんど自家用車を利用していましたが、唯一、鉄道を利用したのは、夫の九州の実家に帰
省する際に利用したカートレインでした。人は寝台車、車は貨物列車に積まれ、一緒に移動するといった便利なもので、感動しましたが、その時に愛車が離れ離れになっ
てトレーラーに積まれる光景は今も忘れられません。
大仕事だった帰省 連休も少なかった時代、帰省は正月に限られていた。一本しかない夜行列車の混雑は、想像にかたくない。立ちんぼで一夜を明かすことも。足の位
置と身体の重心がずれた姿勢を余儀なくされることも。眠気が襲うとヒザががくん…。それでも帰省は大きな楽しみであった。
子ども会の行事で秩父を走るSLに乗った時のことです。線路沿いではSLを写真に撮る人が沢山いて、乗客は関係ないのですが、女優になった気分を味わうことができま
した。
私が親元を離れて上京する時に乗ったのは寝台列車でした。夜乗って朝起きられるかドキドキしたのを覚えています。また、何度も切符を見て、座席番号を確かめたり、
なかなか眠れませんでした。
40年前に、男3人で北海道旅行した際、札幌から函館行きの団体専用の列車に乗ってしまい、先頭デッキに立っていたら寒く、雨にぬれてしまい、困っているところに、デ
イゼル機関車の運転手が途中駅で私たちに気付いてくれて、雨具を借りて温かくして、無事、函館に着きました。あの時の運転士さんの恩は今でも忘れません。
青春18きっぷを使って四国一周しました。雨で運行中止や観光に時間をとりすぎて乗り遅れたりして予定変更の連続でした。旅先で出会う人や食べ物が楽しみで、プラン
を計画すると時間がいくらあっても足りません。
40年以上前、若かった頃は列車に乗ってよく旅行に行き、夜行列車で車掌さんに起されたりと、地方では乗り継ぎに時間がたっぷりで、駅長室でお茶をご馳走になったり
と、車で行く旅では味わえない楽しい思い出がいっぱいでした。
日立での勤続10周年と結婚20周年の年がたまたま重なり、頂いたお休みでトワイライトエクスプレスで北海道旅行をしました。憧れていた列車でのゆったりとした旅で、一
生の思い出となりました。
30年程前、一度だけ乗った寝台車で、朝ベッドをかたずけていく係りの方が身軽に飛び移っていく様はみごとでした。
中学校で京都への修学旅行で乗った新幹線。両親以外と、電車で遠出、しかも泊まり!!ウキウキしすぎて前日まったく眠れず観光しながらとっても眠かった… 忘れら
れません。
私は島育ちで列車が走るのを見ることがほとんどありませんでした。初めて乗った時、景色をずっと見ていました。地域で家の形、屋根の色に特色があり、楽しかったのを覚
えています。駅弁を食べるのは今でも好き。
小学校の頃、親友が引っ越しし同級生4人で3時間の列車の旅をしました。初めてのことにドキドキした事を今でも忘れられません。
中学生のときに青函トンネルを電車で通りました。トンネルを出た時は感動しました。
ガイドブックを片手に、イタリアの子どもと会話したイタリア鉄道旅行。
20代の頃、フィレンツエからピサまで地元の鉄道を利用した際、イタリア人の子ども(5才と12才)と相席になりました。
イタリア語しか通じない子ども達だったので、ガイドブックに載っていた「指差しイタリア語会話」を駆使し、ピサまでの道中、コミュニケーションをとりました。下車する頃には5才の子ども
が私のひざ上にのってくるくらいなついてくれて、記念写真も撮りました。
大学1年生の時、友人と二人で北海道を鈍行で回りました。間違えた駅員さんに特急も乗れると言われましたが、社内で注意!「言われたんですもの」と言い張りましたが目
的地に着くまで生きた心地がしませんでした。
最近は飛行機とか車の移動が多いですが、大学時代はよく高岡-上野の特急白山を利用しました。亡くなった父母との初の上京と卒業時の旅行は懐かしい想い出です。
その後社会人になり、同じルートを上越新幹線で利用したら早かった!もうすぐ北陸新幹線開通、楽しみです。
中学の修学旅行で東京に急行で5時間かけて行ったとき、私の家は貧乏で初めて乗り、ドキドキでトイレにも行くことが出来ず、トイレの使い方も分からずびっくりしたこと。
あの時の東京タワーはすごく高かったです。