0051277001.

凸
平成S年已月1日
Nos
現場だより’
編集・発行三重県埋蔵文化財センター
〒515-03三重県多気郡明和町竹川503
度会郡玉城町
ごO5965-2-l732
FAXO5965-2-3724
蚊山遺跡
ハゼ譲難欝露鶏
囑學|響-K゜,蘓罰.九涜可ダニ識
-尹ロロ千割ェu,凸ヨロメ
蚊山遺跡は宮川中流域の左岸度会郡玉城町岩出の河岸段丘上にあり、面積約120,000㎡に及
ぶ大きな遺跡で、現況は水田及び畑地です。昨年度、近畿自動車道(勢和~伊勢)建設に先立
ち約11,500㎡調査されています。今回は、県道岩出新田線道路改良事業に伴い遺跡が破壊され
る部分約3,500㎡について調査を行っています。調査地は、蚊山遺跡のほぼ中央部を南北に縦
断するかたちで、長さ350,幅10mと細長いものです。現在までに古墳時代の円墳の痕跡と思
われるドーナッツ状の溝や、鎌倉時代の溝・建物・土坑・井戸・墓などを多数検出しました。
細長い調査区なので遺跡の全体を解明することは困難ですが、昨年度の調査と合わせて考える
と鎌倉時代前半を中心とする大きな集落であったと考えられます。溝は幅2m深さ1mで、ほ
ぼ東西方向に延びています。住居の区画のようなものではないかと考えています。建物は掘立
柱を使っていますが、柱の下に石を据えて柱の沈下を防いでいます。墓は死者を座らせた状態
で埋葬する「座棺」のものと、寝させた状態で埋葬する「寝棺」の二種類があります。「座棺」
は一辺09~11m深さL4m程度の四角い穴を掘り、棺を納めていたようです。副葬品は少なく
土師器皿だけのものが大半ですが、鉄刀が出土したものも-基ありました。「寝棺」は上左の
写真のもの-基だけです。墓拡は、長さ23,幅12m深さ05mとなっています。また納められ
た棺は、検出された釘の配置から長さL7mであったことがわかりました。土師器Ⅲ(大1枚、
小5枚)、青磁椀、鉄刀(上右写真)が納められていました。また墓拡の東側から北側には、
約2m程離れてほぼ同時期のエル字状の溝が検出されました。西側が調査区外なので墓拡を取
り囲むものかどうか不明ですが、関連が注目されます。(田中久)
-1-
遣
調査
調査1課
跡一覧
森脇遺跡(上野市)
伊賀国庁推定地(上野市)
〕量跡名jyrg唾上也
i圏跡名所在地
遺跡の機要
遺跡の慨要
柵査原因調査期1幻面積担当讃
北家城週跡一志illl:,;LIN]
北家城:遺跡一志郡白山町
県営園」M3整術、/」と-12/25』ロ600㎡
県`営圃場整備10/11~12/251,600㎡
吉沢良
過跡は西地区・束地区の2区に区分でき、西地区は純文時代早期~前期の遺物が出土
泄跡はiyti地lX,京地〆の21えに。.X分でき、餌」也lXは繩文時jいし期~前期の遺物がf汁Iq
している。遺構では直径2m前後の采石跡があり、石鐡やその破片が多数出土した。また
いてv、ろ。姐椛で}』直径2『::i1錠の柴イゼ跡があり、{・鍵やその砿j;・が多数111F.‐した口また
束地区は鎌倉~室町時代の土器片(残念ながら完形品は出土しなかった)が多数出土した。
に地匹'よ雌倉--窯lllT時代の。`2群片(銚念ながら完形AHIまi1i::::_なか二』た)が多数出:_した。
伊勢寺過跡松阪市伊勢寺町
勢寺遡跡訟販篇伊勢寺町
今作皮14.農瞳部分の調在で、東西力向の総延受600:皿が対象iEなっ上・動詞窪区の来寄l)
今年度は農道部分の調査で、東西方向の総延長600mが対象となった。調査区の束寄り
の区域で奈良~平安時代を中心とした±城.柱六群などの遺構が見られたほか、中央部
のiX域で奈良-.-尾妾時代を;:'心と:・た.H2菰・朴六群などの迫補が兄ら艇たI愚か、‐::火HIlj
では遺構は稀薄であったが、7世紀頃の土器を_括出士させた自然流路などが検出ざれ
では砥構'よ橋IJFであったが、711t紀頃の1.器憲一』冑{Ⅱ.Tぎせ・た豊i然泣路などが検出暮れ
通l:吾北.るこ
注目される。
県営圃場雄備9/12.-12/274uOOO111
県営圃場整備9/12~12/274,000㎡
福田哲也・竹内英昭
福、哲也・イキ:句英昭
さらに別の調査区では石組井戸が検出された。
吾らI;・lflUの調森区では{:、細り12,Jが倹什iされた。
上ノ垣内遺跡多気郷多気115荒薪
上ノ垣内〕遺跡多気郡多気町荒薪
県営lTWi場整備,/25-1q/31500㎡
県営圃場整備9/25~10/31500㎡
田村・陽一
lJl村陪
櫛田川下流右岸の自然堤防上に立地する。試掘調査で平安時代初期の土師器杯が出土
櫛:[':〕::F,流オT岸の円然堤防.上0;・汀!」19・ヴる。試掘詞査で、12安埒代初期の11帥器杯が出・浩
しており、底面には「盈」の墨書があった。本調査では飛鳥時代の溝と平安~鎌倉時代の
:"て:l蜀31)、底而に.は:~認.』の曇7跣があった。イミ綱賓では飛鳥時代の満』二平安一一鎌倉時代の
汁7T4坐が駿出募れた。遺物}よ世..埴IIiF代から観念時代までの・二・緬器、須恵器、陶器がある
井戸4基が検出きれた。遺物は古墳時代から鎌倉時代までの土師器、須恵器、陶器がある
小倉遺跡l可iil郡阿]・INT馬塊
小倉遺跡阿山郡阿山町馬場
MH安時1℃を;.:心とする、:::、墳''4F代から鎌倉|邸代までの迪跡で【ある。.r壇1群代の騒六f1Z届
平安時代を中心とする、古墳時代から鎌倉時代までの遺跡である。古墳時代の竪穴住居
跡、片:識の麺.、>、群駆物孝l食illlへ瓦器や.§二師器の:H:が多泣【.Tiihfzl戸危ぐ,緑柚陶器ハ・の111土
跡、中世の掘立柱建物を検出し、瓦器や土師器の皿が多量に出土した。緑釉陶器片の出土
が多いことから、小字名からの考察を期待したい。
が多v]PRL:か喝、小字名からの考察巻」Ⅲ群:`たv、。
県営圃場鞍備7/12-后/554⑪可
県営価場整備7/12~8/8540㎡
川戸達也・東山則幸
11:Jす』塵也・束;11則幸
ほか、下駄が出土した。緑釉陶器も4片ある。
ほか、 ̄F駄がii5・IRした。緑軸陶器も;l;+、ある
問田遡跡.=111f市IⅡI部町l馴:11
問田遺跡上野市服部町問田
県営排水特別事業7/13~7/20444㎡
県営lリド水特別享楽テノ13..W7/204劉醇’
小川専哉・宮崎宣光
」、''1専雌・宮崎宣光
服部;;;・楢植」:ii:弓ぶり形jJLされit二沖恢平111Fに立地.,『鰯・従来よl]弥生式E:器詐の『!}」
服部川
・柘植川により形成された7''1秋平野に立地する。従来より弥生式土器等の出二l‐
が知られ-r鞆ろが、+1コ|の調迩では世織;よ、i:認吾オ1-りぎ、包含」苗から須恵LIN1..::師器・几器
が知られ ているが、今回の調査では避榊は硴認きれず、包含層から須恵器・土師器・瓦器・
伊賀国庁推定地上野市外山・坂之下
伊賀團庁推定地L1軒T1J外IL:.坂之1..
県営圃鰯整葡9/5~3.000㎡(・予定)
県営圃場整備9/5~3,000㎡(予定)
柘植川北岸に位置し、標高150m前後である。現在までに昨年度調査区の束・北方に遺
栢植j1:」ヒハとI巴位値:"、標高]5(〕【3.前後であお・現在までi;FHthミ庭調海区の蝋・北力i皇旗
時範ljflが庇がる、已とがljHらかになった。また、称と'二吋代Ll;jU]以降の遺構が峠認ぎれておI)、
跡範囲が広がることが明らかになった。また、弥生時代中期以降の遺構が確認されており、
大規模な複合j貰跡であ為Tjl能性力ti[Hい・奈良一Z.z安時化の週術として「a、輻エキ]:建物・瀞
大規模な複合遺跡である可能性が高い。奈良~平安時代の遺構としては、掘立林錘物・荊呂
鈴木克彦・穂積裕昌ほか
鈴木克膠・穂積裕圏トミカ
陶器・チ ヤート片が出土したのみであった。
陶器・デャー;再ノセかHlZH:蜜尻:のみであった。
等が検出されている。
等が検fI:漂れている。
森際緩跡【:野皀.す〒;旨部
森脇遺跡上野市市部
県営圃場』篭禰8/節:-.:2/291.000m
県営圃場整備8/31~12/294,000㎡
森川常厚
森;.:常厚
森脇遺跡の調査は、3年目をむかえた。一次・二次調査では、奈良時代の掘寸林雑物中
森IMI遺跡の調査Iま、3§トーl】をむかえズニ。・次.、二次詞査では、奈良時代の拙京柱迷物;l;
心の遺跡であったが、今回はやや異なり、古墳時代の竪穴住居跡と平安時代中~後期の掘
A、の遺跡であったか、今ⅡⅡ此やや異なり、・古城時代の唾六住居跡}平安時代;.,肥後期の鋼
立柱建物が多数検出されている。
す,柱迷物が多数検&・;ニオL-ている。
黒田強跡・上野市T:プ部県営罰」肋整備
澤田j遺跡上野市市部県営画場整l11i
7/9~8/242355,2森川常厚
7/,。、8/型zn3Hi5㎡蕪jl常厚
昨年度に引き続いての調査で、本年度は、正典寺前の水田で行った。遺擶密度は希薄で
あるが、弥生時代のV字瀧、竪穴住居、中世の抓立柱建物等が検出されている。
才良避跡L野市」.良
才良遺跡上野市才良
県営閥場繁イiii7/'2--.8/7z,010m
県営圃場整備7/2~8/72,010㎡
穂秋裕昌
狐菰裕
かけての掘立柱建物2棟が目立った遺柵であるが、調査区の幅が狭いため全体形は不明
かけての梱立稚建物2棟がl1立った地張lU「であるが、菰正l×の幅が狭寸、ため令体形は不明
でああ,,また・iNfZで弥生時イヒ(l昨年l笠)や:;'趣のjHi構lltl;}雨の!、、園で、縄文|聯イヒの週|稗[「li
である。また-部で弥生時代(昨年度)や中世の辿榊検出面の下層で、繩文時代の遺構[、
寺原B週跡孚勢TiF住人町寺原
寺原B遺跡伊勢市佐八町寺原
県道伊勢内島線改真7/22~7/292,0㎡
県道伊勢南島線改良7/22~7/29200㎡
田村・陽一
lYl村陽.
今年度の調査区は昨年度調査区の北側に続く部分である。平安時代末から鎌倉時代に
f1二」虹の調掛Ⅸ'よ'11昌年皮調企陛.の北側iご続く部分埒あぉ。二:z安時イビネから鎌倉時代}二
を砿認した。今後の調査に注意をl喚起するものである。
を硴認i-た。今後の調喬ぃ注意をI奥」LLリ患ものである。
宮;:」忌流志ハ!⑪小』=L陵?)南麓}:一位価りる。l989flAl岳近溌}'1動車道子錐」12が調査苔れ、そ
宮川下流右岸の小丘陵の南施に位価する。1989年に近畿自動車道予定地が調査され、そ
れに直交する県道予定地部分を調査した。検出した遺構は集石土曠1基である。1.5m×0.
れ(g直交する県追予定地部分を砺赴Lだ。検l:、したhr橘トユ集とjIH腋?基である.:、5m×(1
9mで深き30cmほどの±概内には拳大から人頭大の角レキが詰まっており、その中から山
9師で深菩30cmほどの.:.縦;H6.二は拳大から人頭大の角レキが詰ま篭】てホ;り、そ・の;中から111
茶碗・;'」皿・」:[iii器二等のH1物がlIil2した。
茶碗・山皿・土師器Ⅲ等の遺物が出土した。
堀田隆長・米山浩=・小林孝弘
堀:。陸1反・米111浩.上・小林孝弘
安濃川中流域の北岸に位置する。主な逝榊には、奈良時代末~平安時代にかけての小規
安鱗川Zr流」典の-1上岸↓g位置富ろ。;;hな』固椛にIdL、奈良時イIC末一・平安時イ、仁かトナての小規
模な竪穴住居3棟と掘立柱建物3棟がある。逝物は須恵器片・土師器片の他に、抑型文土
棋な竪大('二届3松と掘立jti當建物3郷がある。jHi物}±須惠器)学.、二・EIlj器片の他に、lIll氏'1文L
器片や埴輪片も確認された。また安濃川沿いに古道が通っていたことも既に知られてお
器片や誼輪ノ:も硴露された。また安獲fllinい8,.ブ:・腕がiinってしhたく兄壯もI靴I思釘'られてお
り、この他の重要性が裁われる。
り、この地の重要'性が窺われる。
狐壕I古墳郡・・志部・・志町高野
狐塚古墳郡一志郡一志町高野
企業庁高野浄水場天日乾燥池増設
企業庁高野柳・水場天l】乾燥池増
7/I川・8/31600m
7/1~8/31600㎡
mrp喜久雄
田中喜久雄
遺跡は雲出川右岸の丘陵上に広がる。4号境は直径約15mの円墳で、著しく破壊されて
追跡【よ裏lljJ;モ:.岸の」二l愛:zに広がる。4号・積は直鑑約15,.のI;積で、群1,〈紘義ざれて
いる。埋葬主体部は形状から片袖式の横穴式石室と判断される。須恵器杯・鉄鑑等が出土
い碁,。埋非定休部lま形状から片柚式の賦穴式Zi室P判断苔れら。須恵器杯・鉄鐡等が出・;:
した。Gll1f紀後1品のものである1-号埴は現状保存。3号壇'よ党然地形’二判l折。:I了墳胖笙は
した。6世紀後半のものである1号壇は現状保存。3号墳は自然地形と判断。古墳群とは
別に屋外炉が4基検出された。遺物なし。細文期前半のものか。
別'二尾外灯iが4基検111きれた。週物なし。ボlu丈期前半のものか:
蚊1.u暁跡j狂会イ11;士城111]・岩Hlll
蚊山道跡度会郡玉城町岩出
宮川中流域左岸の河岸段丘上の所在。昨年度、近畿自動車道建設に伴い東西方向に調査
宮Hi「!可流域九坪の河n1段鴎..Lの所71:。昨年皮、近畿・引動工|[道建設`に挫西2束両方向i二調変
されていろ。今回は南北方向に350mに及ぶ調査である。これまでに、鎌倉時代前半の掘
ざれている,今!::l+』同.IF方向に350,21二及ぷ調在であお・これまで、.F、鎌倉時代nii半の梱
立柱建物・土坑・井戸・土拡墓・満が検ナトlされた。士城塞の一つは、伸展葬(寝棺)で、
立lIl難物・士坑・ブト戸・-i二独墓・満が検11川誉ゴL主唇二I:轆墓の・つI土、伸展罪(褒柁)で、
棺内に鉄刀2本・青磁椀1個などが納められていた。
指内if銚刀2本・青磁椀.掴などが納めら」Lていた・
赤jjb措跡壼芸都芸濃灯岡本
赤坂遺跡安芸郡芸濃町岡本
広域営農.11地農道整備事索7/]8.-9/3
広域営農、地農道整備事業7/18~9/3
ニユ00㎡
1,100㎡
県道岩出新田線道路改良事業9/25~12/21
/25-.12/21
県道岩山折:11級進跿改良事業
3,500m2田中久生・小川専哉・宮崎宜光
『崎寅光
3,釦0㎡[rl「l司久生・ノョ、j・写u世
東山則幸・福田哲也
東山jlll幸・福曰哲U1
岡村中近世墓群度会郡:三減町li1l材
岡村中近世墓群度会郡玉城町岡村
県道ロメL斎明細10/』~L』./30500Wザ
県道田丸斎明線10/1~11/30500㎡
田中喜久雄
:Ⅲ:::.宮:久雄
斌墓群は低丘陵の束南側経斜面につくられている。計101基確認。いずれも火葬穴であ
涜基群は低児l露の束1判側綏余l血18二つくられている。認己:'二蛙確認`,砂・ずれも火葬穴であ
る。平均規模は0.7×0.5m、深き0.3mの方形。全ての±城から人骨片・炭化物が出土。他
ろ。平均規模}よU7xO、5にl、樺澤0.31,の方形〔i全ての2名鵬から人骨j4・炭化物がlll二L・イ山
に.:師器'j、ini・釘七'-,万.堂氷j、宝・和鏡等をiph聖。江77時代前半を;…L、七:'て斌薙が
に土師器小皿・釘・小刀・寛永通宝・和鏡等を出土。江戸時代前半を中心として墳墓が
営まれたものと考えられる。
営まれたもの産考えられぁ。
-2-
調査2課’
調査遺跡一覧
■霧》》
因
鳩ノ木遣跡(松阪市)
泉貢窯跡(伊勢市)
〕蘆跡名所在地
j量跡名所在地
)貴跡の概要
遺跡の慨要
調査原因調査期間面積担当者
山神城跡度会郡玉城町山神
,.i神城跡度会郡,、:城11戸;,;*11’
近畿.引I動半道建設7/13・・・ユ/3(!
近畿自動車道建設7/13~11/30
6,100,,F稲本賢治.大川勝宏
6,1il0gRF稲本賢溝・人j:鯖
度会郡・;邑域町横良宇泉頁。:;:J腸毫.、1,1二.
鋤早道建設#/20.
:前川嘉溝,j:j1錠寵
国東山系の前面に南北に伸びる標高100m程の5本の丘陵上に広がる中世城郭で
I上i蕊「1糸の前、に南イヒiご伸びる標I盲i1OO冷程の5本の:.H陵Lに広がるBF世城郡で
ある。最も東の尾根に郭状平坦地が7つ、堀切が6本みられ、遺物も土師器鍋類.
らる爲最もⅡ〔の毛根》禺郭状平]'二地が7つ、堀勢が6本みられ、遺物も二節.器錨緬
Ⅲ類・iMil磁器類が皐禺;オし、i5…;6.:堂紀i二11守朋が;>とめらオLる゜他の昆根にiよ堀切が
Ⅲ類,陶磁器類がみられ、15~16世紀に時期がもとめられる。他の尾根には堀切が
l~2パミつく夢〕オ'Lろのみで、遺物等I;t需無である」
l~2本つくられるのみで、遺物等は皆無である。
答噴水IF7lr・hjかむだ1号陵急斜積に築かれた須恵器窯で.ある心調・径区:河で検}l塔オ’
たのは窯二塁とそれI:.伴う灰原のみで、灰原からは蕊理jIg20箱#lqlの八器片が#{:.21_
巖熟駕w瀧浄同'芋1鱗糠溌騨蕊議騨
泉貢窯
近畿
2.70〔
河原谷遺跡伊勢市前山町河原谷
オロゴ原谷遺跡伊勢市4tlilI:』.illl原谷
近畿自動車道建設10/11~10/17
近畿自動事道建設ユc/ユニーニcノー7
100㎡角谷泰弘・川崎正幸
00【,;餌谷泰弘・;::崎」_率
,.《大Ij遺跡il1:吉大上}し証'二:::』字榎筑.;A;他
砿国道23h歩『,.:勢道建設【』/4
;8.30()rgl
18,300㎡
た包窯体は前ユド:部分と×弁fili分が失われ,こい熟が、奥埜部分の残りは良好ごあるく
i:1.:二:=器のl寺期iよ平安時代の前二'&賦冷と恩われあ
遺物散布地であるため本調査を行ったが、谷状地形に礫層が厚く堆積しており、
遺物散イijllIlであるため本餌在を翁・ったが、谷状112形i;塵礫層が厚く堆積しZ.おり、
遺構は検出されなかった。遺物は、近世~近代の陶器等が表土及び粘土層から若干
遺構iよ検出=れなか凸だ.遺物fよ、賑lU:~近代のlliM器等が表.1k及び輪.几層から沿二・酢・
『:+:二i〆パー⑮>if地の呪け11は畑地であZ,が、30年前まで;よ民家が延・型てぃズ・とのLとで
出土した。当地の現況は畑地であるが、30年前までは民家が建っていたとのことで
あり、この粘土層は民家建築時の整地層と思われる。
Ni.z層1点」造家建築Ⅱ#の盤」也屑?告思われる。
C~F」ilA区の調先を終r-ハ:誉続きI〕.(;M1区の祇膏をイゴ・ってい期。:l叉安時代
L熊鷺鳶鷲『:奨蝋鴎騨鰯蝋料;簑麟'灘iビ
F1:,:`O、上する堀'X柱建物群陣已>・lDllh」ヌ:b:、集中:‐ており、瀧l曝1k陶器も現在までにI)
渡辺尚登・杉杼j1k種・油rH秀糸;・ホIノに・・弥
j地区を:!:心i二350AA(Ll2が山:1呂し-てい為一この輝かF地区で,』飛鳥・鶉・奈良時代詮
鹸終段階とするF1蝶流水路を.条纈確認‐ている
橋
橋垣内遺跡A地区津市大里窪田町字橋垣内
:内遺跡AlL区津、F大里霊::;関」~学籍iiW
-股'二l逝23号*勢jui建設5/7-12/ユピ
一般国道23号中勢道建設5/7~12/15
5,000㎡森川幸雄・近藤健
l)O<I誼?鰈)I・幸雄・近藤健
昨年度のB地区に続き、北側のA地区を調査中。弥生時代後半~飛鳥時代にかけ
1M皀午度の:〕池:(i二続き、北測の八J'iblxを訓査;.、罰`,弥/1.1キイビ後半~】1t鳥ヨオ化にかiナ
この:;:河斑・溝群が:P`[>で、多くの1二器・木製筐iが11{.Lミニていみこまた、わずかな
ての旧河道・溝群が中心で、多くの土器・木製品が出土している。また、わずかな
がら掘寸林建物・竪穴住居・土坑墓等も検出された。
がら掘立柱建物・'掻穴住居・・二坑墓等も検;塒れた
遺跡〈5次〕亀.」弓試kliYi寺
大鼻遺跡(5次)亀山市大岡寺
股【量;遁.石・バノパス7/,0・….2/22
一般国道1号バイパス7/10~12/22
5,800㎡駒田利治・平子弘
(X」㎡駒:M;ギリ箔・平・『・虫
)複合j通跡であ為。!)次調痛宇'よ、古墳時代後期から奈良時代の竪穴住居Z、棟
代の複合遺跡である。5次調査では、古墳時代後期から奈良時代の竪穴住居10棟・
掘立柱建物5棟・鎌倉時代の士坑2基などが現在までに確認されている。
113W.オY建物5桃・鎌倉時代の-2坑2基撤好が現潅豈でに確認されでいる。
鴻ノ木遺跡松阪市射和町鴻ノ木
喝ノバ遺跡松坂?!『肘和醐j、鯛ノ水
一般国道42号松阪多気バイパス建設
般[可道42号・楢阪多気バイパス建設
]O/18~]Z/Z51,340,f
10/18~12/251,340㎡
河瀬信幸・小林秀
河瀬信奉.'j、林秀
鈴鹿Lll:i岸の標高84冊、諭後の段『§-..に位個-3る人外遺飾ijL、縄文時代から鎌倉時
鈴鹿川北岸の標高84m前後の段丘上に位置する大鼻遺跡は、縄文時代から鎌倉時
今侭度が当該事業の初確度iごあたり、予備調査の結果に基づき鶇ノ木遺跡130800
今年度が当該事業の初年度にあたり、予備調査の結果に基づき鴻ノ木遺跡13,800
㎡のうちユi1,10㎡の調五を開始した=遺構は上砦.卜.」苔に分かれ、現攻};t上層の制
㎡のうち1,340㎡の調査を開始した。遺構は上層・下層に分かれ、現在は上層の調
査を行っており、奈良~平安時代の掘寸柱建物3棟・土坑1基・方形周溝遺構1基
畿を行ってハ;リ、奈良…平安時代のI1m寸緋建物3棺一・』L抗ユ基・方・形」剖欝遺構二基
などが検出されている。なお下層は縄文時代早期が中心である。
婚どが検畠苔汎定いる。なおF層は縄文時代早期が、j』心であみ.
センター日誌抄
10.17埋文技術者町村研修(美杉村)開始
(白山町北家城遺跡)
17~18公立埋文センター連絡協議会研修会に参加
大垣市教育委員会職員来所
8.
10
(山梨県甲府市)
公立埋蔵文化財センター協議会東海北陸ブロック
会議
23元興寺文化財研究所より保存処理済遺物返却
11
津市六大B遺跡現地説明会
26岡山県古代吉備文化財センター職員来所
18
伊勢市落合古墳群現地説明会
9.4
5
北勢町川向遺跡現地指導
19
台風19号により遺物収納倉庫被災
21
名古屋市見晴台資料館遺物貸し出し
1q9
16
30文化庁主任調査官来所
11.9千葉県印旛郡市埋蔵文化財センター職員来所
13束大阪市博物館予備調査に来所
一宮市博物館より遺物返却
15沼津市教育委員会職員来所
埋蔵文化財担当者会議(上野市)
松阪・多気バイパス予定地内本調査開始(松阪市)
26埋文技術者町村研修(関町)開始(2か月間)
12.1埋文技術者町村研修(多気町)再会(1か月間)
-3-
5~6束海四県文化財担当者会議(美濃市)
市町村指導
多気町河田河田E-6墳
河田E-6号は、多気町河田に所在す
る河田古墳群中の1基です。河田古墳群
は、かつて100基以上の古墳が確認され
ていた県内でも有数の群集墳でした。し
かし土砂採取や工場用地造成などで次々
と姿を消し、今では20数基を残すのみと
なっています。E-6号墳もやはり土砂
採取のために姿を消すことになり、合わ
せて多気町職員の研修も兼ねて平成2年
写真1
墳丘全体図(西から)7月から8月にかけて発掘調査を行いま
した。
河田E-6号墳は、標高50m前後の丘
陵の南側中腹に位置し、直径約15mの円
墳です。埋葬施設は木棺直葬で-部粘土
に覆われていました。木棺は長さ約45
mの割竹形木棺で両端は粘土で蓋がされ、
本体の一部は炭化した状態で残っていま
した。副葬品としては棺内から6世紀末
に比定される須恵器(18点)・刀子(5
写真2主体部遺物出土状況点)。銀環(4点).馬瑠製の勾玉(1
点)。金銅製の空玉(2点)、棺外の埋土から土師椀(2点)・鉄鍼(2点)、墳丘南斜面か
らは須恵器の砿(1点)・短頚壺(1点)、西側の周溝から須恵器の杯(2点)など、たくさ
んの遺物が出土しました。
E-6号墳の特徴として、6世紀末の古墳としては比較的大きな木棺が使用され、2遺体を
同時に、しかも頭を同じ方向に向けて直列に埋葬されていた点が挙げられます。これは検出さ
れた銀環や歯の位置から確認され、全国的に見ても珍しい例です。歯の鑑定の結果l遺体は30
歳前後のしっかりした体の成人であることがわかりました。
河田古墳群では来年度にE支群の5基の発掘調査が予定され、その中にはE-6号墳より大き
い直径約22mの2号墳も含まれています。調査終了後にこれらの古墳が消滅してしまうのは大
変残念なことです。(江尻)
-4-
施設紹介
第一研究室
三重県内各地の発掘調査現場から搬入されて
くる遺物は、整理室での作業を経たあと、発掘
調査担当者によって選別されて第一研究室に運
び込まれます。遺物は種類や時代がさまざまで、
長い年月土の中に埋もれていたために破損しや
すくなっています。なかでも特に木製品や金属
製品などは腐蝕しやすいので、丁寧で迅速な対
応が必要です。
さて、遺物には、ほとんど完全な形のものや、元の形に接合できるものもありますが、ほん
の小さな破片も少なくありません。そのような場合でも、まず実測という、形や大きさを復元
しながら図化する作業をおこないます。実測には、三角定規やディバイダー(2点間の距離を
測る)やキャリパー(厚さを測る)やマーコ(遺物のおおよその形をとる)などを使います。
そして、測った点を方眼紙におとし、点と点を結びながら遺物を描いていきます。そのとき、
成作過程なども細かく観察して実測図面に記録します。遺物の形や成作技法は時期や時代によっ
て変化しているため、遺跡の時代や性格を考えるうえでとても大切な要素となっています。で
すから実測は、考古学の研究のための基礎的な作業といえるでしょう。
完成した遺物実測図は、発掘調査担当者に手渡されて、新たな作業にうつります。発掘の終
了した遺跡は、その調査成果を現地説明会や調査報告書などによって発表することになってい
ます。しかし、現地説明会資料や調査報告書を刊行するためには、方眼紙にかかれた実測図の
ままで掲載することはできません。そこで発掘調査相当者が、まず遺跡の遺構実測図と遺物実
測図を縮小し、図版としてレイアウトします。次にトレースの作業に入ります。レイアウトし
た図版の上に半透明のトレーシングペーパーやトレーシングフイルムを重ね、0.1mmずつ太さ
の違うペンを使い分けて下の実測図を写していきます。ここでは実測図を正確に描いていくこ
とが大切なので、つなぎ目がめだたない勢いのある美しい線を引くことに細心の注意を払って
います。このようにしてトレースされた図版が印刷されることになります。
以上が第一研究室での私たちの主な仕事です。実測やトレースは根気のいる地味な仕事です
が、さまざまな遺物を手に取って観察するということには興味深い-面もあります。今後は、
発掘調査担当者の要求に答えられるように、技術の向上とスピードアップをめざしていきたい
と思っています。
(藤田)
-5-
|奈良国立文化財研究所研修報告’
平城京発掘雑感
本年(1990)7月1日より9月30日までの3ヶ月間、三重県埋蔵文化財センターの職員研修
の一環として平城京内の発掘調査に参加させていただいた感想を簡単に述べることにします。
まずここは古代国家の中枢ということから、その遺構密度。遺物量は地方のそれと比較になら
ないほど多量です。また奈良時代の仏教隆盛により大規模な寺院が多くあり、寺院跡の調査も
盛んです。さらに、地方では余り見られない木簡。墨書土器。人面土器等の特殊な遺物なども
出土しています。
そこで、これらの多様な遺構・遺物に対応して充実した調査を進めていくために各専門分野
ごとに分業が図られ、あわせてその成果が総合的に深められるよう体制に工夫がなされていま
す。このような環境の中で自分が研修を受けることができたことをとても幸せなことであると
考えています。研修は夏の暑い期間に現場作業で遺構検出が中心でしたが、調査区の設定から
発掘調査の各行程を経て埋め戻しまでの一連の作業を通して学ぶことができました。この貴重
な経験を今後の業務に生かしていきたいと思っております。
そして私が最も感心したことは、彼ら調査員の遺構検出に対する真剣な態度でした。彼らの
遺構を見る眼はあくまでも厳しく、事実を合理的に追求し、疑問点は徹底的にチームで検討し
て全ての可能性を考え、そして最も妥当な結論を合議により見いだすのです。「遺跡調査の基
本は正しい遺構検出にある」、これが今回の研修で得た最も大切なことだと思います。もし、
遺構を自分の安易な予想で掘ってしまってはそれは遺跡調査ではなく、想像の工作物になって
しまうのではないでしょうか。そして次の調査との合理的な整合性をも失われてしまう恐れも
あるのです。私はこの基本だけは決して忘れまいと思います。(吉沢)
'第10回三重県埋蔵文化財展
三 重の古鏡
久居市中央公民館
』
jjj
間所催
期場、主
/く/くく
平成3年2月2日(士)~2月17日(日)
三重県埋蔵文化財センター。久居市教育委員会
記念講演会
〈日時〉
平成3年2月10日(日)14:00~16:OO
<場所〉
久居市中央公民館大会議室
<テーマ〉
三重の古墳時代と鏡
<講師〉
三重大学教授八賀晋先生
-6-
県内出土銭貨一覧補遺(皇朝銭。渡来銭)
皇朝銭
’(2)和同開珠’
遺跡名
北PL1j皆跡
所在地
1INI
銭貨
卜野市大谷
(2)(銅)
考
1990年度調査
渡来銭
;:鰈#i藤…誉脆,:庭-1,“,’。±
〈唐以前〉
造跡名
|谷杣町・川原田家
所在地
銭貨|術
弩
鏡1当テ
舌
小五(漢か)’1815年(文化12)出土・「久居市史」|下巻
J、五」ii些か11815年厩匝囲山土・アワ〔肩而更I歴罰
久居市谷オ111町卑中
<唐〉
僧跡楽
來海道道跡
所在地
志摩郡阿児町国府字東海道
副元涌宅(621)
{ili
=諏県教育委員会|磯部大土自転車道整仇i事業に伴う東海道遺跡発掘調盃
|報告」1989.3
報告j1989.3
開元通宝(621)’三正県教育委員会「員弁郡大安町丹
開元通宝(621)
三正県教育委員会「員弁郡大安町丹生川上城跡発掘認]在報告」1985.3
升生川上城跡|員弁郡大安町丹生川上字正法寺
北切C遺跡|阿山郡大山田村富永字北切
中座町ネⅢ向谷|亀L11Tl7中庄lIrl,ネ111向谷
開示彌索(621)
開元通宝(621)’1984年度調査
閲元通宝(621)|明治年聞出土
舗籔蝿騒騒了壼遊一』L=議壷懸埜…&…厨画禮--
,異IR上;12
過跡名
谷杣町・川原田家
所在地
銭貨lIiii
久居市容杣町里中
舌
威康元宝(969か)’1815年(文化12)出土・「久居市史」下巻
<北 末>
m5mF医ヨ雷牽ョ可ロ[EnB
(22)祥符元宝(1008)
(17)太平通宝(976)
(23)祥杵涌宗(1009)
(18)i享化元宝(991)
(19)至道元宝(995)(20)威平元宝(998)(21)景徳元宝(1004)
(30)呈宋通宝(1039)’(31)至和元宝(1054)
(32)至和通宝(1055)
(33)嘉祐完辛(1056)(34)嘉祐涌宗(1056)(35)済平元宗(1064)
(34)嘉祐涌宗(1056)
(24).占禧彌牢(lOI7)
(FIR)希書涌奈(1078)
(36)治平通宝(1064)’(37)熈寧元宝(1068)
(42)聖宋元宝(1101)’(43)大観通宝(1107)’(44)政和通宝(1111)
|迫跡名|所在
所在地
一志郡向lllUlT#「市字}]l原仙
|古市遺跡|一志郡白山町古市宇川
|壱ノ代1皆跡|卜野市商111孚脊ノ代イlh
(25)天聖元宝(1023)(27)明道元宝(1032)(28)景祐元宝(1034)
(27)明道元宝(1032)
(39)元祐迪宝(1186)
(45)音和涌壼(11]9)
面ヂト鈩宜
(40)紹聖揃宅(1094)
(64)熈寧涌宇
lHi
(41)元符通宝(1098)
妾
業薙稗轆備耶業地域埋蔵文化財調森報告Ⅲ1985
(25)
業基鱒繋イjNi事業地域埋蔵弓irイk財調杏報娑fI19R5
楠ノ木遣跡
來海道週跡
度会都玉城町I勝田
庭念認土{域IIUTj勝、
志摩郡阿児町国府字束i毎道
志摩郡阿Iu町囚府寸:飛騨道
(18)(20)(37)(38)
(33)(38)(42)(45)
三璽県教育妾貝会|磯剖l大王自転車道整備事業に(半う東海道遺跡発掘餅I錘
什凹と川上城跡
ガヴ生」I:1..』月2号I
員弁都大安IHT丹生川上字正法寺
PKj.。|LPノ、。r原」,丁△・〃0Ⅱ._・ミニI[.『空でTZ
(l7x25)(30)(34)
)121D[30J[34J
三重県教育委員会「員弁郡大安町丹生川上城跡発掘調査報告』1985.3
鶏liiiiT画
(35)(37)(39)
(40)(42)(44)
鞭ノ未摺一回HT
松ノ木遺跡
津市安東IUJ卒1星ノ木
趣ノ木型壁 弓蚕テテT等nI1oIIlIg乞纏ノ天
jiniぞ[す⑰t1i世1m;
橘垣内遺跡
津市大皿窪田UIT字柿珂内
(34)(37)(39)(43)
)137)⑬9)QaL
(40)
答オlllmT。Ⅱl原R=l家
入店市谷1111町里中
北・切C蹟跡
河:L郡大11;:ニーメジ糟水.i:北切
阿山都大山田村.富永字北切
(37)
渋鳳砦跡
増見砦跡
,韮市渋貝町字城
向山中世墓
-lhllll中止墓
糀犀遍内十冒跡
南曇大町
(25)(38)(39)(41)
(64)
〔64)
U、.。]qIImjiIlI・IH「hRIIF皀乞ITOlノハ
阿山郡阿UliEi・瓶'11字''01匹l
四I山郡|河山町植山字門出
」且UUTIf諏訪
上野市諏訪
亀.111市羽芸町糀'三痘内
(39)
[39)
(文イ1m
1815年(文化12)出土
「久居市唖Ⅱ下巻
1984口L没鋼迩
1984年度調盃
]973年|寺認容
m7I
[37)
1回、
1989年度調査.|杉田氏城跡発掘調査概要
(44)
[44)
「4m
(15)(17)(18)(19)
鈴鹿市南長大町
冒会「一般国撞23号中勢道路flL蔵文化Hフ1-薬押調杏概報Ⅱ11990.3
三駆県教育霞z首障麺I
1989年度調査
度訓盃
1989~1990年笈嗣変
(38M44)
川北城
跡’7聿市大里川北町字束谷
ⅡI北域趣
匠追」Tl六二」具jlBIEuij百一認モ矛
。Z尻山F号I鐸亘柾
杉FR氏」戒排
1診田氏」丘ERnR
報ニテI1gFlg-FI
(20)(21)(22)(23)
(24)(25)(27)(28)
(30)(31)(32)(33)
(34)(35)(36)(37)
(38)(39)(40)(41)
1987年度調査
1990年度調査
1986年度出土・中川栄久氏宅
(42)(4nM(4)(4R)
42)(43)
〈金〉
遺跡名|所在地
南長大町
雨長太町|鈴鹿市南長大町
銭貨
正隆元宝(1158)
大宗涌雫(1178)
術
老
1986年度出土・中川栄久氏宅
〈南 朱>
(47)淳煕元宝(1174)(48)紹與元宝(1190)(49)I慶元沮宝(u95)(50)嘉泰通宝(1201)(51)開禧通宝(1205)
(49)1塁元迎宝Ul95)
(50)嘉泰通宝(1201)
(51)開禧通宝(1205)
(55)亭煕涌宗(1237)
(56)埠祐元宇(1241)
(57)皇宋元索(]253)
(53)大宋元宝(1227)
(53)大宋元宝(1227)(54)紹定通宝(1228)(55)嘉煕通宝(1237)(56)淳祐元宝(1241)(57)皇宋元宝(1253:
(59)厳,享元字(1265)
(59)威淳元宝(1265)(65)建炎通宝(1127)(66)紹興通宝(1131)(67)端平元宝(1227)(69)紹煕元宝(1190)
遺跡名
所
在地
銭貨
(52)嘉定通宝(1208)
(5B)景守万当字(1260)
倣考
古市道跡
谷杣町・川原田家
召イ11可.Ⅱ】原I士I淳
一志郡白山町 古市学Ⅱl原イllZ
(49)
=近県数着弓萎目会「昭和59年I珪騨業基艀轄lドマ事業地域埋蔵文イ脂財-調存報告11985
入尼十市谷;flllⅢJ聖中
入居市谷杣旧J里「:Z
(47〕(50)(53)(55)
【47〕(50)(53)[55]
1815年(文化12)出土・「久)舌市史」下巻
南長大町
而憂大iZ=
鈴鹿市南長大町
(47)(48)(49)(50)
(51)(52)(54)(55)
〔51)(52)(54)(55)
1986年産出土・中川栄久氏宅
(65)(66)(67)
(56)(57)(58)(59)
【56)(57)(58)(59)
(G5M69)
<汗1〉
〈元>
E顕771扇議久矯市瀞、爾蒐噂襟馳銭=斑一一譽
壽蕊嘉瀞五鼠……ニドヲモ歸霞「澪
遺跡名
谷杣町・川原田家
所
拝」IIJ
久居市谷杣町里中
銭1汀
全阯漁宝(1351)
天宗彌索(1361)
術
者
1満
妻
1815年(文イヒ12)出土・’久ノ舌市史」|下巻
士.「久居
<明〉
(61〕洪武十巾句す(1368)l(G2)永鑿。i甫宝(1412)
遺跡名所海地
青ノ代遺跡|上野市高山字青ノ代他
ハノカイ皆跡l伊勢市}堂オミ;1-町垂ハノカ
伊勢市l梨村-町字ハノカ
若宮遺跡
多気郡勢和村丹生字若宮
丹一生川上城跡|員弁郡大安町丹生川上字
員弁郡大安町丹生川上字正法寺
橋垣内遺跡|津市大里窪田町字橋垣内
橋垣内遺跡
南一展大町|鈴鹿市南長大町
南一展大町
〈朝鮮半島〉
’遺跡名’所在地
|秘ノ木1百跡|}韮市容東、T卒J1空ノホ
三コエ県教育委員
佳子11985
1990年度調査(;
(62)
(62)
1988年腱調査(1
(61)(62)
三コに県教育委員
苣祗県教育雲居
幽喫団
逮市客車町宰j堅ノ木
松ノ木遺跡[津市安東町字樫ノ木
銭貨
(fi2)
1990.3
1989年)英調査
1986年度出土・中川栄久氏宅
銭貨
箆・平涌壼(窩噸か)
jiii老
=T1r県教育季目今「一般圃擶23号中勢萢跨埋蔵支代財発掘認容概報ⅡⅡ1990.3
*銭貨の番号は「三重県埋文センター通信みえNq2」の銭貨一覧に対応しています。
*この他、久居市榊原から多最の銭貸が出土しているようです。
-7-
幽逝’上野市石山古墳採集の三角縁鏡片
上野市才良字片|岨に所在する石山古墳は、昭
和23年から26年にかけて故小林行雄氏を中心と
した京都大学考古学教室によって調査が行われ
た。全長約120m、後円部径約70m、前方部幅約
40mの前方後円墳です。この調査によって墳丘
には葺石や三重にめぐらされた円筒埴輪列が検
出されたほか、後円頂部には方形区画状に配列
された円筒埴輪列や規格的な配列を窺わせる家.
楯・靭・鞆・蓋・水鳥など多数の各種形象埴輪
上野市:石山古墳採集の鏡片2/1
群が出土しています。
さらに、3基にわたる粘土榔の主体部の調査では鍬形石・石釧・車輪石などの石製品や石製
模造品、革綴甲・素環頭太刀・鉄斧・鉄鍬・鉄鎌などの鉄製品、玉類、革製楯、巴形銅器、鏡
など鯵しい出土品があり、三重県下では数少ない4世紀代の古墳として、また学史に残る遺跡
の一つとして古くから知られていました。
さて、ここで紹介する鏡片は過年埴輪を研究テーマとする先輩を案内して現地に赴いた際、
後円頂部の主体部調査痕かと思われるクポミ付近で図らずも採集したもので、鏡縁を含めた外
区部分の約25cm×2.5cmの細片です。
鏡縁の断面は最大7mmを測り、これに続く外区は2mm内外である。鏡縁に内接する鋸歯文帯
及び複線の波文帯はみとめられるものの、鋳上がりがあまり明瞭ではありません。これに比べ、
その内側に続く鋸歯文帯はやや粗雑な感は否めないものの、明瞭な鋳上がりです。細片である
ため文様の把握できたのは以上のみで、直径の推定も不可能です。
昭和23年から26年にわたる京都大学の調査では佑製神獣鏡、小形鏡及び内行花文鏡が各1面
出土していることは明示されているものの、
編集後記
三角縁神獣鏡の出土はこれまで知られてい
ませんでした。しかし、石山古墳にも当該
資料が所在したという新たな知見は極めて
※暖冬と言われつつも、年末年始は例年なみに寒
かったように思います。年越の調査現場もあり、
まだまだつらい作業が続くものと思われます。
意義深いものであり、今後多くの方々によっ
※本号では特別企画として、奈文研での研修体験
て検討されることが期待されます。
記を載せました。また出土銭貨の一覧表は2号分
(吉水)
を補うものです。あわせて御利用下されば幸いで
す。
-8-
三重県埋藏文化財センター
局