カナダにおける狂犬病 鹿児島大学名誉教授 岡本嘉六 カナダにおけるヒト狂犬病発生はきわめて少なく、注目しないでいたが、動 物における狂犬病発生はかなり多いことが判った。すなわち、狂犬病罹患動物 による咬傷事故は発生しているが、曝露後予防処置によって発症を防いでいる のであり、そうした意識向上によって海外で暴露した輸入症例もほとんどない。 カナダは、「狂犬病は 100%予防可能な病気である」ことを実証している国であ る。 野生動物の狂犬病発生の推移、Rabies in Canada 2014 年までは通年、2015 年は 10 月までのデータであり、陽性率は 2014 年が 4.8%(93/1918) 、2015 年が 6.6%(131/2000)であった。斃死や病気によ る異常行動の野生動物の個体を調べており、サンプル数としては十分である。 野生動物の狂犬病は 21 世紀初頭に比べて大幅に減少しており、とくにスカ ンクが顕著である。コウモリも減少しているが、近年の発生は高止まりしてい る。アライグマとキツネは、年毎の発生にムラがある。北極ギツネがこの期間 に初めて 2014 年に 10 頭、2015 年に 13 頭報告されたが、1980 年に北極ギツネ の 21.9%狂犬病だったとする報告があり、2013 年までキツネに一括されていた のが再区分されたのかも知れない。元々、世界各地の北極ギツネは狂犬病ウイ ルスの北極関連系統の主要な保有動物である。 家畜の狂犬病発生の推移、Rabies in Canada 家畜の狂犬病はこの 14 年間で 354 例発 生し、牛が最も多く 38.4%を占め、犬 32.2%、 猫 14.7%、馬 10.2%と続いた。ヒトの最も近 くにいる犬と猫が 47%を占めたことは意外 である。 牛の症例は 2007 年以降激減したが、 犬は年平均 8.5 例だが増減を繰り返してい る。猫と馬は年間 10 例未満で漸減している。 2014 年 1 月~2015 年 10 月の間の野生動物と家畜を合わせた州別発生例数 は、サスカチュワン州 41 例、オンタリオ州 31 例、マニトバ州 29 例、ヌナブト 準州 26 例(内北極ギツネ 18)、ケベック州 26 例(2)、ニューブランズウィッ ク州 26 例、ブリティッシュコロンビア州 19 例、ニューファンドランド・ラブ ラドール州 13 例、アルバータ州 7 例、ノースウエスト準州 6 例(3)であった。 総じて南部の州で多いが、ヌナブト準 州は北極ギツネの発生が総数を押し上げて いる。北極ギツネの狂犬病は 2014 年 1 月 にノースウエスト準州で 2 例が初めて報告 され、その後ヌナブト準州での報告が続い た。ケベック州からの報告もあり、2015 年 5 月までに 23 例が報告された。 月別発生例数が判った 2 ヶ年を見る限り、とくに目立った季節性はないよう である。 カナダの州別狂犬病確認頭数(北極ギツネ):2014 年 1 月~2015 年 10 月 オンタリオ州におけるヒト曝露後予防と動物の狂犬病、2001~2012 Human Rabies Post-Exposure Prophylaxis and Animal Rabies in Ontario, Canada, 2001–2012 ヒトの死亡例は 1924 年から 2009 年まで 6 つの州で 24 名報告されており、 21 世紀になってからは 2000 年(ケベック州)、2003 年(ブリティッシュコロ ンビア州)、2007 年(アルバータ州)の 3 例のみで、いずれもコウモリへの曝 露によるものだった(カナダ公衆衛生省:Canadian Immunization Guide, Part 4 Active Vaccines, Rabies Vaccine) 。曝露後予防処置を受けた人数と詳細については、動物 の発生数が多いオンタリオ州の公表資料が見つかったので紹介する。動物の狂 犬病は 2001 年の 210 例から 2012 年の 28 例へと激減したが、それと並行した ヒト曝露後予防の減少は見られず、この期間を平均して 10 万人当り 13.9 であ ったとしている。 暴露原因の動物種別割合 September 2012 - PublicHealthOntario.ca 暴露原因となった動物種別割合は、コウモリが減少しその他の野生動物が増 えているが、ペットが 50%以上を占めているのが気になる。この図について、 下記の説明がなされている。 平均して、2007~2011 年において曝露後予防処置を受けた半数以上(52%)は家庭の ペット、とくに犬と猫との接触によるものだった。コウモリ(32%)ならびにアライグマ、 キツネ、リス・シマリスおよびスカンク(12%)を合わせると曝露後予防処置を受けた 44% を占めた。その他の動物と不明が、それぞれ、4%と 1%であった。この期間において、家 庭のペットとコウモリを除く野生動物による曝露割合は、それぞれ、63%と 75%増加し、 コウモリは 55%減少した。2009~2011 年において、曝露後予防処置を必要とする全ての動 物による暴露の 42%は、人々が野外活動をする 6 月から 8 月の暖かい時期に発生した。 家庭のペットによる感染例が多いことについてこれ以上の説明がないので、 家畜の予防接種に関する法令を調べた。 カナダは米国と同様に、ペットの輸出入国やワクチンの品質・製造など全国 一律の課題に関しては連邦法で規定しているが、予防接種の実施については州 法で定めている。オンタリオ州の規則では、犬と猫の予防接種義務とともに、 所有者と管理者以外が利用する馬、牛、羊についても狂犬病予防接種を義務付 けている。 オンタリオ州の「健康増進保護法」の狂犬病免疫 1. 表 1 の第 1 欄に記す保健所管内で飼育される 3 ヶ月齢以上の犬や猫を所有または飼育・ 管理する全ての者は、表 1 の第 2 欄に設定された期日以降は狂犬病に対して予防接種し なければならない。 2. (1) 表 2 の第 1 欄に記す保健所管内の施設で飼育するあらゆる馬、牛、羊を所有または 飼育・管理する全ての者は、表 2 の第 2 欄に記す動物に狂犬病予防接種をしなければな らない。 (2) 上記(1)は、当該動物を飼育・管理に責任がある者のみが利用できる場合には適用さ れない。 3. 第 1 節または 2. (1)の下で狂犬病に対して予防接種を求められる所有または飼育・管理 する全ての者は、当該動物について発行された予防接種保証書に特定された期日までに 狂犬病予防接種を再度実施しなければならない。 4.狂犬病に対する予防接種は、以下を満たさなければならない。 (a) 獣医師法の下で登録された獣医師によって実施される (b) カナダでの使用許可を得た狂犬病ワクチンを、ワクチン製造者の使用説明書にした がって接種しなければならない 5. (1) 狂犬病に対して接種または再接種する動物を所有または飼育・管理する者には、予 防接種を行った獣医師が予防接種証明書を発行しなければならない (2) 猫や犬の場合、予防接種を行った獣医師は狂犬病登録票も所有者または管理者に提 供しなければならない 6. 予防接種証明書は、予防接種を行った獣医師によって署名され、以下を含まなければ ならない (a) 動物を所有または飼育・管理する者の氏名と住所、(b) 当該動物の種、品種、性 および年齢、(c) 必要な場合、動物の刻印、(d) 当該動物が予防接種を受けた病院ま たは場所の住所、(e) ワクチンの名称とコード番号、(f) 予防接種日、(g) 当該動物 に再接種した期日、(h) 猫や犬について発行された狂犬病登録票の番号 7. この規則の下で発行された予防接種保証書のコピーは、発行者によって発行された期日 から 3 年間保管されなければならない 8. (1) 安全な狂犬病予防接種または再接種を保証できない体調を示す動物を所有または飼 育・管理する者は、以下の場合、本規則の要件を免除される。 (a) 当該動物が接種または再接種を受けられない理由について獣医師が発行した免除の 説明、および (b) 当該動物が、狂犬病に曝露されるのを排除する方法で管理されること。 (2) 前項(1)に該当する所有者や管理者は、当該動物が接種または再接種を受けられない 限り、本規則の要件の免除が継続する。 日本では狂犬病予防接種は犬のみに義務化されていることを除いて、日本の 狂犬病予防法とほぼ同じである。法令の遵守状況はどうなのか? 犬の予防接 種率はどの程度なのか? が気になるが、公表資料は見当たらなかった。そこ で、人々がペットに予防接種を受ける際に影響する事情を調べた。 米国の予防接種を受けた犬と猫における狂犬病 (Rabies in vaccinated dogs and cats in the United States, 1997-2001) サンプル集団:1997~2001 年の間に 1 例以上の犬や猫の狂犬病が報告された 41 州。 方法:1997~2001 年の間に狂犬病について検査した犬と猫の例数の情報を求めて各州と連 絡を取った。狂犬病予防接種歴のある動物について、予防接種歴、年齢、狂犬病罹患動物 への曝露歴、曝露から発症までの時間、臨床徴候、臨床徴候の長さ、ならびに当該動物が 死亡または安楽死のどちらだったかを回答者に尋ねた。 結果:41 州中 21 州(51%)がこの研究への参加に同意した。全部で 264 例の犬と 840 例 の猫の狂犬病症例が研究期間に特定された。13 例(4.9%)の犬と 22 例(2.6%)の猫の狂 犬病症例に予防接種歴があった。それらの中で、2 例の犬と 3 例の猫はその時点で予防接種 されていたと分類された。全体として 6 例(犬 1 例と猫 5 例)は生涯に 2 回のワクチンを 受けており、その内 2 例の猫はその時点で予防接種されていたと分類された。 「生涯に 2 回のワクチン」とあるが、ワクチンの有効期間との関係では「2 例の猫」だけが該当し、0.24%(2/840)の希なケースがあったということであ る。 米国の犬と猫における狂犬病ウイルス変異株の疫学的特徴 (Epidemiologic characteristics of rabies virus variants in dogs and cats in the United States, 1999) 。 サンプル集団:犬 78 例と猫 230 例からの狂犬病ウイルス 方法:狂犬病に罹患した犬と猫の脳標本を狂犬病ウイルスの型別に供した。それぞれの動 物の所有者と予防接種を含む経歴を入手した。標本は、間接蛍光抗体法または逆転写 PCR と塩基配列解析によって型別した。 結果:ほとんど全ての動物はその場所に関連するコウモリ以外の変異株に感染していた。 コウモリ型変異株はメリーランド州の 1 例の猫でのみ見つかった。調べた動物の半数以上 (53%)に持主がおり、そのほとんどは予防接種歴不明であった。予防接種無効が、狂犬 病の疑われる動物に曝露した後に狂犬病ワクチンの追加接種を受けなかった 1 例の犬で報 告された。 結論と臨床的関連性:コウモリ型ウイルスは、1999 年を通して犬と猫の狂犬病の一般的原 因ではなかった。予防接種無効は、この研究期間を通して一般的ではなかった。狂犬病に 罹患したほとんどの犬と猫は予防接種を受けておらず、放浪犬より持ち主がいる動物であ り、飼い主を対象とする教育活動が有用である。 犬や猫がコウモリ型ウイルスに感染する事例は希であるが、その猫の例も予 防接種無効ではなく、予防接種を受けていなかったためとされている。予防接 種無効例は犬 1 頭のみであり、この記述からすると、犬においても曝露後接種 が必要とされていることが判る。体調不良などでワクチン効果が十分でない例 もあることから、 カナダにおける犬の狂犬病予防接種率はふめいであるが、しかし、上記の論 文を基に狂犬病予防接種は無駄であるとする主張がネット上に多い。こうした 希な事例を基に狂犬病予防接種の有効性を論じることは間違っており、論文の 著者の意図を歪曲している。また副作用を煽る主張も多いことから、米国と同 様にカナダでも予防接種していない飼い主が多いのかも知れない。 理由はともかく、カナダでは 10 万人当り 13.9 が曝露後予防処置を受けてお り、その半数以上がペットからの感染である。それでも狂犬病による死亡がほ とんど発生していないのは、曝露後予防処置の必要性が周知されているためだ と思われる。狂犬病ワクチンおよび接種方法については、予防接種に関する国 の諮問員会(NACI)が定め、曝露前および曝露後の具体的な予防処置は、各州 で決められている(Rabies Post-Exposure Publicly-Funded Immunization Programs in the Provinces and Territories of Canada (as of September 2014)) 。 NACI 勧告 これまで接種していない者:5 回接種(0、3、7、14 および 28 日目) これまでに接種した者:ヒト 2 倍体細胞ワクチン(HDCV)または精製鶏胚細胞ワクチン (PCECV)の 2 回接種 ブリティッシュコロンビア州 曝露前予防:3 回投与。カナダの獣医大学または動物衛生技術訓練センターに在籍の学生に は無料で提供。 曝露後予防:4 回投与(正常免疫者)、または 5 回投与(免疫不全者) 。 アルバータ州 曝露前予防:3 回投与。獣医師、獣医療看護師、獣医師補助者、動物福祉協会/動物愛護団 体作業員、動物研究者、動物管理者、野生動物作業員、洞窟探検家(仕事として) 曝露後予防:これまでに接種していない者;4 回接種(正常免疫者) 、または 5 回投与(免 疫不全者) 。これまでに接種している者;2 回接種。 サスカチュワン州 曝露後予防:4 回接種(正常免疫者)、または 5 回投与(免疫不全者) 。 マニトバ州 曝露前予防:職業上のリスクがある者;獣医師と獣医師補助者、剥製師、狩猟者・洞窟探 検家、傷病野生動物介護者、環境保全官、森林公園警備隊員・動物管理官、狂犬病を扱う 研究者と調査員、狂犬病流行国で活動する人畜共通感染症などの従事者 曝露後予防:保健医療官によって承認された者 オンタリオ州 狂犬病が疑われる動物に咬まれるか、引掻かれるか、傷口や粘膜を舐められた者 ケベック州 曝露後予防:狂犬病の潜在的感染源に曝露される者は 2 回(既接種者)または 4 回(これ まで接種を受けていない者) ノバスコシア州 公的には曝露後予防のみに資金提供(狂犬病が疑われる動物に咬まれるか、引掻かれるか、 傷口や粘膜を舐められた者) これまでに接種を受けた者:5 回接種(0、3、7、14 および 28 日) これまで接種を受けていない者:HDCV または PCECV の 2 回接種 プリンスエドワードアイランド州 曝露前予防:人道団体の雇用者、野生動物プログラムおよび獣医大学の学生には 3 回投与 曝露後予防:狂犬病が疑われる動物に咬まれるか、引掻かれるか、傷口や粘膜を舐められ た者には公的資金提供 ニューファンドランド・ラブラドール州 曝露前予防:獣医師と獣医師補助者、環境保全官などの傷病野生動物に関わる者、狂犬病 を扱う研究者と調査員には 3 回投与 曝露後予防: 4 回投与(正常免疫者)または 5 回投与(免疫不全者) 州によって内容は異なるが、曝露後予防だけでなく曝露前予防の対象者が明 記されており、リスクを伴う活動を行う者は曝露前予防をするのが当然とされ、 公費によって負担している州もある。全ての飼い主にペットの予防接種を強制 できないことを前提に、狂犬病に罹患した野生動物との偶発的曝露を含めてヒ トの予防接種を徹底していることが判る。
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