世界一のトヨタ自動車創業者・豊田喜一郎

世界が
世界が尊敬した
尊敬した日本人
した日本人(26)
世界一の
世界一のトヨタ自動車創業者
トヨタ自動車創業者・
自動車創業者・豊田喜一郎
前坂俊之
(静岡県立大学国際関係学部教授)
静岡県立大学国際関係学部教授)
20世紀
20世紀の
世紀の自動車社会を
自動車社会を切り開いたのは T 型フォード車
フォード車だが、
だが、GM やアメリカビッグ3
アメリカビッグ3を抜いて、
いて、
トヨタ自動車
自動車が
世界一となった
となった。
今やトヨタ
自動車
が世界一
となった
。
そのトヨタ
そのトヨタ自動車
トヨタ自動車の
自動車の創業者が
創業者が豊田喜一郎。
豊田喜一郎。
父・豊田佐吉が
豊田佐吉が自動織機を
自動織機を発明すれば
発明すれば、
すれば、息子・
息子・喜一郎は
喜一郎は自動車生産と
自動車生産と
いう20
20世紀
世紀の
いう
20
世紀
の 2 大発明を
大発明を親子で
親子で成し遂げ、世界一の
世界一のグローバルカンパー
げた。
世界の
企業史にもない
にもない輝
かしい記録
記録である
である。
を築き上げた
。世界
の企業史
にもない
輝かしい
記録
である
。
1927 年(昭和2
昭和2)11月
11月、豊田佐吉は
豊田佐吉は発明の
発明の功績を
功績を認められ名古屋離宮
められ名古屋離宮で
名古屋離宮で昭和天皇から
昭和天皇から
単独拝謁の
けた。
単独拝謁
の栄を受けた
。
帰宅した
帰宅した内輪
した内輪の
内輪の祝宴で
祝宴で、「わしは
、「わしは織機
わしは織機を
織機を発明し
発明し、お国に尽くした。
くした。家業を
家業を引き継ぐのでは飛
ぐのでは飛
はない。
自動車をつく
をつくれ
喜一郎に
遺言ともいえる
ともいえる一言
一言を
した。
寡黙な
躍はない
。お前は自動車
をつく
れ」と喜一郎
に遺言
ともいえる
一言
を残した
。寡黙
な喜一郎
自動車製造への
への情熱
情熱はこの
はこの時
点火された
された。
の自動車製造
への
情熱
はこの
時、点火
された
。
1894(
1894(明治27
明治27)
27)年6月生まれの
月生まれの喜一郎
まれの喜一郎は
喜一郎は東大機械工学科卒業後、
機械工学科卒業後、佐吉の
佐吉の会社に
会社に入
ニューヨーク市
にあふれたクルマ
クルマ社会
社会に
圧倒され
された
当時の
り、大正 10 年、米ニューヨーク
市を訪れ、街にあふれた
クルマ
社会
に圧倒
され
た。当時
の日
荷車、
リヤカー、
自転車が
輸送手段で
外車ばかりで
ばかりで全国
全国に
わずか約
千台。
本は荷車
、リヤカー
、自転車
が輸送手段
で、車は外車
ばかりで
全国
にわずか
約1万5千台
。
クルマを
つなど夢
のまた夢
われていた。
個人がクルマ
を持つなど
夢のまた
夢と思われていた
。
佐吉は
佐吉は英国プラット
英国プラット社
プラット社から自動織機
から自動織機の
自動織機の特許料
特許料100万円
100万円(
万円(現在なら
現在なら100
なら100億円
100億円以上
億円以上)
以上)を得
たが、
税務当局がこの
がこの特許料
特許料に
莫大な
課税をした
をした。
たが
、税務当局
がこの
特許料
に莫大
な課税
をした
。
トヨタ側
トヨタ側は裁判で
裁判で争い、最後には
最後には調停
には調停となって
調停となって課税
となって課税は
課税は減額されたが
減額されたが、「
されたが、「どうせ
、「どうせケチ
どうせケチがついた
ケチがついた、
がついた、
100万円
万円だ
自動車の
研究費に
てろ」
佐吉は
喜一郎に
えた。
拾い物の100
万円
だ、自動車
の研究費
に当てろ
」と佐吉
は喜一郎
に与えた
。
父の気質を
気質を継いで無口
いで無口で
無口で技術肌の
技術肌の喜一郎は
喜一郎は「高度な
高度な技術膨大
技術膨大な
膨大な部品が
部品が必要で
必要で、三井、
三井、
三菱も
三菱も諦らめた国産車
めた国産車の
国産車の製造は
製造はムリだ
ムリだ」「100
」「 100万円
100万円を
万円 をドブ捨
ドブ捨てるようなもの」
てるようなもの」 と周囲の
周囲の 猛反
った。
対を押し切った
。
工場も
工作機械も
自動車鉄鋼も
膨大な
部品も
技術者もいない
もいない、
ゼロから
から出発
出発だ
工場
も工作機械
も、自動車鉄鋼
も、膨大
な部品
も、技術者
もいない
、全くゼロ
から
出発
だ
ったが「
試作車を
言明した
した。
ったが
「1年で試作車
を作る」と言明
した
。
昭和 8 年(1933)
1933)9 月、喜一郎は
喜一郎は豊田自動織機製作所(
豊田自動織機製作所(愛知県刈谷市)
愛知県刈谷市)の一角で
一角で自
動車部を
発足させ
させ、
自動車作り
んだ。
動車部
を発足
させ
、自動車作
りに取り組んだ
。
GM 車「シボレー1933
シボレー1933 年型」
年型」や外車を
外車を全部ばらして
全部ばらして、
ばらして、1 つ 1
つの部品
部品にまで
にまで分解
分解して
して、
つの
部品
にまで
分解
して
、 同 じものをマネ
じものを マネて
マネ て 組 み立 てる。
てる 。
難関は
エンジン心臓部
心臓部の
シリンダーブロックで
内部に
難関
は エンジン
心臓部
の シリンダーブロック
で 、 内部
に無
のある鋳型
鋳型ができない
ができない。
数の穴のある
鋳型
ができない
。
高温、
高温 、スピード回転
スピード回転に
回転に 耐え切れず500
れず500回
500回 も作り直 した。
した 。高精度の
高精度の歯車つくりも
歯車つくりも困難
つくりも困難をき
困難 をきわ
をきわ
めた。
喜一郎はこの
はこの間
めた
。喜一郎
はこの
間、工場に
工場に泊まりこみ、
まりこみ、徹夜が
徹夜が続いた。『
いた。『困難
。『困難だからやる
困難だからやる、
だからやる、アホかもしれ
アホかもしれ
んが、
アホがいなければ
がいなければ新
しいものは生
まれん』
喜一郎は
当時の
苦闘を
ノートに
きつけて
んが
、アホ
がいなければ
新しいものは
生まれん
』と喜一郎
は当時
の苦闘
をノート
に書きつけ
て
いる。
いる
。
1 年後の
年後の昭和 9 年 9 月、ついに3400
ついに3400cc
3400cc、
cc、6 気筒 65 馬力の
馬力のエンジンを
エンジンを完成した
完成した。
した。このエン
このエン
ジンは
何度も
走行実験を
して改良
改良に
改良が
えられた
当初100
100万円
万円の
ジン
は、何度
も走行実験
を繰り返して
改良
に改良
が加えられ
た。当初
100
万円
の研究開
発費は
アットいう
いう間
以上にも
にも膨
らんだ。
発費
はアット
いう
間に 5 倍以上
にも
膨らんだ
。
しかし、
はまだ完成
完成していない
していない。
本体の
豊田自動織機から
からの
反対は
きくなっていた。
しかし
、車はまだ
完成
していない
。本体
の豊田自動織機
から
の反対
は大きくなっていた
。昭
1936)
ついに最初
最初の
トヨタ
型乗用車」
完成し
国産トヨタ
トヨタ大衆車
和 11 年(1936
)9 月、ついに
最初
のトヨ
タ車「AA 型乗用車
」は完成
し、国産
トヨタ
大衆車
完成記念展覧会で
一般に
披露された
された。
完成記念展覧会
で、一般
に披露
された
。
ここで、
ここで、喜一郎は
喜一郎は販売員に
販売員に型破りの
型破りの訓示
りの訓示を
訓示を行った。
った。
うちの車
世界一オンボロ
オンボロです
です」
正直にお
にお客
げなさいというのだ。「
。「オンボロ
オンボロですが
ですが、
「うちの
車は世界一
オンボロ
です
」と正直
にお
客に告げなさいというのだ
。「
オンボロ
ですが
、国
産車なのでぜひ
なのでぜひ使
ってください。
そうでなければ国産車
国産車は
たない、
そのかわり、
故障すれば
産車
なのでぜひ
使ってください
。そうでなければ
国産車
は育たない
、そのかわり
、故障
すれば
いところはすぐに直
して徹底
徹底して
してサービス
サービスする
する」
との営業方針
営業方針を
社員に
したのである。
悪いところはすぐに
直して
徹底
して
サービス
する
」との
営業方針
を社員
に示したのである
。
案 の上 、急 ごしらえのトヨタ
ごしらえのトヨタ車
トヨタ車は故障続出で
故障続出で 、1年間に
年間に 改良は
改良は 800件以上
800件以上にも
件以上にも上
にも上ったが、
ったが、
即座に
対応して
して、
アフターサービスを
徹底した
した。
即座
に対応
して
、アフターサービス
を徹底
した
。
「ベンチャー精神
ベンチャー精神」「
精神」「国産技術
」「国産技術の
国産技術の自前主義」「
自前主義」「国家
」「国家のためという
国家のためという報国精神
のためという報国精神」『
報国精神」『現場
」『現場で
現場で考える現
える現
場主義』「
』「改良
改良につぐ
につぐ改良
改良の
カイゼン主義
主義」「
」「ジャスト
ジャスト・
イン・
タイムの
実践」
などの『
場主義
』「
改良
につぐ
改良
の カイゼン
主義
」「
ジャスト
・イン
・タイム
の実践
」などの
『トヨタイズ
喜一郎が
ゼロから
から苦闘
苦闘して
して作
げものであり、
この豊田父子
豊田父子の
発明家の
DNAが
ム』は喜一郎
がゼロ
から
苦闘
して
作り上げものであり
、この
豊田父子
の発明家
のDNA
が、9
0年間で
年間で日本最強の
日本最強の企業から
企業から世界最強
から世界最強の
世界最強の企業へと
企業へと発展
へと発展させた
発展させた『
させた『トヨタ
トヨタ』精神そのものなので
精神そのものなので
ある。
ある
。
本格的な
本格的な国産車「
国産車「トヨペットクラウン」
トヨペットクラウン」の完成とその
完成とその後
とその後の日本の
日本の車社会の
車社会の幕開けを
幕開けを見
けを見ることな
1952年
昭和27
27)
喜一郎は
57歳
くなった。
く、1952
年(昭和
27
)3月、喜一郎
は57
歳で亡くなった
。