法然上人鎖仰会 - 法然上人鑽仰会

浄土第78巻 4号 (毎月 1 困 1 日発行) 平成例年 5 月 1 日発行昭和 10年5 月 20 日第 3 種郵便物惚可
J・
201
2
5
,
M y
法然上 人鎖仰 会
をめ点ぐ景る 村
絵
2012年の表紙
上
健
和田塚駅
江ノ島電鉄
問治 35 年、江之島電気鋭道として藤沢一
片瀬間開通。通称「江ノ電 J 。すべての車両
編成において、
2 両 1 組の連接車で、これを
単編成もしくは 2 編成をつなげた 4 両編成
(乗連)で運行している。軌道時代の名残か
ら最新車両でも中央運転台方式を採用。
東京から 1 時間弱にあって、単線口
力ル
線の雰囲気を満喫でき、沿線は閉るい湘南、
古都鎌倉の両方を昧わえる。和田塚駅は鎌倉
から
駅、由比ケ浜との間にある。日中は駅
員が常駐しているが、夕方以降は無人駅。下
車の際には、車掌に切符を渡す。
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ー・・句・.司・p
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羽
、h 司ー
‘ー・-
平成 24 年 4 月 22 日に落慶式を迎え
た正光寺本堂 。 半地下の客績の上に
木造の本堂が重量えている . 住隠就任
4年目で立派な伽藍を建立した正光
寺第 29世高橋寿光住職
正光寺本尊阿弥陀釦来坐像
、
1
容日仏師の作と伝えられる
4a
・‘‘
.
本堂内の外陣は外履きで歩けるよう
ー階からエレベータ
になっている
で上がることができるバリアフリー
の造りになっている
伝頼朝公守り本尊の正観音像を記
る新築の観音堂に 、 かつての十二
支堂に絶っていた 8体の蓄薩を修
復彩色し安置している
本堂下に造られた半地下の客殿。 全面
ガラスの採光溢れる部屋の外には酒落
た池も造られている
。
燭玉高速鉄道線の赤羽岩淵駅 正光
寺からは徒歩 2 分の距離 ちなみに
JR赤羽駅まではおよそ叩分
。
正光寺のシンボルとなっている世継観音蓄薩像 。
上が明治 43年4 月に「世継大観音造像二十年記念
尊影」と記された記念写真で、 2000枚を信徒諸
氏に鑓与した裏書 がある 。 をは昭和の頃の写真で
をの建物が観音堂だが 、 この頃は本堂として使わ
れていた 。 下が現在の観音様
ゆ.;l.
2012/5 月号目次
カラーヴラピア寺院紀行
赤羽岩淵l 正光寺 ..
浄土アーカイブス・誌上ライブラリ 座談会
一 …写真=タカオカ邦彦
武田泰淳佐藤密雄仁戸田六 三 郎司会・宮林昭彦
寺院紀行赤羽岩淵正光寺一
… ・…・・・
一
マンガ
渡辺海旭
…...・ H ・. .. ........・ H ・...・ H ・ -…
さっちゃんはネッ
誌上句会・ H ・ H ・.....・…
編集後記 ・・… ー・…
表紙裏・
・・
・…・…
…...・ H ・.......・ a ・ .. ...
•••
-石丸品子
前田和男
ー かまちよしろう
6
14
22
3
0
3
4
。
4
9
5
0
… ………… H ・ H ・-一選者=増田河郎子
… . ...・ H ・-…....・ H ・… …・
…
• 52
駅をめぐる y語録村上健
背表紙裏・絵図に見る法然上人
表紙題字=中村康隆元浄土門主
アートディレクション=近 藤卜問郎
協力=迦 陵頻伽舎
容子
…….....・ H ・.....・ H ・-袖山猿輝
極楽に帰った法然上人 ・・ H ・ H ・..・.. ..・ a ・ -…・ ・… ・…・…
連載小説
・・…
……… ・… …… 真山剛
会いたい人奥田瑛二 さん③… H ・ H ・...・ H ・....・ H ・.....…・・ 関
響流十方 ...・ H ・.. . ..
/
法然上人を偲んで第二回
第二回
を
誌上ライブラリー [1961年
ハミよ
百
3 月号『本誌七五
O 年遠忌記念号 』より]
座談会
とき・昭和 三十六年 一月 二十五日
ところ.上野池の端「鉢ノ樹」
浄土アーカイプス
。
もちろん、洋の東西ということで、地理的条件、事情などで色々
宗教改革者として、よく法然上人があげられ、西洋における宗教改革と対比
日本の宗教改革者としての法然と西洋の場合との対比
|世界的ヒューマニズムの宗教|
司会日本の
される場合があります
っと深く、広くお感じにな ったと思うんです
。
異なると思うのですが、その辺、このたび外遊されていかがでしょうか、仁戸田先生
仁戸田それは、まあ、佐藤先生も私よりず
けれども、司会者の方からのお名指しですので申しあげますと、僕はね、話が少々ピンボ
。
ケしますけれども、洋の東西を問わずですね、信心ごころというものは、やっぱりあるべ
きものだし、実はあると思うのです
測定してみませんがね
。
お っ しゃ
だけど、先程、佐藤先生が仰 言 られま
本当の仏教は法然上人からはじまったんだ、という意味が、加持祈祷の仏数
。
法然上人の場合と、西洋の場合を比較してみますと、誰れと波長が合うかというような
。
ことは私には分りません
したですね
。
。
これは、キリスト教でいうならば、い
悪にも強いかわりに善にも強いといったようなことから、この人
ト族が、ミラノで俄悔して、百八十度かわって敬慶な信者となった、と
。
これを、また違ういい方で由・しますと、プロの仏教が、ア
というものを、切り離したというところにある、と仰言いましたが、私も兼ねがねそう思
l
マチェアの仏教に転換された、ということですね
って居るものの 一人なんです
まいう軟派のピ
いうようなことですね
これは、キリスト教でいえば天国でしょうが、丁度、そういった
。
間の信心も、罪深い罪というものを、ひとたび回向すれば、立ちどころに人聞は待土の方
へ向って進むのである
7
にえだろくさぶろう
907
年
|
1
。
ようなことのおこったのは、日本も中世ですし、
縁があるんじゃないかという気が致します
西洋も中世なんですね
。
。
年
つまり、私流に申しますと、ヒュ
ー
。
そこに何か御因
こ
っ て、
。
ところが選択集の念仏為先
この限られた人達に、将軍が病気になった、それ呼んでこい、
言 葉は、ぐっと私にもきましてね、本当に
まあ、いうなれば、先程、武田先生も仰 言 いましたように、まだまだ法然上人の御人格
。
。
とみ教えは、語り足りないんじゃないかという
そうだと思うんですよ
それというのはですね
それあそこへ行け、といったようなサークルで仏教があった
の主張というものは、最高最善の法を、最低最悪の衆生に及ぼしたということですね
れは、キリスト教が、もっと深まったアウグスチヌスの原罪説と相通ずるものであ
と思、つんです
。
1
マニズムの上に仏教というものを新し
。
。
まあ、私ども、
。
かたがた現代とい
う時代はヒューマニズムの時代でありますしね
ちょっと速いんじゃないか、と思うんです
な人にだけ適応するもので、これは、ヒューマニズムからは、
すが、これは、下品下生の衆生には適応できないことで、特別
加持祈祷とか、印をむすぶとか、護摩を焚くとか、色々の手だてがありま
く置き直した
結局私は、日本の仏教が、ほんとうの人間の仏教をつくったのは、法然上人がはじまりだ
98
仁戸田六三郎
1
あれも人の子樽ひろい、というわけですね
ことにそういう例だけ頭に先に来るんで恐縮ですけれど、あの
室の泊りのくだりなどは、もっとも現代的じゃないかと思、つん
早稲田大学教授文学博上
『
仁戸間六 三 郎宗教析学論
宗教哲学箸件に
HCZU
の研究序説 』『復活について こ 仰守と
ですね
。
ですから、この御遠忌に際しまして、私どもは、東洋
神への序説 』 悪人正機に関する私観 」『
タテマ
』『日本人の宗教怠識の本質
』
エとホンネ
等々
8
さとうみつゅう
90
l
。
従
年
。
って、どんと来いどんと来い、又、どんと行け
ト機的国際の路線において、法然上人の仏教は、国際的なヒュ
ッ
。
宗 教であり、 信 仰である
西洋を超えまして、ジェ
ーマ ニ ズ ム の
行けという気がするのでありす
司会教団もおなじように力を充分発揮したいものです
937
年、高徳院( 鎌 倉 大 仏 ) 住 職 。 刊 年 、
1
。
浄土 宗義の上からいえば、浄土 宗 以外の、そうい
これは、法然上人の時代の坊さん達が、何をしていたか、
。
半僧にな
今 、いえるこ
聖道門とよんだもの
ったといわれますが、七百五十年のちの
とは、念仏の方は在家の仏教、法然上人が
は出家の仏教ということになるんじゃないか、と思、つんです
第 一性欲を中心とした現世の欲を断
っているんだ
。
そのほかに
はともあれ、 実際上は、それと同じだと思うんですが、出家は、
。
ということも考えねばならないが、親驚聖人は結婚して、ヰ「併
ます
う修行する仏教が 聖 道門、それから念仏の法は部上門といわれ
うことです
の道は、裁々は通ることができないから、念仏往生する、とい
三 学という仏教の本格的な修行
ったけれども、私は、法然上人の仏教は、戒定
法然の仏教は民衆的在家道のおしえである
佐藤いま、ヒューマニズムというのがあ
上
1
共怯引佐勝良
・
年選化。氏荒川、パー
慧の 三学のうち、戒 学 のつももたず、むろん、戒定慧の
大正大学教明日文学内
年生、 2000
1
リ 誠 による后突なる研究を進め、
『論事党t口社』(カタl ヴァッツ
智)、国訳『薩婆多毘尼毘妥沙』、『分別論上』、
94
『町
山事
巾 ・下)、
州』、『分別品下』、仏但統記』(・上
ックにしたところで、あの
おそらく、カソリ
童 貞さまや処女
大片原始仏教教
刊 の研究』、『無川一存続講義一、
『ト八采成』、仏教教凶の成をと展開 』、「律蔵』、 さまは、只拝んだ人よりは功徳があるには違いないが、教理上
『大乗成業論』
1
勧学、η 年、知恩院副門跡就任
9
佐藤密雄
浄土アーカイプス
来世の欲も断っているんだ
。
現世の欲も捨て、来世の欲も捨てるような犠牲を払っていく
。
修行者に供養するから、供養した仏教徒は現在よりも、良いところへ生れるというが、か
ところが、浄土教というのは、そこに出家も在家もないんであって、出家というのは在
れら南方の仏教信者は、決して出家と同じ処へ功徳をうけるのじゃないんです
。
家の先導者であって、今日の如きは現世の欲望も何もすてておらない これは、出家も在
。
家も、指導者、先達もそれに導かれる同朋も同じように極楽へ生まれる極楽へ生まれて、
仏になるとかならんとかはともあれ、当面の目的は、いいところへ生まれるというのであ
。
そして、宗教というものが、 一番高い度合
って、これは、仏教のなかからいっても在家の仏教、在家道の仏数であって、出家道の仏
教からいえば、もう 一段と違ったものである
。
に来たものは何かというと、特別の修行をしているものだけが、受けるものではなくて、
。
在家の生活のなかに求められ
一応同じような幸福なり、功徳を、つける、ということになる
。
だから、浄土教には、特別の修行というものはないんだ
指導者も信ずるものも
るものだと思うんです
一度、在家道の宗教、民衆の仏教という
いま、仁戸田先生がヒューマニズムと仰言ったが、他面、在家道の仏教というものが確
立 したのであり、七 百五十年御遠忌の機会にもう
。
来ないことをいっているんですよ
家というものは家出でしょう
。
。
問題を明確にして、この御遠忌が浄土教の新出発点となれば幸いと存じます
仁戸田出
佐藤そうですよ、人間の出
1
0
浄土アーカイプス
。
。
。
僕は勝林院へ行ったんですよ
。
l
偶然だったんですがね
。
。
。
地勢なんかをみ
何回もくり返されて大蔵経を読まれて、悩んで居られた方ですね
。
それは、その通りなんですがね、ただ、法然その人に則してみると、あの通り非常
法然の人間平等論
最大の難事業を最もやさしい方法に於て発見
l
武田
に勉強なされた
あの対決は、大原問答でしたかね
。
大原の何といいましたか
佐 藤そう、新仏教と旧仏教の対決は大原問答です
武田
そうそう
佐藤勝林院です
武田
。
ったろうと思、つんですよ そこへ法然さまが乗り込んでいった、ということは、巌流島の
そのときの、法
そうじゃなくて、相手方の学僧も同時
人間平等論だから、相手がいくら学識があろうと、
。
。
て、あの時のことを考えてみますとね、ぞくぞく集ってきた、えらい坊さん達は全部敵だ
。
一つの宗派をここで確立し
対決なんかより、もっと知的な、日本の根本的な対決だったわけですね
然上人の勇気というかな、勇気というのはね、必ずしも自分の
。
ようとか、自分が、あいつらに勝ってやろう、とかいう考えではなかったと思うんですね
もし、そうだったら勝てなかったと思、つんですよ
。
。
に、同じ人問、自分のまわりに集まって来ている人間と同じ人間と考えて出かけて行かれ
法然上人は、人間平等論だからね
たんじゃないか、と思うんです
同じわけだから、そのときの、法然上人の精神状態は、相当高いものだったんじゃないか
1
1
たけだたいじゅん
武田泰淳
作家
。
、
。
それは、そういう聖道門における完成というか、徹底性があって、しかも妥協ではなくて、
一番やさしい方法を発見したというのは、実は一番困難な仕事を
。
。
念仏というやさしい道を発見された そこが何んともいえぬ、えらい人だったんじゃない
だから、かれの場合、
か、という気がするわけなんですよ
。
。
。
。
やさ
なし遂げたわけでしょう ところが、我々が、やさしい、ということだけ云っちゃうとね、
法然上人の偉さというのが、ぽけるんじゃないか それは妥協ということは、絶対にしな
かった人だからね
。
僕はね、あの人が、何故これに考えついたかというと、 二 つあると思うんですよ
しい道に近づいた事にね
、
。
。
ね
。
。
もっとも人間的ですよ
佐藤それは確かにそうですね
。
。
この人間存在の生の
。
しかも、こ
七百五十年御遠忌
。
それがしみじみと伝わっ
武田さんの仰 言 つるように、
法然上人が勝林院にいくというのは、我々の想像以上のものだ
。
てこなくなっちゃうんじゃないか、そういう心配があるんです
れを確立されるまでの苦労があった
には、つよく強調されねばならないと思いますね
けられたのですね
平等ということと、死の平等、この 二 つの問題と念仏を結びつ
く、遊女や強盗などともつきあっていた
日本国民に 一番坊さんとして親しくつき合っているね、おそら
一つは、死の問題ね、死が平等に与えられているという問題と、それから、あの当時、
。
年2月ロ口 | 1 976 年
1 9 i 2年(明治江川)
(昭和引年)叩月5 日 第 一次戦後派作家として
風
司馬遷 』『
鍍のすゑ 』 『
活 躍 主な作品に 『
富上 」「
快楽 』 など 兄
媒花 』 『ひかりごけ 』『
支は
は水産生物 学 者 -東大教綬の大島泰雄
海旭
随筆家の武閏丙合子、娘は写瓦家の武田花
伯父は、僧侶仏教学者社会事業家の渡辺
12
ろうと思うね
。
仁戸田それから、四
佐藤あの時も、流
国に流されて行くといったこともあったね。
吉 川さんの新 平家物語も、あそこがよく苦かれであるしね
言っ たけれども、法然上人を知るには
罪はかえって恩寵だといわれている。
。
。
あの室の遊女のところは、さっき仁戸田先生も仰
感動しますね
いいところだと思いますね
武田
もう
。
一つ、平重衡のところがね 。実際にあったかどうかは問題のことですけれども、
佐藤
新平家としては、仲々おもしろい
みやばやししようげん
)
(
司会
昭和じ年長野県に生まれる
主要ぜ占
昭和三ト年六正大学大学院修士謀制限修了
大正大学講師、同助教授を経て
L
昭相五卜三年大正
入学 仏 教 学 部 教 綬
平成九年同人間学部長
平成十四年同定年退職
現住大本山光明ヰ寸法主
法然上人と浄仁宗』(みち冷房)
『仏教とその流れ』(浄上出
宗版室)
。
1
3
宮林昭彦
浄上アーカイプス
赤羽岩淵
正光寺
タカオカ邦彦
撮 影/
真山剛
文/
修復された山門 . 在右の柱には大観音正光寺と彫られている . この山門手前には水路が流れて
いた
寺院紀行
。
4
月辺日
。
導師は正光寺
この式に参列された檀信徒さん、
時は平成 M年
静かに、そして力強い鐘の音が響きわたり、天王山淵富院正光寺
本堂落慶式の法要が始まる
。
そして参列できなかった檀信徒さんもこの瞬間をどれだけ待ち焦が
第却世高橋寿光住職、弱冠お歳
。
岩淵の古利正光寺にこうして本堂が建立さ
。
れ行
てき
れていたことだろうか
が
数を
本右
残
さ奥
。
いら
焼境
内内
でを
大望
樹む
れるのにはほぼ九十年の月日を待たなければならなかったからだ
。
平成幻年の納骨堂修復を皮切りに、翌辺年には墓地整
今後も
広か
以前の本堂が焼失したのが大正ロ年の関東大震災 以後は観音堂
を本堂とし、その観音堂が昭和日例年に焼失してからも客殿を本堂と
してきた正光寺だけに、その歴史を知る者にはこの新本堂の落慶へ
の感慨深さは筆舌に尽くし難いものがあるしかもこの正光寺、つ
い数年前までは荒れ寺として有名で、地元赤羽岩淵を舞台にする漫
画や、近年流行りのブログに、「廃寺ではないはずだが:::」、「す
この本堂落慶式
。
ごい荒れ寺でまるでお化け屋敷:::」などと書かれ、それこそ入り
。
口がどこだかわからない、という状態だったのである
その正光寺がまさに劇的に生まれ変わっている
。
は正光寺再建事業の最大の法要だが、すでに再建事業は着々と進め
られている
。
二支堂改め観音堂の落慶式も勤められるな
備、築地塀と事務棟(庫裏を含む)の新築、山門、参道の修復、そ
4 月には十
1
5
して平成お年
ど、各種伽藍、境内、墓地のすべてが一新されたのである
いと本
るも堂
正光寺の檀
式中での関係者 一人
。
再建事業は鐘楼堂の新築、末寺の十王寺の再建などまだ続くが、こ
。
の本堂の落慶式で取り敢えず 一段落を迎えたのである
信徒さ んにと ってこれほど賠しい ことはない
。
ひとりの挨拶に、檀家総代の報告に、そして住職の謝辞に多くの嬉
し涙が流されるに違いない
しかし、本堂建立だけでも大事業で、住職は命を縮めると 言 われ
。
最初の打ち合わ
るのに、正光寺は境内全域の盛り土を含めた地盤整備から伽藍、境
内、墓地の全体整備をそれこそ 一気に行っている
。
。
後日の取材で再建事業には良き協力者がい
せで訪れた時に、 「これだけの普請をどうしてこの若い住職にでき
たのだろう」と思った
るとのことで紹介していただいたので、再建の秘密は後述しよう
さて、正光寺の創建は鎌倉時代で、持土宗第三祖良忠上人を開山、
。
石渡民部少輔保親氏を開基とし荒川沿いに西光寺として建立された
た古剃だ
古くか
。
その後衰退、慶長 7(1602年
)に小田切将監重好氏と良春龍湛上
人によ って現在地に移 転、重好の法号から正光寺と改め
。
そして、正光寺のある岩淵町、実はこの赤羽近辺の地域では最も
歴史のある、そしてちょっと筋の 一本通った町なのである
ら交通の要衝で、江戸四宿に次ぐ宿であり、荒川を挟んだ川口宿と
。
ともに岩槻街道の旅人や参勤交代の武士が行き来していた また徳
川 三代将軍家光の頃の検地では、岩淵町と記された御領地で、隣接
東京 23 区内に唯一残っている小山
酒造.岩淵には秩父の伏流水が流れ
ていて美瞭しい酒造りができるとい
う.正光寺の纏..総代さんだ
1
6
寺院紀行
する赤羽は赤羽根村と記され小石川侍通院領だった
。
そして岩淵領
。
こうした
は、岩淵荷、赤羽根村、十条村、豊島村、中里村、王子村、滝野川
村、田端村、上、下駒込村など十九の村からなっていた
岩淵の歴史を 地元民は 誇りに思い 、明治時代、大正時代にそれぞれ
8 年にもわた
って 町名保存運動を行
っている
。
。
また、
この町名存続の
町名存続運動を行い、昭和幻 年からも岩淵 町の名前を残すためにな
んと
歴史は正光寺持ちであった八幡神社の石碑に彫られている
った
。
明治、大正、昭和、平成と岩淵町と
そして、こ
。
現在は山門前に世継橋と彫られた石碑が残るだけだが、
。
。
平成日年に埼玉高速鉄道が通り赤羽岩淵駅という名で新設されたが、
当初の駅名は岩 淵町駅だ
いう地名を脈々と受け継いできたのが岩淵の住人たちなのである
この岩淵という地名の由来にはいくつかの説があるが、いずれも
れていた
。
し明治 二 十 三 年
荒川の岩淵水門
奥に残る池だ
a
正光寺のある岩淵
はかつての沼地で、その名残が境内
4iII!I壬ゐ:子午
荒川沿いだけに水にちなんだもので、正光寺の山門前にも水路が流
第 二十六世大谷栄純住職が発願
も・
・~
1
_ • r開哩-曙-
境内全体がかつての湿地帯で、本堂奥のまだ盛り土をしていない空
き地には池が残っていて、竜頭観音像が杷られている
の竜頭観音像も含め、正光寺は観音菩薩像で有名な寺なのである
。
かつての街道側からの参道正面には高さ叩メートルの世継観音菩
薩像が聾えている
んだり、金のかんざしゃ指輪を鋳潰して観音さまの眉間の白墨にす
に建立したもので、岩淵辺りの信者から寄進された古銅銭を埋め込
1
7
、 目
l 一竺
ケiIナ7
f
l
。
グラビアに時代を追って写真を掲載したが、
。
るなど、岩淵の庶民信仰のシンボルともいえる大観音像だ この観
音菩薩像、巻頭カラ
昭和時代の写真に写っている御堂が観音堂で、この観音堂に記られ
ていた正観音像が、行基作と伝えられる源頼朝公守り本尊で、その
前立ちとしての 三代前の住職が建立したのがこの大観音菩薩像だ
。
また、先に紹介した竜頭観音像は先々代である第二
そして先代の高橋正純住職はそのミニチュア像を造り、新本堂脇陣
に杷つである
。
十七世淵翁住職が建立している 。正 光寺の 三代の歴代住職がそれぞ
れが観音菩薩像を建立しているのである
正光寺の大観音菩薩像のもととなる正観音像は昨年落慶式を執り
。
昭和 M年、先代住職の時だ
。
行った観音堂に修復され安置されているが、その観音像が焼失しそ
うになったことがある
当時本堂としていた観音堂の下で、今でいうホ 1ムレスが焚き火
。
。
この思いもかけない出火で
しかし、本尊と正光寺の寺宝中の寺宝である
をして火事になったといわれていて、正光寺はこの頃にはすでに大
分荒れていたという
この正観音像は住職が命がけで守った
伽藍をはじめ寺宝類を失った先代は法事や彼岸と十夜法要は客殿の
一部を本堂として行い続けたものの、伽藍の再興には手をつけなか
った。それには境内の一部が終戦直後の計画道路にかかっていたこ
ともあったが、少々偏屈で独身を通したという先代は檀信徒からも
鷹樽. Mi特の色合いで美しい光を政
つ闇魔像だ
正光寺の末寺だった十王寺に残る閤
十王寺は現在、正光寺住臓が兼務す
る寺となっている。山門脇の石柱に
は間魔堂と彫られている
/
8
寺院紀行
。
普請には多くの人の力、とりわけ寺では檀信徒の協力な
少々近寄り難い人物で、そのことを先代住職自身もわかっていたの
であろう
くしては上手くいく訳がなく、先々代である父が地元の顔役だった
先代は逆にその重圧からか、古剰の住職としての権威を振り上げた
。
の想いがあったに違いないが、それを知る術はない ただ、それこ
。
まま、檀信徒との距離が縮まらなかった もちろん、先代には先代
そ荒れ果てていく寺の再建にそれなりの資金がいることをふまえて
。
いて、再建のための十分な資金は残していた そして、子供のいな
3
年後の平成初年 6月に入院
、
2
週間後に避化された
。
い先代は弟の 二男である現住職に正光寺の法灯を継いで欲しいと伝
え、その
4
。
年前に卒業していた大
先代の意志を受け法灯を継ぐことを決意した現住職は、住職とな
るならばもっと勉強しなければと、すでに
正大学の今度は大学院へ入学して仏教を再び学び始めた そして修
。
士課程を終え博士課程の 1年目に先代が遷化し、若くして正光寺第
却世住職となったのである
8
「
正光寺十王寺通信 』 として受け継ぎ、
新住職は先代がはがき通信として発行していた寺報を、A5 版
頁とボリュームアップした
。
その紙面からも伝わってくる真面目で実直な人
。
寺の行事、再建計画を詳しく檀信徒に伝えることから始めた 寺報
の前後にはまさに改めて勉強し直した仏教、浄土宗の教えを自分の
言 葉で綴っている
正光寺歴代住臓の g. 今回の再建事
業の中で墓地も鯖麗に墜備された
1
9
柄にまず総代さんや地元の名上が応援し始める
。
。
。
。
そして、この新住
古利復興に地元が 一丸となるのは
岩淵町という町名を明治時代から守り続けた
職のもとで 一日も早く荒れ果てた名剰を再建したいという思いが地
元岩淵に満ち溢れる
歴史を大切にする土地柄である
。
。
が、その
北区役所の役人が岩淵のこととな
三代目だった
。
。
この小津さ
境内を通る昭
すごいスピ
年後にも立派な伽藍であり続けることを目標にして、わずか
。
。
中でも正光寺を応援したのが、先代が亡くなってから新住職を支
自明の理で、再建は急ピッチで進む
援していた小津愛明さんだった
ると聞きに来た名士で、地元の不動産屋の
小揮さんも先代と同じ年に他界、息子さんであり東京地所設計研究
所の代表を務める小津仁史さんが再建事業の舵を取ることになる
。
この小揮さん、元藤田工業の社貝で、資材調達の仕事をはじめ、多
くの有名なピルの建設に携わってきている建設のプロ
んが再建にあたっての問題を次々とクリアしていく
和幻年制定の計画道路の問題、外柵がなくはっきりしていなかった
境界線の問題、岩淵ならではの水害の問題 それらを解決した上で
100
。
。
繰り返しになるが、盛り土、築地塀、庭園、墓地、納骨堂、
年で計両から本堂の落慶までを迎えているのである
4
ードだ
寺務所、庫裏、観音堂、客殿、本堂の改修、整備、新築である
聞けば、それまでに残っていた建物は客殿として先々代住職が文
本堂に向かってを手にはまだ空き地
が残っているが、ここにはまず鍾権
を抽埋立する予定だ
20
寺院紀行
京区から移築してきた大正時代の料亭の建物だけだったというか
小揮さん
。
ら、解体に時間はかからなかったにしても建築には工事以外にも申
。
請や許可、木材の調達など何かと時間がかかることが多い
。
それを小掴押さんに聞いてみた 答えは簡潔明瞭だった
、
ルキャストの チ
l
ムが控えているからだとい、っ
。
加えて 寺
事前の認可から図面、工事、そ して収支計算
には七人の侍がいるそうだ 。一 級建築士、測量士、弁護士、司法書
l
士、経理士などなど
までオ
。
が、その多く
最後に小樽さんに再建事業全体
もちろん少ない額ではなかった
。
院建築の経験豊富なアドバイザーもいると聞き、細部にも気配りの
。
いきとどいている理由もわかった
の総工費を聞いた
を先代が残し、そこに若く実直な新住職が就任、名刺の再建を心待
。
こうでなければ出来ないはずだ
。
当初の疑問は氷解 した
。
ちにする檀信徒に固まれて、地元の建築のプロがフルサポートに入
る
「今度の落慶、再建事業は本当に先代住職や檀信徒の皆さん、お手
。
伝いいただいた方々のおかげです これからは正光寺名物の植木市
。
最後にこう抱負を語ってくれた住職、細身で頼り
や節分など地元に密着した行事の復活や、仏教を学べる所にもして
いきたいです」
。
。
(ルポライター)
落慶式で抱負に向かって踏み出した 一歩も見た
なく見えるが、再建でタッグを組んだ小揮さんによると「芯は強い
ですよ」とのこと
目よりもずっとしっかりしているということだ
これからの夢を語る高橋住臓。まだ
院の再建が標題だという
、
弱冠制叫錦当面は鑓織の建立と十王
当担当
21
連載
P
¥
.
.
.
.
_
.、
.、.
〈京、4 ・ 1-. ‘4 ・
E
さん@
会いたい人
映画『長い散歩』で好演した松田期太は、
奥田さんは、半永久的に残るもの映画、大
するんですか?って訊くんです。それで、
えばジェ
力を大画面に全身収めることができる。たと
「映画のすごさは、その俳優の肉体表現の魅
る。
半が 一過性で消えるものテレビ、と考えてい
阻ん
故・松田優作の次男(その兄は松田龍平)。
「彼はオーディションで来て、脚本を五回読
帰国子女というのは日本人としてのアイデン
ロヒョロとした 長身の異様に長い手をス
みましたけど、この少年はなんで拳銃で自殺
ティティがゼロだから、お前考え方変えても
のポケットにヒョイと入れて、ただ歩き出す
l
ツ
トが、あのヒヨ
っと素直になれよ、と言われでもゼロには何
と、俳優の面白い持ち味が演技らしいことを
l
も足せないんだ、彼が唯 一救ってほしかった
こでこれ見よがしの姑息な演技をすると嘘が
しないで有弁に役を語っているんですよ。こ
ばれて、この人何よ、ってことになる
ムス・スチユア
のは道づれになった緒形拳さん扮する松太郎
あるからここには入れない、と自分で勝手に
ろがテレビではあんまりそれがパレないんだ
とこ
決めちゃうんだ、って説明しながら、こいつ
よね 。言 わば化学調味料で味つけしてあるフ
。
は僕と同い年だった優作の子だし、将来いい
ドみたいなものなんです」
十人かは奥田さんとただ世間話をしただけだ
演(実際は五番目に来た彼で即決。あとの何
松田朔太はオーディションで勝ち抜いて出
l
ァーストフ
l
老人なんだけど、彼には幼い女の子の連れが
。
役者になるんだろうなと思って見てると、や
っぱり勝気でちょっと斜にかまえてるところ
があって、僕は映画でもテレビでも区別なん
ったが)、撮影が終るころには監督にすっか
かしてません、って言うんでカチンと来た
僕としては映画至上主義の役者に育てたいも
り感化されていた
。
のだからね」
2
3
奥田さん監督の3作品目となる 『畏い倣歩 J . ⑥2006 r畏い敵歩』 製作餐興会
「
彼の最終日
。
そのカットが終ったら彼の出
。
花束
ところが何回や
。
瀬 戸 で気 に入っ
番の終りで、 実 は拍手して握手して渡す記念
品も用意してあったんです
。
て買った茶碗。これで御飯くえ、って
よりいいだろうと思ってね
ってもその芝居が僕のほうに来ない 。空 を見
。
さえ
上げると太陽が斜光になり出して木もれ日の
キラキラがなくなりそうになってきた
何やってんだ、俺
i
ほらこうやるんだ、っ
。
ンは、林の中でその少年と幼い女
。
ぎって思わず、パカヤ口
l
がやれば 一発なのに
て」
そのシ
の子とがドングリを探して拾うところ
「
お兄ちゃんハイこれ、ありがとう、って受
2
4
会 いたい人
け取って、枯れ葉をパ
l
ッと投げ上げる場面
んからの話で、演出は地人会の木村光一さん
ったら結局オーディションみたいなものだっ
でしたけど、オーディションと思わないで行
た。俳優がワァ
で、ドングリをもらうときの素直な表情と、
うまくいかなかったんです。やって見せたあ
読まされた。翌日はまた違う脇役。 一週間た
ッといて、その日は脇役を
とはさすがに 一発で OK 。僕は夢中で怒鳴っ
ったら道元を読ましてくれて、それからはず
l
たあとにうまくいくと、その倍嬉しいからね。
ましたからね。キミには高僧が見えないんだ
の後も木村さんにはずいぶんポロカス 言 われ
っと道元。つまり試されてたわけですよ。そ
枯れ葉を放るときの虚無の表情のつながりが
。
ゃったね朔太、最高だ!って肩を抱いたら、
俺、これから映画で勝負します、ってひと 言
ゃったあ!と思いましたね」
よ、と 言 われて、何日かしたら今度は、キミ
には高僧しか見えないんだよ、って。まあこ
れは、精神病院の入院患者が、眠ると夢の中
道元
の官険』(井上ひさし)の主役。この道元役
で悠久の時間にさかのぼって道元の時代に行
・
もオーディションで獲ち得たという話は少々
くけど、目が党めるとまた現実の病院に戻る、
奥田さんの舞台初出演は初年の『新
意外な気がした。当時と 言えば映画やテレビ
という話だから、高僧と患者と
ですけどね。舞台は初めてのことだし、あん
二役やるわけ
で確固たる地位を既に築いていたはずだか
ら
まり 言 われたんで、稽古衣裳の墨染の衣をす
。
「『もっとしなやかにもっとしたたかに』や
っぽりかぶって、麻だから外が透いて見える。
中、泣いてんだけどね。わっからないんだょ
って、『もう頬づえはつかない』やって、そ
のあとくらい
っ、って 言 った(笑)。木村さんが、ウンウ
。三 十何年も前ですね。五月舎
の創始者で名プロデューサーの本田延三 郎さ
25
ンってうなずいて、それからはうまく行きま
したよ。演出家というのは、役者を追い込ん
でうまくするんだけど、残酷だよね、人非人
事で引き受けて(笑)、今、初日のことを考
えると怖くなって、逃げ出したくなってます」
l
。登場人物たちは、ブ
スタ l)
奥田さんが舞台で評価された『幽霊たち』
(ポl ル・オ
ル!とかオレンジとかグレ!とか衣裳の色で
だよね(笑)」
奥田さんが舞台の演出をしたり映画監督を
で白井(晃)さんに追い込まれたけど、あの
よ(笑)。去年、パルコ劇場の『幽霊たち』
田さんのかもし出す独特の雰囲気で観客にす
がどうやら同 一人物であるらしいことは、奥
謎の人物ブラックの尾行を依頼するホワイト
とホワイトの二役だった。探偵のブルーに、
役柄が表現されていて、奥田さんはブラック
柔和な感じで真綿で首しめるみたいにジワジ
ぐ察しがつき、難解な芝居がかなり身近に引
「はい、追い込みます。超人非人になります
やるときは、追い込んだりしないのだろうか。
ワ追い込む(笑)。しかしあの追い込み方は、
とこの芝居とは、ずいぶん趣きが異なる。
それにしても、十何年か前の『四谷怪談』
き寄せられていた。
以上、舞台もやらなければという思いがあっ
あれはあれでいいと思った。僕も俳優である
て出てるんだけど、舞台って肉体的にも精神
「あれは新宿梁山泊の当時花形スターだった
キムクンジャさん、もう亡くなりましたけど
的にもすごい大変なんで、これまで四年に 一
本くらいのペ!スだった。ところが『幽霊た
ッとあいて現
ね。秋田の十文字映画祭で会って、帰りの新
l
実の町が見えて、って言うんで、俺、昔から
よ、最後に舞台の後ろがパァ
ち』で僕は初めて舞台で褒められたんですよ。
二 つ返
・ワイルド)でヘロデというすごく演じ
幹線が 一緒だった。うちの芝居面白いんです
l
それで今年、新国立劇場の『サロメ』(オス
カ
甲斐のある役のオファーがあったら、
26
会 いたい人
ら、是非観に来てくださいよ、って。それか
アングラに憧れてたんだよなあ、って言った
終ってんのに、とお客さんは思ったらしい
でもまだ足を引きずってたから、もう芝居は
みが出てよかったんだけど、カーテンコ
ル
らあるパーティーでキムスジンに偶然出遭っ
(笑)」
多岐にわたる奥田さんの活動の場に驚くば
l
たら、うちへ出ませんか?俺の夢は日生劇
いやできますよ、今度やる『四谷怪談』の伊
かりだが、このほかに画家としての顔もある。
場でハムレットなんだけど、もうできないね、
右衛門はハムレットですよ、うちでハムレッ
ど、俳優になろうと思ってたんで別にどうで
「絵は、小学校五年で文部大臣賞もらったけ
言 われて(笑)、出たわけです。普通アング
もよかった。でも、上京してまず失恋したと
トやればいいじゃないですか、なんてうまく
ラは、五臓六腕フル回転の芝居でせいぜい十
きに、その子の面影を悪魔主義的に細密画で
描いて(笑)、自分を納得させたりはしてま
日間くらいしか体力的にもたないんだけど、
二十五日問、後楽園のテントで、
したね。ずっとたって、連城 三紀彦さんが直
あのときは
しかもゲネプロの日に左足の靭帯切って、足
木賞をもらったころ(例年)、うちへ遊びに
l
にあった絵をじっと眺めてね。あ、そう、僕
んだけど、こういう絵が好きだなあ、って壁
来て、今度僕サンデー毎日に 一年間連載する
ピングだけで楽
がプラプラになったのをテ
までやり通しましたからね」
伊右衛門とハムレットを無理につなげれば
ニヒルな 二枚目、ということか:
めなさいよ、この人の絵なんです(笑)。そ
て電話をかけ始めたら、女房が、あなたおや
の知り合いだから紹介するよ、もしもし、っ
指物師の伊策。だから大工のころ足を傷めた
「江戸を昭和初期に置きかえてて、僕の役は
とすれば片足を引いてでもかえって物語に厚
27
画家の一面も持つ奥田さん
の作品集の中から「墓Im n
(
2
0
0
0)
J(上 ). (下) は染
付する奥田さんとその作品
「大皿 J (在 )
会 いたい人
二人展をやることに
「モモ子とは今度、絵の
トを学んだあと、映画監督になりたいと
れで『花堕ちる』という、サスペンスだけど
l
なってます。彼女はロンドン大学でファイン
ア
エロチックな表現もある彼の小説の挿し絵、
。
いうのでニューヨーク大学の映画監督コ
毎週 二枚 一年間というのを引き受けました
『金曜日の妻たち』や『男女七人夏物語』の
に進んで、その後はずっと僕の監督作品に関
年)とい
(W
ス
ころで、締切の前日は徹夜で描いて早朝撮影
わってきましたけど、『カケラ』
l
所へ行ってました。描いてると長女のモモ子
う作品で 一本立ちしました。次女のサクラは、
三歳ですよ。モーち
が起きてきて、まだ 二
三歳くらいから女優をめざしてたと本人は
言
、
ゃんも描く、って並んで描き始める。情操教
います
。
今日( 三 月十六日)、 一時間ほど前
ころで、僕の四作目『風の外側』で主演して
うんですが、僕に 言 ってきたのは高校卒業の
」
育ですよね。のちにロンドン大学の芸術学部
へ行ったのも、ここから始まったわけです
肝年、『おさびし山のさくらの木』(宮内婦
天は 二物を与えず、と 言 うけれど、奥田
しましたよ」
に柄本佑(柄本明さんの長男)と婚約を発表
んでゆく絵本作家の遺作、として描いたんだ
(安藤)家の人々にこんなに才能を授けた神
「もともとテレビドラマで、若くして癌で死
貴子)という絵本の絵を担当。
けど、オファーが来て出版されたらヒットし
(この項おわり)
様は本当に気前がいい
5 月 引 日同 1 6 月 げ 日日
新国立中劇 場
『
サロ メ」 オス力| -ワイルド作平野啓一郎訳
宮本亜門演出にへ口デ王役で出演
。
ちゃって日刷になって、その傾きかけてた出
版社が持ち直したそうなんですよ(笑)」
続けて夫人の安藤和津さんの文で『月うさ
ぎ』(邸年)、『さくらうさぎ』(但年)という
絵本を出す。
29
響流+方
を彼
摂i 国
せに
ん到
り
。
己:
っ
て
、
。
六種の神通力を身に具え、あらゆる
善導大師 『
往生礼讃
発願文
1
」
i
六神通を得て、十方界に入って、苦の衆生
守ってみせるぜ、このオレが
世界に赴いては、苦痛に鴫ぐ人々に寄り添い救い摂ってあげたい
彼の阿弥陀仏の極楽浄土に往生したならば
救〈 の
空並上左
まるで音が聞こえてきそうだつた
。
鼓膜を切り裂くような乾いた打球の音、 三 塁ベ
1
l
スを蹴りホ
l
ムベ
。
l
スへと
ム」という大きなかけ声、「来れるもんなら、来てみやがれこのオレ
怒祷の勢いで突っ込んでくるランナーの足音、仲間を鼓舞する「ヘイッ、パッ
クホ
Rさんが高校球児であったこと、なかんずくキャッチャーであった
ズでキャッチャーミットを構える
。
さ
明
。
がきっちり守ってみせるぜ」とでも思わずつぶやいていそうな高揚した心の波
。
立目
お檀家の
。
ことを知ったのは、もう少しで春の甲子園、選抜高校野球が始まるころ、 R
んの葬儀で導師を勤めた時だった
l
Y高校野球部のユニフォーム姿に、プロテクターを身につけ、
ムを守るぞ、といったポ
地元信州
l
Rさんの白黒写真が飾られて
祭壇に把つである、先年、定年を迎えた頃の写真であるというすまし顔の遺
。
影とは別に、式場の入り口には、青春時代の若き
いた
いかにもホ
。
みずから高校の卒業記念としたのであろうか
らかにスタジオで撮った写真だ
。
大事にしておられたのだろう、少しの黄ばみ
Rさんの青春がそこにあった
。
。
だすれば、五十年は昔の写真だ
もない
3
1
体育会系の雰囲気を醸し出していた
。
。
Rさんは、信州で生まれ、信州で育ち、
。
手術を経て、 一時、定年後の職も得るほど快復したものの、再発 極楽
。
信州で家庭を築いた、ごく普通の勤め人だと思っていた 病に目されたのは 二
年前
浄土の人となった
。
そして厳かななかに、
。
枕経、通夜と、旅立ちのお顔をまじまじと見た そのお顔は全力を出し切っ
。
次の試合だって、オレは逃げないぜ
。
。
。
。
あの世とこの世と
。
真っ正面から闘ったぜ、病とよ 逃げなかったぜ、
た、正々堂々戦いきったスポーツマンの顔だった
。
「勝ち負けじゃないんだよ
オレ は
お寺さんよ
居場所が変わるだけだろ どんと来いだ」
とでも言いたげな、静かな気迫が漂っていた
。
ところで極楽に往生すると六つの神通力が具わるという 過去の出来事を知
る能力、遠いところや未来の出来事を知る能力、遠くの音を聞き取る能力、他
。
人の心を知る能力、どこへでも瞬時に移動できる能力、煩悩を断ち切る能力の
六つだ
何千何万、いや数えられないほどの多くの人生を歩んだに等しいほどの豊か
な経験と判断力を以て先の先まで未来を予測し見通すことができるようにな
3
2
響流十 方
っても我が心の痛みとし、どんなに遠くでもそこに行 って寄り
り、どんなに 遠くの人の晴ぎでも聞き漏らさぬようになり、どんなに遠くの人
の心の痛みであ
。
った
。
寄 り添い見守り存在となる
。
。
何が来た
。
。
遺影は 肩 から上の
。
ムメイト
大切な人が豊かな
。
クする存在とな
ッ
って逃げやしないで、ブ
見ててくれよな」
Rさんの写真に手を合わせながら、
R さんのプレイボ
(
浄土宗総合研究所袖山祭輝 )
そうか、この葬式は
チャー姿の
気 がした
l
トであるという
ッ
お孫さんの運転手として付き添った七五 三。
添い、しかも自分のことには執 着 せず後回しにする、そんな人になれるという
のだ
普 段着 だ
ったものだそうだ
R さんは
スタジオでの記念 写真 に飛び入りして撮
っ こしているカ
遺影の
顔 写真 だが、 全体ではお孫さんを胸で抱
っかりと
お孫さんであれ、お 子 さん方であれ、奥さんであれ、かつてのチ
であれ、誰であれ、し
っ てるような
った
ッ
みんなの心を守ってみせるよ
試合 だぜ
人 生 が歩めるよう、その人の心を惑わすようなものからブロ
。
「お 寺 さんよ、それがオレの次の
ロ ックしてみせるぜ
言
そう、思
。
祭壇の遺影と、若き日のキャ
。
R さんがそう
ールなんだ
3
3
る
一法然上人を
石丸晶子
第一一回
人
めぐる人々
然つ楽
挿画・佐野芳朗
法
1てたに
極楽に帰 った法然上人
、
。
深手を受けた時国はその翌日、夜明けとと
もに苦しみのうちに息を引き取った
一課にくれ、復讐を誓うわが子に 息を引き
。
。
とる直前、苦しい息の下から絶え絶えに時国
は諭した
「勢至丸、 よく聞け」
時国は勢至丸を見つめた
。
「父はこの傷で死んでいくが、定明に復讐を
それには答えず時国は、
。
そして 一刻も早く出家し
「汝は復讐を考えるよりも、そなたの叔父の
いる菩提寺に行け
。
て父の菩提を弔い、汝自身の解脱を求めよ」
そういい終わるや時国の息は絶えた
って泣いた
。
何時果てるとも知らず
。
。
った漆問屋敷のほとん
。
一時間)
。
「わあツ」勢至丸は血に染まった父の布団に
取りすが
泣きに泣いた
ったようにも半時(
どれほどの時間勢至丸は泣いていたろう
わずか数分であ
ほどでもあったようにも思われる
「勢至丸様、 一端引き上げた定明 一味が、ふ
早く観覚さま
これも前世の宿業
。
たたび押しかけて来るにちがいありませぬ
。
。
く、ついさつきまであ
気がつくと、風にあおられて火の回りは早
丸は起こされた
漆間家の郎党たちに、泣き伏していた勢至
す」
の菩提寺にお逃げなさいませ お供いたしま
お父上のご遺 言 でございます
復
復嘗は次の復讐を生むであろう
。
しようと思ってはならぬ
なのだ
はあはあと途切れそうになる呼吸をつづけ
讐はどこかで打ち切らねばならぬのだ」
あ-一え
ようと力の限りに大きく口をあけ、端ぎなが
ら、時国はことばをとぎらせた。
「父上、父上。生きていてくださいませ。亡
。
くなったりなさってはいやでございます」
勢至丸は泣き叫んでいる
3
5
四
。
どは火災で焼かれて残骸のみとなり、なお火
がくすぶっている
屋敷の残骸の中を父の遺骸とともに勢至丸
。
菩提寺は中国山脈の麓
は郎党に付きそわれ、叔父が住持をする山奥
の菩提寺へと急いだ
。
それが最大の供養と言うものだ
。
。
深くにあり稲岡庄からは四十キロ離れたとこ
ろにあった
突然のことに驚悔した叔父の観覚に迎えら
れた勢至丸は、父の茶児、墓の造営と心も張
復讐は復讐
。
り裂ける数日を送り終わると、叔父の下で厳
。
しい天台の修行を受けることになった
「そなたの父の言 われた通りだ
をよぶ、際限がない殺し合いが始まるのだ
。
辛かろうがそなた、時国殿のご遺 言 を守らね
ばならぬ
よいな」
九歳の子どもには閑寂すぎる山深くの寺で、
朝に題目、タに念仏、そして寺の隅々までの
。
掃除をする生活が日常になった勢至丸に、観
覚は繰り返し教えた
。
これ以外、そなたが生きる道はな
「学問と修行に励んで 一刻もはやく解脱の道
いのだ」
を求めよ
。
。
聡明さだけではない
。
。
修行し勉学に励む
i
。
しかし私の手元から手
。
こんな子どもをこのまま山寺に埋もれさせ
。
放してしまうのも惜しい
ていいものだろうか
ー
するというに等しかった
観覚の驚きは、単に驚くというよりも驚博
ったか: )
・
(一を知って十を悟るとは勢至丸のことであ
こんな子は見たことがない
・ らゆることに群を抜いているのだ
体力: あ
。
努力 前に向かって進もうとする意欲、知力、
る
観覚が驚いたのは勢至丸の聡明なことであ
半年が過ぎていった
十日が経ち、 二十日、そしていつの間にか
蓋
3
6
極楽に帰 っ た法然上人
月日が経つにつれて観覚の迷いはこの
一事
こう思いああ思いして迷い
こうして勢至丸は叡山に行って持宝房のも
。
十 三歳
とで勉学と修行に励むことになった
。
。
勢至丸を受け入れた椋光は、ほどなく、自
。
。
この子をわたしの許に
(こんなに優秀な修行僧は叡山広しといえど
った
分はこの少年を指導する器ではないことを悟
た
になっていった
。
になっていくらもしない、 二月のことであっ
いった
。
もいるものではない
功徳院の阿閤利様のもとで修行させ
おいて優れた才能を腐れさせてしまってはな
。
るまい
源空という
されなかったことになる
ねば・・・)
勢至丸を叡山に送った観覚も偉ければ、己
わしとは同学
源光に手紙を書くからそれをもっ
。
。
こうして久安 三年( 一一四七)四月、十五
もあった
扶桑略記 」 の著者で
る総合的な仏教文化史 『
皇円は叡山でも高名な学僧で、日本におけ
った
に住する学僧皇円のもとに送った源光も偉か
とに居られたのはもう少し長かったと
法然上人の出家名を考えると源光のも
。
す持宝房源光の下には数ヶ月しか入室
※十五歳説も多いが、すると、以下に記
勢至丸を呼ぶとこういった
遂にこう決意した観覚は、十 三歳になった
丸は叡山に行かせねばならぬ)
(いつまでもこうしていてはならない 勢至
。
を重ねているうちに、四年近い月日が過ぎて
。
の限界をわきまえて勢至丸を東塔西谷功徳院
。
の
考えたほうがいいようにも思い、ここ
では十 三 歳と仮定した
。
「わしが教えることはもう何も無うなった
そなた、明日にも叡山に行け
。
の持宝房源光がいまだ叡山西塔の北谷で修行
している
て叡山に行くがよい」
3
7
3
8
極楽に 帰 った 法然上人
歳になっていた勢至丸は皇円の室に入り、十
。
一月、天台座主行玄を戒師として比叡山戒壇
院で受戒した
いよいよ正式に天台僧としての生活が始ま
てんだいさんだいぶ
e
皇 円の指導の下に天台大師智顕が著した
ぅ,
e
ったわけで、その翌年春、彼 は時間のある限
り、
。
天台の中 心経典・天台 三大部を学び、わずか
三年間で読破 した
、
。
天台 三大部とは 「
摩詞止観 」 「
法華玄義 」
、
。
「経典」という場合、狭義に
の 三種に大別され、経・律・論を合わせて
「三蔵」という
。
は「経」のみを指すが広義には仏教典籍全体
を指す
現在日本における仏典の最高峰は 「
大正新
。
却行
。
3
段組み
、
。
。
。
修大蔵経 」 とよばれる漢訳仏典であるが
ロ字詰め
各巻平均 一 000 ページ
全 一OO 巻
大なものである
。
ここで経典の話をしておこう
「経」のうち一般にも知られている代表的な
ページ数に換算して約十万ページという膨
新約聖書がイエスの教えを弟子たちがまと
ものは、「浄土 三部経」や「華厳経」をはじ
「
法華文句 」の三 つをさす膨大な経典である
めたものであるのに対し、経典は釈迦が説い
め「法句経」「阿含経」「般若経」「維摩経」
。
た教えを弟子たちが伝えた仏教の聖典のこと
カ
「浬繋経」「法華経」「大日経」などであろう
経蔵(教義をまとめたもの)
H
で
① 経
② 律 H律蔵(修行法や戒律に関するもの )
③ 論 H論蔵(教義を注釈したもの)
あの難解でたいぷな天台 三大部をわずか
39
8ミ
。
。
。
年で読破してしまったとは何たる秀才か 皇
円は勢至丸を励まして 言っ た
「そなたは都の貴族の出ではない しかしそ
。
。
互いに競い合い、
天台には学僧が多いがそなたの学
の学門をもってすれば天台座 主 となることも
出来よう
才は彼らに群を抜いている
競い合い、今よりもさらに学聞を深めて天台
座主を目ざせ」
この皇円の 言 葉を聴いたとき、勢至丸のこ
。
ころに秘かに、しかし深く、失望が広がって
いがあった
。
。
功徳院の草庵の周囲は、時とし
て比叡山銀座通りの様相を呈 していた
っ ていく
。
一時も 皇 円と話しこむと、やがて貴族たち
は華やかな雰囲気を残して帰
:
貴族たちが帰った後の後片付けも弟子たち
掃除に精を出し、天台止観を初めとする修
の仕事であった::
行をうけるだけでなく、都から師僧のもとに
やってくる来客たちのもてなしをする:::
山深い比叡山中にあるとはいえ、寂莫とは
いえぬみやびな都の余香が、 皇 円の庵室には
ー
それは・・・
父時国の遺 言
ー
った末、
いまなお消えやらぬ激し
い復讐心や怨念、苦しみ、怒り、さまざまな
、
最終的には天台座主になるためでもなかった
わるためでも、そして同朋と競い合
聞を身に着けるためでも、都の貴族たちと交
しかし勢至丸が叡山に上
。
いった
すみずみに漂っていた
。
ったのは、ただ学
(皇円様はわたしが生涯の師として学ぶ御方
ではないのではないか)
実を言えば、この思いは皇円の室に入って
。
以来、勢至丸の心に時として頭をもたげて来
る思いでもあったのである
自身高級貴族の出身で
京都の近くでありながら比叡山の山は深い
しかしその深い山に、
あり、高名な天台僧である 皇 円の許には朝廷
関係者をはじめ貴族たちの来客が多く、賑わ
4
0
極楽 に 帰 っ た 法然 上人
った
。
時国の今わの際の遺 言 を忘れたことはなか
妄念から解脱するためであ
。
ったが、明石定明の万で斬られ、血にまみれ
った
って、勢 至丸の心は解脱
た父の姿はわすれられぬ苦悶であ
皇円の指導下にあ
定
っていたのである
。
とは遠いところを訪裡
。
って息を引き取る父の
った
明の刃の下に血に染ま
姿が心から離れなか
った
。
。
このまま空しく日時
(こんなことをして年月を過ごすために叡山
に来たのではなか
だけが過ぎていくようではならない)
った者は世間から断ち、十
二年間は龍山し
であるのに怨念も怒りも融けぬ
。
(われらの祖師伝教大師最澄様も、{叡山に
入
。
て 一心に修行と 学問に励め}と仰せにな った
ではないか
っているのだ)
今の自分の心は修行も 学 問も 実 際は上の空
どこをさまよ
日に日に強ま
っていくこの思いの中で、つ
いに勢至丸は我が心の救済を求め、皇円の許
。
を辞して西塔黒谷の叡空上人の室に篭る決意
をした
。
それは出家にさらに出家を重ね、隠遁僧と
なることであった
った、能山十
二年
(世俗とは交わりを絶ち、伝教大師様が叡山
を聞かれた時にお定めにな
を、我が心として真撃に生きねばならぬ)
っ
そう心に決めると彼は別れを惜しむ 皇 円の
。
。
(つづく)
許を辞し、新しい師叡空の庵室黒谷に向か
た
十八歳であった
41
⑪快僧渡辺海旭
壷中に 月 'を求めて
前田和男
資中に月を求めて
一等国になるための国策「岨救規則」
社会民主党員から突然日本の救貧制度につ
。
恵をうける困窮者にとっては、ちんぷんかん
ぷんではなかったか
胸中に疑念がわいた海旭は法科留学生に訊
ねた
「この法律は本当に困窮細民を救うた
いて訊ねられ答えに窮した渡辺海旭は、たま
めになっているのかね・:」
。
たま居酒屋に居合わせた東京帝大法科卒の日
ただ
彼に質すと、明治七
「岨救規則」が施行された明治七年、海旭は
。
本人留学生をみつけた
まだ 二歳で、法律の意味も効果も理解できる
aろかんたつ
はずもなか ったが、幼心にも周辺の困窮者の
それが近代日
号として「岨救規則」を布達
状況がよくなるどころか、むしろ年を重ねる
。
本の窮民救済策のさきがけであり、その内実
ほどに悪くなっていくという印象があった。
だじ
年( 一八七四)に明治政府は太政官達 一六 二
はというと「済貧岨救は人民相互の情誼によ
そんな海旭の素朴な疑念に、帝大法科出はい
EA
78
るべし」、つまり「基本は国民同士で助け合
かにも怜倒な官僚らしく事務的な答えを返し
「おっしゃるとおり、困窮者救済はお題
れ いり
うように」とし、それで救済できない貧困者
た
それが当該法律の目的では
。
「なに?だったら本来の目的はどこにある
ありませんから」
。
のみ、すなわち七十歳以上で労働不能な者、
目にすぎません
。
障害者、病人、十 三歳以下の児童などに 一定
の米代を支給することを定めたものであった
のか?」と目を 三角にして驚く海旭に、帝大
そもそも「岨救規則」の「岨救」とは「じ
ゅっきゅう」と読み、「岨」の意味は「あわ
出官僚は初心な子どもを教え諭すような口ぶ
ましてや恩
「いまストラスブルクでは救貧方式の見直し
「一等国としての体裁を整えるためですよ」
。
れみを施すこと」 おそらく当時意味がわか
りで返した
。
ったのは漢籍の素養のある人だけで、意味は
。
おろかこの法律名を読むことができた庶民は、
果たしてどれほどいただろうか
4
3
をしているようだが、等国をめざすのであ
l
フェルト方式です
れば、日本もそれを見習ったほうがいいので
。
「とんでもない エルパ
はないか」
。
公的救貧制度が脆弱な
日本では宗教が出番?
日本人同士のやりとりを終えた海旭は、日
本の救貧制度の説明を待つドイツ人たちにそ
のまま説明したものかどうか迷った末に、ジ
。
。
要は体裁、見せ掛
ら真似るのは無理ですよ
ルを干してから、ありの
ョッキの残りのピ
l
いま我が国は富国
ままを語って、最後に感想をつけくわえた
「
済貧姐
貧窮者に手を差し
。
けの形だけでいいのです
強兵・殖産興業が最優先
だから
フェル
ト
制度までもいってい
「わが日本は、いまドイツで見直そうとされ
。
l
二派に分かれて諦ってい
なさけないことだ」
ここにいたって、
。
伸べる余裕などありません
方式か
ているエルパ
ト
ないようだ
フェル
救は人民相互の情誼によるべし 」、つまり 「国
(なお、ドイツではエルパ l
はできるだけやらない 」とうたっているのです」
た社会主義者と無神論者と新旧キリスト者の
。
列強に不平等条約を
「日本はそれでも近代国家といえる
これでは 三等因
。
らストラスプルク方式に切り換える自治体が
ー
四人全員が 一様にあきれ返って、口々に忠告
。
のル
。
さらにストラスブルクが改善をした
続出
1
をした
カ
「救貧委員」は後のソl シャルワ
のか
l
ツとして高く評価されるようになるが、日本
撤回させて 一等国の仲間入りすることなど夢
。
一瞬たじろいだ海旭は、
。
め息をついて、次の盃へ手をかけた 意気消
「いやはや面白ない」とつぶやくと、深いた
時ならぬ集中砲火に
の夢だぞ」
日本がドイ
フェルト方式の「無
がこれを真似ることはなかった
l
ツの救貧制度を学んで導入したのは、はるか
後の大正年問、エルパ
〉 である)
給救貧委員」を範として制度化される「方面
現在の 「
民生委員」の前身
委員」 〈
沈する海旭を気の毒と感じたのか、社会民主
4
4
遊 中 に 月を 求 めて
党員が救いの手を 差 し伸べた
。
日本が困窮者
。
るだけだから、その話は後にしよう」と自由
ルの盃を「論敵」に手渡した
の新しいピ
思想団は 言 ってテーブルに届けられたばかり
l
「いや、おぬしが謝ることはなかろう 。一 介
「なるほどわがドイツの救貧対策には明と暗
負うべきは
はずもないし、負う必要もない
があるが、ここでの問題は、そもそもワタナ
。
の学僧が 一国の社会政策の 責 を 一身に負える
日本という国家だ、それを舵取りしている為
。
ベの日本はそれ以前の状態にあるということ
。
つまりそんな状況の日本にあっては、宗
。
かつてのわがドイツの
れんびん
救済に熱心でないのは、われら西欧諸国に追
ように宗教の出番ではないか
教が 主役かもしれぬ
だ
政者だ」
。
。
「いや、それは少々違うのではないのかな」
と自由思想団が水をきした
けげん
「違う?」と社会民
主党員が怪請な顔をした
「わがドイツでは先程来説明
いつくのに熱心なあまりのことだと、憐閣を
。
「宗教者にも責任があるだろう」と自由思想
団がつづけた
。
でも、その提 言 やよ
。
「ほう、
っていくべきでは
も って目をつむり、まずは宗教がやるべきこ
。
。
無神論者が宗教の役割に期待
って
「ところで、いま日本では、貧しき人々はど
から、顔を自由思想団から海旭へと向けた
しだ」とキリスト者の片割れは皮肉を 言
するとは宗旨替えかね
これはしたり
プロテスタントが身を乗り出した
ないか」
助を充実させる方向へとも
してきたように、貧困の 主 たる救済者は宗教
これは、世界に 誇っ てよい大いなる
とをやって、その上で日本という国に公的扶
。
ではなく国や自治体であるという方向へ舵を
き った
社会的前進だ 」
「いや、そうばかりとはいえぬ」と社会民 主
っている 」
党員が口を尖らせた 。「台頭するわが労働者
階級に対する懐 柔 策という側面もも
。
「おやおや仲間割れかね」 とキリスト者 二 人
が 顔 を見合わせた
「おぬしの議論は分かるが、 問題を複雑にす
4
5
。
放っておかれるままなの
。
日本の宗教家たちはどうしているのか
うなっているのだ
か
。
。
七 三)にようやく禁を解かれたキリスト教徒
による慈 善活動の晴矢、プロテスタントで医
者でもあったヘボンが施療所をもうけて、在
日十八年間で数万人もの治療にあたったエピ
。
。
二十年代へと話を
そして岡山医学校の医学生であった
「
孤児が千人を超えるとは尋常ではない 」
のキリスト者は顔を見合わせて声を上げた
。
救済にあたったことを紹介したところ、 二 人
石井十次が地元の岡山で千人を超える孤児の
進めた
わかに目覚ましくなる明治
地で孤児救済や救ライ、廃娼などの活動がに
「いや黙ってみているわけではない 宗教者
黙ってみているだけなのか」
。
。
ソードから語り起こし、東京をはじめ全国各
。
っとも熱心にやって
「いや残念ながら、キリスト者がもっ
ちなみに明治八年に刊行された「准官教会
新聞」によると、前述の「姐救規則」 がつく
。
「ほう、キリスト教徒がか それは具体的に
と
られた明治七年に実施された調査では、囲内
はどんな・:」
まずは、明治六年( 一八
。
数もさることながら孤児となった多くの
。
日本のキリスト者はかねて
救済にも熱心で、これによりキリスト者の社
廃娼運動を熱心に進めてきたことから、孤児
待ち受けていた
女児には、「苦界」 への身売りという悲劇が
る
の年間捨子数は 三千にも上ると報告されてい
二人のキリスト者がにわかに
いる」
とも早くから、そしても
えた
矛先を向けられて海旭は口ごもりながら応
タントが突っ込んできた
活動をそれなりにしているのか」とプロテス
「それなりに、か では、仏教はどんな救貧
が、なんとも歯切れがわるかった
もそれなりにやってはいる」と海旭は応じた
。
関心を示して、口々に海旭に話の先を促した
日本の救貧活動の先駆はキリスト者
海旭はできるかぎり客観を心がけて、日本
。
におけるキリスト者の救貧活動をかいつまん
で紹介しはじめた
4
6
査中に月を求めて
いっぽう仏教徒は公娼
立て直して仏教による救貧活動を紹介するべ
。
会的評価も高まった
。
く口を開こうとしたまさにそのとき、またま
たカトリック刷新派から遮られた
制度に寛容であったため、これがキリスト教
一因となったともいわれるが、
「ところで、日本には仏教徒はどれほどいる
に遅れをとる
海旭としてはこのあたりをどう説明したもの
のかね」
海旭はしばらく考えてから、「日本人の大
か思い悩んでいるところへ、カトリック制新
。
半は仏教徒といっていいだろう」とあっさり
派が賛嘆の声を上げた
答えるにとどめた
しかし、仏教各宗派も遅ればせながら連携
徒として登録され管理されていたこと、明治
人は地域の寺の檀家として、すべからく仏教
江戸時代においては日本
「われらが日本の同輩もなかなかやるではな
をして「福田会」という救貧困体を設立、山
に入ってからは廃仏致釈で仏教離れがおきた
。
いか」
岡鉄太郎、 三遊亭円朝、渋沢栄 一、福地源 一
ものの葬式においては大半の日本人は仏教徒
。
郎など各界の著名人を賛同者に加え、広く義
考え違いもたいがいにしてほしい
。
国の
ルを干すと、態勢を
は目を輝かせた
。
。
「せいぜい 一パ
「日本人が兜をかぶって干
かん
貧活動をしているのか」とカトリック刷新派
「ほう、たった 一パーセントでこれほどの救
ーセントいるかいないかだろう」
海旭は受身のまま答えた
のか」とカトリック刷新派が重ねて訊ねた。
「では日本にキリスト教徒はどれぐらいいる
。
であることなどを説明しても、とうてい理解
支援者は八百、救
援金を集めて活動を開始
してもらえそうになかったからだ
。
。
そう海旭は補足しようとしたところへ、
済孤児は四、五十とそれなりに頑張っている
・:
今度は社会民主党員から横槍が入った
。
「なにが日本のキリスト教徒もなかなかやる、
だ
l
無為無策の尻拭いをしてやっているだけでは
ないか」
海旭は飲みさしのピ
4
7
文をかわしていた時代から、わが大先輩の 宣
っ てい
ザピエルをはじめ
・
宣 教師のことをい
おそらくフランシ ス コ
教師たちが 営々と活動してきたおかげだろう
」
としたイエズス会の
これまた日本の歴史をひもとい
たことは間違いない
。
それゆえに、仏教徒か
貧活動は日本の仏教にはないスタイルであ
った
。
た
。
今度はプロテスタントからだ
った
。
実に
一パーセントのキリ
って深奥につきささる
。
留 学 前、 宗 派を超
鋭く痛い問いかけだった
マで
った新仏教徒同志会
l
え仏教の革新を想って集
これは海胞にと
スト者の後塵を拝しているのか 」
なぜ救貧活動ではわずか
「日本では国民のほとんどが仏教徒なのに、
。
っ
むしろ仏教は
らすると、それをキリスト者の専売特許とし
て許してきたところがあ
キリスト者から積極果敢に 学 ぶべきであ った
。
るのだろう
「それ
クで
ッ
ようとしたところを、またまた中断させられ
いや、いまからでも遅くない、と内省を深め
。
っ
て 一知半解な知識にもとづく 牽 強付会をただ
。
。
明治になってキ
一矢を報いた
っと歴史理解が違う
そこでささやかに
しても理解は得られないだろうと海旭は思
た
はちょ
して救貧活動を展開したのは、カトリ
っぱらプロテスタントだ
。
「布教をかねて、
ク刷新派はたじろいだが、それは
ッ
」
リシタン禁止令は廃されたが、布教の 一環と
はなく、も
カトリ
一瞬で、すぐさま反撃にでた
ったテ
い ったいどう話せば異教の友
そしていまだ結論が出ていない課
。
しばし沈思した
。
(この項つづく)
人たちに理解してもらえるだろうか、海旭は
った
。
もあった
の仲間たちともしばしば語り合
。
題でもあ
寄付やボランティアをつのり、それを貧窮者
っ て実 践してきた伝統の
に配分提供するという活動は、われらキリス
l ト
ったが、そ
) だ 新教はそれを継承したにす
ト者が 二千 年 にわた
技(ア
ぎない 」
明らかに悔し紛れの 言 説ではあ
れが旧教の 真似か継承かは別として、その救
4
8
川一比九
ド
、
かまちよしろう先生作新聞四コマ漫画 「コンち ゃ ん」が各地方新聞に掲載されています
以上朝刊
福島民報 ・宮崎日々新聞 ・新日本海新聞・山形新聞・長崎新聞・岐阜新聞
図ηぽ君命令校堅子物
(
静岡新聞 ・山梨日々新聞 ・北 日 本新聞
中国新聞 ・神戸新聞、以上夕刊 )
。
。
・
我灸べる故に我有リ桜餅
〈特選〉
。
。
。
哲学者で数学者のデカルトといえば、「我
思う故に我あり(コギト・エルゴ・スムこ
だが、これを借りて愉快に仕上げた借り手
大口
のほうには観念論もへったくれもない
を開けてぱくりとやるばかりである
〈
佳作〉採れたての我孫子の甘いほうれん草
l
湯下占に我が子の肩借リて
老い Tよリ覚えし我慢寒明ける
スキ
苑
を
猫の恋といえば春の季語だが、食が足りて
。
くると、性欲のほうも季節を食み出してくる
それはそれとして、恋猫の声は、真
らしい
呑
旬一
上
春
小
林
恋猫に聞き耳立てていて寝ねず益田
〈筆〉
浄一
佳
新
田
5
0
我
聞
斉
浜
石
原
口
•
•
題
宜限題
由
臨
次礼去自
夜中に始まったらたまったものではない
。
らい付き合いである
〈佳作〉浬柴図の喧び声聞く朝の寺
異聞あリ絵婚の寺の税仏堂
日の移る薮の奥よリ初音聞く
。
藤
月干IJ r浄土』 誌上句会係
〈特選〉
。
島のことだが、ねん
「おんぶ」という語は当たらないが、これは
明らかにおんぶである
。
ねこといえばもう年寄りだろう 今はもう懐
。
戸田
子青
貞
この頃は誰もが子供を前にしているから、
ねんね唱}や烏の風花すぐ止んで増田
-自由題
子
雅
善
隼
人
也
華
かしい子守唄が聞こえてきそうである
〈佳作〉日向ぼこだんだん子供になる男
残雪や空き地ピなリ L友の家
採石の岩肌見せて占眠る
信子
5
1
藤
佐
つ
内
保
葉書に俳句 (何句でも可) と 、 住所・氏名を必ずお書き下さい 。
宛先
〒 105 . 0011 東京都港区芝公園4・7.4明照会館内
選者=埠田河郎子
井
村
柏
木
東
締切 ・ 2012年4 月 2 0 日
発表 ・ 『浄土J 2012年6 月 号
応房方渚
. いずれの題とも数の制限はありません 。
.特選各 1 名・佳作各 3 名
編集後記
満開の桜花のもとに僧集う
。
ようやく附上 寺 の八 OO 年御忌大法要
四月の 一日から十 一 日
怨像を絶する長さで、そのご苦労は大変
を強く致しました
。
なものだっただろうと、驚きと尊崇の念
。
。
御忌のこうした法要
これからがまさしく八 O 一年目
一年延ばしで行われた大御忌も終わり
ました
が終わりました
まで、スタッフ関係者の皆さんはそれこ
へのスタートです
。
円光大師堂でこの十
まで続けられた常念仏に、何回か参加さ
一日間ずっと、朝八時半から夕方四時半
いも強く感じます
る 一方、続けなくてはならないという思
がいつまで続けられるのだろうかと考え
そ休みなく、 一気に駆け抜けた十 一日間
「
本当にお疲れ様
でした 」 と心からの 言葉が出る、そんな
だったことでしょう。
気持ちです。
と随喜をしたど上人も多く、さすがに疲
せて頂きましたが、私たちがお念仏をし
飯田実雄 (駒ヶ根・安楽寺)
巌谷勝正 (目黒 ・祐天寺 )
魚尾孝久 (三 島・願成寺)
大江田 1噂導 (仙台・西方寺 )
北山大超(焼津・光心寺)
加藤亮音量 (五反 田・専修寺 )
熊谷鋪彦 (佐賀 ・本殿 寺)
粂原恒久 (川越・五E型車寺)
佐藤孝雄 (鎌倉 ・尚徳院 )
佐藤成順 (品 川・願行寺)
佐藤良純 ( 小石川・光岡 寺)
東海林良雲 (塩釜 ・ 雲上寺)
須藤隆仙 (函館 ・称名 寺)
高口恭行 (大阪・ 一 心寺)
田中光成 ( 町田・長逮寺)
中島真成 (青 山・悔窓院 )
中村康雅 (清 水・~相 寺)
中村消費 ( fl!J台・餓鈍院)
野上智徳 (静 岡・ 宝台院)
( 磁称略・五+音順)
した
。
お念仏を楽しんでする気持ちを起
句
こしたいという思いを益々強く思います
時代がどのようになっても、人間を支え
(長)
長谷 川岱 潤
斎藤見遊
佐山哲郎
青木照窓
村田洋 一
年会資六千 川
E 月号頒価六百円
第 三幅郵便物誠司
八巻
。
る行為、拠り所となる行為は変わる事な
く念仏であるのです
y
編集チ l フ
編ザ米スタ フ
ヒト
卜 n
妹式 会社
y
l
テ
ィ
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イ1
佐藤良純
大室了時
平成 二十四年四月 二 卜日
平成 ニト凹年五月
一日
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一ヲ五。二「一一
(
句 読 二ニ
三 五ヒ八)六九四b
三
三 五ヒ八)じ 一三
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回世智 同一 八 r ・八・八一ご八 b
発行所法然上人鎖仰会
東 京 m 港区芝公悶 四・七 4
問明照 会館 内
干
印刷所
軍人
発行人 1111
印刷
発行
昭和卜年五円 二
浄
土
私もじ座随喜しました が 、 六 座 、 七 座
れがたまっているご機子でした 。五 十年
ていると、 一般の方々も五分くらいづつ
場回卓文 (静岡 ・輩陽院)
本多義敏 (両国 ・回向院)
真野飽海 (大本 山 111 浄華院)
刷 1噂之(網代・教安寺)
水科善隆 (長野 ・覚廃 寺)
宮林昭彦 (大本 山光明 寺)
山田和雄 (諏訪 ・点主公院)
。
に 一度の大御忌は、確かに思い出に残る
ですが参加される方が多く、中には若い
藤図得三 (鴻巣 ・勝願寺)
法要になりました
人もお念仏を楽しそうにされて行かれま
h
t
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ホームベージ
岱
潤
そう思うと徳山の方々 の あ の 長 さ は 、
雑誌 『 浄土j
特別 、 維持 、 賛助会員の方々
5
2
法然上人錆仰会[講演会]のお知らせ
講師 石丸品子
法然上人
平家 の人々
し、しまるあきこ
I
935"ló 点点有~I t.まれ 。
1]1 文学将、文芸
持論家 。 Ut Jjt 大学文学部半、同大学院
人文科学研究所 1l!J.七諜綬修了 。 東京経
済大学才1 ft教段。 J刊?に r llii 彩びとは
法然一式子いl 税 E伝 J
p経史に l咲いた火たち
(仰l 日新聞社 ) 、
i/Jí(氏の花
、 |亥
家のイE J (lî賢官~~:t llll坂)、 『 法然の手紙J
( 人文 .II~ 院) 、 『 お手紙か ら みる法然さ
ま J ( 浄上宗 1L11坂) ほか 多 数。
会場 東京芝大本山増上寺慈雲閣 lFホーyレ
午後 1
:
30 開場
6 月 22 日(金)
午後 2:00 開演の :30終3 予定)
会費 1 , 000 円
当会会員無料
問い合せ先
一法然上人錆仰会一
干 105・0011
東京都港区芝公園4・ 7-4
電話 03・ 3578・ 6947
明照会館4階
FAX03・ 3578・ 7036
て』00ONO HM- 凶 発行人 / 佐藤良純
-doコ円一己
アイエムが目指す
「寺院ルネッサンス J とは…
日本人の心があぶない f そう感じたとき
寺院と周縁のはざまで活動する私たちアイ エ ムに
ひとつの気づきがありました 。
編集人 / 大室了時
「寺院とは地繊の人々の “ 苦"と向き合い
“学び・癒し・楽しみ" があり、人々を
元気にしてくれるところでなければ」 と。
編集チーフ
このような寺院と周縁の聞に新しい信頼関係を築く
支援活動が、寺院ルネッサンス活動なので、す。
/ 長谷川岱潤
今、アイ エ ムでは寺院から地域 ・ 周縁への
お堂コンサート
各種文 化 発信行事の開催を
支援致しており ま す 。
直 員長童話証L
東京都中央区京橋 2-8-1 八重洲中央ビル
Te l. 03・ 3 535 - 5555
Fax.
033
5
3
5
2730
…ット 巨E で 叫J