水と霊とから生まれる

水と霊とから生まれる
ヨハネによる福音 10
水と霊とから生まれる
3:1-10
イエスと国会議員ニコデモの対話です。三権分立の議会ではありませんか
ら、「国会議員」は適切ではないかも知れません。ニコデモが、最高裁判所
をも兼ねていた七十人議会の一員だったらしいことは、後に 7 章の終わりの
所で、イエス強制連行を企てる祭司長たちやファリサイ派と、彼が議論する
場面から分かります。そのあと、「こんな偽預言者の肩をお持ちになるとは、
まさかあなたもガリラヤ御出身ではありますまいに」と、ニコデモは辛辣な
皮肉を、議員たちから浴びせられます。
それだけこのラビに肩入れして、味方になろうとしたには理由があった筈
ですが、それには、この夜の一対一の対話が与かっていたのでしょう。と言
うより、この場面での最初のニコデモの切り出しの言葉などを見ますと、す
でにこの夜ナザレのラビをエルサレムの宿に訪ねる以前から、イエスへの深
い尊敬を心に抱いていた、と見ねばなりません。
この3章の話だけ読むと、ニコデモは、ユダヤ人としてはかなり鋭い“神
の息吹への”(霊的)感受性を持っていて、深い人間性の悲しみを担ってイ
エス様に迫ったようにも見えます。「年をとった者が生まれ直したりするこ
とが、どうしてできましょう」という言葉には、すでに罪と死の姿を自分の
中に見た人の呻きを、聞き取ることができます。
若いころ、伝道講演に招かれて行きますと、私は、よくこの対話をテキス
トにして語りました。「罪の中に徒に年を重ねたニコデモの悲哀」、また、
それに対するイエスのお答え……というような角度から、熱をこめて話した
ものです。しかし、ふと、ニコデモとイエスの対話はそんなに噛み合ってい
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たのだろうか……と疑ってみました。特に、前回に私たちが読んだ 2 章末尾
のところを、この話への前置き、あるいは主題提示として眺めてみたら、ど
うなるかです。多くの人はイエスのなさった奇跡ばかり見て、イエスの名を
信じたが、イエス御自身はそれに乗らなかったというところです。人の心の
中にあるものを、悲しくも全部見通して、「しるし」に感激する人たちを、
甘やかして受け入れはされなかった。
そういう前置きの後で、その一例としてこの話が出て来る、と考えると、
ここのニコデモの切り出しの言葉も、著者はそんなに感激しないで書いてい
るのでしょう。言っている本人は、息を弾ませて大感激で申し上げています
けれど、著者は、「皆さん、あまり感動しないで見てくださいよ。『しるし
を見て信じる信仰』の第一号だ。よくごらん」というつもりで引用している
のでしょう。イエス御自身が開口一番、宗教家としても知られた議員に冷水
を浴びせて、発想の転換を迫られるのですから。
1.ニコデモの信仰と願望。 :1,2.
1.さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たち
の議員であった。 2.ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしど
もは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が
共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うこ
とができないからです。」
さすがはニコデモ、イエスを悪魔呼ばわりした大方のユダヤ人とは違う。
「神からの教師」として来られたこの方を慧眼で見破ったのです。エルサレ
ムに来られて以来なさった力ある奇跡を見るかぎり、生ける神がこの方と一
緒にいて力を現しておられる。そうとしか考えられない!
果してニコデモは、イエスの中に約束のメシアを見たのでしょうか……。
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「神からの教師として来ていらっしゃる」
という表現からは、断定はできません。ユダヤ人としては最大の問題……「神
の支配はいよいよ来るのか。どんな宗教的努力がそのために今必要か」とい
う(律法の次元からの)問いを持参して、イエスの教えを請うています。こ
の無言の問いは、次のイエスのお言葉から明らかです。
2.イエスが迫った発想の転換。
:3,4.
イエスが急に「神の国」について……と言うより「神の王権支配」のこと
をお話しになったのは、ニコデモ自身がこれまで、このテーマに心を捕えら
れていたからでしょう。主なる神が“王”として地上に支配を確立なさる。
そのとき、その神聖な支配に与かるためには、どれだけの真剣さ、どんな信
仰が必要か、自分は次に何をすべきか……ファリサイ人はファリサイ人なり
の考えと目標を持って、イエスに迫ったのです。
彼がもし、その問題を携えてエスの門をたたいたとすれば、それは、「こ
の人こそ王としての神の支配を実現する人か?」という期待を抱いたからか
……。ともあれ、ニコデモの考え方の中には、二つの問題がありました。そ
の一つは、「しるしを見たから信じられる」という信じ方。もう一つは、「神
の支配に与かるための資格」という考え方です。イエスが衝撃的な切り出し
で語り出されたのは、その点に係わってです。
3.イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれ
なければ、神の国を見ることはできない。」 4.ニコデモは言った。「年をと
った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入
って生まれることができるでしょうか。」
イエスのお言葉のどこが衝撃的か……どこで発想の根本的切り替えをせま
っているかと言いますと、「生まれる」、「生んで頂く」という、およそニ
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コデモが考え及ばなかった点です。逆に言うとニコデモは、「私はこれでい
いか。資格は十分か。それとも……」ということだけを問題にしてきました。
「不十分なら、もう一歩何をすることが条件か……?」これは、ルカが描く
律法学者と同じ質問です。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが
できるでしょうか?」(10:25)あの発想と同じです。
イエスのこの驚くべき宣言は、「何をしても無駄。あなたは絶望だ」、「神
の王権支配とあなたは縁がない。はっきり言うと、あなた程の人でもそのま
まではどうにもならない。またその上に徳を積んでも、行をしても何の足し
にもならない。」これが、「生まれなければ」のショックです。ニコデモは
慌てて、「もう一度母の胎に戻ってやり直しがきく訳じゃなし」と、ヘタな
ごまかしの時間稼ぎを言っていますけれど、実はイエスのお言葉の真意が分
からずに、戸惑ったのです。この食い違いは多分、この問答の最後まで続い
たのだろうと思います。
「新たに生まれなければ」と言われた「新たに」は、おもしろい言葉で、
ヨハネが書き留めているギリシャ語の副詞はです。は“上”、
は“~から”で、第一義としては「上から」です。「上から生まれなけ
れば」となります。上を源として……神の力、神のイニシャティヴでです。
もちろん、人間の資格の積み重ねとは関係なくです。にはまた「初
めから」という意味もあって、多分、ニコデモはこの意味に受け取ったので
しょう。母の胎に「もう一度」と言い直しています。これは、ニコ
デモの解釈ですが、イエスはそれ以上のことを言われた可能性が大です。
「生
まれる」しかない。生んで頂くしかない。それも「上から生んで頂く。」つ
まり、神があなたに手を触れて、この絶望的に死んでいるものに、命を吹き
込まねばならない。そのことが起こる所にだけ、神の王権支配はある。あな
たは、「自分はイスラエルだから、そんなものは不必要。それ無しに神の支
配を見られる」と思っているが、大間違いだ!―そう言われたのです。
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3.神の霊にだけ、望みがかかっている。 :5-7.
霊というのは、現代国語の使い方では、死者の霊とか幽霊のようなものを
連想させますが、元々「霊」という漢字の意味は、形あるものとは別の「目
に見えぬ精神」のことでした。この字が果たして、ギリシャ語のや
ヘブライ語の
x;Wr
の訳語として適切かどうかは疑問もありますが、それで
も、この字には、「人知では測り知れぬ不思議な力」の意味もあります。力、
生命、エネルギーです。目には見えないが確かに迫って来る神の力、生ける
神の生命力と言えば、いくぶん本来の意味に近づきましょうか……。本当の
意味は、ヘブライ語でもギリシャ語でもそうですが、「ハーッ」という息を
指して
x;Wr
とかとか言ったものです。8 節の表現(風は思いのま
まに吹く)は、そこへ結びつきます。
5.イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とに
よって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
この「水」は何をさして言われたものか……。バプテスマのヨハネの悔い
改め運動とヨルダン川での全身水没が、人々の記憶に生々しかったことを考
えて、「水は清めを象徴する」と見る人たちもいます。その角度から受け止
めると、「清めの必要など全く無いと自認するあなた自身が、水に象徴され
る、罪からの清めを要する」という意味になります。そして、「生ける神の
命を吹き込んで頂いて初めて、神を王と仰いで服する清い人間が誕生する」
ことが“命の息”(霊)への言及に込められています。
この意味からもう一歩進めると、やがて弟子たちが行う、キリストの名に
よるバプテスマ(全く受動的に全身水没に服する)とも繋がります。一部の
人たちがよく言うような、救いの手続きや条件を預言したのではありません。
イエスのお言葉は確かに、“christian baptism”を含蓄していたとしても、
またヨハネの読者には連想で繋がるとしても…………。
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やはり、イエスのショック療法、爆弾宣言としては、「ニコデモよ、清め
を必要とするのは異邦人で自分ではない……と思っているあなた自身が、誰
よりも清められなければならないし、結構生きている……つもりのあなたが、
神の生命力を注いで頂かない限り「死人」であることに気づかねばならぬ。
これが分かるか?」と読み直したらどうでしょうか。
6.「肉から生まれたものは肉である。―罪にがんじがらめになった弱い
者、死んだ者だということです―霊から生まれたものは霊である。 7.『あ
なたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いては
ならない。」
ニコデモにはイエスのお言葉が、全くの飛躍に聞こえたでしょう。
4.ニコデモはイエスのお言葉について行けない。
:8,9.
8.「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから
来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
日本語として自然に聞こえるよう、訳者は「風は」としていますが、文頭
の言葉は、前節で「霊」と訳された語(プネヴマ)です。もちろん
「風―息」の意味が基本にある言葉です。邦訳の文として「霊は思いのまま
に吹く」では分かりにくいと考えたのでしょう。前の文の流れから続けてみ
ると、「霊から生まれたものが霊だと言ったが、その霊は自分の意志で思う
所へ自由に吹くのだ」とおっしゃったことになります。この「吹く」も同じ
言葉の動詞形(プニー)です。「“風”が“風する”……そうだ、“霊”
が“霊する”と言ってもいい。ブネヴマがプニーしているのだから」と、こ
こは言葉あわせになっています。
「ニコデモよ、我々の言葉では、霊も風も言葉で言えば同じだが、霊はす
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ごい力で吹き捲るわけだ。あなたにはその音は聞こえるが、風そのものがど
こから来てどこへ行くかは分からない。風は人間の期待や宗教的公式とは関
わりなく、“風”自身の意思で、「“風”流儀の吹き方」をする。その風(霊)
を正面から受ければ、あなたの宗教的期待を超越したことが起こる。死人が
息を吹き返し、腐廃する人間が清い新しいものに作り変えられる―それを
あなたは見ることになる」と、ここは重点を「その音(残す明らかな結果)
を聞く」に置いて読むと分かります。」
クリスチナ・ロセッティの「だれが風を見たでしょう」をご存じでしょう
か。草野信作曲のあの歌は、ここの説明にぴったりだと思って、よく歌った
ものです。「けれど梢をそよがせて、風は通り過ぎて行く。」風が残して行
く仕事を誰も否定できないように、霊によって人が上から命を受けて生まれ
るという奇跡を、間もなくあなたは見るのだ……と。
最近ではまた、少し角度を変えて、イエスは「知らない」という所に重点
を置いて、強烈な風刺を利かせておられるのかも知れないな、と思います。
「それでいて、なお、どこから来てどこへ行くか知らない、と言い張るのか!」
つまり……霊の風が力強く吹いて、人の魂に命を与える―霊によって生ま
れるのだと言うのに、あなたは、「そんな力が来る筈はないし、来る必要も
ない。そんな力がどこから来るのか? 第一、そんな夢みたいなことはあり得
ない」と言うか? 知らないと言い張るか……と、これは、マルコ 12 章の「聖
書も神の力も分かっていないではないか!」という叱責に通じることになり
ます。この、後の意味に受け止めると、ニコデモの言葉は、イエスとのどう
しようもない食い違いを、悲劇的に告白しています。イエスはその食い違い
も超えて語られます。
9.するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言
った。 10.イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありな
がら、こんなことが分からないのか。」
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《 まとめ 》
私たちは、「しるしを見てイエスを信じた人」の見本のようなニコデモと
主の対話の、前半を読みました。イエスの行われた力強い奇跡を見て、「こ
れは神様の力だ。神様がハンコを押しておられるような方だ」ということだ
けは、見通せたのです。昼間に来る勇気はなくて夜に訪ねて来たとは言え、
余程の求道心です。しかし、物語を読み続けるにつれて、イエスが伝えたい
こととこの人の期待との間に、大きな溝があるのが分かってきます。この人
には、「上から生まれる」というようなことは思いもよりませんし、これだ
け真面目に宗教的に生きて来たと思っている自分が、「水と霊」の力で新し
くしてもらわねばならない……というようなことは、理解しようとするだけ
で苦痛だったのです。
このヨハネの福音書の終わり近く、19 章の末尾では、処刑されたイエスの
埋葬に、弟子たちさえ立ち会わなかった時に、アリマタヤのヨセフを助けて、
この人は力を貸します。とても感動的な場面なのですが、遺体に布で巻き込
む香料を 30kg も持って駆け付けるのです。当然、イエスを信じるに至った
のだろうとは、誰しも考えることですが、あるいは溝はあの時のまま、彼は
ついに悲劇的にイエスが理解できないで、ただただ自分流に感動して自分流
に尊敬申し上げていただけ……だったのかも知れません。福音書の記者は謎
を残したまま、彼の心の優しさと、弟子たちにもできなかつた美挙だけを伝
えます。
ローマ書の 10 章の始めに、タルソのパウロの至言があります。ニコデモの
悲劇とも拘わりがあると思われるので、私訳で紹介しましょう。
「確かに、神に対する熱意は彼らが持っている。これは私も請け合う。た
だそれは、『わからずに』持っている熱意だ。という意味は……神が下さろ
うという義は無視して、自分自身の義を立てることに必死だからで、結局、
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神の義には服さずじまいになった。本当は、キリストで律法の道は終了して、
信じる者に例外なく義が与えられる道が開けているのに!」(旧著「ローマ
書の福音」―えりにか社版 243 頁)
「完全主義者」というものを、ご存じですか? 自分のやっていることの基
本線には絶対間違いはなくて、人からとやかく言われる筋合いは無い、と確
信する人です。自分に落ち度が一つでもあると考えることは死ぬほど辛いし、
人からほんの少しでもそう見られることは、心外で甚だしく傷つくのです。
いつも自分の点数を気にし、自分の落ち度が一つも無いことを確認して、初
めて安心する人です。
「私はそれじゃない」とは、誰しも言いたいですね。「私じゃない。誰々
さんがそれだ」と言いますが、本当はそうではなくて、心の中で、「心外だ、
心外だ」と傷ついて、不満を託っている限り、みんな多かれ少なかれ、それ
なのです。それが強い人もあれば弱い人もあるというだけで、人間、「揺り
篭から墓場まで」そうなのかも知れません。これは、信仰で治るものでもな
いでしょう。ただ、シラケて、距離を置いて自分を見ることができるように
はなれます。コッケイなこととして。
こういう「完全主義」や「心外主義」はまあ、一場の喜劇みたいなもので、
人生の御愛嬌です。しかし、それを笑って距離を置いて見られない時は、“命
の息”を受ける関係―霊的関係の中まで入り込んで、命取りになります。
ニコデモは「心外」だったのです。これだけ真剣に真面目にやってきた。イ
エス様の奇跡を見て感動するだけの素直さまである。それなのにこの方は、
これを全部捨てて「上から生んで頂かないと望みは無い」と言う。異邦人な
らいざ知らず、水を潜って清められねばならぬとは何事か!……まるで霊の
ない、生きていないもののように、霊によって生まれなければ希望は無いよ
うに言われる。これは心外も心外、「どうして、そんなことがありえましょ
うか」と驚きを表わしたのです。
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「その“心外主義”から一度下りて来い。“命の息”(霊)に捕らえられ
ない限り、そのままでは、死んだ死体同然の自分に気づけ。そうすれば、あ
なたが神の支配を必要とすることも分かるし、この私があなたにとって何で
あるかも、見えてくる。」イエスはそう言われたのです。
(1985/07/14)
《研究者のための注》
1.ヨハネ 19:39 にある「夜イエスのもとに来たニコデモ」は、彼のあだ名のようになっ
ていたと見る向きもあります。新共同訳は「ある夜」としていますが、この属格形を
副詞として使ったは「昼間ではなく夜になってから」「夜が明けぬ間に」等
の用例が多いことから、夜の時間を選んで訪れたと見られます。恐らく、自分の立場
や身分を考えて、目立たぬように夜を選んだものと考えられます。しかし Schulz の注
解は別の見方をし、「ニコデモが夜の間にイエスの所に来たのはユダヤ人を恐れたか
らではなく、この時間を一番適当と思ったからである。ラビたちには夜の勉学が勧め
られていたことを、ヨハネが知っていたかどうかは疑わしく、それよりも夜の神秘性
を強調すべきである」と言います(NTD)。
2.ヘブライ語の
!mea' !mea'
を音訳したについて、伝統的な理解は、
重大な発言に相手の注意を引こうとする時のイエス独特の表現と見、ルカ 21:3 の
(マル 12:43 では)などを参考に、「はっき
りと」「まことに」「ほんとうに」等の訳語を充てます。対照的な見解として Robert
L. Lindsey は、は常に応答の言葉であるとし、「そうだ、その通り」と、前の
言葉や行動を承認、肯定した上で、自分の発言へ繋ぐと見ます。
3.「水と霊から生まれる」 の解釈は、主としてニコ
デモへのショッキング宣言、発想転換を迫る言葉として捕えました。は新
生命を発動させる御霊の力、はバプテスマ(全身水没)の際に潜る水でしょう
が、Martin Clark は、「ちょうど新生児が母体の羊水の中に浸かって、その中から生
まれてくるように、霊的新生命も、福音の言葉を通して御霊によって受胎させられ、
浸しの水を通して地上の世界に誕生する」と説明しました。バプテスマへの言及を排
除する人は「水、つまり霊」と、同義的対句として読みますが、すでに浸者ヨハネの
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浸しや、イエスの弟子たちの浸しが水で行われていたことを考えれば「水」と「浸し」
を結びつけるのは不自然ではないと思います。「水」は「上から霊の力を受動する」
のと似て、「人の手に全身を委ねて水没する」という、自分の力や行為によらない「受
動」を強調すると私は推測します。
4.「それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」を「雲行末の風来末」(落語「寿
限無」の一節)と結びつけて、「風(霊)の源の不可知性」を表わすと理解したもの
ですが、今ではローマ書 9:15,18 のような「神御自身の意思と選び」による、人間の
宗教的期待とは裏腹の「人の義によらず神の義―神が“義”を作り出す」という「異
邦人の福音」の以外性を「知らない」に込めたと理解します。
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