1 EU の社会保障・労働政策とユーロ危機――イタリアの事例を中心に

EU の社会保障・労働政策とユーロ危機――イタリアの事例を中心に――
平野泰朗(摂南大学)
1.問題の所在:ユーロ危機、社会保障、雇用
1.1.EU における社会保障
EU は、単一通貨ユーロを創出して、市場統合を果たした。その結果、モノ(財)とカネ
(資本)は、域内を自由に移動し、域内の貿易取引・資本取引量は増えた。しかし、ヒト
(労働力)に関しては、いくつかの国境地域を除くと、移動は限定的である。とはいえ、
EU は、ヨーロッパに暮らす人の生存条件に関しては、Social Europe(社会的な欧州)と
いう共通理念を掲げている。これは、労働移動・労働権・雇用促進・性的平等・医療保障・
差別撤廃を目指すものである。これを実現するのが社会的保護政策であり、その中心には
社会保障がある。したがって、社会保障に関しても各国で似たような給付水準に合わせる
必要がある。しかし、社会保障制度は、すでに国ごとに多様な発展をとげており、これを
制度統合するのは現実的ではない。そこで、各国の社会保障給付水準・給付条件を調整し
ていくことが現実的といえる。
さて、一般に、社会保障は、社会保険や租税制度を通じた所得再分配と理解されるが、
EU では、社会保障を雇用戦略と統合してとらえている。例えば、年金制度を持続させるた
めには、就業率を上げる必要があるというように。その上で、公開調整方式 open method of
coordination とよばれる方式で、各国の社会保障給付を調整している。この方式では、加
盟国が雇用や社会的保護政策に関する年次報告(とくに年金は、別立てで報告書が作成さ
れている)を提出し、閣僚理事会の審査と勧告を受け、政策を調整していく。こうして、
各国の社会保障は、この方式にしたがい徐々にではあるが、相互の調整を試みていくよう
になった。
1.2.ユーロ危機の影響
ところが 2009 年 10 月にギリシャ政府による財政赤字の隠蔽が発覚したことから、ギリ
シャ危機が始まる。それは、やがてユーロ圏全体に広がる危機となる。そして、これが、
社会保障財政にも影響を与えることとなった。
なぜなら、ユーロ危機は、当面、国家債務危機 sovereign crisis として発現したからであ
る。
つまり、
財政赤字の累積により、
ギリシャ等の国債の償還が危ぶまれ、
債務不履行 default
に陥るのではないかとの懸念から、金融市場では、国債価格が暴落し、リスク資産を安全
資産に変える流れが加速した。これへの当面の対応策として、EU が当該国(ギリシャやイ
タリア)に資金支援を行う代わりに、当該国には緊急の緊縮政策が求められた。この緊縮
政策の中に、最低賃金の切り下げやら年金の給付カットが含まれたのである。
ところが、この年金費カットは、それまで、当該国が公開調整方式にしたがって行って
きた年金制度改革の延長線上の改革のようにもみえ、制度変更だけをみると高齢化対応な
1
のか財政危機対応なのかが判然とはしない。
緊縮政策が社会保障政策として妥当であるか否かを確定するには、本来、制度変化とと
もに、国民経済に占める年金費割合や年金と平均賃金との比率(所得代替率)などを調べ
る必要がある。また、これらは、政治的プロセスによって決定されるので、国民が納得す
るには、他国との比較だけでなく、自国の過去とも比較する必要があろう。
そこで、本稿おいては、当面、信用危機が現れやすいと考えられている南欧諸国(イタ
リア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ)において、まず社会保障費の中でも財政削減効
果が数字となった表れやすい年金費の削減措置が、どの程度国民生活に影響を与えている
のかを、その国の歴史的変化をたどるとともに、他の国の年金関係指標と対比しながら政
策としての妥当性を検証する(ただし、紙幅の制約上、ここでは、イタリアのみを事例と
して取り上げる)
。
1.3.ユーロ危機の中の雇用と社会保障改革
しかし、年金を含む社会保障制度は、雇用環境が変化すれば、変化する。また、社会の
労働生産性が変化すれば、財源確保の可能性が変動し、社会保障の財政制度も変化する。
したがって、ユーロ危機の社会保障への影響は、広くは、雇用環境や労働生産性への影響
を含めて検討しなければならない。
これには、遠回りのように思えても、一度、ユーロ危機の原因がどこにあるのかを推定
することが必要である。ユーロ危機の全体像を把握しなければ、雇用や生産性のようなマ
クロ変数の変化を把握できないからである。
ユーロ導入後、ユーロ圏は、国際競争にうまく適応するように調整様式(とくに労使関
係や技能形成方式)を変化させ、輸出を伸ばした北欧諸国(ドイツ、オランダ、フィンラ
ンド等)と、それに適応できず貿易赤字を増やした南欧諸国(イタリア、スペイン、ポル
トガル、ギリシャ等)に分かれる。単一通貨を導入した後は、南欧諸国は、通貨切り下げ
によって国際競争力の回復を図ることが出来ず、国家の財政支出により国内の供給を吸収
せざるを得なくなった。こうして、一方で、北欧諸国では貿易黒字が増加してゆき、他方
で、南欧諸国では貿易赤字・財政赤字が累積してゆく構造が、ユーロ導入以後に出来上が
っていった。
それゆえ、ユーロ危機は、単なる国家債務危機ではない。また、金融政策決定と財政政
策決定の分離から生まれたという単純な産物でもない。(1)
そこで、以下では、南欧諸国の代表的国家であるイタリアを対象に、ユーロ危機と社会
保障および雇用環境に影響を与える労働政策との関連を考察する。
2.年金改革のマクロ経済的分析
まず、各国の年金支出状況を確認し、持続的制度確立のためには年金支出の抑制が喫緊
2
の課題であるか否かを、マクロ経済的数値を検討することから始めよう。
年金財政がその国の経済規模にとって過大か過少かを判断する絶対的な基準はないが、
相対的に判断することはできる。そのうちの1つの指標が、国内総生産(GDP)に占め
る年金支出の割合の国際比較である。
表1. 公的年金支出割合(対GDP比:%)
2000
2005
2006
2007
フランス
11.8
12.4
12.4
12.5
ドイツ
11.1
11.4
11
10.6
ギリシャ
10.8
11.8
11.8
12.1
イタリア
13.5
13.9
13.9
14
日本
7.3
8.7
8.7
8.9
韓国
1.4
1.5
1.6
1.7
ポルトガル
7.9
10.3
10.6
10.7
スペイン
8.6
8.1
8
8.1
スウェーデン
7.2
7.6
7.3
7.2
イギリス
5.3
5.6
5.3
5.3
アメリカ
5.9
6
5.9
6
EU27カ国
5.9
6
5.9
6
OECD
6.9
7
7
7
出所)
2008
12.9
10.5
12.4
14.5
9.3
2
11.3
8.4
7.4
5.7
6.2
6.2
7.1
2009
13.7
11.3
13
15.4
10.2
2.1
12.3
9.3
8.2
6.2
6.8
6.8
7.8
OECD(2013)OECD Factbook 2013:Pension Expenditure
表1をみると、2009 年時点で、ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガルのうち、ス
ペインを除く3国は、年金支出の対GDP比率が高い部類に属する。とくにポルトガルは、
2000 年から 2009 年の 10 年間で 1.5 倍以上に伸びている。こうしたことから考えると、ス
ペイン以外は、国家債務危機がなくとも年金財政の過大な増加に対抗措置が取られうる状
況にあると言えよう。
ただし、年金支出の必要度は、高齢化の進展により異なる。高齢化が進展している国で
は、年金の需要は高まり、支出は大きくなるだろう。詳しくみることは紙幅の都合で避け
るが、ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガルは、高齢化率が、飛び抜けて高いわけ
ではないが、低い部類にも入っていない。
高齢化率と関連する指標が、各国の平均余命(表2)である。後に見るように、近年、
年金支給開始年齢の設定を平均余命に連動して決める制度設計が出てきた。平均余命(と
くに 65 歳時点)が長いほど、そうした制度を採用しやすい環境にあると言えよう。中長期
的には、イタリア、スペイン(および日本)がそうした条件を揃えていると言えよう。
以上のように南欧諸国は、スペインを除くと、年金財政を抑制する必要が強かったと言
える。そこに、国家債務危機が襲ってきた。
そこで、次にこれらの国々の政府はそれにどう対処したかを、イタリアを代表例に取り、
見てみよう。
3
表.2 平均余命(2012 年)
0歳時
65 歳時
フランス
81.6
20.8
ドイツ
80.6
19.3
ギリシャ
80.7
19.2
イタリア
82.2
20.3
日本
83.5
21.7
韓国
81.3
19.5
ポルトガル
79.8
18.9
スペイン
82
20.4
スウェーデン
81.7
19.8
イギリス
80.4
19.3
アメリカ
78.8
19.2
OECD
79.9
19.1
出所)
OECD(2013):Pension at a Glance 2013
3.危機へのイタリア政府の対応
2011 年、ギリシャ危機の余韻が収まらぬなか、政府負債の累積が GDP120%に上るイタ
リア政府に対する国家債務危機が発生する。国際通貨基金(IMF)の監視下に入り、EU か
ら財政支援を受けなければならなくなったイタリアは、モンティ新政権の下で緊急の財政
改革に乗り出した。その中の1つのメニューが年金改革であった。
では、改革されるべきイタリア年金制度はどのような課題を抱えていたのか?
まず、イタリアの年金制度の概要を見ておこう。
イタリアには、強制加入の公的年金と任意加入の補足年金とがある。
公的年金は、戦後、
「気前のいい年金」として有名であった。財政は賦課方式で運営され、
個人には給付建て方式で支給されていた。さらに、所定の年齢(57 歳)と保険料納入期間(37
年)を満たせば、支給開始年齢以前に年金を満額受給できる制度があった。これを年功年金
という。この結果、イタリアでは早期に退職して年金生活に入る人が多かった。しかし、
平均寿命が延びていくので、この仕組みは、財政にとって大きな負担となり、2011 年以前
から幾度か改革が試みられてきた。
とくに 1995 年には、年金額算定方法を、それまでの給付建て方式から拠出建て方式に段
階的に切り替えてゆくことが決められた。同時に、年功年金の支給要件を厳格化した。た
だし、こうした改革も移行期間を長く取ったため、年金財政をすぐに改善するまでには至
らなかった。
そして、ギリシャ危機に端を発するユーロ危機が起こったのである。それは、やがてイ
4
タリアに飛び火した。そこで、モンティ新政権下でドラスティックな緊縮財政が始まった。
年金改革はその第一歩と位置づけられた。その概要は以下のとおりである。
1)年金支給開始年齢の統一化。男女、民間労働者と公務員、自営業者の区別を問わず統一
化を図る。
2)その上で、個人が年金受給を開始できる時期を柔軟化する。そして、受給開始を後に設
定するほど年金額を増す仕組みを導入する。したがって、各国民は、公式上の支給開始年
齢(当面は 65 歳でやがて 67 歳まで遅延)と 70 歳の間で年金受給開始を決め、年金を受け
取る。このことにより、全体としては生涯労働年数の延長を図る。
3)年金支給開始年齢を遅延化する。当面の 65 歳から 2021 年には 67 歳まで引き上げる。
4)その上で、支給開始年齢を平均寿命の動向に併せて自動的にスライドさせる。すなわち、
65 歳時点の平均余命が伸びれば、支給開始年齢を遅らせるのである。
5)2012 年1月以降は、すべての国民に拠出建て方式が適用される。すなわち、1995 年の
改革では、その時点で 18 年以上給付建て方式を適用されていた人は引き続き給付建て方式
を適用されていたが、それが廃止され、2012 年 1 月以降に納めた保険料からは、拠出建て
により年金額が算定されることとなった。
6)年功年金は存続するものの、その運用は厳格化する。すなわち、支給開始は 63 歳とす
る(以前は 57 歳)。その支給要件は、男性で 42 年5ヶ月(以前は 35 年)、女性で 41 年5
ヶ月の保険料納入期間を要し、しかも、60 歳以前から受給する場合は1年当たり2%、60
~62 歳からでは年1%の減額を受けることとなる。
(ただし、重労働従事者は 2011 年改革
以前の制度を適用される。
)
このほか、臨時措置として、2012~2013 年には、月 1400 ユーロ(約 196000 円)以上
の年金受給者には物価スライドを適用しないことも決められた。
以上を概観すると、モンティ政権の年金改革も突然出現したわけではなく、大筋では、
それまでの年金改革の延長線上にあるものと解釈される。すなわち、中長期的に持続可能
な年金制度への再編を目指したものと言えよう。
イタリアの改革は、ラディカルである。年金支給開始年齢を 2021 年までに 67 歳に引き
上げること、支給開始年齢の平均余命スライド制、年金算定方式の給付建てから拠出建て
への移行などが、比較的短期間で実行に移される。これは、緊縮財政の必要からばかりで
なく、年金支出の対GDP比が南欧4カ国中最も大きく、改革の必要性が最も大きかった
ためでもあろう。
このように、EUからの支援に対応したイタリアの年金改革は、概ね、持続可能な制度
変革と見なせるであろう。しかし、こうした改革が、現在の年金受給者にとって、生活を
維持できる許容可能な水準を担保するか否かは、別に検証されなければならない。
ここでは、きわめて大枠の検討のみを行っておこう。まず、各国の年金受給者の所得代
替率を見てみよう。表3は、各国の年金受給者の所得代替率を記したものである。これを
見ると、イタリア・スペインは、所得代替率が、平均所得者・低所得者ともに最も高い部
5
類に属する。ギリシャ・ポルトガルもイタリア・スペインほどではないが、スウェーデン
並みの値で、決して低くはない。むしろ、ドイツや日本の方が低い(日本の低さは、おそ
らく国民年金のみを受給する者の年金が低いためであろう)
。
この点からみれば、今のところ、南欧諸国の年金改革は、ジャーナリズムで取り上げら
れたほど年金受給者の生活を壊しているのではなさそうである。
フランス
ドイツ
ギリシャ
イタリア
日本
韓国
ポルトガル
スペイン
スウェーデン
イギリス
アメリカ
OECD
表.3 所得代替率(2012年)単位:%
平均所得者
低所得者
58.8
64.8
42
42
53.9
75.4
71.2
71.2
35.6
49.8
39.6
59.2
54.7
67.5
73.9
73.9
55.6
70.2
32.6
55.8
38.3
49.5
54.4
71
出所)OECD(2013):Pension at a Glance 2013
注1)所得代替率は、全老齢所得保障制度からの年
金受給額の平均所得に対する比率。
注2)低所得者の所得は、平均所得の50%。
4.緊縮政策と年金改革
これまで見てきたように、ユーロ危機のときに行われたイタリアの年金改革は、概ね、
持続可能な制度構築への改革であった。しかし、この改革は、緊縮政策の一環として行わ
れた。実は、ここに雇用の現状と社会保障政策との間に矛盾が生じているのである。
緊縮政策は、金融市場の不安定性を緩和するための財政支援の見返りとして、取られた。
しかし、金融市場の要請に応えようとすると、実体経済の成長を抑制することになるので
ある。緊縮政策は、総需要を低下させ、企業活動を不活発にする。結果、雇用の縮小、す
なわち失業が生じる。
ところが、この失業の増大が、年金、とくに改正された年金の制度設計と矛盾する。改
革された制度では、各人の年金額は、給付建て方式であれ拠出建て方式であれ、制度加入
期間に応じて増減する。しかも、満額年金の資格期間は延長され、支給開始年齢も引き上
げられる。この制度設計では、雇用が、生涯、ほとんどとぎれることなく支給開始年齢ま
で続くことを暗黙の前提にしている。したがって、雇用がたびたび中断し、失業期間が長
引けば、受給できる年金額が少額になり、制度設計そのものが失敗に帰すことになる。
6
この事態を回避するには、基本的には安定的な成長が必要である。緊縮政策は、一時的
にせよそれを阻害する。その効果を緩和するためにも、いわゆる成長戦略の政策が必要で
ある。その中の1つとして、労働政策がある。これは、雇用を促進する、または労働生産
性を上げる効果があると期待される。この労働政策は、年金政策とセットで執行されるこ
とが多い。それゆえ、次に、緊縮政策期に行われた労働政策を検討しておこう。
5.労働政策
EU中枢部には、今回の危機は、長期的な視点からは、競争力の危機と認識されている。
国際競争力の弱い国の政府が赤字国債を発行しやすく、これが国家債務危機を招いたと考
えられている。そして、それを解決する要の1つとなるのが、労働市場の柔軟性と低い労
働コストである。こう考えられているので、EU中枢部にとっては、労働政策は競争政策
でもある。この政策を推進する枠組として、新たにユーロプラス協定が使われる。ユーロ
プラス協定は、各国に経済政策の協調を促すものである。それは、競争力の強化、雇用の
促進、財政の持続性の強化、金融安定性の強化の4分野をカヴァする。今回は、このうち
「競争力の強化」の分野を通して、労働政策の共通化が推し進められている。
そこで、ここでは、手元にある情報の制約を考慮して、労働政策を以下の2点にわたっ
て検討する。1つは、EU全体に適用されようとし、特に、南欧4カ国(ギリシャ、イタ
リア、スペイン、ポルトガル)に共通に適用される新自由主義的な賃金政策であり、他は、
資料が比較的入手可能であったイタリアの労働市場政策である。
5.1.新自由主義的な賃金政策
EU全体に関する労働政策は、2つのプログラムからなる。1つは、高失業の原因を
時代遅れで硬直的な制度にあると断じた上で、それを改革する「構造改革」政策である。
もう1つは、団体交渉を産業レベルから企業レベルへ移す、賃金決定分権化政策である。
これらが、財政支援の見返りとして、直接的に南欧諸国にも適用される。
まず、後者の政策から見てみよう。南欧諸国では、主に産業別の労働協約が結ばれて
いる。これが、法による一般的拘束力制度等を通じて、広く非組合員にも適用される。お
よそ 80~90%の労働者に適用されると言われている(Busch, Klaus et al, 2013)。これを
企業レベルまで分権化させようというのが、EUの方針である。また、ヨーロッパ中央銀
行も、国債購入の条件としてこれを要求したとのことである(ibid)。ブッシュらの研究によ
れば、労働協約に関しては、以下のような政策変更が見られた。(ibid)
1)部門別協約から企業別協約への分権化を法的に承認する(イタリア、ポルトガル、ス
ペイン)
2)企業別協約の他の協約に対する絶対的優先性と労働協約優先原則の廃止(ギリシャ、
スペイン)
7
3)労働組合ではない団体との企業別協定の締結可能性の承認(ギリシャ、ポルトガル)
4)協約終了後の有効性に関する制約(ギリシャ、スペイン)
5)労働協約の一般的拘束力への制限(ポルトガル)
南欧諸国に中小企業が多いことを考えると、こうした変化は、労働協約適用範囲の縮
小をもたらすと考えられる。結果、団体交渉(賃金決定)の分権化よりもさらに進んで、
賃金の個別化が進行する可能性もある。
「構造改革」の労働政策として、賃金形成への政府の介入強化が上げられる。自由主
義的政策が介入を強化するのは矛盾のように見えるが、政策者の意図は、介入によって硬
直的な制度を崩し、市場原理を浸透させるところにある。これは、以下の3点を通して実
行される。1)公的部門の賃金決定、2)法的最低賃金の決定、3)労働協約への直接介入である。
公的部門の賃金カットは、財政支援受け入れ国では共通の手法となっている。もちろ
ん、これは、トロイカ(EU,ヨーロッパ中央銀行、IMF)の要請という形で実施され
る。ギリシャでは 2009 年から 2013 年にかけ 30%がカットされ、他の国々では5~10%が
カットされた。公的部門の賃金形成が民間部門の賃金形成に影響を与える国もあり、この
手法は、賃金抑制に効果あり、とされている。
法的最低賃金も、様々な経路を経て一般賃金形成に影響すると考えられている。ポル
トガルとスペインでは、2012 年の初頭から最低賃金が凍結された。
最も大きな最低賃金切り下げは、ギリシャで行われた。それは、2012 年、22%も切り
下げられた。これは、ギリシャの賃金形成に大きな変化をもたらした。なぜなら、それま
でギリシャでは、最低賃金は法的に決められるのではなく、全国的な労働協約によって決
められていたからである。
こうした政策の結果を反映してか、次の事態が起こった。2009 年までの 10 年間は、
ほとんどのEU諸国で実質賃金が上昇していた。その傾向はギリシャで最も強かった。唯
一、実質賃金が下落したのはドイツのみであった。しかし、この傾向が 2010 年から逆転す
る。EU27 カ国中 18 カ国で実質賃金が下落した。
最も下落幅が大きかったのがギリシャで、
20%下落した。次がポルトガルの 10%である。
ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガルの緊縮政策要請の下に、以上のような賃
金政策が行われたのである。
5.2.イタリアの労働市場政策
前節では、EU全体の労働政策収斂化のなかで、南欧諸国における労働政策の特徴を
見たが、本節では、一国の政策担当者の視点からみた労働政策の全体像を検討しよう。E
U全体の政策傾向とは異なる要素が見つかるかもしれない。その対象国はイタリアで、資
料は改 革当時の労働 社会政策大臣エ ルサ・フ ォルネーロの 回想録である( Fornero,
8
Elsa,2013a,2013b)”。
エルサ・フォルネーロは、経済学者で年金問題の専門家である。彼女は、2011 年 11
月、モンティ新首相(当時)から、年金改革と労働市場改革の遂行にあたるために、労働
社会政策大臣に就任するよう要請を受けた。彼女は、この要請を受け、後に「フォルネー
ロ改革」と呼ばれる政策を実行した。
イタリアの年金改革については、すでに検討したので、ここでは労働市場改革につい
て検討を加えよう。
イタリアの労働市場は、典型的な二重構造の様相を呈している。一方で保護されたグ
ループが存在し、他方で保護を受けないグループがいる。前者には、男性、公務員と製造
業の 40 歳代以上の労働者が属し、後者には、若者、女性、高齢者が属している。こうした
労働市場を、格差の少ないダイナミックな構造に変えることに目標が置かれた。
労働市場改革を推進するにあたって、彼女は、手本をドイツの「ハルツ改革」に求め
た。ハルツ改革は、2003 年にシュレーダー首相(当時)のもとで、フォルクスワーゲン社
の労務担当役員だったペーター・ハルツを指導者にして行われた労働市場改革である。そ
の中心には、職業紹介機関の再編と機能強化、求職者の求職活動へのインセンティブ強化
(その手段としての失業給付期間の短縮等)、そして規制緩和(派遣労働・有期契約・解雇
規制の条件緩和)がある。10 年以上たった現在では、失業を減らしたという肯定的評価と
低賃金労働者を増やしたという否定的評価とがある。
ともあれ、ハルツ改革を参照しながら、フォルネーロは、労働市場改革の柱を5つ建
てながら政策を進めた。
その第1の柱は、入職に関するもので、労働市場参入における柔軟性の確保である。
労働契約の種類を減らした上で、2つの目的をもたせた。1つは柔軟性の確保であり、も
う1つは不当な労働契約の制限である。不当な労働契約とは、低賃金・不安定・間欠契約
であり、あるいは労働者間・企業間での不公正な競争を起こすものでもある。
具体的な政策内容としては、次のようなものがある。
有期契約は、一方で使用の正当性を証明しなくても締結できるよう自由化されたが、他
方で、期間の定めのない労働契約より 1.4%、給与税を多く納めるよう義務づけられた。こ
れは、失業にさらされやすい有期契約労働者と失業時に様々な支援を提供する社会への失
業コストの支払を意味している。また、常用雇用への転換の場合は、6ヶ月分の給与税が
企業に払い戻される。
雇用リスクを使用者から労働者に転嫁するような一時的雇用は、認められない。
すさまじい速度で増加している派遣労働には、様々な規制がかけられる。
特別な配慮をすべき労働者(産業再編成で解雇された高齢労働者、経済的困難地域での
女性労働者)には、労働契約状態の如何にかかわらず、ボーナスが支給される。
常用労働者として雇われた実習見習いには、特別な支援が支給される。これは、将来の
技能形成を期待しての措置である。
9
以上が、労働市場参入における柔軟性の確保のあらましである。
直近の結果は、およそ次のとおりである。2012 年と 2013 年の第2四半期の間では、常
用労働の比率が若干伸びた
(16.8%から 17.5%)
。見習い実習も若干伸びた
(2.6%から 2.8%)
。
有期契約はさらに増えた(62%から 67%)
。逆に、プロジェクト職(特定プロジェクトに関
わる一時的仕事)は、減った(8.2%から 6.7%)
。派遣労働は 8.5%から 4.4%に減った。
第2の柱は、退職に関するもので、労働市場から一旦退出する時の硬直性を緩和するこ
とである。従来、期間の定めのない労働契約を交わした労働者の解雇制限は、大変強かっ
た。この労働形態が支配的なものであることに変わりはないが、運用をもう少し柔軟にし
た。
すなわち、従来、個人別の解雇が裁判所で違法と認められたら、解雇から何年たってい
ようと、職場復帰が唯一の解決策であった。これを、職場復帰するケースを、裁判所が解
雇理由の不在を認めた場合にのみ適用し、他のケースについては金銭補償に替えたのであ
る。これにより、退職(解雇を含む)手続きの硬直性が緩和される。
直近の結果は、次のとおりである。解雇が増え、辞職が減った。これは、解雇手続きが
容易になったことと偽装辞職が減ったことを意味しているようである。7ヶ月間で申請さ
れた調停のうち 40%が合意に至った。紛争が大幅に沈静化された。解雇手続きに要する時
間も短縮された。
第3の柱は、社会的保護プログラム(失業給付)の適正化である。従来の保護の対象は、
特定の労働者に限定されていたが、これを全労働者に広げた。その代わり、保護の期間を
55 歳未満の労働者には 12 ヶ月、55 歳以上の労働者には 18 ヶ月と限定した。この期間、一
定の金額までは、退職前給与の 75%が支給される。ただし、職業紹介を理由なく拒んだ場
合には、給付が停止される。これは、ハルツ改革の失業保険の取り扱いに似ている。
新しい失業給付制度に対応して、様々な労働協約の中に、労使双方から拠出される「連
帯基金」の項目が盛り込まれた。新しい失業給付制度には、これまで排斥されていた労働
者、特に若い実習見習い生や有期契約労働者の多くが加入できた。
第4の柱は、効果的な支援サービスの強化である。地方当局の職業紹介、職業訓練、職
業意識の向上、支援サービスの内容周知などをきめ細かく行うことである。ただ、これに
は、地方当局の担当部署の再編が必要である。これは、必ずしも上手くはなされていない。
第5の柱は、政策の過程や結果のモニタリングや評価を行い、効果的なことは強化し、
正していくことを行うことである。
以上のような枠組の中でイタリアの労働市場改革は、始まった。結果を判断するには、
まだ早いだろう。しかし、こうした改革が、財政支援に対応した緊縮政策の中で行われた
ことは、皮肉なこととも言えよう。せっぱ詰まらなければできなかった、とも言えるし、
総需要抑制・賃金抑制の中で、職業訓練や職業紹介の改革をしなければならず、素早い効
果は得にくいとも言える。
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6.おわりに:社会保障政策と労働政策
以上、ユーロ危機の中の社会保障(特に年金改革)政策を労働市場改革政策との比較で
みてきた。
これまでの考察から、以下のことが言えるであろう。
社会保障政策については、中長期的に持続可能な制度にすることが、現代の課題である
ので、景気変動には関わりなく、中長期視点から取り組まれることが望ましい。その点か
らすれば、今回、イタリアで行われた改革は、いくつかの緊急避難的措置を除いて、適切
なあるいはやむを得ざるものであったと言えよう。
しかし、労働政策に関しては、短期的な視点を入れることが、不可避であろう。
「ハルツ
改革」を参照したイタリアの労働政策でみたように、この中には職業訓練や職業紹介の新
しい手法が取り入れられているが、本来、職業訓練や職業紹介は、非需要不足型の失業に
対して有効な政策であり、需要不足型の失業に対しては有効ではない。したがって、不況
期にこれらの政策をとっても効果は限定的なものであり、同時に、需要不足型失業への対
策と併用して用いられることが望ましい。その点からすると、EU当局の執拗な緊縮政策
の重視は、金融市場への当面の対応を考えるとやむを得ないところはあるものの、適切さ
を欠いたものと言えよう。
(1)ユーロ危機に関しては Boyer(2012)を参照。
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