GKH016010

「地獄堕ちの女たち」とボードレーノレ
くレスピエンヌ詩篇>考一一
中 島 康 久
自分の輝かしい詩集全体に,最初『悪の華』
Lesbin
ではなく『レスピエンヌ』(《Les
(Les
《
》
du Mal 〕
sruelF
》)と名づけようとするほど
ボードレールがレスボスの女たちに特別な興味を持ち得たのは何故か一一
『失われた時を求めて』の作者がボードレールに寄せた関心の主要部には
この聞いがあった様詰:フ。ルーストならずとも,女性の同性愛をテーマに
したボードレーノレ初期の連作に歌われる背徳的な悦楽への激しく暗い情熱
と無限への渇望に圧倒され,そこから発散する異様な精神性を感受する者
は,それらの作品が幻の詩集『レスビ、エンヌ』の中核を形づくるべき詩群
であったらしいのを知るとき,おのずから,これと同じ間 L 、の図形の中へ
導かれてゆく。
esbo
「レスボス」(L
リート」(Femmes
〕と「地獄堕ちの女たち十一デノレフィーヌとイポ
damnes.
elphin
一一D
te Hipolyte
ー篇の副題がつかない「地獄堕ちの女たち」(Femmes
),それにもう
damnes
),これ
ら 3 篇は女性の同性愛を共通のテーマに歌う所謂くレスピ、エンヌ詩篇>と
して知られる一連の長詩だが, 7581
年の『悪の華』初版では第 2 章「悪の
華」の中軸をなすとともに詩集全体の性格をも強く印象づけていた。しか
し初版発刊直後に官憲の答めるところとなり,前者 2 篇が禁断詩篇 6 篇の
うちに入ったため,再版以後の『悪の華』には副題のない方の「地獄堕ち
の女たち」しか残っていない。 23 篇の補充詩篇によって全体としてはスケ
ールの大きな普遍性を獲得した1681
年の再版をほぼ決定版とみなす大方の
意見に異論はないものの,レスビ、エンヌ詩篇に関して言えば,再版におけ
るその部分の弱体化はあまりにも顕著で、ある。先の聞いの図形の中でボー
ドレールを考えようとするなら,あらためて初版の配列に従って連続する
3 篇を読むことが必要になろう。これら 3 篇がっくりだす異彩のうねりを
841
天理大学学報
通してこそボードレールが当時流行のこのテーマに託した新しい独自な意
味合いも明確なかたちをとってくるにちがし、ない。
ところで 3 篇中の圧巻は何といっても「デルフィーヌとイポリート」で
ある。この詩は 2 人の女性の激しいサッフォ一風の愛の情念の描写を通し
て,ひときわ鋭くボードレール的な内面のドラマを提示する『悪の華』初
版で最長の力篇であり,詩としての完成度もきわめて高い傑作とされてい
る。そこで小論は,あくまでこの詩の通覧を軸として考察を進めたいが,
いくつか必要となる補助線のうちで,詩人自身の個人史とともに重要なも
のは彼の批評作品,特に美術批評におけるドラクロワをめぐって表明され
る現代性の理念だろう。
.1 室 内
「地獄堕ちの女たち一一デルフィーヌとイポリート」は 3 篇の中央に位
置している。副題は『悪の華』初版の時にはなく,削除後『漂着物』(L
es
Epaves
)に収載された際につけられたものである。しかし元々は「地獄
〔3)
堕ちの女たち」とは言わず,こちらの方で知られていたらしい。勿論これ
は詩に登場する三人の女性の名であって,ギリシャ風の固有名詞は明らか
にギリシャ古典劇を意識した命名であろう。詩の構成はそれに応ずるかの
ように古典的形式美に貫かれており,アレクサンドラン 4 行詩全62 節は見
事に内容と整合している。この器の中でラシーヌ劇を思わせる緊迫した息
づまるような情念の劇が展開される。その点でシエリックスがこの詩を 5
幕からなる古典悲劇に見たてて評釈しているのは尤もだと思われる。彼に
よれば次のような順序で第 1 幕から第 5 幕まで劇は進行する。すなわち,
主題と登場人物の提示一一デルフィーヌのイポリートに対する行為への誘
い,一一イポリー卜の反応,一一両者の心理的葛藤のやま場,一一「恐怖
(4 〕
と憐i閲」を惹起する結末,一一ー舞台の外でのコーラスによるラルゴ。
明解な見たてだが,これに沿ってさらに言えばドラマは三一致の法則通
り状況設定の場は屋内の一室,時は一日のある時間帯に限られている。そ
ういった基本的結構を踏まえながら,しかしこの詩は主人公の一人イポリ
ートの内的な心象風景の描写を通して,室内から一挙に青い地平線,さら
に血まみれの真赤な地平線へと境域をひろげてゆき,その末に大きく口を
「地獄堕ちの女たち」とボードレール
941
聞いた奈落を降つての地獄堕ちに至るイメージを展開してゆく。想像力に
よるこうした現実世界から超自然的世界への移行運動は,このドラマをプ
レヴォーの所謂「フランス語とあらゆる言語の中でもっとも逸楽的な詩の
(5 〕
ひとつ」に高めているのだ。我々としては取敢えずドラマの進展に応じて
現前する上のようなイメージを追いながらこの詩を読み進めることにしよ
う
。
A al elap
Sur
etralc
de sdnofrp
Hipolyte
Qui
sed
lampes
,setnasiugnal
snisuoc
tiaver
tneiavel
aux
tuot
seserac
el uaedir
d’
,ruedo
impregns
,setnasiup
de as j
n
u
e
.ruednac
(弱々しくともるラシプのかすかな光を浴び/香りの染みこんだ深い
クッションの上で,/イポリートは夢のように思い浮かべていた
力
強い愛撫が/いま彼女の幼い無垢な心の帳を聞けてくれたことを。〕
elE
d’
un
,tiahcrehc
Deas
etvian
isnA
qu ’
un voyageur
V sre
sel
el leic
snoziroh
li elbuort
rap
白
ajed
,niatniol
iuq
suelb
al ,etpm
enruot
saped
al t合et
白
el .nitam
(彼女は探していたのだ,嵐に吹き荒れた目で,/すでに遠くへ去っ
てしまった純真さの空を,/さながら旅人がはるかにふり返って/今
朝踏み越えてきた青い地平線を見ゃるように。〕
De s巴s yeux
ria'L
,esirb
Ses
sarb
Tout
,tiavres
sitroma
sel
al ,rueputs
,sucniav
seuserap
al morne
tej む comme
tuot
tiarap
as eligarf
,semral
,etpulov
de seniav
,semra
.etuaeb
(力のぬけた目に浮かぶもの憂げな涙,/くじけた姿,放心した心,
どんよりとした快楽,/ぐったりと,役に立たない武器のように投げ
出された腕,/すべてが支え,すべてが飾っていた彼女のかよわい美
しさを。〉
150
天理大学学報
〔「デルフィーヌとイポリート」第 1 節一一第 3 節(以後く.
D
H.>S.
te
ト
.3 のように略記)〕
冒頭の 3 節である。文字通り室内の描写から始まり,まずイポリートが
登場して早くも彼女自身の内面へと視線が動いてゆくが,第 3 節ではすぐ
また彼女の外面描写へと帰ってくる。視線の移動は当然詩節聞に動きのダ
イナミズムを与えるだろう。最初の 1 行は緊張をはらんだ美しい詩句で始
まってし、る。流音[ 1 J による頭音法と[Ja
に訴えてくる効果は,特に lampes
の鼻母音による半語音が聴覚
C弱々しくともるラ
setnasiugnal
ンプ〕の意味と相侠って一挙に我々をほのかな官能の余燈を感じさせるメ
ランコリッグな雰囲気へと誘い入れる。
「ボードレールの数多くの詩にお
ける冒頭の詩句の特殊な美しさは深淵からの浮上なのだ」とし、う美しいこ
(7)
とばを残したのはベンヤミンだが,この一行はゆくりなくも彼のことばを
思い出させる。 2 行目の「香りの染みこんだ深いクッション」 ed(
sdnof
snisuoc
tuot
impregnes
d’
odeur
-orp
)はさらにこれを受けて女性の
体臭と香料のにおいとソファの柔らかな感触がもっ肉感性を的確に表現す
る。最初の 2 行が具えているこのような吸引作用は「舞台装置が官能的要
素をすべて引き寄せ,イポリートの内面は舞台装置の一部になっているよ
うに見える」とヒューパートが指摘する通りのものであって,イポリート
の内面への旅の性格はこれによって予め暗示されているだろう。次の 2 行
は言うまでもなく同性愛行為のある段階がすでに踏み越えられた状況を知
らせており,ここから第 2 節にかけてイポリートは失った自らの純潔を愛
惜の思し、でふり返る。豊かな比鳴を用いて彼女の心の風景が語られる箇所
だが特に「いま彼女の幼い無垢の
kJ$
れている uaedir
込聞けてくれたことを」の詩行で、使わ
(
躍L カーテン〉がもっ多義性に注目すべきだ。これは直
接的には勿論,彼女が失った身心両面の無垢を表わすだろうが,それとと
もにこの詩が歌うドラマ全体の幕開けを暗示する。さらにまたこれはヒュ
ーノミートも言うようにイポリートの内面生活の始まりをも告知しているだ
〔9)
ろう。かくして第 2 節から詩人は彼女の内面生活を旅になぞらえあのだが.
〔
01 〕
この旅をヒューパートは船旅と解釈している。つまり彼は sel
suelb
snoziroh
を海の「青い水平線」と見るわけである。しかし以後この詩が辿る
道程のイメージから推すと,ここはどうしても陸の「地平掠」でなければ
151
「地獄堕ちの女たち」とボードレール
ならない。ヒューパートの誤読は,おそらく先行のレスビ、エンヌ詩篇「レ
スボス」に歌われる強烈な海のイメージの残像に起因していると思われる。
Qui
te ;sdnofrp
tnalimruof
te ,sterces
Orageux
,sdnof
sna
,sedacas
par
te tnasuolg
tnaolgnas
Et ,tneruoc
sedac
er
妊s
gou
sel
peurdans
sna
es tnetej
sel
comme
tnos
ou sel sresiab
,sobeL
(レスボスよ,ここでは接吻もまるで滝の流れだ/怖れげもなく底知
れぬ深淵に身を躍らせては,/走って行く,きれぎれにすすり泣いた
りせぜらいだり,/荒れ狂ったり身をひそめたり, うごめいたり淀ん
〕
〔「レスボス」第 2 節
だりして。/・・・…〉
Pour
Et parmi
Un rios
Le cadvre
is al mer
riovas
tnod
sel stolgnas
ram
e de
・
巴t
etngludni
,enob
el cor titneter
iuq
,sobeL
srev
era
色n
roda
tse
,ohpaS
iuq
,enodrap
titrap
(はたして海が寛容でやさしいかどうかを知るために,/そして
す
すり泣く戸が岩にこだまする中を/ある晩送りかえしてくれるかどう
か,すべてを許すレスボスの方へ,/サフォーの大切ななきがらを。
彼女こそ身を投げたのだ/…・目〕
〕
〔「レスボス」第1 節
エーゲ海の小島レスボス島への呼び、かけで始まるこの詩は島で営まれる
乙女たちの同性愛を文字通り長調の明るさで讃美しながら,やがて「恋す
る女にして詩人,男のようなサフォー」(De al male
,ohpaS
etnam'l
te el po 色et )が男に失恋して入水したことの逆説的悲劇を短調で歌うに至
るまで,背景をなすイメージはあくまで・エーゲ海の輝かしい海原であった。
自然の陽光に照らされた海から,弱々しいランプの光のともる室内へ。詩
篇聞で、行われるこの転調は重要だ。これによって「デルフィーヌとイポリ
ート」の内面的色彩の濃度は一段と増すことになる。室内の雰囲気が醸し
251
天理大学学報
だす内面性といえば,
d’
Alger)
mes
ドラクロワの室内画「アルジェの女たち」
(Fem
・
を前にしたボードレールの感想、は印象的だ。プーレはこ
れを「デルフィーヌとイポリート」の出自だと信じている。
この小さなー幅の室内詩は,安息と静けさにみち,豪華な織物とこま
ごました身づくろいの品々にあふれでいて,何か悪所の高い香りを発
散しており,その香りが我々をすばやく悲しみの底知れぬ地獄の辺境
へと導いてゆく。
『
〔6481
年のサロン』(《n
olaS
de 6481
)21(
》
〕
〕
さてイポリートだが,第 3 節はすで、に触れたように,また一転して彼女
の放心した姿態の描写で、ある。結局すべてが「彼女のかよわい美しさ」
(Sa eligarf
beaut
めを飾る材料でしかないのだが,この「かよわい美し
さ」は次に登場する「遣しい美しさ(美女)」(B
eaut
etrof
〕に強いアク
セントを与えることになる。
Beaute
etrof
,ebrpuS
a genoux
elle
Le niv
Comme
deson
pour
devant
humait
al etuab
rf ,色
el
volupteusment
,ehpmoirt
te sia’
egnola
rilieucer
un doux
t srev
,elle
remcint.
(遣しい美女がかよわい美女の前にひざまずいて,/得意げに,心ゆ
くまで暖っていたのだ/勝利の美酒を。それから相手の方へ身を仲ば
す/甘い感謝の言葉を摘み取ろうとでもするように。〕
elE
tiahcrehc
Le euqitnac
Et etec
Qui
tros
lli’
er
dans
muet
edutiarg
de al eripua
que
einifni
de aselap
chante
emitcv
el,risialp
te sublime
isnia
qu ’
un gnol
.ripuos
(青ざめた犠牲者の目の中に探し求めていたのだ/快楽が歌い上げる
言葉なきほめ歌を,/そしてあの崇高な無限の感謝の思いが/除から
長い吐息のように洩れて来るのを。〉
く
〔D
. te H.)
.S 6-5 〕
「地獄堕ちの女たちJ とボードレーノレ
351
一方の主人公デルフィーヌの登場である。彼女の描写もイポリートと同
じく 3 節つづく(ヲ|用は 2 節のみ〕。
こちらは一貫して内面への通路は閉
ざされている。これは彼女がイポリートに対して常に外部のものとして男
役をつとめなければならない演劇的要請に基くものだろうが,そのために
極度の意識存在になってゆくイポリートの内部風景がより鮮明に描き出さ
れることになる。
ところでこの二人の関係はボードレールと愛人ジャンヌの地獄的な関係
の反映であるという見方がよくされる。小説家ピュトールの解釈はその中
)31
〔
でもかなり徹底したものだ。彼はデルフィーヌ=ジャンヌ,イポリート=
ボードレールで、あることを,ボードレールの他の詩作品,小説,エッセー,
未発表の断片的原稿等を手がかりにして巧妙に証明してみせる。
481
年 9 月の法定後見人の決定が精神的にボードレールを去勢した結果,
彼は別に身体機能に支障はなくても「女に欲望を抱く一人の女になってお
り,男の身なりはしていても,彼は一人のレスピエンヌなのだ。」
そして,
詩集の出版が男性的意志と能力の証明であるとすれば,レスピ、エソヌこそ
は,まだ一冊の本も出版していない修業時代の詩人の象徴になる。これが
ピュトールの基本的な意見である。詩集『レスピ‘ェ γ ヌ』の出版が何度か
予告された5481
年から7481
年当時,作者の名はシヤルル・ボードレールで
rialduB
はなく,母の目姓を かりたボードレール ・デュブアイス(e
Dufay
olrafnF
のだったことや, 7481
年発表の小説『ラ・ファンファルロ』(La
)でボー下レール自身をモデルにした主人公サミュエル・クラメ
ールはマヌエラ・デ・モンテヴェルデという女性名で『みさご烏』という
一冊の詩集を出していることなどを思い合わせるとピュトールの意見は実
に興味深い。しかしこれはあくまでボードレールの個人史レベルで、の解釈
にとどまり,詩作品とし、う構造体の中で、主人公たちと詩人の関係の必然性
に目を届かせるものではなし、。無論,あらゆる芸術作品は何らかの意味で
作者の個人的経験に発想の起源をもっている以上,まず最初に「テ守ルフィ
ーヌであるジャンヌがイポリートであるボードレールに暗い鏡を差しだし
05)
た」のは確かであろう。だが後にみるように,この情念の劇においてテ、ル
フィーヌは最後までジャンヌを演じきるだろうか,またイポリートは常に
ボードレールであるだろうか。すでに第 6 節で「青ざめた犠牲者」(elap
451
天理大学学報
)emitcv
と描写されるイポリートは内心の苦悩を啓示するドラクロワ的
)61(
美女の蒼白さ(r
uelap
)を連想させこそすれ,ボードレールで唱はない。ま
た同じ節で行うデルフィーヌの宗教的な挙措にはジャ
γ
ヌの面影はなく,
ボードレールがドラグロワの絵からうけるある種の印象の反映があるばか
りだ。
彼の一連の作品を眺めていると,何かある宗教的な秘儀の悲痛な式典
)71(
に参加しているような感じを受ける。(『6481
年のサロン』)
いずれにせよ,主人公に託して表現しようとしたボードレールの芸術意
志とでも言うべきものの所在はもっと問われなければならない。
.2
地平線
詩はいよいよ主人公の女性たちの発話部に入り,まずデルフィーヌの誘
いかけのセリフが 4 節,次はそれに対するイポリートの答えのセリフ
4 節。
整然とした幾何学的構成は崩れていない。
eJ sne
erdnof
Et
de srion
Qui
tneluv
Qu'
rus
snoliatab
moi
e sedruol
d
defantomes
me eriudnoc
un nozirh
epouvantes
tnalgs
,srape
n sed
e
ferme
setuor
mouvantes
de setuot
.strap
(私の上に重い恐怖がのしかかって来る気がするの/とりとめもない
亡霊の真黒な群が襲ってくるの,/それが私を連れて行こうとするん
だけど道はぐらぐら揺れて/どっちを向いても血まみれの地平掠で行
きどまりなの。〉
く
〔.
D te H.)
.S 21 〕
イポリートの内面への旅の入口,ひいてはこの詩全体を内部へ向って導
き入れる通路の役割を果した薄暗い夕べの室内で,彼女が思いうかべてい
たのは「今朝越えてきた青い地平娘」としづ汚れのない過去だった。今,
デルフィーヌに誘導され,異端の官能の片鱗を経験したのち,さらなる深
い快楽の秘密へと懲題されてゆくイポリートを囲躍しているのは「血まみ
「地獄堕ちの女ーたち」とボードレール
れの地平線」(un n
ozirh
tnalgs
51
)である。これらのイメージが表わす
青と赤の色彩的対比はイポリートが辿ってきた内面の旅における朝からタ
ベへの時間の推移を鮮明に刻印しているが,同時に青に引きた てられた
「血まみれの」赤は,これもまたボードレールがドラクロワの絵の中に感
じている悲劇的な情念の色である。
,xiorcaleD
cal
Ombrage
,uO
de sang
par
suo
,tnesaP
hante
sed
un siob
de snipas
un leic
,nirgahc
sed
comme
un ripuos
efuote
mauvais
,segna
sruojuot
,trev
serafnaf
segnarte
de Weber;
(ドラクロワ,堕天使たちの訪れる血の湖に,/影を落す糸杉の林は
常に緑したたり,/そこを陰気な空の下,異様なファンファーレが/
通って行く,ウェーパーの押し殺された溜息のように。〉
〔「燈台J (
Les
Phares
)第8節
〕
さて,あらためてデルフィーヌのセリフから始めたいが,要するに彼女
のセリフは異性愛を毘めて臆面もなく自らの同性愛を肯定しながら,相手
を同性愛行為の最終段階へ強引に誘惑してゆくものである。
一一《,
etylopiH
rehc
Comprends-tu
mainteant
L’
etsuacolh
Aux
,ruec
uos
妊
sel
que ut-sid
li'uq
ercas
de set
premi
stneloiv
iuq
tneiaruop
de sec
ne tuaf
色
ser
?seohc
pas rirffo
seor
sel ?rirtelf
(一一「イポリート,可愛いひと,どんな気がする?/もうわかった
わね,捧げたりしてはいけないわよ,/あなたの初咲きの蓄額の聖な
るいけにえを/萎れさせるかも知れない荒くれた風なんかに。〉
く
〔.D
te
H.)
.S 7〕
デルフィーヌはこんな風に努めて優しい調子で相手に語りかける。
くれた風」(
seifuos
tneloiv
「荒
めとし、う暗鳴によって示される男性の性愛
は以後さまざまな農耕にかかわる暗愉〔例えば「轍」 nroC
注目S 〕,「型ベ
156
天理大学学報
ら」(scos
〕,「荷馬車」(stoirahc
te de sfuecb
),「牛や馬の蹄」(egaleta
de chevaux
)など〕を呼び出して否定の対象とされる。しかしそれらの
暗輸がイメージとしては苦痛を伴う性愛の行為を暗示しながらも,一方で
は豊かな実りの予想につながるだけに,余計,同性愛の不毛性が浮き彫り
にされるのはいかにもイロニッグである。
「文学の基本的なふたつの特質,
81( 〕
つまり超自然主義とイロニー」とはボードレールの信条のひとつだが,イ
ロニーは超自然主義とともに,この詩にも遍在している。
Mes
sresiab
Qui
tneserac
tnos
sregl
el rios
sel
(私の口づけは軽やかで
comme
sec
ephemres
grands
scal
,stnerapsnart
あのかげろうが/日暮澄みきった大きな
く
〔.
D te H
)
.
湖をかすめて飛ぶようなもの/…・・・〕
.S 8〕
同性愛行為を比日命的に表現する句はこの 2 行だが,快楽の時間のはかな
さが ephem
を
ser
(かげろう=束の間の)とし、う単語によって皮肉に暗示さ
れているかもしれなし、。いずれにせよ,デルフィーヌは同性愛の肯定を通
してイポリートを快楽の最終段階へ導き入れようとする。
Tourne
Pour
srev
moi
un de sec
Des srisialp
sulp
iarmodne
Et ej t’
set
yeux
sdrage
d’
ruza
snielp
charmnts,
srucbo
baume
ej l色iarev
dans
te !
dseli’
ote
un rev
,nivid
sel seliov
sna
(空の青さときらめく星でいっぱいの
nif 》
!
その目を向けて!/そういう
可愛いまなざしのためなら,何てし、し、匂いの人,/もっと内緒の楽し
みのヴェールをはいであげる/そして終りのない夢の中にあなたを眠
らせてあげる!」〉
>
.
く
〔.D te H
.S 01 〕
イポリートの目に反映している「空の青さ」は「青い地平繰」の朝と響
き合い,きらめく星は夕べの空を連想さぜ,やはりイポリートの内部の汚
れていない時間の推移を暗示する。そしてこれらの清らかさのイメージは
「地獄堕ちの女たち」とボードレール
「内緒の楽しみのヴェール」 sel(
seliov
sed srisialp
751
sulp
obscur
めか
ら立ちのぼる暗い背徳の色合いを強調し,重ねてイポリートが追いつめら
れてゆく「血まみれの地平線」の気閏を際立たせる。
A vans-ou
done
,euqilpxE
comis
une
is ut ,xuep
eJ enosirf
man
de peur
Et cepndat
(私たち
?egnarte
elbuort
quand
ej sne
noitca
te mon
e妊
:ior
ut me sid 《
:Mon
ma
bouche
rella
srev
legna
》
.iot
では何か変なことをしてしまったのかしら?/わけを聞か
せて,できることなら,私の不安とこわさのわけを。/あなたに「私
の天使!」と言われると
ぞっとしながら/それでもやはり唇があな
たの方へ行ってしまうの。〉
Ne me egardpas
Toi
Quand
que
j’
aime
meme
Et el commencement
,isnia
,iot
a,siamj
ut siares
ma !esnep
ma ruBIs
une
embfrch
de ma noitdrep
(そんな風に私を見ないでね,ねえ
d,noit’
cele
eserd
》
!
私の心のひと!/いつまでもあ
なたが好きょ,私の選んだお姉さま,/たとえあなたが仕掛けられた
民だとしても/私の破滅の始まりだとしても!」)
く
〔.D te H.)
.S 41-31
〕
惑乱の極から我にかえったイポリートは誘惑者に向って,自らの心と肉
体の葛藤を苦しげに吐露する。相手がまさに「仕掛けられた畏J であり,
行為の果てに破誠が待っていることを明確に意識しながらも,相手を求め
ざるを得ないイポリートの感情の動きが実に正確に写されている部分であ
る。彼女の実存的意識の目ざめが,こうしてデルフィーヌに向けられたセ
リフの中に提示されながらドラマ自体はカタストローフへ向かつて急激に
傾斜してゆくのだ。主人公の心の乱れに呼応して,詩のリズムに意識的破
調が見られるのにもここで少し留意しておきたい。第31 節の最終行は,他
のすべての詩行が 6 音節で区切りをつけているのに対して,
4 音節で 3 区
851
天理大学学報
切りになっていて(Et
ej/tnadepc
sne
ma
ehc/-uob
rella
srev
iot )イポリートの動揺する心をリズムに反映させている。これは次の部
分で詩節とセリフの聞の形式的整合性が破られてゆくのを準備しているは
ずだ。
それにしてもイポリートのこうし 7こセリフは,どこかボードレールのジ
ャンヌに対する意識を間接的に物語っているように聞える。詩人がこの生
涯の愛人に抱いていた屈折した愛の必然性はこれに似たかたちをしていな
かっただろうか。しかしまた,この苦悩する女性の形姿はここでもドラク
ロワの絵にボードレールが見い出していた現代性の表現としての憂愁を象
徴する女性像と照応している。
(彼の描く〉ほとんどすべての女は病身で,ある内面的な美しさに輝
いている。彼が最も巧みに表現できるものは,単に苦しみのみではな
く,ことに一一これこそ彼の絵の驚くべき奥義だが一一内的な苦悩な
のだ。
gl( 〕
『
(6481
年のサロン』〉
.3
奈 落
いよいよデルフィーヌとイポリートのセリフは最後のやりとりに入る。
ここで始めて各人のセリフと詩節の聞に守られていた整合性が破れる。こ
れまで両者の描写とセリフは各々 3 対 '3
4 対 4 とL 、う具合に整然と同数
の詩節によって区切られていたが,にわかにこの数的対称性は崩れ,それ
とともに同一詩節内に両者のセリフが併存する場合もおこってくる。言う
までもなくこの形式上の乱れは,結末へ向って昂揚の極に達した 2 人の女
性の心理的衝動と言葉のやりとりの速度変化に対応しているだろう。
Delphin
tnauoces
Et comme
tnagipert
ec ,lataf
Lli’
一
一
一
《Qui
as inirc
tidnoper
done
devant
色
er
,euqigart
rus
el deipert
d’
une
xiov
'l amour
ed ,ref
:euqitopsed
eso
relrap
d?’
refne
(デルフィーヌはその悲劇的なたて髪を揺すって,/神託の座の踏み
台に地団太を踏む亙女のように,/宿命のまなこを光らせて,有無を
「地獄堕ちの女たち」とボードレール
951
いわせぬ声で答えた。/一一日、ったし、誰が恋の前で地獄の話なんか
く
〔.D te .H .S 51 〕
するの?)
デルフィーヌの誘いは,はじめの優しさから一転してものすごい形相を
L た声高な強迫に変る。この描写はいかにも大仰だが,過度の大仰さは逆
に我々をいっとき冷静にさせる作用をもっ。この時あらためてデ、ルフィー
ヌ(D
elphin
めという固有名調採用の意味や,「悲劇的」(euqigart
「宿命の」(lataf
)とか
)とかいう形容詞使用の理由についての当然の疑問が念
頭にのぼる。そしてデルブィーヌの姿は「神託の座の踏み台」に座って神
elphs
託を告げるデルフォイ(D
せ
,e
uqigart
やlataf
〕の亙女が狂乱状態に入った姿を想像さ
という形容詞はいかにも古典悲劇を意識的に演じて
いるのだという芝居性を誇張するための用語だと気づくのにそれほど時間
〔
)02
はかからない。
Maudit
Qui
a siamj
tios
tulov
el ,reimrp
tnaerp
S’
Aux
el ruev
dans
d’
un lborp
as ,etidiputs
さme e
lbulosni
amour
ed l’
seohc
elituni
te,elirets
l!e’
tenoh
melr
(呪われてしまえばし、し、ゎ役にも立たない夢を見る人なんか/そい
つが真先に思いついたのよ,馬鹿もし、いところ,/解けるはずもない
不毛な問題に夢中になって,/恋の話に誠を持ちこもうとしたなん
て!〕
iuleC
iuq
L’
ombre
tuev
avec
dans
al ,ruelahc
Ne arefuahc
A ec rouge
rinu
siamj
lielos
mystique
al tuin
nos
que
un droca
sproc
avec
el ,ruoj
euqitylarp
l’
on nomme
l’
amour!
(影と熱とを一緒にし,夜と昼とを一つにして,/これが神秘の調和
だなどと言いたい人は/麻痔した体を暖めることなんかできないのよ
/恋という名の
この真赤な太陽に!〉
061
天理大学学報
Va,
is ut ,xuev
Cours
,tE
rirffo
rehc
un ecnaif
un ruec
enielp
a ses
egriv
roh
te d ’
de remords
Tu me saretopar
;ediputs
set snies
,ru
巴
sleurc
;sresiab
te ,edivil
seitamgits
..
(し、し、ゎ,行きたければ行きなさい,馬鹿な婚約者を探しに。/駈け
つけるのよ
その残酷な接吻に処女の心を捧げますって。/そして後
悔と恐怖でいっぱいになり,いろ青ざめて,/傷だらけになった乳房
を私に持って帰るでしょうよ……)
On ne tuep
sab-ici
qu ’
un lues
retnoc
ertiam
》
!
(この世ではたった一人の主人しか満足させることはできないのよ!
く
〔.D
−
一
一
・
〉
te
).H
.S
61 .91 〕
異端の愛を理解できぬ愚直なこの「役にも立たない夢を見る人」(r
evu
elituni
seitam
)にイエス・キリストのイメージを見たり,
「傷だらけの」(
-gits
)などという用語が聖痕を連想させたりするところからデルフィ
ーヌのセリフは,ギリシャ的異教の思想、からキリスト教的愛徳に対する批
判の意をこめたものだとする解釈が一般的である。ヒューパートもそのよ
うな解釈に立つ一人だ o しかし彼は同時に,デルフィーヌの強迫的な言辞
はelirets
が不妊をも意味する形容詞であることから生ずるイロニッグ
な響きによってデルフィーヌ自身にも返ってくるものであり, r
uevr
elituni
とし、う表現によって彼女の呪誼の相手は「力強い愛撫を夢のよう
aver
に思 L 、うかべていた」 ti(
aux
seserac
setnasiup
)イポリートそ
の人であることをも暗示すると言っている。つまり向性愛の当事者は二人
とも r
uev
elituni
であって,デルフィーヌの呪誼はイエス・キリスト
ばかりではなく,相手のイポリート,さらには自分自身にも向けられてい
ombre
るとし、うわけだ。またヒューパートは第71 節 2 行目の I’
ruelahc
al tiun
ombre
(影〉はすでに出てきた t
emp
ed fantomes
avec
srape
el ruoj
avec
al
とし、う表現に注目している。彼によれば
C嵐〉や d
e srion
C とりとめもない亡霊の真黒な群〉や refne
snoliatab
(地獄)
「地獄堕ちの女たち」とボードレーノレ
のイメージを喚起し, r
uelahc
(熱〕はイポリートの c
andeur
デルブィーヌの r
ueda
(無垢な心〕,
(熱烈な心〕,さらには e
tsuacolh
snoziroh
ercas
C聖な
C夜〉は地獄的な未来を暗示し, ruoj
るいけにえ〉を喚起する。他方 tiun
(昼〕は例の sel
161
suelb
saped
白 el m
atin
をまたもや思い出
させるのだ。この指摘は面白し、。しかしその構造的な意味合いについては
それ以上間われていなし、。問題はそれらを「神秘的な調和の中で結びつけ
ようとする人」 iuleC(
iuq
veut
rinu
誰を指すのかということだろう。 ruoj
dans
や tiun
un droca
mytiqu
めとは
をこの詩における先行のイ
メージとの関連で捉えるかぎり,これは勿論キリストでも婚約者でもなし
ましてイポリートでもなし、。とすればこの詩節で呪誼が向けられているの
は,そういうイメージを表現し,ポエジーの中で「神秘な調和」を求めて
uqitylarp
きた詩人自身ということになる。 3 行自の e
(麻痔性の)とし、
う形容詞が若年のうちに梅毒に感染した詩人を暗示して,そのことを裏づ
けているかも知れない。
このように見てくるとデルフィーヌの最後のセリフはかなり複雑な重層
性を持っていることが明らかになる。つまりデルフィーヌはイポリートで
あるボードレールを呪誼し強迫する者で、あると同時に,その彼女はもはや
ジャンヌではなく詩人自身を写し出す鏡の役割も果しているのだ。従って
ここで演じられているのは,言わばボードレールにおける自意識の劇であ
って,レスボスの女たちの心理的葛藤はその恰好の場を提供しているのだ。
誰もが知るように,ボードレールは「自らを処刑する者」(L ’
-itnouaeH
白s
o )で次のように歌っている。
moroum
elE
tse
dans
tse tuot
C’
Je sius
uO
ma ,xiov
mon
el ertsinis
al meg
色
eres
,gnas
al !edrairc
ec nosip
!rion
riom
!edrager
(おれの声の中にそれがある,あの甲高い「皮肉」が!/おれの血は
全部これだ,この黒い毒!/おれはつまり不吉な鏡/地獄の女が顔を
映して眺める鏡だ!〉
261
天理大学学報
eT. sius
al eialp
te el !uaetuoc
eJ sius
eltelffuos
teal
eJ sius
sel
membres
Et al emitcv
!euoj
te al ,euor
te el !uaeruob
(おれは傷口であって短万だ!/おれは平手打ちであって頬っぺただ
!/おれは手と足であって車裂きの輪,/犠牲者であって死刑執行人
〔「自らを処刑する者」第 5 節一第 6
だ!〕
詰j
さて,再び詩が歌うドラマ自体に帰りたい。デルフィーヌのことばが終
るか終らないうちにイポリートは抑えていた苦しい心情を激発させ,にわ
かにカタストローフが到来する。
l,t’
nafne
Mais
airC
epancht
une
:
《
niaduos
Un abime
tec
,rueluod
sモ
rigral
eJ snes
;tnaeb
imense
abime
dans
tse
mon
erte
mon !ruecc
(だが少女は,はかり知れない苦しみを抑えきれずに,/いきなり叫
んだ,
「一一私の中にぽっかりと/底なしの奈落がひろがるみたい。
その奈落が私の心!)
tnal.OrB
Rien
comme
un ,naclov
ne areisasar
comme
ec monstre
Et ne arihciarfar
,iuQ
dnofrp
al fios
a al
al ehcrot
,niam
el !ediv
gemisant
de l'Eumenid
el el.Orb
'uqsuj
an .gnas
(火山みたいに燃えたぎり,虚空みたいに奥深い!/この P料、ている
怪物の飢えを満たすものは何もないし/厄火を手に,その怪物の血ま
で焼きつくす/「地獄の女神」の渇きをいやすものも何もない。〉
Que
Et que
son
xuaedir
ferms
al edutisal
eJ veux
m’
ritnaena
Et revuot
rus
nous
amene
dans
not
nies
tneraps
du monde,
el !soper
at gore
al ruehciarf
ednofrp
sed
tombeaux
》
!
「地獄堕ちの女たち」とボードレーノレ
(カーテンを閉めて
361
私たちが世聞から切り離されるといし、のに,/
疲れが休息を持って来てくれるとし、いのに!/私
あなたの深い胸の
中で消えでなくなりたし、ゎ/あなたの乳房にお墓の冷たさを見つけた
いわ!」)
く
〔.D te H
.)
.S 12-91
〕
現実の室内を通路としてイポリートの内部風景に入りこみ,彼女の心の
旅路をイメージとして繰りひろげながら歩みを進めてきた詩は,ついに今,
ぽっかりと口をあけた奈落の淵に直面している。思えば無垢の「青い地平
娘」を越え, ぐらぐら揺れる道のまわりを囲む「血まみれの地平線」を通
過してきたイポリートの旅は,レスボスの愛を通して実存の意識が限りな
く内部に向って深まりゆく過程そのものだった。その果てに大きな亀裂を
現わす「底なしの奈落」こそイポリートが最後に見い出した自分の心の姿
なのだ。無論これは詩人の自意識が演ずる劇の極点をも象徴するのだが,
まさにこの極点に至りつくためには女性による同性愛とし、う状況設定が必
要だったと言えないだろうか。
女性自身による深淵感覚の経験一ーしかし,これほどボードレールにと
ってパラドキシカルなものはない。
女は腹がへると食べたがる,のどが渇くと飲みたがる。
さかりがつくと,されたがる。
すばらしい美徳ではな L 、
か
!
女は自然的だ,つまり忌わしし、。
)32(
(『赤裸の心』 3)
女は魂と肉体を切り離すことができない。女は動物のごとく単純派だ。
一一皮肉屋なら,女は肉体しかないからだ,と言うだろう。
(向上, )72
女性の自然性に対する嫌悪が抑制のきかない口調で表明され,いささか
個人的怨恨をさえ感じさせる断章であるが,ボードレールの女性観の根底
には抜きがたいこの絶望がある。彼にとって,本来女性の美しさは「物質
的調和として,美しい建築として,それ以上に運動として」愛すべきもの
天理大学学報
164
であり,魂の問題はそこに介在してこない。彼の美的イデアリスムと所謂
「女の世界」(mundus
sirbeilum
〕への偏愛はそうし寸場所から生れてき
たものだ。 L 、ずれにしろ女性の中に男性と同じような実存的な意識の働き
を認めることはボードレールには不可能だった。レスボスの愛という反自
然の行為は,そのような彼にとって,キリスト教的禁忌への反抗を表わす
異端の愛であるよりもむしろ,本来的に肉の存在である女性が精神の存在
として目ざめる唯一の契機となり得る愛の形式であったとしても不思議で
はなし、。女性自身が同性を最も近くから鏡に映る自分を見るように直視す
る機会を与えるものがレスボスの愛であるとすれば,し、かに苦悩の伴うも
のであれ,この時こそ女性は肉であるとともに精神であり得るだろう。女
性に対する絶望の度合が強ければ強いほど,ボードレールの中でこの夢想
に近い信仰が強まり,想像力の助けをかりて,それが濃密なリアリティを
獲得するに至る。
「レスボスの愛は女性の胎内にまで精神化をおしすすめ
る」とベンヤミンは言っているが,勿論これはボードレールの場合を指し
て言った言葉である。
さて, 02 節目のイポリートのセリフ。
1( ’
Eumenide
「地獄の女神」ユメニード
)はギリシャ神話の報復の女神で,ニユイ(「夜」)とクロノ
スの娘たちとされているが,母親がほかならぬ「夜」(Nui
面白い。
のであるのは
「夜J と言えば『悪の華』 81 番目(初版及び再版〉の詩篇「理
想」(L ’
dI 白 1)でボードレールはやはりギリシャ神話をふまえながら,フ
ィレンチェのメディチ家礼拝堂を飾るミケランジェロ作の女性像「夜」を
想起している。詩人はこの「夜」こそ「奈落のように底知れぬ」 -orp(
dnof
comme
un abime
)自分の心が必要とするものだと歌っていた。同
時代の女性の中に理想、の美学を見い出せない詩人が心に描く「真紅の理
想」(r
ouge
di 白 1)の対象を求めて最終的に呼び出すのはマクベス夫人と
ならんでミケランジェロの「夜J だったのだ。この「夜」を母親に持つユ
メニードが今,イポリートの心という「怪物」
(=奈落)の血を焼きつく
そうと地獄で待ちかまえている。かくて「デルフィーヌとイポリット」と
「理想」は N
uit
と Eumenide
との母娘関係をひとつの接点として遠く
からこだまを交しあい,イポリートの内的苦悩のイメージは霊肉葛藤の苦
悩を全身で表現するミケラ γジェロの「大いなる夜」 e
dnarg(
Nuit
)の
「地獄堕ちの女ーたちJ とボードレーノレ
561
イメージに近づいてゆく。言うまでもなしこの結びつきの背後にはドラ
グロワの存在があるだろう。
12 節目,イポリートの最後のことばは苦悩の果ての選択,デ、ルフィーヌ
に対する地獄堕ちへの同意で、ある。 Que
tnerap
du monde
aedir
たu
nos
xuaedir
ferms
,という一行に現われる x
uaedir
nous
-es
は詩の冒頭で開けられ
に呼応している。すなわちドラマの幕開きに対する終幕,しか
os
し皮肉にもこの終幕は n
(私たちの)とし、う所有形容詞によってイポリ
ートとデルフィーヌの共犯関係を合意しながら,さらに深い快楽への幕開
uaedir(
きをも意味している。またこの「閉じたカーテン J x
ferms
)は
イポリートの内的心象風景が辿ってきた時間の推移に応じて,朝の青い地
平線,タベの血みどろの地平線のあとに必然的に到来する夜を暗示してい
るのはヒューパートの指摘する通りである。イポリットの内面への旅はこ
こで終り,おろされた幕の背後で、女たちの地獄堕ちが始まる。
.4
一一←,
zedncsD
,zedncsed
Descendez
el chemin
地 獄
s
b
t
n
e
m
a
l
de 'lrefne
,semitciv
!lenrete
(堕ちてゆけ,堕ちてゆけ,歎かわしい犠牲者たちょ,/堕ちてゆけ
永遠の地獄の道をどこまでも!/・・…)
D te H
)
.
く
〔.
.S 22 〕
エピローグ全 5 節,シェリヅグスの言う「舞台の外で,コーラスが歌う
終曲のラルゴ」のはじまりである。しかし以後展開される地獄堕ちの描写
の激しい急迫したテンポはラルゴの荘重な緩やかさからは遠い。嵐吹きす
さぶ地獄のすさまじい光景の中を,女たちはもはや人間の姿をとどめぬ
「狂った影」(ombres
vos srisialp
sellof
)となって「欲望の果てまで」(a
u
bout
de
)コーダとなって走ってゆく。
ところで,このエピローグは元々なかったもので,初版刊行直前に司直
の介入を恐れたボードレールが急いで、付け加えた部分だという。トーンの
明らかな変化とレスボスの愛に対する断罪の意の顕示はその事実を証明し
ているかもしれないが,問題はこの部分の存在意義であろう。ヒューパー
61
天理大学学報
トはエピローグの詩としての美しさを認めつつも,この部分はそれまで詩
人が作品全体で表現してきたものの繰り返しにすぎず,イポリートの最後
のセリフで詩は完結しているとし寸意見である。だが,特に最終 2 節にお
ける救いがたきものを表現する苛烈さはそれ自体すでに,ある絶対的な高
さに達しており,その点だけをとってみてもこのコーダ全体の存在意義は
否定しがたい。
L’
apre etilirets
ertlA
de ertov
ertov
fios
Et el vent
tiaF
ecnasiuoj
te tidior
dnobiruf
reuqalc
,uaep
ed al ecnsipuoc
ertov
riahc
(おまえたちの享楽の
渇きを強め
ertov
un vieux
qu ’
isnia
.uaeprd
絶対に子を苧まない不毛さが/おまえたちの
おまえたちの皮膚をこわばらせ,/そして
淫欲の風は
たけり狂って/おまえたちの肉を古ぼけた旗のようにはためかせてい
る
。
〕
Loin
sed
selpu
A srevart
setiaF
Et zeyuf
,stnaviv
d白stre
sel
ertov
,nitsed
ilni’
fni
,setnare
zeruoc
ames
que
yous
condames,
comme
sel ;spuol
d白,senodr
zetrop
ne Yous
!
(世にある人々から遠く離れて,さまよう女,救われぬ女たちょ,/
荒野をよぎり
狼のように走ってゆけ。/おまえたちの宿命を果たせ,
ふしだらな魂たちょ,/おまえたち自身の中にひそむ無限のものを逃
がれてゆけ!)
く
〔.D te )
.H
.S 62-52
のみならず最終行における「無限」 1(ini’
fni
〕
〕の観念は重要だ。物質的
次元で有限な人間存在は精神の次元で自らのうちに無限なものをかかえ持
っているがゆえに,あくなき快楽の追求や薬物による人工天国の夢想に走
るわけだが,ボードレールはそこに人間の悲惨と偉大を同時に認めるのだ。
「デルフィーヌとイポリート J につづくもうー篇の「地獄堕ちの女たち」
で、彼は再び女たちに呼びかける。
「地獄堕ちの女たちJ とボードレーノレ
fni
,dini’
Chercuse
te ,serytas
setovd
de ,sruelp
senielp
totnat
de ,sire
senielp
Tanto
,sruelpmtnoc
stirpse
grands
De al etilaer
761
(現実をさげすもうとする偉大な精神の持主たちよ,/無限を求める
女たち,信仰あつく
しかも半獣神となり,/ときには叫び立て,と
きには涙に沈む女たちょ,)
Vous
Yos
mornes
que
tnau
aime
yos
,srueluod
a,seiviusruop
ame
mon
refne
ertov
ej Yous
,sruers
PauYres
Pour
dans
que
sfios
yous
,snialp
,seiYuosani
(その地獄堕ちの姿をわが魂が追って行った女たちょ,/京れな姉よ
妹よ,私は君らを愛するとともに憐れむ,/君らの陰惨な苦しみのた
め,君らの癒されぬ渇きのため,/…田・・)
〕
〔「地獄堕ちの女たち」第 6 節一第 7 節
無限への渇望と探求,これがレスボスの女たちの最も大きな属性であれ
レスビ、エンヌ詩篇 3 篇をつなぐ太い紐帯となると同時に,これらの詩篇か
ら発散される異様な精神性の基盤ともなり得ているのだ。その意味で,エ
ピローグは次の詩への渡しとしても大事な役割を果しており,詩篇聞のう
ねりの形成を助けている。
ところで無限の観念はここでもまた我々を美術を語るボードレール,就
中そのロマン主義観へと連れてゆく。
主義の内面的性格を強調しながら,
6481
『
年のサロン』で彼は,ロマン
「ロマン主義は,私にとっては美の最
も新しい,最も現代的な表現である」と前置きして,
「ロマン主義を語る
ことは,現代芸術を語ることである。ーーすなわち,諸芸術が有するあら
ゆる手段を用いて表現された内奥性,精神性,色彩,無限への憧慢であ
る。」と述べている。言うまでもなく,これはドラクロワを念頭においた
ロマン主義の定義であり,ボードレールはこの巨匠にそれの十全な体現を
見ていたわけであるが,すでに触れたように,特にその女性像の身ぶりに
よって表現される「恐ろしい憂欝な劇」をドラクロワのまったく新しい,
861
天理大学学報
現代的な特性だと考える。さらに『581
年の万国博覧会,美術』
noitisop
》)でも,
,elesrevinu
,5581
stra-xueB
《
〔Ex
開
ドラクロワの描く「心
情あるいは精神を病む女たち」が眼に宿している超自然性の強烈さに言及
して,
ドラクロワを「現代の女性,とりわけ地獄的な意味にしろ,神的な
意味にしろ,英雄的な姿で立ちあらわれる現代女性を描くのに最もすぐれ
た芸術家」だと賞讃するのだ。
「絶対に現代的でなければならなしづと歌
ったのは,のちのランボーたが,ボードレールのこれら一連の評言はいか
に彼が現代性というものを重んじ,それを芸術表現の重要な指標にする必
要をいかに強く感じていたかを物語っている。そのような彼がドラクロワ
の絵画作品への傾倒を通して,自らの詩作品のあり様に思いを至さぬはず
はなし、。豊かな想像力と錬達の技術を駆使してシェークスピアやダンテの
作品を絵画的に翻訳するドラクロワの文学性を賞揚するボードレールで、あ
るだけに,
ドラグロワの作品から,自らの制作のための啓示を逆に得てい
たのは当然だと考えられる。様々なかたちで、現代性はボードレールの詩に
表現されており,その性格は初期から晩年に至るまで、次第に変質してゆく
のだが,くレスピ、エンヌ詩篇>制作の時期のボードレールは特にドラクロ
ワ的現代性の表現を詩作品に定着させるのをひとつの眼目にしていたので
はなかろうか。無論,この時期のボードレールの個人史,つまり準禁治産
者扱いとされ,法定後見人をつけられた後の精神的物質的不如意やジャン
ヌとの複雑な愛情関係を考慮に入れると,前にも少し触れたように,それ
が「デルフィーヌとイポリート」の発想の契機になっているのは確かであ
る。そしてその面をクローズアップすると,さらにこの詩はボードレール
の自意識の劇を同性愛の女性二人に仮託して歌った,言わば仮装された告
白として読むことができょう。しかし,レスボスの女たちがボードレール
に対して持つ必然性は,それ以上に詩人の芸術意志と強くかかわってしる。
レスボスの女たちこそ,その無限への憧慣,その内奥性,その精神性にお
いて,現代性の表現のためにボードレールが最も必要としたモデルだった。
それにしても「デ、ルフィーヌとイポリート」につづくもうー篇の「地獄
堕ちの女たちJ 冒頭の美しさをどう形容すべきだろうか。
Commeun
liateb
fisnep
rus
el elbas
,sehcuo
「地獄堕ちの女たち」とボードレール
Eles
tournent
leurs
yeux
vers
!'horizons
961
des
mers,
(物思いにふける家畜のように砂の上に横たわり,/女たちはその目
を海の水平線の方へと向ける。/……)
〔「地獄堕ちの女たち」第
1節
〕
くレスピ、エンヌ詩篇> 3 篇がレスボス島の輝かしい海を背景として歌い
出されたことを思い出そう。そのあとの徹底的な内部への下降,最後に女
たちが堕ちていった地獄。そして今,また女たちはレスボス島の海を見わ
たす砂浜に横たわり,水平線の彼方に,はるかな無限を静かに探し求めて
いる。
「デルブィーヌとイポリット」の地獄からこの旧約聖書の風景を思
わせるような沈静したイメージへの絶妙な転調。これもまた,何度かくり
返された「深淵からの浮上」のひとつであろうか。
註
( 1)
Marcel
Proust:
,dramilG(
1791
Cantre
,evuB-tniaS
)所収 A pros
htoilbiB
de ,erialduB
ボードレーノレの禁断詩篇を特に高く買っている。
(2 〕 Baudelir
: 臼u
vres
Comp 色
!set ,I h
toilbiB
,dramilG(
)5791
.p .721
Claude
siohciP
(3)
多田道太郎編:「悪の花」註釈(下〉
Cherix:
Comentaire
(4 〕 Robert-Bni
,reliaC
Gen 色
,ev
( 5)
Jean
( 6)
erialduB
dramil
Prevost:
5791
,)5491
何 回 de al ,edaielP
フツレーストは
.p .236
色que
の註参照。
(平凡社, )891
des 《
sruelF
de
al ,edaielP
.p .4641
du Mal 》
(iP 巴er
.p .204
Baudelir
(Mercure
de France,
,)4691
.p .002
の詩の引用には :erialduB
servuif
Comp 色
!set ,I (Ga ・
〕 〔以下 .B <.E .C .I と略記〕所収の《L 白 lF 巴urs du Mal 》
を使う。邦訳は一部の字句を除いて,ほとんど安藤元雄氏の翻訳を借用さぜ
ていただいた。なお以下,原則として詩の引用には註をつけない。
(7)
ヴァルター・ベンヤミン:ボードレール(晶文社,ベンヤミン著作集 ,6
川村二郎,野村修訳, ,)5791
.p .422
(8 ,) (9 ,) )01(
.J .D Hubert:
L’
Estheiqu
des 《
Fleurs
du Mal}
-iP(
er ,reliaC
Gen 色
,ev ,)3591
.p .852
etalce
(PUF,
,siraP
,)0891
.p .82
)1(
Georges
Pot 白 :t La eisop
〔
)21
Baudelir
:包uvres
Comp 色
!set II ,
dramilG(
)5791
〔以下 .B <.E
.C II と略記〕 .04.p
071
天理大学学報
,)31(,)41(
)51(
un
)61(
)71(
rev
Michel Butor:
de erialduB
.B .EC
,.dibI
eriotsiH
,dramilG(
,.dibI
)62(
)72(
,11
.p .856
13(
)23(
)3(
43(
I,J .p
026 ∼.126
参照
.p .496
.C ,I La ,olrafnF
.p .775
.p 94
と .B .EC .C ,II .p 417 参照
,.dibI
ヴァノレター・ベンヤミンの上掲書, .p .832
82( 〕 この詩については,
)92(
)03(
rus
∼.59
.C ,II .p .495
02( 〕 阿部良雄訳「ボードレール全集
)12(
.J .D Hubert
の上掲書, .p .262
.97
)2(
.B .EC .C ,I .p 87 ∼
.p .776
)32(
,.dibI
52( 〕 .B .EC
iasE
57
p.
.p .044
81( 〕 .B .EC .C .I 所 収 Fuse
)91(
.B 臼. .C ,II .p .044
)42(
eriandroatxe
)1691
『天理大学学報』第 71 輯で論じたことがある(拙
稿:「理想」試解〉
「悪の花」註釈(下)参照 .p .4741
.J .D Hubert
の上掲書, .p .362
〕 .B .EC .C ,II p. 024 ∼.124
.p .144
,.dibI
.p .495
,.dibI
〕 Arthur
Rimbaud
の散文詩 Une nosias
en refne
の最終章 Adieu
の
中の一句。