フィリピン聖公会の歴史、現況と印象

フィリピン聖公会の歴史、現況と印象
~ 2014 日比米三教区青年交流プロジェクト サブ・レポート ~
日本聖公会横浜教区 司祭 パウロ 眞野玄範
- 目次 フィリピン聖公会の歴史
1.1898-1900 年 - 戦争の嵐と共に … 3
2.初期の宣教理念
… 4
3.宣教の始まり - コルディレラ・セントラルへ
… 6
4.初期の展開1 - 最初の宣教拠点ボントック
… 7
5.初期の展開2 - 第二の宣教拠点サガダ
… 9
6.初期宣教の終わり - サガダでの破局
… 11
7.フィリピン人による宣教へ13
フィリピン聖公会の現況と印象
1.現況
… 15
2.宣教事業
… 16
3.青年活動
… 17
4.教会建設
… 18
5.有機循環農法
… 20
6.伝統宗教と福音伝道
7.抱える課題 … 23
… 21
2014 年 8 月 1 日~ 16 日、フィリピンの北ルソン島で、横浜教区、北フィリピン教区、
米国聖公会ナバホランド・エリア・ミッションの青年交流キャンプが行われました。三教
区から参加する青年が祈りと奉仕と生活を共にする中で気づき、学び、成長し、そこで築
かれる絆が今後の教区間交流・協働の礎になれば、という願いが込められています。
横浜教区からは、窪田真人神学生、姜炯俊神学生、銚子諸聖徒教会の下谷周平、下谷和生、
松戸聖パウロ教会の竹内茉莉花、山手聖公会の原愛弓、スタッフとして私と KEEP 協会
の浦壁真琴が参加しました。キャンプ後半は三鍋主教夫妻が同行してくださいました。
フィリピンのイメージを覆される旅でした。夏に政府機関がマニラから移ってくるバギオ
や最後に訪ねたサガダは標高 1500m 前後で、清里や軽井沢のような雰囲気でした。初め
に 5 泊したバオコはもっと標高が高く、常に霧の中で、気温が日中でも 18 度位、夜は寒
くて眠れない程でした。山々の広い尾根のようなところに集落があり、山肌には棚田が広
がっています。どこへ行くにも山道。未舗装部分が多く、崖崩れも頻繁です。この地の民
イゴロットは、スペインがフィリピンを支配した 350 年間独立を守り、独自の言葉、文化、
生活様式が今も生きています ( ※ 最末期でも人口の 1/3 が「金鉱の所有者にしてクリス
チャンの敵」として自由を保っていました。イゴロットは、日本では「首狩り族」として
知られています )。標高 1000 ~ 2000m の山々に食糧は自給自足で暮らしている村々が
数多くあって、大地主による支配が一般的なフィリピンの低地地方とは経済的状況も異な
ります。このような地域で、100 年前、フィリピン聖公会は歩みを始めたのです。
キャンプ中、昨年は主に歴史について、今年は主に宣教について話を聞きました。このレ
ポートは、それを骨格にして帰国後に調べたことを、キャンプ参加者による報告書の補足
になるようにとまとめたものです。
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フィリピン聖公会の歴史
1.1898-1900 年 - 戦争の嵐と共に
1898 年 5 月 1 日、アメリカ太平洋艦隊はマニラ湾でスペイン艦隊を攻撃し、6 時間でス
ペイン艦隊は壊滅。米国は、
フィリピンの民族主義者に独立の約束を与えて連携して戦い、
駐留スペイン軍を制圧。8 月 14 日に休戦協定が結ばれた。12 月 10 日、米国はスペイン
との間にパリ条約を締結し、独立軍との約束を反故にして 2000 万ドルでフィリピンを購
入し、フィリピンを植民地にした。
6 月 12 日、フィリピンはエミリオ・アギナルドの下で独立を宣言。9 月 15 日、アギナ
ルドは議会を組織。しかし、米国のウィリアム・マッキンリー大統領はフィリピン政府を
犯罪者集団と呼んで国家として認めず、米比戦争に入る。その間、多い見積りで 140 万人、
少ない見積りで 24 万人のフィリピン人が死んだ。これは民族大虐殺に他ならないとも言
われる。なお、1898 年から 1902 年の間にフィリピンで戦闘を指揮した米国の将校 30
人の内 26 人は米国での先住民族との戦いでジェノサイドに手を染めた者であったという。
スペイン支配下のフィリピンでは、ローマ・カトリック以外の宗教は禁止されていた。米
軍がスペイン軍を破ったことでその法律は廃棄され、米艦隊のチャプレンとして来比した
米国聖公会のチャールズ・C・ピアス司祭によってフィリピンで初めて非ローマ・カトリッ
ク教会の礼拝が公に行われた。
米国聖公会は、中華聖公会総裁主教・上海主教であったフレデリック・グレーブス
(1858-1940)にフィリピン訪問を依頼し、
1899 年 9 月、
グレーブス主教はマニラに到着、
1900 年 1 月 10 日、グレーブス主教はフィリピンの管理主教に任職された (1902 年迄 )。
グレーブス主教のもと、ローマ・カトリックに不満を持つフィリピン人クリスチャンが迎
え入れられ、華僑への伝道が行われた。
グレーブス主教の報告を受け、1901 年 10 月 4 ~ 11 日にサンフランシスコで開催され
た米国聖公会総会は「フィリピン諸島伝道区(the Missionary District of the Philippine
Islands)
」の設立を承認し、
ボストンの聖ステパノ教会牧師であったチャールズ・ヘンリー・
1
ブレント司祭を主教として選出した。
1 チャールズ・ヘンリー・ブレント主教:1862 年カナダ・オンタリオの生まれで、1891 年に米国に帰化。
1901 年~ 1917 年、初代フィリピン主教。フィリピン在任中からアヘン中毒の問題に取り組み、フィリピン政
府の諮問委員 (1903-1904) や国際会議の米国政府代表団の長(1908-1909, 1911-1912)
、ハーグにおける万
国阿片会議の議長(1912)を務めた。1927 年、スイス・ローザンヌで開催された「信仰と職制運動」第 1 回
世界会議の議長を務めた。1929 年、ローザンヌ滞在中に逝去。ローザンヌに埋骨された。
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2.初期の宣教理念
1902 年、ブレント主教が来比。前年にフィリピンの初代民政監(総督)となっていたウィ
リアム・ハワード・タフト(後に第 27 代米国大統領)に要請され、
途中、
共にローマに行き、
ローマ教皇に謁見している。教会、修道会が所有していた大土地を買い取る交渉のためで
あった。なお、タフトは同時に大土地法を制定して、米国資本の大土地所有も禁止した。
ブレント主教は、次のように宣教のビジョンを述べている。
「我々の教会としての働きは、できるかぎり多くの人を自
分たちのものにしようとすることでも、フィリピン全体
に“聖公会の信条”の薄い覆いを広げようとすることで
もない。慎重に選んだ拠点において、
証しをしっかり行い、
働きを徹底して行うべきである。それらの拠点は、
やがて、
この国の必要の大きな大部分の地域に影響を及ぼしてい
くだろう。拠点を作ることと、それを維持することは別
のことだ。働きを始めてからひるんだり、やめてしまう
ぐらいならば、始めない方がずっとよいのだ。
」
チャールズ・ヘンリー・ブレント主教
この宣教拠点は、地理的な中心地にあって、福音をよく人々に伝えるために医療、教育、
伝道の三つの働きが相助け合う形で為される場所として構想された。
ブ レ ン ト 主 教 は、 フ ィ リ ピ ン に ロ ー マ・ カ ト リ ッ ク が 浸 透 し て い る 状 況 を 見 て、
n o t
t o
s e t
u p
a l t a r
a g a i n s t
a l t a r
「祭壇に祭壇を対立させて築かないこと」
「他教会の信徒に干渉しないこと」
、
を原則として、
Evangelical Union
ローマ・カトリックからの改宗者を得ることに焦点を当てた福音同盟 ( 長老派+メソジス
ト+バプテスト+同胞教会 ) による伝道地域の分割に関する取り決めに加わらないことを
決め、聖公会の働きの対象を、マニラ在住の欧米人、華僑、教会から離れている人々、及
びフィリピン列島南端・北端の未宣教地域の人々(北ルソンのイゴロットとミンダナオ島
のイスラム教徒)に定めた。
Committee on Work among the Igorots
1909 年、ウォルター・C・クラップ司祭を議長とする「イゴロット宣教委員会」は、次
のような勧告を出している。
1. はじめに少数のしっかりした宣教拠点を築き、各周辺地域に伝道所を設けること。そ
れらは巡回奉仕者で運営し、後にそれが可能となったら定住奉仕者を置く。
2. 宣教拠点は、行政の中心地にではなく、建設作業ができるように、相当な広さの土地
をあまり物議を起こすことなく取得できる場所に設けること。
3. 宣教に携わる者は、よりよく関係を築き、教育ができるように、現地住民の言葉を学
ばなければならない。
「宣教師は、まず、破壊するのではなく、養育しなければならない。
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それによって徐々に迷信を払拭すべきである。
」
(※ 土着宗教の像を偶像として取り上
げて破壊して、その度にイゴロットの反乱を引き起こしたスペイン人の宣教と対照的)
4. 宣教のための訓練をすべきふさわしい青年を見いだすために常に注意を払うこと。同
時に、「私たちの世話の下に入る大多数の青年については、父祖がやってきたような仕
方で土地を耕して自らの生計を立てる力が自分にはないと思うようになるような教育は
すべきでないこと」
。
(※ 青年を自らの根から引き離すことがないように、
という配慮は、
今日もなお宣教において必要とされ、守られているということである。)
ルソン島北部の中央山岳地帯の人々が、スペインが支配した 350 年間はローマ・カトリッ
クの宣教を撥ねつけてきたにも関わらず、米国聖公会の宣教は受け入れたのは、このよう
な宣教方針・理念がとられたことに加えて、次のような事情がある。
1. スペインはこの地域に金を求めて入り、またタバコなどに税金を課そうとしたが、米
国はそのような直接的な収奪をしようとしなかったこと。
2. スペインの統治政府は武力に頼って支配しようとしたが、米国の統治政府は教育を重
視したこと。マッキンレー大統領は「教育こそ最大の武器である」として、大量の教科
書と、600 人余りの教員を派遣し、無償の初等教育を普及させる方針を取った。
3. スペイン人は、この地域の文化、言語に関心を寄せなかったが(スペインの植民地時
代にこの地域を訪ねた他の西欧諸国の人々は様々な調査記録を残しているが、スペイン
人はほとんど残していない)
、米国人はこの地域の文化、言語を尊重したこと。
コルディレラ・セントラル
マニラ
ミンダナオ
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3.宣教の始まり - コルディレラ・セントラルへ
1901 年に民政監タフトは政府機関を夏期はマニラから北に 250km、標高 1500m 前後
のバギオに置くことを決め、ブレント主教はそれに歩調を合わせてベンゲット州周辺を初
めに注力すべき宣教地に選んだ。
ブレント主教は、
「これを公に言うことは賢明ではないであろうが…、私はこの地域で教
会の働きを確立すべく統治政府によって連れてこられたわけだが、文明化に伴う悪の勢力
が入り込む前に為すべきことは速やかに為さねばならない」と述べている。
1902 年 12 月、ブレント主教はバギオにジョン・A・スタウントン司祭を派遣。設計、
建築の技能を持っていたスタウントン司祭は、まず宣教師のための保養施設を、次いで聖
堂を建て、1904 年 4 月 24 日、北ルソン最初の聖公会の聖堂が聖別された。彼は、
「私は、
校長、大工、荷運び人、排水溝掘り、家具造り職人、建物管理人、荷馬車の御者、水牛の
運転手、丸太運送者、木こり、製材者だ」と故郷に書き送っている。
ブレント主教は、来比から半年後の 1903 年 1 月、自らクラップ司祭を伴ってコルディ
レラ・セントラル(ルソン島北部の中央山岳地帯)を西から東に入ってチコ川沿いに下る
ルートで視察した。この視察はもっぱら徒歩で、
時には馬に乗って、
2 週間かけて行われた。
この視察旅行でイゴロットを見たブレント主教は、
「半分人間、半分猿だ(half human,
half monkey)」と言ったという。イゴロットの男性は、上半身裸で、体の前後に布を少
し長く垂らした形の褌のような衣装を身につけているため、その見た目に掛けて言ったの
だろう。この言葉が示すように、ブレント主教は、この時代のいわゆる「白人の責務」の
観念を共有する帝国主義者であった。教会、学校、病院をセットにした宣教というビジョ
ンは、「文明化」という彼の理想主義に由来していた面があることは否めない。ただし、
福音宣教の見通しを明るく語ったブレント主教は、他方で米国によるフィリピンの文明
化の見通しについては懐疑的に語っていた。米国の統治に対する反乱がいまだ収まらず、
人々がむしろスペインによる支配体制に戻りたがっているようにさえ見える状況があった
こと、また来比する米国人に疑わしい品性の者が多かったことが背景にあった。ブレント
主教は、米国西部開拓の時と同じで「冒険好き、無責任な柔弱者、猛禽のような人間」が
多く、「霊的な酷薄さ、道徳性の崩壊」が見られると嘆いている。また、統治政府の政策
が、フィリピン人を犠牲にした利己的な動機によって決定されるのを見て嘆いている(※
米国の繊維産業からの圧力で、米国製品だけをフィリピン市場に流通させるために、他国
からの安価な綿製品の輸入を禁ずる法が作られた)
。
なお、北ルソンにわずかに遅れて、ミンダナオでも宣教が開始された。1904 年 9 月 24
日にミンダナオのザンボアンガで最初の聖公会の礼拝が捧げられ、1905 年 10 月に聖三
位一体教会の聖堂聖別式が行われた。次の宣教拠点が作られたのは 1927 年。ミンダナオ
で宣教が進むようになったのは第二次世界大戦後のことである。
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4.初期の展開1 - 最初の宣教拠点ボントック
1903 年 1 月の視察中、バギオから北に約 140km、標高 1000m のボントックが最初の
宣教拠点として選ばれた(ボントックは 1908 年に旧マウンテン州の州都となった)
。ボ
ントックは、北ルソンでも最も戦闘的な部族の土地として知られていたところで、ブレン
ト主教はそこに教会が全力で取り組むべきチャレンジを見たのである。
同年 6 月、クラップ司祭はボントックに移った。ボントッ
クにはスペイン支配末期 1859 年に要塞が築かれ、聖ア
ウグスチノ修道会が入っていたが、スペイン敗戦と共に
撤退していた。その残された信徒も吸収しつつ、1909
年にはボントックの諸聖徒教会(当初の名は聖慰主教会)
の受聖餐者 60 人を数えるまでに成長し、北に 8km 離れ
た村に伝道所も設けていた。1911 年には女学校と男子
寮が開設された。クラップ司祭はマルコ福音書、祈祷書、
教理問答集をボントック・イゴロットの言葉に翻訳し、
イゴロット語彙集を出版した。彼はボントックでの経験
ウォルター・C・クラップ司祭
の中から次のような言葉を残している。
「ビジネスライクな硬い態度で人々に接するならば、人々の魂のための働きの最高の喜
びを味わうことができないだけでなく、
“自分の羊を知る”真の羊飼いの使命をも果た
すことができないだろう。しかしまた、人間的な愛情と関心を持って人々に接するなら
ば、傷つけられ、失望させられることを免れることはできない。
」
この頃、フィリピンでは、スペイン敗戦と共に多くの外国人司祭が去ったことによる混乱
2
と動揺の中で、独立運動の過程で生じた分派(フィリピン独立教会 )が成長する一方で、
北ルソンなどでは混淆的な新興宗教が次々に生まれていた。そのような状況を憂慮した
ローマ・カトリック教会はフィリピンへの宣教師派遣を呼び掛け、それに応えて、1907
年 11 月、ベルギーの無原罪聖母修道院から 8 人の修道士が来比、それから 5 年間に計
40 人が来比した。彼らもまたルソン島北部の中央山岳地帯に働きを集中させることにし
たため、
聖公会との競合が生じることになった。400 年にわたってイゴロットへのローマ・
カトリックの宣教は失敗に終わっていたにも関わらず、今日、コルディレラの主要な町に
ローマ・カトリックの教会があるのは、このベルギー人神父たちの働きの結果である。
2 フィリピン独立教会(イグレシア・フィリピーナ・インディペディエンテ (IFI) /アグリパヤン):スペイン
人聖職者たちの横暴に対する蓄積された不満、1896 年に独立運動の英雄ホセ・リサールがスペイン統治政府に
処刑されたことへの怒りなどから、ローマ・カトリックの司祭だったグレゴリオ・アグリパイが 1898 年 10 月
に教会の民族化を宣言、1 年後に民族教会の創立を決議、ローマ教皇の承認を求めたが実現しなかった。革命敗
北後、労働運動家で民族主義者のイサベロ ・ デ ・ ロス ・ レイエスによる、ローマから分離した教会を創立する提
案をもとに 1902 年 8 月 3 日に生まれた。グレゴリオ・アグリパイは、米国聖公会とスコットランド聖公会の
主教から按手されて主教になった。アングリカン・コミュニオンに入っている。
-7-
なお、ベルギー人神父たちが入ってきたことをスタウントン司祭は歓迎したが、ブレント
主教は「まだ無牧の広大な地域のための働きに専念すべき時に争いの種が蒔かれた」
と言っ
て嘆き、クラップ司祭は「我々の学校に来ている子どもたちにモノを与えて自分たちの学
校に奪うなどして、我々が労苦して築き上げてきたものを日々全力で壊している」と苛立
ちを書き残している。ベルギー人神父たちが女学校を開校したのは聖公会と同じ 1911 年
だったが、クラップ司祭は既に 1903 年以来教育事業に取り組んでいたのである。
1932 年にできた 2 代目の聖堂。1945 年に空爆で破壊された。
現在のボントックの諸聖徒教会
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5.初期の展開2 - 第二の宣教拠点サガダ
1904 年、スタウントン司祭は、バギオの教会はマニラから保養に来る司祭が順に世話を
することにして、宣教はもっと奥地で為されるべきだとブレント主教に訴えて承認され、
バギオからさらに北に 150km、ボントックから西に 20km 程、チコ川源流近くの標高
1500m の地点にあるサガダに移った。サガダが選ばれたのは、ボントックから遠すぎず
近すぎない位置にあって働きの相互強化が期待できたこと、
(沿岸の低地)イロコス地方
への交通の要衝にあって将来の発展が見込まれたこと、またその土地柄から新しいものに
受容的であろうと考えられたことによる。
スタウントン司祭は、子どもたちに教育を与え、サガダで仕事を作り出すから、教会を建
てることを認めてほしいとサガダの村の長老たちと交渉して、未開墾の丘を得た。そこは
村の外れで(現在のサガダの町の中心は教会の近くに移っている)
、対立する部族が住む
方角にあって緩衝地帯になることが期待されたようである(その 6 年前にサガダの人々
が虐殺される事件があったばかりだった)
。
その年の暮れには看護士の妻も移ってきて、夫妻は放棄されていた小さな山羊小屋に 3 ヶ
月間住まい、そこで子どもたちに教え、村人を診療し、聖餐式を祝い、洗礼式を執り行っ
た。夫妻は村の言葉をすぐに習い覚えて村人と同じように生活をしたため、村人たちはす
ぐに夫妻と親しく交わるようになったという。また、スタウントン夫人は、嵐の日でも馬
に乗って病いの人を訪ねて廻るなど骨身を惜しまぬ働きをしたと伝えられ、半数以上の人
は夫人の働きによって教会に来るようになったという。
ブレント主教は、サガダ、ボ
ントックの教会関係の建築、
そしていずれボントックで
公共建築が盛んになること
を考えて、サガダに製材所
を作ること、またスタウン
トン司祭夫人を長とする診
療 所 を 作 る こ と を 考 え た。
スタウントン司祭のビジョ
ンは、もっと大きなものだっ
た。植民地時代の米国の入
植地のような、教会を中心
サガダ・ミッション・ステーションの製材所
とする新たな進歩的な共同体を築こうと考えたのである(戦後日本の清里でポール・ラッ
シュが描いたビジョンによく似ている)
。
その第一歩として、安定した雇用を与え、新しい職業技術を身につける動機を持たせるた
めに、また同時に教会を経済的に自立させるために、スタウントン司祭は、まず製材所を、
-9-
次いで屋根板の製作場、石灰釜、木炭釜、石切場を設け、
また、織物、裁縫、レース編み、靴作りなどの作業所
を開いた。各々の運営と指導は、マニラやイロコス地
方などから招かれた人材に任された。
そこで建築関係の働きで活躍したのが日系人移民であ
3
る。福岡出身のトクタロウ・ヤマシタ氏、長崎出身の
マサタロウ・ヨシカワ氏らが、大工、石工の頭領として
スタウントン司祭の下で建設と弟子の育成に貢献して、
敷地内に 10 年間で大小 20 もの建物を造り、またプサ
オ、スユ、バグネン、バガアン、バンテイといった村々
フレデリック・ヤマシタ氏
で伝道所を建設した。
この殖産を軸とした宣教方法がベルギー人神父たちに
よっても 2 つの地域で踏襲されたことは興味深いと、
1917 年にブレント主教は記している。
現在のサガダのおとめ聖マリヤ教会
3 バギオを「夏の首都」とするために、マニラ方面からバギオに入るための道路建設が 1901 年から 1905 年
にかけて行われたが、この工事には 1903 年 6 月から日本人移住労働者が常時 500 人~ 1000 人近くが従事した。
ヤマシタ氏、ヨシカワ氏、J.G. オクイ氏らも、この「ケノン・ロード」建設のために来比した。ヤマシタ氏は、
この工事終了後、イフガオのキアンガンでカトリック教会や準州政庁の建築に従事していたところ、スタウント
ン司祭に招かれてサガダの教会敷地内に住み込み、
長く教会関係の建築に携わって、
1938 年に逝去された。戦後、
ヤマシタ氏の長男メレシオ氏やサガダの弟子たちは、マニラ・ケソン市で聖アンデレ神学校、聖ルカ病院の建設
に貢献し、その後はサガダに戻って、孤児院や司祭館、付属学校、付属病院増築などを監督した。次男ヘンリー
氏の息子フレデリック・ヤマシタ氏は現在サガダで教会委員をしておられ、またメレシオ氏の孫グレン・B・ヤ
マシタさんはフィリピン聖公会で執事に按手されて現在日本聖公会中部教区の可児ミッションで働いている。
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6.初期宣教の終わり - サガダでの破局
サガダにはコルディレラで最高水準の学校ができ、診療所はやがて病院へと発展する基礎
が整い、主教座聖堂かと見紛う立派な石造りの聖堂が建てられたが、スタウントン司祭の
ビジョンは実現せずに終わった。
新たな道路建設によって交通の要衝でなくなったこと、またサガダやボントックでの建築
需要が第一次世界大戦後の不況のためになくなったことで、殖産を軸にした宣教活動の前
提が崩れたためである。それに加えて、米国聖公会が海外宣教の支援方法を変えたことが
追い打ちをかけた。物質的進歩に楽観的信頼を寄せていた当時の米国の人々は、サガダで
の目に見える働きの成果に感激して、スタウントン司祭からの支援要請に喜んで応えてい
たが、米国聖公会は、より公平な宣教協力資金の配分のためという名目で、個々の宣教師
が各個教会に支援要請をすることを禁じ、スタウントン司祭は手足をもがれてしまったの
である。
さらにブレント主教の辞職が致命的な打撃を与えた。
「文明化の責務」を奉じていたブレ
ント主教は、1912 年の民族自決の原則で知られるウッドロー・ウィルソンの米国大統領
への就任、フランシス・バートン・ハリソンの総督任命、将来の独立を約束した 1916 年
のジョーンズ法制定という政治の流れの中で急速に進み始めた「フィリピン化」に失望し、
「米国とフィリピン諸島の結びつきは消滅しかかっている。次に為されるべきことは、た
だ残っている関係をできる限り速やかに断ち切ることだけだ」と言って、自らもフィリピ
ンを去ってしまった。それを受けて再びフィリピンの管理主教となった上海主教のフレデ
リック・グレーブスは、視察で訪れたサガダで極めてカトリック色の強い典礼が守られて
いることにショックを受け(保存したご聖体への崇敬やマリヤ崇敬を問題にしたらしい)、
それらを止めるよう命令。サガダの聖職団はその命令を拒絶して、紛糾したのである。
ブレント主教は、自らが育った伝統への愛着や執着からではなく、次のような考えからカ
トリック的伝統を大切にした。その方針の下でスタウントン司祭らは働いてきたのだが、
グレーブス主教はそれを理解しなかった。
「素朴な人々の宗教生活ではサクラメントが重要な役割を果たさなければならない。サ
クラメントの客観性は魂を引きつける。それが考えうる唯一の知的な働きかけの方法な
のだ。高度に学問的な文明の中で育った者にとっては、宗教はそれに捉えられるよりも
先に完全に知解されねばならないものであるかもしれないが、それは未開の人々には当
てはまらない。…私は、フィリピンのようなラテン国における教会の宣教は、高度な典
礼によって最もよく為すことができると思う。…教会の破滅の原因に他ならない重箱の
隅をつつくようなうんざりさせられる教理の議論に時間が費やされるようになることは
避けられねばならない。…良心と法が許す限り、私たちとローマ・カトリックの兄弟た
ちとの違いを強調することを避け、接点を強調することは、私たちの義務だ。
」
- 11 -
この問題は、上海教区のガヴァノイア・フランク・モシャー
司祭(1871-1941)が第 2 代フィリピン主教に選ばれた
ことで破局した。1920 年 2 月に着任したモシャー新主
教のリベラルな姿勢は、
「聖公会を破壊しつつあるプロテ
スタント・ウィルス」へのおそれを引き起こし、1924 年
9 月、サガダの 4 人の司祭は新主教に宛てて個別に手紙
を書いて、サガダの教会はローマ・カトリックに移管さ
れるべきであると意見を述べ、スタウントン司祭を含む
3 人が辞職してしまうのである(米国に戻ったスタウン
トン司祭は聖公会を離れて、ローマ・カトリックの司祭
として再叙階を受けた)
。残った 1 人は着任したばかりの
ジョン・A・スタウントン司祭
ハーツェル司祭で、彼も仕事の無理から体を壊して 2 年
後に帰国。その後、10 年近くサガダの教会は停滞する。
2007 年にサガダおとめ聖マリヤ教会の祭壇後の装飾壁と十字(復活のイエス像)が新たにされた。フィリピン
の現代芸術家として評価の高い Rey Paz Contreas 氏の作品。
- 12 -
7.フィリピン人による宣教へ
1924 年の破局後、ハーツェル司祭を継いだ L.L. ローズ司祭は働き手の不足に悩まされ
つつ 1 人でサガダのおとめ聖マリヤ教会を維持していたが、1931 年に転機が訪れる。こ
の年に、ニューヨークのジェネラル神学校の特別研究員の身分を持った C.E.B. ノーブス
司祭が加わって、フィリピン人聖職者の養成が着手されたのである。
フィリピン人聖職者の不在は、1920 年に着任した当初からモシャー主教の注意を引いて
いた問題であった。モシャー主教は、米国から宣教師も宣教資金を得ることも困難な状況
にあって、教会が設立した学校で育ちつつあった優秀な子どもたちを訓練して教会の担い
手とすることを考え、1930 年の年次総会でその必要の緊急性を訴えて、1932 年にサガ
ダに「聖アンデレ信徒・聖職訓練学校」を開校した。按手を受ける者は米国聖公会の基準
を満たすことが要件として定められた。
1933 年、3 人 の 聖 職 志 願 者、
エドワルド・ロンギッド、アル
バート・マスフェール、マーク・
スルエンが入学した。6 年後の
1939 年 1 月 25 日、3 人 は 執
事に按手され、最初のフィリピ
ン人聖職者となった。
1940 年 10 月、モシャー主教
が退任(翌年 7 月逝去)
。日本
聖公会東北地方部初代主教ノー
マン・スペンサー・ビンステッ
ド師父が管理主教に任命されて
フィリピン聖公会最初のフィリピン人聖職が誕生した 1939 年の執事按手式
来比、1942 年に第 3 代フィリ
ピン主教に着座した。
1941 年 6 月、ロンギッドとマスフェールが司祭按手を受ける。半年後、日本軍のフィリ
ピン侵攻が始まり、全ての米国人宣教師は収容所に入れられ、この 2 人のフィリピン人
司祭が北ルソンの全教会の責任を負うことになった。
日本の支配下に入る直前に、日本語を解するビンステッド主教がフィリピン主教となり、
またフィリピン人司祭が誕生していたことは、まさに主の計らいだったと思わされる。
日本軍からの解放後、フィリピン聖公会は教会関係の建物の 90%を失った状態から再出
発しなければならなかった。その復興の働きのために、ビンステッド主教が東北教区で苦
労した経験が役立ったという。ビンステッド主教が初めに決断したことは主教座聖堂の再
建ではなく(新たな主教座聖堂が再建されたのは 1962 年 2 月 9 日)
、現在の U.N. アヴェ
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ニュー通りにあった主教座聖堂の地所を売却して、その益金でケソン市に 18 ヘクタール
の土地を買い、そこに主教座聖堂、聖ルカ病院、その他の教会関係の施設を移転させるこ
とだった。(※ そこはビンステッド主教らが入っていた収容所のあった場所だった。
)
このフィリピン聖公会の中核諸施設再建の眼目とされたのが、サガダからの聖アンデレ神
学校の移転であった。1947 年 9 月に、神学校は仮設校舎で再開。1953 年に校舎が完成、
1960 年にチャペル、図書館、そして 120 人収容可能な寮が完成した。
フィリピン聖公会の「フィリピン化」は、最後の米国人主教となった第 4 代フィリピン
主教ライマン・C・オジルビーによって着実に進められ、1959 年 2 月 24 日に戦後最初
の神学生であったミンダナオのベニート・カバンバンが補佐主教に按手され、1964 年
2 月 2 日に神学校の第 1 期生であったエドワルド・ロンギッドが補佐主教に按手された。
1967 年 5 月 1 日、ベニート・カバンバンが第 5 代フィリピン主教に着座、最初のフィ
リピン人の主教となった。1980 年 3 月 25 日、ヘンリー・キリー司祭が聖アンデレ神学
校の校長に就任、最初のフィリピン人の校長となった。1985 年にフィリピン聖公会の祈
祷書作成が始まり、1987 年に聖餐式文の試行版が発行された。
The Missionary District of the Philippine Islands
フィリピン聖公会は、1901 年に「米国聖公会 フ ィ リ ピ ン 宣 教 区 」として出発して、
1937 年に実質的に米国聖公会の一つの教区になって「フィリピン聖公会 (the Philippine
Episcopal Church - PEC)」
に改称
(正式には 1967 年に宣教教区になる)
。1971 年に
「フィ
リピン宣教教区」は北フィリピン教区、中央フィリピン教区、南フィリピン教区に分割さ
れ、フィリピン聖公会は実質的に管区としての形を整え、1988 年に米国聖公会総会でフィ
リピン聖公会との協約が承認され、1990 年 5 月 1 日にアングリカン・コミュニオンの 1
つの独立した管区(the Episcopal Church in the Philippines - ECP)となった。
※ フィリピン聖公会は、フィリピン独立教会(IFI)との間に完全相互陪餐の協約を結
んでいる(1961 年に米国聖公会と IFI、1997 年にフィリピン聖公会と IFI)
。
※ フィリピン聖公会は、ローマ・カトリック教会との間で相互に洗礼を承認している
(1980 年 1 月 20 日)
。
※ 聖アンデレ神学校は、1948 年から IFI の聖職志願者を、1961 年から女性の聖職志
願者を受け入れている。なお、1990 年 8 月 15 日、最初の女性司祭が誕生している。
ここまでのセクションで主に参照した文献:
○ "THE EPISCOPAL CHURCH in the PHILIPPINES: 1901 TO 2001", Kate Chollipas
Botengan, 2001
○ "A HISTORY OF THE MOUNTAIN PROVINCE", Howard T. Fry, 2006
○「コルディリェラの日系人」
(佐々木靖 , 帝京大学短期大学紀要 (32), 9-62, 2012)
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フィリピン聖公会の現況と印象
1.現況
現 在、 フ ィ リ ピ ン 聖 公 会 は、6 つ の 教 区、400 の 教 会、200 人 の 聖 職、130,000 人
の信徒で構成されている(※日本聖公会は、11 の教区、300 の教会、270 人の聖職、
32,000 人の信徒)
。1971 年に北、中央、南の最初の 3 つの教区ができた後、北フィリピ
ン教区から北ルソン教区とサンチャゴ教区が、中央教区(含マニラ)から北中央教区(含
バギオ)が生まれ、さらに 2 つの教区の設立準備中である。
The Rt. Rev. Brent Alawas
北フィリピン教区(EDNP)は、フィリピン聖公会最大の教区で、ブレント・アラワス主
教のもと、68 の教会・伝道所、45 の伝道拠点を持ち、聖職者 55 人、信徒 44,316 人か
らなる(15 年前と比べて教会・伝道所は 8 増加、伝道拠点は 33 減少、聖職は 12 人減少、
信徒は約 1500 人増加)。ちなみに、教区が成立した時には、自給教会 2、半自給教会 1、
伝道拠点 111、信徒 32,000 人であった。初代主教は、神学校の第 1 期生、サガダ出身
のエドワルド・ロンギッド師である。
半数以上の教会で BSA(聖徒アンデレ同胞会:男子会)
、ECW(フィリピン聖公会婦人会:
活動はシニアとジュニアに別れて行われている)
、SKEP(フィリピン聖公会青年会:12
~ 35 歳)が組織されている。
北ルソン教区
北フィリピン教区
サンチャゴ教区
中央フィリピン教区
北中央フィリピン教区
南フィリピン教区
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2.宣教事業
宣教事業は、アングリカン・コミュニオンの「宣教の 5 つのしるし」に立ち、フィリピ
ン聖公会 (ECP) 全体で定めた「ECP ビジョン 2018」のもと、以下 4 つの領域における
取り組みが、7 つの伝道区を作って実施されている。
The
Renewal,
Evangelism
and
Growth
program
○ REG(刷新と福音伝道と成長のためのプログラム)
:霊的な成長、与える者としての成
長、キリスト者にふさわしい生活における成長のために、各世代の信徒に継続教育のプロ
グラムを提供する。
○ 社会宣教:平和構築・部族間紛争の解決、環境問題、先住民族問題、人権問題、健康
問題などに関する啓蒙、提言活動
Episcopal Community Action, Renewal and Empowerment
○ E-CARE(コミュニティの社会活動、刷新とエンパワメント ):水道整備、有機循環農法・
養畜・食品加工・米の多収化等の取り組み、災害救援・復興、共同組合の設立・運営
○ インフラ整備:会堂、牧師館、その他の施設の建築・修繕
ERD(米国聖公会の援助機関)、ABM(オーストラリア聖公会の援助機関)
、Us.(英国
聖公会の援助機関 - 旧称 USPG)が主要なパートナーで、日本の KEEP 協会も北フィリ
ピン教区の長年のパートナーである。
ボントックの諸聖徒教会のステンドグラス。中心にイゴロットの姿の聖家族。
右が最初の米国人宣教師たち、左は最初のイゴロットの主教、下は信徒たち。
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3.青年活動
今回の訪問で印象的だったのは、青年が実践的な担い手として奉仕している姿である。
例えば、青年会(SKEP)は、コンサートを開催したり、結婚式や何か地域や教会のイベ
ントの際に声をかけてもらって歌が上手な人や花のアレンジができる人等を派遣したりし
て、会堂建設や教会活動の資金を稼いでいる。
日曜学校や子どものキャンプも青年会が担っている。日曜午後の聖堂には、青年たちが日
曜学校のプログラムについて話し合っていたり、夕方から行われる青年向けの聖餐式の準
備でオルターの仕事をしたり、
聖歌の練習をしたりする姿があった(※ 青年向けの礼拝は、
式文、聖歌などが違うわけではないが、聖歌の伴奏にドラム、キーボード、ギターが使わ
れている)
。
牧師の信徒訪問に同行することも青年の働きの 1 つである(かつて外国人宣教師の道案
内や通訳を青年が務めたことから伝統になったのだろうか ?)
。
このような姿に照らすと、日本では青年活動が教会から経済的援助を受けるのが当たり前
になりすぎているのではないか、また青年がモラトリアム中の者として見られる向きが強
いのではないかと考えさせられる。
北フィリピン教区の主教座聖堂、ボントックにある諸聖徒教会で。日曜の午後、
中学生~大学生の青年会 (SKEP) メンバーが聖歌の伴奏の練習をしているところ。
多くの教会、伝道所に、ドラム、ギター、ベースギターが備えてあった。
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4.教会建設
もうひとつ印象的だったのは、自分たちの共同の家を造るように信徒が自らの手で会堂を
建設している姿である。
初めに滞在したバオコの近くのス
ユの聖ベルナール教会は、戦前に
できたためか会堂が現在のコミュ
ニティの中心から車で 1 時間近く
登ったところにあって、信徒が集
うにも伝道にも不便ということで
移転しようとしている。現在 20
人程の礼拝出席者を 100 人程にし
たい、1 階部分は有機循環農法を
広める働きのためにスペースにし
たい、とのことで、自己資金に加
えて、教区やバギオの大きな教会、
地方自治体などから建築資金を援助してもらい、資材を買って、コンクリートを混ぜて作
るところから建設作業をすべて信徒が手作業、手弁当でやっている。現在は資金が足らな
くて1階部分の鉄筋コンクリートの柱を建てたところで建築が止まっている状態だった。
我々は 1 階の床下に敷く石を敷地に隣接する川から運ぶ作業等を手伝った。
バオコの「森の中の聖マリヤ教会」から生まれた聖マルコ
教会は、ほぼ建築が完成して聖別を待つ状態で、壁や花壇
に
「エコ・ブリック」
が使われていた。エコ・ブリックはペッ
トボトルに菓子等の包装をぎっちり詰め込んだもので、道
路清掃を兼ねて拾い集めたゴミで青年たちが作っている。
まさに手作りの会堂だった。
北フィリピン教区は、原則、その土地の信徒が、建設資金
の 50%と土地を用意しなければ、会堂建設を認可しない
のだという。今回訪問したカリンガ州ブトゥブトゥ村の近
くにあるボグナイ村には、人口の 2/3 にあたる 200 人程
が受洗者であるにも関わらず、まだ教会がない。まだ建築
資金が十分に用意できていないため、ということだった。
このような様子を見て、話に聞く清里や長坂の初期の時代を思い起こさせられた。高齢化
等の事情があるにしても、ワークキャンプ等がいつの間にか行われなくなる中で、教会の
建設や維持というと資金(の不足)だけがイメージされるようなことになっていないだろ
うか、新たな会堂建設の喜びが忘れられていないだろうかと考えさせられた。
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ボントックにある北フィリピン教区の主教座聖堂、諸聖徒教会のステンドグラスには、イ
ゴロットの伝統的な家が、民の集会の場を表す石の円陣、神への捧げものから立ち上る煙、
カラバオ(水牛)の角でできた十字架と共に描かれている(下の写真)
。そこに示されて
いる共同体の礼拝と生活の中心としての教会という理解こそが、会堂建設に取り組む姿か
ら伝わってきたものの背景にあるのだろうと思わされた。
フィリピン聖公会は「ビジョン 2018」のもとで「行動的で、
生き生きとして、
愛に溢れた、
mission-oriented parishes
告白する、宣教共同体」への成長を課題としている。
Asset Based Congregational Development
その基礎になっている考え方が、
「資産に基づく教会成長(ABCD)」である。そこで言わ
れる「資産」は経済的価値だけが意味されているのではない。
「ああ神よ、わたしたちは
教会が働きを為すために必要なものを全て与えられています」という確信が前提になって
いて、信徒の持つ賜物、信徒が割ける時間、信徒の努力といった部分を自己評価すること、
それを教会の中でだけでなく分かち合うことに、注意が向けられている。スユでの新会堂
建設は、このアプローチのよい例であった。
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5.有機循環農法
Organic Farming
今回の訪問では、有機循環農法事業を見学することができた。
この事業は、栃木県西那須野
に あ る ア ジ ア 学 院(ARI) に
派遣された 2 人が帰ってきて
2 年 半 前 に 始 ま り、ERD と
ABM がパートナーになって、
北フィリピン教区、北ルソン
教区、北中央教区の 3 教区で
取り組まれている。北フィリ
ピン教区では、タジャン、バ
オコ(森の中の聖マリヤ教会
とスユの聖ベルナール教会)、
ベサオ、サガダでプログラム
タジャンで豚の飼料を実際に作る作業をしているところ。
が行われている。
タジャンでは養豚を中心にした教育農場を作っていて、フィリピン版のアジア学院に発展
させることが目指されていて、既にパプアニューギニアとミャンマーの聖公会から研修生
を受け入れたとのこと。教育農場で育てた家畜や有機の農業資材を売ったり、研修の委託
を受けたりして入る収入で、既に援助なしでやって行く体制に移行しつつある。
この事業の狙いは、有機循環農法の導入によってコストを削減して経済状態を改善するこ
と、農薬、化学肥料の害をなくして健康状態を改善することである。マウンテン州やカリ
ンガ州で営まれている農業は、多くが自給のための農業であって、育てた作物・家畜を市
場に売るための農業ではない。しかし、本来は産業化した農業で多収化、大規模化のため
に使われるものである農薬、肥料、飼料が入ってきていて、既にその使用に依存するよう
になっている。従来はお金がなくても成り立っていたのに、農業資材を買うためにお金が
必要に形になってしまって、
そのために生活が困窮するということが起きているのである。
そこで、お金を出して買わなくても、サトウキビの滓、バナナの木の幹等々、身のまわり
にあって、廃棄してしまっているものを材料にしてもっと
優れた肥料や飼料を作ることができることを教え、同時に、
自然環境や体へのダメージを防ごうというわけである。
アジア学院によって播かれた種がこのように芽を出して
育っているのを目の当たりにして感激するのと同時に、
ポール・ラッシュが清里で教育・実験農場でやりたかった
ことはこのような働きではなかったかと思わされたこと
森の中の聖マリヤ教会の有機農法の教育菜園作り
だった。
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6.福音伝道
コルディレラ・セントラル(ルソン島北部山岳地域)におけるキリスト教宣教の歴史はま
だ 100 年程で、スペインに植民地支配を受けた低地地方と違い、伝統的な文化、価値観
が色濃く残っている。イゴロットにとってフィリピン語(タガログ語)は小学校に入って
から習う外国語であって、むしろ英語の方がなじまれているし(※低地地方の人々がイゴ
ロットの話すタガログ語を馬鹿にするからということもあると思われる)
、年長者を敬う
イゴロットの感覚からすれば低地地方の人間関係はあまりに頽廃したものである。
そのような土地柄、寺院等がないために旅行者が接する機会を持つことは
難しいが、伝統的な宗教も失われていない。ただし、イゴロットの宗教は
本来は共同体の統治と農業の営みと一体になったものだが、その一体性は
必ずしも残っていないようであった。例えば、サガダでは、近代的な政治・
行政・司法の組織がある一方で、共同体の長老たちによる伝統的な統治の
形もあって、後者を無視しては前者は成り立たないということであり、ま
た季節毎の農業の営みと関わる伝統的な儀式も行われているということだ
が、共同体の少なからぬメンバーはクリスチャンになっている。つまり、
伝統的宗教は、その共同体的な部分は非宗教化されたりキリスト教化され
たりしていて、主に私的に行われる儀式(動物の犠牲を捧げる式)として、
また世界観として残っているようであった。
イゴロットは言語学的・文化的に異なる 8 つの先住民族の総称で、宗教も
様々なのだが、我々が訪ねたマウンテン州やベンゲット州の部族の場合、
伝統的な宗教における神的あるいは霊的存在は、三層に分けられる。
ボントック族の豊穣神アト
(a) 至高の創造神(Dios Adi kaila/Lumawig:目に見えない、天にいる神)
(b) 創造神の子にして、歴史に介入し、至高神の計画を実施する神々(Kabunyan:共同
体の主たる祭儀 canao を捧げる相手、部族によって異なる神を奉じている)
(c) 精霊や祖霊(生物だけでなく、あらゆるものが精霊として見られる)
個々人の生活に影響を与えているのが (c) の次元の霊的存在で、病いをかかったり、何か
災いが起こると、それを引き起こした霊を祓うために、あるいは調和を回復するために、
動物の犠牲を捧げる儀式が行われる。人が死ぬと、その霊が災いを引き起こさないように
ということで、その霊を慰めるために動物の犠牲を捧げる儀式が行われる。
アニミズムは、自然の内在的な価値を大切にして自然と調和して生きることを教える宗教
という側面で見られがちだが、諸々の霊への囚われ、思い込みや恐れの支配をゆるす側面
もある。さらに、祭儀の中心となる動物の犠牲には相当数の鶏や豚を捧げることが求めら
れるために、それが貧困に縛り付ける悪循環を引き起こしがちであるということもある。
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カリンガ州ブトゥブトゥ村の聖ルカ伝道所で
コルディレラにおける福音伝道で動機とされているのは、この 2 番目、3 番目に関わる問
題意識である。イエスさまのガリラヤでの伝道を想起させられないだろうか。
なお、1 番目に関わっては、しばしばキリスト教がそれとは対極的な世界観に立っている
かのように論じられるが、必ずしもそのような見方は正しくないだろう。上記のようなイ
ゴロットの三層構造の世界観は驚くほどに、新約時代のユダヤの人々の世界観に似たもの
である(神 - 天使 - 諸霊)
。ちなみに、
米国聖公会から参加しているナバホ族のメンバー、
コー
ネリア執事やカトリーナ執事の話を聞き、様子を見ていると、事物のバランスへの気遣い
と、それが破れたときの回復のための祈りが、クリスチャンである彼女たちの信仰生活の
大切な部分を為している。礼拝にもかなり大胆に伝統的な儀式や祈りが取り入れられてい
るようである。北フィリピン教区のアラワス主教はナ
バホでの聖職按手式に昨年参列して、その点に感銘を
受け、北フィリピン教区でももっと伝統を取り入れた
いと話されていた。
カリンガ州ルコン村の聖ヤコブ伝道所を訪ねた時、今
年 5 月に洗礼を受けた村の長老をアラワス主教に紹介
された。まだ壮健な様子だったが、死を意識するよう
になって自分が犯してきた様々な罪の赦しを求めて洗
礼を受けたということだった。教会に来たのは「教会
に真理があるからだ」とも、「教会は村から全ての悪霊
を追い出すことができるからだ」とも話された。いろ
んな教会を知る機会があった中で聖公会を選んだのは、
マリヤ信仰がないから、また食物に関する制限をしな
いから、ということだった。
今年 5 月に受洗したルコン村の長老。部族の中
で特別に認められた人にだけ贈られる称号を持っ
ていて、胸にそれが彫られている。子どもや孫も
一緒に家族揃って洗礼を受けた。
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7.抱える課題
フィリピン聖公会が直面している困難については、今回の訪問中、当事者から話を聞く機
会はなかったが、フィリピン教会協議会で働いている聖公会の司祭や ERD(米国聖公会
の援助機関)の米国人スタッフから少し話を聞くことができた。
一つ目は、聖職者の俸給が低いことで、主日の礼拝出席者が 300 人規模の大きな教会の
司祭で月給が 4 万 8 千円程 (2 万ペソ )、平均は 4 万円程(1 万 5 千~ 1 万 7 千ペソ)だ
4
5
という。一般事務職の公務員と同程度だが、これは財政状態のよい北フィリピン教区の
場合であって、他教区はもっと低いようである。そのため、副業に時間を取られる牧師が
少なくないという。また、米国やオーストラリアに移住した司祭は十数人に上るという。
なお、北フィリピン教区は、主教が人の意見に耳を傾ける人で、適材適所に人を配してい
て、最もオープンな教区だ、ということだが、他の教区は必ずしもリーダーシップがよく
なくて、給与のことだけでなく、それが原因で不満が蓄積されているということもあるよ
うである。
二つ目は、宣教事業、とくに E-CARE とその神学的理解の間に、現場で乖離があること
である。宣教の神学的理解が深められておらず、なぜ教会がそれを行うのかということに
ついて、現場の牧師が必ずしも理解と確信を持っていないということだった。
三つ目が、
分派問題が提起している自分たちの中の問題が放置されているということ。
フィ
6
リピン聖公会からの分派は 2 つある。
4 フィリピン聖公会は、米国聖公会に準じた制度で、財政的に自立している教会は、自分たちで牧師の給与を
定め、自分たちが選んだ牧師を招聘できる。自立していない教会の牧師は主教が選んで派遣し、給与は教区が援
助する。半分自立している教会は、主教が提示する幾人かの候補者の中から選ぶことができる。そのような制度
のため、牧師の給与は一律でない。
5 マウンテン州の最低賃金は 1 日約 250 ペソ(600 円)
、
マニラ首都圏の最低賃金は 1 日約 320 ペソ(770 円)
で、私がボントックで購入したフィリピンで出版されたペーパーバックの専門書が 1500 ペソ、マニラでの数字
だが月の電気代が 3000 ペソ、水道代が 300 ペソ、ガス代が 600 ペソ程、マニラの高級ショッピングモールの
レストランでステーキ一皿が 5000 ~ 8000 ペソ ( これは我々が実際に目にした例なので紹介したが、マニラの
レストランでステーキの相場は 500-1500 ペソ )。なお、フィリピンは物価の地域差が大きく、また貧富の格差
が大きい。上位 10%の富裕層と下位 10%の貧困層の所得格差は 10 倍である。日本と比べると、物価は日本の
4 分の 1 程度だが、社会保障を加味しない計算で収入は 24 分の 1 程度で、非常に厳しい生活実態がある。
6 - Anglican Church in the Philippines (Traditional) Inc.:1968 年に社会的福音運動と典礼改革運動に反対
して生まれた American Episcopal Church の流れを汲む Anglican Province of America に連なっている。
- Anglican Orthodox Church in the Philippines:1963 年にローチャーチの伝統の固守を主張して米国ノース
カロライナ州で米国聖公会から分派した流れに連なっている。
- 23 -
カリンガ州ブトゥブトゥ村で
キャンプ自体の報告は、参加者の報告書をどうぞお読みください。ここでは帰
国直後に米国ナバホランドからの参加者が書いた一文だけご紹介します。
「帰ってきてから数日間のんびり過ごしました。 すべてが以前とは違って見えます。
当たり前のことなど何もないということが本当によく分かりました。 身近にいる人を
大切に思うようになりました。 それぞれが生きている状況は違うけれど、 みんなの
こと一人ひとりを愛するようになりました。 だって、 結局のところ、 わたしたちは皆
一つなのですから。 わたしたちは皆一つの家族なのですから。 皆さん一人ひとり
がわたしにとって大切な存在です。 この思いをずっと大事にしていきたいと思いま
す。 過ぎゆく瞬間、 瞬間が貴重なもの、 時間は川の流れのようで、 それに触れて
も、 二度と同じ水に触れることはできないもの。 皆さん一人ひとりがその一部分と
なったこのわたしの人生を、 わたしは大切に生きていきたいと思います。 離れ離れ
になってとても寂しいけれど、 みんなはわたしの心の中にいます。」
(デイナ・ヤズィ)