西洋中世学会第5回大会シンポジウム 「中世のなかの「ローマ」」 報告要旨

西洋中世学会第5回大会シンポジウム
「中世のなかの「ローマ」」
報告要旨
趣旨説明
イントロダクション:中世における「ローマ」の多様性
コーディネーター:金沢 百枝(東海大学)
「古代復興」の機運は、中世に幾度も高まったことはよく知られている。「ノーサンブリア・
ルネサンス」「カロリング・ルネサンス」「12 世紀ルネサンス」と、「ルネサンス」の語が冠さ
れる時代ばかりでなく、「ロマネスク」もまた「ローマ」への憧憬のなかに生まれた建築/美術
様式である。むしろ中世では、そうした傾向が間断なく続いていたとも言えるだろう。
イタリア・ルネサンスがキリスト教以前の古代を積極的に評価したのに対し、中世ではキリス
ト教的でない「ローマ」に対して曖昧な立場をとった。中世ヨーロッパが模範としたのは、キリ
スト教の「ローマ」であった。ここに中世のなかの「ローマ」の複雑さがある。各地に、コンス
タンティヌス帝の建てた旧サン・ピエトロ聖堂を模した聖堂が建てられる一方、ビザンツ風も取
り入れられた。1026 年、アレッツォ司教テオダルドゥスは大聖堂の改築に際し、「ローマらしさ
〈Romanitas〉」を求めてラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂(6世紀築)へ石工を派遣した。
また、1063 年着工のヴェネツィアのサン・マルコ聖堂は、6世紀にユスティニアヌス帝がコンス
タンティノープルに建てた使徒聖堂を模したという。どちらも則としたのは、「古代ローマ」で
も、「都市ローマ」でも、同時代のコンスタンティノープルでもなかった。キリスト教の皇帝が
統べる「ローマ」は、時間的にも空間的にも揺れ動いたのである。
中世の人々は、なにをもって理想の「ローマ」としたのか。そしてそれはどのように変化して
いったのか。シンポジウムでは、文学、音楽、ローマ法、建築の分野からご登壇いただき、中世
の「ローマ」像について議論したい。
第1報告
中世ドイツ文学に見るローマ観―『ディエトリーヒの逃亡』
『皇帝年代
記』および『モーリッツ・フォン・クラウーン』を題材に――
山本
潤(首都大学東京)
ローマと中世ドイツ語圏を結び、中世ドイツにおける歴史観をうかがわせてくれるのが、東ゴ
ートのテオドリヒ大王にその原型を見る英雄、ディエトリーヒ・フォン・ベルンを巡る言説であ
る。ディエトリーヒはラテン語による歴史叙述の対象となる一方で、口承の英雄詩の主人公とし
て広く語り継がれる存在であった。そうした彼の歴史上の立ち位置を歴史叙述の視点から定める
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ことを試みているのが、12 世紀半ばに成立した『皇帝年代記』である。ローマ帝国建国から第二
回十字軍までを語るこの作品は、ディエトリーヒに関する歴史叙述と英雄詩の間の矛盾の解消を
図るとともに、彼が神罰を受けて悪魔に火山へと投げ込まれ、最後の審判の日まで身を焼かれて
いると記す。一方口承素材に基づいて 13 世紀半ばに成立した歴史的ディエトリーヒ叙事詩に属す
る一篇、
『ディエトリーヒの逃亡』では、ディエトリーヒは「不実」なローマ皇帝に対抗する「誠
実」な君主として描かれる。作品冒頭に置かれた通称「系譜的前史」は、ディエトリーヒに至る
までの先祖の物語をローマ帝国の歴史として下降史観的に語り、帝国の三分割継承を世の中に
「悪」が広まる契機として位置づける。ディエトリーヒの苦境は当世批判として機能し、君主や
騎士はいかにあるべきかという問題がそこでは主題化される。また、13 世紀前半に成立したと推
測されている『モーリッツ・フォン・クラウーン』のプロローグには、ギリシアからローマ、そ
してフランスへの騎士道の「流浪」が語られており、そこにはドイツ中世における騎士道および
帝国遷移への理解の一端が明らかにされている。本発表は、
『皇帝年代記』と『ディエトリーヒの
逃亡』におけるディエトリーヒ・フォン・ベルンとローマ帝国との関連づけを比較し、
『ディエト
リーヒの逃亡』における帝国三分割の意味、そして『モーリッツ・フォン・クラウーン』に見ら
れる騎士道と帝国遷移を合わせて論じるものである。
第2報告
音楽家概念の継承と変質
山本 成生(学習院大学(非常勤)
)
西洋中世を「音楽」を通じて考える際、本シンポジウムのテーマは悩ましい問題を惹起する。
周知のように、音律の理論を中心として音楽思想に多大な貢献をなした古代ギリシアにくらべて、
我々が古代ローマの音楽について知ることは多くはない。すなわち、その音楽理論はギリシアの
遺産に依存しており、行軍と宗教儀礼において音楽は少なからざる役割を果たしたものの、その
詳細を得ることは――一部の楽器学 organology 的考察を除き――困難である。したがって、通
常の音楽史において、古代ローマに関する記述は極めて希少であり、中世におけるその影響につ
いては皆無に等しい。
しかしながら、こうした音楽史の研究状況が歴史的実態を反映していないことは、容易に想像
できよう。近年の「中世におけるローマ」に関する諸研究は、中世の様々な分野で古代ローマの
持続ないしは意図的な借用が存在していたことを示している。またクリストファー・ペイジの最
近の研究は、初期中世における音楽の担い手の多くが、ローマ貴族の出身者であることを示して
おり、彼らは「スコラ・カントルム」や「グレゴリウス聖歌の誕生」といったこの時期の著名な
事象にも大きな影響力をもっていたことを示している。よって、関連する史料の残存状況や「音
楽」を扱う際の固有の問題などから、検討できる内容は限られてはいるが、音楽におけるローマ
の遺産を論じる可能性と意義は十分にあると思われる。
以上を踏まえ、この報告では中世音楽における「ローマの遺産」を音楽思想、とりわけ音楽家
の諸身分とその観念を中心に考えてみたい。その際、初期中世については前述のペイジの研究を
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参照しつつも、彼が扱っていない盛期中世からルネサンスの時期の動向も瞥見しつつ、中世を通
じて存続したローマ的要素の変容過程を示したいと思う。
第3報告 「ローマ法にしたがって」――中世初期ヨーロッパにおけるローマ法観念
と法実践――
加納
修(名古屋大学)
通説的な理解にしたがえば、中世初期においてローマ法はローマ人の法として、またとりわけ
教会の法として存続するとともに、世俗の王権による立法を通じて個別的・部分的に継承された。
そしてフランク王国ではおよそ 8 世紀頃までローマ法は「生きた法」として法実務で用いられて
いたが、それ以後は主として聖職者によって権威ある法として利用されるようになったとされる。
ところで中世初期社会におけるローマ法の意義を考える際に、法の複数性の問題を避けて通る
ことはできない。とりわけ支配者たるゲルマン人の法とローマ法との関係である。かつては両者
を厳密に区別し、その対照的な性格を強調する態度が一般的であったが、
「卑俗法」概念の定着に
より、ゲルマン法とローマ法との関係はより不明瞭なものになっている。一部の歴史家は、ゲル
マン人の部族法典をも「ローマ卑俗法」の枠に収めようとしているほどである。しかしながら、
フランク時代の人々がある法をローマ法、別の法を「サリカ法」あるいは「リプアリア法」とし
て区別していたとき、少なくとも当時の人々の法認識を考えるにあたっては、この区別を捨て去
ることはできない。
報告においては、史料に言及される「ローマ法」、とりわけ「ローマ法にしたがって」という言
及を手がかりにして、当時何がローマ法と考えられていたかを探ることにしたい。この考察は、
当時の人々がローマ法に対して認めていた価値をはかるにあたって必要であり、なぜローマ法が
存続したかを理解するのにも役立とう。また、いかなる行為に「ローマ法」が引き合いに出され
るかは、当時の法的状況と切り離せないので、法認識にとどまらず、法実践や法秩序そのものに
も若干の光を当ててくれるかもしれない。ここでは部族法典、勅令、教会会議録、書式と証書を
調査に含めるが、
「ローマ法」言及の中でも、法律行為に結びついた用法にとくに注目することで、
法実践との関連を把握するよう努めたい。
第4報告
イベリア半島初期中世建築における(リ)ソースとしての古代ローマ:
コルドバ大モスクからサン・ペラ・ダ・ロダスまで
伊藤 喜彦(東京理科大学(非常勤)
)
西欧中世建築における「ローマ」についての学問的関心は、本格的な建築史研究が始まった 19
世紀から 20 世紀の半ばまでは、中世建築の起源<ソース>としてであった。ところが、20 世紀
半ば以降からは、こうした(不可能な)論証は次第に下火となり、ソースというより資源<リソ
ース>のあり方が、しばしば俎上に載せられるようになる。その典型とも言えるのが、
「スポリア」
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研究の隆盛である。一般に建築史でスポリアと言う場合、古代建築などから再利用された、円柱
をはじめとする建材や建築装飾を指す。スポリア研究の中心はイタリアの後期古代建築であった
が、近年はそれ以外の遺構に関しても着実に関心は拡がっており、また当初のかなりモノ重視で
考古学的なニュアンスから、いまや過去あるいは他者の再利用・取り込みをあらわすキーワード
として、様々な学問分野でその拡大解釈が行われるようになった。本発表ではこうした流れを踏
まえ、まず西欧(前期)中世建築における「ローマ」についての学問的関心がどのように推移し
てきたかを簡単にまとめる。
帝都ローマの大バシリカから始まったこのような研究の流れからは立ち後れたが、イベリア半
島初期中世建築を「スポリア」から捉え直す研究も、ようやく近年本格化している。たとえば 120
本の円柱にすべて再利用材を用いたコルドバ大モスク。またサン・ミゲル・デ・エスカラーダや
サン・セブリアン・デ・マソーテといった 10 世紀レオン王国のキリスト教建築の円柱に関しても、
これまでの個々の柱頭様式研究を超えた再検討が始まっている。あるいは、その独特の円柱使用
法にある種のクラシシズムが指摘されてきた、プレロマネスクからロマネスクへの過渡期の建築
とされるカタルーニャのサン・ペラ・ダ・ロダス。本発表では、これら7世紀頃から 11 世紀頃ま
でのイベリア半島におけるイスラーム・キリスト教両勢力下の建築において、円柱の使用法を中
心に、古代ローマの技術・イメージ・モチーフがどのように立ち現れていたのかを考察するもの
である。
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