イップスを経験した野球選手の心理的成長プロセス キーワード:ナラティブ・アプローチ,危機,転機,SCAT 行動システム専攻 松田 晃二郎 背景と目的 たネガティブな感情の喚起や自信の喪失等が確認され 競技スポーツの高度化にともない,競技力向上を主 た.これらの研究は,イップス経験者の心理的側面を たる目的とした心理支援だけではなく,選手のスポー 理解するのに有益な知見となっているが,イップスを ツ参加・継続に伴った心理的な問題についても関心が 経験したスポーツ選手のネガティブな心理的側面のみ 向けられるようになっている(Craft et al.,1998;上向, が検討されている. 2001) .Papineau(2014,p.304)は「スポーツにおけ 一方,イップス,参加動機の危機,怪我やスランプ る心理的な側面は複数の異なる側面を伴い, スポーツ のようなスポーツにおける継続危機の経験は,選手を における業績, 成績を阻害する可能性を秘めている」 ドロップアウトやバーンアウトに追い込む危険性を秘 と言及している.スポーツ選手のスポーツ参加・継続 めていると考えられている (青木, 1989;上野ら, 2014) . に伴った心理的な問題として, 部活動での不適応感, 近年, このようなスポーツ選手としての危機とスポー 競技意欲の低下や対人葛藤におけるストレス等 ツ選手の内面的成長,例えば適応的な動機づけへの変 (Cassmen et al., 1971;中込,2004)が挙げられており, 化, 自己受容,他者受容との関係性をみた研究が注目 その1つにイップスがある. イップスは「スポーツ場 されている(杉浦, 2001; 竹之内ほか, 2011) . 面において, 身体的な原因がないにもかかわらず,習 Stambulova(2000)は,スポーツにおける継続の危 得していたはずのプレーが思い通りに出来ない状態が 機はスポーツ選手としての成長における転機となり, 続く運動障害」と定義されている(佐藤, 2013,p.1203) . 危機によってスポーツ選手の心理的成長が期待できる さらに,イップスについて鈴木(2011,p. 2)は「イッ と示唆している.また,鈴木(2011,p.1)は「イッ プスの経験はスポーツ選手としての危機に向かい合う プスはスポーツ選手に大きな転機をもたらす経験であ ことになり, 時にはスポーツ選手としての存在意義が り, 選手にとってこころから一生消えない深い傷にも, 崩壊してしまうこともある」と報告している.これら 自身の成長のステップにもなる可能性がある」として のことから,イップスの経験はスポーツ選手としての いる.さらに,鈴木(2011)は,イップスは周囲のサ 危機であると言える. ポートによってはスポーツ選手としての成長の糧とな イップスに関する先行研究は,その大部分がイップ る可能性を言及している.これらのことから,スポー スの発症原因(Markus,2013;Smith et al.,2003;Stiner ツ選手における危機の経験は,心理的成長の転機とし et al.,2006)と効果的な対処法(Philippen et al.,2012; て捉えることができる可能性が示唆される. Stephen et al.,2012)の検討を主たる目的としたもので 以上のことから,本研究では,我が国において最も ある.これらは長きにわたり検討されてきたが,その 人気のあるスポーツの 1 つであることと,国内外にお 中ではイップスの原因または対処法と心理学的側面と いてイップスの事例的な報告が多く挙げられている の関与が明らかにされている (永井, 2015) . そのため, (賀川,2013;Papineau,2014)という理由から野球 イップスを経験した選手の心理的な側面の深い理解が のイップスを対象にし,野球選手のイップス発症に対 必要とされるが,これまでの先行研究においては,イ する対処過程における心理的成長過程について検討す ップスを経験したスポーツ選手の心理的側面の変容に ることを目的とする. 着目した研究はほとんどなく, Bawden et al(2001) と Philippen et al.(2012)の2つの先行研究のみである. 方法 彼らの研究では,質的アプローチその調査・分析の手 1.対象者 法とし,イップスを経験した選手の思考や感情といっ これまでに投球・送球動作においてイップス発症の た心理的側面の変容に関する検討が行われた.その結 経験があり,大学の硬式野球部に所属する男性 2 名お 果,イップスを発症した選手は,イップスの身体的な よび同部活動を数ヶ月前に引退した男性 3 名を対象と 症状の現れに伴った,恐れ,怒り,焦りや不安といっ した.また,5 名の調査対象者の選定は,量的研究に おけるランダムサンプリングと対照的に,本研究のリ らびにスポーツ心理学を専攻する 1 名の大学院生の間 サーチクエスションに適合した調査対象者を合目的に でトライアンギュレーションを行い,SCAT の各段階 選定した.その選定における具体的な基準としては, において,著者の分析を基にカテゴリーの内容につい 次の 5 つを定めた. てお互いの解釈が一致するまで議論を重ねた.なお, ① イップスあるいはそれに類似した症状の経験が スポーツ心理学を専攻する 1 名の大学院生は以前,K あると本人が自覚していること 大学の質的研究会に長期にわたり参加して方法論を学 ② イップスを克服したあるいはイップスの症状は んでいることに加え,自身も質的研究を実際に行なっ 収束したという自認があること た経験のある者である. ③ 過去にイップスと思われる症状が最低 1 ヶ月以 また,リアリティの確保として,調査対象者となっ 上継続した経験(内田,2008)のあること た人々の受容・納得を得るために分析終了後あるいは ④ 症状が現れる前は,確実にイップスの症状が現 その分析の過程で, 改めて調査対象者に 30 分程度のイ れている動作や行動ができていたこと(Smith et ンタビューを実施した. その際に, 研究結果を開示し, al., 2000) それぞれの調査対象者によって結果が,受容または納 ⑤ 精神的な疾病で病院への通院,あるいは薬を服 得されるかを探った. 用していない者であること 倫理的配慮 データの収集・分析方法 本研究は, 「九州大学人間環境学研究院健康・スポー 本研究のデータ収集方法として,フェイスシートや ツ科学講座倫理委員会」の承認(201503)を得た上で イップスに関する質問を記述してもらう簡 単 な 質 問 実施した研究である. 紙調査と,インタビュー調査を実施した.質問紙 調査においては,ナラティブ・アプローチを用いた. 結果と考察 ナラティブ・アプローチとは,過去から未来における まず各調査協力者のイップスあるいはスポーツ選手 時間軸を重視した手法,または特定の経験に対する意 の心理的成長に関わると思われるような特徴的な語り 味づけ(meaning)を探ることができる手法であるとさ を抜きだした.その語りを,SCAT(大谷,2008a)を れている(杉浦, 2004;渡邊,2006) . 参考に,意味内容を捉えつつコーディングを行った. 分析方法としては,SCAT(大谷,2008,2011)に そして,各コードのなかで見られる共通点,類似点を 基づいて行われた.SCAT は, 「マトリクスの中にセグ 基に,それらを集約してカテゴリー分けし,それぞれ メント化したデータを記述し,そのそれぞれに,<1 のカテゴリーに命名を行なった.その結果, 「イップス >データの着手すべき語句, <2>それを言いかえるた の体験」, 「焦り」,「現実逃避」,「不安」,「恐 めのデータ外の語句, <3>それを説明するための語句 れ」,「自己の存在意義の喪失」,「やる気の喪失」, <4>そこから浮き上がるテーマ・構成概念の順にコー 「否定的な考え方」 , 「否定的な対処行動」 , 「強制的受 ドを考えて付していく 4 ステップコーディングと, <4 容」 「心理的苦痛の緩和」 , 「ポジションのコンバート」 , >のテーマ・構成概念を紡いでストーリーラインを記 「サポート希求」 , 「適応的な認知の対処」 , 「適応的な 述し,そこから理論を記述する手続きとからなる分析 対処行動」 , 「自己のイップスの理解」 , 「内省」 , 「自己 手法である」 (大谷,2011,p.155)とされている. 開示」 「 ,目的の明確化」 「 ,チームの重要性への気づき」 , 「イップスの発症者への配慮」 「 ,指導者としての思い」 , 科学性の担保 「他者への配慮」 , 「競技特性に対する気づき」 , 「競技 本研究では,科学性の担保を目的に「研究者のトラ に対する喜び」 , 「イップスの受容」 , 「他者への感謝」 , イアンギュレーション」 (フリック,2011;髙木,2011) 「対応力の獲得」 , 「自己受容」 , 「将来の継続意欲」の を行い,他の研究者による受容や納得を得た.トライ 30 のカテゴリーが抽出された.そして,これらのカテ アンギュレーションとは「質的研究で分析の妥当性を ゴリー間の関連を検討した結果, 「イップス体験」 , 「否 得るため,異なる種類の手続きで得られたデータをつ 定的感情の顕在化」 , 「否定的感情への対処」 , 「肯定的 き合わせて分析の精度を高めること」(岩壁,2010, な対処」 , 「心理的成長」といった 5 つのカテゴリー・ p.193)である.また,本研究で用いた研究者のトライ グループを生成した(Fig.1) .以下では,それらの生 アンギュレーションの具体的な内容としては,著者な 成されたカテゴリー・グループ及びカテゴリーの内容 を説明する. 理解」 , 「内省」 , 「自己開示」といった 6 つのカテゴリ ーをまとめることで生成され,選手の心理的成長に直 1.イップスの体験 接的につながる,非常に重要なカテゴリーのグループ カテゴリー段階にある「イップスの体験」をそのま である. まカテゴリー・グループとして位置づけた. この中の主なカテゴリーである「自己開示」は,自 ここでは,端的にイップスを発症した際の事象を語 分自身に関連する情報を特定の他者に伝達することで っているのみであり,その場面での各調査対象者の内 あるが(安藤,1986) ,松下(2005)は「ネガティブな 面的な側面を読み取ることはできていない.しかしな 経験を他者に自己開示することによって,抑うつ症状 がら,すべての調査対象者はこの時点を契機に様々な や身体症状が軽くなる(Cohen&Wills,1985;Pennebaker 情動を喚起していることが確認された. &Beall,1986),開示した相手に受け止められること で自己価値観が高まる(Sarason,Sarason,&Pierce, 2.否定的な感情の顕在化 1990) 」と言及している.すなわち,自己開示を行うこ 「否定的な感情の顕在化」というカテゴリー・グル とで「否定的感情の顕在化」の「自己の存在意義の喪 ープは,「焦り」,「現実逃避」,「不安」,「恐れ」, 失」を回復できる可能性が示唆される.またその他の 「自己の存在意義の喪失」,「やる気の喪失」の 6 つ 主要なカテゴリーとして「内省」がある. 「内省」は自 のカテゴリーをまとめることで導きだされた. 己の内面や過去の経験を振り返ることであるが,豊田 ここでは,イップスを経験した野球選手はイップス (1999)は「困難を経験している最中に内省を深めな の発症直後において現実を受け止めることができずに, いものはいない」 と言及している. また, 小井土 (2011) 心理的苦痛を感じていることが明らかになった.この はこの内省を「内的作業」と称した上で,内的作業は 結果は,先行研究(Bawden et al.,2001;Philippen et al., 「自己受容」や「気づき」に至るための必要な要因で 2012)における,イップスの発症直後のネガティブな あるとしている. 情動の喚起が見られたという報告を裏付ける内容であ った.また, 「やる気の喪失」というカテゴリーは,杉 5.心理的成長 浦の「参加動機の危機」 (1996,2001)にあてはまるも 最後に「心理的成長」においては「目的の明確化」 , のであると示唆される.これらのことから,イップス 「チームの重要性への気づき」 , 「イップスの発症者へ の経験は野球選手にとっての危機であることが示唆さ の配慮」 , 「指導者としての思い」 , 「他者への配慮」 , 「競 れた. 技特性に対する気づき」 , 「競技に対する喜び」 , 「イッ プスの受容」 , 「他者への感謝」 , 「対応力の獲得」 , 「自 3.否定的感情への対処 己受容」 , 「将来の継続意欲」といった 12 のカテゴリー 「否定的感情への対処」というカテゴリー・グルー をまとめることで導き出した. プは, 「否定的な考え方」 , 「否定的な対処行動」 , 「強制 カテゴリーの詳細として,例えば「対応力の獲得」 的受容」 「心理的苦痛の緩和」 , 「ポジションのコンバー は,イップスを発症した野球選手はイップスの対処過 ト」といった 5 つのカテゴリーから生成された. 程において心理的苦痛に直面し,その苦痛に正面から ここでは,イップスを発症した選手は,避けること 向き合う.そしてその際に,試行錯誤を繰り返し,症 のできないあるいは受け入れざるをえない現状の中で, 状の収束へと至ったという一連のプロセスを通して, 本来の自身のプレースタイルやポジションを変えたり, スポーツの中で起こりうる問題に対する対応力がつい 精神的苦痛の緩和をはかったりしていることが明らか たというカテゴリーである.渋倉(2010)は運動やス になった.また一方で,彼らは直面している問題と向 ポーツ活動で経験するスランプや,ケガ,人間関係の き合わないといけないことに気がつき,ネガティブな 悩みなどの辛く苦しい経験を通してレジリエンス 情動の喚起として表面化していたものを,自己の内面 (resilience)が高められることを報告している. へと転移させていくといった傾向が示唆された. また,杉浦(1996)は自分がなぜ,何のためにスポ ーツを行っているのか,その目的を明確にすることで 4.肯定的な対処 ある「目的の明確化」と,スポーツ選手としての自分 「肯定的な対処」は, 「サポート希求」 , 「適応的な認 や,現在の自分の能力,成績などを肯定的に受け入れ 知の対処」 , 「適応的な対処行動」 , 「自己のイップスの ることである「自己受容」の2つはスポーツ選手の心 理的成長の中でも非常に重要であり他の心理的成長の 分が変わったという事実の報告ではなく,1 つの解釈 根本になると言及している.これら 2 つの心理的成長 である.その意味で「自己転換の語り」で語られる成 は,本研究のイップスを経験した野球選手の語りにお 長は主観的なものであり,客観的に見たら実は何も変 いても認められた. わっていないこともありうる.だが,たとえ自分が変 本研究は,野球選手の心理成長プロセスとして, 「イ わったということが主観的な,いわば「思い込み」で ップス体験」⇒「否定的感情の顕在化」⇒「否定的感 あったとしても,「自己転換の語り」のような語り方 情への対処」⇒「肯定的な対処」⇒「心理的成長」を で自分が成長したとはっきり認識できることは,人の 導きだした.「イップスを経験した野球選手の心理的 成長に大きな意味をもつ.」(杉浦,2004c,p,1721) 成長プロセス」を示した図(Fig.2)からもわかるよ と言及している.このことから,イップスを経験した うに,野球選手が心理的成長に至るまでの過程には複 野球選手からイップスを転機とした 「自己転換の語り」 数の要因の関与が考えられる. が語られたということは,何らかの心理的成長につな 諸富(2009,pp.187—188)は,トランスパーソナル がっている,あるいは今後成長につながる可能性が示 心理学の考え方から「病気,人間関係のトラブル,リ 唆される. ストラによる失業や配置転換,子どもの不登校や勝て 以上のことから,イップスの経験が野球選手にとっ ない暴力….どんな辛いことにも意味がある.私たち て転機となり,心理的成長を促すことが明らかにされ に,何かの問いかけ,何かに“気づかせよう”何かを た.そして,心理的成長には,ネガティブな感情の喚 “学ばせよう”としているはずである.つまり,人生 起や自己の存在の意義の喪失を経験し,それらの精神 の辛い出来事にはいずれも,私たちにとって“試練” 的苦痛から逃れるための対処を経るプロセスが確かめ であり,そこから何かを“学び”“気づく”ことで, られた. 私たちの魂が成長していく重要な機会だと考えるので す.」と言及している.すなわち,人生における否定 的な経験は,人間が成長する契機になる可能性を示唆 している.この考えを本研究に置き換えると,イップ スというスポーツ選手として極めて辛い経験をし,そ の対処過程において, 自己の内省を深め何かを気づき, 学んだことで心理的成長がもたらされた可能性が考え られる. 一方で,杉浦(2004a,b)は「自分自身や自分の考 え方が大きく変わることになったきっかけ,もしくは 一連の出来事」(杉浦,2004,p,25)である転機の経 験は何かがうまくいかなくなったときに,変わりたい という動機付けが喚起され,それが転機のプロセスを 進めていくと述べている.すなわち,野球選手はイッ プスによってこれまで当たり前にできていた動作がで Fig.2 イップスを経験した野球選手の心理的成長プロセス きなくなり,1 度はネガティブな感情が喚起し,現実 から逃避する.しかし,その対処過 程を通して自己 主な引用文献 と向きあい,イップスを改善に努めるのと同時に,ス Papineau,D.(2015)Choking and the yips.Phenomenology ポーツ選手としての心理的な成長に対する動機付けが and the Cognitive Sciences,14:295-308. 喚起されたと考えることもできる.さらに,インタビ Stambulova N.B.(2000)Athlete’s crises: A developmental ューにおいて,イップスの経験を転機としてとらえ, perspective.International Journal of Sport Psychology, それを機に自己の内面が肯定的に変化したといった語 31:584-601. りが散見された.杉浦(2004c)は,人生の中で遭遇す 杉浦健(2004a)転機の経験を通したスポーツ選手の心 る負の出来事をきっかけに,自分自身がプラスに変わ 理的成長プロセスについてのナラティブ研究.スポー ったという語りがなされることを「自己転換の語り」 ツ心理学研究,31:23-34. と称している.そして,この自己転換の語りは,「自
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