ECONOMIC ANALYSIS OF JUSTICE 正義の経済分析(要旨) 福岡

ECONOMIC ANALYSIS OF JUSTICE
正義の経済分析(要旨)
福岡大学 須賀晃一
1.イントロダクション
この論文の目的は,経済学の見地から正義論を体系化するために,2つのタイプのモデ
ルを提案することである.1つは正義の実証的な側面を説明するためのものであり,社会
契約論の流れに沿って人々の合意による国家の設立を,ゲーム理論的に分析するモデルで
ある.正義の最も基本的な意味は契約・法の遵守,特にそれによって定められた他者の人
権および所有権の尊重である.正義のこの概念は,国家の設立で始まる.つまり,正義は,
国家という社会制度がメンバーの合意によって成立し,彼らの支援を得て始めて意味のあ
る原理となる.それ故,正義のこの実証的な側面を説明する正義の理論を獲得しなくては
ならない.これがホッブズ,ロックおよびルソーを代表とする社会契約論の主要な課題で
ある.社会契約論者は,一般に国家あるいは政府の正当性の根拠は,各人が自然権を持っ
ている自然状態(論者ごとに内容が異なる.ホッブズの場合,自分の思うままに何をして
もよい状態とされる)の下で,人々が合意に基づいて契約を結ぶことにあると考えている.
もう1つは,正義の規範的な側面を説明するためのもので,社会的選択論に属するモデ
ルである.それはセンのリベラル・パラドックスとロールズの正義論に依拠している.社
会的選択論の公理的アプローチは,各公理が人々に受容されるある規範的特性を反映し,
それらの相互連関が社会的選択ルールの存在可能性として分析されるので,それ自体が正
義の体系のモデルである.センはこの枠組みの中で,定義域が社会状態の集合上のすべて
の順序を含む程に広いとしたとき,個人の自由主義的権利要求とパレート原理とを同時に
満たす社会的選択ルールは存在するかという問題を提起し,それに否定的な解答を与えた.
これが後にリベラル・パラドックスと呼ばれることになる不可能性定理である.一方,ロ
ールズは社会契約論を一般化し高度に抽象化することで正義論の体系を提示した.彼の目
標は正義の規範的・実質的理論を構成することである.彼の主張の1つは,正義は単一の
原理あるいは概念ではなく,階層的な構造を持ったいくつかの原理からなる構想であり,
原初状態における人々の間の合意によって確立されなければならないということである.
センとロールズから学ぶべきことは,正義の構想を社会的選択の枠組みで捉え,その最も
重要な公理として自由主義的権利などの正義の個別原理を定義域の広範性・パレート原理
とならんで取り込んでいくという方向での研究の重要性である.
この論文の研究対象は正義の一般原理であって経済的正義ではない.しかし,本論文の
分析ツールは,最近の経済学の中で社会的選択論および非協力ゲーム理論を通じて発展し
てきたものである.正義に関する議論においてこれらの経済学的手法が有効であると示唆
することができれば,論文の目的は達成されたといえる.
この論文は3部構成で,各部は3つないし4つの章から成る.最初の章は各部の序であ
り,それに続く諸章に関連する概念,記号,これまでの結果等をまとめている.第Ⅰ部
「正義と国家」は正義の実証的側面を扱い,自然状態における全員一致の合意によって国
家の設立を説明するゲーム理論的モデルを提示する.第Ⅱ部「正義と個人の権利」,第Ⅲ
部「正義と拡張された同感」では,社会的選択論を用いて正義の規範的側面を考察する.
2.各章の要約
第Ⅰ部
第Ⅰ部「正義と国家」では正義の実証的側面を分析する.自然状態の概念を静学的およ
び動学的設定の下で検討し,次に私的所有権システムとしての国家の設立を説明するため
のモデルを扱う.続いて国家の別の側面,すなわち公共財の供給に照準を合わせ,国家形
態の変遷を考察する.
第2章では,ゲーム的状況にある社会でさまざまなタイプの自然状態がいかに発生する
かを記述するためのゲーム・モデルを提示する.ここでは,自然状態をゲーム的状況では
なくそこでの均衡と捉え,さまざまな自然状態を同一のゲーム的状況から導出する.本章
の社会のゲーム・モデルでは,1種類の私的財(穀物のような耐久的消費財)が存在し,
各個人は同量の初期保有量および同一の効用関数を持つとする.また,すべての個人は非
分割的で同質的な労働を1単位持ち,それを用いて3つの仕事,すなわち空巣(家を空け
て他者の初期保有を盗みに行く)・防御(家にいて初期保有を守る)・生産(家を空け私
的財を生産しに行く)のうちの1つを行うことができるとする.このゲームの均衡が自然
状態である.私的財の初期保有量と生産性の関係で,誰も生産活動に従事せず空巣と防御
者のみが存在するホッブズ的戦争状態と,すべての人が生産活動に従事するロック的平和
状態の2つが生じることを示す.初期保有に比べて生産性が高い場合にはロック的状態が,
低い場合にはホッブズ的状態が発生する.
次に,動学的設定の下でロック的自然状態の変化を考える.ロック的状態は静学的には
パレート最適であり,国家設立の動機を人々に与えることはない.だが,世代間で私的財
の一部が移転される動学モデルを考えると,ロック的平和状態はしばしばパレート非効率
なホッブズ的状態へと転換することが示される.したがって,ホッブズ的戦争状態を社会
契約の基礎に置くことが適当であると考えられる.
第3章では,私的所有権システムの生成を扱う.私的所有権システムは,社会の構成員
の財産を,構成員が負担する費用で維持するシステムである.それは,構成員間の交渉に
よってシステム維持(所有権保護)の費用とその便益とを決定するものだから,本質的に
政治システムである.ここでは,私的所有権システムとして,独裁制, 民主制,および両
者の中間的なシステムを考察する.私的所有権システムの構築は,多段階の制度的アレン
ジメント・ゲームとして定式化される.また,3つのシステムは誰が何を決めるかという
決定力の観点から区別されている.
この章の主要な結果は,以下のとおりである.第1に,もし所有権の保護コストが十分
低ければ,私的所有権システムはホッブズ的自然状態の下でどのアレンジメント・ゲーム
を用いても設立されうる.第2に,君主制はすべての個人が私的所有権システムに参加す
るよう強制することができるが,民主制,および中間的なシステムはそうではない.第3
に,純粋戦略による部分ゲーム完全均衡が存在するある特殊ケースでは,同じ期待ペイオ
フを各人に保証できるが,一般的には君主制の期待ペイオフが他より大きくなる.
第4章では,第2,3章のモデルで私的財の初期保有量が不均等であると仮定したとき,
何が生じるかを検討する.この最もシンプルな修正はいくつかの異なる含意を持つ.第1
に,ホッブズ的状態を少なくとも1人の空巣が存在しうる均衡と解釈し直せば,個人の初
期保有量に依存して,やはり自然状態の2類型が均衡で現れる.もしすべての個人の初期
保有量が生産力と人口規模によって決められる臨界値より小さければ,全員が確率1で生
産に従事するロック的平和状態が生じる.もし初期保有量がこの範囲外なら,空巣が正の
確率で起きるホッブズ的戦争状態が生じる.第2に,動学的設定を考えると各世代の消費
率がある臨界値より小さいとき,平和状態はいずれ戦争状態へと転換する.しかし,もし
消費率が臨界値より大きければ,社会は平和状態にとどまり,人々の初期保有量は共通の
水準に収束する.第3に,私的所有権システムとしての国家が設立されるための十分条件
は,人々の初期保有量がある臨界値より大きく,かつ人々の間で初期保有量の不平等が比
較的小さいことである.
第5章では,政治システムと経済発展の間にある相互関係の別の側面を捉えるゲーム理
論的モデルを提示する.世代の重複がない動学的公共財経済を考える.ここで公共財は私
的財生産を高める社会的共通資本としてモデル化される.この経済は自然状態においてた
だ乗り問題に直面しているので,何らかの制度的解決が必要となる.それが政治システム
(国家)である.本章の基礎的な仮定は,各世代が最初に全員一致の社会契約により政治
システムを選択し,次にそのシステムの下で国家を設立するという制度的アレンジメント
・ゲームを行うということである.もし国家が設立されれば,国民の税金によって公共財
の生産・供給が行われ,資本ストックの蓄積が進む.これが経済発展の原動力となる.次
の世代は新たな公共財資本ストックの下で,国家設立のゲームを行うことになる.この繰
り返しによって国家の形態が転換していく.ここでは,多段階ゲームとして定式化される
2種類の政治システム(集権化された君主制と分権的な民主制)を考察する.
本章の結果は以下のとおりである.第1に,政治システムにかかわりなく,公共財の資
本ストックがその生産性と人口規模によって決まるある臨界値より低いとき,そしてその
ときに限り,国家は設立される.第2に,公共財の資本ストックが十分にその臨界値に近
いとき,民主制が選ばれるが,もし資本ストックが低ければ君主制が選ばれる.第3に,
資本ストックは国家の設立を通して世代を重ねて拡大し,そして確率的に臨界値に収束す
る.第4に,中間期間での政治システムの転換の複雑なパターンを示すシミュレーション
結果を提示する.要するに,政治システムは,たとえ転換の中間パターンが複雑であると
しても,長期的には君主制から民主制へ進化する傾向がある.
第Ⅱ部
第Ⅱ部「正義と個人の権利」では,社会的選択論を用いて正義の規範的側面を考察する.
センとギバードのパレート的自由主義の不可能性定理(リベラル・パラドックス)の枠組
みを前提として,パラドックスの2つの解消法,および別のアプローチを提案する.
第6章では,センとギバードのパラドックスを説明し,正義論における権利と厚生の間
の対立が意味するところを明らかにする.西欧諸国の多くでは,自由主義と民主主義は国
民に承認されている2つの主要なイデオロギーである.我々は,それぞれの個人が彼自身
の評価あるいは選好に基づいて彼が決定を下すことができるプライバシーの最小限の領域
を持つことが当然だと考えるし,また,それぞれの市民が公共的な意思決定に参加する平
等の権利を持つことを当然だと考える.そのとき,公共的意思決定が両方のイデオロギー
から要請される条件を同時に満たすことは可能か?センは社会的選択の形式的モデルを用
いてこの問題を提起し,リベラル・パラドックスと呼ばれる否定的解答を与えた.この命
題はギバードにより一層洗練され,パラドックスの解消にかかわる多くの研究の先駆けと
なった.ギバードの権利要求の条件はさらにケリーによる修正を受ける.
第7章の目的は,リベラル・パラドックスに対する2つの解消法を提案することである.
これらはともに,人々の持つ選好の背後にある動機を問題としており,自由(尊重)主義
を支える人間の持つべき動機の類型が示されている.第1の解消法は,社会に少なくとも
1人の社会的に無関心な個人(私的特性のみで社会状態の選好が決まる個人)がいれば,
パレート原理とギバード=ケリー流の自由尊重主義的権利要求を同時に満足する社会的選
択ルールが存在することを保証する.対照的に,第2の解消法は,社会に少なくとも1人
のリベラルな個人(自己の権利を確固として主張する一方で,他者の権利には容喙しない
個人)がいれば,パレート原理とギバード=ケリー流の権利要求を同時に満足する社会的
選択ルールが存在することを保証する.
第8章では,不偏性・公平性の観点から個人にいかに権利を割当てるべきなのかという
公正な権利配分の問題を考える.本章で提示する公理的アプローチの基礎的な概念は,人
に関する不偏性を意味する匿名性と,物事あるいは状況に関する不偏性を意味する中立性
である.匿名性は権利配分が人の名前のどんな交換によっても影響されないことをいい,
中立性は同じ状況にある人に同じ権利を与えることをいう.近代市民社会の正義・道徳の
基本はこの不偏性・公平性にあると考えられるので,このような分析は重要であろう.
本章の問題は,いかなる公理の組合せがパレート原理と両立する権利システムに導くか
である.中立性を個人間で捉えるケースでは,否定的な結果が得られる.二項中立性と匿
名性とは相俟ってパレート整合的な権利システム導き出すが,そのシステムの下では,権
利行使に反対する人が1人でもいるとき,各人の権利行使は不可能であるという意味で,
自由主義とはほど遠い帰結にたどり着く.また,匿名性,パレート原理および追加の原理
の下で,二項独立性は同じ結果に導く.一方,個人内中立性の場合,これまでに提唱され
てきたリベラル・パラドックスの解消法を特徴づけることができる.すなわち,第1の自
己整合的中立性は匿名性と別の追加的公理と相俟ってギバードの権利システムを特徴づけ
ることができるし,第2の自己整合的中立性は匿名性と別の追加的公理と相俟ってゲルト
ナー=クリューガーの権利システムを特徴づけることができる.
第9章の目的は,リベラル・パラドックスの解消法のいくつかを,前章で提示した権利
システムの公理的アプローチによって特徴づけることである.ここで取り上げるのは,ブ
レヤー,ブレヤー=ギグリオッティ,鈴村=須賀によって提案された解消法である.それ
らはいずれも自由主義的な動機を選好の背後に持つ個人の存在を権利付与の条件とすると
いう共通性を有するので,それらを特徴づける公理の観点からの比較は興味深い.
感情移入を行う個人の存在を前提とするレヤー=ギグリオッティの権利システムは,匿
名性,個人的特性ペアの集合上の中立性,無関心な権利からの独立性,単調性,および強
パレート原理によって特徴づけられる.一方,ブレヤーの権利システムは,匿名性,同じ
個人的特徴に関する自己整合的中立性,無関心な権利からの独立性(修正版),および強
パレート原理によって,鈴村=須賀の権利システムは,匿名性,自己整合的中立性,無関
心な権利の独立性,および無差別クラスからの独立性によって特徴づけられる.後の2つ
の権利システムは外見上非常に違うが,いくつかの公理を共有している.
第Ⅲ部
第Ⅲ部「正義と拡張された同感」では,拡張された同感アプローチを用いて正義の規範
的側面を考察する.ロバーツの立場上の独裁性定理を再検討すること,拡張された同感を
公正な権利配分の公理的アプローチに適用することが課題である.
第 10 章の役割は,拡張された同感アプローチによる社会的選択論の展開とその下での個
人間厚生水準比較,および関連する結果を説明することである.拡張された同感アプロー
チの下では,人々は社会状態の集合と個人の集合の直積の上で効用関数を持つことが仮定
される.ある個人iの判断によれば,状態xにおける個人jの立場は社会状態yにおける
個人kの立場より望ましい,といった他者の立場を想像しながら形成する拡張された効用
関数が基礎となる.これに正義原理を作用させることで,社会状態の集合上に各人の倫理
的選好が導かれる.他者と選好が一致する程度を同一性公理と完全同一性公理によって区
別する.以下の章と関連が深いのは,完全同一性公理の下で得られるロバーツの立場上の
独裁性定理とケリーの公正な自由主義の不可能性定理,および同一性公理の下で成立する
鈴村の公正によって制約された自由主義の可能性定理である.
第 11 章では,ロバーツの立場上の独裁性定理が同一性公理の下でどのように変化するか
を検討する.結論は次のとおりである.すなわち,独立性,単調性,全員一致性を満たす
任意の拡張された社会的厚生関数は,次のような個人iと立場tのペアの存在を許容する
ことになる.すなわち,個人iが状態xにおいて上からt番目の立場が状態yにおけるt
番目の立場より望ましいと判断するときはいつでも,社会的にxはyより選好されること
になる.注意すべき点は,ロバーツが拡張された選好を直接に用いて公理を記述している
のに対し,ここでは正義原理のフィルターを通して導かれた倫理的選好を用いて間接的に
公理を表現している点である.しかし,任意の正義原理について成立を要求しているので,
条件としては緩和されている.そのため,ロバーツでは必要とされなかった単調性が要請
されることになっている.
この主要な結果を導く途中に興味深い命題が証明されている.順序性,独立性,パレー
ト的全員一致性,匿名性の4つの条件を満たす正義原理の集合は,ロールズ的辞書式マキ
シミン原理に個人間の置換をほどこして得られる正義原理の集合に一致するのである.
第 12 章では,拡張された同感アプローチの下で,第8章で示した公平な権利配分に関す
る定理がどのように修正されるかを検討する.ここでは,拡張された効用関数に正義原理
を作用させて得られる倫理的選好に基づいて公理を設定するので,二項独立性は非二項的
へと変更される.アローの不可能性定理の回避策の1つに非二項性があることから,この
ような変更は興味深い研究方向である.
本章の結果は以下のとおりである.第1に,同一性公理の下で匿名性と中立性は,誰か
1人でも彼の倫理的選好に基づいて反対すれば権利行使が認められないという意味で,パ
レート整合的な権利システムを生み出す.第2に,拡張された効用関数の組に制約を置か
なければ,匿名性と中立性を満たす権利システムが少なくとも誰か1人に1つの権利行使
を認めようとする限り,パレート原理との整合性は保てなくなる.第1の可能性定理の周
囲は厚い不可能性の壁に取り囲まれているのである.別の観点からは次のようにいえよう.
拡張された同感アプローチによる個人間厚生比較を導入してリベラル・パラドックスを解
消する権利システムを構成するという作業の成否は,同一性公理が分水嶺となる.