2014 NO.18 知の旅立ち 教養セミナー学生論集 NO.18 2014 愛知学院大学教養部 表紙 久馬 栄道 『知の旅立ち』 第十八号発刊にあたって 秀隆 教養部長 岡島 本論集は一年間にわたり「教養セミナー」を受講した学 生諸君が成果を発表する場になっています。この科目の正 式名は「教養セミナーⅠ・Ⅱ「学問の発見」」といい、本 来は担当者が各々の研究分野の専門的知識を披瀝しつつ、 学問の楽しさや厳しさを伝え、学生に最高学府という新た なステージで学ぶための自覚を芽生えさせる、といった目 的があります。しかし昨今は、大学における初年次教育・ 導入教育の意味合いも少しずつ変化しており、専門教育を 見据えながら、より基礎的な学力を学び直し、スキルアッ プ さ せ る こ と を 目 指 す よ う に な っ て き ま し た。 中 で も レ ポートや論文の作成といった日本語表現力の補強は広く要 請されている課題です。教養部では、教養セミナーの授業 で、先生方が個性的なテーマを掲げ、専門領域の多種多様 な材料を用いて、大学での学び方︵情報収集の仕方、ノー ト作成法、資料の整理・分析法など︶やレポート作成法・ プレゼンテーション法などを教示されています。本論集へ の寄稿は、そうした授業の集大成として位置づけられるの です。それはある意味で、学生と教員の両者が共同で作り す ん ぴょう 上 げ た 成 果 で す か ら、 ひ と つ ひ と つ の 文 章 に 教 員 の 寸 評 が付せられています。 ところで、 「知の旅立ち」という論集名がどのような経 緯で付けられたのかを私は知りません。しかし、大変考え られた命名だと思います。大学は「知の殿堂」と呼ばれる ことがあります。さまざまな知識が蓄積されている場所で あり、かつまた新しい知識が生まれる場所でもあります。 高校を卒業した学生諸君は、大学受験という難関をくぐり 抜けるために、すでに多くの知識を吸収して来たのでしょ うが、大学にはさらに多様で高度な知識に触れてそれを学 じょう さ い くぐ び取れる環境が整っています。狭い 城 塞の門を潜って未 え 知の荒野に進み出ようとするときには、得も言われぬ開放 ま 感 と と も に、 そ の 前 途 に 対 す る 不 安 と 希 望 が な い 交 ぜ に なった感情に捕らわれることでしょうが、これから大学生 活に入ろうとする新入生が味わう気持ちは、それと似てい ると思います。そして、この気持ちの中には「新たな知の 荒野」に旅立とうとする真剣な意欲が含まれていると思い ます。「知の旅立ち」とはそうした状況を表現しているの ではないでしょうか。入学して一年が過ぎようとしていま す。 こ の 論 集 に 自 分 の 文 が 掲 載 さ れ た 者 も そ う で な い 人 も、それを手に取ると誰もが自らの初心を思い起こすこと ができて、ちょっと今の自分を反省したり、もっと頑張ろ うと奮起できたりする、そんな論集であればよいと考えま す。学生諸君の更なる勇猛精進を期待します。 1 2 知の旅立ち 第十八号 ││ 目 次 ││ 渡 邉 匡 慶 ⋮⋮⋮ 岡 島 秀 隆 ⋮⋮⋮ 7 1 ◇経済学部 日本の漫画・アニメと 中国文化について 遺伝子組み換え作物について 血液型性格判断について 日本の伝統色・禁色について ガラス工芸 │長崎びいどろ│ 加 藤 佑 恭 ⋮⋮⋮ 深 谷 瑞 紀 ⋮⋮⋮ 河 村 恭 介 ⋮⋮⋮ 後 藤 柚 香 ⋮⋮⋮ 及 川 美 幸 ⋮⋮⋮ 中 野 拳 弥 ⋮⋮⋮ 稲 垣 志 帆 ⋮⋮⋮ 41 38 35 33 28 『オール1の落ちこぼれ、教師になる』 書評 宮本延春 角川文庫 『僕の死に方』 書評 金子哲雄 小学館 『人間失格』 書評 太宰治 新潮文庫 │見て見ぬふりをする心理│ いじめの傍観者の問題 │社会的ジレンマによる考察│ 自動車が引き起こす環境問題 仮面の歴史とその役割 │戦艦から見る敗戦の理由│ 大日本帝国海軍 永 嶋 景 都 ⋮⋮⋮ 43 ※各文章の後に掲載されている寸評は、各セミナー担当者によるものです。 亀 山 将太郎 ⋮⋮⋮ 加 藤 悠 太 ⋮⋮⋮ 13 10 ◇文学部 45 宇佐見 啓 ⋮⋮⋮ 教養セミナーで学び取ったこと 山 田 夏 樹 ⋮⋮⋮ 3 『知の旅立ち』第十八号発刊にあたって イオンの歴史と繁栄 近 藤 礼 一 ⋮⋮⋮ 清 水 沙 笑 ⋮⋮⋮ 18 16 教養部長 聖徳太子は実在した人物なのか 金 石 将 徳 ⋮⋮⋮ 46 50 47 教養セミナー学生論集 電子書籍の普及と 紙の書籍の消失 21 ︽教養セミナーⅠ・Ⅱ︾ ベネチアンマスクから見る仮面 髙 野 夏 姫 ⋮⋮⋮ 24 私がLTD話し合い学習法で 得たもの ◇経営学部 現代中国の人口問題について 大 島 秀 樹 ⋮⋮⋮ 羽 柴 健 将 ⋮⋮⋮ 鈴 木 俊 裕 ⋮⋮⋮ なぜ Apple 製品は売れるのか? アイドルに「はまる」理由 谷 川 美 晴 ⋮⋮⋮ 田 村 亘 ⋮⋮⋮ 浅 井 太 貴 ⋮⋮⋮ 大きく考える 岡 田 崚 ⋮⋮⋮ 日本のスポーツカー市場は なぜ縮小するのか? 『大きく考えることの魔術』 を読んで 加 藤 舞 ⋮⋮⋮ 防災グッズの非常食を考える 中 林 大 貴 ⋮⋮⋮ ◇商学部 ∼いじめ防止対策推進法の制定を機に∼ いじめ 魅力的になるための過程 金 子 奈 央 ⋮⋮⋮ 市 川 佳 奈 ⋮⋮⋮ 天気と投票率の関係性 瀧 本 大 介 ⋮⋮⋮ オリンピック自国開催が 日本にもたらす影響 ブランド力とその価値 本 田 将 大 ⋮⋮⋮ 黄 ぎょう ⋮⋮⋮ ナルトと中国文化 アルヨことばの起源 小売ミックスから見る喫茶店 ◇法学部 伝える力・伝わる力 伝える力・伝わる力 伝える力・伝わる力 韓非子 ◇心身科学部 倉 地 礼 華 ⋮⋮⋮ 鶴 田 侑 希 ⋮⋮⋮ 内 田 黎 ⋮⋮⋮ 横 瀬 富 如 ⋮⋮⋮ 早 川 美 希 ⋮⋮⋮ 古 田 祐 三 ⋮⋮⋮ 孤高になりきれない孤独な詩人、 三 枝 ゆ り ⋮⋮⋮ 中原中也とその言葉 ︽教養セミナーⅢ・Ⅳ︾ 玉 木 桃 子 ⋮⋮⋮ 池 田 真 夕 ⋮⋮⋮ グリム童話「白雪姫」を読んで 宗 宮 礼 佳 ⋮⋮⋮ 丹 羽 悠 子 ⋮⋮⋮ 『愛の手紙』の感想 石鹸の文化と歴史 世界と日本の蛸文化 三 浦 貴 子 ⋮⋮⋮ 高 橋 あすか ⋮⋮⋮ 篠 原 真知子 ⋮⋮⋮ 教養セミナー・教養教育をふりかえって │ミュンヘンで過ごした一ヶ月間│ ドイツに憧れて │遠く離れた異国での体験と感動│ ドイツ体験記 谷崎潤一郎のフェミニズムとは フェミニズムへの懐疑 116 4 90 87 99 97 94 92 101 119 112 108 106 104 121 65 63 61 59 52 67 56 54 71 75 73 85 81 78 ビブリオバトルに参加して 杉原千畝から学ぶ 永平寺一泊参禅 晴 山 茜 ⋮⋮⋮ 岡 島 秀 隆 ⋮⋮⋮ 堀 江 弘 一 ⋮⋮⋮ 續 木 大 也 ⋮⋮⋮ 倉 地 礼 華 ⋮⋮⋮ 山 中 妙 恵 132 128 127 124 │日本一の智慧工場から学ぶ│ 教養部学習支援室LA活動報告 ビブリオバトル入賞者の 投稿に寄せて ビブリオバトルに参加した 意義と成果 教養セミナー学生論集 アンケート調査 ︵学生生活について︶ 成 田 彩 香 ⋮⋮⋮ 鈴 木 かんな ⋮⋮⋮ ︽教養セミナーⅠ・Ⅱ︾ アンケート調査 ︵学生生活について︶ The British Election System 稲 木 彩 乃 ⋮⋮⋮ 吉 田 武 勇 ⋮⋮⋮ Britain’s Car Society フィンランド ︽教養セミナーⅢ・Ⅳ︾ 学生生活について ︵アンケート調査︶ * 上 田 真 也 ⋮⋮⋮ 浦 野 耀一朗 ⋮⋮⋮ 松 井 浩 生 山 室 文 哉 村 瀬 拓 也 山 田 琢 真 今 西 美沙希 しょう たつけつ 久 馬 栄 道 准教授 平成二十五年度 教養セミナー・テーマ一覧 * 表紙絵の思い出 ウィーン、グロリエッテの丘から 望むシェーンブルン宮殿 編 集 後 記 5 心を育てる教育を 本を通して人を知る 本 山 健 太 ⋮⋮⋮ 宇佐見 啓 ⋮⋮⋮ 135 134 133 (17) (15) (9) (1) (23)(19) 教養セミナー学生論集 《教養セミナーⅠ・Ⅱ》 イオンの歴史と繁栄 渡 邉 匡 慶 ︵経済学科一年︶ イオンとは、日本最大の売上高を誇る大手小売業者であ る。 イ オ ン の 二 〇 一 一 年 度︵ 平 成 二 三 年 度 ︶ の 売 上 高 は 二 兆一九九九億六三〇〇万円で、これは業界二位のセブン& アイ傘下のイトーヨーカドーの一兆三六一〇億六〇〇〇万 ︵1︶ 円を大きく引き離す。 さらに二〇一三年八月には二〇一一年度業界四位のダイ エーを連結子会社化するなど、現在も勢力を拡大し続けて いる。また、イオンは前身のジャスコ時代に全国に急速に 事業を拡大した。なぜイオンはここまで成長したのかその ルーツを探る。 一、イオンの歩み イオンは四日市資本の呉服屋・岡田屋を発端とする。岡 田屋は約二五〇年前の一七五八年近江商人の血を引く初 代・岡田惣左衛門が四日市宿久六町︵現・四日市市西町の 一 部 ︶ で 行 商 を 始 め、 屋 号 を 篠 原 屋 と し て 営 業 を 開 始 し た。一八八七年五代目岡田惣右衛門が四日市辻に移転し、 屋号を岡田屋に改称した。大正期には「株式会社岡田屋」 となり戦後、太平洋戦争によって焦土と化した四日市の新 しい繁華街・諏訪新道に本拠を構える。そして、一九五八 年、オカダヤ百貨店を近鉄四日市駅前に構えた。 そして、一九六九年兵庫・姫路資本のフタギ、大阪・豊 中 資 本 の シ ロ の 二 社 と 共 同 出 資 会 社「 J U S C O 」 を 設 立。翌年、㈱岡田屋がフタギ、シロを合併し、 「株式会社 ジャスコ」に社名を変更した。その後、地方スーパーを合 併・連携をくりかえし一九八九年にイオングループが成立 した。また、二〇〇〇年代にはグループ企業の統廃合を行 ︵2︶ い二〇〇七年には電子マネー「WAON」を導入した。そ して上記にもある通り二〇一三年には業界第四位であった ︵3︶ ダイエーを連結子会社化した。 7 二、イオングループが拡大していったわけ 業界売上高全国一位まで押し上げイオンの勢力を拡大し た 立 役 者 は 前 会 社 ジ ャ ス コ の 創 業 者 岡 田 卓 也 元 会 長︵ 以 下、岡田氏︶である。彼の施策は「スクラップ&ビルド」 だった。これは開店と閉店を短いスパンで繰り返すことに より、店舗を従来の駅前から、モータリゼーションの到来 により車で来店しやすい郊外に店舗を構えた。同時に出店 業態を総合スーパー単体から、大型ショッピングセンター ︵ 以 下、 S C ︶ の 中 心 店 舗 と し て 発 展 す る。 結 果、 ス ー パーそのものの売り上げよりSCのテナント収入やデベ ロッパー収入になっていった。彼の事業観にはアメリカか ら 学 ぶ と い う も の が あ っ た。 大 型 S C に 進 出 し た の も 当 時、欧米で定着していた大型SCに目をつけ、日本にいち 早 く 輸 入 し た。 も う 一 つ の 戦 略 は デ ベ ロ ッ パ ー へ の 転 換 だった。ダイエーは自前の専門店をSC内に作ろうとし、 イトーヨーカドーは他社との連携もせず単独路線を歩ん だ。しかし、ジャスコは集客力のある専門店やライバル企 業である、ヤマダ電機やユニクロとも提携し商売を営むデ ベロッパーという道を選んだ。つまり、「協調拡大」路線 を歩んだのである。 また、岡田氏はジャスコの歴史を「企業の歴史は合併の 歴史である」と語っており、ジャスコが合併・連携した企 業は食品部門だけで三〇を超え、他企業を見ても数々の地 場スーパーや百貨店と手を組んだ企業は例を見なかった。 ふた ぎ かず いち これらの合併・提携を可能とした理由は岡田氏が何の心配 もなく合併企業探しに奔走できたからだと上野由貴氏︵二 〇一一、二〇〇頁︶はこう考える。 「三社合併を果たした後、会長には二木一一さん︵元フ タギ社長︶ 、副社長には井上次郎さん︵元シロ社長︶と いう頼もしい経営陣がいました。そして何より、内部の 調整は実姉・千鶴子さんが担っていたため、卓也さんは 合 併 に 全 精 力 を 傾 け る こ と が で き る の で は な い か︵ 中 略︶特筆すべきジャスコの合併の特徴とは、どんな弱小 スーパーとも対等の精神による合併をするということ。 ︵中略︶岡田卓也さんはあくまで“協調”しながら企業 を大きくするための合併手法をとりました。つまり、合 併を行っても合併前の社長に地域を任せ、資金調達、教 育、商品開発など集中化した方がメリットのあるものの み本社一元管理するという合併手法で、連邦制経営と呼 ︵4︶ びます。」 二 木 氏 や 井 上 氏、 岡 田 千 鶴 子 氏 が い た か ら こ そ 岡 田 氏 は、 合 併・ 提 携 の た め に 全 国 津 々 浦 々 飛 び 回 る こ と が で き、強者が弱者を従えるのではなく一 一の立場で合併し 「地元のことは地元に聞け」の精神で経営を任せていく ││そんな経営がジャスコそしてイオンへと引き継がれて いったのだろう。 8 三、時代のニーズに合わせた経営 岡田家にはこんな家訓がある。“大黒柱に車をつけよ” これは建物にとって大切な大黒柱ですらお客様のためなら 車︵ 車 輪 ︶ を つ け て 運 ん で い け と い う 意 味 で あ る。 つ ま り、時代やお客様のニーズに合わせて営業方法を変え、革 新せよということである。先述したとおり、店舗を駅前か ら郊外に移転させたり、総合スーパー単体からSC業やデ ベロッパー業に重きを置いたりしていった。そして、核業 務である総合スーパー経営の傍ら、食品スーパーのマック ス バ リ ュ、 コ ン ビ ニ エ ン ス ス ト ア の ミ ニ ス ト ッ プ、 ク レ ジット会社であるイオンクレジットなどを経営している。 これらはイオンの大きな特徴でもある。 四、まとめ 時代に合わせた経営や地元スーパーとの協調、これらが イオングループを大きくしていった一員であると考える。 また、イオンはこれからも発展していくだろう。イオンが ここまで拡大した理由は他にもあるだろうが、これはまた 追々調査していくことにする。 ︿注﹀ 帝国データバンク 特別企画 スーパーストア経営業者の売 ︵1︶ 上高動向調査︵二〇一二︶より ︵2︶イオン│企業情報│企業沿革 http://www.aeon.info/company/ より enkaku/ ︵3︶朝 日 新 聞『 イ オ ン、 規 模 拡 大 急 ぐ ダ イ エ ー 子 会 社 化 を 発 表 』︵ 二 〇 一 三 年 三 月 二 八 日 ︶ http://www.asahi.com/ business/update/0328/TKY201303270567.html ︵4︶ 三品和広+三品ゼミ『総合スーパーの興亡』 二〇一一年、 二〇〇頁より ︿参考文献﹀ 三品和広+三品ゼミ『総合スーパーの興亡』 東洋経済新報社、 二〇一一年 菊池正憲『イオン大躍進の秘密』 ぱる出版、二〇〇四年 鈴木國明『総合・食品スーパー』 実務教育出版、二〇〇五年 ︿参考URL﹀ 帝国データバンク 特別企画 スーパーストア経営業者の売上高 動向調査、二〇一二年 http://www.tdb.co.jp/report/watching/press/pdf/p120802.pdf イ オ ン │ 企 業 情 報 │ 企 業 沿 革 http://www.aeon.info/company/ enkaku/ 『イオン、規模拡大急ぐ ダイエー子会社化を発表』 朝日新聞、 二〇一三年三月二八日 h t t p : / / w w w. a s a h i . c o m / b u s i n e s s / u p d a t e / 0 3 2 8 / TKY201303270567.html イオン ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3% 83%B3_(%E4%BC%81%E6%A5%AD )ほか 9 ︿寸評﹀ 担当教員 中村 綾 本稿は、我々にとっても身近な大型スーパーイオンに ついて、売上高第一位を誇るその理由を考察したもので ある。イオンの歩みや、ダイエーやイトーヨーカドーが 選ばなかった展開方法など、経済学部の渡邉君は、イオ ングループの拡大方法を様々な資料にあたり、専門用語 を用いつつも分かりやすく解説している。授業では、出 典の明記や引用方法などは一通り習ったが、渡邉君のレ ポートは下段に注を施すなど、より専門的な論文のスタ イルがきちんと踏襲されて、読み手に情報を分かりやす く伝えている。 「地元のことは地元に聞け」の精神で経営を展開させ てきたイオンは、渡邉君が述べているとおり三重県四日 市市に出自を持つ会社である。四日市の近隣である三重 県川越町出身の渡邉君は夏休みのレポートでも東海三県 の県民性の違いを論じていたが、今回も、地元を大切に するイオンの経営方法に共感したのかもしれない。地元 ならではのビジネス方法など、今回の調査を活かして今 後も経済のことを学んでいってほしい。 聖徳太子は実在した人物なのか 亀 山 将太郎 ︵経済学科一年︶ 聖徳太子は歴史的人物の中でも特に有名な人である。た とえば、日本人に「聖徳太子のことを知っていますか」と 聞いてみると、「知らない」と答える人はほとんどいない だろう。また、 「 聖 徳 太 子 は 何 を し ま し た か 」 と 聞 く と、 「冠位十二階や憲法十七条を制定した」 、「 法 隆 寺 を 造 っ た。 」 、「一〇人の声を同時に聞いた」などの言葉を多数耳 にするだろう。なぜなら、誰しも小学校の頃に、授業で聖 徳 太 子 と い う 人 物 を 覚 え た か ら で あ る。 だ が、 最 近 で は 「聖徳太子は実在しない。 」と考察する研究者たちが増え続 けている。本当に聖徳太子は実在しないのだろうか。本稿 では歴史を振り返り、聖徳太子の真実について考察する。 まず、聖徳太子の本名は厩戸王であり、用明天皇と穴穂 部間人王の間に生まれている。また、大山︵一九九九︶は 「厩戸王の両親とも、父は欽明天皇だが、母は蘇我稲目の 娘であるから、厩戸王は蘇我系の王族といってよいであろ う。 」と述べている。そして厩戸王は、次のことを行った と述べている。 推古九年︵六〇一︶に斑鳩宮を造って、以後そこを居所 10 と し、 そ の 後 近 く に 若 草 伽 藍 と し て 遺 跡 が 遺 る 斑 鳩 寺 ︵法隆寺︶を建立したことで、これからは考古学的にも 確認されており、史実と考えてよいであろう。 よ っ て、 後 に 聖 徳 太 子 と な る 厩 戸 王 は 実 在 し た と い え る。しかし、聖徳太子が実在したとするならば、いくつか の疑問がある。 一 つ 目 は、 『日本書紀』に書かれた聖徳太子のことであ る。『日本書記』は、聖徳太子について多数書かれている が、実在性のあることは書かれていないことに、大山︵一 九九九︶は次のように述べている。 実際、母が厩の戸の前で出産したとか、生まれてすぐ言 葉を発したとか、成人となってから一度に一〇人の訴え を聞き分けたとか、いろいろ有名な話があるが、これら を事実と考える必要はあるまい。その他、仏教・儒教の 教養の深さを示そうとしたり、聖徳太子を偉大な聖人に したてるための無理な記述も数多くあり、聖徳太子の実 在性を証明するのも簡単ではないのである。 つまり、厩戸王は実在していたという記述はあるが、聖 徳太子として実在していたという記述は曖昧なものが多い ため、実在しない可能性もあると言える。もっとも、曖昧 ではあるが、記述されていることに変わりはないため、可 能性は低いだろう。 二つ目は、憲法十七条は聖徳太子の作ではなく、偽作で はないのか。これについて津田︵一九四八︶は、次のよう に考察する。 憲法十二条に、「国司国造」とあるが、国司というもの が大化の改新の前にあったはずがない。国司は国の司、 すなわち国という地方行政区画を管治するもの、少なく ともその事務を掌るもの、の呼称であろうが、地方が国 造および県主や伴造などの朝廷の貴族に分領せられてい た時代には、国という名を以て呼ばれていてそれを管治 する菅司のあるような地方区画があったとは考えられな い。皇室の直轄地はあっても、それが国といわれたよう な証拠はどこにもない。国という地方的区画は大化の改 新によって初めて設けられたものとしなくてはならず、 従って国司もまた同様である。そうして、国司が置かれ たとともに国造は政治的権力を失ったのであるから、国 司と国造とを並記してこの二つを同様に取り扱い、それ に対して同じことを命令するということは、それが実在 の政務に関する場合である限り、いつの世においても、 推古朝においてかかることが書かれるはずがない。 つまり、憲法十七条の内容から、大化の改新以後の政治 制度に合っているため、聖徳太子が作者だということはあ り え な い と 言 え る。 ま た、 聖 徳 太 子 が 作 者 で な い こ と か ら、大化の改新以後に誰かが作ったと言えるだろう。 一方、滝川︵一九四一︶は津田︵一九六三︶の偽作説に 対し、次のように考察する。 憲法十二条にみえる国司は、長官・次官・判官・主典の 11 四等官よりなる地方官ではなく、国造に天皇のミコトノ リを伝達するクニノミコトモチ︵国宰︶である。大化の 改新以後には、国司という職名ができたから、クニノミ コトモチには国宰の字があてられるようになったが、大 化の改新以前には、国司も国宰も同じように、クニノミ コトモチの意味に用いられたと解するべきである。 また、坂本︵一九三六︶も津田︵一九六三︶の偽作説に 対し、次のように考察する。 国司が大化の改新以前に存在しなかったということは、 決して絶対的な判断ではなく、少なくとも、『書記』皇 極天皇二年の条にみえる国司は後の改竄とは見ない難い 文字であるから、直に憲法のそれをも疑うことは不穏当 だとし、もし憲法が律令制定頃に偽作されたとしたなら ば、それら現実の具体的制度または知識が何らかの形で 織り込まれなければならないが、その形跡は全然ない。 また憲法にみえるあの抽象的な政治原則をすでに組織さ れている現実の制度から帰納して表現することは至難な 業ではないか。 滝川︵一九四一︶と坂本︵一九三六︶の考察により、津 田︵ 一 九 六 三 ︶ の 偽 作 説 に 否 定 で き る 点 が あ る と 分 か っ た。さらに、二人の考察により聖徳太子が憲法十七条の著 者であることがうかがえる。 以上のように、聖徳太子は実在する人物であることが分 かった。なお、今まで考察してきたものを振り返っても、 聖徳太子の実在について、どれも決定的な証拠がなく曖昧 なことしか残されていなかったので、聖徳太子の実在を否 定する人たちが現れたと言える。また、聖徳太子は同時に 十人の声を聞いたとされるが、本当にそうなのだろうか。 この問題については今後の課題とする。 ︿参考文献﹀ 大山誠一『︿聖徳太子﹀の誕生』 吉川弘文館、一九九九年 津田左右吉『日本古典の研究 下』 岩波書店、一九四八年 滝川政次郎『日本法制史研究』 有斐閣、一九四一年 坂本太郎『大化改新の研究』 至文堂、一九三八年 『聖徳太子七つの謎』 新人物往来社、一九九一年 ︿寸評﹀ 担当教員 中村 綾 本稿は、近年、実在が疑問視されている聖徳太子に関 して諸説を検討したものである。亀山君は、実在に否定 的な大山説、津田説と、それに反論する滝川説、坂本説 を示して、実在の可能性を考察している。 授業では、レポートを書くにあたっての文章表現法と 文献の探し方を習い、授業時間内にも文化的なテーマで 資料の内容を文章にまとめ、結論を導き出す練習を行っ て き た。 今 回 の 亀 山 君 の レ ポ ー ト は、 多 く の 文 献 に あ たった上で、それらの要点が順序よく提示されており、 結論も大変客観的で説得牲のあるものとなっている。 亀山君が用いた資料の多くは、何度も版を重ねている 12 ものであるため、本文中の出典の年号と参考文献に記さ れた書物の出版年とが合致していないものが多いが、今 後はこういった細かい点にも配慮して、より専門性の高 いレポートや論文が執筆できるよう期待される。 日本の漫画・アニメと 中国文化について ︵経済学科一年︶ 加 藤 悠 太 中 国 で は 今、 日 本 の ア ニ メ や 漫 画 が ブ ー ム と な っ て い る。中国ではアニメと動画をひとくくりにして「動漫」と 呼ばれていて、遠藤︵二〇〇八︶には 街には日本の漫画があふれ、テレビをつければ、日本の ア ニ メ が 放 送 さ れ な い 日 は な い。 中 学 生 の 少 女 た ち は 『セーラームーン』ごっこに興じ、 『スラムダンク』の人 気と相前後して、バスケットボール・プロリーグが結成 され、ついにはアメリカのプロリーグNBAにスター選 手を輩出するまでになった。国内ではコスプレ大会がい たるところで開かれており、日本動漫好きが嵩じ、若者 たちの間では日本語学習ブームが起きている。 とある。ではなぜ日本のアニメが中国で人気になってい たのだろうか。 その背景には「海賊版」と呼ばれる違法にコピーされた DVDやコミックの存在がある。中国国内の海賊版の映像 データの売上高は一年間で一七五二億円に上り、日本のア ニメ・漫画之海賊版による被害は、中国全体では三兆八〇 13 〇〇億円に上る。しかし中国では、違法であるとはいえ、 安価であるために貧しい中国の家庭でも子供たちが日本の 漫画・アニメに気軽に触れることができた。そのために、 中国国内で日本のアニメ・漫画文化が急速に広がったので ある。 中国政府は、一九八九年に起きた天安門事件以来「愛国 主義教育」を強調していった、しかし中国政府は、外国の 文化であるはずの日本のアニメ・漫画を規制することはな かった。遠藤︵二〇〇八︶は 何 よ り 中 国 政 府 は、 国 民 が「 政 治 」 に 強 い 関 心 を 示 さ ず、青少年は日本動漫という単純な娯楽に、大人である 庶民は金儲けに気持ちを奪われている方が無難だと考え て い た の だ。︵ 中 略 ︶ だ か ら こ そ、 日 本 動 漫 に 関 し て は、消費したいようにさせるという野放し状態であった のだ。 と結論付ける。中国政府は、天安門事件のような国内での 民主化運動の再来を恐れ、人々が金儲けや日本のアニメ・ 漫 画 に 熱 中 し て い れ ば そ れ で い い と 考 え て い た。 そ の た め、日本の漫画・アニメは海賊版を通じて急速に広まって いった。 一九九六年に『スラム・ダンク』が放送されたころ、中 国では日本のアニメブームの最盛期を迎えていた。一九九 五年に中国でCBA︵中国プロバスケットボールリーグ︶ が設立され、『スラム・ダンク』によって空前のバスケッ トボールブームが起き、アメリカのバスケットボールリー グNBAに続々と中国人選手が加入したのである。 また、日本でも人気だった『デスノート』も、中国では そのノートの海賊版『死亡筆記』が出回り、実際に殺した いと思う相手の名前を書き込む遊びが流行ったことがあ る。これは本来の原作のアニメ・漫画とはかけ離れて暴走 してしまったものである。 日本のアニメ・漫画文化が広まると中国国内では「哈日 族」と呼ばれる日本文化に関心がある人たちが増えてき た。彼らは日本のアニメ・漫画のみならず、音楽、服装な どにも興味を持っている。また、「カワイイ」という言葉 でさえ、中国語で「卡哇依」という言葉にまでなっている という。 中国国内での日本のアニメ・漫画の消費者は中国一三億 人中五億人に、市場規模は約一〇〇〇億元︵日本円で一兆 五〇〇〇億円︶に上るという。中国政府にとって、日本文 化 が こ こ ま で 広 ま っ て し ま っ た の は 想 定 外 で、 中 国 政 府 は、国産アニメを奨励するため、二〇〇六年から午後五∼ 八時までの外国産アニメの放送を禁止した。また、自国の アニメ・漫画産業を育てて市場を確立するため、全国の大 学などの高等教育機関に漫画・アニメにかかわる学部を設 置している。二〇〇七年には、全国の内七五%の高等教育 機関がアニメ・漫画に関わっているという。実際、中国の アニメ・漫画産業は成長を続けている。中国文化部の統計 14 によると、生産額は一〇年前の一〇〇億元︵約一六四〇億 円︶弱から二〇一〇年には四七一億元︵約七七四〇億円︶ に 成 長 し、 年 平 均 三 〇 % 増 と い う 大 き な 伸 び を 示 し て い る。 しかし、中国ではアニメについてのトラブルも多い、日 本でも人気のアニメ、『クレヨンしんちゃん』の中国名で ある『 筆小新』が先に中国で登録されてしまい、使用で きなくなってしまったということがある、また、中国国産 のアニメの『大嘴巴爐爐』が、内容が『クレヨンしんちゃ ん』とそっくりであるという指摘されているという。 さらに、中国国産アニメ『虹猫藍兔七侠傅』という戦闘 アニメがある、このアニメはかなりの視聴率を稼ぎ、アニ メの人気に伴い原作も一五〇〇万部を売り上げ、キャラク ターグッズの売り上げもよく、商業的には成功したかのよ う に 見 え た が、 内 容 に あ ま り に も 残 虐 な 戦 闘 シ ー ン が 多 く、中国国内で激しい論争を巻き起こした。また、子供た ちが暴言を吐いたり、このアニメに否定的な意見を述べた 人に対して残虐な言葉を投げかけたりするようになってし まった。 以上のことから、中国では、日本のアニメや文化が「海 賊版」を通じて広まり、すでに文化の一つとなっているこ とがわかった。今後中国では「海賊版」や国産アニメの体 質など、解決していかなければならない問題も多い。 ︿参考文献﹀ 遠藤誉『中国動漫新人類』 日経BP社、二〇〇八年 ︿寸評﹀ 担当教員 中村 綾 本稿は中国での日本アニメのブームを社会的動向の面 から論じたものである。中国では、なぜ日本のアニメが 高い人気を誇るのか、普及した背景にある海賊版DVD やコミックの存在、さらには天安門事件以降の中国政府 の方針と近年の国産を推奨する動きにも触れ、単なるサ ブカルチャーとしての文化交流にとどまらず、多方面か ら問題を分かりやすく論じている。 この授業では、日本と中国の文化交流の講義を行うと ともに、レポートを書くための文章表現法や文献の探し 方などを習い、文献の引用に関しては、出典を明記し、 引用箇所は論点がぼやけないよう、大事な箇所を過不足 なくスタイルを守って引用するよう指導した。加藤君の レポートではきちんと守られ、また、海賊版の流通や日 本アニメの模倣などの問題点も指摘して、明確な文章に 仕上がっている。 経済学部の加藤君には、今後も両国の文化交流の背景 に広がる消費の動向、政治的な問題など様々なことに興 味を抱いていってほしいと思う。 15 遺伝子組み換え作物について 近 藤 礼 一 ︵経済学科一年︶ はじめに 私は遺伝子組み換え作物についての知識が乏しい。虫害 や病気などに対して、強くて育てやすい作物のことである という程度の知識しかなく、この作物がもたらす影響や問 題などはあまり詳しくは知らない。人体に悪影響を及ぼす 可能性があるのではないかということを聞いたことがある が、それが一体どのようなことなのかはわからない。これ からの自分の生活にも大きく関わるテーマであり、レポー ト作成を通して深く学びたい。 一、遺伝子組み換え作物とは 虫害や病気などに強く栽培しやすいような作物は昔から 品種改良によって作られてきた。しかし、従来の交配の方 法では膨大な時間と手間がかかってしまい、求めている性 質を持った新品種はなかなか出来ず、偶然で出来るような 確 率 で あ っ た。 だ が、 遺 伝 子 の 役 割 が 発 見 さ れ た こ と に よって品種改良の技術は飛躍的に進歩した。遺伝組み換え 技術とは、生物に特定の性質を持たせる遺伝子を直接品種 改良に利用するということだ。 二、遺伝子組み換えのメリット 遺伝子組み換えをすることによって得られるメリットは 非常に大きい。従来の品種改良のやり方ではどうしても限 界が生じてしまったが、この技術を使うことで交配が可能 な 作 物 以 外 の 生 物 か ら 遺 伝 子 の 導 入 が 可 能 と な る。 つ ま り、生物の種類に関係なく品種改良の材料に出来るという ことだ。品種改良の世界や限界が大きく広がったといえよ う。これによって、さまざまな品種を作り出すことが可能 となった。病気に強いといったことはもちろん、除草剤耐 性や害虫に対し抵抗性を持たせて農薬をまく回数を減ら し、生産コストを下げ生産者が栽培しやすいような作物を 作ることが出来る。 また、生産者だけにメリットが生じるわけではない。お いしさ、食品の風味の改善、腐りにくい性質、作物の生産 性を向上させるなど消費者にもさまざまなメリットがあ る。ほかにも、消費者の健康によい働きを持たせた食品な ども存在する。より栄養価の高い食品をはじめ、コレステ ロール値を下げる働きがあるとされるオレイン酸の含有量 を増加させた大豆、アレルギー物質であるアレルゲンの含 有量が少ない作物の研究などがある。これらのような消費 者個人のメリット以外にも消費者全体のメリットもある。 遺伝子組み換え技術を利用することで、安定して食糧を供 16 給出来たり、農薬の使用量を減らすことで環境への負担を 減らしたりとメリットを挙げていけばきりがないほどだ。 三、遺伝子組み換えの問題点 では、逆に問題点はあるのだろうか。環境になんらかの 害をもたらしてしまう可能性があるということだ。遺伝子 組み換えによって作った作物が野生化してしまい生態系を 壊してしまうのではないかということだ。自然交配により 組み換え遺伝子が拡散してしまう危険性がある。こうなら ないためにも農林水産省がしっかりとした評価をしてい る。その結果、環境にマイナスがないと認められた作物の み栽培が出来る。また、現在栽培されている作物は雑草と して生きる機能をほとんど失うように改良されていて栽培 環境下以外では生きることは出来ない。なので、万が一除 草剤の影響を受けない作物が雑草化してもほかの種類の雑 草剤で枯らすことが出来る。 四、人体への害と安全性 人体に何らかの悪影響はあるのか。遺伝子組み換え作物 は安全なのか。新しい遺伝子が生まれてしまったり、今ま で働いていなかった遺伝子が働き始めてしまったりして人 体に対して毒やアレルギーを引き起こす可能性はないだろ うか。 遺伝子組み換え食品についての安全性の基準はOECD ︵経済協力開発機構︶で合意された「実質的同等性」とい う共通概念に基づいて各国が審査している。日本でも厚生 労働省がこの概念を打ち出している。これは、導入した遺 伝子の性質がはっきりしていて従来品種と変わらなければ これまでの種類と同等とみなすという意味だ。しかし、毒 性がまったくないということはない。何が起こるかわから ないのが生物の世界だからだ。 おわりに 遺伝子組み換え技術は非常にすばらしいものだ。私はこ の技術を使うことに対して賛成である。それは生産者も消 費者も双方に多大なメリットをもたらし、年々人口が増加 しているこの現代において安定して食糧を供給できる可能 性があるからだ。しかし、問題点も存在する。安全性とい う問題だ。この技術が確立してからまだ日が浅く、遺伝子 組み換えによって作られた食品を食べ続けると一体どのよ うな影響が起こるのかまだわからない。人体に何の悪影響 もなければこの技術は世界中で使われるべきだと思う。し かし、どうなるかわからない以上慎重に検討したほうがい い。 ︿参考資料﹀ http://www.jo-kan.or.jp/mamechishiki/idensi.html http://www.monsanto.co.jp/data/knowledge/knowledge2.html 17 血液型性格判断について 清 水 沙 笑 18 ︵経済学科一年︶ はじめに 自 己 紹 介 の 際、 必 ず と い っ て も い い ほ ど 血 液 型 を 述 べ る。初対面の人であっても血液型を聞いてある程度「この 人はこういう性格なのだろう。」と予想する。少なからず 私はそうだが、本当にこの血液型で性格を判断することは 正しいのか。 B http://www.tr-kacchan.com/20100221-311.html http://www.jba.or.jp/top/bioschool/seminar/q-and-a/qa_06. html ︿寸評﹀ 担当教員 吉村 正宏 教養セミナー「科学的な思考のレッスン」では、身近 なテーマを取り上げ、科学的な見方や考え方を学ぶこと を目標にしています。クリティカルシンキングの基本的 な考え方を理解し、ディスカッションや課題演習を行い ながら、自分の頭で考える力を修得します。また、教養 セミナー・ハンドブック「日本語表現法」を用いて、文 章にまとめる技術も学びます。近藤君は、遺伝子組み換 え作物について、自分自身に関わる問題として、生産者 と消費者の立場からメリットと問題点を整理していま す。多くの人の賛同を得るためには、正確な情報を発信 し、判断する力を身につけることが重要です。今後の大 学生活や社会人になった上でも、必ず役に立つスキルで しょう。 一、血液型性格判断の歴史 血液型性格判断とは、ABO式の血液型によって人の性 格が異なるものと考え、血液型から人の性格を判断するこ とだ。 血液型は、A型、B型、O型、AB型の四つに分類する ことができる。日本人の血液型の割合は 型が三八%、 型が二二%、O型が三一%、AB型が九%である。 一 九 一 六 年 に、 原 来 復 と 小 林 栄 と い う 二 人 の 医 師 が 、 「血液ノ類属的構造ニ就テ」という論文で、血液型と性格 の関連性を述べたのが全ての始まりであるとされている。 一九二七年には古川竹二が「血液型による気質の研究」 A と い う 研 究 論 文 を 発 表 し た。 古 川 は、 人 の 性 格 と い う の は、先天的な特徴である気質が基調となり、そこに、境遇 や教育などの後天的な要因が影響を与えて決まるものであ ると述べている。そして、ABO式の血液型が性格の基礎 となる気質に最も大きな影響を与えているのではないかと 考 え、 自 分 の 勤 め 先 の 学 校 な ど を 対 象 と し た 調 査 を 行 っ た。 そ の 結 果、 A 型 は、 お と な し い、 心 配 性 の、 不 平 家 で、引っ込み思案の人。B型は、よく気がつき、世話好き で、 陽 気 で、 黙 っ て い ら れ な い 人。 O 型 は、 気 の 利 か な い、冷静で、精力的で、強い人。AB型は、A型的で、B 型の部分も持っている人などとされた。この説には当時か ら賛否両論があった。 その後、一九七一年に能見正比古が『血液型でわかる相 性』という古川竹二の説を分かりやすくした解説書を出版 し、これが大ベストセラーとなり、世間の人々の関心を集 めるきっかけとなった。 二、血液型性格判断について 血液型と性格の関連例は、日本や韓国などの一部の国に 限られている。他の多くの国では血液型と性格の関連はあ まり話題にのぼらない。ヨーロッパではかつて、血液型が 人種差別や民族差別の議論に使われたこともある。また、 血液型を性格類型と関連づけるという方向の研究に向かっ たのは日本に限られていた。 心理学者や医学者は血液型性格判断に否定的であり、当 たっているように思われるのは心理的錯覚であるという。 このような現象について、社会心理学者の大村政男はFB I効果と名付けて説明している。FBI効果とは、どの人 ︶、ラ にも当てはまる表現を使うフリーサイズ︵ Free size ベルに基づいた認識をしやすくなるラベリング ︶ 、一度信じてしまうと信念に合った情報のみに ︵ Labeling ︶の三つ 注目してしまうインプリンティング︵ Imprinting の効果のことである。また血液型性格判断は差別につなが る危険性もあると危惧されている。 三、ABO式血液型の発見 一九〇〇年にオーストリアの首都、ウィーンの病理解剖 学研究所でランドシュタイナーが血液型を発見した。輸血 の研究のため、職場の同僚や部下の血液を集めて混ぜ合わ せ た と き に、 三 種 類 の パ タ ー ン が あ る こ と 見 つ け、 A、 B、Oと命名する。 血液型は赤血球の表面にある血液型物質「糖鎖」によっ て決まる。血液型を決める糖鎖の構造は、A型が六個の単 糖の鎖、B型が六個の単糖の鎖、O型が五個の単糖の鎖、 ABがA型とB型の糖鎖からなる。O型糖鎖は、ABO式 血液型の基本糖鎖といえる。 19 おわりに 以上のように血液型性格判断に科学的根拠があるわけで はない。しかし多くの日本人は血液型で相手を判断し、信 じてしまう。私自身、A型であるがB型と判断されること がある。このように必ずしも当たるわけではないので注意 したい。また、血液型だけで相手の性格を決めつけるので はなく、きちんとその人自身の性格を見抜くのも大切だと 思う。あくまで自分を分析するための一つの手段として捉 える程度ならいいとも思う。だから私は、ほどほどに血液 型性格判断を楽しみたい。 ︿参考文献﹀ 大村政男『新訂 血液型と性格』 福村書店、一九九八年 松田薫『「血液型と性格」の社会史』河出書房新社、一九九一年 ︿寸評﹀ 担当教員 吉村 正宏 教養セミナー「科学的な思考のレッスン」では、身近 なテーマを取り上げ、科学的な見方や考え方を学ぶこと を目標にしています。クリティカルシンキングの基本的 な考え方を理解し、ディスカッションや課題演習を行い ながら、自分の頭で考える力を修得します。また、教養 セミナー・ハンドブック「日本語表現法」を用いて、文 章にまとめる技術も学びます。清水さんは、血液型性格 判断について、歴史的背景を調査し見直すことにより、 日本と諸外国の見解に大きな隔たりがあることに気が付 きます。そして、信じやすさの心理と科学的信憑性の欠 如を、分かり易くレポートにまとめてくれました。一年 を通して、無欠席・無遅刻で受講し、きわめて真面目な 模範生の一人です。今後のさらなる活躍に期待していま す。 20 電子書籍の普及と 紙の書籍の消失 ︵歴史学科一年︶ 金 石 将 徳 一、電子書籍と紙の書籍 電子書籍が登場したいま、紙の書籍は存続していけるだ ろうか。電子書籍は紙の書籍にとって代わりうる、優れた 機能をたくさん持っている。人々の馴染みこそまだ薄いも のの、本格的に使用されるようになれば、またたく間に生 活の一部となっていき、私生活以外でも、職場でのオフィ スワークや学校の授業などで頻繁に顔を見かけるようにな る だ ろ う。 も し そ う な れ ば、 紙 の 書 籍 は ど ん ど ん 役 割 を 失っていくことになる。電子書籍が普及すれば技術も進歩 し電子書籍も機能を拡張されるだろう。その果てに、紙の 書籍は全ての役割を電子書籍の代替機能に取られて、一切 存在しなくなってしまうのだろうか。今回はマーケティン グ面には触れず、主に実用面に着目した比較から、電子書 籍の普及と紙の書籍の存続を考えていく。 二、電子書籍のメリット 電子書籍は、紙の書籍には真似できない優れた特性をい くつも持っている。たとえば電子書籍には実体がない。端 末に保存して読むものである。それゆえ紙を媒体とした書 籍と異なり、たくさん持ち歩いてもかさばらないという利 点がある。本は何冊も持ち歩いて読みたいとなると、カバ ンのスペースを著しく圧迫する。重量も冊数に比例して増 え、 持 ち 運 び に 不 便 で あ る し、 読 み た い 本 の 出 し 入 れ も ち ょ っ と し た 手 間 と な る。 本 や カ バ ン の サ イ ズ に も よ る が、普段から同時に持ち歩きが可能な本の冊数は一〇冊を 超えないのではないだろうか。ところが電子書籍は端末ひ とつの中に、ゆうに数百を超える冊数の書籍を持ち歩くこ とができる。たとえば学生が学校で使う数十冊の教科書や 参考書などもすべてひとつの端末に余裕をもって収まる。 仮に仕事で用いるあらゆる資料をデータ化して端末に保存 したとしても十分に収まるし、関係のない本や趣味の本ま でも持ち歩く余裕がある。そして読みたい本を探すのも簡 単な操作ですぐにおこなえる。 また、紙という実体のある本は経年劣化する。それがい い味を出すという人もいるだろうが、ページが欠損したり 汚れて内容が読めなくなったりすることもあり、経年劣化 は基本的に紙の書籍の短所である。電子書籍にはそれがな い。データが壊れていなければ半永久的に読むことができ る。また、データであるために翻訳や抽出、コピーや検索 などが容易であり、電子書籍はコンピューターの機能の恩 恵を直に受けることができる︵佐々木2、二八頁︶ 。 21 たしかに、情報のデータ化に伴うこうしたメリットの反 面で、電子書籍は読むのに慣れないというひとがいる。タ ブレットの操作を覚えるのが難儀だったり、それまで本に 手で直に触れて行っていたアナログな読み方に慣れている と、本の何回も読みたい箇所に折り目をつけたり、余白に メモを書き込むといった使い方を普段の感覚でできない電 子書籍は合わないというひともいる。しかし、最近電子書 籍の端末は読みやすさの方面でも進化を進めてきている ︵同、一八│二二頁︶。タッチパネルの採用に始まり、本を おおきく開いたような画面の上で、手でページのはしをめ くる動作をすると次のページへ移るなど、本に慣れ親しん だひとでも直観的な操作で書籍を読むことが可能な端末が 多く登場している。これまでの機能の拡張や端末開発への 力の入れ方を考えると、電子書籍はこれ以降にもさまざま な 機 能 が 追 加 さ れ、 便 利 さ、 使 い や す さ に よ り 磨 き が か かっていくだろう︵江澤1、一〇│二九頁︶。紙の本に慣 れ親しんだ世代にも気軽に扱え、教育やビジネスにはかか せないものとなり、そして新しい世代の子供たちは紙の本 に触れるまえに電子書籍に馴染む、そんな様相も現実離れ した空想ではなく、いずれ訪れる未来かもしれない︵佐々 木2、二八六│二九四頁︶。 三、電子書籍のデメリット しかし電子書籍には、インターネットを利用する機器の 宿 命 と も い え る 不 便 さ が 残 る。 そ れ は た と え ば イ ン タ ー ネットで電子書籍を購入、閲覧するとき、履歴等の情報が 残 る こ と だ。 ネ ッ ト 上 の 書 店 側 は、 利 用 客 の 購 入 履 歴 、 ペ ー ジ の 閲 覧 履 歴 を 参 考 に、 お す す め の 本 を 紹 介 し て く る。無視してもいいが、毎回ページを開くたびにおすすめ が表示されることをわずらわしいと思うひともいるだろ う。また、電子書籍の購入は現金手渡しというわけにはい かないので、まずポイントを購入するために、個人情報と クレジットカードの番号を登録し、利用規約に同意する。 すると、知らないような提携企業から広告メールが来てい ることがある。入力した個人情報は、企業の約束するプラ イバシーの保護によって守られてはいるだろうが、入力し たひと自身が把握しきれないようなところでも利用されて いるのである。 対して紙の本は、書店に足を運び、本をカウンターに出 して現金を払って本を受け取るだけである。袋にいっしょ に 広 告 を 入 れ ら れ る こ と も あ る が、 書 店 を 訪 れ る た び に 「あなたへのおすすめ」を紹介されることはない。また、 個人情報を明かさなくても購入できる。紙の本の購入はあ る意味自己完結しており、一度利用したからといってあと からしつこく何かを勧められたりしない。行きたいときに 行き、本を買って終わりである。物音を立てないとても静 かな買い物であるといえる。後に気にすることは何もない のだ。 22 四、今後の展望 電子書籍は便利である。画期的な特性をたくさん持ち、 既存の紙の書籍の性質も真似ることができる。その使い勝 手のよさは、この先の普及に拍車をかけ、簡単に歯止めの 効くものではないと思われる。しかし、その電子書籍につ きまとう特有のわずらわしさを嫌うひともいる。電子書籍 の普及は確実に進んでいくだろうが、紙の書籍が完全に息 をひそめることもなさそうである。 ︿参考文献﹀ 1江澤隆志『電子書籍の基本からカラクリまでわかる本』 洋泉 社、二〇一〇年。 2 佐 々 木 俊 尚『 電 子 書 籍 の 衝 撃 』 デ ィ ス カ ヴ ァ ー・ ト ゥ エ ン ティワン、二〇一〇年。 ︿寸評﹀ 担当教員 岩佐 宣明 自分の考えを論理的に表現する力を身につけることを 目標に授業に取り組んだ。春学期は文章構成の基礎を学 び、秋学期はそれをベースに各自自由テーマでレポート の作成に挑戦した。また今年度は初の試みとして、教員 が予め選定した文章を原稿用紙にそのまま書き写すとい う地道な作業を毎回課題として課した。その効果あって か、達成度に個人差はあるものの、真剣に取り組んだ学 生については全員が一定の水準にまで到達することがで きたと思う。金石くんのレポートはその中でも論理の構 成、文献の利用、表現の明確さなどの点においてとくに 優れていたものの一つである。紙幅の制限で今回は十分 に展開できなかった論点があると聞いている。完成版が どんなものになるのか、いつか読んでみたい気がする。 23 ベネチアンマスクから見る仮面 髙 野 夏 姫 ︵歴史学科一年︶ はじめに 世界にはさまざまな種類の仮面がある。日本では祭りで 売っている仮面や能面、なまはげ面などいろいろなものが あるが、海外でもさまざまな民族が祭事の際などに種々の 面を使っている。大体の仮面が人物や神、魔女や悪魔にな ぞらえて作られ、人は仮面の役になりきって自分とは違う 存在になる。だが、ベネチアンマスクは人ととらえること は で き る が、 仮 面 自 体 が ほ か の 仮 面 と は 違 い 神 や 他 者 と いった対象が背後に存在しないと感じた。仮面には表情が あるが、ベネチアンマスクはどれも同じ表情、無表情であ る。そのことに興味を持ち、仮面の歴史や意味、ベネチア ンマスクがなぜカーニバルで使われてるのかを調べようと 考えた。 仮面の歴史 仮面の歴史はヨーロッパでも古く、狩猟時代の動物の仮 装や仮面、ミケーネの黄金の仮面などを思えば、はるか昔 に仮面があったことが考えられる。また、ギリシアやロー マ時代では神のために仮装行列が行われていたといわれて いる。はっきりとわかっているのはビザンチン時代にゴー ド人が宮廷で行った年始のセレモニーである。毛皮による 仮装に仮面をつけ、踊ったり騒いだりした。古い仮面習俗 をこれは示している。 特に中世は仮面の歴史にとって大きな事象が起きた。一 つは中世盛期の華やかな騎士階級の試合における仮面騎行 である。騎士による紅白試合が非常な流行をみせ、民衆の 期待と喜びは大きかった。宮廷騎士の仮面行事には民間の 行事が入ったりもした。民間の行事が騎士の仮面騎行にも 影響したが、騎士の試合が民間行事に影響を及ぼすことも 多かった。 騎士階級の没落とともに中世末期、上流階級の華麗な仮 面劇は次第に消えていった。 これに反して次の事象は長くあらゆる民衆層に浸透して いった。キリスト教の民衆への浸透、教会の習慣の年中行 事化と手をたずさえている宗教劇である。中世末期に宗教 劇は教会・修道院の枠組みをこえて民衆化していった。聖 職者や遍歴学生たちも民衆の仮面行事によせる喜びに共感 し、彼らは子供の司教の行列だけでなく劇やダンスをとり い れ た。 こ れ に よ り ク リ ス マ ス や 復 活 祭 に 演 劇 が 登 場 し た。 こ の 宗 教 劇 は い た る と こ ろ で 民 衆 文 化 に 影 響 を 与 え た。特に、木の仮面の行事が残されている土地はゴチック 24 演劇や絵画等の舞台芸術の中心地でもあったとされる。 一方、仮面がグロテスクな姿を呈するようになった原因 の一つにカール五世︵一五〇〇∼一五五八︶時代の新大陸 発見があるともいわれる。先住民族の醜悪で滑稽なデザイ ンの仮面が取り入れられるようになり、悪魔の面が本来の 深刻な感じから、いわば遊びの要素が濃くなっていく。 このようにして各地で様々な要素が入った仮面行事が伝 えられ、そのことは一六世紀から文書に記録される。 また、教会から仮面行事を禁ずる布告がたびたび繰り返 されるようになり、一八世紀の啓蒙主義の時代には古い迷 信・習俗に対しての戦いが正しい民衆教育と解され、仮面 は 回 収 さ れ 破 壊 さ れ た。 仮 面 行 事 の 禁 止 は 何 度 も 実 施 さ れ、仮面をつける人は厳しく罰せられたが、各地に廃れる ことなく残った。 一九世紀には禁止はほとんどなくなり、古来の伝統行事 は妨げられることなく続けられた。二〇世紀になると保護 育成する動きが出てきて多くの協会が誕生、行事を支え、 衰えていた仮面行事が再び盛りかえし大規模なものになっ た。 昔 は 参 加 出 来 な か っ た 女 子 も 今 は 行 事 に 進 出 し て い る。 仮面の意味 ︶や ア ル プ ス 中 心 の 山 岳 地 帯 で は、 マ ス ケ︵ maske ︶、ラルフェ︵ larve ︶と仮面を呼ん シェーメン︵ schemen でいる。 ︶から派生した語で マスケはラテン語のマスカ︵ masca 「死者をつつむ網」を意味した。この意味から「この世に 帰 っ て く る 死 者、 幽 霊、 悪 霊 」 と い う 意 味 を 持 つ よ う に なった。 シ ェ ー メ ン は 元 来 ギ リ シ ア 語 で「 影 」 を 意 味 し、 ル ッ ターの戦い以後「空虚な影のような霊魂」の意味で用いら れ、チロル周辺では「木彫りの面」の意味である。 の 借 用 語 で あ り「 幽 霊 」 ラ ル フ ェ は ラ テ ン 語 の larva 「 仮 面 」「 幼 虫 」 の 意 味 を も つ。 中 世 高 地 ド イ ツ 語 で も、 「幽霊」「霊」の意をもつがネッカー川上流地方では木製の 仮面を表すのに用いる。 「幽霊」の意味をもつことで、仮面 三つの語が「死者」 は崇拝、特に祖霊や死者崇拝と関連づけられる。仮面が聖 具として用いられた時期もある。 ベネチアンマスクとカーニバル ベネチアのカーニバルの起源は一一世紀頃に遡るといわ れている。その中で仮面をつける風習は一五世紀頃から広 まった。のちの仮面舞踏会に多大な影響を与えた。ルネサ ンス期に正式なものになったが、一七九七年、ナポレオン によりカーニバルが廃止された。二〇〇年後の一九七九年 にイタリア政府がベネチアの文化と歴史の保護育成に乗り 出してカーニバルが復活した。今では世界で有名なカーニ 25 バルになっている。 カーニバル期間中、人々は仮面をつけ仮装し楽しんだ。 仮面はつけた人の身分や階級、年齢を隠しただけでなく日 頃抑えられていた欲望を解放させる役割をも持っていた。 仮面と同じく仮装も広がり、だんだんと華麗でゴージャス になっていく。 仮面の代表的なものはフルマスク、アイマスクである。 フルマスクは顔全体を覆う仮面。ベネチアカーニバルで一 番多く着用される白い仮面がそれにあたる。飲食ができる ように口周りが広がった昔、貴族の間で流行したデザイン である。反対に顔全体を覆うのでなく、主に目の周りの部 分を覆うデザインマスクもある。喜劇役者の女優のために デザインされたといわれている。そのほかにも嘴のついた ユーモラスな仮面がある。これはペストが流行したときに 医者がペストから身を守るため、患者にあまり近づかない ように使った仮面である。嘴の中にはハーブなどが詰めら れていた。 伝統的な製法で作られるベネチアンマスクは紙で作られ ているが、最近は鉄も使われている。鉄を腐食させて作る ので繊細な透かしが特徴でありワンポイントとして使われ る。 無表情の仮面を見ると人によっては気味が悪いと感じ る。というのも私たちは人の身分、名前、感情をほとんど 顔から見ている。顔は人物を特定する中心的役割を担って いる。その顔を隠すことにより表情がわからなくなり誰か もわからなくなってしまうからである。仮面は人としての 人格を取り払い、何物でもない存在に変えると同時に人を 隠し、別の人物を演じる効果を発揮する。ベネチアという 狭い場所に多くの人が暮らしているとすぐに素性がわかっ てしまう。仮面が同じ表情なのはみんなと同じにすること で、人物が特定されないようにする。そのため自分を隠す 意味で人々は仮面をつけカーニバルに参加した。 おわりに 仮面の歴史を調べていくと古くてまた中世の人々の文化 に影響を与えていたことに驚いた。また、仮面は依代とし て 使 わ れ る こ と も あ り、 神 が 宿 っ て い る と も 言 わ れ て い る。時代の流れで仮面行事の中止や仮面の破壊が行われて いたことにはびっくりしたが廃れることなく今日まで残り 伝統を繋いでいる。 仮面は自分を出すことはない。ベネチアンマスクだけで も表情は同じだが様々な種類があり、調べていくと多様な 用途や意味がわかり調べる前とは違った印象を仮面は見せ てくれた。 ︽参考文献およびURL︾ ・坂部恵『仮面の解釈学』 東京大学出版会、一九七六年 ・谷口幸男・遠藤紀勝『仮面と祝祭│ヨーロッパの祭りにみる死 26 と再生│』 三省堂、一九八二年 持ち調査テーマにすることになったのかや、さまざまな ・イタリアのカーニバル 地域と時代に仮面が持っていた儀礼的意味に思いを馳せ http://www.itaria.it/il-carnevale-in-italia/ ながら、ベネチアンマスク特有の表情が持つ不可思議な ・フィレンツェガイド日記 魅力について抱いた直感などが述べられている。結びの http://yukipetrella.blog130.fc2.com/blog-entry-286.html 文では、仮面行事と地域の持つ長い歴史的関連への気付 ・ベネチアンマスクの種類と豆知識 きからくるマスクに対する印象の変化や、益々深まる謎 http://bloodyrose.fy.shopserve.jp/hpgen/HPB/entries/13. への想いが吐露されている。 html ・ヴェネツィア・カーニバル│ Wikipedia 本文では、先ず仮面の歴史に触れ、ヨーロッパ地域に http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%8 広がる仮面・仮装・舞踏の習俗とその歴史に注目しなが 3%8D%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3 ら、特に中世の騎士階級との関係が深い「仮面騎行」に %82%AB%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%AB 注目している。また、キリスト教の民衆層への浸透に伴 ・節約旅行 .info う宗教劇の大衆化がもたらした種々の行事とヨーロッパ http://feel-the-earth.com/wp/?p=266 各地に残されている先史的要素との関係にも留意し、仮 面行事の禁止が繰り返された理由とそこでの仮面の役割 などを考察している。次いで仮面の意味に関しては、言 語的起源をたどってその意味の多様性を洞察している。 最後に「ベネチアンマスクとカーニバル」の歴史やマス クの種類および製法について調べた内容を丁寧に文章に まとめている。人間の個を隠蔽し何ものでもない存在に するアイテムとしての仮面の秘密に迫ろうとする筆者の 気持ちが文章全体からよく伝わってきた。 一年間の「教養セミナー」授業が、高野君の今後の大 学での勉学・研究に少しでも活かされ、また、生涯持ち 続けられる興味の対象を探すきっかけになれば幸いであ ︿寸評﹀ 担当教員 岡島 秀隆 レポート作成にあたっては、予めいくつかの約束事を 付した。全体を序・本文・結びの三部構成とし、序の部 分にはテーマ選択の経緯やレポート作成の動機に関する コメントを記すこと、本文には内容ごとに小見出しを付 けること、結びには自身の感想や意見を書くこと、参考 文献やインターネット上の参照ページを明示することな どである。 髙野君の文章は上の条件を充たしており、その文体は 読みやすい。 序文には、自分がなぜ「ベネチアンマスク」に興味を 27 る。これからも愉しみながら努力を続けてくれることを 期待してやまない。 ガラス工芸 ︱長崎びいどろ︱ 稲 垣 志 帆 ︵日本文化学科一年︶ はじめに ガラスには多くの色があり、様々な用途やそれによって わけられる形状、そして細かい技巧によって作られた非常 に美しいものが数多くある。耐久性を持っているが、その ほとんどは雑に扱えばすぐに壊れてしまう。そんな儚さを 兼ね備えたガラス工芸が私は好きである。 特に好きだと思い始めたのは小学校四年生のころだ。長 崎に住む叔父が、その恩師である人が経営するガラス美術 館に連れて行ってくれたのがきっかけである。当時私は自 宅にあったポッピンが好きであった。ポッピンがびいどろ であると思っていたために、長崎びいどろを観に行くぞと 言われたときには嬉しくてすぐについていった。しかしそ こにはポッピンはあまり置かれていなかった。展示されて いたのはポッピンではなく長崎びいどろであったからだ。 長崎びいどろが伝わってきた順に展示されていた。そのた め最初に目に映ったものはガラスビンであった。土で汚れ ており、ポッピンじゃないのかとがっかりしたことは今で も覚えている。ところが奥に進めば進むほど時代は新しく 28 な り、 色 や 形 状 の 異 な る 綺 麗 な ガ ラ ス 細 工 が 増 え て い っ た。最後の暗い部屋で細かい細工を施されたたくさんの大 きな花瓶がライトで照らし出されているのを観たとき、私 は感動し、ガラス工芸品に今までにない魅力を感じたので ある。 数多くあるガラス工芸の中で長崎びいどろに視点をおい てこの文を書くのは上述のような出来事が大きなきっかけ である。 ガラス起源 ガラスの発見には有名なプリニウス説話がある。大プリ ニウスの『博物誌』に書かれている。フェニキアの商人が 海岸で炊事をしようとしたときに炉を築くために恰好な石 が見つからなかった。そのため船に積んでいたニトラムの 塊を用いたところ、白砂とニトラムが融解してガラスが流 れ出たという話である。しかしガラスの起源はプリニウス の時代を遥かに遡るため、これは単なる説話にすぎないら しい。 ガラスが工芸品になってからの歴史を数える人や、ガラ ス自体が作られ始めてからを数える人がいるため正確な起 源はわからなかった。しかし私が調べた中では、紀元前四 五〇〇年ごろにメソポタミアで作られたフィアンス珠が もっとも古いガラスの起源である。 日本に伝わるガラス 日本で最古と思われる青色ガラス小玉が、青森県亀ヶ岡 遺跡で出土した。これにより、日本には紀元前三〇〇年ご ろ、縄文時代晩期にガラスが伝わっていたと推測されてい る。 縄 文 時 代 に 出 土 し た ガ ラ ス は こ の 一 点 の み で あ っ た が、弥生時代の遺跡になるとおびただしい数の玉類が出土 しているという。この事実から、弥生人が青銅器の製法と ほぼ同時期にガラスの製法をもたらした可能性が考えられ る。岡山県鹿田遺跡という弥生時代後期の遺跡から炉跡と みられる遺構が発掘されたため、弥生中期には日本でガラ スが製造されていた可能性がうまれた。 南蛮ガラスの伝来 一五四三年、一隻のポルトガル船が種子島に漂着した。 これによって鉄砲が日本に伝来したことは教科書に載って いる。だが、南蛮船が持ってきたのは鉄砲のみではない。 西 洋 の 文 物 も も た ら し、 そ の 中 の 一 つ に 南 蛮 ガ ラ ス が あ る。 時の権力者に対し、キリスト教宣教師たちは様々なガラ ス器を献納した。手の込んだびいどろや、老眼鏡や双眼鏡 に時の権力者たちは大変喜んだので、南蛮ガラスは布教活 動の展開に有効に作用したのだ。 29 長崎とポルトガル人 一六三五年より、外国船と長崎港以外の港での交易が禁 止された。そのため、長崎は西欧貿易の古い歴史を持つこ とになった。 『南蛮文化渡来記』︵サイマル出版会発行︶の一〇四ペー ジには「一五七〇年︵元亀元年︶長崎に居着したポルトガ ル人が、長崎にガラス工場を建てたという報告書がある」 と記されている。これより、長崎開港と同時にポルトガル 人によってガラスが長崎で製造され始めたことがわかる。 古代ガラスの製造方法とは異なる、長崎びいどろに大きく 関わる南蛮ガラスの技法が伝わったのである。 長崎びいどろの製法 長崎びいどろの製法は、中国法と南蛮法の混成とされて いる。 『長崎夜話草』のガラスは南蛮渡来の製法で記載されて いるが『和漢三才図会』や『万金産業袋』はいずれも鉛ガ ラスの製法で記載されている。ポルトガルやイスパニヤは 当時鉛ガラスを作っていなかった事実がある。そのため南 蛮法が入る前に鉛ガラスをつくる中国式のガラス製法が伝 わっていたと考えられる。 現存するガラス器の組成はいずれも中国式の鉛ガラスで ある。しかし技法に関しては現代も残る「吹きガラス」の 技法、粘土の型に吹き込んで成型する技法が大いに吸収さ れている。そのため長崎びいどろは中国法と南蛮法の混成 といえるであろう。この製法はのちに、大阪や江戸の方面 に伝わっていき、独特の方法で発達していったという。こ のことにより近代ガラスの発達は長崎が起源となっている ことがわかる。 長崎びいどろの特長 長崎びいどろの特長は作り方にあると考えられる。今回 参考にした資料にもなんども作り方が書いてある。それほ ど長崎びいどろは作り方が特長的なのであろう。 その作り方は現代でも行われている方法である。まず、 宙吹で本体を作り、吹き竿を付けたまま中冷ましの状態に する。そして口の部分に溶けたガラス種をつけて吹き竿か ら息を吹き込む。すると種の熱で本体に穴が開いて口が貫 通する。それに引き出し口を作り、取っ手の耳を付け、吹 き竿を切り離し開口部を合わせて蓋を作るというのが作り 方である。 私は一度経験したことがあるが、なかなか難しかった。 竿を回しながら息を吹き込むのだが、一気に吹いてしまっ てはガラスの厚さにむらができてしまう。だからといって ゆっくりゆっくりと吹いても固まってしまってうまく形が 作れない。程よく息を吹き込みながら形を整えることが大 切であった。また、作るときにはちょうどいいと思ってい ても、出来上がったら意外と小さかった。「文化、文政時 30 代の長崎ガラス工の腕の冴えを今に残す遺品」などと文献 に書かれているのも納得である。 長崎びいどろの玩具 長崎びいどろの玩具であるポッピンは、私がガラスに興 味を持ち始めたすべてのきっかけである。 私が好きなポッピンは長崎でいう“ポコン・ポコン”と いう玩具らしい。最初はオランダ人が持ち込み、子供や遊 女があそんでいたらしい。 型は漏斗形で底部は極めて薄く、管の端を口でくわえて 軽く息を吹いたり吸ったりする。すると底部が出たり引っ 込んだりして音が出る。珍しくガラスの弾力性をつかった 玩具である。 ポコンポコンという名前は底部が出たり引っ込んだりす るときの音色から名づけられた。戦前まで天満天神さまの 十 日 恵 美 須 祭 り に“ ポ ッ ペ ン ” と い う 名 で も 売 ら れ て い た。有名な喜多川歌麿の絵である「ポッピンを吹く女」の 女が吹いているのもポコンポコンと同じものである。また 現在ではビードロという名前でも売っている。私が最初に 勘違いしたのはそのためでもある。 当時ポッピンはガラスの色が青色と紫色のものが割合多 く売られていたそうである。数が少なく希少な物であった そうだ。現在では透明なガラスにかわいらしい柄が描かれ たものが長崎土産として多く売られている。 ポッピンはただ吹いたり吸ったりして音を出すだけの素 朴な玩具である。しかし柄も可愛く、素朴さに趣があり個 人的にとても好きである。インテリアとして飾っても可愛 いので我が家にも飾っている。 おわりに 長崎びいどろは、古代から日本に伝わっていたガラス製 法とは異なる。長崎に伝わった南蛮法と古代からの製法の 両者の長所をとったものが長崎びいどろの特長であり、そ の製法は現代にも伝わっている。そしてその長崎びいどろ の製法が大阪や江戸などに伝わっていき、薩摩切子や江戸 切子などの美しいガラスが生まれた。現代のガラス工芸の 起源は長崎びいどろにある。今回長崎びいどろを調べたこ とをきっかけに、現代のガラス工芸に関わる正しい知識を 得られた。しかし、 「ガラス工芸のことを私は全然知らな い、もっと知りたい」と思えたことが一番の収穫であると 私は思う。 ︽参考文献︾ ・ダン・クライン/ウォードロイド編『ガラスの歴史』 西村書店 ・川添利男『長崎びいどろ』 昭和堂出版事業部 ・土屋良雄『日本のガラス』 しこうしゃ図書 ・中山公男監修『世界ガラス工芸史』 美術出版社 31 ︿寸評﹀ 担当教員 岡島 秀隆 レポート作成にあたっては、予めいくつかの約束事を 付した。全体を序・本文・結びの三部構成とし、序の部 分にはテーマ選択の経緯やレポート作成の動機に関する コメントを記すこと、本文には内容ごとに小見出しを付 けること、結びには自身の感想や意見を書くこと、参考 文献やインターネット上の参照ページを明示することな どである。 稲垣君の文章は上の条件を充たしており、文体は率直 で無駄がなく読みやすい。 序 文 に は、 幼 少 期 の 記 憶 を た ど り つ つ、 家 に あ っ た 「ポッピン」がガラス工芸への素朴な関心を生み、さら に家族と訪れた長崎でガラス工芸への興味が決定的に なった経緯を語り、そのことが今回「長崎びいどろ」を 調査テーマにする動機になっていることを説明してい る。 本文では、最初にガラスの歴史に触れている。ガラス の起源については、プリニウスの『博物誌』などに見ら れる説話を紹介し、次いでガラスが日本に伝えられた時 期に関して、縄文晩期との推測があることを述べ、さら に日本でガラス製造がおこなわれていた時期について も、弥生中期との推測を紹介している。続いて南蛮ガラ スの伝来と長崎びいどろの製法が取り上げられている が、長崎びいどろの製法について、そのガラス製法が古 来からある鉛ガラスの製法と南蛮渡来のソーダガラスの 製法との混成であること、製作法が吹きガラス技法によ ることなどに顕著な特徴がある点を強調して説明に紙数 を割いている。最後に筆者が長崎びいどろに興味を抱く きっかけとなったポッピンの形状や異名、さらに玩具と してのおもしろさやインテリアとしての魅力が語られて いる。 結語に手短に書かれた筆者の感想の中には、今後も継 続するであろうガラス工芸への知的好奇心が如実に示さ れている。 一年間の「教養セミナー」授業が、稲垣君の今後の大 学での勉学・研究に少しでも活かされ、また、生涯持ち 続けられる興味の対象を探すきっかけになれば幸いであ る。これからも愉しみながら努力を続けてくれることを 期待してやまない。 32 きん じき 日本の伝統色・禁色について 及 川 美 幸 ︵日本文化学科一年︶ 一、はじめに 日本は、律令制を導入することで、明確な身分制度をつ くりあげた。その身分制度を、目に見えるかたちで表した ものが禁色である。禁色とは、天皇や皇太子などの皇族と 禁色宣下︵禁色に指定された色を着用する許しの宣旨︶さ れた人物にのみ許された色のことをいう。時代により、指 定される色に多少の変化はあるが、近年まで禁色という概 念は存在していたのである。 そこで、禁色という面から色と身分の関係について見て いく。 二、日本の禁色 日本で最たる禁色とされていたのは、天皇が「ハレ」の 儀式の際に着用する黄櫨染である。しかし、一般には天皇 の日常着の青、上皇の赤、皇太子の黄丹、一位の深紫と、 この四色の類似色の支子、深緋、深蘇芳の七色が禁色とさ れていた。ここでは、天皇の黄櫨染と皇太子の黄丹、一位 の深紫について詳しく見ていく。 黄櫨染は、弘仁一一年︵八二〇︶に嵯峨天皇によって天 皇が「ハレ」の儀式に着用する束帯の袍の色として禁色に 指定された。このときから黄櫨染は天皇を象徴する色とな り、現在でも即位の礼などの大きな儀式の際にはこの黄櫨 染の袍が用いられている。色は盛夏の太陽を象った赤黄色 で、櫨の黄と蘇芳の赤を重ね染めすることでだすことがで きる。また、裏地に紫を使用することで、光の角度によっ て赤褐色にも見える二色性がある。複雑な染色のため、歴 代天皇の袍で同じ色に見えるものはほとんどないといわれ ている。 黄丹は、養老二年︵七一二︶の衣服令において皇太子の 礼服として禁色に指定された。黄櫨染と同じく皇太子を象 徴する色となり、現在でもご婚礼の際などにはこの黄丹の 袍が用いられている。色は、曙の空のようなオレンジに近 い黄赤色で、支子の黄と紅花の赤でだすことができる。同 じ支子を使用する支子色は、支子の実のみで染めた赤みの 黄色のことで、黄櫨染や黄丹の類似色のため禁色に指定さ れた。 深紫は、親王と一位の人物︵太政大臣など︶のみに許さ れ た 禁 色 で あ る。 臣 下 の 最 高 位 の 人 物 が 着 用 し て い た た め、極官の色という意味の至極色とも呼ばれた。もともと 紫は、禁色という概念のなかった時代から、その染色の手 間と染料の希少さゆえに高貴な身分の象徴とされていたの である。 33 三、世界の禁色 日本だけではなく、世界にも禁色は存在した。有名なも のでは古代ローマ帝国の貝紫、中国の黄色がある。両者と も、絶対的な権力を持つ皇帝を象徴する色として、皇室以 外の使用を禁じた色である。 古代ローマ帝国の貝紫は、アクキガイ科の巻貝からでる 白い分泌物が太陽光に当たることで紫色に変化する性質を 利用した色で、赤みの強い紫色であり、チリアンパープル ︵ 帝 王 紫 ︶ や ロ イ ヤ ル パ ー プ ル︵ 王 者 の 紫 ︶ と も 呼 ば れ る。一グラムの染料を得るために二千個、洋服地一着分で 一万七千個もの巻貝を必要とするため、非常に高価で、手 に入れにくい色であった。その希少さと美しさにより貝紫 は禁色となったのである。 中国で黄色が禁色とされたのは、陰陽五行説で黄色が中 央や大地を表す最も高貴な色とされていたためである。秦 の始皇帝から清朝最後の皇帝まで、黄色は禁色であり続け た。特に清朝では皇帝と皇太子は明黄色、皇子と親王は金 黄色と定められており、皇室のなかでも、帝位を継ぐ者と 継がない者が色によって分けられていたのである。 このように世界でも、色によって権力を目に見えるかた ちで表していたのである。 四、まとめ 色で身分や職業がわかるということは、現代の日本では 考えられないことである。しかし、日本の歴史の中では色 によって身分を見分けていた時代が多くあり、特に奈良・ 平安時代など、天皇が直接政治に関わる時代にはその傾向 が強い。これには様々な理由があるが、天皇や皇太子に太 陽という天空の色を用いることで、他の人々との立場の違 いを明確にすることや、色により身分を可視化し、円滑に 政治を行おうとしたためではないかと考えられる。 このようなことから、禁色は序列のシンボルとなり、色 に対する社会的価値観を生み出したのである。 ︿参考文献﹀ 杉本惇『日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本』 新人 物往来社 中江克己『歴史にみる「日本の色」』 PHP研究所 福田邦夫『すぐわかる日本の伝統色改訂版』 東京美術 │名画の色・歴 城一夫『色の知識 Color Museum in the World 史の色・国の色│』 青幻舎 ︿寸評﹀ 担当教員 河合 泰弘 学問というものは、自己の興味や関心を、大いなる疑 問をもってとことん追究することである。そういった意 味 で、 趣 味 も 学 問 に な り 得 る。 そ こ で、 私 の 教 養 セ ミ ナ ー で は、 「趣味から始める学問入門」をキャッチフ レーズに、各学生が自己の趣味や関心事の中から一つの テーマを選び、それをレポートにまとめ、さらにはその 34 内容をプレゼンするという手順で授業を進めていった。 及川さんのレポートは、 “禁色”を通じて、色と身分 の関係をまとめたものである。授業ではこの内容をプレ ゼンしてもらったが、そこではカラー写真なども呈示し な が ら 説 明 し て お り、 よ り 分 り や す い 内 容 に な っ て い た。彼女は、普段の態度は大変おとなしく、控えめであ るが、授業には積極的に取り組んでおり、その姿勢に好 感が持てる。このような真摯な態度は、これからの大学 生活の中において、大いに生かされることだろう。 大日本帝国海軍 │戦艦から見る敗戦の理由│ ︵歴史学科一年︶ 中 野 拳 弥 はじめに 私は、艦船模型を作るのが趣味で、日本海軍の戦艦や空 母などをたくさん製作してきた。それらを見ていると、こ んなに立派なものを持ち、当時世界最強と呼ばれていた日 本海軍がなぜ敗北したかを疑問に持った。そこで私は、日 本海軍の特に花形と呼ばれていた戦艦に焦点を当て実際の 戦闘や日米の比較を通じて、大日本帝国海軍の敗北の理由 を考えていきたいと思う。 大日本帝国海軍概説 大日本帝国海軍の歴史は黒船来航までさかのぼる。当時 の日本は海軍を持っておらず、ペリーが来航後、海上防衛 の重要性を思い知った日本は急速に海軍力の整備に力を入 れた。しかし船は外国から購入することができたが、人材 の育成をする場所がなかった。そのため幕府は「海軍伝習 所」という教育施設を設け伝習生監として勝海舟を抜擢し この施設が日本帝国海軍としての第一歩となった。 35 軍艦とは 一口に言って、軍艦にはたくさんの種類がある。たとえ ば誰もが一度は聞いたことがある駆逐艦は、日本海軍では 軍艦とは言わない。日本海軍では三万トン以上で三六セン チ以上の主砲を持つものを戦艦、二〇センチ砲を持つのを 重巡洋艦で二〇センチ砲を乗せられないのを軽巡洋艦、そ してこれらに砲艦と空母を含むのが軍艦である。これら軍 艦の艦首には菊のご紋章がつけられているが、軍艦には含 まれない艦艇、駆逐艦や潜水艦には菊のご紋章がない。 大日本帝国海軍の主力戦艦 大日本帝国海軍は第二次世界大戦当時、三五・六センチ 砲搭載の「金剛」型を四隻、三五・六センチ砲搭載の「扶 桑」型を二隻、同じく三五・六センチ砲搭載の「伊勢」型 を二隻、世界初の四〇センチ砲搭載の「長門」型戦艦を二 隻、そして皆が知っている世界最大最強の四六センチ砲搭 載「大和」型を二隻、合計一二隻を保有していた。 しかしその中で終戦後まで自立航行可能であったのは、 長門ただ一隻であった。そのほかの戦艦は、航空攻撃によ り沈められた戦艦が五隻、潜水艦により沈められた戦艦が 一隻、また停泊中に爆発した戦艦もあった。 意外と知られていないのが敵艦との艦砲射撃により沈め られたり、行動不能になった船が四隻もあることだ。それ に対し作戦行動中に航空攻撃によって沈められた船はたっ た三隻であった。 日本と米軍の比較 日本海軍は第二次世界大戦の間、終始艦隊決戦を待ち望 んでいた。しかし米国は航空攻撃を主体としながら戦艦を 対艦攻撃だけでなく、空母の護衛として柔軟に運用してい た。そのための対空兵器としてVT信管と呼ばれた時限信 管付きの対空兵装やレーダーなどを開発して、対空に力を 入れた。日本海軍も空母の護衛として戦艦を時々使用した が、空母と同じ速度が出せたのは最新の戦艦大和型ではな く最も老齢の金剛型四隻のみと少なかった。 また米軍はレーダー管制射撃を行えるようになり命中率 が飛躍的に上昇したが、日本軍はレーダーを軽視していた ためその配備が遅れた。その例として挙げられるのが第三 次ソロモン海戦だ。この海戦は日本軍がガダルカナル島へ の 攻 撃 を 企 画 し た も の で あ っ た が、 攻 撃 を 仕 掛 け た「 霧 島」と、米国の新鋭戦艦「サウス・ダコタ」と「ワシント ン 」 と の 間 で 砲 撃 戦 と な り、 日 本 軍 は、 「 サ ウ ス・ ダ コ タ」を撃破したものの、レーダー管制射撃を受け、三〇発 以 上 の 砲 弾 が 命 中 し て「 霧 島 」 は 大 破 し 自 沈 し て し ま っ た。しかし日本海軍も弱かった訳ではなく、対空用に三式 弾という空中で火を破裂させる独自の砲弾を完成させてお り、ガダルカナル島戦においてヘンダーソン基地艦砲射撃 を行い大損害を与えることができた。 36 「大和」も一度だけ敵空母に砲弾を発射したことがあ る。それはフィリピン・レイテ沖海戦においてである。こ の海戦は栗田艦隊謎の反転により敗北となったが、その際 日本国海軍の戦艦は米国護衛空母部隊に砲撃をしている。 しかしあまりにも主砲弾が強力すぎ護衛空母の船体を貫通 してしまうという喜劇も発生してしまった。 終わりに 最近ではよく戦艦は無用であったなどといわれるが私は そうは思わない。日本が敗北したのは航空機を主力とする と共に戦艦を柔軟に運用することができなかったためであ ると考える。さらに戦艦を収録兵器と思い込み艦隊決戦を 望みすぎるあまり戦艦を決戦まで温存しようとしすぎたた め、本当に必要なときに出撃させなかったこと。そして新 装備への偏見により、装備の開発が遅れたことが原因だと 私は考える。 最後に大日本帝国海軍の戦艦の現在について紹介する。 ま ず 謎 の 爆 沈 を 遂 げ た「 陸 奥 」 の 一 部 が 現 存 し て い る。 「陸奥」は呉で沈んだためにその一部が引き上げられ現在 大和ミュージアムと陸奥記念館などに保存されている。ま た、ほかにも名前が残っているものもある。海上自衛隊の 艦艇の名前がそれだ。船はなくなり時代が変わっても、そ の魂は今にも受け継がれているということだろう。 ︿参照文献﹀ 太平洋戦争研究会『武器・兵器でわかる太平洋戦争』 日本文芸 社 大東亜戦争研究会 『大和・赤城と日本の軍艦』 竹倉出版社 『季刊Jシップス』 イカロス出版 ︿寸評﹀ 担当教員 河合泰弘 今回のレポートを見る限り、中野君は第二次世界大戦 中の軍艦に深い知識を持つ軍事ヲタクといえる。これら の分野に関しては、一部のマニアを除き、一般学生には 難しいようである。実際、授業時のプレゼンでは、聞く 側の学生の反応がやや鈍かった。それは、知識を豊富に もつがあまり、それを十分に取捨選択していないことに 原因の一端はあっただろう。 今回は、マニア的な視点からのレポートであったが、 今後は、軍艦があくまでも戦争の道具であることを十分 理解し、戦争の悲惨さにもついても考えてもらいたい。 彼 の 真 面 目 な 学 習 態 度 に は、 好 感 と 期 待 が 持 て る の で、豊富な知識を正しく生かせるように、精進してほし い。 37 仮面の歴史とその役割 河 村 恭 介 38 アルジェリアの南にある紀元前四〇〇〇年のタッシリナ ジェールの岸壁画には仮面を着けた人物が描かれており、 現在から六〇〇〇年以上前には既に仮面という文化が存在 していたと推測される。また、日本では奈良県桜井市の大 福遺跡から二世紀後半頃︵弥生時代末期∼古墳時代初期︶ の物と思われる木製の仮面の断片が発掘されている。 三、宗教儀式と仮面 人類が最初に仮面を作った理由は、宗教的儀式・儀礼に 用いる為であったと言われている。かつては、多くの地域 で風や炎、大地や水など、自然のありとあらゆるものには 神 々 や 精 霊 が 宿 っ て い る と 信 じ ら れ て い た。 そ こ で 人 々 は、それらを象った面や衣装を身につけて踊ることで、自 ら の 身 に 憑 依・ 降 臨︵ い わ ゆ る、 「 ト ラ ン ス 状 態 」︶ し た 神々と対話を試み、それによって豊穣を祈願したり、災厄 を回避しようとする儀式・祭りが広く行われていた。前述 の奈良県の大福遺跡から発掘された木面も、農耕儀礼の際 に用いられていたのではな いかと言われている。 こういった儀式は、現代 の日本にも形を変えて息づ いている。有名な秋田県の なまはげは、山の神の使い として人里に現れ、赤い鬼 ソンゲ族 森の精霊のマスク ︵日本文化学科一年︶ 一、はじめに 私は、漠然と仮面に興味があり、様々な形状の物を集め て き た。 し か し、 仮 面 と い う も の が ど の よ う な 意 味 を 持 ち、何に使われるのか考えたことは無かった。この顔を隠 す道具が人の歴史にどんな役割を持って関わってきたの か、今一度考えるべく今回のテーマとした。 二、仮面とは 木・土・紙、近現代では鉄・ ゴム・プラスチック等を顔の形 に形成し顔の一部、若しくは頭 部全てに着ける、被る、もしく は覆うものである。日本におい ては、布やゴムなどの柔らかい 素材で顔を隠すものはマスクや 覆面と呼ばれ、硬質の素材で作 られたものは仮面と呼ばれる事 が一般的である。 大福遺跡から発掘された 日本最古の仮面 の 面、 ケ ラ ミ ノ、 ハ バ キ を 纏 っ た 姿 で「 悪 い 子 は い ね がー」 「泣ぐ子はいねがー」と声を上げながら家々を練り 歩き、そしてその先で人々の怠惰や家庭の不和を諌め、災 いを祓うことが目的とされている。これもまた、今なお日 本に残る仮面を用いた儀式・祭事であるといえる。 アフリカの少数民族には、各部族が信じる神々や精霊、 動物などをモチーフにしたユニークなデザインの仮面が数 多く存在している。彼らは精神性を重視するため、写実的 で あ っ た り、 シ ン メ ト リ ッ ク で あ る こ と が「 美 」 で は な く、精神を表現して大きくデフォルメされたり、歪んでい るものこそがリアリスティックであり美しいとされた。彼 らの作る仮面はエネルギッシュで生命の力強さに溢れてお り、見ていて非常に興味深い。 四、芸術・芸能としての仮面 中世以降からは、仮面が祭礼や儀式に用いられることは 少なくなり、より芸術的な側面が強められていくことにな る。 日本では、能楽・神楽に登場する能面が有名である。こ れらは面︵おもて︶と呼ばれ、鬼神・老人・男・女・霊の 五つに大別され、それぞれに数多くの面が存在する。これ らの面には非常に精緻な彫りが施されており、一つの面で も 角 度 に よ っ て 笑 い 顔 や 泣 き 顔、 困 り 顔、 怒 り 顔 な ど の 様々な表情を表せるように作られている。 また、中世後期ヨーロッパでは、王侯貴族達によって宮 廷で仮面舞踏会︵マスカレード︶が行われるようになる。 これは、上流階級の人々が仮面で素顔を隠す事によって、 自由に交流を楽しみ、情報交換を行う行事であった。こう いった場で、貴族達は様々に豪奢な仮面と衣装で身を包ん だ。最もポピュラーな顔全体を覆う「バウタ」 、舞台女優 や女性が主に用いた目の周りのみを覆う「コロンブス」 、 頭全体を覆い、 「幽霊」の意味を持つ「ボルト」など、多 種多様な仮面が仮面舞踏会では用いられた。これらは、宗 教的な仮面や日本の能面のように別の何者かになりきる為 で は な く、 素 顔 と 身 分 を 隠 し、 匿 名 性 を 手 に 入 れ る 為 の ツールとして使われる物であった。しかし、こういった催 しは、しばしばその匿名性を利用した犯罪や不貞の温床と なった為、マリア・テレジアなどによって禁止令が出され ることも度々あったという。 五、実用的な仮面 近現代になると、仮面はより時代に沿った実用的な物へ と変化していった。 一 七 ∼ 一 八 世 紀 頃 の ヨ ー ロ ッ パ に お い て 黒 死 病︵ ペ ス ト︶が蔓延した際には「ペスト医師」と呼ばれる医者が存 在していた。当時、ペストは瘴気によって空気感染すると 信じられていた︵実際には血液感染であった︶為、彼らは 大きな嘴のついたペストマスクと呼ばれる面を着用し、嘴 39 部分にミントや薔 薇の花などの香り の良いものを詰め てペストの瘴気を 浄化するフィル ターとして利用し て い た。 こ の 思 想 は現代のガスマスクに通ずる部分がある。 六、まとめ 以上の事柄から、仮面は様々な役割を持っていることが 分かった。また、その形状や用途から、それらを作り、用 いた人たちの宗教観や死生観、当時の時代背景や風俗など を読み取ることも出来る為、歴史的な情報も多分に含んで いる。 仮面は今なお、風邪を引いた時に着けるマスクや、なま はげの様に特別な祭事に用いられたり、死者の顔を後世に 残す為に作られるデスマスクなどに形を変えて我々の生活 に関わっているということを再確認した。世界にはどのよ うな仮面があるのか、これからも調べていきたい。 ︽参考文献︾ ジャン=ルイ・ベドゥアン 著 斎藤正二 訳『仮面の民族学』 白水社 岡田温司『デスマスク』 岩波新書 市口桂子『ヴェネツィア・ミステリーガイド』 白水社 「ナマハゲの世界」 中日新聞︵二〇一三年一二月一五日︶ 「かんかんプレス│アフリカの仮面」 http://www.kankan.co.jp/press/press_2.htm 「 AFRICAN ARTMUSEUM ︱ アフリカ美術講座」 http://www.asahi.com/culture/update/0530/OSK201305300103. html http://africanartmuseum.jp/lectureabout.html 「朝日新聞デジタル│国内最古の木製仮面」 ︿寸評﹀ 担当教員 河合 泰弘 学問を志すということは、何か興味の持てるテーマを 選び、それについてとことん追求することである。そう い っ た 意 味 で は、 趣 味 も 学 問 に な り 得 る と 思 う。 そ こ で、私の教養セミナーでは、各学生が自己の趣味や関心 事の中から一つのテーマを選び、それをレポートにまと め、さらにはその内容をプレゼンするという手順で授業 を進めていった。 河村君は、仮面のコレクターであり、集めた仮面を眺 めながら悦に入るという領域から、一歩進めて今回のレ ポートを仕上げてくれた。仮面が持つ様々な役割を、宗 教、芸術・芸能、実用の三つに分けて、うまくまとめら れていると思う。今回は、彼の研究のプロローグに過ぎ ないと思う。さらなる探究に期待したい。 40 肌を露出させないように全身 をおおう重布、つば広帽子、 嘴のマスクが特徴的なペスト 医師 自動車が引き起こす環境問題 │社 会 的 ジ レ ン マ に よ る 考 察 │ 後 藤 柚 香 全員が「協力」を選択した場合よりも悪い事態に陥ってし ま う 状 況 の こ と を 指 す。 自 動 車 を 利 用 す る こ と を「 非 協 力」 、自動車以外を利用することを「協力」とした場合、 多くが「非協力」を選べば、 「非協力」を選んだ個人は利 益を得られるが、社会的には大気汚染という悲劇的な状況 を生んでしまう。燃費が良く、環境にも優しいとうたわれ ているハイブリッドカーの利用についても、実は社会的ジ レンマが関与している。ハイブリットカーの製造には、レ アアースが必要であり、レアアースを得るために、自然環 境 が 破 壊 さ れ て い る。 ま た、 ハ イ ブ リ ッ ト カ ー に は 電 気 モーターの搭載が必要であり、それを製造するために、ガ ソリン車の生産よりも多くの二酸化炭素が排出されてい る。つまり、ハイブリットカーが環境に優しいというのは 思い込みであり、結果的には、やはり自動車を利用するこ とで、自分の利益を追求することが、大気汚染や環境破壊 につながっていると言える。 ただし、自動車を利用することで「非協力」を選択して いる個人は、自分の選択が大気汚染などの問題を引き起こ していることに気づかないことが多い。実際、 「習慣的非 協力者は、協力行動について過度に否定的な信念を、非協 力行動について過度に肯定的な信念を形成している。 」と いうことが研究で明らかにされている︵藤井、二〇一一︶。 具体的には、自動車利用者を非協力者、自動車以外を利用 する者を協力者とした場合、自動車利用者は、自動車以外 41 ︵日本文化学科一年︶ 環 境 の 悪 化 は、 長 年 叫 ば れ て い る 深 刻 な 社 会 問 題 で あ る。一概に環境問題と言っても多くのものがある。その中 で特に目立っているのは大気汚染である。日本では、 年 も前の一九六八年に大気汚染防止法という法律が公布され ている。それにもかかわらず、なぜいまだに大気汚染に抑 制がかからないのだろうか。その原因の一つに、自動車の 利用が大きく関わっていると考えられる。自動車は現代の 日 本 で は と て も 身 近 で、 便 利 な 存 在 で あ る。 そ れ ゆ え、 年々自動車の購入者、利用者が増加している。多くの人が 自分の目先の利益のためだけに自動車を利用することによ り、地球の環境を悲劇的な状態にしてしまっている可能性 がある。 この事態は「社会的ジレンマ」によって説明することが で き る。 社 会 的 ジ レ ン マ と は、 個 人 の 自 由 な 意 思 で「 協 力」か「非協力」かの選択ができる場合に、 「非協力」を 選択した方が、「協力」を選択するよりも個人では有利な 結果が得られるが、全員が「非協力」を選択した場合には 46 を利用する者よりも自動車の維持費を半分程度も安く見積 もっていることが分かっている︵藤井・西中・北村、二〇 〇三︶ 。このような思い込みからも、自動車の利用者が増 加し、環境が悪化していると言える。 このような社会的ジレンマの緩和には、「態度変容アプ ロ ー チ 」 が 有 効 で あ る と 考 え る。 態 度 変 容 ア プ ロ ー チ と は、非協力者各自が、どのようなジレンマ状態に置かれて いるかの知識を共有することによってジレンマを解消する 方法である。自己中心的な思考をやめ、客観的に自分の行 動、他人の行動を考えることで、自動車に関する様々な思 い込みも自覚でき、環境問題にも気を遣えるようになるの ではないか。また、バスなどの運行頻度を上げたり、自動 車利用者から自動車利用に伴った料金を徴収したりするな ど、社会的な動きも必要であると考える。これは大気汚染 の緩和はもちろん、交通渋滞などの緩和にも繋がる。 大学生である私たちはもう自動車を利用することの出来 る年齢であり、自動車による大気汚染は自分たちに関わる 身近な問題である。今の私たちの行動は、将来の私たちの 生 活、 さ ら に 言 え ば 私 た ち の 子 供、 孫 の 生 活 に も 影 響 す る。そのため、客観的な思考を養い、考えて行動し、過ご しやすい地球環境を保っていくことが大切である。 ︿参考文献・引用文献﹀ 藤井聡『社会的ジレンマの処方箋│都市・交通・環境問題のため の心理学』 ナカニシヤ出版、二〇一一年 藤 井 聡・ 西 中 卓 也・ 北 村 隆 一「 自 動 車 免 許 非 保 有 者 に 対 す る コ ミュニケーション実験」 土木計画学研究・論文集第二〇巻、 一〇〇三│一〇〇八頁、二〇〇三年 ︿寸評﹀ 担当教員 菅 さやか 私が担当した教養セミナーでは、身近に起こる問題の 背景に潜む人間の思い込みについて学び、いったん立ち 止まって考える力を養うことを目的とした講義を行っ た。第七回の講義では、環境破壊などの比較的大きな社 会問題が生じるメカニズムを「社会的ジレンマ」によっ て説明した。後藤さんは、自動車の利用による大気汚染 に着目し、この問題の原因を社会的ジレンマによって説 明できると考え、考察を行った。自動車を利用すること によって得られる個人的な利益を追求することが、大気 汚染につながっているという事態を指摘することに加 え、環境に優しいと言われているハイブリットカーの生 産によっても、多量の二酸化炭素が排出されているとい う考察は、大変興味深い。社会的ジレンマ以外のトピッ クについても、後藤さんはいつも講義内容を自分の身近 な経験と照らし合わせて考えていた。人間の様々な思い 込みに気づき、それを自分自身のこととして受け止めて いる後藤さんであれば、きっと円滑な社会生活を送るこ とができるだろう。 42 いじめの傍観者の問題 │見 て 見 ぬ ふ り を す る 心 理 │ 深 谷 瑞 紀 ︵日本文化学科一年︶ 私は将来、教員になりたいと思っている。しかし、教員 になった時、必ずぶつかるであろう問題に「いじめ問題」 がある。いじめが発生する原因やメカニズム自体について 考えることは重要であるが、私は「いじめを認識している にもかかわらず、誰も助けようとしない状況」についても 着目すべきであると考えている。例えば、二〇一一年に大 津市の中学二年生の生徒がいじめを原因に自殺した事件で は、学校側は男子生徒の自殺後に、 「誰もいじめに気付い て い な か っ た 」 と 主 張 し て い た が、 後 の 取 材 で 学 校 側 は 「生徒がいじめを受けている」との報告を受けていたこと が明らかになった。すなわち、生徒も教員も、いじめに気 付 い て い た に も か か わ ら ず、 少 年 を 助 け る こ と が で き な か っ た の で あ る。 他 に も 同 様 の ケ ー ス が 多 々 見 ら れ て い る。 では、なぜいじめがあったことが認識されていたのにも かかわらず、誰一人としていじめられている人を助けよう としなかったのだろうか。このことについて、心理学的に 原 因 を 考 察 す る こ と が で き る。 そ の 原 因 に 挙 げ ら れ る の は、傍観者効果である。傍観者効果とは、同じ状況に居合 わせた人々が互いの消極的な態度や行動を参照した結果、 援助行動が抑制されてしまうことを言う︵池上・遠藤、一 九九九︶ 。傍観者効果は、多元的無知、責任の分散、評価 懸念の三つの要因によって生じると考えられている。いじ めを例に挙げると、 「 誰 も 助 け に 行 か な い と い う こ と は、 大したいじめではないだろう」と、全員が思い込んでしま うのは多元的無知である。また、助けに行かない人がたく さんいることによって「悪いのは自分だけじゃない」と、 一人当たりの責任を小さく見積もってしまうのは、責任の 分散である。そして、「助けに行ったとしても、もしそれ が い じ め で は な く て、 単 な る 遊 び だ っ た ら ど う し よ う 」 と、 自 分 の 行 動 や 判 断 に 対 す る 評 価 を 気 に し て し ま う の が、評価懸念である。これらの心理的要因が、いじめを見 て見ぬふりしてしまう原因になっていると考えられる。こ のようにして、目の前で実際にいじめられている人を見か けたとしても、ほとんどの人が、助けたいとは思いながら も 自 分 か ら は 動 け ず、 知 ら な い ふ り を し て し ま う の で あ る。その結果、「誰もいじめを助けようとしない」という 状況に陥ってしまう。 「いじめを見て見ぬふりをする」という事態を防ぐため に、私は次のような対策を考えた。それは「ひとり一人が 他人事だと思わずに勇気を持って行動してみる」というこ 43 と で あ る。 目 の 前 で 誰 か が 困 っ た り し て い て も、 そ れ を 「他人事」として済ませてしまえば、自分から助けに行く ことはできない。しかし、他人事だと思わず、自分にも関 わっている問題としていじめを捉えることで、勇気を持っ て助けに行くことができるようになると考えられる。もし 一人で行動してみることが不安であるならば、友人や両親 など、身近にいる人に相談してみても良いだろう。他人と 話をすることによって、多元的無知から脱却することがで きるかもしれない。 いじめ問題は今でもなお増え続け、社会問題のひとつに なっている。私が将来教員になった時にもいじめ問題は消 えていないだろう。教育者の立場として、いじめを起こさ ない現場作りにももちろん力をいれていきたいと思ってい るが、「いじめをもし見てしまったらどうするか」という ことにも重点を置いて、生徒に教育をしていきたい。 「い じめを見て見ぬふりする人にならない。困っている人がい たら助ける」ということの重要性を生徒に教え、いじめを 少しでも減らせていけたらと思う。 ︿参考文献・引用文献﹀ 池上知子・遠藤由美「都市化と援助行動」『グラフィック社会心 理学』一七二│一七三頁、サイエンス社、一九九九年 ︿寸評﹀ 担当教員 菅 さやか 教養セミナー第六回では、周囲に人がいることによっ て、個人の行動が促進されたり抑制されたりするメカニ ズムについて講義を行った。深谷さんは、その中でも、 人がたくさんいるにもかかわらず援助行動が抑制されて しまう傍観者効果という現象に関心を持った。深谷さん が考察したように、いじめの発生自体を食い止めること は、難しいかもしれない。しかし、いじめが起こったと しても、そのいじめを認識した人が、勇気をもっていじ めの仲裁に入ることによって、いじめの深刻化を防ぐこ とができると考えられる。深谷さんには、是非、教員に なる夢を叶えてもらい、思い込みがいじめの傍観者を生 み、最悪の場合、自殺者を出してしまう危険性があると いうことを生徒に伝えていってもらいたい。今回の講義 で学んだことが、深谷さんの将来の教育経験に生かされ れば嬉しく思う。 44 書評 太宰治 著 新潮文庫 『人間失格』 加 藤 佑 恭 ︵日本文化学科一年︶ 人はなぜ生きることをやめないのか? こんな疑問を抱 かざるをえない状態になった。 第一の手記は「恥の多い生涯を送って来ました」から描 かれ始められており、そこから淡々と主人公の生涯が説明 されている。実にさっぱりとしていて、私はモノクローム の映画を見ているような感覚に似たものを感じた。では、 なぜこのような感覚を体感したのだろうか。 実際、描かれていることは一人の男が“人間”という生 物に生まれながらも、“人間”という生物が理解しがたい ものであり、様々な“人間”と出会い、苦悩しつつも最後 には自ら滅びゆく、といっ たかなり深く、重たい物語 である。しかし、この主人 公 が 感 じ て い る も の は、 我々が日々当たり前に 行っていることのように感 じるのである。たとえば、 “食べる”ということだ。主人公は空腹を感じたことがな い と い う。 周 り の 人 か ら 空 腹 で あ る こ と を 教 え ら れ た と 語 っ て い る。 だ が、 そ れ は 我 々 も 同 じ で は な い か、 “食 す”という行動を他者からの言葉や態度、あるいは自らの 習慣や普遍的な時間によって、支配されているから食して いるだけではないだろうか。また、嫉妬や妬みも他者から の評価によって引き起こされているものであり、決して自 分 ひ と り で、 嫉 妬 や 妬 み を 感 じ る こ と は で き な い の で あ る。つまり、人は一見自らの意思によって自ら選択し、行 動して、結果を得ているようにみえるが、結局は目には見 えない他者の影響によって、強制的に選択させられて生き ているかのように思えるのである。 主人公はたくさんの女性と夜をともにしている。その中 でも主人公は売春婦に安らぎを覚えると語っている。これ はある意味では矛盾しているだろう。本来、売春婦を呼ぶ 行為は自らの性欲をぶつける為だけに行われる、いわばた だの古びた儀式のようなものであり、売春婦はその道具で ある。しかし、そんな売春婦に安らぎを感じるということ は、無機質なモノを、自分と近い存在であると感じている ということであり、このことは自分自身の人間性を否定す ることになるのではないだろうか。 そんな主人公を私は羨ましくも思うが、気持ち悪くも思 う。羨ましく思う心は、私の中に眠る人間の深淵であり、 気持ち悪く思う心は、他者によって植えつけられた常識と 45 いうモノである。作品の終わりごろには、主人公はどこか に行ってしまい、行方は分からないと描かれ、最終的には とうとう存在がなくなってしまっている。つまり、生きな がらに死んでしまったのだ。そんな彼のことをバアのマダ ムは神様みたいと言う。結局、自らに人間失格のレッテル を自ら貼ったとしても、他者は神様だと称し、そのことが 真実になってしまうのである。 人は生きているのか又は、生かされているのか、あるい はただ淡々と死ぬために生きているのか、今一度考えてみ るのも悪くはないと思うのである。 書評 金子哲雄 小学館 『僕の死に方』 永 嶋 景 都 ︵グローバル英語学科一年︶ この本は、流通ジャーナリストの金子哲雄さんが、癌が 発覚してから、亡くなるまでのあいだに書かれたものであ る。自分が癌であり、余命わずかであるということを知っ たとき、普通の人はどういう行動をとるだろうか。わたし だったら、まずその事実を受け入れることができないだろ う。毎日泣いて、自分の不 幸を嘆くだろう。時間をお いて、仮に受け入れること ができたとして、何をする だろうか。どんなにイメー ジしても、病気を前向きに とらえて明るくふるまう自 分は想像できない。苦しい治療、闘病生活で、健康な友達 に会うのがつらくなって孤立してしまうかもしれない。卑 屈になって、素直に周りに感謝することもできないかもし れ な い。 で も こ の 本 の 筆 者 は 違 っ た。 彼 は、 自 分 の 死 を まっすぐに受け入れ、まず、 「末期癌であることは、一部 の関係者以外公表しないでおこう」と決断した。 彼は仕事が大好きだった。テレビのレギュラー出演、ラ ジオ、雑誌の連載、講演会など幅広いフィールドで仕事を し て い た。 そ ん な 彼 が 癌 を 周 囲 に 告 知 し な い と い う こ と は、彼は病気を理由に仕事を休まないということだ。もと もと、明るいキャラとしてテレビやラジオに出演していた 彼は、自分の暗いニュースを世間に流したくなかった。そ れよりも、生きている間に少しでも自分が発信するお買い 得情報で喜ぶ人を増やしたかったのだ。できる限りこれま で通りに仕事をこなし、仕事の合間に通院し、治療を受け た。検査入院や体調の悪い時も、電話で取材を受け、連載 の執筆をした。 46 そして、大好きな仕事を続けながら、彼は、自分の最期 を、最後の仕事として、プロデュースしようと決めた。遺 産整理、葬儀の手配、お墓の場所⋮すべてぬかりなく手配 した。葬儀にきてくれる人たちのことを考えて、通夜振る 舞いにもこだわった。 想像してほしい。自分の死へ向けて、入念な準備ができ るだろうか。わたしなら死後のことなんかよりも、生きて いる間にしかできないことをやりたいと思うだろう。彼は どうしてここまで真摯に自分の死を受け入れることができ たのだろうか。彼だって、まだやりたいことがあったはず だし、治療はつらく、死ぬのは怖かっただろう。それを乗 り越えることができたのは、彼が余命宣告の前から毎日を 最大限に精一杯生きていたからである。彼の何よりの喜び は、ひとを喜ばせることであった。癌であることを告知し ていれば、たくさんの人からお見舞いや感謝の言葉が贈ら れたはずである。でも彼はそれを望まなかった。最期の一 瞬まで、他のひとの喜びを優先したのだ。彼は、死に方に ついて書いたこの本を通して、生きるということを教えて くれていると思う。彼のように偉大な死を遂げるには、そ うできるほどに真剣に生きなければならないのだ。彼の死 を知った周囲の人々の驚きと悲しみはどれほどのものだろ うか。だけど悲しんでいてはいけない。彼の発信した情報 で毎日をハッピーに生きていくことが、彼への最大の弔い である。重い内容に思えるかもしれないが、この本を読む ととても前向きになれる。 書評 宮本延春 角川文庫 『 オール1の落ちこぼれ、教師になる』 宇佐見 啓 ︵歴史学科一年︶ 私は、教育をする側になることが人間の生業の中で一番 難しいことだと考える。これは教師だけではなく、様々な 業種において年長者が後輩に仕事や生活態度を教えていく ことを含めてである。 なぜならどれだけ熱意があろうとも、言動や風采、性格 や知性などのいわば「人間力」が少しでも欠けようものな ら説得力は瞬く間に地に落ちるからである。 ならば、人に教育を施 す人間は常に完璧であ り、 知 性 あ ふ れ る 聖 人 で な け れ ば い け な い の か。 私はそうは思わない。私 は 失 敗 を 重 ね た り、 物 事 が順風満帆に行かなかっ た、 な ど の 痛 み を 知 る こ 47 とこそが「人間力」であり、それをもつ人こそ教育者とし て尊敬できる人であると考える。 本書の著者の人生はお世辞にも完璧とは言いがたい。二 四歳で定時制高校に入学し、会社勤めをしながら大学受験 を 志 し、 見 事 難 関 国 立 大 学・ 大 学 院 へ と 進 学 し 先 生 と な る。この人の人生を辿った時、自分の人生観に衝撃が走っ た覚えがある。 著者はかつて、小学生レベルの漢字や算数、英語もでき ないような中学生であったと書かれている。自分の経験と 結びつくところがあったので、共感するとともにこの本で 何が言いたかったのかというのを考えてみた。何がいわゆ る「人間力」を向上させる要因となったのか。 単純に、勉強を重ねていったのも要因であろうと思う。 著者のようにたゆまぬ努力を続ける力は誰にでもあるもの ではない。しかし、それだけで教師を志すことにはつなが らないだろう。 「現在の著者」の違い 私 が 考 察 し た「 昔 の 著 者 」 と、 は、「 確 固 た る 目 標 の 存 在 」 が 大 き い と 思 う。 昔 の 著 者 は、 辛 い 境 遇 に あ り 勉 強 が で き な い 現 状 に 立 ち 向 か え な かった。しかし、現在の著者はそのような経験をしたから こそ、「大学進学」「教師を目指す」という確固たる目標が 見 つ か り、 境 遇 や 能 力 を 改 善 し て い け た の だ ろ う と 考 え る。 私が何度か書いている「人間力」が、著者のどこにある のかと考えると、確固たる目標を達成していった著者は、 「同じ境遇にある子どもたちの手助けをしたい」という新 しい目標ができたという。 ここに、最初に挙げた「人間力」があると思われる。本 来であれば、もっと優秀な人の伝記や著書の方が有用なの かもしれない。しかし、「弱い子どもの気持ちがわかる」 著者の言葉は、自身も弱い子どもであり、今、著者と同じ 夢を見る私の心に、小さな希望を与えてくれた立派な「伝 記」である。 担当教員 八谷 芳樹 ︿寸評﹀ 毎年、「自分のキャリアプランを作る」というテーマ で教養セミナーを進めている。春学期はテキストを使っ て自らのキャリアプランを作成する。これは、大学生活 を始めるにあたり、「自分を知ること」、 「仲間を知るこ と」 、「世の中を知ること」を通して、大学生活の過ごし 方を具体的に考えるものだ。一年生の春学期の過ごし方 で、大学生活全体がほぼ決まってしまうと思うからであ る。 秋学期も例年どおり、新聞書評欄の分析から始まり一 人一編の書評を作成した。 「読む」 、 「書く」 「自分の考え をまとめる」 「それを他人にわかるように説明する」「他 人の話に耳を傾けて聞く」などを一年間訓練するのもこ の演習の目的である。 48 一昨年来、各学期一回の「ビブリオバトル」を取り入 れている。ゲーム性があるためか盛り上がる。本を通し て人を知る、また、人と人とを結びつける「本」という メディアの魅力を再認識することができるのも魅力だ。 大学一年生で本に親しむことができればその意義は計り 知れない。 一 人 一 編 の 書 評 を ま と め る 過 程 で「 私 の お 薦 め の 三 冊」というグループワークを実施した。この成果を一二 月と一月図書館情報センターの展示コーナーに発表する 機会をいただいた。折しもラーニングコモンズ開設直後 で あ り、「 紙 の 本 」 の 魅 力 を 改 め て 考 え る よ い 機 会 に なったのではないか。 書評は、今回も愛知淑徳大学大学院非常勤講師豊永利 英氏の協力を得て、提出期限内に提出されたものを審査 し、三編を選んだ。 『人間失格』は、内容紹介とともに、自らの感想をう まくからませながら、主題をとらえている。「人は生き て い る の か、 又 は 生 か さ れ て い る の か、 あ る い は た だ 淡々と死ぬために生きているのか、今一度考えてみるの も悪くないと思う」は正直な感想である。 『僕の死に方』は、テレビにもよく登場した人物の著 書であるが、自分の病気や不幸までを売り物にする現代 のマスコミに乗った人とは別の生き方をした著者の本質 をよくとらえている。 「︵死の恐怖を︶乗り越えることができたのは、彼が余 命宣告の前から、毎日を精一杯生きていたからである」 や「死に方について書いたこの本を通して、生きるとい うことを教えてくれている」というとらえ方がいい。 『オール1の落ちこぼれ、教師になる』は、 「教える」 「教育する」という観点から、この書を読み、そこで大 切なのは「人間力」であることを読み取っている。自分 の弱さや人の痛みを知るものが教育者として尊敬できる とし、自分を筆者に重ね合わせて「教師」への夢、目標 を掲げているところに好感がもてる。 49 教養セミナーで学び取ったこと 山 田 夏 樹 ︵歴史学科一年︶ 「LTD話し合い学習法」 ︵以下、LTD学習法という。︶ こう聞くと難しく思えるかもしれない。しかし、中身はと ても簡単なもので、いわゆる話し合いによる学習である。 最初このように聞いた時には、ほとんど興味がわかなかっ た。 だ が、 次 の 山 口 先 生 の 言 葉 が 強 い 興 味 を 持 た せ た。 「この学習法では知らない人とでも話をすることが簡単に なる。」 私は、知らない人と話をするのがあまり得意では なかった。この言葉を聞いて、自分を変えるチャンスにな るかもしれないと考え、このセミナーを受講することに決 めた。 最初の授業で、このLTD学習法を行うためのルールを 学んだ。このルールの中で一番重要なことは、 「予習を必 ずしてくること」一見当たり前のようにも思えるが、この 学習法の中では重要な意味を持つ。なぜなら、この話し合 いでは、内容を理解するだけではなく、その内容から、自 分の成長に生かせるものを見つけ出すことが求められるか らだ。また、その課題の内容を自分の言葉で表現する力も つける必要があった。この力をつけることがこの学習法の 醍醐味であると私は考えている。 もちろんこのやり方を身につけるのはなかなか苦労が あった。最初のうちは、内容を理解できていても、成長に 生かせるものが見つからなかったり、また、自分の言葉で 内容を表現できず、課題の文章に頼ってしまったりするこ ともあった。しかし、何回か回数を重ねていくことでこの やり方にも慣れていった。 ま た、 こ の 授 業 で は、 当 た り 前 だ が ミ ー テ ィ ン グ を 行 う。しかし、まったく決まりのない状態でミーティングを 行っても理解できないだろう。そのため、ミーティングに は八つのステップが用意されている。このステップを守る ことが、いかにミーティングを充実したものにするかのカ ギとなっている。もちろん、このミーティングでは自分の 成長に生かすことが求められるので、そのステップには多 くの時間が割かれている。 学習内容としては、春学期には、「大学生の学び」とい うテーマのもと、溝上慎一著の『大学生の学び・入門』を 参考にして、いかにして大学で学んでいくかということを 学んだ。最初にこの本に一通り目を通したときは、まった く内容が頭に入らなかった。だが、ミーティングの時にな ると、自分の考えが及ばないところで新しい発見をするこ とができたり、他人の考えによって自分の考えが変化した りと、様々な経験をすることができた。 しかし、ミーティングは自分一人の力で何とかできるも 50 のではない。ミーティングのメンバーの中で予習をしてこ ないで参加する人もいる。そのような時には予習をしてき た人たちでカバーをできるだけ行うが、一度自分以外の人 が誰も予習をしておらず、ミーティングが破綻してしまう ことがあった。このように、予習というものは、ミーティ ングの良し悪しを大きく決めるものとなる。また、だれか に頼ってしまい、一人がずっとしゃべってしまうミーティ ングになってしまうことが起こってしまうこともあった。 これらの経験から、自分の意見を述べた後に問題提起を行 う力を身につけることができた。 秋学期には、メインテーマに「教育学のチカラ」とある ように、現在の教育現場が抱えている体罰や校則、教科書 問題など様々な問題に関してミーティングを行った。この 問題は、自分に関しても関係の深い問題だったが、予習が 難しくなっており、春学期よりもパワーアップしているこ と が 感 じ ら れ た。 こ の テ ー マ を 深 く 考 え る う ち に、 こ の テーマには良し悪しだけではない根深い問題が潜んでお り、その解決はとても困難なことばかりであるように感じ られた。この抜本的な解決方法を見つけられなかったこと が個人的に残念に思えるが、このテーマを考え続けたいと 強く思った。 この授業を通して、知らない人と話をすることに関して は、あるテーマを持ったうえで会話する力をつけることが できたと思っている。しかし、そのことに満足してしまう のではなく、テーマが無くても自分でテーマを探して話を できるようにしていきたい。また、密度の濃いミーティン グをするための予習を習慣づけることもできた。習慣とい うものはとても大事なものであると再確認することもでき た。このことが発見できたのも、LTD学習法に出会えた からだと思っている。この経験を自分の生活に生かしなが ら、これからの大学生活を充実したよりよいものにしてい ければよいと感じている。 担当教員 山口 拓史 ︿寸評﹀ 本稿において山田夏樹君は、自ら気づいたLTD学習 法のツボを簡潔に述べている。 山田君は、本授業︵教養セミナー︶が「自分を変える チャンスになるかもしれないと考え」受講を決めたとい う。そして結果的に彼は、 「この授業を通して、知らな い人と話をすることに関しては、あるテーマを持ったう えで会話する力をつけることができた」としている。い うまでもなくこの学習法は一つの技法である。おそらく 山田君はもう気づいているだろう。彼自身に起きた変化 は、LTD学習法が引き起こしたものではなく、自身に よる「自分を変える」との決意が引き寄せたものである ということを。 この経験が自信に変わり、より充実した大学生活へと つながっていくことを期待したい。 51 私がLTD話し合い学習法で 得たもの ︵歴史学科一年︶ 鈴 木 俊 裕 私が、LTD話し合い学習法︵以下、LTD学習法とい う。 ︶のセミナーを選んだのは、大学に入って自分自身を 成長させようと思ったからである。大学に入学する前は、 消 極 的 で 人 前 で 話 す こ と を 苦 手 と し て い た た め、 大 学 で は、その苦手を克服しようと思っていた。事前選択では、 LTD学習法やワードを使いプレゼンをするなど様々な分 野があったが、私は山口先生のLTD学習法のセミナーを 選んだ。 このセミナーは、小グループを作り、その中で決められ たテーマで、自作した予習ノートを用いてディスカッショ ンする授業である。 私 は、 こ の セ ミ ナ ー に お い て 不 安 を 持 っ て い た。 し か し、それは苦手としている消極的な発言を克服するチャン スだとも考えていた。 私が、ミーティングをする際に心がけたことは、いかに 自分の言葉でわかりやすく予習ノートを伝えることができ るかという点である。当然、私よりまとめることが上手い 人や伝えることが上手い人がいたので、私は誰よりも素晴 らしい予習ノートを作ることを目標にした。 しかしながら、自分の言葉でまとめるのは難しくて、主 張を上手く伝えられないことがよくあった。それを改善す るために、趣旨を簡潔に書くことを心がけた。 授 業 で は、 新 聞 記 事 や 溝 上 慎 一 著『 大 学 生 の 学 び・ 入 門 』 と い う 教 材 を 用 い て ミ ー テ ィ ン グ を 行 っ た。 こ の 頃 は、ほぼ毎週ミーティングを行っていたため、予習ノート を作るのがとても大変であった。教材のページ数も増えて いき、課題が焦点化できないこともあった。また、主張を 書 き だ す の に か な り の 時 間 を 使 っ て し ま い、 内 容 が 薄 い ノートになってしまうなど大変な時期もあった。さらに、 授業の始まった頃は、コミュニケーションを取ることが大 変だった。 私は、人前で話すことよりもコミュニケーションを取る こ と が 苦 手 で あ っ た た め、 初 対 面 で あ る セ ミ ナ ー の メ ン バーと打ち解けるのに苦労した。しかし、山口先生が三十 秒スピーチを授業で指導してくださったおかげで、よい雰 囲気で授業に向き合えることができた。 秋学期では、春学期とは違い山口先生の講義を受け、そ の内容中心でディスカッションを行うようになり、授業の レベルが一段と上がったことを実感した。私もより一層分 かりやすいノート作成に心掛けるようになった。 また、この頃になると、セミナーの人たちとのコミュニ 52 ケーションができてきたと感じた。セミナーの仲間という 意識もあるが、私はディスカッションをするときに、なる べく緊張感を持たせないようにしてきた。もちろん真面目 に取り組んでいるのだが、和やかで楽しい雰囲気でディス カッションをできれば、自分の意見を出しやすいと思った からである。 結果的には、主張をするときには真剣に、話し合いや意 見交換をするときには、硬くならずに自然に発言すること で、ディスカッションにメリハリをつけることができ、一 時間がとても短く感じ、グループの皆さんに話題を振れる ようになった。春学期とは違い、自分の成長と共に、楽し くセミナーに取り組めたと感じた。 私は、このセミナーに参加して良かったと思う。初対面 の人と話すことや人前で自己主張できるようになったこと が、この一年間で成長したことと実感している。初めは、 不安と緊張で、何も手につかなかったが、自分を成長させ ようと思ったことが、意識の向上につながったのだと考え ている。 これから先、レポート作成やゼミの発表など、文章をま とめる能力や発言力を問われることが増えてくると思う。 そのために、このセミナーから得たもの、感じたものを取 り入れて、自分にプラスになるように頑張っていきたい。 また、私と同じで、人前で話すことを苦手としている人 がいるならば、是非ともこのLTD学習法で、成長した自 分を実感して欲しいと考えている。 担当教員 山口 拓史 ︿寸評﹀ 本授業︵教養セミナー︶における鈴木俊裕君の第一印 象は、LTDミーティング中に真剣によくノートをとる 学生だなと感じたことであった。通常、LTD学習法で は ミ ー テ ィ ン グ 中 に ノ ー ト 記 入 す る 必 要 は な い。 そ の ノートは「予習ノート」と呼ばれ予習段階で仕上げてく るものであり、ミーティング中に予習ノートに記入する ことは自ら予習不足を露呈する行為と見做されかねない からである。その点からみると、本稿によって鈴木君へ の「疑念」は解かれたことになる︵笑︶ 。 本授業のねらいの一つに、コミュニケーションの能力 を高めることがある。鈴木君がこの授業を通してコミュ ニケーション行為︵ハーバーマス︶を身につけたと実感 できたのであれば何よりである。 53 現代中国の人口問題について 田 村 亘 ︵経営学科一年︶ 現代中国は様々な問題を抱えている。例を挙げるなら、 深 刻 な 環 境 問 題、 失 業 問 題、 政 治 問 題、 人 口 問 題 な ど と 様々な問題を抱えている。今回は人口問題に焦点を合わせ ていきたいと思う。その中でも「一人っ子政策」によって 生じる問題を中心にして書いていきたい。 まず、「一人っ子政策」についてであるが、これは人口 超大国の中国が現在実施しているもので、「一組の夫婦に ︵1︶ 子供一人」という政策である。この政策は、中国の人口増 加を抑制する目的で作られたものである。一九七九年から 始まり、それ以来三〇年以上にわたって行われている。政 策の目的である中国の人口増加の抑制には確かに成功して いると言ってよいが、政府の思惑に反して新たな問題が幾 つ か 生 ま れ て い る。 そ の 問 題 に つ い て 以 下 述 べ て い き た い。 第一に「黒孩子︵ヘイハイズ︶」と呼ばれる子供たちの 存在である。「黒孩子」とは、 「中華人民共和国において、 一人っ子政策に反して生まれたために戸籍を持つことがで ︵2︶ きない子供」のことである。戸籍上は存在しないため、学 校教育や医療サービスなどの行政サービスを受けることが できない。このような子供たちの存在により、中国政府が 行っている人口調査にも影響が出てくる。このような戸籍 上にない子供たちの存在を考えれば、中国政府が公表して いる中国の人口よりも実際には一千万ほど多く中国国民が いると考えるべきだろう。 第二に「少子高齢化」である。 「一人っ子政策」のため 一組の夫婦は子供を一人しかもうけることができないた め、必然的に子供の数が減る。そのため、 「少子高齢化」 が 進 む の で あ る。 「 一 般 法 則 に よ れ ば、 先 進 諸 国 の 高 齢 化 問題は、ほとんどが経済発展期に現れるが、中国はそれと ちがって高齢化がピークを迎える二一世紀中頃に、一人当 たり国民総生産が現在の中程の先進国水準にしか達するこ とができない。それは中国の経済がなお途上国でありなが ら人口の年齢構造がすでに先進諸国に近づき、高齢化の進 行が経済発展よりはるかに速いことを示している。従って 中国の抱える高齢化問題は特に厳しい」と中国の研究者も ︵3︶ 見ており、中国にとって非常に大きな問題なのである。中 国においては、「一人っ子政策」が「少子高齢化」を引き 起こす最も大きな原因となっているのである。 第三に労働人口の減少である。生まれてくる子供の数が 規制されているため、当然労働人口は年々減っていくと考 え ら れ る。 た だ、 国 連 が 推 計 し た 中 国 の 将 来 人 口 を 見 る と、労働人口自体は今後もある程度増えていく。しかし、 54 中国の総人口における労働人口の占める比率は年々低下し ︵4︶ ていくと予想されているのである。このままこの政策が続 けられれば、労働人口の比率は確実に減っていくと考えら れる。 第四に男女の産み分けの問題がある。子供を一人しか産 めないため、労働力になる男子を選んで生み分ける場合が あるのである。これは特に農村部で多く見られるという。 妊娠時に性別検査を行い、胎児が女子である場合に中絶を するのである。このような男女の産み分けが行われれば、 男女比が大きく偏ることになり、人口減少に拍車をかける ことになる。人口減少自体は人口抑制という目的から見れ ば良い流れといえるかもしれないが、このような男女の産 み分けが続けば、人口減少が急速に進み、歯止めが利かな くなってしまう可能性もある。 このような多くの問題を抱えた「一人っ子政策」である が、最近は少し見直しを行い、この政策を緩和する動きが 見られる。夫婦双方ともに一人っ子である場合、二人目の 子供を認めるという例外規定がすでに作られたという。こ れは中国が抱える「少子高齢化」や労働人口の減少への対 策であると言える。しかし、現に進行している男女の産み 分けや子供の減少などにより、すぐに問題を解決すること は難しくなっていると言えるであろう。 ここまで「一人っ子政策」による問題点を幾つか挙げて きた。「一人っ子政策」は当初の人口増加を抑制するとい う目的に関しては成功しているのではないかと考えられ る。しかし、その代わりに中国は多くの別の問題を抱える こ と に な っ た。 従 来 か ら の 人 口 問 題 と 新 た に 生 ま れ て し まった問題をできる限り早期に解決することを願ってい る。そして、日本も深刻な「少子高齢化」問題について早 急の対応が必要である。 ︿注﹀ 若林敬子『現代中国の人口問題と社会変動』新曜社、一九九 ︵1︶ 七年二月、ⅱ頁 「黒孩子」 ︵2︶ Wikipedia ︵3︶前掲書 二一三頁 ︵4︶前掲書二〇四頁 図「中国の将来人口推計」 ︿参考文献﹀ 若林敬子『現代中国の人口問題と社会変動』新曜社、一九九七年 二月 加納寛子『レポート作成法』丸善、二〇一〇年四月 ︿寸評﹀ 担当教員 勝股 高志 教養セミナーⅠ・Ⅱ「現代中国を知る」では、一九四 九年一〇月の中華人民共和国建国以降の歩みを簡単に振 り返り、秋学期には現代中国の現状や問題点を考えた。 三〇年以上続いている中国の「一人っ子政策」は人口 抑制という当初の目的に関してはある程度の成功を収め 55 たと言える。しかし、田村君が述べているようにそれに 伴って起きた様々な問題はそれぞれ解決が難しいもので あり、中国政府としても頭の痛い問題であろう。その対 応の一つとして最近新しい動きがあった。昨年︵二〇一 三年︶開かれた、中国共産党の重要会議において、夫婦 のいずれか一方が一人っ子である場合、第二子をもうけ ることができる、という方針が決定されたという。 「高 齢化社会」という日本と同様な問題を抱えた中国が今後 どのような人口政策をとっていくのか興味深いところで ある。 日本のスポーツカー市場は なぜ縮小するのか? ︵経営学科一年︶ 浅 井 太 貴 現在、日本のスポーツカー市場は縮小の一途をたどって いる。一九八〇年代から一九九〇年代にかけてはスポーツ カーの人気は高く、開発も盛んに行われていた。しかし、 現在の日本国内でのスポーツカー人気は低下している。そ こ で、 な ぜ ス ポ ー ツ カ ー 市 場 は 縮 小 し た の か を 疑 問 に 思 い、今回調べることにした。 スポーツカーとは何か。スポーツカーとは自動車のカテ ゴリの一つである。スポーツカーとは運転を楽しむこと、 つまりスポーツドライビングを主な目的として高速走行時 の操作性を含めた運動性能に重点を置いて設計・製造され た自動車のことをいう。発進、加速、曲がる、停止といっ た自動車の基本性能が高いため、運転を楽しむことができ る自動車である。日本では一九八〇年代から、トヨタ、日 産、ホンダ、マツダなどの主要自動車メーカーがスポーツ カ ー の 開 発 を 盛 ん に 行 っ た。 当 時 は ス ポ ー ツ カ ー こ そ が 「メーカーの顔」であるといわれていて、多くの顧客を獲 得 し て い た。 し か し 二 〇 〇 〇 年 代 に 入 る と、 多 く の メ ー 56 カーのスポーツカーが発売中止になっていった。そのため スポーツカー市場は一気に縮小することになる。これには 大きく二つの理由が挙げられると思う。 一つ目は平成一二年度排出ガス規制である。これによっ て、昭和五三年度排出ガス規制から大幅に規制が強化され た。スポーツカーは自動車の基本性能が高いため、多くの ガ ソ リ ン を 消 費 す る。 そ の た め 多 く の 排 出 ガ ス を 出 す ス ポーツカーは、大幅に強化された排出ガス規制をクリアす るのが困難になってしまった。そのため多くのメーカーが この排出ガス規制を機にスポーツカーの生産中止を行っ た。 二つ目は原油高である。二〇〇四年あたりから世界的な 原油高によりガソリン価格が高騰している。そのため多く のガソリンを消費するスポーツカーよりも、経済的な軽自 動 車 や コ ン パ ク ト カ ー を 買 う 顧 客 が 増 え て し ま っ た。 ま た、顧客はスポーツカーの特徴である自動車の基本性能の 高さよりも、ミニバンやコンパクトカーの特徴である積載 能力や居住性などの実用性の高さを優先するようになっ た。そのためスポーツカーの人気が低下しているのだ。 現在のスポーツカー市場では若年層をターゲットとした 低価格スポーツカーの開発がすすめられている。スポーツ 性能と環境性能を両立したスポーツカー、実用性とスポー テ ィ ー な 走 り を 両 立 さ せ た ス ポ ー ツ カ ー な ど、 未 来 の ス ポーツカー像が模索されており、こうしたスポーツカーの 開発によって若年層の「クルマ離れ」を食い止めようとし ているのだ。 しかし、若年層の「クルマ離れ」はスポーツカーに限っ たことではない。二〇〇〇年代初頭から日本国内での新車 お よ び 中 古 車 の 販 売 が 伸 び 悩 ん で い る の だ。 理 由 と し て は、経済的な要因がまず挙げられる。現代では若年層の所 得は減少し、雇用の不安定化が進んでいる。自動車には車 両代はもちろん自動車税、自賠責および任意保険料、車検 代など高額な車両価格と維持費がかかる。そのため雇用の 不安や給与の低下に悩まされている若年層にとって車を購 入し維持していくのは困難なのだ。 また若年層のライフスタイル自体の変化が挙げられる。 趣味の多様化により車以外の物への関心が高まり、公共交 通機関や自転車などの移動手段を活用することで自動車の 必要性が低下してきている。このようなことから、若年層 にとって自動車を持つことによるメリットよりもデメリッ トのほうが大きくなってきてしまっていることが「クルマ 離れ」につながっているのだ。 このようにスポーツカー市場の減少には、排出ガス規制 や原油高といったスポーツカーに直接影響を与えるものだ けでなく、若年層の「クルマ離れ」といった現代日本の社 会問題も影響しているということがわかる。そのため自動 車メーカーは若年層の「クルマ離れ」を食い止めるために 様々なクルマを開発している。 57 先日、名古屋モーターショーで未来のクルマを見る機会 があった。魅力的なクルマはたくさんあったが、経済的事 情から考えると現代の若年層がほしいと思えるクルマは少 な か っ た。 ト ヨ タ が 二 〇 一 二 年 に 発 売 し た ス ポ ー ツ カ ー 「 ト ヨ タ 」 は、 コ ン セ プ ト カ ー と し て 発 表 し た 当 初 は 若 者向けのスポーツカーとして紹介された。しかし発売され るころになると、AE に憧れた四〇代以上の、収入が安 定している世代がターゲットとなっていった。そのため標 準グレードの価格が二四〇万円という、若者が購入しにく い価格設定になっているのが事実だ。AE の標準グレー ドの価格は一四〇万円前後であったため多くの若者が購入 することができた。自動車メーカーには、「若者が購入し 維持できる魅力的なクルマ」を開発し販売してほしいと思 う。 車 両 価 格 は 最 上 グ レ ー ド で 二 〇 〇 万 円 以 内、 標 準 グ レードは一八〇万円前後、トヨタ のような3ナンバーで はなく、維持費負担の少ない5ナンバーのスポーツカーが 若年層の求める自動車ではないだろうか。 86 86 86 担当教員 河野 敏宏 ︿寸評﹀ こ の 教 養 セ ミ ナ ー Ⅱ で は、 二 編 の 文 章 執 筆 練 習 を し た。ひとつは「TPPへの対応」という共通テーマによ る、日本はTPPにどのように向かい合うべきかを述べ る執筆練習であり、もう一つは、各自が何らかの疑問を 設定し、自分なりの答えを述べる執筆練習である。TP 86 Pのテーマは多岐にわたる問題を含んでいるため、全員 かなり執筆に苦労したようである。浅井君の文章は後者 の テ ー マ に 基 づ く も の で あ る。 昨 今 の 日 本 で は「 車 離 れ」が進んでいると言われている。また、購入される車 も、ファミリー向けのワゴン車や燃費重視の小型車が多 く、かつてのような、ドライブを楽しむ車が減少してい るようである。こうした風潮を踏まえ、浅井君は日本の ス ポ ー ツ カ ー 市 場 が 縮 小 す る 原 因 を 考 察 し た。 種 々 の データに基づいた浅井君の文章は説得力があり、若者が 再びスポーツカーに戻ってくるには何が必要かを考えさ せてくれる。きちんとしたデータに立脚して現状を分析 するという姿勢は、卒業後も様々なことに役立つであろ う。今後も、世の中の様々なことをこうした確実な姿勢 で考察していってほしい。 58 なぜ Apple 製品は売れるのか? 大 島 秀 樹 ︵経営学科一年︶ の製品はこれほど人気があり、新しい製品 なぜ、 Apple が 出 る た び に 大 ヒ ッ ト す る の だ ろ う か。 実 は 私 も、 iPad と を持っている。 MacBook 製品を購入しようと思う一番の理由 多 く の 人 が Apple の製品は、他のメーカーにはない革 はデザインだ。 Apple 社は他の会社よりも 新的なデザインが特徴であり、 Apple の一番 一 歩 先 の 商 品 を 作 り つ づ け て い る。 そ れ が Apple の魅力だ。 がその一つだ。 iPhone が日本に入っ たとえば、 iPhone てきたときは、日本では、ガラパゴス携帯と呼ばれる、日 本で独自に進化した携帯が主流だった。その中で、発売さ はタッチパネルを採用し、押すボタンはホー れた iPhone ムへ戻るボタン一つだけという、今までに見たことがない 革新的なデザインであったため、あっという間に二∼三年 間でスマートフォンが普及することとなった。これに対抗 が Android と い う O S を 開 発 し た た め、 し て、 google のようなタッチパネルを採用した商品が各社一斉 iPhone は Android が出てきても売れ に出回った。だが、 iPhone のシンプルなデザ 続けている。その理由として、 iPhone イ ン と 使 い や す さ、 ア プ リ の 安 全 性 な ど が 挙 げ ら れ る。 は、OSを google が作るものの、端末は各社が Android それぞれ作っているため、端末ごとに設定が異なり、ユー ザーが、他の会社の端末に変えたときに使い方が全く分か は Apple がO らなくなるおそれがある。その点、 iPhone Sの開発から端末の製造、開発、販売までを一手にやって いるので、端末によって使いにくくなることはない。それ のアプリは Apple の厳しいチェックを通っ に加え iPhone ているため、ウィルスなどの危険性が少ない。 のPCは、 同様のことはPCについても言える。 Apple どのグレードのPCを買っても七、八割同じ作業をするこ の強みだ。 Windows 各社がだ とができる。ここが Apple しているPCをみると、低価格のPCでは、使える用途が 限られてしまう。なぜ、このようなことになってしまうの のPCは、PCメーカー各社がP かというと、 Windows Cの本体を製造しているものの、それらの会社はパーツ一 つひとつから作っているわけではないからである。それら の会社は、デザインなどを決めているだけで、パーツの一 つひとつは他社が請け負っている。このため、品質を落と は、 さずに価格を落とすことが難しいのだ。その点 Apple 自社でOSの開発、PCのデザイン、製造までをやってい るので、品質を落とすことなく価格を下げることができる のだ。 59 しかし、実際に世間で使用されているPCは Windows が圧倒的である。その理由は、 Apple がデザインや機能面 は で評価されてきたのが最近であるのに対し、 Windows が日本で爆発的にヒット 一 九 九 五 年 に 出 た Windows 95 したことにある。このことによって日本の会社のほとんど を使うようになっており、その結果、個人で が windows の も、会社の仕事を家で行ったりするために、 Windows PCは欠かせなくなってしまったのである。それに加え、 を使っていたユーザーが、 Apple のOS 今まで Windows を使うためには、また一から基本操作を学ばないといけな から Apple に切りかえる人が少ないの いため、 Windows である。 がここまで人気があるのは、使う人のこと だが、 Apple を第一に考え、誰もが使いやすいようにシンプルに作られ の場合、ソフトウェアをダ ているからである。 Windows ウンロードし、インストールするためには、まず、そのソ フトウェア会社のホームページに行き、そこから一つひと は、 つ ダ ウ ン ロ ー ド す る し か な い。 そ れ に 比 べ Apple と言われるソフトウェアを使うことにより、 iTunes Store 各ホームページに行く手間を無くし、有料のソフトウェア をダウンロードするときの決済もいちいち登録する必要が なくなったのだ。 が圧倒的であるが、このよう 現状では確かに Windows が Windows に、使う人のことを第一に考えている Apple を抜き、トップシェアをとる時代も近いのではないだろう か。 担当教員 河野 敏宏 ︿寸評﹀ 大島君の文章も、二つ目のテーマによるものである。 製品が売れる理由について考えてくれ 大 島 君 は Apple た。 ス マ ー ト フ ォ ン に お い て も パ ソ コ ン に お い て も、 製品はひとつの独立した世界を作っており、他者 Apple 製品と一線を画している観がある。大島君は、そうした 製品の特徴は何 状況がどうして生じているのか、 Apple か、という興味深いテーマを詳細な説明によって考察し ユーザー ている。こうした考察は、大島君自身の Apple としての経験に裏打ちされているため、十分な説得力が 製品についてのみ言及するの ある。この文章は、 Apple がなぜ主流となっているのかにつ ではなく、 Windows いても言及しており、客観的な論述となっている。この ような客観的視点による分析は、様々な考察に必要不可 欠である。今後もこの視点を保持していってほしい。 60 アイドルに「はまる」理由 61 羽 柴 健 将 由は彼女たちの「顔」にある。テレビに映る芸能人はとて もきれいで自分とは比べ物にならない、と考えていた人が 多 く い た 時 代 に、 「おにゃん子クラブ」はあえて「普通な 子」「同じクラスにいるちょっと気になる子」を集めてグ ループを結成した。さらに、そのメンバーのほとんどが芸 能 界 志 望 で は な い 一 般 の 子 で あ っ た。 そ の こ と に よ り、 人々は、自分たちとの共通点を見出し共感するようになっ たのである。 また、「おにゃん子クラブ」が売れた理由には歌の完成 度の高さもある。誰もが一度聞けば耳に残るような曲を多 く 生 ん で い る。 そ の 要 因 と し て、 秋 元 康 の 作 詞 能 力 が あ る。 面 白 く 聞 き や す い。 そ れ が、 売 れ た 大 き な 理 由 で あ る。 「おにゃん子クラブ」が解散を発表し、時が流 その後、 れ、 平 成 に 入 っ た と き に、 つ ん く ♂ が プ ロ デ ュ ー ス す る 「モーニング娘。 」が台頭してきて、一時代を作った。しか し、 そ の 人 気 も 下 火 に な っ て き た。 そ の 時 に 出 て き た グ ループが「AKB 」である。プロデューサーは秋元康。 「おにゃん子クラブ」ブームの立役者が平成のアイドル ブームにまた火をつけたのである。 「おにゃん子クラブ」同様の大人数ア 「AKB 」とは、 イ ド ル グ ル ー プ で あ る。 オ ー デ ィ シ ョ ン で メ ン バ ー を 集 め、専用のライブハウスも作り、華々しいデビューを飾る かと思われたが、最初の観客はメンバーよりも少ない七人 48 ︵経営学科一年︶ 今、日本では、アイドル戦国時代といわれるような、女 性アイドルブームが起こっている。このような大きなアイ ド ル ブ ー ム が 起 こ っ た の は 八 〇 年 代 か ら で あ る。 こ の 時 は、松田聖子、中森明菜などがデビューし、「アイドル黄 金時代」といわれる時代が出現した。そして、その次には 「おにゃんこクラブ」など、「アイドルグループ」と呼ばれ る、複数の女性がパフォーマンスをするものが登場した。 こ の 文 章 で は、 そ の「 ア イ ド ル グ ル ー プ 」 に 焦 点 を あ て、なぜそれらを支持する人が多いのかについて考えるこ とにする。 昭和のアイドルグループの代名詞である「おにゃん子ク ラブ」とは、秋元康がプロデュースしたグループであり、 テレビ番組「夕やけニャンニャン」で大ブレイクした。在 籍した人数が総勢五五名にもなるというとても大きなグ ループであり、その一人ひとりには会員番号が付けられて いた。代表曲としては、「セーラー服を脱がさないで」が ある。 なぜこのアイドルグループが売れたのだろうか。その理 48 であった。しかし、その後、地道な活動を続けて少しずつ フ ァ ン を 増 や し、 現 在 で は、 日 本 を 代 表 す る ア イ ド ル グ ル ー プ に な っ た。 「総選挙」とよばれるファン投票を行っ てメンバーの順位を決めたり、握手券をCDにつけて、好 きなメンバーと握手できたりするイベントを開催し、毎回 CDを一〇〇万枚以上売り上げている。 なぜ、「AKB 」にファンは夢中になっているのか。 その理由はキャッチフレーズ「会いに行けるアイドル」に ある。専用の劇場に行けばそのメンバーに必ず会える。そ の 上、 「 総 選 挙 」 で 選 抜 メ ン バ ー に 入 れ ば、 テ レ ビ に 映 る。握手するときに目の前でエールを送れる。自分がお金 をかければ好きな子が大きくなっていく、というような近 い存在であることがファンを魅了しているのである。 さらに、そのアイドルブームにのって売れたのが「もも いろクローバー ︵ももクロ︶」である。これは芸能事務 所スターダストプロモーションが作ったアイドルグループ である。「ももクロ」は、当初、アイドルグループとして 売り出すつもりはなく、人前に出ることに慣れるためにグ ル ー プ を 作 っ た の が 始 ま り で あ る。 そ の た め、 マ ネ ー ジャーなどもアイドルの知識はほとんどなかった。そのせ いもあって、今までのアイドルとは違う種類のアイドルに なった。 彼 女 ら の 魅 力 は、「 全 力 」 で あ る。 全 力 の ダ ン ス に 加 え、生歌でのパフォーマンスが人々を魅了している。見た 48 Z 目を重視していた「おにゃん子クラブ」や「AKB 」と は違い、汗だくで息を切らしながらライブを行っており、 そのライブを見てファンになった人は多い。 「ももクロ」 のファンに「今までのアイドルには興味がなかった」とい う人が多いことはこのことをよく示している。そのような 活動をみて心打たれたファンには実は女性も多い。その多 さは、女性限定ライブでありながら、武道館や全国各地の 映画館で行われたライブビューイングを満席にするほどで ある。これも彼女たちの特徴だ。 このように「ももクロ」には女性ファンも多いのではあ るが、基本的に女性アイドルには男性のファンが多い。そ れは、なぜなのか。 異性にひかれるという理由も大きいと思うが、私は、そ の一番の理由は歌詞にあると考えている。アイドルの歌の 歌 詞 に は、「 僕 」 「 自 分 」 な ど の 男 性 目 線 の 歌 詞 が 多 い。 ファンは自分をその歌詞に重ねて歌詞の中の主人公を疑似 体験しているのである。 夢を追う自分。仕事を頑張る自分。失恋した自分。そん な自分を応援してくれているアイドルに惹かれていくので ある。そして、応援してくれている彼女たちが大きくなっ ていくのをファンもまた応援していくのである。 アイドルは、今後も移り変わりながら多くの人々を応援 していくであろう。 48 62 ︿寸評﹀ 担当教員 河野 敏宏 羽柴君の文章も、浅井君・大島君同様、秋学期二つ目 のテーマに基づくものである。羽柴君は、最近のアイド ルグループの人気の高さについて、その原因を考察して くれた。一口にアイドルグループといっても、羽柴君の 文章にあるとおり、その特徴は様々である。羽柴君は、 主として若い世代が、そうした各種アイドルグーループ の特徴によって、さまざまなファン層を形成していると いう現実をわかりやすく分析している。アイドルグルー プによっては女性ファンも多いという現実は、一定以上 の 年 齢 の 者 に と っ て は 意 外 な 事 実 で あ ろ う。 こ う し た 「今の日本」のひとつの姿を分析する視点は、グローバ ル化が叫ばれる昨今において重要な視点となりうるであ ろう。こうした視点を今後も様々なことに活かしてほし い。 大きく考える 谷 川 美 晴 ︵経営学科一年︶ 兄弟、中学時代の同級生、同じ高卒、同じ大学の出身、 同期入社した同僚など様々なカテゴリーの中で、「成功す る者」と「成功しない者」が現れるだろう。この二者の違 いは何なのか。なぜ同じ両親から生まれたのに、同じ中学 に 通 っ て い た の に、 同 じ 高 卒 な の に、 同 じ 大 学 出 身 な の に、同期入社なのに、そのような差ができてしまうのか。 教養セミナーの教科書として使っているダビッド・シュワ ルツ著『大きく考えることの魔術』という本には、成功す る者としない者の考え方の違いについて多く書かれてい た。この本のページをめくった時、本文の前に書かれてい た「大きく考えなさい」という文が目についた。この簡潔 なたった一言が、私には難しい言葉に感じられた。“大き く考える”、それはどういうことなのか、考えることの大 小とは何なのか。 自分に自信のある人はどれだけいるだろうか。自分の信 念 に し た が っ て 行 動 で き る 人 は、 ど れ だ け い る の だ ろ う か。私は自分の考えや意見、行動すべてにおいて自信がな い。消極的で、よく言い訳をしたりあきらめたりする。十 63 七歳のとき、私には夢中になっていることがあった。それ に関係した職業に就きたいと思ったが迷いや不安があり、 進路も随分と悩んだ。しかし、悩めば悩むほど、自分がそ の職業に就いても成功するとは思えずあきらめた。何より 自分には才能がないだろうと思った。なぜ当時の私はそん な風に考えてしまったのだろうか。今思うと、十七歳の私 の考えは小さかった。「才能がないだろう」と自分を過小 評価し、 「失敗してしまったら」 、「成功できなかったら」 と自信がなくなるような考えばかりをし、挙句の果てには 「 将 来、 両 親 に 苦 労 を か け て し ま う か も し れ な い か ら 」 と、他人のせいにまでしてしまった。この時点で、私はす でに「成功しない者」だったのだ。 私は少なからず十七歳のことを後悔している。あの時あ きらめなかったら、自分に自信を持てていれば、言い訳を しなかったら⋮⋮。今このように過去を嘆いていること自 体が小さい考えで、ますます「成功する者」から遠ざかっ ているのかもしれない。私は今、あきらめた自分を悔やむ のではなく、大きく考えるべきなのだ。「まだ間に合う」 と。 私はまだ学生だから時間がある。身体も健康だ。夢をあ きらめたくない気持ちも残っている。しかし、今の私には 自 信 が な い。 自 信 が な い か ら 常 に 自 分 自 身 を 過 小 評 価 し て、あきらめようとしてしまう。自信をつけるために、私 はこの本に書かれていた以下の三つのことを実践しようと がわ 思う。「大きく考える言い方をする」 、「どうなるかではな く、何ができるのかを見つける」 、「ささいなことにこだわ らない」 。卑屈な言い方をせず、 「将来できるかどうか」と 考える前に今できることをし、小さな失敗でくよくよせず 自分を軽視する癖をなくしていくのだ。 私にとって「大きく考えること」とは、「後悔しないこ と 」 な の か も し れ な い。 後 の 後 悔 が 大 き け れ ば 大 き い ほ ど、自分の考えが小さかったことを思い知らされるのだ。 難しいことだけれども、私は常に大きく考えていこうと思 う。そうすることで、成功につながっていくだろう。何よ り、自分が大きな後悔をしてしまわないように。 や 担当教員 堀田 敏幸 ︿寸評﹀ こ の 教 養 セ ミ ナ ー の 授 業 で は、 ア メ リ カ 人 の ダ ビ ッ ド・ シ ュ ワ ル ツ が 書 い た『 大 き く 考 え る こ と の 魔 術 』 ︵実務教育出版︶をテキストにしている。数ページ分ず つを毎回二人の学生さんに要約して発表してもらい、ク ラスの仲間から質問を受けるという方法で行っている。 川美晴さんの文章はうまく書けている。その中で、 谷 本人は「後悔癖」があると言う。人間は何か現状よりも 新しいこと、難しいことをやろうとすると、それが本当 に自分の技量からして成し遂げられるのか、不安の前に 立たされる。その目的がより素晴らしく偉大なものであ ればある程、相対的に自分の実力は小さく見えてしまう 64 のだ。だから、その目的はあきらめて、別の簡単なもの にしようと後ずさることになる。 しかし、時に人間は途轍もなく大きな希望を欲しくな る時がある。それは夢に終わるかもしれない。そうだと しても、情熱のすべてを賭けてやり遂げてみたいと思う 夢は必要だ。たとえ希望が達成されなくとも、それまで の経験はまた次の希望を生み出してくれるだろう。青春 時代の失敗は後悔ではなく、新たな希望への道のりと信 じて、谷川さんには人生を歩んでもらいたい。 『大きく考えることの魔術』 を読んで ︵経営学科一年︶ 岡 田 崚 「人の名前を覚えることに熟達しなさい」 、「穏やかな人 物となりなさい」 、これらの言葉は、 『大きく考えることの 魔術』という本の中で紹介されている「人に好かれるため の方法」の一部である。あなたはこのような才能を持った 人に出会ったとき、不快な思いをするだろうか。多くの人 が相手に対して好感を持つだろう。しかし、人に好かれる ことはそんなに簡単なことではないと、私は考える。 例に出した二つの方法のうちの一つは、自分の意志では コントロールできないものである。それは、 「穏やかな人 物となりなさい」という言葉だ。いくら穏やかにしようと していても、どうしても腹の立つような出来事が誰にでも 起きると思う。その瞬間どれだけ大きく考えられるかとい うのが、穏やかな人物に近づくための重要なポイントでは ないだろうか。急に意識しはじめたところで、次の日から 穏やかな人物になることは難しい。 だが、一つ目の「人の名前を覚えること」は、自分の工 夫次第で次の日から変化が現れるのではないかと思う。自 65 分の手帳に新しく知り合いになった人をメモすることで、 大きく変わる。実際、私はバイトを始めたばかりのころ、 これを実践していた。私の働いているバイト先はすぐ近く に本部の事務所があるので、社員の方々が会議をしたつい でに様子を見に来ることがあった。新人だった私はいろい ろな人に声をかけてもらったのだが、人数が多すぎて顔と 名前が覚えられなかった。しかし、そのとき持っていたメ モ帳に名前を一度書いてみると、書かない時にくらべて素 早く覚えることができた。この方法は、これからも続けて いきたいと思う。 もう一度、はじめに戻って考えてみる。なぜ人の名前を 覚えることに熟達し、穏やかな人物として人から好かれる ことが必要なのか。それは、人を選ぶ際「人に好かれる」 かどうかが、第一の問題とされるからだと著者は言う。確 かにそうかもしれない。就職試験で、わざわざ人に好かれ ない人を試験官が選ぶはずがないと思う。いざというとき 助けてくれるのは、自分のことに好意を持ってくれたり、 立派だと認めてくれる人だ。人に好かれる人物は、そうで ない人よりも多くの情報や知識を得ることができると思う し、 何 よ り も 人 と の つ な が り を 広 く 深 く 持 つ こ と が で き る。だから、人に好かれる人物になる必要がある。だが、 人に好かれるために何かしようという考え方が優先し、自 分の考えや行動がすべてそのために向けられると、自分を 見失ってしまうことになる。人間性として人に好かれる力 量を自然と身につけておくことが重要だということも、著 者は言っている。 『 大 き く 考 え る こ と の 魔 術 』 を 読 み 進 め て い く う ち に、 私には社会人として立派に生きていくための力が不足して いることに気付くことができた。それは能力や技術が足り ないのはもちろんのことだが、発生した問題や自分の目標 に対して、どれだけ多くの観点から考えることができるか という力だ。私は今後の学生生活で、 「どんなことにも見 方を変えてみるだけで、違った考え方を生み出すことがで きる」ということを常に意識して過ごしていきたいと思 う。教養セミナーという授業で今年一年かけてじっくり読 み進み、今の自分を見直すいい機会になったこの本は、自 分やまわりの人の考え方が小さいと感じて悩んだ時、再度 読み返すことで勇気を与えてくれるだろう。 りょう 担当教員 堀田 敏幸 ︿寸評﹀ こ の 教 養 セ ミ ナ ー の 授 業 で は、 ア メ リ カ 人 の ダ ビ ッ ド・ シ ュ ワ ル ツ が 書 い た『 大 き く 考 え る こ と の 魔 術 』 ︵実務教育出版︶をテキストにしている。数ページ分ず つを毎回二人の学生さんに要約して発表してもらい、ク ラスの仲間から質問を受けるという方法で行っている。 君 は「 人 に 好 か れ る 」 た め に は ど う し た ら よ 岡 田 崚 いか、彼の方法を教えてくれている。 「穏やかな人物」 になることだというのが彼のモットーだが、彼自身もこ 66 そで の方法はそう簡単に身に付くものではないと言う。なぜ な ら、 人 間 の 生 活 に は 怒 り た く な る よ う な 嫌 な こ と が 次々と起こって、これに対し沈黙していたのでは、自分 が馬鹿を見るだけだからである。 では、どうするか。それは物事に対し、 「見方を変え る」ことだと説く。ある人が袖がかすっただけで怒って きた。なぜか。自分が特に悪いわけではない。相手はこ の時、何か自分の都合で気分を害していたのだ。試験や 仕事がうまく行かなかったのかもしれない。友人や家族 と 不 仲 に な っ た の か も し れ な い。 そ う 思 う こ と に よ っ て、他人の怒りの原因を受け流すのである。これは難し い。しかし、岡田君は見たところ、人の気持ちを推し量 ることのできる好青年だ。対人関係だけでなく、様々な 問題に対し物事の見方を変えることは、新たな発想とア イデアをもたらしてくれるであろう。 防災グッズの非常食を考える 加 藤 舞 ︵経営学科一年︶ 二〇一一年三月一一日、東日本大震災が起きて以来、震 災に対する関心が高まった。中部九県一〇〇人に実施した 中日新聞のアンケートによると、防災報道に関心が高まっ たと答えたのは八七パーセントにも上った。震災が起きた 直後は、連日、東日本大震災の報道がされるなかで、非常 食・消耗品の買いだめなどが起き、防災グッズの売り上げ は 急 激 に 上 昇 し た。 ホ ー ム セ ン タ ー な ど の 店 頭 に は 防 災 グッズコーナーが作られた。人々の防災に対する意識が上 が り、 新 し い 防 災 グ ッ ズ の 開 発 が 今 も 進 ん で い る。 防 災 グッズはどのような発展を遂げてきたのか。どんなに科学 や技術が進んでも、避けては通れない、人々が生きていく うえで絶対必要となる食料とくに非常食のカンパンと米、 加熱パックを調べてみた。そして、非常食がどの程度備蓄 され賞味期限は守られているかを確かめた。 一、非常食 ①カンパン 非常食としてもっとも有名な一つにカンパン がある。カンパンは、明治期の大日本帝国陸軍が欧米の 67 軍用ビスケットを改良して作った携帯食料であり、 「重 焼麺麭︵じゅうしょうめんぽう︶」と呼ばれた。意味は 二度焼いたパンで、ビスケットのことである。 の ち に「 乾 麺 麭︵ か ん め ん ぽ う ︶ 」と呼ばれ、昭和期 には更なる改良が行われ、味形共に現在の小型カンパン と 変 わ ら な い も の と な り、 名 称 も「 カ ン パ ン 」 と な っ た。のちに三立製菓が商品として発売を開始したのであ る。賞味期限は約五年と長く、保存に困らない大きさで あり、価格も手ごろであるため非常食の代表とも言って いいだろう。 実際に家にあった一〇〇 入りの缶にはいった三立製 菓のカンパンを試食してみた。普通のゴマ入りビスケッ ト と 同 じ で、 大 き さ は 一 口 ほ ど。 氷 砂 糖 が 糖 分 と し て 入っていて、カンパン自体があまり甘くないのでおいし く感じた。しかし、食べ進めていくうちに胸焼けのよう な『飽き』がでてきた。口の中の水分がだんだんなくな り、氷砂糖を舐めても違和感をもった。実際に食べてみ て私が感じた欠点は、飽きを感じるということ、食べる 際に水分が必要となってくること、やや固いため小さい 子どもやお年寄りに向かないことの三点である。 ②米 カンパンの問題点を解決できると思うのは、いつも 食べているお米ではないだろうか。次に、お米の非常食 についてみていくことにする。平安時代初期の『伊勢物 語』の東下りの段に糒︵ほしい︶という乾かしたご飯が g 登場する。実際に商品化に乗り出したのはいつなのだろ うか。第二次世界大戦当時の日本軍より、一九四四年に 「 火 力 を 利 用 せ ず、 炊 飯 を 行 わ ず に 食 べ ら れ る ご 飯 」 を 大阪大学産業科学研究所の二国二郎と尾西食品に依頼 し、アルファ化米が開発された。終戦後、民間向けの携 帯食としても用途を広げたという。 米の非常食といえば、お湯か水をそそいで出来上がる ア ル フ ァ 米 が 有 名 で は な い だ ろ う か。 味 の 種 類 が 豊 富 で、カンパンに比べて飽きがこない点や、子供でも食べ やすいという点が優れている。ここでカンパンと同様に 家にあった非常食を食べてみることにした。今回は真空 パック詰めの白米があったので食べてみる。レンジで三 分、もしくは熱湯二〇分で出来上がる。今回はレンジで 加熱した。真空パックのご飯は初めて食べるので多少身 構えたが、食べてみるとインスタントにしてはおいしい と感じた。 二、加熱パック(モーリアンヒートパック) しかし、アルファ米は乾燥粥の場合、お湯は五分で出来 上がるが、水の場合は四〇∼五〇分待たなくてはならない という欠点がある。震災が起きた場合、電気が止まってし ま う 場 合 が 多 い。 そ う な る と、 お 湯 の 調 達 は 容 易 で は な い。 も っ と 早 く 暖 か い ご 飯 が で き あ が る の は な い だ ろ う か。 68 そこで開発されたのが、モーリアンヒートパックという 商品であった。生石灰︵酸化カルシウム︶と水の反応で出 来る液状の水酸化カルシウムとアルミニウムと化学反応さ せる事で発生する大きな熱量で食材を加熱できるパックで ある。水を注いで一五分∼二〇分で暖かいものを食べるこ とができるのである。東日本大震災の際、三月のまだ冷え 込む時期だったため、このパックで暖かい食料となり、あ りがたられたと聞く。モーリアンヒートパックを備えてい れば、暖かい食事をとることができるだろう。 三、備蓄と賞味期限 非常食について調べ、述べてきたが私には二つの疑問が 浮かんだ。一つは人々が非常食を備えているのだろうか。 二つは賞味期限を守っているかという疑問である。 一つ目の疑問に対し、私は夏休み期間を使って、一人暮 らしの友人男女一〇人にアンケートを行った。質問内容は 「災害時の非常食を備えているかどうか」である。備えて いればなぜ備えているのか、そうでない場合にはなぜ備え ていないのかを聞いた。結果は備えているは四人、備えて いないは六人と、備えていないと回答した人が多かった。 備えている人は「実家から送ってくれたものを保存してあ る」 「万が一のために用意した」という理由であった。一 方、 備 え て い な い 人 は「 何 を 用 意 し た ら い い か わ か ら な い」 「忘れていた」「置く場所がない」という意見がみられ た。確かに一人暮らしの部屋では、大きな非常用袋が部屋 にあったら邪魔になってしまう。コンパクトな防災グッズ がより望まれる意見ではないだろうか。そして「忘れてい た」という意見があがったのは若者の防災に対する関心が 低いからではないかと考える。 二つ目の疑問「長期保存が可能になったために、賞味期 限の確認を怠るようになってしまっていないか」である。 この疑問に対しては、一人暮らしの人では備えている割合 が少なかったため、非常食を備えていると答えた身近な人 を対象に調査した。 我が家では半年に一回の頻度で、大掃除の際に缶詰や保 存食と一緒に確認をしている。期限がきれそうなものは食 べてしまい、新しい非常食を補充する。祖母の家では同じ く半年に一回ぐらいを目安に確認をするとのことだった が、水の確認はつい怠ってしまい賞味期限を切らせたこと があるそうだ。「最近は五年保存できる水があるため、食 料などの確認はきちんとしても水は確認を怠ってしまう」 と 言 っ て い た。 や は り、 長 期 保 存 が 可 能 に な っ た こ と で 『まだ大丈夫だろう』と考えてしまう場合もあった。姉家 族では、一年に一回の頻度で九月一日の『防災の日』に確 認をする。姉には赤ちゃんがいるため保存の効く離乳食の ようなものを用意している。たしかに、子供向けの非常食 があってもまだ歯も生えきっていない赤ちゃんがいる家庭 では、こういったものの準備も必要だと気付かされた。 69 四、まとめ 防災グッズの中から無くてはならない非常食の検討をカ ンパン、米、加熱パックで行った。その結果、食べにくい ものから食べやすいものへ、また冷たいものから暖かいも のへ非常食も進化していることが分かった。 先 に も 述 べ た よ う に、 ど れ だ け 便 利 に な ろ う と、 防 災 グッズは備えていなければ意味がない。アンケートに「備 えていない」と答えた友人は「震災のことや防災のことを 聞くときちんと備えたいと思うけれど、普段生活している と用意するのを忘れてしまう」とも言っていた。東日本大 震災から一〇〇〇日以上が経過した今日、時間が経つにつ れ、震災に関する報道は少なくなっていっている。先ほど のアンケートの「忘れていた」も、このことが関係してい るのではないだろうか。時間が経った今だからこそ、こん なに便利に、発展が進んだ今だからこそ、もう一度防災に ついて考え、備える必要があるのではないだろうか。 ︿参考文献﹀ 協同HP www.morians.co.jp/ 中日新聞社会部編著『備える! 3・11から』一四四頁、二〇 一二年 三立製菓HP http://www.sanritsuseika.co.jp/index.htm ︿寸評﹀ 担当教員 山野 明男 教養セミナーでは防災を掲げ「防災を学び、災害に備 えよう」と一年間学んできた。学生個人にはテーマを与 え、夏休みなどを利用して調査を行い、一二月に研究発 表を行い一月にレポートを提出することにしている。今 年 度 は 初 め て テ キ ス ト を 使 用 し た。 中 日 新 聞 の『 備 え る! 3・11から』を読んで、その内容をコメントす る形式をとった。この材料が身近にあったのでレポート 作成にも役立ったと思われる。また、多くの視聴覚で防 災を学んだ。 掲 載 の レ ポ ー ト は、 防 災 グ ッ ズ の 非 常 食 に 焦 点 を 当 て、カンパンや真空パック詰めの米を実食しての報告が 珍しいものとなった。アンケート調査では、本来多人数 で実施することが求められるが、身近な人々からの聞き 取りでもこのようなレポートができるという点で評価し た。 70 いじめ ∼い じ め 防 止 対 策 推 進 法 の 制 定 を 機 に ∼ ︵商学科一年︶ 中 林 大 貴 一、はじめに 近年、深刻化しているいじめ問題。いじめによって自ら の命を絶ってしまう中・高生が増加傾向にある。私自身も いじめによって心が崩壊し、不登校、さらには自殺を考え たことがあるひとりだ。心のカウンセリングを受け、唯一 信頼している親友のおかげでなんとか心を取り戻しつつあ るが、今でもあの時のことがフラッシュバックして人間関 係の問題で悩むことも多い。思春期にいじめを受けた経験 をもつ子どもは、大人になっても不安を抱えているとも言 われる。人間関係が充実していても充実していることが不 安となり、いつかあの時のような状態に戻るのではないか と恐れながら生活している。 二、いじめ防止対策推進法の制定 大津市のいじめ事件を契機に、平成二十五年六月いじめ 防止対策推進法が制定された。この法律は、子どもの尊厳 を保持するため、いじめ防止対策の基本理念、関係者の責 務等を明らかにし、その対策を総合的かつ効果的に推進す るとしている︵第一条︶。第二条では、いじめを「児童等 に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当 該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的 又は物理的な影響を与える行為︵インターネットを通じて 行 わ れ る も の を 含 む。 ︶であって、当該行為の対象となっ た児童等が心身の苦痛を感じているものをいう」と定義し た。これは、 「 当 該 児 童 生 徒 が、 一 定 の 人 間 関 係 の あ る 者 から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的 な 苦 痛 を 感 じ て い る も の。 ︵平成十八年 文部科学省︶」と いう従来の定義を大きく進展させたと言えよう。例えば、 心理的、物理的な「攻撃」ばかりでなく、心理的または物 理的な「影響」と、いじめ行為をより広範に捉えているこ となどである。 三、いじめについての動向 平成二十二年度政府統計調査によるいじめ認知件数は七 七、 六 三 〇 件、 一 〇 〇 〇 人 あ た り の い じ め の 認 知 件 数 は 五・五件である。この数字はあくまで認知しているものだ けなので、実際はもっと多いであろう。加害者の子たちは 先生にばれないように、ということに細心の注意を払って い る。 先 生 が 気 づ か な い う ち に い じ め は 陰 で 横 行 し て い る。また、学校が実施したアンケートによる発見はたしか に効果的だ。だが、アンケートに書いたことでさらなるい 71 じめに発展するのではと考え、恐怖心で記入できない子も いる。こうした認知件数はいじめ問題の基本となるもので あるから、学校をはじめいろんな場でのいじめの認知を徹 底していかなければならない。 いじめ発見のきっかけについては、同調査によると、担 任 教 諭、 養 護 教 諭 な ど 学 校 職 員 が 発 見 し た も の が 五 一・ 五%、この中には学校が実施したアンケートも含まれる。 生徒個人や保護者、地域住民、学校外の機関など学校職員 以外による発見が四八・五%である。このことは、いじめ を学校内部での問題としてではなく、子どもを取り巻く社 会全体の問題として捉えなければならないことを意味して いる。 いじめの内容は種々雑多である。悪口や陰口、仲間はず れや無視などや暴力や金品のたかりなどが挙げられる。最 近では携帯電話やインターネットなどによるいじめも急増 している。いじめ防止対策推進法にもネットによるいじめ 対策が含まれているが、ネットなど便利なものが増えてい くにつれていじめの行われ方もより多様化する、と私は考 える。 四、まとめにかえて いじめは絶対に許されるものではないし、絶対に撲滅す べ き も の で あ る。 政 府 は 日 本 の 子 ど も の 学 力 低 下 を あ げ て、教育改革をはじめている。そのような教育改革より、 年々増加しているいじめ、それによって生まれてしまった 加害者と被害者の心のケアに重点を置いてほしい。確かに 学力向上は大切なことであるが、いじめで学校に来ること ができなくなってはそれ以前の問題である。 ︿参考文献等﹀ いじめ│文部科学省│ http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1302904. htm 児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査︵平成二 十三年九月速報値︶ http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?bid =000001041222 &cycode=0 ︿寸評﹀ 担当教員 井上 知則 いじめが深刻化している。昨年六月「いじめ防止対策 推進法」が制定され、文科省も本腰を入れていじめに対 応しようとしている。いじめを受けた経験をもとにそれ が子どもの人間形成に大きく影響することを訴え、いじ めの撲滅を願い、このレポートは著された。 当初、このレポートを本冊子に掲載することを、私は 躊躇した。本人のプライバシーに大きく関わるからであ る。 そ の こ と を か れ に 伝 え る と、 「公表していいです よ。掲載されることで、自信にもなりますから。 」との 返事であった。 72 「まとめにかえて」に、「それ︵いじめ︶によって生ま れてしまった加害者と被害者の心のケアに重点を置いて ほしい」とのかれの言葉を、私は大切にしたい。と同時 に、加害者の心のケアをも視野にいれたことに、かれの 心の成長がうかがえる。 魅力的になるための過程 金 子 奈 央 ︵商学科一年︶ 大学生として、将来へのビジョンを確かなものにすべき 時が近づきつつある。真摯な姿勢で考え、取り組むべきこ とが多い中、私はふと、自分の魅力が何であるかを考える ようになってきた。自分から見て魅力的だと思う人はいっ たい何をしているのかを疑問に思うのである。 容姿が端麗であったり、学業成績が優れている人を魅力 的だと思うことは確かにあるのだけれど、高校時代のある 友人のことが思い出され、考えることがある。その人は決 して頭脳明晰には映らなかったが、いつも周りに友達が集 ま っ て い て、 ク ラ ス の 団 結 の 要 と な る 求 心 力 を も っ て い た。その人が皆に必要とされたのはなぜだろうかと考えた 時 に 想 起 さ れ る 直 観 的 な 答 え は、 「明るく話しかけやす かったこと」と「いかなることにも全力で取り組んでいた こ と 」 で あ る。 そ の 人 の も つ 明 る く 話 し か け や す い 性 格 は、人とのコミュニケーションを円滑にし気軽に意見を交 わしあうことを可能にしていて、自然と周囲から頼られる 存 在 に な っ て い た と 思 わ れ る。 ま た、 何 事 に 対 し て も 全 力、一生懸命でひたむきだったが、この姿勢が周囲に悪い 73 印象与えることは稀有であるし、そればかりか周りの士気 もあがり良好な環境を呈していたように思われる。いまこ うやって改めて考えてみるまでもなく、この友達がそのよ うな魅力を潜在的に持っていたことはうすうすと気付いて いたが、仮に、その友人が意識的にそういう振る舞いをし ていたのだとしても、それはやはり努力の賜物だと言える と思う。このように考えてくると、ふと、本人以外がその 人物の長所だと感じる部分こそが、その人物の魅力なので はないかということに気付かされる。 より客観的立場から魅力について考えてみたい。魅力に は、その人にしか備わっていないような、いわばその人固 有の天賦のものもあるのかもしれない。それはそれで、そ の人の貴重な魅力なのであり、これを否定するものではな く、 む し ろ 益 々 磨 き を か け る べ き だ と 思 う。 し か し 一 方 で、誰にでも備わっていて手を伸ばしさえすれば手が届く ようなありふれたもの、誰にでも磨きをかけることが許さ れている類の魅力の方がむしろ圧倒的に多いのではないだ ろうか。夥しい数に上る幾多の例のうち、「努力」はその 一例といえよう。すばぬけてストイックな努力を重ねてき たことが裏打ちされる魅力に圧倒されて、思わず感嘆の声 があがる場面に何度も遭遇してきた。しかし翻って考えて みるに、人それぞれに場面や質は違えども、ストイックな 努力を払った経験は誰にでも必ずあるはずだ。つまり、燦 然と輝く魅力を自分のものにするチャンスは、誰にでもあ るということだ。 魅 力 に は 人 の 目 を 自 分 に 向 け さ せ る 力 が あ る。 そ の 力 は、必ず人生に何らかの刺激や可能性を生み、私達の人生 の内容を濃くし、変化をもたらす。魅力は、就職活動や結 婚活動、友人関係でも一つの鍵を握り、人の価値をはかる 重要な要素にもなろう。私はこれから出会う人に、何が自 分自身の長所であり、魅力であると感じさせる事が出来る だろうか。自分自身の魅力を感じてもらうためには、他人 よりも質を高めることのできる分野を探し、質を高める努 力を積み上げていくことが必要不可欠である。そして、そ れが出来ないと魅力を手にする機会をみすみす逃してしま うことにつながる。私は、自分の長所や魅力を探す、ある いは質を高める、その過程や結果が人を魅力的にすると考 え、さらに、それが将来のビジョンを確かにする鍵を握っ ていると考える。 私は自分の質を高めることの出来る分野を探し、魅力的 になる努力をしていきたい。 担当教員 城 貞晴 ︿寸評﹀ 本稿著作者の金子さんは「魅力的になる」という極め て 深 遠 な テ ー マ に つ い て 考 察 を し ま し た。 特 に 女 性 に とっては特別な意味が込められるとは思いますが、老若 男女問わず、誰しも関心の高いテーマです。日本人は古 来より、人はもとより、如何なるものにもそこに潜む魅 74 力 を 見 出 し、 そ れ を 最 大 限 に 引 き 出 そ う と し て き ま し た。それが日本独特の「間」の文化をはぐくんだとも言 えそうです。しかし、魅力を引き出し、その人の「味」 となりさらには「香り」としてその人を取り囲むように なるまでには、途方もなく、想像を絶する日々の努力が 必要です。それは一つの「道」とも言えるものだと思い ます。道の途上で輝きを増したその人の魅力は、年老い て も な お 決 し て 衰 え る こ と は あ り ま せ ん。 若 い こ ろ か ら、自分の魅力について意識し、考えることそれ自体が 即ち、魅力的になるための過程に他なりません。金子さ ん自身の道を、一歩一歩、しっかりと踏みしめて歩み、 益々、自分自身の魅力に磨きをかけてほしいと願ってい ます。 オリンピック自国開催が 日本にもたらす影響 ︵商学科一年︶ 市 川 佳 奈 二〇一三年の出来事の中で、最も私の印象に残っている ことは、二〇二〇年夏季オリンピック・パラリンピックの 開催地が東京都に決まったということである。このニュー スは、二〇一三年の一〇大ニュースに入る。日本での夏季 五輪開催は、一九六四年の東京大会以来、実に五六年ぶり になる。現在の日本は深刻な原発問題を抱えていることも 重なり、このニュースは、日本中に歓喜を巻き起こした。 オリンピックを自国で開催することによる影響は間違いな く大きいと思われるが、その影響はよいものも悪いものも ありそうだ。そこで私は、オリンピックの自国開催が、ど のようなメリットとデメリットを内包しているか、考察し てみることにした。 まず、メリットについては、少なくとも以下の三つが挙 げられる。一つ目は、経済波及効果が期待できるというこ とである。経済波及効果とは、ある商品に需要が発生した とき、経済におけるさまざまな取引の連鎖によって、ほか の商品の需要が生み出され、それを製造する関連産業の生 75 産が誘発されることである。大会開催に伴う経済波及効果 は、東京都で約一億五千万円、日本全国では三億円弱との 試算もある。多くの企業が活性化することにより、雇用の 増加と拡大が見込まれ、失業率の低下にもつながるのでは ないかと期待される。 二つ目は、交通網が発達するということである。地下鉄 新線開通やバスの二十四時間運行にむけて、都心を中心に した整備が行われる予定である。これはオリンピック開催 後、通勤時間の短縮や輸送経路の多様化を促し、利便性向 上に寄与する。 三 つ 目 は、 観 光 産 業 の 育 成 を 促 進 す る と い う こ と で あ る。オリンピックでは、世界中から多くの人々が集まるの で、日本の魅力を伝える絶好のチャンスである。観光産業 が発達すれば、オリンピック後に日本を旅行などで訪れる 人が増え、経済活動が活発化することが期待できる。 一方で、デメリットとして以下の三つが挙げられる。一 つ目は、大会開催にあたっての施設建設や整備、選手の招 集、交通網の開拓のために数千億円にのぼる巨額資金が必 要になるということである。二〇〇二年に長野県で開催さ れた冬季オリンピックでは、施設整備に巨額の資金がかか り、回収できないまま莫大な借金を残したという実例があ る。 二つ目は、大会終了後の施設売却で大幅な赤字を抱えこ む可能性があるということだ。大会後も利用する施設につ いては資金回収の機能を有するのでまだよいのだが、大会 だけのために建設する施設の場合には、観光目的以外の用 途がなく、資金回収が困難なばかりでなく、維持費を捻出 することすら困難になり、赤字増加を招くことになりかね ない。 三つ目は、労働力が東京に集中する可能性があることで ある。雇用を求めて他県から多くの人々が東京に働きに出 た場合、今以上に地方の過疎化が深刻化することが懸念さ れる。特に、東北地方では人口減少により震災後の復興活 動の遅延が問題になる可能性がある。 他にも幾多のメリットとデメリットが想定できるが、オ リンピック開催までに布石を打つ必要のある事柄は極めて 多い。特に原発問題と経済悪化は大きな問題である。原発 問題は、オリンピックを安全に行うために、これから七年 の間に大々的な対策を講じなくてはならない。経済の悪化 への対応は、主に消費税引き上げとオリンピック開催に伴 う経済的効果の二点が挙げられるが、これらによる回復を 期待したい。 多くのメリットとデメリットが交錯するのは必至である が、私は、このオリンピックを自国で開催することによる 二つの意義を強調したい。一つ目は、世界中の人々への恩 返しをするという意義である。二〇一一年三月一一日に起 きた東日本大震災では、多くの人々が命を失い、家をなく した。この時、世界各国から東北地方に多くの義援金が送 76 られ、人的援助を受けた。このときの恩返しをする絶好の 機会ととらえてはどうか。この考えを無下に否定し、オリ ンピックを開催するだけの金銭的ゆとりがあるのなら、復 興 支 援 の 目 的 で 使 う べ き だ と 主 張 す る 人 も い る。 オ リ ン ピック開催に莫大な資金を要するのは事実であるが、私は この考えに反対である。オリンピックの開催によって得ら れるものは、あらゆるデメリットを補って余りあるのでは ないか。特にオリンピック開催にともなって自然発生的に 出てくるであろう「活気」に期待したい。その活気は、オ リンピック開催を通して日本中が一つになる力になると信 じる。そして、その力を以って、世界中の人々に恩返しを するのだ。 二つ目は、平和の大切さを伝えるという意義である。日 本は平和的国家であると言ってよい。オリンピックに集ま る世界中の人々に「平和」の大切さを実感してもらい、世 界各国で絶えることのないデモやテロの減少に少しでも貢 献できることを期待したい。 オリンピックの自国開催まで、あと七年だ。このオリン ピック開催決定を契機に、今後どのように日本が変わって ゆくのか、とても楽しみである。そして、自分も七年後は 社会の役に立つ人材になっていたい。この希望を実現する た め に は、 大 学 四 年 間 の 日 々 一 日 一 日 が と て も 大 切 に な る。オリンピック開催に向けた社会の活性化と並び立ち、 自分自身も、自分が目標としているものに近づくために、 日々努力を惜しまずに生活していきたい。 担当教員 城 貞晴 ︿寸評﹀ 本稿著作者の市川さんは、昨年二〇一三年の代表的な 出来事であるオリンピックの東京招致実現のニュースを 取 り 上 げ、 商 学 部 学 生 ら し さ の 際 立 つ 独 自 の 分 析 を 行 い、本稿をまとめました。物事には必ず「節目」という ものがあります。例えば、竹には節がありますが、節の 一つひとつがしっかりしているからこそ、真っ直ぐに天 に 向 か っ て 伸 び て い く こ と が で き ま す。 何 事 に お い て も、節目一つひとつを大切にするということは、その後 の発展のためにとても大切なことです。日本の歴史の中 で二〇二〇年は、オリンピック開催という記念すべき節 目の年になります。この節目を大切に想い、確固たる新 たな目標を掲げ、実践することが、その後の日本の発展 にとってとても大切です。市川さんが本稿で述べている 通り、現在の日本は原発問題をはじめとする深刻な問題 を多く抱えています。しかし、私たち一人ひとりが、オ リンピック自国開催を新たな節目としてとらえ、その後 の飛躍にむけた努力を払うことが求められます。その新 たな流れの中で、市川さんには是非とも、オリンピック 開催の節目の二〇二〇年を、社会をけん引する凛とした 社会人として迎えてほしいと願います。そして、オリン ピック開催後は益々、天に向かって真っ直ぐに伸びる竹 77 のように、社会人として大いに成長していくことを期待 しています。 天気と投票率との関係性 瀧 本 大 介 ︵商学科一年︶ 昨今の日本における選挙に関する話題と言えば、さしず め、外国人参政権の問題や、ここ数年でクローズアップさ れている一票の格差問題であろうか。問題が山積している 選挙という制度の中から私が興味を持ったのは、「天気が 悪いと投票率が低くなる」という投票率に関わる通説であ る。 天 気 と 投 票 率 に は 一 定 の 関 係 が あ る か ど う か に つ い て、考察することとした。 確かに天気が悪いとワザワザ投票所に出向くのも気が引 けるというのは納得できる説明のようにみえなくはない。 しかし、有権者が国や地方自治体に対して自分の意思を示 す投票という行動は、気まぐれともいえる天気によって左 右されてしまうのだろうかと、私は疑問を抱いた。この疑 問を解消するべく、投票率と投票日当日の天気を調べてみ た。今回は、私の郷土である三重県を調査対象とし、一九 九〇年から二〇一三年までの間に実施された衆議院議員総 選挙と参議院議員通常選挙、三重県知事選挙の各選挙の投 票率と県庁所在地である津市の天気をリストアップした。 そのリストを「三重県における主要選挙の投票率と天気」 78 と題して示すので、参照して頂きたい。今回の解析におい て、天気の良否について、「雨が降れば天気が悪い」逆に 「雨が降らなければ天気は良い」と定義づけることとした。 まず、投票率上位五回の各選挙の投票率と天気に着目し た。即ちそれらは、第三九回、第四〇回、第四四回、第四 五回の各衆議院議員総選挙ならびに第一四回三重県知事選 挙をさす。ここから、非常に興味深い事実が浮かび上がっ てきた。投票率上位五回の各選挙のうち第三九回衆議院議 員総選挙の八〇・〇六%と第四五回衆議院議員総選挙の七 二・三七%の投票日だけが晴後曇と曇後晴であって、他二 回の衆議院議員総選挙当日の天気は曇時々雨、残りの一九 九五年四月九日の投票率六八・二四%であった第一四回三 重 県 知 事 選 挙 の 投 票 日 の 天 気 は 雨 時 々 曇 で あ っ た。 つ ま り、高い投票率と良好な天気とが一致するものではないこ とが判ったのである。 次に、投票率下位五回分の各選挙の投票率と天気に着目 した。ここで該当するのは、第一六回、第一七回の各参議 院議員通常選挙ならびに第一三回と第一七回、第一八回の 各三重県知事選挙である。一九九二年七月二六日の第一六 回参議院議員通常選挙と二〇〇七年四月八日の第一七回三 重県知事選挙の二回は晴後薄曇、一九九五年七月二三日の 第一七回参議院議員通常選挙は曇時々晴であった。さらに 三重県知事選挙において最低となる三七・七七%という低 投票率を記録した一九九二年一一月二九日の第一三回三重 県知事選挙と五五・六九%であった二〇一一年四月一〇日 の 第 一 八 回 三 重 県 知 事 選 挙 の 投 票 日 は 晴 で あ っ た。 つ ま り、投票率が低い投票日は天気が悪いわけでもない、とい う結果が出たのである。 しかし、この結果は三重県における調査結果であり、天 気が悪いと投票率が低くなるというのは全国の有権者を対 象にした投票率の通説なのかもしれない。また全国各地に 今回の結果と解釈を適用できるかというと、必ずしもそう とは言えまい。あくまでもこの結果は三重県に関する調査 結果に過ぎない。しかし、少なくとも三重県については、 気まぐれとも言える天気によって投票率が左右されないと いうことを結論してよいのではないか。やはり、国や地方 自治体に、有権者が自らの意思を示す投票という行動は天 気によって左右されるような軽いものではないようだ。 なお本題からはずれるが、今回の調査で一九九二年の第 一三回三重県知事選挙の投票率三七・七七%が低投票率と し て 際 立 っ て い る。 有 権 者 は 必 ず 何 ら か の 意 見 や 意 思 を 持 っ て い る は ず で あ る か ら、 「自分の一票ではなにも変わ らないから」と棄権するのではなく、自分の意思を示すた めに投票に行くべきである。私は、必ず投票に行こうと思 う。 79 表 三重県における主要選挙の投票率と天気 実施された選挙 第39 回衆議院議員総選挙 第16 回参議院議員通常選挙 第13 回三重県知事選挙 第40 回衆議院議員総選挙 第14 回三重県知事選挙 第17 回参議院議員通常選挙 第41 回衆議院議員総選挙 第18 回参議院議員通常選挙 第15 回三重県知事選挙 第42 回衆議院議員総選挙 第19 回参議院議員通常選挙 第16 回三重県知事選挙 第43 回衆議院議員総選挙 第20 回参議院議員通常選挙 第44 回衆議院議員総選挙 第17 回三重県知事選挙 第21 回参議院議員通常選挙 第45 回衆議院議員総選挙 第22 回参議院議員通常選挙 第18 回三重県知事選挙 第46 回衆議院議員総選挙 第23 回参議院議員通常選挙 日付 (年/月/日) 1990/2/18 1992/7/26 1992/11/29 1993/7/18 1995/4/9 1995/7/23 1996/10/20 1998/7/12 1999/4/11 2000/6/25 2001/7/29 2003/4/13 2003/11/9 2004/7/11 2005/9/11 2007/4/8 2007/7/29 2009/8/30 2010/7/11 2011/4/10 2012/12/16 2013/7/21 天気(津) 6:00 ~ 18:00 投票率 80.06 53.49 37.77 75.07 68.24 47.07 63.38 61.52 62.19 67.21 60.59 59.97 65.08 62.28 71.19 54.35 60.58 72.37 60.85 55.69 61.29 57.82 晴後曇 晴後薄曇 晴 曇一時雨 雨時々曇 曇時々晴 晴 晴 曇後晴 曇時々雨 曇後晴 曇 曇 晴 曇一時雨 晴後薄曇 晴 曇後晴 雨時々曇 晴 晴一時曇 曇後晴 三重県選挙管理委員会ホームページ http://www.pref.mie.lg.jp/senkan/hp/ 気象庁ホームページ http://www.jma.go.jp/jma/index.html ︿寸評﹀ 担当教員 城 貞晴 本稿著作者の瀧本君は、選挙の投票 率と天気との相関について分析的理解 を試み、本稿をまとめあげました。本 稿のテーマ設定、アプローチの方法、 データ収集、解析方法の決定、データ 解析の実行、解釈など、全て独自に実 施しており、その過程で他人の力を全 く借りていない点を特筆しなくてはな りません。そのような点は高く評価さ れます。ただし、サンプルピックアッ プの期間選定の根拠、限定された期間 内での上位ならびに下位のそれぞれ五 位を選定した必然性、三種の異なる選 挙を混在させている理由など、不明確 なままになっている点が見受けられま す。論理性に難点をもっていることは 確かなことであり、本来は、もっと踏 み込んだ緻密な分析が必要です。しか し、本学入学後一年にも満たない現段 階で、独創的発想力、問題提起能力、 解析的能力など、大学生として身に着 けるべき様々な力を、着実に伸ばしつ 80 つあることは間違いのないことと思います。この点を高 く評価すべきと思います。これから様々な場面で、本稿 執筆のようなトレーニングを重ねることにより、より厳 密で信頼性の高い解析が出来るようになっていけるもの と思います。瀧本君のもつ潜在的な様々な力を益々伸ば して、ゆくゆくは社会貢献に結び付けていくことを大い に期待しています。 ブランド力とその価値 本 田 将 大 ︵商学科一年︶ 一、はじめに 私は幼いころから車が好きである。特に外国産の車や国 内でも高級とされる類の車に憧れを感じていた。男性なら 一度はこのように高級車に憧れを持ったことに違いないだ ろう。現在、私が所有している車は燃費性に優れた国産の 至って庶民的な車である。一般的な高級車と比べ燃費性な ど の ス ペ ッ ク に 優 れ、 何 よ り 車 自 体 の 価 格 が 安 い。 し か し、それでもなお実際に私は高級車に対し憧れを抱いてい るのだ。またこれは車だけにいえることではない。例えば 同じ皮から生産された鞄でも、有名ブランドのロゴが入る か入らないかで値段が大きく変わってくる。当然同じ皮な のだから質も同等であるが、それでも値段の高いブランド の鞄に魅入ってしまう人が多いだろう。このようになぜ私 たちは質や価格という概念を超えてブランド品に惹かれる のだろうか。本稿ではブランドの持つ力について考察して いく。 81 二、ブランド志向 そもそもブランドとは正式にはどういった意味合いを持 つのだろうか。日本マーケティング協会によると「ブラン ドとは同一カテゴリーに属する他の製品︵財またはサービ ス︶と明確に区別する特性を持った製品」と規定されてい る。また、塚本︵二〇〇一︶よると本来ブランドとは牛の 焼印を指すという。放牧中に自分の牛と他者との牛を区別 するために焼印つけた。それがブランドの始まりとされて いる。つまり、ブランドとは他者と区別するための手段と いえる。そうして区別されることにより、新たな付加価値 が生まれるのだ。では、なぜ私たちはブランド品に惹かれ るのだろう。辻︵二〇〇六︶では私たちがブランド品を求 める心的構造の定義としてドイツの社会学者ジンメルの ︹トリクル・ダウンセオリー︺を例に解説している。︹トリ クル・ダウン︺とは徐々に流れ落ちるという意味を持つ経 済理論である。まず富裕層や大企業などに経済政策を行い 活性化させることで利益を生み出させる。そうしてできた 利益が徐々に低所得層へと流れ落ち最終的には国民全体が 活性化されるというものだ。辻氏によるとこの理論は経済 だけでなく過去のファッション流行過程においても適用さ れるという。過去の身分制度が重視された時代では貴族の ファッションを富裕層が模倣し、その富裕層のファッショ ンを平民が模倣していた。つまり、身分が高いものから低 いものへと徐々にファッションが広がっていくという流れ を基本としていた。まさに、︹トリクル・ダウン︺なので ある。このように身分が低いものが高いものの模倣をする のは一種のステイタスへの憧れや、 「同調したい」という 人間が持つ潜在的な意識からくるものだという。これこそ が私たちがブランド品を求める心的構造の基盤なのだ。し かしこれでは先述で述べたように区別することで価値が生 まれるブランドを、私たちは同調したいという心理から求 めていることになる。「区別」と「同調」という矛盾に等 しい二つの事例だが、この二つの要素こそがブランド品市 場では非常に重要なポイントであるという。区別しすぎた ら同調することはできず、同調しすぎては区別することが できない。メーカー側はこのバランスを上手く保てるよう マーケティングしていかなければならないのだ。ただやみ くもに販売するだけではブランド品市場で生きていけな い。そのようなマーケティング戦略では消費者に同調しや すくなってしまい、ブランドとしての価値を下げてしまう からだ。しかし、これは裏を返せばマーケティング戦略次 第でブランドの価値を上げることも可能ということにな る。消費者はメーカーがこのような販売戦略をしているこ とをほとんど知らないだろう。つまり私たちは無意識のう ちに区別と同調のバランスによって価値を見出し、そうし てブランド品に惹かれているのだ。 82 三、プライベートブランド これまで論じてきたのはいわばメーカーによるブランド である。このメーカーによるブランドを「ナショナルブラ ンド︵NB︶」という。次にNB以外のブランドについて 調べてみた。そこで浮かび上がったのがNBとは対照的な 存在といえる「プライベートブランド︵PB︶」である。 PBとは小売店や卸売業者が独自に企画し販売する商品を 指す。その特徴は幅広い種類の商品と無駄なコストを削減 し消費者に満足してもらえるよう低価格で商品を提供して いることだ。小売店や卸売業者がNBを消費者に提供する ためには、まずメーカーから商品を仕入れなければならな い。そのため仕入れるためのコストがかかる。それに対し PBは小売店や卸売業者による企画なのでメーカーから仕 入れるコストがかからない。PBは企業の工夫により徹底 した低価格設定を実現しているのだ。PBの主な商品とし ては食品やスポーツ用品などがある。ブランド品︵NB︶ が価値で勝負しているのに対しPBは価格で勝負している といえるだろう。単純に考えて、PBは消費者に価格面で 満足してもらい小売店や卸売業者には販売益をもたらして いる。この二つの面において利益があると考えられるが実 はそれだけではない。なんとPBとは対照的なNB、すな わちメーカーにも利益をもたらしているのだ。NBよりも PBの方が安いからといって全ての消費者がPBの商品を 選ぶわけではない。当然、メーカーの商品の方が安心とし てNBを買う消費者もいる。つまりPBと比較することに よってNBの価値が消費者の中で高められ価値を生み出し ている。私はスポーツ用品の小売店でアルバイトとして販 売をしている。実際に販売をしていて小物や消耗品などは PBが多く売れるのに対し、本格的な道具などはほとんど NBしか売れない。PBが上手くNBを引き立てている。 逆に小物や消耗品においてはNBがPBを引き立てている ともいえるだろう。このように消費者の知らないところで 価値が生まれるよう様々な工夫がなされているのだ。 四、おわりに 今回ブランドについて調べてみて、いかに消費者に価値 を植え付けることができるかが重要であることを学んだ。 特にPBとNBを比較させ価値を生み出させるのは、消費 者に委ねられるため費用がかからず経済的にも優れたアイ デアである。このようにまだ私たちが気づいていないだけ で世の中には様々な工夫がなされているのだ。また︹トリ クル・ダウンセオリー︺を説明する際、身分の流れに沿っ てファッションが広がっていったと辻氏は述べた。私はこ の例にも「価値を生み出す仕組みがあったのではないか」 という仮説を立てた。通常は身分が高いものほど人数の割 合が少なく、身分が下がれば下がるほどその割合は増えて いく。上から下へと広がっていくピラミッド型の人口分布 をしているのだ。身分が高い者のファッションを身分の低 83 い者は真似したいが貧しいため真似できない。そして身分 が低い者は人数がどんどん増えていくため、それに伴い富 豪のファッションへの需要も増えていく。そうした需要の 多さからも価値が付加されていったのではないのだろう か、と私は考察する。もしこの仮説が正しいのであればそ うした精神が現代の私たちにも受け継がれまた新たな価値 を生み出しているのかもしれない。次回は歴史的背景を参 考に論理的に価値について考察していきたい。 ︿参考文献﹀ ・塚本正秋「大学生のブランド志向とネットショッピング」島根 大学教育学部紀要・教育科学三五号、二〇〇一年 ・辻幸恵「新ブランド志向の萌芽 大学生のブランドへの意識調 査報告」追手門経済論集四一号、二〇〇六年 ︿寸評﹀ 担当教員 中村 綾 本稿は、本来「区別」を生み出すために生まれたブラ ンドを、人々は「同調」したいという心理から買い求め る、 人 間 の ブ ラ ン ド 志 向 に つ い て 論 じ た も の で あ る。 メーカーが人々の「区別」と「同調」の意識のバランス を操ることでブランドの価値が生じる現象を、NBとP B を 例 に 挙 げ、 非 常 に 分 か り や す く 明 確 に 説 明 し て い る。さらに、本田君は「トリクル・ダウンセオリー」は ピラミッド型の人口分布に沿って流れ落ちていく、とい う仕組みに目を向け、需要が増えるに従ってそこにも価 値が付加されていくのではないか、といった自らの考察 も行っている。 教 養 セ ミ ナ ー Ⅰ、 Ⅱ で は、 授 業 の 時 間 内 に は「 役 割 語」や『西遊記』などの与えられたテーマについて、配 布された文献をもとに文章にまとめる練習に取り組み、 最後に自由題でレポートを執筆する課題を出した。本田 君は、授業内の課題についても、文献に書かれた内容を 的確に読み取り、常に優れた文章表現で質の高いレポー トを提出していた。 今回は、商学部の学生さんらしい視点から選んだテー マ と 思 わ れ る が、 自 ら の 車 へ の 興 味 を 客 観 的 に 考 え た り、バイト先でも人々の消費の動向に目を向け、人間の 心理と市場の原理を追求しようとしたりする姿勢は、今 後も専門分野の学問で生かしてほしいと思う。 84 ナルトと中国文化 黄 ぎょう ︵商学科一年︶ 日本人にとって、マンガやアニメは子どもだけが楽しむ ものではない。それに対して、中国ではマンガやアニメは ほとんど子どものために作ったものだと思われている。し たがって、いくつかの日本の漫画は中国において非難され た。日本の漫画が自国の中心となり、世界各国の文化も兼 ねている。 私が生まれてからマンガやアニメは当たり前のように なった。幼稚な国産アニメから日本のアニメまで、それに 日本語がわからないけれど、ずっと見ていた。むしろ、日 本のマンガやアニメで育ったと言ってもいい。九〇年代で はドラゴンボールやスラムダンク、今で言ったらワンピー スやナルトしかりだ。ここに、ナルトを例に挙げ、なぜ中 国に大人気があるのだろうか。私は精神と中国文化両方か ら考えていた。 「ナルト」は、岸本斉史による日本の漫画作品だ。また これを原作とするアニメ、ゲームなどの作品も作られてい る。これは子ども向けのマンガではなく、大人のほうも楽 しめるマンガであった。上手くはいえないけれど、影響力 がすごいマンガだと思う。このマンガは主人公ナルトの成 長を描いていて、 「認め合う」というのがこのマンガの趣 旨 的 な も の だ と 思 う。 ナ ル ト は 最 初 に 孤 独 だ っ た け ど、 色々な人に救われ、そして救っていき夢を叶える。そんな 友情や努力などの精神はわれわれが学ぶに値する。 うずまきナルトは火影を目指す本作の主人公であり、体 に九尾の妖狐を宿す。落ちこぼれの忍びだったが、様々な 経験と修行を積み、肉体的にも精神的にも大きく成長して いく。ここに注目されているのは九尾の妖狐である。なぜ なら九尾の狐は中国神話の生物であり、九本の尻尾を持つ 妖狐である。狐を魔物、あるいは憑き物として語った伝承 は日本だけではなく、古くから世界各地に残されている。 九尾の狐もそうした狐にまつわる昔話のひとつであり、物 語の多くでは悪しき霊的存在として登場する。紀元前二世 紀から三世紀頃にかけて中国で著された地理書『山海経』 には実在とは思えぬ動植物の頃が並んでいるが、その一書 「南山経」で、 「又東三百里、日青丘之山。其陽多玉、其陰 多青洙。有獸焉。其狀如狐而九尾、其音如嬰兒、能食人。 食者不蠱。 」とあるのが九尾の狐に関する最初の記述であ るとされた。九尾の狐だけではなく、 「ナルト」の中のさ まざまな妖魔は『山海経』の妖魔を参考にした。 他のキャラも個性的で中国化されている。例えば、マイ ク・カイとその弟子李・ネジ・天天三人がまるで中国人の チームだった。そのうちの二人は中国の俳優のブルース・ 85 リーに基づいて、同じ髪型、カンフー服︵色が変わった︶ が施された熱い男性だった。あと二人も中国の伝統的なカ ン フ ー 装 を 設 置 し て い る。 こ の チ ー ム は 表 面 だ け で は な く、術も中国化されていて、八門遁甲や八卦掌や酔拳など が あ る。 八 門 遁 甲 と い え ば、 中 国 の 奇 門 遁 甲 を 思 い 出 し た。奇門遁甲は中国の占術である。二十四節気や干支から 算出される遁甲局数を基にして遁甲盤を作成して占う。こ の時奇門遁甲用の式盤を使用することがある。遁甲盤の構 成要素の一つである八門を重視することから八門遁甲とも 呼 ば れ る。 猪 野 で は、「 奇 門 遁 甲 の 基 礎 的 研 究 」 に よ る と、人事の特徴と互いに対応させた休、生、傷、杜、景、 死、驚、開の「八門」を詳しく説明していた。カイの八門 遁 甲 は 体 内 に 存 在 す る 八 つ の チ ャ ク ラ の 密 集 し た 部 位、 「体内門」︵順に、開門・休門・生門・傷門・杜門・景門・ 驚門・死門︶のことであり、これらの体内門を開放するこ とで爆発的に戦闘能力を向上させることができることと そっくりだ。または、ネジの「八卦掌回天」や「柔拳方・ 八卦六十四掌」と李の酔拳なども中国武術の一種である。 最 後 に、 西 遊 記 の 金 角 大 王 と 銀 角 大 王 を モ チ ー フ と し て、そのままに引用された。元々は天界の炉の番をしてい る童子だったが、老君の五つの宝具を持ち出して下界に降 りて妖怪となっていた。五つの宝具とは、琥珀浄瓶、七星 剣、芭蕉扇、幌金縄、呼びかけた相手が返事をすると中に 吸い込んで溶かしてしまう瓢箪の紅瓢蘆のことである。琥 珀浄瓶は紅瓢蘆と同様に返事をした相手を吸い込むことが できた。 「ナルト」の中に出た金角銀角は斑が九尾を手懐 ける前に、雲隠れが九尾を捕獲しようとした際に食べられ たが、九尾の体内でチャクラ肉を食べて二週間も生き長ら えた結果、暴れ続けたことに耐えかねて九尾の体内から吐 き出された際、九尾のチャクラを持つようになった。しか も、西遊記の中で、九尾の妖狐は金角と銀角の母ちゃんの ような存在である。 「ナルト」で、その五つの宝具は六道 仙人の宝具であり、書物に記された忍具である。 以上のことで、「ナルト」の中の、色々なことが中国の 文化に対応していることがわかる。中国の最古の地理書と いう「山海経」から、中国武術・占術、伝奇小説の「西遊 記」などまで、それぞれ中国人にとって大変親しみを感じ ている。それに、日本人によく中国文化を伝えることがで きる。中国と日本の習慣や考え方には、違う所もあれば似 ている所もある。まずはお互いの文化を知ることだろう。 そ し て そ れ ぞ れ が 理 解 す る こ と に よ っ て、 中 国 と 日 本 は もっと近くなるはずだ。これから、今の中国・日本の文化 事情を色々な面から比較し、紹介したい。中国文化と日本 文化はもっと理解を深めるべきだ。 ︿参考文献﹀ 岸本斉史 漫画『ナルト』 集英社 猪野毅『奇門遁甲の基礎的研究』 二〇一〇年 86 前野直彬『山海経・列仙伝』 南山経 五一頁 三猿舎『西遊記キャラクターファイル』 新紀元社、二〇〇七年 ︿寸評﹀ 担当教員 中村 綾 教養セミナーⅠ、Ⅱ「日本文化の中の中国」では、ア ニメ『一休さん』や映画『ドラえもん のび太のパラレ ル西遊記』などを教材に用いて、両国の文化交流や日本 に流入された後の変容についての講義を行った。この授 業は五人の中国人留学生が受講しており、日本人の学生 を想定した文献読解やレポート執筆のためのトレーニン グは、彼女たちにはハードなものであったはずだが、こ のクラスでは皆真面目に積極的に課題に取り組んだ。中 でも黄さんのレポートは、今日の中国の若者らしく、日 本 の 漫 画『 ナ ル ト 』 を 題 材 と し た も の で あ る が、 内 容 は、この漫画のキャラクターの典拠の多くが中国由来で あることを、きちんと文献を調べて指摘したレベルの高 いものである。黄さんは『山海経』の原点にあたって九 尾の狐に関する最古の記述を確認するなど、極めて専門 的な考察を行っている。 黄さんは授業の内容についても非常に良く理解してお り、提出された課題も優秀なものばかりであったが、同時 に、新学期に配られた教材はすべて予習した上で次週の授 業に臨んでくるという、大変な努力家でもある。黄さんの 本学での大学生活が実りあるものであるよう望んでいる。 アルヨことばの起源 倉 地 礼 華 ︵商学科一年︶ 金水︵二〇〇三︶では、「ある特定のキャラクターに結 びついた、特徴あることば使いを「役割語」と呼ぶ」と定 義している。お嬢様ことば、女ことば、男ことばなど様々 な種類の役割語が存在する。 例 え ば ア ニ メ『 ド ラ え も ん 』 に 登 場 す る ス ネ 夫 マ マ が 「そうざます」 「おほほほほほ」と発言する場面があるが、 こ れ は お 嬢 様 こ と ば の 一 種 で あ る。 お 嬢 様 こ と ば を 話 す キャラクターはどこかお金持ちのイメージがある。このよ うにすでに共通理解が進んでいる役割語を使うことによっ て人物像を瞬間的に見ている人に分からせることができる のである。 共通理解が進んでいる役割語の一つにアルヨことばがあ る。漫画やアニメにおいて中国人のキャラクターが使うこ と ば で あ る。 ア ル ヨ こ と ば の 特 徴 に つ い て 金 水︵ 二 〇 〇 八︶では以下のように述べている。 中国人のなまった日本語を表すとみられるこの話し方 は、文法的な面から次のような特徴が指摘できる。 一、動詞・形容詞原形およびタ形、動詞の打ち消し「∼ 87 ない」 、名詞、形容動詞語幹に「ある」が付いて、文 末を構成する。平叙文では「∼ある」「∼あるよ」「∼ あるな」 等の形になり、疑問文では「∼あるか」と なる。 二、依頼・命令を表す形式として、動詞原形のうしろに 「よろし︵い︶ 」が付いて、 「買うよろし︵い︶ 」等となる。 三、丁寧体・普通体の区別はない。 四、「が」「を」等の助詞が欠落することがある。 五、その他、音声的な訛りが伴う。 また、「言語的には、このような特徴を持つ言語を「ピジ ︶と呼び異なる母語を持つ集団同士がコミュニ ン︵ pidgin ケーションの必要上から作り出した言語であり、どちらか 一方の言語がベースとなって、語彙の混入や文法の変化を 伴 っ て 形 成 さ れ る。 」と述べており、ピジンの特徴につい ても以下のように述べている。 一、ベースとなる言語の語形変化が単純化される。 二、語彙はベースとなる言語に比して極端に少ない。一 つの単語が多義的に用いられる。 三、ベースとなる言語の語彙以外に、他の言語の語彙が 混入する。 これらの点に照らして、︿アルヨことば﹀は、日本語が ベースになったピジン日本語の一種と言える しかし、現在はアルヨことばを話す中国人はいないとも 述べられている。では、いつアルヨことばが誕生したのだ ろうか。 アルヨことばの起源については様々な仮説があるが、そ の中に協和語が起源という説と横浜ダイアレクトが起源と いう説の二つが存在する。本稿ではこの二つの説について 考察していく。 協和語は満州国の建国初期に用いられた簡易的な日本語 であったと言われる。 しかし、安田︵一九九七︶では「協和語という呼称が用 いられた文献資料をいまだに探せていない。それは中国側 の 研 究 書 を 見 て も 同 様 で あ る 」 と 述 べ、 「協和語はあくま で語彙レベルの話であって、日本語音や中国語音での読み で中国語へ流入した日本語の漢語語彙や固有語とすること が現在のところ最も妥当だ」とも述べている。 「協和語」においても次のように述べ また、 Wikipedia ている。 日本において中国人訛りを表す役割語は協和語がルーツ であると言われることがある。例えば、漫画などで中国 人が片言の日本語を話す時や、外国語作品における中国 語訛りの強い台詞を日本語に吹き替える時、ゼンジー北 京の芸のように中国人の真似をする時などには、「アル ヨ」など協和語に似た表現が用いられる。しかし、これ に近い「ピジン日本語」は明治初期から存在していたこ とが文献から確認されており、横浜の外国人居留地で使 われていた「横浜ダイアレクト」と呼ばれるものがその 88 起源とされる。 これらのことから協和語はアルヨことばの起源ではないこ とが分かり、横浜ダイアレクトが起源であると分かる。 横浜ダイアレクトは英語の話者を対象とした横浜ダイア レクトすなわち横浜ことばの練習帳という体裁で作られた 冗談本の一種である。この中で使われているのは「アンバ イ 悪 イ ア リ マ ス?」「 何 時 ア リ マ ス?」 と い う、 文 末がアリマス型のピジンであり、アルヨことばのような文 末「∼アルカ」ではなかった。 しかし、横浜ダイアレクトの付録として収められている 「南京訛日本語」には「アナタ ゴハクリヨー アルナラ バ ワタクラシ︵=私︶ハイシャク デキル アルカ」と いう文がある。文末はアルヨことばと同じ「∼アルカ」で ある。 考察してきたようにアルヨことばの起源は横浜ダイアレ クトであり、明治初期には存在していたことが分かる。 今 後 は 女 こ と ば、 男 こ と ば の 起 源 に つ い て も 考 察 し た い。 ︿参考文献﹀ 金水 敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』 岩波書店、二〇 〇三年 金水 敏「日本マンガにおける異人ことば」伊藤公雄︵編︶ 『マ ンガのなかの︿他者﹀』 臨川書店、二〇〇八年 安田敏郎『帝国日本の言語編制』 世織書房、一九九七年 「協和語」 Wikipedia カ イ ザ ー・ シ ュ テ フ ァ ン「 Exercises in the Yokohama Dialect と横浜ダイアレクト」『日本語の研究』第一巻一号、一九三│ 二一〇頁、二〇〇五年 ︿寸評﹀ 担当教員 中村 綾 本稿は、授業で学んだ「役割語」について、さらに独 自の調査と考察を行い、漫画などで用いられる中国人の 「アルヨことば」について論じたものである。教養セミ ナーⅠ、Ⅱの授業では、アニメ『一休さん』で用いられ る「 そ も さ ん 」 と「 せ っ ぱ 」 と い う 言 葉 の 使 用 法 を め ぐって、 「役割語」についても紹介した。また、授業で は、併せてレポート執筆のための文章表現や資料の探し 方も学んだが、倉地さんは「アルヨことば」の起源につ いて多くの文献にあたり、きちんと検討した上で、 「ア ルヨことば」は本来中国人に限られた日本語使用の特徴 ではなかった、という結論を導き出している。また、文 献の該当箇所の引用も過不足なく示されている。 倉地さんは夏休みのレポートでも、漫画『ドラえもん』 に見られる様々な役割語について優れた洞察力を発揮し ていたが、今回のテーマは、高校でも中国語を習ってい たという倉地さんだからこそ興味を抱いたものかもしれ ない。授業の理解も早い倉地さんには、今後も様々なこ とを探求する心を持ち続け、教養を深めていってほしい。 89 小売ミックスから見る喫茶店 鶴 田 侑 希 ︵商学科一年︶ 私は喫茶店でゆっくり過ごすのが好きということもあ り、現在、地元の喫茶店でアルバイトをしている。その喫 茶店は非常に雰囲気がよく、お客さんがたくさん来てくれ る。なぜこの店は繁盛しているのだろうか。本稿では流通 論で学んだ小売ミックスの視点から、その理由について議 論する。 まず小売ミックスとは、マーケティングミックスを小売 業 に 援 用 し た も の で あ る。 マ ー ケ テ ィ ン グ ミ ッ ク ス と は 「製品」 「立地」「価格」「販売促進」の四つのことを言い、 この四つを市場標的に対し、最適に組み合わせることで市 場を獲得することが出来るので、売り手側にとって重要な 要素だと言われている。小売ミックスではこの四つに「買 物環境」を加えた五つの要素を考える。以下、これら五つ の要素について説明を加えつつアルバイト先の喫茶店との 関わりを分析する。 まず一つ目は「製品」である。これは、製品を充実させ ることにより顧客を得られるというものである。この面で アルバイト先の店では、ホットコーヒーだけで四種類、ア イスコーヒーは二種類、紅茶は三種類、ラテやモカなどの アレンジコーヒーを五種類、そのほかにソフトドリンクを 五種類取り扱っている。また、その中でもホットコーヒー は家庭では行いにくい「ネルドリップ」という方法でコー ヒ ー を 抽 出 し て い る。 一 般 的 な 家 庭 で 行 わ れ て い る ペ ー パードリップとの違いは、コーヒーを紙ではなく布で抽出 することである。ネルドリップが家庭で難しい理由は、布 より紙の方が安いということもあるが、それよりも布の手 入 れ が 面 倒 で 難 し い か ら で あ る。 ネ ル ド リ ッ プ で 使 い 終 わった布は丁寧に洗い、綺麗な水に浸しておかなければな らない。そうしなければフィルターに豆の油分が残りコー ヒーの味に悪影響が出てしまうからだ。また、注ぐお湯の 温度や、力加減になど些細なことでも味への影響が大きく 出る。ネルドリップを用いて美味しいコーヒーを淹れるの は経験がないと難しいのである。 また、店ではコーヒーカップにもこだわりを持ち、全て ノリタケという有名なメーカーの物を使用している。ノリ タケカップは高品質のものが多く、デザインが繊細で気品 あふれる物ばかりなので、少し値段が高くても使い続けて いる。 次に二つ目「立地」である。この立地では、駅から近い などの公共交通機関の充実や車で行きやすいよう広い駐車 場などが求められる。この面でアルバイト先の店では、駅 から歩いて十分ほどで距離にあり、駐車場も広く台数も多 90 く確保している。また近隣には住宅街があり、スーパーや 小学校があるので、多くの主婦たちが利用しやすい立地条 件が揃っている。 次に三つ目「買物環境」である。この買物環境とは、店 内のレイアウトや喫煙所、バリアフリーなどのことだ。こ の面でアルバイト先の店は、店の雰囲気に合うようBGM はジャズを流したり、家族連れや煙草を嫌う人が多いので 禁煙の席を多く設けられるよう時間帯分煙を行ったりして いる。また、車いすや足の悪いお年寄りにも気軽に来てい ただけるよう店内は段差なく作られている。店内の清掃も 一定の時間ごとに行い、衛生面の確保もしている。 次に四つ目「販売促進」である。この販売促進とは、広 告や付帯サービスのことだ。この面でアルバイト先の店で は、アンケートに答えてもらった人に割引券を配ったり、 期間限定でコーヒーチケット販売キャンペーンを行ったり している。販売キャンペーン中は、一〇枚綴りのコーヒー チケットを購入してくれた人にチケットをもう一枚プレゼ ントしたり、割引券をプレゼントしたりしている。 最後に五つ目「価格」である。この価格とは、商品の価 格が消費者が満足するものであるかどうかということだ。 この面で一番大きいのは、やはり愛知県では有名な「モー ニング」である。アルバイト先の店では、ドリンク代だけ でパンとゆで卵が無料で付いてくる。また、他にも少しだ け料金を追加してもらえればパンとゆで卵のみではなく、 サラダやホットサンドなどを提供することができる。もち ろん、正規の値段で食べていただくよりだいぶ安く提供し ている。 以上五つの側面からの分析から、私のアルバイト先の喫 茶店は売り手側にとって重要な小売ミックスに沿ったお店 づくりが出来ていることがわかった。これらに加え、従業 員との会話を楽しみに来てくれる常連のお客さんも多くい る。お客さんたちに憩いの場を提供し続けられるよう、大 学で学んだことを活かしつつ頑張ってより良いお店にして いきたい。 担当教員 鷲嶽正道 ︿寸評﹀ この授業では「自分が好きな物を学問の目で見てみよ う」というテーマで演習を実施しました。学生は準備を 進める中で、適切な文献を見つける方法や効果的に説明 を す る 方 法 を 学 び ま し た。 学 生 た ち の 苦 労 の 甲 斐 あ っ て、授業最後の発表会は佳作揃いとなりましたが、その 中でも専門科目で得た知識を駆使し、アルバイト先の喫 茶店が繁盛している理由を分析した鶴田さんの発表は、 ひときわ目を引くものでした。発表内容をまとめた本稿 も、本学の建学の精神である「行学一体」を体現した好 論となっています。 よく学び、よく考え、アルバイトも楽しんでいる、そ んな鶴田さんのますますの活躍を期待します。 91 伝える力・伝わる力 内 田 黎 ︵法律学科一年︶ 伝える力、伝わる力というものを考えると、特に私が重 要であると考えたのは「記号」だ。我々の日常生活におい て、いかに記号が情報を伝えているかを考察する。 人は視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚という五つの感覚を 備えているが、最も人が頼りにする感覚は視覚であると私 は考える。色や物体の認識など、日常生活の中で視覚を使 わない日は︵先天的、または後天的に視覚を失っている場 合を除けば︶ない。視覚による認識は瞬間的な判断力とし て最もよく使う感覚であり、普段の生活は殆ど視覚に頼っ て行動しているといえるのだ。 そ の 視 覚 が、 思 い 掛 け ず 情 報 を 得 る 上 で 頼 っ て い る の が、我々の生活に溢れている記号なのである。先に述べた ように視覚による判断力を使わない日はないということ は、記号を見ない日はないということでもあるのだ。公衆 トイレの男性用か女性用かを区別する人型のマークや駐車 場を示す「P」のマーク、道路標識など、数え上げればき りがない。そして、道を歩いている時は必ずといっていい ほど信号機を目にするだろうが、信号機も所謂「記号」な のである。青は進行可、赤は進行不可と、色という記号に よって瞬時に我々は判断しているのだ。 何故、信号機の青や赤のような色も記号のうちであるの かというと、記号と色は情報を伝える上で密接に関係して いるからだ。例えば、銭湯などで見られる湯の温度が温か いか冷たいかを示すマークがある。一般的には「銭湯マー ク」と呼ばれるが、これは記号に色がつくことで完成され ており、風呂場であることと温度の度合いを分かり易く同 時に示している。だが、記号自体をよく見ると形は湯船の 丸い縁に湯気が立っている、温かいイメージを表現したも のであり、記号が元々形として表現していた情報を色が打 ち消してしまう効果もあることが分かる。記号は必ずしも 一つだけの事柄を示しているわけではなく、色をつけるこ とで意味を追加したり、打ち消す場合もあるのだ。 そういった様に、広義に解釈し得ることができる記号で あるが、記号はいわば「言語」であると解釈するのが最も 妥当であるとも私は考える。一個人が不特定多数の人に毎 日決まったコミュニケーションを行おうとするには、誰も が理解できる上に簡単な方法でなければならない。そこで 考え出されるのが記号という言語なのだ。言語は国によっ て、または地方によって異なるが、生活の中で情報のやり 取りのために使われる意味で考えれば記号と変わらない。 音と形による言語が視覚と聴覚のコミュニケーションツー ルとすれば、記号は形に特化した、視覚のためのコミュニ 92 ケーションツールであるといえる。普段の生活では延々と 目 視 に よ っ て 情 報 を 受 け 取 っ て い る た め、 そ の ツ ー ル を 使っていることに気づきにくいが、それほど記号は社会に 溢れているということなのだ。 そして、記号が生活に溢れているということは人々が物 事に対しての一定の理解を、ある程度共有していることも 分かる。物事に対する共通した理解がなければ、社会生活 は円滑に営めない。例えば、信号は赤だから止まらなけれ ばならないという理解がなければ事故が頻発し、安全な交 通秩序が保てなくなってしまう。記号というものの大半は それ一つで意味や指示を表現するためのものであるから、 いわば無駄のない本質を表現しているといえ、その記号が 表現する本質を多くの人々が理解しているからこそ、記号 は生活に溢れているのだ。 しかし、いくら記号が社会に浸透していても、その度合 いや情報の受け取り方に違いが生じることがある。伝える 力に応える伝わる力というものは、必ずしも平等に持って いるわけではないからだ。言語や文化の違いがあり、性別 や年代の違いがある。共有している理解には、これらが一 致していることが条件となっている場合が殆どであること を忘れてはならない。視覚を持っていても、情報に対して の理解がなければ記号はただの形としてしか受け取ること ができないのだ。 このように、受け取る側が情報について理解を持ってい ることが必要であることが分かった。なにもコミュニケー ションは人と人の間だけに成り立つわけではなく、相手が 情 報 を 与 え て い て、 理 解 が で き さ え す れ ば コ ミ ュ ニ ケ ー ションは成り立つのだ。そして、伝える力と伝わる力は二 つで一つであることも、記号を通じて考えさせられた。伝 える力だけが強くても意味がなく、それに応える伝わる力 がなくてはコミュニケーションというものは成立しない。 猛烈に加速しながら発展していく情報社会では、今まで よりも視覚に頼ることが多くなる。記号のように形として まではいかなくとも、情報はより一層の簡略化が進んでい る。それに加えて媒体までもが多様化し、伝える力だけが 強大になってきているのが現実だ。人がそれに釣り合うほ どの伝わる力を持たないままとなって、ただ記号のように 情報を受け取っていってはならない。我々はもっと情報と のコミュニケーションを考えるべきなのだ。伝える力に白 旗を上げてはならないのである。 担当教員 佐々木 真 ︿寸評﹀ 内 田 君 は「 伝 え る 力 伝 わ る 力 」 と い う テ ー マ に つ い て、 視 覚 を 中 心 と し た 記 号 と い う 観 点 か ら 論 じ て い ま す。形と色という形式が伝達内容の意味を示すというこ とであり、その形式の操作によって意味内容の伝達が左 右されてしまいます。そこに「伝える力」があるという の で す。 ま た 形 式 か ら、 意 味 内 容 を 理 解 す る「 伝 わ る 93 力」については文化的な違いが左右して、受け取り方に 差があると論じています。私たちが幅広い知識と様々な 違いを吸収する力をつけることにより「伝わる力」が向 上するでしょう。内田君の最後の文、 「伝える力に白旗 をあげてはならない」というのは印象的です。 伝える力・伝わる力 横 瀬 富 如 ︵法律学科一年︶ 統領選 「ヒラリー・クリントン氏がツイッター開始 大 ︵1︶ ニュース 2013.06.11 にある。 「 ︵C も視野?」と CNN.co.jp NN︶米前国務長官のヒラリー・クリントン氏が一〇日、 短 文 投 稿 サ イ ト の「 ツ イ ッ タ ー」 に デ ビ ュ ー し た︵ @ ︶ 。「 フ ォ ロ ワ ー 登 録 し た 読 者 の 数 は、 わ ず HillaryClinton か数時間で一〇万人を突破している」という。周知のよう に、二〇〇八年のアメリカ大統領選挙において、ソーシャ ルメディアを最も積極的に活用したのが、大統領選挙に当 選したオバマであった。オバマ候補者の公式サイトの特徴 は、支持者どうしをつなぐSNS「マイ・バラック・オバ ︵2︶ マ・ドット・コム」を組み込んだことにあるという。 S N S と は、 ソ ー シ ャ ル ネ ッ ト ワ ー キ ン グ サ ー ビ ス ︶の略で、登録された利用者 ︵ Social Networking Service どうしが交流できるwebサイトの会員制サービスのこと 、 Facebook 、 Twitter 、 な ど が 有 名 で あ る。 であり、 mixi 広い意味では、コメントなどのコミュニケーション機能を 有しているブログや、電子掲示板もSNSに含まれる。友 人 ど う し や、 同 じ 趣 味・ 意 見 を 持 つ 人 ど う し が 集 ま っ た 94 り、近隣地域の住民が集まったりと、ある程度閉ざされた 世界にすることで、密接な利用者間のコミュニケーション を可能にしている。 私は、SNSの特質は、ある程度閉ざされた世界にする こ と で、 密 接 な 利 用 者 間 の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を 可 能 に し、 情 報・ 価 値 観 の 共 有 を 確 認 で き る こ と に あ る と 考 え る。そこに、 「伝える力・伝わる力」が他のメディアとは 異なる質的な高さがあると考える。 そ れ は、 二 〇 〇 八 年 の ア メ リ カ 大 統 領 予 備 選 挙 に お い て、 S N S で 知 り 合 っ た オ バ マ の 支 持 者 た ち が、 集 団 と なってアイオワ州内各地の党員集会に参加や、ネット上で のグループ会合を一五万回以上も行い、熱心にオバマの魅 力を語り合うことにより、対立候補であったヒラリー・ク ︵3︶ リントンを破った、という事実によくあらわされている。 すなわち、共有した情報・価値観を語り合うことにより、 行動にあらわすことにより、確認することができたのであ る。行動によってのみ、得られた情報が意味をもつのであ る。さまざまな情報が得られ、そして、その情報により語 り 合 っ た り、 投 票 し た り、 あ る い は、 買 い 物 を し た り な ど、という行動をすることによって、情報は意味をもつの である。 ソーシャルメディアを使った候補者陣営と有権者の政治 情報の水平的なやり取りは、政治における決定が民主化さ れることに他ならない。また、「ソーシャルメディアは政 治参加そのものを促進する」といったような、ソーシャル メディアが選挙および政治そのものに与える意味を指摘す ︵4︶ る意見もある。その反面、二〇〇八年のアメリカ大統領選 挙において、オバマ陣営はオバマ本人になりすます形で、 に「 つ ぶ や き 」 を 書 き 込 ん で い た こ ス タ ッ フ が Twitter と、そして同時にオバマ自身がその「なりすまし」を許し ていたというのは、看過できない深刻な問題であるとの指 ︵5︶ 摘もある。これだけでなくSNSというものは相手の顔が 見えず、一般人でも簡単に情報が発信できるものであり、 SNSを利用する際は情報を受け取る側の伝わる力も重要 である。 わが国では、二〇一三年四月一九日の改正公職選挙法に よって、第二三回参議院議員通常選挙以降、ソーシャルメ ディアによる選挙が一定の規制のもとで解禁された。その 時、安倍晋三首相は「投票率の向上につながる」と述べる など、主に若年層有権者のインターネットを通した政治参 加や選挙運動コストの削減への期待が政治家やメディアか ら寄せられた。しかし、解禁直後の第二三回参議院議員通 常選挙の投票率は前回を下回る五二・六一 であり、ウェ ブサイトを経由した情報収集などのインターネット活用は 低調であった。また、選挙費用についても、むしろ高くつ くのではという意見もあった。 統計的にも、「住信SBIネット銀行は「ネット選挙解 禁と二〇一三年参院選における有権者の行動実態調査」を % 95 実施し、その結果を公表した。それによると、参院選で投 票した人の約七割は「国民としての権利や義務だと認識し ている」ことを投票の理由に挙げていることや、「ネット 選挙運動に関わった有権者は六・四%だったことなどが明 ︵6︶ らかとなった。」としている。 むろん、法制度、選挙制度、国情等が異なる日本の選挙 で あ る が、 「伝える力・伝わる力」が他のメディアとは異 なる質的な高さがあるSNSが、日本の選挙にも活用され ることを期待したい。SNSの特質は、ある程度閉ざされ た世界にすることで、密接な利用者間のコミュニケーショ ンを可能にし、情報・価値観の共有を確認できることにあ るからである。 いまはアメリカほどSNSが浸透していない日本だが、 これからその重要性が高まってくることは疑いようがな い。SNSを利用することで生まれる伝える力は、他のメ ディアとは異なる質的な高さがあるが、一方でオバマのな りすましなど問題点も多い、したがってSNSを使いこな すために我々自身の「伝える力・伝わる力」を高めていく 必要がある。 ︿註﹀ ニュース 22013.06.11 ︵1︶ CNN.co.jp http://www.cnn.co.jp/tech/ 35033229.html ︵2︶ 前嶋和弘「ソーシャルメディアが変えられる選挙 アメリカ の事例から」 ADSTUDIES Vol.34三〇頁、二〇一〇年 http://www.yhmf.jp/pdf/activity/adstudies/vol_34_01_05. pdf ︵3︶ 前嶋・前掲論文 三一頁 ︵4︶前嶋・前掲論文 三四頁 ︵5︶前嶋・前掲論文 三五頁 ︵6︶ japan.internet.com http://japan.internet.com/wmnews/20130902/2.html ︿寸評﹀ 担当教員 佐々木 真 横瀬君はこのセミナーの「伝える力伝わる力」という テーマについて、SNSという現代のコミュニケーショ ン手段の観点から論じています。閉ざされた者同士の情 報 交 換 で あ る た め に、 情 報 と 価 値 観 の 共 有 が 可 能 と な り、さらにそれが行動によって強化されると論じていま す。SNSという個人ベースのコミュニケーション手段 が政治のように社会全体に関わる事情にも大きな可能性 を秘めていることがわかります。私たちも今後、新しい テクノロジーの生み出す様々なコミュニケーション手段 について認識を深める必要があるでしょう。 96 伝える力・伝わる力 早 川 美 希 ︵現代社会法学科一年︶ 私は「伝える力・伝わる力」に必要なものは表現力であ ると思う。表現力があることによって、より伝えたい気持 ちが相手に伝わるからである。そして伝える力と伝わる力 は同じ関係を持っていると思う。 表現の例としてあげられるものに、衣服、言葉、表情、 色、 記 号 と い っ た よ う に さ ま ざ ま な も の が あ る。 衣 服 に は、その服を着る人の個性が表現されている。また、TP Oに合わせた格好をすることが大切とされる。それはなぜ かというと、表現の仕方を間違えると相手に非常識だと思 われることがあるからだ。例えば葬式では喪服や黒の服、 結婚式に出席するには花嫁や花婿と被らないように白の服 をさける、といったようなことが常識ある人間とされる。 黒には「死」を表現する色として使われることが多いこと か ら、 葬 式 に は 黒 の 服 を 着 用 す る の で あ ろ う と 考 え ら れ る。また、アルバイトや仕事で接客をする際には、身だし なみを心得ることが必要である。身だしなみも相手に伝え るために重要なのである。 「きちんとした身だしなみは、 ︵1︶ お 客 さ ま に 清 潔 感 と 爽 や か な 印 象 を 与 え ます 」 こ の こ と は、従業員が客に対して、身だしなみにより務めている会 社に良い印象を伝えているのである。もし、たった一人で も身だしなみが悪いと会社全体に悪い印象を与えてしま う。人間はまず見た目から人物や会社の印象を受けてしま うので、良い印象を相手に伝えるためには見た目から整え る必要がある。 また、私は表現することで一番伝えやすい方法が言葉で あると思う。自分の意思、主張、思いといったようなこと を相手に伝えるための方法として言葉を使うことが多い。 しかし、言葉というものは相手によって話し方を変える必 要がある。気の許せる家族や友人にはくだけた話し方で良 いが、先輩や先生といった目上の人にはそれ相応の言葉遣 いが必要とされる。また、接客をする際には言葉遣いに気 を付けなくてはならない。また、言葉とともに身振り手振 りのジェスチャーを付けることにより、相手に伝える力が 大きくなる。ジェスチャーを付けることによって、言葉だ けでは伝わらないことが相手に伝わる。例えば、ものの大 きさである。言葉だけよりも、手を使って大きさを表現す ることにより、相手にどれくらいの大きさであるかが伝わ ることができる。 また、私達はテレビによって多くの情報を手に入れる。 私達がテレビを通して感動を得るように、報道による伝え る力は大きい。報道法四条に「報道は事実をまげないです ること」と規定されている。この法律により、視聴者はテ 97 レビで手に入れる情報は真実であると信じている。しかし 時にこれが守られていないことがある。例えば、 『発掘! あるある大事典』という番組で納豆がダイエットに有効だ と 報 道 さ れ、 ス ー パ ー で 納 豆 が 売 れ 切 れ て し ま う こ と が あった。しかし、これは捏造報道であった。私達視聴者は その報道が本当に正しいのか見極める力、メディアリテラ シーを養う力が必要である。それは伝わる力を養うという ことに繋がる。 テレビで得られる感動の例としてスポーツがあり、特に 表現力を大切とされるものとしてフィギュアスケートがあ る。フィギュアスケートは数分間という短い時間の中で表 情や音楽、衣装や演技といった多くの表現を用いるスポー ツ で あ る。 フ ィ ギ ュ ア ス ケ ー ト の 振 付 師 で あ る パ ス カ ー レ・カメレンゴの言葉で「それは人の心に響く琴線、感情 ︵2︶ といったものなのです」というものがある。この言葉の中 の「それは」はフィギュアスケートの振り付けのことを表 す。振り付けとはフィギュアスケーターの表現である。そ の表現の素晴らしさに視聴者が感動するのである。選手と 視聴者には伝える・伝わるという関係が成り立つ。そして その感動が子供達へ伝わり夢に繋がる。さらに将来子供達 の夢が実現し、感動を伝える側になる。このように、伝え る力と伝わる力は常に成り立つものと存在している。 また、伝える力と伝わる力を養うためにはコミュニケー ション能力を向上させる必要がある。コミュニケーション は、話すことによる伝える力、相手の話しを聞くことによ る伝わる力を養う。コミュニケーション能力を向上させる には、「自分は何も知らない」ことを知り、他者から謙虚 ︵3︶ に学ぶことが必要とされる。何も知らないことを理解する ことにより、多くの事柄を自らが積極的に調べたり勉強し たりする。それは伝わる力を養い、相手に伝える時にはい かにわかりやすいように伝えるかを考えることにより、伝 える力を養うことになる。このことは、伝える力と伝わる 力が同じ関係を築いているものだと考えられる。 このように、私は伝える力と伝わる力はまったくの別物 と い う 関 係 で は な く、 表 裏 一 体 の よ う な 関 係 で あ る と 思 う。 そ れ は メ ビ ウ ス の 輪 の よ う に、 伝 え る 力 は 伝 わ る 力 に、伝わる力は伝える力に、いつの間にか変わっている関 係に成り立つような同じ関係を持っているのではないかと 思う。 ︿註﹀ 財団法人実務技能検定協会 『サービス接遇検定受験ガイド』 ︵1︶ ︵2︶PSA授賞式でのスピーチ ︵3︶池上彰 『伝える力』 PHP研究所、二〇〇八年 ︿寸評﹀ 担当教員 佐々木 真 早川さんはこのセミナーの「伝える力伝わる力」とい うテーマについて、 「伝える力」を衣服や言語、 「伝わる 98 力」をテレビを代表とするメディアリテラシーの観点か ら 論 じ、 さ ら に ス ポ ー ツ に は「 伝 え る 力 」 と「 伝 わ る 力」が相互に作用して感動という結果をもたらすと論じ ています。また「伝わる力」とは私たちが謙虚に学ぶ姿 勢をとることで向上し、それがひいては自らの「伝える 力」となっているというのは傾聴に値するでしょう。現 在問われるコミュニケーション能力とはこのような日々 の積み重ねによって向上するものだと思います。 韓非子 古 田 祐 三 ︵現代社会法学科一年︶ 僕は韓非子についてまとめ、自分の考えや感想を述べた いと思います。 まず、法家思想は韓非子の前からあるもので、儒家の主 張する人の善意や道徳に頼る徳治主義とは反する考え方で ある。法律を定めてそれに基づいて客観的に統治すること で、名君主ではなくとも十分に国を治めることができ、法 律による統治の実現によって農業生産が向上し、軍隊が強 くなった。つまり富国強兵に有効であり、戦国時代という 時代に適合した思想であった。また韓非子は法律の厳格な 適用と法術による君主権の強化を強調する。人は利益と恐 怖で行動するので、臣下は自分の意図を隠して君主の望む 所を察知して行動しなければならず、逆に君主は臣下の行 動を見きわめて臣下を統制しなければならないと考えてい る。 この韓非子の考えに対して僕は賛成で、善意とか道徳と いった見えない不確実なもので支配するのではなく、法と いう目に見えるもので支配する方法がよいと思う。ただ、 法 を 作 り 定 め る 君 主 が 無 能 だ っ た ら、 ま た 臣 下 が 無 能 で 99 あったら意味がないと思う。臣下が君主を支えるだけの能 力があるという前提で、自分の意図を隠して君主に仕える べきだと思った。 韓非子の文を読んでみると、かなり人間不信な性格では ないかと思った。韓非子の文には、立場の違いで考え方が 変るとか、余分な事をしないで自分の役割を果たすことが 重要であるといっていて、人間を客観的に見るからこそ、 韓非子は法家思想を集大成することができたのではないか と思った。 僕が韓非子の文の中で興味をもったものが三つある。一 つは、君主と典冠︵君主の冠を管理する仕事をする係︶と 典衣︵君主の服の管理をする係︶が登場する話で、要約す ると君主が寒そうな服装で寝ていたのを気にかけた典冠が 君主に衣をかけたところ、冠の管理を役割とする典冠が典 衣の役割である行為を行ったのが問題となった。僕はてっ きり典冠は君主に褒められるのかと思ったのだが、逆に君 主は典冠と典衣を共に罰した。それぞれの役割を忠実に守 らせなければ臣下は徒党を組み助け合って君主をだますこ とがあるから、共に罰することでそのようなことを未然に 防ぐことができるという韓非子の考えは本当に冷徹で合理 的だと思った。君主と臣下における信頼があれば反乱は起 きないという言い方はせず、君主と臣下あるいは単に役割 と言った事柄で考えることで情などには流されない韓非子 の主張が伝わってきたし、余計な事をさせないことによっ 担当教員 前山慎太郎 て臣下を孤立させて主従関係をはっきりさせておく必要が あるのだと思った。 二つ目も似たような話だが、君主に害となるのは人を信 じることであるというもので、臣下は親しみがあって君主 に仕えているのではなく、君主の権力に束縛されてやむを えず服従していて、常に君主の心を見すかそうとしている のに、どうして君主はぼんやりとして臣下の上に座ってい られようかといった話である。君主はぼんやりしていると 臣下に寝首を掻かれてしまうといった、一つめの話にはな い、君主に対して注意を促している文で、韓非子らしくて よいと思った。 三つめは、互いが利益のみで動いているので、君主は自 分のすぐ周りに気をつけなければならないといった考え で、僕はこれも合理的だと思うし、一番近くにいる人物が 最も注意しなければならないというのも納得がいった。 韓非子について学んでみて、僕はここまで人を信用して いないのかと思ったが、同時に、秦は天下統一を果たした のに、法が完璧に施行されなかったために滅んでしまった ということは、難しいけれど法に精通した名君と多くの優 秀な臣下の支えがあって良い国が実現するのだ、これは現 代にも言えることだと思った。 ︿寸評﹀ こ の 授 業 で は、 秋 学 期 に「 諸 子 百 家 」 を テ ー マ と し 100 て、孔子・孟子・老子・荘子・墨子・韓非子・孫子など 代表的な思想家を紹介するとともに、その著作の名高い 部分を少しずつではあるが簡単に読んでみて、毎回それ に対する自分の感想や考えを書いてもらった。それを基 として、期末にレポートまとめることを課題とした。 授業の性格及び時間の制約のため、それぞれの思想に ついて詳しく考えたり、「漢文」をきちんと読むという ことはかなわなかった。しかし、「諸子百家」に触れる ことによって、二千年以上も前に多様な思想が花開き、 それぞれの考えが現代にも十分通じるところが多く、現 在の社会を考える手掛かりとなることを理解し、それと ともに、古典に親しむ楽しみを知ってもらいたいという のが授業の目標であった。 古田君のレポートは、その私の期待によく応えてくれ た も の で あ り、 素 材 は 二 千 年 以 上 前 の「 古 典 」 で あ る が、そこに現れている思想が現代にもなお有効であるこ とを感じ取ってくれている。ただ、韓非子は中国の戦国 時代の君主と臣下の関係を考えているが、現代ではそれ がどうあてはまるのか、一般の人々が君主でもあり、臣 下の立場でもある、その中で私たちはどう考え、行動す るのがよいかということを更に考えていってもらいたい と思う。 孤高になりきれない孤独な詩人、 中原中也とその言葉 ︵心理学科一年︶ 三 枝 ゆ り 中原中也という詩人をご存じだろうか。彼の作品として 有名なのは“ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん”というフ レーズが印象的な「サーカス」、自らの悲しみさえも汚れ てしまったと綴る「汚れつちまつた悲しみに⋮⋮」、高校 の教科書にも収録されている「骨」などだろう。「サーカ ス」のフレーズを見てピンときた人もいると思う。かつて 『にほんごであそぼ』という教育番組でそれが取り上げら れていたのだ。しかし、彼の詩に対するイメージを訊いて みると、 「重苦しくて鬱屈としている」「暗くドロドロとし ている」というあまりよくない印象を多くの人が持ってい る。これらのイメージは間違っている訳ではないと思う。 中也が主題としたのは喪失感、悲哀、憂鬱であるからだ。 ただ、これらのイメージに囚われて「中也の詩=暗い」と 思い込んでしまうのはかなりもったいないことだとも思 う。中也の詩には美しく幻想的なもの、ほほえましくさえ 思ってしまうような未練を綴った詩もあり、中也自身は詩 への情熱に溢れる青年だったのだ。まず、彼の人生につい 101 て簡単に説明したいと思う。 中也は一九〇七年山口県に生まれた。父親は軍医で、の ちに母親の養父が開業した中原病院を引き継ぐ。八歳にな る 年 に 弟 が 亡 く な り、 彼 を 歌 っ た 詩 が 初 め て の 詩 作 と な る。山口中学に進学するが一六歳の年に落第し京都の立命 館中学へ転校させられる。中也の詩作活動は親元から離れ た事によってますます活発になっていった。一七歳で長谷 川泰子いう女性と出会うが、これもまた中也の詩作に多大 な影響を与えていく。その後多くの詩を書き続け、またい くつかの詩は友人たちやかつての仲間達におくられてい る。そして一九三三年結婚、翌年一〇月に長男の文也が誕 生し、中也は文也を溺愛した。親子二代で詩作をしたい、 自分の本は文也に譲るなどと日記にも記して文也の将来に 大きな期待を寄せていた。また文也の誕生後まもなく、生 前に上梓された唯一の詩集となる『山羊の歌』の出版が決 まる︵この時期に書かれた詩には穏やかな情景を描いたも のが多いように感じる︶。しかし幸福は長く続かず、一九 三六年の秋に文也は突然亡くなってしまう。中也は精神の 変 調 を き た し た が、 “亡き児文也の霊に捧ぐ”二冊目の詩 集、『在りし日の歌』の原稿を書き上げた。そして原稿の 清書からひと月後、文也の死から約一年後となる一九三七 年一〇月に三〇歳でその短い生涯を終えた。 “孤高の詩人”などと言われ この短い生涯から、中也は ることがある。しかしそれは少し違うのではないかと私は 思う。中也は詩に対して熱い思いを抱いていた。詩作品は 詩 人 の 人 生 観、 世 界 観 の 全 的 な 表 現 で あ る べ き だ と 主 張 し、その根底にある思いは“芸術を遊びごとだと思つてる その心こそあはれなりけれ”という小学校六年生のころに つくった短歌から一貫して変わらなかった。しかし仲間達 は 中 也 の 熱 さ に つ い て い け ず、 一 人、 ま た 一 人 と 離 れ て いった。しかし彼はそれでもなお、詩作の仲間を求めた。 彼は“孤高”になりきれなかったのだ。中也の詩作におい て人との繋がりが非常に重要だった。 さて、そんな中也にも中也を慕う者や仲の良い者がいた のだが、それについてここで書くと長くなってしまうので 興味を持った人はぜひ調べてみてほしい。特に近代文学の 好きな人たちにとっては非常に面白いのではないかと思 う。 ここまで中原中也という詩人について書いてきたが、中 也の死後、彼の詩が与えた影響について少し触れておきた い。中也の詩は多くの人々や作品に影響を与えている。中 也の詩にメロディーをつけて歌う人、朗読劇という形で表 現する人など様々だ。最近では、二〇一三年の春から放映 されていたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト2199』では 登場人物のひとりが中原中也を愛読しており、 「汚れつち まつた悲しみに⋮⋮」が重要なシーンで朗読引用されてい た。また、少しさかのぼるが二〇〇三年にリリースされた ランクヘッドというバンドのミニアルバム、 『影と煙草と 102 僕と青』は中也の詩である「冬の夜」からインスパイアを 受けてつけられたタイトルである。︵ 「冬の夜」には“影と 煙草と僕と犬”という一節がある。︶そしてこのタイトル をつけたランクヘッドのメンバー小高芳太郎の書く楽曲に は中也の詩にたびたび見られるような故郷や旧友への想 い、 未 練 や 鬱 屈 と し た 感 情 な ど が 綴 ら れ て い る も の が 多 い。 人は誰しも言い表せないような哀しみや孤独に直面する ことがあるだろう。中也の残した言葉はそんな人々の心を 揺さぶり続ける。ぜひ一度、中原中也の詩集を手にとって 読んでみてほしい。きっと生涯大切にしたくなるような一 篇が見つかると思う。 ︿参考資料﹀ 大岡昇平 編『中原中也詩集』岩波書店、一九八一年 『 影 と 煙 草 と 僕 と 青 』 ビ ク タ ー エ ン タ ー テ イ ン メ LUNKHEAD ント、二〇〇三年︹AV資料︵CD︶︺ 宇宙戦艦ヤマト2199制作委員会『宇宙戦艦ヤマト2199 一∼七』 バンダイビジュアル、二〇一三年︹AV資料︵DV D︶︺ ︿寸評﹀ 担当教員 尾崎 孝之 三枝ゆりさんの「孤高になりきれない孤独な詩人、中 原中也とその言葉」というレポートは、その題名そのも のに中原中也という詩人の生き方とその詩作品の世界が 見事に凝縮された優れた文章である。 最 初 に、 多 く の 人 た ち が 中 原 中 也 の 詩 に 対 し て 抱 く 「暗い」という印象に囚われるのは「もったいない」と した後で、三枝さんは詩人の生涯を構成する重要な出来 事について述べる。そして中原中也が「“孤高”になり きれなかったの」は、彼の詩があるいは彼の人生が「人 との繋がり」を断ち切られたところでは成立しえなかっ たからであり、そこにこそ詩人の生き方やそれと切り離 すことのできない詩の世界の核心を見るべきだと言う。 極めて深い洞察だと思う。その後で、中原中也の詩が後 世に残しつつある具体的な影響の記述も忘れていない。 103 《教養セミナーⅢ・Ⅳ》 グリム童話「白雪姫」を読んで 宗 宮 礼 佳 ︵歴史学科二年︶ 。ときどき耳にするこの言 ││「本当は怖いグリム童話」 葉。私が幼い頃読んだグリム童話とは少し違う、という認 識は以前からありましたが、いままで実際に読んだことは ありませんでした。自分の知る「白雪姫」とは具体的に何 が異なり、どう恐ろしいのか、と興味を持ちこの講義をと りました。それまでの私にとっての「白雪姫」は図書館で 読んだ絵本と、家にある一本のビデオテープでした。幼児 向けの教材ビデオで今となっては古くなって再生できず、 確認することができません。結末は小人がつまずいて棺が 割れ、その衝撃で白雪姫の口からリンゴが飛び出し、目覚 めた白雪姫と王子様が結婚するという内容だったと思いま す。しかしそこには、白雪姫の生まれる前の母親が窓辺で 縫い物をする場面も、毒の櫛や飾り紐で白雪姫を殺そうと した話もなかったことははっきりと覚えています。 この講義で「白雪姫」の決定版を読み、童話のもつ新た な魅力を発見できました。一年足らずの知識でドイツ語の 文章を訳すことはなかなか大変なことでしたが、すでに日 本語で訳されたものからは読み取ることのできない、ドイ ツ語ならではの言い回しから文化の違いを知ることもあ り、驚くことばかりでとても有意義な講義だったと思いま す。 まず私の知っていた「白雪姫」と違う所は、物語の冒頭 です。白雪姫が生まれる前の、母親の話。この場面は日本 の「白雪姫」では省略されることが多く、実際私もこの講 義を受けるまで知りませんでした。また、「白雪姫」は言 葉のもつイメージというものを巧みに使っている作品でし た。特に色から連想させるイメージです。雪の降る真っ白 な世界に黒檀の窓枠︵黒︶ 、血︵赤︶が登場し、白く何も ない世界に色が加わることによって何かが始まることを暗 示しているようでした。そしてその白、黒、赤は白雪姫の 持つ美しさの象徴であることから、その暗示は白雪姫が生 まれることを示しているのだと納得しました。また、 「白 雪姫が国で一番美しい」と知った時の継母の心境を色で表 す場面では、ドイツと日本で色のもつ印象の違いがとても 面白いと思いました。黄色は妬み、憎しみ、緑は怒りを表 すというところからキリスト教の影響を受けていることが 分かり、文化圏の違いというものを感じました。このよう な連想は色だけでなく、女性の美の象徴として櫛やリンゴ を登場させるなど、文学作品として価値のあるものだと思 いました。そもそも鏡は女性の持ち物というイメージが強 104 く、数多くの女性的なものが登場するのも「白雪姫」の特 徴だと思います。 「白雪姫」の持つ他の魅力として、同じ作品名のもので も結末はいくつもあるという点が挙げられます。エーレン ベルク稿、初版、決定版、ディズニー映画⋮⋮とこの講義 で見ましたが、より子ども向け、童話らしいと感じたのは ディズニー版のものでした。どれが正しくてどれが間違い なのかを決める必要はなく、時代や文化圏、読み手の年齢 に合わせて変化していくのが童話だと思います。ただ、グ リム兄弟のまとめたグリム童話は現代の子供たちが読むに は 残 酷 す ぎ る と い う 印 象 が あ り、 当 時 の 子 供 た ち は ど う 思っていたのか、実際に読んでいたのか、少し気になりま した。また講義で扱った二つの映画では、小人たちに愛称 があり、非常にお茶目で人懐っこい印象を受けましたが、 エーレンベルク稿、初版、決定稿などのグリム童話では名 前 は な く、 そ の よ う な コ ミ カ ル な 要 素 は あ り ま せ ん で し た。おそらくグリム兄弟たちは、平等性を大切にしていた ので、あえて名前をつけなかったのでしょう。ではいつ頃 の作品から小人たちは個性をもったのでしょうか。機会が あったら調べてみたいと思いました。 童話には子供が興味を持てるような内容でなおかつ、教 訓的な面を含んでいることが多いと聞きますが、この「白 雪姫」から読み取れる教訓とは何なのでしょうか。たいて いの童話は良い行いをすれば自分に良い報いが、悪いこと をすれば悪いことが返ってくるという因果応報の展開が一 般的ですが、「白雪姫」はそれだけではない、と思いまし た。なぜなら結末の違いによって白雪姫の印象が大きく変 わるからです。決定稿は姫を苦しめ続けた継母が真っ赤に 焼けた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊り続けるという内容 で、私の白雪姫の人物像とは大きく異なり、驚きました。 それまで私は白雪姫を心優しく、人を疑わない素直な少女 と考えていました。しかし決定稿では自身の前でお妃に罰 を与えます。その時白雪姫はどのような気持ちで踊り狂う お妃を見ていたのでしょうか。決定稿の結末は女性同士の 美をめぐる争いがより表だって見えて、白雪姫も自身の美 に誇りを持っているのだな、という思いと同時に、他の結 末より白雪姫が人間くさく感じました。今までのお妃の行 為に対する仕返しのように見えます。一方、初版では白雪 姫を目覚めさせるきっかけとなった小人の行為がとても乱 暴だと思いました。 グリム童話の「白雪姫」を読んで、童話という世界はと ても奥が深く、子供向けの作品と言われながら大人も同時 にあっと驚くような仕掛けが施されていることを実感しま した。子供の時に読み、成長したらもう一度読む。すると 子供の頃には見えなかった新たな発見がある。一度読んで 終わりではない。またいくつも結末が存在し、それぞれ解 釈が変わってくるというのも童話ならではの楽しみなので しょう。いくつものパターンの白雪姫を読んで自分の好き 105 な白雪姫を探すというのもまた素敵だと思います。 ︿寸評﹀ 担当教員 糸井川 修 こ の 授 業 で は 学 生 の 皆 さ ん と 一 緒 に、 グ リ ム 童 話 の 「白雪姫」をドイツ語で読んでいます。テキストには決 定版︵第七版、一八五二年︶を用い、それと並行してグ リム兄弟がまとめた原話︵エーレンベルク稿︶や活字と な っ た 初 版︵ 一 八 一 二 年 ︶、 お 馴 染 み の デ ィ ズ ニ ー 版 「 白 雪 姫 」 と の 比 較 も 行 っ て、 本 当 の「 白 雪 姫 」 を 味 わってもらっています。 冒頭で触れられている『本当は恐ろしいグリム童話』 ︵桐生操著︶が出版され、グリム童話が大きな注目を浴 びてからもう一五年余りになりますが、この言葉はいま だに学生の皆さんの感想の中でよく目にします。それほ どインパクトが強いのでしょう。宗宮さんは「白雪姫」 を読んだ感想をとても素直に、きれいな日本語で書いて くれました。授業を受けたことで新たな疑問も湧いたよ うですが、もしかしたら歴史学を専攻する中で将来その 問題にかかわる機会が生まれるかもしれませんね。 『愛の手紙』の感想 丹 羽 悠 子 ︵現代企業学科二年︶ あなたは愛をささやく手紙を書いたことがありますか。 私は小中学生のころ父や母に手紙を書いたことがあるが、 最近はまったく書いていない。現代の日本では、私のよう な人も少なくないと思う。そこで、教養セミナーⅢ・Ⅳの 授業で、私が学習した手紙の感想を述べたいと思う。この セミナーでは、ダニエル・ヴォル編『愛の手紙』という書 簡集を教材としている。この本は一〇〇名ほどの著名人が 書 い た 手 紙 を 収 集 し た も の で す。 収 録 さ れ た 手 紙 の 年 代 は、古いもので十六世紀、新しいもので二十世紀です。書 き手はフランス人を中心とし、ヨーロッパの人々の手紙が ほとんどを占めています。このセミナーは一回の授業で、 二人の学生が一通ずつ、手紙の内容の説明と、書き手と受 取人の人物の紹介をするという形式で行われます。私はこ の授業で、十八世紀に書かれた手紙を紹介しました。書き 手は小説家スタール夫人、そして受取人は母親のネッケル 夫人です。私は有名なスタール夫人について全く知りませ んでした。手紙だけを読んでみると育ちのよいお嬢様で、 静かな生活を送っていると想像できました。しかし、実際 106 にスタール夫人について調べてみると、私が思い描いてい た人物とだいぶ違っていました。そのため、とても興味が わきました。 書き手のスタール夫人は頭がよく、評論家としても活躍 をしました。彼女の性格は情熱的で、 「フェミニズムの先 駆者」とも呼ばれて行動力のある女性でした。彼女は自由 思想のために、ナポレオンにより国外へ追放されるような 人物でもありました。受取人のネッケル夫人は、今でも続 くネッケル病院の設立にとても貢献をした人物だったよう です。ネッケル夫人は父からしっかりとした教育を受けて いたため、その教育方法を娘のスタール夫人にも注いだの でした。母ネッケル夫人のおかげで、スタール夫人は小説 家・評論家になることができたといっても過言ではないで しょう。その手紙の内容は優しい母に深く愛されてとても 幸せに思うというものであり、教育を熱心にしてくれた母 へ感謝と尊敬の意を述べる手紙になっています。スタール 夫 人 の 手 紙 の 中 に、 「⋮⋮あなたが私に手紙を書いて下さ るのに三十分費やされるとき、この時間は私にとって永遠 のもの⋮⋮」という文章があります。とても愛情の深い文 章だと思いました。この文からはまだ十三歳だったスター ル夫人が、母親をいかに彼女にとってかけがえのない存在 と考えていたかということがよく伝わってきます。他にも 十三歳の少女が書いたとは思えないほど愛情深い文面があ り、とても感動的な手紙でした。 最後に、私はこの時代の人々の手紙はどちらかというと 大袈裟に書かれている気がしていました。この手紙を書い た時のスタール夫人は、まだ中学生くらいなのでなおさら そ う 思 え ま し た。 し か し、 手 紙 を 読 ん だ 後 で 考 え て み る と、私たちの両親は汗水をたらして稼いだお金や貴重な時 間を、私たちの将来のために費やしてくれています。もち ろん、それだけではない。たくさんの愛情も注いでくれて い ま す。 そ う し た こ と は 子 供 に と っ て 当 然 の こ と の よ う で、普段はあまり考えてこなかったが、この手紙を読んで もっと両親に感謝を伝えなければならないと感じました。 さらに、この幸せな生活を両親から与えてもらっているこ とを、いま一度認識しなければならないとも思いました。 そう考えていると、とてもスタール夫人の気持ちが大袈裟 とは思えなく、この時代の人は自分の素直な感情を手紙に 表現していると思えました。現代の日本人は電子メールが 溢れているため、手書きであまり手紙を書かない。まして や愛情を率直に書くことはないだろう。しかし、手紙を貰 うと素直になれ、相手の気持ちを再認識することができま す。 昔 の 人 の 手 紙 を 読 ん で、 心 が 晴 れ る 気 が し ま し た。 色々と大切なことに気づかさせてくれる本でした。今度、 両親への感謝の手紙を書こうと思う。 担当教員 堀田 敏幸 ︿寸評﹀ 授業ではヨーロッパ人の書いた手紙を取りあげて、差 107 く どく 出人と受取人の人物およびその二人の関係を調べて、発 表者に説明してもらう。そして手紙の内容について、ど ういう思いで書かれ、どういう特徴的な表現になってい るのかを分析するものである。テキストは『愛の手紙』 、 ダニエル・ヴォル編、図書新聞。 丹 羽 悠 子 さ ん は、 一 七 八 九 年 に 起 こ っ た フ ラ ン ス 革 命、そしてその混乱を収拾すべく立ち上がったナポレオ ンの両時代を生きた小説家、スタール夫人をテーマに取 り上げました。彼女が少女時代に母親に宛てて書いた優 しい気持ちの手紙を、丹羽さんは自分のことのように読 ん で い ま す。 親 へ の 感 謝、 こ れ は 現 代 の 十 代 の 若 者 に は、なかなか素直に表せない気持ちのようですね。 しかし、そうした少しばかり気恥ずかしく思う気持ち も、手紙なら率直に語れるのではないか。本人を面と前 に し て と な る と 言 え な い こ と も、 手 紙 の 中 の 相 手 に は 「素直」になれそうです。手紙では一方的に相手に語る ことになるため、その相手の事情もくみ取らなければな りません。そうした心の気遣いを読み取ることで、丹羽 さんは「心が晴れる気がする」と、手紙の功徳をみごと に述べました。手紙を書き、また読むことは、心を全開 にして相手と向き合う真実の交流なのでしょう。 石鹸の文化と歴史 玉 木 桃 子 ︵歴史学科二年︶ 一、はじめに 現代において石鹸は、日々の生活の中で欠かせないもの と な っ て い る。 そ の よ う な 石 鹸 の 歴 史 や 文 化 を 知 っ た 上 で、最近の石鹸が持つ役割について考えていきたい。 二、石鹸の歴史 初の明白な証拠としての石鹸作りは、紀元前三世紀頃の 古代ローマの歴史の中で見つかった。イタリアの火山の噴 火で埋没したポンペイには、石鹸工場の跡があったことが 確認されている。 それは、不思議な土を発見したことから始まると言われ ており、 「 サ ポ ー と い う 丘 の 神 殿 で、 獣 の 肉 を 焼 い て 食 べ ていた人たちが、したたり落ちた脂と木の灰︵アルカリ︶ か ら 自 然 に で き た 石 鹸 が、 土 に し み こ ん で い る の に 気 づ く。そしてたまたま手についた不思議な土を、川で洗って いたらアワが出てきてウソのように汚れが落ちた」と言い 伝えられている。サポーで偶然石鹸ができていたころ、メ ソポタミアでも石鹸が作られていた。そしてその地に住む 108 シュメール人たちは、“石鹸の製法や用途”について粘土 板 に 残 し て い た の で あ る。 残 さ れ た も の は 次 の 通 り だ。 「油とアルカリを煮沸したもの︵石鹸︶にイオウを混ぜて 塗りグスリにしたり、織布の漂白洗浄に使う」 。 ローマの人々は、公衆の入浴が親しまれていたことでよ く知られているが、当初石鹸は身体を洗うために使われて いたのではない。紀元後の初期では、石鹸は内科で病気の 治療に使われていた。つまり石鹸は薬であったのだ。二世 紀の内科医ガレンは石鹸の入ったお風呂に入浴することが 肌に良いと推薦し、ローマ時代後期には、貴族など富裕層 において石鹸を使って身体を洗うことが広がっていった。 石鹸というものはアルカリと油脂を原料に作られている が、当時は高級品であったためなかなか庶民が手にするこ とは少なかった。しかし、そのような石鹸にも大衆化され る 時 期 が く る。 き か っ け は 大 航 海 時 代︵ 一 六 世 紀 ︶ と さ れ、コロンブスによる新大陸︵アメリカ︶が発見された時 代である。石鹸が大衆化されていく理由の一つ目に挙げら れるのが“世界経済の中心地域が、従来の地中海周辺から 大西洋沿岸に移ったこと”である。 そして二つ目の理由は“この時期の生産形態が手工業的 工場制と訳されるマニュファクチュアであったこと”であ る。マニュファクチュアとは分業に基づく協業のことであ り、一六世紀半ばからイギリスが産業革命に入る一八世紀 後 半 ま で 行 わ れ て い た も の で あ る。 最 後 三 つ 目 の 理 由 は “石鹸の原料となる木の灰︵アルカリ︶や油脂が大量に得 られたこと”である。アメリカでの植民活動の中で木の灰 が得られ、油脂は食用に使った動物の脂から得られた。こ れら三つの理由が重なることによって大量生産が可能とな り、石鹸が庶民にも広がるようになっていったのである。 三、石鹸の形状 石 鹸 に は 形 状 が 異 な る 二 つ の タ イ プ が あ る。 そ れ ら は ジェル状石鹸と固体石鹸である。それぞれの原料は木の灰 ︵アルカリ=水酸化カリウム︶と油脂であるため基本的に 変わらないが、製造過程の最後の時点で塩を入れるか入れ ないかによってタイプが分かれる。 また、それら二つの洗浄力には差がほとんどなく、その 当時塩は高価で入手困難であったため固い石鹸を作るため などにはなかなか使われなかった。塩は、家畜の餌にした り、食べ物を保存するためのものとして使う方が価値があ ると考えられていたのである。 しかし、都市で石鹸が売られるようになると固体石鹸の 方は持ちが良く、輸送もしやすいことから固体石鹸が好ま れるようになった。ちなみに、日本に初めて輸入された石 鹸はジェル状石鹸であった。 四、石鹸の日本デビュー 日本に初めて石鹸が入ってきたのは織田・豊臣時代の一 109 六世紀。種子島への鉄砲伝来と同じ頃である。この頃の石 鹸は輸入品で大変な貴重品だったため、手にすることが出 来たのは将軍や大名など限られた人たちだけであった。 当時の石鹸は、洗浄剤というより医薬品︵下剤や腫れ物 用の軟膏︶として使用することが多かったようだ。一八二 〇年ごろの日本では、ベネチア石鹸とロンドン白石鹸が最 上 品 と さ れ て お り、 ロ ン ド ン 白 石 鹸 の 原 料 は 牛 脂 が 九 〇 、オリーブ油が一〇 であったため食べても特に体に害 を与えるものではなかった。 この頃、石鹸は薬として用いることが多かったが、もち ろん洗浄剤としても使われていた。中でも将軍の徳川家康 はこの貴重な石鹸を︵関ヶ原の戦い・大坂冬の陣・夏の陣 な ど で ︶ 部 下 に も 使 わ せ て お り、 一 日 の 戦 い が 終 わ っ た 後、これで体を洗わせ、さっぱりさせて戦意を向上させて い た と 言 わ れ て い る。 久 能 山 東 照 宮 に 残 る「 贈 り 状 」 に は、一番目に大切なのは金、二番目に大切なのは石鹸と書 かれており、家康の遺産の中にも約一七六Kg︵四七貫︶ の石鹸があったそうだ。 石鹸を持ち込んだのはその頃交易のあったポルトガル船 である。ポルトガルでは石鹸のことをシャボンと言ってい たため、日本でも第二次世界大戦前くらいまでこの呼び名 が使われていた︵語源はフランス語で石鹸を意味するサボ ンと同じく、石鹸製造が盛んだったイタリアのサボナとい う地名だと考えられている︶。 % % この頃︵江戸時代︶、庶民たちは石鹸の代わりに木綿の 袋に糠を入れた「糠袋」を使っていた。また、洗たく業者 などが洗剤代わりに使っていたものは灰汁︵あく︶を小麦 粉で固めたものであった。 五、現代における石鹸の役割 現代において石鹸の役割は多岐に及ぶものとなってい る。 こ こ で そ の 役 割 に つ い て 私 が 考 え る も の を 三 つ 挙 げ る。 一 つ 目 は 除 菌・ 殺 菌 な ど の 洗 浄 剤 と し て の 役 割 で あ り、現代の私たちにとって一番馴染みのある役割である。 二つ目は芳香剤としての役割だ。石鹸の香りは約一〇m四 方の範囲に及ぶため、十分その効果を発揮できる。エアフ レッシュナーは便利だが、意外と安くはないものである。 いい香りのする石鹸を家の中に置き、芳香剤として使って いる人も増えてきている。特に、引き出しやクローゼット など狭くて閉じられた空間に置く方がより効果的とのこと で あ る。 最 後 三 つ 目 は イ ン テ リ ア と し て の 役 割 だ。 数 年 前、手作り石鹸がブームになった時期があり、それを機会 に花かごなど石鹸がインテリアとしての役割を果たすよう になった。 六、感想とまとめ 石鹸は、普段何気なく使っているものだが、その起源を たどると多くの意外な事実が発見できた。今回調べてみて 110 一番驚いたことはやはり石鹸 が薬として用いられていたこ とだ。現代では油成分として 石油が混ざっているため、薬 としての役割はなくなってい る。 また石鹸の普及について は、初めとても高価なものであったが、大量生産が可能と なったことで大衆化され広く使われるようになったと言え るだろう。 今回の発表を踏まえ、いつか自分に合った手作り石鹸を 作ってみたいと思った。 ︿参考資料﹀ ︿寸評﹀ 担当教員 文 嬉 眞 本レポートは、教養セミナーⅣの中で異文化をテーマ に発表したものである。 玉木桃子さんは、異文化の講義内容を十分に理解し、 そしてそれを文章に変える表現技法をも身に付けている 模様である。その上に、彼女はレポートの内容を大変上 三木春逸・三木晴雄『石けん屋さんが書いた石けんの本』 三水社 前田京子『お風呂の愉しみ』 飛鳥新社 http://plaza.rakuten.co.jp/ayumills/2027/ https://www.jstage.jst.go.jp/article/oleoscience/1/4/1_403/_pdf 17 世紀のヨーロッパの石鹸 製造者 手くまとめ上げている。さらには玉木桃子さんの、本人 の 真 面 目 さ と 持 ち 前 の 探 究 心 と 相 俟 っ て、 本 レ ポ ー ト は、 完 成 度 の 高 い も の に 仕 上 が っ て い る。 本 レ ポ ー ト は、 「石鹸の文化と歴史」を題材とし、その分析に際し ては様々な角度からの説明を試みるなど、大変理解し易 い工夫が行なわれている。 玉木さんは石鹸の歴史を検討する際に、古代ローマの 歴史から石鹸作りの起源を説明し、さらに最初の段階で は石鹸が薬として使用されていたこと、ローマ時代後期 になってからは富裕層を中心に身体を洗う役割を果たす ようになった点を明らかにしている。それに加えて、石 鹸の形状や、石鹸の日本デビュー、現代における石鹸の 役割の順に分析を行う過程で、石鹸の本来の役割を超え てインテリアとしての役割をも果たしている点が、本レ ポートを通して明らかにされている。 玉木桃子さんは、本レポートを通してごく一般的なイ メージとしての石鹸の役割、すなわち身体を洗う際に使 用されるものという役割と違って、最初の段階では薬の 役割をしていたという説明を通して、意外な事実が発見 できた点で、彼女の更なる探究心を期待している。 111 世界と日本の蛸文化 池 田 真 夕 ︵心理学科三年︶ はじめに 本論は異文化理解をテーマとする教養セミナーⅣの講義 内で発表した自身のプレゼンテーションの概略である。 私 は 異 文 化 理 解 と い う テ ー マ の 中 か ら「 蛸 」 に 注 目 し た。蛸とは、私たち日本人にとってごく一般的な食材の一 つである。しかし、このような日本においての蛸の位置づ けとは、世界的な視野で見れば一見変わったものなのかも しれない。 本稿は、人間と蛸との関わりを歴史的に見るとともに、 そこから生まれた蛸文化や問題点について紹介していくこ ととする。 七二kgもあったといわれている。 と い い、 軟 体 動 物 の 頭 足 類 に 位 置 蛸は学名を octopoda している。そして蛸は、吸盤の付いた八本の触腕や危機を 感じると墨を吐き姿をくらますことを特徴とする。 二、歴史 蛸とは古代ギリシャの最も古い時代から知られており、 絵画や彫刻などにも描かれている。また、蛸が刻印された 貨幣も今までに多く存在している。 一方、日本で最初に蛸が知られ始めたのは弥生時代以来 とされている。この時期の蛸漁を示す、蛸を捕るための道 具である「蛸壺」が大阪湾や瀬戸内沿岸の遺跡から多く出 土 さ れ て い る。 こ の こ と か ら、 蛸 を 食 べ る と い う 食 文 化 ︵以後、蛸食︶がその時代から生まれたと推測される。 また、稲作と同時期に蛸食の習慣が始まっていることか ら、稲作をもたらした人々には同じ習慣があったと考える 研究者もいる。 一、種類と生態 三、文化的側面 現在、世界には約二〇〇∼二五〇種の蛸が生息している 蛸は主に食文化の中で発展してきた生物だと思われがち といわれている。日本海付近にはそのうち六〇種が生息す だが、実際にはあらゆる文化的側面を持った生物である。 るものの、食用とされるのはわずか五種類程度である。ま それは例えば、伝説、絵画︵ 『 蛸 と 海 女 』 葛 飾 北 斎、 一 た、蛸の中で最も大きいといわれるミズダコ︵ 八九〇年︶、文学作品︵ 『宿命』萩原朔太郎、二〇一三年︶ 、 Enteroctopus ︶は体長約五mであり、最大記録では九・一m、二 映画︵『オクトパス』二〇〇〇年︶などがあり、多方面に dofleini 112 わたって展開されていることがわかる。また他にも正月の 風物詩である「凧」との関係も深い。 このように多くの文化的側面を持つ蛸に関して調べる際 に、以下では「食文化」と「伝説」について詳しく紹介し たい。 まずは食文化での蛸について触れていく。蛸は日本で古 くから食されてきたが、世界中で食べられているというも のではない。主に蛸を食べる国として日本や韓国、中国な どの東アジアとスペイン、イタリアなどの地中海に面する ヨーロッパの国々である。さらに、近年では日本や他国の 影響により、今まで食材としてみなしていなかった国でも 蛸食は広まってきている︵イギリス、アメリカなど︶。 蛸を食べない国の場合、いくつかの理由が見られる。一 つ目は、 「宗教上の理由」である。ユダヤ教やイスラム教 による食べ物に関する掟︵レビ記、コーラン︶には、蛸の ようなヒレやウロコのない海洋動物を食することへの禁止 が示されている。二つ目は、 「言い伝え」によるものであ る。これは蛸をデビルフィッシュ︵悪魔の魚︶と呼ぶ地域 においていえることである。宗教上の禁止や見た目の不気 味さなどから、蛸を食べるなど耐えられないというイメー ジからこの呼び名が生まれ、現在も蛸を食材とみなさない 地域が多く存在している。三つ目としては、「収穫︵不︶ 可能な地理的条件」が挙げられるだろう。 蛸料理は地域によって捕獲可能な蛸の種類や、国による 文化の差によって異なる特徴を持ち、独自に発展していっ た。代表的な料理には蛸のマリネ︵フランス︶ 、蛸のガリ シア風︵スペイン︶ 、サンナクチヂョンゴル︵韓国︶ 、日本 で馴染みのあるタコ焼きやたこ飯などがある。 次に「伝説」について紹介していく。蛸と関連する伝説 は数多く存在している。その中でも「クラーケン」という 巨大な蛸の妖怪伝説は有名である。それは、中世から近世 にかけ北欧の海で出現したといわれ、巨大な蛸が人を船ま るごと飲み込み襲うというものである。 「衣蛸」と これと同じような伝説は日本でも伝えられ、 いうものがある。京都に伝わる海の妖怪であり、外観は小 さな蛸と変わらないが、船が近づくと体を大きくし、衣の ように広げ人間や船を海の中へ沈めてしまうというのだ。 このように、蛸に関する伝説の多くは巨大な蛸が人間を襲 うというものである。なぜこのような内容の伝説が今に伝 わっているのだろうか。実際に人を襲う蛸がいたかどうか は不明であるが、蛸の種類でも述べたように蛸の中にはイ イダコという約一〇mもの巨大な蛸がいることは分かって いる。しかしこれも観測上の大きさであって、それより大 きな蛸がいないという根拠は全くないのである。衣蛸に関 しては似た特徴を持つ蛸が実際に存在している。遠い昔、 巨大な蛸に遭遇した人々がこのような伝説を生み出したの ではないだろうか。 ところが、中には全く逆の意味を持つ蛸の伝説も存在す 113 図2 ピエール・デニス・ ド・モンフォール 巨大な 頭足類(1801 年公表) 114 般的、普通の蛸も異なってしまうのである。 ヴルガリスはフランスの大博物学者キュビエによって命名 された。しかし、フランスで名付けられたヴルガリスは本当 に日本でも同一のヴルガリスなのであろうか。現に、日本産 とアフリカ産ではマダコを茹でた時に色が異なるという特徴 がある。もしかすれば、同じマダコと呼ばれていても種類が 異なっているのかもしれない。この問題を解決した正式な論 文は発表されておらず、真相は分かっていない。 図1 日本における蛸の輸入 国相手の割合 (2009) 財務省 貿易統計データより図を作成 五、まとめ 蛸とは地域によっては人間の生活にとても古くから存在 し関係している。それにも関わらず、まだ分かっていない 部分が多く存在している。 世界にはさまざまなイメージを持つ蛸が存在するが、日 本人にとって蛸は普段何気ない食事の脇役である。本稿は その蛸が世界に渡って文化的側面を持ち合わせており、今 日まで影響を与え続けてきた点を明らかにした。 モーリタニア 47% る。ハワイの四大神の一人である「カロアナ」は蛸との関 係が深く、海や漁業の神として信仰されている。さらには 「 蛸 地 蔵 」 と い う 大 阪 府、 岸 和 田 城 落 城 の 危 機 に 大 蛸 に 乗った地蔵の化身が城を救ったという伝説がある。そこに は、蛸が悪役として扱われる反面、神様として拝められて いる地域もあり、蛸は両面的に人間と関わってきたことが わかる。 四、問題点 日本は世界の蛸消費量の約六割を占めている。しかしそ の多くは、アフリカからの輸入に頼っている。その中でも 北アフリカに位置するモーリタニア・イスラム共和国から の輸入はアフリカ産約七割に対し五割を担っている。しか し、モーリタニアでは宗教上の理由から現地で蛸が消費さ れ る こ と は な い た め、 日 本 へ の 輸 出 が 水 産 資 源 の 乱 獲 や フードマイレージの面において批判を受けているという経 済的問題が存在する。 次に、蛸そのものの問題点がある。日本で最も多く食べら れている蛸は一般的にマダコと言い、その学名を octopus ︵以下、ヴルガリス︶と呼ぶ。しかし、マダコと言 vulgaris う名称は日本中に通じる言葉ではなく、北海道でのマダコは 本州のマダコとは異なる種類の蛸を示す。なぜなら、マダコ とは「真蛸」であり、普通の蛸という意味を持つ。したがっ て、地域ごとに捕獲できる蛸の種類は異なり、地域ごとの一 モロッコ 25% 中国 10% セネガル 2% その他 2% タイ 3% スペイン 5% ベトナム 7% ︿参考文献﹀ に発表したものである。池田真夕さんは、異文化理解の 荒俣宏「水生無脊椎動物」『世界大博物図鑑 別巻2』 平凡社、 学習内容を十分に吸収し、その上表現方法を充実に生か 一九九四年 す一方で、その表現方法に基づくレポートの内容も上手 波部忠重、奥谷喬司、西脇三郎『軟体動物学概説︵上巻︶』 サイ くまとめ上げている。本レポートは、異文化理解との関 エンティスト社、一九九四年 連で、世界と日本の蛸文化を材料にし、両者の結び付き 森尾貴広『食を通した北アフリカと日本のつながり 地理・地図 資料 2010年1学期特別号』 帝国書院、二〇一〇年 の問題や、それに関する詳細な分析を試みている。 岡田要『原色動物大圖鑑 第Ⅲ巻』 北隆館、一九五七年 その際に、池田真夕さんの分析には、世界の蛸文化や 奥谷喬司『泳ぐ貝、タコの愛│軟体動物のふしぎな生態』 晶文 日本の蛸食文化を説明するなど、大変興味深い視点から 社、一九九一年 の記述も見られる。さらに池田真夕さんは、蛸の種類と 奥谷喬司『軟体動物二十面相』 東海大学出版会、二〇〇三年 その生態を考察する一方で、その歴史や文化的な側面の ロジェ・カイヨワ『蛸│想像の世界を支配する論理をさぐる│』 検 討 も 試 み て い る。 そ れ に 加 え て、 蛸 に ま つ わ る「 伝 山陽社、一九七五年 瀬川芳則『イモと蛸とコメの文化 │稲作の民俗と考古│』 松 説」を紹介する際に、蛸をめぐる否定的な事例と肯定的 籟社、一九八七年 な事例とを対比させて、その解明を試みる点で評価に値 ウィキペディア フリー百科 するものと考えられる。その際に、特に「蛸食」を文化 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3% 82%BF%E3%82%B3 的な側面から見るとき、①宗教上の理由で「蛸食」が禁 2013.10.1 じられている国や、②「言い伝え」から「蛸食」が禁じ タコ倶楽部 られている理由を取り上げる点で、興味深い分析となっ http://www.geocities.co.jp/AnimalPark/2414/salt/takoclub1. ている。 html 海外農業研究会 タコゼミ 本レポートは、その段落の構成や、表現方法など、基 http://kainouken.web.fc2.com/tokouki/zemi/2009/tako/4.html 本 的 な 文 章 技 術 も、 見 事 に 行 使 し て い る。 そ れ に よ っ Mysterious Hawaii ハワイの神話と伝説 て、本レポートは、非常に明快な説明と分析に繋がって http://www.legend aryhawaii.com/2012.12.1 いる点で、高く評価できるものである。今後の池田真夕 さんの更なる探究心を期待している。 ︿寸評﹀ 担当教員 文 嬉 眞 本レポートは、教養セミナーⅣの中で異文化をテーマ 115 教養セミナー・教養教育をふりかえって ドイツに憧れて ││ ミ ュ ン ヘ ン で 過 ご し た 一 ヶ 月 間 116 篠 原 真知子 た。そして行くなら早いうちがいいと思い、二年次の夏に 行 く こ と を 決 め、 ゲ ー テ・ イ ン ス テ ィ テ ュ ー ト︵ 以 下、 ゲーテと略記︶というドイツ各地にあるドイツ語学校の ミュンヘン校に行くことになった。 行 く と 決 め て か ら は 不 安 で た ま ら な か っ た。 ド イ ツ に 行って、もし帰ってこられなかったらどうしよう⋮⋮など と不安ばかりがよぎった。海外旅行をしたことはあるが、 一人で行くのはもちろん初めて。ヨーロッパも初めてで、 英語はほとんど話せない。それなのに一人で行くことを決 めた。一人で行って、人として成長したかった。私は一人 で行くことが大切だと思っていた。 ミュンヘンまではルフトハンザ航空を使い、セントレア 空港から成田空港を経てミュンヘンに行った。ゲーテに行 かなくてはいけない前日に、ミュンヘンに到着した。ミュ ンヘン空港からミュンヘン中央駅までは、 バーンという 市内を走る快速列車で約四十分。 バーンの乗り方を事前 に調べていったが、それでも分からなかった。しかし片言 の英語でインフォメーションのおばさんに聞いたら、丁寧 に 答 え て く れ た。 自 力 で ミ ュ ン ヘ ン 中 央 駅 ま で た ど り 着 き、そこから予約していたホテルを探した。意外とすぐ見 つかり、二〇時ごろにはホテルで落ち着くことができた。 S ︵現代社会法学科二年︶ い と こ 学生時代にアメリカに留学していた従姉がカナダ人と結 婚した。インドネシアのバリ島で行われた結婚式に出席し たが、私は英語が苦手で外国人は見慣れないから怖く、従 姉の旦那の家族や友達とはまったく話せなかった。外国人 と話す従姉を見て、すごくかっこいいと思った。そして、 私も外国人と話したい、友達になりたいという思いが強く なった。 私はサッカーのドイツ代表が好きで、第二外国語でドイ ツ 語 を 選 択 し て い た。 な ん と な く ド イ ツ が 気 に な っ て い て、気づいたら行ってみたいと思うようになっていた。講 義を受けるうちにドイツ語も楽しくなった。従姉の結婚式 でのこともあり、ドイツに行きたいという気持ちがますま す強くなった。その結果、一年次に受けたドイツ文化事情 の 先 生 の 紹 介 に よ り、 ド イ ツ へ 語 学 研 修 に 行 く こ と に し S 二〇時といっても、夏のヨーロッパの昼は長い。ぎりぎり 明るいうちにたどり着くことができ、安心した。 翌日、ゲーテのミュンヘン校に、クラス分けの試験を受 けに行った。ミュンヘン校はミュンヘン中央駅から徒歩一 五分ほどの、とてもにぎやかなところにある。ゲーテから 一五分ほど歩くと仕掛け時計で有名なミュンヘンの市庁舎 にも行ける距離だ。ゲーテでできた日本人の友達と学校帰 りによく遊びに行った。 ドイツ語の文法は少し分かるものの、まったく話せない 私は日本語でいう「こんにちは」から始まるクラスに入る ことになった。私が一ヶ月間暮らしたのは、ゲーテから中 央駅とは反対方向に一〇分ほど歩いたところにある女子寮 だ。トイレ、シャワー、キッチンは共同で部屋には机とい す、ベッド、クローゼット、洗面台があるだけだった。そ の寮にはゲーテに通っている女性が多くいた。 次の日、決められた教室に向かった。ミュンヘン校は人 数が多いため、初級クラスは午前の授業、中級・上級クラ スは午後の授業と分けられていた。私は初級クラスで、朝 八時半からの授業だった。私のクラスは他のクラスよりも 人数が少なかった。イギリス人二人、オーストラリア人二 人、スペイン人二人、ギリシャ人一人、メキシコ人一人、 ベネズエラ人一人で、日本人は私を入れて二人だった。と ころがもう一人の日本人は二日後から違うクラスに移って しまい、最終的にクラスに日本人は私一人になってしまっ た。ドイツ語を話せない人がほとんどのクラス。日常会話 は、気づいたら英語とスペイン語になっていた。私はもち ろんスペイン語は分からないので、英語を話すグループに いた。英語はほとんど話せないが、話したい意思を最初の 一週間は見せ続けた。すると二週間目に入ると英語で「週 末 は ど こ に 行 っ た の?」 や「 コ ー ヒ ー 飲 む?」、「 今 日 の ゲーテのイベント参加する?」などと声をかけてくれるよ うになった。自然と私も英語が聞き取れるようになってき た。 授業はもちろんドイツ語だ。私は毎日授業中、辞書を片 手に必死に授業を聞いていた。英語圏に住む人たちは「な んでこんな文法になるのか、わからない」とよく言ってい た。日本語とドイツ語は全然違うため、私は完全に別物と とらえることができたが、英語とドイツ語はすこし似てい る。毎回のようにこの声が聞かれた。寮に帰ると授業中に でてきた分からない単語を辞書で調べながら宿題をやっ た。 私は同じクラスの三〇歳のオーストラリア人女性ととて も仲良くなった。私が困っていると隣で英語に訳して教え てくれたり、毎週末どこにでかけたかを話したりした。同 じ寮のイタリア人女性ともとても仲良くなった。彼女は日 本がとても好きで、少しだけ日本語が話せる。英語で会話 していてよく「これは日本語ではなんて言うの?」と聞い て き て、 わ か る 範 囲 で 教 え て い た。 彼 女 と の 会 話 は 英 語 117 で、 ご く ま れ に 日 本 語 が 混 ざ る く ら い。 一 緒 に 買 い 物 に 行ったり、私の部屋でアニメや音楽の話をしたり、ゲーテ で毎週開かれる飲み会にも後半は彼女と参加することが多 くなり、最後の日には彼女に鶴の折り方を教えた。日本が すごく好きでよく思ってくれている。そういう外国人ばか りだった。 ミュンヘンにいる間、観光も楽しんだ。市庁舎やフラウ エ ン 教 会 は も ち ろ ん、 ド イ ツ 博 物 館、 ニ ン フ ェ ン ブ ル ク 城、ネルトリンゲンに行ったり、自分でチケットを入手し てアリアンツアリーナでバイエルン・ミュンヘンの試合を 観戦したり、ゲーテのツアーでノイシュバインシュタイン 城にも行った。ゲーテはイベントも豊富で、毎日何かしら 行われている。私はあまり参加しなかったが、見学ツアー などはゲーテで行くのがおすすめだ。 最 後 の 日 は い つ も 通 り 授 業 を や り、 成 績 発 表 も 行 わ れ た。 毎 日 先 生 に 心 配 さ れ な が ら 片 言 の ド イ ツ 語 と ジ ェ ス チャーを使って質問していた私も、五段階評価の四をもら うことができた。今まで勉強しても思うように結果のでな かった私にとって、とても大きな一歩だった。夜はクラス の人たちとバーに行き、英語でたくさん話をした。イギリ ス人には「日本語とドイツ語は全然違うのによく勉強した ね」とほめられ、ギリシャ人は「福島は大丈夫?」と、自 分の国のほうが大変なのに心配してくれた。 ミュンヘンで過ごした一ヶ月は刺激的で、とても充実し ていた。英語もドイツ語 も話せない私に、外国人 の友達ができた。ドイツ のスーパーで、一人で買 い物ができた。電車に乗 れた。言葉の通じないと ころでこれだけのことが できたというのは、私に とって大きな自信になっ た。ドイツに行って外国 人と触れ合って、すぐに 思ったことがある。自分 は外国の現状を知らなさすぎる。慌ててクラスメイトの国 の こ と に つ い て 調 べ た。 ド イ ツ の こ と す ら あ ま り 知 ら な かった。スーパーへは絶対にエコバックを持っていかない といけないことや、ペットボトルとビンは必ず回収してま た使うこと。たくさんの発見があった。もし次に行く機会 があるなら、しっかり下調べをしてから行こうと心に決め た。私は、思い切って一人でドイツに行ってよかった、と 心から思っている。やはり、一人で行くことに意味がある と 思 う。 す こ し で も 外 国 に 興 味 が あ る 人 は、 思 い 切 っ て ︵担当 糸井川 修︶ 行ってみたらどうだろう。 クラスの友達と(筆者は右から2人目) 118 ドイツ体験記 │遠 く 離 れ た 異 国 で の 体 験 と 感 動 │ 高 橋 あすか ︵グローバル英語学科三年︶ 二〇一三年の夏、私はゲーテ・インスティテュートとい う語学研修機関︵以下、ゲーテと略記︶を通じ、ドイツ南 部の古城街道にあるシュヴェービッシュ・ハルという町で ドイツ語を学びました。ドイツ語は二年生のときに「グリ ム童話」を読んで触れただけで辞書がないと全く理解でき ず、自己紹介のドイツ語すら分からない状態でドイツに行 きました。日本にないものを見るのが好きで、ヨーロッパ に行ってみたかったという簡単な理由でした。 英語ができればドイツ語ができなくても問題ない、とい う先生の言葉を信じ、興奮と不安が入り混じるなかドイツ に渡りました。その結果はというと、やはり簡単なドイツ 語はやっておくべきだったと感じたことは否めません。フ ランクフルト空港までは英語で大きな表記があり、なんと かなりましたが、地下鉄や列車になるともう英語表記が全 くありません。これは困ったと駅内をうろうろしてたどり ついても、今度は切符の買い方が分からない、なんてこと も あ り ま し た。 と も か く 試 行 錯 誤 を 繰 り 返 し て 電 車 に 乗 り、フランクフルトからシュヴェービッシュ・ハルについ た私は、そこでたくさんの楽しい友達に巡り合うことにな ります。 もちろんドイツ語を一切やっていない私にクラス分けテ ストができるわけもなく、入ったクラスは一番下の、一か らドイツ語を始めるクラスでした。一つのクラスにたくさ んの国から来た一四人が集まり、ドイツ語を学びます。同 じクラスに広島から来た日本人の女性もいて、全く分から ないところから辞書を駆使して一緒にドイツ語を学びまし た。 私が行った八月下旬からの期間には日本人がたくさんい て、一〇人近くの人と同じコースで知り合いました。ほと んどみんな大学でドイツ語を専攻している人たちで、英語 とドイツ語を使ってたくさんの国の人とコミュニケーショ ンをとっていました。今まで私の近くには自分から進んで 英語を話して関係を築こうとする人が少なかったせいか、 その姿は衝撃的で、私も頑張ろうという意識が芽生えまし た。彼らにはたくさんお世話になり、ドイツ語もたくさん 教わりました。 海外で会う日本人の多くは、やはり語学や外国の文化な どに多大な興味を持っていました。知り合った東京の大学 の男子学生は色々な国の言葉がやりたくて、ドイツ語専攻 だけれどフランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリ ア語、中国語なども勉強して自己紹介はできるようにした 119 と聞いてびっくりしました。山梨の大学に通っている女子 学生は英文学科に通いながらもドイツが大好きで、来年一 年間ドイツに留学することも考えていました。みんな語学 が大好きで、たくさんの国や人のことを理解しようと頑張 る姿が素晴らしかったです。 同 じ コ ー ス で 知 り 合 っ た 他 の 国 の 人 々 も、 と て も 優 し かったです。先生は易しい簡単なドイツ語で話してくれて いるのに、全く理解できなくて何をしたらいいのか分から ないこともしばしばありました。そんな私にクラスメート はゆっくりと説明してくれ、いつもニコニコしながら挨拶 もしてくれるので、安心して授業を受けられました。最後 のほうになると辞書を引きまくって予習・復習をした成果 なのか、友達に教えてもらった成果なのか少しは理解でき るようになり、「全然分からない」という葛藤から解き放 たれて楽しく授業が聞けるようになりました。 ドイツでは初めての経験ばかりで、日本にはない食べ物 や雑貨、建物、それにドイツ特有の習慣に触れることがで きました。土曜日にはゲーテが企画してくれるプチ旅行の ようなものがあって、歴史的なお城や博物館、大きな教会 や石畳の町並みなどを訪れ、感極まるほど最高の休日を送 ることができました。配られた地図を見て友達と「ここは どこだろう」「次はどこに行きたい?」などと話しながら 町を歩いて、ご飯を食べる時には「この単語なに?」「こ の 料 理 何 の 料 理?」 と い っ た 会 話 を す る の が と て も 楽 し かったです。もちろんその時はドイツ語を理解するのに必 死なのですが、後になるといい思い出です。 生活に慣れてくると、今度はみんなでご飯を作ってプチ パーティーをしよう、ということになりました。スーパー に 買 い 物 に 行 っ て、 寮 の キ ッ チ ン で 鍋 を 使 っ て ご 飯 を 炊 き、 買 っ て き た 魚 で お 寿 司 を 作 っ た り、 肉 じ ゃ が を 煮 た り、ドイツビールやワインの飲み比べをしたりしました。 それぞれのクラスの様子や休日の計画、日本で起きている ことや通っている大学のことなど話のネタは尽きなかった ですし、出身地が皆ばらばらだったので、その地方独特の ことやみんなの経験なども聞けました。国によって文化が 違うことは分かっていましたが、日本の中でも結構色々違 うことが分かりました。 ド イ ツ の 生 活 は 充 実 し す ぎ て い て、 本 当 に 一 ヶ 月 は 早 く、帰国の日は名残惜しくてたまりませんでした。ようや く慣れ始めたところなのに、みんなと別れることになり、 同じ国に帰る人はともかく、違う国の人にはもう二度と会 え な い か も し れ な か っ た か ら で す。 し か し 彼 ら と も 今 は フェイスブックで繋がっているので寂しくはありません。 日本の友達とは就職活動が終わったら会う約束もしていま す。 最初のドイツ留学は一ヶ月という短い期間で終わりまし たが、私が得た経験はとても濃い、貴重なものになりまし た。観光目的で行った短期留学でしたが、最終的には今ま 120 フェミニズムへの懐疑 谷崎潤一郎のフェミニズムとは ︵商学科二年︶ 三 浦 貴 子 一、谷崎潤一郎のフェミニズムと当レポートについて 「フェミニストと云う者は結局独身で通すより外仕方が ないんだ。」 ︵新潮文庫 蓼喰う虫より︶ 谷崎潤一郎の私生活を描いた作品『蓼喰う虫』では、谷 崎自身を投影させた登場人物を「フェミニスト」と示す描 写がある。 谷崎作品の特徴として、著者自身を反映したような、女 性に献身的な女性崇拝者が登場人物であることが挙げられ る。 女性を崇拝している、という点においてフェミニストを 自負しているのだろうが、彼の女性崇拝はフェミニズムと 等号で結ばれる関係ではないという主張の基、谷崎作品を 分析する。 二、フェミニズム 意味の比較 『 旺 文 社 英 訳 つ き 国 語 総 合 新 辞 典︵ 一 九 九 四・ 一・ 五︶』によると、フェミニズムの定義は「女性権拡張論、 121 で経験した何よりもたくさんの物を私にもたらしてくれま した。いつかまたドイツに行って、今回行けなかったとこ ろも訪れ、シュヴェービッシュ・ハルのゲーテを再び訪ね ︵担当 糸井川 修︶ たいと思います。 遠足で訪れたハイデルベルク城にて(右端が筆者) 女性尊重論」である。谷崎作品と関係性が高いのは女性権 拡張よりも女性尊重とみなし、尊重について同じ辞書で調 べると「たっとび、重んじること」とある。 一方、谷崎作品を参考にしてみると、 「男という男は、 ︵1︶ 」 「ですから僕等はオルロフ夫人 皆お前の肥料になるのだ。 を見出した時に、多くの蜂が一茎の花に群がるように、み ︵2︶ 」と んな彼女の周囲に集まり、彼女を崇拝したのでした。 ある。 肥料や花に群がる蜂というように、男性がへりくだり、 女性を持ち上げるような被虐趣味的な比喩表現が非常に多 いのだ。 確かに辞書通り女性をたっとび、重んじている表現なの だが、一文を抜き出しただけ、ひとつの作品を参考にした だけでは分からない思想が隠されている。 それは『日本に於けるクリップン事件』で明らかになっ ている。 「マゾヒストは女性に虐待されることを喜ぶけれども、 その喜びはどこまでも肉体的、官能的なものであって、毫 末も精神的の要素は含まない。 」 「ではマゾヒストは単に心で軽蔑され、翻弄されただけ では快感を覚えないのか。手を以って打たれ、足を以って 蹴られなければ嬉しくないのかと。それは勿論そうとは限 らない。しかしながら、心で軽蔑されるといっても、実の ところはそういう関係を仮に拵え、あたかもそれを事実で ある如く空想して喜ぶのであって、いい換えれば一種の芝 居、狂言に過ぎない。 」 「つまりマゾヒストは、実際に女性の奴隷となるのでは なく、そう見えるのを喜ぶのである。見える以上に、ほん ︵3︶ とうに奴隷にされたらば、彼等は迷惑するのである。」 更 に は、「 彼 等 は 彼 等 の 妻 や 情 婦 を、 女 神 の 如 く 崇 拝 し、暴君の如く仰ぎ見ているようであって、その真相は彼 等の特殊な性慾に愉悦を与うる一つの人形、一つの器具と ︵4︶ 」とまで記述している。 しているのである。 ここでいう「彼等」はマゾヒストを指す。 つまり、『刺青』における「男という男は、皆お前の肥 料になるのだ」も、『人房の髪』における「ですから僕等 はオルロフ夫人を見出した時に、多くの蜂が一茎の花に群 がるように、みんな彼女の周囲に集まり、彼女を崇拝した の で し た。」 と い う 表 現 も、 「彼等」の自己満足のシチュ エーションのために用いられたものであり、女性そのもの を重んじて用いられた言葉では無いのだ。 それどころか、自己満足のための器具、人形であるから こそ、彼等の気に入る性質、容姿 、態度が不可欠であり、 そこに女性たちの人格や個性は認められていない。 従って、フェミニズムの定義である「女性をたっとび、 重んじること」からは大きく外れてしまうことになる。谷 崎の発想はフェミニズム的では無いのだ。 「一文を抜き出しただけ、ひとつの作品を参考にしただ 122 けでは分からない思想が隠されている。」と上述したが、 ここで思想という言葉を用いたのには意味がある。 引用元の『日本に於けるクリップン事件』であるが、こ れは小説ではなく、殺人事件を基に谷崎が彼自身の思想を 書いた作品であり、小説というフィクションを通していな い、彼の考えそのものを文章にしたものなのだ。 谷崎作品に登場する男性達のほとんどは、利己的な女性 たちに振り回され主体性に欠ける印象だが、実は谷崎の思 想そのものは非常に利己的である。 彼の女性崇拝は自分の欲求のためだけにあり、そこに尊 重の気持ちは無いからだ。 私はフェミニズムの定義について目くじらを立てている のではなく、女性崇拝者やフェミニズムといった、一言で は表せないような谷崎の魅力を掘り下げたいのだ。 谷崎の女性崇拝はフェミニズムと等号で結ばれない。こ のことを明確にした『日本に於けるクリップン事件』は、 谷崎作品の造詣をより深くしている。 ︿註﹀ 谷崎潤一郎「刺青」『フェティシズム小説集』 集英社文庫、 ︵1︶ 一九頁より、二〇一二年九月二五日 ︵2︶谷崎潤一郎「人房の髪」『マゾヒズム小説集』 集英社文庫、 一六六頁より、二〇一〇年九月二五日 ︵3︶谷崎潤一郎「日本に於けるクリップン事件」『マゾヒズム小 説集』 集英社文庫、一九五│一九六頁より、二〇一〇年九 月二五日 同上 ︵4︶ ︵5︶谷崎作品はフット・フェティズムと関連性が高く、肌質や足 の形の良い女性が描かれている。 ︿寸評﹀ 担当教員 清水 義和 三浦さんは谷崎潤一郎が『蓼喰う虫』で描いた「女性 崇拝はフェミニズムと等号で結ばれない」を結論だと し、それを裏付ける資料を引用して、 「 『日本に於けるク リ ッ プ ン 事 件 』 は、 谷 崎 作 品 の 造 詣 を よ り 深 く し て い る」と論じている。私は若い頃『蓼喰う虫』を通読した けれども、その表題の由来を調べたことはなかった。け れども、三浦さんは、クリップン事件を調べるだけでな く、オルロフ夫人の若死にの原因を究明したうえで、二 人の女性が好対照を成している事を指摘し『蓼喰う虫』 を論じている。そして、谷崎が『蓼喰う虫』で描いた意 図に一歩踏み込んでいる。一般論として、若者の間で活 字 離 れ が ひ ろ が っ て い る が、 三 浦 さ ん は 谷 崎 が 著 し た 『蓼喰う虫』の創作意図を丹念に辿っている。今後の三 浦さんの活躍を期待しています。 123 永平寺一泊参禅 倉 地 礼 華 ︵商学科一年︶ 山 中 妙 恵 ︵商学科一年︶ 私達は八月八日、九日の二日間第二班で永平寺一泊参禅 に参加しました。永平寺に着いた時に丁度、雨に降られて 荷物も髪もびしょ濡れになって大変でした。永平寺では坐 禅をしたり、精進料理をいただきました。日常では出来な い貴重な体験をすることが出来ました。慣れないことばか りで辛いことが多くありました。特に辛いと感じたことが 二つあります。 一つ目は、一日目の最初の坐禅です。すごく眠く、大変 長い時間に思えました。こんなに長い坐禅があと三回もあ ると思うと心が折れそうでした。二回目以降の坐禅は慣れ たせいか比較的、特に朝の三時四〇分からの坐禅はあっと いう間に時間が過ぎました。 二つ目は正座です。正座する機会が多くありました。正 座する度に足が痺れてなかなか立てませんでした。ご飯も 正座で食べなければいけないので、ご飯の時間は正座の痛 みと痺れとの戦いでした。もっと料理を味わう余裕がほし かったです。 夕食で精進料理を初めて食べましたが、素材本来の味が 活かされていて、更に薄味でどの食材も一番良い調理方法 がされているように感じました。永平寺を開かれた道元禅 師は食事についても修行としていて、そのことを意識しな がら食事をとりました。精進料理はとても美味しかったの ですが、量が少なかったです。夜お腹が空いてなかなか寝 付けませんでした。 永平寺の修行僧は三六五日この食事をしているそうで す。私は一日でもう耐えられませんでした。永平寺内では 携帯電話は使用できず、テレビもありません。修行の妨げ になるからだそうです。修行僧の楽しみは何だろうか? と考えてしまいました。私達の楽しみはテレビを観たり、 携帯で友達とLINEしたりすることです。でも、永平寺 での修行中はできません。楽しみがない生活はとても辛い です。この生活を何年も続けている修行僧を尊敬します。 修行僧の両親などとの連絡のとり方は携帯が使えないの で、手紙による文通だそうです。 食事後、再び私達は坐禅をしました。その後に法話があ りました。法話の内容は「自他一如」についてでした。支 え合って生きる幸せについてお話していただきました。そ して、『はきものをそろえる』という詩を読んで、人の心 について教えていただきました。この詩の後半に「だれか がみだしておいたら、だまってそろえておいてあげよう 124 そうすればきっと世界の人の心もそろうでしょう」と書い てありました。ここの部分はとても好きです。だけど、み だした本人がそれに気づかずにまたみだされるのも嫌だな とも思いました。 就寝はとても早いです。朝は三時一〇分に起きなければ いけないので、早く寝ないといけないという焦りとお腹が 空いて寝付けなくて次の日は寝不足でした。 三時一〇分に起床し、早速坐禅でした。朝の暁天坐禅で 初めて警策を受けました。思い出作りと思い自分から受け に 行 き ま し た。 予 想 以 上 に パ シ ッ と い う 音 が 大 き く、 痛 か っ た で す。 坐 禅 が 終 わ る 頃 に は 四 時 半 に な っ て い ま し た。外ではヒグラシが鳴いていました。 坐禅後、修行僧達の朝課︵お経を読む修行︶に二〇分ほ ど参列しました。多数の修行僧が読経する声のハーモニー と荘厳な雰囲気に圧倒されました。 その後に諸堂を拝観しました。最も印象に残っているの は、天井にたくさんの絵が貼ってある部屋です。絵の中か ら獅子二枚、鯉二枚、リス一枚の絵を見つけると願いが叶 うと言われがあるらしく、必死で探しました。五枚すべて 見つけることができました。 永平寺一泊参禅に参加し、終わった今感じることは参加 して良かったということです。辛かったけど、普段の生活 とは全く違う生活をすることができ、こういう生き方もあ るということを学べました。私たちの生活の中では、ご飯 を正座で食べることはめったにないし、坐禅を三〇分間組 むこともありません、お腹が減れば、すぐ食べ物を食べれ る環境の中に住んでるので、お腹が減っているのを我慢し て寝ることもほとんどなく、辛いことをこんなに一度に多 く体験することもほとんどありません。私たちの生活がど れほど豊かで便利なのか体で感じることができました。二 日間という短い間でしたが、精神的に強くなったと感じま す。この先どんなに辛いことがあっても乗り越えられると 思います。 担当教員 田中 泰賢 ︿寸評﹀ 倉地さんと山中さんは永平寺一泊参禅という貴重な経 験 を ま と め て 報 告 し て く れ た。 永 平 寺 参 禅 が 何 故 大 切 か。永平寺を開いた道元禅師と現代との関わりからその 理由を述べましょう。1平成二十五年十二月に︿和食 日本人の伝統的な食文化﹀がユネスコ無形文化遺産に登 録された。その提案書資料9に「八〇〇年前に道元禅師 が禅寺の規則として「典座教訓」を著し、食事を作るこ と、それを食べることが禅の修行の一部であることを述 べ、食文化の宗教的意義が広く知られるに至った。 」と ある。元日本栄養士学会会長、森川規矩氏は「給食管理 の日本の始祖、道元禅師は、給食の倫理を典座教訓︵て んぞきょうくん︶等にまとめた。この道元の心を、私は 日本栄養士の魂に新風を送るために五〇余年一貫して説 125 いてきた」と述べておられる。栄養、医療、法律を学ぶ 学生にとって道元の教えは大切である。2アップル社創 業者、故スティーヴ・ジョッブズ氏は道元の教えを伝え るためにアメリカに渡った知野弘文師と出合い、知野師 に厚い信頼を寄せた。道元の教えをまとめた「修証義」 がある。そのなかで、連絡船などで働いたり、橋を作っ たりというように、全ての産業で働くことは社会貢献で あり、布施という仏行であるという意味のことを述べて いる。経済、商学、経営の学生にこの教えはヒントにな るであろう。3一九六八年、ノーベル文学賞を受賞した 川端康成氏はスウェーデンでの授賞式のスピーチ「美し い日本の私」で道元の和歌も数度取り上げている。文学 を学ぶ学生には参考になるだろう。4英国の女性、故ジ ユウ・ケネット師は日本の総持寺で修行した後、英米に 寺院を開き、師の弟子達が各地に展開している。道元の 男女平等の思想︵修証義の第四章参照︶が実現したもの である。5英国北アイルランド出身のポール・ホーラ︱ 師は道元の「仏家」︵セクト、宗派を超えた意味︶に共 鳴して禅僧になる。それだけでなく、北アイルランドで 長年続いている紛争地に入り、「仏家」という立場から 志しを同じくする人々と協力して解決の糸口をさぐって いる。6アメリカの詩人、環境保護者、ゲイリー・スナ イ ダ ー は 環 境 問 題 の 解 決 の た め に 道 元 の 著 書『 正 法 眼 蔵』を頻繁に引用している。このように道元の開いた永 平寺や愛知学院の禅堂で坐禅をすることは書物に偏って いる現代においてとても重要であろう。 126 杉原千畝から学ぶ 堀 江 弘 一 ︵現代社会法学科一年︶ 杉原千畝という人物を知っているだろうか。知らないと いう人が多いのではないか。しかし、杉原千畝は第二次世 界大戦中に「命のビザ」を発行し、六千人ものユダヤ人の 命を救ったといわれる人である。 私は今年度「教育学」を履修して、講義の中で「杉原千 畝 」 に つ い て の 話 を 聞 い た。 最 初 は あ ま り 興 味 が わ か な か っ た が、 「教職研究会」というサークルの活動で、千畝 の故郷を訪れるから、参加しないかと声をかけていただい た。訪れたことがなかったので、いい機会だと思い参加す ることにした。 杉原千畝は明治三十三︵一九〇〇︶年に岐阜県八百津町 で生まれた。子ども時代は成績が極めて優秀であった。し かし医者になることを望んでいた父親の期待に反し、英語 教員になりたいと思っていたため、勘当されてしまった。 ハルビン︵中国︶に留学した後、第二次世界大戦中リト ア ニ ア の 領 事 館 に 勤 務 し て い た こ ろ の こ と で あ る。 あ る 日、日本へのビザを求める大量のユダヤ人が領事館へ押し かけてきた。日本の外務省の許可がないとビザは発行でき な い の で、 何 度 も 問 い 合 わ せ た が、 つ い に 許 可 は 下 り な かった。そのため、千畝は外務省の許可なく独断でビザの 発行を決意する。もちろん、これは外務省に背くことにな るので、自分や家族がどうなるのかわからない。しかし、 千畝はそのことより、一人でも多くの命を助けることを優 先し、ビザを書き始めたのだ。 もし、千畝の立場にあったら、人々を救うためにビザを 発給する行動をとることができるか。私は今まではできな いと思っていた。しかし、「自分を犠牲にして他者の命を 救う」という勇気ある千畝の行動を知って、自分を守るこ とも大切だが、同じくらい他者の命を守ることも大切なの だと思うようになった。 千畝はその後もビザを書き続ける。しばらくすると日本 領事館は閉鎖となり、千畝はベルリンへ行かなければなら なくなってしまう。しかし千畝は一人でも多くの人の命を 救うために、ベルリンへ旅立つ直前までビザを書き続ける のである。そしてなんと乗車した汽車の中でも発車する瞬 間までビザを書き続ける。そして最後に千畝は「許してく ださい、私にはもう書けない。皆さんのご無事を祈ってい ます」と頭を下げたという。 今回、教職研究会の活動として杉原千畝記念館を訪れ、 千畝の生涯や功績を詳細に知ることができた。千畝が実際 に使っていた部屋が再現されていて、その部屋に身を置い てみるとさまざまなことが頭をよぎった。 127 一人でも多くの人の命を救うために寝る時間をも惜し み、ビザを書き続けるということは、他者の命を自分の命 と同じように大切にするということだ。人の命がかけがえ のないものであるということを千畝は外交官という職業を 通し実証したのだと思う。普通は、汽車が出発するその瞬 間までビザを書くということはしないだろう。しかし、一 人でも多くの命が助かるのであればやらねばならないとい うのが千畝の考えなのだ。 私は今まで自分が第一で他人は二の次と考えてしまうこ とがあった。自分を大切にすることができない者は他人を 大切にすることができないと思うからだ。千畝の行動を知 り、自分が犠牲になっても他者を救うことは大切だという ことを学んだ。 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな 愛はない」という聖書の言葉が脳裏に浮かんだ。 心を育てる教育を │日本一の智慧工場から学ぶ│ ︵健康科学科四年︶ 續 木 大 也 「トイレ掃除」をする研修があると聞き、迷わず参加す ることにしました。いつだったか、 「トイレ磨きは心を磨 く修行である」と書かれた本を読んだことがあり、機会が あったら参加したいと思っていたからです。 この研修は、岐阜県大垣市で殺虫剤を製造している会社 によって、全国の中小企業の経営者らを対象に、毎月一回 行われているものです。教養部の八谷先生に同行すること で学生の参加を許していただけたようです。この会社の会 長松岡浩さんが社長時代にボランティア活動として始めら れ、今回が節目の二〇〇回目ということでした。全国から 集まった社会人に交じって、緊張しながらも今までに経験 したことのない充実した研修に心から満足することができ ました。 大垣駅で送迎のバスに乗ると、もう研修が始まっていま した。もちろん講師は松岡さん、会社の経営の話です。経 営の話ですが、チームで仕事を進めることや、顧客の立ち 場になってものを考えることの大切さなど、基本的なこと 128 がちりばめられています。 プログラムの最初は、谷汲山に登り、華厳寺の見学でし た。 松 岡 さ ん が 先 頭 に 立 っ て 案 内 し て く だ さ っ た の で す が、終始、松岡さんの人生論や経営論が語られます。山登 りを終えて夜は、情報交換と懇親の会に臨みました。ここ でも様々な職種の人々からいろんなことを学びました。森 信三を師と仰ぐ人々が多く、森信三の影響を受けた坂村真 民らのことが自然に話題にのぼりました。そして松岡さん 自身も森信三を師と仰いでいる一人だと思いました。 翌 日 は、 早 朝 か ら メ イ ン プ ロ グ ラ ム で あ る「 ト イ レ 掃 除」でした。雪の降る寒い朝でしたが、洗剤も水も無駄に しない「経営の基本」から始まり「トイレ掃除の心得」の 解説を聞き、トイレ掃除に臨みました。工場見学の後、会 社の皆さんの朝礼に合流しました。朝礼の後の朝食は会社 の皆さんの心づくし。おむすびと味噌汁のおいしかったこ と。 トイレを掃除して、ピカピカ輝く便器を見ると、自分の 心まで洗われたように感じました。本当に気持ちがよいの です。 ある一つの疑問が浮かびました。「大学生はどうして掃 除をしないのだろう。高校まではしていたのに⋮⋮」 教室の通路に、ゴミが落ちていることがあります。本当 に残念な気持ちになります。掃除をしなくなったためにな のか、平気でゴミを捨てるようになり、心が荒んでいるの ではないかと思います。 今回の研修では、会長というトップの座にある人が、自 ら進んでゴミを拾う姿勢、まず自分から進んであいさつす る姿勢、また松岡さんの溢れんばかりの笑顔や、他人を温 かく包み込むような雰囲気。それらから、人の上に立つ人 のあるべき姿や、人間として大切なことを学ぶことができ たように思います。 「人の上に立つためには人の嫌がることを進んでするこ と」 「トイレ 佐藤一斎の言葉ですが、松岡さんにとっても、 掃除」は嫌なことだったそうです。トイレ掃除と聞いて、 自分もやりたいと思う人はなかなかいないでしょう。むし ろ、顔をしかめてしまうかもしれません。しかし、驚くこ とに、松岡さんは、トイレ掃除を素手で、しかも床に膝や 手をついて心を込めてするのです。さらには、便器を傷つ けないようスポンジを使用していること、トイレを使用す る社員のことを第一に考え行動する姿に感銘を受けまし た。そのような会長の姿を見て、社員も、ついには自らト イレの掃除を始めたそうです。人の上に立つ人の心のもち 方や行動ひとつで、人の心を一八〇度変化させることが可 能なのだと「トイレ掃除」や松岡会長の姿勢から身をもっ て学ぶことができました。 また、社員が志を高くもって仕事に打ち込める理由が、 「改善提案」の中に隠されていたように感じます。およそ 129 三十名の社員で、一月の改善提案が二〇〇件を超えること もあるようです。工場の中は社員の知恵だらけで圧巻でし た。みんなで力を合わせれば、計り知れないほどの力が生 まれるのだと、工場のどこからも学ぶことができました。 日本一の知恵工場と呼ばれる所以はここにあったのです。 そして、改善提案は一つも否定されることなく、「知恵手 当」によって認められるといいます。自分の提案が採用さ れ、工場の中に取り入れられていくと、自分の居場所を感 じ、志を高くもつことができるのだと確信しました。さら に、「ありがとうカード」 、「お誕生日カード」からは、社 員全員が互いに認めあう雰囲気を感じることができまし た。これらは教師になったとき、学級経営にぜひ活かして いきたいと思いました。 最後に聞いた会長の講義の中に「こころの偏差値を高め る」という表現がありました。どうしても人間は頭の偏差 値 ば か り を 気 に し て し ま い が ち で す が、 本 当 に 大 事 な の は、こころなのだと気づかされました。また、人のこころ を 動 か す も の は、 人 の こ こ ろ な の だ と 再 確 認 す る と 同 時 に、自らを省み、私自身もこころの偏差値の高い人間にな りたいと強く感じます。松岡会長率いる塾に参加させてい ただき、教師になる上で、さらには人間として生きていく 上で大切なことを体験を通して学ぶことができました。貴 重な機会を得られたことに感謝し、そして、心ある教師と なり、「こころの偏差値」の高い子どもたちの育成に力を 注いでいきたいと思っています。 担当教員 八谷 芳樹 ︿寸評﹀ 教職研究会というサークルを立ち上げて一〇年にな る。春・夏の合宿、フィールドワーク、日常活動等を通 して、教養を高めたり、実践的指導力を意識して「教師 力」を磨いたりしている。日常活動については、学生た ちの自主性に極力任せているが、合宿とフィールドワー クには、学生たちに終始密着して同行してきた。 平成二十五年度のフィールドワークは、①岐阜研修、 ②JICA研修、③参禅・青山俊董老師の講話、④愛知 県総合教育センター研修である。 ①と②の成果は大学祭で発表した。①は、「少にして 学べば 則ち壮にして為すこと有り 壮にして学べば 則ち老いて衰えず 老いて学べば 則ち死して朽ちず」 で知られる佐藤一斎を恵那市岩村に訪ねた。一斉が遺し た「言志四録」の名言を彫った板が各家庭の軒下に掛け られている古い町並みを、いわむら一斎塾事務局長鈴木 隆一先生の案内で見学した。同日午後、八百津町へ移動 し、杉原千畝記念館を訪れた。これについて報告してく れたのが堀江君のレポートである。 ②は、JICA中部で、施設見学と、一日研修に臨ん だ。本学のために独自にプログラムを組んでいただき、 ESDなどの課題を地球的規模で理解することができ 130 た。 ③は、仏法の流布に懸命に活躍中の、我が国を代表す る尼僧、青山俊董老師の講話を聞いた。参禅会も貴重な 体験となった。 ④は、資料室の見学後、生徒指導や情報教育に関する 講義を研究指導主事から聞くことができた。 なお、前年度は「大村はま文庫」を閲覧するために鳴 門教育大学を訪れ、同大学村井万里子教授から「恩師大 村はま」の講義をきいた。また、滋賀県高島市の中江藤 樹記念館や藤樹書院なども訪れた。 昨年度の企画のうちの一つが、岐阜県の中小企業経営 者のための研修会だ。会を始めた松岡浩さんから再三に わたりお誘いをいただいた。昨年二月、續木君とともに 参 加 し た。 社 員 が 生 き 生 き と 働 く 姿 を 目 の 当 た り に し て、会社は社員のためにある、社員一人ひとりが会社の 歴史を作っていくという理念と実践の小気味よい一致 に、共感と説得力を覚えた。 「下座行」という言葉を森信三の著作を読 ところで、 んで知ったが、教師たる者、とりわけ、下座の体験者で あり、下座の行者であることが大事で、下座行の典型が トイレ掃除であり、ゴミ拾いであるという。 續 木 君 は 中 学 時 代 か ら の 夢 を 叶 え る べ く、 本 学 に 入 学。その直後から教師をめざしてきた。三年生で小学校 資格認定試験に首尾よく合格、四年生で愛知県の教員採 用選考試験にみごと合格。四月から教壇に立つ。心の偏 差値を意識するという。彼の専門は保健体育だ。生きる 力は知徳体をバランスよく育むことである。今後の活躍 を期待したい。 131 教養部学習支援室LA活動報告 ビブリオバトル入賞者の 投稿に寄せて 教養部長 岡 島 秀 隆 平成二十五年度より、本学は教学改革の一環としてLA 活動強化方針を打ち出しました。それを受けて、教養部で はLAを活用した教養部学習支援室活動を計画しました。 六名の学生が中心となり、多くの学生の協力を得て、①オ ススメ体験談、②ビブリオバトル、③イチオシ授業の三つ の企画を準備・実施しました。 は就職内定した商学部四年の田中里実さん︵十月二十 ① 四日開催︶と教員採用試験に合格した心身科学部四年 續木大也くん︵十一月十一日開催︶に体験談を語って もらいました。参観者との熱心な質疑応答もあり、就 職についての学生の関心の高さがよくわかりました。 ②は自分のおもしろいと思った本の紹介を三分間で行 い、その後参観者も交えて質疑を行ない、最後はその 場の互選でチャンプ本を決定するというゲーム感覚の 企画です。二十五名のエントリーがありました。優勝 し た 心 身 科 学 部 の 晴 山 茜 さ ん は『 り ん ご か も し れ な い』という絵本を紹介しました。晴山さんには学長か ら「学長賞」が授与されました。また、「敢闘賞」が 法学部の本田健太くん、文学部の阪井勇太くんと宇佐 見 啓 く ん の 三 名 に 授 与 さ れ ま し た。 こ の 発 表 を 通 じ て、学生がどんな書に親しみ、どんなことを感じてい るかがよくわかり、大変興味深い企画でした︵予選十 一月二十日、本選十一月二十二日開催︶ 。 は五名の学生が自分の受講した授業の中から、それぞ ③ れ一つの授業を推薦して五分間ずつ発表するという企 画でした︵十二月十八日開催︶ 。学生の側から眺めた 大学の授業という刺激的な視点は多くの教員の関心を 引きました。 L A と し て 参 画 し た 学 生 た ち は、 企 画 立 案 か ら 広 報 活 動、当日の会場準備と運営まで、すべての局面に直接関わ り、打ち合わせ会議は昼休みを利用して十数回に及びまし た。LAたちはこれらの活動を通して何事かを企画・実施 するためにどんな用意や努力が必要か、何をなすべきかを 学び、同時に相手に何かを伝えることの難しさと喜びを学 132 びました。 今回のLA活動は学生が「主体的に学び合う力」を喚起 し、すべての参加者に忘れ得ぬ思い出と大いなる刺激を与 えたと思います。また、これらの企画は真のアクティブ・ ラーニングのあり方に何らかの示唆を与えたかもしれませ ん。 ここにビブリオバトル入賞者の寄稿文を掲載します。ご 一読ください。そして、少しでもその場の様子を想像して み て く だ さ い。 そ の う え で、 関 心 を お 持 ち に な っ た の な ら、どなたでも、次の機会には是非自身が企画に参加して みてください。 ビブリオバトルに参加して 晴 山 茜 ︵健康科学科四年︶ 大学生活最後の経験に、と軽い気持ちで参加してみたら 予 想 以 上 に 面 白 く、 興 味 深 い 大 会 で し た。 参 加 す る 前 に 思っていたのは、本を紹介し合うのに勝敗を決めるとはど うなのだろう。ただプレゼンし合うだけでいいのではない か。と必要性をあまり感じていませんでした。しかし、参 加 し て み て 考 え が 変 わ り ま し た。 と い う の も、 単 に 嬉 し かったり残念だったりという感情面だけでなく、負けた場 合、「何故負けたのか」という原因分析や、次にやるとし たら「どうやるか」といった改善を、自然と考えるように なるからです。また、勝敗を決めた方が緊張感が味わえる し、勝ったときの嬉しさはちょっとした自信に繋がると感 じました。 制限時間内に紹介するところにも、ビブリオバトルの面 白さがありました。本の内容や文章を咀嚼して、相手に伝 えるという作業は簡単ではありません。どうしたら相手に 伝わりやすいか、表現方法について難しく感じましたが、 観戦者の反応を考えると少しワクワクしました。即興性の 高いプレゼン練習になるのはもちろん、自分では出会えな 133 い本を知ることが出来たり、世代を越えた交流が出来たり と、コミュニケーションの場にもなることから、この大会 の様々な可能性を知ることができました。 本好きな人が集まる大会ですが、そうでない人にも興味 を持ってくれたら、と思いを込めて参加していました。そ の思いが伝わったからこそ、今回優勝できたのだと考えて います。まさか自分が選ばれるとは思わなかったので、驚 きと動揺が隠せませんでした。大会終了後に、 「ちょっと だけ見せて下さい」「読んでみようと思います」と何人か 声をかけて頂き、とても嬉しかったです。今大会に参加し て良かったと改めて強く感じました。 短期間でしたが、素晴らしい経験をさせて頂きました。 本を通して人との交流を深めることのできる、今までにな い空間でした。今大会での優勝を誇りに思います。本と人 との出会いに感謝したいです。 本を通して人を知る 本 山 健 太 ︵法律学科四年︶ ビブリオバトルに参加する前までの僕は、正直なところ あまり本を読むほうではありませんでした。しかし一冊だ け、人生観を大きく変え、夢を叶える力をくれた特別な本 があり、 「夢を持つことの大切さを教えてくれるその本の 魅力を、自分の言葉で多くの人に伝えたい。そして、他の 人が僕のように大切にしている本を知りたい」という熱い 気持ちがビブリオバトルの趣旨を聞いていくうちに湧き上 がり参加することを決意しました。 しかし、伝えたいことが山のようにあったため、「限ら れた時間でどのような言葉を選べばもとの本を読んだこと のない人に、その本の魅力を伝えることができるのか」と いうことばかり考え過ぎてしまい、伝えたいという気持ち は 置 い て き ぼ り に な り、 台 本 を 読 ん で い る だ け の よ う に な っ て し ま い ま し た。 実 際 に ビ ブ リ オ バ ト ル の 一 回 戦 で は、相手の心に届いている感触がまるでなく、これではい けないと、本を読んで変われた自分のこと、この本を一人 でも多くの人に読んでもらい、夢に向かって戦っている人 134 の糧になってほしいという気持ちをもう一度思い出し、作 られた言葉よりも自分の言葉で伝えようと心がけました。 すると、決勝戦で発表している時の自分は、本に出会う前 の悩み苦しんでいた自分を思い出せ、この場に立って話せ ることへの感謝の気持ちで、自然と感情が乗った言葉が出 ていました。これは自己満足だったかもしれません。しか し、自分自身に点数をつけられるのは自分だけであり、発 表が終わった時には悔いは一切なく、やりきった気持ちで いっぱいでした。これがただの自己満足だけではなかった ことを知ったのは発表が終わってすぐのことでした。本に ついて詳しく聞いてくださる学生や先生方、一緒にビブリ オバトルを戦った参加者とお互いの本についての話から発 展し、いろんなことを話すことができ、本を通して自分を 知ってもらい、また、自分も本を通して相手を知るという ビブリオバトルの意義を身をもって体験することができま した。 「伝えるとはどうい ビブリオバトルに参加したことで、 うことなんだろう?」と改めて考えさせられましたし、参 加したことで伝える力を磨くことができました。また、春 から教職に就く自分に、本を使ってお互いを知るという術 をビブリオバトルは教えてくれました。このような機会を 作ってくださった教養部の先生方や、誘ってくださった先 生への恩返しのためにも、一人でも多くの生徒に本を通し た心の交流を実践していきます。 ビブリオバトルに参加した意義 と成果 宇佐見 啓 ︵歴史学科一年︶ 私は教養セミナーの先生の勧めでビブリオバトルの存在 を知り、気軽な気持ちで会場へと足を運びました。最初は 本の魅力を伝えるような難しいことは自分に向いていない だろうと思っていたので、参加するだけと考えていました し、何か得られるものがあるのか疑問に思っていました。 しかし、普段感じることがなかったものや、知らなかった ことを間近で見て考えることが出来たので、今は満足して います。 私が面白く感じた点は、本を制限時間内に伝えるという 同じ条件がある中で、 「どの部分を推すのか」 「どんな構成 で紹介するのか」が参加者の数だけ存在していたという点 です。 一見当たり前じゃないか、と思われるでしょうが、ここ にビブリオバトルの魅力があると私は思いました。なぜな ら、本を紹介すると共に、紹介者自身の人柄や考え方も一 緒にプレゼンしていることになるのではないかと気づいた からです。 135 だとするならば、ビブリオバトルは私が初め考えていた よ う な 堅 苦 し い も の で は な く、 普 段 話 す 機 会 が な い 人 と ディスカッション出来る表現の場にもなっているのでは、 と体験してみて思いました。 実際、発表し終わった後の質問では、普段なら気を使い 言えないような強い語気で疑問を投げかけあっていまし た。それもビブリオバトル独特の良さだったと感じていま す。 また、一番自分の経験になったものは、決勝で一緒に四 年生の先輩と発表が出来たことだと思います。普段先輩た ち の ス ピ ー チ を 見 る 機 会 は 少 な い の で、 自 信 や 説 得 力 を 持って愛読書を紹介する先輩たちを見て、ビブリオバトル の意義である「読みたいと思わせる力」が話の節々から伝 わってきました。 私は敢闘賞を頂いたのですが、自分の発表は未熟だなぁ と反省するところが多く、かつ先輩方や同級生の発表に魅 力を感じていたので、本当に賞を頂いていいのか不安でし た。 ですが、自分の紹介した本にも誰かが「読みたい」と感 じてくださったのだと思うと嬉しい気持ちが湧いてきま す。 ビブリオバトルは、書評の一環なので敷居が高そうなイ メージがありました。しかし自分の好きなものを薦め、か つ人の愛読書を知ることで、いい仲間を作る身近で面白い 場になると思います。 私は、もっと表現力をつけて再参加したいと考えていま す。積極的に考えること、人と話し合う機会や尊敬できる 先輩たちを知ったことが、ビブリオバトルに参加した意義 と成果だと思います。 136 教養セミナー 学 生 論 集 《教養セミナーⅠ・Ⅱ》 アンケート調査(学生生活について) 鈴木かんな (経営学科1年) 目的: 愛知学院大学の生徒(約250人)を対象に大学生活に関するアンケートを してもらい、性別や学年によって大学生活や考え方などの違いはあるかどう かを調べました。 これはセミナーⅠ・Ⅱによるアンケート調査です。 アンケート調査に協力していただいた教養部教育科目数学と総合科目の受 講生の皆さんと数学の岡田先生・南先生と主題科目(英語)清水先生に感謝 いたします。 自由回答の要約: アンケート結果から将来就きたい職業が決まっていない生徒が多くいるこ とが分かりました。また、それによって将来のために、大学生活の中でどの ような知識を身に付けたいかを明確な思いを持っている人が少ないため、ま ず自分の学部の専門知識を身につけておこうという生徒も非常に多くいるこ とが分かりました。学部のキャンパス移転に関しては、交通の便がよくなる という利点があると同時に、都心部に移転することで駐車場がないため不便 であるという意見もありました。 質問 ‒ 1 大学生活が楽しくないという結果にあなたはどう答えますか。 私はこの結果に対して、大学生活で何かひとつ一生懸命に取り組んでいる と自信を持って言えることをしていないからだと思います。私自身も高校で (1) 部活動を頑張ってきたので、今、何をがんばっているのかを問われると答え に悩んでしまうと思います。よって、自分を始め、大学で生活している人は 何か熱中できることを見つけることが大切です。また、見つけることで大学 生活を充実させることができ、大学生活が楽しいと思えると考えます。 分析結果要約: 性別と通学・下宿の結果からは、男性は約50%で女性は約 30%と、男性 のほうが断然下宿している人が多いことがわかりました。しかし、性別と遅 刻回数のクロス表から、男性では、下宿で大学への距離が近い人が非常に多 いにもかかわらず、授業を5回未満・5回以上遅刻した人が約80%と割合 が高いことがわかりました。また、下宿している人のほうがアルバイトをし ている人の割合が低いことが今回の調査でわかりました。 ●性別: ●性別: ●性別: 男 女 ●学年: ●学年: ●学年: (2) ●学部: ●学部: ●学部: 3 ●クロス表とグラフ(3) ●クロス表とグラフ ●クロス表とグラフ 4 男 女 男 女 (4) 男 女 5 (5) 5 6 (6) 6 7 ●自由回答 質問 11 特に企業を経営するために必要な知識であるお金の動きや起業するための 高い能力などの経営に関する専門的な知識を身につけたいという学生が多い です。また、そのほかにも多くの人と関わることで交友関係を広げて、新し い見方や考え方を学び、充実した生活を送りたいと考えている学生も多いで す。 質問 14 まだ将来就きたい職業が明確に決まっていなくて、悩んでいる学生が多数 いることがわかりました。そのほかには、公務員をはじめとする警察官や消 (7) 防士や銀行員・事務職など安定した職に就きたいと考えている人が多いで す。 質問 17 キャンパスの移転については賛成反対どちらも同じくらいあります。賛成 の学生は、おもに交通の便が非常に良くなってよいという意見が多かったで す。反対の学生は、新しいキャンパスに駐車場がないから車通学ができなく て不便だという意見が多かったです。 アンケート感想 このアンケート調査をしてみて、下宿している生徒よりも通学の生徒の方 がアルバイトをしている割合が高いことに驚きました。それは、下宿生の場 合、学校後すぐにアルバイトに行ける時間があり働く時間が多くあると思っ ていたからです。しかし、クロス表から下宿生はサークルに入っている人の 割合が大きいので、アルバイトをしていない人が多いことがわかりました。 また、遅刻の回数が男女ともに非常に多いことを知ったので、大学生活の送 り方について、全員がきちんと見直して生活していかなければいけないと強 く感じました。 〈寸評〉 担当教員:小村 賢二 セミナーⅠ・Ⅱでは EXCEL と SPSS を学びながらアンケート調査の 実習をしました。アンケート調査の調査項目はクラスで話し合い、デー タの入力についても手分けをして入力しました。データは共通ですが データから自分で調査したいテーマを考え各人が分析をしました。レ ポートは SPSS の結果すべてが枚数の制約上述べられていませんが、う まくアンケート調査の結果が纏められております。今後も SPSS を使い 続けて将来卒論や会社・職場で役立てていただきたいと思います。 (8) アンケート調査(学生生活について) 成田 彩香 (経営学科一年) 目的: 愛知学院大学の生徒(約250人)を対象に大学生活に関するアンケートを してもらい、性別や学年によって大学生活や考え方などの違いはあるかどう かを調べました。 アンケート調査に協力していただいた教養部教養科目数学と総合科目の受 験生の皆さんと数学の岡田先生・南先生と主題科目(英語)清水先生に感謝 いたします。 分析結果要約: この調査を回答した人の性別は男性8割、女性2割である。学年は2年生 が4割で最も多く、1年生・3年生がそれぞれ2割である。半数以上の人が 経営学部に所属している。アルバイトをしている人は8割以上、夏休み楽し かったと回答した人も8割以上であった。またアルバイトと夏休みのクロ ス表を見ると、アルバイトをしている人ほど夏休み楽しかったと回答した人 が圧倒的に多いようである。サークルと大学生活のクロス表を見るとサーク ルに所属していなくても大学生活が楽しいと答える人が多いということがわ かった。そして通学している人は7割、下宿している人は3割いた。最も多 い通学時間は 10 分、つぎに100分と通学に要する時間は様々なようである。 また、名城キャンパスへの移転により通学が近くなる人も多いようである。 (9) (10) 3 (11) 4 (12) 5 自由回答 質問 –11 「経営学」「マーケティング」 「中小企業について」などの経営に関する専 門的な知識を学びたいという回答が一番多い。次に「社会力」 「キャリアデ ザイン」などの将来就職に役立つ知識という回答も多数あった。その他に人 間関係、世界の文化、語学という回答もあった。将来について意欲的である 自由回答 ようだ。 質問‐11 「経営学」「マーケティング」「中小企業について」などの経営に関する専門的な知 (13) びたいという回答が一番多い。次に「社会力」 「キャリアデザイン」などの将来就職 つ知識という回答も多数あった。その他に人間関係、世界の文化、語学という回答 質問 –14 消防士、税理士、公認会計士、警察官などと明確な夢を持っている人が何 人かいる。全体的にみると旅行関係、金融関係、不動産関係、社長などと将 来就職したいという方向性が決まっている人が大多数であるようだ。みんな しっかりと将来のことを考えていると感じた。 質問 –17 キャンパス移転については賛否両論である。賛成側は「通学時間が短くな る」 「入学する生徒が増える」 「学校が発展する」 という意見。一方反対側は「魅 力がない」 「部活やサークルが不便」 「友達と離れてしまう」という意見であ る。また駐車場がほしいという意見もあった。生徒の意見も取り入れてほし いという意見もありました。 アンケート感想 私もサークルに所属していないけど大学生活は楽しいと感じているのでこ のアンケート結果に納得しました。通学時間に200 分以上かかる人がいたり 4年生でも将来の夢が決まっていないという人が割といて驚きました。だけ ど自由回答では就きたい職業を明確に答えている人もいて、私も早めに将来 の夢を見つけたいと思いました。 〈寸評〉 担当教員:小村賢二 セミナーⅠ・Ⅱでは EXCEL と SPSS を学びながらアンケート調査の 実習をしました。アンケート調査の調査項目はクラスで話し合い、デー タの入力についても手分けをして入力しました。データは共通ですが データから自分で調査したいテーマを考え各人が分析をしました。レ ポートは SPSS の結果すべてが枚数の制約上述べられていませんが、う まくアンケート調査の結果が纏められております。学生の意識や名城公 園キャンパスについても分析してあります。今後も SPSS を使い続けて 将来卒論や会社・職場で役立てていただきたいと思います。 (14) The British Election System 稲木 彩乃 (現代社会学科1年) Democracy means government by the people. However, only a small number of representatives speak for the people in the national parliament. How do we choose these representatives? There are many different ways, or election systems. In this report I will present the characteristics of the first-past-the-post system, and analyze the results of the British General Election of 2010. This will be contrasted with Japan’s election system. To begin with, the first-past-the-post system, like a sports race, has been used for a long time in Britain. Each constituency (election district) has about the same population. The advantage of the system is that it is easy to reflect public opinion. On the other hand, the fault is that it tends to concentrate seats in the hands of big political parties. Thus it does not reflect small political parties’ opinion, and voters for small parties are wasting their votes. However, in recent years, there is a problem that even big parties’ support is decreasing, and many people just stay at home on polling day. In 2010 the general election took place in Britain. Then the above problem happened. In addition, there was the problem that neither of the two main partiesConservative and Labour - gained a majority. So it seems to me that this system is not good. Neither party can carry out its programme stated in its manifesto. There is a similar system in Japan, with the difference that some members of parliament are elected by proportional representation. In my opinion the main problem in the first past the post system is “winning by one vote”. Both in the U.K. and in Japan the problem inevitably exists. I think there isn’t a perfect system. What we need to do is find a way to make the system work as well as possible. Democracy 民主主義 government 支配 representatives 代表 national parliament 国会 constituency 選挙区 polling day 投票日 majority 過半数 proportional representation 比例代表 coalition 連立政権 first-past-the-post 第一着に入った (15) 〈寸評〉 担当教員:ダニエル・ダンクリー 稲木彩乃さんは英国における生活の興味ある特徴を述べている。英国 人は民主主義という長い歴史を持っていることを誇りとしている。然し ながら、全ての大人が(男女の別なく)投票権を有したのは 1920 年代 になってからであった。 稲木彩乃さんが指摘しているように、私達は今非常に独特の状況を有 している。つまり、私達は1945年以来初めての連立政府を有している。 これは驚きである。何故ならば従来は (競馬などのように)第一着に入っ た党が主要な党であり、強い政府を生み出してきたからである。 (16) Britain’s Car Society 吉田 武勇 (法律学科1年) What is the British car society? Firstly, what cars can you see on the roads? Many foreign brands are popular: from Germany the Volkswagen Golf and Polo, and from Japan the Nissan March and the Honda Civic. Among the luxury brands, the Germans are strongest: Mercedes, BMW and Audi. But the little Mini is the most popular, because it has been on the British roads for 50 years but is still young and sporty. Secondly, how is road management changing? There are two big differences from Japan. Recently there is the idea of de-cluttering. This means removing signals, road signs and the lines on the road. The aim is to make drivers concentrate on the road ahead and respect the needs of other road users. For example in Pointon near Manchester this has reduced traffic jams and accidents and increased the number of shoppers. A second difference in road management is the use of roundabouts instead of traffic lights. This has many advantages: first there are less traffic jams. Then it is economical because a roundabout is cheap to maintain. Finally it is environmental because cars do not wait so long and pollute the air. All in all Japan and the UK can learn from each other about the car society. Because I will buy a car soon, I want to have the best car society so that we may all drive safely and happily. 〈寸評〉 担当教員:ダニエル・ダンクリー 私達は教養セミナーで経済と環境の二つのテーマについて調べまし た。 吉田武勇君は二つの重要な点を述べています。一つは英国の消費者の 一番好きな自動車の銘柄。二つ目は車社会の道路のデザインです。英国 での自動車工場は年間150万台近くの自動車を生産していますが、不思 議なことに全ての自動車会社は外国の会社です。その中にはホンダ、日 産及びトヨタも含まれます。然しながら、多くのブランドは英国的イ (17) メージを持っています。特に豪華車 (ロールス・ロイス、アストン・マー チン、ジャガー)と新しいスポーツタイプのミニです。 私達が自動車に乗る時、英国は日本と同じような問題に直面します。 少ない空間が自動車で混雑しています。気候変動に関する京都条約議定 書に従うために二酸化炭素の排出量を減らす必要があります。 (18) フィンランド 上田 真也 (グローバル英語学科1年) 今回、自分はフィンランドについ が濃い人がたくさんいますが、性格 てまとめました。 は日本人と同じように大人しく、ア メリカ人のように喋るのが好きとい うことでもなく、物事をはっきりと 伝えるタイプではありません。その ためか、EU での携帯電話のシェア トップを誇るのがフィンランドと言 われています。 最初にフィンランドって何? と 疑問を抱かれると思います。私の発 表ではフィンランド人の人柄、 文化、 スポーツ面、教育事情について、大 まかにわかりやすいように伝えてい くつもりです。調べていくと、いろ いろな日本との共通点がみつかりま フィンランドの場所は、ロシアの した。 隣で、 距離感がわかりにくいですが、 フィンランド人というのは、顔 飛行機の日本からの飛行時間は約9 (19) 時間半で、ヨーロッパ諸国の中で日 本から最も近い国になります。治安 もとても良く、 安心して過ごせます。 ただ、福祉国家であるがゆえに、国 税が 22%と、世界上位であります。 また、サンタクロースの本拠地が フィンランドにあり、ここから世界 に贈り物を届けています。おもしろ いことにサンタさんに手紙を届ける 郵便受けもあります。 フィンランドの良いところは、学 校の授業料が税金でまかなわれ、小 学校から大学まで授業料などが無料 というところです。教育面に関して は、世界でも一番力を入れている国 です。 次は、スポーツです。アイスホッ ケーがフィンランドで人気のスポー ツであり、その強豪国の一つです。 隣国のスウェーデンがライバルで、 その対戦では、フィンランドの観客 が敵国のサポーターや選手に大ブー ムーミンが世界的に有名なキャラ イングをするなど、大いに盛り上が クターで、フィンランドの飛行機に るそうです。 もその姿が描かれています。ムーミ 次に、珍競技を紹介します。奥様 ンワールドという施設があり、力が 運びというものがフィンランド発祥 入っています。 の競技としてあります。優勝者は賞 (20) 違います。小学校の頃から少人数教 育で、落ちこぼれ対策もされていま す。頭の良い子悪い子の格差が生じ ないよう、生徒同士で協力していき ます。 品として大量のビールがもらえま す。奥様運びにはエストニアスタイ ルというものがあり、これが一番 持ちやすいそうですが、見ためは シュールだと思います。 最後に、中国やロシアという近い 国でない、遠い国フィンランドでし たが、そこには遠くても性格や勤勉 さは日本と変わらないところなどに とても興味深さを感じて今回のテー マを決めました。日本語とフィンラ ンド語というのは、同じ祖先を持つ 次は、世界でトップと言われる学 言葉なのです。昔は陸続きで、現在 力の話です。 のフィンランドあたりに住んでいた 人たちが日本に来たという説もあっ たらしいです。 そんなフィンランドという国につ いてまとめました。 ありがとうございました。 授業時間自体は日本よりも少ない のですが、授業体制が日本と大きく (21) 〈参考ホームページ〉 (写真の利用も含む) ・フィンランド大使館 http://www.finland.or.jp/ ・フィンランド政府観光局公式ホーム ページ http://www.visitfinland.com/ja/ ・世界の国々の基本情報 http://www.abysse.co.jp/nations/ ・世界の絶景・名所 http://tourist-area.y-pl.us/ ・ニュースサイト GIGAZINE http://gigazine.net/news/20071004_ wifecarrying/ ・キャリアアップメディア ワールド キャリア h t t p : / / w w w. w o r l d c a r e e r. j p / ranking/detail/id=73 〈寸評〉 担当教員:有馬義康 「目指せ! プレゼンの達人 !!」というテーマで、コンピュータやイン ターネットを活用して、様々なコミュニケーション、プレゼンテーショ ンを体験しながら学んだ。その集大成として、PowerPoint を用いてプ レゼンテーションを作成した。個々の好きなテーマで作成し、スライド ショーをスクリーンに映し出して口頭発表を行なった。 上田くんのこの作品は、スライドに文章を書き過ぎていることなど問 題もあるが、特定の国を取り上げるというこれまでにないテーマで、学 生による相互評価においても高い評価を得ていた。発表直後の評価のみ ならず、授業終盤に行った本冊子掲載への推薦アンケートでの得票も多 く、 最初だったにも関わらず印象に残る発表であったことがうかがえる。 効果的に画像を取り入れたところが大きなポイントと言える。画像使い については、授業終盤に作成したもう一つのプレゼンテーションにおい てはさらに進化していた。 この紙面では、背景を含めたその美しい色彩を見せられないのが残念 である。 (22) 《セミナーⅢ・Ⅳ》 学生生活について(アンケート調査) 浦野耀一朗 (経営学科3年) 松井 浩生 (経営学科2年) 山室 文哉(現代企業学科2年) 村瀬 拓也 (商学科2年) 山田 琢真 (商学科2年) 今西美沙希(ビジネス情報2年) (経営学科2年) しょう たつけつ 目的: このアンケート調査はセミナ-Ⅲ・Ⅳによるアンケート調査です。今の愛 知学院の学生がどのような大学生活を送り、何を考えているのかについて調 査・分析をします。学生が今どんな状況なのかを把握します。将来や目標、 部活動・クラブ活動についても調査しました。また、名城公園の新キャンパ スや web キャンパスについて学生の要望も調査しました。 分析結果: アンケート調査の項目の選択からデータの記入は全員で協力してこのレ ポートを作成しました。分析結果は SAS と SPSS の両方で分析をしました。 紙面の枚数の関係上 SPSS と SAS の分析結果の一部分を載せます。最後に 自由回答法の結果を纏めました。 アンケート調査にご協力いただいた数学の岡田先生、南先生と主題科目(英 語)の清水先生に感謝いたします。 分析結果の要約: アンケート調査の標本数は150を超えましたが分析の都合上 n=136 であ る。性別と車の免許では、男性のほうが女性より多く免許を取得していた。 (23) 性別と通学手段では、車で通学する人の多くは、男性である。大学生活につ いては男性のほうが否定的な意見を持っている人が多かった。大学の好き嫌 いについても、大学生活や部活動・クラブ活動がかかわることが分かった。 愛知学院に通う学生の通学時間は平均で 68 分であることがわかる。ただし、 ヒストグラムは二つの山があり、遠方の人は100分から 150 分かけて通学し ている。性別と就きたい職業のクロス表から男女とも未定の人が多いが、男 女とも公務員や商社希望の比率が多い。多くの学生が休講の連絡や台風の情 報を早く知りたがっている。2割の学生は大学生活が楽しくないと感じてい るので、楽しくなるためには部活・サークル活動などに積極的に参加するの も一つの案である。友達をたくさん作ることも必要だと思う。私は、楽しい キャンパスライフをしています。 以下 SAS と SPSS の分析結果である。 以下 SAS と SPSS の分析結果である。 以下 SAS と SPSS の分析結果である。 (24) 3 3 男性のほうが大学生活が楽しくないと感じる比率が高い。 男性のほうが大学生活が楽しくないと感じる比率が高い。 男性の方が大学生活が楽しくないと感じる比率が高い。 男性のほうが大学生活が楽しくないと感じる比率が高い。 (25) 通学手段 通学手段は電車・バスが多いが車と自転車の比率が目立つ。 クロス表 : mokuteki * daisuki 大学生活目標 (26) クロス表 : 性別 * 就きたい職業 金融、商社と公務員の比率が男性・女性とも高い。 クロス表 : 性別 * バイト 女性の方がバイトをしている比率が大きいことが分かる。 (27) 自由回答について: 大学生活で身につけたいことは: 高校生活では身につけなかった知識を身につけ、人とのコミュニケーショ ン能力を向上させたいと思う。また、パソコンが使える知識を身につけて就 職活動に必要な資格を取得したい。という回答が多かった。 (28) 名城公園キャンパスについて: 新キャンパスが家や名古屋駅から近くなるため、通学が楽になり学ぶモチ ベーションが上がるという意見と、日進キャンパスへの移動が大変であり、 部活動やサークル活動をしている学生には不便だという意見に分かれた。 Web キャンパスについて: 休講時の連絡が遅い点や授業中に連絡メールを送るのをやめて欲しいと いったメール配信に対する要望が多く見られた。また、 「スマートフォンか らも見やすいサイトを作ってほしい」ことや「時間割からシラバスへリンク を張ってほしい」といった要望もあった。 アンケート調査についての感想: 松井 浩生: キャンパスの移動の質問では、全体的に賛成している意見が多いと思って いたのだが、賛成していない意見もあって面白いアンケート結果だった。 浦野耀一朗: 学校への通学手段の質問では予想以上に電車・バスでの通学の人が多かっ た。 本学は大駐車場を完備している点が売りだが意外と車通学は少なかった。 山室 文哉: 自由回答では名城公園キャンパス移転者の中でもまだ賛否が分かれてい ることが改めてわかった。また、web キャンパスを見ていない人が予想よ り多く驚いた。web キャンパスを見ている人でも要望を持つ人が多いため、 大学側は学生の要望をもっと取り入れてほしい。 村瀬 拓也: 自由回答の大学生活で身につけたいことは何ですかの回答の中で多かった のが就職活動に役立つ資格でした。また、友達をたくさん作るという回答を 見たときは面白いと感じました。 山田 琢真: 就きたい職業で未定の人が一番多かったのはみんなまだ将来について全然 考えてないと感じました。 (29) 今西美沙希: 名城公園キャンパスが新設されて移転に賛成意見が多かったことが意外 だった。でも新設されたキャンパスに移るのは楽しみです。 しょう たつけつ: 就職について、全体的に厳しいです。大学の方もいろいろやってくれます が、効果があまり出てないと思います。 〈寸評〉 担当教員:小村 賢二 このセミナーは SPSS と SAS のプログラムの学習とそれの応用とし てアンケート調査の実習をしました。学部や学年を超えての共同作業、 アンケート調査の項目からデータの入力を手分けして行いました。いっ ときは今年はアンケート調査までできないかなと思いましたが何とかで きてほっとしています。アンケート調査は将来卒論や就職してからの市 場調査や商品開発に役立てられます。これからも SPSS と SAS を使い 続けて頂きたいと思います。 (30) 平成二十五年度 教養セミナー・テーマ一覧 岡島 秀隆 岡田 千昭 河合 泰弘 川口 高風 近藤 勝志 近藤 浩 キャリアの基礎を身につけましょう 忠師 菅 さやか R・ノテスタイン 清 日本文化の中の中国 英語のリスニング入門 『脳とこころ』、『生と死』のサイエンス 学びのノウハウ │スタディスキルと日本語表現│ テ ー マ スポーツで心と体を健康にしよう! 教養セ ミ ナ ー Ⅰ ・ Ⅱ 経済学 部 教 員 名 青山 健太 稲垣 正巳 小出 龍郎 柴田 哲雄 都築 正喜 綾 中村 文章表現をみがく │伝統工芸に親しみながら 戦争の世紀と昭和史を考える 趣味から始める学問入門 先人の言葉から大志をみつけよう TOEICで英語の再学習 日本語の表現力を高めよう 日常に潜む「思い込み」に立ち向かう! │心理学で鍛 える論理的思考力│ 暮らしの中の科学 The Amazing 1960's through Hollywood Movies and Pop Music Watching History on You Tube 異文化・自国文化を考えよう! R・ブレア 生命︵いのち︶のしくみを考える アメリカのテレビやヒットソングを通して広い視野を 身につけよう 文 嬉眞 藤田 淳志 安富 眞澄 Ⅰ、マイキャリアプランを作ってみよう Ⅱ、書評作りとビブリオバトル English through American Movies 八谷 芳樹 教育学のチカラ D・ポマテイ 山口 拓史 Ⅰ、意思伝達のための文章作成術 Ⅱ、問題解決のための思考と技術 科学的な思考のレッスン Heroes of Fantasy English Through Film テ ー マ 目指せ! プレゼンの達人 生命科学を楽しもう │生きること・かかわること│ Who am l? 正確な表現力を身につけよう 山名 賢治 吉村 正宏 J・ライトバーン 文学部 教 員 名 有馬 義康 池田 健 石川 雅健 岩佐 宣明 !! 経営学 部 教 員 名 勝股 高志 北村伊都子 河野 敏宏 小村 賢二 久馬 栄道 G・M・ビューレッシュ 堀田 敏幸 宮内 憲一 山下 秀康 山野 明男 商学部 教 員 名 現代中国を知る テ ー マ 生活習慣と健康について考えよう 日本語の文章表現力を身につけよう! 日常生活には科学がいっぱい。理解して、より便利な生 活を。 中村 綾 宮内 憲一 鷲嶽 正道 法学部 日本文化の中の中国 ゆったり味わい、考える! 少し科学的な見方も! 「一流の大学生」になろう! テ ー マ ゲーテの『ファウスト』を読もう! サイエンスコミュニケーションを学ぼう 『脳とこころ』 、『生と死』のサイエンス 「伝える力」「伝わる力」 日・英語対照で日本・米国憲法の語句を読む 現代イギリスの社会・文化・経済事情 中国の歴史と文明 自分に限界を作るな! 論理的思考を鍛えよう 福山 悟 法と女性 │イギリスのヴィクトリア時代の場合 慶太 前山愼太郎 吉井浩司郎 虎澤 田中 泰賢 D・ダンクリー 英語のふしぎ 教 員 名 科学リテラシー入門 ∼ニセ科学にダマされないために 遠藤 哲也 小出 龍郎 佐々木 真 澤田真由美 楽しいアンケート調査 上原 宏行 生活習慣と健康について考えよう 100年の日中関係を検証し、日中両国の戦略的互恵関 係を築こう 避難解折り紙で論理脳を鍛えよう 来住 準一 映画・ドラマ・音楽・アートを製作者の眼を通して考え てみる。 朱 新建 糸井川 修 インフォメーションとコミュニケーションの歴史︵HT MLのファイルを作る︶ 人はその考え方で決まる。大きく考えてみよう。 プログラミング入門 ゆったり味わい、考える! 少し科学的な見方も! 防災を学び、災害に備えよう テ ー マ 北村伊都子 太陽系とはなんだろうか 学ぼう世界の学校教育、考えよう日本の教育改革 清水 義和 井上 知則 城 貞晴 !! 心身科 学 部 教 員 名 石川 雅健 テ ー マ │生きること・かかわること│ Who am l? 英語の勉強に最低必要なことを学ぼう。 異文化交流と問題 中原中也の詩にみられる人間のすがた 尾崎 孝之 G・D・ガ二エ 名作映画の中に探す家族の姿 │あなたにとって家族と は何ですか 大島 直樹 山口 均 テ ー マ 異文化・自国文化を考えよう! 社会問題の探求 手紙にみるヨーロッパ文化 文化の素質は人生を豊かにする アニメや時空を超えた映画の可能性の面白さをドラマ チックに体感する キャリアの実践力を高めよう! 「ボンジョルノ! イタリア」文化と会話 楽しいSASプログラミングとアンケート調査 私たちはどこへ行くのか 名古屋文化形成の背景となった寺院と名僧を学ぶ ドイツ語で読む『白雪姫』 教養セ ミ ナ ー Ⅲ ・ Ⅳ 教 員 名 糸井川 修 川口 高風 小出 龍郎 小村 賢二 齋藤和佳子 柴田 哲雄 清水 義和 朱 新健 堀田 敏幸 松浦 國弘 文 嬉眞 表紙絵の思い出 ウィーン、グロリエッテの丘から望む シェーンブルン宮殿 馬 栄 道 教養部数学教室 久 私は二〇〇一年度にイギリスに在外研究員として行った のですが、その準備のために、一九九九年と二〇〇〇年の 夏休みに、研究者に会いにヨーロッパに行ってきました。 と く に 一 九 九 九 年 度 は、 本 学 の ド イ ツ 語 の 糸 井 川 先 生 が、ウィーン大学に在外研究員でおられたので、そこも訪 ねて行きました。糸井川先生には、ホテルの手配から何か ら、 実 に 細 や か な 心 遣 い で、 す っ か り お 世 話 に な り ま し た。 ウィーンの滞在は、夜にウィーン国立歌劇場にオペラを 聴きに行くことが大きな楽しみだったのですが、その合間 をぬって、あちこち観光にも行きました。この絵はシェー ンブルン宮殿に行った時に描いたものです。シェーンブル ン宮殿は、マリー・アントワネットが六歳のモーツァルト に出会った宮殿として有名です。 この日は雨が降っていまして、駅からとぼとぼ歩いて行 きました。王宮はすばらしく裏の庭園も素晴らしかったの で す が、 そ の 庭 の む こ う に グ ロ リ エ ッ テ の 丘 が あ り ま し た。妻は「この丘を登ろう」と言うのですが、なにせ雨が 降ってますし、あまり気が進まなかったのですが、妻の強 い要望により、とぼとぼと登りました。 そして雨の中、丘の上からふと振り返ると、シェーンブ ルン宮殿とウィーンの街並の素晴らしい眺望がありまし た。これは本当に感動しましたね。表紙絵はそのとき描き ました。雨の中で描いたので、しずくで所々染みています が、私には素晴らしい思い出です。 1 編 集 後 記 教 養 セ ミ ナ ー 学 生 論 集『 知 の 旅 立 ち 』 第 号 を お 届 け し ま す。 こ の 論 集 に は 平 成 年 度 の 教 養 セ ミ ナ ー 受 講 生 の 論 考 を 中 心とする五十七編が収録されています。力作を寄せて下さった 学生の皆さん、そして投稿にあたって様々な助言を与え、コメ ントを寄せて下さった担当の先生方に、深く御礼を申し上げま す。 前号との大きな違いとして、今号には新設された経済学部の 教養セミナーの論考が加わりました。愛知学院大学では、いよ いよ今年四月より名城公園キャンパスでの授業が始まります。 日 進 キ ャ ン パ ス で 貴 重 な 一 年 間 を 過 ご し た、 商 学 部、 経 営 学 部、 経 済 学 部 の 皆 さ ん は、 新 キ ャ ン パ ス で 初 心 に か え っ て 「知」を磨いていかれることと思います。 ロシアのソチで開催された冬季オリンピックでは、様々な種 目で若い十代の選手の活躍が光り、その姿は新しい時代を象徴 するかのようでした。今からちょうど百年前、ソチとは黒海を 平成 平成 年 年 月 月 日 印 刷 ︵非売品︶ 日 発 行 30 25 愛知学院大学 『知の旅立ち』 教養セミナー学生論集 第 号 発 行 者 教養教育研究会 編 集 委 員 糸井川 修 井 上 知 則 遠 藤 哲 也 河 合 泰 弘 北 村 伊都子 都 築 正 喜 3 3 発 行 愛知学院大学教養部 教養教育研究会 0195 〒470 愛知県日進市岩崎町阿良池 ︿0561﹀ ︵73︶1111 電話 18 12 挟んで対岸側にあるサラエボで放たれた銃弾から、第一次世界 26 26 印刷所 株式会社 あ る む 名古屋市中区千代田3 1 0861 電話︿052﹀332 12 - 大 戦 が 始 ま り ま し た。 二 度 の 大 戦 を 経 験 し た「 戦 争 の 二 十 世 紀」から「平和の二十一世紀」へ、オリンピックで活躍する青 ︵糸井川 記︶ - - 18 年たちのように、本学から平和な社会のために活躍する青年が 育ちゆくことを念願しています。 - 25
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