2011 年 1 月 28 日 ストレスに強い脳と弱い脳の仕組みを解明 ~うつ病の脳の仕組みの解明へ前進~ 山口大学大学院医学系研究科高次脳機能病態学分野の渡邉義文教授、内田周作助教らを中心とし た研究グループが、ストレスに強い脳と弱い脳の仕組みを分子レベルで解明しました。ストレスが 引き金となって発症するうつ病や不安障害の病態究明や新たな治療薬の開発に繋がることが期待で きます。 私たち人間の脳にはストレスを受けてもそれを乗り越えるシステムが備わっているため、日常生 活を送ることができます。しかし近年のストレス社会を背景に、うつ病や不安障害にかかる人が急 増しています。ストレスを感じる度合いは個人により異なりますが、その異なる原因はよく分かっ ていませんでした。 この研究グループは、長期的なストレスに適応することができずに、人間のうつ状態を反映する 行動をしたマウスと、ストレスに適応することができたマウスを用いて、これら2種類のマウスの 脳内でどのような違いがあるのかを調べました。その結果、ストレスに強いマウスでは、脳内の側 坐核(そくざかく)という場所でグリア細胞由来神経栄養因子(GDNF)の量が増えていました。逆に、 ストレスに弱いマウスでは GDNF の量は少なくなっていました。また、ストレスに弱いマウスの側坐 核で GDNF の量を増やしたところ、ストレスに強いマウスになりました。さらにこの研究グループは、 ストレスを受けたときに GDNF の量が減る原因となる酵素を突き止め、この酵素のはたらきを抑える 薬剤をマウスに注射したところ、ストレスを与えてもうつ状態になりませんでした。 今後さらに研究を進めることで、うつ病や不安障害の病態解明ならびに治療薬の開発に繋がるこ とが期待できます。 本成果は、1 月 27 日付けの米科学誌『ニューロン』電子版に掲載されます。 ストレスに強い脳と弱い脳の仕組みを解明 ~うつ病の脳の仕組みの解明へ前進~ 【研究の背景】 近年のストレス社会を背景に、うつ病(注1)などの精神疾患を発症する人が急増しています。 私たち人間の脳には、ストレスを受けてもそれに適応するシステムが備わっているため、通常の生 活を送ることができます。しかし一部の人は、精神的・肉体的・社会的ストレスに適応することが できずに精神疾患を発症してしまいます。このように、ストレスを感じる度合いは個人により異な りますが、その異なる原因はよく分かっていませんでした。ストレスを受けた脳内で起こっている 変化を理解することは、うつ病や不安障害などの精神疾患の病態解明や予防さらには新規治療薬の 開発に繋がります。 【研究内容】 1. ストレスに強いマウスと弱いマウス (図 1) 最初に、ストレスに強いマウスと弱いマウスを確立しました。C57BL/6 (以下、B6)マウスと BALB/c (以下、BALB)マウスの2種類のマウスに慢性ストレスを6週間負荷し、その後、うつや不安行動を 測る様々な行動学的解析(注2)を行いました。その結果、B6 マウスは不安・うつ様行動の増加は 観察されず、ストレスに強いマウスであることがわかりました。一方、BALB マウスは不安行動の増 加、興味の低下、絶望状態、無感症(anhedonia)が観察され、これはヒトのうつ状態を反映していま した。また、BALB マウスにおけるうつ様行動の増加は、慢性抗うつ薬を投与することで改善された ことから、 ストレス負荷後の BALB マウスはうつモデルマウスとして有用であることが示されました。 2. ストレスに強いマウスと弱いマウスの脳内変化 (図 2) 次に、ストレスに強いマウスと弱いマウスの脳内でどのような遺伝子の発現量に違いがあるかを 詳細に調べました。その結果、ストレスに弱い BALB マウスの腹側線条体(注3)では、グリア細胞 由来神経栄養因子(以下、GDNF; 注4)の量が減っていました。逆に、ストレスに強い B6 マウスの 腹側線条体では GDNF の量は増えていました。 3. ストレスに弱い BALB マウスに GDNF を増やす操作を行うとストレスに強くなる (図3) GDNF がストレス反応に必須な因子であるかを検討するために、マウスの側坐核(注3)だけで GDNF を過剰発現させました。その結果、ストレスに弱いはずの BALB マウスは、慢性ストレスを負荷して もストレスを負荷していないコントロールマウスと同様の行動を示しました。この結果から、GDNF はストレスに対して「適応させるか、不適応させるか(うつ状態にするか)」を決定する重要な因 子であることがわかりました。 4. ストレス負荷で GDNF の量が減るメカニズム (図4) なぜストレスがかかると GDNF の量が変化してしまうのか、 そのメカニズムを詳細に検討しました。 その結果、BALB マウスに慢性ストレスを負荷すると、ヒストン脱アセチル化酵素(HDAC; 注5)の 量が増えて、その結果 GDNF の量を減らすことがわかりました。HDAC2 の活性を抑える操作を行った BALB マウスは、慢性ストレスを負荷しても GDNF の量は変わらずにストレスに適応することができま した。 5. ストレスに強くなるくすり (図5) 最後に、HDAC の機能を抑える薬剤である HDAC 阻害剤を 7 日間だけ BALB マウスに注射しました。 その結果、慢性ストレスを与えてもうつ状態にはなりませんでした。また、この HDAC 阻害剤は既存 の抗うつ薬よりも早く効く可能性があることがわかりました。 【今後の展開】 今回の研究結果から、ストレスに強い脳と弱い脳の分子機構の一端が明らかとなりました。また、 ストレスが引き金となって発症する精神疾患の新規治療薬の標的となり得る因子を同定することに 成功しました。しかし、ストレスは脳内の様々な場所の機能に影響を与えていると想定されている ため、今回解析した脳の部位以外でも多くの異常が生じている可能性は十分に考えられます。また、 うつ病や不安障害は単一の遺伝子のみで説明できる疾患ではなく、複数の因子が複雑に相互作用し ていると考えられています。従って、今後様々な実験手法を組み合わせた多角的なアプローチによ り、ストレスを受けた脳の全容を解明していく必要があります。 【図及び説明】 図1 ストレスに強いマウスと弱いマウス B6 マウスと BALB マウスの2種類のマウスに慢性ストレスを6週間負荷しました。その後、うつや 不安行動を測る様々な行動学的解析を行いました。その結果、B6 マウスは不安・うつ様行動の増加 は観察されず、ストレスに強いマウスであることがわかりました。一方、BALB マウスは不安行動の 増加、興味の低下、絶望状態、無感症(anhedonia)が観察され、これはヒトのうつ状態を反映してい ました。また、BALB マウスにおけるうつ様行動の増加は、慢性抗うつ薬を投与することで改善され ました。以上の結果から、ストレス負荷後の BALB マウスはうつモデルマウスとして有用であること が示されました。 図2 2種類のマウスにおける GDNF の量 A) 慢性ストレス負荷後の BALB マウスにおける GDNF mRNA 量を測定した結果。背側線条体と腹側線 条体における GDNF mRNA 量は有意に低下していました。 B) 慢性ストレス負荷後の B6 マウスにおける GDNF mRNA 量を測定した結果。 腹側線条体における GDNF mRNA 量は有意に増加していました。 A B 図3 C 側坐核特異的に GDNF を過剰発現させたマウスはストレスに強くなる (A) 側坐核(NAc)特異的に外来遺伝子が過剰発現されていることを蛍光顕微鏡で観察した様子。 (B) GDNF を過剰発現させたマウスを用いてソーシャルインタラクションテストを行った結果。GDNF を過剰発現したマウスは、相手マウスに興味を示した時間の長さが有意に長くなっており、ス トレスに強くなっていました。 (C) GDNF を過剰発現させたマウスを用いてスクロースプレファレンステストを行った結果。GDNF を 過剰発現させた BALB マウスのスクロースを飲んだ割合は、コントロールマウスに比べて有意に 高くなっており、ストレスに強くなっていました。 A B 図4 C D GDNF 発現抑制の分子メカニズム (A) HDAC2 の量は慢性ストレス負荷によって有意に増加し、この影響は慢性抗うつ薬(イミプラミン) 投与によって回復していました。 (B) HDAC2 の機能を抑制する操作を行ったマウス(dnHDAC2)は、ストレスを負荷しても相手マウスに 対する興味の消失は認められませんでした。 (C) HDAC2 の機能を抑制する操作を行ったマウス(dnHDAC2)は、ストレスを負荷してもスクロースを 飲んだ割合は低下しませんでした。 (D) HDAC2 の機能を抑制する操作を行ったマウス(dnHDAC2)は、ストレスを負荷しても GDNF の量は低 下しませんでした。 図5 HDAC 阻害剤は強い抗うつ効果を有する マウスに6週間の慢性ストレスを負荷し、最後の5日間に抗うつ薬(イミプラミンあるいはフル オキセチン)、HDAC 阻害剤(SAHA)、コントロールとして溶媒のみを注射しました。その後、行動学 的解析を行いました。 (A) ソーシャルインタラクションテストの結果。抗うつ薬を5日間だけ注射したマウスでは、溶媒 のみを注射したマウスとの差は認められませんでしたが、HDAC 阻害剤を注射したマウスのインタラ クションした時間の長さは、ストレスを負荷していない状態にまで回復していました。 (B) スクロースプレファレンステストの結果。抗うつ薬を5日間だけ注射したマウスでは、溶媒の みを注射したマウスとの差は認められませんでしたが、HDAC 阻害剤を注射したマウスのスクロース を飲んだ割合は、ストレスを負荷していない状態にまで回復していました。 【用語説明】 注1)うつ病 米国の操作的診断基準である DSM-IV-TR では、 「大うつ病性障害」 (major depression)と呼ばれ ている。DSM-IV の診断基準は、 「抑うつ気分」と「興味・喜びの喪失」の2つの主要症状が基本とな る。 「抑うつ気分」とは、気分の落ち込みや空虚感・悲しさなどである。 「興味・喜びの喪失」とは、 以前楽しめていたこと(趣味など)にも楽しみを見いだせない状態である。これら主要症状に加え て、 「抑うつ気分」と類似した症状として、 「自分には何の価値もないと感じる無価値感」 、や「自殺 念慮・希死念慮」などがある。 注2)行動学的解析 ・ソーシャルインタラクションテスト (興味を調べる試験) はじめて接するマウスに対してどの程度興味をもっているかを調べるテスト。 ・スクロースプレファレンステスト (無感症を調べる試験) スクロース溶液あるいは通常水の入ったボトルを同時にマウスに与え、スクロース溶液を飲 んだ割合を測定する。通常のマウスは甘いスクロース水を好んで飲むが、無感症(anhedonia) の状態のマウスはスクロース溶液を飲む割合が少なくなる。 ・強制水泳試験 (絶望状態を調べる試験) 逃げ場のない水の中で強制的にマウスを泳がせる。このときマウスは水から脱出しようと試 みるが、そのうちあきらめて(絶望して)全く泳がなくなる。この身動きしない時間の長さを 指標として、マウスの絶望状態を調べることができる。 注3)腹側線条体 側坐核(そくざかく)や嗅結節(きゅうけっせつ)などを含む脳の領域。意欲などに関わるドパ ミン神経入力を受ける。薬物中毒やパーキンソン病との関連が示唆されており、最近ではうつ病と の関わりも指摘されている。 注4)グリア細胞由来神経栄養因子(GDNF) 神経栄養因子群の1つ。神経細胞の生存や、遺伝子発現制御、発生過程のシナプス除去などに非 常に重要な役割を担っている。特にドパミン神経細胞の生存・維持などに重要である。 注5)ヒストン脱アセチル化酵素 ヒストンとよばれる DNA が巻きついているタンパク質の脱アセチル化を行う酵素で、遺伝子発現 のオン・オフのスイッチとしての役割を担っている。 【論文題目】 Epigenetic status of Gdnf in the ventral striatum determines susceptibility and adaptation to daily stressful events (腹側線条体における Gdnf 遺伝子のエピジェネティック調節が慢性ストレスに対する適応・不適応 反応を決定する) 本成果は、1 月 27 日付けの米科学誌『ニューロン』電子版に掲載されます。
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