肺扁平上皮癌進展における Hugl1 発現の意義

東海大学大学院平成 27 年度博士論文
肺扁平上皮癌進展における
Hugl1 発現の意義
指導
岩﨑
正之
教授
東海大学大学院医学研究科
先端医科学専攻
松﨑
1
智彦
・この学位申請論文は、The tokai journal of experimental and clinical
medicineに掲載された主要公刊論文を基に作成された。
・The tokai journal of experimental and clinical medicineに掲載された主
要公刊論文の一部を学位申請論文に用いることに加えて、学位申請論文を機関
リポジトリ[電子書庫システム]で公開することの承諾を得ている。
<総括>
生体を構成する多くの細胞は上皮細胞に由来する。上皮細胞は細胞内の構成成
分がapical(頂端部)とbasal(基底側部)を結ぶ軸にそって秩序だって分配され
ており、高度に極性化された構造を有する。また、隣接する上皮細胞同士はtight
junction、adherens junction、desmosomeなどの細胞接着構造を形成している。細
胞極性と細胞間接着構造は、正常組織の構造と機能の形成・維持に必須である。
一方、細胞極性や細胞間接着構造の破綻は悪性腫瘍においてしばしば観察され
る現象であり、腫瘍悪性化の指標の1つであると考えられている。atypical protein
kinase C (aPKC)、 partitioning-defective proteins (Par)、Lethal giant larvae(Lgl, ヒ
トのhomologはHuglと呼ばれている)などの細胞極性関連分子は上皮細胞に局在
し、上皮組織の細胞極性構造を構築することで細胞分裂、細胞運動、細胞内物
質輸送などの様々な細胞機能の制御に重要な役割を果たしている。近年の研究
から、aPKC、Par、Huglなどの細胞極性関連分子の発現動態が肺腺癌を含む様々
な悪性腫瘍の浸潤、転移、生命予後などに重大な影響を及ぼすことが分かって
きている。一方、肺扁平上皮癌の進展に及ぼす細胞極性関連分子の役割の詳細
は不明であった。
本研究では肺扁平上皮癌と診断された103症例の病理組織を対象にaPKC、Par6、
Par3、Hugl1、Hugl2の発現を免疫組織化学およびリアルタイムRT-PCR法により
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解析し、臨床病理学的特徴との関連性を精査した。免疫組織化学の結果から、
Hugl1陽性例に比較して陰性例では患者の予後が有意に低かった。また、Hugl1
陰性例では陽性例に比較して患者の無再発生存率も同様に低下することが判明
した。一方、リアルタイムRT-PCR法による発現解析の結果から、Hugl1 mRNA
の発現量が患者の生存日数と正の相関を示すことが明らかとなった。また、
Hugl1 mRNA発現は免疫組織化学によるHugl1蛋白の発現解析の結果とよく一致
しており、肺扁平上皮癌組織におけるHugl1蛋白の発現変動はmRNAレベルで制
御されているものと考えられた。また、Hugl1 mRNAの発現量は腫瘍の病期と逆
相関した。以上の結果から、Hugl1が肺扁平上皮癌の予後を推定するマーカーと
して有用であることが明らかとなった。
免疫組織化学の結果から、Hugl1 は非腫瘍部の正常組織の気管支上皮細胞と肺
胞上皮細胞の細胞質に発現していた。一方、腫瘍部では腫瘍細胞の細胞質およ
び細胞膜に発現しており、正常部の肺上皮細胞とは細胞内局在性が異なってい
た。しかし、肺扁平上皮癌における Hugl1 の細胞内発現形式(細胞質、細胞膜、
細胞質および細胞膜)と組織学的悪性度との関連性を検討したが相関は認めら
れなかった。
肺扁平上皮癌組織における Hugl1 の免疫組織化学の特徴は、ほぼ全ての腫瘍細
胞に一様に細胞質および細胞膜に発現している点である。また、この染色態度
は腫瘍内の浸潤部、腫瘍胞巣の基底層と中心部の細胞の間で違いは認められな
かった。この点は、少量の細胞を用いて行われる細胞診において細胞が採取さ
れた部位に依存せず安定した免疫組織化学の結果を得られることを示しており、
細胞診に適したマーカーとなるものと考えられた。
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<研究の背景>
世界的に癌死で最も頻度が高いのが肺癌である。大部分の肺癌は、非小細胞
性肺癌(80%)に分類され、残りの大多数は小細胞肺癌(18%)である。非小細
胞肺癌は、扁平上皮癌、腺癌と大細胞癌の 3 つの主要な組織群に分類される。
早期の非小細胞肺癌は手術および放射線治療により治癒が期待される。一方、
進行期の症例の治療選択枝は多剤併用化学療法である。肺癌全体の 5 年生存率
はわずか 60-70%で予後不良であり、本疾患の予防、診断および治療を改善する
ための基礎および臨床レベルにおける研究推進の必要性が強調されている。肺
腺癌では、手術適応外あるいは再発症例の化学療法に関して多くの治療選択肢
があるが、一方、肺扁平上皮癌においては化学療法の選択肢が少ない。肺腺癌
については、ベバシズマブ、エルロチニブ、ゲフィチニブ等の高い治療効果が
望める分子標的療薬が開発され治療効果の改善がなされてきているが、肺扁平
上皮癌における分子標的薬は現在のところ存在しない。従って、肺扁平上皮癌
においては、早期発見し手術が可能なタイミングでの治療を開始することが最
も有効な治療戦略となる。この点から肺扁平上皮癌の早期発見あるいは予後を
推定するためのマーカー分子の探索が必要とされている。また、肺扁平上皮癌
の予後を推定するマーカー分子は、将来の分子標的治療薬の標的となる可能性
も期待される。
生体を構成する細胞の多くは上皮細胞に由来する。上皮細胞は、細胞内の構
成分子が apical(頂端部)と basal(基底側部)を結ぶ軸にそって秩序だって分
配されており高度に極性化された構造を有する。また、隣接する上皮細胞は tight
junction、adherens junction、desmosome などの細胞間接着装置により接着してい
る(細胞間接着)。細胞極性や細胞間接着は組織構造の形成・維持ばかりでなく、
機能的な役割を有することが分かってきている。悪性腫瘍では細胞極性や細胞
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間接着の破綻がしばしば伴う。上皮細胞の apical-basal 極性の消失は、浸潤腫瘍
の特質の 1 つである。 atypical protein kinase C (aPKC)、partitioning-defective
proteins (Par)および Lethal giant larvae (Lgl、ヒトの homolog は Hugl と呼ばれてい
る) は上皮細胞に局在する細胞極性分子である。aPKC、Par6、Par3 は複合体
(Par6-aPKC-Par3 複合体)を形成し細胞極性を制御している。この三者複合体
は apical と basal の間の subapical 領域に局在し、細胞の apical-basal 軸の極性を
保つために不可欠な役割を担っている。また、この三者複合体は上皮細胞間の
tight junction の形成に必要であることも分かっている。
aPKC は、非小細胞肺癌を含む、乳癌、前立腺癌、胃癌、神経膠腫などの悪性
腫瘍で過剰発現しており、これらの腫瘍の予後因子であると考えられている。
また、非小細胞肺癌の間質細胞における Par6 の発現量の減少が生存率を低下さ
せることが報告されている。一方、Par3 は食道癌において、その発現量の低下
が組織の異型度とリンパ節転移の有無と相関することが明らかとなっている。
Lgl はショウジョウバエにおける癌抑制遺伝子である。aPKC 結合蛋白質である
Lgl は、過剰発現することにより aPKC の細胞内局在性の変化を誘導し、細胞間
接着構造や上皮組織の形態異常を引き起こすことが実験的に証明されている。
また、Lgl のヒトの homolog である Hugl の発現量の減少が乳癌、卵巣癌、前立
腺癌、大腸癌、肝細胞癌、悪性黒色腫の悪性化と関係していることが報告され
ている。Imamura らは肺腺癌では正常肺胞上皮細胞に比較して Hugl2 の発現が増
加していること、また、aPKC と複合体を形成していることを明らかにしている。
さらに Hugl2 が apical membrane に局在化している肺腺癌ではリンパ管浸潤、リ
ンパ節転移、再発のリスクが有意に高いことを報告している。このことは肺腺
癌では Hugl 分子が肺癌の発生・進展に何らかの役割を果たしていることを示し
ている。一方、肺扁平上皮癌における Hugl の発現動態と浸潤転移、再発などの
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生命予後に関わる臨床病理学的因子との関連性についての知見は報告されてい
ない。本研究では aPKC、Par3、Par6、Hugl1 および Hugl2 の発現を免疫組織化
学的手法を用いて観察し、各種臨床病理学的特徴との関連性を詳細に検討した。
また、Hugl1 についてはリアルタイム RT-PCR 法により mRNA レベルの発現量
を計測した。以上の検討を通じて、肺扁平上皮癌の悪性化に及ぼす細胞極性分
子の役割を考察した。
<考察>
aPKC、Par、Hugl などの細胞極性関連分子の発現動態が肺腺癌を含む様々な
悪性腫瘍の浸潤、転移、生命予後などに重大な影響を及ぼすことが分かってき
ている。一方、肺扁平上皮癌の進展に及ぼす細胞極性関連分子の役割の詳細は
不明であった。本研究では、肺扁平上皮癌を対象として細胞極性関連分子の発
現動態と臨床病理学的特徴との相関を検討し、その結果、Hugl1 が肺扁平上皮癌
の予後を推定するマーカー分子となることを明らかにした。
今回の免疫組織化学の結果から、Hugl1 陰性の肺扁平上皮癌患者の予後が悪い
ことが判明した。すなわち全 103 症例の 5 年生存率が 46.99%であるのに対して、
Hugl1 陰性群では 30.49%と有意に低かった。これまで肺扁平上皮癌患者の生存
率と Hugl1 発現との関連性に着目した検討はなされておらず、Hugl1 の染色性の
有無と生存率が相関するという本研究の報告が初めてである。現在、肺扁平上
皮癌の予後の推定は病期(ステージ)からなされているが、これに加えて、今
後は Hugl1 が有用な予後推定マーカーとし活用されることが期待される。また、
Hugl1 陰性の肺扁平上皮癌患者では無再発生存率が有意に低いことも判明した。
この結果は、Hugl1 陰性症例は陽性例に比較して再発率が高くなることを示して
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おり、Hugl1 発現の有無が肺扁平上皮癌患者の経過観察のための再診スケジュー
ルを含めた術後診療を決定する際の有用な情報となるものと考えられた。一方、
リアルタイム RT-PCR 法による発現解析の結果から、Hugl1 mRNA の発現量が生
存日数と相関していることが判明した。この結果は、免疫組織化学による Hugl1
蛋白の発現解析の結果と一致しており、肺扁平上皮癌組織における Hugl1 蛋白
の発現変動は mRNA レベルで制御されているものと考えられた。また、Hugl1
mRNA の発現量は腫瘍の病期と逆相関することも明らかとなった。現在、肺扁
平上皮癌の予後の推定には病期が用いられているが、Hugl1 mRNA 発現解析はこ
れを補完する可能性が示唆された。
Hugl1 は、非腫瘍部の正常組織の気管支上皮細胞と肺胞上皮細胞の細胞質に発
現していた。一方、腫瘍部では腫瘍細胞の細胞質および細胞膜に発現しており、
正常部の肺上皮細胞とは細胞内局在性が異なることが判明した。Yamanaka らは
イヌ腎尿細管上皮細胞由来の MDCK 細胞株を用いた実験から、Hugl の homolog
で あ る Lgl が Par6-aPKC-Par3 複 合 体 中 の Par3 分 子 と 入 れ 替 わ る こ とで
Par6-aPKC-Lgl 複合体が形成されることを報告した。また、この Par6-aPKC-Lgl
複合体が細胞膜に過剰発現することで上皮細胞の細胞極性および細胞接着(tight
junction)が失われることも示した。肺扁平上皮癌細胞の細胞膜に局在化してい
る Hugl1 が Par6-aPKC と複合体を形成しているかは不明であるが、扁平上皮癌
に Hugl1 が過剰発現することが腫瘍細胞の特性に大きな影響を与えていること
が示唆される。Hugl1 と Par6、Hugl1 と aPKC の二重染色を施行することで細胞
膜局在型の Hugl1 の役割が明らかになるものと考えられる。また、Lgl と Par3
の交換反応は、aPKC による Lgl のリン酸化反応によって制御されており、扁平
上皮癌における Hugl1 の細胞内局在化には aPKC の活性化状態が重要であると推
察される。一方、乳癌、結腸直腸癌などの他の悪性腫瘍では Hugl1 は細胞質に
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限局して発現していることが報告されており、本分子の細胞内局在性が悪性腫
瘍間で異なっていることが示唆された。また、肺扁平上皮癌における Hugl1 の
細胞内発現形式(細胞質、細胞膜、細胞質および細胞膜)と組織学的悪性度と
の関連性を検討したが相関は認められなかった。したがって本分子の細胞膜局
在化は細胞の形状には影響しないものと考えられた。
肺扁平上皮癌組織における Hugl1 の免疫組織化学の特徴は、ほぼ全ての腫瘍細
胞に一様に発現している点である。また、この染色態度は腫瘍内の浸潤部、腫
瘍胞巣の基底層と中心部の細胞の間で違いは認められなかった。この点は、少
量の細胞を用いて行われる細胞診で細胞が採取された部位に依存せず安定した
免疫組織化学の結果を得られることを示しており、細胞診に適したマーカーと
なるものと考えられた。今後、抗原性賦活化法、高感度増感法などの免疫組織
化学の条件検討、Hugl1 に対する直接法の抗体の作成を含めた方法論の検討を行
うことで細胞診への応用が期待される。
2015 年の WHO 分類では肺癌の組織分類が新しく改定された。新しい組織分類
の大きな変更点の一つは、非小細胞癌の中の腺癌と扁平上皮癌の鑑別を免疫組
織化学を用いて行うことが推奨されている点である。肺癌の治療方針の決定に
は、細胞診の段階での非小細胞肺癌と小細胞肺癌の鑑別診断が最も重要な項目
であった。一方、近年の化学療法、分子標的治療の進歩により、非小細胞肺癌
と小細胞肺癌の鑑別ばかりでなく腺癌と扁平上皮癌の鑑別も治療方針を左右す
る大きなファクターとなってきた。しかしながら、細胞診検体は検体量が限ら
れておりヘマトキシリン-エオジン染色などの一般病理染色だけでは肺腺癌と肺
扁平上皮癌の鑑別診断が困難なことや、特に肺扁平上皮癌の低分化な組織はそ
の他の組織との鑑別診断が困難なことが多い。こうした症例では、両者の鑑別
において免疫組織化学の果たす役割は大きく、新しい WHO の分類に従った肺癌
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の取扱規約では、扁平上皮癌のマーカーである p40 およびサイトケラチン 5/6 を、
また、腺癌のマーカーである TTF-1 および Napsin A の免疫染色を病理組織診断
に加えることが推奨されている。今後、免疫組織染色を併用した病理組織診断
が明確化していく中で、今回の研究結果を踏まえて、上記の腺癌、扁平上皮癌
の鑑別診断のための免疫染色(p40 やサイトケラチン 5/6)に抗 Hugl1 抗体を用
いた免疫染色を加えることで、生存率、再発率などの予後の予測が可能となり、
扁平上皮癌の治療選択の決定のみならず治療後の経過観察計画に有用な情報を
もたらすものと考えられる。
Hugl1 の homolog である Lgl を knock down したショウジョウバエでは、脳内に
ロゼッタ様の増殖性病変が生じることから本分子が腫瘍抑制分子であると考え
られていた。一方、Hugl1 がヒトの腫瘍形成においてどの様な役割を担うかどう
かに関しては不明であった。近年になり、Hugl1 の発現の減少は、悪性黒色腫、
乳癌、結腸直腸癌、胃癌、肝細胞癌、前立腺癌および卵巣癌等の進行と関連し
ていることが報告され、Hugl1 がヒトの悪性腫瘍を制御する機能を有することが
示された。最近、Yamashita らは、MDCK 細胞を用いた実験系において Lgl が
G1 cell cycle arrest を誘導すること、また、Lgl を欠失させることにより細胞の過
剰増殖が起こることを示し、本分子が直接、細胞周期を制御分子であることを
初めて証明した。我々の症例を解析したところ、Hugl1 mRNA の発現と腫瘍径が
負の相関傾向(相関係数:-0.45)を示すことが明らかとなり、肺扁平上皮癌にお
いても Hugl1 が細胞増殖を抑制していることが推察された。また、肝細胞癌で
も同様に Hugl1 蛋白の発現と腫瘍径が負の相関を示すことが報告されている。
このことは Hugl1 が腫瘍細胞の浸潤転移に関わる細胞極性・細胞間接着を制御
するばかりでなく、細胞周期を制御することで過剰増殖をも抑制しうる key 分
子であることを示している。今後、Hugl1 の肺扁平上皮癌における機能的役割を
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解析するために、(1)凍結材料を用いた Hugl1 と Par6-aPKC との相互作用の検
討、(2)細胞周期関連分子と Hugl1 との相互作用の検討、(3)Hugl1 遺伝子の
mutation 解析、などの検討が必要であると考えられる。
<結語>
免疫組織化学の結果から、Hugl1の発現量の減少は肺扁平上皮癌患者の生存率
や無再発生存率の低下させることが証明された。一方、リアルタイムRT-PCR法
による発現解析の結果から、Hugl1 mRNAの発現量が生存日数と相関しているこ
とが判明し、この結果は、免疫組織化学によるHugl1蛋白の発現解析の結果と一
致しており、肺扁平上皮癌組織におけるHugl1蛋白の発現変動はmRNAレベルで
制御されているものと推察された。また、Hugl1 mRNAの発現量の低下は腫瘍の
病期(ステージ)と逆相関することも明らかとなった。以上のことからHugl1は
肺扁平上皮癌において予後を推定するマーカーとして有用であると思われた。
肺扁平上皮癌組織における Hugl1 がほぼ全ての腫瘍細胞に一様に細胞質および
細胞膜に発現している点を生かして、腺癌、扁平上皮癌の鑑別診断のための免
疫染色に抗 Hugl1 抗体を用いた免疫染色を加えることで、生存率、再発率など
の予後の予測が可能となり、扁平上皮癌の治療選択の決定のみならず治療後の
経過観察計画に有用な情報をもたらすものと考えられる。
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