仏教思想

法蔵の『梵網経菩薩戒本疏』に於ける価値観とその背景
Buddhology
修士論文
Jeffrey Kotyk
駒澤大學佛教學修士課程 2011 年卒
前書き
日本にいる外国人の学者として、様々な障壁を乗り越えなければならないことがあります。
外国語の環境で勉強したり、母語ではない日本語で論文を書いたりすることは時々かなり困
難でしたが、そのようなチャレンジを与えてくれた事は心から良かったと感じてます。
修士論文を日本語で書けたのは、誠に日本語の教師と日本人の友人のおかげです。2006 年
から 2007 年まで国学院大学に留学して、優秀な日本語の教師の下で日本語を勉強しました。
心より、国学院大学の先生たちに感謝の意を表明したいと思います。
カナダに帰った後、また日本に留学することにしました。大学院に進む誓願をして、語学
的な準備が必要と感じ、日本語と漢文学に集中しました。当時にカナダに留学している古宮
香織さんが、よく助けてくれて、本当に緊密な関係を持つ事が出来ました。同時に仏教につ
いての書籍を耽読しながら、アルバータ大学の教授の指導を受けました。
この頃に『梵網経』を読むための注釈書を探して、華厳宗の法蔵の菩薩戒に関する『梵網
経菩薩戒本疏』を発見しました。
法蔵と華厳宗に関する書籍があっても、本書についての資料が少ないことに気づきました。
仏教の文献だけではなく唐代の歴史的な背景を探るための資料として使用されるかどうかを
考えれば考えるほど、修士論文のテーマとして本書を研究すれば良いいう結論に達しました。
法蔵は唐代の歴史に於ける重要な人物です。高僧と尊敬されていた彼が著わした本書は当
時の状況を反映するものと推察します。特に仏教と当時の倫理的な問題との関係を理解する
ための窓口と言えましょう。これらの理由を考え合わせて、本論文を著わすことにしました。
本論文が仏教学術の分野に新たな知識を貢献することを希望します。
駒沢大学で数人の指導を受けました。まず、私の指導教師としての石井修道と石井公成に
深い感謝を表したいと思います。華厳宗の専門家の吉津宜英にも感謝します。
2009 年、駒沢大学の正門を潜ってから藤原敦がよく助けてくれています。また、本論文を
校正していただきました。誠に藤原敦に心からの感謝をします。本論文の原稿を読んで間違
いを指摘してくれた中村行明の手助けも不可欠でした。数人の援助によく頼りましたが、私
はここに本論文の著者としての文筆の道義的責任と間違いの責任を負います。
最後に日本の文部科学省に感謝致し、多大な恩義を感じています。私は文部科学省による
外国人向けの国費留学制度を使用しました。この奨学金がなければ、日本に留学できなかっ
たでしょう。
ここにカナダのアルバータ州の日本総領事館と日本政府の御配慮に感謝申し上げます。
序文
大乗仏教の誕生から現代までの歴史を考察してみると、成仏への道を歩む仏法の実践者に
とって菩薩戒は不可欠な役割を果たしていると言えよう。唐代の法蔵によれば、菩薩の三聚
浄戒は「道場直路、種覺圓因」という 1。古代の法師のみならず、現代仏教の法師も菩薩戒を重
視している。
菩薩戒だけではなく、三帰依や五戒などの基本的な持戒の修行も仏教徒にとって時代を問
わず重要なものである。「何故このような実践が重要なのであろうか」と問われれば、台湾の
法鼓山の創始者たる聖厳法師の言葉を借りたい。戒律の効能に関して「戒的功能是在斷絕 生死
道中的業緣 業因」と聖厳法師は述べている 2。換言すれば、戒は輪廻転生の因縁を削除する効
能を有するものである。そのため、仏法の信奉者は必ず輪廻転生から解脱をせねばならぬ感
情に駆られて、その解脱を成し遂げるための修行の基盤を築く必要がある。しかしながら周
知のように仏陀が説いた戒律は元々インドの背景で教えられたものであり、阿羅漢への道あ
るいは声聞乗であった。菩薩乗は新たな戒律として出現して声聞乗より現実的な戒律観であ
った。その菩薩乗が中国に移行した際に、ある程度まで融通の利く戒律観も採用された。と
はいえ、インド文化圏に属していない中国の思想家は戒律の理想と俗世の現実のバランスを
とる問題に取り組んだ。その問題を更にこじらせた理由は戒律の資料の大半がインド文化圏
に即したものであった。唐代までに三蔵に於ける戒律に関する文献がかなり多かった。
唐代の長安で生まれ育った法蔵(643-712)の場合、哲学のみならず菩薩戒に憧れ、仏教の倫
1
理に興味があると同時に政治にも携わっていた。そのため、法蔵が著わした菩薩戒の釈義は
単なる僧侶の立場からの解釈に過ぎないものではなく、当時の政治家兼高僧の視点から書い
たものである。それを考え合わせると、法蔵の著作に於ける価値観がいかなるものかは、言
うまでもなくかなり重要な質問である。法蔵は中年に『梵網経菩薩戒本疏』を著わした。題
目を見るだけで『梵網経』の釈義であることが分かるが、本書は当時の社会に於ける様々な
問題点を反映しているので、しばらく仏教の局面はさておき、歴史学の視点から見て本書を
考察する価値もある。
『梵網経菩薩戒本疏』の内容を徹底的に調べると、法蔵の生涯を覗き込んで七世紀の唐代
社会の片鱗を窺うことができる。当時の道徳倫理上の問題とそれらに取り組んだ高僧の法蔵
の価値観を探るのが本研究の目標である。
内容を調べる前に現代の研究の略図を描くのが良い。
現代の研究
日本と中国では法蔵の撰述と生涯に関する研究が繁栄しているが、残念ながら『梵網経菩
薩戒本疏』に関する研究がそれほど多くない。1938 年、大野法道は『国訳一切経』の漢文訓
読を整理したが、意味が明確な翻訳・意訳とは言えない。英語圏の学界では本書に言及してい
る学者が皆無に近いが、日本では過去に有用な研究が行われた。
吉津宜英は『華厳一乗思想の研究』3 で『梵網経菩薩戒本疏』がいつ頃著わされたかを考え、
当時の他の『梵網経』に関する釈義と撰述との関係を調べていると同時に自分が発見したこ
とと結論を提供している。石井公成も『華厳思想の研究』4 で法蔵の現実主義を強調している。
更に石井公成は本書に関する二つの記事 5 を著わしている。既述したように英語圏では『梵
網経菩薩戒本疏』に関する研究が皆無に近いが、陳錦華(Chen Jinhua)は Philosopher,
Practitioner, Politician: the Many Lives of Fazang (643-712)6 で法蔵の生涯の詳細を探るた
めに本書の部分を利用しているが、『梵網経菩薩戒本疏』の徹底的な分析に欠けている。
しばらく中世時代の学者の研究を横に置いて、現代の学界では『梵網経菩薩戒本疏』がそ
れほど多くないから、唐代と法蔵の生涯とのコンテクストを考え合わせて本書の内容に於け
る価値観と特徴と重要性を調べるのが本研究の目的である。
『梵網経菩薩戒本疏』の年代測定
『梵網経菩薩戒本疏』がどのような環境と状況にて法蔵によって著わされたかを理解する
ためにいつ撰述されたかは重要な問題である。なお、本書が法蔵の他の著作といかなる関係
があるのであろうかも考えるべきことである。
法蔵の生涯(643-712)において、いつ頃『梵網経菩薩戒本疏』が撰述されたかというと、ま
ず第一に『華厳経』の引用を調べるのが良い。何故ならば、周知のように法蔵が Śiksānanda
実叉難陀の下で中国の二回目の『華厳経』の漢訳プロジェクトに参加したからである。699
年頃にこの漢訳を終えた。若しも法蔵が実叉難陀の漢訳を使用したとしたら、699 年以降に『梵
網経菩薩戒本疏』を著わしたのではないかと推測できる。逆に、若しも法蔵が佛駄跋陀
(Buddhabhadra)の 5 世紀『華厳経』漢訳を使用したとしたら、『梵網経菩薩戒本疏』が 699
年以前に著わされたのであろう。
法蔵は佛駄跋陀の漢訳を引用している。以下のようである。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 1:「又華嚴經云。譬如造宮室、起基令堅固、施戒亦如是、薩眾行本。」
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法蔵が引いたのは佛馱跋陀羅の『大方廣佛華嚴經』「菩薩明難品第六」からの引用である。
《大方廣佛華嚴經》卷 5〈6 菩薩明難品〉:「譬如造宮室、起基令堅固、施戒亦如是、菩薩眾
行本。」8
法蔵が『梵網経菩薩戒本疏』を 699 年以前に著わしたのは確かである。
第二のポイントは、吉津宜英が指摘しているように 9、『梵網経菩薩戒本疏』の題目の隣に
於ける「魏國西寺」という寺院の名前である。それは法蔵が魏國西寺で『梵網経菩薩戒本疏』
を撰述したことを指す。687 年 2 月 19 日に「西太原寺」が「魏國西寺」に改名した。また、『唐
會要』によれば、689 年 12 月 23 日から 690 年 1 月 9 日までの間に「魏國西寺」が「西崇福寺」
に改名したという。
『唐會要』卷四十八:「崇福寺林祥坊。本侍中楊恭仁宅。咸亨二年九月二日。以武后外氏宅立
太原寺。垂拱三年十二月。改為魏國寺。載初元年五月六日。改為崇福寺。」10
これから判断すると、687 年から 690 年までの間に『梵網経菩薩戒本疏』が書かれたので
あろうか。法蔵が引用した佛駄跋陀訳『華厳経』も 699 年以前の撰述を反映していることが
687-690 年に『梵網経菩薩戒本疏』が著わされた推測に適合しているのである。
2
ここで注意すべきのポイントは、法蔵は西太原寺で地婆訶羅(Divākara)という著名な翻訳
者と一緒に働いていたということである。陳錦華によれば、この関係は 680 年から 687 年ま
でであった。そして法蔵は地婆訶羅の助手であったそうである。その上、法蔵は 687 年の夏
まで長安に住していたが、翌年までに洛陽に派遣された。それから 690 年あるいは 691 年に
法蔵は行脚し始めた。11
西太原寺の改名(687)と陳錦華が提唱した法蔵の洛陽への転住(687-688 年)を考え合わせる
と、687 年頃に『梵網経菩薩戒本疏』が撰述されたのであろうと考えられる。しかしながら題
目の「魏國西寺」が実際に撰述の場所ではないとしたら、今の結論は不可能であるが、反論が
ない限り、687 年頃に本書が著わされたと言って良い。
ところで、今の年代測定の問題を更にこじらすのは、法蔵の他の著作も「魏國西寺」で書か
れたことである。『大乘起信論義記』12 と『華嚴經探玄記』13 などは浩瀚な書籍である。前
者は約 75,000 字、後者は約 613,000 字、『梵網経菩薩戒本疏』は約 89,000 字。字数を見る
だけで、法蔵がかなり忙しそうな作者であったことが想像に難くない。とはいえ、彼が「魏國
西寺」に住した間に自分でそれほど書けたとは考えられない。「魏國西寺」が「西太原寺」と呼ば
れていた時にも、法蔵は地婆訶羅と一緒に働いていたので、一人でそれほど書いたのは、あ
まり想像できぬことと考えられる。当時に法蔵が書いた書籍は、一人の作者の努力の結果と
いうより、法蔵の講義に出席した弟子たちのノートから編集した撰述のほうが現実的な推測
なのではないだろうか。恐らく『梵網経菩薩戒本疏』に於ける口語の存在もこれを反映して
いるのであろう。
残念ながら新羅の義湘法師に法蔵が送った手紙に添付された別帳に於いて『梵網経』の疏
が入っていない。しかしながら魏國西寺で撰された『大乘起信論義記』と『華嚴經探玄記』
がある。以下のようである。
《圓宗文類》卷 22:「華嚴探玄記二十卷兩卷未成、一乘教分記三卷、玄義章等雜義一卷、別翻
華嚴經中梵語一卷、起信疏兩卷十二、門論疏一卷、新翻法界無差別論疏一卷」14
アントニーノ・フォルテ(Antonio Forte)はこの手紙が 690 年 1 月 14 日に書かれたと推測し
ている 15。他の学者らによって多数の測定が提唱されているが、フォルテが指摘しているよ
うに、法蔵自身は自分が「唐西京」に属していると書いている。そのため、武則天の「周」以前
にこの手紙を書いたのではなければならない。とはいえ、「唐西京」が他人の手によって書か
れた追伸である可能性も認めなければならない 16。いずれにせよ、筆者はフォルテの推測に
賛成である。
では、なぜ『梵網経菩薩戒本疏』が手紙の別帳に入っていないのかは不明である。若しも
690 年に本書が著わされたとしたら、他の書籍と一緒に『梵網経菩薩戒本疏』も義湘に送った
ことが想像できる。とはいえ、以下に説明するように法蔵は『梵網経』を『華厳経』ほど優
れた経とみなさなかったので、必ずしも華厳宗の兄弟子たる義湘に『梵網経菩薩戒本疏』も
送らなければならなかったというわけではないのであろう。筆者が提唱した上記の年代測定
が当たっているとすれば、このような思索それ以上になぜ『梵網経菩薩戒本疏』が添付しな
かったのかは説明できぬ問題である。
では、法蔵は『梵網経菩薩戒本疏』を 687 年頃に著わしたと断言できないが、上記のよう
に、ある程度まで証拠があるのは確かである。
華厳宗のコンテクストでの『梵網経』
『梵網経菩薩戒本疏』は『梵網経』の釈義であると同時に菩薩の倫理を説くものである。
ある意味で本書は華厳宗ではないが、やはりその影響も表面に見える。なぜ本書を華厳宗の
コンテクストに置きにくいかというと、吉津宜英が指摘しているように 17 法蔵が『華厳五教
章』18 で説いた「五教判」への言及が全くないからである。『梵網経』を華厳宗のドクソグラ
フィーのどこに分類すれば良いかは問題である。同時の『華厳経探玄記』に於いて「五教判」
がよく利用されていることに対して『梵網経菩薩戒本疏』では、小乗教、大乗始教、大乗終
教、大乗頓教と大乗円教を包括している法蔵の「五教判」がないというのは注意に値すること
である。
なお、法蔵の師匠たる智儼は『華厳孔目章』で『梵網経』を明らかに「二乗」に分類してい
るが、「一乗」は、ただ『華厳経』のみである。以下のようである。
《華嚴經內 章門等雜孔目章》卷 4:「其瓔珞本業梵網二經。是二乘攝。華嚴經是一乘攝。」19
換言すれば、智儼にとって後者は前者より優れている。
ところで、ここで注意すべきのは、鎌倉時代の華厳宗の凝然は、『梵網経菩薩戒本疏』の
注釈書である『梵網戒本疏日珠鈔』で『梵網経』を「終教」に分類しているが、同時に頓教の
意義もあると述べている。以下のようである。
3
《梵網戒本疏日珠鈔》:「今此戒經是終教宗。故立此十明其體性。兼通始教。有攝括故。然止
唯在大乘終教。又上卷經文大明無相。其中乃有頓教之義。由此義故。少分可有通頓之義」20
さて、法蔵が選んだ引用を見ると、『華厳経』の引用が少ないことに対して『大智度論』
からの引用がかなり多いのは面白いポイントである。そして『瑜伽師地論』と『菩薩瓔珞本
業經』の内容を借りているところも少なくない。法蔵が選んだ引用は、師匠たる智儼と同様
に『梵網経』が『華厳経』のような「円教」ではない感情を反映しているかもしれない。その
ため、法蔵にとって『梵網経』は学び実践すべき経であっても、最終的な教えではないから
実際に究極的な教えを説く『華厳経』と一緒に読むべきものではないかもしれない。
撰述の理由
『法蔵和尚伝』によれば、法蔵はまだ居士であり、婆羅門から菩薩戒を求めた際に相手は
彼の卓越した資格すなわち『華厳経』などの知識に驚いて菩薩戒を授ける必要がないと判断
した。以下の話を考えよう。
《唐大薦福寺故寺主翻經大德法蔵和尚傳》卷 1:「總章初藏猶為居士。就婆羅門長年、請授菩
薩戒。或謂西僧曰。是行者誦華嚴兼善講梵網。叟愕且唶 曰。但持華嚴功用難測矧解義耶。若
有人誦百四十願已、為得大士具足戒者、無煩別授」21
總章(668-670 年)の初年、法蔵が居士であった時、婆羅門に赴いて受戒を願いした。
ある人が西から来た僧侶に「この行者は『華厳経』をとなえて、『梵網経』をよく説明でき
る」と言った。この老僧は驚愕して「『華厳経』だけで彼の功徳と応用が測りにくい。いわん
や意義を理解したのだ。若し百四十誓願をとなえる人ならば、大士具足戒を得たものだから、
別の戒を授けなくて良い」と言った。
真偽を問わず、この話を著わした人の立場から考えれば、少なくとも法蔵が『梵網経』を
よく説明するイメージがあったことが読み取れるのである。とはいえ、なぜ法蔵が受戒の必
要を超越するのであろうかを考えなければならない。陳錦華の説によれば、法蔵が晩年まで
具足戒を受けた確かな証拠がないため、師匠の名誉を維持するために弟子によってこのよう
な逸話が作り上げられたのではないかという 22。換言すれば、法蔵は晩年まで実際には比丘
ではなかった。弟子たちは恥を感じて師匠の資格と地位を正当化するために逸話を作り上げ
たかもしれない。
少なくとも上記の話の内容から判断すると、法蔵の『梵網経』を講じる熟練が良いという
評判があったそうである。それは本研究には重点である。また、捏造された逸話の真偽はさ
ておき、当時にいかなる評判があったのかを考えなければならない。法蔵は『梵網経』を講
じるのが得意という評判が当時にあったのではないかと推測できる。その良い評判のため、
貴族によって『梵網経』について書かせられたのであろう。
さて、法蔵は自分の言葉で『梵網経菩薩戒本疏』を著わした理由を示す。その理由に関し
ては以下の文章が示すように法蔵は菩薩戒を探すために西域に行く望みが叶わなかったから、
中国での現存の資料を蒐集した。なお、法蔵は過去の作者が説いた菩薩戒の釈義について不
満を示して私見を述べる。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 1:「又聞西國諸小乘寺以賓頭盧為上座。諸大乘寺以文殊師利為上座。
令眾 同持菩薩戒。羯磨說 戒皆作菩薩法事。律藏常誦不絕 。然聲聞五律四部。東傳此土。流行
其來久矣。其於菩薩律藏逈 不東流。曇無讖言於斯已驗。致使古來諸德或有發心受戒。於持犯
闇爾無所聞。悲歎良深。不能已已。藏雖有微心冀茲勝行。每 慨其斥闕。志願西求。既不果遂。
情莫能已。後備尋藏經捃摭遺躅。集菩薩毘尼藏二十卷。遂見有菩薩戒本。自古諸賢未廣解釋。
今敢竭愚誠聊為述讚。庶同業者粗識持犯耳。」23
こちらでは、法蔵は西域に於ける戒律実践の優れを指摘しているが、東土すなわち中国ま
で菩薩戒がそれほど流行っていないともいう。インド人の曇無讖は中国に来たら、地元の人々
が菩薩戒に適合するものと見なさなかったという話にも言及する。また、こちらで法蔵は曇
無讖の結論を肯定する。法蔵は西域に行脚するつもりであったが、不可能であったので中国
で菩薩戒についての資料を蒐集して注疏を著わした。
どのような資料を収集して考察したのであろうか。法蔵は考察した菩薩戒の分類を示す。
『瑜伽論』『地持善戒經』『菩薩內 戒經』『善生經』『方等經』『梵網経』24
本書は『瑜伽論』を資料としてよく使用する。つまり、『梵網経』の戒を解釈するために
『瑜伽論』に言及することが多い。これは法蔵の『瑜伽論』の関心を反映する。
既述したように法蔵は当時の菩薩戒観について不満を示している。誰の釈義に反対してい
るのかを明らかにするために法蔵の批判を見るべきである。以下のようである。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 1:「此中盧舍那等三類佛有人釋云。千華臺上盧舍那佛是自受用身。
千花上佛是他受用身。百億釋迦為變化身。此釋恐不應理。以華臺上佛亦是隨他受用身故。今
4
釋…」25
法蔵は批判の相手の名前を言っていないが、以下の文章を見れば、新羅の勝荘への批判で
あることが分かる。
《梵網經菩薩戒本述記》卷 1:「問曰:此三種佛與佛、如何相攝、解云盧舍那佛是自受身、千葉
釋迦是他受用、百億釋迦是變化身」26
法蔵が勝荘の『梵網経菩薩戒本述記』を読んだことは確かで重要なポイントである。何故
ならば、法蔵が意識していた当時の思想家の意見を彼の思想に比較すべきからである。その
上、勝荘から影響を受けた可能性もある。
勝荘とは、円測の弟子たる新羅の僧侶であり、唐代の大薦福寺と崇義寺にて唯識瑜伽行を
学んだ。そして玄奘の下で翻訳に携わっていた。多数の著作を著わしたが、『梵網經菩薩戒
本述記』を除いて何も現存していない。
法蔵は勝荘の撰述から経典への引用と内容を借用しているようである。一例として勝荘は
「故慳戒」に関して『瑜伽論』から適当な内容を引用する。
《梵網經菩薩戒本述記》卷 1:「又諸菩薩於自妻子奴婢僕使親戚眷屬、若不先以正言曉喻 、令
其歡喜、終不強逼令其憂惱施來求者」
法蔵も同様に『瑜伽論』に於ける同じ内容に頼るのは勝荘の注疏を参考していたからであ
ろう。27
ところで、既述した法蔵の不満、「自古諸賢、未廣解釋」に関しては、智顗が説いて弟子の
灌頂の撰述した『菩薩戒義疏』28 が法蔵の時代にあるはずであったが、なぜ法蔵はかなり有
名な大師たる智顗の著作を認めていないのであろうか。若しも当時にあったら、法蔵は引用
するはずだったのだろうか。
『天台戒疏』への最も早い言及は、湛然(711-782 年)の『法華文句記』にある。その場合、
智顗の著作あるいは『菩薩戒義疏』と呼ばれない 29。佐藤哲英が指摘するように京都禅林寺
所蔵の鎌倉時代の刊本には『菩薩戒義記』の題目と「天台師撰」の撰号がある。なお、智顗は
他の著作では『梵網経』を引用する場合が少ないから実際にはそれほど関心を抱いていたか
どうかは疑問であると述べている 30。ポール・グロナー(Paul Groner)も同意見であり、『菩
薩戒義疏』は 8 世紀まで現れてこないことを指摘する 31。道宣の『大唐內 典録』に於いて智
顗によって撰述された『梵網経』の注疏がないことも面白い 32。その点で、法蔵は『菩薩戒
義疏』を読むはずがなかった。若しも法蔵の時代に智顗の説いた菩薩戒の釈義があったとし
たら、法蔵が少なくともそれを認めることは想像に難くない。法蔵の『梵網経菩薩戒本疏』
に於いて『菩薩戒義疏』からの引用がない。言うまでもなく法蔵は『菩薩戒義疏』を通じて
智顗の影響を受けたということは不可能である。にも拘らず、このポイントは、『菩薩戒義
疏』の真偽を確定するためには重要なことであろう。
曇無讖(Dharmaksema)が菩薩戒を中国に伝播したくないことに関しては、『高僧伝』に於
ける類似の話があるが、法蔵は別のバージョンを使用している。法蔵が引用したバージョン
では、道進が菩薩戒を受けようとしても、曇無讖は地元の人々の性格に疑問があるから、道
進の願いを拒否する。そして道進は仏像の前で誓いを立てた後、夢中に弥勒から菩薩戒と戒
本を受ける。その後、曇無讖は授かった戒本が原文と同じことを認める。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 1:「又曇無讖三藏於西涼洲有沙門法進等求讖受菩薩戒。并請翻戒本。
讖曰。此國人等性多狡猾又無剛節。豈有堪為菩薩道器。遂不與授。進等苦請不獲。遂於佛像
前立誓。邀期苦節求戒。七日纔滿夢見彌勒。親與授戒并授戒本。並皆誦得後覺已見讖。讖覩
其相異乃昌然歎曰。漢土亦有人矣。即與譯出戒本一卷。與進夢誦文義扶同。」33
しかしながら『高僧伝』では、曇無讖は地元の人々の性格に疑問を示さない。受戒ための「七
日七夜」の懺悔方法を道進に教える。7 日間懺悔して戻ったら曇無讖は怒る。道進はまだ自分
の業障を消していないと考える。三年間禅定と懺悔に全力を注いだあと、結局瞑想中に釈迦
牟尼仏と諸大士から戒法を受ける。当夜に道進だけではなく他人も同じ夢を見る。この不思
議なことを曇無讖に知らせに行くと、曇無讖は突然、「善哉善哉」と言って道進の受戒を認め
る。
《高僧傳》卷 2:「初讖在姑臧。有張掖沙門道進。欲從讖受菩薩戒。讖云。且悔過乃竭誠七日
七夜。至第八日詣讖求受。讖忽大怒。進更思惟。但是我業障未消耳。乃勠力三年。且禪且懺。
進即於定中見釋迦文佛與諸大士授己戒法。其夕同止十餘人。皆感夢如進所見。進欲詣讖說 之。
未及至數十步 讖驚起唱言。善哉善哉。已感戒矣。吾當更為汝作證。次第於佛像前為說 戒相。」
34
面白いことに、『菩薩戒義疏』に於いて『高僧伝』とほぼ同じバージョンを引用している。
《菩薩戒義疏》卷 1:「有沙門道進。求讖受菩薩戒。讖不許且令悔過。七日七夜竟詣讖求受。
讖大怒不答。進自念。正是我障業未消耳。復更竭誠禮懺首尾三年。進夢見釋迦文佛授己戒法。
5
明日詣讖欲說 所夢。未至數十步 讖驚起唱。善哉已感戒矣。我當為汝作證。次第於佛像前更說
戒相。時有道朗法師。是河西高足。當進感戒之時朗亦通夢。乃自卑戒臘求為法弟。於是後進
受者千有餘人。」35
新羅の大賢の『梵網經古跡記』の場合、法蔵の影響があったかどうかは不明だが、法蔵と
同じバージョンを引用している。
《梵網經古跡記》卷 1:「又曇無讖三藏於西涼州。有沙門法進等。求讖受菩薩戒并請戒本。讖
曰。此國人麁。豈有堪為菩薩道器。遂不與授。進等苦請不獲所願。於佛像前立誓求戒。七日
纔滿夢見。彌勒親與授戒竝受戒本。竝皆誦得。覺已見讖。讖覩其相異喟然歎曰。漢地亦有人
矣。則與譯出戒本。與進夢誦文義相同。」36
この話は複数のバージョンがあるので、法蔵がどこから聞いたのか、あるいは引用したの
かは不明である。とはいえ、『高僧伝』を使用していないのは明々白々。
法蔵と仏性
法蔵は一切衆生に悉く仏性があるかどうかという問題に関して「一切衆生悉有仏性」という
肯定的な立場をとっている。なお、「種姓」は運命というより、ただ暫定的なもののみである。
当時の唐代中国では「種姓」と「一闡提」に関する意見が多様であった。先代の玄奘は『瑜伽師
地論』を訳し、「無種姓」の概念を更に当時の中国仏教思想に紹介した。
《瑜伽師地論》卷 35〈1 種姓品〉:「住無種姓補特伽羅無種姓故。雖有發心及行加行為所依止。
定不堪任圓滿無上正等菩提。」37
法蔵は『瑜伽師地論』の「無種姓」を、永遠に無上正等菩提の可能性がないというより、一
生に限られていると解釈している。言い換えれば、現世に菩提心を発する可能性がないとし
ても、来世にも発しないわけではないということになる。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 1:「二約實教。五種種姓俱 此所為。以許佛性皆悉有。以於此身定入
寂故名定性二乘。非謂寂後而不趣向於大菩提。如法華楞伽寶性論等說 。又為謗大乘人是一闡
提因依無量時故說 無性。非謂究竟無清淨性如寶性及佛性論說 。又依佛性論自斷說 無佛性為不
了教餘如前說 。是故一切眾 生皆是所為耳。」38
「実教」とは、五種の種姓に悉く仏性があるということである。若しも現世に必ず入滅する
としたら、「定性二乘」と名づける。とはいえ、『法華経』と『楞伽経』と『宝性論』などが
説くように阿羅漢に成ったあと、大菩提すなわち成仏の方向に赴かないわけではない。また、
『宝性論』と『仏性論』が説くように大乗を誹謗した人が無量の時間がかかって悟りを開く
ため、一闡提と呼ばれると言えども、究極に「無清淨性」とは言えない。法蔵は以下の『仏性
論』の一闡提説を指摘している。
《佛性論》卷 1〈1 破小乘執品〉:「問曰。若爾云何佛說 眾生不住於性、永無般涅槃耶。答曰。
若憎背大乘者、此法是一闡提因。為令眾生捨此法故。若隨一闡提因、於長時中輪轉不滅。以
是義故、經作是說 。若依道理、一切眾生皆悉本有清淨佛性。若永不得般涅槃者、無有是處。
是故佛性決定本有、離有離無故。」39
ところで、『仏性論』に於ける「仏性」とは如何なるものであろうか。 真諦訳の『仏性論』
は言うまでもなく漢字圏仏教の経論に於けるかなり有名な書物であるが、我々はあらゆる書
籍と同様に批判的に読む必要がある。しかも客観的な視点から批判する義務もある。『仏性
論』の基本的な概念は一切衆生には悉く仏性があるということである。ここで考えなければ
ならぬ問題がある ― 「仏性」とは如何なるものであろうか。
まず、「縁起分」に於ける「仏性」の定義を考えよう。「仏性」とは、人法二空によって顕され
る真如であると定義される。以下のようである。
《佛性論》卷 1:「佛性者、即是人法二空所顯真如。」40
この文脈から判断して、「一切衆生には悉く仏性がある」という発言を「あらゆる衆生には悉
く真如がある」と言い換えることができるのであろう。つまり、真如と仏性は取り換え可能な
用語である。人法二空を会得すればするほど、その真如が顕れるという。
「破小乗執品」に無仏性説の提唱者を批判して否定するために同様な論理が使用されるが、
この場合、仏性は真如ではなく空性であるという。以下のようである。
《佛性論》卷 1〈1 破小乘執品〉:「二者不及過失。若汝謂有眾生無佛性者、既無空性、則無
無明。若無無明、則無業報。既無業報、眾生豈有。故成不及。而汝謂有眾生無佛性者、是義
不然。何以故。汝既不信有無根眾生。那忽信有無性眾生。」41
「若汝謂有眾生無仏性者、既無空性」、すなわち無仏性の衆生が存在するとすれば、その衆
生には空性がないという。ここで「仏性」と「空性」は同一と主張される。上記の論理を考え合
わせると、「仏性」とは「真如」と「空性」と同じものであると言える。このポイントに対する反
論がない。大乗仏教のコンテクストならば、真如が空性であると言っても良い。『仏性論』
6
のここに「空性」が無ければ、無明と業報などの十二縁起に於ける因子は不可能になると主張
される。したがって、これらの因子が無ければ、衆生が存在する原因もないので、仏性すな
わち空性が無いという見解は誤謬である。
空と縁起は同一であるという見解は新たな思想ではない。周知のように龍樹は因果律たる
縁起は空であると主張した。以下のようである。
《中論》卷 4〈24 觀四諦品〉:「眾因緣 生法、我說 即是無 42、亦為是假名、亦是中道義」43
yah pratītyasamutpādah śūnyatām tām pracaksmahe|
sā prajñaptirupādāya pratipatsaiva madhyamā||18|| 44
しかし、『仏性論』の場合、空と真如は縁起のみならず仏性でもある。換言すれば、『仏
性論』の作家は龍樹の思想を直接的に借用して仏性の概念に結び付く。単に言えば、仏性は
真如と縁起と空である。前者を否定すれば、後者も拒否して邪見になる。このような論理に
よって成仏できぬ衆生が存在するという無仏性説の提唱者の論拠を否定する。その点で、「仏
性」には論争的な意味もあると言える。
仏性が真如であると主張するだけで反論者の見解を否定できるかどうかは疑問である。反
論者の視点から見れば、真如は必ずしも仏性というわけではない。有仏性説の論者が定義し
た「仏性」の意味は単なる論者の見解に過ぎない。
次の巻の「三因品」に進むと、「仏性」の意味が変わる。「仏性体」を法身を成し遂げるための
原因過程の三種類に分ける。
《佛性論》卷 2〈1 三因品〉:「復次佛性體有三種。三性所攝義應知。三種者、所謂三因三種
佛性。三因者、一應得因、二加行因、三圓滿因。」45
「仏性体」を仏性の真髄と呼んでも良いであろう。ここで仏性の真髄を三種類の原因に分類
する。それらは「応得因」と「加行因」と「円満因」である。既述したように仏性が人法二空によ
って顕される真如ならば、この真如の体すなわち真如の真髄を三種類の原因に分けるのは拡
大解釈である。中観の視点から見て、実際には真如の真髄をこのように解釈するかどうかは
疑問であるかもしれない。何故ならば、真如の真髄に達すると同時に言語道断の心境に到る
のではないであろうか。いずれにしてもその疑問を暫く横に置いて本書の仏性の定義に集中
しよう。
まず「応得因」を考えよう。
《佛性論》卷 2〈1 三因品〉:「應得因者、二空所現真如。由此空故、應得菩提心及加行等。
乃至道後法身。故稱應得。」46
これはもともとの仏性の定義を拡張する。原文の「仏性者即是人法二空所顕真如」を考え合
わせると、仏性体は仏性の定義の意味を超越しているのである。真如が何たるかを解明した
上で更に結果も説いて仏性に意味を加える。その点で、仏性の一部は「二空所現真如」のみな
らず「乃至道後法身」でもあると言える。
次に「加行因」を考えよう。
《佛性論》卷 2〈1 三因品〉:「加行因者、謂菩提心。由此心故、能得三十七品。十地十波羅
蜜。助道之法。乃至道後法身。是名加行因。」47
「加行因」とは菩提心を意味する。上記の応得因も空による菩提心を説く。この菩提心に駆
られて多数の行を究めて法身に至る。これも「縁起分」に於ける仏性の定義の意味を超えるの
である。また、仏性体すなわち仏性の真髄は原因のみならず結果でもある。
次に円満因を考えよう。
《佛性論》卷 2〈1 三因品〉:「圓滿因者、即是加行。由加行故、得因圓滿及果圓滿。因圓滿
者、謂福慧行。果圓滿者、謂智斷恩德。」48
円満因とは、「加行」すなわち仏法の実践と応用である。この加行により因果の円満を得る。
因の円満は福(punya)と智慧(prajñā)の行である。果の円満は智徳と断徳と恩徳(tri-guna)。ま
た、こちらで原因と結果が特に強調されている。
仏性体は縁起に基づいた因果過程を全体的に包含するものである。一切衆生に悉く仏性が
あることを考え合わせると、その因果過程の開始はどの生き物にも可能性であると言える。
なぜこの過程が可能性であるかというと、仏性は真如もしくは空性すなわち因果律自体だ
からである。成仏する原因があるならば、成仏する結果もある。仏性体は二空によって顕さ
れる仏性・真如による法身への過程の全体だと言わねばならぬ。
その点で、一切衆生には悉く仏性があるという概念は、あらゆる物事には実体が無く空で
あるため、あらゆる生き物は法身への過程の道を歩んで成仏できるという意味である。この
ような論理は無仏性説を否定するのである。既述したように「仏性」すなわち因果律による成
仏の過程の可能性のない衆生が存在すると主張すれば、同時に因果律も拒否して邪見になる。
その点で、有仏性の論者は『仏性論』の「仏性」の定義に論争的な意味を加えた。
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さて、また『佛性論』によると、既述した「自断説」と「無佛性」とは、「不了教」すなわち不
完全の教えである。これが理由で一切衆生に悉く仏性がある、と法蔵も述べている。
阿羅漢と縁覚は永遠に入滅することはなく、必ず世界に戻ってくるから二乗にも仏性があ
るという概念は、法蔵の『華厳経探玄記』にも述べられている。法蔵は『法華論』を引用し
て「未熟」が「無根」ではないことを強調する。
《華嚴經探玄記》卷 1:「又法華論中、四聲聞內 退菩提心及應化。此二聲聞佛與授記。決定及
增上慢此二根未熟故、菩薩與授記、方便令發心。解云既但云未熟、不言無根、故知定當得佛
菩提。又復云方便令發心、即是發菩提心也。」49
その上、『勝鬘経』を引用して二乗の永遠入滅は単なる方便に過ぎないと主張する。
《華嚴經探玄記》卷 1:「勝鬘經云。言諸二乘得涅槃者、是佛方便。唯有如來得般涅槃。又此
經及無上依經、寶性論、佛性論、皆說 入滅二乘於三界外受變易身。又密嚴經中、二乘必無灰
斷永滅。如是等文亦是大乘、不許三乘決定差別。是故名為一乘教。」50
変易身とは輪廻転生の分段身に対する三界外の菩薩と阿羅漢と辟支仏の聖なる身である。
つまり、解脱してこの世を去ったら、三界の外で変易身を受ける。法蔵はここで声聞乗の涅
槃に関する基本的な思想を否定している。「無灰断永滅」という概念は、法蔵の『大乗法界無
差別論疏』に於いてここより深く説明されている。
法蔵の理論の核心は、衆生には究極的な始まりがないので、究極的な終わりもないため、
阿羅漢と辟支仏は、彼らが期待した究極的な「非存在」を実際に体得するのではなく、多数の
経論が説くように、三界外に生まれて変易身を受けるということである。換言すれば、「入滅」
はただ方便のみであり、二乗も成仏できるというより、成仏しなければならないことになる。
《大乘法界無差別論疏》卷 1:「密嚴第一頌云。涅槃若滅壞。眾生有終盡。眾生若有終。是亦
有初際。應有非生法。而始作眾生。解云。此亦是聖教、亦是正理。若入寂二乘灰斷永滅、則
是眾生作非眾生。若令眾生作非眾生、則應有非眾生而始作眾生。唯識論中、說 有漏生於無漏、
則難勿無漏法還生有漏。今亦例同。既眾生入滅同非眾、勿[無?]非眾生法而還作眾生。況復此
是聖言。彼非佛說 。又勝鬘經、無上依經、佛性論、寶性論、皆同說 三界外、聲聞緣 覺及大力
菩薩、受三種變易身。」51
まず理論を述べるために『大乗密厳経』に於ける金剛蔵菩薩摩訶薩の言葉を引用する。
既述したように若し涅槃その現象が滅して壊れることとしたら、衆生には絶対的な終わり
がある。そうならば、始まりもあり、非生法すなわち「非衆生」のものから衆生が生じるはず
であろう。法蔵は更にこの理屈を伸ばして誤謬を指摘する。若しも衆生が「非衆生」に成り得
るとしたら、「非衆生」が衆生になる可能性もあるはずであるが、本経の視点から見れば、こ
れは誤謬である。法蔵も賛成であり、この考え方によって二乗の灰断永滅の概念を否定する。
法蔵は理論を強調するために『唯識論』に於ける同様な概念も引用する。無漏法は有漏法を
生じないと同じように、有漏法である衆生は無漏法から生じるはずがない。『大乗密厳経』
が説くように「無有非眾 生而生眾生界」。ここで「無漏法」を「非衆生法」と同一視とする。さら
に多数の経論が説くように声聞と緣 覚の死後に「非衆生」になるのではなく、ただ三界外に生
まれて変易身を受けるという。
ここでは声聞乗の視点から考えれば、法蔵の理論に反対して経典を引用して否定する根拠
がある。例えば、二乗の視点から見れば、常見 (śāśvata-drsti)と断見 (uccheda-drsti)という
邪見を指摘して法蔵が説く衆生の不断の継続を常見と断言する理由がある。とはいえ、法蔵
が提唱する理屈は縁起による衆生の因果説を前提とする。衆生には絶対的な終わりがあると
したら、「非衆生」の物から始まるはずである。法蔵にとってこれは誤謬である。何故ならば、
衆生が「非衆生」の物から始まるはずがないからである。
なお、無始過去から無限未来まで転生し続けている衆生が縁起によって相対的に存在する
としたら、常見の邪見に堕ちない。逆に、阿羅漢と辟支仏が入滅する際、絶対的に存在しな
くなるとしたら、ある意味で断見の邪見に堕ちる。法蔵は二乗の思想をこのように理解して
いるようである。つまり、法蔵は二乗の入滅を断見と見なすが、実際にはわら人形論法を使
用している。
法蔵の意見に対抗する声聞乗の提唱者も当時にいなかったのであろう。古代にも現代にも
声聞乗の思想家は阿羅漢の入滅を法蔵のように理解していない。如来と阿羅漢の死後にどう
なるかというと、声聞乗は「無記」と答えるのであろう。『阿含経』に於ける適切な一例は以
下のようである。
《雜阿含經》卷 34:「俱 迦那言:「云何?阿難!如來死後有耶?」
阿難答言:「世尊所說 ,此是無記。」
復問:「如來死後無耶?死後有無耶?非有非無耶?」
阿難言:「世尊所說 ,此是無記。」」52
8
法蔵は実際には相手と論争せずに、ただわら人形論法を使用しているのみである。とにか
く、法蔵はこのような理屈を以って二乗を含む一切衆生に悉く仏性があることを主張する。
なお、法蔵は一闡提について二乗と同じように説明する。二乗と同様に凡夫と愚か者と外
道と一闡提にも悉く仏性があると主張する。
《華嚴經探玄記》卷 1:「五遠為者、謂諸凡愚外道闡提悉有佛性。以障重故久遠亦當得入此法。
如佛性論及寶性論皆說 。以一闡提謗大乘因、依無量時說 無佛性。非謂究竟無清淨性。」53
また、一闡提とは、無量の時間がかからないと、成仏できないものである。そのため、「無
仏性」と言っても清浄性が全く無いとは言えない。換言すれば、成仏するには無量の時間が必
要なので無仏性という。こちらにも上記と同様に『瑜伽論』の提唱者からの「定性」の反論に
取り組む。
《華嚴經探玄記》卷 1:「問若爾、何故瑜伽等論、定性二乘及無性有情定不成佛。答此由教門
有了、不了、故有諸說 。若依小乘、一切眾生總皆無有大菩提性。如小論說 。若大乘初教即五
性差別。一分有性、一分無性。如瑜伽等。若依終教一切眾生悉有佛性。如涅槃等經、佛性等
論。若依頓教眾生佛性一味一相。不可言有、不可說 無。離言絕 慮。如諸法無行經等說 。若依
圓教眾生佛性、具因具果、有性有相、圓明備德。如性起品如來菩提處說 。」54
反論は法蔵が主張したような真実ならば、なぜ『瑜伽論』などでは定性二乘と無性有情は
絶対に成仏しないのであろうかということである。こちらから法蔵は判教の五教に頼る。
教門に於いて「了」と「不了」の教えが分類されているため、一説ではなく諸説があるのであ
る。小乗によれば、一切衆生には大菩提の可能性が全く無いという。『瑜伽論』を含む大乘
初教によれば、一切衆生を、仏性がある者と仏性がない者に分類する。終教によれば、『涅
槃経』と『佛性論』などの経論が説くように一切衆生には悉く仏性があるという。頓教によ
れば、眾生と佛性は一味一相すなわち同等であるので、有無に関して言葉で何も言えないの
であるという。円教によれば、『華厳経』の「性起品」が説くように、具因具果、有性有相、
圓明備德である。
しかしながら、斯かる判教の使用は、実際には反論者を黙らせないのであろう。『瑜伽論』
が正義であると主張する反論者は逆に一闡提の無仏性が「了義」であることを証明する判教を
簡単に作り上げることができるのであろう。そのため、法蔵の論拠には説得力が少ない。『華
厳経』を最高の教えとして認めない仏教の思想家にとって五教のドクソグラフィーはそれほ
ど説得力のある枠組みではない。
つまり、法蔵は本論文が研究している『梵網教菩薩戒本疏』を含む多数の著作では『宝性
論』と『仏性論』と『勝鬘経』などに頼って二乗と一闡提を問わず一切衆生に悉く仏性があ
るという見解を披瀝する。しかしながらその見解はただ個人の主観的な意見のみである。言
うでもなくそれは当時の思想家にとって普遍的な意見ではなかった。無仏性の一闡提は成仏
できぬと断言した思想家も多かった。その議論を探るために法蔵の五教の教判と仏性につい
ての見解は有用な資料である。
ここから『梵網教菩薩戒本疏』に於ける仏性についての見解に戻ろう。面白いことに、法
蔵は仏性と孝順との絆を解明して実践的な考え方を提供する。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 2:「前中應起四心。然有四釋。一起四種心。一起佛性心。二孝順心。
三慈心。四悲心。以上生字貫下。以下心字通上。故初二緣 上位。尚須供養。何得有盜。後二
緣 下位。尚須救濟。何容有盜。為對治盜故起此心也。二依佛性起二心。謂生佛性之孝順、佛
性之慈悲。以此二心雖緣 上下二類眾生。而常隨順本性平等故云佛性。即同前戒中常住字也。
三以此佛性有二義故生二心也」55
ここで法蔵は盗戒の内容を説明する。「四心」とは、『梵網経』が説く菩薩の発生すべき心
を指すが、法蔵は「四心」を区別する。『梵網経』の原文は以下のようである。
《梵網經》卷 2:「若佛子。自盜、教人盜、方便盜、盜因、盜緣 、盜法、盜業呪盜乃至鬼神有
主劫賊物。一切財物、一針一草、不得故盜。而菩薩應[應=常 ?]生佛性孝順、慈悲心。常助
一切人生福生樂。而反更盜人財物者。是菩薩波羅夷罪。」56
周知のように窃盗は波羅夷罪である。法蔵は「仏性孝順慈悲心」を「仏性心」、「孝順心」、「慈
心」と「悲心」に分ける。盜罪を対治するためにこれらの心を起こすべきである。仏性に頼って
後の「仏性之孝順」の心と「仏性之慈悲」(二心)を発生する。これらの心を以ってどの衆生に接し
ても常に本性に順じて平等に扱うのである。換言すれば、孝順と慈悲を促すと、自然に衆生
へ慈愛の心を実践する。法蔵が説明するように、上位へ孝順を感じて尊敬すれば、盗むはず
がない。下位へ慈悲を感じれば、彼らを救済したいから盗むはずがない。この二心を起こせ
ば、必ず一切衆生へ孝順と慈悲を感じて悪意の行為は不可能になる。
法蔵はこの仏性には更に二つの意義があるという。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 2:「一常住義。經云。其藥本味停住山中。約此本性清淨義故生孝順
9
心而尊敬。如常不輕菩薩敬四眾等。二約隨緣 義。經云。隨其流處成種種味。約此成染義故生
慈悲心而救度。如常啼菩薩愍四眾等。又以常住即隨緣 、隨緣 即常住、不二故。是菩薩緣 眾生
常具二心也。」57
一つ目の意義は「常住義」である。『大般涅槃経』「如来性品」が説くように 58「雪山に一味の
薬がある。樂味という。その味は極めて甘い。灌木の下にあるから人々は見ることができな
い。誰かが薬の香を聞いたら、当地にその薬があることが分かる。過去に転輪王は雪山中に
この薬があるから、薬を抽出するためにあちらこちらに木筒を造作した。王様が亡くなって
以来にその薬は醋、醎、甜、苦、辛、淡などの様々な味になった。このように薬の一味は各
地に流れて種々な差異がある。その薬の真味は満月のように山に残留する。成染義が故に慈
悲心を発生して衆生を解脱させる。常啼菩薩(Sadāprarudita)が四衆をあわれむようである。
「常住」とは「隨縁」、「隨縁」とは「常住」であり、「不二」が故に菩薩は衆生に順じて常に上記の
二心を具えるべきである。
法蔵はこの概念を更にのばして説明していく。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 2:「又義准眾生皆有二義。一是所依佛性具有二義。如上辨。二是能
依雜染亦二義。一緣 成似有義。二無性即空義。由此染法有即空義故。所依佛性常淨不反也。
由此染法有似有義故。所依佛性隨緣 成染也。今此文中不約染法。但就佛性二義說 二心也。」59
衆生に准じる義について「所依仏性」の二つの意義は既述したようである。「能依雑染」には
二つの意義がある。一つ目の意義は「縁成似有」、二つ目は「無性即空」。染法には空義がある
故に所依仏性は常浄不反である。この染法には似有義がある故に所依仏性は隨縁成染である。
しかしながら、『梵網経』から引用した文章は染法に関するものではない。ただ仏性の二義
についてのものであり、二心を説くのみである。
法蔵はここで三性説を仏性説に転用しているようである。上記の内容と三性説を比較しよ
う。
三性説 本書の三性説
真実性
不変
隨縁
所依仏性 常住義
⇆ 隨縁義
依他性
無性
似有
能依雑染 無性即空義
縁成似有義
所執性
理無
情有
比較すると、法蔵が三性説を仏性説に転用したのは確かなことである。
四心の四つ目の心は悲心である。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 2:「四約自性住佛性在纏、可愍生慈悲心也。約引出及至得果出障、
可尊生孝順心也。」60
衆生の自性が仏性に住しても煩悩に縛れるのであるが故に哀れんで慈悲心を生じるべき。
斯かる心を引き出し、望ましい結果に至り、障壁を取り除いた聖人を尊敬して孝順心を生じ
るべきである。
こちらで注意すべきなのはこの四心(仏性心、孝順心、慈心、悲心)の起源は仏性であるとい
うことである。既述した「仏性之孝順」と「仏性之慈悲」は仏性の起源を指す。当時の社会の価
値観を考えてみると、法蔵が説いた仏性と孝順と慈悲との絆は熱心な仏教徒のみならず、一
般人の価値観にも合っているのであろう。一方、孝順を重視する社会の価値観を考慮に入れ
る。他方、仏性の理屈も使用される。
法蔵は他所で孝行の重要性を強調する。『梵網経』の上巻に孝という語彙が出る。
《梵網經》卷 2:「爾時釋迦牟尼佛。初坐菩提樹下成無上覺初結菩薩波羅提木叉。孝順父母師
僧三寶、孝順至道之法、孝名為戒、亦名制止」61
法蔵は「孝順」を定義して深く説明する。まず孝順の意味を説く。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 1:「孝者、謂於上位、起厚至心。念恩崇敬、樂慕供養。順者、捨離
己見、順尊教命。」62
「孝」とは、上位へ懇ろな心を起こし、恩を念じたり、崇敬したり、楽慕したり、供養した
りすることである。順とは、自己への執着的な見解を離して上位の人の指示を尊び従うこと
である。
法蔵はこちらから孝順が自分の父母を超えて宗教の領域に及ぶことを述べる。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 1:「於誰孝順、略出三境。一父母生育恩。二師僧訓導恩。三三寶救
護恩。然父母有二位。一現生父母。二過去父母。謂一切眾生悉皆曾為所生父母。今由持戒於
父母渴 誠敬養。令修善根、發菩提心。今世後世離苦得樂。又由發菩提心持菩薩戒。救一切眾
生悉令成佛。是故二位父母皆為孝順。又由具持菩薩淨戒。當得道力救護一切諸眾生。故於過
現父母亦為孝順。」63
10
孝順の対象は誰であろうか。三つの対象がある。誕生と養育の恩で親孝行すべき。教育の
恩で師僧に対する孝順を示すべき。救いと護りの恩で三宝に対する孝順を示すべき。
親孝行の場合、現世の父母のみならず、前世の父母に対しても孝順を示すべき。一切の衆
生は過去に自分の父母であった。あらゆる父母を誠に敬うから善根を促して菩提心を発生さ
せられる。現世にも来世にも苦しみを離して楽を得る。また、菩提心を発生させるから菩薩
戒も持って一切衆生を救って成仏させる。そのため、現世の父母と前世の父母は孝順の対象
である。また、菩薩の浄戒を持つから菩提への道の力を得て一切衆生を救ったり護ったりす
る。そのため、過去と現在の父母のためにも孝行する。
法蔵はこれから師僧と三宝に対して孝順を示すことを説明する。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 1:「又供養孝順師僧三寶。下文具顯。又以如說 修行為報其恩故。為
孝順是至道法者、謂至極之道、莫先此法。又以此道能至於果故云至道。此即道能至也。謂作
了因至涅槃果。又作生因至菩提果。」64
師僧と三宝を供養したり孝行したりすることも必要である。修行自体は師僧と三宝への恩
に報いることである。孝順は究極的な道法である。何故ならば、この道は望ましい結果に至
ることができて涅槃の原因を完全に生じるからである。また、菩提果の原因も生じる。
最後に法蔵は『梵網経』が説く「孝名為戒、亦名制止」を説明する。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 1:「二會名者、謂行此孝行、即是順教無違、名為持戒。故云孝名戒。
戒謂、制御三業止滅諸惡、故云戒亦名制止也。」65
『梵網経』では「孝」が「持戒」と「制止」と呼ばれる。これは実際に孝を行うことである。孝
行は絶対信頼できるものなので「持戒」と呼ぶ。なお、戒は三業を抑制して諸悪を壊すので、
「戒」も「制止」と呼ばれる。換言すれば、実際に孝行すれば、同時に持戒も自然にすることに
なる。前世と現世との父母や師僧や三宝への恩に報いるので、一切衆生に対して悪意ある動
機をもつはずがない。つまり、一切衆生への恩に駆られて善意で行動すべき。
ところで、永明延寿(904–976)はここの内容を直接に借りて『宗鏡録』に入れた。文章を比
較すると、『梵網経菩薩戒本疏』からの借用は明々白々。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 2:
《宗鏡錄 》卷 80:
「三以此佛性有二義故生二心也。一常住義。 「又約常住隨緣 。而分二種佛性。一常住義。經
經云。其藥本味停住山中。約此本性清淨義故 云。其藥本味。停留山中。如常不輕菩薩。敬
生孝順心而尊敬。如常不輕菩薩敬四眾等。
四眾等。以此佛性。混煩惱而不污 。顯菩提。
二約隨緣 義。經云。隨其流處成種種味。
而不淨。以常住不變故。所以菩薩。不敢輕一
約此成染義故生慈悲心而救度。如常啼菩薩愍 小眾生。以佛性不壞故。二隨緣 義。經云。隨
四眾等。又以常住即隨緣 隨緣 即常住不二故。 其流處。成種種味。如常慘菩薩。愍四眾等。
是菩薩緣 眾生常具二心也。又義准眾生皆有二 以真心不守自性。舉體隨緣 。而作人法。經云。
義。一是所依佛性具有二義。如上辨。二是能 法身流轉五道。號曰眾生。以眾生隨緣 失性。
依雜染亦二義。一緣 成似有義。二無性即空義。 不覺不知。所以菩薩。常生悲慘。又眾生佛性。
由此染法有即空義故。所依佛性常淨不反也。 皆有二義。一是所依佛性。如上二義。一是常
由此染法有似有義故。所依佛性隨緣 成染也。」 住。二是隨緣 。二能依雜染。一緣 成似有義。
66
二無性即空義。由染法有即空義故。所依佛性。
常淨不變也。由染法有似有義故。所依佛性。
隨緣 成染也。」67
本書の影響が『宗鏡録』にも見えることは注意すべきポイントである。永明延寿は禅宗の
基本的な書籍に法蔵の言葉を入れたが、どこから引用したかを指さなかった。とにかく、法
蔵の概念は禅宗の書籍にも見られる。以下に法蔵の間接的な影響を更に探る。
暴力と武器と孝行についての価値観
法蔵が極限状態で暴力と軍事介入を許すのは『梵網経菩薩戒本疏』の一つの特徴である。
石井公成が指摘しているように、法蔵は戒律の解釈について現実主義の態度をとる。すなわ
ち暴力と武器の所有を許すことが現実主義の考え方を反映しているのである。なお、斯かる
価値観は政府あるいは貴族との密接な繋がりからであろう。言うまでもなく当時の政府は紛
争の問題に取り組んだ。筆者は、石井の意見を敷衍して法蔵の価値観に於ける「妥協性」を強
調したい。それぞれの戒の解釈によって法蔵の価値観のみならず、ある程度までの当時の仏
教と政府との関係を探ることもできる。
まず、『梵網経』の第十軽戒「畜諸殺具」は武器と狩猟の道具の所有を禁止する。その上、
菩薩は父母のために復讐してはいけないという。
《梵網經》卷 2:「若佛子、不得畜一切刀杖弓箭鉾斧鬪戰之具。及惡網羅殺生之器。一切不得
11
畜。而菩薩乃至殺父母尚不加報。況餘一切眾 生。若故畜一切刀杖者、犯輕垢罪。」68
武器だけではなく狩猟の道具も有してはいけない。ましてや父母のために復讐をしてはな
らない。武器などを持つと、軽罪になるという。
こちらから、法蔵の孝行に関わる考え方も出現している。古代中国に於いて「考」という美
徳には基本的に暴力と関係ある。若しも自分の父母が殺害されたら、復讐による殺人は義務
になる。法蔵も漢人ではないにせよ、孝行の考え方が強いことは想像に難くない。これも仏
教の信仰と不和としても唐代の社会では妥協するより仕方がない。『梵網経』に於いては、
復讐が正当化できぬという非暴力の態度が顕著であっても、法蔵の解釈によると、父母のた
めの復讐による殺人が軽犯罪であるのに対して、父母以外の人のための復讐は重罪である。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 5:「為父母酬罪得輕。為餘人酬得罪重。」69
つまり、誰のためにしても復讐は罪になるはずだが、例外として父母のためなら、ただ軽
い罪のみである。
ここから法蔵は孝行を果たす説明を第二十一軽戒で続ける。この戒は暴力と孝行に関わる
ことである。『梵網経』は以下のようである。
《梵網經》卷 2:「佛言。佛子不得以瞋報瞋以打報打。若殺父母兄弟六親不得加報。若國主為
他人殺者、亦不得加報。殺生報生不順孝道。尚不畜奴婢打拍罵辱。日日起三業口罪無量。況
故作七逆之罪。而出家菩薩無慈心報詶。乃至六親中故作報者、犯輕垢罪。」70
既述したように『梵網経』は暴力ましてや復讐を許していない。菩薩は自分の父母と兄弟
と親戚が虐殺されたとしても復讐を一瞬も考えてはいけない。また、非暴力の立場は明白。
なお、この戒の場合、奴隷をもってはいけないことも強調されている。法蔵はこの戒を解釈
するために問答を使用する。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 5:「問俗禮之中君父之怨不報非孝。何故此中若報非孝耶。答道與俗
反。俗據現在不說 當來因果業報。今若重酬苦業滋多、令其君父沈淪永劫、何成孝道。況此怨
等何必前生非己父母。今若殺彼豈成孝行。故云不順孝道也。」71
ここの問答は、『梵網経』または仏教の非暴力の原則と俗世の価値観との違いという問題
に応している。既述したように古代中国は「孝」に比重を大いに置いた。親戚のために復讐し
てはいけないのならば、いかに孝行の美徳を果たすのかという問題に関して、法蔵は以上の
妥協的な態度から仏教的な立場に一歩退く。まず、当来の因果応報を説かない俗世は仏道と
異なるという。「問俗禮之中君父之怨不報非孝」という質問は『礼記』に言及しているのであ
る。以下のようである。
《禮記》〔曲禮上〕:父之讎,弗與共戴天。兄弟之讎不反兵。交游之讎不同國。
自分の父親を殺した人と一緒に同じ世界に生きてはいけないという。同じく兄弟と親友の
ための復讐も義務である。これは封建の思想に基づいた俗世の考え方であり、仏教と異なる
ものである。唐代の時代に教育のある人は必ず『礼記』などの儒教古典をよく勉強したので、
このような価値観は普通のことであった。とはいえ、法蔵の仏教的な視点から見れば、復讐
すればするほど、望ましくない結果も多くなる。換言すれば、復讐に燃えて他人を殺すのな
ら、逆に被害者の親戚も同様に加害者を殺そう、という悪循環が永遠に続く。『礼記』が主
張する復讐の義務で自分の父親を殺害した人を殺しても、彼の息子と兄弟の親友にも同じく
復讐する義務があり、悪循環になることは想像に難くない。斯かる行為により現世の父だけ
ではなく前世の無数の父もその悪循環に沈んで永遠に苦しむ。その視点から見れば、復讐は
真の孝行ではない。
これと上記の妥協的な発言―父母のための復讐が軽罪に対して他人のためなら重罪―を考
え合わせると、法蔵の妥協性は興味深い。彼はある程度まで暴力を許しているが、他方では
正統派の仏教徒のように不可避な因果応報の恐れを利用して仏教的に解釈している。なぜ法
蔵の価値観においてこのような妥協的な態度があるのであろうか。
また、当時の環境を考察せねばならない。儒教の価値観に基づいた当時の中国社会に置け
る仏教徒にでも伝統と義務から完全に外せるはずがなかったのであろう。その上、本書を読
んだ人のほとんどは、一般の庶民ではなく識字能力のある貴族であったのであろう。さらに
貴族の視点から見れば、義務と孝行などからのプレッシャーもかなり強かったのであろう。
つまり、因果応報が必ず苦しいとしても、少なくとも父母の為ならば、ただ軽罪だけだとい
う慰めを、父母のために復讐せざるを得ないという惨状に於ける人に法蔵は与えているので
はないかと言えよう。
武器の所有について
武器の問題に戻ろう。また、『梵網経』によれば、武器を所有してはいけないという。し
かしながら、法蔵は暴力の問題と同様に特定の場合には妥協しても良いという。仏法を守る、
12
あるいは衆生を鎮めるためならば、武器を有しても破戒しないと法蔵は断言する。斯かる場
合、悪人の武器を破壊するために購入することと乞うことが許されている。これも戒を犯さ
ない特定の場合である。ここでは、また法蔵の悪の内でましな法という妥協的な考え方が見
られる。つまり、菩薩にとって武器の所有は基本的に不適切なことであっても、望ましくな
いとしても、特定の例外的な場合が認められる。第十戒に関する法蔵の解釈は以下のようで
ある。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 5:「七通塞者。義准為護佛法、及調伏眾生、畜應不犯。及從惡人乞
得、擬壞、亦未壞無犯。反上一切隨畜皆犯。是故菩薩見他畜勸令毀破。若勸不得、應乞應贖。
猶亦不得、應以威逼等撿 挍 72 要當令止。」73
規則の例外として仏法の守護または衆生の調伏ならば、戒を犯さないことになる。なお、
悪人から乞うた武器を破壊するつもりであっても、まだ破壊していないという場合にも破戒
することはない。これらの場合を除き、武器を有すると、戒を犯すことになる。そのため、
菩薩は、他人が武器を持っていることを見れば、武器を破戒するように勧める。乞うべき、
購入すべき。どうしても受けられないとしたら、脅威などでも良いという。
「調伏眾生」とは、反乱を鎮めるという意味であろう。7 世紀の中国の政治環境では、
反乱のため社会が崩壊すると同時に仏教も被害を受ける可能性は現実であった。こちらで
仏法を守るべきというポイントが強調されていることから判断すると、法蔵が独裁政治を支
持していることではなく、仏教機関の福祉について懸念しているのであろう。なお、こちら
で注意すべきのは、法蔵が誰のために本書を書いたのかということである。
既述したように識字能力のある貴族は本書の標的であろう。また、当時の現実を考え合わ
せると、軍隊の武器を捨てる要求は仏教徒の諸侯と官僚にとっても非現実的なことであった
のであろう。つまり、法蔵は彼らのために破戒の条件を改定している。なお、『法蔵和尚伝』
によれば、法蔵の父親は、軍隊に左衛中郎將の地位を占めた。
《唐大薦福寺故寺主翻經大德法蔵和尚傳》卷 1:「祖父自康居來朝。庇身輦下。考諱謐皇朝贈
左衛中郎將。」74
法蔵の祖父は康国・サマルカンドから来朝して皇帝の下で勤務した。父親は左衛中郎將であ
った。
ところで、『法蔵和尚伝』は法蔵の生涯の略図を描くための資料としてかなり有用なもの
である。陳錦華が指摘するように本書ほど国際的な書籍が非常に少ない。『法蔵和尚伝』は
新羅で新羅人の崔致遠によって著わされたサマルカンド人の孫であった法蔵という唐代中国
の高僧の伝記である。本書は 904 年に著わされた。1092 年に高麗の大興王寺にて木版として
出版された。1145 年に華厳宗の義和は呉江県(現代の蘇州)の白塔教院にて「資福」の仏典のた
めに華厳宗に関する書籍を蒐集していたが、彼が持っている『法蔵和尚伝』の一冊は良くな
かったが、韓国から良い一冊が届いた。義和は 1149 年以前に新版を印刷した。この版は日本
に輸出された。結局、京都の高山寺に保管された。1670 年に日本僧の斉雲は宋代版の『法蔵
和尚伝』を写本した。数年後、華厳宗の僧濬[そうしゅん](1659-1738 年)は 1699 年に新版
を出版した。無著道忠(1653-1744 年)は斉雲の写本にうんざりして『新刊賢首碑伝正誤』とい
う注釈書を著わした 75。言うでもなく本書は東アジアに於ける仏教の代表的な人の手にわた
って東アジア仏教の国際性を反映しているものである。
とはいえ、『法蔵和尚伝』には問題もある。また、陳錦華が指摘するように題目の「唐大薦
福寺故寺主」では法蔵が「故寺主」と呼ばれるが、実際には大薦福寺の寺主ではなかった。武則
天との関係の詳細に欠けていることも問題である。実叉難陀と法蔵との関係についての記録
にも誤りがある 76。いずれにしても、これらの些細な問題を考慮に入れながら『法蔵和尚伝』
を歴史の資料として使用できる。
さて、法蔵は当時の軍隊との繋がりがある家族で生まれたので、軍事のことについて疎外
感を感じなかったことを想像に難くない。その上、伝記を参考すると、彼が参戦したことに
気付く。反乱を鎮圧しても良いという考え方は契丹の事件に反映される。696 年、契丹によっ
て反旗が翻された際、武則天は造反に反応して軍隊を召集した。『法蔵和尚伝』によると、
法蔵は契丹に対して魔術師として軍事行動に関与したという。
《唐大薦福寺故寺主翻經大德法蔵和尚傳》卷 1:「神功元年契丹拒命出師討之。特詔藏依經教
遏寇虐。乃奏曰。若令摧伏怨敵請約左道諸法。詔從之。法師盥浴更衣建立十一面道場置光音
像行道。始數日羯虜覩王師無數神王之眾。或矚觀音之像浮空而至。犬羊之群相次逗撓月捷以
聞。天后優詔勞之曰。蒯城之外兵士聞天鼓之聲。良鄉 縣中賊眾覩觀音之像。醴酒流甘於陳塞。
仙駕引纛於軍前。此神兵之掃除。蓋慈力之加被。」77
神功元年(697 年)、契丹は反乱を起こした。武則天は法蔵を呼び出して仏法の経と教えによ
って敵の反乱を鎮圧するように命令した。法蔵は、敵を征服するために左道諸法を利用する
13
許可を求めた。武則天はそれを許した。彼は入浴して衣を着替えた。立十一面の道場を建て
て、光音[観音]像を置いて儀式を執り行った。数日後に羯虜(契丹)は王師と無数の神を見た。
一部の人は空中に観音が来ることも見た。羊と犬は彼らに嫌がらせをした。月間以内に勝利
が報じられた。武則天は「蒯城 78 の外で兵士は天鼓の音を聞いた。良鄉 県では賊軍は觀音の
姿を見た。甘い酒が大隊に流れてきた。仙人は鬼頭を軍隊の前に引いた。神の兵士は敵を負
かせた。(菩薩の)慈悲のおかげで成功したのである!」と宣言した。
この事件は『梵網経菩薩戒本疏』の撰述以降に起こったのであろうが、法蔵の戦争につい
ての価値観を反映しているのは確かことである。しかしながら、法蔵は参戦したといっても
反乱を鎮圧するための暴力的な手段を容認したとは言えない。「左道諸法」とは魔術である。
法蔵は、非暴力の手段すなわち錯覚を使用した。造反者はそれを見たら逃走したと言われる。
また、法蔵は中道を歩んで妥協的な措置をとった。とはいえ、この錯覚は何だったのであろ
うか。陳錦華が思索するように、若しこの事件が実際に起こったとしたら、造反者が見た錯
覚は鏡と装置で作られたのであろうか 79。
仏教の機関を支持する当時の政府の安定性と仏法の継続性との不可欠な関係も法蔵の心の
負担であったのであろう。政治に携わっていた法蔵の視点から見れば、政府を護ることは仏
法を護ることとあまり異ならないのであろう。理想的に言えば、三宝に帰依した政治家も武
器を捨てるべきであるが、当時の現実はそれほど理想的な環境ではなかったということを忘
れてはいけない。
奴隷の問題
『梵網経』第十二戒に於いて奴隷の売買が軽罪であるにせよ、法蔵は奴隷制度の存在を認
めて平等主義のような概念に全く言及しない。この戒は以下のようである。
《梵網經》卷 2:「若佛子、故販賣良人奴婢六畜、市易棺材板木盛死之具、尚不自作況教人作。
若故作者、犯輕垢罪。」80
奴隷だけではなく畜生の売買も許されていない。しかしながら、また、法蔵は上記の暴力
の問題と同様に破戒の厳しさを量ると、多層があると述べている。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 5:「六輕重者、約境。賣良人最重。販奴婢應次。六畜應輕。死具最
輕。約心。有耎 中上分輕重。約事。為求多利賣、與惡人令極苦等、理應最重。」81
換言すれば、奴隷の売買について破戒の厳しさは社会階級の差で決める。良人の売買すな
わち一般人を奴隷化して売るのは最も重い。次に奴婢すなわち奴隷の売買は良人より軽い。
畜生はただ軽罪のみである。なお、行為自体について悪人と一緒に利益を欲しがり他人に究
極の苦しみを与えるのは最重である。
また、戒の条件を変えてこれほど妥協しているのは何故であろうか。
ここでは「良人」という単語に注意を払うべき。何故ならば、「良人」が「賤民」、または「奴婢」
と対照をなしているものだからである。これらは当時の法律による用語であった。653 年に撰
述した『唐律疏議』に於いては、良人と奴婢の違いを明らかにして定義する条がある。単に
言えば、当時の奴隷制度は国家法律による制度であった。奴隷制度は仏教の倫理を問わず、
ただ日常生活の一部だけであった。
これをよく考察すると、法蔵の視点が明らかになるのであろう。その上、法蔵が述べる奴
隷についての価値観は当時の社会規範から生じたものである。このポイントを明らかにする
ために『唐律疏議』を熟考する必要がある。
『唐律疏議』は過去の『武徳律』と『貞観律』に基づいた『永徽律』と『疏議』の解釈と
の融合である。『唐律疏議』は秦漢、魏、晉、南北朝と隋朝などの立法と司法を吸収して儒
教的な倫理の原則を論理の根拠とする。李忠建は本書が法律倫理の儒教化を代表するものと
主張する 82。
過去の法律制度と比べて寛容的な価値観が見られるという。一例として死刑の場合、『唐
律疏議』巻第四「名例・凡八條」に於いて「九十以上,七歲 以下,雖有死罪,不加刑」という 83。
つまり、七歳以下と九十歳以上の人は死刑に相当する罪を犯しても免除特権を受ける。何故
ならば、以下の疏が引用する『礼記』に「九十曰耄、七歲 曰悼、悼與耄雖有死罪、不加刑」84
という免除条件があるからである。五経に属する『礼記』の引用は儒教の価値観を反映して
いるのである。
『唐律疏議』は過去の法律より人道的な制度であっても、良人と奴婢を峻別する。処罰の
厳しさは社会階級で決めた。以下の条を考察しよう。
『唐律疏議』巻第二十二「鬥訟・凡一十六條」
諸部曲毆傷良人者〔官戶 與部曲同〕加凡人一等。加者、加入於死。奴婢、又加一等。若奴婢
毆良人折跌支體及瞎其一目者、絞;死者、各斬。85
14
諸部曲(主人に付属する賎民だが、奴婢ではない)が良人(官戶 と部曲も同様)を殴ってけがを
させたならば、凡人より処罰に一等を加重する。加重とは死刑に至ることも可能である。加
害者が奴婢ならば、更に一等を加重する。若しも奴婢が良人を殴って犠牲者の手足が折れた
ら、もしくは片目が失明したら、絞首刑になる。犠牲者が死んだら、斬首刑になる。
本条の以下に主が奴婢を殺すことに関する条もある。
「諸奴婢有罪、其主不請官司而殺者、杖一百。無罪而殺者、徒一年。」86
奴婢が罪を犯した際、その主が官司に請わずに奴婢を殺せば、杖一百の刑になる。換言す
れば、奴婢の主人は棒で百回打たれることになる。奴婢が無罪であっても殺せば、徒一年す
なわち懲役一年の判決を受ける。
これらの条文から判断すると、ある程度まで奴婢が法律によって守られたとしても平等社
会であったとは全く言えない。官戶 と良人、部曲と奴婢などの区別が当時の法律制度と社会
にしっかり埋め込まれた。
奴婢の売買と関係ある罪―例えば、親戚を奴婢として売ること―は法蔵と同様に厳しさの
程度は階級の差で決められた。
『唐律疏議』巻第二十「賊盜・凡一十五條」
諸略賣期親以下卑幼為奴婢者、並同鬥毆殺法;無服之卑幼亦同。即和賣者、各減一等。其賣
餘親者、各從凡人和略法。87
期親以下の卑幼(自分より若い家族、弟、妹、子、孫と兄弟の子孫などの人)を奴婢として売
る罪は「鬥殴殺法」すなわち殴殺と同じような厳しさで扱われるのである。無服 88 の卑幼も同
様である。共謀して売れば、共謀者たちの処罰に一等(厳しさ)を減らす。余親 89 を売れば、
共謀者たちの処罰は「凡人和略法」(賊盗律)に従う。
以下の疏に妻の奴隷化の問題に関する問答がある。
問曰:賣妻為婢,得同期親卑幼以否?
答曰:…此條「賣期親卑幼」,妻固不在其中,只可同彼「餘親」。90
妻を奴隷として売れば、期親卑幼と同様に扱われるのであろうか。自分の妻はこの「賣期親
卑幼」の条と関係ない。ただ、「余親」に属する。
社会の法律による処罰の厳しさは親族の遠近で決められた。当時の裁判官は個人の地位と
犠牲者との関係を考慮に入れなければならなかった。この差別的な判断は法蔵に思想にも見
られるのではないかと考える。また、法蔵の言葉を考察しよう。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 5:「六輕重者。約境。賣良人最重。販奴婢應次。六畜應輕。死具最
輕。」91
人を奴隷として売るのは基本的に悪行であっても奴婢より良人のほうが邪な行為であると
法蔵は解釈する。『唐律疏議』と同様に罪の程度が分類される。その罪の厳しさは犠牲者の
階級で決まるものである。
社会法律は法蔵の解釈に影響を与えたのではないかと考えられる。また、良人を奴隷とし
て売るのは因果応報の問題だけではなく法律違反であった。
なお、法蔵は奴隷制度に不満を全く示さない。7 世紀の唐代中国で生まれた法蔵にとって奴
隷制度は社会の一部であった。さらに、『梵網経』第二十一戒に於いて「尚不畜奴婢、打拍罵
辱、日日起三業、口罪無量」92 という反奴隷の感情が見られるとしても、法蔵は「故慳戒・不慳
戒」について『瑜伽師地論』を引用しながら特定の状況(三十種不施無犯)93 で奴隷を寄贈しな
いとしても「故慳戒」を犯さないと主張する。奇妙にも法蔵はここの矛盾に気づいていない。
『梵網経』による菩薩戒では奴隷を持ってはいけないが、なぜ『瑜伽師地論』では諸菩薩は
奴婢を持っているのであろうか。『瑜伽師地論』から引用した文章は以下のようである。
《瑜伽師地論》卷 39〈9 施品〉:「又諸菩薩於自妻子奴婢僕使親戚眷屬。若不先以正言曉喻
令其歡喜。終不強逼令其憂惱施來求者。雖復先以正言曉喻 令其歡喜生樂欲心。而不施與怨家
惡友藥叉羅剎 兇暴業者。不以妻子形容軟弱族姓男女施來求者令作奴婢。」94
ここでは菩薩が奴婢を持つことは明白な事実であるにもかかわらず、『梵網経』の菩薩戒
では奴婢を持ってはいけない。法蔵はこの矛盾に気づいていない。奴隷を有して虐待すれば、
無量の罪をもたらすと主張するが、奴隷制度自体を批判しない。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 5:「尚不畜下、明舉輕況重。以畜奴婢身打口罵隨起瞋惱、三業罪咎
口業偏多。故云口罪無量。」95
当時に奴隷制度を受け入れた仏教の思想家は法蔵だけではなく八世紀に天台宗の明曠も、
在家なら虐待して口の罪をもたらさない限り、奴隷を持っても良いと雖も、出家者なら許容
できないという。
《天台菩薩戒疏》卷 2:「尚不等者出家制不得畜。在家開畜、不得非理打罵起業。」96
15
また、このような妥協の態度が当時の社会規範や現実を反映しているのは確かである。
仏教の思想家は『梵網経』が要求する奴隷制度の廃止の手段に欠けて苦しい歩み寄りに努
めた。
法蔵と瑜伽戒
既述したように法蔵は玄奘三蔵が訳した『瑜伽論』という瑜伽系のテキストをよく引用す
る。同時に『梵網経』の戒律を「瑜伽戒」に比べることが少なくない。一般的に言えば、東ア
ジアでは「菩薩戒」とは二種類の戒律を指す。「瑜伽戒」は『瑜伽師地論』の菩薩地の戒品に相
当する『菩薩地持経』に基づいた戒律の制度であり、三聚浄戒を説くのはこの制度の特徴で
ある。「瑜伽戒」は「地持戒」と同じものである。吉村誠が指摘するように、97『梵網経』に基
づいた菩薩戒が中国に現れると同時に「地持戒」は「瑜伽戒」として知られるようになった。
法蔵は『梵網経』を注釈するが、じつは、『瑜伽師地論』からの影響がかなり多い。『梵
網経菩薩戒本疏』は、ある意味で『梵網経』の菩薩戒のみならず「瑜伽戒」の注釈でもあると
考えられる。その影響は如何なることであろうか。既述したように法蔵は現実主義の態度を
とり、常に妥協するのは、ある程度まで『瑜伽師地論』からの影響からであろう。一例とし
て、法蔵は殺戒の破戒の例外に関して『瑜伽師地論』を引用して、慈悲に駆られる殺人は破
戒に至らないのであり、功徳を積もる行為であるという態度をとる。以下のようである。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 1:「第八通局者。於中有二。先通後局。通者。或有殺生而不犯戒生
多功德。如瑜伽戒品云。謂如菩薩見劫盜賊。為貪財故欲殺多生。或復欲害大德聲聞獨覺菩薩。
或復欲造多無間業。見是事已起心思惟。我若斷彼惡眾生命當墮地獄。如其不斷彼命無間業成
當受大苦。我寧殺彼墮於那落迦。終不令其人受無間苦。如是菩薩意樂思惟。於彼眾生或以善
心或無記心知此事。已為當來故深生慚愧。以憐愍心而斷彼命。由是因緣 於菩薩戒無所違犯。
生多功德故也…」98
誰かが特定の場合にて殺生しても戒を犯さなくて功徳をたくさん生じる可能性を法蔵は認
める。これは『瑜伽師地論』に於ける有名な発言である。若しも菩薩が強欲に駆られて衆生
をたくさん殺そうとする人、あるいは聖人を殺す人を見て、地獄に堕ちて苦しむことを防ぐ
ためにその人を殺したら、戒を犯すことがなく、実際に功徳の行為であるという。つまり、
殺生が必ずしも破戒の行為というわけではないことが認められる。『瑜伽師地論』と同様に
法蔵も持戒に妥協する。
また、婬戒にも同じように『瑜伽師地論』を引用して例外を認める。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 3:「第八通塞者。先通中謂得位菩薩有在家者為化眾生有開不犯。如
瑜伽戒本云。又如菩薩處在居家。見有女色 99 現無繫屬。習婬欲法繼心菩薩求非梵行。菩薩見
已作意思惟。勿令心恚多生非福。若隨其欲便得自在。方便安處令種善根。亦當令其捨不善業。
住慈愍心行非梵行。雖習如是穢染之法而無所犯。生多功德。出家菩薩為護聲聞聖所教戒令不
壞滅。一切不應行非梵行。」100
つまり、若しも在家の菩薩が性交をしたい未婚の女性に会って、その女性が菩薩に対する
敵意を感じることを防ぐために方便として非梵行すなわち性交をすると同時に善根を植えて、
不善業を捨てさせたら、非梵行したにも関わらず、慈悲心をもったため、破戒することがな
く、実際に功徳を生じる行為である。換言すれば、この場合、非梵行は性欲の結果ではなく
慈悲に駆られる行為である。そのため、功徳の行為である。とはいえ、出家菩薩すなわち比
丘戒をもつ菩薩ならば、声聞の戒律を守らなければならないため、たとえ慈悲心があるとし
ても性交は禁じられる行為である。
ここで注意すべきのは、慈悲に駆られる性交を許す発言は以前に引用された経典の文章の
意味に背くことである。法蔵は当初に婬戒を解釈して女性嫌悪の態度をとるようである。例
えば、男性の苦しみはすべて女性によるものであるということを説く経典を引用する。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 3:「正法念處經云。世間男得苦皆由於女婦。非少非中年莫不由此因。
女人壞世間令善悉滅盡。天中大繫 縛莫過於女色。女人縛諸天將至三惡道。」101
このように男性にとって女性による問題が多いことを強調しても後に慈悲に駆られる性交
を許すのは矛盾である。法蔵にとって何が本音か、何が建前かは不明である。実際に女性が
男性の苦しみの原因と感じたかは明確な真実とは言えぬ。
妄語の解釈にもこのように『瑜伽師地論』を引用して例外を説く。この場合、自分の利益
のためならば、菩薩は絶対に虚言を弄しないが、他人の利益ならば、虚言を弄しても戒を犯
さない。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 3:「第八通局者。先局後通。局者。謂為自起念便犯。文殊問經但起
一念妄語想犯波羅夷。二通者。為他或有不犯。如瑜伽戒云。又如菩薩為多有情解脫 命難囹圄
縛難刪手足難劓 鼻刵 耳割眼等難。雖諸菩薩為自命難亦不正知說 於妄語。然為救脫 彼有情故知
16
而思擇故說 妄語。以要言之。菩薩唯觀有情義利非無義利。自無染心唯為饒益諸有情故。覆想
正知而異說 語。是語說 時於菩薩戒無所違犯生多功德。」102
つまり、他人あるいは有情のために嘘をつくとしたら、戒を犯すことはない。一例として、
人を囹圄から救うために嘘をつくことは慈悲に駆られる功徳の行為なので許されることであ
る。とはいえ、自分自身のためならば、虚言を弄すれば、破戒することになる。
法蔵が『瑜伽論』などのテキストすなわち法相の教えを大乗始教に分類したにも関わらず、
それらのテキストをこれほど引用したことに留意するのが良い。
『梵網経菩薩戒本疏』と毘奈耶
法蔵は菩薩戒律を説明するために『瑜伽論』のみならず、毘奈耶にもよく言及する。法蔵
は大乗主義者であるが、僧侶として比丘戒の知識は不可欠なものであったのであろう。『梵
網経』の菩薩戒を浩瀚な毘奈耶で説明できたのは、法蔵が博識多才の僧侶であったことを反
映するのである。
周知のように毘奈耶は一種類ではない。法蔵は毘奈耶の四種類、すなわち『十誦律』と『四
分律』と『五分律』と『僧祇律』を引用する。盜戒に関する文章では『十誦律』と『僧祇律』
の引用が少なくない。何故これらの引用が必要かというと、特定の場合での破戒の厳しさを
計るためには菩薩戒の文献が不十分だからであろう。毘奈耶の場合、様々な状況で仏陀の判
断が分析できる。毘奈耶に於ける仏陀の倫理観を理解した上で、難しい状況で破戒した菩薩
の罪の厳しさを計りやすくなる。現代の学者の視点から見れば、毘奈耶で菩薩戒を分析する
ことは時代錯誤的であるが、法蔵の時代にそのような区別の概念がなかった。
法蔵が毘奈耶の専門家たる道宣の著作を読むことにも注意すべきである。
法蔵と道宣
法蔵が南山の道宣(596-667 年)の著作の内容を部分的に借りていることは確かである。
これを探る前に道宣の経歴を説明するのが良い。道宣の生涯を概説する資料が少ないが、
『宋高僧伝』十四巻 103 に於いて彼の伝記がある。それと現代の『仏光大辞典』104 の詳細
を利用して道宣伝の生涯の略図を描こう。
道宣あるいは南山大師の俗姓は「銭」、字は「法遍」であった。「法遍」の字から判断すると、
家族は仏教徒であったのであろう。浙江の吳 興人であったが、江蘇潤州の丹徒人あるいは長
城人とも言われた。多くの聖人伝と同様に道宣の母親も妊娠中に奇妙な経験があったと言わ
れる。
《宋高僧傳》卷 14:「母娠而夢月貫其懷。復夢梵僧語曰。汝所妊者即梁朝僧祐律師。祐則南齊
剡 溪隱嶽寺僧護也。宜從出家崇樹釋教云。凡十二月在胎。四月八日降誕。」105
つまり、妊娠中の母親は夢中にインド系の僧侶に話した。道宣が梁朝の僧祐律師で南齊の
剡 溪に於ける隠嶽寺の僧護であったから出家して釈迦牟尼仏を崇拝すべきと言われた。十二
月に懐胎が始まり、四月八日に誕生した。
九歳の頃に詩がよく書けた。十五歳の頃に俗世にうんざりして誦経をし始めた。十六歳の
頃に出家して日嚴寺の慧頵 の下で学んだ後、大禪定寺の智首の下で戒律を勉強した。そのあ
と、長安の南にある終南山の倣掌谷で白泉寺を建てた。そこで『四分律』を研究したり教え
たりをした。彼が樹立した南山律宗という宗派の律学は各地に広がった。道宣は玄奘と一緒
に翻訳に携わった。戒を厳しく守り、禅定に深く入ったりした。複数の寺院、崇義寺や豐德
寺や淨業寺に住した。顕慶三年(658)、長安の西明寺の上座を務め始めた。『釈門章服儀』と
『釈門歸敬儀』などを撰述した。龍朔二年(662)、僧尼が君親を礼拜せねばならぬと高宗は命
令した。玄奘と一緒に命令に反抗して成功した。乾封二年(667 年)、浄業寺に授戒するための
戒壇を建てた。この戒壇の建て方は後世のスタンダードになった。同年十月に道宣は七十二
歳で示寂した。
道宣の戒律観は後世に影響を与えたと言っても過言ではない。それのみならず健筆家でも
あった。法蔵も道宣の概念をよく吸収したことも不思議なことではない。法蔵と道宣の関係
は、やはり一方向であったが、法蔵の戒律観に道宣の影響は顕著である。
用語の借用の一例として、法蔵は道宣が説いた「化教」と「行教」を借りているが、後者を「制
教」と改名した。なお、これらを説明すると、道宣と同じ順番と概念で説いている。まず、道
宣の定義を考察しよう。
《四分律刪繁補闕行事鈔》卷 1:「顯理之教乃有多途。而可以情求大分為二。一謂化教。此則
通於道俗。但汎明因果識達邪正。科其行業沈密而難知。顯其來報明了而易述。二謂行教。唯
局於內 眾定其取捨立其網致。顯於持犯決於疑滯。指事曲宣文無重覽之義。結罪明斷事有再科
之愆。然則二教循環非無相濫。舉宗以判理自彰矣。謂內 心違順託理為宗則準化教。外用施為
17
必護身口便依行教。然犯化教者但受業道一報。違行教者重增聖制之罪。故經云。受戒者罪重
不受者罪輕。文廣自明所以更分者。恐迷二教之宗體妄述業行之是非。故立一門永用蠲別。」106
法蔵が道宣と同じ順番で「化教」と「行教・制教」を説いているということは、言うまでもなく
『四分律刪繁補闕行事鈔』を読んでいたからであろう。法蔵の定義は以下のようである。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 1:「第三攝教分齊者。聖教塵沙。緣 略為二。一是化教。二是制教。
釋此二別略作四門。一約法異。且化教者。謂如來出世。普為一切說 諸因果理事等法。制教者。
謂舉過顯非。立正法制非理。違法犯結示罪名。辨其持犯輕重篇聚。二約機異。謂化教普為通
內 外眾。莫問佛法內 人及佛教外人。通對而說 。制教唯對佛自內 眾私祕制說 。三約益異。謂化
教但令離諸性惡起信等行。制教令其雙離遮性。以護譏嫌威儀可軌。以生物信光顯正法自行化
人故。四約主異。謂化教通於五種人說 。如智論云。一佛。二菩薩。三弟子。四神仙。五變化。
制教唯佛自說 。以制戒輕重餘無能故。由此四異。是故二教成差別也。於此二中制教所攝。然
制通大小。仍是大收。」107
道宣は「化教」を「此則通於道俗」と定義する。同様に法蔵も「謂化教普為通內 外眾、莫問佛法
內 人及佛教外人」と定義する。つまり、因果応報などに関する教義である「化教」が内外を問わ
ず世界に教えられた。それに対して「行教・制教」の場合、法蔵は「二謂行教、唯局於內 眾、定
其取捨、立其網致」という道宣の定義を借りて「制教唯對佛自內 眾私祕制說 」と述べている。換
言すれば、「行教・制教」には内外の区別があり、内衆あるいは出家者のコミュニティーに限ら
れるものである。
ここで注意すべきのは、法蔵は「化教」と「制教」を『梵網経』に当てているが、道宣にとっ
てこれらの概念は『梵網経』と関係ない。『四分律刪繁補闕行事鈔』に於いて『梵網経』へ
の言及は一回しかない 108。実際には、道宣は『梵網経』に興味がなさそうであった。法蔵は
『四分律』のための用語を『梵網経』の菩薩戒に転用した。
また、法蔵は本書にのみならず、『華厳経探玄記』にも「化教」と「制教」を利用して、『華
厳経』の「十明品」を説明する。
《華嚴經探玄記》卷 15〈23 十明品〉:「就顯法中有十句。初所說 者總舉教相。二所發者發起
隱義。三所開者開顯深理。四所示者示其宗本。上四是理教。五所制者制其學處。六所調者違
者折伏。上二是制教。七所教化者化令起行。此一是化教。八所念者六念等法。九所分別者解
釋等法。十所教深妙者大乘至理法。善解等總結多門所聞法也。」109
ここで注意すべきのは、「化教」と「制教」と共に「理教」も述べている。『梵網経菩薩戒本疏』
に於いて「理教」という用語がないが、『華嚴經明法品內 立三寶章』と『華嚴經義海百門』と
『華嚴發菩提心章』に於いて多数の例がある。これらの出典から判断すると、教えの行いで
ある「化教」に対して、「理教」はその行いの基盤あるいは真理である。以下の例を参考しよう。
《華嚴經明法品內 立三寶章》卷 1:「二約法寶者。此有二義。一約理。法中即有佛僧如前同相
中說 。二以行法攝僧。果法攝佛。理教通因果。是故法中自具三寶故。」110
《華嚴經義海百門》卷 1:「七鑒微細者。謂此塵及十方一切理事等、莫不皆是佛智所現、即此
佛智所現之塵、能容持一切剎 海事、理教義無不具足。所以然者。由十方差別雖多。恒是一塵
之十方。」111
《華嚴發菩提心章》卷 1:「十者、自有眾生尋教得真,會理教無礙、常觀理而不礙持教,恒誦
習而不礙觀空。故《經》曰:『成就第一誠諦之語,如說 能行,如行能說 ,乃至學三世諸佛無
二語,隨順如來一切智慧』等,此則理教俱 融,合成一觀,方為究竟也。」112
道宣との関係に戻ろう。声聞の戒律が邪見を破り、精神による悪意を防ぐものではないと
いう概念も道宣から採用したようである。法蔵の考えは以下のようである。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 1:「聲聞小戒不防意惡不破諸見。不名真梵。諸菩薩等所持三聚具防
三業破見入理。方名實梵。此如華嚴梵行品說 。」113
つまり、法蔵によれば、声聞の「小戒」を「真梵」と呼べない。邪見を破り真理を理解するの
は菩薩が保つ三聚浄戒のみである。そのため、三聚浄戒を「真梵」と名づける。こちらで『華
厳経』「大方廣佛華嚴經梵行品第十二」114 に言及しているのに、そこにおいてこのように小乗
戒律を軽視する言葉がない。面白いことに、法蔵の『華嚴經探玄記』「梵行品」にもこの概念
がない。法蔵が他所で道宣の概念を採用することを考え合わせると、道宣も小乗戒律を同様
に軽視するため、これも道宣から戒律についての概念を採用した一例ではないかと考えられ
る。道宣の感情は以下のようである。
《四分律刪繁補闕行事鈔》卷 3:「若據二乘戒緣 身口。犯則問心。執則障道。是世善法。違則
障道。不免三塗。定約名色。緣 修生滅為理。二乘同觀。亦無諦緣 之別。」115
つまり、二乗の戒律は「身」と「口」に即するもののみである。戒を犯すと、内向きに考える
べきだが、破戒への執着は障害である。世界の善法に反対すると、解脱への道の障りになり、
地獄の運命を免れるはずがない。二乗の禅定では名色に携わり、緣 修生滅あるいは五蘊の生
18
滅を真理としている。声聞と縁覚は同じくこれを観察する。四諦と十二因緣 以外に別修が無
い。116
道宣は、縁覚と声聞との修行は輪廻転生からの解脱に限られ、菩薩の卓越した能力と理解
に欠けていると述べている。これから大乗戒律の特徴を説明する。
《四分律刪繁補闕行事鈔》卷 3:「若據大乘戒分三品。律儀一戒不異聲聞。非無二三有異。護
心之戒更過恒式。」117
換言すれば、大乗の戒律を三品すなわち「三聚浄戒」に分ける。律儀の場合、一戒も声聞と
異ならない。声聞の戒律では「三聚浄戒」に於ける「攝善法戒」と「攝衆生戒」が全く無いとは言
えないが、ただし差異がある。心を護る戒すなわち大乗戒律はいわゆる窮屈な声聞の様式を
超えている。単に言えば、道宣にとって二乗の戒律は「身」と「口」を守るための有用なことだ
とはいえ、菩薩の戒律観と比べてかなり固い規則であり、「意」に比重を置かない制度である。
また、法蔵が断言する「聲聞小戒、不防意惡、不破諸見」とは、道宣と情意投合しているので
はないであろうか。また、法蔵が道宣をよく読んだ真実を考え合わせると、このような「聲聞
小戒」の態度は道宣からの影響であろうか。
ある点まで法蔵と道宣との関係を明らかにした。重要なのは道宣から「化教」と「行教・制教」
の借用である。さらに、声聞の小戒が邪見と悪意を防がないという法蔵による軽蔑的な断言
も道宣のからの概念であったのではないかと推測できる。
これから奴婢と武器と暴力などの問題に関して道宣と法蔵の思想を比較するのが良い。記
述したように法蔵はかなり妥協的な態度をとっているが、道宣は同様に妥協するのであろう
か。
まず、奴婢について、道宣は当時の伽藍の活動に対して不平を言う。
《四分律刪繁補闕行事鈔》卷 2:「今諸伽藍。多畜女人。或賣買奴婢者。其中穢雜孰可言哉。
豈唯犯淫。盜亦通犯。深知聖制不許。凡豈強哉。」118
道宣が本章に示すように寺院の中に女性を収容してはいけないが、実際には当時にそのよ
うな活動はそれほど珍しくなかったそうである。しかも、奴婢を売買することも聖制によっ
て許されていないとしても、一部の伽藍はその非道徳的な事業に携わっていた。ここの道宣
の不満は不同意を反映しているのである。『四分律刪繁補闕行事鈔』に於いてこの問題への
言及が多い。比丘は梵行を保つ義務があるから、もちろん女性を収容すると、困難になる。
個人が奴婢を私有物として持つことも戒律によって禁止されているのである。これは道宣の
意見のみならず、他人にも同意見である。道宣はこの問題について霊裕法師(518–605 年)の言
葉を引用すると同時に『摩訶僧祇律』にも言及する。以下のようである。
《四分律刪繁補闕行事鈔》卷 1:「靈裕法師寺誥云。僧寺不得畜女淨人。壞僧梵行。設使現在
不犯。令未離欲者還著女色。經自明證。隔壁聞聲。心染淨戒。何況終身奉給。必成犯重。此
一向不合。僧祇中。僧得女淨人不合受。尼得男淨人亦爾。比者諸處多因此過。比丘還俗滅擯
者。並由此生。不知護法僧網除其穢境。反留穢去淨。生死未央。又賣買奴婢牛馬畜生。拘繫
事同。不相長益。終成流俗。未霑道分。比丘尼寺反僧可知。或雇男子雜作。尼親撿挍。尋壞
梵行。滅法不久。寺家庫藏厨所多不結淨。道俗通濫淨穢混然。立寺經久。綱維無教。忽聞立
淨惑耳驚心。豈非師僧上座妄居淨住導引後生同開惡道。或畜貓 狗專擬殺鼠。」119
道宣は戒律による制限を当時の破戒僧に思い出せるために霊裕の言葉を引用する。寺院に
住す女性の問題と奴婢の問題も指摘する。こちらでは道宣は、奴婢の所有はさておき、法蔵
と異なって奴婢の売買はただ不適切であると主張している。法蔵は奴隷の売買その罪の厳し
さを社会の差で決めると言う。実用上の見地から、奴婢の売買を制限する理由もある。以下
のようである。
《四分律刪繁補闕行事鈔》卷 3:「一佛所制畜。如六物等。資道要務。一向入輕。二制不聽畜。
如田園奴婢畜生金寶穀米船乘等。妨道中最。不許自營。準判入重(此上二判通一切律)。三佛開
聽中。義含輕重。如長衣百一及以器物隨身眾 具。以物乃妨長容得濟形資道。此則判有不同。」
(CBETA, T40, no. 1804, p. 114, b23-28)
田園と乗り物などのように奴婢も出家者にとって道を妨げる障壁である。自ら営むことが
許されていないといえども、その責任を他人に負わせてはいけないとは言えない。道宣は伽
藍に於ける奴婢の存在を認める。その上、奴婢が死んだらどうすべきかを論じる。
《四分律刪繁補闕行事鈔》卷 3:「六人民奴婢。四分云。僧伽藍人入重。所有私物。不問輕重。
並入私己。若僧家奴婢死者。衣物與其親屬。若無者常住僧用。私奴死者。義準有二。若同衣
食所須、資財自取入己。隨任分處。若不同活直爾主攝。與衣食者、死時資財入親。無者同僧
院內 無主物入常住」120
常住奴すなわち僧家の奴が死んだら、所有物を親戚に与えるべき。親戚がいないとしたら、
僧伽の常住物になる。次に「私奴」は表面的に私家の奴を意味するようであるが、『四分律行
19
事鈔批』という注釈書によると、「奴奴」あるいは「主奴」は奴隷の奴隷という意味であるとい
う。
《四分律行事鈔批》卷 12:「私奴死者。上是明僧家常住奴。今下明此常住之奴。有私即是奴奴。
若同衣食所須乃至隨任分處等者。謂其主奴先與其奴活命。如既死。所有衣物。任其主奴自取
也。」121
私奴が死んだら、一部の所有物が主奴に戻されるべきである。若しも妻子を遺すとしたら、
所有物をそこに与えるべきである。妻子がいないとしたら、主奴が取る物を除いて所有物が
僧院の常住物になる。
道宣は上記に奴婢を売買してはいけないという規則を指摘しながら、僧院に属する奴婢制
度を認める。これを一目見ると、矛盾に見えるのであろう。とはいえ、上記の「如田園奴婢畜
生金寶穀米船乘等、妨道中最、不許自營」を考え合わせると、自ら営むことが許されていない
としても、僧院自体は団体として奴婢を有しても良い。奴婢を売買してはいけないとしても、
布施として受けても良い。道宣は、他人が奴婢を私有物として売買することを峻烈に批判し
ている。換言すれば、僧院の奴婢は常住物であるが故に売買は破戒である。単に言えば、道
宣は法蔵と同様に奴隷制度を認めて批判していない。
道宣の解釈によると、奴婢を売買してはいけないといっても、『大般涅槃経』「四依品」を
引用して、極限状態に奴婢を売っても良い。
《四分律刪繁補闕行事鈔》卷 2:「涅槃云。若有人言。如來憐愍一切眾 生。善知時宜。說 輕為
重說 重為輕。觀知我等弟子。有人供給所須無乏。如是之人。佛則不聽受畜一切八不淨物。若
諸弟子。無人供須。時世饑饉飲食難得。為欲護持建立正法。我聽弟子。受畜奴婢金銀車乘田
宅穀米。賣易所須。雖聽受畜如是等物。要須淨施。篤信檀越。如是四法所應依止。」122
つまり、飢饉に襲われた際、受けた奴婢などのものを、仏法を維持するために売っても良
いという。道宣は奴婢の売買に携わっている破戒僧を批判するが、極限状態なら例外を認め
る。換言すれば、法蔵と同様に特定の場合なら妥協しても良いというような理屈を許す。
ここでは当時の僧侶が奴婢の福祉に無関心と思い誤りやすいのであろう。しかしながら実
際には戒律による奴婢の福祉のための条文も認められた。『毘尼母論』を引用して奴婢を解
放すべきと主張する。解放が不可能ならば、奴婢を寺院に働く優婆塞にすべきという。
《四分律刪繁補闕行事鈔》卷 3:「毘尼母云。若有奴婢。應放令去。若不放者。作僧祇淨人。」
123
とはいえ、奴婢を解放して無量の福を得るという仏経を指摘するが、奴婢を出家させては
いけないという戒律の規則を認める。
《四分律刪繁補闕行事鈔》卷 1:「奴者。僧祇云。若家生買得抄得此彼不得。他與奴自來奴餘
處聽度。今有人放奴出家者。若取出家功德經。若放奴婢及以男女。得福無量。律中不明放者。
但言自來投法度之是非。準奴及兒。彼此通允。五百問中。知是佛奴度者犯重。若先不知後知
不遣亦重。問其人是大道人不。答非也。僧奴準此。復本奴位。」124
出家したい奴隷が何者であるかを知らずに出家して以降に奴隷の正体が暴かれたとしても
追放しないとすれば、犯重になる。出家した奴隷が実際には大道人かどうかに関して、道宣
はただ否と答える。出家した奴隷はもともとの地位に戻らなければならないと主張する。大
乗的な方便などの妥協的な手段をほのめかさずに奴婢が出家する権利を認めない。恐らく、
奴隷が解放された後、出家しても良いのであろう。ただ、奴婢には出家する権利がない。
道宣は法蔵と同様に奴隷制度の存在を認めて反対しなかった。当時の社会にのみならず、
インドの経典にも奴婢の存在も確認される。仏経の視点から見れば、もちろん奴婢を虐待し
てはいけない。奴婢を解放すべきと主張する経典もあるのは確かなことであるが、奴婢を持
っている菩薩を描写する経や戒律による奴婢に関する条文を考え合わせると、矛盾があるの
ではないであろうか。唐代で生まれ育った法蔵と道宣にとって世界法律による奴隷制度と仏
経に於ける奴婢の存在を反奴隷の経典に順応させるのは決して容易ではなかった。とはいえ、
事実上、両者は奴婢解放と平等主義を実際に支持したかどうかは疑問である。一方、菩薩戒
を説く『梵網経』では、「不畜奴婢」の概念は顕著である。他方、『瑜伽師地論』では諸菩薩
は奴婢を持っている。しかも当時の比丘戒律によって奴婢制度が拒否されていなかった。若
しも拒否されたとしたら、良人と賤民を問わず、出家できるはずである。しかしながら実際
にはそうではなかった。
その点で、現代の思想から考えると、道宣は確かに平等主義者ではなかった。法蔵も奴婢
解放を強調する経にも興味が少なかった。現代の仏教の視点から見れば、奴婢解放への偏り
はもちろん現代の価値観を反映しているが、言うでもなく唐代の思想家にとってそのような
価値観がなかった。こちらで注意すべきのは、我々の価値観の偏りで当時の倫理に関する撰
述を深読みし過ぎると、意味が曲解されるにちがいないということである。あらゆる仏教は
20
古代から現在までは完全に平等主義と考えたい人は、聖なる宗派祖師たる道宣と法蔵の思想
はそれほど平等主義ではないということが分かれば、失望を味わうのであろう。しかしなが
ら、真実を認めなければならない。
上記に法蔵の孝行についての価値観を説明した。道宣はいかなる態度をとったのであろう
か。法蔵との相違点は何であろうか。
まず指摘しなければならないのは、道宣は孝行と暴力との関係に触れないということであ
る。なぜならば、道宣が菩薩戒ではなく比丘戒律を説明するからである。しかも『梵網経』
が描写する孝行の問題に取り組まない。しかしながら、彼は当時の社会の僧侶には両親とい
かなる繋がりを許すかについて論じる。法蔵と同様に孝行の義務を強調する。
道宣は父母供養の義務を強調するために『五分律』を引用する。ただ、法蔵の思想に対し
て父母のための復讐についての発言がない。
《四分律刪繁補闕行事鈔》卷 3:「二明生緣 奉訊法。五分畢陵伽父母貧窮以衣食供養。佛言。
若人百年之中右肩擔父。左肩擔母於上大小便利。極世珍奇衣服供養猶不能報須臾之恩。從令
聽比丘盡心供養父母。不者得重罪。」125
若し人が父親を右の肩に乗せて母親を左の肩に乗せて百年間運んでも父母が小便したり大
便したりしても、極世まで珍奇な衣服を供えても、父母への恩義に報いられないという。し
たがって、父母の供養をしても良い。実際には供養しなければ、重罪になる。道宣は仏典の
引用によって僧侶の孝行の義務の問題に取り組む。
《四分律刪繁補闕行事鈔》卷 3:「《四分律刪繁補闕行事鈔》卷 3:「僧祇父母不信三寶者應少
經理。若有信者得自恣與無乏。若父母貧賤將至寺中。若洗母者不得觸。得自手與食。父者如
沙彌法無異」126
父母が仏法を信じていないのならば、必要なものを少し差し上げるべきである。仏法を信
じているのならば、貧乏な父母にものを随意に差し上げても良い。母親を洗えば、触れては
いけないが、自分の手で食べ物を差し上げても良い。父親の場合、沙彌法と異ならない。
つまり、僧侶にしても孝行はただ可能というより宗教的な義務である。この視点から見れ
ば、僧侶は不孝とは言えない。
道宣は更に僧侶の孝行を強調するために仏教の伝説に言及する。
《四分律刪繁補闕行事鈔》卷 3:「四分阿難請授愛道戒中云。乳養長大有恩故。佛言。若聞三
寶名字已是報恩。何況得淨信等。雜寶藏慈童女長者家貧獨養老母。現世得報緣 。鸚鵡孝養盲
父母。得成佛緣 。」127
自分を養育した母親に対する恩がある。三宝の名前を聞くことはその恩に報いることであ
る。しかも浄信などの美徳を育てることも更に養育の恩に報いるという。慈童女長の話とは
『雑宝蔵経』「巻第一」からである。この話の頭に仏陀は諸比丘に父母への供養を少しもして
も無量の福を得るが、不順ならば無量の罪を得る。
《雜寶藏經》卷 1:「昔佛在王舍城,告諸比丘:「於父母所,少作供養,獲福無量;少作不順,
獲罪無量。」」128
これから仏陀は前世の話をする。慈童女という主人公は父親が亡くなった後に貧乏になっ
て苦汁を舐めても、薪を売って稼いだ金を母親に差し上げる。結局、他人は父親と同様に海
に入って宝石を採る仕事をするように勧める。慈童女は母親に自分も同じ仕事をすればいい
のではないかと言う。母親は自分の子供が「慈仁孝順」で本当に行けないだろうと考えて冗談
っぽく「あなたは行ってもよろしい」と言う。慈童女は準備ができたら直ぐに行くことを母親
に知らせる。母親は泣き顔で「私が死ぬまであなたを行かせてはいけない」と言って慈童女の
足に掴む。慈童女は怒って母の手を振りほどいたら、母の十本の髪の毛を抜いてしまう。
慈童女は旅行中に過去の供養の結果を歓楽として経験するが、結局、鉄城に達したら母の
髪の毛を抜く結果を頭に被る火輪という報いとして経験する。過去に火輪を被った人は火輪
が地に落ちることがないので他人が同じ罪を犯すまで火輪を被らなければならないと言われ
る。慈童女は「けっきょく免れることがなく、受けるべきの一切の苦しみが私に集まれ!」と
考えたら、火輪は地に落ちる。そして慈童女は逝去して命兜率陀天に生まれ変わる。仏陀は
前世に慈童女であったと言う。
なぜ道宣はこの話に言及するかというと、当時の社会では仏教の孝行についての価値観に
於ける報いを強調する必要があったからであろう。つまり、積極的な局面のみならず不孝の
望ましくない結果を示す必要もあった。
鸚鵡の話も『雑宝蔵経』「巻第一」からの説法である。慈童女の話と同様に孝行の美徳と不
孝の望ましくない結果を説くものである。仏陀は最初に父母に供養しないことと父母に対し
て不善のことするという二つの邪行を説明する。
《雜寶藏經》卷 1:「佛在王舍城,告諸比丘言:「有二邪行,如似拍毱 ,速墮地獄。云何為二?
21
一者不供養父母。二者於父母所作諸不善。有二正行,如似拍毱,速生天上。云何為二?一者
供養父母。二者於父母所作眾 善行。」」129
諸比丘は如来が父母をよく賛嘆することをほめる。そして仏陀は現世にのみならず前世に
も自分がフクロウであり、盲目の父母に供養をよくしたことを説明する。
《雜寶藏經》卷 1:「諸比丘言:「希有世尊!如來極能讚嘆父母。」佛言:「非但今日,於過去世,
雪山之中,有一鸚鵡,父母都盲,常取好花菓,先奉父母。爾時有一田主,初種穀時,而作願
言:『所種之穀,要與眾生而共噉食。』時鸚鵡子,以彼田主先有施心,即常於田,採取稻穀,
以供父母。「是時田主按行苗行,見諸虫鳥揃穀穗處,瞋恚懊惱,便設羅網,捕得鸚鵡。鸚鵡子
言:『田主先有好心,施物無悋,由是之故,故我敢來,採取稻穀。如何今者而見網捕?且田
者如母,種子如父,實語如子,田主如王,擁護由己。』作是語已,田主歡喜,問鸚鵡言:『汝
取此穀,竟復為誰?』鸚鵡答言:『有盲父母,願以奉之。』田主答言:『自今已後,常於此
取,勿復疑難。』」佛言:「鸚鵡樂多菓種,田者亦然。爾時鸚鵡,我身是也。爾時田主,舍利
弗是。爾時盲父,淨飯王是。爾時盲母,摩耶是也。」」130
仏陀は前世に雪山の中にフクロウであった。盲目の父母に花と果物を差し上げた。農家は
初の播種の時に「蒔かれた種を衆生と共有して食べさせよう!」と言った。それを聞いたフク
ロウは穀物を採取して父母に供養した。農家は虫と鳥が穀物を採取していることを見て怒っ
た。わなを仕掛けてフクロウを捕まえた。フクロウは「あなたは先に良い心があって惜しみな
くものをあげた。だから私は敢て来て穀物を採取した。今なぜ網で私を捕まえたのだろうか。
田は母親のようなもの、種子は父親のようなもの、まことの言葉は子供のようなもの、農家
のあなたは王様のようなものだ。」農家は歓喜してフクロウに質問した。「誰のためにこの穀
物を採取しているのだろうか」と聞いた。フクロウは「父母に差し上げたい」と答えた。農家は
「これから心配しないで自由に採っても良い」と言った。
仏陀は「フクロウは多種の果物を楽しんだ。農家もそうだった。当時に私はフクロウだった。
農家は舍利弗だった。盲目の父親は浄飯王だった。盲目の母は摩耶だった」と言った。
また、道宣は仏教の教えによる孝行の価値観を強調している。仏教の出家者が不孝という
批判の問題に取り組むために仏典に孝行の美徳を呈するところを指摘している。法蔵も同じ
ように孝に比重を置く必要が特にあった。何故ならば当時に儒教から批判が峻烈であったか
らである。
法蔵と道宣との関係を調べた上で、いかなる結論を引き出すことができるのであろうか。
まず指摘しなければならないのは法蔵が道宣の著作をよく読んで内容を借りたことである。
法蔵は「化教」と「行教・制教」という概念を道宣から直接的に借りて、道宣と同様に後者を出家
者のみの修行と断言した。声聞の戒律は身口との悪行為を防ぐとしても精神による悪意を防
がないという軽蔑的な見解も道宣から借りた概念であろう。奴婢の問題点では両者は当時の
奴隷制度を認めて反対しない。またこの制度は世界法律による制度であったため、仏経に於
ける奴隷制度に反対する感情を指摘しても当時の制度に反抗しなかった。道宣は『涅槃経』
を引用して極限状態ならば仏法を保つために奴隷を売っても良いという見解を披瀝した。そ
れは法蔵と同様に妥協的な態度だと言える。
法蔵と法礪
もう一つの借用した用語の例は上記の「性惡」と「遮性」である。また、法蔵は「三約益異、謂化
教但令離諸性惡、起信等行、制教令其雙離遮性」と述べている。これらの用語は、法礪(569-635
年)の『四分律疏』から借りたものである。これを説明する前に法礪の経歴を簡潔に概説する
のが良い。『続高僧伝』に於いて法礪の伝記があるが 131、それと『仏光大辞典』の記載 132
を略して重要なポイントを述べよう。
法礪は、俗姓が「李」で、趙州(現代の河北趙県)で生まれた。『続高僧伝』によると、生まれ
た時に歯が全部揃って老年までもともとの歯を壊さなかったという。十五歳に演空寺の霊裕
法師の下で出家して以来、静洪律師と『四分律』を学び、注釈書を著わした。数年後、恆州
の洪淵法師の下で律学を学んだ。二年後、江南で『十誦律』を学んだ。隋代の末年にまた北
に帰った。その無秩序の革命の間に世界から隠遁して律部の奥義の学びに集中した。唐代の
初年、武德年(618–626)に冀州と臨漳 で住していた。法礪に諸法の学士がよく集まり、悟りを
開いた人が極めて多かったと言われる。貞観九年十月(635 年)、六十七歳に達して臨漳 の日光
寺にて示寂した。多数の著作を遺した。そして相部宗の開祖と呼ばれる。明導と曇光と道成
などの弟子もいた。
さて、法礪の思想と法蔵との関係に戻ろう。法蔵は上記に「性惡」の用語を使用している。
法礪による「性惡」の定義は以下のようである。
22
《四分律疏》卷 2:「言性惡者。如煞婬等。無問聖教。禁以不禁。作則是違。體是不善。障道
招報。損害深重。故曰性惡。」133
換言すれば、「性惡」とは、宗教に禁止されているかどうかを問わず真髄が不善で自然に邪
な行為である。法蔵の場合、「遮性」は法礪が説いた「遮惡」に相当しているのであろう。法礪
は以下のようである。
《四分律疏》卷 2:「言遮惡者。掘地壞生。造房等類。佛未制前。造作此事。業性輕微。體非
不善。但以事務紛動。妨修道業。」134
「遮惡」とは、土の耕しと宿舎の建設などの行為である。仏陀がこれらを制限する前に、た
だ軽微なカルマであった。これらの行為の真髄は不善というわけではないが、修行を妨げる
行為なので、このような制限があるという。
その上、法蔵は法礪の『四分律疏』から内容を取り出して直接に『梵網經菩薩戒本疏』に
入れている。以下の文章を対比すると、その採用は顕著である。
法礪《四分律疏》卷 1…135
法蔵《梵網經菩薩戒本疏》卷 1…136
初者、創起大誓、要期三聚。
言受戒者。創發要期。斷惡修善。
建志成就。納法在心。目之為受。言隨戒者。 建志成就。納法在心、故名為受。
受興於前。持心後起。義順受體。說 之為隨。 受興於前、持心後起、順本所受、令戒光潔、
故名為隨。又受是總發萬行後生。隨是別修、
就受隨二門。各開為兩。
順成本誓。要具此二、資成正行故以為宗。
法礪は奴婢の問題についてそれほど徹底的に掘り下げていない。彼は戒律の正統派の態度
をとり、多数の例外を示す法蔵と道宣との妥協的な見方と異なる。「八不浄」の定義に於いて
「奴婢」が包括されている。「不浄」のものを持つと、梵行には良くないもので、貪りをもたら
すが故に「不浄」という。
《四分律疏》卷 4:「初門者。一田宅。二種殖根栽。三貯聚槄 粟居鹽求利。四奴婢人民。五畜
養群畜。六金銀錢寶。七畜豸牙金銀剋鏤大牀。并綿褥氍。八一切銅鐵釜鑊。除十六枚器。不
在此限。若畜此八。長人貪求。汙染梵行。故曰不淨。此出善生經。此律衣雜二處有文。而不
次比。」137
この点について、法礪は別に例外的な思想家ではない。孝行に興味を示さないことも法蔵
と異なる点である。なぜ孝行に言及しないかというと、僧尼の「礼拜君親」の敕令以前に法礪
が亡くなったからである。龍朔二年(662 年)に高宗は僧尼の礼拜君親の敕令を宣言した。635
年に亡くなった法礪にとって孝行をそれほど論じる必要がなかったのであろう。
梵語の文法用語による漢語の解釈
言語学的に言えば、『梵網経菩薩戒本疏』に置ける一つの特徴は、梵語用語に基づいた複
合語分類を以って漢語を解釈するのである。このような解釈は法蔵の特有のこととは言えな
いが、彼の梵語知識を反映しているものである。なお、当時の仏教知識人の中での梵語文法
学の知識を反映しているのであろう。
法蔵は「梵網」の意味を明らかにするために複数の梵語複合語分類の解釈を利用する。
まず「持業釈」(karma-dhārayah)という複合語分類の使用する。「持業釈」とは、複合語に於
いて、前者が形容詞または副詞で、主な役割を果たす後者が名詞または形容詞である。用語
に平等の依存関係も指すことがある。「持業釈」の意味を更に明らかにするために一瞬『阿毘
達磨大毘婆沙論』を参考しよう。
《阿毘達磨大毘婆沙論》卷 127:「問何故名大種。答大而是種。故名大種。如言大地。如言大
王。義別體同。應持業釋。」138
本書は「四大種」に関して「大種」を分析する。形容詞の「大」と名詞の「種」を合わせると、持
業釈になる。
さて、法蔵は「梵網」の依存関係を強調している。まず「網」の意味を定義してそれを「梵」と
結ぶ。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 1:「網有二義。一差別義。二澇 漉義。初喻 信等五位相別。後喻 五位
澇 漉眾 生從因至果究竟解脫 。此二及梵總有三義。謂體相用。網中差別是相。此即依體起用。
以梵成網故云梵網。則持業釋也。又亦法喻 雙舉為名也。」139
ここで注意すべきのは、「以梵成網、故云梵網」とは依存関係を示しているのである。
この文脈では、「梵」とは形容詞の「純粋」あるいは「極浄」を意味する。それを名詞の「網」と
結ぶと、「持業釈」になる。
また、下記に「梵網」を「依主釈」 (tat-purusa)と「有財釈」 (bahu-vrīhi) にも分ける。「依主
釈」または「依士釈」とは、前者の名詞が後者の名詞を変える依存複合語と定義する。「持業釈」
23
との違いを更に明らかにするために『成唯識論』を引用する。
《成唯識論》卷 4:「論曰。次初異熟能變識後應辯思量能變識相。是識聖教別名末那。恒審思
量勝餘識故。此名何異第六意識。此持業釋如藏識名。識即意故。彼依主釋。如眼識等。識異
意故。」140
なぜ「藏識」は「持業釈」であろうか。複合語に於ける動詞の「藏」が名詞の「識」を変えるから
である。なぜ「眼識」は「依主釈」であろうか。複合語に於ける名詞の「眼」が名詞の「識」を変え、
属格関係だからである。
その故に、この文脈に限り、「梵網」を「持業釈」だけではなく「依主釈」に分類しても良い。
文脈によって「梵」の意味が変わる。名詞の場合、「梵王」という名詞になる。法蔵の考えは以
下のようである。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 1:「以諸梵王持此幢網供佛聽法。佛因見彼網孔差別交絡無邊參而不
雜。遂以喻 彼諸眾生類迷悟己性造善惡業苦樂昇沈依正交雜而其分齊別別不同。故云世界猶如
網孔。此即梵之網。依主釋。亦是有財釋。以俱 是喻 故。」141
法蔵が指摘しているように、この文脈では、「梵」は「極浄」を意味せず、ただ人物たる梵王
である。その上、法蔵は、『梵網経』が描写する信奉者の行進に置ける「梵之網」は名詞的所
有の関係を示すことを指摘する。その故に「依主釈」である。この解釈は梵語の文法に合う。
なお、「有財釈」でもあるという。梵語では、「有財釈」bahuvrīhi(直訳:米が多い)という複合語
は、複合語の中の部分に包括されていないことに言及する。換言すれば、bahuvrīhi には、明
白ではなく黙示的な意味がある。bahuvrīhi 自体は、「米が多い」という意味ではなく、「資産
家」を意味する。しかしながら、法蔵の『華厳経探玄記』に於ける「有財釈」の定義は梵語の文
法に合わない。
《華嚴經探玄記》卷 3〈2 盧舍那佛品〉:「三有財釋者亦名多財釋。謂從所有物以立其名。
如說 佛土。土是佛之所有名為佛土也。」142
法蔵が説いた定義では「有財釈」が属格関係を指す名詞である。例えば、「仏土」は仏の所有
なので「仏土」と名づける。しかしながら、実際には属格関係を示す複合語は「有財釈」
bahu-vrīhi ではなく「依主釋」tat-purusa である。単に言えば、法蔵は誤解した。とはいえ、
面白いことに、法蔵は『華厳経探玄記』の誤解した定義に対して『梵網経菩薩戒本疏』で「梵
網」が「有財釈」である故に暗示的な隠喩を指すと言っている。後者の解釈は元々の梵語文法に
合う。法蔵の「有財釈」の使い方を更に考えよう。
《華嚴經探玄記》卷 5〈11 十住品〉:「十住是法。謂得位不退故云住。住法應圓依則說 十。即
帶數釋。又此住法是菩薩所有。是有財釋。又菩薩之住。依主釋。又菩薩即住。持業釋。」
また、ここで法蔵は『華厳経』に於ける菩薩の十住に関して十住は菩薩の所有なので「有財
釈」と断言している。また、「有財釈」を属格関係と誤解している。
近代まで東アジアでは規範文法の意識が少なかったが、法蔵が梵語のパーニニのような規
範文法を漢語に転用したのは興味深い。しかしながら同時に一部を誤解した。
『梵網経菩薩戒本疏』の影響
大正三蔵に於いて明曠の『天台菩薩戒疏』(T.1812)は、法蔵の『梵網経菩薩戒本疏』(T.1813)
以前に来るとしても、実際には後者のほうが古い。この順序の間違いは明曠が天台宗の伝統
的な系譜図に於いて智顗の継承者たる五祖章安大禪師・灌頂(561-632)の弟子と書いてあるか
らであろう 143。しかし、この記録は誤りである。法蔵と明曠、両者の撰述に全く同じ内容が
あるので、誰のほうが早いかを明らかにしなければならない。明曠の『天台菩薩戒疏』の最
後に簡単な伝記があり、いつ本書が著わされたかを明示する。
「大曆 十二年二月初一日。於台洲黃 嚴縣三童寺 144 記之。」145
「大曆 十二年」とは、西暦 777 年に相当する。既述したように法蔵は 687-690 年に『梵網経
菩薩戒本疏』を著わした。法蔵のほうが早いというのは最重点である。なぜならば、明曠が
法蔵の著作から内容を直接に取り出しているからである。つまり、誰が誰をコピーしている
かを明らかにしなければならない。明曠は法蔵の著作を参考して用いて自分の釈義を表した。
最も印象的なのは『天台菩薩戒疏』の玄談である。『梵網経菩薩戒本疏』の玄談と比較する
と、以下のようなコピーの様式が見られる。
《梵網經菩薩戒本疏》146
《天台菩薩戒疏》147
故得蓮華藏界懸日月以照臨。
故得蓮華藏界懸日月以臨照。
菩提樹王開甘露而濟乏。
菩提樹王開甘露而濟之。
千華千百億盧舍那為本身。
千華千百億盧舍那為本身。
十重四十八輕釋迦文為末化。
十重四十八輕釋迦文為末化。
24
不可說 法啟 心地於毛端。
不思議光舉身華於色頂。
於是別圓大士之所同修。
八萬威儀聖賢以之齊致。
況乃恒沙戒品圓三聚而統收。
具六位而該攝。
既如因陀羅網同而不同。
似薩婆若海異而非異。
等摩尼之雨寶普洽黎元。
譬瓔珞以嚴身功成妙覺。
於是五位菩薩莫不賴此因圓。
三世如來無不由斯果滿。
既為道場之直路。
只是正覺之良規大矣。
盛哉難得而言者也。
題云梵網經盧舍那佛說 菩薩心地十重
四十八輕戒品第十者。
梵則從人當體離染為名。
網就喻 彰功能立號。
意明諸佛對機設教。藥病多端如大梵王
因陀羅網。故云梵網。
經謂經教。詮量分別常住佛性故名為經。
盧舍那等者寶梁經翻稱為淨滿。
明曠が各行ごとの剽窃をしているのは明白。玄談のみならず戒の解釈からも取り出している。
一例として肉食禁止についての両者の解釈を見ると、上記と同じようなパターンが明らかに
なる。
《梵網經菩薩戒本疏》148
《天台菩薩戒疏》149
第三食肉戒。
初制意者。
菩薩理忘身濟物。
菩薩理應捨自身肉、以濟物命。
何容反食眾生身分故制罪也。
何容反食眾生之肉。違害之甚故須制也。
別具三緣 。
二次第者。前離惛亂之飲。今離損命之食。
次第故也。三釋名者。非理食噉眾
一是有情之肉。
生身分名為食肉。戒防此失從用立名。
二起肉想。
四具四緣 。一是肉以非肉無犯故。
三入口便犯。
就文為二。
二是他肉以食自肉無正犯故。
初標名彰過制令止惡。
三起肉想。以錯誤無犯故。
次若故食下遣制結犯。
四入口便犯。以不食無失故。
明曠は法蔵の内容を編集することもあるが、そのままで入れているところが少なくない。冗
漫な文章も削除しているようである。一例として、肉ではないものと自分の肉体を食べるの
は破戒にならないという当たり前で冗長な文章を削除している。
解釈だけではなく、「化教」と「制教」も明曠によって借用される。記述したように元々これ
らは道宣の概念であったが、法蔵は道宣の「行教」を「制教」に改名した。ここでは明曠は法蔵
の用語を使用している。そのため、また法蔵から借りていることが分かる。
《天台菩薩戒疏》卷 1:「問如前十戒乘戒互通。如何取別。答制教所明從禁惡邊而得戒名。化
教所明從修禪學慧而立乘稱。」150
斯かる借用の様式が軽戒に続いている。とはいえ、やはり明曠はオリジナルの思想も述べ
る。ただ法蔵の『梵網経菩薩戒本疏』を基盤として使用して自分の意見を伸ばす。平了照が
指摘するように天台宗の教義を厳格に維持している 151。明曠は「二位大士」を削除して、天台
宗らしい「別圓大士」を入れる。以下のようである。
《梵網經菩薩戒本疏》
《天台菩薩戒疏》
「於是四十二位大士之所同修。」152
「於是別圓大士之所同修。」153
奴婢について、道宣と同じように明曠と法蔵も奴隷制度を認めて反対しないが、明曠の場合、
出家者ならば奴婢を持ってはいけないと主張する。「第二十一無慈報酬戒」の奴婢問題につい
ての明曠の説明は以下のようである。
不可說 法啟 心地於毛端。
不思議光舉身化於色頂。
於是四十二位大士之所同修。
八萬威儀聖賢以之齊致。
況乃恒沙戒品圓三聚而緣 收。
塵數嚴科具六位而緣 攝。
既如因陀羅網同而不同。
似薩婆若海異而非異。
等摩尼之雨寶濟洽梨元。
譬瓔珞以嚴身功成妙覺。
是故五位菩薩莫不賴此因圓。
三世如來無不由此果滿。
既為道場之直路。
亦是種覺之良規。
大哉難得而言者也。
然則梵約當體。離染為名。
網就喻 彰。功能立號。
經則貫穿縫綴。體用同詮。
盧舍那則遍照果圓。
25
《天台菩薩戒疏》卷 2:「次文言尚不等者出家制不得畜。在家開畜。不得非理打罵起業。」154
つまり、出家者ならば奴婢を持ってはいけないといっても、在家ならば、不当に打ったり
叱ったりしない限り、持っては良い。面白いことに、明曠「不得非理打罵起業」という。
この「非理」は不当を意味する。ただ「打ったり叱ったりしてはいけない」という意味ではな
く、「不当に打ったり叱ったりしてはいけない」という意味である。換言すれば、奴婢を打つ
権利は確認される。ただ「非理」すなわち不当に打つことが良くないのである。明曠は厳しい
非暴力の態度をとらない。既述したように法蔵もそうである。
「第十畜諸殺具戒」について明曠の解釈は法蔵と異なる。既述したように法蔵は父母のため
ならば復讐はただ軽罪であるが、他人のためならば一切重罪であると述べている 155。明曠は
そのような妥協的な態度をとらない。法蔵の撰述を読みながら法蔵の見解に接したのは確か
である。明曠はこちらで法蔵の解釈に不同意であったのであろうか。
《天台菩薩戒疏》卷 2:「第十畜諸殺具戒。害生之器名為殺具。藏舉收攝故名為畜。菩薩常應
捨諸所有。反畜殺具擬損眾生。日夜增罪名惡無作。是故制也。別具四緣 。一是殺具。二知是。
三無開緣 (律中開畜。為誑賊故)。四故畜經日便犯。就文為三。初標名列事制止。次舉重況輕。
三違制結犯。初言刀杖等者本為害生作者是也。但是殺器皆不得畜故云一切。次而菩薩下舉重
況輕。律云以怨除怨怨終不除。唯有解怨怨乃息耳。怨若未害誠心敬養。若已被害自達宿緣 。
怨怨相報酬之反。故殺父母制不加報。若故下違制結犯。」156
「以怨除怨、怨終不除、唯有解怨、怨乃息耳」の引用は『四分律』からのものであろうが、
部分的に異なる。
《四分律》卷 43:「以怨除怨、怨無已時。唯有無怨、而怨自除耳。」157
ただ『彌沙塞部和醯五分律』にも類似の内容が見られる。
《彌沙塞部和醯五分律》卷 24:「若以怨除怨、怨終不可息、不念怨自除」158
法蔵も『梵網経』第十戒の解釈にも類似の引用を利用する。
《梵網經菩薩戒本疏》卷 5:「經云。以怨報怨。怨終叵 盡。准有無怨怨乃息耳。」159
これらは互いに異なる。意味的に同様であっても文字的に異なる。明曠は法蔵の内容を借
りたのは確かであるが、なぜ別のテキストを引用しているのかは不明である。
既述したように法蔵は明曠に影響をよく与えた。明曠は法蔵の撰述をよく参考しながら、
自分の菩薩戒の釈義を著わした。これは中国の天台宗には重要なポイントである。更に中国
天台宗が日本に伝播されると同時に明曠の『天台菩薩戒疏』を含む天台宗の経論も日本に持
ってこられた。
日本に於ける『梵網経菩薩戒本疏』の影響
『梵網経菩薩戒本疏』の影響は大陸を超越している。本書の内容を借用した明曠の『天台
菩薩戒疏』は日本の最澄がよく読んで使ったものであった 160。法蔵は『天台菩薩戒疏』を通
じて日本の天台宗に影響を間接的に与えたと言えよう。
この影響は天台宗だけではなく東大寺まで及んだものである。学僧たる凝然 (1240-1321)
は『梵網戒本疏日珠鈔』という浩瀚な注釈書を著わした 161。『梵網経菩薩戒本疏』が六巻に
対して『梵網戒本疏日珠鈔』は五十巻である。凝然は様々な原典を引用して注釈する。
『梵網経菩薩戒本疏』の影響は江戸時代まで及んだ。享保九年(1724 年)、鳳潭(1659-1738
年) は京都で『梵網經菩薩戒本疏紀要』を著わした。鳳潭とは 16 歳で出家して八宗を徹底に
兼学した江戸時代の代表的な学僧であった。彼の思想の特徴は澄観と宗密を華厳宗の祖師だ
と見なせず、智儼と法蔵が説いた原意に戻るべきということである。『梵網經菩薩戒本疏紀
要』とは、『梵網経菩薩戒本疏』の原文を含む漢文の注釈書あるいは副読本である。特に徹
底的な用語の定義などを提供するのが本書の特徴である。その点で『梵網戒本疏日珠鈔』と
異なる。
結論
法蔵の『梵網経菩薩戒本疏』に於ける価値観を徹底的に調べるのが本研究の第一の目標で
あった。法蔵は如何に奴隷と武器の問題に取り組むのであろうか。その上、現代の研究を考
察しながら本書の背景と影響を更に探る目的もあった。本書の年代測定を試みた。なお、同
時に法蔵が引用した当時の仏教思想家の同士の見解と比べて如何なる差異があるかを明らか
にした。こちらから研究結果を要約しよう。
本書は中国仏教と日本仏教に影響をよく与えたにせよ、現代の研究が少ないのである。
東アジアと西洋では法蔵の生涯と思想に関する研究が多い。とはいえ、残念ながら本書を
特定の古典として扱う研究は皆無に近い。1938 年に大野法道は本書を訓読にして『国訳一切
経』に貢献した。しかしながら大野が整理した訓読バージョンを翻訳とは言えない。吉津宜
26
英と石井公成も本書を少し研究した。
本書の年代測定には、まず法蔵が佛駄跋陀の五世紀『華厳経』の漢訳を使ったことを指摘
した。そのため、本書が 699 年以前に撰された。題目の「魏國西寺」は 687 年から 690 年まで
の間の撰述を指すものである。「魏國西寺」の改名と陳錦華が整理した法蔵の伝記による洛陽
への転住(687-688 年)から判断すると、686 年頃に法蔵は『梵網経菩薩戒本疏』を著わしたの
であろう。しかしながら新羅の義湘法師に送った手紙に添付された書籍リストに於いて『梵
網経』についてのものがないことを忘れてはいけない。
華厳宗のものとして本書は法蔵の他の著作と異なる。例えば「五教判」への言及が全くない
のは不思議なことである。なお、『華厳経』の引用が少ないのに対して『大智度論』からの
引用がかなり多いことにも気づく。法蔵は師匠の智儼と同様に『梵網経』を『華厳経』と同
じレベルに置いていないのである。
なぜ法蔵が本書を著わしたかについて本書と『法蔵和尚伝』の内容を利用するのが良い。
法蔵は当時の『梵網経』の釈義、特に勝荘の解釈に不満を示した。智顗が説いて弟子の灌頂
の撰述した『菩薩戒義疏』への言及がないことは不思議である。実際には智顗が菩薩戒につ
いての書籍を著わさなかったという結論を引き出すことができる。法蔵にとって菩薩戒を正
しく解明する必要があった。西域に行く希望があったが、結局行けなかったので、中国で菩
薩戒に関する資料を蒐集して本書を著わした。『法蔵和尚伝』によれば、法蔵は『梵網経』
を講じるのが得意であったという。彼が受戒しようとした時、授戒するインド人は法蔵が受
戒の必要を超えているので授けなくても良いと断言したという伝説がある。その伝説の真偽
を問わず、法蔵は当時に『梵網経』を講じる得意があったそうである。
法蔵が本書で一切衆生に悉く仏性があるという態度をとっていることは顕著である。二乗
にも一闡提にも仏性があると断言する。法蔵の価値観に於いてこれは重要なポイントである。
同時に法蔵は哲学的な概念と仏性の概念を結び、三性説を仏性説に転用する。
仏性は孝順と慈悲の基盤でもあると主張する。
法蔵は武器と軍事介入の問題にも取り組む。例えば、極限状態ならば暴力と軍事介入が許
されるという。このような価値観は政府と貴族との密接な繋がりがあるのであろう。本書で
は「妥協性」がよく見られる。悪人から武器を受けて破壊する、あるいは仏法を守るために乞
うたり買ったり脅したりすることも許される。法蔵は更に反乱を鎮めることも許す。父親が
軍人であったため、法蔵は戦争と軍事などに対して疎外感がなかったのであろう。なお、彼
が参戦して左道の魔術を使った記録が残っている。
法蔵は孝行に比重を置いた。『梵網経』では復讐が正当化できない行為であっても、法蔵
は父母のための復讐による殺人が軽犯罪であるのに対して、父母以外の人のための復讐は重
罪であると解釈する。『梵網経菩薩戒本疏』においてこれは最も印象的な特徴であるかもし
れない。なぜこのように妥協するのかというと、菩薩戒を当時の社会の道徳観に適合させる
必要があったのであろう。特に儒教の教育を受けた貴族にとって仏教的な非暴力の態度をと
りにくかったのであろう。
法蔵は『梵網経』による反奴隷制度の感情を認めない。奴婢の売買が軽罪であっても法蔵
はまた妥協する。奴婢を売買してはいけないことを認めるにせよ、奴婢を売る罪の厳しさを
社会階級で決める。道宣も同様に奴隷制度を認めた。なお、国家法律による儒教的な『唐律
疏議』に於ける奴婢と良人の厳格な定義と階級の差による処罰制度を考え合わせると、法蔵
の思想はあまり例外的ではない。法蔵を含む当時の思想家は奴隷制度に反抗するはずがなか
ったとはいえ、実際には平等主義に興味がなかったようである。
法蔵は道宣の書籍の内容を部分的に借用する。その関係は一方向であった。法蔵の戒律観
に道宣の影響が見られる。法蔵は道宣が説いた「化教」と「行教」を借用して、後者を「制教」に
改名した。法蔵は道宣の思想に加えて「化教」と「制教」と共に「理教」も述べる。声聞の「小戒」
を「真梵」と呼べないという小乗に対する軽蔑的な見方も道宣から借りたのであろう。
道宣は奴婢を売買することも聖制によって許されていないとしても、僧院に属する奴婢制
度を認める。奴婢の売買をする破戒僧を批判するのが峻烈であっても極限状態ならば、仏法
を守るために僧院の奴婢を売っても良いという例外を認める。奴婢が出家する権利も拒否す
る。法蔵と異なって道宣は孝行と暴力との関係に触れない。父母供養の義務もよく強調する。
その義務を説くために仏典に於ける伝説を引用する。仏教の孝行の価値観をよく説明する理
由は当時の「礼拜君親」の問題と関係あるのであろう。法蔵の思想を理解するために道宣の思
想を考えるのが良い。
法蔵は法礪の書籍も利用した。「性惡」と「遮性」の用語を借用した。その上、どこから引用
するかを示さずに法礪の『四分律疏』から内容を直接的に取り出して自分の著作に入れる。
法礪は孝行と奴婢の問題についてそれほど取り組まない。
27
法蔵は梵語の文法用語によって漢語を解釈する。「梵網」の意味を明らかにするために複数
の梵語複合語分類の解釈を使用する。法蔵の解釈は一般的に文語の文法に合うとはいえ、本
書にも『華厳経探玄記』にも「有財釈」bahuvrīhi の意味を属格関係と誤解する。これは法蔵の
梵語の知識を反映するのであろう。
『梵網経菩薩戒本疏』の影響はかなり広い。永明延寿は『梵網経菩薩戒本疏』から内容を
直接的にとり『宗鏡録』に入れた。本書は禅宗にも影響を与えたと言える。明曠の『天台菩
薩戒疏』にはその影響がよく見られる。法蔵からよく借用したが、差異も多い。その上、日
本の最澄は『天台菩薩戒疏』をよく使用した。日本の学僧の凝然は『梵網戒本疏日珠鈔』と
いう注釈書を著わした。本書の影響は江戸時代にも見られる。1724 年、鳳潭は『梵網經菩薩
戒本疏紀要』を著わした。
では、既述した結果には如何なる意義があるのであろうか。最近、このような研究に興味
のある研修者が多くなっている。特に仏教と暴力の関係は注目の的になっている。同時に歴
史に仏教の望ましくない面を認めるべきかもしれないという声も聞こえる。現在まで法蔵に
関する研究はほとんどが彼の哲学と関係ある。高僧であったので彼の道徳観を徹底的に調べ
ると同時に当時の仏教思想家同士と比べなければならない。今後の研究の進展が期待されよ
う。
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1《梵網經菩薩戒本疏》(CBETA, T40, no. 1813, p. 602, b26)
2 聖嚴法師『戒律學網要』(法鼓文化事業股份 有限公司、2009 年) 37 頁。
3 吉津宜英『華厳一乗思想の研究』(大東出版社, 1991 年), 597-629 頁.
4 石井公成『華厳思想の研究』(春秋社, 1996), 332-360 頁.
5 石井公成「法蔵「梵網経菩薩戒本疏」に見える生命観 (仏教の生命観)」(『日本仏教学会年報』
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6Jinhua Chen, Philosopher, Practitioner, Politician : the Many Lives of Fazang (643-712)
(Leiden: Brill, 2007).
7(CBETA, T40, no. 1813, p. 602, c28-p. 603, a1)
8(CBETA, T09, no. 278, p. 429, b4-5)
9 吉津宜英『華厳一乗思想の研究』(大東出版社, 1991 年), 597.
10『唐會要』巻四十八。
11Jinhua Chen, Philosopher, Practitioner, Politician : the Many Lives of Fazang (643-712)
(Leiden: Brill, 2007), 130-133.
12T1846.
13T1733.
14(CBETA, X58, no. 1015, p. 559, a21-24 // Z 2:8, p. 422, c12-15 // R103, p. 844, a12-15)
15Antonio Forte, A Jewel In Indra's Net (Kyoto: Istituto Italiano di Cultura Scuola di
Studi sull'Asia Orientale, 2000), 68.
16 同上 50 頁。
17 吉津宜英『華厳一乗思想の研究』(大東出版社, 1991 年), 609-610 頁
18T1866
19(CBETA, T45, no. 1870, p. 587, c28-29)
29
20(T62, no. 2247, p. 15a29)
21(CBETA, T50, no. 2054, p. 283, b12-17)
22Jinhua Chen, Philosopher, Practitioner, Politician : the Many Lives of Fazang (643-712)
(Leiden: Brill, 2007), 116.
23(CBETA, T40, no. 1813, p. 605, b4-15)
24(CBETA, T40, no. 1813, p. 634, b16-29)
25(CBETA, T40, no. 1813, p. 605, c13-16)
26(CBETA, X38, no. 686, p. 400, b17-19 // Z 1:60, p. 112, c2-4 // R60, p. 224, a2-4)
27《梵網經菩薩戒本疏》卷 4:「十八又諸菩薩於自妻子奴婢僕使親戚眷屬。若不先以正言曉喻
令其歡喜。終不強逼令其憂惱施來求者。」(CBETA, T40, no. 1813, p. 631, a27-b1)
28《菩薩戒義疏》. T.1811.
29《法華文句記》卷 9〈釋壽量品〉:「故天台戒疏判云。華臺華葉本迹之殊。所以華臺華葉本
迹定者。被緣 雖別道理恒同。所結既同能結豈別。像法決疑意亦同於所結故也。」(CBETA, T34,
no. 1719, p. 330, c3-7)
30 佐藤哲英『天台大師の研究』(百華苑、1961 年) 412-415 頁
31 Paul Groner, Saichō: The Establishment of the Japanese Tendai School. (Seoul: Po
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32《大唐內 典錄 》卷 10:「隋朝天台山修禪寺沙門釋智顗撰觀論傳等八十七卷」(CBETA, T55, no.
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33(CBETA, T40, no. 1813, p. 605, a24-b3)
34(CBETA, T50, no. 2059, p. 336, c19-27)
35(CBETA, T40, no. 1811, p. 568, c7-15)
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37(CBETA, T30, no. 1579, p. 478, c1-3)
38(CBETA, T40, no. 1813, p. 603, b25-c3)
39(CBETA, T31, no. 1610, p. 788, c18-24)
40(CBETA, T31, no. 1610, p. 787, b4-5)
41(CBETA, T31, no. 1610, p. 788, a23-28)
42 鳩摩羅什はこちらで「śūnyatā」を「無」と訳すが、この文脈では「無」は「空」である。誤写か。
43(CBETA, T30, no. 1564, p. 33, b11-12)
44Nāgārjuna, Madhyamakaśāstra of Nāgārjuna (Darbanga: The Mithila Institute of
Post-Graduate Studies and Research in Sanskrit Learning, 1960).
(http://www.uwest.edu/sanskritcanon/)
45(CBETA, T31, no. 1610, p. 794, a11-13)
46(CBETA, T31, no. 1610, p. 794, a13-15)
47(CBETA, T31, no. 1610, p. 794, a15-17)
48(CBETA, T31, no. 1610, p. 794, a17-19)
49(CBETA, T35, no. 1733, p. 113, b15-19)
50(CBETA, T35, no. 1733, p. 113, b26-c2)
51(CBETA, T44, no. 1838, p. 62, a18-28)
52(CBETA, T02, no. 99, p. 248, b20-24)
53(CBETA, T35, no. 1733, p. 117, b20-24)
54(CBETA, T35, no. 1733, p. 117, b29-c9)
55(CBETA, T40, no. 1813, p. 620, a22-b1)
56(CBETA, T24, no. 1484, p. 1004, b21-25)
57(CBETA, T40, no. 1813, p. 620, b1-7)
58《大般涅槃經》卷 7〈4 如來性品〉:「如是一味隨其流處有種種異。是藥真味停留在山猶如
滿月。」(CBETA, T12, no. 374, p. 408, b19-20)
59(CBETA, T40, no. 1813, p. 620, b7-13)
60(CBETA, T40, no. 1813, p. 620, b13-15)
61(CBETA, T24, no. 1484, p. 1004, a23-25)
62(CBETA, T40, no. 1813, p. 607, b6-8)
63(CBETA, T40, no. 1813, p. 607, b8-16)
64(CBETA, T40, no. 1813, p. 607, b16-20)
65(CBETA, T40, no. 1813, p. 607, b20-23)
30
66(CBETA, T40, no. 1813, p. 620, b1-12)
67(CBETA, T48, no. 2016, p. 858, a24-b8)
68(CBETA, T24, no. 1484, p. 1005, c14-17)
69(CBETA, T40, no. 1813, p. 639, b29)
70(CBETA, T24, no. 1484, p. 1006, b21-26)
71(CBETA, T40, no. 1813, p. 644, a7-12)
72 檢使 = 撿挍? 台湾の新文豐が出版した『梵網經菩薩戒本疏』参考。 (新文豐, 1977 年), 312
頁。
73(CBETA, T40, no. 1813, p. 639, b5-9)
74(CBETA, T50, no. 2054, p. 281, a20-21)
75Jinhua Chen, "A Korean Biography of a Sogdian Monk in China, with a Japanese
Commentary: Ch'oe Chi'iwon's Biography of Fazang, Its Values and Limitations," in
Korean Buddhism in East Asian Perspectives, compiled by Geumgang Center for
Buddhist Studies (Seoul: Jimoondang, 2007), 159-190
76 同上 182-185 頁。
77(CBETA, T50, no. 2054, p. 283, c16-25)
78 陳錦華は「蒯」を「薊」に改すべきと主張する。137 頁。
79Jinhua Chen, Philosopher, Practitioner, Politician : the Many Lives of Fazang (643-712)
(Leiden: Brill, 2007), 320.
80(CBETA, T24, no. 1484, p. 1005, c24-p. 1006, a1)
81(CBETA, T40, no. 1813, p. 640, a14-17)
82 李忠建 「论 《唐律疏议 》的儒家伦 理化」(『沙洋师 范高等专 科学校学报 』2007 年 第 8 卷 第
03 期)11 頁。
83 钱 大群『唐律疏议 新注』(南京师 范大学出版社,第 1 版,2007 年)130 頁。
84『礼記』「曲礼上」:「人生十年曰幼,學。二十曰弱,冠。三十曰壯,有室。四十曰強,而仕。
五十曰艾,服官政。六十曰耆,指使。七十曰老,而傳。八十、九十曰耄,七年曰悼,悼與耄
雖有罪,不加刑焉。百年曰期,頤。」
85 钱 大群『唐律疏议 新注』698 頁。
86 同上 700 頁。
87 同上 642 頁。
88「無服」は「五服」(古代の親族の区別)以外の親族をさす。
89 この親族の制度はかなり複雑である。同上 25 頁と 643 頁を参照。
90 同上 643 頁。
91(CBETA, T40, no. 1813, p. 640, a14-16)
92《梵網經》卷 2 (CBETA, T24, no. 1484, p. 1006, b24-25)
93《梵網經菩薩戒本疏》卷 4:「十八又諸菩薩於自妻子奴婢僕使親戚眷屬。若不先以正言曉喻
令其歡喜。終不強逼令其憂惱施來求者。十九雖復先以正言曉喻 令其歡喜生樂欲心。而不施怨
家惡友藥刃羅剎 等。二十若有上品逼惱眾生樂行種種暴惡業者。來求王位終不施與。若彼惡人
先居王位。菩薩有力尚應廢黜。況當施與。二十一又諸菩薩終不侵奪父母妻子奴婢僕從使親戚
眷屬所有財物持用布施。二十二亦不逼惱父母妻子奴婢僕使親戚眷屬以所施物施來求。」(CBETA,
T40, no. 1813, p. 631, a27-b9)。
94(CBETA, T30, no. 1579, p. 506, b22-28)
95(CBETA, T40, no. 1813, p. 644, a12-14)
96(CBETA, T40, no. 1812, p. 593, a23-25)
97 吉村誠 「玄奘の菩薩戒―『菩薩戒羯磨文』を中心に―」(『印度学仏教学研究』第五十四巻
第二号 平成十八年三月)610 頁。
98(CBETA, T40, no. 1813, p. 612, a5-16)
99 女色=母邑?
100(CBETA, T40, no. 1813, p. 622, b16-25)
101 (CBETA, T40, no. 1813, p. 620, c15-18)
102(CBETA, T40, no. 1813, p. 624, b12-22)
103(CBETA, T50, no. 2061, p. 790, b7-p. 791, b26)
104『仏光大辞典』p5636
105(CBETA, T50, no. 2061, p. 790, b12-15)
106(CBETA, T40, no. 1804, p. 3, a22-b5)
107(CBETA, T40, no. 1813, p. 603, b6-20)
31
108 佐藤達玄『中国仏教における戒律の研究』(木耳社, 1986 年), 90-100 頁.
109(CBETA, T35, no. 1733, p. 381, c10-17)
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113(CBETA, T40, no. 1813, p. 604, c13-15)
114《大方廣佛華嚴經》卷 8〈12 梵行品〉:(CBETA, T09, no. 278, p. 449, a12)
115(CBETA, T40, no. 1804, p. 149, b3-5)
116 ここの文章には多数の解釈がある。
《四分律行事鈔批》卷 14:「定約名色緣 修生滅為理者。
前文明戒。此下明定。謂觀五陰以得定也。一陰名色。以可見觸。故四陰曰名。謂受想行識。
但有名而不可見也。此是心法。故不可見。約此名色上。作生滅之觀。以為真理。此名為境。
緣 修生滅為智。言緣 修生滅為理者。謂於五陰上。作生滅觀。緣 此生滅以為理也。理謂彼人所
見。名為理智也。二乘同觀亦無諦緣 之別者。正明二乘共觀此上五陰名色。作生滅之觀。更無
二別。故曰同觀。言諦緣 等者。勝云。明無別四諦十二因緣 之別修。皆與名色為緣 。謂智起觀
也。謂四諦與十二因緣 。皆不離名色也。相云。言諦緣 者。諦是境也。緣 是智也。今二乘人同
緣 五陰為境。皆修生滅為智。以同觀五陰為境。故曰亦無諦緣 之別。只道二乘人修行。境智無
別。皆將五陰名色等為境。緣 修生滅為至理是智也。當分名為涅槃。謂即觀此五陰之相。空無
之處。剩為真理。故云觀無常等相以為真如也。濟云。二乘同觀。更無諦緣 之別者。謂無別有
緣 覺之定慧也。」(CBETA, X42, no. 736, p. 1048, b8-24 // Z 1:68, p. 38, a4-b2 // R68, p. 75,
a4-b2)
117(CBETA, T40, no. 1804, p. 149, b7-9)
118(CBETA, T40, no. 1804, p. 70, a29-b3)
119(CBETA, T40, no. 1804, p. 23, b27-c11)
120(CBETA, T40, no. 1804, p. 115, c2-8)
121(CBETA, X42, no. 736, p. 993, b3-6 // Z 1:67, p. 497, d6-9 // R67, p. 994, b6-9)
122(CBETA, T40, no. 1804, p. 70, c16-23)
123(CBETA, T40, no. 1804, p. 115, c8-9)
124(CBETA, T40, no. 1804, p. 28, a15-22)
125(CBETA, T40, no. 1804, p. 140, b29-c4)
126(CBETA, T40, no. 1804, p. 140, c4-7)
127(CBETA, T40, no. 1804, p. 140, c11-15)
128(CBETA, T04, no. 203, p. 450, c19-20)
129(CBETA, T04, no. 203, p. 449, a4-8)
130(CBETA, T04, no. 203, p. 449, a8-25)
131《續高僧傳》卷 22:「釋法礪。俗姓李氏。趙人也。因宦遂家于相焉。生而牙齒全具。迄于
終老中無齓 毀。堅白逾常。登年學位便欣大法。初歸靈裕法師。即度為弟子。風素翔郁威容都
雅。言議博達欣尚玄奧。受具已後敦慎戒科。從靜洪津師諮學四分。指撝刑網有歷 年所。振績
徽猷譽騰時類。功業既著更師異軌。又從恒州淵公。聽集大義乃周兩載。統略支葉窮討根源。
當即簙引所聞開講律要。詞吐簡詣攻難彌堅。故得隣幾獨絕 尤稱今古。末又往江南遊覽十誦。
而盛專師授討擊未資。還返鄴中適緣 開導。屬隋煬道銷岳瀆塵擾。聽徒擁戢諮逮無因。唐運初
基法門重闢。會臨漳令裴師遠。夙承清訓預展法筵。請礪在縣敷弘相續。綿積累載開悟極多。
四方懷道霄興命駕。解契昇堂行敦入室。礪以初學舊習委訪莫歸。若不流于文記是則通心無路。
乃開拓素業更委異聞。旁訊經論為之本疏。時慧休法師道聲遠被見重世猷。讚擊神理文義相接。
故得符采相照律觀高邈。休有功焉。以貞觀九年十月。卒于故鄴日光住寺。春秋六十有七。前
後講律四十餘遍。製四分疏十卷。羯磨疏三卷。捨懺儀輕重敘等。各施卷部見重於時。時衛州
道爍。律學所崇。業駕於礪。為時所重矣。」(CBETA, T50, no. 2060, p. 615, c4-29)(569–635).
132『仏光大辞典』3433 頁
133(CBETA, X41, no. 731, p. 569, c6-8 // Z 1:65, p. 225, d9-11 // R65, p. 450, b9-11)
134(CBETA, X41, no. 731, p. 569, c8-10 // Z 1:65, p. 225, d11-13 // R65, p. 450, b11-13)
135(CBETA, X41, no. 731, p. 523, c20-23 // Z 1:65, p. 180, a12-15 // R65, p. 359, a12-15)
136(CBETA, T40, no. 1813, p. 604, a20-24)
137(CBETA, X41, no. 731, p. 628, a5-9 // Z 1:65, p. 284, a17-b3 // R65, p. 567, a17-b3)
138(CBETA, T27, no. 1545, p. 663, a11-12)
139(CBETA, T40, no. 1813, p. 604, b19-24)
140(CBETA, T31, no. 1585, p. 19, b7-11)
141(CBETA, T40, no. 1813, p. 604, b28-c4)
32
142(CBETA, T35, no. 1733, p. 149, a12-14)
143《佛祖統紀》(T49.2035)。
144 原文に「章」の字がある。平了照は「童」と読むべきという。平了照「明曠撰天台菩薩戒疏に
ついて」(『天台学報』10 号 1967 年)108 頁
145 (CBETA, T40, no. 1812, p. 602, a2-3)
146 (CBETA, T40, no. 1813, p. 602, a29-b13)
147 (CBETA, T40, no. 1812, p. 580, b17-c4)
148 (CBETA, T40, no. 1813, p. 636, b15-22)
149 (CBETA, T40, no. 1812, p. 590, b28-c2)
150(CBETA, T40, no. 1812, p. 584, a25-28)
151 平了照 108 頁
152(CBETA, T40, no. 1813, p. 602, b3-4)
153(CBETA, T40, no. 1812, p. 580, b20-21)
154(CBETA, T40, no. 1812, p. 593, a23-25)
155《梵網經菩薩戒本疏》卷 5:「約境舉。父母重。餘眾生輕。約心。為父母酬罪得輕。」(CBETA,
T40, no. 1813, p. 639, b28-29)
156(CBETA, T40, no. 1812, p. 591, b19-c1)
157(CBETA, T22, no. 1428, p. 882, a8-9)
158(CBETA, T22, no. 1421, p. 160, a21-22)
159(CBETA, T40, no. 1813, p. 639, b19-20)
160 Paul Groner, 229-236.
161T.2247.
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