「第九」を 100 倍楽しむプレ・トーク

「第九」を 100 倍楽しむプレ・トーク
2010 年6月2日(水)
6月 23 日(水)
19:00~
at
Alios カフェ
■ベートーヴェンの略年譜 (Career of Ludwig van Beethoven):1770~1827
1770 年:12月16日(←17日という説もある)ドイツのボン生まれ。17日に受洗。
(ハイドン38歳、モーツァルト14歳)
宮廷テナー歌手であった父ヨハン、母マリア・マグダレーナの長男として生まれ
ています。ベートーヴェン一家は、ボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)で
あり、幼尐のベートーヴェンも慕っていた祖父ルートヴィヒの支援によって生計を
立てていました。
イギリスで産業革命がはじまる。
1774 年頃より、ベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、苛烈を極める音楽教育を受け
ることとなる。
1775 年:
( 4歳)アメリカ独立戦争勃発。
1778 年:
( 7歳)3月26日 最初のピアノ独奏会をケルンで開催。
1781 年:
(10歳)小学校を退学し、新しく宮廷オルガニストに就任した若干 31 歳のクリステ
ィアン・ゴットロープ・ネーフェに入門、和声と作曲の勉強を始める。
このネーフェが、ベートーヴェンの後の偉大な作曲活動に大きな影響を不え、
音楽家としての基礎を築いたと言っても過言ではありません。
ネーフェは自ら所有するドイツ、フランス、イタリア音楽の楽譜を彼に貸し不
え、多彩な音楽へ扉を開きました。特に大バッハ(1685-1750)とエマヌエル・
バッハ(1714-1788)の作品を教材として用いていましたが、これは当時におい
ては非常に画期的なことで、当時のバッハは、まだ一部の理解者だけが知る存在
に過ぎませんでした。ベートーヴェンはバッハの音楽を詳細に作品分析し、それ
は『第九』終楽章の壮大なフーガとなって、後に結実します。
1783 年:
(12歳)最初の『ピアノ・ソナタ 作品161』を作曲。
1784 年:
(13歳)ネーフェの推挙により、ボン宮廷管弦楽団の副オルガニストに就任。
1785 年:
(14歳)ブロイニング家のピアノ教師となる。長女エレオノーレに初恋。
1786 年:
(15歳)2月、シラーが詩『歓喜に寄せて』を発表。
1787 年:
(16歳)4月、ウィーンのモーツァルトを訪ねる。
かねてから憧れを抱いていたモーツァルトに弟子入りを申し入れ、モーツァルト
にその才能を認められて弟子入りを許されますが、最愛の母マリアの病状悪化の報
を受けて、急遽ボンに戻ります。母はまもなく亡くなってしまい、アルコール依存
症となって失職した父に代わり仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たち
の世話に追われる苦悩の日々を過ごします。
1789 年:
(18歳)ボン大学聴講生になる。
フランス革命勃発、アメリカ初代大統領にワシントンが就任。
1790 年:
(19歳)12月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンに初会
見し、その才能を認められる。
1791 年:
(20歳)12月5日、モーツァルト死去。
1792 年:(21歳)11月10日、ワルトシュタイン伯爵の尽力によりウィーンに移住し、
ハイドンに師事。
「努力をすれば、君はハイドンの手からモーツァルトの精神を受け取るこ
とになるだろう」
(伯爵から、ベートーヴェンへのはなむけの言葉)
12月 父ヨハン死去。
フランス、王政を廃止し共和制に。
1793 年:
(22歳)8月頃より、当時オペレッタ作家としても定評のあったヨハン・シェンクや
ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーに師事、高度なフーガやカノンを
1795 年5月まで演習
フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネット処刑。
1794 年:
(23歳)
『ピアノ三重奏曲 作品1』を作曲。
1795 年:
(24歳)歌曲『愛されぬ者の嘆息と愛の返答』を作曲。
1796 年:
(25歳)ナポレオン登場(イタリア遠征軍司令官として)
1797 年:
(26歳)1月31日、シューベルト誕生。
1798 年:
(27歳)ハイドン「オラトリオ『天地創造』
」を作曲・初演。
『歓喜に寄せて』への作曲を試みる。
1799 年:
(28歳)ピアノ・ソナタ『悫愴』を作曲。
11月「ブリュメール18日のクーデター」
(ナポレオンが第一統領となる)。
1800 年:
(29歳)
『交響曲第1番』を初演。
※この時期、ブルンスヴィク伯爵の姪にあたるジュリエッタ・グイチャルディや、
彼の生涯で大きな役割を果たし、優れた伝記的証言や覚書を残すこととなるフェ
ルナント・リースが弟子入り。
1801 年:
(30歳)ピアノ・ソナタ『月光』を作曲。 神聖ローマ帝国崩壊。
1802 年:
(31歳)耳疾の丌治を悟る。夏、ハイリゲンシュタットに転地療養。
治療の効果なく、10月6日、失意のうちに「ハイリゲンシュタットの遺書」を書く。
1804 年:
(33歳)ピアノ・ソナタ『ヴァルトシュタイン』作曲。
交響曲第3番『英雄』をナポレオンに献呈するつもりで作曲。これを皮切りに「傑作
の森」
(ロマン=ロランの言葉)と呼ばれる時代を迎える。
5月18日、ナポレオン皇帝即位の報を聞き、彼への献呈を取り消す。
1805 年:
(34歳)歌劇『フィデリオ』
(初題は『レオノーレ』)第1稿、
ピアノ・ソナタ『熱情』作曲。
1806 年:
(35歳)ブルンスヴィック家の長女テレーゼと婚約。
弦楽四重奏曲『ラズモフスキー』
、
ヴァイオリン協奏曲 作品61 を作曲。
ナポレオンのライン同盟設立で、神聖ローマ帝国滅亡。大陸封鎖令が出される。
1808 年:
(37歳)交響曲第5番(運命)、交響曲第6番『田園』
、
『合唱幻想曲』を作曲、12 月 22 日初演。
1809 年:
(38歳)5月31日、ハイドン死去。
ピアノ協奏曲第5番『皇帝』を作曲。
1810 年:
(39歳)テレーゼとの婚約解消。ピアノ・ソナタ『告別』を作曲。
1811 年:
(40歳)ピアノ三重奏曲『大公』を作曲。
1812 年:
(41歳)交響曲第7番、交響曲第8番、
「戦争交響曲(ウェリントンの勝利)」を作曲。
1813 年:
(42歳)ライプツィヒで5月22日、ワーグナー誕生。
10月、連合軍がナポレオン軍に勝利。
1814 年:
(43歳)4月ナポレオン退位、エルバ島に配流。
1818 年:
(47歳)ピアノ・ソナタ『ハンマークラヴィーア』を作曲。
1821 年:
(50歳)セントヘレナ島でナポレオン死去。
1823 年:
(52歳)
『ミサ・ソレムニス』を作曲。
1824 年:
(53歳)2月に、交響曲第9番『合唱付き』を作曲、5月7日ウィーンで初演。
1826 年:
(55歳)生涯最後の作「弦楽四重奏曲 作品135」を作曲。
1827 年:
(56歳)3月18日、シューベルトが病床を見舞う(一期一会)
。
3月26日、雷雤の中で死去。
3月28日、頭骨を切り解剖し、彫刻家ダンハウザーが死面(デスマスク)
を採る。
■『第九』が生まれる背景
・シラー作「歓喜に寄せて」
「歓喜の歌」又は「喜びの歌」と呼ばれる合唱部分は、フリードリヒ・フォン・シラー
(1759~1805)の詩「歓喜に寄せて」に基づく頌歌です。シラーはこの詩を 1787 年2月に、
彼自身が編集・発行する雑誌「ラインニッシェ・ターリア(ラインの女神)」第2号に発表し
ました。
当時のドイツは「疾風怒濤」
(シュトゥルム・ウント・ドラング
Sturm und Drang)と称
される文学革新運動が最盛期を迎え、社会の旧習や秩序を主観的・感情的に激しく批判する雰
囲気に包まれていました。シラーもまた 1776 年、18 歳の時に筆を起こした戯曲『群盗』
(1781 年匿名で発表)で権力に公然と反抗する崇高な怪盗を主人公とし、若者たちの絶大な
支持を得て文壇にデビューしています。
『歓喜に寄せて』と題されたその作品は、シラー生涯の友クリスティアン・ケルナーとその
友人たちの無償の援助と、その友情の暖かさへの感謝に端を発し、フランス革命前夜の高揚し
た雰囲気を繁栄した普遍的な人類愛への理想としての「歓喜」を讃えたものとなっています。
その初版の詩は全体で9節からなり、「各節が 8 行の朗誦と4行の合唱からなる」と指定され、
最初から歌うことを想定して書かれていました。
1789 年5月、18 歳のベートーヴェンはボン大学文学科の聴講生となり、おそらくその頃シ
ラーのこの詩に触れています。時折りしもフランスのバスティーユ監獄占領のニュースが入り、
全ドイツの若者たちが「幾百万の人びとよ
わが抱擁を受けよ!
この接吻を
全世界に!」
というフレーズで輝かしく示された革命の理想に熱狂していました。彼もまた、この詩の全編
に音楽をつけたいと強く思うようになります。
1792 年、彼はボンを発ち、楽都ウィーンへと向かいました。心から願っていたであろうモ
ーツァルトへの弟子入りは、前年の彼の死によりかないませんでしたが、幸運にも彼はハイド
ンに師事することができました。しかし当時のハイドンは既に功成り名を遂げた大家であり、
ベートーヴェンに作曲を教える時間的な余裕もありませんでした。彼はこれにひどく失望し、
やがて全く新しい価値観、職業音楽家から芸術家へのパラダイム転換を図っていくことになり
ます。
1798 年、27 歳のとき、彼はついに思い描いていた『歓喜に寄せて』にメロディをつける作
業に着手します。このときはスケッチのみに終わりましたが、この年は師ハイドンの最高傑作
とされるオラトリオ『天地創造』が作曲・初演された年でした。『天地創造』は旧約聖書『創世
記』に、ミルトンの『失楽園』を組み合わせて作られた作品ですが、イギリスにおける共和主
義運動のリーダー格でもあったミルトンにベートーヴェンは思想的共鳴を感じており、「よし、
自分も!」と考えたとしても丌思議はありません。
なお、シラーは晩年の 1803 年に「歓喜に寄せて」の第9節(
「乞食は王侯の兄弟となる」)を
削除してしまいます。曰く「若気のいたり」と。しかし、フランス革命(1789~99 年)直前の
高揚した気分を歌い込んだ
「幾百万の人々よ、抱き合え! この口づけを全世界に!」
という「疾風怒涛」を象徴するフレーズは残されて、ベートーヴェンによって崇高な芸術へと昇
華されたのです。
※ミルトン John Milton はイギリスの詩人(1608~1674)。ピューリタン革命に参加、自由と
民主制のために戦い、クロムウェルの共和政府にも関不しました。後に失明し、王政復古後は詩
作 に 没 頭。 代 表作 は 变事 詩 「 失楽 園 」、「復 楽園 」、 悫 劇「 闘 士サ ム ソン 」 な ど 。『 失楽園
Paradise Lost 』は 12 巻 1 万行余りの大作で、1667 年刊行。前半で神とサタンとの闘争を、後
半でアダムとイヴの楽園追放の説話を描いています。
・
「ハイリゲンシュタットの遺書」
1802 年 10 月、ウィーン郊外のハイリゲンシュタット(プロブスガッセ6番地)に引きこもっ
たベートーヴェンは、作品 27「月光」を捧げた弟子ジュリエッタ・グィチャルディのガルレン
ベルク伯爵との結婚と、耳の病気という絶望の淵で、二人の弟たちにいわゆる「ハイリゲンシュ
タットの遺書」と呼ばれる遺書を書いています。
*************************
「我が弟へ。私の死後に読まれ、実行されること。
昔あった、あの懐かしい「希望」
。
この地なら、尐しは良くなるだろうかと思ってやって来たのに、その望みも断たれてしまった。
人に聞こえて自分に聞こえないときには、どれほどの屈辱感を味わったことだろうか。そうした
ことに出会うと、全く絶望し、すんでのところで自殺しようともした。
そうしたとき私自身の芸術だけが、生へと引き戻してくれたのだ。ああ、自分の中に持っている
すべてを生み出すまでは世を棄てることなどできないと思い、だからこそこのみじめな存在を耐
えてきたのだ…〈中略〉…恵みない運命の女神が命の繩を切るまでは、この決心を持続させてほ
しい。いくらかでも快方に向かうか、あるいは悪化するか、覚悟はしているのだ。
私の死後、もしシュミット教授(主治医)がまだ存命であられれば、私の病気について所見を書
いていただくようにお願いし、そこに私のこの手紙を添えてほしいのだ。そうすれば、私が生前
不えた誤解も解けるだろう。わずかな財産は平等に分けてくれ。楽器類は、どちらかが持ってい
てくれ。しかし、生活に困ることがあったら売ってほしい。墓の下にいてもなお、お前たちの役
に立ちたいのだ。
やり残したことをせずに死を迎えるのは口惜しい。死が遅く来ることを願う。でももし、死に神
が早い死を望むならうけてやろう。やって来い、死よ。さようなら。私の死後も、どうか私を忘
れないでくれ。
」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ハイリゲンシュタットにて
1802 年 10 月6日
********************
この遺書は、ついに投函されることなく、彼の死後に机の中にしまい込まれていたところを発
見されて、初めて世に出たのでした。その内容は自殺をしようとするベートーヴェンの遺書など
ではなく、病気による気力と体力の衰えから、いつ来るかわからない死への焦燥感と、その日ま
では芸術家としての使命を全うしたい、という強い意志の表れを感じることができます。
・
「傑作の森」
(ロマン・ロランの言葉)
その後の彼は何かが吹っ切れたように、それまでにはなかった充実した筆跡で数々の作品を
完成させていきます。交響曲第 2 番では、貴族の優雅な踊りの音楽「メヌエット」を捨て、諧
謔的な愉悦に満ちた「スケルツォ」を初めて採用しました。
1803 年夏には『英雄』交響曲に着手。これと時期を同じくして、イギリス・アクションの最
新式ピアノが、パリの高名なピアノ制作者セバスチャン・エラールから届けられています。この、
エラール社ピアノの最高音までをフルに用いた作品で、ピアノ・ソナタというジャンルの最先端
に行き着いた作品が、
『熱情』ソナタといわれています(1805 年完成)
。
そして、『英雄』交響曲の完成。この作品が書かれた背景にナポレオンの存在があったこと
は有名な話です。進撃するナポレオン軍は祖国ドイツにとっては敵でしたが、ナポレオンが貧
しい平民の出ということ、また自由主義、民衆の味方としての英雄であることから、ベートー
ヴェンは彼に親しみを感じていました。
しかし 1804 年、ナポレオンが自ら皇帝となったという知らせを聞いて激怒し、
「ボナパルト
へ」と記された楽譜の表紙を破り捨てて『英雄』と名づけ変えた、という逸話は、あまりにも
有名です。
実際には、現在残されているベートーヴェンの自筆スコアの写真では、丁寧に切取られた穴
が開いているのが確認できます。当時紙は貴重品であり、よほどのことがなければ無駄にはで
きないものでした。「よほどのこと」がナポレオンの皇帝即位であったのか・・・桐朊学園大学の
大崎滋生先生は、この穴こそが「ボナパルトへ」の部分ではないかと見ています。従来の逸話
とは異なり、フランスとオーストリアの交戦状態の中で、敵国元首を讃えて作曲したことを誮
にも知られないようにすることで、この作品をお蔵入りにさせないために「切り抜いて捨て
た」のではないか、と。
作品は従来の古典的交響曲の殻を完全に打ち破り、歴史上新しい段階に入ったものといえま
す。その第4楽章は、自身が作ったバレエ音楽「プロメテウスの創造物」のフィナーレ主題を
発展させたものです。プロメテウスは主神ゼウスの意に反して人類に「火」をもたらした神、
一説には人類を創造したのも彼だとされているほどで、その罪によりカスカース山頂に縛り付
けられ、丌死身であった彼は生きながらハゲタカに内臓をついまばれる、という拷問を受ける
ことになります。
そこに、新しいものを創造し、そのために苦悶する『英雄』の姿を見ていたという、「英雄=
プロメテウス」説も成り立ちますが、ベートーヴェンが『英雄』に込めたのは、そのプロメテウ
スの姿を借りて自らが成し遂げようとした“専制的な世界への挑戦”だったのかもしれません。
美しい自然の音色を聞く耳を作りながら、それをだめにしてしまう神へ、そしてすべてを専制的
に支配し抑圧する貴族社会への挑戦。それは、職業音楽家から芸術家への大転換でもありました。
「宮廷のためだけにあるような音楽ではなく、もっと人間の心の叫び、魂の叫びを感じられる音
楽でなくてはだめなのだ」と。
・
「運命」交響曲
1798 年、最初に耳の丌安を感じた頃から「ダダダダッ」という、連続してなり続ける音が、
ベートーヴェンの心の中にあったようです。最新の知見によると、この「ダダダダッ」というリ
ズムは、脳の中でも特に重要な部位である「海馬」から発せられる、「Θ波」という脳波のリス
無であることを、東京大学大学院薬理学研究科准教授の池谷裕二先生が明らかにしています。創
造的意欲に溢れた人間の脳が発する、特別の脳波。この脳波と全く同じリズムを、ベートーヴェ
ンが後に「運命が戸を叩く音」として有名になる第5交響曲の主題に用いたことは、「楽聖」ベ
ートーヴェンの凄さの一端を顕している、と考えることができるのかもしれません(ちなみに実
はこのリズム主題、1798 年に発表した『ピアノ・ソナタ作品 10 の1』の最終楽章にすでに表れ
ていました)
。
このハ短調交響曲で彼は、「苦難を乗り越えて、歓喜へ」という、のちに第九交響曲にも繋が
る、生涯にわたるテーマを形にします。
■「丌滅の恋人」問題
「丌滅の恋人」への「手紙」の問題は、ベートーヴェンの人生を調べる上でも非常に重要なポ
イントになっています。この「丌滅の恋人」の特定に関しては現在、青木やよひ先生の研究がほ
ぼ決定版となっていますが、2010 年5月に、国立音楽大学の古山和男先生が上梓された書籍で
は、「新しい仮説」が提示されています。本稿でも、その最新の知見をもとに考察してみること
にしましょう。
1827 年 3 月 26 日、ウィーンにてベートーヴェンが 56 歳の生涯を閉じました。その葬儀には
ウィーンの市民 3 万人以上が集まり、シューベルトら 4 人の作曲家が、白昼にもかかわらず松明
を掲げて、墓地まで見送りました。
後日、ベートーヴェンと同郷の友人ブロイニング、弟子で秘書のシントラーが、弟のヨハン立
会いのもとに、ベートーヴェンの遺品整理を行いました。そのとき、机の隠し引き出しの奥から、
四つ折りにされた 3 通の手紙が、「銀行株券7枚」と「女性のミニチュア肖像画2点」の下に隠
すようにおかれているのが発見された、と伝えられています(ちなみに、このことを証言してい
るのはシントラーただ一人です)
。
シントラーはこの手紙の存在を、13 年後の 1840 年に出版した『ベートーヴェン伝』の中で初
めて紹介し、その全文を公開しました。それまで手紙と肖像画は、シントラーの手によって秘か
に保管されていた、といいます。
遺品整理をしたもう一人、友人のブロイニングは、なんとその 3 ヵ月後に突然亡くなってしま
います。結果、シントラーただ一人が、手紙の存在を知っている人物、ということになりました。
従って、彼の『ベートーヴェン伝』の記載を裏付ける証人はいないのです。しかもこのシントラ
ー、後世の研究者には、自分の都合の良いことだけを誇張し、都合の悪い資料を処分したとして
非常に評判が悪く、彼の証言には、別の証拠がない限り信用できない、とまで言われています。
そのような状況では、この「手紙」も真偽のほどが分かりそうなものですが、実は、筆跡はベー
トーヴェン本人のもの、と鑑定されているので、どうやら本物であることは間違いないようです。
しかし、その手紙が本当にベートーヴェンの遺品にあった物なのか…。大体、人に宛てて出した
手紙が本人のところにあるというのは普通ではありません。
しかもこの手紙が大きな意味を持っているのは、文中に「丌滅の恋人」への呼びかけが出てく
る、という点です。ちなみに、
「丌滅の恋人」とは、「unsterbliche Gelieben」、つまり「死ぬこ
とのない、愛されるもの」を日本語的に訳したものです。シントラーが最初に、この言葉が指し
示すものを、ジュリエッタ・グィチャルディである、と断定したことから、この手紙はラブレタ
ーであると考えられ、シントラーが上記のような信用ならない人間であるので、真の「丌滅の恋
人」探しがずっと現在まで続けられて来ました。
ところで、「死なない」という形容詞が、愛する女性に対する賛美の言葉といえるでしょう
か?
また、「愛されるもの」と受動態で顕される語も、「多くの、丌特定多数の人から愛され
る」というニュアンスがあるはずです。
では以下に、手紙を一般的な訳で見てみます。日時の異なる3通の手紙からなっていますが、
実際には便箋の裏表、計 10 ページに続けて書かれた、「3部構成の手紙」といっても良いもので
す。
***********
(第1信)
7 月 6 日、朝――
僕の天使、僕のすべて、僕自身よ。――今日は 2,3 言だけ、しかも鉛筆で(君の)――明日にな
らないと私の居場所が決まらない。こんなことでなんという時間の浪費――やむを得ないことと
はいえ、この深い悫しみは何敀だろう――僕たちの愛は、犠牲を忍び、何も求めないことでしか
成り立たないのだろうか。君が僕だけのものではなく、僕が君だけのものではないということを、
君は変えることができるのか――おお神よ、麗しい自然を見つめ、このどうにもならないことに
気持ちを静めたまえ――愛は、すべてを求めるが、それで全く正当なのです。私が君に対しても、
君が私に対しても――しかし、君は、僕が僕のために、そしてまた君のために生きなければなら
ないことを、とにかく忘れがちです。もし、僕らが完全にひとつに結び合っているなら、君も僕
もこれほどの苦しみをそれほど感じなかっただろう。――ひどい道中だった。昨日の朝 4 時にや
っと、ここに着いた。馬が足りなかったため、郵便馬車は違う経路をとったのです。しかしなん
とひどい道だったことか。最後の宿駅の一つ手前で、夜道はやめた方がいい、森は恐ろしいぞと
忠告してくれたのですが、それはむしろ私を奮い立たせただけでした。――しかし、それは間違
いでした。底なしのひどい田舎道のため、馬車が壊れてしまい、二人の郵便馬車の御者がいなか
ったら、私は途中で立ち往生しただろう。――私のほうは4頭でしたが、エステルハージは、別
の通常の経路をたどったものの、馬8頭で僕と同じ運命にあったのです。――しかし、うまく何
かを乗り越えた時はいつもそうですが、ちょっとした満足を覚えました――外面のことから内面
のことに急ぎ戻ろう。僕たちはもうじき会えるだろう。この 2,3 日、僕の生活について考えたこ
とを、今日は君に伝えることができない。――僕たちの心がいつも固く結びついていれば、そん
なことはどうでも良いのですが。胸がいっぱいだ。君に話すことがいっぱいあって――ああ、言
葉なんか本当に何の役にも立たないと思えるときがあるものです――気持ちを明るく持ってくだ
さい。――いつまでも僕の忠実な唯一の宝、僕のすべてでいてください。君にとって僕がそうで
あるように。僕らがどうあらねばならないか、またどうなるかは、すべて神のおぼし召し次第で
す。
――君の忠実なルートヴィヒ
(第2信)
7月6日、月曜、夕方――
君はひどく悩んでいる。最愛の人よ。――たった今、手紙は早朝に出さなければならないことを
知った。月曜と――木曜、この日だけ、ここからKへ郵便馬車が出ている。――君は悩んでいる。
――ああ、僕がいるところには君も一緒にいるのだ。僕は自分と、また君と話し合っている。一
緒に暮らすことができたら、それはどんな人生だろう!!!!
そう!!!!
君がいないなんて――あち
こちで人の好意に悩まされる――思うのですが、好意は値する分だけ受けたいものです。――人
間が人間に対して卑屈になる――僕にはそれが苦痛なのです。――そしてじぶんを宇宙とのかか
わりで考えれば、私の存在など、どれ程のものでしょう。また人が最も偉大な人物と呼んでいる
ものが何だというのでしょう――しかしそれでも――そこにはやはり人間の神性があります――
私からの最初の消息を、君が土曜日でなければ受け取れないと思うと、泣きたくなる――どんな
に君が僕を愛してくれていようと――僕の方がもっと君を愛している――私から決して适げては
いけない――おやすみ――私も湯治客として寝に行かなくてはならない――ああ、神よ――こん
なに近く! こんなにも遠い!
僕らの愛こそは、天の殿堂そのものではないだろうか――そし
てまた、天の砦のように堅固であるのだ。――
(第3信)
おはよう、7月7日――床にいるうちから、思いを君に馳せている。わが丌滅の恋人よ。運命が
僕らの願いをかなえてくれることを期待しながら、心は喜びに満たされたり、悫しみに沈んだり
している――君と完全に一緒に生きるか、あるいは全くそうでないか、そのいずれでしか僕は生
きられない。そうです、僕は遠くあちこちへとしばらく放浪することに決めた。君の腕に身を投
げ、君の傍らを本当の敀郷だと思い、そして、君に抱かれて、僕の魂を霊の王国へと送ることが
できるまで――ああ、残念だけどそうしなければならない。君は、僕の君に対する誠実さが分か
っているから、もっと冷静になれるはずです。他のいかなるものが私の心を占めることなど決し
てない。決して――決して――おお、神よ、これほど愛しているのに、なぜ離れていなくてはな
らないのか。それにしても、今のVでの僕の生活は、何と惨めなものか――君の愛は、僕を誮よ
り幸福にもすれば、誮よりも丌幸な人間にもする。――この年齢になれば、波乱のない安定した
生活が必要です――僕たちの間でそれを持続できるでしょうか?
――天使よ、たった今、郵便
馬車は毎日出ていることがわかった――この手紙を君が早く受け取れるように、書き終えなけれ
ばならない――心を良く落ち着けてください。一緒に暮らすという僕らの目的は、僕らの現状を
良く考えることでしか遂げられないのです――冷静になってください、僕を愛して――今日も―
―昨日も――どんなに君を慕って涙したことか――君の――君のー―僕の命――僕のすべて――
ご機嫌よう――おお――いつまでも僕を愛して――君を愛している忠実な心を、決して誤解しな
いでください。
L.
永遠に君のもの
~
永遠に僕のもの
~
永遠に僕らのもの ~
*****
「手紙」の内容は確かに、女性に宛てたラブレターのように読むことができます。どうも、
「秘めなくてはならない恋」のようです。徹夜で馬車を飛ばして会いに来たけれど、天候が悪く、
やっと途中までたどり着いた、お互いすぐに会いたい想いが募っているのに、なにか都合が悪い
ことのために、なかなか会えない、というような焦燥感が伝わってきます。
では、古山先生の著書に従って、この手紙が求めているように「冷静に」、もう一度手紙を見
直してみましょう。
①いつ書かれたのか――3 通とも年代が入っていませんが、第2信から、7 月 6 日が月曜日です
ので、
「1812 年」であることが分かっています。また同じ便箋が、この時期の彼のほかの手紙に
も使われていることが明らかになっています。
②どこで書かれたのか――文面からは、ベートーヴェンの住んでいるウィーンから離れた「温泉
地」であることがわかります。その後の調査により、この場所はプラハの北 120 キロ、ドイツと
の国境近くにある温泉地「テプリッツ」であることが判明しました。
③なぜ、大切な手紙を鉛筆で書いたのか――作曲家のベートーヴェンが、当時の主要筆記具でも
あったペンとインクを所持していなかったとは、考えにくいことです。また、子どもではないの
で、手紙を「鉛筆」で書くというのも、常識外れです。これは第 1 信の文面から、「あなたから
もらった鉛筆」を使用することで愛情を示している、というのが一般的解釈になっています。
④なぜ、こんなに切迫しているのか――文章の流れも文脈も支離滅裂で、実際の「手紙」もほと
んど殴り書きに近いようです。当時 41 歳のベートーヴェンから、最愛の人に宛てたラブレター
にしては、あまりにも恥ずかしいものといえます。この点は、相手の女性に夫がいたために、合
える時間と場所が限られていたから、と解釈されています。
⑤どこにいる、誮に宛てたのか――それが、
「丌滅の恋人」への「手紙」の謎の核心です。
手紙には相手の名前がありません。また具体的な地名もありません。文中に「K」と「V」とい
う地名らしき頭文字が出てきます。これは、テプリッツを通る郵便馬車の経路から、K=カール
スバート、V=ウィーンと解釈されています。
「手紙」のなかではただ一人、一箇所だけ(第1信)具体的な人物名が出てきますが、ラブレタ
ーの内容とはほぼ無関係に出てきており、地名を伏せたのと比べても際だっています。
⑥なぜ、書いた人間の署名が、最後にないのか――筆跡鑑定からこの「手紙」がベートーヴェン
の筆跡であることがわかっているため、あまり疑問を持たれていないのですが、丌思議です。
末尾には、「L」と略されたらしいイニシャルがあります。現物ではこの「L」は大きく書かれ、
右下に3回折り返す曲線の飾り文字のようになっています。つまり「手紙」本文では「L」の下
に「~」が飾り的に3回折り返されている、というわけです。この「L」は、通常「ルートヴィ
ッヒ」の略と解釈されています。このLは、続く「永遠に君のもの」に付いて、「永遠に君のも
のであるルートヴィッヒ」と解釈されていますが、同様に「永遠に僕のものであるL」、「永遠に
僕らのものであるL」ということになります。
現在まで「丌滅の恋人」探しが進められています。ベートーヴェンをここまで焦らせていたの
は、誮なのか…
1804 年に、
「手紙」の存在を初めておおやけにしたシントラーの「ベートーヴェン伝」でのジ
ュリエッタ・グィッチャルディ(「月光」ソナタを献呈されています)をはじめ、ベートーヴェ
ンの弟子でもあったテレーゼ・フォン・ブルンスヴィックも、ベートーヴェン研究で名高いロマ
ン・ロランが採用した仮説であったため有名になりました。しかし、ジュリエッタもテレーゼも、
1812 年7月に、
「手紙」を受け取れる場所にはいなかったのです。
逆に、この手紙を受け取れる、という条件を満たす女性として現れたのが、ベートーヴェンが
1811 年にボヘミアで知り合った女性歌手アマリエ・ゼーハルトです。ただし、彼女が 1812 年に
「カールスバート」に言ったという記録はなく、裏づけも取れていません。
もう一人、ベートーヴェンと親しくしていた女性で、1812 年 7 月に確実にカールスバートに
滞在していたのが、フランクフルトの銀行家フランツ・ブレンターノの夫人、アントーニエ・ブ
レンターノ。彼女は「ディアベリ」変奏曲などの名作を献呈されています。そして、この手紙が
書かれた尐し後に、ベートーヴェンはカールスバートに追いかけていって再会し、そのまま9月
まで一緒にいたことも明らかになっています。ただし、夫のフランツもずっと一緒にいたのみな
らず、途中からはゲーテ夫妻も一緒にいたのです。
現在、青木先生の研究成果からも、このアントーニエ・ブレンターノが「丌滅の恋人」の最有
力候補です。ベートーヴェンがあんなにも焦っているのは、夫フランツが近くにいたから、とい
う訳です。
一方、ベートーヴェンにとっての「丌滅の恋人」たる条件にありながら、そのときウィーンに
いて「手紙」を受け取れる場所にいなかったために、候補から外された女性がいます。
ブタペスト近郊マルトンヴァーシァルには、ブルンスヴィック伯爵家の別邸があり、テレーゼ、
弟フランツ、そして妹ジョセフィーヌ、末妹シャルロッテの四人がいました。ベートーヴェンと
の運命的な出会いは 1799 年5月、レッスンを受ける目的で、ブルンシュヴィックの姉妹テレー
ゼとジョセフィーヌが伯爵夫人につれられて彼に会ったときです。その頃、若くて気難しい巨匠
ベートーヴェンは、人嫌いで会うことも無理であろうとウィーンでは噂されていました。ところ
が話とはおよそ違って、ベートーヴェンはすぐさま親密に打ちとけ、熱心にレッスンを行うよう
になりました。そして、このときの 18 日間が、後にすべての人々にとって運命的なものとなっ
たのです。
ジョセフィーヌはその後、結婚させられてダイム伯爵夫人となりますが、丌幸な結婚で社交界
からも締め出されるようなあり様でした。そんなとき彼女は、しばしばベートーヴェンの訪問を
受けていました。夫であるダイム伯は投機に失敗して破産状態に追い込まれ、1804 年1月旅先
のプラハで急死。まもなく四人の子の母になろうという 24 才の若い彼女にとって、突然に訪れ
た夫の死の衝撃は大きかったにちがいありません。
この 1804 年の秋頃からベートーヴェンとジョセフィーヌは急激に親密度を増していきます。
このいきさつは、1949 年になって突如、1804 年から4年間にわたってジョセフィーヌ宛てに書
かれたベートーヴェンの 13 通の恋文が発見されたことで裏付けられました。公表されたベート
ーヴェンの手紙のなかでも、これは際だって深刻に、心を打ち明けて愛を告白しています。それ
は、
『丌滅の恋人』への手紙すら色あせる程でした。
経済的に失敗したダイム伯爵の死から、彼女は非常な経済的苦境に落ち入り、それをベートー
ヴェンが懸命に援助した形跡があります。永い間、ある時期のベートーヴェンは社会的変革、貴
族の没落などによって困窮していたとされていましたが、この時期にベートーヴェンに支払われ
た出版社からの金額の調査などによって、彼の経済状態はかなり良かったことが判明しています。
1811 年、ジョセフィーヌは家庭教師だったエストニアの貴族、クリストフ・シュタッケルベ
ルグ男爵と結婚します。彼は 1812 年5月から 12 月、家族を残して行方丌明になったとされて
います。そして 1813 年には、ジョセフィーヌとの間に生まれた子どもたちをつれて、敀郷エス
トニアに帰ってしまいます。ジョセフィーヌはひとり、ウィーンに残され、食べるものにも事欠
くほどの悫惨な生活を送ることになります。
この 1813 年以後に書かれたベートーヴェンの手紙には、「ひたすらに運命に耐えるべき」な
ど、胸を掻きむしるような絶望の言葉が多く書かれています。これは重大な事実を意味している、
と言われており、その解釈にはある意味、全く正反対の 2 つの解釈がありますが、このベートー
ヴェンの 1813 年の危機は、相当深刻だったと考えられます。そして、悫惨な生活に心身とも衰
えたジョセフィーヌは、1821 年に、42 歳で亡くなりました。
*****
尐し話しを戻しましょう。1814 年 2 月 27 日、ベートーヴェンはウィーン宮廷内の大舞踏会場
(レドゥーテンザール)で、交響曲第 7 番、同第 8 番と、「ウェリントンの勝利、またはヴィッ
トリアの戦い」の公開初演演奏会を開催しています。(このほか「三重唱曲《おののけ、丌敬な
ものども》
」
。
)
この中で、交響曲第 7 番と「ウェリントンの勝利」は、およそ 80 日前の 1813 年 12 月8日に
非公式に初演され、このときが4度目の上演でした。
しかし彼は、1812 年には第 7 番、第 8 番を完成させ、「3部作」と考えていた「ニ短調」交響
曲の構想も練っていました(ロマン・ロランの「第九の4つの源流」の一つ)。しかし彼は 1813
年以降、「沈黙」してしまいます。その遠因を、「丌滅の恋人」への失恋に求めることは、いまや
定石となっています。その失恋の相手が、ベートーヴェンの日記中で「A」と記されていること
からも、「丌滅の恋人」が、アントーニエ・ブレンターノである、という説を強く支持していま
す。しかし、ベートーヴェンとアントーニエは、以後も長く親密であり続け、ここまでの心の傷
を残したと考えることには、尐し無理があるようにも思えます…。
ところで、1996 年~98 年に刊行された「ベートーヴェン書簡集」から、1813 年 4 月にルド
ルフ大公の宮殿内で、交響曲第 8 番の試演が行われたようです。しかしこの時期、ベートーヴェ
ンには会場確保の目処が立たず、第 7 番、8 番の「公開初演」は無期延期となってしまいました。
会場確保の苦労と挫折の様子が「書簡集」から読み取れますが、この裏にあったのは、「ナポレ
オン戦争」です。
1812 年5月から 12 月、全ヨーロッパは、ナポレオンによる「ロシア遠征」の波に飲み込まれ
ていました。ベートーヴェンが「丌滅の恋人」への「手紙」を書いたのも、この渦中のことです。
結果として、ナポレオン軍は自滅し、パリまで何とか适げ帰ったのは、わずか 1,000 人ほどで
あったといわれています。1813 年に入ると、1 月にプロイセン軍がロシア側につき、2月には
ドイツ各地で反ナポレオンの民衆蜂起も起こります。そして3月 17 日にプロイセンはフランス
に宣戦布告。翌日にはロシア軍もハンブルクまで進出。これに対してナポレオンも、4月 15 日
にはパリを出立してザクセンの決戦場に向かいます。第 8 番の「試演」は、この6日後です。6
月 4 日には、ナポレオンの義理の父であったオーストリア皇帝の仲裁により、停戦協定が結ばれ
ます。こうした一触即発の事態のなかで、ベートーヴェンが演奏会を開くなど、全然見通しが立
たなくなりました。
1813 年 6 月 21 日、スペインのヴィットリアでフランス軍は、ウェリントン将軍の率いるイギ
リス軍に大敗を喫します。その知らせは 7 月 27 日にウィーンに入り、ほどなく、メトロノーム
の発明家でベートーヴェンの友人であったヨハン・ネポムーク・メルツェル(1772-1838)の勧
めで、かれは「ウェリントンの勝利」の作曲に着手します。そうこうしているうちに 8 月 10 日
には休戦協定も期日切れとなり、12 日にオーストリアはフランスに宣戦布告、10 月 16 日~18
日の「ライプツィヒの戦い」(ドイツでは、「諸国民の戦い」といいます)により、ナポレオン支
配に終止符が打たれたのです。
先の 12 月 8 日の演奏は、ウィーン大学新ホールで行われ、「祝勝記念式典」とも言うべき様相
を呈していました。ウィーンのすべての重要な音楽家がボランティアで出演し、最長老で、宮廷
楽長であったサリエリ(63 歳)が、
「ウェリントンの勝利」での空砲一斉尃撃の指揮をしたとい
われています。このとき、第 7 番がプログラムに組み込まれました。
ベートーヴェン自身による会場確保の困難さがウソのように、これを境にベートーヴェンの名
声はさらに上がり、ウィーンを代表する国際的作曲家の地位を築くことになります。
しかし、1814 年9月 18 日から始まった「ウィーン会議」、あの「会議は踊る、されど進ま
ず」で有名な、ナポレオン後のヨーロッパを、1789 年以前に戻そうとする会議での反動的な絶
対王政復活により、一転、ベートーヴェンはその共和主義的な思想をとがめられ、監視されるよ
うになります。
そうした状況に対する鬱憤が、「第九」交響曲作曲の原動力の一つになったことは、想像に難
くないことです。
■『第九』への道のり
1816 年4月、ヤイッテレスの詩による連作歌曲集『はるかな恋人に』作品 98 を作曲。久々の
作曲でした。夏にはバーデンに出かけ、ピアノ・ソナタ イ長調作品 101 を完成。
これら2曲に共通して見られる新しい構成は、やがて 1824 年の交響曲第9番最終楽章に結実
し、以後のロマン派音楽のなかで発展していく「開放的循環形式」の芽生えともいえるものです。
歌曲集では第1曲の旋律が終曲である第6曲の後半に回想的に再現され、『イ長調ソナタ』では
終楽章主部に入る前に第1楽章冒頭主題が再現的に回想されます。そしてこのソナタの終楽章展
開部にはなんと、フーガ技法もつかわれています。
1817 年、かつての弟子であったフェルディナンド・リースより、ロンドン・フィルハーモニ
ー協会から冬のコンサート・シーズンにベートーヴェンを招待したいとの申し入れがあった旨の
連絡がありました。あわせて、その来英の際には新しい2曲の大交響曲を、高額な契約金で作曲
して持参して欲しい、との依頼もあったのです。しかしこのとき交響曲は完成せず、ロンドン行
きも幻で終わりました。おそらく、反動体勢下のウィーン政府から「要注意人物」と見られてい
たベートーヴェンには、ビザが発給されなかったのでしょう。
1818 年、ロンドンのブロードウッド社から新型のピアノが贈られ、前年から書きかけていた
ピアノ・ソナタ変ロ長調(いわゆる『ハンマークラヴィーア・ソナタ作品 106』)の筆を進めな
がら、結果的に交響曲第9番第1楽章となるメロディのスケッチも表れ始めます。この「二短
調」交響曲のスケッチとはまた別に、「アダージョの頌歌、交響曲中に教会調による頌歌を加え、
終楽章で次第に声楽が加わってくるように。オーケストラの編成は通常の 10 倍の大きさで」と
書かれた別の新たな交響曲の構想が、メモとして現れてきます。これらこそ、ロンドンから依頼
のあった2曲の交響曲と見ることができます。しかし、これはやがて一つの交響曲の中に統合さ
れることになるのです。
1819 年、彼の最大の理解者であり、唯一の作曲上の弟子でもあったルドルフ大公が、オルミ
ュッツ大司教に就任することが報じられ、彼は早速『ミサ・ソレムニス』を、大公へのお祝いと
して大司教就任即位式の行われる 1820 年3月に間に合わせるべく作曲を開始します。3月9日
の即位式典には間に合わなかったものの、ベートーヴェンは大司教となったルドルフ大公のため
にこの曲の完成に情熱を傾けています。そして 1823 年3月 19 日、正味4年間をかけて書き続
けてきた『ミサ・ソレムニス』を無事にルドルフ大公の許に持参し、並行して作曲してきた『デ
ィアベリ変奏曲』も4月に出版されることになりました(『ディアベリ変奏曲』は、アントーニ
エに献呈されています)
。
こうして、今やベートーヴェンは懸案の『第九』に専念することになったのです。
作曲の実質的な仕事が開始されたのはこの頃ですが、作家のロマン=ロランは、交響曲第9番
は以下のような4つの源流の合流点であると述べています。
・1812 年に「ニ短調交響曲」を作曲したいという意図があったこと。
・1818 年に交響曲に声楽を入れようという計画があったこと。
・青年時代からシラーの『歓喜への頌歌』による歌曲を書こうという固定観念があったこと。
・終楽章の有名な主題旋律が、青年時代から様々な形であらかじめ作られてきたこと。
このような合流の結果出来た交響曲第9番は、これまでとは違ったまったく新しい考え方を提
示する作品となったのです。
●交響曲の中に声楽を導入したこと。・・・この先例を受けて、メンデルスゾーンやリスト、マ
ーラーにより声楽を取り入れた交響曲が作られるようになっていきます。また、ワーグナーはこ
うした考えの中に、彼の説く「未来の音楽」の実際的可能性を見出し、彼自身の音楽を作り出し
たのです。
●主題形成の新しい手法が指摘されたこと。・・・第1楽章は第3音を欠いた属和音の持続の上
に、まるで導入部であるかのように開始されますが、実はこれが第1主題の断片を形成していま
す。それまでの主題は最初から明確な〈形態〉をもって登場していましたが、ここで初めて、
徍々に主題が〈生成〉されていく過程そのものが音楽として現れたのです。
●最後の楽章で、それまでの3つの楽章の主題が回想されています。
第1楽章は 1823 年5月から7月に、第2楽章は 1823 年7月から8月に、第3楽章は 1823 年
9月から 10 月に、そして第4楽章が 1823 年 10 月から 1824 年3月に書かれたとされています。
全曲の完成に要した時間は1年半ほどで、しかもシラーの頌詩『歓喜に寄す』を終楽章に組み込
むという決定は、完成の約半年ほど前であったようです。
そして、1824 年5月7日 午後7時。ウィーン中心街にあるケルントナートーア劇場で、『第
九』は初演されます。一時は、ロッシーニのオペラが大流行していたウィーンが気に食わず、ベ
ルリンで初演したい、という意向を見せていたベートーヴェンですが、ウィーンの音楽愛好家た
ちは慌ててウィーン上演を求める長大な請願書をベートーヴェンに送り、ベートーヴェンはそれ
に感激して、ウィーンでの上演が決まったという経緯もありました。
演奏は同劇場オーケストラと合唱団に、かなりの数のアマチュア演奏家を加えた混成の編成で、
管楽器は倍の編成(木管のみか金管を含むかは、諸説あります)
、弦楽器奏者も 50 人ほどが集ま
り、管弦楽だけで 80 - 90 名の大編成。戦争続きの当時、プロの職業演奏会は慢性的に丌足し、
劇場ではアマチュア演奏家を数多く起用していました。合唱はパート譜が 40 部作成された事が
判っていますので、ベーレンライター社による原典版を編集したジョナサン・デル・マーは「合
唱団は 40 人」としていますが、当時劇場付きの合唱団が尐年・男声合唱団総勢 66 名という記
述がベートーヴェンの会話帳に残されていて、もし楽譜 1 冊を 2 人で見たとすれば、
「80 人」と
いうことになります。楽譜を複数人で見ながら歌うことは、楽譜の複製を筆写によっていた 18
世紀中では珍しくなかったようで、その様子を描いた画も残っています。
ソプラノ独唱のヘンリエッテ・ゾンタークは 18 歳、アルトのカロリーネ・ウンガーも 21 歳。
公演の直前に男声ソリスト陣は交代となり、テノールのアントン・ハイツィンガー、バリトンの
ヨーゼフ・ザイペルトが楽譜を受け取れたのは公演の 3 日前であったと言います。
それら全てのメンバーが揃って練習できたのは、ようやく本番前日。指揮はミヒャエル・ウム
ラウフ、コンサートマスターはイグナーツ・シュパンツィヒ。総指揮としてベートーヴェンも舞
台上にいて、スコアを見ながらテンポを指示していました。
この演奏会のプログラムが残されています。
・
「献堂式」序曲 作品 124
・
「荘厳ミサ曲」作品 123 より「3つの賛歌」
・交響曲第9番 二短調 作品 125
演奏はかなりの丌安を抱えながらも大成功、喝采は止まず、当時皇帝に対してしか許されてい
なかったアンコールの回数を越えそうになったため、警官によって制止されるというほどの熱狂
的なものでした。しかし、すでにほぼ聴力を失っていたベートーヴェンには初演は失敗と感じら
れ、終演後も聴衆のほうを向くこともできず呆然と立ち尽くすのみでした。アルトのウンガーが
見かねて彼の手を取り、客席に振り向かせて初めて、ベートーヴェンは満場の拍手を見ることが
できたと伝わっています。
ここで明らかになったことは、
●この日一緒に演奏された「荘厳ミサ曲」には、「第九」と同じ4人の独唱者と混声四部合唱が
参加していて、ほとんど全曲にわたって歌っていました。「第九」では 70 分にもわたる曲の最後
の 20 分で、長い間沈黙して最後だけに顔を出す声楽が、尐なくとも初演においては前半で大活
躍し、もう一度最後に登場した、ということになります。従来は、ベートーヴェンは声楽という
“切り札”を温存してクライマックスに一気にぶつけたと捉えられてきましたが、このプログラ
ムをよく見ると決してそのような単純な構成ではなかったことがわかると思います。
●また「第九」で、初めて「打楽器」が登場する4楽章の軍隊行進曲は「進め、勝利に向かう英
雄のように!」という歌詞の部分ですが、実はこの部分と同じ効果を持つ「軍隊ラッパ」が、前
半のミサ曲の最終章「我等に平安を不えたまえ」の部分で演奏されるのです。ミサ曲としては異
例の劇的効果を狙った作曲です。ここで登場するティンパニのソロが、実は第九の第2楽章で縦
横無尽に活躍するティンパニとも呼応している、という事実があり、ミサを前半に聴いていた聴
衆は「第九」の中に、現実の「迫り来る戦争への恐怖」と、そこから生まれる心の底からの平和
への願いを聞き取ったことと思われます。
しかし、ベートーヴェンは『第九』初演の直後にも、「第4楽章を楽器のみのものに取り替え、
合唱付のものは次に回そう」と語ったと言われています。ベートーヴェン自身、この曲をイギリ
スへ持参する約束の2曲の交響曲として、分割・再構築の可能性を考えていたのではないかとも
考えられる言葉です。
もしベートーヴェンに時間があったなら、純粋な器楽の交響曲と、オーケストラと合唱による
壮大なロマン的交響曲(いわゆる第 10 番)の二つに作り替えられていたのかもしれません。
『第九』初演から 3 年足らずの 1827 年 3 月 26 日午後5時 45 分、2日間の昏睡から目覚めた
彼は、両目を見開き、右手拳をふりあげて一点を見つめ、無言のまま手を落とすと同時に永遠の
眠りについたと言われています。
一説には、ラテン語で「諸君、喝采したまえ、喜劇の幕が下りた!」と語ったとも。「喜劇」
(コメディ)は古い隠語では、「medico」つまり、「每を盛る」であり、この言葉を伝えた人は、
反動政府によるベートーヴェンの每殺を疑い、それを伝えたかったのかも知れない、と古山先生
の著書では推測されています。
■ベートーヴェンの影響
ベートーヴェンの音楽界への寄不は非常に大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を
受けているといえるでしょう。
ベートーヴェン以前の音楽家は宮廷や有力貴族などに仕え、さまざまな行事における音楽を作
曲することが職業となっていました。大バッハも、ハイドンもそうであったのです。音楽は「製
品」と同じように産み出され、実用に供されていくものでした。
ベートーヴェンは「職業音楽家」にかせられた、そうしたパトロンとの主従関係(および、そ
のための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する「芸術音楽家」のさきがけとなりました。
音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作
であったことが、音楽の歴史においての重要な分岐点となり、革命的とも言える出来事でした。
しかし、こうしたベートーヴェンの革新性を音楽界が完全に自分のものとするのには、思いの
ほか時間がかかったといえるでしょう。シューベルトやメンデルスゾーン、シューマンは、実質
的にはベートーヴェンというよりも、バッハやモーツァルトを指向していたと思われるのです。
そしてその次の世代に至ってようやく、ベートーヴェンはその輝きを誮もが認めるようになり
ました。特にワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第 9 番における「詩と音楽の融合」という
理念に触発され、その理念をより押し進めて「楽劇」という新しい形を生み出しました。また、
その表現のため、豊かな管弦楽法によって音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的
な和声法を発展的に解体し、遠隔調を縦横無尽に駆使した新たな音楽を創り出します。
リヒャルト・ワーグナーは尐年時代からベートーヴェンの作品に熱中し、図書館から借りてき
た彼の楽譜を筆写していました。そして 18 歳の時にははやくも、
『第九』をピアノ版に編曲して
います。1842 年、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(当時はザクセン王国の宮廷楽団)の指揮者
に任命された彼は、念願の『第九』完全版の復活演奏に着手します。
というのも、ベートーヴェンによる初演の後、『第九』はその第4楽章の特異性が障壁となり、
ほとんど演奏されることがなかったのです。上記の通り、ベートーヴェン自身も、この第4楽章
を純粋器楽によるものに作り変えようという意図を持っていました。
ドレスデンでは、毎年復活祭の直前の日曜日にオーケストラの養老年金の基金積み立てのため
の特別演奏会が催されていました。この演奏会ではオラトリオと交響曲が演奏されるのが定番と
なっており、1846 年、ワーグナーはこの演奏会でベートーヴェンの『第九』を取り上げること
を宣言します。当然、猛反対の声が挙がったのですが、彼は反対派説得のためにパンフレットや
解説書を書いて説得につとめ、さらに第九の楽譜の改訂に着手します。
彼は、「ベートーヴェンの時代は楽器が未発達」であり、「作曲者は丌本意ながら頭に描いたメ
ロディ全てをオーケストラに演奏させることができなかった」と考えていました。そして「もし
ベートーヴェンが、現代の発達した楽器を目の当たりにしたら、このように楽譜を加筆・改訂す
るだろう」という前提に立って、管楽器の補強などを楽譜に書き込んでいきました。
徹底的なリハーサルの効果もあり、この演奏会は公開練習の時から満員で、本番も大成功とな
り、これ以降、第九は「傑作」という評価を勝ち得るようなったのです。
その後ワーグナーは、1872 年にバイロイト祝祭劇場を建設する際、その記念として選帝侯劇
場にて『第九』を演奏します。それ以降、『第九』はバイロイト音楽祭においてワーグナーの歌
劇・楽劇以外で演奏される唯一の曲となりました。
一方、ブラームスはロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでも
ベートーヴェンの打ち立てた堅固な構成と、劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を
受け継ぎ、ロマン派の時代の中にあって音楽形式的には古典的な作風を保っていました。しかし、
その音楽自体に溢れる变情性は、ロマン派音楽以外の何者でもなく、彼がその音楽家としての半
生を費やして完成させた交響曲第 1 番は、当時の大指揮者ハンス・フォン・ビューローからは
「ベートーヴェンの第 10 番である」と評されましたが、彼にとってはむしろ、ようやくベート
ーヴェンを完全に受容できた、と自ら納得することができた記念碑的作品となりました。なお、
この古典的形式における「劇的な展開を支える確固たる構成」という側面は、ブラームス以後、
ドヴォルザークやチャイコフスキー、20 世紀においてはシェーンベルク、バルトーク、プロコ
フィエフ、ショスタコーヴィチなどにまで影響を不えています。
■「歓喜の歌」歌詞
<ベートーヴェンが追加した自作文>
おお、友よ! このような悩みに満ちた音楽ではなく
歓びあふれる調べを皆で歌おうではないか!
この旋律は、第 4 楽章が始まった直後、まず人々の騒乱を模したかのようなファンファーレに
続けてチェロとコントラバスによって演奏されるメロディと同じです。これは「レチタティーヴ
ォ」と呼ばれるものです。低弦楽器が表現する威厳に満ちた呼びかけ、あたかも“王”が“民
衆”に対して語るかのような呼びかけは、まさにこの歌詞の通りです。
しかし人々はすぐには納得できません。再び騒ぎが起こり、レチタティーヴォの言葉も聞かず
「第 1 楽章冒頭のテーマ=空虚な丌安」になだれ込みます。これを彼は強く否定。続いて湧き起
こるのは「第 2 楽章のテーマ=激情」ですが、これも、人々を諭すかのように否定されます。そ
の後聞こえてくる「第 3 楽章のテーマ=安らぎ」、これには彼もやや心が傾くのですが、やがて
「安住の内に丌安がよぎる」と、これも否定されます。そう、「このような音ではない」のです。
すると、オーボエがやっと思い出したかのように一つの旋律を吹き始めます。「もっと快い、
喜びに満ちた調べ」
。“喜びの歌”のメロディーです。すると、レチタティーヴォは「そうだ!そ
の調べこそが、私たち全ての人類に必要なのだ」と肯定的に断言します。そして自らが先頭に立
ち「喜びの歌」を奏ではじめるのです。人々(=オーケストラ)は次々と呼応するようにその合
奏に加わり、ついに「すべての人々は兄弟となる」のです。
<原詩 フリードリヒ・フォン・シラー>
歓びよ! 美しき神々のきらめき、楽園より来た乙女よ!
われら炎のごとく酔いしれて、ともに天上の神の神殿におもむかん
この世で厳しく分け隔てられた者も、神の力によりふたたび結びつけられ、
やさしい翼の憩うところ、すべての人々は兄弟となる。
真の友を得るという難事をなしとげた者、
貞淑なる女性を妻とした者、
そうだ、この世の中でたとえ一つでも人の心を勝ち得た者は、ともに歓びの声をあげよ!
そしてそれをなし得なかった者すべて、なきながらこの集いより去って行け。
この世のすべての者は、大自然のふところで歓びを享受する。
すべて善なるものも、悪なるものも、すばらしきバラの道を歩むのだ。
大自然は、われらに等しくくちづけし、ぶどう酒と、死の試練をこえた友を不える。
そして小さな虫にさえ歓びが不えられ、神の前には
天使ケルビムが現れる。
太陽が壮大な
天空の軌道を駆けるが如く、
走れ兄弟たちよ、君たちの道を、凱旋の英雄のように喜びに満ちて!
百万の人々よ、互いに抱き合え! このくちづけを世界に!
兄弟よ!星のきらめく天上に必ずや父なる神が住んでいる。
地にひざまずいたか?
創造主なる神を予感するか?
世界よ?星のきらめく天上に創造主をもとめよ!
そこに必ず創造主は住んでいるのだ。
訳:田村 稔
(付録) 【天使について】
・一神教における「神」=「創造主」としての絶大な力→「被造物」たる人間には、見えない。
そのため ↓
・神の伝令としての「使者」=天使
・ヘブライ語:マルアーク、ギリシャ語:アンゲロス
・
『聖書』正典に現れる天使・・・ミカエル、ガブリエル
※ アダムとエヴァが追放された「楽園」の門を護る。
※ イサクを犠牲にしようとしたアブラハムを止める。
※ ヤコブと格闘し、
「イスラエル」の名を授ける。
※ 火の柱となって、モーセの出エジプトを導く。
※ 火の中に投げ込まれたダニエルの友人を救い出す。
※ マリアに受胎を告知する。
※ イエスの復活をマグダラのマリアに伝える。
※ 「ヨハネの黙示録」において7つのラッパを吹き、この世の終末の到来を告げるさまざま
な厄災を人類に不える。
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『聖書』続編(外典)に現れる天使・・・ラファエル、ウリエル
※ 「トビト書」にて、トビトの息子トビアとともに旅をし、彼を導く。
※ 「エチオピア語エノク書」にて、エノクを天国に引き上げ、案内役をつとめる。
※ 「第4エズラ書」にて、エズラの見た7つの幻影について説明する。
【天使の階級】
1.熾天使:セラフィム・・・・・・・神と直接交わり、神の愛に共鳴する。
2.智天使:ケルビム・・・・・・・・神の玉座、神の戦車の引き手、叡智の源
3.座天使:トロウンズ・・・・・・・神の玉座本体、神の乗る戦車
4.主天使:ドミニオンズ・・・・・・天国の行政を司る。神の言葉を宇宙に知らしめる
5.力天使:ヴァーチャーズ・・・・・地上の奇跡を司る。英雄に勇気を不える
6.能天使:パワーズ・・・・・・・・悪魔との戦いの最前線を司る
7.権天使:プリンシパリティーズ・・国家の指導者を守護し、国の興亡、信仰の擁護を司る
8.大天使:アークエンジェル・・・・神の命令を直接受け、天の軍団を率いる司令官
9.天 使:エンジェル・・・・・・・人間の生活を助け励まし、鼓舞する、名もなき天使たち
(付録2) ベートーヴェンを取り巻く人たち
《親族・周辺》
カスパール・アントン・カール・ヴァン・ベートーヴェン・・上の弟。財務官吏・金融業者
ニコラウス・ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン・・・・・・・下の弟。薬屋
アントン・シントラー・・・・・・・・・・・・・・・・・・弟子で秘書
シュテファン・ブロイニング・・・・・・・・・・・・・・・ボン時代からの親友
フェルディナンド・リース・・・・・・・・・・・・・・・・初期の弟子
《丌滅の恋人》をめぐる女性たち
ジュリエッタ・グィッチャルディ・・・・・・・・・・・・ベートーヴェンのピアノの弟子
テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック・・・・・・・・・・同
ジョセフィーヌ・フォン・ブルンスヴィック・・・・・・・テレーゼの妹。ダイム、次いでシュ
タッケンベルクと結婚
アマリエ・ゼーバルト・・・・・・・・・・・・・・・・・歌手
アントーニエ・ブレンターノ・・・・・・・・・・・・・・銀行家フランツ・ブレンターノ夫人
ベッティーナ・ブレンターノ・・・・・・・・・・・・・・フランツの異母妹。かつて5マルク
紙幣の肖像にもなった。ゲーテの弟子。
詩人アヒム・フォン・アルニムと結婚
《ベートーヴェンの後援者など》
フェルディナンド・ヴァルトシュタイン・・・・・・・・・ボン時代のパトロン
カール・フォン・リヒノフスキー・・・・・・・・・・・・主要パトロンの一人
フランツ・ヨーゼフ・マキシミリアン・ロブコヴィッツ・・ウィーン3大パトロンの一人
ルドルフ大公・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・同
フェルディナンド・ヨハン・ネポームク・キンスキー・・・同
ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン・・・・・・・・・ウィーンでの初期のパトロン。
アンナ・マリー・フォン・エルデーディ・・・・・・・・・自由主義サロン主宰者
ヨハン・メルヒオール・ビルケンシュトック・・・・・・・アントーニエの父。啓蒙主義者
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ・・・・・・・・ワイマール公国枢密顧問。詩人。
《ナポレオン陣営》
ナポレオン・ボナパルト・・・・・・・・・・・・・・・・フランス皇帝
ジョセフ・ボナパルト・・・・・・・・・・・・・・・・・ナポレオンの兄。スペイン王
ジェローム・ナポレオン・・・・・・・・・・・・・・・・ナポレオンの末弟。ウェストファー
レン王。ベートーヴェンを楽長に招こ
うとした。
《反動勢力》
クレメンス・フォン・メッテルニヒ・・・・・・・・・・オーストリア宰相。ウィーン会議主宰
パウル・アントン・エステルハージ・・・・・・・・・・ハンガリーの大貴族、メッテルニヒの
片腕