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同性愛者の〈誕生〉 アイデンティティとセクシュアリティ」

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誌 文 A 灯て班
同性愛者 の 「
誕 生」
―― アイデ ンテ イテ イとセ クシ ュ ア リテ イ
:Identty and Sexuality
The《Birth》
ofthe Homosexu』
めた妨晩z″
初′魚住 洋 一
警戒 しなければならないのは、同性愛 とい う問題
を「
私は何者なのか、
私の欲望の秘密は何なのか」と
Wll i
か な らなか ったので あ る [FoucaLlit 2001bi983-985〔
一
三七三 三七五〕
]。
い う問題に引 き戻す傾向です。おそらく 「どのよう
フー コー は、一 九七六年に公刊 された 『
性 の歴 史 第
一巻 知 へ の意志』 のなかで、 「同性愛」 とい うものが、
な関係が同性愛を通 じて確立され、発明され、増殖
され、転調 されるのか」 と問い掛けたほうがよいの
ではないでしょうか。問題は、自分の性の真理その
一 九世紀 に精神医学 などによって 「
病」 として捏造 され
ものを発見する ことではな く、む しろ自分のセク
ていったその成 り行 きを巧みに分析 している。彼が この
イ ンタビューで、 同性愛 とは発 見 されるべ きものではな
シュアリテイを関係 の多数性 に達するために活用す
ることなのです。……だか ら私 たちは、 自分が同性
く発明されるべ きものだ と発言 したのは、「これこそオマ
エの く
真理〉 だ」 とい う精神医学な どの宣告 を拒否する
愛者であることを執勘に見極めようとするのではな
く、懸命 に同性愛者 になろ う とす べ きなので す
ためで もあったと言えよう。
フー コーのこ う した考 えは、一九八〇年代のエ イズ危
二〕
982〔llll 七
i三
]。
[Foucault 2001は
機以降、米国な どでの同性愛者 の抵抗運動、お よび、そ
の理論的中核 となったいわゆるクイア ・セオリー (Queer
ミシェル ・フーコーは、「
生の様式 としての友愛につい
て」 と題された一九八一年のインタビューのなかで、こ
Theory)に 大 きな影響 を与 える ことに なる。 ここでは、
フ十 コ だ けではな く、 クイア ・セ オ リー を代表するデ
発見」
う述べ てい る。彼が語 っているのは、 同性愛 は 「
couvttr)さ
れるべ きものではなく「
発明」(inventer)さ
(dも
べ
ことで
れる きものだ、 とい う
ある。つ まり彼は、同性
イヴィッ ド ・M・ ハルプリン、イヴ ・K・ セジウイックな
、そ
愛 とは、同性愛者たちの奥底に隠されたその 「
秘密」
の 「
真理」 として見出されうるものではな く、むしろそ
の「
生の様式」として新 たに作 り上げられ うるものだ、と
べ
述 ているのである。同性愛者 たちが互いに結 び合おう
とする関係は、制度や慣習によってあらか じめその輪郭
Vヽ
が描かれているような関係 ではない。だから、
彼 らは 「
まだかたちをなさぬ関係をAか らZま で発明しなければ
ならなVヽ
。 しかし、だからこそ、同性愛者たちは 「
」
法や
規則や慣習 のあるべ きところに愛 を持ち込む」 ことに
よって、「
制度内にシ ョー トを引き起 こす」ことにもなる。
フー コーが このイ ンタビューでとりわけ強調 したのは、
社会に対する同性愛者たちのそ うしたポジショナリテイ
ーー 「同性愛者のいわば 〈
斜 めの〉位置、社会 とい う織
物のなかに同性愛者が引 くことがで きる斜めの線」にほ
どに も焦点 を当て なが ら、彼 らが同性愛者 の アイデ ン
テイテイの成 り立ちをどう考察 したか、 また、同性愛者
の抵抗運動 はどうあ るべ きだと提唱 したかを見てい くこ
とにしたい。
′
1.同 性 愛者 の 「
誕生 」
「ホモセクシュアル」 とい う言葉 は、一人六九年、カー
ル ・マ リア ・力Tト ベニーがライプチ ッヒで匿名 で出版
したパ ンフレッ トに出来す る と言 われている [Halperin
199は155]。この言葉 自体 きわめて新 しい ものだが、 フー
コー は 『
知へ の意志』 の なかで、言葉だけではな く、同
性愛者 とい うもの 自体が一九世紀 には じめて出現 した と
語 り、多 くの論議 を生む こととなった。はた して彼 は何
を言お うとしていたのか。
ただ、 あ らか じめ注意 してお きたいことがある。 フー
FACULTY OF ttNE ARTS,KYOTO CrY UN VERSrY OF ARTS BULLETIN的
157
5.
コー の発 言 は、 同性 愛者 が歴 史 的、社 会 的 に作 り上 げ ら
れたとの考えを示唆 しているが、この発言 によって彼は、
本質 主 義」
同性愛者 とい う存在 に関 して、 い わゆる 「
は違って、その超歴史的な本質を否定す
(essentittism)と
元凶だと非難される
る「
主義」(constrLICtOnism)の
構築
ことが多い。 しか し、誤解 してはならないのは、彼が同
性愛の原因論 (胡ology)を語 っているのではないとい う
ことである。彼は、同性愛 の 「
原因」が生物学的なもの
ではなく社会的なものだと主張 したのではない。あるイ
ンタビューで、「同性愛の原因は何 か」 と問われた彼が、
「この問題 については、いっさい言うことはあ りません。
ノー ・コメント」 と語 っていたことはきわめて果味深 い
そうした問い
Ⅸ :一三八〕
]。彼 は、
[Foucault 2001bil140〔
にはどんな立場 も採 らず、ただ、法や社会規範な ども含
んだ広い意味での 「
言葉」 によって 「同性愛者」 とい う
ものが人 々に表象されるに至 ったその条件を解明しよう
としただけなのである。フー コーを構築主義者 と呼ぶ こ
とが正 しいとしても、それはあ くまでもこうした意味で
のことである。問題は、私たちが 「
現実」 とい うものを
一一 自分 自身のあ りかたも含めて一一 つねにすでに言葉
生 の現実」
の網 の 目を通 して把握 してお り、言葉以前 の 「
一
とい った もの はい わ ば 種 の フ イク シ ヨ ンにす ぎな い、
は じめて出現 した とい うことであって、それ以上 で もそ
れ以下で もない。理解 しなければならないの は、同性愛
的行為 をなす ことと同性愛者 である ことは異なったこと
種族」 の出
だ とい う点 である。問題が同性愛者 で ある 「
私 は誰か」 とい うアイデ ン
現 にあるとすれば、それは 「
ティティを巡 る問い にかかわる ことで ある。 ここで、異
性愛者あ るいは同性愛者 としてのアイデ ンテ ィテイを、
男あ るい は女 としてのジ ェンダー ・アイデ ンティティと
区別 して、 セクシュアル ・アイデ ンティテ イと呼ぶ なら
ば、同性愛者 としてのセ クシユアル ・アイデ ンティテイ
が どのようにして形成 されたのかが問題 なのである。
ところで、異性愛者あるいは同性愛者 としてのアイデ
ンティテイを もつ とはどうい うことなのか。デイヴイ ッ
同性愛 の百年間』
ド ・M・ ハル プリンは、一九九〇年の 『
のなかで、
今 日セクシユアリテイは 「自己の構成原理」と
なってい ると述べ 、 セクシュアリテイは客観的な状態 を
規範的」な用語
表す 「記 述 的」な用語 ではな くむ しろ 「
として、人間の経験 を解釈 し組織化す る役割 を果た して
いると語 っている。彼 によれば、今 日、セ クシユアリテイ
は、 「
個 々人の人間性 の最深部」 を構成す るもの として、
人間の行動、態度、趣味、選択、仕草、スタイル、仕事、
「
とい う こ とにあ る。 だか らこそ彼 は、言葉 の網 の 目の な
判断、話 し方 といった広範な範囲にわたつて、微妙かつ
巧妙 に作用 してい る無言の力」 として働 い てい るのであ
かで 「同性愛者」が表象 されるに至 ったその成 り行 きを
る。た しかに、そ うした もの としてのみ、セクシュアリ
明 らかにしようとしたのである。
話を続けたい。
テイは私たちのアイデ ンテイテイの構成原理 とな りうる
かつ て男色 は禁 じられた行為 の一つ であつた。そ
と言えよう。
しか し、そ う述べ たにもかかわ らず、ハ ルプ リンは同
時に、 これはきわめて奇妙 な ことではないか とも問い掛
れを犯 した者 はその法的主体 にす ぎなか った。 とこ
ろが、一 九世紀の同性愛者は一個 の顔 をもった人物
となった。 …… 同性愛者 はその性 的欲望 と一体化 さ
れ、そ う した欲望 をもつ ことは、その人物 の性癖 上
の罪 とい うよりその異形 の本性 となる。 ソ ドミー を
犯す者 はかつ ては性懲 りもない異端者 であったが、
い まや 同性 愛 者 は 一 つ の 種 族 となった の で あ る
け る。た とえば、性の好みを食の好み と比べ てみるが い
い。私たちにして も、誰かが鶏 の胸 肉を好むか らといっ
五五 一五六〕
]。
[Foucault 1976:59〔
にしても同 じではないか、実際、古代ギ リシアなど近代
て、その ことか らその人物 の生 まれつ きの性格 を判断 し
た り、そ のことをその人物のアイデ ンティティを決定す
るものと考え、彼 を 「
胸肉食者」 (pccto五
phage)な どと呼
んで、その原因を医学的に探 ろ う とはしないだろ う。そ
のよ うに述べ なが らハル プリ ンは、だ とすれ ば性の好み
以前 にお いては、食に関 して と同様、性 に関 して もそれ
一
ー ー
F知へ の意志』の有名な この 節 でフ コ が語 ってい
るのが、「同性愛者」 の誕生であって 「同性愛」 の誕生で
によって人 々 を区分す ることな ど誰 もしなかった のだ、
四三 一
と語 っ て い るの で あ る [Halpein 1990:24-27〔
はないことに注意 したい。 この点 を読み誤つて、古代ギ
四七〕]。
衆道」な どがあっ
リシアの 「
少年愛」や戦回時代 日本 の 「
ー
ー
たことまで もフ コ は否定するのか、などと思 い込ん
ところが、ハ ルプリンのい うその奇妙な ことが現 に起
こっている。「同性愛者 は一つの種族 となった」のである。
で しまっては、
彼 の真意 を見逃 して しまうことになる。同
では、かつ ては存在 しなかったはず の異性愛者あ るい は
同性愛者 としてのこのセ クシュアル ・アイデ ンティティ
は、はた していつ形成 されるようになったのか。フー コー
行為」 やそれを求
性 の者同士が行 なう肛 門性交 とい う 「
める 「
欲望」が どの時代 にもあった ことを、彼 は否定 し
てはい ない。彼が ここで主張 しようとしているのは、あ
種族」が一 九世紀 になって
くまで も、同性愛者 とい う 「
6.
BULLETIN vd 57 FACULTY OF ttNE ARTS,KYOTO CFY UNWERttTY OF
は、それが一九世紀 に起 こったことだ と言 う。そ うなっ
たのはどのようにしてなのか。
フー コー が挙 げ てい る一 つ の例 は示 唆 的 で あ る。 フラ
ンスの あ る村 に貧 しくて頭 の 回 りが あ ま りよ くない 一 人
の小作 農が居 た。 あ る ときその男 が、野原 で 一 人 の少女
にペ ニ ス を撫ぜ て もらった。 それ は、村 の子供 た ちが皆
で互いによ くや っていた 「固まリミルク」とい う遊 びだっ
た。 ところが、男 は少女の親に告発 されて、裁判で有罪
を宣告 され、 さらには医師に検杢 されて詳 しい報告書が
作成 され、病院送 りになって一生そこか ら出されること
に、一 九世紀 のヴイク トリア朝時代の西欧は、性 に寛容
であったそれ以前 の時代 に比べ 、性の抑圧の時代だった
としば しば言われる。いわゆる 「
抑圧 の仮説」である。
一― 当時は、資本主義勃興 の時代 だった。そ して、それ
を担 った新興 ブルジ ョアジー は、彼 らか らすれ ば享楽主
義的 であった貴族階級―― 「同性愛」 も貴族たちの悪徳
だ と当時 しば しば峰 されてい た一― へ の対抗上か らも、
「
勤勉」、「
節約」を旨とする清教徒的禁欲主義を標榜 して
はなかった とい う。 一人六七 年 の ことで ある [Foucault
1976:43i〔
四一 一四二〕
]。
いたが、そうした禁欲主義は 「
性」 の領域 にまで及 び、快
楽 の性 とは区別 される 「
再生産 =生 殖」中心 の性 を規範
これは、幼児へ の淫行 と見微 された例であって同性愛
化す るに至 った。そ して、その結果、夫婦間の子作 りの
の例ではない。 しか しこの例 は、同性愛 にも当て嵌 まる
ためのセ ックス以 外 の性 の営み、 た とえば少 年 のオ ナ
ニ ーや夫婦 間の腔外射精 なども、すべ て 「
浪費」であ り
よ うな時代 の変化 を物語 っている。 「ヴィク トリア朝時
代」と呼 ばれるこの時代 に、
何が起 こったのか。 フー コー
によれば、問題 は、男 のこの振 る舞 いが、医師たちによっ
て精神 の 「
病」 によるもの と見微 されたことにある。た
しかにそれ以前で も、幼児へ の淫行や 「ソ ドミー」 と呼
許 しがたい振 る舞 い だ とされた一一 そ う した時代背景 こ
そ、 セ クソロジー によって、生殖 につ ながる性のあ りか
たが 「
正常」な規範 とされ、それか ら逸脱するものが こ
ばれていた 同性愛 も、婚姻外の性行為 として、キリス ト
とごと く 「
異常」 として病理化 された、その理由を説明
して くれ るとい うわけである。 フー コー は、こ うした 「
抑
教 の戒律や世俗法 によって禁 じられていた。 しか し、そ
圧の仮説」を必ず しも否定 しない。彼が着 目するのは、む
れは姦通や重婚などにして も同 じであった。つ まり、 ソ
ドミーや幼児へ の淫行 は、淫蕩 と区別 されず、誰で も魔
しろ こ う した抑圧が もた らすその 「
逆効果」である。 つ
が差せば犯 しうる 「
罪」 と見彼 されてい たのである。そ
一
れが、 九世紀 になると事態 は急変する。同性愛や幼児
ま り彼 は、抑圧 は同時に扇動 ではないか、押 し込め られ
ることで逆に煽 られ、過剰 な 「
性」が個 々人の内部で密
かに増殖 してい くのではないか、と考えるのである。「
性」
へ の淫行は、あいかわらず 「
罪」だ とされていた反面、生
まれなが らの、あるい は、悪癖 によって冒された精神 の
考えるように、かえって人 々の内部 でその存在 を異様 な
「
病」だとも見微 されるようになったのである。たとえば
フー コー は、先 に引用 した箇所で、一九世紀 に誕生 した
までに膨 らませてい くのではなかろ うか。しか も当時は、
「
性」 は 「
病」 と紙 一 重だ との不安感が セクソロジー に
同性愛者にとって、 そ の性的欲望 は 「
彼 の内部 のいたる
よって助 長 されてい た時代 である。だ とすれば、そ の結
ところに現前 し、彼のあ らゆる行為 の内部に隠れてお り
……あ らゆる機会 に自らを露呈 して しま う」一つ の秘密、
一 つの原理 になった、 と述べ てい る。同
性愛は、 もはや
誰で もふ としたことか ら犯 しうる過ちなどではな く、同
果が どうなるかは、 明 らかである。それは、 こん なおぞ
は、それが発現 される公然たる舞台 を奪 われれば、彼が
ましい欲望 をもつ俺 とはいったい何者 なのか、 と煩問す
る人 々が医師の もとを訪れ、かつ ては神父に行 なってい
たように、医師に自らのあるべ か らざる逸脱を 「
懺悔」す
ることになる、とい うことだ。それは、現代の私たちが、
性愛 を犯す者は、その秘め られた 「
異形 の本性」か らし
てそれを犯す のであ り、その本性 は彼のすべ ての思考、す
健康か どうか不安 に駆 られ、健康 を害する自らの振 る舞
べ ての行為 を支配す るもの と考えられるに至ったのであ
い を医師に 「
懺悔」するのにどこか似てい る。なぜ懺悔
る。そ して、 このことにおお い に関与 したのは、セクソ
ロジー と呼 ばれる当時 の精神医学だった。 セクソロジス
す るか といえば、それは医師が患者の 「
真理」 を告げ知
トとしては、 ウィリアム ・アク トン、 ルヒャル ト ・フォ
ン ・クラフ ト=エ ビング、ハ ヴロ ック ・エ リス、そ して、
ジー クム ン ト ・フロイ トとい った名前が挙 げ られ よ う。
はないか との懸念 を晴 らすために医師にしつ こ く尋ね る
の と同 じように、 一九世紀の人 々は、 自分が何者 なのか
フー コー によれば、セクソロジス トたちは、性 の危 うさ、
「
性」 と 「
病」が紙 一重である ことをしきりに訴え、同性
愛 だけではな く、露出狂、フェティシス ト、動物愛好症、
自己 ・単独性欲症、視姦愛好症、女性化症、冷感症の女
といった、生殖 に結びつ かない さまざまな性 を 「
性的倒
いったので
として
錯」
病理化 して
ある。
これは性の抑圧 だろ うか、 とフー コー は問う。た しか
らせて くれるか らである。私 たちが、 自分はガン息者で
とい うそ の 「
真理」 を医師に しきりに尋ね たのだった。
一一 これは性 を介 した きわめて巧妙 な人 々の管理だ、 と
フー コー は言 う。問診 され、検査 され、分析 され、治療
され、監禁 されるといったかたちで、人 々の性的欲望は
医学 の管理する ところ とな り、彼 らの 「
私」はその秘密
を知 る医学にます ます金縛 りになってい くことになるわ
けである。
子供 の 頃か らの数 多 くの性体験 をあか らさまに描 い
FACULTY OF FlNE ARTS,KYOTO C,TY UNlVERStTY OF ARTS BULLETIN v.157
7.
我
た、全一丁巻、四二〇〇ページに達する作者不詳の 『
一
のことだ
のは、
九世紀末
が秘密 の生涯』が出版 された
j なまでに自らの性 の営みを書 き綴 ったの
が、著者が執J・
秘密」が隠
は、「
性」 にこそ彼が何者なのかとい うその 「
ー
ー
されていると思えばこそであつたろう。 フ コ は、 こ
秘密の生涯に
の著者の次のような言葉を引用 している。「
は、 どのような書 き漏 らしもあってはいけない。恥ずか
・
・
…・
人間
しいと思わなければならない ものは何 もない。
ことは
あ りえない
の本性 とい うものは知 りす ぎる とい う
三一〕
]。大江健三郎の言葉
のである」[Foucault 1976:31〔
性的人
生」が 「
性」であるこうした 「
を借用す るなら、「
間」が現れる時代を迎えたのである。
)で あ って
性的倒錯」 (scxual invcrslo■
紀 にあつたのは 「
「同性愛」 ではな く、「同性愛」が出現 したのはむ しろ世
紀 の境 日であ る、 と主張す る論者 も居 るのである。 どう
い うことなのか。 問題 は、フー コーが、「同性愛」が出現
一
す る ことにな ったのは 「 種 の内的な半陰陽、魂 の両性
具有」 としてそれが概念化 された ときであると述べ たこ
とにある。こう した概念化 は、フー コーが名 を挙げたウェ
ス トファー ルに先立 って、一八六〇年代 にカー ル ・ハ イ
2.「同性愛」の概念史
ンリッヒ'ウルリヒスが、「
男 の肉体 に宿 る女の魂」(anima
ついて語 り、同性間の
li vi五
inclusa)に
mulicbis in corporc
ー
知へ の意
誕生」 を巡って、 フー コ が 『
同性愛者 の 「
志』 のなかで述べ たことは、お よそ こう したものである。
倒錯」 して体内に閉 じ込め られた異性 の魂
性 の営 みを、「
が先天的にもた らす ものだ と主張 したとき、す でに生 ま
れていた。 しか し、チ ヨー ンシー によれば、 ウル リヒス
しか し、彼 の叙述 には疑問点 もい くつ かある。 た とえば
種族」が誕生 した と
彼 は、一 九世紀 に同性愛者 とい う 「
ゃウェス トファールによつて語 られたのは、「同性愛」 で
ー
ー
はな く 「
性的倒錯」 である。チ ヨ ンシ は、 こ う述べ
露出狂、 フェテイシス ト、動物愛好症、
述べ た箇所で、「
・
自己 単独性欲症、視姦愛好症、女性化症、冷感症 の女」
一九世紀 の大半 で用 い られた く
性的倒錯〉 とい
てい る。「
同性愛〉 よ りもず っと広
う用語 は、現代 の用語 である 〈
種族」 として同時に姿 を現
といった倒錯者 たちもまた 「
わ した と語 っている。 しか し、今 日それ らのさまざまな
い意味をもらてぃた。(同性愛〉 は、性的 に欲望 される相
手 の性別 を指 し示すだけだが、ぐ性的倒錯〉 はむしろ、ひ
種族が種族 としてなお存在 しているとはどう して も思わ
ヽ 一 つ だ け 例 を 挙 げ れ ば、 彼 の い う
れ なV 。
だ罫ぎ i寧 為師髭貫酷」、っ ま り、オナニス トは、今 日はた
との性的役割 の全 面的な逆転 と関係 していた」[Chauncey
性 的役割 の全 面的な逆転」 と
1982-83:119]。
彼 のい う 「
して他 の人 々とは異な る特殊な種族 としての地位 を占め
てい るだろうか。む しろ、イヴ ・K・セジウイックも指摘
種族」が
してい るように、フー コーの語 ったさまざまな 「
姿 を掻 き消すなかで、異性愛者 と同性愛者 とい う二つの
「
種族」の二項対 立だけが際立って きてい るように思われ
一 一一人〕
]。
るのである [Scdgwick 1990:9〔 七
ー
ただ、 どうして異性愛者 と同性愛者 のダイ コ トミ だ
一―
セジ
けが際立つ ようになったのか とい うこの問題 は
人 々は互 い に異なってい る」にもかか わ ら
ゥィックは、「
ず、その性 の あ りか たをこの ように三分 して しまうこと
に、私たちが生 きる社会 の 「きわめて底深 い暴力」 を感
じ取 るのだが一一 いずれ取 り上げる ことに して、 ここで
一
はまず、重要 と思われるもう つの問題 について考 える
ことにしたい。それ は、「同性愛」とはそ もそ も何 なのか、
はtた とえば女が性的場面 だけではな くさまざまな社会
ー
男 として」振舞 うとい うことで ある。 チ ヨ
的場面 で 「
ンシー によれば、一九世紀 には、誰かある女が倒錯者 に
分類 された とすれば、それ はその女が社会的場面 で示す
攻撃的 な男 っぽい振 る舞 いのためであ り、彼女 が同性 の
女 に欲情す る こ とは、 む しろその論理 的帰結 にす ぎな
一
性的
かった。ハ ルプリンはこの ことを、「 九世紀 には 〈
倒錯〉あ るい は性的役割 の逆転が おおい に経験員身免景
とになったが、そ こでは、セクシュアリテ イの 逸 脱 は
ジェ ンダーの逸脱 として解釈 された り、それ と混同され
た りしたので あ る」 と簡 潔 に要約 して い る [Halpcin
一人 〕
1990:9〔
]。チ ヨー ンシーやハ ルプリンによれば、こ
れは、厳密な意味 での 「同性愛」 ではない。なぜなら、同
性 の女 に欲情す る女は、 まさに男 として欲情 しているの
異性愛」的欲
であって、そ こにあるのは男が女 に抱 く 「
文 「自然 に反する性的感覚」 の名 を挙げなが ら、「同性愛
一
は、それが ソ ドミーの実践 か ら、 種 の内的な半陰陽 (une
望以外 ではないか らである。
誕
では、チ ョー ンシーやハルプリンは、いつ 同性愛 は 「
ー
ー
ンシ
ヨ
は、今
日的な意味
生」 した と考 えるのか。チ
・
エ
ハ
ス
よっては
ロ
リ
などに
ック
ヴ
での同性愛概念 は、
の 両 性 具 有 (un
と向
きを転 じたとき、セクシユ
hemaphrodismc de l'ame)へ
一
ア リテ イの形象 の つ として立 ち現れ ることにな った」
じめて作 り出 された と主張す る。彼がエ リスを取 り上 げ
たのは、エ リスが一人九六年 に、 セクシユアリテ イの倒
錯 をジェンダーの倒錯か ら区別 し、 セクシユアリテイが
とい う同性愛概念 の内実に関わる問題である。
ー
フー コー は、 カー ル ・フオン ・ウェス トファ ルの論
cure)、魂
soAe d'androgynie intl止
8.
と語 り、 この論文が出版 された一人七〇年 をもって同性
59
愛 者 「誕 生 」 の 日付 け と して い る [Foucault 197住
ー
ー
・
ン
ヨ
ヨ
ジ
チ
五六〕
]。 ところが、それに対 して、ジ
〔
一
シーやデイヴイ ッ ド ・M・ ハ ルプリンの よ うに、 九世
BULLETIN v前
57 FACULTY OF FlNE ARTS,KYOTO ClTY UNlVERS TY OF ARTS
倒錯 した男の場合、その性的な対象や振 る舞 い は倒錯 し
3.モ リー ・ハ ウ ス
た もの とな り、同性 の男 の 「
女性的」な相手役 となるが、
それ以外の振 る舞 いや嗜好はきわめて 「
男性的」で、
女っ
い
ぽい装 もせず女 々 しい仕草 も示 さない場合があると述
べ ていたか らである。チ ョー ンシー は、エ リスのこ うし
た発 言 とともに、性的場面以外でのジェンダーの役割倒
錯 を含 まず、同性 を性的な対象 として選ぶ 「
対象選択」の
みによって定義 される 「同性愛者」 とい う概念がは じめ
さ て、 ハ ル プ リ ン は、 以 上 の こ と を 踏 ま え て、
Ⅲ
い う英 語 が イ ギ リ ス に 導 入 され た
homosexuttty"と
一人九二年をもって、 同性愛者 「
誕生」 の 日付 とす るの
だが、しか し同時に、イギリス人の言葉 として、一九一人
年頃に 「
君はヘ テ ロかホモか」 と聞かれてまった く何 の
一九二九年 には 「ホ
ことか分か らなかったとい う証言や、
て成立 した と考 えるのである [Chaunce7y 1982-83:122i]。モセ クシュアル」 とい う言葉がまだ専門用語 で、「
僕 には
ハ ルプ リ ン も、 『
同性愛 の百年 間』 のなかで、チ ョー ン
そ の意味などはっきり分か らなかった」 と語 った男 の証
シーのこ う した考 えに同意 し、対象選択 を役 割演技か ら
言 を伝 えている。証言の主はいずれ も知識人であったに
切 り離すキ リスなどのこ うした考 えを背景 として、男 の
二次的な」特徴 とは
女 っぽさや女 の男 っぽさといった 「
もか か わ らず、 そ うだ った とい うの であ る [Halpe五
n
一
1990■
7〔三 〕
]。
まった く無縁 の 性 的 指 向 が形作 られることになっ
しか し、これは考えてみれば当然 の話 である。振 り返っ
た と語 っている。彼 によれば、それを典型的に表現す る
てみると、今 まで紹介 して きた ことは、「同性愛者」 とい
う概念が セクソロジーのなかで どのよ うに成立 したか と
のは、二 〇世紀 になってようや く現 われるような、「
振る
舞 い も外見 も異性愛者 に見 えるゲイの男」 とい う、 セク
シュアリテイを除けば異性愛 の男 と何 の違 い もない 同性
いう 「
概念史」 の問題 にす ぎなかった。た とえばチ ョー
ンシー も、 こう述べ ている。
愛者 の表象、 ウル リヒスが語った 「
男 の肉体 に宿 る女の
魂 」 とは まるで正 反対 の 表象 で あ る [H』perin 19909
一人 〕
〔
]。ハル プリンは、セクシュアリティの逸脱をジェ
世紀 の境 目に 「
倒錯者」や 「同性愛者」 のアイデ
ンテ ィテ ィを作 り出 し定義 したの は、 医師 たちで
ンダーの逸脱 として もはや解釈せず、セクシュアリテイ
あ って、人々は無批判に この新たな医学的モ デ ル を
内面化 したのだ…… と仮定す ることは間違 っている
に関 して 「
対象選択」 のみを問題 とす るこ うした考 えが
出て きた ことの重要性 はきわめて大 きい と言 う。 とい う
の も、彼 によれば、それによって 「
異性愛者/同 性愛者」
とい う二つの 「
種族」に人 々 を区分 す るダイ コ トミーが
だろ う。 …… こ うした仮定は、ゲイ ・アイデ ンティ
ティを生み出 した社会的条件やイデオ ロギー と意識
は じめて生 まれることになるか らである。彼 は、 こ う述
との 間の複雑 な弁証法 を単純化 しす ぎてお り……す
でに存在 して い たサ ブカルチ ャー やアイデ ンテ ィ
べ ている。
テ ィを覆 い 隠 して しま うので ある [Chaunccy 198283:115]。
セ クシュアリティそれ自体 を、概念上男性性 と女
性性か ら分離 させたことによって、性的行為 を営む
彼が語 っているのは、セクソロジス トたちによって 「
倒
人物の解剖学的性別だけに基 づいて性的な行動 と心
錯者」や 「同性愛者」が概念化 されたとして も、それは
理 を (同性間のセ ックス対異性間のセ ックスとして)
狭 い医学界 での話 にす ぎず、そ う した概念が社 会 に広 く
区分する分類法が可能 となった。そのことによって、
同性間の性的接触 に関わるそれ以前の言説 の なかで
普及 した ことには必 ず しもな らない とい うことで ある。
セクソロジー などの医学が同性愛者 の 「
誕生」 に大 きな
伝統的に働 いていた多 くの区別 は除去 されることに
影響 を与 えた ことに疑 い はない として も、同性愛者 とい
なる。すなわち、セ ックスの能動的な相手役 と受動
的な相手役、セ ックスの正常な役割 と異常な役割、男
う 「
種族」が現れるためには、それ とは別にい くつ かの
性的なス タイルと女性的なス タイル、そ して少年愛
とレズビアニズム といった具合 に根本的に二分 され
ていた区分は除去 されたのである。…… こ うして、セ
クシュアル ・アイデ ンティティは、セ ックスの相手
役 の性 が同 じか異 なって い るか とい う二 項対立 に
よって厳密 に定義 された主要な対立の周 りに分極化
条件が満たされなければならない はず である。そのなか
で と りわ け重要なのは、チ ョー ンシー も指摘 しているよ
うに、サブ カルチ ャーの形成ではなかろうか。同性愛者
としてのアイデ ンテ ィテ ィとは、 集合 的アイデ ンテ ィ
テイ (collective idcntity)で
あって、それは自分がある集
団に帰属 しているとい う意識か ら生 まれるものである。
つ ま り、同性愛者 としてのアイデ ンティティが生 まれる
され、それ以後人 々は、互いに排除 しあ う二つの カ
テ ゴ リーのいずれか一方に所属する ことになったの
のは、同性愛者がそれぞれ密かにクローゼ ッ トの なかに
二九〕
である [Halpcin 1990,16〔
]。
にもさまざまな交流 を行 なう社交の場が作 られ、そのな
閉 じ籠ってい るのではな く、皆で集 まってセ ックス以外
FACULTY OF FlNE ARTS,KYOTO ClTY UNlVERSlTY OF ARTS BULLET,N的
157
9.
・
R装、仕草 、歌や踊 りといつたゲイ
かか ら独 自の隠語、月
カルチ ャーが生み出され たときであろう。さらにまた、そ
仕事 に携わつていた。子供 も役 に立つ働 き手だ つたので、
子供 を産む ことは、作物 を植 える ことと同 じく、生 きる
う した場 の存在 が外部にも漏れ伝 わ り、社会 に同性愛者
の存在が 「
種族」 として可視化 され、広 く知れ渡 るよ う
生殖」 に従属 してい
性」は 「
ために必要な ことであ り、「
た。家 は家族が相互に依存 し合 い なが ら生 きる場だ った
誕生」の社会的条件 では
になる こともまた、同性愛者 「
か ら、
家 を離れて生 きる ことはきわめて困難であった。と
ころが、 資本主義が台頭 して くると、人 々 は、土地や生
ないか と思われる。
そ うした場 の典型的な例 として挙 げ られるのは、アラ
ン ・ブレイによって報告 された一人世紀 ロン ドンの 「モ
あろう。 ブレイによれば、
ハウス」(m011y hOusc)で
リー・
一
イ ングラ ン ドでは一七世紀前半、 六六〇年 の王政復古
の頃までは、同性愛的な行状 はた しかに死刑 に値す る重
産手段 を所有する資本家 に労働力 を提供す ることで賃金
を手に入れるようにな る。 い わゆる賃労働制 の成立 であ
性」 は
家」 と 「
る。 こう した生産 の社会化 に対応 して、「
それが もつ意味を変え る。家が生産の湯 でな くなったた
性」
めに、子 を多 く産む ことは もはや義務 ではな くな り、「
は 「
生殖」か ら自由となるが、同時 に、家 は家族 を結び
罪 であつたが、その処罰 の多 くは異端糾問の名 の もとに、
魔術 師や異教徒 たち と同 じく神学 的な見地 か ら行 なわ
つ けていた経済的な絆 を失 い、それに代わ って感情 の絆、
れ、 また ときには特定 の人物 を政治的に排除す る日実 と
一
して用 い られたのであ つて、 般 の民衆が しば しば寝床
異性愛的な結 びつ きが家族 を互 いに緊 ぎ合わせ るもの と
公/私 」 の分離が始
考え られるようになる。 いわゆる 「
で行 なっていた営 みがそ う したもの と認め られて迫害 さ
れる ことはほとんどなかった。 ところが、工政復古 の頃
か ら、同性愛者 のサブカルチャーが顕在化する とともに、
まったのであ り、恋愛結婚 を理想 とす るい わゆる 「ロマ
ンテイック ・ラブ ・イデオ ロギー」 が中産階級 を中心 に
同性愛嫌悪 の風潮が世 に広 まってい き、同性愛者 たちヘ
の弾圧 が実際 に行 なわれ るよ うになった のであ る。 モ
広がってい く。デ ミリオは、 こ う した状況 こそ同性愛者
の存在 を許容する 「
社会空間」 を準備 した と考 えるので
一
ぁる。それ は、 つ には、人 々が家か ら自立 して生 きる
リー ・ハ ウス とは、同性愛者たちが当時集 まっていたそ
う した場 の名称 である。 ロン ドンにす でにあった男娼 の
性」が
ことが可能になったか らであ り、また一つ には 「
性」 の あ りか たが選択可能な
生殖」か ら自由とな り、「
「
売春宿 とは違 って、居酒屋や屋敷 などに作 られた このモ
ー
リー ・ハ ウスでは、そ こに集 まった 「モ リ たち」が、
セ ックスす るだけではな く、 一 緒 に酒 を飲 みお喋 りし
事柄 になったか らである。かつ ては人 々は家 に属 さねば
生 きる ことがで きなか ったため、同性愛者が同性愛者 と
歌 って踊 り、女装舞踏会 などもしきりに催 してい た。 モ
リー ・ハ ウスは、 ときには官憲 の摘発 を受け、多 くの選
捕者 も出て厳 しい処罰が下 されたが、 ともに官憲に抵抗
モ リー」 としての集合
す ることで強い連帯感 も生 まれ、「
して生 きる 「
社会空間」が どこにも見出されなかったの
で あ る。 ところで、デ ミリオが資本 主義の台頭か ら読み
取 ったのは、家 とい うものを成 り立 たせ る物質的基盤で
あった経済的な絆 が断ち切 られたとい うことである。そ
の代 わ りにもちだされたのは、きわめて脆弱な感情の絆、
異性愛的 な結びつ きにす ぎなかったので あ り、その脆弱
的アイデ ンティテ イも形作 られて いった と考 え られる。
一― 以上の ことか らブレイは、フー コーやチ ヨー ンシー、
ハル プリンと意見 を異 にし、同性愛者 は一人世紀 に誕生
さゆえに、それは同性愛的 な結びつ きを求める人 々の登
場 を妨げる ことはで きなか った と言え よう。 しか し、資
一
一
4〔
した と主張するのである [ B r a y 1 9 9 2 : 8 1 - 1 1三九
一九二〕
]。
ただ、同性愛者が誕生 したのはいつかとい うこの問題
本 主義は、 このように家 とい うものの経済的基盤 をなじ
崩 しにす ることで、家 の崩壊 を助長 してお きなが ら、そ
の一方 では、生産 を継続す るために欠かせ ない次世代 の
に関して、私 としてはこれらいずれの主張にも組 しない。
同性愛者の誕生にはさまざまな条件が複合的に絡み合 っ
ているだろうし、それはい くつ もの段階を経てはじめて
労働力、つ ま り、子供 を再生産す るため、異性愛的な結
びつ きに支 えられた家 の存在 をどうして も必要 としたの
可能 となったはずだと思われるからである。たとえばそ
であ る。 このデ イレ ンマ こそ、資本主義社会 にお い て
異性愛主義 と同性愛嫌悪が蔓延 った大 きな理由にほかな
の条件 の一つ として、ジ ョン ・デ ミリオが語 っているよ
うな資本主義 の成立 も含めなけれ ばならないだろ う。話
らなVヽ [D'Ett1lo 1983]。
デ ミリオが述べ たのは、ほぼ こう した ことに尽 きるが、
が い ささか横道に逸れ るが、 ここで、 資本主 義 の台頭 に
誕生」が可能 となった とする彼
よって こそ同性愛者 の 「
誕生」 の必要
彼が述べ たことは、あ くまで も同性愛者 「
条件、 その経済的条件 であって十分条件ではない。 しか
の主張 を瞥見 してお きたい。
し、彼が述べ たことか ら、別の事情 も明 らかになると思
われる。彼が言 うように、家族 の繋が りが経済的 なもの
デ ミリオは、「
家」 に注 目すると資本主義成立以前、家
は生産の場 であつた。人 々の暮 らしはほぼ 自給 自足 で
あ って、家族は仕事 を分 けもちなが ら家業や さまざまな
10. BULLETlN v例
57 FACULTY OF ttNE ARTS,KYOTO CrY UNWERttTY OF ARTS
か ら感情的なものに変質 したとすれば、それ は家族 とい
性化」 された とい うことで もある。パパ とマ
うものが 「
マ、そ して子供であるボクやアタシの 間の三つ 巴の関係
が きわめて性 的な ドラマ を織 りな して い るとして、 「エ
ディップス ・コンプレックス」 とい う概念 に纏め上げた
のは、言 うまで もな くジー クム ン ト ・フロイ トだが、私
たちのセクシュアリティの奥底 に親 と子 の性的な葛藤 を
見出そうとす る彼 の解釈が きわめて正当なもの となるよ
うな時代状況が ここに生 まれたのである。 このことにつ
いて、 フー コーが きわめて示唆的な言葉 を語 っている。
一人世紀以降、家族が情動 と感情 と愛情 の唯一可能な場
「
とな り、セクシュアリテイはその 開花 の特権的な頂点 を
存 在 で はなか った。 それ は社 会 そ の ものの一 つ の機 能 で
あ
っ
た
」 [Bray
1982■
01-103〔
一
七
一
一 一
七
二
〕] 。
し か
し 、
こう述べ てはみたものの、モリー ・ハ ウスがいったいど
のような 「
社会その ものの一つの機能」を果たしたのか、
彼 は何 も語 っては くれないのである。
ところで、イヴ ・
K・セジウイックが 『
男同士の絆十
ー
イギリス文学とホモソ シャルな欲望』 のなかで、ブ レ
イの叙述のこうした曖味さを指摘 しなが ら、モ リー ・ハ
ウスヘ の弾圧 について独 自の議論を展開してい るので、
家族 に置 くようになった。 セクシュアリテイが 〈
近親相
彼女の議論に目を向けてみたい。
セジウィックはまず、「
ホモソーシャル/ホ モセクシュ
姦 的 な もの〉 として生 まれ たの は、 そのためであ る」
[ F o u c a u l t 1 9 7 6 ,一
1 4三九
3 〔〕
] 。フー コー は、同 じ箇所で、
い う対概念を提示する。
アル」(hOmosocia1/homoscxual)と
ー
シャル
の
ホモソ
とは、
「
」
同性間 社会的絆を表す概念で
親 は子供 に性 を禁止 す るの で は な く、 む しろ子 供 を
性 に組み込むのだ とも述べ てい るが、 資本主義 の勃興 と
ある。デ ミリオ も述べ ていたように、資本主義は、かつ
ては生産単位であった 「
公/
家」から経済機能を奪い、「
ともに生 まれたのは、「
聖家族」ならぬ 「
性家族」だった
私」を分離するシステムを作 り上げた。公的領域 とは男
たちの領域 であ り、そ こで男たちは力を合わせて経済競
女たちは私的領域 となった 「
争を聞い抜 く。一方、
家」に
とも言え よう。
ハ ウスの件 に話 を戻す ことにしたい。た
さて、モ リー・
だ、デ ミリオの議論へ のこの 回 り道は、同性愛者たちが
誕生」 し、彼 らが集 うモ リー ・ハ ウスが生 まれたのが資
「
本主義勃興期 の大都市 ロン ドンだったのはなぜ なのかに
ついて、なにが しかの説明を与 えて くれたか とも思われ
それぞれ押 し込められ、そ こで家事や育児に専念するこ
とになるわけである。力を合わせて経済競争を闘う男た
ホモソーシャル」 とい う概
ちが互いに結びあ う絆 こそ、「
る。
念によってセジウィックが示そうとした ものにほかなら
ない。 ここで、男たちの この連帯は、男たちの 「ホモセ
4 = ホ モ ツ ー シ ャル / ホ モ セ クシ ュアル
クシュアル」な関係 とどう違うのだろうか、とセジウイッ
クは間う。一般的に見 て、女 の場合―― ア ドリエ ンヌ ・
私が次に問題 としたいのは、モ リー ・ハ ウスヘ の 「
弾
ー
・
つい
ハ
てのブ レイの叙述である。 モ リ
圧」に
ウスを
襲 った官憲 の実力行使 は厳 しく、一斉検挙 は容赦ない も
ので あ ったが、 官憲 の襲撃 はきわめて散発的な行 き当た
りば った りの ものにす ぎず、 モ リー ・ハ ウスはそのつ ど
復活 し、それを根絶や しにするまでには至 らなかった。モ
リー ・ハ ウスヘ の追害 の容赦 ない厳 しさと行 き当た り
ばった りの寛容 さとい うこの矛盾がなぜ生 じたか、 とい
うこの 問い に対 して、ブレイは 「モ リー ・ハ ウスは二重
リッチが 「レズビアン連続体」 とい う言葉によって示そ
うとしたように一一女性同性愛 と母娘や姉妹の絆、女同
士の友情などの間に顕著な違いはな く、「
ホモソーシャル
/ホ モセクシュアル」が連続 していることは直感的に認
めてもよいだろう。 ところが、男の場合には、「ホモソー
シャル/ホ モセクシュアル」が連続 しているなどと言お
うものなら、大勢の男たちから露骨に嫌な顔をされるの
ではなかろ うか。 しか し、「
女 らしい女/女 を愛する女」
の連続性、「
男 らしい男/男 を愛する男」の非連続性 とい
の役割 を果た していたと考 えられる。 モ リー ・ハ ウスは、
うこの表向きの違いにセジウィックは疑いを挟み、男の
場合、真相 は一般 の通念 とはまった く逆ではないかと考
同性愛が存在する場 を確保すると同時に、同性愛が蔓延
す るのを防いでいたに違いないか らだ。 ……モ リー ・ハ
えるのである。彼女はこう語 っている。「
男 にとって男 ら
しい男になることと く
男に興味がある〉男 になることの
ウスは、迫害する側 とされる側の両方 の要求を同時に満
間には、不可視の、注意深 く曖味にされて、つねにすで
に横 断 されて い る、 日に見 えな い境界線 しか な い 」
一三七〕
[Sedgwick 198;89〔
]。一一彼女が語 っているの
た したのである」 と答えているが、これでは、結果 とし
てそ うな って しまった とい う事実 を語 っているだ けで、
まった く容 になってい ない。ただ、 この言葉 に続けてブ
レイは何 ごとか を暗示するような言葉 を認めてい る。「
結
は、「
男 らしい男/男 を愛する男」の違いを男たちが しき
りに訴えるのは、むしろこの両者 の違いが実際にはきわ
果的には、撲減策は実現の見込みのない仕事だった。右
めて曖味だからではないか、 とい うことである。たとえ
手が 自分 に対 して罪 を犯 したか らといって、それを切 り
モ リー ・ハ ウ
落 とす ことがで きるとはか ぎらない。 ……・
ば、互いの結束がもっとも重視される軍隊のことを考え
てみればいい。軍隊とは上官や戦友のために死ぬことさ
スは、切 り落 とす ことがで きるような社会のごく一部 の
え求められる組織である。米軍では、同性愛者の入隊を
OF FlNE ARTSi KYOTO CiTY UN!VERSiTY OF ARTS BULLETIN v研
57
禁止す る規定が長年存続 し、 さまざまな訴訟があ ったに
もかかわ らず、それが よ うや く撤廃 されたのは、オバマ
政権下 の二〇一一年 になってか らの ことだった。 この事
が問題 とする現代社会 にお いて もおお い に当て嵌 まる こ
とであろ う。 とい うの も、男 たちは、互 い にホモソー シャ
ル な絆 を結び合 い、その絆か ら女 を締め出 し周縁化する
が、 しか し 「ホモセクシュアル ・パニ ック」 のダブル ・
実が教 えて くれ るのは、同性愛 を禁止 しなければ軍内部
に同性愛が蔓廷 して しまうのではないか、 とい う米軍部
バ イ ン ドに陥った男たちは、それがホモセクシュアル な
男 の場合 にも 「ホ
内に広が る恐怖 の存在 である。 しか し、
ー
モソ シャル/ホ モセクシュアル」 の連続性があ ると考
絆 ではないことの 「アリバ イ」 を、今度は絆か ら締め出
した女 との 「
婚姻」 によって手に入れざるを えないか ら
えなければ、そうした恐怖がなぜ生 じるかを理解で きな
いだろ う一一 とい うのがセジウイックの主張である。彼
である。 このことを、竹村和子 は、次の ように要約 して
い る。
女が一一 ゲイ ・バ ッシャー裁判 の弁護 でよく用 い られる、
あま り信憑性 のない精神医学 の用語 だが、それをあえて
盗用 して一― 「ホモセクシュアル ・パニ ック」 と呼ぶこ
うした恐怖 は、軍隊に限 らず どんな組織で もしば しば観
察 されるものであろう。 しか し、 このパニ ックは容易 に
収 め られるものではない。なぜ なら、男たちが どんな組
織 にせ よ、組織 に参入する際に求め られるのは、同僚 と
れが緊密 に組織 されれ ば され るほ ど、 け っ して 同性
愛的だ とは解釈 されないよ うに、そ こか ら男同士の
エロスの可能性 は追放 される。そ して、性愛的な含
意を一一 少 な くとも表面上は一― 抑圧 した公的領域
において、男たちの紐帯 はます ます固 く深 く醸成 さ
の強い結束や官僚的な従属関係 など、「もっとも忌 まわ し
い もの と非難 される絆 と容易 に区別で きない ような、一
れる。したがって男たちの公 的領域 を維持するには、
男 たちだ けで結束す ることだけでは不十分 ……であ
定 の男 たちの熱烈な絆」 だか らである。 セジウイックに
よれば、 こ う した事態に巻 き込 まれる ことによって、男
二重拘束」的状
たちはグレゴ リー ・ベ イ トソ ンのい う 「
り、女を、共同体に不可欠な項として取り込まなけ
況 に陥 らぎるをえない。彼女 は、 このダブル ・バ イ ン ド
一
が もたらす 「
効果」についてこう語 ってい る。「まず第
に……男 たちが 自分 自身 の 〈ホモセクシュアリテイ〉 に
対 して恐怖 をもつ ために、その不安か ら、非常 に操 られ
やす くなる とい うこと、第二 に この制度は構造的 に自己
につい ての無知 を強制するが、それが原因 となった暴力
の 潜 在 的 可 能 性 が 蓄 え られ る と い う こ とで あ る」
二七〇〕]。彼女 によれば、だか らこ
[Scdgwick 1990:186〔
そ、男 の同性愛 は、 もっともホモソー シャル性が高 く同
ればな らない。 しか しその場合 も、女 を、男たちの
繋 が りの 「内部」に主体 として介入す るかたちでは
な く、男たちだけの精神的で制度的な絆 を強め深め
るための私的で身体的な「
客体」(愛やエロスの対象)
として、その絆 の 「
外部」 に位置 づ けなければな ら
ない。 このように、ホモソー シャルな男 の領域 は、性
的な要素 を公的領域か ら排除する こと、そ してその
要素 を……私的領城 の なかに局在化す ること、 この
二つ によって成 り立つ ものである。…… しか し女 を、
社会的な絆 を構成す る一員 としてではな く、あ くま
で も絆 の外部 に、絆 を安定 させ る第三項 として導入
時に男 たちの統制が もっとも重 ん じられる軍隊において
一― ここで彼女 が語 って
徹底的 に禁止 されたのである。
しているために、男たちの公 的な絆 のなかに潜む私
的で親密な繋が りは無傷 の まま……秘匿 される [竹
い るのは、軍隊に典型的に見 られるように、官僚制的に
村 2000:76;83f.]。
暴力的 に」
、しか もその職務 を何が何で も 「
操 りやす く」
「
遣 り遂げ る男たちが作 り上げ られる ことこそ、 このダブ
ル ・バ イ ン ドの もた らす 「
効果」 だ とい うことで ある。
では、男たちを巡る こ う した状況のなかで女 たちはど
のような位置 を占めるのか。 セジウイックは、『
男同士の
ー
ー
・
=ス
ロ
スのい う 「
ト
女 の交換」
絆』 をクロ ド レヴイ
につい ての叙述か ら始めていた。周知 のよ うに、 レヴィ
=ス トロース は、 い わゆる未開社会 にお いて 「
婚姻」 と
12.
男 た ち に よって緊密 に組 織 され た公 的領城 は、 そ
竹村和子は、このように要約しながら、セジウイック
のい うホモ ソ ー シ ャ ル な社 会 が、「女性 蔑視 」 と
、っまり、「
性≧硫」と「
異性愛主義」とい
高啓憂簾憲」
「
う互いに表裏一体 であるこれら二者の共謀に基づいたも
のであることを特 に強調 している。一― ここで付け加え
ておきたいのは、ゲイが 「
女嫌い」だとされることに白
は、一人 の男 と一人 の女 との間に成立するものではな く、
来するようなフェミニズムとゲイ解放運動 との間の反目
と対立が、セジウイックがこうした議論を展開した背景
男か らなる二つの集団の 間に成立す るのであ り、女はそ
れ らの集団の間で交換 されるモノの一つ にほかな らない
にあったとい うことである。 しか し、彼女の議論を省み
るならば、「ミソジエー」 とは、「
女嫌い」 と称されるゲ
と語 っていた。 つ ま り、彼 によれば、 いわゆる未開社会
で は、女は男たちがホモソー シャルな絆 を結ぶための媒
イよりも、むしろ女たち との性的でない関係を想像 もで
きない異性愛者の男たちの態度を示 しているのではなか
介 にす ぎなかったのである。 このことは、セジウィック
ろうか。セジウイック自身語 っているように、彼女が、ミ
BuLLETIN vd 57 FACULTY OF FlNE ARTS,KYOTO CtTY UNlVERS,TY OF
ソジエー とホモフォビアが表裏 一体 であることを論証す
ることによって確 かめ ようとしたのは、 まさにフェミニ
ズムとゲイ解放運動 の 「
共間」 の可能性 だったのである
二九 一三一〕]。
[Scdgwick 1985:19i〔
話 を元 に戻そ う。モ リー ・ハ ウスヘ の弾圧が厳 しい に
もかかわ らず行 き当た りば った りで あ つた ことについ
て、曖 味 な語 り口に終始 したブ レイ とは異 な り、 セ ジ
ウイックが巧みな解釈 を展開するのは、ここか らである。
一言で言えば、ブレイは標的を見誤 った とい うことだ。セ
ジウィックによれば、標的は同性愛者ではな く、逆 に同
性愛者 ではない と自称 してい る人 々だったのである。だ
か ら、弾圧 によって同性愛者 を一掃す ることがで きな く
て も構わない。 とい うよ りむ しろ、ブ レイのい う 「
社会
一
つ
い
の機能」 として、同性愛者ではな 男た
その ものの
ちを統制するために、同性愛者 たちの存在が逆 に必要な
のであ る。一一 同性愛者へ の弾圧が、 いつ どこで誰 に対
はっきり区別されていたかのように語 り、それらをとも
に実体化 してしまった として、彼を批判 している。彼女
は、「
男のホモソーシャル連続体をホモセクシュアルとホ
モフォビアとに認識上二分 して、 この連続体を巧みに操
ろうとす る力 とは、まさに闘い取 るべ き目標 とされたも
のであって、現実だとされた く
現状〉のなか に漫然 と見
出 され る もので はな い 」 と述 べ て い るが [Scdgwick
弾
198獄
86〔一三二 十 三 二〕
]、彼女によれば、いわば 「
圧」によってそれまでその区別が曖味であつた 「ホモセ
クシュアル/ホ モフォビア」がはじめて歴然 と区別され
るのであって、そうした区別がはじめからあったわけで
はない。「
ホモセクシュアル/ホ モフォビア」とい う二つ
の 「
種族」が作 り上げられるのは、官憲によるモ リー ・
ハ ウスの摘発がもたらす 「
、より具体的には、セジ
効果」
ウイックのい う 「ホモフォビアによって男 のホモソー
してなされるか分か らない ような 「
行 き当た りばった り」
シャル連続体 にパ ックリと口を開けた裂け目が男たちに
効果」 として
もたらすダブル ・バ イ ン ド」が もたらす 「
の ものでなけれ ばならなかったのは、 まさにそのためで
なのである。
無
ある。 セジウイックは、 こ うした弾圧 のあ りか たを 「
セジウィックは、『
男同士 の絆』 の終章で、このダブ
・
ル バ イ ン ドは、二〇世紀になってもなお存続 し、いっ
作為 に暴力 を振 るい、最小限の力 で最大限の効果をあげ
るテ ロ」 と呼 び、次 のように述べ てい る。
女 の交換 を枠組み とす る社会では、社会構造 のあ
らゆる局面にとって、強烈な男同士 の絆が社会形態
の骨組み として存在す るとい う事実 が決定的な意味
を もつ。 こ う した構 造があ る とい う ことはつ ま り
……男 たちの絆 の境界線 を画定 し、統制 し、操 る弁
別法が、最小 限の力 で最大限の効果をあげ る強力な
社会管理 の 道具 になる、 とい う こ とであ る。 ……
同性愛嫌悪 とは、特定 の弾圧 を少数派に加 える こと
によって、多数派 の行動 を統制するメカニズムであ
る。 …… 同性愛者だけではな く、同性愛のサブカル
そう強化 されることになると語 っていた。つ まり、彼女
によれば、モ リー ・ハ ウスの摘発をモデルとす るような
状況が今 日に至るまでかたちを変えつつ も継続 している
のである。彼女 は、二〇世紀になってから起 こった特記
すべ き出来事 として、ホモソーシャル連続体の一方の側、
禁止された側に位置づけられた男たちが、禁止によって
ますます堅 く結束 しあい、禁止によってもたらされた差
異以上の差異を自らすすんで強 く主張す るようになった
ことを挙げているが、禁止だけではなく抵抗 もまたより
一層強められたそ うした動 きのなかから、今 日の 「
異性
愛者/同 性愛者」 とい うダイコ トミーが形成されていっ
た と言 え よ う
[SedgWick 198段
201i〔
三 〇 八
一
三 〇 九 〕] 。
チ ャー に無縁 の男 たちを も強力 に統制す るため に
は、巧妙 かつ有益 な戦略が必要であ った。すなわち、
無差別」攻撃 を受けるの
自分がホモ フォビックな 「
か どうか、同性愛者 に分か らない ように しておかな
ければならないの はもちろん、「自分は同性愛者 でな
い」 とい う確信 を誰 一 人 として もちえない ようにし
5.ク ロ ー ゼ ッ トの認 識 論
ところで、セジウィックが、一 九八五年 の 『
男 同士 の
ー
ー
コ
やハル プリ
絆』 で展開 したこうした議論 には、 フ
ておかなければならなかった。 このよ うに男たちを
ンの主張 を覆 しかねない着想が潜 んでいる。 『
男 同士 の
絆』 での彼女 の議論 を導 いているのは、「ホモソー シャル
ほんの少 しリ ンチや法によって脅迫すれば、広範囲
/ホ モセクシュアル」 の連続性 と 「ホモセクシュアル/
にわたる行為や人間関係が管理で きるようになるの
一三一 一一三六〕
である [Scdgwick 198段
86-89〔
]。
連続性/対 立」 の緊張関
ホモフ ォビア」の対立 とい う 「
これが、ブ レイのい うモ リー ・ハ ウスが もつ 「
社会そ
一
の ものの つ の機能」 につい て、 セジウ イックが示 した
係 である。 とい うよ りむ しろ彼女は、あたか も 「ホモセ
クシュアル/ホ モフォビア」 の対立 のみがあるかに見 え
るその背後 に、「ホモソー シャル/ホ モセクシュアル」 の
解釈 である。 ところで彼女 は、ブレイが 「同性愛者」 と
連続性 の存在 を読み取 ったと言えよう。だか らといって
彼女 は、対立が連続性 の なかに解消 されると考 えてい る
それを弾圧する 「
社会」 の両者があたか も弾圧以前にも
わけではない。「
連続性/対 立」 のこの緊張関係 は、彼女
FACULTY OF FlNE ARTS KYOTO CiTY UNlVERSlTY OF ARTS BULLETIN的
157
13=
の議論を事柄 の実相へ追 らせる原動力 であるとともに、
議論の展開のなかでけつして弁証法的に止揚 されるには
て同性愛者 「
誕生」の条件 としたのに対 し、ハルプリン
は、セクシェアリテイの逸脱をジェンダーの逸脱 として
連続性/対 立」と
至 らない ものである。私の考えでは、「
ー
ー
コ
とハルプリンの主
い う彼女のこの図式 にこそ、フ
張を覆 しかねない着想が見出されるのであ り、その着想
クロー
がより鮮やかに展開されるのが、一九九〇年の 『
ゼットの認識論』 である。
セジウィックは、『
クローゼットの認識論』 の冒頭 で、
対象選択」のみ
解釈せず、セクシユアリテイに関して 「
誕生」の
を問題 とす る考え方の登場をもって同性愛者 「
「ホモ/ヘ テロセクシユアル」についてのさまざまな今 日
的理解には、二つの大 きな矛盾が含 まれていると述べ、そ
れについて次のように語っている。
一
第一の矛盾 とは、ホモ/ヘ テロセクシユアルを、
つ には、主に相対的に固定されはっきり識別される
少数のマイノリテイにとって積極的に重要な問題 だ
と定義す る見方 (マイノリテイ化の見解 (minOridzing
vicw)と私が呼ぶ もの)、そしてもう一つ には、さま
ざまなセクシユアリテイの連続体が織 りなすあらゆ
る位相で生 きる人 々の人生においてたえず決定的な
重要性をもつ問題だと定義する見方 (普遍化 の見解
私が呼ぶ もの)と い う、 この
(universalizing view)と
一
両者問の矛盾である。第二の矛盾 とは、 つには、同
性 間 の 対 象 選 択 を、 ジ ェ ンダ ー 間 の 境 界 状 態
)の 問題 とす る見
移行性 は狙sitiviけ
(1lminttity)や
方、そ してもう一つ には、この同性間の対象選択 を、
衝動一― そ
ジェ ンダー間の分離主義 (separatism)の
れが必ず しも政治的分離主義のものではないとして
も一一 の反映であるとする見方 とい う、 この両者問
2〔一〇〕
ck 1990:1‐
]。
の矛盾である [Scdg胡
これを読めば、彼女が ここで示 しているものが、別の
ホモソーシャル
言葉 に置 き換え られているとはいえ、「く
ホモセクシュアル/
/ホ モセ クシュアル〉の連続性 と 〈
ホモフォビア〉の対立」 とい う言い回しで私が要約 した
『
男同士の絆』の着想 を定式化 し直 したものであることは
マイノリテイ化の見解」によって取って代 わられた
が 「
とい うことであるし、ハルプリンの考えは、同性愛者に
ー
関す る 「ジェンダー移行性」 による規定が 「ジェンダ
分離」による規定に取って代 わられたとい うことになる。
セジウィックによれば、フー コー とハルプリンのこうし
逆に似たところもある。ハ
た考えの間には違い もあれば、
ルプリンは、「
私たちが今 日理解 しているような同性愛」
とい う言葉 をしばしば口にす るが、それについての彼の
推定はフー コーの推定 とはまるで違っている。しかし、そ
れにもかかわらず、彼 らはいずれも、同性愛概念 につい
て古いモデルが新 しいモデルに置 き換 わ り、それととも
物語」を紡
に古いモデルは捨て去 られてしまうとい う 「
二つ
のである。
いるところでは
な
彼女 によれ
八
ぎ出して
私 たちが今 日理解 しているような
ば、知ったかぶ りで 「
同性愛」 について語ることが どれだけ同性愛者たちの抵
抗運動を阻害す るかを弁え、フー コーなどの物語 に代わ
る別の物語 を紡 ぎ出す のではな く、そ う した物語 を
「
脱物語化」す ることこそ求められている。 とい うのも、
一
「
現代の同性愛者/異 性愛者の定義が、 つのモデルが も
う一つのモデルに取 って代 わり、そのモデルは表退 して
い くとい う構造 をもっているのではなく、さまざまなモ
デルがある時代に共存 し、合理的には説明のつかないそ
の共存 によって可能になった諸関係 によって構造化され
六四 一六五〕
]。
ている」からである [Sedgwick 1990:47〔
一
の
の
たは、単
日的なあ
りか
彼女 によれば、同性愛者 今
一
一
「
物語」で語 りうるような 義的なもので も首尾 貫 した
普遍化 の見
ものでもけっしてないのであって、むしろ 「
ー
、「ジェンダ 移行性/ジ ェ
解/マ イノリテイ化 の見解」
ンダー分離」 とい う互いに矛盾 しあう複数のモデルの共
普遍化 の見解/マ イノリテイ
理解されよう。 と りわけ 「
の
は、言葉こそ違うが、『
男同士の絆』 の図式そ
化 見解」
の ものである。 もちろん、明 らかになったのは、 セジ
ウィックの 『
男同士の絆』と Fクローゼットの認識論』の
異性愛者/同 性愛者」 とい う
存によってこそ、現代 の 「
ー
ダイコ トミ が成立 したのである。たとえば、生まれな
概念図式が一致 しているとい うきわめて抽象的なことだ
クロー
けである。だから、 こうした概念図式を用いて 『
男 らしい男」であるこ
るいは、「
女 々 しい男」ではなく 「
とが必ず しも同性愛者でないことの証明にはならないこ
と一―何をもって 「このおかま野郎 1」 となじられるか
次
ゼットの認識論』が具体的に何をなそうとしたのかを、
に見てい くことにしたい。
14.
条件 としたのである。 これをセジウイックの概念図式を
普遍化の見解」
用いて言い直せば、フー コーの考えは、「
行為」
がらの 「
本性」 によつてだけではなく、気紛れな 「
いこと
、あ
の
されかねな
によってでも同性愛者 熔印を押
フーコー とハルプリンの同性愛概念 を例に挙げよう。
すでに触れたように、フーコーが、誰でも犯しかねない
一種の内的な半陰陽、魂の両性具有」
ソドミーの実践が 「
分か らない ような、「ホモソ ーシャル/ホ モセクシュア
ル」の間に引かれた境界線を不分明にす る二律背反的状
況が作 り出されたことによってこそ、男たちの 「ホモセ
ホモセクシュ
クシャル ・パニ ック」はますます広が り、「
からなされるものと考えられるようになったことをもっ
アル/ホ モフォビック」の対立は激 しさを増 していつた
BULLETiN v。
157 FACULTY OF F,NE ARTS,KYOTO ClTY UNlVERSITY OF ARTS
ので あ る。
しか し、異性愛者たちをダブル ・バ イ ン ドに陥れる こ
ジウィックは、「
実践」 について、きわめて正当な提言を
い くつか行ないなが らも、必ず しも同性愛者 の抵抗運動
は、そ うした状況 を示す もの として、い くつ かの裁判の
の戦略を明瞭に示 してはいない。そうした彼女に対 して、
あれもあ りこれもあ りの権力側 の 「ご都合主義的」な差
別や弾圧に、大 きな戦略をもたず、そのつ ど権力側 と同
判例やエ イズ危機 に際 しての行政の対応 を挙 げて い る。
た とえば米国最高裁 は、一 九八六年 のバ ウアーズ対ハ ー
じ 「ご都合主義」で対応するだけの 「日和見主義」を持
ち出しただけではないか、 とい う批判 も出て くるかもし
ドウィック訴訟において、ジ ョエ ジア州法が 「ソ ドミー」
れない。 しかし、彼女がそう考えたとしても、なぜ彼女
がそう考えるに至ったかについては、い ま触れたような
うした二律背反的状況 は、同時に、同性愛者たちの抵抗
運動 を窮地に陥れかねない状況で もある。 セジウイック
と走義 した行為 を禁止する ことが、誰がそれを行なった
として も、そ の人物 の権利、特 にプライバ シーの権利 を
損なうことにはな らない との判断を下 した とい う。 とこ
ろが、そのす ぐ後、第九巡回控訴裁判所 は、ペ リー ・J・
きわめて深刻な状況、 もしかするとゲリラ的に対応する
しか方途がない状況があったとい うことだけは承知 して
おかねばならないだろ う。
ワ トキ ンス 軍曹対合州 国陸軍訴訟 にお い て、 ホモセ ク
セジゥィックは、二〇〇〇年に来 日しお茶の水大学で
シュアルである人格は、特定 の人格 として、平等保護条
講演 した際、自分は 「どんな種類の分離主義にも我慢が
ならない」 ような 「
徹底 した非二元論の思考習慣をもっ
てきた」 と回顧 しなが ら、「
反分離主義 と非二元論」とい
項 によって、憲法上の保護 を受ける権利があるとの判断
を下 した。 こ うした互 い に矛盾す る裁判所判断の もとで
見解」 の 間 で 引 き裂かれる しか ない とセジウィックは
う自らの立場を積極的に語 り出 している [セジウイック
2000:30]。
『
男同士の絆』 のなかで、「ホモセクシュアル/
ホモフォビア」の対立の背後に 「ホモソーシャル/ホ モ
語 っている。 さらに彼女は、同性愛者 に対する追害が米
国にお いて激化 した一九八〇年代のエ イズ危機 に言及 し
セクシェアル」の連続性を見出したのは、「
反分離主義と
非二元論」とい う彼女のこの立場ゆえだったと言えよう。
なが ら、「エ イズ に関する公衆衛生上 の解釈 にお いては、
くリスク ・グルー プ〉 とい う人格 に焦点を当てたマ イノリ
だとすれば、御茶の水大学でのこの発言は、明らかに、彼
構築主義者」であることを示
女が フー コーを受け継 ぐ 「
テイ化する言説の方が、行為 に焦点 を当てるもの として
これ と競合す る 〈
セー ファー ・セ ックス〉 とい う普遍化
すものである。 しかし、Fクローゼットの認識論』 で定式
普遍化/マ イノリテイ化」とい う図式 は、彼
化 された 「
す る言説 よ りも抑圧的でない とはとて も言 いがたい」 と
一二二〕]。 こ うした二
も述べ てい る [Sedgwick 1990,86〔
構築主義/本
女 自身そう認めているように、いわゆる 「
こで
い
彼女はこの
質主義」を言 換えたものなのだが、そ
二つの立場のどちらを採ることもできないと述べていた
は、同性愛者 は、行為 に焦点を当てた 「
普遍化する見解」
マ イノリテイ化する
と人格 のあ りかたに焦点 を当てた 「
律背反的な状況 をまえに して、彼女な らず とも、当惑す
る以外はた してなす術があるのだろうか。
ところで、たった今述べ て きた ことか らも明 らかなよ
クローゼ ットの認識論』 は、そのタイ トルが 「
認
うに、『
実践」
識」 を問題 とする ことを表明 しなが らも、む しろ 「
を視野に入れなが ら執筆 された著作である。「同性愛者」
のである [Scdgwick 199位
40〔五六〕
]。彼女が 「
構築主義
者」であることは明らかだとしても、マイノリテイ化を
C・ス ピヴァクのい う
求める 「
本質主義」を、ガヤ トリ ・
「
作戦上の本質主義」としてでも受け入れなければならな
い ような、同性愛者の抵抗運動の きわめて厳 しい状況を
をどのよ うに 「
認識」す ることが同性愛者の抵抗運動 に
寄与す るのか、 とい う思 いがつ ねに彼女 の脳裡 にあった
彼女 もまた容認せざるをえなかったのであろう。
か と思われる。彼女 が ここで定式化 した 「
普遍化/マ イ
6口 1'm out,therefore l am口
ノリテイ化」、「
移行性/分 離」 とい う同性愛者 たちの抵
抗運動 を窮地に陥れる この矛盾 につい て、彼女 は、先 に
引用 した一節 に続 けて、 これ らの矛盾の どちらが正 しい
ハルプリンに目を転 じたい。一九九〇年の 『
ここで、
同
対象選択」のみを問題 とする考え方
性愛の百年間』で、「
かを裁走するつ もりはない、なぜ なら、そのよ うな裁定
を下 しうる認識論的根拠が今の ところまった く見出され
ないか らだ、とも付 け加 えていたが、この言葉は、「
認識」
だ けではな く 「
実践」 に関わるもの として も理解 しなけ
ればならない。 とい うの も、 どちらの見方 を採 るにして
も、 一方 の見方だけに よって同性愛者 へ の抑圧 に抵抗で
きるわけではない との彼女の きわめて深刻 な状況分析 も
また、 ここで暗に述べ られてい るか らである。ただ、セ
の登場によって、「
同性間の性的接触 に関わるそれ以前の
言説 のなかで伝統的に働 いていた多 くの区別 は除去 さ
れ」、
種族」
人々が 「
異性愛者/同 性愛者」 とい う二つの 「
に区分されることになったとい う 「
物語」を語 ちていた
あのハルプリンである。「同性愛者 と異性愛者 は、少なく
とも今 日、実際に存在 しているのである」 とは、その彼
の言葉である [Halped■
1990:28〔
四人〕
]。 ところが、そ
ハ
い
同性愛の百年間』
う語 って た ルプリンが、この同じ 『
FACuLTY OF ttNE ARTS,KYOTO CttY UNWERSげ
Y OF ARTS BULLETlN路
57
15.
に収録 され た一 九八七 年 の イ ン タ ビュ ー で、 同性 愛者 の
アイデ ンテ ィテ イが実 は きわめ て多様 で あ る と語 り出 し
て い るのであ る。 この イ ンタビュ ー での発 言 を聞 くとい
同性愛者〉 とは本
によって定義づ け られる。要するに く
質 な きア イ デ ンテ イテ イ な の だ 」[ H a l p t t n
九一〕
]。
〔
Vヽ
。
ゲイのサブ カルチ ャー を見 ると、そ こには性 のあ
りかたにはきわめて数多 くの可能性があ ることにつ
掃 き溜めのよ うな このアイデ ンティテイは、ホモフォ
ビアによって同性愛者 たちが理不尽にも背負 い込まされ
いて、豊富な証拠があ ります。 ですか ら、ゲイの人 々
の多 くは、セ クシユアリテイにはただ二つ の種類 (つ
た ものである。 しか しハ ルプリンは、 このアイデ ンテイ
ヘ テ ロ」 と 「ホモ」
)し かない ような もので
ま り、「
本性」はこ う し
ないことは分か ってい るはずです。「
た二つの性的対象選択 の可能性 に尽 くされ るもので
はあ りません。 自分や友人 たちのことを知れば知る
ほど、私たちは、 セクシユアリテイとい うものが ど
れほ ど特異 で多様 で、 どれほ ど体系的でないか とい
44〔七八〕]。
うことに気づ くのです [Halpein 199は
これではまるで、「
人 々は互い に異なってい る」 と語っ
たセジウイックの発言 を聞いているよ うではないか。 こ
デ ンテイテイ」 であ ることをむ しろ逆手に取 り、それを
自らすす んで引 き受け よう とす る。中身が抜 き取 られる
規範的
なら、 このアイデ ンテイテイに残 るのは、ただ 「
対抗性」 だけであ
なもの」 に対する距離 と差異 とい う 「
ン
もはや 「
何
テイテイは、
る。それだけ となったアイデ
であるか」によってではな く「どこに居 るか」のみによっ
て定義 される。そのよ うに考 える彼 は、 こ う述べ る こと
になる。
周縁的な位置 を意識的に占め、その特性が純粋 に
位置 だ けに よるアイデ ンテ ィテ イを身に帯 びる者
なか ろ うか。
は、 厳密 に言 えば、ゲイ としてで はな く、 クイア
…… 「クイア」は ( ホ
( q u e e r ) として語 っている。
・
モ) セ クシュアル アイデ ンテイテイを対抗的かつ
ー
異性愛者/同 性愛者」とい うダイ コ トミ はホモフォビ
「
アの産物であ り、異性愛者 を無徴 の項 として確保す るた
めに、それ とはどこかが違 う人 々に誰彼 な く 「同性愛者」
の熔印を押 して、彼 らを有徴 の項 として周縁 に追 い遣 っ
1 9 9 5 :
テ ィか ら矛盾 だ らけのその 中身が抜 き取 られたあ との
本質なきアイ
「中身が空 っぽ」なそのあ りかた、それが 「
種族」が現
れは、「
異性愛者/同 性愛者」 とい う二つの 「
に存在するとい うハ ルプリン自身の主張 を覆す発言 では
しか し、その後 に書かれた彼 のテクス トを読む と、 こ
の発言 が示す方向へ彼 の議論 は展 開 されていったように
聖 フー コー』 では、
思われる。 た とえば一 九九五年 の 『
関係的 に、そ して、平雲 暫 と してではな く位 置 と
して、実在 としてではな く規範に対す る抵抗 として
定義す ることがで きるのである [Halperin 1995:62;66
九一、九八〕
]。
〔
た と述べ られている。無徴 の項 は、その内実 を欠 いてい
ハルプリンは また、「
本質〉 の観念 によってで
性的な く
るため、その成立条件 として有徴の項 に依存せ ざるをえ
彼 ら」 を
ない一― 「われわれ」を作 り上 げ るためには、「
リンは、同性愛者を核 らわ しい アブジェク ト (れect)と
はな く、医学、法、教育、住 宅、福祉政策な どの言説や
制度 へ の対抗 関係 によって定義 される社会的 アイデ ン
ー
テイテイの 出現」につい て語 るサイモ ン ・ワッ トニ に
も言及 し、彼 と主張 を同 じくす るものだ と述べ ているが
とではじめて、異性愛者は自
して棄却する (abiecter)こ
らを核 れ な き主体 として立ち上 げ ることがで きる とし
て、 ジュリア ・クリステヴアの 「アブジェクシオン」概
二〇七〕]、 この ような立場 を採 る彼
[Halpchn 1995:209〔
は、テレサ ・デ ・ラウ レティスなどが提唱 したいわゆる
「クイア ・ポリテイックス」を同性愛者 たちの政治的な抵
念 を援用 してい る。つ まり、「同性愛者」 とは、何か実体
のあるものではな く、異性愛者 のアイデ ンティテイを安
抗戦略 と位置 づ け、 アク ト ・ア ツプ (AIDS Coaliton to
クイア ・ネイ シ ヨン (Queer Naton)の
Unlcash Powcr)や
想像 上の他者」であ
定 させ るためにでっち上げ られた 「
り、ホモフォビアによって生み出された 「あ らゆる種類
運動 を積極的に評価す るに至るのである。
F聖フー コー』で表明 されたハ ルプリンのこう した考 え
の互いに相容れない、論理的に矛盾す る概念が投 げ捨 て
られる記号論的 ゴ ミ捨 て場」なのである。同性愛者 とは、
は、彼 を批判 したセジウイックの考え とどこが違 うのか、
その違 い を見 つ けるのは困難 である。 しか し、奇妙 な こ
クローゼ ッ トの認識論』
とに、ハルプリンはこの著作 で 『
でっち上げねばならない、 とい うわ けだ。 ここでハル プ
た とえば社会的不適応、先天的疾息 、道徳的堕落、性的
……そのすべ てだとい うのだか ら、 こん なキ メ
倒錯等 々・
ラの よ うな怪 物 は存 在 で き よ う もな い はず で あ る
一六九〕
] 。ハル プリ ンは、 こ
[ H a l p c h n 1 9 9 5 : 4 六七
3-45〔
16.
うした事態 につい て こ う語 っている。「く同性愛者〉 は、
異性愛者〉 ではないすべ て とい うかたちで、否定 と対立
〈
BULLETIN略
i57 FACULTY OF FlNE ARTS,KYOTO ClTY UNlVERSlTY OF ARTS
を何度か肯定的に引用す るにもかかわ らず、 セジウイツ
クか ら受 けた批 判 につい てはまった く言及 してい ない。
彼が彼女 の批 判 について、それは今 日の同性愛概念 が矛
脱
物語」を 「
盾 に満ちていることを示 し、
構築主義者の 「
一
構築主義 本質主義論争」を時代
物語化」す ることで、「
価する背景 には、 こ う したアク ト ・アップなどの運動が
あ ったか と思われる。 しか し同時に彼 は、「ゲイ」や 「レ
遅れ の もの として しまった と語 り、 自己批判 を行 なうの
ズビアン」 とは違って、「クイア」がその内実によってで
は、 二 〇〇 二 年 にな ってか らの こ とで あ る [ H a l p cn五
はな く、対抗性 によってのみ定義 される ことの危 うさを
も認めてい る。なぜ なら、 このクイア ・ポリテイックス
2002:10_11]。
は、「
誰 で もクイア !」 とい う何 で もあ りのその無内容 さ
によって、ジェンダー、エ スニ シテイ、 階級 といった内
い ささか歯切れの悪 いハルプ リンのこ う した 「
転向」が
なぜなされたかについては、もちろん、「同性愛者」 と名
指 される人 々の 内実が実にさまざまであることを、彼が
認 めざるをえなかったこともその理由であろう。事実、六
色縞 の レインボー ・フラッグをはためかせて行進するプ
ライ ド ・パ レー ドによく象徴 されてい るよ うに、 レズ ビ
ア ン、ゲイ、バ イセ クシュアル、ト ラ ンスジェンダーや
“
トラ ンスセ クシュアル とい ういわゆる LGBT"だ けでは
な く、異性装者、両性具有者な どもそ こに含 まれ、 さら
にそれに加 えて、 ジェンダーやエ スニ シテイや階級 の違
い、 カムアウ トしているかクローゼ ッ トに留 まったまま
か、多婚的か単婚的か といった、そのライフ ・スタイル
部 の差異 と不平等 をウワバ ミの ように飲み込んでそれを
隠蔽 す る ば か りか、「ゲ イ を非 一 ゲ イ化 し」 (dc―
gay
々
に
ることで、人
がゲイとして現
脱本質化す
gayness)、
被 ってい る抑圧 を曖味にして しまう危険 もあるか らであ
る。 しか し一方そ れは、その異種混交性ゆえに、 さまざ
まなかたちで異性愛規範 に抵抗する ことにより、既成 の
アイデ ンテイテイのあ りか たを無秩序 にず らしつつ、 さ
まざまな新たなアイデ ンティティや関係性 を創 り出す可
能性 をもつ もので もある として、彼 はあえてそれを擁護
九四 ―
し よ う とす るの で あ る [Halpcrin 1995:64-67〔
も含め、互 い に相容れない さまざまな多様性が 「同性愛
者」として一括 される人 々に見出されるのである。ただ、
九九〕]。
それだけではなかったはずだ と思われる。とい うの も、当
時 は、 同性愛者解放運動 の口火 を切 った一 九六九年 のス
トー ンウォー ル暴動 の際 とはまった く事情 を異 にするよ
性 によってのみ定義 される こ うした 「クイア」の立場 に
立 とう とす る彼 の発想 は、フ‐コーか ら彼が学 んだ もの
である [Halperin 199駐
67〔一 〇〇〕
]。私が冒頭 で引用 し
うな、 エ イズ危機 とい うきわめて過酷 な状況がそ こに
あ ったか らである。一九八〇年代、米国などでエ イズに
た「
生の様式 としての友愛 について」とい うイ ンタビュー
の一節 を思 い出 してほ しい。そ こでフー コーが強調 した
よって多数 の人命が次 々に奪 われていった。その多 くは、
同性愛者、血友病患者、静脈注射 による薬物常用者、セ ッ
クス ・ワー カー、貧困層 などマ イノリティに属する人 々
のは、「同性愛者 のいわば く
斜 めの〉位置、社会 とい う織
物 の なか に同性愛者が引 くことがで きる斜 めの線」 で
だったと言えよう。ハ ルプ リンはこう書 いてい る。「アク
ト ・アップは、 エ イズ危機 によって打撃 を受けたあ らゆ
斜 めの位 置」 の問題
性愛者が社会に対 して占めるその 「
ところで、ハル プリン自身認 めていることだが、対抗
私 はどこ
あった。彼 は、同性愛者である ことを まさに 「
だった。そ うしたなかで同性愛者以外の人 々 をも巻 き込‐ に
居 るか」 とい うポジシ ョナ リテイの問題 として、つ ま
り、同性愛者 の 「内在的本質」 の問題 としてではな く、同
む広範な運動が組織 されていったのは、当然の成 り行 き
る集団を巻 き込み、広 い意味で対抗的であるとい う点 で、
正真 正銘 クイアな政治運動 を作 り出 した。 エ イズ ・アク
として語 っていたのである。 さらに彼 は、「
私 たちは懸命
に同性愛者 になろうとすべ きなのです」とも述べ ていた。
一― ハ ルプ リ ンはフー コー の この言葉 につい て、 こ う
ティヴィズムは、ゲイの抵抗 と性 のポ リテイックスを、人
種、 ジェンダー、貧困、監禁、薬物注射、売春、性嫌悪、
巌密に言えば、ひとは同性愛者 になる
付 け加 えてい る。「
ことはで きない。す でに同性愛者 であるかないかの どち
メディアの報道 の仕方、 ヘ ルス ・ケ ア改革、移民法、医
らかなのだか ら。 しか し、自己自身を周縁 に位置づ け、変
専 門家〉 の説明責任 といった
学研究、そ して、権力や く
の
問題 を巡 っての社 会 流動化 に結 びつ け たのであ る」
1995:63〔
九三 一九四〕]。一一 同 じ箇所 で彼 が付
[Halped■
容 させ ることはで きる。 クイアになることはで きるので
一一五 十 六 〕
]。
ある」 [Halpedn 1995:79〔
け加 えていたのは、一九八七年 に誕生 したアク ト ・アッ
プのこの運動 をさらに継承 しようとして一九九〇年 に結
成 されたクイア ・ネイシ ョンが、そのメンバ ー を同性 ヘ
の性的指向に よって定義 した ことで、「
民族」に擬 えた同
“
アッ
I'm out,thcrcforc lとい
aln
Ⅲ がある。アク ト・
う言葉
ー
プの有名なス ロ ガンである。 ここでい う 「アウ ト」 と
は、同性愛者 として 「カムアウ ト」す るとい ったことで
はな く、む しろ 「アウ ト」の位置 に立つ ことであろう。 し
か し、「アウ トの位置 に立つ」 とは、一度その位置に身を
性愛者 としての同質性 に依拠 しよ う としたその分だけ、
「アク ト・アップに比べ るとよリクイアではない」 とい う
置けばそれで済 むことではな く、む しろそれは、たえざ
ことであった。
る。クイアであることは、しば しば 「
誰で もクイア !」だ
・
として、ポス ト モ ダ ンを気取 るフアッシ ョンと取 り違
ハ ルプ リンが、 クイア ・ポ リテイックスを積極的 に評
る 「
実践」に よってのみ可能 となることであるはずであ
FACULTY OF FlNE ARTS KYOTO C TY UN VERSTY OF ARTS BULLETIN vd 57
17.
えられがちだが、 しか しそれは、抑圧 と差 別へ の抵抗 を
なす こと、 しか も、抵抗運動 をなす運動体その ものに潜
む抑圧や差別へ も異議 申し立てをしなが ら、たえず抑圧
と差別へ の抵抗 をなす ことに よって しか果た しえないこ
とではなかろうか。
Halpedn,David M.,1990,θ
,2002,rr9〃
本 文 中 の 引用 は、邦訳 が あ る もの につ い て はそれ を参考 に し
なが ら、原文 に照 らし合 わせ、適宜、翻訳 に変更 を加 えた。
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