能 「乱」について 能「乱」(みだれ)のみどころ 「猩々」に小書(特殊演出)が付くと曲名自体が「乱」と変わります。これは流儀によって異なり、「猩々乱」となる場合もあ ります。みどころはなんといっても曲名にもなっている〝乱〟。猩々という酒飲みの妖精(解説本によっては怪獣なんて書 かれているものもありますが、怪獣というとどうもゴジラ的なものを想像してしまいます…)が主人公で、通常は〝中ノ舞〟 というオーソドックスな舞を舞うのですが、小書がつくことにより酒に酔っているさまをより写実的に表すこの舞に変わりま す。なお上演時間は能としては短く、45分ほどの予定です。 ○舞台展開 名乗笛という笛のみの演奏でワキ登場→名乗り(自己紹介と状況説明)、待謡(シテの登場を待つ謡)→下端(サガリハ) というゆったりした囃子でシテ登場→ワタリ拍子という太鼓入りの地謡にのって舞う→中ノ舞の途中から乱→キリの仕舞ど ころ。シテは舞台上にて後ろ向きで足拍子を踏み(留拍子)終演 ① 能面 「乱」をご覧になる上でのポイント この曲で使う能面はそのものズバリ〝猩々〟というもの。専用面といいこの曲のみにしか使いません、というか他に使 いみちがないというほうが正しいかもしれません(なお他にも「頼政」「弱法師」「景清」などは専用面を用います)。面の 色も酒に酔っているがごとく赤く塗られています。この色合いはひとつひとつ濃淡様々ですが、朱色っぽいものが多く 見受けられます。物によっては肌色に近いものや、赤黒く肝臓を患い気味と思えるようなものもあります。 表情は笑みをたたえていて、悪く言えばしまりのない表情です。能面はその角度によって泣いたり笑ったり見えると いわれますが、この猩々に関してはどこから見ても笑っている表情です。 ② 装束 能は前半後半で姿が変わるものが多いですが、この曲は一曲を通して同じ姿で演じます。 頭は赤頭(あかがしら)というボサボサの赤い髪。紅入(いろいり・赤い色が入っていることをこういいます)の唐織とい う能に出てくる女性が一般的に着るものを壷折というふっくらとした着方をし、インナーである着付も赤い色。半切(はん きり)という袴も赤い色と、上から下まで全身赤基調です。流儀によってはこの曲に限り赤い足袋にするというのを聞い たことがありますが、金春流では通常通り白足袋で勤めます。 装束には菊の紋様があしらわれていますが、これは重陽の節句など酒と菊は切っても切り離せない関係にあるため 童 詳 描 デザインされているかは当日のお楽しみです。 なお半切を着るのは「乱」のときのみで「猩々」のときには大口という後ろが畝状になっている袴の赤いものをはきま す。また扇は通常丸尽くしという主に鬼物で使われる扇を使いますが、「乱」のときには日の丸の扇を使うとされていま す。ただし今回は二体の猩々が出る〝双ノ舞〟で使われる菊水乱扇を使うかもしれません。 で(能でも「枕慈 」に しく かれています)、どのように ③謡 べ 古語である上、独特の節回しで謡うため一度耳で聞いただけで意味を理解するというのは至難の業です。全詞 章を添付してみましたのでご参照いただければと思います。なおこれに関してひとつお願いが。出来ましたら先に目を通 しておいていただいて上演中は確認程度にしていただければと思います。 よくご覧になった方から謡の意味がよくわからないと言われます。確かに詞章をご覧いただくと、序詞・掛詞といった古 典の授業で習った技法が多く含まれ難解な部分が多いかと思います。しかし能のストーリーというのは至極簡単で、筋の 展開を楽しむというより、動き、音、間といった僅かなものの積み重ねを流れとして体感していただけることが、能を「楽し む」近道なのではないかと私は思っています。能にはここは必ずこう意味するとか、こう感じなくてはいけない、というよう な制約は全くありません。例えば絵画を見るように、ご自身の感覚を目一杯に開いてご覧いただいて、終わったあとに何 かが心に残りましたら、演者としては嬉しい限りです。 また詞章の中のワキのセリフは実際とはだいぶ異なる部分があります。これは能が分業制で行われており、ワキ方の流 儀によってセリフが変わってくるためです。 す て ⑤ 囃子 大 3 楽器が必ず入り、今回のように太鼓が入ることもあります。謡と囃子は一見するとそれ ぞれ勝手にやっているように見えるかもしれませんが、実は拍数などがかなりキッチリ決まっていて、ヨーとかホーといっ た掛け声は音楽的な要素以外にその拍数をお互いに確認し合うためでもあるのです。その中でさながらジャズセッション のように、それぞれが自分の主張を出しつつ、また相手の想いを感じながら舞台は出来上がっていきます。 シテが登場する下端という囃子は、他に「西王母」が桃を持った侍女と現われるときや、「国栖」の天女、「嵐山」の子守・ 勝手明神が出てくるときに演奏されるもので、この世のものでない者がゆったりとその姿を見せるときに流れる柔らかい響 能の囃子は笛・小鼓・ 鼓 つの きの囃子です。 〔 〕 習 波 満 ったり、ときには押し寄せるようにと緩急をつけながらもバラけることなく四拍子が揃うには非常に高い技術を要します。 曲名ではなく舞としての 乱 は演奏する囃子方にとっても重い いとなっています。 の ちひきのようにときにはゆ ⑥ 秘曲 石橋」(しゃっきょう)や「道成寺」、「翁」、「卒都婆小町」・「伯母捨」などの老女物は、能楽師が研鑽を 積み師匠に許しを得て勤めることのできる曲なのです。それぞれの曲には「石橋」なら獅子舞、「道成寺」ならば乱拍子 といったようにその曲独特の舞があり、秘曲とされています。これらの曲は地謡・後見・囃子方の服装が通常の紋付袴姿 から裃や長裃(遠山の金さんをイメージして下さい)に、「翁」は更にフォーマルな侍烏帽子に素襖上下という格好になり この「乱」のほか「 ます。 * * * 番組の解説にも書かせていただきましたが、「石橋」に続いての披きとなります。「石橋」の出番は僅か数分、セリフなしでしたが、 今回は出番約 30 分を1人でなんとかしなければなりません。「猩々」という曲は 10 歳のときに舞囃子で(装束を着ず紋付袴で、囃 子入りで舞うこと)、数年前には明治神宮の奉納能で能を勤めさせていただいていて、〝乱〟以外の部分はよく覚えていますが、 やはり〝乱〟が入ると全く違う曲になってしまうような気がします。 この曲には波の上で楽しく酔っているという設定からか特殊な足づかいが多く出ます。足拍子をしながら前に蹴り出すよう に歩く蹴足(けあし)、大きく横にまわしながら進む千鳥足、波に揺られるように弧を描きながら爪先立ちで歩く流れ足。これ らは他の曲には滅多に出ないので、これができたからといって今後応用が利くということはあまりありません。しかし面によっ て視野が狭まり、平衡感覚が著しく失われる中では、足腰の強靭さや体の軸がきちっと定まっていないとすぐにふらついて しまいます。一方酔って楽しく舞うということを考えると力みは禁物。しっかり力を込めながら無駄な力は全て抜くということが 非常に難しく、稽古を重ねながら、これが秘曲と言われる所以なのだなと身に沁みて感じています。 本番の舞台という緊張の中で全てを出し尽くせたときひとつ上のステージへと上れるのだと信じて、その日に向かって心 残りのないよう稽古していきたいと思います。 楽 中村 昌弘 シテ方金春流能 師
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