オペラの風景(67)「影のない女」小説からオペラを読む[上] 本文 2010

オペラの風景(67)
「影のない女」小説からオペラを読む[上]
本文
2010新国立2幕
ロマン派オペラには原典があります。
「影のない女」には珍しく、原典
はありません。台本作者フーゴ・ホフマンシュタール(1874~192
9)は博覧狂気で多数の本から原典をつくり、それらからオペラ台本「影
のない女」と、小説「影のない女」を発表しました。彼は天才的詩人、小
説家で、文章の完璧さは類を見ないそうです。前回述べたように、オペラ
は「魔笛」同様アレゴリー(寓話)という形式でできていて、オペラ台本
にも小説にもなりました。オペラ制作に当ってのシュトラウスとの意見交
換は十分になされ、それらは公表されています。小説ではどんな形になっ
ているか興味をもち、小説「影のない女」の翻訳を今回読みました。(高
橋英夫訳、集英社刊)小説にはオペラからは聞き取れなかった詩があった
し、台本にはない話もありました。そこで小説とオペラ台本を比べて、内
容に立ち入ろうと思いました。オペラの荒筋は新グローブ「オペラ事典」
を基準にします。
第1幕第 1 場
オペラの第1幕第1場は小説(=アレゴリー的小説]の第1章と同じで、
大王カイコバードの使者が乳母の所に現れ、あと3日以内に妃に影ができ
なければ、彼女を霊界に連れ戻し、帝[ミカド]は石にするとつげ、消え
ます。帝(ミカド)は目覚め、乳母に3日ほど狩に出かけるとつげ去りま
す。ついで妃(キサキ)が目覚め、そこへ表れた赤い鷹から同じ説明を聞
きます。小説では命令を鷹が石に書き、オペラでは音(鷹の声)であって
いいでしょう。妃は事態をしり、影をえる方法を乳母と話し合います。小
説では乳母が「子供がない、ヒステリー女」という基準で選んだとしてい
ます。
第1幕第 2 場
小説とオペラの第2場はぼ同じ事件を扱っていて始めバラク夫妻と兄弟
の猥雑な情景で始まり。日常的な出来事が展開しています。バラクは女房
に「子供が欲しい」といい、女房はヒステリー気味で、これを拒否します。
早々に仕事にでよと夫に命じ、追い払います。そこへ突然妃と乳母が現れ
ます。小説で女の選択基準が示されていますから、喧騒な染物屋が選ばれ
ても、自然です。乳母は女房の声の調子をきいて、選択が正しかったと、
納得します。
亭主のバラクが仕事に出た後、所在無げにしている女房、そこへの侵入し
た妃は初めてみる人間の暮らしに当惑し、染物道具の染料釜をひっくりか
えし、女房を子供のように笑わせます。小説でのこの描写は初対面の気ま
ずさをこわす、小道具として有効ですが、是はオペラ台本にはありません。
ここで乳母が話しかけます。オーバーな事故(自己)紹介のあと、乳母は
雄弁に喋ります。乳母は女房にその美しさをたたえ、離婚すればずっと素
晴らしい生活が待っているとまくしたてます。そして「貴女の影さえもら
えれば、私ども2人は3日間貴女に仕え、幸福への道をつける」いいます。
オペラでは乳母の演技次第で小説の丹念な表現以上に聞く者をひきつけ
て、不自然な話がじょじょに自然に聞こえてきます。
「貴女の未来は若い
気にいった男と夢のような暮らしになる」。こういわれ、女房の気持ちは、
ゆらぎます。ここでのドイツ語の美しさ、面白さは私にはわかりませんが、
オペラでの乳母は官能的世界をシャープ#で語っていて、その官能性が女
房に未だ見ぬ恋人を幻視させるのは文章以上に魅惑します。女房を装飾品
で飾り、そして幻想の壮麗な離宮をみせます。
「夕食ができてない」との女房の懸念に、魚を5匹鍋に飛び込ませ、「亭
主と寝たくない」との希望には、ベッドを二つに割って離れた場所におき
ます。これらはオペラの台本も小説も同じですが、音楽が入るとオペラが
優位にたちます。
ここで奇妙な変化がおこります。オペラ、小説とも同じで、焼かれる魚が
歌うのです。
「母さん、母さん、お家へ入れて
扉が閉まって、ぼくらは
中に入れない」。これはオペラ全体では大事な課題「まだ生れない子供た
ち」の声です。「真っ暗はこわい
母さん中にいれて
それとも優しい父
さんを呼んで 父さんが 扉をあけるように!」言葉の内容より合唱の響
きが侘しさを文より強くうったえます。小説では妃だけに聴こえた幻聴の
ように扱っています。小説では3章に入れていますが、バラクは既に帰宅
しています。バラクは上述のベッドの条件を承認せざるをえません。女房
は親戚が明日から3日来て泊まることを言い訳にします。
バラクが呆然としているところへ、オペラではコラール風の合唱が聞こえ
てきます。夜回りたちの歌で、
「この町に住む夫婦たちよ、
自身の命より、相手のことを愛せ、
そなたたち
心せよ・・・・そなた達の命のために、
命の種が委ねられたのではないぞ。そのたたちの愛のためなのだ!」
これは小説にはなく、リヒアルト・シュトラウスの歌が、圧倒的な効果を
発揮するところです。
「愛の抱擁のうちに眠りつく夫婦たちよ、
そなた
たちは、谷にかけられた橋なのだ、 そこから死者が再び命に戻るための
架け橋だ、そなたたちの愛の結晶よ!」
1923ウイーン国立オペラ2幕
第 2 幕第1場は2日目で、小説第 3 章。妃と乳母がバラク家に仕え始めま
す。小説とオペラは若干扱いが違います。
前日魔法で乳母は女房の物質的欲望を満たしたけれど、今日は男を呼び出
し、性的欲望を満たさねばなりません。バラクは妃と乳母に見送られ、仕
事にでます。乳母は女房に選び出す男のことを知るため、あの手この手の
言い回しを使います。乳母は自分のペースに巻き込む手練手管をつくしま
す。彼女が橋の上で容姿のよい若者にあったというと、彼が気位がたかく、
品はよく、打ち解けると女房にあこがれていると話します。この話を聞い
て女房のガードが緩むと、さらに彼女の旦那、兄弟のことを若者は同情し
ていたことを彼がいっていたというと、女房は「秘かに思っていてくれた、
男のいたこと」、
「憧れが肌理こまかで控えめだったこと」に顔のほてりを
感じました。話の経過を聞いていた妃はこんなことはありえないとおもっ
ていましたが、若者の出現が現実になってきたので戸惑います。台本では
男についての説明はこの程度ですが、小説では遥かに強烈です。ホフマン
シュタールのこの場面にかける熱意が感じられ、説得力があります。
「それは人間ではなく、精霊だった。
」妃が見抜きます。
「部屋の中央に、
それまでそこにいなかった生身の男が立っていた。・・・男がそうして現に
立っている、現存の力は、強烈だった。そこに野獣が待ち伏せているよう
な趣があった。」小説は続く。
「すると男は、美しい染物屋の妻に向って、ゆるやかに、歩みよった。・・・・・
そして、この男こそ、人間たちを誘惑し、瞞着するために、思いのままに
好みの姿をとることができる、あの精霊エフリート族の1人であるのに、
妃は気づいた。男は美丈夫であった。しかし、男の顔だちを貫いている押
さえようもない情欲は、妃が地上で出会ったどんな人間よりも、この男の
相貌を厭わしくみせていた。憎しみと蔑みとが妃の全身を揺さぶっ
た。・・・・・・・エフリートは女房の前にたち、眼をじっとその上に留めてう
ごかない。・・・・・・・
「私を待っておいででしたね、奥さん」
「あんた
は女だ、しかしあなたの心の結び目をときはなつべき男はいままであなた
の間近には、現れなかった。
」ここでバラク帰宅の報が入り、2人はひき
はなされる。
「エフリートは女房の胴を抱きかかえていた。彼は女を一緒
に引っ張っていこうとしていた。
「染物やの女房は意思を失ったまま、妃
にもたれてきた。しかしその瞳はただエフリートをみつめていた。彼女は
まったくエフリートのなかで融解してしまったのだ。・・・・」これではオペ
ラとは別人で起きた事件も異次元です。
バラクが大量の買い物をして、弟達や近隣の子供に振舞う場面がこれに続
きますが、バラクは自分のしていることに陶酔し、浮気女房の惑乱に気づ
きません。
第 2 幕第 2 場は間奏のようで、森のなかにある鷹狩りの小屋に乳母と妃が
休みに行きます。2日目の夕方の出来ごとで、帝は鷹を探しに森をさまよ
い、やっと赤い鷹をみつけて、赤い鷹から妃から「鷹狩小屋にいる」との
伝言をうけます。帝は小屋に人間臭さを感じ取り、嫉妬と悲しみに襲われ、
彼女を殺す必要を感じ、悩みます。この場面は小説にはありません。帝の
赤い鷹探しは小説第4章で、内容は台本と離れています。
第 2 幕第 3 場は染物屋の家。睡眠薬を使う場です。バラクは良く働き、そ
とへ仕事に出ません。女房は市場に追い出そうとしますが、なかなか成功
しません。乳母はついに睡眠薬を飲ませ、彼はばったり倒れ、寝込みます。
。
オペラでは 2 幕第 3 場で、橋の上でであった若者の誘惑に耐え、夫を揺り
動かし、起こす。睡眠薬云々は小道具で、話の本質は精霊と人間との房事
です。オペラはここのところを曖昧にしています。強いて言えば、アレゴ
リーとして読み替えると、台本も小説のようになるということでしょう。
小説のエフリートをオペラに登場させたら、ストーリーに矛盾がうまれる
のは確かです。
ともかくバラクを起こし、女房は乳母と共に外出してしまいます。哀れな
バラクが道具を集め、仕事にでようとすると、彼を助けようとする者がい
ます。
「わたし、ご主人さま、あなたの召使です」と言ったのは妃でした。
妃は、バラクの失神、エフリートの登場などをみて、バラクに同情してい
たのです。
小説では第 5 章に、睡眠薬の場面が現れます。乳母と妃がバラクの家につ
くと、女房は妃の入室を拒否します。昨日の出来事を知り過ぎたせいでし
ょう。女房は乳母には愛想がよく、彼女によくぞ「男を紹介してくれた。
どうも有難うよ、あの人は私を欲しがっていた。」
「あの人が私の何から何
まですっかりひっかきまわしてしまった。わたしに触りもしないで、女房
にしてしまった。
・・・・・・・・・」
〈いかめしかったよ、あの人は。違
う違う。あの人は色男さ。お前馬鹿だね。わたしの言うことなんか聞いち
ゃいけないよ。あの人は明けの明星のように、いい男だったっけ。あの美
男ぶりときたら釣竿の逆鈎だよ。私はもう鈎をのみこんだのさ・・・・・」
女房がエフリートの魅力にかかったことを知った乳母はバラクに睡眠薬
をのまします。バラクは倒れてしまう。その上に覆いかぶさるようにして
女房は〈バラク私のいうことを聞かなければだめだよ。
〉
〈わたしが、あん
たの家にくらして、きたならしいものをみているのが、嫌になってしまっ
た。そこへ、私を哀れんでくれる男を、見つけたのさ。その人はそれ以上
のものはない素晴らしいものを、わたしにいつまでもくれるんだよ。だか
ら、わたしはその代わりに生贄になってあげなくちゃならないんだよ。〉
是を読むと、オペラ台本と小説が全く違う道を進み始めたのがわかります。
次に起こる心の葛藤を省略してならべます。「また妃の気持ちはこの男の
あわれな姿にたえられなくなり、みずからの意思はバラクへつきささっ
た。・・・・・・・バラクの体内では、魔法の毒が、妖精のひめの、恐ろしいほ
どに強い意志の力と戦っていた。」
「バラクの鬱屈した天性の奥深い力が、
そとに現れたのだ。ライオンのように咆哮をあげて、彼は自分の子供を求
めて叫んだ。
」
「若い妻はバラクを見つめ、彼女の美貌をゆがめる軽蔑のそ
れに変った・・・」
「バラクは妻の前に膝まづいて、許しをこいはじめたのだった。へりくだ
った厳粛な調子だった・・」・・・・・・
「何しろあいつはゆうべひどく病
気だったからな。
」
第二回目の浮気はならず、オペラとは予想しない方向に動いていきました。
オペラ第2幕第4場は妃の夢の場として知られている。オペラでは帝が石
になるのは妃が夢の中で帝が青銅の門をくぐり抜け、赤い鷹が警告する光
景として表現される。この場面での重みは妃がバラクに自責の念にかられ
ることにありましょう。この場面は小説にはありません。
小説第4章は(帝の石化)を詳細にのべています。オペラで妃の夢の場面
と対をなします。この場面はオペラにはありません。森の中で出会うのは
帝が石化することを示す幻想の世界です。帝は、鷹匠を伴って森の奥に赤
い鷹を求め、途中主馬の頭の侍童も加わり、岩塊、盤根錯節を踏みしだい
て進みます。鷹匠が囮(おとり)を放って赤い鷹を求めながら、森の奥に進
み、いつしか帝 1 人となってしまいます。階段にであい、下って青銅の蛇
腹がある、木の扉につきあたり、そこにはこうありました。
「これが何の
役に立つだろう
ぼくらは生れていないのに」
。ここで、話は課題の一つ
「生れていない少年」に通じます。オペラ第1幕では焼かれる魚が歌った、
「母さん、母さん、お家に入れて、扉が閉まって僕らはいれない」と似た
状況です。扉を入ると、中は大広間、広間の中央には食卓があり、賓客を
迎える用意がされてありました。やがてあらわれたのは少年で、食卓とそ
の背後の扉との間を激しく行き来しています。帝は招待の準備をしている
少年に問いますが答えはなく、次に若い乙女と 2 人の少年が加わって、乙
女が丁寧な招待の辞を述べます。帝が堅苦しい言葉で礼を述べる。ちぐは
ぐな雰囲気で子供達のする狂宴があり、最後は子供たちは消え、帝 1 人が
石になります。石は生れない子供たちでできていました。
オペラでは帝が第 3 幕で石になる経過は台本にはありません。
(〈影のない女(68)小説からオペラを読む[中]
小説には暗い昼間というオペラの設定はありません。この設定は第5場と
してオペラをまとめるために必要だったようです。
小説第6章は第5章の余韻で、
「子供を生まない、離婚したい」という告
白で女房が受けた激しい打撃の始末です。初めて母親が登場し、女房は彼
女が自分をバラクの嫁にしたことをののしり、彼女の墓の上を通り越して、
墓と墓の間を通り過ぎ、一基の小さな墓石の前で、両手を上げ、膝から崩
れ落ちた。深い祈りに沈んだかにみえた。
」これが女房の過去との決別で
した。橋を渡って家に向かいます。