パリにおける邦人への支援

精 神 経 誌(2013)
SS144
第 108 回日本精神神経学会学術総会
シ ン ポ ジ ウ ム
パリにおける邦人への支援
―病的旅を中心として―
太 田 博 昭
(パリ邦人医療相談室)
病的旅は渡航直前ですでに精神変調をきたしており,フランスに到着して間もなくトラブル化す
る.多くは幻覚妄想状態にあり,渡航の動機が唐突・突飛で,現地で入院治療を受ける.これを病的
渡航のⅠ型とすれば,遅延型とも言うべきⅡ型が認められる.その特徴は,渡航前の精神変調はなく,
渡航目的は一見すると了解可能だが曖昧・不明瞭で,渡航後に本来の目的から逸脱し,1 年以内にト
ラブル化する.この 26 年間に関与した日本人・日系人の成人 2 , 281 件のうち病的渡航は 301 件で,約
13%を占める.Ⅰ型が男 53 件,女 110 件で計 163 件に対し,Ⅱ型は男 28 件,女 110 件で計 138 件で
ある.総計 2 , 281 件(男 556 件,女 1 , 725 件)は,その他(214 件)と詳細不明(6 件)を除いて,以下
の 6 群に分類できる.企業出向者とその家族(343 件),官公庁出向者や国際機関職員とその家族(65
件),自由業者とその家族(141 件),国際カップルとその家族(513 件),留学・研修生とその家族
(564 件),観光旅行者とその家族(165 件).ところが,どこにも分類できない分類不能群(270 件,
男 65 件,女 205 件),つまり渡航目的のよくわからない一群が存在する.この群の約 60%(162 件)
が病的渡航者であり,分類不能群と病的渡航との密接な関係が推測できる.分類不能群ではフラン
ス・パリに対して幻想的で非現実的な憧れを抱く人々が多く,彼らは適応障害に陥って幻覚妄想状態
やうつ状態,不安発作などの精神不調をきたしても帰国しようとしない.バブル経済末期の 1991 年,
筆者はこの一群が呈するメンタルトラブルを「パリ症候群」と名付け,入院治療も含めてその特徴を
指摘した.バブル経済期のパリ症候群と現在の長期経済低迷期におけるパリ症候群とでは本質的な差
はないが,滞在基盤における社会・経済面の脆弱性がメンタルトラブルの主要因の 1 つであるから,
事態はより深刻化していると言える.
<索引用語:病的渡航,Ⅱ型,遅延型,分類不能群,パリ症候群>
はじめに
名付け,渡航前には特に精神変調が認められず,
病的旅は海外へ向かう場合は病的渡航とも呼ば
渡航目的は一見して唐突・突飛とは言えないが,
れる.当地で筆者の扱う事例は空港,ホテル,レ
渡航後に本来の目的から大幅に逸脱してトラブル
ストラン,通行人などから警察に通報され,パリ
化するものを病的旅のⅡ型と名付ける2,5).した
警視庁の精神科施設を経て精神病院に強制入院と
がって,Ⅱ型は「遅発性の病的旅」とも言え,病
なってから発覚する場合と,官憲の介入なしに精
前性格,生活環境,経済状態,挫折体験などの要
神科救急外来を経て精神病院に強制入院となって
因により,幻覚妄想系,抑うつ系,不安発作系な
から発覚する場合が普通である.そもそも病的旅
どのトラブルに発展していくが,主に幻覚妄想系
とは,
「渡航前から幻覚妄想状態にあり,唐突・突
に分類されるものを病的旅のⅡ型と呼ぶ.
飛な動機で渡航して間もなくトラブル化するも
フランス・パリへ渡航する渡航者や滞在者を分
の」と定義されている .これを病的旅のⅠ型と
類すると(表 1)
,観光旅行者,企業や国際機関へ
1)
シ ンポ ジウ ム :文化を跨ぐ精神医学―多文化共生社会における精神医学の視点
表 1 日本人・日系人の成人(18 歳以上)
2 , 281 件の内訳
身上
SS145
と来仏したものの,適応できずにメンタルトラブ
ルに陥る人々がいる.ところが,彼らの多くは適
全体
男
女
企業出向者とその家族
343
132
211
官公庁出向者とその家族
い」になっても日本へ帰ろうとしない,あるいは
42
17
25
国際機関職員とその家族
日本へ帰っても居場所がない.筆者はこのような
23
10
13
自由業者とその家族
現象を「パリ症候群」と名付け,悪性カルチャー
141
42
99
国際カップルとその家族
ショック2)に由来する適応障害と見なした.バブ
513
48
465
留学・研修生とその家族
ル期と経済低迷期のパリ症候群には本質的な差異
564
120
444
観光旅行者
はないが,前者に比べて後者の滞在基盤の脆弱さ
165
63
102
分類不能
は極めて深刻である.
270
65
205
その他
214
59
155
Ⅰ.フランス・パリ地区の特徴
6
0
6
バブル期の年間約 100 万人には及ばないが,当
不明
応に失敗して「フランス大好き,フランス人大嫌
地に渡航する邦人は現在でも 70∼80 万人に達す
の出向者,留学・研修者,自由業者,国際結婚や
る.3 ヶ月以上の長期滞在者は約 3 万人と推定さ
国際カップル等々,またはそれらの家族などに分
れているが,日本大使館へ在留届けを提出した約
類されるが,その他の項目には,シルバーライフ
1 万 5 千人とほぼ同数の未届け者が存在する.い
をフランスで送っている人,在仏の家族を訪問に
ずれにしても,当地区の邦人滞在者数はニュー
来た人,日系企業の現地採用者,現地企業の社員
ヨーク(7∼8 万人)
,上海(5∼6 万人)
,ロンドン
などや彼らの家族などがおり,計 214 件(男 59
(4∼5 万人)などと比べれば,世界の邦人集中地
件,女 155 件)を数える.これらの人々は渡航目
区の中では最上位グループではない.それにもか
的が明白であるが,語学留学してもほとんど授業
かわらずメンタルトラブルの発生数が常にトップ
に出ていない人,ちょっと住んでみたいと来仏し
クラスなのはなぜか?
て特に何もしていない人,滞在許可を得る目的の
その理由の第一として,当地区では経済基盤や
ためにフランス語学校に登録している人など,滞
滞在身分の不安定な滞在者の割合が多いことが挙
在目的の明確でない人々も多く,どこにも分類で
げられる.つまり,滞在者全体に占める官公庁や
きないので「分類不能群」と呼んでいる.
企業からの出向者やその家族の割合は 3 割に過ぎ
この分類不能群が筆者の関与するメンタルトラ
ず,それ以外の滞在者が 7 割を占める.また,当
ブル全体の約 1 割を占めており,病的旅のⅡ型の
地区は地理的には欧州大陸の十字路に位置し,
温床になっている.これはメンタルトラブルの予
シェンゲン協定によりどの国からも自由に移入で
備軍とも言え,1980∼1990 年代のバブル期には土
きる.この点,英国は入国審査が厳しく,入国手
地成金や株成金が日本でトラブルを抱えた問題児
続きの際に英語で入国理由や滞在日数など質問さ
を「フランス留学」という美名のもとに大量に送
れることが多いので,妄想を抱えた病的渡航者は
り込んだ歴史がある.が,昨今の長引く経済低迷
「不審者」としてこの時点で発覚し,入国拒否され
期でも,このような問題児をはじめ,受験や就職
る.したがって,最終渡航目的地が英国でもフラ
活動からドロップアウトした人々が「日本は嫌い
ンスでトラブル化することになる.その上,パリ
だ」と言って来仏する例が少なくない.滞在費は
には大きな邦人コミュニティが形成されているの
「ちょっとバイトして…」と安易に考えるが,もと
で,日常生活のほとんどが日本語だけでも可能
もと滞在基盤が不安定なので,たちまち困窮す
だ.このためパリは,欧州各地で精神的な苦境に
る.その中には「フランス大好き,日本大嫌い」
陥った邦人にとって,匿名で潜むには絶好の「隠
精 神 経 誌(2013)
SS146
れ家」を提供することになる.
倍と,圧倒的に女性が多い.観光旅行者
(165 件,
7 . 2%)では女性が男性の 1 . 6 倍に過ぎず,男女差
Ⅱ.1985 年~2011 年,26 年間の臨床統計
が大幅に縮まる.注目すべきは分類不能群(270
1985 年以来,この 26 年間に筆者が関与したト
件,11 . 8%)で,全体の約 1 割にも達する.この
ラブルの総件数は 2 , 510 件である.国・地域別で
群は渡航目的が曖昧もしくは自称留学生,自称芸
は 9 割強(2 , 297 件)がフランスで発生し,パリ
術家,自称フリーライターなど,実際には何を目
首都圏が約 84%(2 , 102 件)を占める.しかしな
的に滞在しているかよくわからない人々である.
がら,213 件(8 . 5%)はフランス国外で発生した
男女比は 3 . 2 で女性が男性の 3 倍を上回る.
事例で,フランスの地方都市で発生した件数 195
以上から,筆者の扱うケースは滞在基盤の安定
件を上回っていることを特記せねばならない.そ
した人々が全体の 2 割にも満たないことがわか
の内訳はドイツ 61 件をはじめ,ベルギー 44 件,
る.観光旅行者が 1 割以下であるから,
「安定群」
オランダ 19 件,英国 13 件,ルクセンブルク 9 件,
以外のトラブルが 7 割を超える.分類不能群が滞
イタリア 9 件,スペイン 5 件,スイス 4 件,モナ
在基盤の脆弱な人々であることは一目瞭然だが,
コ 4 件と西欧諸国が続くが,3 件以下はさらに広
バブル期に比べ親からの仕送りが大幅に減少した
範囲にわたる.つまり,東欧・ロシア,中近東,
留学・研修生の経済基盤はますます脆弱化してい
北アフリカのイスラム諸国,南アフリカ共和国を
る.国際カップルも相手が無職あるいは失業中と
含むブラック・アフリカにおけるトラブルもパリ
いうケースがかなりあるので,必ずしも経済基盤
で取り扱うので,筆者の活動地域は西半球全域と
が安定しているとは言えない.事実,筆者の扱う
言ってよい3).
事例の半分以上が経済・社会基盤の脆弱な人々で
ところで,総件数 2 , 510 件には日本人や日系人
占められる.これらの人々の中には治療費を払え
以外の「外国人」42 件を含むため,本稿ではそれ
ないケースが数多く,当地で邦人のメンタルトラ
を除く 2 , 468 件(男 668,女 1 , 800,女/男=2 . 7)
ブル対策を維持運営するには必要十分な補助金の
が統計の対象になる.その内訳は 18 歳以上の日本
ための国家予算化が必要であるが,現状はそれに
人・日系人の成人が 2 , 281 件(男 556,女 1 , 725,
は程遠いと言わねばならない.
女/男=3 . 1)
,日本人・日系人の小児 187 件(男
112,女 75,男/女=1 . 5)である.成人では女性
Ⅲ.病的渡航
が男性の約 3 倍であるが,小児では男女比が逆転
従来,
「病的旅」「病的旅行」という用語が使わ
して,男児が女児の 1 . 5 倍になることが注目され
れてきたが,短期・長期の滞在者をもカバーする
る .
ため,本稿では「病的渡航」に統一したい.前記
日本人・日系人の成人 2 , 281 件の滞在形態は表
の通り,当地で長年フィールドワークをしている
1 の通りであるが,企業出向者,官公庁出向者,
うちに,病的渡航には 2 種類あるのではないか,
国際機関職員とそれらの家族は合計 408 件で,全
と考えるようになった2).その定義は以下の通り
体の 18%弱に過ぎない.これは「滞在基盤の安定
である.
したグループではメンタルトラブルが相対的に少
①古典的な病的渡航(Ⅰ型)
4)
ない」ことの証左になる.この点,トラブルの最
渡航直前,患者はすでに病的状態を呈してお
多は留学・研修生とその家族(564 件,約 24 . 7%)
り,渡航動機や渡航目的が奇異・唐突である.
で,国際カップルとその家族(513 件,22 . 5%)が
渡航そのものが幻覚妄想に影響されている場合
ほぼ同数で並ぶ.国際カップルとは婚姻の有無を
が多い.渡航後間もなく空港やホテルなどでト
問わず,共同生活をしているカップルを指す.日
ラブル化し,周囲の苦情や通報により警察病院
仏カップルが大半を占めるが,女性が男性の約 10
や救急外来に搬送される.
シ ンポ ジウ ム :文化を跨ぐ精神医学―多文化共生社会における精神医学の視点
表 2 病的渡航Ⅰ型 163 件への対応形態
対応形態
SS147
表 3 病的渡航Ⅱ型 138 件への対応形態
総数
男
女
入院先へ往診
73
30
43
大使館や領事館に電話で助言
42
12
CPOA(救急外来)で往診治療
10
業者に電話で助言
8
ホテルへ往診
総数
男
女
外来治療
55
8
47
30
入院先へ往診
38
8
30
5
5
大使館に電話で助言
17
6
11
0
8
家族,知人,友人や学校に助言
10
3
7
6
2
4
本人を電話でカウンセリング
6
0
6
親や知人に電話で助言
6
1
5
大使館へ往診
5
2
3
外来治療
6
1
5
入院先に電話で助言
3
0
3
大使館へ往診
5
1
4
業者に電話で助言
1
0
1
入院先に電話で助言
5
1
4
CPOA(救急外来)にて往診治療
1
0
1
知人宅へ往診
2
0
2
ホテルへ往診
1
1
0
職場へ往診
1
0
1
②遅発性の病的渡航(Ⅱ型)
対応形態
る.まずⅠ型については,この 26 年間に取り扱っ
渡航の動機や目的が曖昧で,いずれトラブル
た日本人・日系人の成人 2 , 281 件のうち 163 件
が発生しても不思議ではないケース.多くは渡
(7 . 1%)であり,男 53 件,女 110 件と,女性が男
航後 1 年以内に周囲を巻き込みながら幻覚妄想
性の約 2 倍である.他方,Ⅱ型は 138 件(男 28
状態,感情障害,不安障害などのメンタルトラ
件,女 110 件)
で,女性が男性の約 4 倍にもなる.
ブルを呈するのが普通.強制入院の対象となる
Ⅰ型とⅡ型を合わせると 301 件になり,全体に占
幻覚妄想状態が中核である.
める病的渡航の割合は約 13%と,1 割を超える.
Ⅰ型では,「亡命したい」
「秘密警察に追われて
ニューヨークやロンドンなど,他の邦人集中地区
いる」
「私はフランス貴族の末裔で,その由来を調
の臨床統計が得られないため比較検討できない
べに来た」「大統領に会いに来た」等々,被害・迫
が,当地区で取り扱うメンタルトラブルの 10 件に
害妄想,誇大妄想,血統妄想,来歴否認妄想など
1 件が病的渡航という数字は,注目すべき論点の
妄想は多岐に渡るが,出国時,黙秘していれば周
1 つであると思う.
囲にはわからない.フランスはほとんどフリーパ
次に,病的渡航Ⅰ型への対応形態をまとめると
スなので容易に入国して来るが,英国では入国審
表 2 のようになる.入院例が 78 件で約半数を占め
査時の簡単な英会話で病気が発覚することが多
るが,全例が強制入院であることは論を待たな
い.Ⅱ型の多くはフランス・パリに憧れて来仏す
い.男 31 件,女 47 件,女/男=1 . 5 であり,男女
るが,
「ちょっと住んでみたい」
「自分探しに来た」
差がかなり接近してくる.これは,離日前にすで
「フランス人と結婚したい」等々,動機や目的が極
に幻覚妄想状態を呈していた人が入院へ至る重篤
めて曖昧で,非現実的である.このため早晩,何
なケースでは男性事例が急増することを意味す
らかの形でトラブル化する.滞在許可証を持たな
る.表中の「業者」とは旅行業者,留学斡旋業者,
い不法滞在者も多いが,滞在許可を得るために学
保険会社,航空会社などを指す.CPOA はサンタ
生身分になっている場合も多く,授業にはほとん
ンヌ病院構内に設置された公営の精神科救急外来
ど出ていない.ワーキングホリデイで来て,特に
センターで,パリの 20 行政区を統括している.
何もしていないでブラブラしている人もいる.
Ⅱ型 138 件については表 3 に示す通り,入院は
病的渡航の発生割合の統計結果は次の通りであ
27 . 5%で 3 割近いが,普通の外来や電話カウンセ
精 神 経 誌(2013)
SS148
表 4 病的渡航Ⅱ型 138 件の脆弱度
表 5 病的渡航Ⅱ型 138 件の脆弱度
治療歴
全体
男
女
トラブル歴
全体
男
女
通院
入院
なし
不明
37
32
56
13
6
7
10
5
31
25
46
8
重度
中程度
軽度
なし
不明
59
45
15
8
11
10
7
3
4
4
49
38
12
4
7
リングによる対応が主力になる.注目すべきは男
達することである.彼らは単なる観光旅行者でな
女差である.Ⅱ型の入院例 41 件(男 8 件,女 33
いことは明瞭だが,バブル期では「ちょっと住ん
件)の男女比が女/男=4 . 1 と,女性が 4 倍を超
でみたい」というアンノン族や自分探しの「モラ
え,Ⅰ型の男女比 1 . 5 との差が顕著になる.これ
トリアム人間」が盛んに話題になった.彼らの大
らの結果から,曖昧な渡航動機や目的で来仏し
半は親からの仕送りで滞在していたが,昨今の長
て,入院を含む重篤なメンタルトラブルに陥るの
引く不況下でも皆無になったわけではなく,形を
は圧倒的に女性に多いことがわかる.
変えて存続している.
次に,Ⅱ型 138 件の脆弱度について検討してみ
本音に強い結婚願望を持つグループは国際結婚
よう.指標は離日前の日本での治療歴とトラブル
に夢を託し,
「フランス人と結婚したい」と公言す
歴である(表 4,5)
.通院 37 件,入院 32 件と,
る女性も少なくない.ネットの出会い系サイトな
治療歴のある人が 69 件で半数を占める.トラブル
どで知り合う機会が豊富になった昨今,このグ
歴については,重度が 59 件と 43%にもなり,何
ループは増大の一途をたどっている.他方,キャ
らかのトラブル歴を有するケースが 86%を超え
リア重視派の女性は「お茶くみ OL」や「男社会
る.Ⅱ型の脆弱度は治療歴ばかりでなく,異文化
の職場」を辞職し,自己の付加価値を高めようと
適応に不可欠なフランス語能力,危険の察知能
留学して来るが,その成否はあくまでも目的意識
力,問題解決能力などの基礎力がほとんど身に着
の度合い,現実認識の程度や基礎力のレベル,人
いていないことにも由来する.その上,異文化に
格の成熟度やバランス感覚次第である.分類不能
接触した際のカルチャーショックが問題になる
群は留学・研修と称してはいても,それは滞在許
が, こ の 場 合 の シ ョ ッ ク は 明 ら か に 悪 性 カ ル
可証を取得するための方便に過ぎず,実は「日本
チャーショック である.カルチャーショックに
に居たくないから」とか「日本が嫌いだから」と
は諸々の要因が挙げられているが,その本質は一
いう人々が多い.
言すればコミュニケーション・ギャップであると
自称芸術家や自称フリーライター,自称研究者
言ってよい.この点,Ⅱ型の病的渡航に至る人た
はバブル期には数多くいたが,不況下の現在も激
ちは,日本にいてもコミュニケーションの苦手な
減したとは言えず,分類不能群に含まれる.ワー
人々であり,社会生活でもマージナルなケースが
キングホリデイには功罪がある.この制度のおか
大半である.
げで,確かに若い人々の海外体験が容易になった
2)
のだが,本来「ワーキング」は現地企業に就業し
Ⅳ.分類不能群
て現地の文化や習慣を体験するのが制度の目的で
冒頭でも述べた通り,フランス・パリ地区で扱
あった.しかしながら,コトバが現地企業に採用
うメンタルトラブルの特徴はどの滞在カテゴリー
されるレベルに達している人は例外中の例外で,
にも分類できない人々が多く,日本人・日系人の
ほとんどが日系企業で就業している.しかも,大
成人 2 , 281 件の 1 割以上,270 件(約 12%)にも
卒でも店員や配膳係など,
「低賃金ポスト」を埋め
シ ンポ ジウ ム :文化を跨ぐ精神医学―多文化共生社会における精神医学の視点
表 6 分類不能群 270 件
SS149
表 7 分類不能群 270 件
入院か否か
全体
男
女
病的渡航
全体
男
女
入院
非入院
94
176
26
39
68
137
Ⅰ型
Ⅱ型
病的渡航以外の病態
不明
88
74
98
10
25
16
22
2
63
58
76
8
が低ければ早晩,不適応に陥ることは明白であ
る.したがって,パリ症候群は適応障害の側面を
分類不能群
色濃く有しており,適応障害の症状群として,幻
覚妄想系,うつ系,不安障害系の 3 つに分けられ
る.そして,適応障害の精神病理的な背景はカル
チャーショックであり,しかも極めて病理的な悪
フランス・パリ
への強い憧れ
適応障害
性カルチャーショック2)である.とすると,パリ
症候群は限りなく病的渡航のⅡ型に近づいてい
く.つまり,病的渡航Ⅱ型の中で「フランス・パ
リへの憧れ」が際立っていて,不適応に陥った後
図 パリ症候群の位置
は「フランスは大好きだが,フランス人は大嫌い」
と言いながらも,日本へは帰ろうとしないケース
る格好の人材にされているのが実情である.この
をパリ症候群と呼ぶ.パリ症候群とは日本人の海
ため,苦学生たちの滞在資金源だったこれらの働
外不適応の 1 つの定型であり,憧れの対象「パリ」
き口が,ワーキングホリデイの若者たちに奪われ
がニューヨークやロンドンに置き換わっても,そ
るようになった.
の本質は変わらない.単なる私見に過ぎないが,
彼ら分類不能群の陥るメンタルトラブルは多岐
パリ症候群の原型は最澄や空海の遣唐使時代にま
に渡るが,入院か非入院かで分けると(表 6)
,入
で遡ると思う.憧れの対象は当時の「花の都」
,長
院例が 94 件と 35%にも上る.男女差については,
安である.
女性が男性の 2 . 6 倍で,その差が若干少なくなる.
分類不能群 270 件のうち 162 件(60%)が病的渡
航であり,その 33%がⅠ型で占められる.また,
分類不能群全体の 76%(205 件)が女性で,男性
の 3 . 1 倍であり,日本人・日系人の成人の一般傾
向と一致する.
おわりに――パリ症候群との関係(図)
このように見てくると,パリ症候群は,
「フラン
文 献
1)C a r o l i , F . , M a s s é , G :
. La notion de voyage
pathologique. Ann Méd Psychol, 139;828 831, 1981
2)太田博昭:パリ症候群.トラベルジャーナル,東
京,1991
3)太田博昭:海外渡航者のメンタルヘルスとその対
策―フランス・パリ地区における 11 年間の臨床統計.精神
経誌,98;657 666,1996
4)太田博昭:邦人出向者と家族のメンタルヘルス:
ス・パリへの憧れ」が大前提であるが,その上,
特集・海外赴任者と家族のメンタルヘルス.月刊グローバ
渡航動機が曖昧で滞在理由の大部分が単なる憧れ
ル経営,11(343)
;14 17,2010
に由来するケースは分類不能群に所属する.しか
も,現実のパリは「憧れのパリ」とは大きなギャッ
プがあり,フランス語が覚束なく,問題解決能力
5)Ribeyre, Ph.:Voyage pathologique des Japonais
à Paris. Thèse pour le diplôme d’état de docteur en
médecine. Université René Descartes, Paris 1991
精 神 経 誌(2013)
SS150
Mental Care in Paris for Japanese, focusing on a Pathological Voyage
Hiroaki OTA
(
)
A pathological voyage is defined as psychiatric problems occurring soon after arrival in
France. At the moment of their departure from Japan, patients are already mentally perturbed. The reasons for the trip or its purpose are strange and are not understandable
because of their delusions, often associated with auditory hallucinations. The author names this
traditional and classic profile“Type Ⅰ”
, to be distinguished from another type,“Type Ⅱ”
. The
latter is considered as a
, in which patients show no particular clinical signs when
they leave Japan. Likewise, the reasons for undertaking the trip are unclear, rather ambiguous,
and unreasonable, although they seem understandable at first sight, and patients show clinical
symptoms within a year after their arrival. They often call themselves‘students’in order to
extend their stay in France. Among 2 , 281 Japanese adults treated in Paris by the author since
1985, Type Ⅰ amounts to 163 cases(53 males, 110 females)and Type Ⅱ totals 138 cases(28
males, 110 females)
. The total number of pathological voyage cases(301)amounts to 13% of
all adult patients.
Further analysis shows that except for the two additional categories(214 others and 6
without sufficient data)
, the 2 , 281 people(556 males, 1 , 725 females)can be classified into 6
groups:businessmen and their families(343 cases), public servants and their families(65
cases)
, liberal professionals and their families(141 cases), international couples and their families(513 cases), students or researchers and their families(564 cases), and sightseeing tourists
and their families(165 cases)
. However, there is another large group(270 cases, 65 males, 205
females), impossible to categorize like the 6 groups above, because of the vague reason for
and/or purpose of their trip to France. They certainly belong to a“non classifiable group”and
seem to overlap with the cases of the Type Ⅱ Pathological Voyage. Certainly, among the 270
“non classifiable”patients, 162 cases(60%)must be considered as Pathological Voyage.
When their justifications to remain in France are based on illusory longings for France
and Paris,
“Paris Syndrome”
, named by the author in 1991, should be considered. The gap
between an illusory Paris and a real Paris can produce a pathological cultural shock for some
naïve and dreamy Japanese. The clinical profile of this phenomenon is an
,
presenting a delusional, depressive, and/or anxious state. Their illusions lead to psychiatric
problems and many of them have been treated in psychiatric hospitals. The actual“Paris Syndrome”is not essentially different from that of the period of the Japanese bubble economy in
the 1990 s. However, the risk of losing one s mental balance is greater than before, because the
continuing economic stagnation in Japan does not provide them with financial stability.
シ ンポ ジウ ム :文化を跨ぐ精神医学―多文化共生社会における精神医学の視点
SS151
<Author s abstract>
<Key words:pathological voyage, Type Ⅱ, delayed Type, non classifiable group,
Paris Syndrome>