憎しみの連鎖 - 金沢美術工芸大学

人体と風景を主題とした画面構成とその表現 三浦 賢治
[制作記録]
人体と風景を主題とした画面構成とその表現
三 浦 賢 治
制作の主題となる裸婦表現と合わせて、画面を構
は必要なことなのだと思った。
成する要素として風景を用いている。風景取材に
2年にわたる本研究の中で、制作の方向性は混
際しては、北海道の北端に近いサロベツ原生花園一
迷した。実際の取材や人体のデッサンを表現に展
帯にその地を定めることにした。日本の起伏に富ん
開することに躊躇し、見えるものを自然に、無作為
だ四季折々の景色は美しい。しかし私はそういった
に描こうともしたが、それはかえって作為的な結果
美しさとは別の、広漠とした風景を求めた。きっか
になった。研究着手 2 年目を迎え、改めて制作の方
けは平成 18 年秋のベルギー・オランダ研修に遡る。
向性を練り直した。制作にあたり、「見ないで描く」
その年度の研修先として、平成 6 年秋冬のベルギー・
ことを作画する上での約束事として自身に課し、試
ゲント王立美術アカデミー研修で訪れたベルギー・
みることにした。この場合の「見ないで描く」とは、
フランドル地方を選んだ。その折に各地を見て回り
自然の写生や人体の観察描写を制作の拠り所とせ
ながら、その風土に何かしら親しみを感じ、また機
ず、記憶による形体の表出とイメージの展開によっ
会があればと思っていたからである。フランドル地
て画面構成と表現を行うという、実際の制作手法を
方の風土が自分にとって自然に感じる理由を考えた
意味する。自分にとっての絵画表現上の興味は、矩
とき、眼前に広がる光景が、自分が生まれ育った地
形の中で息づく作者の手の跡と時間の集積によって
の風景に重なっていることに気付かされた。都市間
現出する非現実的な空間、つまり虚実を織り交ぜた
の移動の車中から目に映る風景は、牧歌的な佇いが
画面としての「絵そらごと」をいかにして構築する
所々北海道のそれに似ている。降り立ったときの、
かということにある。その作業に至る切り口はいく
乾いて澄んだ空気のにおいも。
つもあると思う。しかし現状において、その道筋は、
風景取材を通して、自分は何を探そうとしたのか
デッサンの徹底によって掘り起こされる、説得力の
改めて考える。得たものは、スケッチや写真ではな
ある形体を獲得することによって見出されるのでは
く、目に映ったすべてのものと、晩夏にたなびく草
ないか、という素朴で基本的な考えに止まっている。
原をわたる風の音、
そしてそのにおいの記憶である。
今回数点の作品の画面に配したアラベスク風の床
本研究は、ベルギー・オランダの風景で呼び起こさ
面はこれも「フランドルの記憶」の一部分である
れた原初的な感覚を北海道取材で再確認し、基本的
が、ある種完成された記号としての強さを主張して
な研究テーマである人体表現に重ねて反映させるこ
いる。それに負けない強さを人体表現において実現
とを目的としている。原風景と人体という素材から、
したいと考えている。
共通したイメージとして喚起される自然界の生命力
研究の成果発表の場として、個展(光画廊 2008
を抽出して、ひとつの絵画表現に昇華させたいと考
年 6 月 30 日∼ 7 月 5 日、櫟画廊 2009 年 3 月 30 日∼ 4
えた。絵画表現を通して“自分が在る”ということ
月 4 日)において作品展示を行った。
について考えてきた自分にとって、原点回帰的な発
付記 本研究は平成 19 年度、平成 20 年度発展研究 「油彩画技
想は極めて一般的ながら自然なことであり、自分ら
法における裸婦(人体)を主題とした画面構成とその表現(そ
しい表現をするためには、そういった手法を制作に
の 2 )」の成果報告である。
取り入れることが正直な絵を描く上で、その時点で
̶2̶
(みうら・けんじ 油画)
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2 010
風景取材写真
作品
「過日」
「過日」
「過日」
「裸婦のいる情景」
キャンバス・油彩
キャンバス・油彩
キャンバス・油彩
キャンバス・油彩
130.3×97cm 2008年
178×110cm 2008年
22.3×15.7cm 2008年
116.7×91cm 2009年
「情景」
「内在する情景」
「情景」
キャンバス・油彩
キャンバス・油彩
キャンバス・油彩
162×130.3cm 2009年
97×130.3cm 2009年
194×162cm 2009年
̶3̶
憎しみの連鎖 後藤 徹
[制作記録]
憎しみの連鎖
後 藤 徹
夫婦ユニットで作った絵本「くるりんぱ」をきっ
自分にとって、この言葉顔が重くのしかかってきた。
かけに、
(社)日本ユネスコ協会連盟(以下日ユ協)
今となっては世界一危険で、戦争の泥沼から全く
*
とご縁ができ、世界寺子屋運動 を通して社会貢献
抜け出せない状態になってしまったアフガニスタ
活動に参加してから早いもので 10 年が過ぎようと
ンではあるが、2004 年頃は、平和が戻りつつあり、
している。活動を通してカンボジア、ベトナム、イ
実際にアフガニスタンで寺子屋を作り子供たちに教
ンド、アフガニスタンなどのアジアの辺境の地で戦
鞭を取っている日ユ協の方から、
「後藤さん、 子
争のための貧困、差別のための迫害を受け、必要な
供たちが“くるりんぱ”を楽しみにしています。
教育を受けられない子供たちと実際にワークショッ
平和になりつつあるアフガニスタンにぜひ来てく
プなどを通して関わることによって、今まであるの
ださい。」というお誘いを受けた。嬉しかった。実
があたり前と思っていた、
[平和]
[教育]
[安全]
際にアフガニスタンに行きたかったし、イスラム文
がこんなにも人が生きていく上で、いかに大切なこ
化圏の子供たちを、肌で感じてみたかったからであ
とかということを知らされた 10 年と言えるかもし
る。しかし旅の準備を始めてから間もなくして、悪
れない。
いニュースが届いた。9・11 以降、イスラム過激派
日ユ協の方たちがよく口にする 「 憎しみの連鎖を
のタリバーンやアルカーイダグループがアフガニス
断ち切る」というキーワードがある。強くて重い
タンに次々拠点を移したことから、急激に政局は悪
言葉だ。実際に、平和な社会で暮らしている我々日
化し始め、日本人の入国は特別な関係者以外禁止、
本人にとって、人を「憎む」という事はよっぽど
滞在の日本人も邦人の誘拐事件なども起こり、やむ
の事でないと出てこない感情である。しかし、ベト
なく出国しなければならない最悪の状態に、あっと
ナム戦争で両親を亡くしたベトナムの子供たちの話
いう間になってしまったのである。どうしてこうい
を聞いたり、カンボジアでは、ポルポト派クメール・
う事になってしまったのだろう?今まで培ってきた
ルージュの体制下で、愛する家族全員を目の前で殺
事は一体何だったのだろう?これからこの国の子供
された老人の話を実際に聞くと、「 憎しみ」は消
たちはどうなってしまうのだろう?と、そのやるせ
す事のできない「悲しみ」と同じ感情であり、も
ない気持ちが、帰国後の日ユ協の方と話をして、ひ
し自分自身の家族にも同じ悲惨な事が起こり、愛す
しひし感じられた。もちろん、自分も何もできない。
る者を殺されたら、自分も相手を憎み、仕返しをし
何もわからない。何もしてあげれない。今までこの
てやると自然に思うに違いない。復讐心が生まれ、
国は、アメリカやソ連の大国のイデオロギーと権力
殺され⇨殺し⇨殺され⇨殺すという“憎しみの連
抗争の犠牲になり、さんざん痛めつけられた悲劇の
鎖”は、世代を超え、あるいは時代を越えて、そ
歴史を持ち、やがてその構図が崩れ、復興という兆
の感情は受け継がれていく。そこを断ち切らない限
しが見えたのもつかの間、偏狭なイスラム教原理を
り、戦争は決して無くならないという根源的な意味
第一に考えるその同胞の侵入により、その芽も摘ま
のキーワードである。
れてしまったのである。そして残念ながら、どの国
2004 年頃の事である。こんな事があり、さらに
でも、戦争の犠牲になるのは必ず、子供たちだ。彼
̶4̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2 010
らは命を奪われ、両親を奪われ、
「憎しみ」 は純
真な心に培養され、やがてたちの悪い大人たちに利
用される。ある者は偏った心を持つ戦士に仕立てら
れ、ある者は自らの命と引き換えに爆弾という存在
にされる。
「憎しみ」という感情から、トカゲに似た大きな
しっぽを持った邪悪なモンスターのイメージが広
がった。彼は危険が迫ると、自分のしっぽを自ら切
り、邪悪な心を捨て、おとなしくなる。しかし、切っ
たしっぽはやがて生え戻り、失ったかに見えた「憎
しみ」はそのしっぽから体中の血管を通り、増殖
し、さらに巨大化した邪悪なモンスターに復活して
いく。
そのイメージを描いてみよう。先輩たちが、祖国
の戦争を嘆き、
「ゲルニカ」 を描き、戦争や、宗
教の無い国を想像して「イマジン」を創ったよう
サッカーボールだけが、アフガニスタンに行けない私たちの思いを込め
て彼らの手元に届いた。その喜んでいるようすの写真を見た時、思わず
涙がこぼれてしまった。聞くところによると、地域によっては、タリバー
ンなどのイスラム過激派から、テロ戦士として教育される標的にされる
子供たちもいるという悲しい話を聞いた。写真は、ユネスコ世界遺産の
バーミヤーンの遺跡にて。
(写真:日本ユネスコ協会連盟)
に、純粋に、この行き場の無い気持ちをぶっつけた
絵を描いてみようとその時思った。
遥か遠くにいる、
逢いたくても逢えない子供たちの気持ちを思って。
The chain of hatred /憎しみの連鎖
The chain of hatred /憎しみの連鎖
*ユネスコ世界寺子屋運動:世界には、働かなければならなかったり学校が近くになかったりして、学校に行けない子どもが、7,500 万人もいます。
そして学校に行けずに大人になり、文字の読み書きができない人が 7 億 7,600 万人もいます。このような子どもたち
や大人が「学びの場 = 寺子屋」で読み書きや算数を学べるように、教育の機会を提供する運動です。
( ごとう・てつ 視覚デザイン )
̶5̶
杢目金について 原 智
[制作記録]
杢目金について
原 智
金属工芸の中でもその有機的かつ神秘的な美し
の魅力を発揮することができる。
さで人々を魅了し続ける技法に杢目金がある。江
複数枚積層した地金を、お互いに接合するには大
戸時代初期に秋田県の刀装具職人であった正阿弥
別して二通りの方法が挙げられる。一つは融点の異
伝兵衛(しょうあみでんべい)により考案されたと
なる金属を互い違いに重ねあわせ、融点の低い金属
伝えられている。近年では日本のみならず海外でも
を溶かし接合する方法、いわゆるリキッド接合と、
「MOKUMEGANE」として呼称される金属技法であ
金属素材を溶かさずに接合界面に現れる金属拡散現
る。国内外での研究は様々な角度から行われ、素材
象を利用して接合するソリッド接合となる。自身の
並びに技術に於いて現在も進化を続けている。
制作では後者のソリッド接合を中心に研究を行っ
杢目金技法について端的に述べると、「異なる金
ている。その利点は金属の積層する組み合わせの自
属板を複数枚積層接合し、彫金技法による彫り加工
由度が高いことと、四分一などの極端に融点の差が
と鍛金技法である鍛造加工を交互に繰り返し自然木
大きい金属も取り入れることが可能であることとい
の木目に似た文様を金属で表現すること」である。
える。拡散接合に関する実験では拡散接合理論の権
地金として用いるのは、銅、赤銅、黒味銅、真鍮な
威である大橋修氏より理論指導を受けそれに準じて
ど銅合金や、970 銀、四分一など銀合金を中心に使
行った。
杢目金は地金として非常に魅力的である。組み合
用する。これらの金属は着色技法を施す事により、
無機質な金属に美的な光沢と色味を与えることにな
わせる色金や文様の出し方によって未知数の可能性
る。元来日本の金属工芸は色金の文化ともいえる。
を持つ素材でもある。ただ重要なことはこの素材を
高温多湿のこの国の気候は、金属に対して酸化・硫
使って作り手が何を表現するのか、どのように時代
化を起こしやすい状況にある。その金属にとって望
性をもった作品として昇華させるかであろう。その
ましくない状況を積極的に取り入れ、着色技法とし
ことは今後も持続する課題である。
て確立し美的要素を抽出したのが日本の金属文化と
以下の写真は拡散接合の工程と文様制作工程を掲
いえよう。杢目金技法はこの着色技法により最大限
載した物である。 (はら・さとし 工芸/金工)
地金準備
地金研磨
地金積層
拘束冶具固定
加熱
接合状態確認
鍛造加工
文様切削
彫・鍛繰り返し
杢目金地金完成
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金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
鍛金杢目金香炉「亀」
杢目金花器「浮」
杢目金香炉「翡翠」
杢目金香炉「波紋」
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杢目金花器
緋の表象 ― 土の相と質 ― 山本 健史
[制作記録]
緋の表象 ― 土の相と質 ―
山 本 健 史
金沢に赴任したのは 2007 年4月のことである。
それまで陶磁器で作ったパーツを箱の中に入れた作
個展 ̶土の相と質̶
<ギャラリー点/金沢 2008 年 6 月>
品を主に作っていたが、それは土を焼成する際に起
こる様々な現象を箱の中で構成することにより生ま
この展覧会では大地をテーマとし、前室には以前
れる視覚的な面白さを狙った作品であった。金沢に
に行ったテストからイメージした比較的大きな作品
移り住み、この地独特の素材に対する精神性に触発
を中心に展示した。後室では少し雰囲気の違う作品
され、箱の中で成立させていたそれまでの2次元的
を壁に展示した。後室の作品は前室の作品を作る際、
な世界を飛び出し、立体感や素材感をじかに感じら
石膏型の中に土を入れ乾燥を待つ間に土の重さに耐
れるような新たな取り組みを始める事とした。
えかねた型が割れてしまった事に由来している。土
はじめに頭の中に浮かぶかたちをスケッチし、そ
が入ったまま割れてしまった石膏型を数日後に片付
の中からいくつかを選び出し原型を作り、石膏型を
けた際に割れた表情を残したまま変形した土を見つ
使って原型通りの形を得る制作を行っていた。使用
けた。割れた石膏型は原型をとどめていないが粉々
する土は以前から使っていたもので、色も白・黒・
というわけでもない。型のカーブを残しながらもそ
赤など様々であった。
の土くれは割れた境界だけが鋭いエッジを突き出
作品の多くは自然界にある様々な形をモチーフに
し、あるいは深い溝を刻んでいた。私の頭の中で作
したものが多く、それらの形態を優先させていたた
り出されるイメージよりも、この偶然の出来事の方
め表面は滑らかに削り、目立った表情はなかった。
が作りたかったイメージに近いという皮肉な結果が
いくつかの作品を制作するうちに、かたちを土に置
生まれたのである。それは作品という結果を導き出
き換えるだけではなく、素材感あるいは表面のあり
すために淡々と作業過程を積み上げて形を仕上げ、
方を選択し強調する事により、土を素材としている
はじめに考えたものが無事に出来上がるという事よ
意味を与え、考えがより深まっていくきっかけにな
りも、制作過程で素材が示す様々な事象と私との接
るのではないかと考え、様々なテストを始めた。以
点を見つめることの大切さを改めて気づかせてくれ
前から有機物と土との混合による様々なマチエール
るきっかけになったのである。
の面白さには気がついていた事もあり、土の中に金
以降、具体的な意味をあまり感じない単純な形(球
属や植物を混ぜ焼成し、それらが見せる表面の状態
体・円柱・角柱)
を基本とした石膏型をいくつか作り、
を観察する事を繰り返した。その中でも特に赤土と
型を複数板の上に並べ、型の上に土をこめ、さらに
植物繊維の組み合わせにより生まれる様々な表情に
その土同士を壁で繋いでいくという方法で造形する
興味を覚えた。赤土と植物繊維が焼成をとおして示
事を続けた。割れた型同士の境となる部分のエッジ
す色や質感に、高度に洗練された陶磁器にはない人
のせめぎ合いと、異なる面を繋ぎ合わせる曲面によ
が土と接する事の原点に戻るようなイメージを抱く
る対比と調和を生み出すためである。
ようになった。
異なる型同士は一体ではないために、その上に
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金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2 010
土を乗せただけでは、ばらばらのパーツが複数でき
個展 ̶連理の壷̶ るだけの結果に終わる。あるいは一体化されていた
<品ギャラリー/京都 2009 年 2 月>
としても非常に脆弱な板に近いものになるはずであ
る。それを強固な立体造形物として成立させるため
この展覧会でのテーマは、前回の個展から生まれ
に、型にこめられた土の縁を自由なカーブを用いた
た作品の発展である複数の型とそれらを連携させる
土の壁で継ぐことにした。(説明図版を参照)
曲面による土の色と質とを、空間の中でいかに活か
この方法では石膏型が安定した状態で土をこめ、
すかということであった。
それぞれを繋ぎ、土が乾燥し自重に耐える固さにな
品ギャラリーは繊維問屋の蔵を改装してできてお
るまで待つ必要があるため、作品の天地を上下逆さ
り、内部は昔からの土壁や柱を活かした独特の空間
まで作る。通常造形物を作る際には自分のイメージ
を持っている。この場に私の作品を設置した時、古
を確認するために、可能な限り完成形に近い状態で
い日本の建築物に使われている素材やそれらが持つ
作業を行う事が多いと思われるが、この制作行程で
形と、私が行っている作品制作の間に何か関連があ
はそれができない。石膏型を並べた段階である程度
るのではないかと感じた。それは柔らかい表情を持
のかたちは想像できるのだが実体のない空間に思い
つ土壁と柱や長押が作り出す強い対比を感じさせる
を馳せるしかない。不自由とも思えるこの方法は、
空間において、作品の色や表情を含めて、十分とは
実はこの作品にとって重要な要素であると考えてい
いえないまでも土の持つプリミティブな力を感じた
る。頭の中やスケッチブックの上で計画された形で
からである。
はなく、並べた複数の石膏型同士の間にできる負の
土壁と柱などの対比のあり方は簡潔な十文字や格
空間の中に直感的なイメージを見つけ出す事は、そ
子を連想させ、色彩的にも非常に強い。この空間に
れまでの私の制作態度とは全く異なる方法論だから
緋色の、土や繊維の質感を残した作品が置かれ、そ
である。
れらは底面をのぞいて平らな面がほとんどない複雑
な曲面で成り立っているものである。蔵が作り出す
空間と作品とが、自然素材と人為による触覚的調和
感覚と、色彩や形態における造形的相反要素のせめ
ぎあいによって、場が何かを語り始めようとしてい
るのを感じたのかもしれない。
そしていま、私が作品にこめたかった想いをもう
一度振り返るべきであろうと思う。今後、土に対し
て日本人が抱く精神性を振り返り、感じとり、その
意識の始原を表現していきたいと考えている。
(やまもと・たけし 工芸/陶造形)
<説明図版>
この作品では石膏型に押しあてた部分をグレイに、その土同士をつなぐ
壁を赤に分かりやすいように色付けした。土をこめる時には天地逆さま
で作るため形をイメージしにくいが、そのイメージを見つけ出すことが
造形に結び付く。
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緋の表象 ― 土の相と質 ― 山本 健史
ギャラリー点 前室
ギャラリー点 後室
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金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2 010
品ギャラリー
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スペイン・バレンシアにおける研究活動 [Digital Media 1.0]展 遠藤 研二
[制作記録]
スペイン・バレンシアにおける研究活動
[Digital Media 1.0 ] 展
遠 藤 研 二
2008 年 4 月にスペイン・バレンシアにて行われ、
自身が研究活動として参加した [ Digital Media 1.0 ]
が重要ですが、その点かなり満足のいくホテルだと
思います。
私は一足先の 2 月に、作品が保存されているアイ
展について報告します。
この展覧会は 2006 年に本学共同研究で実施した
ルランド・コーク市の National Sculpture Factory
《
「SHAIHENS」- 海外でのグループ展での試み》と
へ赴き、自身の作品を梱包しバレンシアへ輸送する
関連して、スペイン側から参加依頼が来たことに起
準備をしました。一度日本へ帰国して大学入試業務
因します。全世界より約 30 カ国 120 人が参加し、80
を終え、再び欧州へ渡るという過密スケジュールで
人ほどが展覧会場を訪れ、搬入作業をするという非
したが、1 年を通して温暖なバレンシアでの搬入作
常に大規模な展覧会でした。過去私自身、このよう
業はことのほか快適で、順調にセッティングを進め
な大規模展覧会に参加したことはありません。日本
ることができました。今回カルデロン氏は私に場所
からは私のほか、本学油画科教員の鈴木浩之氏およ
を指定してきました。もちろん私の作品を観た上で
び神戸芸術工科大学の林勇気氏の 3 名が参加しまし
考えてのことです。私自身こういった国宝クラスの
た。この企画はバレンシアのギャラリー La Sala
歴史的建造物での作品展示は初めてですから、そう
Naranja のオーナーであるトニーカルデロン氏によ
いった意味では施工に非常に気を遣いました。
るもので、運営スタッフの人数も 15 人ほどおりま
会場にいた多くの仲間たちの協力の下、作品搬入
した。会場はバレンシアが誇る歴史的建造物で 1500
を終えることができ、無事オープニングを迎えるこ
年代から同地に存在する、パティオという中庭を
とができました。オープニングイベントは非常に多
もった典型的スペイン様式の建物です。すでに自重
くの人々が来場し、数多くのイベントが用意され、
で少し傾いているのですが手入れの行き届いた素晴
大盛況のうちに終了しました。
らしい建築で、現在は名門国立バレンシア大学の施
搬出作業は彼らスペイン人達がやってくれたそう
設の一部となっています。写真でおわかりかと思い
で、私の作品は現在でもバレンシア郊外の小さな街
ますが、建物内部の面積はかなり広くて部屋数も多
の倉庫に静かに眠っているそうです。(所在は定か
く、カトリック教会も併設されており、現在はバレ
ではありませんが・・・)
ンシア大学図書館として使用されています。場所は
大規模国際展覧会という重要な経験を積むことが
市の中心部で非常にアクセスが良い場所であり、多
できたことは自分の研究活動にとって非常にプラス
くの市民が訪れる場所でもあります。
になったと思います。今後も精進していきたいと思
私と鈴木先生は市内のホテルに長期滞在しまし
います。
た。ホテル代金は後にバレンシア大学が支払ってく
れましたが、このホテル何とシャワーとトイレがつ
いて一泊 15 ユーロ( 2千円弱 )という、欧州先進国
(えんどう・けんじ 共通造形センター/
では考えられない破格の値段でした。市場にも近く、
ミクストメディア)
非常に清潔で快適な宿でした。滞在制作は宿泊施設
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金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
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金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
Maestro di prospettiva の表象と素材について
― イタリア・ルネサンスのタルシア(木象嵌)の研究方法にふれて ―
上 田 恒 夫
はじめに−用語について
次に maestro di prospettiva( magister perspectivae)
とは、「透視画(ないし透視遠近法)のマエストロ」
まず用語の説明をします。第一に、表象とは英語
の意味であり、最初、ジュリアーノ・ダ・マイアー
の representation に対応するものとし、発表では、
ノやアントニオ・マネッティら、フィレンツェのタ
透視遠近法 prospettiva による描写の表象と、木象
ルシア作家らに与えられた名称でしたが、北イタリ
嵌の素材である木そのものの表象との2つをわけて
アのカノツィ・ダ・レンディナーラ兄弟らも、広く
考えをすすめることにしますので、あらかじめご了
マエストロ・ディ・プロスペッティーヴァと呼ばれ
解ください。
るようになりました。また「プロスペッティーヴァ」
次に、ルネサンス期のタルシアは、木を素材とし
の一語だけで、木の透視画である「タルシア」を
た象嵌であり(技法について図1 ‒ 1、1 ‒ 2参照)
、
指す場合も見受けられます。このように、「マエス
我が国では「寄せ木画」とも訳されています。技
トロ・ディ・プロスペッティーヴァ」が、マザッ
法的には、支持板(サポート板)の上に所定の形に
チョやウッチェッロ、ピエロ・デラ・フランチェス
切り分けた木片(ピース)をジグソーパズルのよう
カといった透視遠近法をよくした画家に対してでは
に寄せる技法と、ショルダーナイフで地板に穴をあ
なく、木工芸作家に対する呼び名であるという点に
けてそこにピースを象嵌する技法とが併用されるの
おいて特別の意味があります。
で、
「寄せ木画」も「木象嵌」もどちらも十分な訳
すなわち、建築家ないし木工芸家であったマエス
語とは言えませんが、ここでは、マエストロ・ディ・
トロたちが、教会の家具調度やストゥディオーロな
プロスペッティーヴァのひとりであるシエナのアン
どのインテリアに木の透視画を導入したこと、そし
トニオ・バリーリが、自刻像のなかの銘文で「絵筆
て時に絵画ではできないほどの迫真の表現を実現し
でなくショルダーナイフで製作した」と記し(図2)
、
たことに対する人々の驚きの気持ちがこの呼び名に
ナイフのみによる製作を誇りとしたことを受け止め
表されていると思います。事実、アンドレ・シャス
て木象嵌と呼ぶことにします。
テルが指摘するように、木工芸・絵画・透視遠近法
なお、画面で、バリーリが握っている長い棒のよ
うに見えるのが先端に刃先を埋め込んだショルダー
などが交差する地点にマエストロ・ディ・プロスペッ
ティーヴァの新しい領域が確立しました。
かつて実用家具調度の加飾オーナメントの技で
ナイフであり、肩の力を利用して木を彫り、象嵌し
あったタルシアが木工芸のジャンルにとどまりなが
ていきます。
イタリアでは木象嵌を意味する言葉として、「タ
ら、同時に絵画のようにもっぱら見られる対象とな
ルシア」と並んで「インタルシオ」
「インタルシア」
、
りました。マイナー・アートでもない、メジャー・アー
なども使われますが少なくとも 14 世紀以来今日ま
トでもない、独自の領域であり、近代的芸術観では
で広くタルシアと呼ばれてきました。これは、石や
捉えきれない問題が、タルシアにはあります。そし
金属の象嵌には使われず、差別化にも便利なので、
てここから、本題に入ります。
今後、
「タルシア」と呼ぶべきであると思います。
̶ 15 ̶
[ キーワード ] 木象嵌 タルシア マエストロ・ディ・プロスペッティーヴァ 表象と素材
Maestro di prospettivaの表象と素材について ― イタリア・ルネサンスのタルシア
(木象嵌)
の研究方法にふれて ― 上田 恒夫
かと思わせるリアリティを感じさせます。図8 ‒ 1
① マエストロ・ディ・プロスペッティーヴァ
と8 ‒ 2のダ・レンディナーラ兄弟の作品にもそれ
タルシアはイスラム圏に由来すると言われます
が感じられます。
が、イタリアにおいて 本来加飾の技であったタル
しかし、絵画のリアリティとタルシアのリアリ
シアに、人間像があらわれます。図3 ‒ 1と3 ‒ 2
ティは別ものです。素材感があるのに、見る人は
は、14 世紀、オルヴィエト大聖堂の書見台です。こ
これが木で出来ていることを忘れてしまうことがよ
こではまだ透視遠近法は見られず、聖人像とオーナ
くあります。図9でフラ・ジョヴァンニ・ダ・ヴェ
メントとが同居しています。なお聖人の顔面や着衣
ローナの作品を見ていただきます。
あたりまえのことですが、タルシアを見る場合、
に、木片(ピース)の剥離が見えます。
透視遠近法がタルシアに導入されたのは、15 世
このことを意識的化しておかなければなりません。
紀前半のフィレンツェにおいてでした。図4は、サ
タルシアは狡猾です。見る人は、つい素材表象をお
ンタ・マリア・デル・フィオーレの聖具室 sacrestia
ろそかにして、タルシアの虚構空間に遊んでしまい
delle messe のタルシア壁面です。
ます。それは心地よい体験ではありますが、そこに
図5はその一部のアントニオ・マネッティの作品
とどまっていてはタルシアと絵画との根本的な違い
です。この聖具室は、透視遠近法の発明者ブルネレ
が意識されず、その結果、タルシアは絵画モドキと
スキによる大聖堂が完成して間もなく、タルシアで
見て、タルシアは絵画より劣るとする古いタルシア
装飾され、タルシアの新しい領域を示してくれまし
観から抜けることができません。
た。ここにおいてタルシアは、ミサ用の聖具を収め
る収納棚であるアルマディオ、つまりインテリア家
③ 第3の表象
具調度の一部に表現のフィールドを得て、あたかも
絵画を彷彿とさせる透視画をつくっています。
このような旧弊を改めるためには、タルシアを見
図6は同じ聖具室の正面壁のジュリアーノ・ダ・
る私たちは2つの表象を同時に見ていることを率直
マイアーノの作品です。半開きの扉越しに聖書が置
に認めねばなりません。すなわち、ひとつは透視遠
かれ、手を伸ばせば棚の中に入っていけそうな気配
近法による世界表象であり、もうひとつは、近寄っ
です。しかし近寄って見れば、木素材のマチエール
て手で触れるようにして見るときに確かな手ごたえ
は見えています。タルシアは自然素材と人の技との
を感じる木素材の一種抽象的な表象です。そしてこ
交点にあり、このような虚構の表象を安易に「トロ
の2つを区別するのは、タルシア作家をも含めてタ
ンプルイユ」
と呼ぶわけにはいきません。なぜなら、
ルシアを見る側の目です。私たちはこの2つの表象
虚構空間のなかのモノたちは木でつくられているこ
をしっかり区別してタルシアを見たい。しかし2つ
とを否定していないからです。 この事実は今日と
を同時にタルシアに見ているのですから、私たちが
ても重要な意味をもっているように思います。
見るのはそれらのどちらでもない、2つの表象の総
合としての第3の表象を見ているというべきでしょ
う。
② タルシアのリアリティー
これを逆に言えば、タルシアを見るのには、距離
図7 ‒ 1、7 ‒ 2、7 ‒ 3はボローニャのアゴス
ティーノ・デ・マルキの作品です。絵の具と違って
をおいて全体を見、近寄って素材をも見るという遠
近両様の見方が必要だということです。
扱いにくい木素材がタルシア画面上で触覚的な感覚
を呼び起こすほどに抵抗感を保持しているのにもか
かわらず、表現されたモノたちは時に形而上学絵画
̶ 16 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
④ タルシアの人間表現
書記者マルコ像においては、目鼻立ちをあらわす
ピースは骨相に従ってしかるべく小さく、頬や顎や
さてこれから、こうした観点を念頭に置いて、多
髭の木片(ピース)は大きくなっています。 顔を
くの作品の中からフィレンツェのジュリアーノ・ダ・
一度、個々の面として分析してから、顔全体の構成
マイアーノと、北イタリアのカノツィ・ダ・レンディ
に向かいます。ピースごとの樹種と木理の違いはあ
ナーラ兄弟の人間表現を比較して、上に指摘したタ
きらかです。
ルシアの2重構造を再確認したいと思います。
器物・
また、図 14 の大グレゴリウス像では、ハイライ
静物を表現したタルシアよりも人間像表現では作家
トから暗部までの明度差は少なく、柔和な明暗調は
の個性が出やすく、問題点がはっきりと意識化され
避けられています。個別のピースの素材感と確かな
ます。
フォルムに訴えているからでしょうか、この聖人像
まず図 10 ‒ 1と 10 ‒ 2は、ウルビーノのフェデ
には、ジュリアーノ・ダ・マイアーノの女性像とは
リーコ・ダ・モンテフェルトロのストゥディオーロ
違って、黒いアウトラインがありません。それは作
から「愛徳」の擬人像です。ボッティチェリの原画
者には必要なかった、と言うべきでしょうか。「タ
にもとづくジュリアーノ・ダ・マイアーノの作とさ
ルシアは絵画ではない」「タルシアには絵画と別様
れますが、原画デッサンの拘束力をこのタルシアは
にリアルな表現が可能だ」と言わんばかりの強烈な
感じさせません。この女性像は光の調子によるモデ
意識がここに感じられます。
実際、ダ・レンディナーラ兄弟は、人間をまるで
リングを徹底させ、顔面の骨相のフォルムですら、
ハイライトから中間調までのグラデーションに従
木であるかのように解釈しています。しかも、ピエ
わされています。事実、目鼻立ちをあらわす個々の
ロ・デラ・フランチェスカに学んだ透視遠近法の導
ピースの形は必ずしも骨相のフォルムに従っていま
入があり、さらに、背景の黒い埋没ナラ材が、距離
せん。
感をつくって奥行き空間を限定しています。そして
次に、図 11 の同じストゥディオーロの「望徳」
私は、カノツィ・ダ・レンディナーラ兄弟の作品に、
の擬人像は、彫像のようにニッチに収まり、ここで
表象と素材のはざまに生きたタルシア作家の最もオ
は背後の空間の厚みすら表象されています。ただし、
リジナルな表現を見たいと思います。
以上で、表象と素材の関係をめぐるタルシアの二
女性像の顔にも着衣にも、カーボンペーストによる
黒いアウトラインがほどこされている点は見逃せま
重構造について再確認しました。
せん。これが絵画ではなくタルシアであることを再
認識させるアウトラインです。
⑤タルシア研究史
これとは対照的に、図 12 のウルビーノの作品と
ほぼ同時期のダ・レンディナーラ兄弟のモデナ大聖
1 ヴァザーリ
堂の聖人像では、ジュリアーノとは正反対の人間解
ところが従来のタルシア研究では、以上に見てき
釈が見られます。
この聖ヒエロニムス像においては、
たようなタルシア独自の構造を率直に認めるまでに
口ひげはまるでカールした薄板のように見え、直ち
長い道のりをたどってきました。次にそれを手短に
に口ひげであると言い切るのがためらわれます。顎
振り返り、問題点を整理して、タルシアへのアプロー
ひげには柾目の松の材の平行する年輪があらわに見
チを確認したいと思います。まず、ショルジョ・ヴァ
えています。透視遠近法の虚構空間のなかにある頭
ザーリから始めます。ヴァザーリが『芸術家列伝』
光ですら、「それは木でできているのだ」と言いた
の中でタルシアについて述べている箇所から、発表
げです。
のテーマに即して3点に要約します。
次に、図 13 の同じくレンディナーラ兄弟の福音
̶ 17 ̶
第1点。ジュリアーノの兄弟ベネデット・ダ・マ
Maestro di prospettivaの表象と素材について ― イタリア・ルネサンスのタルシア
(木象嵌)
の研究方法にふれて ― 上田 恒夫
イアーノの時代、つまり 15 世紀中ごろ前後のフィ
いるようです。その限りでは、ヴァザーリの証言に
レンツェのタルシアは白と黒の色だけで制作され、
歴史的リアリティがあり、一概にヴァザーリの判断
陰影は火でピースの片側を焦がして陰影を出すのに
は否定できません。
その一例として、ザンベッリの弟子のジョヴァン・
とどまっていた。
第2点。しかしフラ・ジョヴァンニ・ダ・ヴェロー
フランチェスコ・カポフェッリの場合を示します。
ナやフラ・ダミアーノ・ザンベッリら、15 世紀後
図 18 は、ベルガモにある「兄弟に売られたヨセフ」
半から 15 世紀前半の作家らは染料やケミカルな材
の象徴的場面です。顔、着衣ともに焦がしで陰影を
料をも用いて、彼らが望んだ色合いを出せるように
つけています。
さらにカポフェッリは、図 19 の「天地創造の神」
なった。
第3点。こうして明暗と立体的表現が得られ、透
において原画を提供した画家ロレンツォ・ロットの
視画的な作品が多数作られたが、ついぞタルシアは
指示を受けとめ、驚くべき明暗のグラデーションを
絵画の模倣の域を出ないままに、時とともに放棄さ
表現しています。これ以上の表現は不可能と言わん
れてしまった。
ばかりで、タルシアの歴史が頂点に達した感じがし
ます。もう少し細かく見てみます。
さて、以上のヴァザーリの認識に対応する作品を
図 20 の部分図は、現場での設置状況を上下反対
次にお示しします。 図 15 ‒ 1と 15 ‒ 2は、ヴァザー
にして、かつてそうであったと思われる状態にして
リも名を挙げているフラ・ジョヴァンニ・ダ・ヴェ
見ていただいています。印象的な神の黒目は、ピー
ローナの作品から、ヴェローナのサンタ・マリア・
スの中ほどに焦がしをほどこして表現されていま
イン・オルガノ教会にある「レオナルドの多面体」
す。このような特殊な焦がしの技法は 16 世紀のカ
の部分です。多面体の部分をよく見たいところです
ポフェッリならではの表現です。
が、今は、上のブドウの葉を見ていただきます。緑
しかしこのような表現は例外的であり、ヴァザー
青で染めています。それ以前は、菌の作用により緑
リはタルシアの「表象と素材のはざま」を積極的に
化した材を採取して使用していました。16 世紀に
見ようとしなかったことは、事実として指摘してお
なると、確かに染色の材の多用がめだちます。ヴァ
かねばなりません。そしてヴァザーリがタルシアは
ザーリのいうとおりです。
絵画よりも劣るとした判断は後々まで長く尾を引
次に図 16 は、同じくヴァザーリの引用するフラ・
ダミアーノ・ザンベッリによるボローニャのサン・
き、同時にタルシア自体も高級家具の装飾へと転身
して行きました。
ドメニコ教会の作品です。旧約聖書のユーディット
そこでここでは、ルネサンスのタルシアが再評価
の主題を叙事詩的にこまやかに描写しています。そ
されはじめた 20 世紀へと飛び、特に発表のテーマ
のために、焦がしの技法を随所に使用しています。
に照らして検討すべき研究をいくつか挙げたいと思
図 17 も、同じザンベッリのタルシアから、
「作り
います。
物 macchina」です。焦がしを効果的に使っていま
すが、ここではケミカルな焦がしも入っているので
2 ロベルト・ロンギ
まず、20世紀のイタリア美術史学の泰斗ロベルト・
はないかと推測します。ともかく、本学の画学生の
ロンギは 1934 年の有名な論文 Officina ferrarese
目をもあざむくような立体感を出しています。
さて、
ヴァザーリは以上のように染色・着色といっ
(Longhi, 1968, pp. 21‒ 23)においてタルシアについ
た素材の二次加工を応用したタルシア史後半の大作
て触れ、ダ・レンディナーラ兄弟の作品に形而上学
家らを尊重しています。そこには、明暗と優美のグ
絵画的な詩法を認めましたが、ロンギの主な関心は、
ラデーションを尊ぶヴァザーリの美意識が反映して
ダ・レンディナーラ兄弟に原画を提供したと想像さ
̶ 18 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
れるピエロ・デラ・フランチェスカの存在だったよ
世界を一望のもとに俯瞰できるようになりました。
うです。ロンギは、表象と素材の関係というタルシ
フェレッティは、流派、素材・技法、タルシアの現
アに内在する固有の構造については触れず、
「タル
場の問題など、テマティックな問題の所在も示して、
シア作家は画家のデッサンを器用に木に翻案できる
今日のタルシア研究のありかたを示してくれまし
職人だった」とする認識にとどまりました。
た。
3 フランチェスコ・アルカンジェリ
6 アントワン・ウィルメリング
これに続いてフランチェスコ・アルカンジェリは
最後に、1999 年刊行の『グッビオ・ストゥディオー
1942 年の Tarsie と題する著書において、タルシア
ロとその保存』の著者であるアントワン・ウィルメ
は絵画と異なる固有のジャンルであることを公然と
リングは、自身がメトロポリタン美術館のコンサバ
認めました。ただし、タルシア作家の作品に原画を
ターをつとめ、グッビオ・ストゥディオーロの修復
提供したあれこれの画家を識別しようとする試みに
プロジェクトをリードしました。修復家でありまた
重点が置かれた点において、アルカンジェリとロン
美術史家でもあるウィルメリングの大著は、タルシ
ギは同断であり、作品記述は図像モチーフにほぼ限
ア技法と素材の最新かつ最高の文献のひとつに数え
定され、木素材に対してはほとんど目が向けられて
られます。
いません。
こうして、表象と素材のはざまに世界像を表現し
たマエストロ・ディ・プロスペッティーヴァの仕事
4 アルフレード・プエラーリ
表現表象と素材表象の問題をはじめて正面から
に対する評価が固まり・公認された感があり、ピエ
取り上げたのは 1967 年のアルフレード・プエラー
ル・ルイジ・バガティンのいくつかの近著にそれが
リの論文 Le Tarsie del Platina でした。クレモナ
確認できます。
のタルシア作家ジョヴァンニ・マリーア・プラー
ティナを取り上げながら、プエラーリはクレモナの
⑥ マッテーオ・コラツィオのタルシア批評
ヴァイオリン制作者をインフォーマントとし、タル
シアの樹種と技法をタルシア作品に即して検討しま
「表象と素材のはざま」を問うタルシア研究の今
した。プエラーリは素材に関する貴重な古文献の翻
日の到達点を以上のように要約した上で、次に時間
刻もおこなっています。そしてプエラーリ自身は新
をさかのぼって、15 世紀パドヴァの修辞学者マッ
カント派の美学と現象学的ともいえる目をもって、
テーオ・コラツィオのタルシア批評について述べま
タルシアの構造を内面から解明しました。プエラー
す(翻訳は末尾のマッテーオ・コラツィオ「サンタ
リはまた、画家の提供する原画であれ、タルシア作
ントニオ教会のコーロの透視画讃」参照)。
家自身のものであれ、原画とその翻案としてのタル
シアが全然別のものであることも力説しました。
コラツィオは 1486 年に「サンタントニオ教会コー
ロの透視画讃」と題した書簡体の批評文を出版しま
プエラーリとほぼ同時期の、アンドレ・シャステ
ルについては先に触れたので省略します。
した。その中でコラツィオは、同時代人にして同じ
パドヴァで活動したカノツィ・ダ・レンディナーラ
兄弟らの作品を一人称で、リアルな筆致で批評して
5 マッシモ・フェッレッテイ
います。
それ以後の特筆すべき研究として、1982 年のマッ
ここで、その批評の対象となった作品を見ていた
シモ・フェレッティの長大な論文 I Mestri della
だきます。図 21 ‒ 1と 21 ‒ 2はパドヴァのサンタ
Prospettiva があり、これによって広大なタルシア
ントニオ教会コーロの、ロレンツォ・ディ・カノ
̶ 19 ̶
Maestro di prospettivaの表象と素材について ― イタリア・ルネサンスのタルシア
(木象嵌)
の研究方法にふれて ― 上田 恒夫
ツィ・ダ・レンディナーラの作品ですが、残念なが
⑦ タルシアへのアプローチ
ら 18 世紀の火災で大半が消失し、今ではこの2面
しか残っていません。
そこからスタートするということは、タルシア
ともかく、ヴァザーリ以前のコラツィオは、この
の現場での体験からスタートするということでもあ
2面を含むサンタントニオ教会のタルシアを自らの
り、そこに歴史的・時系列からだけではとらえ切れ
目で見、近づいて手で触れ、しりぞいてまわりを
ないテーマが豊かにあると感じています。そのなか
巡り、タルシアが見られる時や見る人の視点の移動
から一例だけを取り上げて、しめくくりにしたいと
によって木素材の色や見えが変化する事実を認め、
思います。
事実そのように書きとどめています。
図 22 は、ウルビーノのストゥディオーロの東側
この作品の前で私たちは今でもコラツィオと同じ
の一角です。ここでは、現実の三次元空間にある現
感覚を覚えます。コラツィオは透視遠近法による表
実の物入れの扉と、虚構のつまりタルシア表現とし
象と素材の表象との違いを認めたばかりでなく、
ての「扉」とがぴったりと重なっています。現実の
表象と素材の統一・総合を、つまり先に私が指摘し
扉として、確かに金属のちょうつがいが見えていま
た「第3の表象」と言いかえてもよいと思いますが、
す。大きい方の映像の、画面左手前です。それとは
この両表象の総合をダ・レンディナーラ兄弟のタル
裏腹に、斜めの格子とそれを通して見えている内部
シアに認めています。さらにコラツィオは、ダ・レ
のモノたちはタルシアの虚構空間です。ともに木を
ンディナーラ兄弟がタルシアによって新しい世界認
素材とした虚構と現実がここではぴったり重なって
識を示したことを認めています。
います。
ここに、論題 res と言葉 verba の統一を願った
現実の木の扉をタルシアとして木であらわすとい
キケロの修辞学(レトリカ)のベースを認めること
うのはどういうことでしょうか。ここで私たちは、
は容易です。しかしコラツィオがダ・レンディナー
現実のインテリア空間と平面上の虚構空間とを二
ラ兄弟のタルシアと、修辞学とを無理に結びつけた
重に体験しているということになります。そしてこ
とは言えません。むしろ、由緒正しい修辞学の根底
こで思い出したいのは、マエストロ・ディ・プロス
をなす認識論的ならびに表現論的側面とタルシア作
ペッティーヴァの多くが建築家ないし大工だったと
品の2重構造とがコラツィオの感性のなかで重なっ
いうことです。彼らの仕事は平面上の虚構空間にか
たと見るのが適切だと思います。ここには、修辞学
かわっただけではありませんでした。彼らは建築の
と作品批評の関係という刺激的なテーマがあります
インテリア空間、つまり三次元空間にもかかわりま
が、これについては 21 ページの資料にゆだねます。
した。
ともかくコラツィオは、表象と素材の関係を解
ルネサンスのタルシアの表象世界は、その現場に
明したプエラーリら 20 世紀後半の研究者らのアプ
おいて現実空間と呼応する工夫を内在させた表現世
ローチをはるか昔に先取りしていたことが確認され
界であり、決して現実から遊離した虚構空間であり
ます。これを言い換えれば、タルシア批評史の最初
ませんでしたが、加えて、工芸としての、家具調度
に立つコラツィオと、今日の私たちとが同じ地点に
としての、そしてまたインテリア空間としての領分
立った。つまり歴史が一巡りして、透視遠近法によ
を離れなかったことが、よくわかります。今後のタ
る表象と木素材の表象とのはざまを見ることから、
ルシア研究ではこのようなインテリア空間を見すえ
タルシアへのアプローチがはじまるということが確
たアプローチが必ず求められることと思います。
認できると思います。
̶ 20 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
マッテーオ・コラツィオ
「サンタントニオ教会のコーロの透視画讃」
学者・雄弁家らにまさる兄弟の仕事を礼讃する言葉]
。
Matteo Colacio, Laus perspectivae cori aede
美質を認めました。その優劣は決めがたく、いずれ
Sancti Antonii, 1486 抄訳(
[ ]と下線 は筆者)
も優れた美質です−いずれがより賞賛されるか、私
さて、私はあなた方のあの作品に驚くべき2つの
に分かりかねます−。すなわち、[第一に]あなた
[パドヴァ大学長アントニオ宛の序文でパドヴァの
方が適切さ、形、姿形、寸法、自然を、あなた方が
街を讃えたのに続いて]サンタントニオ教会の名声
まさしく描写するように表現するだけでなく、[第
に引かれて、私は急いで教会に行きました。教会に
二に]これらのもののすべてを、まさしくあなた
入って、私はどんなささいなものもよく見ようとし
方が表現するようにみごとに描写していること4で
ました。[中略]とうとう私は修道士たちの椅子つ
す。ですからあなた方は自然の驚くべき理解者であ
まりコーロに着きました。あなた方[ダ・レンディ
り、自然を描写するのみならず、自然を表現するの
1
ナーラ兄弟]の有名な作品です 。ここではじめて
です。あの作品は、あなた方の作品ではなく、自然
私は立ち止まり、驚いて目を見開きました。
[中略]
の作品のように見えます[中略]
。絵の具で描きに
すべてのものが実物のように見え、とても作り物の
くいものを、あなた方は木で描写しました。あなた
ようには見えませんでした。近寄ってくまなく手で
方の才能が発揮されるのはそこであり、自然の認識
触れて見ました。そして後ろに引いてまわりを見回
がそこに示されており、そのことがあなた方を高め
2
し 、すこしづつていねいにすべてのものを子細に
ています[以下略]。
見ました。
まず手始めに、私が普段身近にしている書物を見
注
ました。ここでは書物は実物より実物らしく見えま
1
した。積み重ねた書物は、普段、たまたまあるいは
乱雑に置いてあるのと同じで、等しい高さに積んで
2
はありません。そしてある書物は閉じてあり、ある
書物は装丁したばかりなので閉じてありません。こ
3
のように、全体が多様性のなかであなた方の才能を
非常に輝かせています[以下、蝋燭・果物籠・鳥籠・
建物・聖人像等の表現についての賛嘆の言葉]
。[謙
4
譲の聖母の場面の]緋色の縁取りの全体に黒々とし
た小さい縁取りが加えられ、襞や裾が不ぞろいに垂
れ下がり、見るたびに色や見かけが変わること3を
賞賛しすぎることはないでしょう。
しかしなぜ、私は言葉を費やして時を無駄にしてい
るのでしょうか。事実私はあなた方の傑作にふさわ
しい言葉を見つけられません。あなた方の技は私た
ち[の言葉]にまさります。あなた方は自然を模倣す
るとき、私たちが言葉で表現するよりもはるかによ
く自然を模倣します。実際あなた方は、最上の雄弁が
言葉で表現するよりもはるかに容易に作品で表現で
きます[以下、古代ギリシャ・ローマの芸術家と哲
コーロは 18 世紀の火災でほぼ消滅し、現在、「マニョー
リア回廊から見たサンタントニオ教会」ほか計2面のみ
が同教会のサンタ・ローザ・ダ・リマ礼拝堂に残る。
タルシアを遠近両様に見ている。接近して木の素材表象
を触覚的に確かめ、離れて透視遠近法による表現表象を
認めている。注4も参照。
事実、タルシアのピースに使われる樹種・部位・木繊維・
切断面・含有樹脂等と、タルシアを照らす光の状況とが
複雑にからみあい、見る時と目のずらしに応じて、ピー
スの色が変わり、テクスチャーが動く。
ここでコラツィオは、
「描写する intelligo」(透視遠近法
による対象世界の描写=認識論的側面)と「表現する
fingo」
(
「描写」に対する「表現」=デザインの側面につ
いていう。したがってトロンプルイユの意味にはとらな
い)の2語を区別しつつ、両者の統一をダ・レンディナー
ラ兄弟のタルシアに見る(この統一は本発表でいうタル
シアの「第3の表象」に相当)
。この2語の関係は、キ
ケロにおいては対象認識と表現の関係であり、そこから
対象テーマ res とそれを表現する言葉 verba の関係へ、
さらに哲学と修辞学の関係へ、して両者の統一へとスパ
イラルに上昇する(岩波書店版『キケロー選集第七巻』
の「雄弁家について」参照)
。キケロ主義者コラツィオ
は創作論としての古代修辞学以来のこの問題をダ・レン
ディナーラ兄弟のタルシアに見た。
*この翻訳は、Savettieri, 1998 の羅伊対照テクストにもとづ
き、抜粋翻訳したものです(全文は村井・上田、2008 に掲載)
。
試訳の段階であり、誤訳・誤読の指摘をお待ちします。
̶ 21 ̶
Maestro di prospettivaの表象と素材について ― イタリア・ルネサンスのタルシア
(木象嵌)
の研究方法にふれて ― 上田 恒夫
参考文献抄録
LWDOLDQD3DUWHWHU]D6LWXD]LRQL0RPHQWL,QGDJLQL, Vol. IV
*本稿で言及したタルシアの表象と素材にかかる文献、タル
Forme e Modelli, Torino, 1982, pp. 457 - 585.
シア研究上画期をなした研究を中心に選定した。
Matteo Colacio, Laus perspectivae cori in Aede Sancti Antonii,
Margraret Haines, La Sacrestia delle Messe del Duomo di
Firenze, Firenze, 1983.
Colacii De verbo, civilitate et de genere artis rhetoricae in magnos
Francesca Cortesi Bosco, ,O&RURLQWDUVLDWRGL/RWWRH&DSRIHUUL
rhetores Victorinum et Quintilianum, Venezia, 1486.→ Savettieri,
per la Santa Maria Maggiore in Bergamo, Bergamo, 1987.
1998 参照。
Pier Luigi Bagatin, L’Arte dei Canozi lendinaresi, Trieste, 1987
Giorgio Vasari, Le Vite de’più eccellenti Pittori Scultori ed
Architetti, Firenze, 1568: Introduzione alle tre Arti del Disegno,
(2a ed. 1990)
.
cap. 17(Del mosaico di legname, cioè delle tarsie...)(ed.
Chiara Savettieri, La Laus perspectivae di Matteo Colacio e la
Gaetano Milanesi, 1906, tomo I, pp.202-203)ヴァザーリ研究
Fortuna critica della Tarsia in Area veneta, Ricerche di storia
会『ヴァザーリの芸術論−『芸術家列伝』における技法論と
dell’arte, n.64, 1998, pp. 5 - 22.
美学』
(1980 年、平凡社)
、156 ∼ 158 頁
The Gubbio Studiolo and its Conservation, New York, 1999.
André-Jacques Roubo, L’Art du Menuisier ébéniste par
vol.1: Olga Raggio, Federico da Montefeltro’s Palace at
05RXER¿OV0DWvUH0HQXLVLHU,,,H6HFWLRQGHOD,,,H3DUWLH
Gubbio and its Studiolo. vol. 2 : Antoine M. Wilmering, ,WDOLDQ
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Lendinara, Treviso, 2004.
伊藤拓真「マーゾ・フィニグエッラと 15 世紀フィレンツェ
『地中海学研究 XXX』(2007)
, 25 ∼ 50 頁
の素描文化」、
Thomas Rohark, ,QWDUVLHQ(QWZLFNOXQJHLQHV%LOGPHGLXPVLQ
der italienischen Renaissance, Göttingen, 2007.
翻訳監修・高階秀爾訳)
『人類の美術 イタリアルネッサンス
村井光謹・上田恒夫『表象と素材のはざまのタルシア(木
1460 ∼ 1500』
(新潮社、1968 年)
象嵌)』
(平成 16 ∼ 19 年度科学研究費補助金[基盤研究(c)]
Alfredo Puerari, Le Tarsie del Platina(1477 - 1490)
, Paragone,
XVIII, 1967, n. 205/25, pp. 3 - 43.
Massimo Ferretti, I Maestri della Prospettiva, Storia dell’Arte
研究成果報告書)、2008 年、金沢芸術学研究会
Francesco Mariucci, La Bottega della Sfida. La Bottega
dei Minelli e la Copia dello Studiolo, L'Eugubino, Speciale
Studiolo, anno LX, n.4-Settembre 2009, pp. 13 - 21.
̶ 22 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
主なマエストロと作品所在地(五十音順)
モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院、シエ
ナ大聖堂、ローディ大聖堂ほか
*本稿で取り上げた作家に限った。作家・作品のデータは
Ferretti, 1982 ; Bagatin, 1999 ; Wilmering, 1999 によったが、異
説がある場合には前記FerrettiないしWilmeringの説をとった。
■ フ ラ・ ダ ミ ア ー ノ・ ザ ン ベ ッ リ Fra Damiano
Zambelli da Bergamo(1480 年頃∼ 1549 年)
ボローニャのサン・ドメニコ教会ほか
■アゴスティーノ・デ・マルキ Agostino de Marchi
■ロレンツォ・ディ・カノツィ・ダ・レンディナー
(活動期 1458 ∼ 77 年)
ラ Lorenzo di Canozi da Lendinara(1425 年∼ 77 年)
ボローニャのサン・ペトローニオ大聖堂
パドヴァのサンタントニオ大聖堂、モデナ大聖堂ほ
■アントニオ・バリーリ Antonio Barili(1453 年∼
か。弟のクリストーフォロと共同
1516 / 17 年)
サン・クィリコ・ドルチャのコッレジャータ
■アントニオ・マネッティ Antonio Manetti
(1402 年
頃∼ 1460 年)
フィレンツェ大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオー
レの聖具室
■クリストーフォロ・ディ・カノツィ・ダ・レンディ
ナーラ Cristoforo di Canozi da Lendinara(1426 年
頃∼ 91 年)
パドヴァのサンタントニオ大聖堂、モデナ大聖堂、
パルマ大聖堂、ルッカ大聖堂ほか。兄ロレンツォと
共同
■ ジ ュ リ ア ー ノ・ ダ・ マ イ ア ー ノ Giuliano da
Maiano(1432 年∼ 90 年)
フィレンツェ大聖堂聖具室、ピサ大聖堂、ウルビー
ノのストゥディオーロほか
■ ジ ョ ヴ ァ ン・ フ ラ ン チ ェ ス コ・ カ ポ フ ェ ッ リ
Giovan Francesco Capoferri da Lovere(1497 年 ∼
1533 / 34 年)
ベルガモのサンタ・マリア・マッジョーレ教会
■ フ ラ・ ジ ョ ヴ ァ ン ニ・ ダ・ ヴ ェ ロ ー ナ Fra
Giovanni da Verona(1457 / 58 年∼ 1525 年)
ヴェローナのサンタ・マリア・イン・オルガノ教会、
̶ 23 ̶
Maestro di prospettivaの表象と素材について ― イタリア・ルネサンスのタルシア
(木象嵌)
の研究方法にふれて ― 上田 恒夫
̶ 24 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
美大生のレポートより
■対象に迫ることで、木が木でなくなる瞬間があるのかも
しれない。作者の情熱をすごく感じた。
以下は、平成 18・19 年度本学修士課程1年と学部2年の学
生のレポートからの抜粋である。マエストロ・ディ・プロ
■ダ・レンディナーラ兄弟のタルシア(図 8 - 2 , 12 , 13 , 14 ,
スペッティーヴァの仕事のテーマ性、透視遠近法と木素材
21 - 1 , 21 - 2)に木目があるのに、あらわされた人間が人
との関係、あるいはマエストロ・ディ・プロスペッティーヴァ
間として見える。対象を写せばよいのではなく作品そのも
らの創作の観点に想いをめぐらせた指摘があり、これから
のが何か魅力をもたないといけないとうことを再認識した。
の木象嵌研究のありかたをも照らしている。転載許可済。
■(祈祷席をかざるカポフェッリの《天地創造の神》
、図
■ウルビーノとグッビオのストゥディオーロ(図 10 - 1 , 10 - 2 ,
19、20 について)この絵はもしかすると、当時の画家たち
11 , 22)を見たときは「はっ!」としてしまった。粋とい
が「美」を生み出す大きな可能性を自分に感じていた、そ
う印象。控えめな素材感。木の継ぎ目によるストレートな線。
の確信の現れであるかもしれない、と思った。そしてこの
迷いがなく、小気味がよい。木のもつ性質というのがとて
確信は、現代の芸術家も変わらずもっているものなのだ。
も強く現れて、それがコントロールされていることに感動
する。とても人間技じゃないと思った。人が創り上げたと
■(同じくカポフェッリの《天地創造の神》、図 19、20 につ
いうよりも、自然が創り上げているように感じた。
いて)それは大衆化したルネサンス期の美術とは一線を画
した精神的表現だったのではないだろうか。
■グッビオのストゥディオーロ(図 22)は衝撃的であった。
現場ではそれが平面だとは気づかないないだろう精密さ。
■彼らはどの木を使うか選んでいる段階で、すでに「描き
すべて木の組み合わせのみで三次元をあらわしている。光
はじめて」いるんだと思う。
の方向まで計算されている。なぜ木なのか。木で木を表現
する意味。石のモザイクやガラス・モザイクよりも、触れ
■(デ・マルキとザンベッリの作品、図 7 - 2 , 7 - 3 , 17 に
ても冷たくない木象嵌に触れてみたい。
ついて)とても自然な陰影で立体物だとだまされた。見え
すぎているというべきか。何か変だ。
■木の朽ちていく様子は絵画と違い、生を感じさせ、より
深みを増し、空間に歴史の重みを更にもたらしているよう
■
(デ・マルキの道具をあらわす作品、
図7 - 2 , 7 - 3について)
だ。
あれが木だなんて、言われるまでは絶対にわからない。ぼ
くは、今日はじめてタルシア(木象嵌)というものを知った。
■木象嵌は、表現と素材のはざまで揺れ動く魅力を放つ。
うわっ、めんどくさい!よくここまでやるなと思う。そこ
木という素材はとにかく強い。これほどまでの「表現」を
までやるのは、やはりそのめんどうくささをも、はるかに
与えた作家たちに感銘を覚える。
上回る「思い」があるからだ。新鮮だったのは、その対象が、
キリスト教のマリアなどではなく、本、コンパス、木箱など、
■時代や国を超えて何か親しみを持たせるのは一体なぜな
生活の身近にあるものが表現されていたことだ。この教会
のだろう。タルシア(木象嵌)には、木とニスの間にとて
(ボローニャのサン・ペトローニオ教会)に関して思ったの
も長い時間を感じることができる。虫食いやキズがいっぱ
は、この作者は、自分の仕事道具たちに敬意をあらわして
い見えるけれども、そこには不安な感じがないのが不思議
いるということだ。教会のなかに、キリスト教を上回る道
だ。タルシアは長い時間をしっかり刻んで、今私たちにそ
具たちの宗教的世界があった。
れを見せてくれるようです。
̶ 25 ̶
Maestro di prospettivaの表象と素材について ― イタリア・ルネサンスのタルシア
(木象嵌)
の研究方法にふれて ― 上田 恒夫
RINGRAZIAMENTI PER L’AUTORIZZAZIONE DI
RIPRESA, UTILIZZO E PUBBLICAZIONE DELLE
FOTOGRAFIE fig.1 Metropolitan Museum of Art, New York/
Fig. 2 Collegiata di San Quirico d’Orcia/ Figg. 3 - 1 , 3 - 2 L’Opera
del Duomo di Orvieto, Orvieto/ Figg. 4, 6 L’Opera di Santa Maria
del Fiore, Firenze/ Figg. 7 - 1 , 7 - 2 , 7 - 3 Basilica di San Petronio,
Bologna/ Figg. 8 - 1, 8 - 2 , 14 I Musei del Duomo di Modena/
Figg. 10 - 1 , 11 , 22 Soprintendenza PSAE, Marche, Urbino/
Figg. 16, 17 Chiesa di San Domenico, Bologna/ Figg. 18 , 19 , 20
Fondazione MIA, Bergamo/ Figg. 21 - 1 , 21 - 2 Centro Studi
Antoniani, Padova
図版出典は図版キャプションの( )内に略号をもって記載
した。出典記載ない写真は筆者と村井光謹撮影。
本稿は、筆者が第 62 回美術史学会全国大会(2009 年 5 月 24 日、
於京都大学)において標記のテーマで口頭発表したさいの原稿
を再録したものである。再録にあたり内容と図版編成を一部
改め、末尾の「主なマエストロと作品所在地」と「主な作品所
在地」
(地図)等を加えた。また今回の再録に先立ち、
「美大アー
トワークス2009∼感性のコラージュ」
(2009年11月11日∼15日、
於金沢 21 世紀美術館)において、筆者と村井光謹(本学製品デ
ザイン専攻教授)による共 同展 示「イタリアの木画(もくえ)
― 素材感のある目だまし」の資料のひとつとして同文の冊子
(私家版)を展示した。
(うえだ・つねお 芸術学/西洋美術史)
(2009 年 10 月 30 日受理)
̶ 26 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
図 1-1 グッビオ・ストゥディオーロの模刻
(ニューヨーク・メトロポリタン美術館)
図 1-2 グッビオ・ストゥディオーロの構造図解
(Wilmering, 1999 より)
図 2 アントニオ・バリーリの自刻像(現失)
「絵筆でなく
図 3-1 シエナのタルシア作家 書見台(全体図)
ショルダーナイフでこれを製作、1502 年」の銘文
1359 年頃 オルヴィエト大聖堂附属美術館
図 3-2 シエナのタルシア作家 書見台(部分)
図 4 サンタ・マリア・デル・フィオーレ(フィレンツェ)
1359 年頃 オルヴィエト大聖堂附属美術館
聖具室正面 15 世紀前半
顔面にピースの剥離あり
— 27 —
Maestro di prospettivaの表象と素材について ― タ
イリア・ルネサンスのタルシア
(木象嵌)
の研究方法にふれて ― 上田 恒夫
図 6 ジュリアーノ・ダ・マイアーノ「聖具戸棚」(部分)
図 5 アントニオ・マネッティ「聖具戸棚」1436 ー 45 年
1463 - 65 年 サンタ・マリア・デル・フィオーレ
サンタ・マリア・デル・フィオーレ(フィレンツェ)
(フィレンツェ)聖具室正面
聖具室左壁(Ferretti, 1982 より)
図 7-1 サン・ペトローニオ教会(ボローニャ)のコーロ
(聖職者祈祷席)
図 7-2 アゴスティーノ・デ・マルキ 「タルシアの道具」
1468 - 77 年 サン・ペトローニオ教会 (ボローニャ)
コーロのスパリエーラ
図 7-3 アゴスティーノ・デ・マルキ「木箱と書物」
1468 - 77 年 サン・ペトローニオ教会(ボローニャ)
図 8-1 クリストーフォロ(+ ロレンツォ)・ダ・レンディナー
コーロのスパリエーラ
ラモデナ大聖堂のコーロ(聖職者祈祷席)1461 - 65 年
— 28 —
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
図 9 フラ・ジョヴァンニ・ダ・ヴェローナ「聖具戸棚」
図 8-2 クリストーフォロ(+ ロレンツォ)・ダ・レンディナーラ
ローディ大聖堂のコーロ 1525 年
「ろうそく入れ」モデナ大聖堂のコーロ(聖職者祈祷席)の側面
1461 - 65 年
図 10-2 ジュリアーノ・ダ・マイアーノ「愛徳」
(図 10-1 の全体図)
(Wilmering, 1999 より)
図 10-1 ジュリアーノ・ダ・マイアーノ「愛徳」
(部分、フェデリー
コ・ダ・モンテフェルトロのストゥディオーロ)1473 - 1476 ウルビーノ・マルケ国立美術館
図 11 ジュリアー ノ・ダ・マイアーノ 「望徳」
(部分、
フェデリー
図 12 クリストーフォロ(+ロレンツォ)・ダ・レンディナーラ
コ・ダ・モンテフェルトロのストゥディオーロ)1473 - 1476
「 聖 ヒ エ ロ ニ ム ス 」 1461 - 65 年 モ デ ナ 大 聖 堂 の コ ー ロ
年 ウルビーノ・マルケ国立美術館
(Ferretti, 1982 より)
— 29 —
Maestro di prospettivaの表象と素材について ― タ
イリア・ルネサンスのタルシア
(木象嵌)
の研究方法にふれて ― 上田 恒夫
図 13 クリストーフォロ・ダ・レンディナーラ 「福音書記者聖マルコ」
(部分)
1477 年 モデナ大聖堂2階左壁
図 14 クリストーフォロ(+ロレンツォ)ダ・レンディナーラ
「大グレゴリウス」 1461 - 65 年 モデナ大聖堂地下祭室
(Città di Lendinara e I Lendinaresi, 2000 より)
図 15-1 フラ・ジョヴァンニ・ダ・ヴェローナ「レオナルド・ダ・ヴィン
チの多面体」サンタ・マリア・イン・オルガノ教会(ヴェローナ)聖具室
図 15-2 図15-1の部分
のアルマディオのスパリエーラ 1519 - 22 年
図 17 フラ・ダミアーノ・ザンベッリ「作り物 macchina」 1541 -
図 16 フラ・ダミアーノ・ザンベッリ「ユーディトとホロフェルネス」
1541 - 49 年 サン・ドメニコ教会 (ボローニャ)コーロのスパリエーラ
— 30 —
49 年 サン・ドメニコ教会(ボローニャ)コーロの背もたれ
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
図 19 ジョヴァン・フランチェスコ・カポフェッリ(原画ロレンツォ・ロッ
図 18 ジョヴァン・フランチェスコ・カポフェッリ(原画ロレンツォ・ロッ
ト)
「兄弟に売れるヨセフ」1425頃-31 年サンタ・マリア・マッジョーレ
ト)
「天地創造の神」
(全体図)1425 頃-31年 サンタ・マリア・マッジョー
教会(ベルガモ) コーロの背もたれ(Zanchi, 2003より)
レ教会(ベルガモ )コーロの背もたれ
図 21-1 ロレンツォ・ダ・レンディナーラ「マニョーリア回廊から見たサ
ンタントニオ教会」
(実景/部分)1462-6 9年 サンタントニオ教会(パ
図 20 図 19 の部分(画像正立)
ドヴァ)旧コーロのスパリエーラ
図 22 ジュリアーノ・ダ・
マイアーノ「アルマディオ
の扉」
( フ ェ デ リ ー コ・ ダ・ モ ン
テフェルトロのストゥディ
オーロより)
図 21-2 ロレンツォ・ダ・レンディナーラ「丘を遠望する街景」
(部分)
1473 - 76 年 ウルビーノ・
1462 - 69 年 サンタントニオ教会(パドヴァ)旧コーロのスパリエーラ
マルケ国立美術館
— 31 —
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
ヴェラール版『変身物語』 La Bible des poètes 研究
保 井 亜 弓
des poètes のヴェラム(羊皮紙)刷り〔図 3 ∼ 8〕を
はじめに
取り上げ、できる限り書物全体を把握しつつ、その
活版印刷術を、火薬、羅針盤と並べて三大発明
挿絵装飾の特徴を明かにすることを目的とする。
にあげたのはフランシス・ベーコン Francis Bacon
であった。それは単なる書物の制作における新しい
1 . ヴェラールとマンシオン
技術を超えて、大きなメディア革命であったと考え
られている。とはいえ、新技術によって、書物の制
アントワーヌ・ヴェラールの名は、1485 年 9 月 12
作は写本から印刷本へとすぐさま転換したのではな
日の日付がある『ローマ時禱書』Horae ad usum
く、その過渡期において両者は長く共存していたこ
Romanum の奥付に初めてあらわれ、それ以前の記
とも広く認識されている。
録はないが、この時点ですでに独立して書籍業を営
印刷本は、それまでの書物、すなわち写本の形態
んでいた 2。ヴェラールの名あるいは商標を冠した
を手本として誕生したのであり、一方写本もまた、
出版は 280 点以上にも及び、1508 年にはルイ 12 世
活版印刷術に先んじて起こった木版画や銅版画を含
Luis XII より出版者として初めての出版允許を受
めた「印刷により生み出されたもの」をすぐさま取
け、さらにフランス王シャルル 8 世 Charles VIII、
り込み始める 。そのためこの共存の時代には、写
ルイ 12 世、イングランド王ヘンリー 7 世 Henry VII
本、印刷本、版画のさまざまな要素が混在したハイ
をはじめとする王侯等がパトロンであった事実か
ブリッド形式の書物が現れることになった。写本の
ら、彼が出版者として大きな成功をおさめたことが
支持体であるヴェラム(羊皮紙)はまた、印刷本に
理解される。その成功の理由は、ヴェラールが幅広
も用いられた。同一書物で、ヴェラムと紙で刷られ
い出版を手がけた出版者であったのみならず、テク
た二つの版があるものは、ダブル・エディションと
ストと、イメージを含む装飾の双方において大きく
呼ばれる。
たとえばグーテンベルクの42行聖書
(1455
係わった点にある。すなわち、当時の印刷者として
年)
では、
現存する 47 部のうちヴェラム刷り 21 部(完
は珍しく特定のパトロンへの献呈文等を自ら記し、
本 4 部)
、紙刷り 26 部(完本 17 部)が現存している。
また「言葉よりも画像の方がより一層熱烈な欲望を
イニシアル装飾以外の挿絵は含まないものの、そ
かきたてるのです」3 という彼の言葉にあらわれて
れぞれに異なった彩飾が施されており、写本と見紛
いるように、ヴィジュアルな効果を重視した、芸術
うごとく仕上げられている。こうした疑似写本とも
的価値の高いヴェラム刷り豪華本を積極的に制作し
いえる印刷本は、中世以来の写本の伝統を残してい
て、富裕な顧客に供したのである。ルネサンス的な
る。というよりも、むしろ積極的にそれを取り入れ
人文主義とは逆の嗜好をもつヴェラールは、まさに
ているのである。本稿では、多くの豪華なヴェラム
「アート・エディター」として、中世の伝統に則り
1
刷りを手がけたことで知られる、パリの印刷者アン
ながら、「読む書物」ではなく、「見るための書物」
トワーヌ・ヴェラール Antoine Vérard(∼ 1513 年
つまり「芸術としての書物」を世に送り出したのだっ
頃)が、1493/4 年に出版した『変身物語』La Bible
た 4。
̶ 33 ̶
[ キーワード ] オウィディウス アントワーヌ・ヴェラール ヴェラム刷り 彩色木版画
ヴェラール版『変身物語』La Bible des poètes 研究 保井 亜弓
ヴ ェ ラ ー ル の『 変 身 物 語 』La Bible des poètes
いヴァージョンが 2 版( 1498?14、1507?15 )出され、
を 論 じ る に あ た っ て は、 も う ひ と り 別 の 出 版
さらにその後フィリップ・ド・ノワール Phillip de
者、ブリュージュのコラルト・マンシオン Colard
Noir により 2 度版が重ねられた(1523、1531)16。
Mansion(1440 年以前∼ 1484 年 5 月以降)にも触れ
ておかねばならない。なぜなら、オウィディウス
Bible des poètes の概要
2『変身物語』La
.
『変身物語』の初めての木版挿絵付き印刷本は、マ
ンシオンによって 1484 年に出版された『変身物語』
1493/94 年の初版『変身物語』La Bible des poètes
Ovide moralisé〔図1〕であり、ヴェラール版は、
は、すでに述べたようにダブル・エディションとなっ
テクストと木版挿絵ともにマンシオン版を受け継い
ており、現存する 9 部のうち 4 部がヴェラム刷りで
だ、事実上はその第 2 版ともいえる性格をもつから
ある 17。初版の構成は、まず題字のフォリオ、そし
である。
て木版大扉絵から始まる序文、神々をあらわす木版
写字生として多くの写本制作にかかわったマン
小挿絵が付されたテクストと続き、目次をはさんで
シオンは、翻訳者でもあり、さらにさまざま新たな
本文に入ると、各巻頭に木版大扉絵、最後に印刷者
試みを行った初期の出版者のひとりであった 5。年
商標がある。フォリオ番号は本文が始まるところか
記のある最初の出版、1476 年のボッカッチョの『名
ら印刷されている 18。木版大扉絵は白地の紋章のあ
士、 名 婦 列 伝 』De la ruine des nobles hommes et
る枠装飾を伴っているが、これは写本の欄外装飾に
femmes に、エングレーヴィングによる挿絵を加え
相当するものである。テクストページは 46、47 行
るという新たな試みを行い 6、ウィリアム・カクス
の 2 コラムで、各巻頭は木版大扉絵の下に 6、7 行を
トン William Caxton と仕事をしたことで知られ、
配するレイアウトとなっている。活版印刷には不要
また活版印刷に入念な彩飾を施したその豪華本は
であるはずの罫線がひかれ、写本の体裁を整えてい
ヴェラールの手本となったと考えられる 。『変身
る。ヴェラム刷りでは、木版画に彩色が加えられる
物語』Ovide moralisé には 33 点という多くの木版
のと同時に、各巻文中において、あらかじめ挿絵の
挿絵が付されており、その図像はマンシオンのパト
ために上下に空間をとって印刷された見出し部分に
ロンであったロードウェイク・ヴァン・フルート
小挿絵が描き加えられている。この見出しは、目次
フース Lodewijk van Gruuthuse が所有していた
に記されているものにほぼ一致しており、木版画と
オウィディウス写本(BN Ms. fr. français 137)に
同様マンシオン版にすでにあったものである 19。
7
8
従っている 9。この第 26 番目の書籍はマンシオンが
ヴェラム刷りの中で、最多 243 点の挿絵(うち彩
手がけた最後の出版であり、その後彼は負債のため
色木版画大 17 点、小 15 点)を含み、またもっとも
に店も手放すことになる。ヴェラールの成功とは対
質の高いものが、シャルル 8 世への献呈文と、フラ
照的な顛末である 。
ンスの紋章があるパリ国立図書館本(Vélins 559 10
マンシオンの『変身物語』Ovide moralisé も、木版
以下 BN 559 と記す)
〔図 4〕である。この BN 559
画彩色や欄外彩飾を施したものが現存しているが 、
を基にして、その構成および挿絵図像を、大英図書
ヴェラールは、マンシオン版を手本として木版挿絵
館本(IC41148)
〔図 3〕、パリ国立図書館所蔵の別
を制作させたばかりでなく、ダブル・エディション
のヴェラム刷り(Vélins 560 以下 BN 560 と記す)
11
とした。とくにヴェラム刷りは、木版画に加えた入
〔図 5〕と比較してまとめたのが〔表 1〕である 20。
念な彩色と 200 点以上もの挿絵 12 の挿入によって、
大英図書館本では、冒頭の大扉絵下から始まる、
きわめて豪華に仕立てられている。ヴェラール版は、
フランス王の名が記された献呈文のフォリオが省か
そのネーミングのよさもあって、ルネサンスを通じ
れ、そのかわりに、サトゥルヌスを去勢するユピテ
て広く流布した 。1493/4 年の初版以降、年記のな
ルをオリュンポスの神々とともに描く大扉絵は、木
13
̶ 34 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
版の構図を模して全ページ大で、すなわち下部のテ
挿絵は大英図書館本にのみみられる(fol.CXXXIr)。
クスト分だけ縦に引き延ばされた画面に手描きで描
さらに、BN560 のフォリオでは、元来見出しのない
かれている 。この挿絵および彩色大扉絵には、イ
空白部分にも挿絵が描かれている(fol.CLXIIIv)
。
ングランドの紋章が描かれており、ヘンリー 7 世の
通常は印刷された見出しが挿絵で覆われると、その
ために制作されたと考えられる。B N 5 6 0 は、現在
文章が欄外に手書きで記されるが、この箇所だけに
はフォリオを欠いているものの、もともとはBN559 と
そうした書き込みが見られない。図像表現は近似す
同様に多くの挿絵を含んでいたと考えられ、アング
るものがある一方で、大英図書館本に欠けている場
レーム伯シャルル Charles d’
Angoule^me の 1496 年
面は、B560 においてもまた B559 とは異なるという
の死後直後の財産目録から、その所蔵本と同定され
傾向がある。ヴェラールは全体にわたる指示を行っ
る。
たであろうが、こうした事実は、工房において画家
21
BN559 の彩色大扉絵および小挿絵はヴェラール
の下で活躍した画家の中でもっとも優れたジャッ
の裁量にある程度まかされていたことを示すものと
考えられる。
次に挿絵の主題を概観する 23。まず本文の前に、
ク・ド・ブザンソンの画家 Master of Jacques de
Besançon の手に帰される 22。この画家は、大図書
神々についての記述があるが、これはマンシオン版
館本では木版画彩色は行っていないものの、ほとん
と関連するオウィディウス写本(BN Ms. fr. 137)
どの小挿絵を描き、また BN560 の 9 点の彩色大扉
にはない。ここでは物語のキャラクター紹介のごと
絵を手がけている。
く主要な神々がイメージとテクストで示されてい
る。次に本文テクストは、オウィディウスの原典
3 . BN559 の構成
の翻訳ではなく、『教訓化されたオウィディウス』
Ovide moralisé であるため、原典にはない多くの場
BN559 では、32 点の木版画の大扉絵および小挿
面があることに気づく。挿絵の図像伝統を明らかに
絵に入念な彩色が施され、そこに加えてさらに 211
するには、先行する写本との比較研究が必要である
点もの挿絵が挿入されている。
表1でわかるように、
が、本稿では〔表 1〕によって全体像を示すのみに
大英図書館本と BN560 においても、数は及ばない
留める。原典にはないテクストの主な挿絵をあげる
ものの同様に多くの挿絵が描かれている。こうした
と、第 1 巻では、冒頭にまずキリスト教的な天地創
きわめて多くの挿絵を含む書物の制作が可能であっ
造が加えられ、アダムとエヴァの場面(fol . IIv, IIIr)
たのは、やはり活版印刷という大量生産の新技術に
が描かれる。サトュルヌスとガイアとその子どもた
よるものだろう。特注のヴェラム刷りであっても、
ちを描く第 3 番目の挿絵(fol . IIIv)から、神の系譜
同様の規模の写本を制作するよりはずっと手間がか
と人間の新生を語るオウィディウスのテクストが始
からなかったはずである。
まる。第 4 巻では、
「アタマス王の妻イノ」の物語
興味深いことに、最も豪華な BN559 に他では描
の箇所に、継子である「プリクススとヘレ」にかん
かれている挿絵がない場合がある。たとえばフォリ
する物語(fol.XLIv, XLIIr, XLIIv)、
第 9 巻では、
「テー
オ LXIIIr は、BN560 では女神ラトナと 2 人の男、大
バイ攻め」にかんする物語(fol.Cv, CIr, CIv, CIIr)、
英図書館本では女神のかわりに祭壇が見出しに対応
第 11 巻では、「テティスとペレウス」の物語に続
して描かれているのに対して、BN559 では見出しも
い て、
「パリスの審判」
(fol.CXXIIIv, CXXIIIIr.,
印刷されていない。印刷されているはずの見出しが
CXXIIIIv., CXXVr, CXXVv, CXXVIr)が見られる。
ない箇所はいずれの刊本においても認められ(fol.
その他にも中世においてペルセウスと同一視された
LXVv, CLXVIIIr)
、印刷工程という点でも興味深
「ベッレロポン」(fol.XLVIIIr)といった関連する物
い。また、
「ケユクスを発見するアルキュオネ」の
語が挿入されている。
̶ 35 ̶
ヴェラール版『変身物語』La Bible des poètes 研究 保井 亜弓
挿絵が描かれる箇所には、見出しの行数にもよ
るが、上下が数行空けられているのに対して、1、2
行しか空いていない見出しもある。横長の小さな画
面もあるものの、この場合は明らかに挿絵を描く空
間は用意されていない。つまり、ヴェラールは、見
出しを選択して挿絵を挿入する場所を決定したと考
えられるのである。1 箇所だけ例外的なレイアウト
になっているのがフォリオ CXLIXv であり、ここで
は右の 1 コラム全体が空欄となり、目次にはない見
出しが印刷され、BN559、BN560、大英図書館本の
いずれにも挿絵はない。
見出しは、画家にとっての指示となっているとも
考えられるが、このように挿絵やイニシアルの指
示があらかじめ空けられた空間に書き込まれること
は、中世の写本制作では常であった。ヴェラール
版では、挿絵が描かれない場合は、印刷された見出
しはそのままそれ自体として機能している。実際、
オックスフォードのボードリアン図書館所蔵の紙刷
図 1 第 4 巻扉絵 『変身物語』 コラルト・マンシオン刊
ブリュージュ 1484年 ⓒThe British Library Board.(IC49428)
,
fol.113recto
り(Douce 271)を参照すると、罫線は引かれてい
るが、木版画の彩色や挿絵は一切ない。それは明ら
かにヴェラム刷りほどに凝った豪華本として仕立て
物語「ピュラモスとティスベ」が描かれている。
られてはいないものの、装飾的な要素が全くないわ
その恋を親に反対されたふたりは、ある晩駆け落ち
けではない。というのは、ヴェラール独特のカリグ
を企てる。待ち合わせ場所に最初に到着したティス
ラフィーで書かれたイニシアルのある題字が金泥で
ベは、雌ライオンに出くわし、洞窟に隠れるのだが、
美しく飾られているからである。ヴェラム刷りの題
その時ヴェールを落としてしまう。獲物をとらえた
字には、こうした装飾がみられない。紙刷りでは、
ばかりのライオンは血塗られたその口でヴェールを
ヴェラム刷りとは別の方法で加飾が行われているの
引き裂いた。そこへピュラモスが遅れてやってきて、
である。木版画もテクストページも色彩がなくとも
ヴェールを見てティスベが死んだと思い、嘆きのあ
十分に美本なのであり、とりわけ初版は、後版とは
まりに自殺してしまう。戻ってきたティスベはピュ
異なったかたちで仕立てられていることがわかる。
ラモスの遺体を発見し、自らも命を絶つ。
マンシオン版〔図 1〕と比較すると、人物の配
4 . 彩飾の特徴
置や構成要素にいたるまで構図は非常に似ている。
ヴェラール版のすべての木版画は、ほとんどがマン
それぞれにおいて木版画彩色や彩飾はどのように
シオン版を直接手本としていることが明らかである
異なるのか。具体的に例を見ながらその特徴を確
が 24、画像はしばしば左右反転している。ここでは
認したい。はじめにとりあげるのは第 4 巻の大扉絵
向きも同じである。前景には、泉のそばに立つ桑
である(fol.XXXVv)。木版画の構図を確認するた
の木の下でピュラモスを発見し、彼の剣で命を絶つ
めに、まずボードリアン本の紙刷りを見ていく〔図
ティスベが大きく配され、後景のライオンと隠れる
2〕
。ここには、ミニュアスの娘たちが語る最初の
ティスベも一致する。さらにヴェラール版は、ティ
̶ 36 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
図 2 第 4 巻扉絵 『変身物語』アントワーヌ・ヴェラール刊
パリ 1493/94 年 Bodleian Library, University of Oxford.
(Douce 271)
, fol.XXXVverso
図 3 第 4 巻扉絵 『変身物語』 アントワーヌ・ヴェラール刊
パリ 1493/94 年 ⓒ The British Library Board.
(IC411148)
, fol.XXXVverso
図 4 第 4 巻扉絵 『変身物語』 アントワーヌ・ヴェラール刊
パリ 1493/94 年 BnF.(Rès. Vélins-559)
, fol.XXXVverso
図 5 第 4 巻扉絵 『変身物語』 アントワーヌ・ヴェラール刊
パリ 1493/94 年 BnF.(Rès. Vélins-560), fol.XXXVverso
— 37 —
ヴェラール版『変身物語』La Bible des poètes 研究 保井 亜弓
図7 「壁の穴から会話するピュラモスとティスベ」 『変身物語』
アントワーヌ・ヴェラール刊 パリ 1493/94 年
BnF.(Rès. Vélins-560)
, fol.XXXVIverso
図 6 「壁の穴から会話するピュラモスとティスベ」 『変身物語』
アントワーヌ・ヴェラール刊 パリ 1493/94 年
BnF.(Rès. Vélins-559)
, fol.XXXVIverso
図 9 「ネロ皇帝がヴェスパジアヌスに使命を与える」
この版木は、ヨセフス『ユダヤ戦記』
(1492)で最初に刷
られ、後に多用された(Mary Beth Winn, Anthoine Vérard
Parisian Publisher, 1485-1512 Prologues, Poems and
Presentations, Genève, 1997 より)
図 8 「アポロンを訪れるパエトン」
『変身物語』
アントワーヌ・ヴェラール刊 パリ 1493/94 年
BnF.(Rès. Vélins-560)
, fol.XIverso
— 38 —
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
スベと反対側にピュラモスを描き加え、ライオンが
挿絵と装飾を分業して手がける、中世以来の制作方
ヴェールをくわえることで、
「ライオンを恐れて隠
法が行われていた可能性を示唆するものと考えられ
れるティスベ」と「ヴェールを発見するピュラモス」
る。
の 2 場面を巧みに表現している。大扉絵では、物語
次に本文の小挿絵に目を転じると、「ピュラモ
の経過が異時同図であらわされることが多いが、こ
スとティスベ」の物語には、「壁の穴から会話する
こではマンシオン版のそれをさらに複雑にしている
ピュラモスとティスベ」(fol.XXXVIv)、「ライオ
のである。また、マンシオン版では、前景のティス
ンから逃げるティスベ」、「ピュラモスの自殺」(fol.
ベはピュラモスに寄り添い、ふたりは一体化してい
XXXVIIv)の 3 場面が描かれている。BN559 と大
るが、ヴェラール版では、個々の人物はより独立し
英図書館本の挿絵は、いずれもジャック・ド・ブザ
て明瞭に描かれていることも特徴的である。
ンソンの画家の手になるが、同じ場面を描きつつも、
ヴェラム刷りの同画面をみると、彩色によってが
構図を繰り返すことなく、ヴァリエーションを与え
らりと印象が変わることがわかる。BN559、560 で
て表現している。BN560 の画家は概してジャック・
は、いずれも金銀のハイライトを多用した入念な彩
ド・ブザンソンの画家には及ばず、人物表現も単調
色が施されている〔図 4、
5〕。ボードリアン本〔図 2〕
であるが、たとえばピュラモスとティスベを隔てる
と比較すると、木版画の線にかなり忠実に描かれて
壁の捉え方は全く異なっている〔図 6、図 7〕
。こ
いることがわかるが、画面だけを見ている限りでは、
のように個性が出ている場面がある一方、全体を通
下に木版画があるとは想像できないほどの出来栄え
じて類似した構図も多くみられることは工房制作に
である。背景の町を塗りつぶして消している点も両
おける手本の問題が考えられるだろう。また、大英
者に共通している。ただし、髪型や衣の色は違って
図書館本では第 13 巻以降は明らかに挿絵の手は異
おり、異なった雰囲気を出している。一方大英図書
なり質が落ちる 25。主要な画家がどの程度関与する
館本では、同様にハイライトに金銀が用いられて鮮
かで仕上がりは異なってくる。そこには当然ながら
やかに彩色されているものの、全体に薄塗りで、地
ヴェラールも関与していると推測できる。
表部分などではうっすらと木版画の線もみえる〔図
最後に、第 2 巻の大扉絵をとりあげる(fol.XIv)。
3〕
。ジャック・ド・ブザンソンの画家による彩色と
物語は、第 1 巻末で、アポロンの息子であるパエト
は明らかに異なっている。とくに木や草花の表現は
ンが、母クリュメネに父のことを訪ねるところから
木版画の線によらず、
かなり大雑把に描かれている。
続いており、大扉絵にはアポロンの神殿を訪ねるパ
血を浴びて色を変えた桑の実の表現は、それぞれ異
エトンが描かれる。BN559 の彩色大扉絵は下の木
なっており興味深い。
版画とは全く異なった画面となっており〔図 8、9〕、
大扉絵には枠装飾が付され、ページ全体が華やか
BN560 でもほぼ同じ図が描かれている。薄塗りの
に彩られている。枠装飾の版木は、実はすべてに同
大英図書館本では、木版画の図のままで描かれてい
じパターンが使用されている。このフォリオは、
ボー
る。実はこの木版画は、1492年に刊行されたフラヴィ
ドリアン本と比較すると明らかなように、BN559 と
ウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』に付された 3 枚の
大英図書館本ではその彩色は木版画を活かしたもの
木版画のひとつである「皇帝ネロがヴェスパジアヌ
となっている。モティーフを残しながら細部を変化
スに使命を与える」なのである。この版木は、その
させてヴァリエーションを出すという手法はかなり
後皇帝冠が王冠に変えられ、鷲の紋章も削除されて、
経済的だっただろう。一方 BN560 の彩色は、木版
別の出版において何度か使用された 26。したがって、
枠装飾と全く異り凝ったものとなっている。このタ
当然ながらオウィディウスの物語の要素は含まれて
イプの装飾は BN559、大英図書館本の中にも見ら
いない。一方 BN559 の彩色大扉絵では、アポロン
れる。このように彩飾法に変化があることは、主な
の神殿の様子がオウィディウスの記述どおりに描か
̶ 39 ̶
ヴェラール版『変身物語』La Bible des poètes 研究 保井 亜弓
れている。燦然と輝く玉座につくアポロン。花を手
注
にする「春」
、
裸の青年の「夏」
、葡萄の首飾りをつけ、
1
手に葡萄を持つ「秋」
、老人の「冬」は、それぞれ
頭上にその名が記されている。背景の左右には、メ
ダイヨンに月歴図が、建築の浮き彫りを示すかのよ
Hindman, Sandra and Farquhar, James Douglas,
Pen to Press: Illustrated Manuscripts and Printed
Books in the First Century of Printing, Maryland, 1977.
2
アントワーヌ・ヴェラールについては、その出版
目録を含むマクファーレンの基礎文献、およびマク
うに金のハイライトを施したグリザイユで描かれて
ファーレンのリストを補完し、ヴェラール自身のテク
いる。使い回しの木版画は豪華献呈本にはふさわし
ストを詳細に検討したウィンによる近年の研究がある。
くなかったのだろう。画家の判断でこのような大き
Macfarlane, John, Antoine Vérard, London, 1900(rpt.
Geneva, 1971); Winn, Mary Beth, Anthoine Vérard
な変更を行ったとは考え難く、また、おそらくヴェ
Parisian Publisher, 1485-1512 Prologues, Poems and
ラール自身の指示なしにはこれほど記述に即した描
くことができなかったのではないだろうか。まさに
Presentations, Genève, 1997.
3
「アート・エディター」としてのヴェラールの存在
‘signes font esmouvoir/ Desirs ferventz plus que
dictz mouvoir’
1503 - 08 年 頃 の 写 本『 キ リ ス ト 受 難 』
La passion Jhesuscrist(BN Ms. fr. 1686)におけるヴェ
が確認できる場面だといえる。
ラールによる序文。なお、この写本は詩と挿絵で構成
されているが、挿絵としてイスラエル・ファン・メッ
おわりに
ケ ネ ム Israel van Meckenem に よ る エ ン グ レ ー ヴ ィ
ン グ の「 受 難 伝 」 が 刷 り 込 ま れ て い る。Winn, ibid.
書物の芸術を研究対象とするとき、その総体を把
握する必然性を感じながらも、それを行うのは大変
困難な場合が多い。近年のファクシミリの普及は、
pp.404 - 409, no.18.
4
Winn, ibid, p.102.
5
コラルト・マンシオンについては、次の文献を参照
,
Mansion and the revolution
のこと。Saeger, P.‘Colard
写本研究を大いに発展させているが、印刷本はその
the printed books’
, the Library Quarterly 45, 1975,
複数性によってかえって複雑な状況であるともいえ
る。総体を把握するには、一冊の書物のみならず、
pp.405-18.
6
Kern, Thomas/ Mckendrick, Scot, Illuminating the
複数の刷りを検討しなければならない。本稿は、限
Renaissance, cat. Exh., the Paul Getty Museum, 2003,
られた資料と調査による研究の報告であるが、世に
pp.271- 274, no.72. また、活版印刷はとの組み合わせで
はないが、ヴェラールもメッケネムの原版を所有して
知られたヴェラールのヴェラム刷りがどのように制
挿絵とした。注 3 参照。
作されたのかを明らかにする、ひとつの手がかりに
7
なると考えている。ヴェラールは中世の伝統を引き
8
Boetius, 1477.
ロードウェイク・ヴァン・フルートフース
(c.1422 - 1492)
継ぎ、写本と比肩する印刷本を生み出したが、一方
は、フィリップ善良公の廷臣、蔵書家、金羊毛騎士団員。
でそれが印刷という新たな技術に支えられているこ
ルイ・ド・ブリュージュとも呼ばれる。マンシオンの
とを改めて認識させられる。すぐれた画家によって
出版の 1/3 は彼の蔵書のテクストに一致する。
9
以下のウェブサイトでサムネイルながら全挿絵を
入念に彩色された木版画は、限りなく絵画に近いも
見 る こ と が で き る。http://collecties.meermanno.nl/
のの、下絵としての役割をむしろ強く果たしている
handschriften/showmanu?id=100005&page=0&page_size
ともいえる。その存在はかき消されてしまうのに、
= 40(2009 年 10 月 30 日現在)
かえってその機能の重要性が際立っているように感
10
じられるのである。繰り返されるイメージの同一性
ヘントのアーレンド・ド・カイゼルArend de Keysere
は、マンシオンに倣って 1485 年に刊行したボエティウ
ス本を豪華な挿絵入りとしたが、遺言書に「おそらく
と差異。版画研究という立場からも、ヴェラールの
いつか売れるであろうはずのボエティウスがまだ 100
ヴェラム刷りはきわめて興味深い対象であるといえ
冊ある」と書き残した。出版者たちの試みは大きな
リスクを伴っていたようだ。Hindman, Sandra,‘Cross-
る。
Fertilization: Experiments in Mixing the Media’
, in:
̶ 40 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
24
Hindman/ Farquhar, op.cit., p.177.
11
木版画が彩色されているものや、欄外に装飾が施さ
れ て い る も の(Bruges, Openbare Biblioteek, 3877)
12
れているため、木版画はヴェラール版より 1 点多い。
25
がある。
いずれも通常はミニアチュールと表記して区別され
ないが、本稿では木版画に彩色されている場合は、彩
ウィンは、ヴェラールが巻頭をより重視する傾向を
指摘している。Winn, op.cit., p.460.
26
&DWDORJXHRIERRNVSULQWHGLQWKH¿IWHHQWKFHQWXU\
VIII, the Btitish Museum London, 1949, pp. 78, 81, 82
色大扉絵と記す。
13
ただし、マンシオン版では本文の前に編者第二の序
文があり、人間の黄金時代を描く木版大扉絵が付せら
ヴェラールがもとづくマンシオン版のフランス語
and 86.
テクストは、14 世紀はじめの作者不詳のフランス語
の Ovide moralisé お よ び ピ エ ー ル・ ベ ル シ ュ イ ー ル
Pierre Bersuire によるラテン語の Ovidius Moralizatus
として流布していたものの翻案である。ベルシュイー
(やすい・あゆみ 芸術学/西洋美術史)
ル版テクストは、トレント公会議後の 1564 年に禁書と
(2009 年 10 月 30 日受理)
された。
14
‘SUR LE PONT NOSTRE DAME’
の記載あり。住
所はヴェラールが 1499 年の火災まで住居兼店舗として
いた場所。ウィンによれば、この版および1507版はヴェ
ラール死後の出版である。Macfarlane, op. cit., p.53, no.
104 ; Winn , op. cit ., p.485. 15
‘DEVANT LA RUE NEUFVE NOTRE DAME’の
記載あり。大扉絵の木版は切断されて小さくなってい
る。住所は最終の転居地として確認されるものである。
Macfarlane, ibid., p.77, no. 155; Winn, ibid.
16
1523 年 5 月 20 日、および 1531 年 5 月 29 日の日付があ
る。いずれも出版者ヴェラールの記載はない。1523 年
版はヴェラールによる1507年版と同じ木版が用いられ、
1531 年版は 1523 年版にもとづく。Winn, ibid., pp.271
and 484.
17
Paris, BN Rès. Vélins 559, BN Rès. Vélins 560,
Grenoble, Bm I57, and London, BL IC41148.
18
木版大扉絵のあるフォリオには番号が印刷されない
ので、fol.II から始まる。
19
マンシオン版ではむろん空間は空けられておらず、
『変身物語』La Bible des poètes の後版でも、挿絵のた
めの空間はない。枠飾りも省かれた後版は、木版挿絵
のみの廉価版となっている。本文に印刷される見出し
は、目次に含まれないものもある。
20
グルノーブル本は、未見のため考察の対象とはしな
いが、ウィンによれば、彩色大扉絵 14 点および小挿絵
12 点と彩飾は少ない。Winn, op. cit., p.273.
21
22
Winn, ibid., p.281, fig.5.5a and 5.5b.
かつてジャック・ド・ブザンソン自身に帰された多
数の作品が現在は変更され、この画家の同定は明確で
はない。Winn, op. cit., p.66, note 27.
23
目次とほぼ一致する見出しによって物語を同定した
が、見出しの内容との関連性が不明のものもある。
̶ 41 ̶
ヴェラール版『変身物語』La Bible des poètes 研究 保井 亜弓
〔表 1〕
『変身物語』La Bible des poètes(1493/94)構成対応表
本文は、BN559 を基準とし、その構成および挿絵を BN560
表で使用した記号は以下のとおりである。
と大英図書館本と比較したものである。フォリオ番号は印刷
・◎ 同一場面で構図がとくに類似しているもの
に従いローマ数字で表記した。ただし、誤植箇所は訂正した
・○ 同一場面を描いているもの
ものを記した。フォリオ番号が付されていない場合はアラビ
・● BN560 と大英図書館本で共通する表現がみられるもの
ア数字で表記した。折丁の括弧内は印刷されたフォリオ番号
(共通点を表記)
の数字である。W は木版画、大小を大文字、小文字で示す。
・△ 構成要素あるいは構図に相違があるもの
木版画はすべて彩色されている。m は描かれた挿絵を示す。S
・× 異なる場面を描いているもの
は見出し上下の空間を示す。神名等の長音は原則として省略
相違は、人物等の位置反転、異なる場面設定のみ記した。
した。
̶ 42 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
̶ 43 ̶
ヴェラール版『変身物語』La Bible des poètes 研究 保井 亜弓
̶ 44 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
̶ 45 ̶
ヴェラール版『変身物語』La Bible des poètes 研究 保井 亜弓
̶ 46 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
油絵具シルヴァーホワイトの媒材研究
寺 田 栄 次 郎
1.はじめに−研究の目的
さまざまな乾性油で練り合わせ、その違いを比較し、
個別の絵具の可能性を探ろうとするものである。特
油絵具の特徴は、メディウムの多様さにある。使
に、油絵具の特色である、艶が強く粘り気の強い絵
用できる乾性油の種類も多く、
現在入手し易い油
(乾
具で、かつ乾燥の早い絵具にはどのような油を用い
性油)だけでも 10 種類近くに及ぶ。さらに、それ
たら良いかを、最も基本的な顔料であるシルヴァー
らの油の加工方法もさまざまで、太陽や空気に晒し
ホワイトで、実際に油絵具を作って調べてみた。
たサンシックンドオイル、加熱したボイルドオイル
などは手軽に加工でき、このほかにスタンドオイル
2.研究の方法
もある。さまざまな助材、添加剤を加えられること
も油絵具の特徴で、これには可塑剤・流れ止めとし
本研究では加工油、特にサンシックンドオイルに
ての金属石鹸と樹脂があり、それぞれ数種類が用い
焦点を絞っているが、それらの加工油の原料も生
られている。
油である。したがって、まず、さまざまな乾性油を
古い技法書や画家の工房記録などの幾つかを見る
生油の状態で練り、その違いを確認することから始
と、いかに画家たちが使用する油にさまざまな処理
めた。このばあい、顔料は全てホルベイン社のシル
を施し、工夫してきたかが伺われる。そして、近年
ヴァーホワイト顔料(以下、鉛白)を用いた。鉛白
の古典絵画の分析結果もまた、これを裏付けている。
100g に対する、乾性油の割合は全て 15g に統一し、
チューブ入り油絵具が市販される以前は、各画家の
さらに乾性油に添加する助材も、油に対してマグネ
工房で各自の油絵具を作っており、それゆえ、この
シウムステアレート 2.5% のみに統一した。樹脂や
ような工夫が盛んに行なわれたのであろう。
蜜蠟などを加えず、できるだけ単純な処方にした。
現在では油絵具は、もっぱら画材メーカーが製造
各種サンシックンドオイルのばあいも、同じ理由
販売し、この画家自身による絵具作りの手間は省か
から助材はマグネシウムステアレートのみである。
れ、
大変便利になっている。しかし、
その結果、
チュー
その量は、始め 1、2 種類は探りながら行なったが、
ブ内での長期保存と大量生産が必要条件となり、加
それ以後は鉛白 100g に対し油 14g、マグネシウムス
工した油は使われず、保存性の良い生油のみが使わ
テアレートは油に対し 3% で行なった。マグネシウ
れている。
ムステアレートの割合を生油のばあいより多くした
他方、溶き油用としては、かなり多くの種類の油
類が販売されており、
また現代の多くの技法書にも、
のは、サンシックンドオイルで練った絵具が、粘度
が高く流れやすいためである。
それらの優性が記されている。しかし、いかに溶き
ホルベイン社以外の鉛白のばあいは、粒度が違う
油を工夫しても、基本となる絵具の練り油、練り合
のか、メーカーごとに吸油量がことなっていた。こ
わせ材を変えない限り、マチエールや表現が本質的
れらの鉛白は全て、ホルベインの鉛白より少ない油
に改善されるはずは無い。
で練ることができた。このばあいの油は、全て自
本研究は、このような状況にかんがみ、油絵具を
製のサンシックンドリンシードオイルを用い、柔ら
̶ 47 ̶
[ キーワード ] サンシックンド・オイル 鉛白 粘り 艶
油絵具シルヴァーホワイトの媒材研究 寺田 栄次郎
かめに練って少しずつ鉛白を足していった。マグネ
7.7%である。
シウムステアレートの添加も、始め 2 種類では様子
を見る形で少なめであったが、それ以後は油に対し
ⅲ.リンシードオイル(亜麻仁油)
3.5% で実施した。この量が多くなった理由は、サ
亜麻の種から採れる油で、昔から最も多く用いら
ンシックンドリンシードオイルで練った絵具の粘度
れてきた油である。
が高く、流れやすいものであったためである。吸油
沃素価は 168 − 190(170 − 180)
、不飽和脂肪酸
量が少ないことから判断すると、恐らく顔料粒子が
組成は、オレイン酸 13 − 37.5%、リノール酸 4.5 −
大きめなのであろう。
29.1%、リノレン酸 25.8 − 53%で、飽和脂肪酸は数%
以下に個々の乾性油の性質と、
実験の概要を記す。
3.使用した乾性油 1
である。
ⅳ.サフラワーオイル(紅花油)
絵画用に使われ始めたのは、恐らく戦後ではない
1)使用した乾性油(生油)
かと思われる。ポピーオイルが高価であるため、殆
油の基本的な状態を確認するため、最初に全ての
ど同じ性質のサフラワー油がその代用として用いら
油を加工せず生で用いた。それぞれの油の基本的な
れるようになった。とりわけ1970年代には、高リノー
性質は以下のとおりである(実験順)
。
ル酸型が多く栽培されたため、画用に適したものが
多かったこともあると思われる。しかし現在の食用
ⅰ.クルミ油
サフラワー油は、高オレイン酸型に変わり、画用に
古い時代の文献記録にも度々現れ、特に 15 世紀
は適さないものになっている。イタリアのマイメリ
のイタリアでは割合多く使用していることが、分析
社から販売されており、また最近わが国の画材メー
データーから分かっている。しかし、現在では殆ど
カーからも販売され始めた。
使われていない。クルミは種類が多く、以前用いた
沃素価は 122 − 150、不飽和脂肪酸組成は、オレ
食用油では、極めて乾燥が遅く、満足な乾燥に至ら
イン酸 13.4 − 37.6%、リノール酸 39 − 79%、リノ
なかった。現在、画材用としては、イタリアのマイ
レン酸0.04−5.7%で、飽和脂肪酸4.8−18.8%である。
メリ社が販売しており、今回の研究ではこれを使用
した。
ⅴ.荏油
沃素価は 123 − 166(138 − 152)、不飽和脂肪酸
わが国での使用の歴史は古く、法隆寺の玉虫厨子
組成は、オレイン酸 14 − 28.8%、リノール酸 47.4 −
の密陀絵に使われたのもこの油であろうと考えられ
83%、リノレン酸 3.1 − 15.8%で、飽和脂肪酸を数%
ている。江戸末から明治始めにかけての油彩画でも
含んでいる。
使われている。リンシードオイルよりやや乾燥性に
優れている。
ⅱ.ポピーオイル(ケシ油)
沃素価は 162 − 208(193 − 203)
、不飽和脂肪酸
罌粟の種子から取れる油で、現在ではリンシード
組成は、オレイン酸 3.7 − 11%、リノール酸 31.9 −
オイルと並んでよく使われている。リンシードオイ
41.9%、リノレン酸 41.7 − 46.4%で、飽和脂肪酸は 6.7
ルほど黄化しないため、白や明るい色を練るのに用
− 7.2%である。
いられている。
沃素価は 131 − 143、不飽和脂肪酸組成は、オレ
ⅵ.紫蘇油
イン酸 28.3 − 30.1%、リノール酸 58.5 − 62.2%で、
食用であり、画用に使われた記述は見当たらな
リノレン酸は含有していない。飽和脂肪酸は 7.2 −
かったが、脂肪酸組成はリノレン酸を多く含み、沃
̶ 48 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
素価はリンシードオイルより高くてほぼ荏油と同じ
ラップをして保管する。
であるから、油彩画用として十分可能であろうと判
ロールミルに 3 時間 30 分かける。柔らかさは普通
断した。
で、可塑性があり、若干粘りもある。
沃素価は 190 − 201、オレイン酸 17%、リノール
多くの技法書の記述では、クルミ油の乾燥性はリ
酸 11%、リノレン酸 58% である。
ンシードオイルとポピーオイルの中間としている
が、この使用したクルミ油に関しては、市販のポピー
ⅶ.グレープシードオイル(ブドウ核油)
オイルやサフラワーオイルよりも、さらに乾燥性が
これも食用油として使われているが、油彩画に用
劣るものであった。乾燥後も光沢は弱いが、黄化は
いられた記述は見当たらなかった。
沃素価は低いが、
少ない。
リノール酸を多く含むことから試してみた。
顔料の量が多かったせいか、練り合わせに 3 時間
沃素価は 107 − 143(124 − 143)、不飽和脂肪酸
半を要した。
組 成 は、 オ レ イ ン 酸 12 − 33 %、 リ ノ ー ル 酸 45 −
72%、リノレン酸 0 − 2%で、飽和脂肪酸は 10%前
No.06 ポピーオイル(ホルベイン)
後である。
鉛白
500g
生ポピーオイル
75g
ⅷ.コメ油(米糠油)
マグネシウムステアレート
1.875g
半乾性油に分類されており、沃素価も低い。乾性
鉛白顔料:オイル
100:15
油との比較のため実施した。
油:マグネシウムステアレート
100:2.5
沃素価は 99 − 108 である。オレイン酸 40 − 50%、
ゲートミキサーに 1 時間かける。かなりトロトロ
リノール酸 29 − 42%、リノレン酸 0 − 1%である。
になる。普通の絵具状である。
ロールミルにかけて 30 分で柔らかくなり、1 時間
ⅸ.脱水ヒマシ油
を過ぎてほぼ絵具状になる。2 時間 15 分練る。やや
ヒマシ油(箆麻子油)は本来不乾性油であるが、
柔らかく滑らかで、かつ可塑性がある。
脱水素処理をしたものは乾燥性に富み、リンシード
オイルと同様に使用することができる。M. デルナー
2
No.08 リンシードオイル(ホルベイン)
は、乾きが遅く「後々まで粘ばつく」、と記している。
鉛白
500g
塗料用に用いられている。沃素価、脂肪酸組成は不
生リンシードオイル
87g
明である。
マグネシウムステアレート
2.175g
鉛白顔料:オイル
100:15
オイル:マグネシウムステアレート
100:2.5
4.主な処方とその概要
ゲートミキサーに1時間かける。かなり柔らかく、
1)生油
滑らかになる。クルミ油、ポピーオイルよりトロト
No.04 胡桃油(マイメリ)
ロしている。
鉛白
723g
ロールミルにかけ、1 時間 30 分で滑らかになる。
生クルミ油
110g
2 時間 30 分練る。
マグネシウムステアレート
2.75g
鉛白顔料:オイル
100:15
No.10 サフラワーオイル(マイメリ)
油:マグネシウムステアレート
100:2.5
鉛白
500g
生サフラワーオイル
75g
ゲートミキサーにかけた後、パレット上に取り、
̶ 49 ̶
油絵具シルヴァーホワイトの媒材研究 寺田 栄次郎
マグネシウムステアレート
1.875g
空ポンプをかけ、そのまま寝かせる。翌日様子を見
鉛白顔料:オイル
100:15
て、さらに 1 時間攪拌する。
油:マグネシウムステアレート
100:2.5
ロールミルにかけるが、25分ほどで柔らかくなる。
ゲートミキサーに 1 時間 30 分かける。通常より時
40 分でほぼ普通の絵具状になる。2 時間 15 分練る。
間がかかったのは、
湿度が高かったせいであろう(7
柔らかいが若干粘りがある。可塑性は普通である。
月 6 日実施)
。普通の絵具程度の柔らかさで、トロ
サフラワーオイルであるが、乾燥は早い。先の荏
トロした状態になっている。
油(No.11)同様、酸化しているのであろう。
やはり湿気が高めであったせいか、ロールミルに
かけても時間がかかる。1時間15分で柔らかくなる。
No.24 荏油(食用油、えごま種子油、朝日 ST)
2 時間 25 分練る。最終的にはトロトロした滑らかな
鉛白
500g
状態になるが、可塑性はある。
生荏油
75g
マグネシウムステアレート
1.875g
No.11 荏油(塗料用、20 年ほど以前のもの)
鉛白顔料:オイル
100:15
鉛白
500g
オイル:マグネシウムステアレート
100:2.5
生荏の油
75g
使用した油は、(株)朝日STの食用油、えごま
マグネシウムステアレート
1.875g
種子油で、α−リノレン酸(オメガ 3)58g/100g と
鉛白顔料:オイル
100:15
表示がある。
油:マグネシウムステアレート
100:2.5
ゲートミキサーに 1 時間 30 分かける。1 時間 10 分
油は、塗料用で 23 − 24 年以前に購入した、500g
で真空ポンプをかける。真空のまま保管する。
入り瓶である。3 分の 2 くらいが残っており、密栓
ロールミルに 3 時間かける。十分に練ることを心
して冷暗所に保管してあった。
がけ、3 時間かけるが、ロールを締めすぎたせいか、
ゲートミキサーに 1 時間 30 分かける。1 時間で真
金属ロールの擦れを生じ、絵具が灰色っぽくなって
空ポンプをかけ、そのまま寝かせる。
しまう。乾燥後はこれが酸化し、黄化が強めになる。
ロールミルにかけると、これより前の、4 種類の
油のばあいより、練り始めは硬かったが、30 分で
No.25 紫蘇油(食用油、食用紫蘇油、紅花食品)
普通の絵具状になり、1 時間余りで柔らかくなる。
鉛白
500g
2 時間 10 分練る。5 種類の油の中ではもっとも柔ら
生紫蘇油
75g
かい絵具である。可塑性はある。
マグネシウムステアレート
1.875g
練り始めは硬いが、すぐに柔らかくなったのは、
鉛白顔料:オイル
100:15
オイルが古いため、幾らか酸化しており、濡れが良
油:マグネシウムステアレート
100:2.5
いためであろう。
マグネシウムステアレートを加えて過熱する際、
大変臭い。リノレン酸が多いせいであろう。
No.14 サフラワーオイル(30 年前の食品用)
ゲートミキサーでまず 1 時間攪拌、比較的早く柔
鉛白
500g
らかくなる。さらに真空にして 1 時間攪拌し、その
サフラワーオイル
75g
まま保存する。
マグネシウムステアレート
1.875g
ロールミルにかけてしばらく練るが、やや固めの
鉛白顔料:オイル
100:15
ように感じられた。1 時間 30 分を過ぎてやや柔らか
油:マグネシウムステアレート
100:2.5
くなり、市販の油絵具くらいの柔らかさになる。2
ゲートミキサーに 1 時間 30 分かける。20 分で真
時間で柔らかい絵具になる。3 時間あまり練る。
̶ 50 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
No.26 グレープシードオイル(食用油、
日清食品)
マグネシウムステアレート
1.875g
鉛白
500g
鉛白:オイル
100:15
生グレープシードオイル
75g
油:マグネシウムステアレート
100:2.5
マグネシウムステアレート
1.875g
生油にしてはかなり粘度が高い。
鉛白顔料:オイル
100:15
ゲートミキサーに 1 時間かけ、その後さらに真空
油:マグネシウムステアレート
100:2.5
にして 1 時間かける。そのまま保存する。
油はやや淡い緑色を呈しており、加熱してもさし
ロールミルにかけるが、なかなか柔らかくならな
て色は変わらない。加熱時のにおいは大変弱い。
い。練り始めて30分では光沢が無く、可塑性がある。
ゲートミキサーで 1 時間攪拌の後、さらに真空に
1 時間ほどで柔らかくなり始める。2 時間ほどで柔
して 1 時間攪拌し、そのまま保存する。
らかくなる。2 時間半練る。
ロールミルにかけた練り初めは、
やや硬めである。
生油としては絵具の乾燥が早い。黄化は少ないが、
1 時間あまりでやや柔らかくなり始め、2 時間を過
艶も弱い。
ぎて柔らかい絵具になる。2 時間 45 分ロールミルに
かける。
2)加工油(サンシックンドオイルなど)
リンシードオイルとはことなり、ポピーオイルと
No.12 サンシックンドリンシードオイル 1(自製)
同じくらいの可塑性があるように思う。
鉛白
500g
サンシックンドリンシードオイル(自製)75g
No.27 コメ油(食用油、ボーソー)
マグネシウムステアレート
1.875g
鉛白
500g
鉛白:オイル
100:15
生コメ油(ボーソー)
75g
油:マグネシウムステアレート
100:2.5
マグネシウムステアレート
1.875g
マグネシウムステアレートの加熱溶解時、気泡が
鉛白:オイル
100:15
激しく出て、なかなか収まらない。
油:マグネシウムステアレート
100:2.5
ゲートミキサーに 1 時間 10 分かける。途中で真空
マグネシウムステアレートの加熱溶解時、幾らか
にし、そのまま保存する。
泡が出る。それほど強くないが、
米のにおいがする。
ロールミルにかけるが、なかなか柔らかくならな
ゲートミキサーに 1 時間かけるが硬めである。真
い。絵具は、練り始めから粘りがあり、糸を引く。
空にしてさらに 1 時間かけるが、やはり硬めである。
2 時間半を過ぎてもやや練りが足らない感がある。
そのまま保存する。
3 時間 10 分練る。
ロールミルにかけるが、しばらく練ってもやや固
乾燥は早く粘りがあり、流れやすく艶が強い。
めであり、可塑性も強い。2 時間余りでやっと柔ら
かくなり始め、2 時間 30 分ほどで柔らかくなる。3
No.13 リンシードオイルバニッシュ(ドイツ、
時間練る。やはり可塑性が強い。
ゲルステンデルファー社より)
半乾性油であるため、大変乾燥が遅い。薄塗りで
鉛白
500g
も乾燥に半月以上を要する(1 月に実施)
。乾燥後
リンシードオイルバニッシュ
75g
の光沢も弱い。
マグネシウムステアレート
1.875g
鉛白:オイル
100:15
No.28 脱水ヒマシ油(工業用、ナカイテクス)
油:マグネシウムステアレート
100:2.5
鉛白
500g
この油はやや粘度が高く、若干濁りがあって透明
脱水ひまし油
75g
感が弱く、色も濃いものである。ターレンス社のボ
̶ 51 ̶
油絵具シルヴァーホワイトの媒材研究 寺田 栄次郎
イルドリンシードオイルに似ている。
それから先柔らかくなるまでに時間がかかる。1 時
ゲートミキサーにかけ、15 分ほどで真空ポンプ
間半で柔らかくなり始め、2 時間 30 分で市販油絵具
を作動させる。いつもより早く真空にしたのは、こ
程度の柔らかさになる。粘りがあり、流れ易い絵具
の油が速乾性油とされているためである。1 時間か
である。
ける。暫くしてから様子をみると、大変トロトロの
練り上がった絵具から判断すると、このようなサ
状態になっている。さらに拡販を続け、合計 2 時間
ンシックンドリンシードオイルのばあい、マグネ
かける。真空にしたまま寝かせる。
シウムステアレートは油 100 に対し、2 では少なく、
ロールミルにかけるが、30 分で柔らかい絵具状
かえって 3 くらいが良いように思われた。
になり、50 分でほぼでき上がったように見えたが、
2 時間練る。
No.30 サンシックンドリンシードオイル 2(自製)
大変軟らかくい絵具である。可塑性はあまり無い
鉛白
500g
が、粘りも無い。
サンシックンドリンシードオイル
70g
マグネシウムステアレート
2.1g
No.29 サンシックンドポピーオイル(自製)
鉛白:オイル
100:14
鉛白
500g
油:マグネシウムステアレート
100:3
サンシックンドポピーオイル
72.5g
先の No. 12より油の量を 5g 減らして実施した。
マグネシウムステアレート
1.45g
油にマグネシウムステアレート過熱溶解する際、
鉛白:オイル
ひどく泡がでる。ポピーオイルと違い、刺激臭があ
100:14.5
油:マグネシウムステアレート
る。油はかなり粘度が高い。
100:2
これ以前の絵具では鉛白 100:オイル 15g の割合
ゲートミキサーに 1 時間かけ、真空にしてさらに
にし、そのメディウムはオイル 100g に対しマグネ
15 分攪拌する。かなり固めの団子状である。その
シウムステアレート 2.5g で実施してきた。
まま真空にして保管する。
しかし、リンシードオイルや荏油のような、リノ
ロールミルにかけるが、練り始めでも硬く粘りが
レン酸を多く含む油と違い、ポピーオイルのように
あり、糸を引き弾力がある。しばらく練っても硬い
殆どリノレン酸を含まない油では、可塑性が出やす
が、流れ易い。2 時間 30 分ほどで柔らかくなり始め
いことから、サンシックンドオイルではあるが、マ
る。3 時間練る。粘りがあって硬い絵具である。
グネシウムステアレートの量を、オイル 100g に対
油のサンシックンドをもう少し弱くしたほうが良
して 2g にして実施してみた。乾性油の違いを見る
いと思われた。
ことが目的であるから、助材の量はできるだけ少な
いのが望ましいと考えたからである。
No.31 サンシックンドポピーオイル(自製)
また、ここまで作った絵具が、すべて若干柔らか
顔料
500g
めであったことから、オイルの量もさらに減らして
サンシックンドポピーオイル
70g
練った。
マグネシウムステアレート
2.1g
ゲートミキサーに 1 時間かける。粘りがあり艶も
鉛白:油
100:14
ある。真空にして 15 分攪拌する。やや硬めである。
油:マグネシウムステアレート
100:3
そのまま真空にして保管する。
前々回の No. 29が軟らかすぎで切れも悪かった
ロールミルにかける。粘りと光沢があり、やや硬
ため、上記の割合で実施する。
めである。糸を引き、弾力がある。加工油の常とし
ゲートミキサーに 30 分かけ、真空にしてさらに 1
て、濡れが良く、したがって練り始めは早く進むが、
時間攪拌する。硬めである。真空にして保管する。
̶ 52 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
ロールミルにかけるが、硬く艶はあまり無い。先の
度が高い。
No. 30より、やや可塑性はあるが、流れ易い。
加熱時、やはりひどくあわ立ち、刺激臭がある。
2 時間乃至 2 時間 30 分でやわらかくなるが、粘り
ゲートミキサーに 30 分かけるが、粘りと艶があ
があり硬い。3 時間練る。
り硬い。真空で保存する。
ロールミルにかけ、1 時間ほどでは、粘りがあっ
No.32 サンシックンドクルミ油(自製)
て糸を引き、硬めで弾力がある。
鉛白
500g
3時間練っても硬いままであるため、油のみ 2.5g
サンシックンドクルミ油
70g
足して 30 分練る。やや柔らかくはなるが、まだ硬
マグネシウムステアレート
2.1g
めであるため、さらに油を 2.5g 足し、さらに 30 分
鉛白:油
100:14
練る。4 時間練る。
油:マグネシウムステアレート
100:3
絵具は硬く筆に重く、糸を引く。やや流れやすそ
油は粘度が高く、加熱時、ひどく泡が出る。
うに思われる。
ゲートミキサーに 30 分かけてから、真空にして 1
この油は、硫酸亜鉛が溶けている分、油も絵具も
時間攪拌するが、やはり硬めである。真空のまま保
通常のサンシックンドリンシーのみのばあいより、
管する。
硬いものになったと思われる。
ロールミルにかけるが、硬い。艶はあまり無く、
絵具の乾燥は早い。チューブに詰めたあと、かな
やや可塑性がある。
り膨張する。
2 時間ほど練ってやや柔らかくなり始める。2 時
間 30 分で柔らかくなるが、粘りがあり硬い。3 時間
で大変滑らかになり、柔らかくなる。No.31 より柔
No.34 サンシックンドリンシードオイルバニッシュ
(自製)
らかいように思われる。
鉛白
硬く筆に重く、糸を引く。やや流れ易い絵具かも
サンシックンドリンシードオイルバニッシュ 70g
しれない。
マグネシウムステアレート
2.1g
顔料:油
100:14
No.33 サンシックンドリンシードオイル(シュ
油:マグネシウムステアレート
100:3
トラスブルク写本を基に)
油はリンシードオイルバニッシュ(No.13、ゲ
鉛白
500g
500g
ルステンデルファー社より)をサンシックンドして
サンシックンドリンシードオイル 開始時 70g
自製したものである。もとの油はそれほど強い乾燥
終了時 75g
性が無かったこともあり、このような処理を試みた。
マグネシウムステアレート
加熱時あまり泡は出ない。
鉛白:油
2.1g
開始時 100:14
ゲートミキサーに 30 分かける。粘りと艶があり、
終了時 100:15
硬い。真空にして、さらに 1 時間かける。そのまま
油:マグネシウムステアレート 開始時 100:3
保管する。
終了時 100:2.8
ロールミルにかけてすぐに少し柔らかくなるが、
3
オイルは、シュトラスブルク写本 に基づいて処
その後は中々柔らかくならず、いくらか硬めで弾力
方したもの。リンシードオイルを骨灰と軽石粉と
があり、やや糸を引く。若干可塑性がある。粘りの
共に加熱し、少し冷ましてかつまだ熱いうちに硫
あるパスタ生地のようである。
酸亜鉛を加え、日に晒して濃化させたものである。
2時間30分ほど練ると滑らかになるが、粘りがあっ
No . 29 以後のサンシックンドオイルの中で、最も粘
て硬い。3 時間あまり練る。
̶ 53 ̶
油絵具シルヴァーホワイトの媒材研究 寺田 栄次郎
シックンドオイルのものに比べ、割合早く軟らかく
やや硬く、筆に重く、糸を引く。
なる。あまり艶は無く、やや粘度が高い。
No.35 サンシックンドグレープシードオイル
(自製)
1 時間ほど練った段階で、軟らかさは普通であり、
鉛白
500g
糸を引く。2 時間ほど練ると、通常の絵具のように
サンシックンドグレープシードオイル
70g
なる。2 時間 30 分ほど練る。よく練れており、かな
マグネシウムステアレート
2.1g
り軟らかい。サンシックンドオイルの中では、最も
鉛白:油
100:14
可塑性がある。艶は普通である。したがって、サン
油:マグネシウムステアレート
100:3
シックンドオイルにしては、艶が弱い。
油は食用油(No . 26)をサンシックンドしたもの
やや筆に重く、糸を引く。
である。油の粘度はかなり高い。加熱時、ひどく泡
立つ。サンシックンドポピーオイルとほぼ同じにお
No.37 サンシックンドサフラワーオイル(自製)
いである。
鉛白
500g
ゲートミキサーに30分かける。粘りと、
艶があり、
サンシックンドサフラワーオイル
70g
硬い。真空にしてさらに 1 時間かける。やはり硬め
マグネシウムステアレート
である。真空のまま保存する。
鉛白:油
100:14
ロールミルにかけ始めた時はかなり硬いが、すぐ
油:マグネシウムステアレート
100:3
に少しだけ柔らかくなる。粘りがあり、硬めで、や
油は、マイメリ社の描画用(No. 10)をサンシッ
や糸を引き、弾力がある。あまり艶は無く、可塑性
クンドしたものである。油の粘度はかなり緩めであ
がある。3時間練っても滑らかにならず、
粘りがあっ
る。加熱時やや泡立つ。
て硬い。4 時間練る。絵具はよく練れているが、極
ゲートミキサーに 30 分かける。やや粘りあり、
めて硬い。硬くて大変筆に重く、糸を引く。
軟らかいが、艶はない。真空にして 1 時間攪拌、や
2.1g
はり柔らかめである。そのまま保存する。
ロールミルにかける。はじめ硬いがすぐに柔らか
No.36 サンシックンドコメ油(自製)
鉛白
500g
くなる。サンシックンドコメ油(No. 36)より、さ
サンシックンドコメ油
70g
らに粘りは少なく、軟らかめで、やや糸を引き、可
マグネシウムステアレート
2.1g
塑性がある。割合早く軟らかくなる。
鉛白:油
100:14
1 時間ほど練った段階で、軟らかさは普通であり、
油:マグネシウムステアレート
100:3
糸を引く。1 時間 10 分あまりで、通常の絵具のよう
油は食用油(No. 27)をサンシックンドしたもの
になり、1 時間 40 分で滑らかになる。
である。リンシードオイルはもちろん、ポピーオイ
2 時間 30 分ほど練る。大変よく練れており、かな
ルなどに比べても、ある程度濃化するまでに大変時
り軟らかい。市販絵具よりは筆に重く、糸を引く。
間を要する。油の粘度はかなり高い。加熱時、かな
り泡立つ。
No.38 サンシックンド荏油(自製)
ゲートミキサーに30分かけるが、
粘りがあり硬い。
鉛白
500g
真空にしてさらに 1 時間攪拌する。やはり硬めであ
サンシックンド荏油
70g
る。そのまま保管する。
マグネシウムステアレート
2.1g
ロールミルにかけるが、これまで実施した全ての
鉛白:油
100:14
サンシックンドオイルより、粘りは少なく、軟らか
油:マグネシウムステアレート
100:3
めである。やや糸を引き、可塑性がある。他のサン
油は「山桂産業」社の 500cc 入りをサンシックン
̶ 54 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
ドしたものである。油の粘度は普通、ないしやや緩
油:マグネシウムステアレート
100:2.5
めである。加熱時はやや泡立つ。リノレン酸系特有
油は加熱時気泡が激しい。
の臭いがする。
この顔料はやや黄色身を帯びているように見え、
ゲートミキサーに 30 分かける。やや粘りあり、
油を加えると特にそれが目立った。見かけ上粒子は
軟らかいが、艶はない。真空にして 1 時間攪拌、や
細かい感触があった。そこでマグネシウムステア
はり柔らかめである。そのまま保存する。
レートも、油 100 に対し 2.5 に減らし、顔料に対す
ロールミルにかける。初めは硬いが、すぐに少し
る油の量も 100:15 で実施した。
軟らかくなる。粘りは強く、硬めで、糸を引き、可
ゲートミキサーにかける前にナイフで混ぜると、
塑性が弱い。
かなりボソボソした団子状で、国産画材メーカーの
1 時間ほど練った段階で、やや硬めであり、糸を
鉛白を使ったときのように粉っぽくならない。
引く。2 時間 30 分位で通常の絵具の状になるが、粘
ゲートミキサーに 1 時間 10 分かける。柔らかく滑
度は高く、やや硬めで光沢がある。3 時間 15 分練る。
らかになったところで真空ポンプをかける。一旦、
滑らかになる。よく練れており、やや重く粘りが強
真空のまま保管する。この段階で、かなり粘度が高
い。サンシックンドオイル練り油絵具としては、艶
いように見えた。このあと、さらに 1 時間真空にし
は普通である。市販油絵具より筆に重く、やはり糸
て攪拌する。
を引く。
ロールミルにかけるが、始めから絵具状で、練る
ほどにトロトロと流れるようになる。少しずつ鉛白
3)鉛白顔料の違い
を足しながら練り、最終的には 125g 加える。した
今回の実験では、基本的に国産画材メーカーの顔
がって鉛白 625g:油 75g であり、100:12 になった。
料を用いたが、比較のため他の幾つかの他の鉛白も
鉛白を少しずつ追加しながら練ったため、4 時間 30
試みた。実施したのは、ドイツ製の鉛白(画材用)
分を要した。
1種類、試薬塩基性炭酸鉛4社6種類、それに陶磁
出来上がった絵具は柔らかく、可塑性が無く流れ
器用鉛白1種類である。
やすい。色も黄色味を帯びている。
メディウムには、全て自製のサンシックンドリン
油はさらに減らし、鉛白 100:油 11.5 でも可能だ
シードオイルを用い、これに No.15 以外は 2.5%の
と思われる。
マグネシウムステアレートを加えた。
これらのうち、試薬の中の 1 種と、国産画材用、
No.16 関東化学、試薬一級塩基性炭酸鉛
ドイツ製画材用、国産陶磁器用の 4 種類については、
鉛白
開始時 500g
終了時 680g
「修復研究所21」
に成分分析を依頼した。
その結果は、
基本的になんら添加物は無く、全て鉛白のみである
サンシックンドリンシードオイル(自製)85g
と云うことであった。
マグネシウムステアレート
鉛白:油
開始時 100:17
終了時 100:12.5
No.15 ゲルステンデルファー社より
鉛白
2.125g
開始時 500g
油:マグネシウムステアレート
終了時 625g
先 の No.16 の 結 果 か ら、 鉛 白 500g に 対 し、 油
100:2.5
サンシックンドリンシードオイル(自製)75g
70g とマグネシウムステアレート 1.75g で始める。
マグネシウムステアレート
油は加熱時気泡が激しい。
鉛白:油
1.875g
開始時 100:15
ゲートミキサーに掛け、しばらくしても粉状のま
終了時 100:12
まである。油5gにステアリン酸マグネシウム0.125g
̶ 55 ̶
油絵具シルヴァーホワイトの媒材研究 寺田 栄次郎
を加熱溶解して加え、再び攪拌する。さらにしば
鉛白
開始時 555.6g
終了時 576.9g
らくしても粉状である。同様に油 10g に金属石鹸を
0.25g 加熱溶解し加える。しばらくして団子状に、
サンシックンドリンシードオイル(自製)75g
さらにはペースト状になる。そのまま攪拌、真空に
マグネシウムステアレート 2.625g
して保管する。
鉛白:油
開始時 100:13.5
三本ロールミルにかける。ほとんど絵具状であ
終了時 100:13
り、練ると大変軟らかい。No.16 と同じく、100:
油:マグネシウムステアレート 100:3.5
16.5,100:16,100:15.5・・・と云うように、少
油の加熱時、気泡が激しい。
しずつ鉛白を加えながら練る。最終的に 180.1g 追加
ゲートミキサーに 35 分かけ、さらに真空にして
する。これで鉛白 100:油 12.5 になる。
45 分かけ、硬めの絵具状にする。さらに鉛白 21.4g
粘りが強く、
重いが、
軟らかく流れ易い。したがっ
を加えて攪拌、さらに真空にして 1 時間攪拌し、保
て可塑性が無い。やや黄色い。
管する。
鉛白 100:油 12 でも可能かもしれない。
ロールミルにかけるが、かなり硬く、1 時間ほど
かけてもかなり硬い絵具状である。3 時間 30 分ほど
No.17 関東化学、試薬特級塩基性炭酸鉛
で柔らかくなる。4 時間 30 分ほど練ってやっと滑ら
鉛白
かになる。
開始時 550g
終了時 666.7g
サンシックンドリンシードオイル(自製)80g
No.19 林純薬試薬特級塩基性炭酸鉛
マグネシウムステアレート
鉛白
鉛白:油
2.0g
開始時 555.6g
終了時 576.9g
開始時 100:14.55
サンシックンドリンシードオイル(自製)75g
終了時 100:12
油:マグネシウムステアレート 100:2.5
マグネシウムステアレート 2.625g
油はいつもどおりである。鉛白 400g、油 60g とマ
鉛白:油
開始時 100:13.5
終了時 100:13
グネシウムステアレート 1.625g で始める。
1時間ほどゲートミキサーにかけるが量が少なく、
油:マグネシウムステアレート 100:3.5
空回りするため、油 20g とマグネシウムステアレー
油の加熱時、気泡が激しい。
ト 0.375g を加熱調整し、鉛白 50g とともに加え、さ
ゲートミキサーにまず 45 分かけ、さらに真空に
らに鉛白 100g を足して攪拌する。真空にして 30 分
して 1 時間かける。そのまま保管する。
攪拌すると、ほぼ絵具状になった。そのまま保管す
ロールミルにかけ、1時間ほどでやや柔らかくなっ
る。
た の で、 鉛 白 21.4g を 加 え る。2 時 間 ほ ど 練 る が、
ロールミルにかけ、練りながら鉛白を加える。順
かなり柔らかい絵具になる。
次加え、合計 116.7g 追加する。これで顔料 100:油
粘りが強く、やや柔らかいが筆には重い。可塑性
12 である。ここまで 1 時間 30 分を要する。
はある。
その後 1 時間 30 分練ると柔らかくなり始め、さら
に 2 時間あまり、したがって合計 5 時間以上練る。
No.20 和光純薬試薬 EP 塩基性炭酸鉛
先の No.16 の結果から、顔料 100:油 12 にしたが、
鉛白
この鉛白のばあいは 12.5 でも良いのかもしれない。
サンシックンドリンシードオイル(自製)75g
No.18 林純薬試薬一級塩基性炭酸鉛
500g
マグネシウムステアレート
2.625g
鉛白:油
100:13
̶ 56 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
終了時 100:10.5
油:マグネシウムステアレート 100:3.5
油の加熱時、気泡が激しい。
油:マグネシウムステアレート 100:3.5
ゲートミキサーに 40 分かけ、硬いペースト状に
加熱時、気泡が激しい。
なったところで真空にして 1 時間攪拌する。
ゲートミキサーで攪拌するが、今までの鉛白と異
ロールミルにかけるが、硬いペースト状である。
なる様子が見られた。30 分フック型ビーター攪拌
2 時間程でやや柔らかくなり、3 時間で滑らかにな
するが、粉状のままであったため、ビーターをリン
るが、No.15 よりは硬めである。3 時間 30 分ほど
グ型に変えた。変えて 20 分ほどで粉が少しずつ塊
練る。
状になり、40 分で団子状になる。1 時間 10 分攪拌す
艶は強めで、可塑性はある。練り加減は中程度の
るが、完全にペースト状である。真空ポンプを 30
硬さである。
分かけた後、そのまま保管する。
ロールミルに掛けるが、硬めである。2 時間を過
No.21 米山薬品試薬塩基性炭酸鉛
ぎて柔らかくなり始め、3 時間を過ぎてかなり柔ら
鉛白
開始時 538.5g
かくなったので、鉛白 23.3g を加える。
終了時 608.7g
5 時間で再び柔らかくなり、5 時間半でさらに急
サンシックンドリンシードオイル(自製)70g
に柔らかくなる。6 時間練る。
マグネシウムステアレート 2.45g
大変練りづらかった。粘りが強く、極めて筆に重
鉛白:油
開始時 100:13
い。練りづらいためロール幅を締めすぎ、鉄ロール
終了時 100:11.5
の擦れを生じて、色が悪くなってしまった。
油:マグネシウムステアレート 100:3.5
加熱時、気泡が激しい。
No.23 大西陶磁器材料店、唐の土
ゲートミキサーに 1 時間 10 分かけたところで、
鉛白
800g
真空にしさらに 30 分攪拌する。真空にしてしばら
生リンシードオイル
80g
く保管する。中を確認すると柔らかいので、鉛白
鉛白:油
100:10
44.8g を足し少し攪拌し、真空にしてさらに 40 分攪
マグネシウムステアレート 添加せず
拌する。そのまま保管する。
油は加熱せず、ゲートミキサーにかける。いつま
ロールミルにかけ、30 分余りで柔らかくなった
でも粉状のままである。2 時間程で団子状になり始
ので、鉛白 24.5g を足す。一旦硬くなるが、2 時間
め、真空ポンプをかける。3 時間ほどでペースト状
でやや柔らかくなり、3 時間で滑らかになる。
になる。
かなり軟らかく、かつ粘りがあり、可塑性もある。
ロールミルにかけるが、始めからトロトロしてお
硬練りなら、
もう少し鉛白は加えられると思われる。
り、その中に油となじまないままの顔料の二次粒子
試薬の鉛白では、最も吸油量が少なかった。販売中
がある。前ローラーに移すと、これが潰れ、粉を吹
止になったのは残念である。
き出す。
1 時間で絵具状になり、やや柔らかめである。2
時間弱練る。
No.22 大西陶磁器材料店、唐の土
鉛白
開始時 636.4g
終了時 656.7g
5.おわりに ― 結論と今後の課題 ―
サンシックンドリンシードオイル(自製)70g
マグネシウムステアレート
鉛白:油
2.45g
開始時 100:11
以上の結果、生油では、一般に云われるように、
リノレン酸を多く含む乾性油が乾燥性も良く、光沢
̶ 57 ̶
油絵具シルヴァーホワイトの媒材研究 寺田 栄次郎
もあり優れていることが確認できた。ただし黄化を
課題であろう。
生ずる。通常使われている乾性油以外では、食用の
紫蘇油と荏油(えごま油)が、リンシードオイル同
謝辞
様に使えるものであることが確認された。
本研究に当たっては、次の方々の協力を得た。愛知
しかし、それ以上に、今回の実験ではっきりした
県立芸術大学客員教授 歌田真介、金沢学院大学客
ことは、サンシックンドオイルが、生油に比べ、絵
員教授 小田根五郎、東京藝術大学大学院教授 木
具の練り油として、光沢の点でも乾燥性の点でも、
島隆康、愛知県立芸術大学教授 久保田裕、多摩美
また油絵具らしい粘りのあるマチエールの点でも、
術大学教授 高橋幸彦、修復研究所 21 研究員 宮
はるかに優ると云うことである。
田順一(敬称略、五十音順)、さらに、この研究に
油の種類については、やはりリノレン酸型の乾性
協力して頂いた、本学ならびに金沢学院大学の学生
油をサンシックンドしたものが乾燥も早く、乾燥後
の皆さん方にも、心から感謝いたします。
の皮膜も優れるように思われた。手板に塗りつけた
限りではどれも皮膜は十分乾燥するが、一部のもの
註
を作画に用いた限り、やはりリノール酸型の乾性油
1
は、戻りを生じ易く、乾燥後の皮膜の固化が悪いよ
うに思われた。
7、26、27、による。
2
が強く流れやすいものであり、したがって、より油
マックス・デルナー『絵画技術体系』美術出版社、
1980 年、p.158。実験の結果では、乾燥の遅いものではな
鉛白の違いについては、給油量が小さい顔料は練
りにくいものであったが、出来上がる絵具は、粘り
以下の乾性油の脂肪酸組成、及び沃素価については、
日本油化学協会編『油脂化学便覧』丸善、
1958 年、pp.2 − 4、
かった。
3
V&R Borradaile“The Strasburg Manuscript ”Alec
Tiranti, 1966, pp.54,55
絵具らしいものになった。ただし、黄化は同じか、
本研究は平成 20、21 年度発展研究の成果である。
あるいはかえってひどいかもしれない。この点につ
いては、好みの問題でもあろう。
(てらだ・えいじろう 共通造形センター/絵画組成)
油絵具のメディウムは多様であるから、サンシッ
(2009年10月30日受理)
クンドオイル以外の要素についても、調べる必要が
あろう。とりわけ、樹脂油絵具は、いわゆる混合技
法用だけではなく、油彩画用としても重視されてい
るものであるから、研究する必要があろう。
ボイル油についても試験してみたい。
さらに、乾性油に重合型の乾燥促進剤を加え、密
栓して太陽光に晒したばあい、一種の鹸化した油が
できる。これもすでに、リンシードオイルとポピー
オイル、
及びその配合油では実際に試み始めており、
一定の結果を得ているが、他の乾性油でも実験する
価値があると思われる。
スタンド油は自製することは難しく、市販品に頼
らざるを得ないが、上記の種々の加工油、とりわ
けリノレン酸型のサンシックンドオイルと、リノー
ル酸型のそれとスタンドオイルを適切に配合したメ
ディウムなど、興味深いものである。これも今後の
̶ 58 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
ルーヴル美術館のカルコグラフィー 1
神 谷 佳 男
はじめに
(Dictionnaire de la langue française,1872∼1876年)
の中で定義した「カルコグラフィー」の言葉を引用
ヨーロッパの美術館や博物館の中には、銅版画の
し、以下のように説明している。2
原版をコレクションしているところが多数ある。な
1 カルコグラフィー術。凹版画と同義。
かでも 14,000 点以上という原版数を誇り、それらを
2 凹版画をおこなう施設、凹版画工房そのもの。
用いて今もなお印刷、版画作品を販売しているとこ
3 ある版画コレクションの名称 。 ルーヴル美
ろが「ルーヴル美術館のカルコグラフィー」である。
術館のカルコグラフィーは、同館所蔵の版画
「カルコグラフィー」と呼ばれる名称がまだ存在
の原版とそれらの版画コレクションからなる。
しなかったルイ 14 世の時代に始まった版画の原版
ルーヴル美術館のカルコグラフィーが所蔵す
コレクションは、日本で知られている藤田嗣治の
る原版目録及びルーヴル美術館で販売してい
エッチングや長谷川潔のビュラン作品も含まれ、現
る版画作品のカタログ。
在活躍中の作家の作品の原版とともに、銅版画技法
史の宝庫といえる。
ここで言う凹版画とは金属凹版画のことである
本稿は、「ルーヴル美術館のカルコグラフィー」
が、金属凹版画に使用される金属は一般に銅である
の版画工房でおこなわれている版画の原版印刷の実
ことから、凹版画は銅版画であると言い換えること
態を中心に紹介するものである。
ができ、リトレの定義を平易に書き直せば、
「カル
コグラフィー」とは以下のようになろう。
ルーヴル美術館のカルコグラフィーの歴史
1 銅版画、銅版画技法。
2 銅版画印刷工房。
3 銅版画コレクションのこと。つまりルーヴル
カルコグラフィーとは
ルーヴル美術館を何度か訪問した人でさえ、
「ルー
美術館所蔵の版画の原版及び版画作品コレク
ヴル美術館のカルコグラフィー」
を知る人は少ない。
ション。また、ルーヴル美術館で販売してい
「 カ ル コ グ ラ フ ィ ー」 と は フ ラ ン ス 語 で
る版画作品のカタログ及びルーヴル美術館の
Chalcographie と書くが、ギリシァ語の ǘǂnjNjǐǓ(銅
カルコグラフィー所蔵の版画の原版カタログ
の意)と DŽǒƽǗdžNJǎ(書く・描くの意)を語源とし、
のこと。
銅に書かれた(描かれた)ものという意味になる。
19 世紀のリトレの時代には「カルコグラフィー」
ルーヴル美術館のインターネットのウェブサイト
の意味するところは広範囲だった。「ルーヴル美術
(http://www.chalcographiedulouvre.com) に は、
館所蔵の版画の原版で印刷された版画作品」であり、
19 世紀フランスの事典編纂者で哲学者のエミー
「ルーヴル美術館内の版画作品販売所(ブティック)
」
ル・ リ ト レ(Emile Maximilien Paul Littré 1801
や「銅版画印刷工房」だった。かつてはルーヴル美
年 ∼ 1881 年 パ リ 生、 パ リ 没 ) が フ ラ ン ス 語 辞 典
術館内に「銅版画印刷工房」が「銅版画作品販売所(ブ
̶ 59 ̶
[ キーワード ] カルゴグラフィー ルーヴル美術館 銅版画
ルーヴル美術館のカルコグラフィー 神谷 佳男
ティック)
」と同様に存在していたというから、想
Louvre)と表記しなければならないほど、版画印刷
像に難しくない。しかし、今日同館の象徴的存在で
工房の存在が薄れてしまったかのようだ。
あるピラミッドの下には美術館案内所やミュージア
ムショップが集まり、その中の書籍売り場を上って
ルーヴル美術館のカルコグラフィーの歴史
彫刻作品のレプリカなどを眺めながら、さらにその
ルーヴル美術館のカルコグラフィーに関連する歴
奥の隅にある「ルーヴル美術館のカルコグラフィー
の版画」(Estampes de la Chalcographie du Musée
史事項を、以下簡単に列挙する。
du Louvre)と書かれた看板に気付く人がどれだけい
1660 年
るだろうか。(写真1)
コルベールにより「王 の 版 画 原 版 収 集
室」
( Le Cabinet des Planches gravées
そこが「ルーヴル美術館のカルコグラフィー」の
du Roy)のコレクションが始まる。
ブティックであり、版画工房で印刷された版画作品
3
を販売するところである。 数年前まで人通りの多
サン・ジャン・ド・リュズ勅令が出され、
い比較的目に付きやすい階下のもう一つのブティッ
版画家たちの仕事の自由が保障される。
クと螺旋階段で繋がっていたが、現在子供用グッ
1665 年
「王立絵画彫刻アカデミー」会員として
ズ売り場と化してしまった。写真1の中の看板を
版画家が認められることになり(版画作
あらためて見ていただきたい。「Estampes de la
品の原版 1 点を提出)、アカデミーの原
Chalcographie(ルーヴル美術館のカルコグラフィー
版コレクションの形成が始まる。
の版画)
」という表記になっている。つまりわざわ
1667 年
シャルル・ル・ブランの配下でゴブラン
ざ「版画」(Estampes)という単語を付け加えな
に「王付き普通彫版師 」 たちの版画工房
ければならないほど、
「カルコグラフィー」という
がセバスチャン・ル・クレールの指導の
語からはもはや 「 ルーヴル美術館所蔵の版画の原版
下、設立される。城館や王宮などのほか、
で印刷された版画作品 」 であるとの認識は薄れてし
王室コレクションの絵画や彫刻作品を版
まったように思われる。
刻する。
1792 年
国王所有の美術品が国有化される。
1797 年 「王の版画原版収集室」のコレクションや
「王立絵画彫アカデミーのコレクション
などが統合され、国立カルコグラフィー
(Chalcographie Nationale)が創設さ
れる
1799 年
価格付のコルコグラフィーの版画作品カ
タログが作成される。
1804 年
デノワイエ(Desnoyers)がラファエロ
の「美しき女庭師」の絵画を版刻したと
(写真1)ルーヴルの地下の「ルーヴル美術館のカルコグラフィー」の
ころ大人気。版画家への報酬 5,000 フ ラ
ブティックの様子
ンに対し、1804 年から 05 年にかけての
売上げが 15,000 フランに。
「版画工房」の意味についても同様、Atelier(ア
トリエすなわち工房)という語をあえて付け加え
1812 年
「ル ー ヴ ル 美 術 館 の カ ル コ グ ラ フ ィ ー の版画
工房」
(Atelier de la Chalcographie du Musée du
̶ 60 ̶
帝国図書館(王立図書館版画室のコレク
ション)で保管されていた原版 2, 5 0 5 点
がルーヴル美術館へ移管される。
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
1854 年
ナポレオンのエジプト遠征の成果をまと
めた「エジプト誌」
(294 人の版画家によ
り制作)の原版 907 点などが加わる。
1881 年
5, 828 点の新旧の原版を彫刻作品、肖像
画、建築物などのジャンル別や作家、流
派別、絵画、デッサンという具合に整理
し直す。
1902 年
フランス銅版画協会の解散に伴い、約
30 年間版画家達に発注してきた作品の
原版 102 点をカルコグラフィーに寄贈。
1922 年
「イラスト入りルーヴル美術館カルコグ
ラフィーカタログ」を出版 4、初の版画
作品の写真入りカタログとなる。
1983 年
パリ15 区(2, rue Quinault 75015 Paris)
に
版画工房が移転。
(2007 年 8 月まで使用)
1989 年
ミッシェル・ラクロット ルーヴル美術
館館長らの委員会は、現代作家の版画作
2008 年以降のカルコグラフィー版画工房の外観
品をカルコグラフィーで取り扱うことを
決定。翌1990年より作家に発注を始める。
2008 年
1月パリ郊外のサン・ドニ( 1, Impasse
du Pilier 93217 Saint-Denis la Plaine)
に原版保管庫、印刷工房が移転 5。
現在ルーヴル美術館のコレクションの一
部として、素描と版画を扱うグラフィッ
ク部門の管轄下に置かれている。
カルコグラフィー版画工房入り口
2007 年までパリ市内で使用されていたカルコグラフィー
版画工房の外観
内部の様子が見えないセキュリティー対応の扉になって
おり、右側に鍵がある。 ̶ 61 ̶
ルーヴル美術館のカルコグラフィー 神谷 佳男
カルコグラフィーにおける原版印刷の実
態について
のものを使用し淡々と印刷作業をこなしている。銅
版保護被膜の除去、インク盛りと拭き取りなど、一
連の作業をホットプレート上でおこなうことが多い
ためか、プレートのサイズは 129cm × 79cm と大き
版画工房
2008 年 1 月のパリ郊外サン・ドニへの移転以来、
ルーヴル美術館のカルコグラフィーの版画工房は、
く、床から 100cm の高さにあり使い勝手が良さそう
である。
他のフランス美術館連合の施設と同じ大きな建物の
一階にある。版画工房入り口の赤い扉を開けると眼
前にプレス機の並ぶ広い空間があり、
奥には事務所、
腐蝕室、版画作品乾燥室、印刷用紙保管スペース、
その他作業室がある。版画の原版保管室は、天井高
の工房を活かし一階と中二階の二箇所に設けられて
いる。版画工房の総床面積は約 220 ㎡とのこと。
刷り師たちの作業の様子
写真手前の刷り師は、寒冷紗を使ってインクを詰めながら同時に余分な
インク拭き取っている。真中の作業は、丸めた寒冷紗で余分なインクを
拭き取るもの。奥の刷り師は、ゴムローラーで版の溝にインクを詰め込
広々とした印刷工房
んでいる。
印刷へのこだわり
銅版の溝に詰め込んだインクが可能な限りそっく
りそのまま紙に転写されているか、紙上で凹版画な
らではの魅力あるインクの盛り上がりになっている
か、インクの拭き取りは容易か、余白の白地にイン
クの汚れがないかなど、刷り師たちは細心の注意を
払いながら作業をおこなっている。版画工房長フラ
ンソワ・ボードカン氏7は、フランス国立図書館へ
インク練り台
刷り師によってインク やメディウムの調合が若干異なる。
出向き、現在と過去の版画作品の刷りの状態を比較
研究することもあるという。
6
2008 年秋、ルーヴル美術館のカルコグラフィー
広い印刷スペースで 4 人の刷り師たちは 、銅版
を加熱するためのホットプレートとインク練り台、
の版画工房を訪問した際、刷り師自身が顔料とメ
また顔料、メディウム、インクの調合まで各自専用
ディウムをそれぞれ混ぜ合わせ自己流のインクを調
̶ 62 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
合していた。筆者は工房共通の黒インクがあるのだ
(Savon à l’
ancienne PALMIDOR、以下「パーム油
と想像していたが、刷り師たち各々の好みと直感が
石鹸」と略記)、ヴェネチアテレピン(Térébintine
反映される極めて人間的な作業が温存していたこと
de Venise)などと共に黒の顔料もしくは黒インク
に驚いた。
を混ぜる 9。時にはムードン白(Blanc de Meudon)を
加えて仕上げる場合がある。
印刷作業工程
ボードカン氏はシャルボネール社製の黒インクを
ほとんど使用しないと言うが、それは既製品のインク
印刷の作業は、原版保管庫から版画の原版の取り
では黒の顔料の粒子が粗く、銅版に傷を付けやすいと
出し、原版表面の保護被膜の除去、印刷紙の準備、
10
の理由からである。
しかし、彼の台上にシャルボネー
作品に適したインクの準備、プレス機の圧の調整、
ル社製黒インク RSR が置かれていたこと、また他
インクのすり込みと拭き取り、プレス機にかける、
の刷り師の台の上にもシャルボネール社製黒インク
作品の乾燥などである。この一連の作業で、とりわ
55981 を見かけたことを付け加えておく。
けインクの調合に重点を置きながら解説する。
原版の保護被膜 8 の除去
ボードカン氏の黒インクの調合法
原版表面にベンゾールとアルコールをかけ、覆わ
以下、写真を用いてボードカン氏の黒インクの
れている保護被膜を豚毛のブラシで洗い落とす。さ
調合法を解説する。なお今回使用される版画の原
らにウエスを使ってきれいに拭き取る。
版は、表面に鉄メッキが施された 17 世紀フランス
の銅版画家アブラアム・ボスの「マンドラゴラ」
(Mandragora mas.)である。
インクの調合
ここでは、版画工房長のボードカン氏が 2008 年 9
月におこなった黒インクの調合法を紹介する。
まず使用する材料として、次のものが挙げられ
る。S I C P A T a i l l e - d o u c e s a n s S i c c B l a n c
Transparent 900030(以下、「透明メディウム
900030」と略記)
、自家製ワニス(ダンマール樹
脂をテレピン精油で溶解したもの)、スタンドオ
イル(Stand oil)
、パーム油石鹸「パルミドール」
スイス製の銅版画用透明メディウム 900030
原版の保護被膜(グランド)の除去
左)溶剤をかけ版上のグランドを溶かす
中)グランドをウエスで拭き取る
右)溝の中のグランドをブラシで取る
̶ 63 ̶
ルーヴル美術館のカルコグラフィー 神谷 佳男
透明メディウム 900030 を多めに取り出し、少量のパーム油石鹸と共に
パーム油石鹸、自家製ワニス、スタンドオイルの混合物に、黒インクと
準備する。
透明メディウム 900030 を加え混ぜ合わせる。透明メディウム 900030
ルーヴル美術館のカルコグラフィーの版画工房の刷り師たちは、常に
の占める割合はかなり多い。
パーム油石鹸をインクに混入している。
自家製ワニス(テレピン精油にダンマール樹脂を溶かしたワニス)とス
練り合わせた黒インクに少量の青色顔料(Phtalocyanine de cuivre)を
タンドオイルを少々加える。写真手前から透明メディウム 900030、パー
加える。
ム油石鹸、自家製ワニス、スタンドオイルの順。それぞれの分量は、写
真で見るとおり透明メディウム 900030 以外ほぼ同量である。
パーム油石鹸と自家製ワニスとスタンドオイルをパレットナイフで混
インクが柔らかいと思われる場合、ムードン白やスペイン白を加える。
ぜ合わせる。またヴェネチアテレピンをパーム油石鹸や自家製ワニスと
あるいは体操選手が鉄棒競技の際に手につける白い粉末でも良いとの
同量程度加える場合がある。
こと。インクが柔らか過ぎると、刷ったインクに厚みが出ないため、さ
らにムードン白や自家製ワニスを加える。
̶ 64 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
見当たらない。ヴェネチアテレピンを少量加えるこ
とで、インク内に顔料やムードン白の粉末のダマが
できにくくなり、またコバイバ バルサム(Baume
de Copahu)を少量加えることでインクに厚みがで
るとのこと。従って、ボードカン氏はヴェネチアテ
レピンやコバイバ バルサムをしばしば加えるとい
う。以前訪問した時には、インクを乾燥させるため
には玉葱やラヴェンダーエッセンスを少量インクに
加えるのが良いと聞いたが、今回玉葱の話は一切な
練り込むとつやのある黒インクができる
く、またラヴェンダーエッセンスの使用は良くない
と言う。彼が自家製ワニスを少々加え、インクを練
さて、ボードカン氏のインクの調合で今回特に透
るのを見かけた。親指と人差し指でそのワニスの粘
明メディウム 900030 を多用していることが気にか
性を見せてくれた時、ボスの硬ワニス 11 に非常に近
かる。刷り上った作品に透明度を持たせるためと強
い粘度だと直感した。彼の自家製ワニスはダンマー
調していたが、また透明メディウム 900030 を加え
ル樹脂をテレピン精油で湯煎しながら溶解させたも
ることによって、版の凹部のインクのかなりの割合
のであるが、ダンマール樹脂をインクに加えること
が紙の上に移し取られるという理由からとのこと。
で、刷り上った版画作品に艶消しの効果を与えると
しかし、透明メディウムの多用により黒々とした強
いう。一方、松脂を加えたワニスの場合、その反対
い線の仕上がりが期待できないのではないかと考え
にインクに艶が出るという。さて、インクの練る固
られるが、この点に関しては、過去に刷られた同一
さはどれくらいだと質問すれば、ボードカン氏は「お
原版からの作品との比較でインクの刷り上がりの効
菓子の小麦粉を練る固さだ」と答えるだろう。
果を検証することができる。
今回の黒インクの調合の特徴は、ラヴェンダー
かつてボードカン氏は、黒インクに占める顔料の
エッセンスを使用しないこと、ボスの硬ワニスのよ
割合はせいぜい5∼10%であると語ったことがある。
うな粘性のダンマール樹脂を含むワニスを少量イン
つまり練られた黒インクの容積全体に占める黒色顔
クに混入すること、透明メディウム 900030 を大量
料はわずかしか含まれていないことになる。
に混ぜ合わせることが挙げられる。パーム油石鹸を
透明メディウムやワニスなどを混ぜ合わせた黒イ
加えることは、前回の訪問時と同じである。同工房
ンクが柔らかすぎるとの理由から、大量のムードン
では、例外なくすべての刷り師たちが昔ながらの製
白を加え始めたのには、いささか驚いた。黒色顔料
法で作られたとラベルに書かれているパーム油石鹸
の何倍もの白を加えるというこの一見矛盾するよう
「パルミドール」を使用していた。この商品名「パ
な調合にもかかわらず、艶のある黒々としたインク
ルミドール」は、カンヌの映画祭でグランプリ受賞
が練りあがっているのだから不思議である。ムード
者のことを「パルムドール」と呼ぶのを連想させて
ン白やスペイン白は、インクを固く締め凹版画作品
おもしろい。
特有のインクの盛り上がり効果をもたらすという。
カルコグラフィーの刷り師たちは、原版にインク
すでにインクが乾燥した版画作品を実例として見せ
をすり込んだ後、なるだけ効率よくインクを拭き取
てもらったが、凹版画ならではの美しいインクの盛
ることができ、しかも美しく仕上がるインクを常に
り上がりがはっきりと見受けられたのである。
求めている。インクの拭き取りが容易にできること
インクの調合の過程を示す一連の写真には、ヴェ
は、彼らにとって極めて重要である。数百年間原版
ネチアテレピンなど他の樹脂を混入している場面は
を印刷し続けた場合、インクの拭き取りによる摩滅
̶ 65 ̶
ルーヴル美術館のカルコグラフィー 神谷 佳男
やプレス機による加圧で原版が損なわれていく。原
版の損傷を少しでも軽減するためにも、また作業効
率を上げるためにも、インクの拭き取る回数を少な
くし、美しい黒い線の表現を可能とするメディウム
の使用が望ましいことは言うまでもない。ボードカ
ン氏は最近、インクを長年調査研究しているスイス
のとある研究所の存在を知り、そこから得た情報が
すばらしいと興奮気味に話をしてくれた。
パーム油石鹸パルミドール
インク盛りと拭き取り
ゴムローラーで版の溝(凹部)にインクをすり込む
ルーヴル美術館のカルコグラフィーの版画工房で
刷り師たちがおこなっているインクすり込みと拭き
取り作業を写真で紹介する。
今回の作業で使用された原版は、アブラアム・ボ
スの「マンドラゴラ」であるが、表面の鉄のメッキ
のため一部見え辛くなっている。
さて、まずゴムローラーを用いて版上にインクを
盛りつける。溝にしっかりインクをすり込むように
作業をおこなう。
次に寒冷紗(mousseline)を回しながら、インク
をすり込むと同時に余分なインクを拭き取る。ここ
では、寒冷紗を指に固く巻きつけて作業をおこなっ
ている。溝に十分インクが詰まっているか注意しな
がら作業し、凸部にある余分なインクを回しながら
拭き取る。その後、丸くした寒冷紗に体重をかける
ように力を込めて同一方向に動かしながら、余分な
インクを徐々に拭き取る。なおインクの拭き取り作
̶ 66 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
るところである。インク内に表面が乾燥して固まっ
業には、複数の寒冷紗を使用する。
手にムードン白あるいはスペイン白を付け、丁
寧にインクの油膜を拭き取っていく。左手に持った
たインクの塊が混在すると気になるが、このように
寒冷紗でインクを濾過しておくと良い。
もう一枚の写真は、寒冷紗を丸めて台の上で叩き
コットンのウエスで、手についたインクを時々拭き
つけながら予め寒冷紗を慣らしておく作業をしてい
取る。
る様子である。インクの拭き取り作業の際役立つ。
油膜の汚れなど、きれいな寒冷紗で拭き取る。
小さなインクの汚れを綿棒で丁寧に拭き取る。
プレス機
銅版画のインクの拭き取り作業は、非常にデリ
印刷する前にプレス機の圧をテストする。銅版に
ケートで重要な作業工程である。インクの拭き取り
3 枚の帯状の乾いた紙を置き一度プレス機を通過さ
方次第で、作品の印象が随分違ったものになるから
せる。プレートマークの状態を確認後、必要なら左
である。
右の圧を調整する。
それら繊細な作業をここで詳細に記述するのが難
しいため、インクの拭き取り作業の流れのみを写真
で解説するに留めた。
他の写真は、同工房内での作業の様子を撮影した
ものである。
寒冷紗を使って黒インクの固まりカスを濾してい
̶ 67 ̶
ルーヴル美術館のカルコグラフィー 神谷 佳男
イ ン ク も 同 様 に 48
使用する紙
同 工 房 で 使 用 す る 主 な 紙 は、Canson Gravure
時間で乾燥するよう
Blanc 270g(コットン15%)、Velin BFK Rives Blanc
に、インクにメディウ
250g , 270g , 300g(コットン 100%)である。
ムを混ぜて乾燥を速め
他 に ベ ル ギ ー の 手 漉 き 紙、 フ ラ ン ス の ラ ナ
ている。
(LANA) 社 の LANAROYAL Blanc Nature 300g
厚紙はクリップで天
(コットン 100%)
、サイジングが施されていない
井から吊るし、厚紙自
ド イ ツ の Zerkall と い っ た も の や、 フ ラ ン ス の
体を乾燥させながら休
Johannot 240g( コ ッ ト ン 75%、 ア ル フ ァ 25%)
、
ませている。刷られた
イギリスの紙などストックされていた。
ばかりの版画作品の紙
に含まれる水分を吸い
取る重要な役目をして
いる。
1983 年 来 同 じ 厚 紙
が使用されているとい
う。
作品乾燥のため、厚
紙以外に紙製のカルト
ンが用いられるが、紙
製のカルトン一枚の重
さはかなりあり重石の
作品の乾燥について
乾燥とは、プレス機を通過し印刷し終えたばかり
役割を果たしている。
の湿った状態の版画作品の紙とインクを乾燥させる
同 カ ル ト ン を 35 年 以
ことである。銅版画では一般に、水を使って紙をあ
上使用しているとのこ
らかじめ湿らせ、紙の繊維をしなやかにした状態で
と。写真では、クリッ
印刷する。銅版画の繊細な溝に紙が食い込み、より
プで吊るされた厚紙の
鮮明で美しい線を刷り上げるためである。
下に、カルトンが整然
刷り師たちは、刷ったばかりの版画作品の表にま
ず当紙(茶色の紙)を置き、プレス機の近くに版画
と立てかけられている
のが見える。
作品を重ねて置き、続けて刷りの作業をおこなう。
最後に乾燥した版画
別の者が刷りあがったばかりの版画作品を回収
作 品 に は、 ル ー ヴ ル
美術館のカルコグラ
し、台車で乾燥室に運ぶ。
乾燥室では、作品を早く乾燥するため湿度が低く
保たれている。湿度は 18% と低かったが、除湿機が
ないため室温を高くして湿度を下げるという具合で
あった。ちなみに室温は 40℃、外気温とは 30 度近
い差があった。(2008 年 9 月末の訪問時)
印刷した版画作品は、吸い取り紙と厚紙に挟ん
で 48 時間かけて乾燥させる。
̶ 68 ̶
フィーのエンボスが入
れられる。
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
4 回発生したという。(筆者らが訪問した 2008 年 9
月末に発生した故障1回分を含む)原版保管庫に入
庫した時、庫内の気温が工房内の室温と比較して、
かなり高温になっているのを体感した。
確かに原版保管庫内の気温を上げれば湿度は低下
するのだが、気温の低いところで作業していた銅版
を高温の保管庫内に持ち込むと、当然銅版上に結露
が発生する可能性が高くなることは否めないであろ
作品乾燥室内天井近くに設置された暖房機
う。ボードカン氏は出勤時と帰宅時の一日2回、工
房内の気温と外気温を測定し記録を取りながら、保
管庫内の湿度と外気温との関係を注意深く見守って
いる。
作品を乾燥させているところ
その他の作業について
原版保存
原版保管庫の低湿度維持
ルーヴル美術館のカルコグラフィーの版画工房に
とって最も重要なことは、版画の原版をしっかり保
管し末永く後世に伝えていくことであろう。銅版画
の原版は金属製のため、錆に弱く保存管理に悩まさ
れる。表面に錆が出れば、グレーの調子となって画
面に現れる。
パ リ 15 区 に あ っ た 版 画 工 房 で は、 原 版 保 管 庫
(reserve)が地下に位置したため、湿度の問題に大
いに悩まされたと聞いた。ここサン・ドニの保管庫
では、最高湿度を 35%以下に抑えるため空調をフ
ル稼動させている。
実際庫内の湿度が 40%以上になる事や、また湿
度が外気温の変化を受けやすいため空調管理が上手
原版保管庫内の写真
上の写真はパリ市内にあった木製棚を使用していた原版
く機能しなかった事を、ボードカン氏は嘆く。サン・
保管庫。下の写真は 2008 年の移転後の金属製の棚。
ドニへ移転後の 9 ヶ月間で、気調システムの故障が
木は湿気を含むため金属製の棚にしたとのこと。
̶ 69 ̶
ルーヴル美術館のカルコグラフィー 神谷 佳男
原版の梱包材
膨大な数の原版コレクションの整理作業は、今も
続いている。原版のデジタル写真を撮り必要な情報
かつて原版保管庫(reserve)に保管されている
をパソコンで入力していく。全ての原版が完全な状
原版は、グラウンドを用いて表面が保護され、紙袋
態で保管されているとは限らない。時には保護被膜
に入れられ、整理番号が割り当てられていた。左上
がかかっていないなど、原版の保存状態が不完全な
に 6576 と黒マジックで書かれた番号や赤で①と記
版も多数あり、その都度付随したもろもろの作業が
入されているのは、整理番号である。
ともなう。
以前の原版から印刷した作品を紙袋として表に使
用し、その裏には原版の目録番号等の情報をその都
度手書きで加えていた。非常にルーヴル美術館らし
いと思うのだが。
おわりに
ルーヴル美術館のカルコグラフィーでは古い銅版
画の原版のみを大切に保管し過去の遺産で生き延び
ているような印象を持つが、20 年前からは現在活
2008 年版画工房移転に伴い、デジタルカメラで
躍する芸術家に積極的に銅版画制作を依頼し、原版
写真を撮り、原版のサイズ、作者名、題名などをデー
を買い取り、印刷をおこない、作品を販売している。
タベース化して保存作業を現在進めている。実際に
例えば筆者が工房を訪問した時、アレシンスキー
刷られた版画作品を紙袋として利用していた時代は
(Pierre Alechinsky)が 1998 年に制作を依頼した銅
終わりつつある。版画作品を表紙に使った袋は、そ
版画「旅する筆」(Le pinceau voyageur)の原版を
の袋の中身の原版そのものと一致していたのでわか
用いて、刷り師が仕事をしていた。今日でも人気が
りやすかった。だが、袋に使用されていた粘着テー
高い作品だと言う。
プは長期保存には不向きであるとのことで、順次合
たとえ現役の作家の原版であっても、それを枚数
成繊維でできた不織布を使用した袋に替わりつつあ
の制限なく、数世紀先も同様に印刷する権利を得、
る。両端をミシン縫いした単純な袋に、
番号がマジッ
版画愛好家のために刷り続けるカルコグラフィーの
クで記入されているだけである。
版画工房。
写真技術がすでに久しい以前から存在し、我々の
周りには新しい様々な記録媒体が溢れ、印刷技術や
情報の保存方法は大きく変化している。版画がメ
ディア媒体として機能し活躍していた時代には、マ
ドリッドやローマのカルコグラフィーでも版画の原
画コレクションの印刷がまだ大量におこなわれてい
たという。ブリュッセルやパリでは今も版画作品を
印刷し販売しているが、かつてボードカン氏がル
ヴール美術館のカルコグラフィーの版画工房で働き
始めた 1998 年頃には年間約 12,000 枚の版画作品を
ダンボールをクッション材として使用している
印刷していたが、今日では年間 4,500 枚程に減って
̶ 70 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
しまったという。
版画の原版は、フランス革命時、銅として溶かさ
れず奇跡的に生き延びた。銅板を記録媒体として引
き継いできたルーヴル美術館のカルコグラフィーの
版画工房だが、今後その存在意義はどのように解釈
されてゆくのだろうか。何も版画の原版のハードの
面だけの話ではない。同工房の刷り師たちのノウハ
ウについては、ルーヴル美術館のカルコグラフィー
の版画工房の広報のために制作した DVD の映像作
品以外、YouTube などのウェブサイト上で若干見
かける程度でそれほど多くの情報はない。
もし原版を保存庫に閉ったまま活用しなければ、
ボードカン氏が 35 年間懸けて得たインクに関する
情報は一気に失われてしまうだろう。そういった状
況の中で、工房活動の記録として書き留める必要性
を感じた次第である。
本稿執筆にあたり、フランソワ・ボードカン氏や
ルーヴル美術館のカルコグラフィーの版画工房の全
面的協力を得た。感謝したい。
註
1
「ルーヴル美術館のカルコグラフィー」の訳語につい
て、本稿では la Chalcographie du Musée du Louvre を
「ルーヴル美術館のカルコグラフィー」とした。
日本で最初の本格的なルーヴル美術館のカルコグラ
フィー展「ルーヴル美術館のカルコグラフィ」展(1974
年 3 月 21 日∼ 4 月 2 日、新宿・伊勢丹本館 7 階クローバー
ホール)が 1974 年に開催されたが当時の展覧会カタロ
グでは、「ルーヴル美術館のカルコグラフィ」
、「ルーヴ
ル美術館の版画陳列館(カルコグラフィー)
」
、「ルーヴ
ル美術館蔵版画陳列館」、「ルーヴル版画陳列館(カルコ
グラフィー)」、
「ルーヴル版画館」
、「ルーヴルのカルコ
グラフィ」
、「版画陳列館(カルコグラフィー)」という
具合に実に様々な訳語が散見される。
2003 年開催の「ルーヴル美術館カルコグラフィー」展
(2003 年 4 月 26 日∼ 6 月 29 日、メルシャン軽井沢美術館)
の冊子では、「ルーヴル美術館カルコグラフィー」と訳
語が統一されている。筆者も 2003 年メルシャン軽井沢
美術館での展覧会の訳語を使用し、表記を統一すべきと
考えるが、しかし一方「カルコグラフィー」と名の付く
施設は、パリ、ブリュッセル、ローマ、マドリッドなど
にあることから、あえて「ルーヴル美術館のカルコグラ
フィー」とした。
ま た 同 様 に、L’Atelier de la Chalcographie du Musée
du Louvre は「ルーヴル美術館のカルコグラフィーの版
画工房」と表記することとし、
一般に使用されている「カ
ルコグラフィー室」とはしなかった。
参考までに以下、フランス、ベルギー、イタリア、ス
ペインのカルコグラフィーの住所を記す。
Atelier de la Chalcographie du Louvre
1 Impasse du Pilier 93217 Saint-Denis la Plaine FRANCE
La Chalcographie de Bruxellles
Place du Musée 1, 1000 Bruxelles BELGIQUE
&DOFRJUD¿D1D]LRQDOH
Via della Stamperia 6, 00187 Roma ITALIA
&DOFRJUD¿D1DFLRQDO
Alcalá 13 28014 Madrid ESPAGNA
2
フランス語の原文は、以下のとおり。
1 L'art du chalcographie. Synonyme de gravure en taille
douce.
2 L’atelier , l’établissement même où l’on exerce cet art.
3 Nom d’une collection de gravures. La chalcographie
du musée du Louvre, recueil composé de toutes
les gravures dont le musée possède les planches.
Catalogue des planches gravées composant le fonds de
la chalcographie, et dont les épreuves se vendent dans
cet établissement, au musée du Louvre.
3
原版を用いて印刷するいわゆるオリジナル版画作品を販
売の目玉にしているのがカルコグラフィーである。ここ
で言う原版の解釈だが、例えばガルヴァノプラスティー
(galvanoplastie)と呼ばれる電気メッキの原理で原版か
ら忠実にコピーされた版は、果たして原版と見なすべき
かとの議論がある。
ルーヴル美術館のカルコグラフィーのブティックでは、
ガルヴァノプラスティーを用いて刷られた版画は、オリ
ジナル版画として販売されている。一方、ブルッセルの
カルコグラフィーでは、ガルヴァノプラスティー版はあ
くまで原版から忠実に写し取られたコピー版であると考
えられている。つまりガルヴァノプラスティー版で刷られ
た版画作品はオリジナル作品と見なされず、従ってそれ
らの版画作品をオリジナル版画として販売していない。
また、ブリュッセルのカルコグラフィーが現存作家に作
品制作を直接依頼する場合、作者のサインとエディショ
ンナンバーを加えて作品を販売することがある。予め印
刷部数について作者と取り決め、工房での印刷終了後、
作者自身がサインを入れ、カルコグラフィーで販売する。
版画の原版はカルコグラフィーが保存するが、著作権保
護のため増し刷りすることはないと言う。(2009 年 10 月
現在のベルギーのカルコグラフィー版画工房の刷り師、
リュドヴィック・ドームス(Mr.Ludovic DOOMS)氏の
情報による)
ルーヴルのカルコグラフィーでは、現役作家の版画作品
であっても、作者のサインは無くエディションナンバー
の制限も設定せず、作品を販売している。そして作者の
死後も生前同様、枚数の限定なく印刷され販売されるこ
とになる。
̶ 71 ̶
ルーヴル美術館のカルコグラフィー 神谷 佳男
4
5
6
7
8
1922 年の刊行された「図版付ルーヴル美術館カルコグラ
フィーカタログ」
(Extrait Illustré du Catalogue Général
de La Chalcographie du Louvre gravures de reproduction
et gravures originales, Paris Musées Nationaux Palais du
Louvre)
その前書きで「ルーヴル美術館のカルコグラフィーは、
その豊かな芸術性とすばらしい過去(の栄光)を持ちな
がら一般に殆ど知られていない。
」と書かれており、
「そ
れはコレクションを知るための画像がそれまで存在しな
かった」ことを理由にあげている点、非常に興味深い。
ゴブランの工房から王立図書館の印刷所、ルーヴル宮殿
内、サン・ジェルマン・デ・プレ、パリ 15 区キノー通り、
パリ郊外のサン・ドニという具合に版画工房は転々とす
る。フランソワ・ボードカン(François Baudquin)氏に
よると、パリ 15 区の版画工房は 1983 年から 2007 年8月
末まで使用され、2007 年9月中旬から翌 2008 年1月まで
工房の移転作業、2008 年1月5日にパリ郊外のサン・ド
ニへ完全に移転したという。(フランス国鉄郊外線 RER
の B 線で Le Plaine Stade de France 下車、駅から版画工
房まで徒歩約8分。)
パリ 15 区の版画工房時代、原版保存場所と印刷所が異っ
ていた時期があり、原版が保管されていたサン・ジェル
マン・デ・プレの保管庫から 15 区の印刷工房まで、そ
の都度原版を運び出していたと言う。パリ 15 区から現
在のサン・ドニまで、約 14,000 点の銅版原版などを重さ
150kg にした木製箱に小分けにして運び出したとのこと。
版画作品販売所(ブティック)は、引き続きルーヴル美
術館のピラミッドの下のブティック内にある。ルーヴル
美術館以外にもフランス国内はじめ世界各地に点在し、
東京・銀座にもある。
現在(2009 年秋)版画工房で働いている刷り師は全部で
4 名。版画工房長(Chef de l’Atelier de la Chalcographie
du Musée du Louvre)のフランソワ・ボードカン(François
Baudequin)氏、ファイサル(Fayçal)氏、フィリップ
(Philippe)氏、セルジュ(Serge)氏である。その他、
事務担当のミッシェル(Michèle)氏、版画作品の乾燥
や刷りの状態を検査するべルトラン(Bertrand)氏の 2
名が同工房で働いている。
勤務時間は通常 8:30 ∼ 16:30 となっているが、仕事の
関係で若干長く仕事をしているように思われる。昼食時
の昼休みは、かなり短い。2005 年から国の交付金で運営
されているという。彼らの身分は公務員ではない。
ボードカン氏は 1998 年から同工房長を務めている。尚、
本稿では「版画工房長」と訳しているが、一般的に「カ
ルコグラフィー室長」の表記が用いられている。
ルーヴル美術館のカルコグラフィーの版画工房では、原
版の保護被膜として液体ハードグランド(Vernis noir
“LAMOUR”. Lefranc & Bourgeois 社製)を使用している。
ブルッセルのカルコグラフィーでは、同工房の刷り師
ドームス氏によると、原版の保護被膜として Bitume de
Judée をホワイトスピリットで溶かしたものを使用し塗
布していると言う。ただ、Bitume de Judée はアスファ
ルト(Asphalte)とは全くの別物で、ユダヤのビチュー
9
10
11
ムの名のごとくイスラエル産の良質の塊をさし、かなり
高価な材料であり、ヨーロッパでもアスファルトとの違
いを知る人は限られ、その結果多くの誤解を招いている
という。(2009 年秋に訪問時の情報) 長期の版画の原版
保存としては、保存被膜として蜜蝋が用いられるようだ。
ボードカン氏は、かつてフランスのトゥール美術館所蔵
のアブラアム・ボスの原版(1995 年トゥール美術館が購
入したボスの銅版画『Epicharis』の原版)を印刷した後、
蜜蝋をホワイトスピリットで溶かしたものを保護被膜と
して塗布したと言う。ただ蜜蝋の被膜があまりにも厚く
なると銅版の溝の線が見えにくくなるため、注意したと
のこと。
また、とある修復家とボードカン氏との会話で、原版
の保存状態が 35 ∼ 40%以下の湿度に保てる場合、蝋も
何も覆わずにそのままにしておくのが良いのではないか
との結論になったという。蜜蝋が時間の経過と共にど
のように変化してゆくか現時点では不明だとの理由か
らだ。修復家たちは、銅版画の原版保護には Cire Micro
Cristalline を使用するという。
黒インクとしては、TAILLE - DOUCE SANS SICC NOIR
907130、黒顔料として、アイボリーブラック(Noir d’
Ivoir)
、マルスブラック(Noir de Mars)
、
酸化鉄黒(Oxyde
Fer Noir)などを使用している。
ルーヴル美術館のカルコグラフィーの版画工房長ボード
カン氏は、既製品の黒インクに使用されている黒顔料の
粒子は粗く好ましくないとの意見であるが、ブルッセル
のカルコグラフィーの刷り師ルドヴィック・ドームス氏
は、既製品の黒インクに使用されている顔料は十分細か
く全く問題ないとの考えから、シャルボネール社製の黒
インク ラックス C(Charbonnel Noir Luxe C)を使用し
ている。
(2009 年秋訪問時)
アブラアム・ボス(Abraham Bosse)が 1645 年に著した『腐
蝕銅版画技法』にある硬ワニスのこと。ブルゴーニュの
ピッチ、松脂、胡桃油を原料として製法した液体状のワ
ニス(グランド)
。詳しくは『腐蝕銅版画の防蝕被膜に
ついて−アブラアム・ボスの『腐蝕銅版画技法』の場合
を中心にー』(神谷佳男、金沢美術工芸大学紀要第 49 号
2005 年)や『17 世紀フランス銅版画技法の研究アブラア
ム・ボス「酸と硬軟のワニスによる銅凹版画技法」
』(川
上明孝・上田恒夫・保井亜弓・神谷佳男、金沢美術工芸
大学研究所、2004 年)を参照のこと。
付記
本研究の調査にあたり、平成 20 年度金沢美術工芸大学発展
研究費を受託した。
̶ 72 ̶
(かみたに・よしお 共通造形センター / 銅版画)
(2009年10月30日受理)
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
透視図法の歴史についての一考察
井 村 俊 一
1.はじめに
技法を除き、実用を重視する現代図学では用いられ
ていない。とすれば、いかなる経緯で当時の図法が
図学(図形科学)の講義を担当して以来、その
用いられず、新たに現在の図法が考案されたのか、
中の教授項目で、芸術系大学の学生対象ということ
また、多くの現在の図法は、誰が最初に創案したの
で、いわゆる透視投影(透視図法あるいは線遠近法)
か?等、そのような事柄を詳細に解説説明すること
に特に関心を持ち調査を続けた。しかし、現在展開
が、多様な現代絵画を専攻する学生にとって有意義
されている透視投影の各種図法で、その裏付けとな
ではなかろうか。また、現代絵画の世界では線遠近
る理論の歴史的経緯や変遷、創案した人物等の事柄
法が風化しつつあり、せめて絵画技法の歴史的事実
は、過去に多数出版されてきた教科書(全ての教科
として画学生の教養の一部としたいと考えた。現代
書を調査したわけではないが)では、殆ど説明され
図学は単なる経験や観察による図法の集積で成立し
ていなかった。図学の主要目的である図法の理論背
ているのではなく、それを根拠づける理論の裏付け
景が、ユークリッド幾何学、アフィン幾何学、射影
を持ち、学問として存在している。そのため、ルネ
幾何学と多岐にわたり、その根拠理論を説明してい
サンス期の絵画の革新として発明された技法の透視
ると本来の図法の説明が疎かになる。図学の目的は、
図法は平行線が交わるという、経験上では自然な事
3 次元の図形を 2 次元上に表現する実用的な図法の
実が、理性では到底成立しない命題の要請が基本と
説明と習熟で、歴史などに触れる余裕がないことも
なる。日本の絵画の絵巻物などでは、図学でいう斜
原因と推測される。また、図法について現代では、
軸測投影(斜投影)や直軸測投影(軸測投影)の図
コンピュータプログラム化され、そのソフトウエア
法が、日本独特の吹抜屋台の形式などをとり、おそ
を購入し、マニュアルに従い操作し、作図すれば目
らくはそれぞれの理論的な思考なしで経験的に、自
的が達成される。製図等、実用図法の習熟を目的と
然に用いられてきたと考えられる。多くの絵師達に
する工科系ではなく、芸術系、特に美術系の学生を
とっては経験則で十分成立し、絵画技法として自己
対象とする場合、講義内容を質量ともに豊かにする
完結してきたと考える。それに対して、ルネサンス
にはどうしても歴史的経緯が重要となると考え、そ
期透視図法は、専業画家ではなく、建築家で、絵も
の為の参考文献を探索調査をした。その結果、黒田
描くような万能の才能に恵まれたブルネレスキやア
正巳氏の著作“空間を描く遠近法 ”と“図形科学
ルベルティが理論の基本を創案し、彼らは同じ物体
ハンドブック ”での同氏執筆の透視図の歴史の節
でも、目の位置から遠くにある物体は近くのものよ
が大いに参考となった。その他、学会の研究論文の
り小さく見える事実から、古来、単発的に描かれて
透視投影を対象としたものも参考としたが、ルネサ
きた単純な遠近法(短縮法等)による絵画に対して、
ンス美術での絵画技法の研究論文が大半で、現代図
光学や幾何学を基盤とした中心投影の考え方で、絵
学の立場による知見としては満足のいくものではな
画技法を従来の職人的技法から、科学的理論に基づ
かった。絵画の制作図法としてルネサンス期に成立
く技法への発展を志向した。即ち、画家が単なる手
した透視図法であるが、当時の主たる図法は一部の
工業の職人ではなく、理論的裏付けをもった芸術家
1
2
̶ 73 ̶
[ キーワード ] アナモルフォーズ 射影幾何学 眼鏡絵 浮絵 測点法
透視図法の歴史についての一考察 井村 俊一
となるように考えたわけである。そのため、レオナ
ルド・ダ・ヴィンチのような特別な素養の万能な画
家を除いて、普通の画家たちには手に負えなくて僧
院の数学者達(僧侶)の助けを借りたと思われるし、
数学者達も遠近法の理論の解明と形成に画家以上に
興味をもち、活発な研究がなされたと考えられる。
最初の頃、透視図法は秘密の画法として、工房ごと
に内容は秘密にされていたと思われる。その頃、透
視図法の研究をしていた数学者の中に、画家達とは
違って通常の絵画の世界を越え、透視図法の理論の
視点の位置を極端に偏りさせて適用し、異常に歪ん
Fig.2 Brunelleschi の透視図法(三平面法)
だ透視図にしたり、あるいは対象図形を逆遠近的に
描いて、透視図として通常の図形に見える異端の透
画家が実存する風景や建造物の描写を透視図法で
視図法である、アナモルフォーズや、円筒形状や、
描く時は別として、心の中に存在する世界(宗教画
円錐形状等の鏡を利用した鏡像アナモルフォーズの
に多い)や存在していない建造物等を透視図法で表
理論を研究していた人達がいた。彼らが研究した当
現する時は、現代工業製図が規格化している正投影
時の傍流であるアナモルフォーズの図法の中に現代
による正面図、立面図、側面図(いわゆる三面図)
図学の透視図法と共通点が多く、そこに原点を感じ
が最低限必要なことは自明であり、その意味で三平
たことが、筆者の本報告の出発点である。それに対
面法は至極妥当な図法である。では何故、現代図学
して、当時の主流の図法は、現代では一部の図法を
は三平面法を忘れられた図法としたのか。これは、
除いて使われていない。
産業革命を発端とする工業化社会での実用作図法
としての規格化や作図効率と作図必要スペースの不
利益性からと考えられる。もともと図学の創始者の
2.透視図法の変遷
G . モンジュ3 は彼の著作 Géométrie descriptive(画
Fig. 1に現代図学の代表的な透視図法、消失点―
法幾何学)4 の最初に“3次元の形体を2次元で正確
足線法を示す。Fig. 2にブルネレスキに代表される
(True Size)に表現する方法として、正投影(複面
ルネサンス期主流の透視図法で平面図、立面図(側
投影)を使って独自に理論化した方法”を著したと
面図)
、透視図の位置が別になる三平面法を示す。
いう主旨を述べている。後で内容の中に、単面投影
(Apparent Shape)の斜軸測投影、直軸測投影、透
視投影を付加している。何故なら、単面投影の図法
はG . モンジュ以前に理論はともかく、歴史的に存
在したものである。
3.現代透視投影の作図法
現代透視図法の特徴は先ず第一に一つの投影面上
に視点の位置を基準として、基線、地平線を設定し、
透視図対象物(第2象限に位置する)の正投影図(平
Fig.1 現代図学の透視図作図例
面図)を設定する。立面図は透視投影では高さの値
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金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
のみが重要であるので側面の適当な位置に移すこと
ができる。即ち、基線は平面図と立面図両図に対す
る共通の基準線であり、地平線は立面図である。こ
のような設定で透視図を作図するわけである。この
ことは、直交する水平投影面と垂直投影面で構成さ
れる正投影で実形(True Size)を表示し、垂直投
影面を反時計回りに 90 度回転して、水平投影面に
重ねて一つの平面上に表示する正投影図との連携を
重視した合理性が根拠と考えられる。確立した正投
影法のないルネサンス期後の透視図作図で、Fig. 3
に示す、ニスロンの異端の透視図である椅子のアナ
モルフォーズ 5 の作図法が停点(視点の平面図)の
明示を除いてほぼ、現代の図法に一致していると考
えられる。このことは、透視図として、出来上がる
Fig.4 ピエロ・デラ・フランチェスカの透視図法
形が異常のアナモルフォーズの作図をするときは、
透視図法の理論を十分に理解し、実形(True Size)
次にルネサンス期に用いられた現代でいう距離点
の平面図や立面図を画面上に設定し、作図する必要
法は、アルベルティにより透視図の検証用に使われ
があったからと考える。
たり、作図法としてヴィアトールにより多用された
方法であるが、理論として投影面(画面)と 45 度
で基面に平行な直線の消失点である距離点が直接地
平線上に設定されるのは視点と投影面との距離が視
高に一致する場合のときのみで、現代図学では作図
の簡易さから標準図法と称する場合もある。この当
時の距離点法は作図線から対角線法とも呼ばれ、停
点は通常示されず、距離点は、地平線と思われる線
上の任意の位置に設定されている。但し、その位置
の設定により、透視図の形(歪具合)が大いに相違
するわけである。
測点法は、筆者としてはジェラール・デザルグ
やその弟子アブラハム・ボッスの透視図法を研究
していた時、透視図三角形と称した図法(Fig.5 7 参
Fig.3 ニスロンの椅子のアナモルフオーズ
照)から、測点法の原点を見出したが、師である
ただ、Fig4 に示すように、ピエロ・デラ・フラ
ジェラール・デザルグが透視図作図に目盛尺を使
ンチェスカは、基線の下方の停点の位置平面(ピエ
用したことから、黒田正巳氏は、デザルグが測点
ロ・デラ・フランチェスカは停点を明示していない)
法(Fig.6 8 参照)の創始者と主張している。筆者は
に正方形を設定し、その対角線を利用して図形の平
現在では、Brook Taylor の透視図作図法を研究し
面図を表示している工夫も現代透視図法がその場所
た結果、Fig.7 9 に示すように、現在の測点法に最も
が空白になっていることを考えると評価すべきかも
近い方法はテーラーを中心とする研究者の業績と考
しれない。
えている。テーラーは、現代図学では正投影の関係
6
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透視図法の歴史についての一考察 井村 俊一
から、直立画面法による透視図作図法が講義される
が、1 消失点法や2消失点法では相応しい作図法だ
が、3 消失点法では相応しくない。何故なら、高さ
方向の消失点が無限遠方になり、一義的に決まらな
いからである。そこでテーラーが大いに活用した傾
斜画面法(Fig.8,Fig.9)が明快に説明できる設定を
もつ作図法である。しかし、一般には殆ど講義され
ていないと思われる。また、現在の形の消失線三角
形(Fig.10 10)を用いた作図法での立体作図はテー
ラーが活用している。
Fig.7 テーラーの測点法の原理図
Fig.5 ボッスの測点法
Fig.8 傾斜画面法(俯瞰透視図)
Fig.6 デザルグの測点法(目盛尺)
Fig.9 傾斜画面法(仰観透視図)
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金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
数学的)線遠近法(透視図法)の技法の解明と創案
を目指した。当時の理性は、ユークリッドの数学書
“原論”で、平行線は間隔が変わらず永遠に交わら
ない(このことと同値な命題は三角形の内角の和が
180 度であること:このような空間をユークリッド
空間という)ことを教えている。この理性と人々の
視覚的な体験との相違。この矛盾することがらから、
ルネサンスの画家や数学者が現実の体験的事実の裏
付けとして頼ったのは、ユークリッドが著した別の
著書“光学”であった。その光学での知見をアルブ
レヒト・デューラーの書 12 の“ユークリッドに基づ
く自然の透視図法”から引用すると第 6 定理“平行
線は、遠くから見れば、その間隔が位置に応じて異
なって見える”
(平行線の間隔がそれを見る距離に
より一定ではないことを言っている)が著述されて
Fig.10 立方体の透視図を与えた消失線三角形の作図法
いる。ただ、この自然の透視図法では完成された線
遠近法は成立しない。そこで、線遠近法のことを前
4.数学的側面からの透視図法の考察
者の対の言葉として“人工的遠近法”と称したりす
ルネサンス期に成立した透視図法を主導したアル
る。結果をいえば、透視図法の理論は数学的には、
ベルティやレオナルド・ダ・ヴィンチ、当時のロー
デザルグによる射影幾何学(ポンスレ 13 により完成
マに留学し、透視図法を学んだドイツのアルブレヒ
される)の基本定理といわれる“デザルグの定理”
ト・デューラーがそれぞれの絵画論で数学(幾何学;
で全て解決するわけである。
(透視図法はユークリッ
当時ではユークリッドの原論)の重視を画家達に説
ド空間ではなく、射影空間で成立する)故に、デザ
いている。その理由として“原論”は点、面等を定
ルグ以後は理論的には射影幾何学の性質、特に複比
義し、形を厳密に規定していき種々の定理を証明し
が保存される図法は透視図法の図法として正しいこ
ていく構成で学問の手本となる知見で、内容でも、
とになる。ただ、従来の幾何学と違い図形に現代数
中心投影の透視図の作図法理解には欠かせない。故
学の無定義概念である“無限遠要素(地平線、消失
に、形を描写する専門家である画家達に幾何学は必
点)
”が導入されるので理解するまでは混乱するか
修のことと考えたからだと思う。現代の絵画教育を
もしれない。ルネサンス期の画家や数学者が経験的、
考えると隔世の感がある。ところが彼らが重視した
実験的にはともかく図法を理論的に解明できなかっ
図法、
レオナルド・ダ・ヴィンチのいう線遠近法 (透
たのは、当時の幾何学水準では無理からぬことと思
視図法)は、当時、理論としてはまことに不思議な
う。反面、射影幾何学を理解して透視図法に向き合
構造をもっていた。経験的、実験的には基面に平行
えば、この図法の研究はすべて終了していると考え
な平面上の平行線群が漸次その間隔が狭くなり究極
てさしつかえなく、実用的に適用便利な各種図法の
的に 1 点に収束(平行線が交わる:三角形の内角の
開発や習熟で十分という意識になる。その究極が透
和が180度にはならない非ユークリッド空間という)
視図法のコンピュータソフトウエア化で、現在は、
していくように見える事実である。そこでこの現実
その使用マニュアルの理解と活用で十分となってい
から、人の感性という不確かな根拠による絵画技法
る。
11
から、ルネサンスの精神は、普遍性をもつ(科学的、
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透視図法の歴史についての一考察 井村 俊一
5.現在の透視図法
線を基準として椅子の平面図を配置し、平面図に接
してその横に椅子の立面図を配置する。そして、消
現在の透視図法は、工業化社会での必要(とりわ
失点である視心、距離点を地平線上に定める。図に
け建築関係)から、対象物を第 2 象限に設定し、正
は停点こそ表示していないが、現代透視図法の作図
投影でその平面図と立面図を表示し、それらから、
環境に近い設定となっている。このことから、アナ
透視図を作成する。正投影を基準として出来るだけ
モルフォーズ(透視図)の作図過程が、現代透視図
実用的な図法として副投影法(立面図と平面図の両
作図法に影響を与えたと筆者は推測している。
方の基準である基線を分離する工夫)を加味し、平
面図、立面図、透視図と 3 枚の図面が基面上の同位
6.絵巻物の絵についての一考察
置に表示される欠点を補っている。ルネサンスの透
視図法は、純粋に絵画技法として従来の平面的絵画
日本では古来、3 次元表現の線遠近法に相当する
表現に飽き足らず、3 次元的な絵画表現法の確立が
画法で描かれた絵は見当たらない。(解釈次第では、
目標と考えられ、画家の職人的感性より理論を重視
単純な大小遠近法の絵と思われるものは、存在して
ということで、数学(幾何学)を重視したため、僧
いるという説を聞いたことがあるが、確認はしてい
院における数学者の興味を引き、両者の協力関係で
ない)その代わり、絵巻物や屏風等に日本独自の 3
の研究や、互いに独立的にも研究が進んだものと考
次元表現、“吹抜屋台”と称される屋根や天井を取
えられる。絵画技法の確立が主目的であるので、正
り除き、斜め上方から見下ろす俯瞰構図で表現する
投影の概念はなかった当時でも、建築の土台にかか
形式が、多く用いられ、片斜め構図や両斜め構図と
わる石工組合では、平面図の知識は豊富であったろ
称されている。もっとも、絵巻物等の登場人物は、
うし、立面図も正面の形、側面の形の表現で、平面
一般に視点の位置が部屋の構図の位置より、下方に
図との関連で規格化(正投影)されていなくても、
設定されて表現されている。絵巻物の構図に興味を
三平面法による作図法の創案は、至極妥当な方法と
持つ図学の研究者達の多くは、当時の絵師達が理論
考えられる。反面、工業化社会での図法として、三
考察をして構図を決めたとは思わないが、おそらく
平面法は作業効率の面から、実用作図法から外れる
直感的に図学でいう直軸測投影図、斜軸測投影図を
のもやむをえないと考えられる。また、アブラハ
案出したのだと解説している。筆者も基本的には異
ム・ボッス等が、画家達のために工夫した種々の透
論はないが、ただ、直軸測投影、斜軸測投影とも平
視図作図法 も工業化社会では同じ運命をたどるこ
行投影法であり、絵図の平行性は製図のように完全
とになる。透視図の作図法が完成すると、特に数学
ではなく、絵図の縁側などの平行性が末広がりにな
者の興味は、透視図法で視点を対象物に対して大き
る逆遠近性等のことから筆者は敢えて別の観点から
くずらすと、歪の多い奇妙な透視図が作成される。
以前に論考したことがある 15 が核心は、吹抜家台の
このことを逆に考え、対象図形を歪ますと透視図が
構図の視点は上方、空中である。はたして絵師達は
正常な図形 にみえる。勿論、視点の位置からのみ
部屋等を天井あたりから実際に見下ろした経験から
見た場合であるが。これがアナモルフォーズの技法
描いたものか?である。縁側等の表現の、下側から
である。これは、透視図法のみではなく、円筒形、
上方に斜めに引かれた平行線は知覚心理学の知見か
円錐形、ピラミッド形等の鏡と組み合わせたアナモ
ら、錯覚により上方が広がって見えるという現象で
ルフォーズも研究された。透視図法のみのアナモル
逆遠近性は一応説明がつく。ただ、部屋全体の構図
フォーズの作成では第 2 節のニスロンの椅子のアナ
は想像で描いたのか。絵図でも等測投影的構図では、
モルフォーズのように、立方体の組み合わせのよう
ほぼ正しい。問題は、軸測軸の角度が 90 度程度の
な単純な椅子のアナモルフォーズの作成過程が、基
構成図である。Fig.11 は、斜軸測投影のミリタリ投
14
15
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金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
影に相当すると思われる。“平行投影下、投影平面
る、Fig. 12のような屏風での西洋風俗図の羊の絵は、
において、基準点と同一線上にない 3 点で作られる
人物に対して子猫のように描かれている。当時、羊
任意の平面 3 軸(平面 3 脚)は、空間における相当
は日本にいなくて、絵師は西洋絵画でしか存在を知
する直交 3 軸(直交3脚)の投影図となる。”とい
らなかった推定される。とすれば、西洋絵画で線遠
うのがポールケの定理 16 である。ポールケの定理か
近法により、遠くに小さく描かれた羊に、線遠近法
らは絵巻物の構図に 3 軸を見出し、解析すればよい
を知らない絵師は、見たことのない羊とは子猫ぐら
のだが、直軸測投影の等測投影や斜軸測投影のカバ
いの大きさの動物と勘違いをして、西洋風俗図を描
リエ投影の構図は直感的にも考えやすいが、斜軸測
く時に前面の牧童の近くに羊を配し、子猫ぐらいの
投影のミリタリ投影は俯瞰の構成としても、簡単に
大きさに描いたものと筆者は独断している。
は考えにくいと筆者は考える。(普通には、等測投
影が容易)それ故、両方の構図が絵巻物に用いられ
ていることは当時の絵師に、軸測投影における直感
的とはいえ相当の知識(3 次元感覚)があったと考
えられる。ただ、この 3 次元感覚が透視図法へと発
展しなかった。ただ、数学的に考察すれば、中心投
影の透視図法は、中心点(視点:有限の距離)を無
限遠点に拡張すれば、平行投影となるので、同じ分
類にあると考えて差し支えない。
Fig.12 西洋風俗図(部分)神戸市立南蛮美術館
六曲一双 17 世紀前半 紙本着色
日本での線遠近法の本格的展開は、江戸時代での
眼 鏡 絵(Fig.13、Fig.14 参 照 )、 浮 絵(Fig.15) か
Fig.11 寝覚物語絵巻(一)
(大和文華館)
ら始まると考えられる。西洋絵画の知識から、安藤
広重、奥村政信、葛飾北斎、等の絵に線遠近法の図
7.日本における透視図法
法が見られるが、消点など、図法として厳密ではな
16 世紀の中頃、フランシスコ・ザビエルが日本
く、構図の必要性があれば、躊躇なく線遠近法の構
に伝えたものとして線遠近法で描かれた絵画があ
成を無視した自由な展開(Fig.16、Fig.17)が加味
り、それが日本での遠近法伝来の始まりという説が
されている。即ち、一点透視の消点が収束していな
あるが、当時の絵師達にとって、はじめて見る線遠
い。しかし、眼鏡絵については、最初は伝来したレ
近法の構図の絵の意味が十分に理解ができなかった
ンズや鏡を使った装置(覗眼鏡、覗機巧:二形式あ
と考えられる。この当時、西洋から持ち込まれた書
り、Fig.18 、Fig.19 参照)と共にものまねで始まっ
籍の挿絵や絵画を“粉本”として、西洋風俗画が多
たと考えられる。その目的から、厳密に線遠近法で
数制作されたが、例えば 17 世紀前半制作といわれ
描かないと効果が得られない。また、厳密に描き、
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透視図法の歴史についての一考察 井村 俊一
装置にかけて見るとすごい迫力で視覚に迫る。それ
故、
見世物小屋の出し物にもなった。一説によれば、
平賀源内が西洋絵画に興味を持ち、写実性、線遠近
法の描き方を研究し、自身も描き、小田野直武、佐
竹曙山らに広めた。
といわれている。
また、
円山応挙、
奥村政信、歌川豊春、司馬江漢など、線遠近法の理
論的理解の程度は不明だが、陰影法と共に図法とし
て習得し、眼鏡絵や浮絵を描いている。次にドイツ
の旅行家ケンペルが 1691 年頃<将軍綱吉の御前で
謁見する図> 17 を、スケッチした絵を Fig.20 に示す。
謁見の間で、ケンペルは靴を履いたままだったとい
うから、建具も外され、畳も上げられていたのかも
しれないが、日本の城の広間の姿としては、異様な
Fig.14 三十三間堂大矢数図 円山応挙(伝)
情景で描かれている。ケンペルは画家としては素人
であったが、絵画の技法としては透視図法を教養と
する文化圏に属していて、教養として透視図法の教
育を受けていたと推測される。比較のため、同じよ
うな城中の広間を明治初年の洋風画家高橋由一が、
線遠近法的に描いた城中図 17 を Fig.21 に示す。同じ
ような対象を描いた絵とは思えない。このような比
較から、日本の家屋、室内、風土などは、透視図法
の描写のスケールに相応しくなく、線遠近法による
西洋絵画が伝来するまでは、絵師にとって画法とし
ての必要性がなかったのかもしれない。
Fig.15 浮絵金竜山開帳之図歌川豊春筆横大判錦絵
Fig.13 楼上椽端美人 春重(司馬江漢)
Fig.16 芝居狂言顔見世舞台大浮絵 奥村政信
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金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
Fig.20 ケンペル将軍綱吉の御前で謁見する図
Fig.17 北斎漫画(部分)3 篇 1815 年
Fig.21 織田信長ひそかに密勅を五老臣に伝うるの図
1892 年 高橋由一
8.おわりに
本報では、美術史論的考察は美術史家にまかせて
Fig.18 覗き眼鏡 反射式(外国製)18 世紀
図学者として、現代図学における透視投影の作図法
の歴史を概観してきたが、作図法は透視投影の原理
に適合している限りは、その時代の目的のために最
適と思われる図法が提案され、広まるわけであり、
図法はあくまでも、その目的を達成するのに効率の
よい方法が最適で、単純にどの図法が優れていると
評価はできない。例えば、アブラハム・ボッスは 7、
絵画論で絵画は、線遠近法で描かれねばならないと
説くと共に、画家達が作業し易いように、伝統的な
線遠近法の作図法にとらわれず、筆者が名付けた2
視心による距離点法という独自な作図法を創案した
り、ブルック・テイラー 9 は、必要性から、透視図
Fig.19 覗き眼鏡 直視式 18 世紀
から原図を再構成する図法を創案している。現代で
̶ 81 ̶
透視図法の歴史についての一考察 井村 俊一
は主として、工業化社会に適合する方法が教科書で
ある。それ故、レオナルド・ダ・ヴィンチやアルブ
採用され、講義されているわけである。そのため、
レヒト・デューラーが画家に幾何学を勉強すべきと
現代では取り上げられていない各種作図法にも歴史
記述しているのは至言である。
的視点から、概説してきた。それ故、現在、多数の
図学教科書で講義されている直接法、距離点法、測
点法、傾斜画面法、消失線三角形による 3 点透視、
等の作図法の成立過程が、ほぼ解明できたと考えて
いる。また、今回は取り上げてはいないが、医学者
である岩田氏は、通常の視点固定の透視図法に、医
学者らしい観点 20、視線固定としたときの画像領域、
また、彼独自の 2.5 次元のスケッチと3次元モデル、
等、従来の美術史家や、画家には思いもよらない発
想など、新しい透視図法の考え方が、今後も生まれ
てくると考えている。
透視図法は、ルネサンス期に 3 次元の外界を 2 次
元の画面に理論的に描写する、画期的絵画技法と
して誕生した。単画面で 3 次元を 2 次元に表現する
のは原理的に不可能である。もし可能だとしたら、
錯覚 に頼らざるを得ない。(脳科学の研究が重要)
一般に人は、外界(3 次元)の情報を目による視覚
情報(網膜の 2 次元情報)にして脳に伝える。脳は、
両眼による二つの 2 次元情報によって 3 次元を知覚
(立体視)する。それとは別に、外界の情報、例え
ば、平行線を観察すると 1 点に収束するように見え
る。この経験は感性を排除した機械(カメラの映像)
Fig.22 アブラハム・ボッスの透視図作図法 7(2 視心による距離点法)
によっても変わらない。故にこの現象は光学的なも
ので、原理として中心投影が基本になる。そこで数
学(幾何学)の助けにより、画面による 3 次元表現
の手段として透視図法を開発する。同時にこの図法
が単に絵画の技法として留まらず、数学的にはデザ
ルグを経て、ポンスレにより射影幾何学として結実
した。また、平行線が交わる、交わらないという考
察から、非ユークリッド幾何学も誕生している。非
ユークリッド幾何学の考察から宇宙の形をも対象と
なる各種の幾何学も誕生した。何故なら、幾何学と
は、一定の約束(公理系)の基で変換により変わら
ない性質を研究する学問で、形の情報を 2 次元画面
に投影するという変換は正しく絵画を表している。
つまり、絵画と幾何学は深く結びついているわけで
̶ 82 ̶
Fig.23 Brook Taylor の透視図再構成法 9(実角等)
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
注
して、無限遠要素、即ち、直線には無限遠点、平面には、
1
『空間を描く遠近法』黒田正巳、彰国社 1992
2
『図形科学ハンドブック』日本図学会、森北出版.
無限遠線、空間には、無限遠平面を創設して平行投影
1980、本報告の Fig.2 は p13 図 1・9 より、出典。
3
との関連を理論付けして、射影幾何学に到達した。
14
Gaspard Monge ,1746 ∼ 1818;画法幾何学の創始者。
Monge は、彼の著書で画法幾何学(図学)とは、第一
「アブラハム・ボッスの透視図法と絵画」参照。
15
に、2 次元、即ち、長さと幅しかもたない画紙の上に、
は、上述紀要 p55 , Fig.20 より再掲。
16
ケの定理を発見、1860 年に無証明で発表する。1864 年
体の形を知ること、およびその結果とそれぞれの形と
に Hermann Amandus Schwarz(1843 ∼ 1921)により、
る。“数学の歴史Ⅴ、全 10 巻中、第 5 巻、18 世紀の数学、
5
1864 年に拡張されて証明された。
17
『視覚の魔術展 DISGUISED VISION 』
小堀憲、1979 P107 より、抜粋。
1994 年、10 月 27 日∼ 12 月 5 日
Géométrie descriptive( 画 法 幾 何 学 )
, Gaspard Monge,
伊勢丹美術館、主催=東京新聞、東京新聞発行カタログ、
1795
p186から、
Fig.14 , p189 , fig.2 , fig.3より、Fig.20,Fig21を、
Jean-François Niceron 1613∼1646 ジャン=フランソワ・
ニスロン、ミニモ修道会の修道士でデカルトの友人である
p188 より、Fig.18 を p187 より、Fig.19 を出典。
18
『見る脳・描く脳、絵画のニューロサイエンス』岩田
マラン・メルセンヌの弟子、数学者。アナモルフォーズを実
誠、1997、東京大学出版会
現するのに必要な数学的基礎を解明、
”不思議な遠近法
岩田は、医学者の視点から、絵画について同書の全編を
“1638, 出版、アナモルフォーズの手法の通俗化の推進者。
6
Karl Wilhelm Pohlke 1810 ∼ 1876 , 1853 年にポール
樹立することであり、第二に正確な作図に従って、物
位置に由来する真理を導き出す手段を与えるものであ
4
『金沢美術工芸大学紀要第 46 号』2002 年
「逆遠近法の理論的考察試論」で報告。本報告の Fig.11
3 次元即ち、長さ、幅、深さ、をもつ立体を、厳密に
定義することができることを条件として、表す方法を
『金沢美術工芸大学紀要第 49 号』2005 年 通じて、新しい見方を提唱している。
Piero della Francesca の透視図法
『金沢美術工芸大学紀要第 52 号』2008 年
「アルブレヒト・デューラーの透視図法」p44 , Fig.12 か
ら、Fig.4 再掲。
7
『原色日本の美術』全 30 巻の第 25 巻「南蛮美術洋風画」小
『金沢美術工芸大学紀要第 49 号』2005 年
学館 昭和 51 年 2 月 1 日 6 版
「アブラハム・ボッスの透視図法と絵画」p109 ,Fig.11
から、Fig.5、p105,Fig.1 から、Fig.22 再掲。
8
P22 より、本報告、Fig.12 出典。
『原色日本の美術』全 30 巻の第 17 巻「浮世絵」小学館
『金沢美術工芸大学紀要第 51 号』2007 年
「ジェラール・デザルグの透視図法」p26,
昭
和 51 年 2 月 1 日 6 版 p186 より、 本報告、Fig.13 p195 より、
Fig.19 から、Fig.6 再掲。
9
参考文献
Fig.15、p179 より、Fig.16 出典。
Brook Taylor の測点法
『金沢美術工芸大学紀要第 53 号』2009 年
「BROOK TAYLOR の 透 視 図 法 」p68 , Fig.28 か ら、
Fig.7 再掲。
(いむら・としかず 一般教育等/図学)
10 Brook Taylor による消失線三角形による作図法『 金
沢美術工芸大学紀要第 53 号』2009 年
「BROOK TAYLOR の 透 視 図 法 」p69 , Fig.31 か ら、
Fig.10 , p70 , Fig.34 から、Fig.23 再掲。
11 幾何学的遠近法(透視図法)で、レオナルド・ダ・ヴィ
ンチは、その他に、遠近法として、空気遠近法(色彩遠
近法、細部省略遠近法)を提唱、日本では、三面の法、
陰影法、明暗法の名称で呼称される。
12 『アルブレヒト・デューラー「絵画論」注解』
下村耕史 訳編、中央公論美術出版 2001 より、p302“第
六定理”より抜粋。
13 Jean Victor Poncelet , 1788~1867 ;モンジュの弟子
でモンジュは、平行投影を出発点とした正投影で画法
幾何学を展開したが、ポンスレは中心投影を出発点と
̶ 83 ̶
(2009年10月30日受理)
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
中国における現代美術の動向について
小 松 﨑 拓 男
1 . 伝統的美術の存在
て行くことになるのである。また付言すれば、植民
地支配を通じ、文化様式においても東アジア地域に
アジア地域においては、それぞれの国が地域独自
おいては、日本が最も近代化=西欧化を成し遂げた
の発展を遂げ、各国が長い歴史と文化的伝統を持っ
結果、その近代形式の伝搬においては、留学生の教
ている。しかし東アジアに位置する中国、韓国、日
育や指導者の養成、美術の様式などさまざまな側面
本の三国をみると、中国の影響は極めて大きかった
1
において主導的な役割を果たしたといえる。
といえるだろう。古代から強大な歴代皇帝によって
伝統美術とは別の文脈で成立したこのような近代
治められた中国の文化は、周辺の国家に直接、ある
的美術は、1900 年代半まで各国の主流の美術とし
いは間接の影響を与えており、結果として類似的な
て続き、第二次世界大戦後に世界の美術の大きな変
文化の諸相の上に、それぞれの独自で特徴ある文化
革の波が、欧米とりわけアメリカから各国に及ぶま
を構築して来た。これは近代化、すなわち欧米化を
で、アジア地域の大きな美術の流れとなっていた。
迎える 1700 年代後半まで続いて来たのであり、こ
第二次世界大戦により、ヨーロッパから戦禍に見
うして作られた文化を我々は「伝統的な文化」と呼
舞われなかったアメリカに文化に関する主導な地位
んでいる。この伝統的な文化の中には、芸術一般と
が移ったのは当然の結果であるかも知れない。アメ
して、美術や音楽があり、これらも独自の形式や内
リカの美術では新しい絵画形式に始まり、やがて大
容を持ったものとして、それぞれの国で継承されて
量生産と大量消費を背景とした消費型の文化の相の
来た。
上にポップ・アートという新たな芸術形式を創出し
美術の領域においては、例えば絵画にみられるよ
た。これはいわゆる大衆文化がその背景にあり、こ
うに、中国や韓国では、国画と呼ばれる墨と紙によっ
うした文化の基層から現れた芸術であり、広汎な
て表現された絵画形式が存在し、それは日本におい
文化産業と結びついた 20 世紀の代表的な芸術形式
ては日本画と呼ばれるジャンルであるだろう。これ
を生み出したといえ、この文脈の上に 21 世紀初期
らは素材や表現において限りなく類似的な側面を持
のいわゆる現代美術は位置したものといい得るだろ
ち、一方で各国独自のニュアンスや内容を表現する
う。
ものであり、同一であり、同一ではないという性格
を持ったものとして展開して来た。
さて、このように概観される東アジアにおける美
術の状況は、各国独自に近代以前に成立した「伝統
またこうした伝統的美術と 1700 年代以降の近代
美術」。さらに封建社会が崩壊し、近代化=西欧化
化と共に起こった近代美術との軋轢は各国とも興味
によって構築され、伝統美術とのせめぎ合いの中で
深いものがあるが、
この論考では詳しくは触れない。
成立し、以後のアカデミックな形式となった「近代
ただ簡単に述べれば、近代化と同時に、伝統的な美
美術」。そして第二次世界大戦後にアメリカの圧倒
術とは異なる近代的な美術の形式や様式が、基本的
的な影響のもと登場して来た「現代美術=コンテン
には国家の公式美術の在り方として定着し、アカデ
ポラリー・アート」という三つの美術、あるいは美
ミックな美術様式として各国の美術の規範を提示し
術形式が存在することになる。
̶ 85 ̶
[ キーワード ] 国際美術展 コンテンポラリーアート アジア
中国における現代美術の動向について 小松﨑 拓男
2 . 現代美術の文脈
社会主義を標榜する国家として君臨した。しかし、
この共産主義は、ソビエトにおける社会主義政権の
この三つの美術形式のうち、「現代美術」とは明
崩壊とともに、大きくその形を変貌させ、現在では、
らかに欧米社会の展開の基底にある近代化の文脈の
共産党の一党独裁という政治体制の下に、資本主義
上に成立したものであることは間違いない。従っ
経済を国家主導の管理下におきながら実行する、新
て、欧米人にとって「現代美術」という美術の形式
たな混交的な国家体制を敷き、新共産主義ともいう
は、歴史的に近代において成立した芸術と連続して
べき道を歩んでいる。
おり、同一のコンテクストの中にあるものとして基
こうした中国において美術様式は現在、幾つかの
本的には理解されている。言い換えれば、マーク・
層によって形成されており、現代美術の位置も欧米
ロスコー、ジャクソン・ポロック、デ・クーニング、
のそれとは異なるように見える。特に第二次世界大
あるいはアンディ・ウォーホルの絵画ですら、レン
戦後の共産主義体制下で称揚された美術形式は、社
ブラントやピカソの絵画と同一の論理や構造の中で
会主義リアリズムという、国家のイデオロギーを、
論じることが可能であるのだといい得る、あるいは
理想化された政治指導者に仮託したり、あるいは労
同一のコンテクストの中において創作されたのだと
働者の理想化された姿を表現したりする独自の様式
いい得るものといえる。さらに 21 世紀に起こった
2
を生み出した。
インスタレーションを中心とした新たな空間芸術の
この様式の特徴は、極端な理想化とリアリズム表
展開もまた、こうしたコンテクストの上に成立する
現である。ただし、ここでいうリアリズムとは真実
のだといえる。それはとりもなおさず、国際美術展
や実体をあらわすのではなく、あくまでも理念的な、
などのアートシーンを主導するコンテンポラリー・
非現実的な世界を写実主義の様式において表現する
アートが西欧の文脈の中にあるのだということを端
のであり、その意味では真のリアリズムとはいえな
的に表しているという訳なのである。
い。このような様式が、形式主義や伝統主義、技術
この文脈の存在は、どのように欧米化が進む東ア
主義に陥り、国家の公式的な美術として政府の公
ジアの地域が、その地域のアーティストによって制
認したものであったとしても見るべきものがないの
作された作品を、
現代美術表現であると主張しても、
は、極めて当然のことである。
元来その文脈上には組み込むことが困難なものであ
これに対して、ヌードを含む穏健な近代絵画であ
るかも知れない。またこうした限界とともに、制作
れ、抽象画や表現主義絵画なども、こうした公式の
の現場をアメリカやヨーロッパに移し、かつてのエ
絵画とは異なる反社会的なものとして、国家権力に
コール・ド・パリを形成した外国人のアーティスト
よる排斥が公然と行われて来た。結果、穏健なモダ
のように、コンテンポラリー・アートの文脈に回収
ニズムであれ、抽象画であれ、それらを制作するこ
されようとしているアーティストも現れているよう
とは、好むと好まざるとによらず、中国では反権力
に思う。従ってここには、現代美術における限界と
3
運動となってしまったのである。
拡張の二重構造が存在しているといえるだろう。こ
の詳細な分析は、現代美術に関する多くの課題のひ
4 . 反権力としての現代美術
とつでもある。
社会主義リアリズムが中国において公式の美術で
3 . 社会主義リアリズム
あったとするならば、いわゆる近現代美術の様式は、
反革命であり、反権力運動となった。外国人旅行者
中国は承知のように第二次世界大戦後は、世界で
のもたらす美術雑誌、東欧などを経由した欧米の情
も屈指の共産主義国家となり、ソビエト連邦と並び
報など、極めて狭い情報の道筋を辿りながら、西欧
̶ 86 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
の美術事情は心ある、体制美術に飽き足らない人々
この異様なブームは現地でのエリアを実見すれ
に現代美術の存在を知らせ、その制作に向かわせ
ば、並外れて異様な事態であることは間違いないだ
た。そして何人かの人々はさまざまな手段を駆使し、
ろう。しかもここに集まるギャラリーのほとんどす
1980 年代にかけて国内から海外へ飛び出し、新し
べてが、現代美術を扱うギャラリーであり、中国資
4
い芸術表現を模索していた。
本だけではなく、様々な国の資本が投下されている
一方、国内に残る人々は機会を得ながら現代美術
のをみると、ゴールドラッシュ目掛けて、金目当て
の展覧会を開催し、何度も官憲による取締などを経
の飢えた男たちがやって来た街のようにも見えなく
験しながら、徐々に表現の自由を勝ち取って来たの
ない。
である。そしてようやく 90 年代に入り、経済にお
しかし、繁栄は長くは続かなかった。オリンピッ
ける改革開放、さらにソビエト連邦崩壊など、社会
ク・ブームが去り、金融崩壊が起こり、現在は欧米
情勢の大きな変動の結果、国際社会に中国の現代美
の資本の幾つが撤退し、なおギャラリー閉鎖の噂や
術の存在が明らかになった。
身売りの話には事欠かない。人々の賑わいも一時期
の状態とは異なり閑散とした状況も生まれている。
5 . 国際市場における中国現代美術
だが、そのような状況の一方で、なお、平日にも関
わらず観光客や見学客の足はなくなっているように
蔡國強、ファン・リジュン、アイ・ウエイウエイ
は見えない。798 の活況は、ヴェネチア・ビエンナー
など 90 年代後半以降、国際的にも認められる数多
レのそれや、銀座の歩行者天国のそれにも似た様相
くの中国人アーティストが登場し、国際的な美術展
ではある。このような現状を踏まえ、もう少し詳し
を中心に国際アート市場で大きなブームとなった。
く、現代美術の現状を次の項では見て、現代中国人
彼らの作品が欧米から注目されたのは、何より社会
との関係や都市と現代美術の関係を考え、中国にお
主義、共産主義の体制により、存在するとは思えな
ける現代美術とは何かについて論究することとした
かった現代美術を指向する作品が存在し、しかも欧
い。
米のアーティストの表現し得ない中国独自のテイス
ト、例えば蔡國強の火薬、ファン・リジュンの独自
6 . 現代美術の理解
の具象表現5などが、新鮮な印象を与えたことにあ
る。またそれは、決して中国の現代美術が、現代美
現代美術について中国人が、西欧や日本のそれの
術の主流として認められたのではなく、それとは別
ように、ある文化的な基底の中で理解しながら存
の現代的シノワズリー(中国趣味)として好まれた
在しているかどうかについては大きな疑問があるだ
のだともいい得るかも知れない。事実、こうした表
ろう。無論、欧米にせよ、日本にせよ、現代美術と
現に追随するような中国人作家が次々と登場したこ
いわれるカテゴリーに入る造形芸術表現が、一般的
とは、イズムの問題であるよりは、流行や珍奇なも
な市民レベルや大衆レベルでその内容が理解されて
のを求める趣味の世界に近いものを感じる。
いるのかといえば、決してそうではないことは明ら
この一大中国現代作家のブームは、中国国内では
かである。それは、どのように欧米において現代美
現代美術がよりよい生活への、経済的な成功と密接
術が盛んであったとしても、それは一部のアートフ
に結びつき、現代美術が単に制作に留まらず、作品
リークや美術業界を中心にした出来事であり、映画
を海外に売るギャラリー経営と結びつき、巨大な現
産業や音楽産業のような大きな消費者層を持った巨
代美術のエリアが誕生した。これが、軍需工場の跡
大資本の徘徊する世界とは全く異なるものであるだ
地に出現した 798 や草地場などの巨大アート・エリ
ろう。また日本でも同様、またはそれ以上に困難な
アといえる。
状況であることは、現代美術の名を冠した美術館の
̶ 87 ̶
中国における現代美術の動向について 小松﨑 拓男
数の少なさや、現代を美術館の名前から外さねばな
しむといったことが行われていたとしても、そこに
らなかった公立美術館6の存在を考えてみれば、よ
は何か鑑賞の規範が存在するのではなく、ほとんど
く理解できるだろう。現代美術は、今までも、また
基準や価値といったものが、存在しない、いわばカ
これからも決して大衆的なものではない。大量に生
オスのような状況であると言えるのではないだろう
産され、大量に消費されるような、音楽や音楽産
か。見る側が、そのような状況であるならば、制作
業、あるいはメディア業界とは異なるものであるだ
する側であるアーティストたちにおいても、一部の
ろう。
西欧の美術界と繋がりを持つようなアーティストを
とはいうものの、ヴェネチア・ビエンナーレ、ド
除き、思想や哲学など、考えるべき根本を持たずに
クメンタなどの国際美術展の活況は、現代美術が
現代美術の創作に携わっているような印象すら受け
市民権得ることが決して夢物語ではなくなったこ
るのである。
とを示しているのも事実でもある。欧米だけではな
国家が強力な一党独裁のイデオロギーの上に成立
く、アジアなどヨーロッパから遠く隔たった地域か
しているのとは好対照であるように、いま中国のコ
らも多くの現代美術ファンを引き寄せ、またこうし
ンテンポラリー・アートはある種の無政府状態、あ
たファンだけではなく一般の人をも巻き込んで、大
るいは混沌の中にあるといえる。外見は巨大な現代
きな活気あるイベントとなっている。さらにそれは
美術ギャラリーであり、そこには無数の中国人アー
アジア地域においても同様であり、韓国で開催され
ティストによる作品が展示されているかに見える
ている光州ビエンナーレには何十万人という人が集
が、それは 90 年代にヨーロッパやアメリカで評価
まった。
されたアーティストたちの真似か、よくても変奏曲
さて、目を中国に転じてみよう。日本や韓国、あ
のような、作品ばかりに見える。中国の根本的な文
るいは台湾などの資本主義の経済体制下にある国々
化の問題や社会的な苦悩に根ざした表現には行き当
においては、欧米的文化が第二次大戦後は、欧米と
たらない。表面的な活況に比べて、内容はあまりに
ほぼ同時に文化的な状況が展開して来た。従って、
も貧しいものであるといえるだろう。
教育や大衆文化のレベルにおいて、現代美術に対す
このような状況を裏付けるように、台湾出身の中
る理解や認識に関していえば、概ね欧米との違いは
国人キュレーターが、インタヴューの中で述べた
ないか、あっても格差は深刻なほど大きなものはな
「中国には現代美術を理解する人はいない 。」8 と
いだろう。しかし、こと中国に関しては、同じアジ
言った発言や上海で活動する韓国のキュレーター、
ア地域にありながら、国家体制の違いによって、現
スンヒー・キムの「現代美術を分かる人も好きな人
代美術対する理解や認識には、非常に大きな違いが
もいない」9という半ば自虐的とも見られる発言は、
あるといえる。
中国の現代美術の環境を如実に物語っているといえ
そもそも美術の在り方自体が共産主義という国家
るだろう。これは美術館や、ギャラリー施設を運営
体制の中では、欧米や日本のような資本主義の文化
する立場の人間の発言であり、常に大衆的な欲求と
の中の美術の在り方と異なっているというのは当然
向き合う現場の人間の声である。こうした声や発言
である。もともと共産主義の美術は、党のイデオロ
の意味するところは、中国においては一般的な人々
ギーに従属するものであり、それらは性格的にはプ
のレベルにおいて現代美術は存在していないに等し
ロバガンダ芸術に近い。 個人の趣味において美術
いということである。むろんこれは、極端な言い方
を鑑賞するのではなく、新しい、その時代の美術は
ではあるかも知れないが、と同時に日本や欧米と比
常に党の成果を彩るものでしかなく、鑑賞や趣味と
べた時、特に日本においては一般的な現代美術の受
いうものとは大きく次元を異にしていたといえるだ
容は決して大きい訳ではなく、中国のそれとある点
ろう。従って、現在の中国には、美術を鑑賞し、楽
からいえばほとんど変わらないともいえるかも知れ
7
̶ 88 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
ないが、社会的な受容ということを考えると、中国
ケットとしての容認に大きく政府が立場を変えたと
の現状は極めて厳しい状況にあるといえるだろう。
いえよう。これは決して表現の自由を容認し、芸術
観覧者のモラルの低さ、例えば平気で絵に触ると
活動の自由を保証したことではない。むしろ、特定
いった行為が日常的にあり得たりすることなどから
の地域にアートを囲い込み、一方において反権力の
みても、歴然としているかも知れない。
芽を監視し、国家管理の下に置くとともに、他方経
済振興政策として国家の保護下に置くということで
7 . 中国における現代美術
あるだろう。すなわち現代美術振興策は文化政策で
あるよりは経済政策であるといえようか。
さて、それではこれまで見て来たような状況にも
ここにおいて現代美術の置かれた特殊な状況が見
関わらず、世界が注目するような、798 のような巨
えて来る。それは文化政策や教育政策の中で現代美
大な現代美術の展示エリアが、中国に出現し、それ
術の振興が図られるのではなく、経済政策によると
らが大きな活況を呈し、今なおある程度の力を維持
いうことの示す意味は、常にマーケットの主導する
しながら展開しているのかを考えてみよう。
現代美術の出現ということであり、制作の理念や思
先ず、第一には、中国の現代美術が再発見された
想、方法論や理論に先立ち、マーケット上の価値が
時の作品やアーティストが、これまでの西欧のアー
存在する現代美術であるということになるからであ
ティストとは異なる作品を制作し、それが質の高い
る。従って、中国人アーティストのマーケットでの
現代美術の作品として新鮮な印象を与えたと同時に
高値とは裏腹に、作品的にはもはや飽き飽きするよ
高い評価を得たことにあるだろう。その注目とさら
うな模倣や焼き直しが横行し、独自の創造性にはあ
にこうしたアーティストが質の高い作品を制作し続
まり注意が行かないという、芸術としては極めて危
けられたことが大きい。もし単に一度や二度の表層
機的な状況が生み出されているといえる。さらにこ
的なブームであれば、こうした事にまで及ぶ事はな
うした作品の多くが、今なお欧米人を中心にした現
かったに違いない。基本的には中国の現代美術の質
代美術愛好家を相手にしたものであり、中国人のコ
の高さがその背景にある事は認識しておくべきであ
レクターや鑑賞者の育成へとは至っていない、すな
ろう。
わち国内の現代美術の広まりは極めて限られた範囲
とはいうものの、質の高い作品の制作と才能ある
のものであるといっていい。
アーティストが現在もなお輩出しているかという
と、それにはいささか疑問が生じる。第一世代とそ
8 . 現代中国の美術の相
れに続く何人かのアーティストは確かに現在もな
お、多くの国際美術展に作品を出品し、アート・マー
このような現代美術の状況は、現代美術自体が、
ケットでも高い値段で作品が取引されている。しか
決して創造的な社会の表現として必然的に生み出さ
し、それに続く世代が生まれているとはいえない状
れたものであるというものではなく、むしろ社会的
況ではないか。
な要請や利潤による商品化としての表れという側面
そしてこのことが、アート・エリアの誕生と決し
を強調する。美術で成功することは、豊かな生活を
て関係のないことではない。すなわち、国家にとっ
保障し、豪邸での生活を欧米に比べ物価の極端に低
て反権力であった現代美術は、改革開放経済の下、
い中国では比較的簡単に手にすることが出来る。す
反権力から、国際的な評価と国際的なアート・マー
なわちこのとき美術は表現の問題であるより、生活
ケットでの商品価値がつけられることによって、一
の手段となるといえるだろう。
転、新たな文化産業としての資源に転化したといえ
さらに、現代美術以外の美術の存在も忘れてはな
る。これが第二の要因である。文化の抑圧から、
マー
らない。写実的なアカデミズムは権威として生きて
̶ 89 ̶
中国における現代美術の動向について 小松﨑 拓男
おり、また同時にモダニズムも同時に新しい表現と
まいか。それが韓国の光州ビエンナーレや日本の横
10 そこには
して社会に大きな影響力を持っている。
浜トリエンナーレなどのアジア地域の国際美術展の
美術教育に携わる教員の作品に見られるように現代
性格を物語っており、欧米の正統的な国際美術展と
美術とは異なる、同時代の穏健にして穏当な表現も
は大きく異なる特色ともいえる。
11 社会主義という体制下に
また存在するのである。
すなわちそれは、美術における芸術的な主張や文
おいてはこうした表現すら、反社会的なものであっ
化的な思想の表明として美術があるのではなく、一
たはずであり、現代美術の相とは異なるレベルにお
方は伝統美術に対する反転攻勢と他方は一般大衆
いてまたこれらも新しい表現であり権威なのであ
への芸術的な啓蒙という、常に二正面作戦を強いら
る。
れ、戦力が二分され続けるという現代美術の消耗戦
またさらに工芸や伝統美術の存在も無視すること
の戦いである。そしてそれは同時に、大衆を動員し、
は出来まい。こうしたものが価値づけて来た美意識
大衆への理解、ある意味度を過ぎた媚びともいえる
や美術に対する概念は、広汎に一般の人々の美術と
ような擦り寄りをせざるを得ない、下品な現代美術
は何かという考え方を支配する雛型を与え、現代美
の婢的卑屈さとでもいい得るものであろうか。いず
術に対する認識や理解の妨げになることが多いが、
れにせよそれは現代美術に携わるものにとって、決
おそらくは中国においてもこうした状況は変わらな
して幸福な状況とは言えないだろう。こうした不幸
いだろう。
な状況を少しでも前進させ、現代美術が現代美術と
このような幾つもの相が混在し、混沌とした事態
して真っ当に評価され、社会の中でその地位を得ら
を作り出しているのが、中国美術の現況であり、こ
れるためにも、国際美術展の在り方を考え、実現し
れらがいかなる方向に向いているかは、全く見極め
て行くことを努力することは必要なことであるだろ
が困難であるといえる。それは方向性のない、方向
う。
性の見えない暴走であり、それらは、改革開放経済
のもと今始まったばかりなのであり、今後 10 年以
上は、この極めて不安定で、エネルギーに満ちた、
停滞と爆発が同時に進行する、ある意味、不可思議
本論考は 2009 年 3 月に行った特別研究「国際美術展の可
能性」の調査報告書に執筆した論考に新たに注を付し、加
筆訂正したものである。
な状況が続いて行くものと想像する。おそらく世界
でも類例のない、いやもしかすると明治の開国時の
日本の文化状況とは、
その在り方が異なるとはいえ、
こうしたものかともアナロジカルに想像してはみる
ものの、文明のエネルギー量の巨大さを考えれば、
その比ではない巨大なアートの実験が始まったのか
もしれない。
9 . おわりに
アジア地域は中国の例が極端なものであるとはい
うものの、在来の伝統的な美術とのせめぎ合いの中
で、常に無理解と批判に晒されざるを得ない現代美
術が、唯一その正当性と社会での役割を主張できる
場でもあるのが、実は国際美術展であるのではある
̶ 90 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
注
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
韓国においては 1945 年に梨花女子大学に美術科が創
設されるまで自国において美術家を養成できる大学は
存在していなかった。美術家を志した者はもっぱら日
本の大学において勉学したのである。さらにこれは日
本の植民地支配の結果でもあるだろう。姜健栄『近代
朝鮮の絵画』朱鳥社 2009.4.pp.15
イーゴリ・ゴロムシトク『全体主義芸術』貝澤哉訳
水声社 2007.2 pp.246-259
牧陽一『アヴァン・チャイナ』木魂社 1998.9 pp.12-14
ほか
牧陽一 同書 pp.32-60
牧陽一 同書 pp.19
1989 年 6 月 4 日に起こった六四天安門事件の挫折を
経験した以後に登場した、虚無感の漂う人物表現でシ
ニカル・リアリズム
(玩世現実主義)
と呼ばれる。牧陽一
『中
国現代アート』講談社選書メチエ 381 講談社 2007.2
pp.36-38
金沢 21 世紀美術館は準備室時代には現代美術館の
呼称を用いていたが、開館時に現在の名称に改められ
ている。しかし、現在でも英語の表記は、21st Century
Museum of Contemporary Art, Knazawa であり、現代
美術を扱う美術館であることを国際的には表明している。
牧陽一 松浦恆雄 川田進『中国のプロバガンダ芸術』
岩波書店 2000.9
中央美術学院美術副館長スーチェン・シー Suchen
Hsieh。2009 年 3 月 26 日中央美術学院美術館にて面談
調査の際に出た話である。なお、同美術館は日本人建
築家磯崎新の設計で中央美術大学の付属美術館として
2008 年 10 月に北京市に開館している。
国際的に活動する韓国人キュレーター。韓国の光州
市立美術館および光州ビエンナーレ、日本の森美術館
でチーフ・キュレーターを務めた後、2009 年に 6 月ま
で上海の Band18 でアートディレクターとして活躍。
「絵画の行進 中国表現主義絵画8人」展。2009 年 3
月中国美術館にて開催されていた展覧会で作品の内容
はモダニズムそのものであった。
「天津美術学院油画系教師作品展」やはり 2009 年 3 月
中国美術館にて開催されていた展覧会。天津美術大学
の教員の作品展である。近代的な絵画様式が主流とな
り、古典的な写実主義から抽象画、若い教員によるイ
ンスタレーション的作品まで幅広い作品内容が示され
ていた。
(こまつざき・たくお 一般教育等/ 博物館学、現代美術)
(2009 年 10 月 30 日受理)
̶ 91 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2 010
プルーストと脳科学 1
─ 記憶 ─
青 柳 り さ
1996年、
吉田城は
『神経症者のいる文学−バルザッ
迷と昏睡の診断』5 のなかで提唱されているが、彼ら
クからプルーストまで−』において次のように述べ
によれば、『モンテ・クリスト伯』(1845 年)の登
ている。
場人物ノワルティエ・ヴィルフォールが、ロックト・
イン・シンドロームの最初の記載だということであ
人間の脳が生みだした文学作品や絵画といったフィクショ
る。シャルコーがサルペトリエール病院に赴任する
ンの世界にも神経症は大きな問題として存在してきた。
[…]
のが 1862 年である。それに 17 年先立ってデュマは
21 世紀は「脳の世紀」になるといわれ、学際的な脳の研究
「ロックト・イン・シンドローム」という病気の症
が国際神経科学会を中心に進められている。養老孟司氏は
状を小説のプロットに取り込んでいたのである 6。
現代が「脳化社会」であると強調している。もし現代文明
視覚芸術の領域では、たとえば、レオナルド・ダ・
全体が人間の脳から生まれたものであるなら、脳を科学す
ヴィンチが「すべての色の組み合わせで最も心地よ
ることはすなわち文明を深く理解することにつながるであ
く感じられるのは、相対立する色から成り立ってい
ろう。[…]精神(心)の座が脳にあるのだとしたら、神経
る場合である」と述べたたのは今からおよそ 500 年
の研究は人の心を研究することにつながるはずだ。文学や
前だが、反対色特性が発見され、このことが初めて
芸術の創造行為、あるいは信仰の問題を考察することは、
生理学的に証明され、事実であるとされたのはいま
どこかで心理学ないし医学が追求していることと交わるよ
からわずか 40 年ほど前なのである 7。
2
プルーストは、とりわけこのような人間の不思議
うに思う。
に注目した作家であり、人間観察とその分析に優れ
同年、脳科学者である伊藤正雄は「私たちはま
た作家である。彼は医者でも科学者でもない、もち
だきわめて初歩的な段階にいます。物理学の歴史に
ろん解剖の経験もない。その取り組みは、時に意識
たとえていえば 15 世紀か 16 世紀といったところで
的であり時に無意識的である。しかしプルーストの
3
しょうか 」と語る。文学、哲学、芸術は、脳科学
作品は、後の科学的発見の予告に満ちており、人間
に先行しているのである。
探究、人間精神探究と人間発見の宝庫なのである。
たとえば、
「閉じこめ症候群( locked-in syndrome)
」
I 変容する記憶
というものがある。無動、無言であるが、意識は清
明であり、随意的な眼球運動や瞬目が保たれている
1「ゲルマント公爵夫人と赤い靴」と「コンブレから
状態をさす。最近ではジュリアン・シュナーベル
のジルベルトの手紙」
( Julien Schnabel )によって映画化された『潜水
服は蝶の夢を見る(Le scaphandre et le papillon)』
4
1983 年に M・スコット・ペックが、『平気で嘘を
(2007 年)で話題になった 。この「ロックト・イン・
つく人たち』8 という本を著した。アメリカにおいて
シンドローム」という用語は、1966 年にフレッド・
も日本においてもベストセラーとなったこの本のな
プラムとジェローム・ポズナーの二人が著した『昏
かで、筆者はどんな町にも住んでいる私たちの傍ら
̶ 93 ̶
[ キーワード ] プルースト 失われた時を求めて 脳科学 記憶
プルーストと脳科学 ─ 記憶 ─ 青柳 りさ
にいるごく普通の「嘘つきの邪悪な人々」の巧妙な
ていましたけれど」12
責任転嫁と隠微な嘘をリアルに描き出している。か
つて私は、
『失われた時を求めて』の登場人物であ
エピソードの残酷で悲しい印象に、「赤いドレス
るゲルマント公爵夫人にも、ジルベルトにも、邪悪
と黒い靴」
、「赤いドレスと赤い靴」
、「赤いドレスと
とは言わないまでも、嘘をつく、あるいは自分の都
金色の靴」という鮮やかで美しい取り合わせも相
合の良いように改竄していく何かがある、そこにプ
まって、忘れられないエピソードとなっている。
ルーストが注目したのだと考えていた。
一方、ジルベルトは、大戦中(1914 年)、戦争を
ゲルマント公爵夫人は、不治の病を告げに来たス
避けてコンブレに疎開したと語り手に手紙を送る。
ワンの話を聞くために割く時間はないが、公爵が赤
しかし、その 2 年後の手紙では(3 頁を隔てて紹介
いドレスに似合わないという黒い靴から、ドレスに
される)、彼女はタンソンヴィルを守るためにコン
似合う赤い靴に履き替えに戻る時間はある。
ブレに赴き、その結果、父の館とその貴重なコレク
ションを守ることができたと、理由が 180 度変わっ
「オリアーヌ、どうしようというんだ、とんでもない。黒い
てしまっている。
靴を履いたままじゃないか! 赤いドレスに! すぐに戻っ
て赤い靴に履き替えてきなさい、そうでなければ」と、従
「ところで、あなたの幼友達を待ちうけていたものが何だっ
僕に向かって「すぐに公爵夫人の小間使いに赤い靴をもっ
たか想像してみてください」とジルベルトは手紙の終わり
9
に書きそえていた。
「私はドイツの飛行機を避けようとパリ
てくるように伝えたまえ」
を発ちました、タンソンヴィルなら何もかも安全だと考え
500 頁を隔て、この時の夜会についてゲルマント
たからです。ところが着いて二日とたたないうちに何が起
公爵夫人が覚えていたのはただ自分の衣装だけであ
こったか、想像もつかないでしょう。ラ・フェール近くで
る。語り手は公爵夫人に、
わが部隊を打ち破ったドイツ軍がこの地方になだれこみ、
一個連隊を従えたドイツの参謀本部がタンソンヴィル間近
「ゲルマント大公夫人のところにいらっしゃる前に、サン =
にあらわれました、私はその連中に宿を提供しないわけに
トゥーヴェルト夫人のところで晩餐をなさることになって
はまいりませんでした、逃げようもありません、もう汽車
いた日、あなたは赤いドレスに赤い靴をお召しになってい
も何もなかったのです。」13
ました、息をのむばかりでした、血の色をした大輪の花か、
炎となって燃えるルビーさながらでした〔…〕」10
「ご存じではないかもしれませんけれど」と彼女は書いてい
た、
「私がタンソンヴィルにまいりましてから、まもなく二
と語る一方、
「人は、深く考えなかったこと、他人
年になろうとしています。私はドイツ軍と同時にこの地に
の模倣、周囲の熱によって吹きこまれたことは、す
着きました。皆は私を引き留めようとし、私は頭がおかし
ぐに忘れてしまうものだ。熱が冷めればそれととも
くなったように言われました。
「どうして、パリにいれば安
11
に私たちの記憶も更新される 」と考察する。そし
全なのに、みんなが逃げだそうとしているときに、敵に侵
てさらに時を経て(700 頁を隔て)
、ゲルマント公
入された地方へ向けて発つんです。
」そんな考え方が正しい
爵夫人の記憶から、
スワンの訪問
(忘れたいエピソー
ことを認めなかったわけではありません。でもしかたあり
ド)は忘れ去られてしまい、「赤い靴」はより美し
ません、私のただ一つの長所は、卑怯じゃないということ、
い「金色の靴」にすりかわってしまっている。
というよりも忠実なって申しましょうか、私のたいせつな
タンソンヴィルが脅かされているとわかっていて、管理の
「ほんとうに赤い靴でしたかしら? 私は金色の靴だと思っ
爺やを一人残してここを守らせる気にはなれませんでした。
̶ 94 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2 010
私のいるべきところは彼の傍らだと思ったんです。それに、
昼は記録保管人という顔をもつ記憶は、夜になると密かな
この決心のおかげで、どうにか館を救うことができました。
情熱を燃やしている。自分自身についての話をせっせとこ
― 近辺の館はすべて、持ち主が動転して逃げ出してしまい、
しらえているのだ。
[…]そしてその物語は、生存の ― 精
それこそ根こそぎ破壊されてしまいました ― それに、館
神的な意味で自己の生き残りの ― 問題なのだ。「前向きの
だけではありません、懐かしいパパがあんなにたいせつに
錯覚」が精神衛生上必要不可欠であることは、今では、ます
14
していた貴重なコレクションも救うことができたのです。」
ます多くの研究によって示されており、グリーンウォルド16
が全体主義的エゴのせいにしたような歪みは、覇気があり
実際の生活のなかでも、何人かで思い出を語る
とき、それぞれの人の語るバージョンが微妙に食い
能力を十分発揮できる人間の特徴であって、鬱状態の人の
思考からは欠落していることがわかってきた。17
違っているということは私たちが日々経験している
ことである。そのようなとき私たちはつい相手方に
不信感を抱く。しかしその一方で「自分の記憶は本
「記憶が変わっていく」ということに関する脳科
学の分野での研究は 1960 − 70 年代から始まる。
当に正しいのか?」
と自らの記憶を疑うこともある。
スコット・ペックの説は、邪悪な人を設定し、人間
1970 年代に新しいタイプの記憶研究者たちは、こうした現
を善と悪に分けることで一つの解答を示していた。
象を解明しようとしてあえて研究室を飛び出した。かれら
しかし、主人公はまちがわないのか? ジルベルト
は意味のない綴りとか単語のリストを使っておこなう実験
は本当は嘘をついているのか、いないのか? 彼女
研究 ― すなわち、ほんの数分間の記憶についての研究 ―
は自分の手紙の内容を信じているのか? 語り手は、
を放棄して、裁判での証言や日記、歴史的事件の回想など、
ジルベルト自身が自分の手紙の内容を信じ込んでい
現実世界の現象の調査に乗り出した。これとは別に独自に
ると分析する。
研究を進めていた脳の研究者は、主に記憶のしくみが私た
ちの考えていたようなものではなく、一生のうちに記憶は
ジルベルトはいまや、1914 年に書いてよこしたように、ド
幾度も塗り替えられることを発見しつつあった。さらに心
イツ軍を逃れ避難するためではなく、逆にドイツ軍と相対
理学の別の一派で物語に興味を抱く学者たちは、人間の思
し彼らから館を守るためにタンソンヴィルに赴いたと思い
考の持つ物語性に着目し、意味を持たせようとする人間の
こんでいたのである。15
本能的欲求に注目すべきだと主張した。こうした研究がい
くつも重なり合った結果、私たちは自伝的記憶に関する基
人は記憶を意図的に改竄しているのではなく、記
本的概念を大きく転換させる必要に迫られている。それは、
憶はひとりでに変形していってしまうものである、
弁護士から恋人同士に至るまでのあらゆる人々にとって、
このことは、20 世紀の末になってようやく脳科学の
記憶によって可能なこととそうでないことを知る必要のあ
領域で解明されることになる事実である。その事実
る人々にとって重要な意味をもつだろう。18
を、20 世紀の初め、プルーストは興味をもって観
察し、小説のプロットに印象的なエピソードとして
とりこんでいたのである。
実は 1970 年代に始まる、というより再開すると
言ったほうがよいかもしれない。というのも、フロ
イトがすでにこの事実に注目していたからである。
2 記憶の変容にかかわる研究
アメリカの精神科医ノーマン・ドイジは、その著
書『脳は奇跡を起こす』において、スペイン出身
アメリカの心理学者ジョン・コートルは変形して
いく記憶について次のように述べる。
の神経科学者であるアルバロ・パスカル = レオーネ
(Alvaro Pascual-Leone, 1961 ∼ )を引用する。
̶ 95 ̶
プルーストと脳科学 ─ 記憶 ─ 青柳 りさ
「脳の活動は、たえずこねている粘土のようなものです。わ
たちの精神に永続する記憶の痕跡をのこす」と教えられて
たしたちがなにをしても、この土のかたまりを形作ること
いた。だが、患者の治療をするうちに、記憶は一度だけ書
になる。ただし、粘土の四角いかたまりからはじめて、そ
きこまれるものでも、永遠に変わらないように「刻印」さ
れを丸いボールにして、また四角にもどすことはできるで
れるわけでもなく、その後の出来事によって変更され「書
しょう。でもそれは見た目は同じでも最初と同じ四角では
きかえ」られることがわかった。
〔…〕1896 年に、フロイ
19
ありません」
トは何度となくこう書いている。記憶の痕跡は「新しい状
況にともなって配列しなおされ、書きかえられる。だから、
あるいは、アメリカの神経学者ジェラルド・エー
私の理論の新しい点は、記憶はいちどだけではなく、何度
デ ル マ ン(Gerald Maurice Edelman, 1929 ∼ ,
も存在するということだ」。記憶はたえず書きかえられ、
「国
1972 年ノーベル賞受賞)も、その著書『脳は空より
が創世神話において、伝説を構築する過程とあらゆる点で
広いか』のなかで以下のように述べる。
似ている」。22
このような記憶の可塑性、脳の可塑性については、
非表象的記憶とは、移り変わる気候の影響を受けて変化す
る氷河のようなものだ。気候は信号に、氷河が溶けたり再
実は、さらに遡って、1868 年のジュール・コター
び凍ったりするのはシナプス反応の変化に、氷河を伝って
ル(Jules Cotard,1840 ∼ 1889)の 研 究 に す で に 現 れ
流れるたくさんの細流は神経路に、そしてそれら細流が流
ていた 23。『失われた時を求めて』のコタール医師
れ込む池は出力に喩えられる。気候の変化によって溶解・
(Docteur Cottard)のモデルの一人ともされている
再凍結をくり返しながらたくさんの小さな水の流れが縮退
人物である。和田恵里はこのジュール・コタールを
的に細流を形成する。そのようにしてできたたくさんの細
めぐって、プルーストとの接点を探り「シャルコー
流は、さまざまな形で合流したり連結したりして多様な水
を起点とする現代医学の新たな展開を暗示する名前
路が作られていく。その過程でときおり新しい池ができた
であったのではないか 24」と述べている。ジュール・
りもする。このようにダイナミックな経過が、まったく同
コタールはプルーストの父の友人でもあり、1868年、
じパターンでくり返されることなど考えられない。しかし
その『脳の部分的萎縮』と題する博士論文の段階で
麓の池 ─ 出力によって生まれた状態 ─ はというと、おそ
すでに「脳は必要とあれば、脳を再編成する可塑性
らくそんなに変わらないのである。この見方でいくと、記
を持っている」と、脳の可塑性、脳が変化すること
憶には必然的に連想という要素が備わっており、決して同
に注目しているのである25。しかし、脳の局在論が
一ではありえない。それでもやはり、いろいろな制約のもと、
隆盛であったこの時代、脳の可塑性に関する彼の研
20
究はほとんど注目されることなく、1960 ∼ 1970 年
十分効果的に同じような出力を生み出せるのである。
代頃まで可塑性理論にとっての暗黒時代が続くこと
2000年にノーベル医学生理学賞を受賞したエリッ
になる。
ク・カンデルの研究 も分子レベルでの脳の可塑性
21
100 年前にプルーストが注目した人間の記憶につ
をテーマとしている。
いての洞察は、同時代(1896 年頃)にフロイトが
ノーマン・ドイジは、1896 年の時点でフロイト
臨床において観察し記述していた記憶の書き換えに
がフリースあての書簡ですでに記憶の可塑性につい
関する新しい理論と呼応している。また医学の領域
て述べていることを指摘する。
においても、1868 年にジュール・コタールが博士論
文に、脳の可塑性の可能性を記述している。ノーマ
可塑性に関する三番目の考察は記憶にまつわるものだ。彼
ン・ドイジによれば、さらに遡って 1820 年にマリー
(フロイト)は、「わたしたちが経験した出来事は、わたし
= ジャン= ピエール・フルーランスが可塑性の可能
̶ 96 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2 010
性を論文に示しているということである26。医学の
ることができる。しかし、今日なお、
「匂い」とい
分野で 100 年以上無視されてきた研究が今、現在進
えばまず引用されるのはやはりプルーストなのであ
行形で科学的に解明されつつある。
る。
何故、匂いの領域の研究が他の感覚の領域に比
さらに現在では、
人間の記憶が不確かであること、
記憶が変わることにむしろ意味が見出されようとし
べて遅れているのか? 脳の構造は、中心から、大
ている。コンピュータのような正確な記憶には、想
脳基底核、大脳辺縁系、一番外側が大脳新皮質とな
像力の入り込む余地はない、新たなものを生みだす
る。すべての動物にそなわっている大脳基底核、大
可能性をしめだしてしまう。曖昧な記憶とその後の
脳辺縁系に対し、人間を動物と区別し人間たらしめ
記憶のブレ(書き換え)が、想像力に働きかけ、思
たのが大脳新皮質の発達であるとされている。従っ
いがけない新たな発見を促し、人類の進化に寄与し
て 20 世紀の脳科学においては、最も原始的と考え
てきたというのである 27。
られた大脳辺縁系の研究は重視されず、人間を人間
芸術的な創造力についても同様である。ゲルマン
たらしめている大脳新皮質の研究に集中し、五感の
ト公爵夫人の曖昧な記憶とそのブレが、
「赤いドレ
なかでもとりわけ知的とされ、また分析にも適した
スと黒い靴」
、「赤いドレスと赤い靴」
、「赤いドレス
視覚野の研究に重点がおかれてきたのである。
と金色の靴」という印象的な美しいエピソードを生
2002 年、養老孟司は、「匂いは非常に深く情動に
み出したのである。このエピソードは不確かな記憶
結びつき、鼻の奥から脳に匂いを伝える神経繊維の
の産物だったのである。
五十パーセントは、大脳辺縁系、扁桃体という、い
ここまで「変わってゆく記憶」についてとりあげ
わゆる古い脳の方に入っていき、残りの五十パーセ
たが、後半では「変わらない記憶」について考察し
ントが新皮質にあがってくる。目と耳と触覚は全部、
たい。
百パーセントが大脳新皮質に入ってくる。[…]
「五
感」とひと口に言うけれど、本当は、三感・二感で
II 変わらない記憶
ある。味と香りについて子供のときの印象が非常に
強く残るというのは、辺縁系と結びついているから
であり、味の記憶というのは脳の深いところに入っ
1 匂いと大脳辺縁系
ているから変わりようがない 28」と述べている。
21 世紀になって漸く「匂い」の分野が科学の領域
で脚光を浴びることになる。2004 年、ノーベル医学
「マドレーヌの挿話」は、味と香りについての典
型的な例である。
生理学賞が「嗅覚」の研究に授与されている。また、
2008年10月から2009年5月にかけて、
パリのパレ・ド・
味わってみるまでは、プティット・マドレーヌを見ても何
ラ・デクーヴェルト(Palais de la Découverte)に
一つ思い出さなかった、それは、その後幾度となく菓子屋
おいて「感じるために生まれた(Né pour sentir)」
の棚で見かけていても、食べることはなかったので、その
と題して「匂い」の展覧会が開催された。子供向け
映像がコンブレの日々と離れて、他のもっと最近の日々に
の展覧会だが、そこでまず引用されていたのは、
『失
結びついてしまったからかもしれない、また、かくも長い
われた時を求めて』の「マドレーヌの挿話」だった。
間、記憶の外に捨て置かれたそんな追想からは何一つ生き
「匂い」については 19 世紀末から 20 世紀にかけて
残っているものはなく、すべては分解してしまったからか
多くの作家たちがとりあげてきた。
韻文の領域では、
もしれない。その形態は ─ 謹厳で敬虔な襞に包まれてあん
ボードレールの「旅への誘い」「髪の中の半球」を
なに豊満な肉感をもっていた菓子のあの小さな貝殻の形も
はじめ数限りなく、散文の領域でも「神経症は嗅覚
また ─ 無に、あるいは夢に帰してしまい、再び意識に結び
の幻覚を引き起こす」としたユイスマンスらをあげ
つくだけの膨張力を失ってしまっていたのだ。しかし、古
̶ 97 ̶
プルーストと脳科学 ─ 記憶 ─ 青柳 りさ
い過去から、人々が死に、事物が崩壊した後、存続するも
衆便所の臭いのエピソードは、蔓日日草を見て(視
のが何もなくとも、ただ匂いと味だけは、か弱くはあるが、
覚)30 年前の幸福に入り込んでいくルソーや 32、鶫
より根強く、より非物質的に、執拗に、忠実に、なおも長
のさえずり(聴覚)に過去へと運び去られるシャトー
い間、魂のように残っていて、他のすべてのものの廃墟の
ブリアン 33、あるいは写真(視覚)によって過去を
上に、喚起し、待ち受け、希望し、匂いと味のほとんど関
喚起するバルト 34 とも一線を画するものといえる。
知されないほどのわずかな滴の上に、追想の巨大な建築を、
先にも述べたように、現在では味覚と嗅覚ではなく、
29
嗅覚だけが例外とされるが、しかしプルーストの時
たわむことなく支えるのだ。
代にあって、嗅覚の特殊性に言及した点はやはり注
現在では、嗅覚は感覚の中の例外であり、脳内回
視に値する。
路において「におい」だけが特殊な回路になってい
ることが明らかにされている。見たもの、聞いたも
2 側頭葉てんかんと無意識的記憶
の、食べたもの、皮膚で感じたものは、同じ経路、
それでは、このような無意識的記憶は科学の領域
脳の「視床」を通って大脳皮質にとどく。視床は、
大脳皮質に情報を受け渡す最終ゲートであり、たと
においてはどのようにとりあげられてきたのか。
えば、睡眠中はこのゲートがほぼ閉じていて、感覚
1880年、
イギリスの神経学者ヒューリングス・ジャ
情報が大脳皮質にとどかないようなしくみになって
ク ソ ン(John Hughlings Jackson, 1835 ∼ 1911,
いる。
(だから眠りが妨げられなくてすむ。
)しかし
フロイトも尊敬していた神経学者、プルーストとも
「におい」は例外で、視床を経由せず、そのまま大
ほぼ同時代である)が、脳の側頭葉に起こるてんか
脳皮質にとどけられる。したがって寝ている間も嗅
んを観察し、側頭葉発作が追想と経験的な幻覚をひ
覚は働いている。見たり聞いたりすることに関して
きおこすことを推測している 35。側頭葉とは匂いを
は、寝ているときは感覚が低下するのだが、
「におい」
伝える神経繊維の 50%が入っていくとされていた
30
は脳にきちんととどいているというのである 。
場所である。この時点でジャクソンは「レミニサ
また視覚情報の記憶と嗅覚情報の記憶を比べると
ンス(無意識的記憶)」という用語も用いている 36。
いう別の心理学者の実験例もある。「人の顔の図を
つまり、プルーストが匂いによって引き起こされる
見せ、数分後に他の図とまぜて召せても 90%以上
無意識的記憶に注目するのに少し先立つ同時代に、
の被験者が最初の図を覚えている。ところが嗅覚情
ジャクソンは、側頭葉への刺激が「夢幻状態」
、
「無
報の方は、数分後に他の臭いをかがせると、被験者
意識的記憶」、「思い出」を喚起するすることを観察
の70%くらいしか最初の臭いを当てることができな
し記しているのである。
かった。ところが、1ヶ月後、視覚情報は 80%、3ヶ
しかしながらジャクソンの指摘は、1868 年の段
月後には 60%台になってしまうのに対して、嗅覚
階で脳の可塑性を証明したコタールの場合と同様、
情報のほうは、70%からあまり落ちなかった。一
とるに足らぬこととしか見なされず、60 年後のアメ
度覚えてしまえば記憶としてはなかなか消えにくい
リカ生まれのカナダの神経外科医ワイルダー・ペン
31
フィールド(Wilder Graves Penfield, 1891 ∼ 1976)
」というものである。この資料では、嗅覚記憶は
側頭葉にしまわれていると考えられている。(側頭
の証明を待つことになる。ペンフィールドは側頭葉
葉は大脳辺縁系と接するあるいは交わっている部分
てんかんの原因箇所を突き止め、ジャクソンが「複
である。
)
雑な精神状態」と呼んだ「過去に経験したものの正
無意識的記憶としてしばしば一括りに論じられる
が、味覚と嗅覚の特殊性に着目しているという点に
確で詳細な幻覚」を実験によって引き起こすことに
成功する 37。
おいて、マドレーヌの味と香りやシャンゼリゼの公
̶ 98 ̶
この記憶について、オリバー・サックス(Oliver
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2 010
Sacks, 1933 ∼ , イギリスの医師、脳神経学者、作家、
のだ。41
映画『レナードの朝』の原作者としても知られる)
は述べる。
このような記憶の重要性について、さらにサック
スは、エスター・サラマンを引用する。
ペンフィールドも指摘したことだが、そのようなてんかん
「無意識の記憶」について見事な本を書いたエスター・サラ
性の幻覚・夢想は、けっして空想ではなく、記憶なのであ
マンは、そのなかで、子供時代の神聖で貴重な記憶」を保
る。きわめて明確で鮮やかな記憶であり、しかも、原体験
持していること、あるいはそれをとりもどすことがいかに
の時の感情もいっしょに思い出される。そのような記憶は、
必要であるかを述べている(『時のつどい』1970)
。もし子供
大脳皮質が刺激されるたびに呼び起こされる。普通の状態
時代の記憶がないと、人生はひどく味気ない、拠り所のな
で思い出される記憶は、鮮明さにおいてとてもこれにかな
いものになるという。そのような記憶を呼び戻せたことで
わない。こうしたところから、ペンフィールドは次のよう
得られる深い喜びや存在感について、彼女はドストエフス
に考えたのだった。脳は、その人の生涯の記憶を完全といっ
キーやプルーストなどの自伝から数多く引用して述べてい
ていいほど保持しつづけている。意識の流れすべては脳に
る。われわれはみな「過去に住むことができない亡命者」で
保存され、生活のなかで必要なときにいつでも思い出すこ
ある、だからこそそれを取り戻さなければならないのだ」。42
とができる。ところがてんかんや電気的刺激という異常な
条件のもとで喚起され、呼び出されることがある。39
ペンフィールドも、サックスも、このような記憶
を完全な記憶と考えていた。
ただし、ペンフィールドが「何が思い出されるか
はまったく行き当たりばったりである」としたのに
(精神発作の最中に現れるのは(…)本物の記憶である。些
対し、オリバー・サックスはその背後に当人の心の
細なものもあれば奥深いものもあるが、いずれにしても実
奥深くに慢性的に存在する欲求というものがあると
際に起きたことの記憶なのである)。43
指摘し、自らの患者の臨床例を挙げる。
3 想起 = 記憶の再構築
彼女は失われた大切な子供時代をとりもどしたのだ。彼女
が感じていたのは、単なる「発作性の快楽」ではなく、心
しかし、ペンフィールドの証明した記憶の永続
が震えるような深い喜びだった。それは、彼女のことばに
性は、その後の研究で否定されていくことになる。
よれば、人生をかたく閉ざしていた扉があいたような気持
1920 年代から 30 年代にかけて、フレデリック・バー
40
ト レ ッ ト( Frederic Charles Bartlet, 1886 ∼ 1969
ちだった。
イギリスの認知心理学の先駆者、この分野では草分
てんかんによる「追想」が、彼女の意識にもなかったもの
け的存在とされている)は、記憶の鮮やかさと正確
を掘りおこし、痙攣によって、完全な記憶としてよみがえ
さは無関係であることを指摘し、記憶は「甦る」の
らせたということであった。それによって彼女は、記憶に
ではなく「再構成される」と考えた。
残らぬほど薄れてしまったか、あるいは抑圧をうけて意識
にのぼることもなかった、ごく幼い頃の経験をとりもどす
思い出すということは、生命のない固定された無数の断片
ことができたのだ。生理学的には、発作がおさまれば「扉」
的な痕跡を再活性化することではない。それは想像的な再
は閉じる。事実閉じてしまったのだった。しかし、こうし
構築、あるいは構築であって、過去の反応や経験の活動的な
て経験そのものは忘れ去れれることなく、強い永続的な印
総体に対する自分の姿勢をもとに、普通はイメージや言葉
象として残ったのである。おかげで精神の健康がとりもど
というかたちで現れる際立った細部をつくりあげていくこ
せた、という貴重な経験として彼女の心に刻みつけられた
とだ。したがって、どれほど機械的な反復であっても、ほん
̶ 99 ̶
プルーストと脳科学 ─ 記憶 ─ 青柳 りさ
とうに正確であるはずはないし、たいして重要でもない。44
い」と、フロイトと同様に考えている。これは今日
の科学によって証明されることになるのである。
1970 年 代 に な っ て、 エ リ ザ ベ ス・ ロ フ タ ス
私たちの脳の中には意識の何万倍もの無意識の情
(Elizabeth F. Loftus, 1944 ∼ , アメリカの心理学者
報、忘れていると思っている古い記憶、意味づけさ
であり人間の記憶に関するエキスパート)とその夫
れず、整理されていない古い記憶が保存されている。
ジェフリー・ロフタス
(Geoffrey R. Loftus, 1945 ∼ )
なんらかのきっかけ(例えばてんかん、匂い、電気
がフラッシュバックの現象をさらに綿密に調査する
ショック等々)で視床(安定化装置、大脳基底核に
ことになる。そしてフラッシュバックによる鮮明な
あるとされる)そしてそれに続く A10 神経の抑制
記憶の内容が、実験のたびに少しずつ異なってくる
がはずれると(ここにドーパミンが放出されると)、
45
ことを明らかにした 。現在では、ジェラルド・エー
46
その情報が前頭葉へとどんどん送られる。抑制をは
デルマンの神経学研究の成果や 、ノーマン・ドイ
ずされた無意識的記憶があふれ、古い脳では強い快
ジらの神経可塑性の理論がバートレットの結論を裏
感、新しい脳では強い精神高揚が起こり、かくして
付けてる。
限りない至福感が感じられる。新しい自分と出会う
ことができる。それは深い宗教体験、芸術的創造性
エーデルマンが考える心には、カメラも機械的な働きもな
として現れるとされる 50。プルーストの匂いも、ド
い。すべての記憶は関連づけ、一般化し、再分類するプロ
ストエフスキーの側頭葉てんかん 51 も、そのきっか
セスである。こうした見方をすれば、固定された記憶も、
けと考えられる。ドストエフスキーはシベリア抑留
現在の色づけのない「純粋な」過去も存在しえない。バー
中(1849 ∼ 1854)に以下の言葉を残している。
トレットと同じくエーデルマンも、常に動的なプロセスが
働いているのであって、記憶とは再生ではなく再構築であ
みなさん、あなた方健康な人たちは、私たちてんかん患者
ると考えている。47
が体験する発作直前のわずかの時間がどんなに幸福なもの
か、考えさえしないでしょう。マホメットはコーランの中で、
それではマドレーヌの挿話、鮮明に浮かび上がっ
自分は楽園を見、そしてその中にいたと言っている。小賢
てきた無意識的記憶についてはどのように考えれば
しい愚かな者は皆、マホメットは単なる嘘つきでペテン師
よいのか?
だと思いこんでいる。しかし、違うのだ! 彼は嘘なんかつ
19 世紀、フロイトは、
「記憶が変わるためには、
48
いていない! 彼は私と同じてんかん患者であり、彼はてん
それに意識と注意を向けなければならない 」と述
かん発作の間、本当に楽園にいたのだ。私には、その至福
べ、このことについて、21 世紀、ノーマン・ドイ
の時間が数秒なのか数時間なのか、それとも何カ月もつづ
ジは「これは後年、神経科学者が証明したとおりで
いているのかはわからないけれど、それは真実であり、私
ある」と賛意を表明してる。それまでたやすく意識
は人生で得られるどんな楽しみも、その至福の時を交換す
にのぼってこなかった記憶はほとんど書きかえられ
るつもりはまったくない。52
ていない、それが意識にのぼった時点から書きかえ
が始まるのである 49。
プルーストはジャクソンが側頭葉てんかんを観察
このことについてもプルーストは、
「味わってみ
し、側頭葉発作が追想と経験的な幻覚を引き起こす
るまでは、プティット・マドレーヌを見ても何一つ
ことを最初に推測したのとほぼ同時代(1880 年)
、
思い出さなかった、それは、その後幾度となく菓子
そしてその研究が無視されていった時代に、
『失わ
屋の棚で見かけていても、食べることはなかったの
れた時を求めて』という作品の冒頭部にジャクソン
で、その映像がコンブレの日々と離れて、他のもっ
と同じレミニサンスという言葉を用い、作品の方向
と最近の日々に結びついてしまったからかもしれな
性を示す最も重要なエピソードとしてマドレーヌの
̶ 100 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2 010
挿話を取り込んでいた。
「真の楽園とは失われた楽
IV 脳科学にかかわるその他のテーマ
53
園である 」
、
かくして、
プルーストは
「失われた楽園」
を再構築していくことになる。意識にのぼった時点
から記憶の書き換えは始まっているのである。
本論では、記憶を中心に考察をすすめた。同時代
の科学がほとんど顧みなかったことにプルーストが
注意の目を向け、科学に先行して観察し、後に科学
III 記憶 = ニューロンのネットワーク
によって解明されていくという事例は、作品中に数
限りなく見受けられる。
語り手はジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバンの後裔
今回、
「変容する記憶」、
「変わらない記憶」を中
心に考察したが、この「記憶」についてはなお語る
であるゲルマント公爵夫人に限りない憧憬を抱き、
べきことが多く残っている。記憶は今日では、
ニュー
その出会いを夢見ている。しかし最初の出会いは語
ロンのネットワークであるとされている。一つの
り手を失望させる。彼女は「鼻の吹き出物があって、
ニューロンの発火が関係するニューロンの発火を次
赤い顔をしていて、サズラ夫人と同じようにモーヴ
から次へと促し星座をつくっていく、それが記憶で
色のスカーフをつけている 58」のである。同様に、
ある。それはまさしく文学におけるアナロジーであ
語り手が初めて体験する名女優、ラ・ベルマ公演
りメタフォールである。
も、彼を失望させてしまう 59。このような場面で読
『失われた時を求めて』のなかにこのようなネッ
トワークのいくつかの例を見てみたい。
者が感じる違和感は、プラトンの言うようにイデア
は我々の外にあるのではなく、我々の内に生成され
ていくものであるとする、現代の脳神経学者たちの
日の出は、ゆで卵や、絵入り新聞や、トランプのゲームや、
理論と呼応している。
それは、『見出された時』のなかで、語り手が手
力を入れて漕いでいるのに小舟がいっこうに進まない川の
眺めなどと同様に、長い汽車旅の道連れである。54
にする『ゴンクールの日記』に抱く違和感にも通
じる。「それは資料的な、さらには歴史的な重要性
(スワンの来訪を告げる)二つずつ鳴る来客用の小鈴の、臆
をもつことができるかもしれない、しかし必ずし
も芸術の真実とはいえない 60」。そして、イギリス
病な、卵形の、金色の響き。55
(スワンの帰って行くことを知らせる)小鈴の、はねかえる、
56
金属性の、とめどのない、甲高い、ひんやりとしたあの響き。
の進化心理学者、ニコラス・ハンフリー(Nicholas
Humphrey, 1943 ∼)、脳神経学者、セミール・ゼキ
(Semir Zeki)の理論と共鳴する。セミール・ゼキ
ルーサンヴィルとかマルタンヴィルとかといった他の名は
はリアーヌ・ブリオン=ゲリーを次のように引用す
[…]すでに一種の薄暗い雰囲気の魅力を纏ってしまい、そ
る。「そして彼が自らの絵に持ち込んだ物語、歪曲
の魅力の中には、ジャムの味、薪の燃える匂い、ベルゴッ
はまったく異質な種類のものだった。したがって、
トの本の紙の匂い、向かいの家の砂岩の色などといったも
私たちがゴーギャンの絵を評価する理由は、彼が事
ののエキスが、おそらく混じっていたからであって、今日
実から逸脱することによって、より深い真理に近づ
でも、それらの名は、私の記憶の底から、ガスの泡のよう
いたという点である 61」62。
に浮かび上がってくるとき、表面に達するまでに、様々に
プルーストによるフェルメール、そしてエルス
重ね合わされた幾多の環境の層を通りぬけなければならな
チールの分析は、セミール・ゼキによるフェルメー
57
いのに、いまだにその特殊な効力を失わないのである。
ル、モネの分析と共鳴する。
あるいはまた、イギリスの脳神経学者ラマチャン
ドラン(V. S . Ramachandran, 1951 ∼)は、「なぜ
森羅万象の記述は、つねに二つ
̶ 101 ̶
̶
一人称の記述と、
プルーストと脳科学 ─ 記憶 ─ 青柳 りさ
三人称の記述
̶
が並列しているのだろう、そして
なぜこの二つは全く異なるにもかかわらず相互補完
的なのだろう 63」と問いかける。客観的な科学はこ
れまで一人称を必要としてこなかった。ラマチャン
ドランはその科学の領域に一人称の視点を導入しよ
うとしているのである。これは小説の世界における
複合過去形の導入、そして『ジャン・サントゥイユ』
の三人称から『失われた時を求めて』の語り手の一
人称への移行を喚起する。
ジュネットが「イテラティフ」という用語と概
念で「ひとつのエピソードがくり返される一連のエ
ピソード示す」プルーストの文章を分析したのは
1972 年である。そして 1982 年、認知心理学者のウ
ルリック・ナイサー(Ulric Neisser)は、ひとつの
エピソードがくり返される一連のエピソードを「レ
ピソード」と呼んだ 64。心理学の用語である。
プルーストが、そして文学あるいは芸術が追究し
てきた、笑い、人間的時間、眠りと覚醒、意識、想
像力、これらすべてが現代の脳科学の研究領域であ
る。
ディドロは、
「創造的な天才とは、
その本性から「こ
れから発見されるべき事柄、新たな実験、未知の結
果を嗅ぎ分ける」ことができるよう、そっと知らせ
てくれるような人々のことである、彼らは目で見た
以上のことを想像するが、それによって、想像の世
界をつくりだすというよりもむしろ実在の世界に隠
された秩序を把握するのだ 65」
と書いている。プルー
ストの作品にはまだまだ「これから発見されるべき
事柄、新たな実験、未知の結果」への示唆が溢れて
いるのである。
̶ 102 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2 010
注
1
croyais que c'était des souliers d'or. »(IV, TR, p. 588)
「脳科学」というのは和製造語であり、
「脳研究(brain
13
amie, m'écrivait en finissant Gilberte. J'étais partie de
フランス語)というのが一般的である。ただし、フラン
Paris pour fuir les avions allemands, me figurant qu'à
ス語で「神経科学(neuroscience):神経組織にかかわる
Tansonville je serais à l'abri de tout. Je n'y étais pas
学問研究の総体、神経生物学、神経化学、神経内分泌学、
depuis deux jours que vous n'imaginerez jamais ce qui
神経学、神経病理学、神経生理学」という語が用いられ
arrivait : les Allemands qui envahissaient la région après
るようになるのは 1982 年からであり、プルーストの時代
avoir battu nos troupes près de La Fère, et un État-Major
には、
「神経学(neurologie)
:神経組織にかかわる解剖学、
allemand suivi d'un régiment qui se présentait à la porte
生理学、病理学、1691 年から用いられる」という語が用
de Tansonville, et que j'étais obligée d'héberger, et pas
moyen de fuir, plus un train, rien. »(IV, TR, p. 330 - 331)
いられていた。本論において「脳科学」というタイトル
を選択したのは、現代およびプルーストの時代の脳研究
14
Tansonville. J'y suis arrivée en même temps que les
吉田城『神経症者のいる文学 ― バルザックからプルー
Allemands. Tout le monde avait voulu m'empêcher de
ストまで ― 』名古屋大学出版会 1996 年 p. 2 - 7.
3
partir. On me traitait de folle. "Comment, me disait-on,
立花隆『脳を究める 脳研究最前線』朝日新聞社(朝日
vous êtes en sûreté à Paris et vous partez pour ces régions
文庫)2001 年(1996 年)p. 31 - 32.
4
envahies, juste au moment où tout le monde cherche à
原 作 は Jean-Dominique Bauby, Le scaphandre et le
s'en échapper." Je ne méconnaissais pas tout ce que ce
papillon, Robert Laffont, 1997.
5
raisonnement avait de juste. Mais que voulez-vous, je n'ai
Cf. F. Plum, J-B. Posner, Diagnosis of stupor and
qu'une seule qualité, je ne suis pas lâche, ou si vous aimez
Coma, 2nd Ed., Davis, 1972.
6
PLHX[MHVXLV¿GqOHHWTXDQGM
DLVXPRQFKHU7DQVRQYLOOH
Cf. 岩田誠『神経内科医の文学診断』白水社 2008 年
menacé, je n'ai pas voulu que notre vieux régisseur restât
p. 34 - 41.
7
8
セミール・ゼキ『脳は美をいかに感じるか−ピカソや
seul à le défendre. Il m'a semblé que ma place était à ses
モネが見た世界−』河内十郎監訳 日本経済新聞社 2002
côtés. Et c'est du reste grâce à cette résolution que j'ai pu
年 p. 24.(Semir Zeki, Inner Vision : An Exploration of
sauver à peu près le château ― quand tous les autres dans
Art and the Brain, Oxford University Press, 1999)
le voisinage, abandonnés par leurs propriétaires affolés,
M・スコット・ペック『平気で嘘をつく人たち』森
ont été presque tous détruits de fond en comble ― et non
英明訳 草思社 1996 年(M. Scott Peck, People of the lie,
seulement le château, mais les précieuses collections
auxquelles mon cher Papa tenait tant.(IV, TR, p. 334)
New York, Simon & Schuster, 1983 / Scott Peck, Les gens
du mensonge, traduit de l’américain par Guy Maheux,
15
« Oriane, qu'est-ce que vous alliez faire, malheureuse.
en 1914 pour fuir les Allemands et pour être à l'abri, mais
Vous avez gardé vos souliers noirs ! Avec une toilette
au contraire pour les rencontrer et défendre contre eux
son château. »(IV, TR, p. 334 - 335)
rouge ! Remontez vite mettre vos souliers rouges,
ou bien, dit-il au valet de pied, dites tout de suite à la
16
17
souliers rouges. »(II, Gu., p. 883)
« Par exemple, madame, le jour où vous deviez dîner
12
ジョン・コートル『記憶は嘘をつく』石山鈴子訳 講談
社 1997 年 p. 167 - 169.
chez Mme de Saint-Euverte avant d'aller chez la princesse
« But memory’s archivist by day has a secret passion
de Guermantes, vous aviez une robe toute rouge, avec des
by night : to fachion a story about itself, [...] it is a matter
souliers rouges, vous étiez inouïe, vous aviez l'air d'une
of survival — the physic survival of the self. A growing
HVSqFHGHJUDQGHÀHXUGHVDQJG
XQUXELVHQÀDPPHV […]. »
body of research now indicates that “positive illusion”
is essential to mental health. The very kind of distortion
(III, Pris., p. 547)
11
Anthony Greenwald(1939 ∼ )社会心理学者 , ワシン
トン大学心理学教授。
femme de chambre de Mme la duchesse de descendre des
10
« [...] Gilberte était persuadée maintenant qu'elle
n'était pas allée à Tansonville comme elle me l'avait écrit
Flammrion, 1993)
9
« Vous ne savez peut-être pas, mon cher ami, me
disait-elle, que voilà bientôt deux ans que je suis à
にかかわるものだからである。
2
« Et là, imaginez-vous ce qui attendait votre vieille
(英語)
、「 神 経 科 学(neuroscience)」
( 英 語、
research)」
« On oublie […] vite ce qu’on n’a pas pensé avec
that Greenwald attributed to the totalitarian ego has
profondeur, ce qui vous a été dicté par l’imitation, par les
been found to characterize motivated, well-functioning
passions environnantes. Elles changent et avec elles se
individuals and to be missing from the thinking of those
PRGL¿HQRWUHVRXYHQLU »(III, Pris., p. 548)
who suffer from depression. »(John Kotre, White gloves
: how we create ourselves through memory, New York ,
« Vous êtes sûr que c'étaient des souliers rouges ? Je
̶ 103 ̶
プルーストと脳科学 ─ 記憶 ─ 青柳 りさ
Free Press, 1995, p. 116 - 117)
18
et s’associer de manière nouvelle. Parfois, un étang
ジョン・コートル, op.cit., p. 18 - 19.
complètement nouveau peut se créer. Toutefois, en aucun
« In the 1970s, a new breed of memory researchers
cas il n’est probable que la même structure dynamique se
ventured forth from their labortories to shed light on
répétera exactement, bien que les conséquence générales
phenomena such as these. Abandoning reserch on
des changements survenus dans l’etang en aval — l’état de
nonsense syllables and word lists— on memories of a few
sortie — soient assez similaires. Selon cette conception,
minutes’ duration— these scientists began to investigate
les souvenirs sont nécessairement associatifs et jamais
such real-world phenomena as legal testimony, diaries,
identiques. Pour autant, sous diverses contraintes, il
and recollections of historical events. Proceeding
peuvent être suffisamment efficaces pour déclencher la
LQGHSHQGHQWO\UHVHDUFKHUVRQWKHEUDLQZHUH¿QGLQJWKDW
même sortie. »(Gerald M. Edelman, Plus vaste que le
the principal organ of memory is not what we thought,
ciel, une nouvelle théorie générale du cerveau, traduit de
that it revises itself over and over in the course of a
l’anglais(Etats-Unis)par Jean-Luc Fidel, Odile Jacob,
lifetime. In still another branch of psychology, scholars
2004, p. 71 - 72 / Gerald M. Edelman, Wider than sky.
interested in narrative were reminding us of the storied
The phenomenal Gift of Consciousness, Yele University
nature of human thought and insisting that we pay
Press, 2004)
attentin to the human drive to make meaning. Taken
21
nouvelle théorie de l’esprit, Odile Jacob, 2007 / In search
beliefs about autobiographical memory, a shift that will
of memory, The emergence of a new science of mind,
have profound implications for everyone from lawyers to
lovers, for everyone who needs to know what memory can
London, New York, W. W. Norton & Company, 2006
22
and cannot do. »(Ibid., p. 7)
19
ノーマン・ドイジ , op.cit., p. 265.
« Il existe enfin un troisème concept freudien
étroitement lié à neuroplasticité, c’est celui de mémoire.
ノーマン・ドイジ『脳は奇跡を起こす』竹迫仁子訳 Freud avait hérité de ses maîtres l’idée que les
講談社 2008 年 p. 246.
20
Cf. Eric R. Kandel, A la recherche de la mémoire, une
together, this work calls for a dramatic shift in our basic
«— Comparons l’activité cérébrale à de la pâte à
événements vécus par un individu laissent des traces
modeler que nous triturons sans arrêt, dit Pascual-Leone.
mnémoniques dans son esprit. Quand il a commencé à
Tous nos actes la façonnent. Si vous commencez avec un
travailler avec ses patients, il s’est rendu compte que les
morceau de pâte à modeler en forme de cube et que vous
souvenirs ne sont pas fixés une fois pour toutes, gravés
en faites une boule, vous pouvez vous raviser et refaire
dans le marbre pour la vie entière, mais qu’ils peuvent
un cube, mais ce ne sera pas exactement le même que le
être modifiés par des faits ultérieurs et retranscrits.
cube initial, malgré les apprences. »(Norman Doidge,
[…]. En 1896, Freud écrivait que, de temps en temps,
Les étonnants pouvoirs de transformation du cerveau,
les souvenir d’enface “subissent un processus de
Guérir grâce à la neuroplasticité, traduit de l’amércain
remaniement compliqué, tout à fait analgue à celui de
par Eric Wessberge, Belfond, 2008, p. 239 / Norman
la formation des légende d’un peuple sur ses origines.
Doidge, The brain that changes itself, Penguin Books,
Dans sa correspondance avec Wilhelm Fliess, il écrit
2007)
également : “Ce qui est essentiellement nouveau dans
ジェラルド・M・エーデエルマン『脳は空より広いか
ma théorie, c’est la thèse selon laquelle les souvenirs
「私」という現象を考える』冬樹純子訳 豊嶋良一監修 草
QHVRQWSDVGp¿QLVXQHIRLVSRXUWRXWHPDLVVXMHWVjGHV
retranscriptions en fonction des circonstances les plus
思社 2006 年 p. 71 - 73.
récentes. »(Norman Doidge, op.cit., p. 257)
« Un souvenir non représentationnel serait comme les
DOWpUDWLRQVG¶XQJODFLHULQÀXHQFpHVSDUOHVFKDQJHPHQWV
Cf. «Notes upon a case of obsessional neurosis » in
de temps, interprétés comme des signaux. Dans cette
Standard Edition of the Complete Psychological Works
analogie, le mélange et le refroidissement du glacier
of Sigmund Freud, vol. 10, 1906 p. 206 / Sigmund Freud,
UHSUpVHQWHQWOHVPRGL¿FDWLRQVGHODUpSRQVHV\QDSWLTXH
Lettres à Wilhelm Fliess 1887 - 1904 , Edition complète,
les différents ruisseaux qui descendent la montagne
établie par Geffry Moussaieff Masson 1995, traduit de
représentent les voies neurales, et l’étang dans lequel ils
l’allemand par Françoise Kahn et François Robert, PUF,
se jettent, la sorte. Les mélanges et les refroidissements
2006, p. 201 - 278.
successifs dus aux changements de temps peuvet donner
23
lieu à un ensemble dégénéré de voie d’eau descendant
24
dans les ruisseaux, et certaines peuvent se rejoindre
̶ 104 ̶
Ibid, p. 31.
和田恵里「プルーストと精神医学−ジュール・コター
ルをめぐって−」
『青山フランス文学論集』復刊第 15 号
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2 010
Seuil, 1988.
2006 年 p. 55 - 77.
25
« Le cerveau était suffisamment plastique pour se
36
r é o r g a n i s a i t s i n é c e s s a i r e . »(Jules Cotard, Etude
26
sur l’atrophie partielle du cerveau, le françois,1868,
variously “reminiscence”, “a sort of remembrance”, etc. »
p. 89 - 93)
(Johon-Hughlings Jackson, Evolution and dissolution
Marie-Jean-Pierre Flourens, Recherches expéri-
of the nervous system, Bristol, Thoemmes Press / Tokyo,
mentales sur les propriétés et les fonctions du système
Maruzen co. LTD, 1998, p. 11.(Classics in Psychology,
nerveux dans les animaux vertébrés, Paris, Ballière,
1855 - 1914, A Collection of Key Words [org pts, 1881 - 1887])
1824 - 1942.(Cité par Norman Doidge, op.cit., p. 32)
27
« Many exampls of the “dreamy state” will be given
later. A common one is the feeling which the patient calls
37
Cf. 池 谷 裕 二 『 進 化 し す ぎ た 脳 』 講 談 社 2 0 0 7 年
p.198 - 199 / 池 谷 裕 二 『 ゆ ら ぐ 脳 』 文 藝 春 秋 2 0 0 8 年
p. 84 - 85.
Wilder Penfield, P. Perot, « The brain’s record of
visual and auditory experience : a final summary and
discussion. » in Brain 86(1963), p. 595 - 696.
38
オ リ バ ー・ サ ッ ク ス , op.cit., p. 240 - 241.(Oliver
Sacks, L’homme qui prenait sa femme pour un chapeau,
28
養老孟司×古館伊知郎『記憶がウソをつく!』扶桑社
2002, p. 165 - 170.
29
« La vue de la petite madeleine ne m’avait rien rappelé
39
avant que je n’y eusse goûté ; peut-être parce que, en
40
Ibid., p. 253.(Ibid., p. 187 - 188)
ayant souvent aperçu depuis, sans en manger, sur les
41
Ibid., p. 250-251.(Ibid., p. 186)
tablettes des pâtissiers, leur image avait quitté ces jours
42
et autres récits cliniques, p. 179 - 180)
de Combray pour se lier à d’autres plus récents ; peutêtre parce que de ces souvenirs abandonnés si longtemps
43
Ibid., p. 254.(Ibid., p. 188)
hors de la mémoire, rien ne survivait, tout s’était
44
Frederic Charles Bartlet, Remembering, a study
in experimental and social psychology, Cambridge,
de pâtisserie, si grassement sensuel, sous son plissage
Cambridge University Press, 1950(1932)p. 213.
sévère et dévot — s’étaient abolies, ou, ensommeillées,
45
avaient perdu la force d’expansion qui leur eût permis
46
de rejoindre la conscience. Mais, quand d’un passé
la destruction des choses, seules, plus frêles mais plus
48
être conscients et susceptible de canaliser l’attention
GHWRXWOHUHVWHjSRUWHUVDQVÀpFKLUVXUOHXUJRXWWHOHWWH
du sujet. » ( Sigmund Freud , The complete cetters of
SUHVTXHLPSDOSDEOHO¶pGL¿FHLPPHQVHGXVRXYHQLU »
Sigmund Frend to Wilhelm Fliers,MA,Harand University
Press, 1985, p. 207 )
池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』朝日出版社 2009 年
p. 226 - 227.
岩田誠監修『図解雑学 脳のしくみ』ナツメ社 1998 年
p. 202 - 203.
49
50
Jean - Jacques Rousseau, Les Confessions, Gallimard,
ハロルド・L・クローアンズ『ニュートンはなぜ人間
嫌いになったのか 神経内科医が語る病と「生」のドラマ』
加我牧子他訳 白揚社 1993 年 p. 75.(Harold L. Klawans,
Chateaubriand, Mémoire d’Outre-Tombe I, Gallimard,
Newton's Madness : Further Tales of Clinical Neurology,
1990, Harpercollins, 1990)
Roland Barthes, La Chambre claire, Gallimard/Seuil,
Cf. T. Alajouanine,“Dostoevski’s Epilepsy”in Brain 86
(1963),p. 209 - 218.
1980, p. 109.
35
Norman Doidge, op.cit., p. 257.
「NHK スペシャル 驚異の小宇宙 人体 II 脳と心 第 6 集
果てしなき脳宇宙∼無意識と創造性∼」1994 . 03 . 20 放送
51
Pléiade, 1951, p. 76.
34
« Pour pouvoir être transformés les souvenirs doivent
âmes, à se rappeler, à attendre, à espérer, sur la ruine
Pléiade, Œuvres complètes, 1959, p. 226.
33
オリヴァー・サックス『火星の人類学者−脳神経科医と
7人の奇妙な患者−』op.cit., p. 250.(op.cit., p. 233 - 234)
(I, Sw., p. 46)
32
Cf. Gerald Maurice Edelman, The Remembered
Books, New York, 1990.
47
YLYDFHVSOXVLPPDWpULHOOHVSOXVSHUVLVWDQWHVSOXV¿GqOHV
l’odeur et la saveur restent encore longtemps, comme des
ジョン・コートル , op.cit., p. 51.
Present: A Biological Theory of Consciousness, Basic
ancien rien ne subsiste, après la mort des êtres, après
31
Cf. Esther Salaman, A Collection of Moments, London,
Longman, 1970.
désagrégé ; les formes, — et celle aussi du petit coquillage
30
Ibid., p. 250.(Ibid., p. 186)
Cf. オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』晶文
H. Gastaut,“Fyodor Mikhailovitch Dostoevsky’s
社 1992 年 p. 229 / Oliver Sacks, The man who mistook
Involuntary Contribution to The Symptomatology and
his wife for a hat, London , Picador, 1985 / L’homme
Prognosis of Epilepsy”(Wiliam G. Lennox lecture 1977),
Eilepsia 19(1978),p. 186 - 201.
qui prenait sa femme pour un chapeau, et autres récits
cliniques, traduit de l’anglais par Edith de la Héronnière,
̶ 105 ̶
P. H. A. Goskukil, “The Epilepsy of F. M. Dostoevsky”
プルーストと脳科学 ─ 記憶 ─ 青柳 りさ
Epilepsia 24(1983), p. 658 - 667.
60
E. Mayne, trans., Letters of Fyodor Dostoevsky to His
61
Family and Friends New York, McGraw-Hill, 1964.
James L. Rice, Dostoevsky and the Healing Art, Ann
62
Arbor, MI, Ardis, 1985.
Liane Brion-Guerry, Cézanne et l’expression de
l’espace, Albin Michel, 1966, p. 64 - 65.
ニ コ ラ ス・ ハ ン フ リ ー『 内 な る 目 意 識 の 進 化 論 』
垂 水 雄 二 訳 紀 伊 國 屋 書 店 1993 年 , p. 16.(Nicholas
A. Yamolinsky, Dostoefsky, His Life and Art, London,
Humphrey, The inner eye, with illustrations by Mel
Arco Publications, 1957.
52
IV, TR, p. 296 - 297.
Calman, London , Faber in association with Channel
Four, 1986)
©7KHDLUZDV¿OOHGZLWKDELJQRLVHDQG,WULHGWRPRYH
I felt the heaven was going down upon the earth, and
63
V.S. ラマキャンドラン , サンドラ・ブレイクスリー
that it had engulfed me. I have really touched God. He
『脳の中の幽霊』山下篤子訳 角川書店 1999 年 p. 289.
came into me myself ; yes, God exists, I cried, You all,
(V.S.Ramachandran, Sandra Blakeslee, Phantom in the
healthy people, have no idea what joy that joy is which
Brain, Probing the Misteries of the Human mind, New
we epileptics experience the second before a seizure.
Mahomet, in his Koran, said he had seen Paradise and
York, 1998)
64
had gone into it. All these stupid clever men are quite
sure that he was a liar and a charlatan. But no, he did
ジョン・コートル, op.cit., p. 144(John Kotre, op.cit.,
p. 101)
65
not lie, he really had been in Paradise during an attack
of epilepsy ; he was a victim of this disease as I am. I do
ニコラス・ハンフリー , op.cit., p. 32.
Cf. Denis Diderot, Pensée sur l'interprétation de la
nature , GF Flammarion, 2005(1754),p. 77.
not know whether this joy lasts for seconds or hours or
months, but believe me, I would not exchange it for all
the delights of this world. »(Sónya Kovalévsky, Her
recollections of childhood, New York, Century, 1885,
Recollections of childhood 127)
53
« [...] les vrais paradis sont les paradis qu’on a perdus
[...] » IV, TR, p. 449.
54
« Les levers de soleil sont un accompagnement des
longs voyages en chemin de fer, comme les œufs durs, les
journaux illustrés, les jeux de cartes, les rivières où des
barques s’évertuent sans avancer. »(II, JFF, p. 15)
55
« [...] le double tintement timide, ovale et doré de la
clochette [...] »(I, Sw., p. 14)
56
« [...] ce tintement rebondissant, ferrugineux,
intarissable, criard et frais de la petite sonette qui
m’annonçais qu’enfin M. Swann était parti [...] » (IV,
TR, p. 623)
57
« [...] à ces autres noms de Roussainville ou de
Martinville qui [...] avaient acquis un certain charme
sombre où s’étaient peut-être mélangés des extraits du
JR€WGHVFRQ¿WXUHVGHO¶RGHXUGXIHXGHERLVHWGXSDSLHU
d’un livre de Bergotte, de la couleur de grès de la maison
d’en face, et qui, aujourd’hui encore, quand ils remontent
comme une bulle gazeuse, du fond de ma mémoire,
conservent leur vertu spécifique à travers les couches
superposées de milieux différents qu’ils ont à franchir
avant d’atteindre jusqu’à la surface. »(II, JFF, p. 22)
58
« Jamais je ne m’étais avisé qu’elle pouvait avoir une
figure rouge, une cravate mauve comme Mme Sazerat,
[...] »(I, Sw., p. 172)
59
I, JFF, p, 437 - 442.
̶ 106 ̶
(あおやぎ・りさ 一般教育等/フランス文学)
(2009年10月30日受理)
̶ 107 ̶
̶ 108 ̶
̶ 109 ̶
̶ 110 ̶
楳図かずお『洗礼』、その身体と記憶 高橋明彦
に も と づ い て、 さ く ら は 波 多 の 先 回 り で き る だ ろ う。 た だ し、 ど う し て
知 っ て い る の か が 謎 の ま ま で あ る 以 上、 妄 想 文 脈 に お け る 破 綻 は 残 さ れ る。
そもそも、村上医師の︵死んでいるならかつての︶自宅は、移植文脈・妄想文
脈という二文脈を超えた実在、すなわち物語の起源たる若草いずみの妄想以前の
実在である。本件に関しては、今少し熟考を要する。
ただし、これはコマ割りの魔術ともいうべきところではある。こういう描かれ方
をすれば、見え、聞こえている、とするのが通常のコマのつながりというもので
ある。これは移植文脈と妄想文脈とどちらとも採れるように巧妙に描かれたもの
である。
あえて触れなかったが、回想内容には、いずみが自宅で自暴自棄となった後に村
上医師を電話で呼び出したくだりも含まれている。これは客観的事実︵本作冒頭
のエピソード︶に対応しており、つまりさくらはいずみしか知らない記憶を想像
でぴたりと言い当てているのだ。ならば、発熱のくだりもいずみの記憶に対応し
ている蓋然性は俄然高くなる。ゆえに、起源は架空ではなく、本稿は﹁めぐらな
い因果﹂で決着付けるわけにいかない。
栗 原 裕 一 郎﹃ 楳 図 ス ト ー リ ー の﹁ 文 法 ﹂﹄︵﹃ 楳 図 か ず お 大 研 究 ﹄ 別 冊 宝 島・
六七五、
二〇〇二年︶
高 橋 明 彦﹁ マ ン ガ に お け る 二 つ の 省 略 ﹂︵﹃ 金 沢 美 術 工 芸 大 学 紀 要 ﹄ 五 二 号・
二〇〇八年︶
︵たかはし・あきひこ 一般教育等/日本文学︶
︵二〇〇九年一〇月三〇日受理︶
̶ 111 ̶
( 42 )
13
14
15
16
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
︻注︼
小川隆﹁言語と図像の亀裂
楳図かずお﹃洗礼﹄における︿表層/深層﹀﹂
︵﹃層・
̶̶
映像と表現﹄二号、ゆまに書房、二〇〇八年八月刊︶
。なお、本稿では図らずも
小川論文をかなり批判的に扱ってしまっているが、熟考すべき貴重な指摘の多い、
必ず参照されるべき論文である。
小川論文の最終的結論は、次のようになる。
﹃洗礼﹄は言語・図像それぞれにお
いて様々に齟齬や亀裂を孕んでいる。楳図は、三人の女︵いずみ・松子・さくら︶
がこうした破綻し信憑性の低いテクストを紡ぎ出す様を描いた。この亀裂は、作
つもりである。
このシーンでは久しぶりにナレーションが入るが︵語り手は明示されない︶、こ
この二つの場面の間には、LP﹃闇のアルバム﹄に所収された楽曲﹁洗礼﹂
︵楳
ルの後第二部が再開する。
れは初出連載時、第一部を締めるためのまとめでもある。約二ヶ月のインターバ
7
﹃洗礼﹄においては、谷川先生はいつどこまでさくらにだまされていたのか、い
ガに対する楳図の繊細さおよびファッション感覚の表れである。
る水曜日までの間を除いて、上原さくらは日毎に洋服を着替えている。少女マン
き直されている。また、日曜日のパーティの後、自宅から谷川宅へ荷物を送らせ
この画のさくらの服装は、初出のものがフラワーコミックス以下の単行本では描
図作詩・作曲︶の歌詩を掲げた見開き一画のイメージ的図様が挟まれる。なお、
8
この電気スタンドの指摘は、私の本務校での授業﹁文学3﹂で﹃洗礼﹄を講じた
じた際、学生・谷川立人君によってなされたものである。
単独でなされた﹂という指摘は、私の本務校での授業﹁文学3﹂で﹃洗礼﹄を講
語の整合性を破綻せしめている、ということはない。なお、この﹁谷川の行動は
行動は読者をだますために作者によって過剰な演出がなされており、そのため物
ら指示を受けているということは確認し合っていない。いずれにせよ、谷川の諸
でも、二人はそれぞれ谷川からの指示に従ってはいるものの、相手もまた谷川か
良子にもすべては話していない。また、良子が和代を連れて上原邸に行くくだり
動は単独でなされているのである。谷川は良子からも情報を得ているはずだが、
らさくらを疑い出す。ただし、妻和代にそのことを全部は話しておらず、その行
の件に関しては本稿では詳述しないが、結論だけ述べておく。谷川はある時点か
つどこから和代と信頼を回復しさくらを逆にだましたのか、判然としにくい。こ
9
品を解釈・深読みするのではなくきちんと︽表層︾に沿って読もうという試みを
阻害し、亀裂を統合するために読者は結局︽深層︾を想定せざるを得なくなって
しまう。つまり︽深層︾を要請するのは読者自身なのだ。こうした表層批評を許
さないテクストの前に我々は﹁絶句するしかない﹂、と。
といった加算問題︶があって、他者Aさんがそれ
と答える場合、Aさんの回答と
と答える場合、
であることを保証する﹁法外な事実﹂
が妥当とされるのみである︵クリプ
キ﹃ ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の パ ラ ド ク ス ﹄ 黒 崎 宏 訳、 産 業 図 書、 一 九 八 三 年 ︶
。
波多あきみの問題においては﹁客観的事実﹂という言い方をあえてしたが、そう
した事実はあろうと無かろうと実は構わない。今あげた算術問題における他者の
誤答の推測は、この言明可能条件的言語像における妥当性成立の一つのモデルの
際、学生︵氏名は不明︶によってなされたもの。
この美しさやさくらのアザの美しさは、若草いずみが固執した美とは異なるもの
である。若草いずみの固執した美は愛を拒絶しており、今のこの美しさは愛と和
解した︵あるいは馴れ合った︶美である。母が娘にゆずった︵与えた︶ものとは
愛である。
た だ し、 さ く ら = 松 子 が 村 上 医 師 の︵ 死 ん で い る な ら か つ て の ︶ 自 宅 を 知 っ
て い る の で あ れ ば、 全 く 話 は 別 で あ る。 そ の 現 実 の 自 宅 と い う 客 観 的 事 実
̶ 112 ̶
( 41 )
楳図かずお﹃恐怖への招待﹄︵河出文庫・1996 年刊、19 ∼21頁。初出は
河出書房・コミックパス、1988年︶
小川論文でこの場面に関する︽解釈︾はこれ以上示されていない。
なお、小川論文が指摘している波多あきみの役割は、正確に敷衍すれば、私が言っ
ているような︵谷川風の︶謎解き役ではなく、テクスト自体がまるで信憑性の低
+
いものであることをあばきかねない存在だった、と主張するものである。
ある算術問題︵たとえば
が
57
A さんのその誤答と私の推測とが一致するのはかなり困難であろう。ウィトゲン
私の推測が一致する可能性は十分にあり得る。しかし、Aさんが
にどう答えるか私が推測するとする。Aさんが
57
シュタイン=クリプキによれば、 +
68
10
5
125
68
である可能性も十分に成り立つ。ただ、この加算におけ
5
る状況と有効性︵言明可能条件︶において
︵真理条件︶は無く、
125
125
11
12
1
2
3
4
5
6
楳図かずお『洗礼』、その身体と記憶 高橋明彦
現在のコマはどのようにして過去のコマや未来のコマと繋がるのか、と
が読んだ順には対応しているのだ、と︵この場合、次に生じる問題は、
現在・未来の順序は、必ずしもコマの継起性通りに対応しなくとも、私
いびつな空間へと成長する。
され、未来へと開かれる。娘はいつも母に干渉されているが、大人へと、
持続の中にある。この現在は、純粋な現在ではなく、いつも過去に浸食
で な け れ ば な ら な い。 そ れ が 読 む と い う こ と だ。 そ れ ら は 流 れ る 時 間、
コマの関係論とは、すべてのコマが︵ひとつの︶持続をなしていると
いうことである。それは、想像力によって、あるいはコマが自存的に持
つ継起性によってである。そう考えてきた。しかし、飛んでいる矢は動
しかし、
マンガにおいてはむしろ、
すべてが過去なのだと言ってしまっ
時間である。テクストが持つ時間は、コマを読む順序では生成されない。
たコマの様態である。しかし、
コマの持続性は非空間である。これが持続・
並存性とは、つねにすでに空間化され
̶
たほうが明快ではないか︵マンガは既に終った物語だなどという意味で
順序には三つの様態がある。理念的な順序︵数、五十音、アルファベッ
いうことである。コマの継起性
はない︶。理由は二つある。実際それは客体として世界にすでに存在し
ト︶、空間的な順序︵位置、q wer ty ︶
、時間的な順序︵変化、運動︶
。
かないし、マンガの図像はそもそも動かない︶。
てしまっているから。私が読むまでそのマンガは存在しない、などとい
単なる順序は決して時間を生じることはない。
マ ン ガ の 現 在 と は、 コ マ の 空 間 的 な 継 起 性 を 超 え て、 い つ で も 現 在
うのは悪しき独我論である。母は娘より先に生まれている︵娘が母を捏
造することはできない︶
。
在化するような過去なのである。読む行為はやはりいつも現在のもので
ないような過去︵純粋過去︶
、固着した過去ではない。いつもすぐに現
コマを通して、空間といういびつな世界へ展開される。私たちがマンガ
間性ではない。それとてすでに空間化されている。テクストの持続は、
コマの並存性はまさしく空間性であるが、コマの継起性とて純然たる時
になりうる過去である︵意識を集中し、フォーカスを合わせるように︶
。
ある︵当たり前だ、読むは読んだと違って現在形だから︶。ただし、作
に生きる現在は、こうしたいびつな大人の世界である。マンガを読むと
は、 も は や ニ セ
̶ 113 ̶
( 40 )
二つ目のほうが重要である。この過去は決して、二度と再び戻ってこ
品はすでに存在している、自存的に。われわれの意識に上がらない客体
いうことは、もう一度子供からやり直すことである。読みにおける有効
イマージュ
として。﹁無意識的表象﹂︵H・ベルクソン﹃物質と記憶﹄
︶として。存
性とは、子供が大人になることである。
カント的問題構成
̶
つねにすでに分断されたコマがどうして繋がるのか、それは想像力に
在︵客体︶としての過去は、固着した過去である。それは決して再び現
在化することはない。しかし、これに対して、記憶としての過去︵或い
よ っ て で あ る、 と い う ヒ ュ ー ム
の問題だったとしか言いようがない。われわれは最初に一息に持続に身
は過去の記憶︶はいつでもすぐに現在化する︵むしろ、いつも順序を持
たずアトランダムに︶
。マンガの過去とは、
この記憶としての過去である。
必要である。
ラのコマから持続をつむぎだしているのではない。根本的な態度変更が
を置きそこから出発してバラバラのコマに向き合うのであって、バラバ
たコマは、現在と同一化・不可分離化し、かつ未来へと流れていくもの
たコマ。忘れたコマは、現在のコマの理解に影響を与えない︶。読まれ
もはや思い出されることのない過去である。︵読んだのに忘れてしまっ
しない。コマそれ自体は客体である。存在となって固着した記憶とは、
ただし、記憶が存在のようなかたちで固着する時には、決して現在化
それが、読む行為において現在化されている。
16
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
本問題なのだから。
妄想文脈ともに、さくらと松子︵いずみ︶が分離できていないことが根
が有ったか無かったかがさくらの根本問題ではないからだ。移植文脈・
姿を認知したこと、これによってなされたのである。なぜなら、脳移植
た だ し、 実 際 の 解 決 は、 さ く ら 自 身 が、﹁ お お 母 さ ん ⋮⋮﹂ と、 母 の
か け と し て 機 能 し て い る 以 上、 重 要 な 意 味 を 持 っ て い る は ず で あ る ︶
。
良子の一言はきっかけである︵きっかけには過ぎないが、これがきっ
にする。それがアザである。母が娘にゆずった/与えたアザ。これがさ
れはいずみ=松子の段階での愛である。これとは異なる愛が分離を可能
て愛を感じるものよ。決してさからわないから⋮⋮﹂︵4巻77頁︶。こ
三人の女が分離することが救済である。﹁でも、
魂のないものはなんだっ
ければならない。これがなされているのかは私には分らない。が、この
分離である。松子︵母︶ いずみ︵美︶としてさくらを抱きしめていな
そして、もうひとつ成されなければならないのは、いずみと松子との
コマ目︶。小さなコマではあるが、この時のさくらの顔・表情には、エ
さくらが﹁お母さん﹂と叫んで母親に抱きつく場面︵4巻180頁6
ことである。その時ようやく松子のアザはもはや消える必要のないもの
くらの顔から消えるのは、さくらがもう一度子供からやり直せるという
マンガにおける身体と記憶
̶̶
となるのだろう。
る美しさがある。これは何を物語っているのか。母と娘は、互いの姿を
見て、︽相手が自分ではないこと︾
を認めた時に、初めて和解が可能になっ
思い、涙を流しながら言う言葉である。
﹁いくら脳みそがお母さんでも、
われている。波多あきみが捜査していることをさくらに伝えなければと
本 作 に お け る 良 子 の 重 要 性 は、 先 の 一 言 と と も に、 次 の 言 葉 に も 表
在・未来が成立するだけである。コマの順序通りに読み、決して後戻り
においてのみ、我々の常識的な意味での︵それぞれ背反する︶過去・現
というものは、あるようでいて、実は無い。一般的には︽完全な︾初読
マンガ体験において、現在︵純粋な現在、過去や未来と背反する現在︶
﹃ 洗 礼 ﹄ の 身 体 と 記 憶 と い う 問 題 は と り あ え ず こ こ で 終 え る と し て、
﹂
︵3 巻27 1頁︶。脳︵意識・記憶︶
も飛ばし読みもしない。そうすると、今見て読んでいるコマが現在であ
して分離していること。これが救いのかぎである。そもそも妄想とは意
こそ人格だと思っている者にとっては、この言葉は蒙昧な小学生の無茶
り、これまで読んできたコマ群が過去、未だ読んでいないコマ群が未来
そこからマンガそれ自体が孕む問題までは、もう一足伸ばすだけである。
苦茶な発言としてしか理解できないだろう。そうではない。これは、移
である。現在は、今見て読んでる物理的な区分︵コマ︶に対応している。
識の問題であり、いずみの根本原因が過去への固執︵記憶︶であるなら
植文脈と妄想文脈を明確に分別しようとする思考から独立した、つまり
しかし、これとて後戻りしたとたんに過去が現在になってしまうし、飛
ただし、今はまだメモにすぎない。
脳=人格という発想から独立した、ものの見方なのである。記憶が過去
ばし読みすれば未来が現在となるが飛ばした部分は未来のままだ。即ち、
さくらちゃんにかわりはないわ
であるとするならば、身体は未来に開かれている。脳が身体を決定して
もしれない。今私は読んでいる、その充実感において。そして、過去・
逆に、マンガにおいてはすべてが現在なのだ、と言えるように思うか
過去・現在・未来の常識的順序と、コマの順序とは対応しなくなる。
ば、脳や意識や記憶にいくら頼っても、分離は果たせない。
たのである。母と娘が分離していることを互いに自覚すること。身体と
.おわりに
ルサレムの真悟と状況こそ異なるが︵
﹃わたしは真悟﹄︶、それに比肩す
≠
いるのではなく、脳は身体の一部でしかないのだ。昔は良かった。未来
は恐ろしい、か。しかし、身体は未来に開かれている。良子は身体論者
である。
̶ 114 ̶
( 39 )
11
!!
楳図かずお『洗礼』、その身体と記憶 高橋明彦
しえないものなのである。二つの対立は見せかけにすぎない。果たして、
もさくら=松子であるならば、この二つの文脈は最終的には判然と区別
した不可分離な存在なのである。この二つの文脈の根本においてどちら
妄想文脈においてさえ、さくらと松子︵いずみ︶とは同一人物、一体化
なくても︶この相反するものが固着・同一化してしまったのである。
め、いずみを美を求めた。そして、さくらの中では脳移植︵があっても
る先生である。二人はこの点からも似ていた。ただし、さくらは愛を求
らも先生であることだ。どちらも、自分に何か大切なものを与えてくれ
また、改めて気づかされるのは、いずみの先生とさくらの先生、どち
さて、ならば、この二人が同一人物であるとは一体どういうことなの
同一人物だ、ということであった。
再説しよう。ここから得られる結論は、さくらと松子︵いずみ︶とは
脳手術︵が行われようと行われまいと︶以後の上原さくらは、この排他
的な二つの原理を固着して抱えた存在となってしまった。それは同時に、
上原さくらと松子︵いずみ︶とが同一であり不可分離であるような存在
となることである。さくら=松子︵いずみ︶の人格的混濁状態がここに
憶を有するのは当然だからだ。ゆえに、村上医師を捏造した物語の起源
あるならば、先の記憶の問題はすべて解決される。同一人物が同一の記
ここで先に、些細な問題から解決しておこう。この母子が同一人物で
このテーゼを受け入れることでテクストの持続を示しうる問題がある。
不可分離性を、分離することのみが救済である、ということ。今一つは、
い。が、まずは二つのことが言えるだろう。一つ目は、二人の同一性・
というテーゼについて、その意味するところを直接に答えることは難し
か。これは単なるファンタジーなのか。この二人の同一性・不可分離性
は、決して架空の起源ではない。ちなみに言っておくならば、﹃ねこ目
母と娘の和解場面がそれであるということ。これを見ていこう。
でき、それが和解シーンにおいてはすっきり消える、という事態である。
こと︶。﹃洗礼﹄においては、強い思い込みによって頭の縫合痕やアザが
いた。蘇った松子は、脳移植直前のままであろう。手術前と同じ形相で
ようとして石で殴られ気絶し土中に︵三週間程度か仮死状態で︶眠って
言ってさくらを追いかけていたはずである。松子は、さくらに脳移植し
!!
̶ 115 ̶
( 38 )
ある。
小僧﹄﹁みにくい悪魔﹂の良き読者であるならば、脳が身体に影響を与
﹃洗礼﹄にはこれにもう一つ加わるものがある。
﹃洗礼﹄は強い思い込み
さくらに迫る母。しかし、村上医師の姿が砂のように消え、さくらは母
土中から蘇える母松子は、メスをもったまま﹁もう逃がさない ﹂と
によって、さくらの身体︵アザや縫合痕︶のみならず心︵記憶︶も松子
スペンスを最後まで盛り上げるだけ盛り上げた挙げ句、安易な結末だね
に飛びつき、母もメスを手から落として、二人は抱き合う。これを、サ
母と娘の同一性・不可分離性について、つまり本題に戻ろう。
そうよ、お母さんは生きていたんだ﹂
。そしてさくら
に呼びかける。﹁あれはお母さんよ
んのお母さんだ
この消滅は、良子の次の一言に起因している。
﹁お母さんだ さくらちゃ
和解は、もちろん村上医師の消滅が前提となっている
︵原因ではない︶。
ない。
などと冷ややかに見る読者がいるのではないだろうか。私はそうは思わ
じでもある。﹁美しい花は少しのあいだ咲きほこり、たちまちしおれて
来るのを待つ母と錯乱する娘でもある。しかし同時にやはり、二人は同
ない常盤木たる松と美しいがはかなく散る桜とは対比的であり、時期が
松子とさくらというネーミングは、一見対照的である。変わることの
になってしまう物語なのだ。
えることを許容できるだろう︵そのテーマの重要性が理解できるという
!!
お母さんが生きているということ
みのことを述べたナレーションであるが、この﹁美しい花﹂とはあきら
さくら
は、脳の手術なんてなかったのよ﹂
︵4巻172頁、173頁︶。
散ってしまう﹂︵3巻194頁︶
。これは若さを失いつつあった若草いず
!!
かに桜花のことをいうものである。
!!
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
﹂
︵3巻173頁︶
と 知 っ て る わ。 だ れ で も か な ら ず 年 を と る ん で す っ て
母さんみたいになりたくないの
﹂﹁わたし、お
醜く娘は未だ美たること。現在︶
、おとなへのあこがれと幸せになりた
いとおもう気持ち︵さくらが愛を手に入れること。未来︶、これである。
みにしか分らない論理によって一組の対命題を作る。それは︽昔はよかっ
くない﹂という変化の拒絶と、母の独り言﹁昔はよかった﹂とが、いず
も過ぎゆく時間の中でゆっくりと徐々にこの対立をやりすごす。そして、
ないからだ。また人は幸い美と愛の排他性にも気づかないし、気づいて
ふつう人は不可避的に大人になってしまう。時間を止めることは出来
この三要素は次のような関係にある。
た、未来は恐ろしい︾というものだ。世界は美しいものが醜いものへ変
未来たる愛に何かの希望を見いだす。つまり、未来は恐ろしくない、と。
﹁自分のまわりがいびつ﹂
︵谷川先生︶とは、母親松子の言動がおかしい
他的である。この対立を背後で支えているのは、子供と大人の対立でも
わりに、愛︵うすぎたないもの︶を手に入れる。だから、美と愛とは排
るものは一つしかない、とも言える。それが愛である。人は醜くなるか
はよかった、未来は恐ろしい、と。が、村上医師を捏造し、脳移植とい
は時間を止めることである。尤も、止めきれないから思うのである、昔
拒絶し美の側で固着した者がいる。若草いずみ︵松子︶である。固着と
愛︵大人︶との対立軸・時間軸において、愛を
しかし、美︵子供︶ ̶
ということではなく、そうした未来そのものの謂いである。
愛︵大人︶の対立軸とは、子供から大人へ
ある。だから、美︵子供︶ ̶
う希望を持つことで、いずみ︵松子︶は時間を止めきってしまった。
し﹁こんな生活がしたかった﹂と言うが︵2巻277頁︶
、その日の夜、
願望は﹁おとなへのあこがれと幸せになりたいとおもう気持ち﹂であっ
ふつうの人と同じく、いずれ大人になるはずであった。さくらの固有の
愛の対立軸・不可避の時間軸の中にいて、
̶
とたんにアザが出来るのは、決して楳図が話を面白くするために次から
たろう。さくらの現在には、母はすでに醜く自分は未だ美であることの
その娘、上原さくらは、美
次へと変わった事件を起こしているからではない。おそらく、楳図にとっ
認識はあったが、この現在の不安は、おそらくは自然に時間の中で解消
されるはずだった。
しかし、脳の移植を聞かされ妄想を始めてしまった。これは、母の願
﹁ さ く ら が 心 の 底 で、 お 母 さ ん の 望 み を か な え て あ げ た い 気 持 ち と
いと︵潜在的な︶固有の願いとの間で固着する現在となってしまった。
に解消してくれる流れる時間の中の現在ではなく、︵衝撃的な︶母の願
いを受け入れてあげたからである。さくらの現在は、不安をいつか自然
⋮⋮、 お 母 さ ん を に く む 気 持 ち と ⋮⋮、 そ し て 自 分 で は ま だ 気 づ か な
この固着とは、母の願いとさくらの願いの同一化である。
ではさくら=松子であり、妄想文脈ではさくらはさくらにすぎず、松子
本稿で先に見た移植文脈と妄想文脈という二分法において、移植文脈
ここには三つの要素がある。お母さんの望みをかなえてあげたい気持
︵いずみ︶とは別存在であると前提していた。この前提は間違いであり、
⋮⋮、今度のできごとをひきおこした⋮⋮﹂
︵4巻190頁︶。
い お と な へ の あ こ が れ と ⋮⋮、 そ し て 幸 せ に な り た い と 思 う 気 持 ち が
し、私なりの解釈を示しておこうと思う。
このことを踏まえて、結末部分における谷川先生による解説を読み直
なって醜くなるということだからだ。
てこの展開は極めて自然なのだろう。愛をつかむということは、大人に
言うなら、愛することは大人になることである。さくらは和代を追い出
の時間の流れ、不可避の時間軸でもある。すなわち、楳図的かつ端的に
美に対立する概念が一つある。それが愛である。美への固執を超えう
固執である。それが完成した。
容するプロセスである。この変容の拒絶の実体が、若草いずみの美への
話を聞いてくれるこの医師を持つことで、
﹁お母さんみたいになりた
!!
ち︵いずみが美たること。過去︶、お母さんを憎む気持ち︵母はすでに
̶ 116 ̶
( 37 )
!!
楳図かずお『洗礼』、その身体と記憶 高橋明彦
は確かに空想に過ぎず、いずみの真実を言い当てたものではないが、実
いずみの真実を結局描かずに終わったのだ、という考え方である。私は
とか、上原家のDNAに刻まれていただとか、そんな話になってしまう
これを以って破綻と言うならば、そう言えてしまうのかもしれない。
これは採らない。これではちょっと今一つの作品になってしまうからで
際 に い ず み は 村 上 医 師 を 捏 造 し て い る こ と は 確 か で あ る。
﹃ 洗 礼 ﹄ は、
これは一週間が八日あるとか和代の包帯が瞬間移動しているとかいう破
ある。一つ目はこれで終わり。
だろう。テキトーでいい加減な話なのだ、ということに。
綻とは明らかにレベルが異なる。グルーブ感の下であまり気づかず読ま
別に破綻してたって面白いんだからそれでいいじゃないか、という意
済されることはないからである。
これについては後述されるはずである。
らば、最終的にさくらは救済されるかもしれないが、いずみ=松子が救
二つ目は、さくらが語ったいずみの妄想の起源が架空のものであるな
見もあるのかもしれない。それに対して私は﹁破綻はしていない﹂と主
三つ目の理由は、案外単純で明快である。妄想文脈の根本的了解が間
れてしまうということがあるにしてもだ。
張したくてこの論文を書いているのだ。少なくとも楳図作品は、面白け
一つ残されている。このように起源または結末がメビウスの帯のように
天衣無縫というわけにはいかないのだろうか。これに対する応じ方が
そもそも、母と娘はどんな関係にあるのか。これが本作のモチーフで
おそらくこの前提が間違いなのである。このことを念頭に進んでみよう。
はさくらでしかなく、いずみ=松子とは別存在である、と前提していた。
違っていたのであろうということである。妄想文脈においては、さくら
ねじれていく構造こそが楳図かずお作品の特長なのだ、と。たしかに、
あろう。そこで、幼少期のいずみが心の中に村上医師を作り出した物語
母親は発熱して寝ているいずみ=松子に言っていた。﹁昔はよかった。
いつもかかりつけの先生がそばにおられて﹂﹁ま、待っておいで。すぐ
に お 医 者 さ ま に 来 て い た だ く か ら ﹂。 こ の 間 松 子 は﹁ ウ ー ン、 ウ ー ン ﹂
̶ 117 ̶
( 36 )
れば何でもあり、といったものではないからだ。
歳﹄
をもう一度確認してみよう。あらかじめ言うなら、やはりこの物語が本
私にとって、
この架空の起源というメビウス説は、楳図的であり︵﹃
﹃イアラ﹄がこれに近い構造を持っている︶
、それなりに魅力的である。
ある。
とうなされているから、母親の独り言のようなセリフが明確に聞こえて
いるようには見えないが、しかし、この言葉がある引き金になっている。
﹁安心しなさい。わたしはかかりつけの医者だよ﹂と言うのである。
﹁か
果たして、母が出て行った直後に障子をあけて白衣の男性が入ってき、
いや。いずみ︵とさくら︶の妄想の起源が架空であったという結論は、
かりつけの先生﹂
﹁すぐにお医者さまに﹂という母の用いた言葉がおう
そして、いずみは発熱の秘密を医師に打ち明ける。﹁わたし、ちゃん
出てくるのだ。
どう考えてもおかしい。それは、世界が胡蝶の夢だと主張されている以
一つ目は次のようなものだ。さくらが語った若草いずみの妄想の起源
え方︶は三つあげられる。
む返しに、当の医師から﹁かかりつけの医者だよ﹂という言葉となって
.母と娘の同一性、および和解について
松子は救済されないからだ。
作の根源的起源でなければならないのである。そうでなければいずみ=
因果﹂ を﹃洗礼﹄で実践してみせ、そのメビウス的な起源こそが﹁め
踏み込むことなく。とりあえずは、栗原裕一郎が指摘した﹁めぐらない
私としては、ここで﹃洗礼﹄論を終えても良い。母と娘という問題に
14
ぐらない因果﹂の実相であると新たな指摘を加えることが出来たからで
15
上におかしい。これでは夢落ちならぬメビウス落ちではないか。理由︵考
10
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
かではあってもテクスト上に無ければ、公然の秘密説は成立しないのだ。
随所に見られる。ならば、その背後に隠された決意の露呈もたとえかす
しい母を演じきり背後の決意を隠してきた、という論拠はテクスト上の
草いずみは娘への脳移植という決意をした後、女児を産み、表面上の優
拠を半分しか示さず名探偵が犯人を当ててしまうかのごときである。若
ではないほう︶しか描かれていないからだ。これではまるで、推理の根
いのだから伝聞で漏れ伝わる可能性さえ絶無である。いずみの母親も含
の夜、村上医師を心の中に捏造したことまではいずみ以外の誰も知らな
に母をぶったことをメディアがどぎつく書く可能性はあるだろうが、そ
上医師を捏造したエピソードである。子役の若草いずみがリハーサル中
その一つがまさしく﹃洗礼﹄の根源的起源であるところの、いずみが村
ただし、その語りの中にはいずみ本人しか知らないはずの秘密がある。
めて知らない。さくらがこの秘密を知るという可能性も同様に無い。母
から直接聞かされたのなら別であるが、この公然の秘密説はすでに棄却
最大の問題点は、妄想文脈から見る時、若草いずみしか知らないはず
東京で村上さんをぴたりと当てることよりなお難しいだろう。さくらの
さくらが想像で、本人しか知らないはずの秘密を言い当てることは、
メビウス的な架空の起源
̶̶
の記憶を上原さくらが持っている、これはなぜなのか、どうすればそん
想像において語られた村上医師捏造の物語は、いずみが村上医師を捏造
9.最大の問題、記憶︵2︶
なことが可能なのか、ということであった。この問題を掘り下げていく
した本当の原因とは一致しない可能性が十分にある、いやむしろ一致す
過去を想像した。これが妄想文脈であった。すなわち、さくらは良子に
まず前提として、脳移植は無く、上原さくらは母親になりきり、その
はないか。すくなくとも私もそう思っていたし、谷川先生も結末部分で
造したと思い、これがすべての起源だと了解して本作を読んでいたので
ほとんどの読者は、この幼少期の発熱時に若草いずみが村上医師を捏
しかし、そうではないのだ。物語の起源は、架空の想像でしかないの
̶ 118 ̶
( 35 )
した。
と恐るべき結論が待っていることになるのだが、ともかく順に見ていこ
ることはまずあり得ない
若草いずみの幼少時代のエピソードを語るが︵3 巻144頁から︶、こ
︵良子の情報によってであろう︶、用心深い言い方ではあるが、そう推測
。これが結論なのだ。
う。
れもあくまでさくらの想像なのである。さて、さくらのこの想像は、い
している。
﹁ い つ が 始 ま り か と い う こ と は 言 え な い が、 と り あ え ず、 さ
くらのお母さんが幼いころに自分の美しさをなくすことに恐怖を覚えた
を聞いて驚くのは︵3 巻148 頁︶、さくらの言い方が恐くて良子が単
である。さくらが良子に語った発熱のエピソードがすべての起源のはず
時からだろう⋮⋮﹂︵4巻188頁︶
。
に極度の怖がりだからではなく、その名がどんな人物を指すのか知って
こうなれば、あとはもうさくらが、透視能力のように、若草いずみ=
であった。しかし、これは何ら事実に基づかないさくらの単なる想像な
寺彦﹂といった、若草いずみに関係した監督やスター陣を知っているこ
上原松子の幼少時の記憶をぴたりと言い当てたとしか言いようが無くな
いたからであろう。小学生さくらとて、同じように若草いずみを知って
とも不思議ではない。ある程度までは、さくらの想像がいずみの人生を
るのである。あるいは、生まれながらにして前世の記憶でも持っていた
のだ。われわれが考えてきた起源は何の根拠もなかったのである。
言い当てることは出来るだろう。
いるはずである。﹁大津安二郎・田中絹子・佐戸利信・佐野周三・岡田
ない日は無かったというし︵1巻25 頁︶
、良子も﹁若草いずみ﹂の名
大女優が引退して一〇年。テレビや雑誌がその噂をどぎつく書き立て
ずみ=松子が有する記憶と同一のものであろうか。
14
楳図かずお『洗礼』、その身体と記憶 高橋明彦
124頁︶
、足音も聞いている︵1巻61頁、124頁︶ 。
殴って気絶させる以前にすでに村上医師の影を見ているし︵1巻61頁、
に﹁自分のまわりがいびつ﹂︵谷川先生︶なのだ。実際、さくらは母を
とはないだろう。さくらは、こうした母親に育てられたのである。端的
くのである。母親の嘘︵反事実的発言︶が子供へ何も影響を与えないこ
して何も聞こえないさくら。この場合、その溝をさくらが自ら埋めてい
親 の 言 う﹁ あ ら 二 階 の 先 生 の 足 音 が ⋮⋮﹂ と い っ た 発 言 と、 そ れ に 反
先生の実在を感じられないはずだ︵そもそも実在しないのだから︶
。母
思い込んでいる。にも関わらず、母親が言うようにはさくらには二階の
が︵そもそも実在しないのだから︶、二階に村上医師が実在していると
る。たとえば、さくらは、顔を見たことも一緒に食事をしたこともない
させてからであろうが、実はその前から何かしら兆候があったとも言え
とでも良い。谷川がそれを信じたかどうかは関係ない。谷川はさくらの
草いずみだったとかって言うんですもの﹂などと話していた、というこ
母さんだけど、面白いところもあるの。お母さんは若い頃映画スター若
手術のずっと以前、さくらは谷川先生に母親のことを気軽に﹁優しいお
中 島 さ ん は 知 ら な い だ ろ う ︶。 こ れ が 行 き 過 ぎ だ と す れ ば、 あ る い は、
も慎みを知っているからうかつに児童にしゃべったりはしない。良子や
公然の秘密なのだ︵ただし教員には守秘義務があるのみならず、そもそ
だ。もしかしたらさくらの小学校の教員はみな知っているかもしれない
くらが引退した大女優若草いずみの娘であることをすでに知っているの
れまい。しかしこの仮説から見るなら、全く説明が付く。谷川先生はさ
偶然でも良いとは思うが、さすがに少々あざとい演出という感はまぬが
ずみ主演のリバイバル作品であった。これはたまたまの偶然だろうか。
ベッドに天井から血が滴ってくる。が、翌朝には血痕が消えている。こ
また、肉ダンゴで犬を捕まえる母の異常行動を目撃した夜、さくらの
ある。
母親と関係があるかもしれない若草いずみの主演映画に誘ってみたので
尋常ならざる状態の背景に母子関係の問題があるのではないかと考え、
たのである。もちろん、公然の秘密とは言っても、芸能ゴシップに敏い
ともあれ、いずみ=松子が思っていた程には、
秘密は守られてこなかっ
れを、用心深い母が一生懸命拭き取ったと了解することもできるが︵蒲
団の模様は昨夜と同じである︶
、血の滴り自体がさくらの幻覚だったと
いう解釈も十分可能だろう。
人と疎い人とがいるだろう。上原邸の近所の人は、魚屋さんに﹁あの人
この公然の秘密説は、私自身ちょっと気に入っている。妄想文脈にお
谷川先生が結末部で解説するとおり、さくらに﹁お母さんの望みをか
らされてその衝撃によって初めて発現したもののごとくである。が、事
いて解決不能な問題を解決してくれるばかりか、さくらの妄想における
はだれ﹂などと聞くごとくであり、波多あきみも言うように全く知らな
あるごとに﹁この顔のアザは、実は生れつきじゃないのよ⋮⋮﹂などと
内因性の説明にもなりうるからだ。とは言え、以上は全くの冗談、酒席
なえてあげたい気持ち﹂が有ったとしてみよう︵その望みとは、母が美
も語っていたとしたらどうだろうか。その意味するところは二つある。
の譫言レベルである。気のまわし過ぎかも知れないが、この手の、合理
い人ばかり。そういう人たちがほとんどだとしてもだ。
まず、矛盾した発言の中に、アザの無い母の可能性をさくらが知らずし
的に解決しようとして逆に別の場所に大きな傷を作って更に広げている
であること︶
。しかしそれは、テクストを読むかぎりでは、脳移植を知
らずに夢見てしまうこと。しかし同時にそれは、母親の反事実的発言に
もそも、この説には大きな欠点が一つある。それは、テクスト上にこれ
ような意見をあらかじめ潰しておくためにあえて示したものである。そ
この仮説をもっと展開してみよう。谷川先生はさくらの異常にすこし
を裏付けるような言説がひとつもないから、とは少し違う。片方︵そう
翻弄されて娘が妄想を生み出す原因でもあること。
づつ気付き、じっくり様子をみるために映画に誘う。その映画は若草い
̶ 119 ̶
( 34 )
13
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
応していることがある、などという症例が存在するのかもしれない。物
ていないことまで自らの経験であるかのように語って、それが事実に対
精神的な病は時として驚異の現象を引き起こすもので、本人の経験し
うだ。
巻55 頁︶
、母は村上医師のことも全く話してはいないわけでもなさそ
の子どもの頃からの主治医だそうだけど﹂とも言っているのだから︵1
ている︵1巻27 頁︶。また、さくらは二階の医師のことを﹁お母さん
私も、帽子を買ってあげて頭の大きさを確かめていた時に﹁この頭の
心ついた幼児が前世の記憶を語り、家族が調べてみたらその通りであっ
た、などといった例である。こうしたアイディアでこの問題が片付くな
中へ私の脳が入るのよ﹂と口走ったことがあったとは思わない。松子は
はしなかっただろう。しかし、まだ物心つく前のさくらを寝かしつけな
ら、私もそれに従っていたい。ただし、それは神秘的な解決、ファンタ
あるいは、
村上医師の霊魂が若草いずみ、
ついで上原さくらに乗り移っ
がら松子が若草いずみ時代の思い出をすべて語っていた、といった状況
秘密の計画のために用意周到であり、うかつなことをさくらに語ったり
た、とするなら︵霊という存在はまあ合理的なものではないが、物語的
は比較的想定しやすいのではないか。さくらが良子に話した内容そのま
ジーである。
には合理性の資格を持っている︶記憶のパラドクスも合理化されるだろ
まを、である。そうした語りがさくらの深層心理に刻まれていく、など
でも良い。松子は時々﹁私は本当は若草いずみなのだ。昔は美しかった﹂
う。しかし、それだと全く方向性の違った作品になってしまう。一見合
もう一つ仮説を立ててみよう。上原松子は娘さくらに自身が若草いず
とさくらに語り、翌日はけろっとして再び﹁このアザは生れつきだ﹂と
ということもあり得るかもしれない。深層心理などというのを持ち出す
みであったことを既に何度も話していた、という仮説である。あるいは、
も言ってきたのである。松子の精神はそもそも正常ではなく、時として
理的に見えて最後に霊のごとき存在が残るとすれば、それは﹁お百度少
有名女優若草いずみであったとは言わないまでも、かつて美しい女性で
不安におそわれたはずである︵だからこそ、移植を待ちきれなくなった
のは神秘的だと言うのなら、ある程度分別が付いてきたさくらに対して
あり、
この顔のアザも生れつきではないと語っていた、でも良い︵その﹁美
のだ︶。こうした矛盾する発言が生じることは十分にありうるだろう。
女﹂のパターンに近い。
しい女性﹂は﹁若草いずみ﹂へと、手術前のさくらへのドレスアップと
つき醜いアザがあって﹂と書かれてあるから︵あるいは、としか書かれ
それは無理だ、と言われるだろう。テクスト上には上原松子は﹁生れ
めて聞かされた情報ではないのだ。ただ、自分が脳移植のために産まれ
る。さくらにとって母親が若草いずみだったという話は、手術の時に初
雑誌で知られるようなものではないレベルで知り、記憶してきたのであ
母自身がさくらに語ることで、さくらは若草いずみの人生をテレビや
ていないから︶だ。秘密は完全に守られていたはずであり、だからこそ
た子供だなどということはその時初めて知った。だから、それまでは、
ポスターパネルによる告白で十分に結びつく︶。
﹁ ず っ と ず っ と ウ ソ の 生 活 を 続 け て お 芝 居 ば っ か り し て き た!﹂
︵1 巻
いつも優しいお母さん︵たまに変なことを言うけど︶という軽い気持ち
この仮説が持つ射程は、さくらにおける若草いずみの記憶の問題だけ
96 頁︶と言って来たのだから。ただし、松子の発言は必ずしもあてに
少なくともこれまで何度も松子が自分のことをさくらに話してきたの
ではない。さくらが母親になりきってしまう、その内因の説明をも用意
で済んでいた。
は確かである。顔のアザのせいでまともな結婚が出来ず私生児としてさ
しうるものである。さくらの妄想が始まったのは、母を石で殴って気絶
ならない。
くらを生んだのだ、という母に﹁もうやめてその話は﹂とさくらが応じ
̶ 120 ̶
( 33 )
楳図かずお『洗礼』、その身体と記憶 高橋明彦
みな固定式であるからだ。
ば自然だが、本質的文脈であるはずの妄想文脈から振り返るなら少々無
る方途がないはずなのだ。また、そもそも、さくらも松子も村上医師の
想性を十分に肥大させておきながら最終的にすべて日常的な合理性へと
先に本作は﹁北風物語﹂と同じパターンだと述べた。それは怪異・幻
理があるだろう。フィルムや録音テープは成長の記録として母子公然の
︵死んでいるならかつての︶自宅を知る必要さえない。電話を掛けて呼
収束させる物語である。しかし、脳移植も妄想もファンタジーや超常現
しかし、妄想文脈において、これはおかしい。さくらは村上医師の自
び出す以上、空想の人物であっても自宅が必要であるなら、村上医師を
象のなせるわざであるならば、本作の魅力は半減するだろう。いずみ・
事実だったかもしれないが、かつらはどうだろう。松子が密かに用意し
捏造したように、村上医師の自宅も捏造すれば良いだけだ。だから、現
松子・さくらが抱えていた問題は絵空事の埒内でしかなくなるからだ。
宅を知っているはずがない。なぜなら村上医師は実在していないのだか
実の村上医師の︵死んでいるならかつての︶自宅が今も実在するとして
本来ならば﹃洗礼﹄には最終的に神秘・超自然あるいは不合理・不整合
たはずのかつらをさくらがなんなく見付けているとしたら、上原邸では
も、それと捏造された自宅とが一致するのは確率的にもかなり低い偶然
は存在しないものでなければならない。しかし、今見たような、本質的
ら。のみならず、松子でさえその自宅を知っているのはおかしい。村上
でしかない。そして、波多には現実の村上医師の︵死んでいるならかつ
文脈たる︵べき︶妄想文脈において不整合を露呈する部分がある以上、
松子の秘密も何もあったものではない。
ての︶自宅ならば見付けることは出来るかも知れないが、さくら=松子
本作はやはり天衣無縫というわけには行かないのだろうか。しかも大き
̶ 121 ̶
( 32 )
医師は松子が物心付いた段階でもはや実在していないのだから。知るう
の心の中にしか実在しない捏造された自宅を見付け出すことは、ある算
な問題がまだ一つ残っている。さくらの記憶の問題である。
さくらは若草いずみの過去を回想する。作中に回想シーンは三回ある。
公然の秘密説
̶̶
多が連れてきたばあやの顔を見て、それをばあやだとすぐに知る︵よう
若草いずみ主演映画の看板を見ての場面、再びアザを発見して夢でうな
8.最大の問題、記憶︵1︶
術問題に対する他者の誤答を言い当てるのと同じくらい、そして、田舎
。
の駅と違って広く混雑した新宿駅で友達に会うことよりはるかに、難し
いだろう
である︶
。驚いた表情で﹁ばっ﹂
﹁ばあ﹂と口に出している︵4巻34頁︶。
験だがその場にさくらもいる︶、移植文脈でも妄想文脈でも辻褄は合う。
される場面、さくらが良子に若草いずみの子役時代から脳手術までを語
これらよりは小さな問題であるが、次の例も同様に、妄想文脈から見
しかし残る二つには、明らかに若草いずみしか知らないはずの記憶が含
﹁ばあや﹂と言おうとしているのだろう︵としか読めない︶
。移植文脈で
ての破綻である。序盤の手術の後のシーン。﹁とくに良子さんには気を
まれている。妄想文脈から見ればこれは絶対におかしいはずである。ど
る 場 面、 こ れ で あ る。 夢 で う な さ れ る 場 面 の 回 想 内 容 は、 さ く ら と 松
つけなくちゃ。わたしの知らない約束や秘密があるかも知れない﹂︵1
のようにすれば、いずみ=松子しか知らないはずの記憶内容を、さくら
は問題ないが、妄想文脈からこれを見る時、生まれたばかりの赤ん坊で
巻199頁︶
。
という次第で、
さくらの癖を写したフィルムや録音テープ、
も知ることが出来るのか。
子との二人が共有する経験であるから︵上原松子の視点から描かれた経
手術後にかぶるかつらまで用意されている。これも、移植文脈からすれ
あったさくらがばあやの顔を記憶しているというのはおかしい。
次の例は、偶然性に助けられる余地さえないものである。さくらは波
12
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
見たくてエレベータの前で待ち構えていたが逢うことが出来なかったと
つて若草いずみの身の回りの世話をしていた折、村上医師がどんな人か
だから。
師は松子の妄想であり、いつでもどこでも現われたり消えたり出来るの
ところが、妄想文脈から見るならば、これは実に辻褄が合っている。医
他方、移植文脈で辻褄が合っていても、妄想文脈から見直すと辻褄が
いう、この段階︵移植文脈︶ではちょっとよく分らない談話︵4巻44
頁︶も同様である。
合わなくなる例もある。問題はこちらのほうである。それは、あくまで
移植文脈は見せかけであり、妄想文脈が本質︵のはず︶だからである。
他の例もあげてみよう。
﹁なんとしても先生をわたしのものにしてみせるわ。あの人は前から
さくらは、東京に村上医師を探しに行った波多あきみの後を追い、先
回りして待ち構えている。さくらは、なぜ波多の先回りができたのか︵跡
﹂︵2巻60頁︶。これなどは移植文脈で考えると
あたしの理想だった
少々辻褄が合わないかあるいは不自然なはずである。上原松子が前から
るで持たずに生きてきたであろうから。しかし、妄想文脈から見るなら
はないか。子役時代の若草いずみは小学生の時に恋愛的な感情などもま
ぎよう。むしろ、同級生の島君と小学生の恋愛から始めたほうが自然で
いうのではあまりに世界が狭すぎるか、ストーリーとしても無理矢理過
り戻して、その結果わざわざ娘の担任の先生との結婚生活を夢見る、と
という意味になる。松子=いずみの宿願であった若さと美しさを再び取
人目のない空き地におびき寄せたかったから、表札を付け替えたのであ
と付け替えている。さくらは波多に村上を会わせたくないから、同時に
かつての︶自宅なのだろう。さくらはその五軒目の表札を別の家のもの
という家があるのだろう。おそらくそれは村上医師の︵死んでいるなら
り さ く ら と ぐ る だ っ た り す る こ と は な か ろ う。 実 際 の 五 軒 目 に﹁ 村 上 ﹂
軒目だと思うわ﹂︵3巻224頁︶。地元住民までがさくらの妄想だった
波多の質問に地元住民は答えている。﹁村上さんなら角をまがって五
を付けたという可能性は無い︶。
ば、担任のハンサムな若い先生に恋心と大人への憧れを抱くというのは、
ろう。
︵たとえば家庭訪問などで見てか︶娘の担任の先生に好意を持っていた、
小学生であっても至極自然であるし、納得できるストーリー展開でもあ
一階で母松子と医師との会食が続いていることを知る。そして、医師の
次の例。手術が宣告される日の朝、忘れ物を取りに帰ったさくらは、
し、これを可能とする能力を波多が持っていることにしておけば良い。
好きな笑い話と比べても、たぶんそれ以上に困難である気がする。しか
は、新宿駅で待ち合わせの約束をした上京したての田舎青年という私の
東京で昔︵四〇年程前に︶医者をしていた村上という人を探し出すの
不在を狙って二階の研究室を探索する。その研究室の医師へ松子が電話
何かしらの客観的事実に基づいて、波多は数時間のうちに村上医師の︵死
るのだ︵もちろんその展開はすさまじくおぞましい︶。
を掛け、さくらが出てしまう。移植文脈ではこれはおかしいはずである。
まず、上原邸二階の研究室とは別に村上医師の︵死んでいるならかつ
んでいるならかつての︶自宅を突き止めるだろう。問題はさくらのほう
医師は戻っておらず、さくらしかいないのだから。松子は、あらかじめ
ての︶自宅が東京にあるとして、移植文脈においては、その場所をさく
なぜなら、先程まで医師は一階にいた。松子が電話を掛けたのは、医師
さくらだと知って電話をかけたのではあるまい。あるいは医師はトイレ
ら=松子が知っていることに不思議はない。今も村上医師は実在してお
である。
にでも寄っていたのか。楳図は電話越しの脳移植宣告という劇的な演出
り、実在の人物に家があるのはごく当たり前のことだし、当時の電話は
はすでに一階におらず研究室に戻ったからであろう。しかし、研究室に
をしたいばっかりに、辻褄の合わないストーリーを描いてしまったのか。
̶ 122 ̶
( 31 )
!!
楳図かずお『洗礼』、その身体と記憶 高橋明彦
さくらでしかなかったという文脈である。一方を︽移植文脈︾、他方を︽妄
なお、この移植文脈と妄想文脈との二重性の根本にあるのは﹁追っか
計算のもとでこの理論が︽脳移植の無かった作品︾として現実化してい
ければギャグ、追っかけられればホラー﹂という楳図理論、見る立場に
尤も、
どんでん返しや予想外の結末が用意されている物語ならどれも、
るのだ。本作にギャグは関係ないが、この二重化はおぞましい物語の中
想文脈︾と名付けることにしよう。なお、移植文脈ではさくら=松子で
そうした二重化は行われる。うさぎと亀が競争したとして、足の遅い亀
にも別の美しさをも同居させており、両極的な二重性をも孕んでいる。
よって見え姿・意味が変わるという遠近法主義である。壮大かつ綿密な
は負けるという一般的予想を前提としている物語において、
﹁ちょっと
女の子を産む決心をしたいずみは﹁もうどんなに醜くなっても平気だ
あるが、妄想文脈では二人は別々で分離されている︵はずである︶。
ここらで一休み﹂とうさぎが言う時その言葉は、結末の教訓においては
﹂︵3 巻200 頁︶と言う。もちろん、そう言えるのは脳移植とい
う希望を持ったからである。しかし本来これは母の愛情の本質を表現し
わ
を持っていたはずだ。しかしながら、
﹃洗礼﹄におけるこの二重性は物
た素晴らしい言葉だろうと思う。娘への愛が美を超えるのだ。ここには
油断という意味に収束するが、進行中においては余裕や安心という意味
語の極限とでも評すべき強度をもっていると言えるのではないか。
また、この少し後の頁、
﹁もう顔の醜さをかくす必要などなかった﹂
︵3
息子が未来で生きていると信じる高松恵美子の言葉と同じ重みがある。
照らされることで、その意味するところは大きく変わる。
巻205頁︶というセリフとともに描かれたいずみの顔は、小さいコマ
たとえば次のようなセリフ。このセリフがこの二つの文脈それぞれに
﹁ も う こ ん な 醜 い か ら だ を 毎 日 見 な が ら 暮 ら さ な く て も す む の よ!﹂
は、自分の醜い身体に対して松子自身が自嘲的に言い放っているだけで
るのは当たり前ではある。しかしその強度は鮮烈であろう。移植文脈で
︵1巻192頁︶
。言っている人間が異なるのだから、意味も変わってく
しいのではないだろうか︵4巻146 頁など︶。これは母がさくらにゆ
るアザにしても、こまやかなタッチで描かれたそれは、実際きわめて美
していると私は思う。加えて、さくらの顔に描かれた醜さの象徴でもあ
で は あ る が、 本 作 中 に 描 か れ た 若 草 い ず み の 中 で 最 も 美 し い
表情を
ある。しかし、妄想文脈としては、さくらは母親に対して﹁醜いからだ﹂
さて、破綻があると思われてしまうのも、この文脈の二重性に起因し
破綻と見なされる原因
̶̶
ずったものなのだ。
作に通底する恐怖であろう。次も同様である。
﹁子どもなんて相手にしないわ。
わたしの欲しいのはおとなの愛よ﹂︵1
巻233 頁︶。これも、移植文脈からは大人の発言としては了解可能で
あろうが、妄想文脈としては、子供がこの発言をしているという底気味
らは未だ隠された真実を偶然または暗示的に言い当てた言葉と映り、脳
頁︶
。これは、さくらを指して谷川和代が言うセリフだが、移植文脈か
﹁そうよ。子どもの皮をかぶったおとなのバケモノよ!﹂︵2巻132
た、幼少期の松子が発熱して村上医師を心の中に捏造した場面などはそ
ても、妄想文脈で最終的に辻褄が合うならば良いのである。先にも述べ
語 の 進 行 自 体 は 移 植 文 脈 で 行 わ れ て お り、 こ こ で た と え 不 自 然 で あ っ
の破綻と思われた部分もそうではないことが分っていくはずである。物
ているのである。この二つの文脈をきちんと分別して読むならば、多く
移植が実際に行われたという印象を強め、同時に事態があばかれるとい
の典型例である。あるいは、波多あきみにつれてこられたばあやが、か
の悪さが響いてくるだろう。
7.テクストの二重性︵2︶
だと心の底で思っていた、ということである。ここに覚える戦慄が、本
11
う危機感をあおる働きを持っている。
̶ 123 ̶
( 30 )
!!
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
若草いずみ的なもの︵美の問題︶は実は無い。すでに話は脳移植はさく
らの妄想だったという結末に向けての展開に入っているのだ。
さて今度は、破綻と言えば言える例である。ただし、揚げ足取りじみ
もう一つ鏡像をあげておけば、手術後のさくらが頭をさわりながら壁
に掛かった鏡で自分を見るシーンで、頭をさわっている左手の描かれ方
が本人と鏡像とですこしずれている︵1巻189頁6、
7 コマ目︶
。もっ
け ら て い る コ マ が 一 つ だ け 有 る︵ 1 巻 2 9 頁 4 コ マ 目 ︶
。食中毒事件の
顔の傷に気づき激昂する際の松子が羽織るカーディガンの前ボタンがか
る。物語冒頭、上原松子の最初の異常行動を描いたシーンで、さくらの
﹁楳図先生は、あんがいテキトーだから﹂とか、
﹁こういうずれやゆがみ
もこんな点を針小棒大に取り上げられては不愉快だろう。あるいは逆に
もそもこの手の指摘はマニアの揚げ足取りにほかならないし、作者楳図
これら鏡像の描かれ方を過失や錯誤と片付けることは簡単である。そ
ともこれはデッサン的に少々ゆがんでいるだけかもしれない。
起こった日曜日、帰宅した谷川和代の来ているワンピースのスカート丈
が逆に説得力になっている、すごい﹂などと誉めるのも、しかしはやり
ている。ストーリー自体ではなく描かれた図像についてである。列記す
は膝下なのだろうが、ロングで描かれたコマもある︵1巻268頁2コ
鏡像の破綻を楳図が自覚的に描いたものだなどと強弁するつもりは実
名誉なことではないだろう。読者にしてももっと謙虚に作品に向かった
56頁︶
。さくらは波多あきみにハリを服の襟の上から刺したはずだが、
は私にもない。とは言え、この鏡像の混乱は、なんとなくメタファー的
マ目︶。火曜日のガス漏れ事件でケガをした和代の足の包帯は、水曜日
その後のコマでは襟を通さず直接首に刺されている︵4巻63頁3コマ
に魅力的である。
﹁娘は母の鑑である﹂などと俗に言い、
﹁嫁にもらう時
方が良い。
目、66 頁2コマ目︶
。以上は、本当に些末で無礼な揚げ足取りに過ぎ
はその母を見よ﹂などとも言う。鏡像関係にある母と娘との混乱を暗示
今 の シ ー ン の 後、 自 宅 に 帰 っ て 泣 き わ め き 自 暴 自 棄 に な っ た い ず み が
ている。それによって一つの現象が二重化されて現われてくる。同じこ
意味は文脈が決定するものである。本作はそもそも二つの文脈を持っ
̶ 124 ̶
( 29 )
の夜の時点で、右足だったり左足だったり一定していない︵2巻51頁、
ない。この類は他にもあろう。しかし、次の例はもうすこし複雑ではな
しているようにも思われるからだ。
移植文脈と妄想文脈
̶̶
宣言しておいた。あるとしても、日次も含め、取るに足りないものばか
本作には縫合すべき破綻や亀裂など実ははほとんど無いのだ、と先に
6.テクストの二重性︵1︶
いかと思う。
物語冒頭に、楽屋で化粧を落とした若草いずみが顔に広がるアザを見
ておののくシーンがある。いずみ=松子・さくらともに顔のアザは左半
面であった。さて、1巻12頁2コマ目の図像は、鏡像のいずみが描か
れているが、ここにも左半面にアザがある。鏡像は左右が逆になるわけ
だから右半面でなくてはならない。
電 気 ス タ ン ド を 大 き な 鏡 に 向 か っ て た た き つ け る シ ー ン が あ る︵1 巻
とだが、物語の持続を形成する前提が二重化されている。この二重化に
りだ。一見破綻と見えるところの縫い目も消えていくはずである。
17頁3コマ目︶
。このいずみ本人とその鏡像との関係が間違っている。
よって、一見破綻と思われかねない事態が出来してくるのである。二つ
これをヒントに探せば、鏡像の破綻と思われる箇所はもう一つある。
ちょっと見た感じでは気付きにくいが、本人と鏡像とどちらもスタンド
松子であったという文脈、今一つは脳移植はなされず上原さくらは上原
の文脈とは、一つは脳移植がなされ上原さくらは実は若草いずみ・上原
。
を右利きで構えている。鏡の中では左利きの姿で構えていなくてはなら
ない
10
楳図かずお『洗礼』、その身体と記憶 高橋明彦
だが、
﹃ねこ目小僧﹄も合せて読め、と言っておくしかない。かつ、こ
ろ事件が起こるねえなどと冷ややかまたはのんきに見る読者に対しても
れは楳図作品に通底するテーマの一つなのである。次から次へといろい
精神が身体に影響を与えるということを描いた物語であり、そもそもこ
のである︶ 。前日に谷川は、さくらと一緒に入浴しているが、たぶん
得させたとは思わない。この発言を聞いても、和代は殺人未遂まで行う
いるのは残念ながらおまえだっ ﹂という谷川の発言も完全に和代を納
が谷川夫婦の共演芝居だとは私は思わない。その朝の﹁わたしが愛して
わたしにゆずったものよ﹂﹁わけなんてないのよ。だれだって子どもは
さくらがそのアザを谷川先生に見せて言うセリフ﹁これはわたしの母が
のアザの発現は、本作を母子の問題として読む時に、この後に記される
のではないかと疑うのではないか。実家での和代と谷川とは仲むつまじ
するだけだ︶。が、もし知っていたら、やっぱり自分がだまされている
このことを和代に告げてはいないだろう︵言っても夫婦間をややこしく
まま受け入れたのだ⋮⋮そういう回答では、愚かさに助けられて辻褄を
そうではあるが、さくらがまだ谷川家にいる以上、和代には十分な不安
次の例。谷川先生は、さくらの策略に乗ったふりをして、和代を病院
合わせるのは愚かな作品だけだ、と再反論されるかもしれない。これに
親に似るしかないのよ。ただそれだけよ﹂
︵4巻104頁︶と相俟って、
へ入院させる。その病院へのお見舞いと称して、実はさくら自身を診断
対する最も有効と思われる回答は単純である。離婚届け自体、谷川和代
要素であってしかるべきではないのか。そうではない、谷川の言うこと
させようとしていた。さくらはそれに感づく。さくらの後に帰宅した谷
に自署させる必要はないだろう。筆跡を似せるだけで十分である。離婚
重い響きをもたらすのである。母と娘との不可分離性︵後述︶の謂いで
川は、和代が離婚に同意したと言って離婚届けをさくらに見せる。﹁こ
届けは和代の知らないところで作ればよいのだ。あとは文書偽造罪にな
を素直に聞く和代はお人好しあるいは愚かなだけだ、谷川の提案をその
れを役所に持って行けば和代とはもう他人だ﹂と言うのだから和代の自
らぬよう注意するだけである。
もう一例。さくらは、良子の家で一緒に勉強しているふりをして、窓
から抜け出す。靴は持っておらず足元はソックスである︵明示されてい
ニセの離婚届けなんかをこしらえ
たってわたしにはすぐわかるわ。役所へ持って行ってどのようにごまか
る。4巻5 8 頁︶。タクシーに乗り、次に描かれる時にはちゃんと靴を
履いている。答えは簡単である。さくらは金持ちである。途中で買った
れない。和代はこの時、自分のほうこそ谷川にだまされているのではと
ンについて、すこし智恵の廻る読者ならこんな疑問を出してくるかもし
書類にハンコを押してくれ﹂と言ったのだろうか。このシチュエーショ
されていたと思う︶。和代に﹁これはさくらをだますためだから、この
巻235頁︶。すでにさくらに有るものは憎悪による所有欲でしかない。
どんなことをしても
悪の対象であるかのごとくである。﹁でも、あなたはだれにも渡さないわ。
悪は谷川への愛ゆえだったはずなのに、病院の一件以後、谷川先生も憎
最後に一例、こちらはちょっと重要である。和代に対するさくらの憎
のである。
疑わないのか、と。谷川夫婦は結末部分においてこそ強い信頼で結ばれ
これを、ずいぶん話が迷走してきたな、と思う読者がいるかもしれない。
﹂︵3巻90頁︶。﹁あなたの女をつかみたい﹂︵3
ているということで落ち着くが、この前々日に和代の精神状態はさくら
端的に言ってこれは上原さくら自身の願い︵愛の問題︶であり、ここに
りに和代の実家に寄っている︵それをさくらは影から見て、自分がだま
谷川はどうやってこの離婚届けを作成したのか。谷川は病院からの帰
す手はずがついているのかしらないけど﹂
︵3巻88頁︶。
さくらはこっそりつぶやく。﹁ふん
署 捺 印 も 有 る の だ ろ う。 谷 川﹁ 明 日 一 緒 に 役 所 に い く か い ﹂
。 し か し、
ある。
9
を殺してしまいかねないところまで行っていたのである︵この殺人未遂
!!
̶ 125 ̶
( 28 )
!!
!!
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
うまくだましているとも、どちらとも取れるものである︶。それを見届
リフはこの段階では、和代に真実を語っているとも、気づかれないよう
は、さくらを病院へ連れて行く場面は、休日である日曜日であることが
のを承知でそのまま書いたのかもしれないではないか。ストーリー的に
るのではないかと怖れずにはいられない。もしかしたら、間違えている
足りなくなった、だから承知でそのまま書いたのかもしれないではない
けたさくらは台所で﹁わたしの勝ちね﹂﹁こんな生活がしたかった﹂と
さて、そしてさくらは﹁今日は土曜日だわ。そしてあしたは日曜日。
か。それに、一週間が八日有ることに気づく読者がどれほどいるだろう
望ましいだろう。多彩な事件を連ねているために病院へ行く日まで一日
来週からは新しい生活が始まるのだわ﹂
と言うのである。パーティのあっ
か。これは、作者がしかけたワナかも知れない、と怖れるのである。ファ
満足の涙にひたっている。
た日曜日以降、作中で曜日についての言及があるのはここが初めてだが、
ンとして、こういうのを見付けるのは結構楽しいことだ。しかし、見付
けさせて鬼の首を取ったようにそのファンが喜ぶであろうことくらいは
この発言はおかしい。なぜなら昨日が土曜日だったのだから。
なおこの日︵二度目の土曜日︶は、学校に行き︵七〇年代は土曜日も
作者は、日付を意識せずに描いているのではなく、はっきりと意識し
承知の上で許容しているのかもしれないのだ。
経て帰宅し谷川を待つ。あとから帰宅した谷川はさくらに﹁愛している
ている。意識した上での過失または隠蔽である。一応、この過失または
授業がある︶中島さんが救出されたことを知り、放課後はその見舞いを
。が、
その夜に額にアザを見付け、
隠蔽は決定的な設定上の破綻だと言って良いだろう。良いだろうが、し
よ﹂と言う。レコードを掛けて踊る
そして翌日︵日曜日︶
、谷川に連れられてさくらは病院に行くのである。
かし、ストーリーに対してこれがために説得力に欠けるような要因とは
鏡像など
̶̶
破綻探しをもうすこしつづけてみよう。ただし、まずは一見破綻と言
5.破綻はどこにあるのか︵2︶
全く無っていない。これは確かなことである。
さて、曜日の間違いを改めて確認しておこう。和代がさくらを殺そう
として谷川に阻止され半狂乱となってタクシーに乗せられるまでの物語
時間は、土曜日の夜から翌朝にかけてである。夜明けは明示されている
︵2巻274頁︶
。さくら、谷川、和代とも同じ服を着たままであり、特
に谷川夫婦はソファーで一夜を明かしたと考えてよかろう。そして、朝
になってタクシーを呼んだ。その後﹁わたしの勝ちね﹂﹁こんな生活が
へと進むが、これはどちらも同じ台所を舞台としていて時間的にも途切
事態は驚くべき方向へ転回する。さくらの顔にアザができはじめたのだ。
和代を追い出したと思っているさくらだが、その幸せの絶頂において
われそうだが、全く破綻していない事例である。
れ︵洋服を着替える暇︶はないのだろうと思われるのだが、さくらの服
その上での次のセリフである。﹁もう、まもなくさくらではなくなるの
したかった﹂と言うシーン、および﹁今日は土曜日だわ﹂と言うシーン
。 が、 こ れ は 日 が 変 わ っ
装が異なっているのは少々不自然でもある
で し ょ う か か ら だ に ま で 脳 の 影 響 が 出 て く る な ん て こ こ ん な バ
カなことがあるのでしょうかっ ﹂
︵3巻99頁︶。
たことを明示する機能を果たしているとも言えるし、楳図がさくらを着
たきり雀にしないことを優先したとも理解すべきである。さて、いずれ
ここまできてまさか、脳を入れ替えただけで身体にまで影響が出ると
いや。
﹁間違えた﹂と言ってしまってから、私は大変な失考をしてい
はずはない。作者楳図はおそらく曜日を数え間違えたのであろう。
にしてもだが、昨日が土曜日だったのだから、夜が明けて再び土曜日の
8
!!
!!
破綻と言わざるを得ない、などと言う読者はもういないだろう。本作は、
して、そのメカニズムはどうなっているだ!それが書かれていない以上、
!!
̶ 126 ̶
( 27 )
7
楳図かずお『洗礼』、その身体と記憶 高橋明彦
べきである︵ここで言う﹁間違っている﹂とは、無効な読み方をしてい
いう読み方をしている読者がいるとすれば、それは間違っているという
て何日目かを意識して読んでいる者はたぶん皆無であろうと思う。そう
せ、そのせいで和代の母は帰り道に運転を誤り自動車事故を起こす。夜
り、帰宅後、様子を見に来た和代の母親のコートにそのムカデをしのば
翌日︵木曜日・2巻80 頁︶。学校で中島さんによるムカデ騒ぎがあ
翌 日︵ 金 曜 日・ 2 巻 1 2 4 頁 ︶。 早 朝、 谷 川 先 生 と 妻 和 代 と の 会 話。
半、和代はさくらを襲うが、さくらは電気アイロンで逆襲。
関心事として読む読者がいるとしたら、それはやはり間違っている。と
あの子と私とどちらを愛しているのかと問う和代に谷川は﹁わたしが愛
るという意味である︶。﹃洗礼﹄も同様で、今日が何曜日なのかを最大の
は言え、私はいわゆる研究の過程でそのように読んでみて、初めてこれ
しているのは残念ながらおまえだっ
﹂という。そして、愛なんて﹁う
に気づいた。
ストーリーの確認も兼ねて、日曜日以降を追っておこう。なお、巻頁
すぎたない﹂
とも言う。放課後、
谷川とさくらはデパートや映画館へ行く。
復祝いのパーティが谷川先生の家で開かれる。これが日曜日である。そ
さくらは脳移植の間しばらく学校を休んでいた。再び登校し始め、回
りのまん丸商店に電話を掛ける。谷川とさくらが帰宅すると、まん丸商
事を回想する。ついで、公園の公衆電話から和代を装って、谷川家出入
くらはその看板を見て、主治医のアドバイスから脳手術まで一連の出来
映画館で掛かっているのは若草いずみ主演のリバイバル作品である。さ
して、﹁スープで乾杯﹂
したそのスープで食中毒騒ぎとなる。さくらがスー
店の御用聞きに襲われかけた和代は置き手紙をして実家に帰っている。
数は小学館文庫︵全四冊︶に拠っている。
プに腐敗物を混入したのであり、飲むふりをして仮病を使っている。身
谷川につづいてさくらも風呂へ入る。二人で夕食を終えて、谷川は外出
くらの蒲団で寝てしまう。
するが、
﹁和代のヤツ!﹂とつぶやきながら泥酔状態で帰ってきて、さ
寄りがないため谷川宅にそのまま留まる。
翌日
︵月曜日・2巻4頁︶
。
学校で中島さんが、パーティでの食中毒騒ぎ、
谷川先生に妻や子がいたことなどを吹聴している。さくらは谷川宅でま
いの。わたしは平気よ﹂というさくらの一言に﹁それじゃやっぱり﹂と
翌日︵土曜日・2巻202頁︶
。谷川は、さくらの蒲団で目覚め、
﹁い
翌日︵火曜日・2巻13 頁︶。谷川の妻和代が家を空けたすきに家中
愕然とする。学校では中島さんがさくらの指紋を調べるが、かつて採取
だ﹁胸がムカムカする﹂と言って蒲団に寝ている。
にガスが充満しており、帰宅した和代は慌ててケガをする。さくらは赤
事現場の密室に閉じ込める。さくらが谷川宅に帰ると、待ち構えていた
したさくらのそれと同じである。放課後、さくらは中島をおびき出し工
翌日︵水曜日・2巻21頁︶。さくらが谷川先生の朝御飯を作り、和
和代に捉えられ、踏切事故と見せかけて殺されそうになるが、谷川がこ
ん坊の貢を伴って先に避難していた。
代にはゴキブリ入りのおかゆを無理矢理たべさせようとする。さくらは
谷川は和代に﹁話し合えばわかる﹂と落ち着かせようとするが、和代
れを阻止する。さくらは谷川に和代を病院に入れるよう命じる。﹁明日
世話をやくさくらに対して、和代は半狂乱の体。谷川が所用で外出した
は半狂乱の体。さくらはこの光景を階段の上で聞いている。谷川は和代
登校し、クラスで昨日のガス漏れ事件を吹聴し和代を悪者にしたてる。
すきに、さくらは和代を、毛皮付きの犬の頭骨︵この日の引っ越し荷物
に﹁そうじゃないんだ。病院のお母さんをお見舞いに行くんだ。貢もお
⋮気づかれないようにうまく病院へつれて行くのよ⋮⋮﹂。
に忍ばせておいたのであろう︶をかぶって威し、果ては首つり自殺に見
いてきたままじゃないか。﹂と言ってタクシーにのせる︵谷川のこのセ
帰宅後、谷川宅では﹁はだ着も取りかえてちょうだい﹂等、谷川先生の
せかけ死ぬようにしむける等、悪質な嫌がらせをする。
̶ 127 ̶
( 26 )
!!
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
ろ う。 そ れ で は 困 る か ら、 波 多 の 途 中 退 場 は た し か に 正 解 で は あ る 。
凡 作 と は 言 わ な い ま で も、 お よ そ 方 向 性 の 違 っ た 作 品 と な っ て い た だ
突き立ててしたり顔で解説を施し、
それで本作が幕となるのであったら、
うした刑事と似た立場である波多あきみが最後のシーンで、人差し指を
三者︶が事態を収拾するこういった解決法はおよそ楳図的ではない。こ
きしてみせている。物語に対して超越的存在︵事態の当事者ではない第
の裏で怪異・幻想は合理性を喰い破っている﹁お百度少女﹂のパターン
霊を呼ぶ少女﹂のパターン、表面的には怪異は合理性に回収されるがそ
ンである︵他の二つは、怪異の原因理由を明示しないファンタジー﹁幽
最終的にすべて日常的な合理性へと収束させている﹁北風物語﹂
のパター
パターン分類でいうなら、怪異・幻想性を十分に肥大させておきながら
﹃ 洗 礼 ﹄ は、 私 が か つ て 貸 本 時 代 の 幻 想 的 少 女 マ ン ガ に 与 え た 三 つ の
同一性が成り立たないことまであばきかねなかったというのは行き過ぎ
その意味でこの指摘はなかなか慧眼かとも思われるが、いずみと松子の
更に異常で非現実的な条件によって構想しておきながら、最終的には心
である︶
。本作﹃洗礼﹄は、女子小学生の異常な行動を、脳移植という
を果たす物語である。もし本作に破綻があるならば、本作のテーマは現
理的問題へと回収することで、虚構の出来事が厳しい現実問題へと帰還
波多あきみは、若草いずみのその後をルポしたくて探し、上原邸にま
実問題としては立ち上がらず、ファンタジー的な絵空事や寓話で終わっ
である。
でたどり着いている。どのような証拠を得てここまでたどり着いたのか
ひなみ
てしまうだろう。そして、この母と娘も救済されることはない。
いずみだと仮定してみよう。二人は別人なのだから、松子といず
松子=いずみは隠遁生活をしているつもりであっても、何かしらの痕跡
の女を探り当てたことになる。次に、松子=いずみだと仮定してみよう。
ずみだと思い込んでいて、かつそれを誰にも話さず秘密にしていただけ
目でさえも丁寧に作品を読むならば消えていくはずである。ただし、そ
作品である。一見破綻や亀裂と思われかねない部分、あるいはその縫い
結論をあらかじめ言っておくなら、本作は文字通りの天衣無縫、奇跡の
あらためて振り出しに戻ろう。本作に破綻はあるのか。これに関する
日次のミス
̶̶
を残している可能性はある。松子といずみをつなぐ客観的根拠が実在す
のためには少々手順を要する。予想されうる破綻の一つ一つをつぶすた
4.破綻はどこにあるのか︵1︶
は全く明示されていないが、何かしらの合理的根拠は必要だろう。まず、
松子
みをつなぐ客観的根拠は存在しない︵あってもそれは虚偽であり、虚偽
る可能性がある、ということである。波多は、その根拠︵それがどんな
めにも、逆に破綻探しのような真似をしなければならない。
トーリーの整合性・合理性について解釈を連ねても意味がないと書いて
さて、小川論文は、テクストの信憑性が低い以上、物語のテーマやス
クスで全六巻の﹃アゲイン﹄は、
実質はほんの四∼五日間の出来事であり、
に日次の設定をかなり綿密に行っている。例えば、少年サンデーコミッ
こう。それは日次設定のミスである。楳図かずおは作品を構成するさい
まず最初に、最も決定的と思われる﹃洗礼﹄の破綻を私が指摘してお
ものであるかは特に問題ではない︶に基づいて上原邸にたどり着く。ど
。証明終わり。
いる。私はむしろ逆だと思う。
﹃洗礼﹄こそ、物語のテーマやストーリー
しかも作者はそれを計算づくで描いている。沢田元太郎は破天荒なドタ
ちらの仮定が合理的であるかは明白である
の整合性について、徹底して解釈を連ねるべき作品だと思う。それは、
などと言うのである。ギャグ作品﹃アゲイン﹄の読者で、今日が若返っ
バタ騒動を引き起こしていながら自室に戻って﹁きょうで4日目じゃ﹂
ら、という理由からだけではない。
本作が無理矢理で様々な破綻を孕んだ作品だと思われているのは癪だか
6
̶ 128 ̶
( 25 )
5
ならその虚偽性こそあばかれる可能性が高い︶
。波多は、自分が若草い
≠
楳図かずお『洗礼』、その身体と記憶 高橋明彦
べきものとして自存している。テクストの意味の根拠は読み手にしかな
村上医師が若草いずみの生みだした幻想だったという、本作の起源的モ
いずみには、物心つく以前にかかりつけの医師がいた。が、死んだか
チーフを楳図が伏線として、それも極めて判明に示した場面である。
続を自存的に持っている。これがテクストの持続性である。このことを
どうかして、この発熱の折には既にいなかった。
﹁昔はよかった。いつ
いとも言えるが、他方、読み手を超えて、テクスト自身が繋がるべき持
認めても良いと私は思っている。ただし、その持続の強度はテクストそ
もかかりつけの先生がそばにおられて﹂とひとりごちる母が︵もちろん
れぞれであろうし、かつどのように繋がるか、その保証はどこにもない
別の︶医者を呼びに行き、一人で蒲団に残されたいずみは、その﹁かか
のだ。これがテクストの姿である。そして、この持続によって︽解釈︾
りつけの先生﹂を心の中に捏造してしまった。幻想だから当然、帰って
が成立している。具体的に言うなら、若草いずみと上原松子が同一人物
来た母親には見えない。テクストの持続を認めず、このシーンをそのよ
であるなら︵または、ないなら︶、その先にどういう地平が開けていく
うに了解しないで﹁一つの解釈にすぎない﹂などと言い始めたら、作品
のかという、読みの有効性だけが問題なのである。
はまったく辻褄の合わないバラバラの断片でしかなくなってしまう。
たしかに﹃洗礼﹄には、繋がらず断片化してしまいかねないような要
連載初回で張られたこの伏線﹁熱を出したこと﹂は、ほぼ一年経った
̶ 129 ̶
( 24 )
小川論文の二点目に移ろう。若草いずみと上原松子との同一性を保証
する媒介として村上医師の存在をあげ、そして、この村上医師の存在の
素︵破綻・亀裂︶があるように思われるかもしれない︵これらについて
て呼び出したこの医師は、いずみに語っていた。﹁あなたは幼いころか
あやふやさを敷衍して、若草いずみと上原松子との同一性はやはり成立
﹁ こ こ で 熱 に う な さ れ る さ く ら の 前 に﹁ か か り つ け の 医 師 ﹂ が 現 わ れ
らスターでした。美しさはあなたの誇りでした。同時に美しさをなくす
はじっくり後述する︶。しかし、ここに関しては、本作冒頭からきちん
るシーンが、異様なのである。いずみの母は︵⋮⋮母のセリフは中略・
日のくることを恐れていました⋮⋮まだ幼い少女だというのに!あなた
しないと説く。が、これは残念ながら明らかに誤読である。小川論文で
高橋⋮⋮︶つまり﹁かかりつけの医師﹂の不在が語られており、母はそ
はおぼえていますか。そのことで熱を出したことがあります。あなたは
と伏線も張られていた。本作冒頭で自暴自棄となるいずみが電話を掛け
の﹁かかりつけの医師﹂の代理の医者を呼びにいった可能性も高い。に
こまやかな神経の持ち主だったのです。﹂
は村上医師について次のように言う。
も関わらず、
そこに﹁かかりつけの医師﹂を名乗る男が現われるのだ。﹁お
﹁おぼえているわ。そして、そのたびに先生になぐさめられた ﹂
た母と入れ違いに。しかもその登場シーンで、コマはぼんやりと周囲が
一九七五年一二月一四日︵五一︶号のこの発熱場面でようやく解かれる
母さんも/あとから/すぐ/帰るからね﹂と述べて、医師を呼びに行っ
滲んでおり、異様な雰囲気を漂わせている。
︵三巻、一七八頁︶そして
のである。要は本シーンを意味不明とするか妄想の起源と読むか、どち
では、途中から刑事が出てきて事件を解決し脳移植が妄想だったと謎解
本作を原作としたVシネマ﹃洗礼﹄︵一九九六年作品・監督・吉原健一︶
あばく人物たり得たが、それゆえにこそ殺されたのだと指摘する。
三点目。ルポライター波多あきみはいずみと松子の同一性の無根拠を
さらに奇妙なのは戻ってきた母の目線である。息を切らして座敷に戻っ
もちろんこのシーンは確かに﹁異様﹂ではある。が、このシーンは、
ていた﹁かかりつけの医師﹂なのか。そして実際にそこにいたのか。﹂
な目線、
表情で描かれているのだ。ここに現われた男は果たして母の言っ
は、あたかもそこにいる﹁かかりつけの医師﹂が見えていないかのよう
らの読みに有効性があるかということである。
!!
てきた母はいずみの熱が下がっているのに驚愕するのだが、そこでの母
4
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
トーリー的同一性の問題である。
礼﹄と本質的に同じ懐疑にさらされている。これらの例は物語内でのス
方こちらは知っているだろう、若草いずみのモデルは、楳図自身の言に
対し﹁初老の女︵実はいずみ︶﹂と同一性を銘記しているのである。他
。原節子が最後に公の場に姿を見せたのが小津
で描かれた中年女性a と、﹁新鮮でおいしそうね。娘が喜ぶわ﹂とにこ
一かどうか。例えば﹁ごめんください。お刺身ください﹂という後ろ姿
七四年時点の現実の原節子
︵本名会田正江︶さんが太った中年女性になっ
載開始が一九七四年。本作の設定と同じくちょうど一〇年の間がある。
安二郎の葬儀の時で、それは一九六四年のことだとして、
﹃洗礼﹄の連
よれば原節子である
やかに笑う顔にアザのある中年女性bとは同一人物であるか︵1巻25
ているかどうかはともかく、そんな多少意地悪な推測をすることも不可
次 の 例 は ど う か。 コ マ A の 登 場 人 物a と、 コ マB の 登 場 人 物b が 同
頁︶
。これは、つねにすでに分節・並存されているコマがどうやって連
柄とて、こうした懐疑を解消するものではなく、小川論文式に言えば﹁一
能ではなかろう。引退した大女優が現実に今いることも、若草いずみと
最後にもう一例、今PCに向かっているこれを書いている私︵あるい
つの解釈﹂に過ぎない。別の解釈の可能性も残されており、だからやは
続性・同一性を成立させているかという、マンガにおける図像的文法的
は、今この文字を読んでいるあなた︶は、次の瞬間にやはりPCに向かっ
り一意に意味が決まるほどにはテクストの信憑性は高くない、という指
上原松子との同一性の保証に寄与している。しかしである。これらの事
ている私︵あるいは、こちらの文字を読んでいるあなた︶と同一かどう
摘は確かに論理的には決して間違っていない、としか言いようが無くな
問題である。
か。これは最も普遍的・根源的な同一性の問題である。
ここまで掘り下げておく必要はないかもしれないが、それでも、その気
同趣である。これを完全なかたちで論駁することは案外難しいのである。
こうした懐疑は、私の人生は実は蝶の夢かもしれないといった懐疑と
る。
になれば疑うことは可能であろう。もしかしたら宇宙は絶えず消滅と出
とは言え、必要なのは一度冷静になってみることであろう。
後二者︵コマ間の同一性、自己の同一性︶は最も極端な例で、問題を
現を繰り返す瞬間の不連続体かも知れない。自己の持続性でさえ、疑い
たしの妄想と同じレベルのものに過ぎない︶
。 し か し だ か ら こ そ、 そ れ
上原松子と若草いずみとが同一人物であるということは、保証・根拠
小川氏はおそらく初出誌﹃少女コミック﹄での連載第三回︵一九七四
はちょうど、我々がなぜ生きるのかという質問に答えることが出来なく
始めれば十分に懐疑の対象となるのである。ある意味、何かが同一性を
年一二月二二日・第五二号︶に併記された﹁今までのお話﹂にすでに次
ても生きているし、自己は自己として持続している、そういうこととパ
が無いと言われればそうかもしれないが、一方で確かな実感として成立
のように書かれていることを知らないだろう。﹁美ぼうの女優・若草い
ラレルだと言っても良い。が、ここでも、そこまで掘り下げる必要はな
保証してくれているわけではないと言っても良く、ただそういうものだ
ずみは、自分がとしとともに醜くなっていくのを悩み、主治医と相談し
いだろう。小川論文のように、読者が共犯者となって根拠無き松子=い
しているのではないだろうか。実感じたいは何の根拠にもならない︵わ
てある決心をします。ある日彼女は女児を出産し、芸能界から姿を消し
ずみという幻想を現実化しているだけだ、と言っても悪くはないが、そ
として進んでいるに過ぎないと言うこともできる。
ます。月日は流れ、かわいい娘と生活する初老の女︵実はいずみ︶は、
疑い出せばキリがないものである反面で、テクストはそもそも繋がる
れを言うならあらゆるフィクションがそうである。
﹂。初出誌は、連載三回目にしてすでに読者に
̶ 130 ̶
( 23 )
3
娘のさくらに異常な愛情を示します。ある夜、野良犬にダンゴを食べさ
せる母を見たさくらは
!!
楳図かずお『洗礼』、その身体と記憶 高橋明彦
なことだ、という反論は正しい。が、それを言う前になされるべきは、
と思って本作を読んでいる。
脳を移植して⋮⋮、ふつうの読者はそう作品にはっきり銘記されている
しかし、小川論文は上原松子の顔のアザと若草いずみの顔のアザも、
それら言われる破綻はほんとうに破綻なのか、その検証である。
。この論文は﹃洗
二人の同一性を保証するものではない、と言う。指摘の二点目でも考察
これについて、
小川隆氏の論文を参考にしてみたい
礼﹄論として書かれた殆ど唯一の学術論文である。まず注目すべきは論
するが、村上医師の存在もこの同一性の根拠にはならないと言う。まし
文の最終的立論
刺激的な指摘である。なるほど、言われてみればそんな気もしてくる。
証が作中のどこにも与えられていない、と指摘している。これはかなり
まずは一点目。小川論文では、上原松子が若草いずみであるという保
あきみが殺された理由は何か。この三点である。一つづつ見ていこう。
ポスターパネルと並んで見せ﹁そしてこれがおかあさんなんだよ﹂と宣
る可能性が潜んでいる。上原松子自身がドレスアップして若草いずみの
返しを前にしては、テクスト上のあらゆる言説の正しさの根拠が奪われ
り、かつなされたと思っていた脳移植が実は妄想だったというどんでん
上原松子は娘に対してウソをついて優しい母親を演じてきただけであ
なわち、上原松子は若草いずみか。村上医師はどのような存在か。波多
確かに、初読で、魚屋にお刺身を買いにきた中年女性をかつての大女
言しても、これとて事実を述べているのかどうかはもはや分らない、と
小川論文の指摘は極めて根源的な問題に触れている。たしかに、人物
優若草いずみだとここですぐに断定してしまうのは︵たとえ顔のアザが
があって⋮⋮﹂と言う。表札の文字を見過ごす読者はいるかも知れない
の同一性を保証するものは、あらゆる点でどこにもない。
﹃ねこ目小僧﹄
言えば言える︵尤も、ここはヴィジュアル的に似ていないことを強調す
が、
﹁生まれつき﹂というセリフを見過ごす読者は少ないだろう。若草
﹁ み に く い 悪 魔 ﹂ で 言 う な ら、 幼 少 年 期 の 悪 魔 や そ の 父 親 と 数 年 後 に 猫
ヒントになってはいても︶早とちりというものである。この段階では未
と上原とは異なるし、若草いずみのアザは生まれつきではなく、この中
目小僧が出会う父子とは同一なのか、と問うことも不可能ではなかろう。
る場面だが︶。すなわち、﹁松子が自分を若草いずみであると思い込んで
年女性のそれが生まれつきならば、これらの齟齬ゆえ二人は結びつかな
この同一性を保証する要素として、悪魔があこがれた女性︵優子︶の存在、
だ他の展開も十分可能である。また、中年女性はこの後﹁上原﹂と表札
い。そもそも本作は、このアザがあって異常な言動に走るこの中年女性
父親の額の傷、悪魔当人の︵醜い顔で描かれた︶図像などが作品上に示
しまっているだけ、という︿解釈﹀の可能性すらある。
﹂︵小川論文︶。
はやはりあの若草いずみであり、娘への脳移植を計画していた、と徐々
されている。が、それは確かな保証となりうるか︵実際、手術後の悪魔
の芸名で、上原松子が本名である︵若草いずみの母親も、我が子を松子
の関係は︵一応︶完全に理解される。すなわち、若草いずみとは大女優
また本作を再読する時には、
︵脳移植が無かったことも含め︶これら
れるが、本当に同じ亀なのか。亀は、あなたに助けてもらった亀ですと
こんな例はどうか。昔話﹁浦島太郎﹂では太郎が助けた亀が再び現わ
るのは優子当人ではなく、優子にこだわりつづける悪魔の記憶である︶
。
かという点は確かに疑うことができる。ただし、悪魔の同一性を保証す
が見いだした﹁優子﹂は、ほんとうに少年期に憧れた﹁優子﹂当人なの
と呼んでいる︶。若草いずみは私生児として女児を産んだ後、あっさり
言うが、大きさも違う。自身の発言が必ずしも論拠とならない点では﹃洗
なっているのである。
に段階的に分っていき、これに伴い二人の同一性が判明していく作りに
のある家に帰っていき、娘に対して﹁生まれたときから顔にこんなアザ
てや名前の一致など何の根拠にもなるまい。
の 前 提 条 件 を な し て い る 次 の 三 点 の 指 摘 で あ る。 す
1
芸能界を引退した、と。産んだ女児が上原さくらであり、そこへ自分の
̶ 131 ̶
( 22 )
2
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
生まれつき容姿の醜い子供がおり、性格もねじけていて、まわりから
言動︵﹃洗礼﹄では鶏のピコにつつかれ絞め殺してしまう等︶などにお
さて、脳移植等の身体改造をめぐるこれらの作品群において、作品的
いて別人のように感じられるが、身体的同一性︵﹃ねこ目小僧﹄では背
士 が 連 れ た 男 は ま る で 獣 の よ う に 俊 敏 か つ 獰 猛 で あ る が、 そ れ こ そ 悪
主題となっているのは精神と身体である。そして、この精神と身体とに
﹁悪魔﹂と呼ばれていた。その悪魔を溺愛している資産家の父親は、﹁妖
魔の父であった。父は、我が子の手術のための実験台として、妖怪博士
記憶︵過去︶と行動︵現在︶という対比構造を重ね描くことが出来ると
中のほくろ、﹃洗礼﹄では指紋︶によって疑いが一度は晴れてしまうと
に自らの身体に豹の脳を移植させていた。この後、悪魔は、自動車事故
思われる。また、
﹁みにくい悪魔﹂では二元的対立から脳︵意識︶から
怪博士﹂と名乗る科学者に委ねて、醜い我が子を美しくしてもらおうと
で寝たきりとなっているハンサムな青年を拉致して、妖怪博士の手術に
身体への影響が描かれている。移植されることによって、この影響を顕
いう、巧みな進行である。
よって脳を移植する。成功したかに見えたが、かつて憧れて振られた女
在化させるのである。
考える。数年が経ち、猫目小僧︵本作主人公︶は妖怪博士と出会う。博
性に恨みを晴らそうとした矢先、また元の醜い顔付きに戻ってしまう。
まず脳移植である。父親には動物の豹の脳が移植され、息子の悪魔の脳
本作には、すでに﹃洗礼﹄と似た状況がいくつか見られる。もちろん
ることではなく、そのまた一歩先を行くことであろう。すなわち脳移植
時、作家楳図の次の展開として期待されるのは、もはや脳移植の話を作
チ云々という問題であった。こうした身体改造の物語の積み重ねを見る
しかし、それはさておき本題に戻るなら、今確認しておくべきは夢オ
はハンサムな青年に移植されている。しかし、父親の顔には豹のごとき
ではなかった話である。ならば、この系譜の中で﹃洗礼﹄を考える時、
︵以上、梗概︶
斑点が表われ、それと軌を一にして、ハンサムな青年の顔も元の醜い悪
それが夢オチなのかどうなのかという議論は雲散霧消するだろう。
と聞き、中学時代の先生に道で挨拶されても無視し、かわいがっていた
点が目に付く。そして、死んだ母親の写真を見て﹁その女はだれだ?﹂
て乱暴になったこと、ご飯の食べ方が下品になっていること等、不審な
て帰ってくる。弟はそれを喜ぶものの、その言葉遣いが以前と全く違っ
後しばらくして冷静になってみるなら﹁あそこがおかしい﹂﹁ここもお
される面が強く、読んでいる最中は作品に没入してしまう。しかし、読
があるといった指摘である。楳図作品は独特のグルーブ感によって読ま
は﹁無理矢理な設定だ﹂といった批判や揶揄、ストーリーに破綻や亀裂
夢オチという批判に対しては決着がついたとして、次に予想されるの
3.ストーリーの破綻や亀裂
魔のそれに変容する。﹃洗礼﹄では妄想であるものの、精神が身体へ影
響を及ぼす点でこれと共通すると言って良い。
なお、演出面での共通点もあげておこう。意織も無く死を待つばかり
隣家の愛犬スージーにはげしく吠えかけられて逆上しスージーに瀕死の
かしい﹂などと、読んでいた時の衝撃を徐々に忘れていき、その破綻を
だった青年が拉致され脳移植を受けた後、頭に包帯を巻いて自宅に歩い
怪我を負わせる。にも関わらず、
銭湯で﹁背中のほくろもちゃんとある﹂
ことさらに言い出すのが読者ではないのか。しかも、時には読者の側の
多少の破綻はあったとしても、そこに立ち上がるテーマの前には些末
理解力不足で破綻のレッテルが貼られてしまうことさえあるだろう。
と弟は、兄の同一性を認めざるを得ない。
これは、
﹃洗礼﹄において、脳移植の後に登校したさくらを良子さん
や中島さんら同級生が不審に思うシーケンスと近い。すなわち、雰囲気・
̶ 132 ̶
( 21 )
楳図かずお『洗礼』、その身体と記憶 高橋明彦
礼﹄の相対的な位置づけに変化はないからだ。
ゆえに、
﹃洗礼﹄は甘んじて夢オチの非難を積極的に受け止めれば良い。
かく︶のほうが、物語的に解決が困難な設定なのではなかろうか、と。
性人格障害︵いわゆる多重人格。さくらがそれに当たるかどうかはとも
ゆえにサイコホラーたりえているのだ、と。そして、脳移植よりも解離
妄想であるが
る。五郎は寝たきりのとしおに会い気の毒に思うが、自身の身体にとし
て身体がめちゃくちゃになった、としおという息子がいることを告白す
したのかと問う五郎少年に対して博士は、実験中の事故により頭を残し
る。博士はこうした実験に成功していたのであった。なぜそんな研究を
じたいが藻呂尾博士の創造したもので、研究所は合成動物であふれてい
れて行かれ、見事な手術を受けて完全に回復する。また、その合成動物
者とその助手の覆面男の二人組に救われ、博士の研究所のある孤島に連
実際、この時期すなわち一九七〇年代中葉にサイコホラーが書かれてい
おの頭部を繋げようと博士が考えていることを悟る。研究所を脱出しよ
次のように応じることもできる。
﹃洗礼﹄は、夢オチ
たことは、それだけで十分に価値があるだろう。が、もちろんそれだけ
改造に関わる作品群が先にあり、その後に脳移植は無かった﹃洗礼﹄が
楳図かずおの作家的キャリアを見直してみるならば、脳移植など身体
しており頭部と身体とを別々に切り離していたのだ。再び五郎はつかま
くその身体は博士のものであったことが分る。博士は、自ら人体実験を
の身体は機械仕掛けのロボットで、他方、覆面男は覆面の下に頭部が無
うとする五郎を、博士と助手の覆面男が追いかける。この場面で、博士
描かれているのである。このことは﹃洗礼﹄を論じる際にまず確認され
り施術されるそうになるが、その時に火事が起こり、としおが焼け死ん
ではない。
ておいてしかるべきことがらであり、もっと強調されて良いと思われる。
でしまう、つまり五郎を手術する意味がなくなってしまう。しかし、と
しおが死んだショックからか、博士の身体は頭部に対して反乱を起こす。
﹃洗礼﹄論に入っていく前段階として、このことを具体的に確認してお
こうと思う次第である。
頭部は五郎を逃がすが、首なしの身体が五郎を追いかける。間一髪で、
首なしの身体は海に呑込まれ、五郎は助かる。︵以上、梗概︶
ロ︶があり、ついで楳図が活動の舞台を大手出版社による少年誌に移し
怖人間・残虐の一夜﹄
︵一九六三年作品、
﹃残酷物語﹄二号所収・佐藤プ
脳移植や身体改造の系譜に連なる作品群には、まず貸本作家時代の﹃恐
こに脳と身体というあざやかな二元的対立が有る。息子としおの回復を
行動だけが執念になって⋮、くりかえされるのか﹂と悟るのである。こ
まった。これを博士自身は﹁そうか。わしの意志とはべつに、いつもの
頭で考えたとおりに動くのじゃ﹂と言っていたが、制御不能に陥ってし
2.身体改造の系譜
てからも、﹃半魚人﹄﹃ひびわれ人間﹄﹃首なし男﹄などがある。これら
願う頭部は記憶として過去を有するが、身体は反復・習慣としての行動
さて、藻呂尾博士の頭部は、自身の身体について﹁その体はわたしの
はSF小説に基づくモンスター映画のブームと連動した作品で、半魚人、
という現在あるいは未来しか有さない存在なのである。
年画報﹄一九六八年二∼五月号、連載四回︶が特徴的である。
く点で、特に﹃ねこ目小僧﹄シリーズ第二作の﹁みにくい悪魔﹂
︵初出は﹃少
から、脳︵意識︶が身体に与える影響という側面へ主題がシフトしてい
この身体改造の系譜においては、身体と脳︵意識︶という二元的対立
フランケンシュタイン、ドクターモローなどが描かれている。このうち
﹃首なし男﹄を取り上げてみよう。これは月刊誌﹃少年画報﹄︵一九六六
年七月号︶に読み切り短編として掲載された。
ある夜、主人公の五郎少年はライオンの頭部とワニの身体をもつ奇怪
な合成動物に襲われ重傷を負うが、藻呂尾︵もろお︶博士と名乗る科学
̶ 133 ̶
( 20 )
≒
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
楳図かずお
﹃ 洗礼 ﹄、その身体と記憶
夢オチということ
̶̶
高 橋 明 彦
あまりに作品を読めていない読者である、と。
妄想も夢の一種だと言えなくもないからである。妄想が現実的な合理性
1 .はじめに
﹁あれって、夢オチだよね﹂と楳図かずお﹃洗礼﹄を評する人がいる
を超えているという点では、まさしく夢と似たり寄ったりである。また、
とは言え、この応対はまだ少し不十分なところがあるだろう。まず、
のではないだろうか。脳移植は無かったからである。もちろん、ここで
妄想や病気がもし完治するならば、妄想が作り出した﹁現実﹂からも解
ただし、そうなるとフィクションはそもそも本来的に夢オチである。
いう﹁夢オチ﹂には多分に批判的ニュアンスがこめられている。夢オチ
をそそっておきながら、その解決場面においてオールマイティな合理化
本を閉じれば元通りの現実に帰還できると考えている読者は多いだろ
放されるだろう、まさに夢から覚めるように。
に頼る手法だからである。それが夢であればいくらでも不可思議な出来
う。だから、次にこういう応じ方も可能である。すなわち、夢オチだと
とは、現実にありえないような不可思議な出来事を起こして読者の興味
事を起こすことができる。実は現実ではありませんでしたと言われて、
いう批判は虚構それ自体が背負う十字架のようなものであって、取り立
てて﹃洗礼﹄のみが持つ課題ではない、と。本を閉じれば終わってしま
読者が不満を感じないはずがない。
本作へのこうした批判に対して、たとえば次のように応じることがで
たものとして現実と関わっており、だからこれは夢オチではない、と。
その生は今話題にしたような意味での﹁夢﹂ではない。まさしくそうし
てしまう上原さくらはそうした過酷な現実を生きていたのであるから、
﹃洗礼﹄において、脳移植は無かったにもかかわらず母親になりきっ
ぬぐい去れない。問題をずらしただけにすぎないからだ。つまりは、
フィ
しい応対だと思うが、とは言え、しかし、これもやはり不十分な感じが
題なのだ、と。私自身、これはフィクションという問題を考える際に正
くらという存在を、われわれ読者がどう受け止めるか、それが本質的問
できるか、問われているのはその点なのだ。こうした経験をした上原さ
うフィクションが、しかし他方で読者の現実とどれだけ切り結ぶことが
加えて言えば、作中に描かれた上原さくらという存在それ自体に目を向
クション総体への擁護にはなりえても、フィクション総体における﹃洗
[キーワード]
漫画(まんが)
きるだろう。
けず、単に結末部分のみを取り上げてそうした評価を下してしまうのは、
̶ 134 ̶
( 19 )
ジョヴァンニ・モレッリ『イタリア絵画論−ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館』翻訳(9)−ロンバルディア派(アンブロージォ・デ・プレーディスからソフォニズバ・アングイッソーラまで) 上田恒夫
︵
︵
︵
︵
︵
注 目 し た の は そ の た め で あ り、 貴 族 的・ 民 主 主 義 的 リ ベ ラ リ ズ ム を 信 奉 す る モ
レッリの政治的・社会的理念が、そこに投影されている。美術史学におけるフェ
ミ ニ ズ ム の 盛 ん な 今 日、 欧 米 で 充 実 し た ソ フ ォ ニ ズ バ 研 究 が 相 次 い で 刊 行 さ
れ、我が国でも若桑みどりが﹃女性画家列伝﹄
︵岩波新書、一九八五年︶のなか
でがソフォニズバに言及している。なお訳者が目に触れた最近のソフォニズバ
研究に次のものがある。 Ilya Sandra Perlingieri, 6RIRQLVED$QJXLVVROD7KH¿UVW
great Woman Artist of the Renaissance, New York, 1992; Silvia Ferino-Pagden/
Maria Kusche, Sofonisba Anguissola. A Renaissance Woman, Washington, D.C.,
︵
︵
︵
︶ ア ン ダ ー ソ ン に よ れ ば、 一 八 七 七 年 に マ ル コ・ ミ ン ゲ ッ テ ィ は 十 五・十 六 世 紀
Marco Minghetti, Le Donne italiane
︶に示唆されたと思
Zeitschrift für Bildende Kunst, 1875, pp. 207-10
︶。この雑誌論文にはソフォニズバ・アン
Anderson, 1991, p.456, n. 166
︶カテリーナ・デイ・ヴィグリ︵一四一三∼一四九一︶はフランチェスコ会の尼僧。
ている。
グイッソーラの自画像︵一五五四年の年紀在︶の銅版画による複製が掲げられ
われる︵
リの著述︵
ミ ン ゲ ッ テ ィ は、 こ れ よ り 二 年 前 の 一 八 七 五 年 に す で に 刊 行 さ れ て い た モ レ ッ
︶、
nelle belle Arti al Secolo XV e XVI, Nuova Antologia, XXXV, 1877, pp. 5-21.
の女流画家について論文を書いているが︵
61
1992.
︵うえだ・つねお 芸術学/イタリア美術史︶
︵二〇〇九年一〇月三〇日受理︶
and the last one from I. Sandra Perlingieri, Sofonisba Anguissola, New York,
Morelli De la Peinture italienne. Edition établie par J. Anderson, Paris, 1991,
︵ nos. 1-6
︶ are taken from Giovanni
PHOTO CREDITS: five illustrarions
︶自画像一点と女性像二点であるが、作者について異論がある。
ニ圏の画家の作とされる。
と年記︵一四五六年︶があるが、後世の筆とされ、今日ではジョヴァンニ・ベリー
聖オルソラを描いたアッカデミア美術館のこの作品にデイ・ヴィグリのサイン
62
1995; Paola Tinagli, Woman in Italian Renaissance Art. Gender, Representation
and Identity, Manchester University Press, 1997.
頁ではソフ ォニズバの妹ルチーアに帰している。今日この女性像はソ
︶ こ こ で モ レ ッ リ は 小 さ な 女 性 像 を ソ フ ォ ニ ズ バ・ ア ン グ イ ッ ソ ー ラ に 帰 し て い
る が、
フ ォ ニ ズ バ に 帰 さ れ、 ボ ル ゲ ー ゼ 美 術 館 の カ タ ロ グ で も ソ フ ォ ニ ズ バ に よ る ル
チ ー ア の 肖 像 と さ れ て い る。 ボ ル ゲ ー ゼ 美 術 館 の 聖 カ タ リ ナ と し て の 尼 僧 を 描
く 肖 像 画 も 今 日 ソ フ ォ ニ ズ バ に 帰 さ れ、 像 主 は ア ン グ イ ッ ソ ー ラ の 妹 の ひ と り
エーレナだとされる。
頁︶。この絵をソフォニズバに帰したのはモレッリが
︶ソフォニズバの絵の師匠であるベルナルディーノ・カンピがソフォニズバの肖
像を描いている図︵本稿
最初である。
Filippo Baldinucci, Notizie de’ Professori del disegno
︶ソフォニズバの妹ルチーアについてバルディヌッチはソフォニズバよりも優れ
た 画 家 と 評 価 し て い る︵
︶
。
da Cimabue in qua, Firenze, 1845-47, ristampa, Firenze, 1974-75
︶現在クレモナ美術館所蔵。
̶ 135 ̶
( 18 )
7
︶現在ベルガモのアッカデミア・カッラーラ所蔵。
136
63
56
57
58
59
60
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︵
︵
︵
︵
︶ 今日所在不明。
のソフォニズバを訪れ、
﹁九十六歳﹂のソフォニズバを描いている。このスケッ
チはヴァン・デイクの﹃イタリア・スケッチ﹄に収められる︵図版⑥。なお現
在大英博物館所蔵の﹃イタリア・スケッチ﹄はモレッリの友人ハーバート・クッ
ク旧蔵︶
。 た だ し ソ フ ォ ニ ズ バ 自 身 の い う こ の 歳 は 疑 問 視 さ れ る 。 ソフ ォ ニ ズ バ
︶ 聖 母 子 像 を フ ラ ン チ ェ ス コ・ フ ラ ン チ ャ の 追 随 者 の 作 と す る モ レ ッ リ の 判 断 は
認められるが、聖アントニウス︵実は聖フランチェスコ︶の絵は今日フランチェ
は師匠のガッディを通してパルマとマントヴァの絵画の影響を受けたが、ジェ
ソフォニズバは六人姉妹の長姉であり、姉妹のうちルチーア、エウローパ、エー
ノヴァ時代にはルーカ・カンビアーゾの影響があることも近年明らかになった。
スコ・フランチャの真作と認められる。
︶ 今日この二点ともフランチェスコ・フランチャ作とは認められない。
も参照︶。ヴァザーリはボロー
レナもソフォニズバに続いて画家となったが、画家としてはソフォニズバに次
いでルチーアがすぐれた︵ルチーアについて訳注
ニャの女性彫刻家プロペルツィア・デ・ロッシの伝記の終わりでソフォニズバ
︶マリアの神殿奉献と聖人たちを描く。今日ジャコモ・フランチャがジュリオ・
フランチャと協力して制作したとされる。ただし両脇の人物たちと建築はモレッ
の域をこえて女性画家として生涯をまっとうした。モレッリがソフォニズバに
はなかった。つまり富裕な家系に生まれたソフォニズバは、教養としての絵画
性画家の多くは父親が画家だったが、ソフォニズバの父親アミルカレは画家で
りくわしくソフォニズバとルチーアを取り上げている。十六世紀イタリアの女
を讃え、またベンベヌート・ガローファロとジローラモ・カルピの伝記で、よ
58
リの指摘するとおり後の時代の画家による。
︵ ︶ 今日ジローラモ・マルケージ・ダ・コチニョーラに帰される。
︶ 今日モレッリの判断は異論なく認められる。
︶︽聖母子と二天使︾
。今日フランチェスコ・フランチャの真作と認められる。
︶ ビアンキーニ家の名とフランチャの名を記した銘文がある。
︶一四九四年の︽フェリチーニの聖母︾
。
︶ ソ フ ォ ニ ズ バ ・ ア ン グ イ ッ ソ ー ラ︵ 一 五 三 一 ∼ 三 五 年 に 生 ま れ 一 六 二 五 年 没 ︶
ソフォニズバ・アングイッソーラ筆 《ソフォニズバを描くベルナルディーノ・カンピ》
1555 年頃 シエナ国立絵画館
︵
︵
︵
︵
︵
は ク レ モ ナ の 名 家 に 生 ま れ た。 父 親 ア ミ ル カ レ の す す め で ク レ モ ナ の 画 家 ベ
ル ナ ル デ ィ ー ノ・ カ ン ピ に、 次 い で ベ ル ナ ル デ ィ ー ノ・ ガ ッ テ ィ に 学 ん だ。
一 五 五 九 年 に ア ル バ 公 と セ ッ サ 公︵ カ ン ピ の パ ト ロ ン ︶ の 仲 介 で マ ド リ ー ド の
宮廷に行き、フェリペ二世の幼女イザベラの侍女を命ぜられ、肖像画家として
活動。一五七一年頃マドリードでファブリツィオ・デ・モンカダと結婚しパレ
ルモに定住。その死後、一五八四年ジェノヴァの貴族オラーツィオ・ロメッリー
ノと結婚しジェノヴァに移住。一六二四年アントーン・ヴァン・デイクが老境
̶ 136 ̶
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ジョヴァンニ・モレッリ『イタリア絵画論−ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館』翻訳(9)−ロンバルディア派(アンブロージォ・デ・プレーディスからソフォニズバ・アングイッソーラまで) 上田恒夫
︵
︵
︵
︵
︶ベルナルディーノ・デ・コンティの署名のある初期の作品とされる。
︶ベルガモのアッカデミア・カッラーラ所蔵。デ・コンティの作と認められる。
︶ベルガモのアッカデミア・カッラーラ所蔵。レオナルド派の作とされる。
︶ポルディ=ペッツォーリ美術館ではロンバルディア派の作とする。
︶ 五十嵐嘉晴氏︵本学名誉教授︶によれば、この句はトマス・アキナスの﹃神
学 大 全 ﹄ に 由 来 す る と 思 わ れ る が、 後 世 人 口 に 膾 炙 さ れ る う ち に 若 干 表 現 に 変
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︶この絵も今日マエストロ・デラ・パーラ・スフォルツェスカに帰される。
︶今日レオナルド筆とする判断が大勢である。
︶今日はレオナルド圏の画家に帰される。
︶今日レオナルド圏のミラノの画家に帰される。
︶クライスト・チャーチ・カレッジのデッサン︽若い女性の頭部︾かと思われる。
今日ボルトラッフィオに帰される。
︶フランチェスコ・ディ・マルコ・ライボリーニ、通称フランチャ︵一四五○∼
一五一七︶はボローニャの画家。父親のマルコ・ライボリーニは木彫家・木版
画家。若い頃フランチェスコ・フランチャはボローニャ第一の金工家として名
高く、メダル彫刻とニエッロ︵黒金︶も手がけたが︵イタリック体は彼の創案
によるとされる︶、一四八三年画家ロレンツォ・コスタがボローニャに来たさい、
この画家と交友を深め、これを機に画家に転向したと思われる。ヴァザーリに
よればフランチャはボローニャで神のごとく賞賛されたというが、ボローニャ
はフィレンツェとローマへの対抗意識の強い土地であり、郷土愛からするこの
ような過ぎた高評は多少差し引かねばならない。フランチャの主要作品はボロー
ニャの教会とピナコテーカにある。モレッリはとくに作家判定のあいまいなま
まにされてきた祭壇画と額縁絵を中心に検討する必要に迫られて本書を執筆し
ているので、フランチャを扱うこの節においても、ボローニャにあるフランチャ
の壁画を含む主要作品を網羅しているわけではなく、他方、検討された作品は
この節に見られるように各地の美術館の所蔵品に広がっている。
︵ ︶ 異論なくフランチェスコ・フランチャの真作とされる。
︵
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43
化が加わり、モレッリの引用もトマスの句と異なったものになっている。トマ
スのラテン語テキストに当られ検討していただいた同氏に感謝いたします。
︶パーラ・スフォルツェスカの名称で知られる祭壇画。今日、逸名のマエストロ・
参照。
︶今日マエストロ・デラ・パーラ・スフォルツェスカに帰される。
︶︽バラ園の聖母子︾は今日広くフランチャ作と認められる。
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︵
︵
デラ・パーラ・スフォルツェスカの作とされ、ヴィンチェンツォ・フォッパの
ほ か チ ェ ル ト ー ザ・ デ ィ・ パ ヴ ィ ー ア の ベ ル ゴ ニ ョ ー ネ の 作 と の 関 連 が 指 摘 さ
れる。
参照︶。
31
︶ベルナルディーノ・デ・コンティ作とするモレッリの判定は認めがたい。訳注
︶無髭の男の横向き像。モレッリの判断は認められる。
︶ブレーラ美術館のパーラ・スフォルツェスカ︵訳注
︶モレッリの作家判定は認められる。この絵は後に売却された。
︵ ︶カテリーナ・トリブルツィオの肖像︵一五○五年︶。
︵
︵
︵
︵
︵
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bis
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金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
︵
︵
ドヴィーコはインスブルックに逃亡した。
参照。
︶ この青年像は一九一四年ブレーラ美術館が購入した。
︶ 訳注
れをアンブロージォ・デ・プレーディスに帰したボーデの判断はモレッリを含
めて異論なく受け入れられている。以下のこの異例に長い注においてモレッリ
は、この女性像を初めて公にしアンブロージォ・デ・プレーディスに帰したボー
デの功績は事実として認めつつ、異常なほどのボーデ批判を展開する。その論
点はこの女性像をめぐる判断の是非から離れて、
ボーデ自身の﹁眼﹂に向けられ、
とくにアンブロジアーナ美術館の女性像︵図版②︶をボーデがレオナルド作と
した点に照準があてられる。つまり、アンブロージォ・デ・プレーディスを扱っ
た こ の 節 に お い て、 モ レ ッ リ の 主 眼 で あ っ た レ オ ナ ル ド 作 品 と ロ ン バ ル デ ィ ア
世紀にかけてもっぱら使われたが、十九世紀になるとほとんど使用されなくなっ
して青色顔料にしたもの。十五世紀末から使用されはじめ、十六世紀から十八
旧蔵︵現在ルーヴル美術館所蔵︶の女性像について、このバリアントはモレッ
女性像の二つのバリアントのひとつである旧アルコナーティ=ヴィスコンティ
たと言える。アンダーソン︵ Anderson, 1991, p.452, n. 126
︶は、ワシントンの
の画家たちとの識別の問題が、徹底的なボーデ批判の形をとってあらわになっ
た。寺田栄次郎﹃報告書 昔の顔料の研究﹄︵平成八年、金沢美術工芸大学美術
︶ ピ ッ テ ィ 美 術 館 の︽ ヴ ェ ー ル の 女 ︾ に つ い て モ レ ッ リ は、 本 書 の﹁ 基 本 理 念 と
らだちを、モレッリのこの長い注に感じ取っている。
にアンブロージォ・デ・プレーディスを発見したモレッリのボーデに対するい
ジォ・デ・プレーディスの作品リストに挙げていないことに疑問を呈し、最初
リ自身が購入した作品︵一八六五年八月三○日付モルテーニからモレッリ宛の
参照。
工芸研究所︶参照。なおイタリアではズマルトと発音するが、日本ではスマル
︵
手 紙 に も と づ く ︶ で あ る に も か か わ ら ず、 モ レ ッ リ が こ れ を 本 文 の ア ン ブ ロ ー
︶訳注
︶ こ の デ ッ サ ン の 作 者 に つ い て、 作 者 を 皇 帝 マ ク シ ミ リ ア ン の 造 幣 局 で 働 い て い
たマントヴァのジャン・マルコ・カヴァッリとする人もいるが、今日はアンブロー
ジォ・デ・プレーディスの作と認められる。
︶今日これに同定される作品は知られない。
︶今日ベルガモのアッカデミア・カッラーラにあり、アッカデミアではフェッラー
ラ派の作としている。
︶ モ レ ッ リ 以 前 は デ ュ ー ラ ー 作 と さ れ た。 モ レ ッ リ の 判 定 に 一 部 異 論 が あ る が、
ウフィツィ美術館ではアンブロージォ・デ・プレーディス作とする。
︶この女性像︵図版④︶は今日ワシントンのナショナル・ギャラリーにある。こ
︵
トと呼び習わしている。
︶ スマルトは、透明ガラスに着色成分として酸化コバルトを溶かし、これを粉砕
︶ 作者をボルトラッフィォないしマルコ・ドッジョーノとする説もある。
6
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︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︶ベルナルディーノ・デ︵デイ︶
・コンティは本節に言われるようにパヴィーアの
第四十六号、二○○二年、八四頁︶。
世のボローニャ派によるコピーだと語らせている︵本訳﹃金沢美術工芸大学紀要﹄
方法﹂において﹁美術学校の教授﹂にボーデの説を代弁させて、この作品を後
25
の独自の方法たる細部の筆法を基準点にして作家判定を試みていることにある。
きは、まだこの画家の作品が十分出そろっていなかった時点で、モレッリがそ
うように必ずしも大画家とは言えないベルナルディーノを扱った本節で見るべ
過ごし、レオナルドの影響のもとで肖像画家として名をなした。モレッリのい
生まれとされる。一四五○頃生まれ、一五二五頃没。生涯のほとんどをミラノで
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ジョヴァンニ・モレッリ『イタリア絵画論−ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館』翻訳(9)−ロンバルディア派(アンブロージォ・デ・プレーディスからソフォニズバ・アングイッソーラまで) 上田恒夫
訳注
︵
︵
︵
︵
︵
︶ 現 在 ベ ル ガ モ の ア ッ カ デ ミ ア・ カ ッ ラ ー ラ 所 蔵。 モ レ ッ リ は こ の 絵 を 一 八 五 六
︶現在ミラノのトリブルツィアーナ図書館蔵。マッシミリアーノ・スフォルツァ
4
︶現在フィラデルフィアのジョン・G・ジョンソン・コレクションにある。
3
︶ 像 主 を ジ ョ ヴ ァ ン ニ・ フ ラ ン チ ェ ス コ・ ブ リ ー ヴ ィ オ と し た 点 は 認 め ら れ て い
2
︶神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン一世の肖像︵ウィーン、美術史美術館︶の
1
の注に負う。その他は訳者[上田]の注である。
Anderson, 1991
* 以 下 の 訳 注 に お い て、 作 品 の 所 在、 今 日 に お け る 作 家 判 定 な ど 作 品 に か か る
項目は主に
︵
︶
︽金細工師︾はリドルフォ・ギルランダイォ作と認められる。
5
サインをアンブロージォ・デ・プレーディスと認めたのはモレッリが最初であり、
これをもとにモレッリは以下の一連のアンブロージォの作品リストをつくった。
マクシミリアン︵一四五九∼一五一九︶はハプスブルグ家出身。
るが、古くから作者はヴィンチェンツォ・フォッパとされる。
︵一四九三∼一五三○︶はミラノ公。ルドヴィーコ・スフォルツァ︵イル・モー
ロ︶の息子。
年ミラノのボッツォッティ家から購入した。今日アンブロージォ・デ・プレーディ
スに帰されるが、像主はミラノ公とは認められない。
ツォ・マリーア・スフォルツァの娘で、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ︵イ
ル・モーロ︶の姪。一四九四年神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアンと結婚。
︶ アンブロジアーナ美術館の女性像︵図版②︶はアンブロージォ・デ・プレーディ
︵
︶ ナショナル・ギャラリー︵ロンドン︶の︽岩窟の聖母︾についてはモレッリも
ス作と認められるが、描かれた像主については未決である。
︵
︵
︵
︵
︵
含めて、コピーと考える説があった。今日レオナルドの真作と認められ、同美
術館所蔵のサイドパネル二面はデ・プレーディス兄弟︵エヴァンジェリスタと
アンブロージォ︶に帰される。
︶ こ こ で 問 題 の エ ル ミ タ ー ジ ュ 美 術 館 の︽ リ ッ タ の 聖 母 子 ︾ は 今 日 レ オ ナ ル ド の
真作とは認められていないが、ベルナルディーノ・デ・コンティ筆とするモレッ
リの判断は疑問である。
︶ モレッリの判定は認められる。
︶ 今日ロンドンのナショナル・ギャラリーにある。美術史美術館︵ウィーン︶の
皇帝マクシミリアン一世の肖像︵図版①︶以外にアンブロージォ・デ・プレーディ
スのサインのあるのはこのアルキントの肖像だけである。一部にモレッリの判
定に疑義がもたれるが、おおむねアンブロージォ・デ・プレーディスの作と認
められ、この二点の肖像画の間の様式の相違は作者の違いではなく、制作時期
の違いによるとされる。
︶ ルドヴィーコ・スフォルツァ︵イル・モーロ︶
︵一四五二∼一五八○︶
。フランチェ
スコ・マリーア・スフォルツァの子。一四七六年甥のジャン・ガレアッツォ・スフォ
ルツァの摂政。以下、モレッリの記述にかかわる事項を示す。一四九二年対ヴェ
ネ ツ ィ ア 政 策 な ど か ら オ ー ス ト リ ア 皇 帝 マ ク シ ミ リ ア ン 一 世 と の 関 係 を 強 め、
一四九四年マクシミリアンはルドヴィーコをミラノ公に任じた。同年ジャン・
ガレアッツォが亡くなり、以後フランス王ルイ十二世がミラノ公を僭称し、ヴェ
ネ ツ ィ ア と ロ ー マ 教 皇 と 結 託 し て ミ ラ ノ 公 を お び や か す に 至 り、 一 四 九 九 年 ル
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︶一八九○年のドイツ語版ではアンブロージォ・デ・プレーディスの節の前に﹁ロ
︵
︶ ビアンカ・マリーア・スフォルツァ︵一四七二∼一五一○ 図版④︶はガレアッ
6
ンバルディア派の画家﹂の表題が置かれる。
︵
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金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
然で、後の一六二九年八十六歳前後で彼女は亡くなった。
で老ソフォニズバの肖像を描いたが、ソフォニズバは当時すでに盲目同
モからジェノヴァに来、ソフォニズバの知り合いになり、その翌年当地
し、以後ジェノヴァに住んだ。一六二四年若いヴァン・デイクはパレル
︶
ニャのラヴィーニァ・フォンターナ、トリノのフェーデほか ︵ 。
ンナのバルバラ・ロンギ、フィレンツェのアニェーゼ・ドルチェ、ボロー
︶ラヴェ
ゴのイレーネ、アングイッソーラ姉妹、マリエッタ・ロブスタ ︵c 、
︶ ティツィアーノの弟子だったスピリンベル
カテリーナ・ヴィグリ ︵ b 、
ソフォニズバの多くの肖像画の多くは別の画家の作品として流通して
61
図版⑥ アントーン・ヴァン・デイク ソフォニズバ・アングイッソーラの肖像(デッサン) ヴァン・デイク
のデッサン帳『イタリア・スケッチ』より、ロンドン、大英博物館
蔵(ハーバート・クック旧蔵)
いる。それらは素朴で生彩に冨み、堅実に描かれている。私はマドリー
ドの美術館で彼女の絵は一点も見なかったが、クレモナの医者ピエルマ
と書かれ
LVCIA ANGVISSOLA AMILCARIS F. ADOLESCENS
リーア[ピエトロ・マリーア]の等身大の肖像画︵十五番︶を発見した。
それには
ている。このルチーアは、私の誤りでなければ、ソフォニズバの二番目
︶
の妹であり彼女の弟子であり、ブレシャ市立美術館にも、ルチーアによ
るアングイッソーラの三番目の妹エウローパを描いた素朴な肖像画 ︵
がある。
私 見 で は、 ボ ル ゲ ー ゼ 美 術 館 の 小 さ な 女 性 像 は ソ フ ォ ニ ズ バ で は な
く ル チ ー ア の 作 で あ る︵ † ︶
。 三 番 目 の 妹 エ ウ ロ ー パ も 画 家 で あ っ て、
一 五 六 八 年 に ク レ モ ナ で エ ウ ロ ー パ に 会 っ た ヴ ァ ザ ー リ︵ 第 十 一 巻、
二六○頁︶がそれを確認している。四番目の末の妹はマリーアと言い、
︶ 私ははるか以前クレモナのサン・ピエトロ教
彼女も画家であった ︵a 。
会の教区長宅でマリーアのあまり魅力的ではない小品を見たことがあ
る。︽聖母子︾をあらわし、ぶどうと黒いちごのかごを幼児キリストに
ANNAE MARIAE AMILCARIS ANGVSOLAE
ささげる聖フランチェスコが添えられている。絵には金文字で次のよう
︶
なサインが書かれている。
︵
FILIAE
まことにイタリアは、絵画に献身しひとかどの達成をみた女流画家を
多く輩出したヨーロッパ唯一の国である。例えば、ボローニャの敬虔な
︵a ︶ ソフォニズバにはさらに二姉妹がおり、一人は若くして亡くなり、もう一人は修道院に
︵c ︶ マドリードの美術館はこの画家の肖像を数点所有している︵ ︶
。[M]
︵b︶ この画家の絵がヴェネツィアのアッカデミア美術館にある︵ ︶
。[M]
̶ 140 ̶
( 13 )
59
$EHFHGDULRELRJUD¿FRGHLSLWWRULVFXOWRULHG
を参照していただきたい。[M]
architetti cremonesi del Grasselli
入った。これについてグラッセッリの著作
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60
ジョヴァンニ・モレッリ『イタリア絵画論−ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館』翻訳(9)−ロンバルディア派(アンブロージォ・デ・プレーディスからソフォニズバ・アングイッソーラまで) 上田恒夫
継いだ。ソフォニズバの名声はフェリペ二世の聞き及ぶところとなり、
デ ィ ー ノ・ ガ ッ テ ィ 通 称 ソ ジ ャ ー ロ が 若 い ソ フ ォ ニ ズ バ の 教 育 を 引 き
て、コレッジョとパルミジャニーノを信奉するクレモナの画家ベルナル
ル デ ィ ー ノ・ カ ン ピ は ミ ラ ノ に 呼 ば れ た の で︵ 一 五 五 ○ 年 ︶
、代わっ
よ う な﹁ 教 育 ﹂ を 望 む と は 驚 く べ き こ と で あ る。 し か し 数 年 後 ベ ル ナ
我が国の民主主義の草分けの時代に貴族の父母が才能ある娘にこの
ているラツィンスキー伯爵所蔵のアングイッソーラの三姉妹の肖像があ
スターリング氏が所蔵し、ドイツでは、ベルリン国立美術館に展示され
は、イギリスのスペンサー伯爵、サンビー・セイモア氏、ウィリアム・
いることからもそのように推測される。ソフォニズバのその他の肖像画
れたものと思われる。カルトリーナに彼女の母国の名が書き添えられて
と記される。したがってこれはマドリードで描か
AET. SVAE ANN. XX
イヒテンベルク・コレクションが購入した一点があり、さらにナポリ美
る。その他、サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館に、またロ
私の知る限りこの若い女性画家の最初の作品は、ロンドンのヤールボ
術館にももう一点がある。ミラノのジョヴァンニ・モレッリ氏は彼女の
一五五九年彼女はマドリードの王宮に召された。
ロー卿所蔵の黒い目の修道女を描いた肖像画であり、これにはソフォニ
すぐれた小品︽聖家族︾︵
︶を 所 有 し、 そ れ に は 次 の イ ン ス ク リ プ シ ョ
ズバの名前と一五五○年の年記がある。したがってソフォニズバはこの
絵を十一歳か十二歳のとき、おそらく師匠の助けをえて描いたことにな
つまり十八、九歳のソフォニズバがマドリードのフェリペ二世に呼ばれ
ンがある。
︵ママ︶ ADOLESCENS P. 1559
SOPHONISBA ANAGVSSOLA
︶ なぜなら、
ウィーン帝室美術館が所蔵する大きな目の少女ソフォ
る ︵a 。
をめぐって美術史家の間で非常に混乱が続いている。私見では、ソフォ
ミケランジェロも讃え、ヴァザーリが絶賛したこの女流画家の生没年
︶
たときの作品である ︵ b 。
と 記 さ れ る。 そ の ほ か 私
ANGVISSOLA VIRGO SE IPSAM FECIT 1554
SOPHONISBA
は彼女の数点の自画像を知っている。名画を多数所蔵するシエナのアッ
ニズバ・アングイッソーラは一五三九年頃クレモナで生まれた。すでに
ニ ズ バ の 自 画 像 は 十 四、五 歳 だ か ら だ。 こ の 肖 像 画 に は
︶ ソ フ ォ ニ ズ バ は 十 八、
カデミアにも自画像が一点あり ︵ 、
九歳の女性
ルディーノ・カンピであろう。事実ここで一五二二年生まれのカンピは
筆を手にした男が描かれているが、おそらくこの男は最初の師匠ベルナ
に見えるから、一五五八年頃の作であろう。この自画像のかたわらに鉛
する年齢だとしたら、彼女がこの自画像で﹁青年期の
がってモレッリ氏所蔵の自画像のアングイッソーラが三○代に入ろうと
伝記作家らの多くが言うように彼女が一五三○年の生まれだとし、した
述 べ た よ う に、 ウ ィ ー ン の 自 画 像 の 彼 女 は 十 四、五 歳 の 少 女 で あ っ た。
一五五九年から一五七○年頃まで、ソフォニズバはスペインの王宮に
﹂と自
adoloscens
四○代間近の男としてあらわされている。人物は等身大ある。ミラノの
称するのは無理だろう。
い。ウフィツィ美術館もこれより後の時代のソフォニズバの自画像を所
留まったらしい。そこで彼女はモンカダというシチリアの紳士と結婚し、
誤か]の所蔵である。ソフォニズバのその他の聖母主題の絵はまだ見たことがない。
[M]
たが、それは今フェッラーラのカヴァリエーレたるG・カヴァリエーリ[ヴァラーノの
︵b︶ 私は以前、フェッラーラのファッラーノ伯爵のコレクションでこの小品のレプリカを見
くなった。その後ソフォニズバはジェノヴァの貴族ロメッリーニと再婚
後に彼女は[モンカダに従って]パレルモに行き、モンカダはそこで亡
︶
IS
SOPHONISBA ANGVISSOLA CREM︵
cremonensis
有 し、 そ れ に は
ソフォニズバの生年はモレッリのいう一五三九年頃ではなく、それより十一ないし十二
︵a ︶ 新しい記録が発見され、モレッリの早熟の女性画家像は誤りであることが明かになり、
年 早 ま っ た。 こ れ に つ い て G・ B・ ヴ ィ ッ タ デ ィ ー ニ 氏 の 論 文 G.B. Vittadini, Novità
︽ Archivio storico dell Arte
︾ , fasc. III,
artistiche del Museo Poldi-Pezzoli in Milano, nell
と同論文掲載の九十六歳のソフォニズバをあらわすファクシミリを参照
dell anno 1895
願いたい。
[F]
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( 12 )
58
故メルツィ公もソフォニズバの自画像を所有していたが、損傷がはげし
57
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期である。カピトリーナ美術館の絵はフランチャが着手し
︵人物のデッサ
ニャのサント・ステーファノ教会のファッチ礼拝堂の絵 ︵a ︶とほぼ同時
チャの郷市ボローニャのピナコテーカ、サン・ヤコポ・マッジョーレ教
作品がある。この画家の作品の多く、わけてもその優れたものはフラン
フィレンツェのウフィツィ美術館に出来はよいが修復のはなはだしい
同時期、一四九○∼九四年頃の作である。
ンが彼自身の手になることは容易に判断できる︶
、十七世紀にボローニャ
会、サン・マルティーノ教会、サン・ヴィターレ教会、サンタ・チェチ
ランチャの真作だろうと思う。
この絵は彼の最後の作品と思われ、
ボロー
︶
の画家がその他の人物と犬のほか細部を加えて完成したと思われる ︵ 。
をうけた画家の作と推定される。聖母の顔のタイプと、幼児キリストの
している。ふんだんに金をほどこした建築からパルメッツァーノの影響
ハ ネ を、 左 側 に ア ン デ レ、 福 音 書 記 者 ヨ ハ ネ、 聖 フ ラ ン チ ェ ス コ を 配
に帰された︽玉座の聖母子︾があり、右側にペテロ、パウロ、洗礼者ヨ
チャとペルジーノは、とくに初期においては、コスタとピントゥリッキォ
ランチャとペルジーノよりも、奇想と生彩とドラマ性にまさる。フラン
ある。コスタとベルナルディーノ・ベット[ピントゥリッキォ]は、フ
ピエトロ・ペルジーノのピントゥリッキォに対する関係に似たところが
フランチェスコ・フランチャのロレンツォ・コスタに対する関係は、
リア礼拝堂にある。
手と耳のフォルムと風景は、明らかにフランチャに由来するが、他方聖
よりも厳格なデッサン家であり、謹厳な画家であった。彼らの絵のなか
カピトリーナ美術館の同じ部屋にやはりフランチェスコ・フランチャ
フランチェスコのタイプとその他の聖人らの戯画的な顔のタイプはパル
あらわされ、画家の構想のひらめきが全体として人物たちを輝かせも暖
の人物像は非常に丹念に描かれているが、それぞれが単独像のごとくに
Marca
メッツァーノを想起させ、
玉座の上に置かれた果物はカルロ・クリヴェッ
リ 派 を 思 わ せ る。 一 五 一 三 年 の 年 記 が あ り、 ア ン コ ー ナ 辺 境︵
︶
。
めもしない。要するに彼らは画中でしかるべき役割を演じていない。し
︵
︶の一画家に帰されよう
d Ancona
︶
かし観客はそうした人物たちの甘く親密な表現に心躍らせるのである。
ソフォニズバ・アングイッソーラ ︵
カピトリーナ美術館の第一室でフランチャ最後の作品のひとつを見た
が、他方、ローマのコルシーニ美術館の小さな板絵︽聖ゲオルギウスの
︶ この絵は一般にエルコレ・
龍退治︾は彼の初期であると思う︵†︶︵ 。
ここで、ロンバルディア派末期の、しかし当時有名だった肖像画家を
︶の 作 者 と さ れ る 画 家 で あ る が、 美 術 館 で は 女 性 肖 像 画
うに考えていた。しかしくわしく検討した結果、目からうろこが落ち、
︵ 一 一 八 番 ︶︵
取 り 上 げ ね ば な ら な い。 ボ ル ゲ ー ゼ 美 術 館 第 三 室 に あ る 小 さ な 女 性 像
ち、ボローニャのアルキジンナージオ[ボローニャ市立図書館]にある
︶が 描 か れ た の と ほ ぼ
ルナルディーノ・カンピにゆだねた。
ニズバが七歳のとき、自宅で絵を学ばせるべく彼女をクレモナの画家ベ
バはアングイッソーラの名家の生まれであり、父親アミルカレはソフォ
友人だったソフォニズバ・アングイッソーラに帰している。ソフォニズ
︶としている。
un ritrattista
家︵
[M]
︶ではなく男性肖像画家︵
una ritrattista
小さな︽磔刑︾︵†︶、ミュンヘンのピナコテーカの︽聖母︾︵一○四○
所蔵品図録ではこの作品をアントーン・ヴァン・デイクの母親のような
56
︶ ビアンキーニ家のための絵︵ベルリン美術館︶
︵ 、
︶ フェリチー
番︶︵ 、
ニ家のための絵︵ボローニャのピナコテーカ︶︵
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グランディ・ディ・ジュリオ・チェーザレの作とされ、私も以前そのよ
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フランチェスコ・フランチャの青年期の作と認識するに至った。すなわ
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︵a ︶ クローとカヴァルカセレ両氏はこのファッチ礼拝堂の絵をジャコモ・フランチャに帰す。
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ジョヴァンニ・モレッリ『イタリア絵画論−ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館』翻訳(9)−ロンバルディア派(アンブロージォ・デ・プレーディスからソフォニズバ・アングイッソーラまで) 上田恒夫
以上述べたことから、アンブロージォ・デ・プレーディスとおなじく
ベルナルディーノ・デ・コンティも十六世紀初頭の十年間において非常
に評判をかちえた肖像画家だったことがわかる。彼を大画家に数えるこ
とはできないが、サンクトペテルブルグの︽授乳の聖母︾のごとくいわ
﹂について頁を割
pittori manuali
ゆるミラノ派とレオナルド派の目利きですら判断を誤るほどの作品を何
点か制作したのである。
は か ら ず も ミ ラ ノ 派 の 古 い﹁ 絵 師
く こ と に な っ た が、 そ れ と い う の も、 私 が ア ン ブ ロ ー ジ ォ・ デ・ プ
レ ー デ ィ ス と ベ ル ナ ル デ ィ ー ノ・ デ・ コ ン テ ィ に つ い て の 知 識 を 披
Deutsche
瀝したのはこの画家たちについての私の判断から論争を引き起こすた
め だ け だ っ た と 非 難 さ れ た か ら で あ っ た︵
﹃ドイツ文芸雑誌
︶
︶
﹄一八八六年、四十二号︶︵a 。
Litteraturzeitung
フランチェスコ・フランチャ ︵
りをただよわせる絵は少ない。
しかし︽バラ園の聖母子︾は、少なくとも完成させたのはフランチャ
ではなく、その弟子ないし模倣者と思われ、事実彼には多くの弟子たち
︶ 他 方 出 来 の よ い︽ ロ ー マ の ル ク レ ー テ ィ ア ︾ は フ ラ ン チ ェ
がいた ︵ 。
スコ・フランチャ自身の作であろう。この絵はかつてボルゲーゼ美術館
さて、フランチェスコ・フランチャに目を向けよう。ボルゲーゼ美術
館にはこの画家に帰される絵が多くある。とくに第一室六十五番の手を
︵ 。
︶
の第一室にあった ︵ b ︶
︶ 石打たれ頭の傷口から
の初期︵一四九○∼九六年︶の傑作である ︵ 。
血が流れ、神を信じてゆるぎない目は迫り来る死を待っている。後ろは
今第一室にフランチェスコ・フランチャの名で展示されているその他
の聖母子図と︽聖アントニウス︾︵三十四番、五十七番、六○番︶はフ
︶ ドーリア=パンフィーリ
ランチャ派の作品に過ぎないと確信する ︵ 。
︶ 他方、
美術館とヴァチカン美術館の聖母図も同様である ︵ 。
カピトリー
VICENTII
ナ美術館第一室の大きな板絵は未完成ではあるが、フランチェスコ・フ
リのいう﹁またグイドバルド公は衣装部屋︵グアルダローバ︶にフランチャの手になる
︵b︶ その後この︽ルクレーティア︾は同館の上階に移された。おそらくこの作品はヴァザー
に関係するだろう。ロンドンのノースブルック卿がボルゲーゼ美術館の︽ルクレーツィ
ローマのルクレーツィアを所有し、公はこの作品を高くかっていた﹂︵第六巻十一頁︶
ア︾の古い質のよいコピーを所有している。[M]
ルツァの息子フランチェスコの肖像、ミラノではB・ヴィッタディーニ氏方の歴史家ベ
像、ほか︶
、この画家についての判断が修正されることになったからである。[F]
ルナルディーノ・コーリオの肖像と、カヴァリエーレたるC・B・クレスピ方の小姓の
は明かである。なぜなら、ベルナルディーノ・デ・コンティの署名入りの真作が相つい
48
で発見され︵ローマではパラッツォ・ヴァティカーノのジャン・ガレアッツォ・スフォ
︵a ︶ 率直に言って、著者モレッリはこの節においてかなりの修正を加えるつもりでいたこと
このフランチャの純粋で完璧な︽ステパノ︾ほどかぐわしい芸術の香
風景である。地面に置かれたカルテリーノ[画中の紙片]に
46
・ FRANCIAEÆ
・ EXPRESSVM
・ MANV
と記される。
DESIDERII VOTVM
47
44
̶ 143 ̶
( 10 )
図版⑤ フランチェスコ・フランチャ 《聖ステパノ》
ローマ、ボルゲーゼ美術館
あわせてひざまづく︽聖ステパノ︾︵図版⑤︶は敬虔で愛すべきこの男
45
43
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
四
女性頭部の髪はなめらかにこめかみを覆う。
五
指の動きはアントニオ・ポライオーロのそれのごとくぎこちない。
爪は短く幅がせまい。
六 彼のデッサンのほとんどは銀筆で入念かつ精緻に描かれ、ハッチ
ングはレオナルドの場合のように左から右へではなく右から左へ
サンクトペテルブルグにある。
この絵はかつても今もレオナルド・
ダ・ヴィンチ作とされる。長く小さい爪、皮膚とこめかみを覆う
︶
髪はこの絵の特徴である ︵ 。
六 ポルディ=ペッツォーリ美術館の︽聖母︾。
ベルナルディーノ・デ・コンティの多くのデッサンから、公共の
美術館でレオナルド作とされているいくつかのデッサンも挙げた
て、確たる根拠によって証明できなければ学問的判断は有効では
いが、それは、読者に私の判断を納得していただきたいためであっ
七
アンブロージォ・デ・プレーディスの肖像画では口は堅くない。
したがって以下の作品はベルナルディーノ・デ・コンティ作であると
ないという原則が、まじめな研究には必要だからである。
︶
それは、ベルリンにおいてルモール氏によってジョヴァンニ・サ
入ったとき根拠なくベルナルド・ザナーレ作とされた作品だが、
つ て ミ ラ ノ で は レ オ ナ ル ド に 帰 さ れ、 次 い で ブ レ ー ラ 美 術 館 に
る︶及び玉座の下にルドヴィーコ・スフォルツァをあらわす。か
ルナルディーノ・デ・コンティによる大祭壇画の聖母図のための
八
大英博物館の銀筆による大デッサン︵ブラウンの図録四十五番︶
。
大英博物館ではレオナルド作とする。これもブレーラ美術館のベ
︶
する︵†︶。ブラウンの図録に写真がある︵三十八番︶︵ 。
作であり、レオナルドの作としてアンブロジアーナ美術館が所蔵
七
若いマッシミリアーノ・スフォルツァの横向きの頭部のデッサン
︵†︶。これはブレーラ美術館の大祭壇画︵四九九番︶のための習
ンティ[ラファエロ・サンティの父]の絵が突然ティモテーオ・
︶
習作である︵†︶︵ 。
一
ブレーラ美術館の大祭壇画︵八十七番︶︵†︶ 。︽玉座の聖母子︾
と教会の四教父︵これらはレオナルドの頭部のカリカチュアであ
︵
思う。
引かれる。
36
ヴィーティの傑作と変更された状況と酷似している。今日は適切
にベルナルディーノ・デ・コンティ作となっている。
二 ウフィツィ美術館の通称ルーカ・ダ・レイダ[レイデン]の自画
像︵二四四番︶はベルナルディーノ・デ・コンティの真作という
︶。
九
四分の三正面男の銀筆によるデッサン︵†︶
。所蔵するルーヴル美
︶
術館所でもレオナルド作とする︵ブラウンの図録一六九番︶︵ 。
37
︶
三十五頁︶︵ 。
十 レオナルド風の老人の頭部︵†︶
。大英博物館所蔵︵三十六巻、一、
39
︶
十一 銀筆によるすばらしい男の頭部のデッサン。三十九番︵†︶︵ 。
大英博物館が購入したジョン・マルコーム氏コレクション図録所
収のレオナルドによる優れたデッサン中の一点。
︶
ヴィンチに帰す ︵ 。
十二 髪をほどいた女性頭部︵†︶。これを所蔵するオックスフォード
のクライスト・チャーチ・カレッジではやはりレオナルド・ダ・
41
よりはその古いコピーだろうと思う︵†︶︵
三
ロンドンのA・モリソン氏所蔵の大きな女性像︵†︶。この肖像
画はもとミラノのカステルバルコ家にあり、同家ではレオナルド
作とされた。
四
アングローニャ伯爵夫人所蔵のカテラーノ・トリヴルツィオの肖
像画。トリノのベルナルディーノ・デ・コンティのサインと一五
○五年の年記がある。
40
̶ 144 ̶
(9)
34
五
優美な︽授乳の聖母︾
︵†︶
。もとミラノのリッタ家にあり、現在
38
42
35
ジョヴァンニ・モレッリ『イタリア絵画論−ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館』翻訳(9)−ロンバルディア派(アンブロージォ・デ・プレーディスからソフォニズバ・アングイッソーラまで) 上田恒夫
から、熱狂のあまり判断を誤ったときでも自分より劣る他人の助言に耳を貸さないよう
なことは一度もなかった。なぜならすぐれた人の例にもれず、彼もふらふらと竹馬で歩
くようなことを忌み嫌ったからである。常に研究にいそしみ、自らが知らないことを他
それは当時の芸術学が置かれた状況から許される
̶
人に教えようとは露とも思わなかった。
だから私は確信して言えるが、もしミュントラー
べきものである
が生きていたら、自らが犯した過ち
は正直に告白して訂正するという神聖な義務を信じていたが、アンブ
̶
ロジアーナ美術館の横向きの肖像もヴァプリオの壁画︵︽聖母︾︶もロンドンのナショナ
ル・ギャラリーの︽岩窟の聖母︾︵ロンドン、ナショナル・ギャラリー︶もどれひとつ
としてレオナルドの作とは認めなかっただろう。というのは、ミュントラーの時代以後
芸術学は高度とまではいえないがある程度進歩を遂げ︵これについてボーデ氏だけは反
論するだろうが︶、ボーデ氏が数々の栄冠を手にしたオランダ派絵画の研究においての
みならず、私を批判するボーデ氏にはお許しねがいたいが、イタリア派絵画の研究にお
いても停滞から抜け出て発展し、あらゆる学問領域によくあるようにまだ多くの点で論
争があるものの、
芸術学は総じて厳しい試験に見事に耐えていると思うからである。[M]
ずかの作品を挙げるのみである。すなわち、一四八九年のベルリン美術
︶
である。ミュンヘ
︶及 び︽ 聖 カ タ リ ナ の 結 婚 ︾
︵
︶ ミ
、
︶ミュンヘン美術館の︽授乳の聖母︾
館のサイン入りの︽高位聖職者︾︵ 、
、
ベルガモ市立美術館の同題の絵 ︵
ラノのポルディ=ペッツォーリ美術館の︽聖母︾︵
ンの︽授乳の聖母︾は思うに、古い時代のコピーであり、ベルガモの二
点はデ・コンティの工房作にすぎなかろう。画中の一五○一年の年記を
画家自身の筆とするのは困難である。ボーデ館長はここでも彼の信用す
るクローとカヴァルカセレ両氏の轍を踏んで、十分な検討を抜きにデ・
コンティを二流画家として描いている。芸術作品の美的判断については
もっと言うべきことがあろうというものだ。なぜなら逍遙学派がまさに
omne quod
︶と 言 っ て い る か ら で あ
﹁受容されるものはすべて、受容する人の方式で受容される
﹂︵
recipitur ad modum recipientis recipitur
コンティの後期の肖像画︵一五○五年以降︶に非常に似ているから、ベ
アンブロージォ・デ・プレーディスの初期の絵はベルナルディーノ・デ・
く ̶
とくにデ・コンティのデッサンはレオナルドのデッサンと取り違え
絵やデッサンを同時代の画家たち、とくにレオナルドのそれと区別すべ
︶を確認しておこう。
segni caratteristici
一
ザナーレに帰されてきたブレーラ美術館の大きな板絵
の
ご と く デ・ コ ン テ ィ の 十 五 世 紀 の 絵、 ま た ベ ル リ ン 美 術 館 の
その特徴的な兆候︵
̶
ダ・ヴィンチと間違えられているこのミラノの画家ベルナルディーノ・
一四九九年の高位聖職者像においては、肌は赤みがかっている。
︶
デ・コンティについても少々語らせていただく。信用するに足らぬロマッ
それ以降の作品、例えばトリノのアングローニャ侯爵夫人所蔵の
︶や ロ ン ド ン の A・ モ リ ソ ン 氏 所 蔵 の 女
︵
ツ ォ と オ ル ラ ン デ ィ 以 外 に は こ の 画 家 に つ い て 書 い た 人 は い な い。 出
一五○五年の肖像画 ︵
31
︶
やサンクトペテルブルグのエミルタージュ美術館の︽授
の一四九六年の彼の絵に見られる赤褐色の肌と襞の表現には少なくとも
ト色[ブルー]であるが、これはアンブロージォ・デ・プレーディ
乳の聖母︾においては、逆に肌は冷たく明るい色により、ズマル
とカ ヴ ァ ル カ セ レ 両氏 ︵第二巻、 六十七頁︶ は こ の ロ ン バ ル デ ィ ア の
画家の記述を手短にかたづけ、彼をゼナーロの弟子と記して、以下のわ
二
対耳輪[耳殻の内側]が広く、したがって外聴道は狭くなる。
三
鼻の付け根[上部]付近の目の陰影は強くあらわされる。
フォッパ派の特徴が見られる。その後ミラノに定住したデ・コンティは
性像 ︵
身はパヴィーアとされ、それに間違いなかろうから、最初ヴィンチェン
る。ここで、ほとんど知られておらず素人目にはしばしばレオナルド・
プレーディスからも影響を受けているように思われるのももっともであ
られてきた
︶
30
る。私たちの唯物論的方法にしたがって、まず第一に、デ・コンティの
30
bis
ルナルディーノ・デ・コンティはレオナルドのほかアンブロージォ・デ・
ベルナルディーノ・デ・コンティ ︵
29
27
28
スの初期を想起させる。
ツォ・フォッパかチヴェルキォに絵を学んだのだろう。ブレーラ美術館
32
レオナルドとアンブロージォ・デ・プレーディスの影響下に入った。
クロー
33
̶ 145 ̶
(8)
26
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
フォッパから大きな影響を受けたようだが、十六世紀初頭にはレ
オナルドの影響を受けた。もちろんアンブロージォは自覚的な画
家であり入念に描く画家であった。しかし、例えば手の把握と表
現に見られるように、彼のデッサンとモデリングにはしばしば欠
点が認められる。事実、フリッツォーニ氏所蔵の肖像画、ポッロ
伯爵所蔵のジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの肖像画、フュ
ラー・メーランド氏所蔵のアルキントの肖像画においては、手は
︶
寸づまりで、生彩に欠ける ︵a 。
この種の判決文においてボーデ氏が下したイタリア人画家の作家判定の是非を読者に求
めたい今ひとつの動機は、ほかならぬボーデ氏のこの学位請求論文のなかにある。氏は
そのなかで、アンブロージォ・デ・プレーディスとレオナルドの作品の違いについて親
切にも私に講釈し、他方、私にはコピーとしか見えない他の二点を真作として私に示し
ている。一点はボーデ氏が九頁で説明するロンドンの[ジョージ・]サルティング氏所
蔵の作品であり、もう一点はパラッツォ・ピッティの横向きの女性の肖像である︵三七一
家で、J ・P・リヒター博士を含む何人かの具眼の友人と一緒にこの肖像画を見た。私
番。同館ではピエロ・デラ・フランチェスカに帰す︶
。さいわいにもサルティング氏の
たち全員がこの作品をアンブロジアーナ美術館の女性像の出来のよくないコピーと認め
たが、誰もボーデ氏のいうアンブロージォ・デ・プレーディスには思いが及ばなかった。
当代に名をはせたアンブロージォ・デ・プレーディスの出来の悪いコピーはミラノ市立
美術館ほかにもある。サルティング氏は私たちの訪問後直ちにこれを偽りの名画と認め
たことであろう。ボーデ氏が学位請求論文の六頁にいうもう一点の横向きの女性像はイ
ル・モーロの妻ベアトリーチェ・スフォルツァを描く。このパラッツォ・ピッティの退
︵a ︶ 数 週 間 前 ル ド ヴ ィ ー コ・ ス フ ォ ル ツ ァ[ イ ル・ モ ー ロ ] の 肖 像 画 家 ア ン ブ ロ ー ジ ォ・
た肖像を見たにしても、そのような理解に苦しむ判断を具眼の士が口にすることはまず
ボーデ氏が同じ壁にかかっているロレンツォ・コスタによるベンティヴォリオのすぐれ
屈なコピーもボーデ氏の目にはフェッラーラ派の画家ロレンツォ・コスタの名品となる。
デ・ プ レ ー デ ィ ス に 関 す る こ の 余 論 を 書 い た 後、 W・ ボ ー デ 氏 は﹃ プ ロ イ セ ン 王
なかろう。私を永遠に武装解除させ将来にわたって無力化させようと期待して、ベルリ
ンの博士は、氏が正当にも﹁古典美術のすぐれた目利き﹂と評価する私の友人の故オッ
を前にしたミュントラーがボーデ氏にとってすぐれた目利きであるとしたら 何
̶分氏は
トー・ミュントラーの判断に訴える挙に出た。だが、アンブロジアーナ美術館の肖像画
に謝意を表するとともに、このたび氏が皇帝マクシミリアンの二度目の夫人であるビア
典美術のすぐれた目利きがパラッツォ・ピッティの通称︽ヴェールの女︾を前にしてボー
この絵をレオナルド・ダ・ヴィンチの作と明言したのだから
る。写真版からわかるようにベルリンのこの肖像画にも一九一頁[本訳十八頁注︵b ︶]
であるとする氏の判断のみならず本作の美的評価についても全面的に同意するからであ
、
ティのラファエロの傑作をボローニャ派の画家のコピーだと明言したのに対して︵ ︶
ていただきたいが、
ボーデ氏︵
﹃チチェローネ﹄第二巻七○四頁︶はこのパラッツォ・ピッ
デ氏のために、すぐれた目利きであることをやめたのはどうしてだろうか。読者に知っ
にドライに描いたアクセサリー、宝石、紐類だけでなく、幸運にも目尻に落ちる光の筋
た目のデッサン、上唇のかたいアウトライン、強く光を当てた鼻梁、ミニアチュール風
なでおろす。というのは、私はこのビアンカ・マリーアの肖像に上下の瞼をきっちり描い
もこの絵に出会ったが、最初の印象はいつもこうだった
ていた。彼は﹃J ・ブルクハルトのチチェローネ考 Beitäge zu J.Burckhardt s Cicerone
﹄
四 十 一 頁 で こ う 言 っ て い る、
﹁
︵
︽ヴェールの女︾は︶私を新たにしてくれた。私は何度
古典美術のすぐれた目利きだったミュントラーはこの女性像について全然別様に考え
は見あたらない。ボーデ氏が適切に指摘するように、アンブロジアーナ美術館の女性像
にも認められるものであるが、同じ時代の他のイタリア人画家による横向きの肖像画に
マクシミリアンの肖像[図版①]にもアンブロジアーナ美術館の横向き女性像[図版②]
養を彼が身につけていたからであった。さいわいにも私はこのバイエルンの優れた学者
能によるのみならず、残念ながら今日の多くの目利きにまったく欠けている広い美的教
ミュントラーは古典美術に対してすぐれた感覚をもっていたが、それは天性の芸術的才
左目はまさにデッサンとキアロスクーロと絵画表現のまことの奇跡である﹂
。オットー・
叫んでいる。これほど高雅で魅力的な域にどんな画家が到達できるのだろうか。とくに
二年間パリで過ごし、
ルーヴル美術館で協力して研究を進めたからであるが、
その頃ボー
はビアンカ・マリーアの肖像よりもはるかに優雅で生彩があるのは確かだが、しかしこ
デ氏は︵さいわいなるかな︶まだ産着にくるまれ、レオナルドについてもラファエロに
れは画家よりも、
母たる自然[モデル]の美点ではないだろうか。しかしベルリンのボー
で職人的な模倣者の作品の間ほどの大きな距離がある﹂。私は思想の自由の熱烈な味方
ついても夢想するような歳ではなかったはずである。だからこそボーデ氏にはっきりと
ないが私も彼を高く評価するものであって、そのわけは、私は彼と深い友情を契って丸
だから、ボーデ氏の辛辣な非難に平静を失う。それゆえ、いつものように作品の美的評
[ ミ ュ ン ト ラ ー] と 知 己 に な り、 ミ ュ ン ト ラ ー を 激 賞 す る ボ ー デ 氏 の 域 を 出 る も の で は
価は読者にゆだね、イタリアの美術品の﹁美的﹂判断をめぐるボーデ氏と私との間の途
証言できるのだが、四○年ほど前のあの当時、ミュントラーほどイタリア美術に精通し
デ氏は決してそうは考えない。彼は言う、
﹁このビアンカ・マリーア像とアンブロジアー
方もない相違について再度読者に注意を喚起するほかない。プルソーニャック氏[モリ
た人はほかにいなかった。そうかといって、この立派な人物は驚くほど謙遜の人だった
エールの同題の戯曲の主人公]なら﹁信用しがたい
﹂と言いかねない
sujettes à caution
ナ美術館の横向き女性像との間には、あらゆる時代の大画家中最もすぐれた作品と勤勉
筆の運びが﹁ラファエロ﹂と
も見つけたからである。これは、アンブロージォ・デ・プレーディスの名前のある皇帝
25
̶ 146 ̶
(7)
室 美 術 コ レ ク シ ョ ン 年 報 ﹄ 一 八 八 九 年 第 二 冊︵ Jahrbuch der königl. Preußischen
︶所収の横向きの女性像︵今日ベルリンの個人蔵[現
Kunstsammlungen, Heft 2, 1889
在ワシントン]
、図版④︵ ︶
︶に関する氏の論文の抜刷を送って下さった。ここで同氏
ンカ・マリーア・スフォルツァの肖像を発見されたことに敬意を表し、氏からたまわっ
で私が示したアンブロージォ・デ・プレーディスのあらゆる特徴が認められ、安堵に胸を
私は問いたいが、この古
̶
た恩義に衷心からお礼を申し述べたい。なぜなら、この絵がビアンカ・マリーアの肖像
24
ジョヴァンニ・モレッリ『イタリア絵画論−ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館』翻訳(9)−ロンバルディア派(アンブロージォ・デ・プレーディスからソフォニズバ・アングイッソーラまで) 上田恒夫
の肖像画ではモデリングは正確になり、肌は褐色になる。
︶ フランチェ
九
横向きのフランチェスコ・ブリーヴィオ像︵†︶︵ 。
スコは公爵の参事ステーファノの息子で、一五一四年メレニャー
ノの領主。ミラノのポルディ=ペッツォーリ美術館所蔵。美術館
では本作をヴィンチェンツォ・フォッパに帰す。
︵ 図 版 ③ ︶ はずっと後に、レオナルド作と
︵c ︶[ 前 頁 ] これらの肖像画のためのデッサン
あったものを、私 が 発 見 し た も の で あ る。
してヴェネツィアのアッカデミア美術館に
︶ほかの学者らはこのデッサンを、
一五○六年公爵夫妻の肖像をあらわした
︵
[M]
メダルを製作したマントヴァのメダル作
と し た が、 こ の デ ッ サ ン 中 の プ ッ ト に み
家 ジ ャ ン・ マ ル コ・ カ ヴ ァ ッ リ に 帰 そ う
る純然たるレオナルド的特徴から、また、
公爵夫妻の横向きの肖像画[図版①、④]
モ レ ッ リ の 判 定 は 納 得 で き、 そ れ ゆ え、
とこのデッサンとのまったくの一致から、
︶
十
グスターヴォ・フリッツォーニ氏所蔵の横顔の老紳士像︵†︶︵ 。
この肖像画もレオナルド作とされ、一八四八年のフィレンツェの
アッカデミア美術館でもレオナルド作としている。
︶
リアーノ・スフォルツァをあらわす︵†︶︵ 。
は一五一二年から一五一五年までミラノ公の位にあったマッシミ
十一 モレッリ氏所蔵の豪華な金鎖を首につけた二十歳ほどの青年像。
私の間違いでなければ、非常にモデリングにすぐれたこの肖像画
21
十二 ウフィツィ美術館の第一室︵三十番 bis
︶もおそらくアンブロー
ジォ・デ・プレーディスの作であるが、ウフィツィ美術館ではア
ントニオ・ポライウオーロ作としている。顔を覆っている厚いニ
ス が 除 去 さ れ た な ら ば ア ン ブ ロ ー ジ ォ・ デ・ プ レ ー デ ィ ス の 作
と判明するだろう。口もとはデ・プレーディスのモデリングにほ
かならず、豊かな髪の毛のマスに落ちる光と両瞼の表現はアンブ
ロージォ・デ・プレーディスを想起させる。目の部分のモデリン
グも同じく、これまで見てきたこの画家の肖像画に認められたも
のである。しかしフィレンツェのこの肖像画は後世の補筆がはな
︶
はだしいので、確かな判定は少々危険である ︵ 。
アンブロージォ・デ・プレーディスの生年も没年もわからない。
おそらく、彼の縁者である知名のミニアチュール画家クリストー
フォロ・デ・プレーディス ︵a ︶に絵を学んだと思われる。﹃イエ
スの書﹄のいくつかの彼のミニアチュールから判断すると、アン
ブロージォ・デ・プレーディスはその円熟期にヴィンチェンツォ・
るすぐれたミニアチュールがトリノ王立図書館
︵a ︶ モーデナ出身でミラノに定住したこの画家によ
家 の ミ ニ ア チ ュ ー ル が、 ミ ラ ノ の ジ ロ ー ラ モ・
に あ り、 下 の サ イ ン が あ る 。 そ の ほ か の こ の 画
ナ・デル・コンテ教会などにある。[M]
ダッダ伯爵の相続人方と、ヴァレーゼのマドン
̶ 147 ̶
(6)
22
19
︶ の 図 録︵ ベ ル ガ モ、 ボ リ
Galleria Morelli
出版︶に図版がある。
[F]
Fratelli Bolis
23
ヴェネツィアのデッサンも正確な細密画
︶ ア ン ブ ロ ー ジ ォ・ デ ・ プ
miniatore
レーディスに帰されるだろう。
[F]
家︵
ス兄弟
︵d ︶[前頁]ベルガモのモレッリ・ギャラリー︵
図版③ アンブロージォ・デ・プレーディス マクシミリアン一世とビアンカ・マリーア・スフォルツァの肖像
(デッサン) ヴェネツィア、アッカデミア美術館
図版④ アンブロージォ・デ・プレーディス ビアンカ・マリーア・スフォルツァの肖像
ワシントン、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート
(ベルリンのF・リップマン旧蔵)
20
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
の気品ある若い女性の頭部のデッサンは正確ではなく、首筋から
の別の王妃かはともかく、この肖像画については上に述べた。こ
性像。像主がボーデ氏の考えるようにイザベラかスフォルツァ家
の縁者だとしたら
人びとにつき従った。もしこのブルノーロが画家アンブロージォ
ヴィーコ・スフォルツァ公がインスブルックに逃れたさい公家の
ダ 氏 と い う 人 物 に つ い て も 記 述 が あ り、 彼 は 一 四 九 九 年 に ル ド
以下の
̶
︶ レオナルド
肩へ落ちるラインはあまりに一直的である︵†︶︵a 。
コーデクスの詩に名のあがったマエストロ・アンブロージォこそ
ア ン ブ ロ ー ジ ォ は 言 う、
﹃公爵に干しぶどうをさしあげよ。そう
断定はできないがその可能性は高い
̶
ならこのような欠点で非難されることはなかろう。
三
ルドヴィーコ十二世の時代のキァヴァンナの総督フランチェス
コ・ディ・バルトロンメーオ・アルキント︵一四七四∼一五五一
︶ イル・モーロ
すれば公爵は喜んで雄鶏を所望なさる﹄云々﹂︵ b 。
アンブロージォ・デ・プレーディスであろう。﹁ここでマエストロ・
年︶の肖像。最初ミラノのアルキント伯家にあり、今はメーラン
の息子たちに絵を教えたと思われるマエストロ・アンブロージォ・
したがい、当地の宮中に数年間滞在したことはありえなくはない。
一四九九年の九月に公家のインスブルック逃亡のさいこれにつき
ド氏宅でこの絵を見たフリッツォーニ氏が私に語ったように、イ
︶
。
デ・プレーディス︵当時絵画は全人的教育の要件であった︶が、
︵
ギリスのフュラー・メートランド氏の所蔵と思われる。一四九二
年の年記と
のモノグラムがある
Anbrogio Preda
彼はインスブルックで皇帝マクシミリアンとその妻の肖像をも描
[ 次 頁。
]
くことになる ︵c ︶
六 アンブロージォ・デ・プレーディスの全肖像画と同じように黒地
の背景の、金髪の青年像。かつてレオナルドに帰されていた作品。
︶
ミラノのマッジ家所蔵︵†︶︵ 。
DI LEONARDO PITOR
七 長 い 金 髪 の 青 年 の 正 面 像。 ミ ラ ノ の モ レ ッ リ 氏 所 蔵。 裏 面 に
︶
次 の 古 い イ ン ス ク リ プ シ ョ ン が あ る。
[次頁]
︵
︵†︶︵ d ︶
¿orentino
︵
︶
るが、それ以後の時期︵一五一○∼一五一五年頃︶に属する以下
︵b︶詩は食事のテーブルについた若人の描写である。
[M]
̶ 148 ̶
(5)
四 ﹃イエスの書 Libro del Jesus
﹄のミニアチュールに描かれたルド
ヴ ィ ー コ・ イ ル・ モ ー ロ[ ル ド ヴ ィ ー コ・ ス フ ォ ル ツ ァ]︵ ︶の
横顔の肖像︵†︶
。ミラノのトリブルツィオ公の図書館蔵。
五 同じ﹃イエスの書﹄のミニアチュールにあるマッシミリアーノ・
スフォルツァ五歳頃の横向きの肖像︵†︶。この名高いコーデク
ス の ミ ニ ア チ ュ ー ル は す べ て レ オ ナ ル ド に 帰 さ れ て い る。 し か
し、上に記したアンブロージォ・デ・プレーディスの特徴から、
一四九七年頃に描かれた﹃イエスの書﹄中の二つの肖像もロンバ
ルディアの画家アンブロージォに帰されるのであって、かつて言
われたようにフィレンツェの大画家レオナルドに帰されるのでは
八
矢 を 手 に す る 青 年︵ 聖 セ バ ス テ ィ ア ヌ ス ︶︵ † ︶ 。 正 面 像。 ミ
ラノのフリッツォーニ氏所蔵。以前ボルトラッフィオの作とされ
ていた絵である。
アンブロージォ・デ・プレーディスの若年期に属する以上の肖
像 画 で は、 肌 は 明 る く、 非 常 に 特 殊 な ス マ ル ト ︵ ︶が 認 め ら れ
17
18
断じてないことを、私を批判するボーデ氏を含めてすべての美術
史家が納得するであろう。
このコーデクスにはブルノーロ・プレー
︵a ︶この肖像画の像主が誰であれ、私が強調したいのは、第一に、描かれているのはアンブ
ロジアーナ美術館で﹁古くから ab antiquo
﹂いうようにイル・モーロの妻たるベアトリー
チェ・デステではなく、第二に、この優美な絵の作者は一般に認められているようにレ
15
14
オナルドでは決してなく、これまで知られてこなかったアンブロージォ・デ・プレーディ
スだということである。
[M]
16
13
ジョヴァンニ・モレッリ『イタリア絵画論−ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館』翻訳(9)−ロンバルディア派(アンブロージォ・デ・プレーディスからソフォニズバ・アングイッソーラまで) 上田恒夫
全体的に入念に用意した絵具と明るいインプリミトゥーラと明快な筆の
︶
運びから、古いフランドル絵画かと思われるものが現れている﹂︵a 。
いなかったのみならず、歴史的にやっと知られたにすぎないと主張する。
この論争で真実に近いのは二人のうちのどちらか。私は故ルモール男
である。しかし、ミラノにおいて、この二点の肖像画の一方にイル・モー
画やデッサンは当然のこととしてレオナルドその人に帰されていたから
家も深いまどろみの床についていており、レオナルド的な兆しのある絵
は驚くべきことではない。なぜなら、美術批評家のみならず一般に批評
ロメーオの時代からこの画家[レオナルド]の作として通っていたこと
でに一四八二年にルドヴィーコ・スフォルツァの愛顧を受けていたこと
見解は正当と認められたと思っている。あらかじめ、この肖像画家はす
得て、これらの絵をアンブロージォ・デ・プレーディスの作とする私の
侯爵、知名の絵画修復家・カヴァリエーレたるカヴェナーギらの同意を
るグスラーヴォ・フリッツォーニ氏、E・ヴィスコンティ=ヴェノスタ
さてこれから手短にこれらの絵を検討しよう。ミラノの私の友人であ
爵だと思う。
ロの相貌を、他方にその妻[ベアトリーチェ・デステ]の相貌を認めた
のみ確認させていただきたい。そのことは故カンポーリ侯爵が刊行した
アンブロジアーナ美術館の二点の肖像画が枢機卿フェデリーゴ・ボッ
のは信じがたいのであるが、実はこの二人をあらわした絵画や彫刻はミ
次の史料の記述から明らかである。
1482. A Zoane Ambroso di Predj di Milano
de lo Ill. s. Lud. Sforza, Braza 10 de razo alexandrino
︵ maggio
︶
A dì 22 marzo
ラノとその近郊の教会や私邸で多く見られたものである。こうした思慮
を欠いた命名[レオナルド説]は伝承によるが、今世紀の美術史の大家
︶
depintore
︵
Sig.
︵
ミュントラーだけでなく、四○年後にはW・ボーデ氏までもが、頼るに
︶
Castello, a. c. 65
二 ほぼ同時期の作と考えられるアンブロジアーナ美術館の横顔の女
歳の青年に見える。周知のようにジャン・ガレアッツォは一四九四年に二十五歳で亡く
︵b︶この肖像画と薄幸の若い公爵のメダルとを比較していただきたい。この肖像画では二十
なった。彼は一四八九年イザベラ・ダラゴーナと結婚した。したがって問題の肖像画は
その頃描かれたと思われる。
[M]
̶ 149 ̶
(4)
はイタリア人も外国人も、無批判に伝承を信じたのである。イタリアの
足らない伝承のワナにそれと知らずにおちいったのであった。彼らはす
つまり一四八二年にアンブロージォ・デ・プレーディスはすでに独立
de campione de la Ex. De Madama, la quale gie dona la Ex. del n.ro
べて、アンブロジアーナ美術館の二点の肖像画だけでなくサンクトペテ
した画家であって、ここから彼の生年は一四五○∼六○年頃と推定され
アモレッティ神父とランツィ神父、ドイツのルモール男爵とオットー・
ルブルグの︽聖母子︾も同じ画家つまりレオナルド・ダ・ヴィンチの作
る。
一
パヴィーア伯ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ公
︵ 。
︶
の横向きの肖像画、ミラノのポッロ伯爵蔵︵†︶︵ b ︶
私の知る彼の最初期の絵は次のとおりである。
Archivio di Stato in Modena, Libro: Ricordi de la salvaroba de
と考える。しかしルモール男爵は ̶
私は十分納得できるが ̶
アンブロジ
アーナの未完の男の肖像は、横顔の女性の肖像つまりボーデ館長氏のい
う﹁驚くべき作品﹂よりも出来がよいと考える。この点だけでなく、フィ
︶
12
レンツェで油彩画が行われた年代の決定についても、二人のベルリンの
学者は意見を異にする。ボーデ氏は最近発見された︽キリストの復活︾
を手がかりに、一四七八年にはフィレンツェで油彩画が描かれていたと
考えているのに対して、ルモール男爵は十五世紀には油彩画は行われて
画家ベルナルディーノ・デ・コンティの作だと思う。
[M]︵
︵a ︶この聖母像は断じてレオナルド・ダ・ヴィンチの作ではなく、ミラノの﹁無味乾燥な﹂
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金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
なかった。よくよく案じた末に私は、自らの研究の方を信じることにし
もってつちかってきた私自身の研究を信用したらよいのか、よくわから
イツのこの目利きを信用したらよいのか、あるいは、長年愛情と忍耐を
信をもって厳しく私を難詰し狼狽させるほどに確信をいだいた高地ド
︵ 。
︶ しかし、
たレオナルドの弟子ないし模倣者の作であろうと思う ︵a ︶
れに結びつくミラノのジョヴァンニ・メルツィ公所蔵の二天使像を描い
ナ シ ョ ナ ル・ ギ ャ ラ リ ー[ ロ ン ド ン ] の︽岩 窟 の 聖 母 ︾ の コ ピ ー と こ
係がなく、いわんやレオナルド・ダ・ヴィンチの作ではない。しかし、
︶
あるいはその他であれ、ともかくアンブロー
りアンブロジアーナ美術館のすぐれた肖像画は、像主がイザベラあるい
た。したがって、私が全力をそそいで一八八○年に発表した見解、つま
も前の見解をここに引用したい。ルモールはその著書﹃三度のイタリア
利きたるルモール男爵のアンブロジアーナ美術館の肖像画に関する何年
を理解してほしいから、彼の弁護のために、高名なイタリア美術史の目
彼がよしとして私に向けた忠告に腹を立てることなどとうていないこと
は ビ ア ン カ・ マ リ ー ア ︵
ジォ・デ・プレーディスの作品であるという見解については、私自身お
レオナルドは柔和な陰を置くのを習わしとしたことははっきりしており、
損傷が散見され幼児キリストの手の上塗りは落ちているが、しかし当時
ツィ美術館︵?︶の改描のはなはだしいデッサンに見られる。この絵も
タージュ美術館所蔵︶がこの点を裏づける。この絵のモチーフはウフィッ
タ 公 所 蔵 の 優 美 な 小 品︽ 聖 母 子 ︾
︵今日サンクトペテルブルグのエルミ
りだった を
̶学んだのではないかという疑念がよぎる。アルベルト・リッ
では用いられたことがなかっただけでなく歴史的にやっと知られたばか
いか、そして彼らから油彩画 油
̶彩画はミラノ旅行以前のフィレンツェ
ラノ時代のレオナルドは低ドイツ地方の画家らと接触していたのではな
ブな描法である。妻の肖像はこれよりも劣る。この絵を前にすると、ミ
かつよくこなれてはいるが、幾分紫の色調で全体としてややプリミティ
も注目に値する。三分の一顔をこちらに向けた前者は、フォルムは入念
ンガレアッツォ︶の肖像とその妻︵ボーデ氏のいうイザベラ︶の肖像画
ジアーナにあるルドヴィーコ・スフォルツァ
︵つまりボーデ氏のいうジャ
﹄ の 七 十 三 頁 に こ う 書 い て い る。﹁ ア ン ブ ロ
Drei Reisen in Italien
旅行
は作者未詳であり、アンブロージォ・デ・プレーディスとはまったく関
︵e ︶[前頁]古のイタリア人画家の技法について私のようなしろうとにも語らせていただけ
ろうが、いずれもこれまでレオナルド筆とされてきた作品である。ウフィツィ美術館の
︵a ︶ おそらく以下のデッサンも、逸名だが注目すべきこのレオナルドの模倣者に帰されるだ
銀筆による女性頭部︵額縁一○七の四二六番、ブラウンの図録四三六番︶アンブロジアー
るとしたら、
このアンブロジアーナ美術館の未完成の肖像の技法と、[レオナルドの]ヴァ
ナ美術館の銀筆のデッサン︵真珠の首飾りを首につけた四分の三正面の女性頭部︶、
ヴァ
チカンの未完成の︽聖ヒエロニムス︾、ウフィツィ美術館の同じく未完成の︽羊飼いの
礼拝︾の技法とを、比較していただきたいと思う。アンブロジアーナ美術館の肖像画の
イマール大公館の青年の頭部︵ブラウンの図録一四九番︶︵?︶
。[M]
作者がこれら未完の肖像画の作者ではありえないとする私の判断にただちに賛同してい
ただけるだろう。
[M]
̶ 150 ̶
(3)
10
︶
よび芸術学の同学の士が責任を負うものである︵図版②︶︵ 。
図版② アンブロージォ・デ・プレーディス《女性像》
ミラノ、アンブロジアーナ美術館
アンブロジアーナ美術館所蔵の未完の肖像画について言えば、私見で
9
8
ジョヴァンニ・モレッリ『イタリア絵画論−ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館』翻訳(9)−ロンバルディア派(アンブロージォ・デ・プレーディスからソフォニズバ・アングイッソーラまで) 上田恒夫
のなせるわざであるとしたら、私としては、私にしばしばつらく当たっ
ブロージォ・デ・プレーディスとを取り違えたのは氏の学問論争の情熱
術史家も知らなかったこのマッテーオ・プレーディスと、ミラノのアン
ティ、つまり私がはじめてよみがえらせるまでボーデ氏も含めてどの美
た。ボーデ氏が凡庸な十七世紀のカラブリアの画家マッテーオ・プレー
オ・デ・プレーディスとを取り違えるとは何事かとかみついたのであっ
究してきたレオナルドと無味乾燥なロンバルディアの肖像画家マッテー
私 の 論 文 を あ か ら さ ま に 非 難 し、 事 も あ ろ う に 自 身 が 深 く 研
̶
デ館長は私の喜びを認めようとしないばかりか ̶
もちろん彼は真実にち
貢献したのではないかと誇らしく思った。しかし私は間違っていた。
ボー
告白するが、私はこうして、ささやかではあるがなにがしか芸術学に
ンニ・ガレアッツォ公の肖像も[レオナルドの]真筆であり、残念なが
ボーデ氏は続けて言う、﹁イザベラ夫人の肖像の横に掲げてあるジョヴァ
こ の 驚 く べ き 肖 像 画 は ミ ラ ノ の 凡 庸 な 肖 像 画 家 に 帰 さ れ た の で あ る ﹂。
な筆さばきを示している。しかし、最近︵つまりレルモーリエフによって︶
うに、レオナルド以外に作者が思いつかないほどに非常にみごとで完璧
︶ 認められないものの、見られるよ
ルドの初期作品に特徴的な筆致﹂︵ d は
る。簡潔でもったいぶったところのないこの横向きの肖像は、﹁レオナ
に描かれた夫の肖像 ︵c ︶と並んでミラノのアンブロジアーナ美術館にあ
ル ツ ァ の 肖 像 と も 考 え ら れ て い る ︶ す ば ら し い 作 品 が、 一 四 八 五 年 頃
といわれる︵今日皇帝マクシミリアンの妻ビアンカ・マリーア・スフォ
ンニ・ガレアッツォ・スフォルツァの妻イザベラ・ダラゴーナを描いた
た。﹁ルーヴル美術館の通称︽美しいフェロニエール︾に似た、ジョヴァ
かって
たボーデ氏を寛大に見、彼を非難しようとする気にはなれない。ボーデ
ら未完成で、それゆえにこそ特に興味を引き、レオナルドの技法がどの
[ 次 頁。
]
ようなものであったかを考えさせる﹂︵e ︶
ベルリンの学者の厳しい叱責にうろたえて、最初私は、ゆるぎない自
̶ 151 ̶
(2)
氏の誤りはイタリア美術の理解不足によるのではなくて単なる﹁筆の誤
り
﹂だったと思いたいのだ。
lapsus calami
ボーデ氏は私に対する非難を次のような浅薄なことばでしめくくっ
一四八五年にはやっと十六歳ということになるが、この肖像画では三十歳前後の歳格好
︵c ︶ ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァは一四九四年に二十五歳で亡くなっているから、
︵b︶
[前頁]私はノートブックにこの肖像画を前にして以下の特徴を記した。
①上瞼の黒い縁は目尻まで一直線に引かれ、目尻に落ちる明るい光線が上瞼と下瞼をわ
に見える。わずかばかりの世界史の知識も美術史家に役立とうというものだ。[M]
ける。私は、
上瞼の直線と下瞼の陰影のアクセントの間のこの光線はアンブロージォ・
デ・プレーディスの横向きの肖像画のすべてに認めたものであり、後の補筆ではない。
したがってこれはこの画家の顕著な特徴である。
レ オ ナ ルド 初 期のみ ご とな真 作︽金 細 工師︾ が ある︵ 二○七 番 ︶
﹂ と書い た。 そ して、
︵d︶ ボーデ氏はその一八七九年版﹃チチェローネ﹄の六二六頁で﹁パラッツォ・ピッティに
私の﹃批判的研究﹄の出版から四年後の一八八四年版﹃チチェローネ﹄第二巻六八一頁
②睫には一本一本の毛が描かれる。
③上唇のアウトラインはかたく、下唇は肉づきよくふくれている。︵保存のよい数点の
ツッオ・ピッティの︽金細工師︾をこの画家に帰した︶との一致は、レオナルド作とし
て評判の高かったパラッツォ・ピッティの︽金細工師︾︵二○七番︶がリドルフォの作
で、同氏は﹁この確かなリドルフォ・ギルランダイォの祭壇画︵レルモーリエフはパラ
であることのまぎれもない証拠である﹂と書いている。﹁時は正直者である﹂とイタリ
肖像画では小さな縦皺があらわされる。例えばアンブロジアーナ美術館の横向き女性
④鼻の縦の輪郭に強い光があてられる。
この絵について、レルモーリエフの言うがままになって判断を変えたとしたら、偏見の
像、モレッリ氏所蔵の小姓像、皇帝マッシミリアーノ像︶。
⑤重く垂れ下がる髪の毛のマスの上から光に輝く毛髪が一本一本描かれる。
ないボーデ氏が、後になって真摯な研究の調査の結果、アンブロジアーナ美術館の肖像
オナルドの構想を読者は一体どう考えたらよいのだろうか︵ ︶
。[M]
によるこの絵をあいかわらずフィレンツェの大画家の作とするなら、ボーデ氏のいうレ
画は大レオナルドの﹁驚くべき作品﹂である、などと読者に紹介することはもうないだ
ア人はいう。だから、もし、ボーデ氏がかつてレオナルドの初期の名品として賞賛した
⑥金羊毛騎士団 Torson d oro
の鎖はミニアチュール画家の描法による。
私を驚かせたこれら皇帝マクシミリアン像の特徴はアンブロジアーナ美術館の横向き女
︶
性像だけでなく、ミラノのポルディ=ペッツォーリ美術館の肖像︵ ︶
、G・フリッツォー
ろうという希望は捨てきれない。
そうでもなかったら、﹁ロンバルディア派の生硬な画工﹂
︵
ニ氏所蔵の老人像
、
﹃イエスの書 Libro del Jesus
﹄︵トリヴルツィオ公の図書館︶の
ルドヴィーコ・スフォルツァと息子マッシミリアーノ[・スフォルツァ]像︵ ︶
、モレッ
5
3
︶にも認めたところである。
7
リ氏所蔵のミラノ公として描かれたマッシミリアーノ像︵
[M]
6
4
金沢美術工芸大学 紀要 No.54 2010
一八八○年の私の批判的研究﹃ミュンヘン・ドレスデン・ベルリンの美
上 田 恒 夫
ジョヴァンニ・モレッリ
﹃イタリア絵画論│ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館 ﹄
翻 訳︵9︶│ロンバルディア派︵アンブロージォ・デ・プレーディスからソフォニズバ・
アングイッソーラまで︶
アンブロージォ・デ・プレーディス ︵ 1 ︶
﹄において、皇帝マクシミリアンの肖像のほ
Monaco, Dresda e Berlino
[キーワード] ジョヴァンニ・モレッリ 『イタリア絵画論』 目利き ルネサンス絵画
Opere dei maestri italiani nella Galleria di
十年ほど前に、
当時まったく名の知られていなかったアンブロージォ・
かにも三点の肖像画と一点のデッサンをも若い読者に示しえたのは大き
̶ 152 ̶
(1)
術館のイタリア画家の作品
デ・プレーディスという注目すべきミラノ派の肖像画家をイタリアの美
な喜びであった。事実これらはすべてレオナルド作とされていたが、私
のずと明らかになったのである。
にはアンブロージォ・デ・プレーディスの手になる作品であることがお
術愛好家に紹介する機会があった。ウィーンのアンブラス・コレクショ
ン所蔵の皇帝マクシミリアンの肖像には
︵ Predis
︶
Ambrosius de pdis
︶ 一八七三年には
︵ mediolanensis
︶ 1502
﹂と名が記され ︵a 、
melanensis
じめて、当時まで美術史家に認知されなかったこの画家に対して私は関
︶ クローとカヴァルカセレ両氏
心 を い だ い た の で あ っ た︵ 図 版 ① ︶︵ 。
︵第二巻、五○頁︶は確かにこの皇帝像について記述しているが、これ
をシェーンボルンのコレクションに移し、ナグラーが帰したようにアン
ブロージォ・ベヴィラックアではなくアンブロージォ・ベルゴニョーネ
に帰した。少々の加筆はあれ、アンブロージォ・ダ・プレーダつまりプ
レ ー デ ィ ス の こ の 肖 像 画 の 特 徴 ︵ b ︶[ 次 頁 ]を し っ か り と こ の 目 に 収 め て
いたので、まったく忘れ去られていたこの画家の作品を他の美術館でも
探索することができたのである。事実私の調査はいささか成果があり、
︵a ︶ Nagler, Monogrammisten, I, 414
参照。
図版① アンブロージォ・デ・プレーディス
《皇帝マクシミリアン一世》 ウィーン、美術史美術館
2