医学フォーラム 医学フォーラム 「私の歩んできた道」 小児科医として苦しみがあってこそ 楽しさがあることを学んだ 年間 京都府立医科大学名誉教授 澤 田 淳 《プロフィール》 昭和 年 月 大阪で出生 昭和 年 月 京都府立医科大学卒業 年 月 同大学院(小児科学専攻)修了,医学博士 年 月 国立福井療養所にて重症心身障害児医療に出会う. 年 月 京都府立医科大学小児科助手以後 講師,助教授 年 月 英国ロンドンの王立癌研究所 で「神経 芽細胞腫」の研究・臨床留学 年 月 教授就任. 小児がん,小児保健,重症心身障害児,子 どもの生命倫理,児童虐待 平成 年 月 京都府医療センター長兼任 年 月 同上退職.名誉教授 年 月 京都第二赤十字病院院長 新棟建設,病院改築,救急 医療,事故防止 年 月 同上退任 同上名誉院長 年4月 京都市子ども保健医療相談・事故防止センター(京あ んしんこども館)長 年 月 現在に至る 学会関係 日本小児科学会名誉会員,日本小児がん学会名誉会員,日本マススク リーニング学会名誉会員,日本小児外科学会名誉会員,日本小児保健 学会, ( ) 会員,アジア 会長, ( ) 会員など 主催学会・研究会 第 回日本マススクリ−ニング学会 平成 年 月 第 回日本小児がん学会 平成 年 月 第 回日本小児栄養消化器学会 平成 年 月 第 回日本小児保健学会 平成 年 月 第 回日本がん検診診断学会 平成 年 月 ( ) 第 回近畿小児科学会 平成 年 月 第 回近畿小児がん研究会 平成 年 月 児童虐待国際シンポジウム― 「性的虐待:京都からの挑戦」平成 年 月 第 回日本子どもの虐待防止学会( )平成 年 月 委員会等 消費者庁事故情報分析タスクフォース会議委員,京都府医療審議会会 長(期 年) ,府社会福祉審議会委員,府児童福祉専門部会措置審査 部会会長,府周産期医療審議会会長,府子育て支援対策協議会座長, 府虐待防止ネットワーク会議座長,府児童相談所業務外部評価委員会 座長,府教育委員会家庭教育委員会,市医療施設審議会委員など 受賞 日本母子保健奨励賞,安田記念医学賞, 京都市自治 年記 念表彰,フランスリヨン市から ,社会教育功労者文部 科学大臣表彰.社会福祉事業功労者表彰(知事表彰)社会福祉厚労者 厚生労働大臣表彰,京都府教育功労省など 医学フォーラム は じ め に 京都府立医大を卒業後 年間,大学,京都第 二赤十字(第二日赤)病院,京都市子ども保健 医療相談・事故防止センター(京―「みやこと 読む)あんしんこども館)と つの違った職場 を経験し,違った仕事を楽しくした思いを書く ことにした.共通していたのは医師としての仕 事で,看護師・事務員・各種コメディカル,京 都府・市の職員,関連機関の方達に大変お世話 になったことに感謝したい. 私が小児科医を選択した理由は,小学生の時 に出会った近くの小児科開業の先生みたいにな りたいと思ったのが,第一歩でその後その思い が続き,目標を達成したという単純なことで あった.その開業医の先生は肝癌で数十年前に 亡くなられたが,道を示していただいたことに 今でも感謝し,尊敬している.この人が私の最 初の人生の師でした. 京都府立医科大学卒業から同大学教授定 年まで(∼年 月の 年間) 年 月卒業,大阪日赤でインターン後,母 校の小児科学教室に 人の仲間と入局.安藤君 と私の指導医は故能勢 修先生 (年卒― 年 月御逝去)で,最近まで師匠でした.入局 年目の 月に福井県三方(結核)療養所へ1 か月間出張. 「療養所の前は息をせずに走る」と 地域でのうわさで外来は暇.隣町にある保健所 での 回 月の乳幼児検診の時に病気の子も診 察と入院中の沢山の結核の子どもの診療.先輩 の内科医からの耳学問と入院患児のカルテとレ ントゲン写真を見て勉強,粟粒結核やカリエス などはこの時に学んだ.翌年,大学院へ.当時 は,院 年目は基礎教室で教えを受けるシステ ムで,能勢善嗣教授(臨床指導医の兄)の生化 学教室へ.天秤ハカリで重量測定やアルカリ 酸の規定液作り等,基本は川崎 尚講師(広大・ 医学部長・名誉教授) ,岩島昭夫講師(本学名誉 教授)らえらい先生に習い,その後,院修了ま で 足のわらじを履き,生化学教室に長く居候 しお世話になった.当時,小児科中村恒男教授 が厚生省研究班「乳児及び未熟児における消化 酵素の研究」班の班員で,能勢 修先生の下で 手伝いをしたのが,研究的活動の始まりでした. その後,この研究を引きずって生化学でアミ ラーゼアイソザイムの研究を開始した.当時, の論文が に掲載され,華 やかな頃でした.真夏に毛糸のセーターを着て コールドルームに入り浸っていた.牛の膵から の結晶化を試みたが,高濃度の活性には 出来たが,結晶化に至らなかった.この時の経験 や考え方が,後に大変役立った.院年目からは 小児科病棟の主治医となり,病棟と生化学研究 室の 本立て.当時の小児科は を代表に先天代謝異常症の研究が華やかで, (ムコ多糖体代謝異 常)の 病の患児に出会い,尿中ムコ多糖 体の定量を生化学長谷川栄一助教授(後の薬理 学教授)に習い,量の多寡で を疑うことが 出来たが,質の精査による確定診断ができず, 稀で一生に 例出会うかどうかで,の患児 の尿を求めて石川県や九州まで行ったが,続け ることが困難でギブアップ.教室では糖原病の 研究が行われていたが,診断は肝生検で採取し た肝片から欠損酵素を測定をしなければならな いし,治療法もないので,症例は集まらず,行 き詰まったていた.一方,院の研究は寒天電気 泳動で血清から 本のきれいなアイソザイムの バンドが分離され発達に伴う変化を観察し,院 を終了し,学位をいただいたが,子どもとアミ ラーゼでは耳下腺炎が関連するくらいと研究を やめた.年 月 歳 ヶ月で結婚.その 後,俗に言うお礼奉公で福井療養所(旧三方療 養所)へ 回目の出張.結核が減少したので, 全国 か所の国立療養所の つとして当療養所 に福井・石川両県内の在宅重心児のために 床 の重症心身障害児(重心児)用病棟が別棟として 設置された.当時の重心児の施設は東京と滋賀 の2か所のみだった. ( )年 月,満開 の桜のトンネルを通り抜け,三方五湖を見下ろ す官舎,環境抜群の田舎で新婚生活が始まった. 小児科医は 人で結核と重心児の診療で,主な 仕事は重心児の医療体制作りであった.入所児 医学フォーラム 決定のために両県各地の在宅児を訪問した.入 所児の殆んどが寝たきりで重度知的障害を持ち, 意思の疎通を欠き,食事・排尿・排便など基本的 生活は全面介助であった.私を含め全職員が重 心児の療育経験なしで,どんな対応をすべきか わからず,唖然とした状態で,病棟をオープン した.入所時には数日間家族についてもらい食 事の種類,硬さ,食べさせ方など職員達が親か ら習い,全て親の真似をすることにした.多数 の重心児の対応は想像以上に難しく驚きの連続 であった.時間の経過とともに重心児・職員がお 互いが新しい環境に慣れて,栄養管理や感染防 止などに注意し,夜 時にも回診するなど「収 容所でないよ,医療施設だよ」 ,と自らを常に戒 めていた.しかし,どんな医療が出来るかは? で不安. 「わからない時は,親ならどうする」 か, を考えて!と頼んだ.瞬く間に,この病棟に異 臭がし始め,全員で相談した結果,口臭?と,職 員全員で 児の歯磨きを実施したところ,異臭 が消えた.この結果で職員の団結ができた.朝, 昼,夜のリズム作り,発達・発育や発症推定原 因の調査で,例の染色体異常以外は後天的な 周産期障害で,適正な周産期医療により重心児 の発生は防止できると報告した.真夏の厚生省 と施設との会議で「パチンコ屋にクーラーがあ るのに寝たきりで強直の強い汗だくの児の部屋 にクーラーがないのか」 ,と発言し,国から各施 設にクーラーが即刻,設置されたのは覚えてい る.慣れてきた頃,同年 月,突然,医局から 「帰って来い」の一言で か月で交代,大学へ. 病棟と思春期の成長発育の加速への各種ホルモ ンの影響をみる研究の手伝いで大学紛争が始ま りだした.この頃に入院中の神経芽細胞腫 ( )という悪性固形腫瘍の 歳の男の子に初めて出会った.全身への転移で 末期状態,痛いと泣いていたが間もなく死亡し た.剖検で左副腎原発 で全身に転移があ り,無残な様相であった.その時から, 「子ども は死んだらあかん,死ぬべきでない」 ,「もっと きれいな死に方があるはずだ」が口癖になった. 死亡原因は明瞭で「全摘できる早期に発見でき なかったこと」と「治療法がない」からであった. ( ) 年当時,は小児固形がんの中で最 も多く,予後不良で,転移によりリウマチ熱や 骨髄炎などと誤診されている.好発年齢は ∼ 歳,歳までに発見された例の予後は良好( 年生存―治癒でないが %)であるが,以後の 例は %過ぎない.早期発見が唯一の手段で あると日本医事新報に書いた.米国では 年 (年)に に「 」の概念が, ( )年には に 診断の立派な総説があり, 尿中のカテコラミン () やその代謝産物, + ( ) , ( )の増加から診断ができると報告され ていたのを見つけてびっくり.早速,尿の 等の測定開始.分光・蛍光光度計,薄層やペー パークロマトなど文献をみながら測定.どれも 煩雑で,週間に数検体しか測定できず,しんど かったが,満足感はあったし,尿で の生化 学的診断ができるようになった.疑例の測 定依頼が来て忙しくなったが,全て歳以上の進 行例(Ⅳ期)で死亡し,診断は出来たが,早期 発見には無効であった.当時の日本の全国集計 では の年間登録数 ∼で,早期発見は 乳児検診などで偶然触診で発見された無症状の 例 ( ) で %以下で,これらの例が 治癒する例だけだった.無症状の状態で を 発見しないと治癒率の改善が得られないことが 明瞭となった.比色判定量法では分光光度 計が必要であったのを,ろ紙上につけた 滴の 尿と試薬と反応させ,ろ紙上で の紫色の強 さを肉眼的に判定する を開発し た.この方法の 診断感度は %であったが, それでも治癒例が増加すると考えスクリーニン グ (ス) を開始した.世界で初めて京都市内の 保健所で「スクリーニング (ス) 」として 尿の採取できる 歳児で試みた.市衛生部の故 中沢課長(後に局長)の援助で,尿 滴をつけた ろ紙を研究室に持ち帰り を行う ことでき( ) ,研究費までいただいた.その 後,早期発見を目標に対象を ヶ月乳児に変え, 市の全保健所に拡大した.その後も局長の方々 にはお世話になった(大辻局長や本郷局長のご 医学フォーラム 子息達は,現在,大学外科教授や関連病院で管 理職として活躍中) . 陽性例には私が直接, 対応し の精査をさせていただいた.このシ ステムで発見した第 例は ( )年であっ た.スで早期に発見し 例でも救命できれ ばとの夢が現実になった.その後,保健所経由 で スセットを全出生児に配布し,自宅で乳児 の尿をろ紙に 滴つけ,乾燥後,尿ろ紙を郵送 する方法にしたので全国に広がり,厚生省研究 班での検討を経て国の仕事として全国的に実施 できたのは ( ) ,京都で スを初めて から 年後であった.よく続けたなあと自分で も驚いている.この状況中,ロンドンの中心に ある ( )へ留学,研究室は博物館近くの小児病院 と小児保健センター内にあり,仕事は進行 例から治療前に骨髄を採取し,骨髄中の転移 細胞を微細な鉄のビーズにくっつけた 抗体( )を 細胞と混ぜ, 細胞と結合したビーズを磁石で除去し,治 療として患者に自家 細胞除去骨髄を移植す る仕事で独,仏,伊などから夕刻にヒースロー 空港に空輸された骨髄からすぐに 細胞除去 骨髄を作成し,大きな液体窒素タンクに入れて 翌朝には空輸することであった.夜中の作業で あったが,パン,ハム,チーズではらごしらえ をして楽しんだ.最後まで残るのはボスの 写真 ( ) 年,恩師の中村恒男・楠智一両名誉教 授ご夫妻,滋賀医科大小児科教授島田司巳ご夫妻 と私と家内がびわこホテルで教授就任のお祝い に招かれて. であった.英国の切手には 国名が印刷されてないし, にある小児病院にはケベック,ボストンのよう な地名がついてない.なぜ?と聞くと英国とか, ロンドンとかの名前をつけなくてもわかる筈 だ,がと返事.英国人気質が見えるプライドの 高いお国柄であった.博物館通りやハロッズの 近くのチェルシー地区(高級住宅街)のフラッ トに住むだけで対応が変わった.赤いダブル デッカー(バス) ,チューブと呼ぶ地下鉄,美術 館や博物館などほとんどが無料,ミュージカル や音楽会も安い.中華料理,インド料理,魚貝 類はおいしい.外国の友人もたくさん出来た. 帰国後,年,の定性から札幌市衛研の 高速液体クロマ 研究で の ( トグラフィー)による定量法に変更,高価で あったが診断感度が %になった.その結果は 人の頻度で乳児 例を発見された.京 都で スを開始してから 年までの間に 例を発見し,局所の転移があっても早期 で治癒し,生存率 ∼%とすごい結果であっ た.外国ではカナダのケべック・ミネソタグ ループ,ドイツのスタットガルト,台湾,フラ ンス,オーストリア等でも行われた.治癒例が 増え,治癒しやすい例の治療プロトコールの作 成,摘出腫瘍からの基礎的,分子遺伝学的研究 など日本は外国を凌ぎ,臨床にも貢献できた. 写真 ( ) 年 月米国アトランタでの (米 国臨床がん学会)での発表後,プレスルームでの インタービューを初めて受けた. 医学フォーラム 写真 ( ) 年 月第 回神経芽細胞腫腫スク リーニング國際シンポジウムを京都で開催.記 念のハガキ. 写真 ニューオリンズでの國際スクリーニング学会に 招待を受け,ニューヨークからロスアンジェルス までの各地での 回の講演旅行をセットして下 さったガスリー教授と一緒に. 写真 ( ) 年 月 での国際学会の パーティーがベンツ博物館で開催され,展示中の ベンツ第 号の自動車に乗り会場を一周の栄誉 に.隣は館長さん. 日本で乳児 の特性の研究が進み,予後因子 としての組織像や基礎研究が発展し,世界的に 活躍できた.小児科学の教科書のバイブル的な 「ネルソンの小児科学」の か所に 編の論文が 引用されたのが,私の自慢であった.今,教室 での の予後因子や治療プロトコール,自然 治癒機構や横紋筋肉腫など予後不良小児がんの 治療関連の研究へと繋がっている.海外旅行も 回以上を越えた.しかし,治癒例が増えたの に,進行例が減らない.ヶ月のスの時期が早 すぎて,の特異的な自然治癒例(頻度不明) が含まれていると考えられ,無用な治療が行わ れたとマスコミで話題となり,厚生省に ス 時期の変更を訴えたが,一旦決めたことを変更 は出来ない,などのかたい返事で,一時中止と なり,難問を抱えたまま退官した.その後,京 都,札幌市等で適切なス時期を生後 ヶ月とし て継続されていた.乳児期スの死亡例減少の 有無を評価する厚生省研究班が発足し,結果は 「 」で「有効」と評価されたが全国的実施 は中断のままである.今後の 例の発生頻度 や予後が気になっている.教室では各研究室の 業績が増え,教授在任中の 年間の入局は 名を超え,外国留学研究者,英文論文も増え, 充実した楽しい期間であった.自分も医局メン バーも楽しくなければ,研究は続かない事が 判った.平成 年 月末 頁の立派な教授退 職記念業績集を教室・耐久会で作成していただ き 月 日教授室を去った.昨年 月,ス 発見世界第 例の当時 か月乳児が,ヶ月の 男の子を見せに奥さんと一緒にきてくれた.昔 の乳児は 歳のお父さんになっていた. 第二赤十字病院長 (年 月∼年 月の 年間) 年 月 日,京都第二日赤の院長に就任 した.前年の夏頃,第二日赤の村上 旭院長が 突然,教授室に見え,院長になってくれません か,と話されたが,大学にとって最も重要な関 連病院ですので, 「私の一存ではご返事できま 医学フォーラム せん」 ,と申し上げた.もう定年かという思い でした.年前,福井療養所から教室に帰った 時に中村教授から故斉藤二郎名誉教授が園長を されている新設の重心児施設「花明学園」に手 伝いに行ってください,と命じられてから大学 退職までの 年間,週 回通っていた施設で, 重心児の仕事をしようかなあ,と思っていたの で,内心,へエッと,こんなすごい話があるの か,と思った.年明けに,当時の栗山学長から, 渉外委員会での結果を連絡いただき,第二日赤 への就職が決まった.救急を始め臨床の優れた 病院だったので,マイナーな小児科出身でよい のか,という思いが少しあった.就任前に宇山 理雄前院長,村上旭院長と面会,状況をお聞き した.歴史的には明治 年の府庁内の療院か ら始まった病院で,大正 年の関東大震災の 後,増床を重ね,府庁前では狭いので東福寺へ 移転することになった.しかし,地域住民から の強い要望で一部の医師が残り病院を継ぎ第二 日赤,移転した東福寺の方が第一日赤となった が,歴史的には第二から第一が生まれたので あった.当時から「地域住民の健康は病院が守 るから,地域は病院を守ってください」という 気持ちが,第二日赤と地域住民の間に芽生え今 でも同じ思いです.病院の標語は「歩み入る人 にやすらぎを,帰り行く人に幸せを」で,日本の かな文字の大家日比野光鳳先生直筆の大きな額 が新棟玄関左に掲げられてある.就任後に創立 周年記念式典を行ったが,人,古玉太郎, 宇山理雄,村上旭の各院長は日赤の生え抜き で,人目の私は,新人で突然落下傘で降下で第 二日赤に降りた感じで,少々心配した.しか も,平成 ( ) 年 月 日(就任 ヶ月前) に病院に隣接した旧梅屋小学校(平成 年廃校) の跡地の一部を京都市の都心部小学校跡地活用 審議会で第二日赤に「救命救急センターと子ど も事故防止センターを一体的に整備する」こと で借用が許可された.少子化のため京都の真ん 中の有名な梅屋小学校跡地の使用決定はまるで クリスマスプレゼントのようだった.院長の仕 事に病院の管理運営に,さらに新棟建設等が加 わったわけである.月 日に教授室の荷物の 半分を第二日赤院長室へ運び込み,翌日,荷物 整理に 階の院長室へ入った.大きな机と 役 会議用机があり,東側窓から東山山麓が見える 大きな部屋であった.院長初日,小児科の清沢 部長,長村副部長等と同じ釜のめしを食った仲 間であるが,病院の内情,運営状態や職員につ いて何も知らない院長の初日は院内を看護部長 の案内で一巡り.迷路のような病院で,職員数 約 人,ベッド数 床(実働 床) ,外 来患者数約 人の大病院.外来待合は混雑, 階段にも座っている患者さん,整形外科待合の 廊下は足を伸ばしている患者さんのギプスを跨 いで歩いた.まるで野戦病院.外来や病棟で出 会う職員と看護部長との挨拶・会話から評判ど おりのすばらしい病院と感じ,終わった時に, 良い病院に来たようです,とお礼を述べた.部 屋に入ると新任院長に容赦なく,机の上に積ま れた書類が一杯.判子押しと,これから始まる 新棟建設の仕事が待ち受けていた.週 回の四 役会議のほか管理会議など,委員会が多い.院 長の経験がなく,この大病院で何をすべきか不 安.院長は医師だけ管理していただいたら結構 です,とさえ事務から言われ, 「ムウッ」とした が,何も判らないので怒れない.何も知らない 院長は裸の王様と一緒.私は各科医師,看護 部,検査部,事務各課の管理職の職員から現状, 今後,不満,貴方の部所の売りは何?,を聞く ことから始めた.医師のほとんどは同窓生で見 知った顔でホットし,多くは大学紛争中に仕事 の出来ない大学を嫌って (?) 第二日赤に勤務 した人達だったので,うまくなじめた.看護部 は噂どおり礼儀正しく,奉仕の精神で仕事して いる感じですごい.検査部はばらばらで管理が できてないので,新人の教育システムもない, 各人の守備範囲が狭く,専門性に乏しく,不満 が一杯. 「これが昔からです」 ,が 課長達の返 事.急遽,検査部長を兼任し,課長・係長会議 で今後について検討し,検査部のコンピユー ター化の導入を決めた.毎日,午前中は沢山の 書類のハンコを押し,既に,沢山の押印のある 書類の最後の印だから気楽に押したらいいのに と思いながら, 「わからんことには印を押せん」 医学フォーラム と担当者を院長室に呼び説明を受けたら,納得 と勉強ができ,病院を理解するのに大変役立っ た.時に,ベテラン派遣社員に外部から見た当 院の保険診療上の問題点等のレクチャーをして もらい,当院の立場を学んだ.当然のことだが 「院長,書類を読んでるわ」で,事務との会話が できるようになった.就任数ヶ月の頃,歳の 元気に日常自転車の乗っているご老人の心臓手 術の最中に異型輸血事故が発生した.術後に院 長室で,人のご家族に私は麻酔科医,手術担 当部長,看護師長,担当事務副部長同席の上, 間違って異型輸血をしたこと,緊急対応として 脱血,輸血,補液をおこなったことを報告し, 現状と今後について,私たちの今すべきことと しておじい様の救命に全力を尽くします.朝 夕,私も診察に行き,検査の結果と対応も報告 しますと,話をした結果,息子さんが 「わかり ました.よろしくお願いします.私達はマスコ ミに言いません. 」と返答された.術後の尿はコ カコーラ色でなく,薄い普通の尿の色で,その 後,良好に経過し,お礼を言って帰られた.日 赤本社から私は懲戒訓告,麻酔医は懲戒戒告を 受けた.年後,受診後の老人と会い, 「自転車 に乗っていますか」の問いに「はい」とニコリ と笑いながら答えてくださった.ヒヤリとした 事故も経験した. 新棟建築の方はプロポーザブル方式で「救命 救急センターの未来像」 , 「外来のあり方」 , 「手 術室の今後」 , 「ドックの今後」 , 「母子センター の将来」など 項目の課題を提示し,提案内容 と人的能力,過去の実績等全体像を評価し設計 業者選定委員会で決めた.建築に関わる委員会 の委員は全員,完成後の借金返済の時期に勤務 している職員を充てることを原則とした.した がって,若い職員も多数参画した.既存棟建物 に地下 , 地上 の新棟 を加えて従 来の 倍の容積になったが,増床することな く患者さんの居住環境をよくすること,と,旧 病棟の改修も計画に入れた.新棟には,日本で 最初に救急救命センターを作られた宇山理雄元 院長の夢を叶えるというロマンがあった.実施 設計のための各委員会を設置,委員は各科の利 害を超え,病院全体として新棟の各フロアーの 機能と役割を決めることを優先することを決め た. 「経費がいくら?」 ,が最大の心配事.事務 部長が「いけるとこまでしましょう」 ,との返 事. 「ブレーキを掛けてくださいよ」との会話を しながら,地下 ,に放射線関係・検査・中 材,は救命救急センター外来,は一般外 来,手術室,に 救急救命病棟, 消化器系関連,循環器系関連,母子セン ターが入り,各階の委員長に四役や管理職を当 てて設計を任せた.救命救急センターを受 診・入院した患者が階を上るたびに改善・退院 となるイメージを持っていた.先年,米国ブッ シュ大統領が京都迎賓館を訪問の際,事前にホ ワイトハウスの医療担当官が当院に大統領上洛 中の有事の緊急対応の相談に訪れたことを思い 出す.機能面では,電子カルテ導入に伴う 化 などを中心に進め,手術場では現在 室を 室 に増加したい,との案に,こんな数と大きさが 必要かと思い,全室を使用すると看護師不足が 起こるし,導線が長い等の問題点もあったが, 緊急対応が必要な時や次の手術場の改修は数十 年以上先と考え サインを出した.完成後,手 術室を見て,ゆったりして良かったなあ,であっ た.手術器具の新調など億の費用が必要だった が,手術件数の増加など万事 で今はよかっ たと思っている.設計に 年かかり,その後, 旧小学校の解体,埋蔵文化財発掘調査,建設工 事に 年費やした.近隣の住民に工事の騒音, トラックの出入に伴い道路の汚れなどを気にし ながら,工事は順調に進行したが,大変な作業 だった.職員は生き生きとし,忙しいのをよく 我慢してくれた.年 月 日午後 時 分過ぎ,突然,脳幹部の梗塞を発症(回目) した.詳細は日本医事新報の に「紺屋の白袴の話」として掲 載.早期発見に役立つのでご一読ください.本 院に入院してリハビリをしていた.工事は順調 に進み,竣工式は平成 年 月 日と決まり, 立って歩いて演壇の上から 挨拶が出来るか,を 心配しながらリハビリを頑張った.入院患者の 立場から,職員の働きを密に経験・観察でき, 医学フォーラム 自信のもてる良い病院であることがわかった. 竣工式を無事終えて病院はフル運転を開始し た.廊下や待合を歩いていると多くの患者さん から「きれいになってよかったですね」と声を かけていただいた. 「良いことができた」が私の 思い.こんな大事業を成す機会を得たのは大変 な幸運だと思っています.年目は既存棟の改 修で,病院の北半分は事務系,外来は全て予約 制にし,ドック,リハビリ,会議室など,南半 分は外来と病棟にして病室は新棟と同レベルに 広げた.外来待合も広げ,災害発生時には緊急 対応できる配管等も整えた.北から南に通じる 本道を作って,迷路は少々解消した.喉の詰 まる感じで胃内視鏡検査を受け,数日後に生検 組織からがん細胞 (+) で中島副院長から「先 生!胃がんです. 」と告げられ,突然,がんと告 げられた患者の気持ちも経験した.担当の田中 聖人先生から「胃穿孔のリスクがありますが, 内視鏡で摘出をしましょう」と決まり,上手に 摘出して頂いた.術後,人工胃潰瘍の痛みを経 験し,日目に,島根,久留米への学会にも参加 できた. その後,本院は病院機能評価を受け,対 応,地域支援病院の資格も得て,財政基盤の整 備をもはかった.院長 年目は既存等の改修の 残りと改築後の経営の行方を見ることであっ た.病院業務の 化,経営の健全化では中島正 継副院長を中心として,竹中温副院長,中島看 護部長,事務部長たち 役の働きで職員全員の 気運の高まりがあったことを感じながら「私は 何をしに第二日赤に来たのか」としんどくて苦 しみながらも新しい建物が出来た.私に託され た病棟新築,既存棟改修等,院内業務の 化を 軌道に乗せ,幸運なことに 数十億円,が沢 山の大金を使った大事業を完成させていただい た.後顧の憂いなく,借金の返済の仕事を現中 島院長にスムースにバトンタッチ出来た.幸運 にも楽しく 年間を過ごせた. 一方,跡地借用条件に一体化して「子どもの 事故防止センターを整備する」ことが条件で あったが,これは本院元副院長・小児科部長で 親友の故水田隆三先生(卒,同級生)や小 児科医達が小児救急や事故防止に業績を挙げて いたのが評価された結果であったと思う.友の 夢を達成しようと丸太町通に面する南側の空き の 階建ての 地に梅屋地区自治会を含む 事故防止センターを建設,設計は長村敏生副部 長に任せ海外の施設を参考に,日本で最初の医 師が常駐する施設とした.仕事は子育て中の親 からの相談事業と事故防止の啓発で,平成 年 月に竣工した.センター長に故能勢 修元第 一日赤院長(小児科医・私の指導医)に 年間 依頼した. 京都市子ども保健・医療相談・事故 防止センター(京あんしんこども館) (年 月へ現在) 当施設のセンター長に 年 月に就任し た.この施設の役割は看板通り「子どもの保健・ 医療相談と事故防止」を考えるセンターで,親 があんしんできるような相談,指導をする所 で,特に育児中のお母さん達に安心してもらえ るように医師が即座に返答・指示できるように した日本唯一の施設で,職員は常勤事務員 名, 嘱託医師と保健師あるいは看護師の ∼人が 常在し,対応している小所帯です.そのほか週 回,各 時間,京都小児科医会による専門相談 があるし,第二日赤とドア 枚でつながってい る利便性を備えている.第二日赤が京都市の委 託を受けて運営している.施設には子どもの事 故防止のための情報や「セーフテイーハウス」 があり,事故発生現場を作り,見学・説明して いる.その他,事故防止の講習会や子育てに関 する研修会,保健医療相談を電話や面接で直接 行っている.年度までの見学者は 人 ( 人 年) ,相談者は 人( 人 年) , 心肺蘇生講習会 回( 年) ,交通安全チャイ ルドシート装着・自転車二人乗り講習会 回 ( 年)等を行い,子育て支援・事故防止等の研 修会は 回(回 年)で,医療・保健・福祉 を学んでいる学生や関連施設の職員等や行政機 関からの職員の見学が多い.京都市内だけでな く,府内,他府県,海外からも利用されている. 忙しくなり,職員やボランテイアの増員を計っ 医学フォーラム 写真 ( ) 年 月 竹内義博滋賀医大小児科教 授の「乳児ケイレン國際シンポジウム」に集まっ た同門の教授達と一緒.下右から島田名誉教授 (卒) ,竹内夫人,私,上右から,細井教授( 卒) ,竹内教授(卒) ,杉本名誉教授(卒) , 山野恒一大阪市大小児科名譽教授(卒) .同門 から他に 名の同世代の医学部教授を輩出してい る. ている.私は週 回の嘱託センター長を 年 から務め,当初の仕事は, 「京(みやこと読む)あ んしんこども館」の「広報」であった.長い名 前と奇妙な略称では誰も知らない,近所の人に も知られていない状況であった.なりふりかま わず新聞,地域の広報誌,,ラジオ,パン レット作成,周年記念事業には 「未知やすえさ んとのトークショウ」 , 「上京中学のブラスバン ド部演奏」を行い,広報の難しさ,の効果は 有効であるが,一時的でしかない,など苦労し た.しかし,地方区として現状を全国区にしな ければと,保健医療相談の分析結果から母親の 育児不安の内容や発生した事故から予防への広 報等,日本小児保健学会で発表,学会誌に論文 掲載,京都では京都医報や京都医学会雑誌に論 文投稿等をして,保健,福祉,看護関連の大学 や育児にかかわる施設や の職員への研修 会が増すにつれて,忙しくなってきた.年 月 日「回目の脳幹部梗塞を発症」 (日本医 事新報 に 「回目の人生を楽し んでます」掲載) ,懸命の治療とリハビリで回 復,鬱状態から這い出て,杖を突きながら講義 が出来るまで声が出るようになった.当セン ターの を見て消費者庁から当館の見学と仕 事内容を聞きに来た.現在,進行中の仕事は, と 年度に市内で出生した全赤ちゃんを 対象に事故発生の調査中です.これまで日本に ない仕事です.年度から開始して 年目で すが,から歳未満の乳児の集計ができ,あと 年で 歳までの事故発生の疫学調査が終わり, その解析の結果,どのような介入をすれば事故 が減らせるかを考えます.その後の介入による 減少が見えるかどうか楽しみです.半分に減ら すのが当初の目的だったのです.今年 月から 消費者庁の事故情報分析・防止タスクフォース 会合に呼ばれています.年 ∼回の会議です. 内閣府政務官や消費者庁副大臣ともお会いしま した.年 月には消費者庁特命大臣岡崎ト ミ子氏がセンターの見学に来られました.歳 未満の乳児ではベッド,ソファ,椅子からの転 落事故が多いこと,お菓子の包み紙・ビニール の切れ端,シールなどの誤飲が多いことを報告 したのは日本で初めてでしょう. 長い 年でしたが,あっという間に過ぎたよ うです.どの時期も,何かすることがあったの で,家族,先輩,仲間,友人たちのお陰で楽し く過ごせましたし,医師としても,色々な病気 や鬱状態まで経験し,患者の気持ちを理解する のに少しは近づいた気がしています.この間に お世話になった人,最初に,モチベイションを 与えてくれた小児科開業医,大学で小児科中村 恒男先生,楠 智一先生,能勢修先生,今宿晋 作先生,高田洋先生,生化学の能勢善嗣先生, 微生物の岸田綱太郎先生,病理の藤田哲也先 生,先輩,同僚,後輩に,第二日赤時代には荒 巻知事様,草木副知事様,中坊公平様,日赤本 社理事古川敏一様,新棟の壁の絵画の飾りには 上村淳之先生,漆工芸で伊藤裕司先生,書道の 日比野光鳳先生,京あんしんこども館では門川 大作市長,星川茂一副市長様には大変お世話に なりました.有難うございました.厚くお礼申 し上げます.
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