第2章 日南市の維持向上すべき歴史的風致 日 南 市 には 、 これ ま で守 り 伝 えられてきた多 く の文 化 遺 産 が 存 在 す る。 そ れらは 、 前 章 で 述 べた関 連 文 化 財 群 の中 に組 み入 れ られるものも 多 い。 日 南 市 歴 史 文 化 基 本 構 想 中 の 8 つの 関 連 文 化 財 群 は 、 歴 史 的 に 共 通 項 があ り、 群 として 把 握 するこ とで 価 値 が 明 確 になる、 地 域 の歴 史 や文 化 、 伝 統 を よく 表 していること等 を 条 件 に 設 定 した。 一 方 、 歴 史 的 風 致 とは 「 地 域 におけるその 固 有 の歴 史 及 び 伝 統 を 反 映 した人 々 の 活 動 と その活 動 が行 わ れる歴 史 的 価 値 の 高 い建 造 物 及 びその 周 辺 の 市 街 地 とが 一 体 となって形 成 してきた良 好 な 市 街 地 の環 境 」 ( 歴 史 ま ちづ く り法 第 1 条 ) である。 つまり、 下 記 の 3 つの条 件 をすべて 揃 うこと が、 歴 史 的 風 致 の前 提 条 件 となる 。 ① 歴 史 や伝 統 を 反 映 した活 動 が 、 現 在 、 行 わ れていること ② ① の 活 動 が歴 史 的 価 値 の 高 い建 造 物 で行 わ れていること ③ ① の 活 動 と ② の 建 造 物 が 一 体 となって良 好 な 市 街 地 の 環 境 を 形 成 していること こうした条 件 を踏 まえて 、 日 南 市 の 8 つの 関 連 文 化 財 群 を検 討 した 結 果 、 以 下 の 6 つの 日 南 市 の 維 持 向 上 すべき 歴 史 的 風 致 を 見 いだ した。 No. 関連文化財群名 No. 維持向上すべき歴史的風致 1 飫肥城とその城下 1 飫肥城周辺にみられる歴史的風致 2 飫肥杉林に囲まれた坂元棚⽥ 2 泰平踊にみる歴史的風致 3 港町油津と堀川運河 3 ⽥ノ上⼋幡神社の弥五郎⼈形⾏事にみる歴史的風致 4 鵜⼾⼭信仰と⽇向神話 4 ⼩村寿太郎侯顕彰にみる歴史的風致 5 榎原神社と門前町 5 鵜⼾⼭にみる歴史的風致 6 外浦・目井津・大堂津と町並み 6 飫肥杉林に囲まれた坂元棚⽥にみる歴史的風致 7 飫肥街道と山仮屋関所 8 伊東と島津の中世城郭群 47 1 飫肥城周辺にみられる歴史的風致 日 南 市 飫 肥 は 、 飫 肥 藩 伊 東 家 5 万 1 千 石 の城 下 町 であった 。 明 治 時 代 以 後 も南 那 珂 郡 役 所 がおかれ 、 南 那 珂 ( 現 在 の日 南 市 ・ 串 間 市 ) 地 域 の政 治 の 中 心 地 として 栄 えた。 飫 肥 の名 の 初 見 は 、『 倭 名 類 聚 抄 』であり 、「 宮 崎 郡 飫 肥 郷 」と してその名 があらわ れる。 その後 、 平 安 時 代 後 期 になって大 隅 、 薩 摩 地 方 に島 津 荘 が成 立 し 、 飫 肥 の 地 は その寄 郡 と なって奈 良 の興 福 寺 一 乗 院 が 領 家 となる 。南 北 朝 期 には 、『 長 谷 場 文 書 』に より当 時 の 荘 園 の様 子 が 詳 しく 伺 える 。 同 文 書 によれば 、 康 安 3 年 ( 1 34 4) に長 谷 場 鶴 一 丸 という 人 物 が飫 肥 北 郷 の 弁 斉 使 代 官 職 及 び収 納 使 職 に任 じら れる。前 任 者 の 水 間 栄 証 、忠 政 親 子 は 年 貢 を 納 めないため解 任 された が、承 和 2 年 ( 1 3 64) に は 、城 郭 を 構 えて抵 抗 したことが 記 されている。こ のことから、 南 北 朝 期 には 、 飫 肥 の地 に 城 が 築 かれていたこと が伺 え る。 室 町 時 代 から 戦 国 時 代 にかけても 島 津 氏 が 飫 肥 の 地 を 支 配 する。 飫 肥 城 主 の 名 が 最 初 に 出 てく るのは 、 長 禄 2 年 ( 1 45 8) の島 津 氏 の 一 族 である 新 納 忠 続 で ある。 その後 、 文 明 1 8 年 ( 14 8 6) に 島 津 忠 廉 が飫 肥 城 主 となってか ら、 忠 朝 、 忠 広 、 忠 親 といわ ゆる豊 州 島 津 家 の 飫 肥 城 支 配 が 続 く 。こ の時 期 に 、宮 崎 平 野 か ら日 向 全 域 に勢 力 を 伸 ばした伊 東 氏 が、琉 球 や 大 陸 との交 易 拠 点 を 求 めて、 島 津 氏 と対 立 す るのは 必 然 であった。 い さ く ひ さ と し 文 明 16 年 ( 1 48 4 )、同 1 7 年 ( 14 8 5) 、伊 東 祐 国 が 櫛 間 城 主 伊 作 久 逸 と図 っ て、飫 肥 城( 城 主 新 納 忠 続 )を 攻 めた 。この 戦 で祐 国 が 戦 死 して、伊 東 一 族 間 の争 い( 野 村 の 乱 、綾 の 乱 、 山 裏 一 揆 ) がおこった 。 これらの 内 紛 が鎮 静 化 した天 文 1 0 年 (1 5 41 ) 、 義 祐 は 飫 肥 城 ( 城 主 島 津 忠 広 ) への攻 撃 を 開 始 した 。 以 後 、 義 祐 は 、 永 禄 1 1 年 ( 15 6 8) に島 津 忠 親 から飫 肥 城 を明 け 渡 されるまでの 2 8 年 間 にわ たって飫 肥 の地 を攻 め続 けること に なる。 飫 肥 の地 を支 配 し た時 点 で 、 伊 東 義 祐 は 日 向 国 の大 半 である伊 東 氏 4 8 城 (合 計 53 8 0 町 8 段 ) を 支 配 するこ と になった。 飫 肥 の地 の 支 配 権 を 巡 る伊 東 氏 と島 津 氏 の 争 いによって、 飫 肥 城 は 中 世 城 郭 と して完 成 し たと考 え られる。 とりわ け、 飫 肥 城 の中 核 と な る13の 曲 郭 群 は 、 この 時 期 に 完 成 した可 能 性 が 高 い。 ま た、 飫 肥 城 を 取 りまく 山 々 には 城 郭 が築 かれ 、 伊 東 ・ 島 津 両 軍 による 激 しい戦 の一 端 が窺 える 。 飫 肥 城 は 日 向 灘 か ら 約 8 ㎞ 内 陸 の 四 方 を山 に囲 まれ た小 盆 地 に位 置 する。 鰐 塚 山 系 から 流 れ出 た酒 谷 川 が城 下 町 の西 、 南 、 東 を 蛇 行 して取 り巻 き、 外 堀 の 役 割 を 果 たしており、 飫 肥 城 は 城 下 の北 の 一 段 高 いシラス 台 地 を縦 横 に空 堀 で 区 画 した 広 大 な城 域 を持 つ。その城 域 は、 江 戸 時 代 前 期 に本 丸 と二 曲 輪 とされる範 囲 だ けでも東 西 約 750m 、 南 北 400m に及 ぶ 。 戦 国 期 における飫 肥 城 の縄 張 りは 、 承 応 2 年 ( 16 5 3) 頃 の図 と 貞 享 2 年 ( 1 68 5 ) の図 によ っ て大 まかに把 握 するこ と ができる。 これらの 図 に よると、 シ ラス台 地 によ って一 段 と 高 く なった城 内 中 心 部 は 、 空 堀 によ って区 切 られた 1 3 の曲 輪 と 犬 馬 場 、 御 倉 から なり、 南 側 と東 側 は 深 く 48 掘 られた 空 堀 によって区 切 られている 。西 側 は 酒 谷 川 、北 側 は 急 峻 なシラス台 地 の 崖 となる が、 唯 一 谷 となる 北 側 中 央 の御 倉 には 延 長 5 5m 以 上 、 高 さ 5. 8 m の石 垣 が築 か れ、 その外 側 の 池 に水 を湛 えていた 。 この城 内 中 心 部 の 南 に は 貞 享 2 年 (1 6 85 )の図 に三 曲 輪 とされた低 丘 陵 が拡 がっており、 飫 肥 城 の外 郭 となっている 。 貞 享 2 年 (1 6 85 )の図 に描 かれた 追 手( 大 手 )門 や本 丸 の 虎 口 、搦 手 門 、二 曲 輪( 犬 馬 場 )、 谷 ノ口 の 石 垣 と池 な ど は 伊 東 祐 兵 が 飫 肥 城 に 入 ってからの造 作 である と思 わ れる。また、追 手 門 から宮 ( 田 ノ 上 八 幡 ) の下 に 延 びる空 堀 も 犬 馬 場 や三 曲 輪 の 屋 敷 割 に ともなって掘 り直 さ れたと 思 わ れるが、慶 長 年 間 ( 15 9 6~ 1 61 5) 以 前 の可 能 性 が高 い( 平 部 嶠 南『 日 向 纂 記 』)。 伊 東 側 の史 料 には これ らの改 修 記 事 が残 され ていないが、島 津 側 の 史 料 では 寛 永 2 1 年 ( 16 44 ) に城 内 中 心 部 において 、 本 丸 、 一 之 丸 の 間 を 埋 めて、 一 つ にするよう な普 請 がなされているこ とを伝 えている( 『 旧 記 雑 録 』 後 6 付 録 1- 44 2 ) 。 その後 も 部 分 的 な改 修 があったらしく 、 寛 文 2 年 (1 6 62 ) の図 では 現 在 残 されている 石 垣 と同 じものが 描 か れている。 この よ う に 、 貞 享 2 年 ( 1 6 8 5 ) ま で の 飫 肥 城 は 伊 東 氏 の 入 城 に よ る 多 少 の 改 変 が あ る も の の 、 戦 国 期 の飫 肥 城 の 縄 張 りを 良 好 に留 めていると考 えられる 。 じょうこう 飫 肥 城 の 石 垣 や 城 隍 が現 在 の姿 に 改 修 されたの は 、寛 文 2 年 ( 16 6 2) 9 月 1 9 日 夜 、日 向 灘 を震 源 とするマ グニチュ ード 7 . 6 という 大 地 震 が 発 生 し 、地 震 と 津 波 によ って飫 肥 藩 の 藩 領 や 飫 肥 城 が 大 きな 被 害 を 受 けたからである。 震 源 に近 い清 武 ( 清 武 町 ) では 、 加 江 田 川 河 口 周 辺 を中 心 に 本 田 畠 46 0 町 、 8, 5 0 0 石 余 ( う ち 2 ,5 2 5 石 は 水 没 ) 、 潰 家 1 , 21 3 軒 ( う ち 13 6 軒 は 水 没 ) 、 被 災 者 2 , 3 9 8 人 のうち 死 者 1 5 人 と いう甚 大 な 被 害 であっ た。 ( 「 万 覚 ( 抄 ) 」 近 4 - 72 6 ) 。 当 然 のこ とながら 飫 肥 城 下 にも 多 大 な 被 害 が及 んでい る。 『 日 向 纂 記 』 によ る じょうこう と、飫 肥 城 の 石 垣 9 ヶ 所 9 2 間 が 壊 れ 、城 隍 2 ヶ所 が埋 もれる とと もに 、諸 士 屋 敷 土 蔵 石 垣 な どの破 損 数 えきれず とあり、 被 害 の 大 きさが 想 像 される 。 寛 文 大 地 震 か らの復 旧 も間 もない延 宝 8 年 ( 16 8 0)、再 度 日 向 灘 を震 源 と する 大 地 震 が 飫 肥 藩 を 襲 った。さらに、 延 宝 の 地 震 からわ ず かに 4 年 後 の 貞 享 元 年 (1 6 84 )1 1 月 6 日 、再 度 大 地 震 が 発 生 した。寛 文 2 年 ( 1 66 2) から数 えて 2 3 年 間 に 3 回 もの大 地 震 の発 生 である。 この 地 震 で 本 丸 の公 寝 所 の 下 が 破 裂 し、 いよいよ本 丸 の建 物 が維 持 できなく なったため、 翌 年 8 月 、 平 部 小 左 衛 門 を幕 府 に 遣 わ して、 飫 肥 城 の 大 規 模 改 修 を願 い 出 て、 貞 享 3 年 飫肥城石垣にみられる飫肥積み (1 68 6) 、 飫 肥 藩 内 を 地 区 別 に 6 組 に 分 け、 百 姓 は もとよ り、 国 中 の 諸 士 足 軽 、 小 者 にいた る 1 6 歳 以 上 6 0 歳 まで 、 1 組 5 0 0 人 として 総 勢 3 ,0 0 0 人 が 動 員 された 。各 組 は 一 日 ごと に交 替 して作 業 を行 い、10 月 1 4 日 には 地 形 普 請 を終 了 している。 引 き続 き石 垣 普 請 が 行 わ れ、元 禄 4 年 ( 16 9 1) に石 垣 ・ 土 居 の普 請 を 終 了 した 。なお、石 垣 に 使 用 した 石 材 は シラス が固 まった 溶 結 凝 灰 岩 で、飫 肥 城 下 の 南 に 近 年 まで 石 切 場 があった こと 49 から、 飫 肥 城 周 辺 から 持 ち運 んだ とみられる。 ( このときに 積 ま れた石 垣 に、 後 で 述 べる目 地 が半 円 形 になる飫 肥 積 がみられる。 ) 元 禄 6 年 (1693)5 月 16 日 大 書 院 、 小 書 院 、 松 の間 、 小 座 敷 、 大 広 間 、 舞 台 の間 、 後 宮 などから なる本 館 が完 成 し、 5 月 2 8 日 に 落 成 式 が 行 わ れ た。 現 在 の飫 肥 城 下 町 は 、 豊 州 島 津 家 が 城 主 であった戦 国 時 代 の 地 割 りに加 えて 、 天 正 年 間 (1 57 3 ~ 1 5 92 )に飫 肥 城 に入 部 し た飫 肥 藩 初 代 藩 主 伊 東 祐 兵 が建 設 し たものが元 になっている と考 えら れる。 江 戸 初 期 に書 か れた『 日 向 記 』 には 、 「 此 年 ( 慶 長 四 ) 飫 肥 前 津 留 屋 敷 割 アリテ種 子 筒 町 ヲ立 玉 フ」とあり 、慶 長 4 年 ( 1 59 9) に前 鶴 の屋 敷 割 を 行 い 、種 子 筒 町 を 立 てた ことが 分 かる。また、承 応 年 間 ( 16 5 2~ 1 65 4)の 城 下 絵 図 では 、現 在 の 地 割 りとほぼ 同 じ地 割 り が描 かれていることから 、 江 戸 時 代 でも 早 い時 期 に城 下 の 地 割 りは 完 成 した とみられる。 飫 肥 城 下 のうち 、酒 谷 川 と 山 川 に 区 画 された主 要 部 分 の 範 囲 は 、飫 肥 城 を含 める と、東 西 約 85 0 m、 南 北 9 00 m になる。 さら に城 下 の 東 には 飫 肥 街 道 沿 いに 「 唐 人 町 」 が あった。 また 、 飫 肥 城 周 辺 の 丘 陵 上 には 広 い 範 囲 にわ たって屋 敷 割 が認 めら れる。明 治 時 代 以 降 の人 口 増 加 に 伴 い、 酒 谷 川 の河 川 敷 であった小 川 地 区 と 新 町 地 区 が新 たに 住 宅 化 してい ったが、 西 南 戦 争 や第 2 次 世 界 大 戦 の戦 災 にも 遭 わ ず 、 大 規 模 な開 発 もなかったことから 、 こ の江 戸 時 代 前 期 に形 成 された城 下 町 の地 割 り が現 在 まで良 好 に 保 存 されることとなった 。 50 承 応 年 間 (1652~ 1655)飫 肥 城 下 絵 図 現代の飫肥地区 航空写真 51 その 結 果 、 武 家 屋 敷 の格 式 に 応 じた 門 構 え と石 垣 、 生 垣 が 連 続 して保 存 さ れることと なり 、 飫 肥 城 周 辺 で 保 存 状 態 の良 い 範 囲 は 、 「 地 方 における小 規 模 な城 下 町 の典 型 的 なもの として侍 屋 敷 の歴 史 的 風 致 を よく あらわ し我 が 国 にとってもその 価 値 は 高 い 」 と して、 昭 和 5 2 年 (1 97 7) に、 九 州 で最 初 の重 要 伝 統 的 建 造 物 群 保 存 地 区 に選 定 された 。また 、飫 肥 城 下 町 全 体 につ いても、明 治 時 代 に 歓 楽 街 として 発 達 した 新 町 や住 居 地 として拡 大 し 連続して保存された石垣や生垣 た小 川 地 区 を含 め、 伝 統 的 建 造 物 や外 構 とし ての石 垣 や (横馬場) 生 垣 、 門 等 が 数 多 く 残 されており、 往 時 の 歴 史 的 景 観 を 維 持 している。 さらに 、 城 下 町 を 取 り 巻 く 酒 谷 川 や周 囲 の 山 々 も 一 部 を除 いて開 発 されることなく 、 全 体 として良 好 な景 観 を 維 持 している。 と りわ け、 飫 肥 城 の 石 垣 や武 家 屋 敷 に 数 多 く 見 られる 石 垣 のほ とんどは 当 地 で「 飫 肥 石 」 と呼 ば れ る溶 結 凝 灰 岩 が 使 用 されており、飫 肥 城 下 町 全 体 が「 石 垣 の町 」 と呼 んでもいいほどに、飫 肥 城 下 の 歴 史 的 景 観 の重 要 な 構 成 要 素 となっている。飫 肥 石 は いまから 約 2 万 7 千 年 前 に、 姶 良 火 山 ( 鹿 児 島 湾 が 噴 火 口 ) が大 噴 火 した と きの巨 大 火 砕 流 ( 入 戸 火 砕 流 ) に よ る 堆 積 物 ( シ ラ ス )が 固 ま っ た 石 で 、市 内 の 至 る 所 で 産 出 し て い る 。 飫肥石の石垣に囲まれた武家屋敷 こ の 飫 肥 石 は 、酒 谷 川 周 辺 で 採 掘 さ れ 、比 較 的 柔 く 、 (後町通) 加工しやすいことから至る所で活用されている。 飫 肥 城 下 の 武 家 屋 敷 に み ら れ る 石 垣 は 、飫 肥 積 が 城 下 の 各 所 に 認 め ら れ る こ と か ら 、 元 禄 年 間 (1 6 88 ~ 17 0 4) の 飫 肥 城 改 築 以 後 か ら 武 家 屋 敷 の 外 構 と し て 積 み 始 め ら れ た と 考 えられる。城下周辺の墓地における飫肥石の墓碑についても同じ時期から増加するこ とから、飫肥石が家臣団の生活に使用され始めたことを裏付けている。 武家屋敷で多用された飫肥石の乱積みによる石垣は、 飫肥城下におけるステータスのシンボルであり、明治 時代以降も引き続き布積み、谷積み、間知積みなど各 種 の 石 垣 が 屋 敷 地 の 外 構 と さ れ て き た 。昭 和 4 0 年 代 の 県道元狩倉日南線の拡幅工事においては、旧飫肥藩の 有力家臣であった稲澤家の乱積み石垣と薬医門をセッ トバックして保存しているばかりか、新たに築いた近 隣の石垣もすべて飫肥石による間知積みの石垣であっ た。飫肥石の石垣の裏側(屋敷地内)や下級家臣の屋 52 乱積み石垣の稲澤家 敷地では玉石による石垣も見られる。各石垣上にはお茶の木等を植えており、その連 続性が現在の飫肥城下町の景観を形成している。 横 馬 場 と八 幡 馬 場 の 角 地 に 位 置 する上 級 家 臣 の旧 伊 東 伝 左 衛 門 家 は 、 南 面 と東 面 に 高 さ 2 m 近 い切 石 積 みの飫 肥 石 の石 垣 を 巡 らせ、 東 向 きの 入 口 に は 石 段 が ある。石 垣 の 築 造 年 代 は 不 明 であるが、元 禄 年 間 以 降 、 現 在 の 主 屋 が建 てられ た 1 9 世 紀 中 頃 までの 間 と 考 えら れる。門 からの アプロー チに対 して縦 長 の 建 物 配 置 となっ ており、 玄 関 は 式 台 で 、 本 来 は 脇 玄 関 ( 次 玄 関 ) を 設 けていた。建 物 の床 は 地 面 から 高 く 、 材 は すべて飫 肥 杉 旧 伊 東 伝 左 衛 門 家 (武 家 屋 敷 ) を用 いている。 屋 根 も 本 来 は 茅 葺 で 、 下 屋 は 飫 肥 瓦 で 葺 かれていた。 屋 敷 地 内 には 主 屋 の外 に 、 本 来 は 納 屋 や 蔵 、 台 所 、 浴 室 、 便 所 等 が 配 置 さ れ、 その 後 は 畑 となっていたと思 わ れるが、 現 在 は 失 わ れている。 大 手 門 通 り と後 町 通 りの角 地 にある小 鹿 倉 家 は 、明 治 1 2 年 ( 18 7 9)に 壱 岐 宗 淳 が 、 取 り 壊 された 飫 肥 城 の 小 書 院 の地 板 や欄 間 を 入 手 して建 設 した 。 屋 敷 地 を 囲 う 2 m を 超 える高 さの 石 垣 は 飫 肥 城 下 の 武 家 屋 敷 の中 でも古 い 時 期 と 考 えられ、飫 肥 城 と 同 じ 切 石 積 み の飫 肥 積 がみられる 。石 垣 の 間 にある東 向 き の入 口 に は 石 段 がある。 建 物 の 玄 関 は 、 主 玄 関 と脇 玄 関 があ る。 800 坪 を超 える屋 敷 地 内 には、 蔵 や納 屋 があり、 小鹿倉家 畑 もある。 前 鶴 馬 場 の中 央 から やや東 寄 りの 北 側 に 位 置 する 勝 目 氏 庭 園 は 、南 面 は 切 石 積 みの石 垣 で冠 木 門 を構 え、東 面 は 玉 石 積 みの石 垣 にお 茶 の木 が植 え られてお り、前 鶴 馬 場 における 武 家 屋 敷 の典 型 的 な外 観 である。 内 部 の 庭 園 は 、 勝 目 氏 庭 園 として 宮 崎 県 名 勝 に指 定 されている江 戸 時 代 中 期 の枯 山 水 の 庭 園 で、 往 時 の 姿 を良 く 留 めている。敷 地 は 約 30 0 坪 で 、主 屋 は 昭 和 3 5 年 ( 1 96 0) に建 築 され た木 造 平 屋 建 で 、庭 園 に面 して 勝目氏庭園 4 部 屋 が 並 列 する。 飫 肥 城 下 町 は 、明 治 時 代 以 降 、郡 役 所 など の公 共 建 築 物 や医 院 な どで洋 館 も建 てられた 。 現 在 は 、 旧 飯 田 医 院 と 梅 村 家 住 宅 、 鳥 居 下 公 民 館 ( 旧 鹿 児 島 銀 行 ) の 3 棟 が、 飫 肥 の 町 のランドマーク 的 な 存 在 となっている。このうち、旧 飯 田 医 院 は 、側 溝 から立 ち 上 がる伝 統 的 な 石 垣 の 上 に 、 切 石 によ る板 石 の 石 塀 が造 られ ており、 長 大 な飫 肥 石 の門 柱 とと もに、 近 代 建 53 築 と 伝 統 的 な 石 積 みが 融 合 して、 一 体 的 な 歴 史 的 景 観 となっている。 梅 村 家 住 宅 は 、 飫 肥 石 の石 垣 に 囲 わ れていて、 飫 肥 の 伝 統 的 な 外 観 と 近 代 洋 風 建 築 が合 わ さった歴 史 的 景 観 を 生 み出 している。 鳥 居 下 公 民 館 は 、 八 幡 通 り と県 道 元 狩 倉 日 南 線 の角 地 に 位 置 し 、 かつて鹿 児 島 銀 行 と し て用 いられていた建 物 である。大 正 2 年 (1 9 13 )に鹿 児 島 銀 行 飫 肥 支 店 として 開 設 されて、昭 和 初 期 に 現 在 の姿 に 改 築 されたと言 わ れる。飫 肥 支 店 は 昭 和 3 9 年 ( 1 96 4 )に廃 止 され、現 在 は 、 飫 肥 城 下 の 鳥 居 下 地 区 の自 治 公 民 館 として 使 用 されている。 飫 肥 の 洋 館 ( 旧 飯 田 医 院 ・梅 村 家 住 宅 ・鳥 居 下 公 民 館 ) 旧 飯 田 医 院 は 、八 幡 通 りの延 長 にある旧 守 永 家 の屋 敷 地 に建 つ 大 正 1 1 年 (1 9 22 )建 築 の医 院 建 築 で、 木 造 二 階 建 で正 面 玄 関 を 付 け 、 左 右 対 称 の 均 整 の とれ たプロポーションである 。 外 壁 は 、 正 面 にのみ天 然 スレートを 使 い、 他 の三 方 は 下 見 板 張 りで 仕 上 げている。 一 階 は 受 付 、 待 合 室 、 内 科 、 外 科 の 診 察 室 があった 。 二 階 は 8 畳 2 間 つづ きの座 敷 、 寝 室 、 書 斎 兼 研 究 室 になっていた。中 央 に 廊 下 を通 し 、2 階 への階 段 は 最 も奧 に 設 けている。入 口 のあ る西 面 外 構 には 、 飫 肥 石 の 石 塀 と石 柱 が 作 られて いる。 旧 飯 田 医 院 と 同 じ敷 地 に建 つ 守 永 家 主 屋 は 、 明 治 後 期 、 旧 医 院 の少 し前 に 建 てられた と 見 られる和 風 建 築 の 建 物 で、 洋 館 とは 廊 下 を 用 いて接 続 している。 梅 村 家 住 宅 は 、 大 手 門 と前 鶴 通 りの角 地 に近 い、 前 鶴 通 り に面 して建 てられた大 正 15 年 (1 92 6) 建 築 の 洋 館 であ る。 現 在 も住 居 として使 用 されているが、 か つては 、 敷 地 内 に隣 接 して 医 院 があった 。 外 構 は 精 緻 な 切 石 積 みの飫 肥 石 の石 垣 である。 また 、 これら 3 つの 洋 館 とは 時 期 を異 にす るが、 飫 肥 本 町 の 服 部 植 物 研 究 所 も飫 肥 のま ちで特 筆 に値 する 洋 風 建 築 の 1 つである。 本 研 究 所 は 、 飫 肥 地 区 の出 身 で 世 界 的 コ ケ博 士 である 服 部 新 佐 により 昭 和 2 7 年 ( 19 5 2) に建 設 され た。 現 在 も コケの 研 究 は 継 続 して おり、 施 設 も公 開 されている。 服部植物研究所 54 これらの 洋 館 群 は 、 飫 肥 城 下 町 が 近 代 以 降 も南 那 珂 の政 治 、経 済 の中 心 地 であったことを 示 す証 拠 であるととも に、 飫 肥 城 下 町 のみならず 周 辺 地 域 の 人 々 にとっても政 治 的 なシ ン ボルであり、経 済 的 集 積 や最 新 医 学 の 象 徴 であった 。 飫肥石は軟らかくて加工しやすい ため、文字や彫刻が容易であること から、精緻な石積のみならず、城下 町の周囲に点在する墓地の墓石や各 飫肥城本丸石垣 種記念碑等もほとんどが飫肥石で作 られている。 飫 肥 地 区 では 、 さま ざまな種 類 の石 垣 を 見 ることができる。 平 成 8 年 ( 19 9 6)のま ちなみデザ イン推 進 事 業 の 報 告 書 では 、 飫 肥 地 区 の石 垣 の特 徴 として、 「 わ が国 に見 られる積 み 型 を ほ ぼ網 羅 して 見 ること がで きる」 「 ひ とつづ きの石 垣 が ただ 一 つの積 方 だ けで出 来 上 がっている 例 は 多 く ない。 多 く が いく つかの積 方 を 混 在 させて出 来 ている。 そ の結 果 として飫 肥 の石 垣 が 多 様 な 表 情 を持 つこ と になった。 」 としており 、 多 様 な石 垣 を 持 つこ とが飫 肥 独 特 の 文 化 で あ るといえる。具 体 的 には 、「 野 石 積 」「 玉 石 積 」「 切 石 整 層 積 」「 整 層 乱 積 」「 谷 積 」「 亀 甲 積 」 「 切 石 乱 積 」 「 飫 肥 積 」 などの 積 み 方 がある。 ここ でいう「 飫 肥 積 」 は 切 石 乱 積 の 一 種 で 、 目 地 が 半 円 形 となる 飫 肥 独 特 の積 み方 をしたものである 。 飫 肥 城 本 丸 の石 垣 に 見 ら れ、 規 模 は 小 さく なる ものの飫 肥 城 下 の武 家 屋 敷 に も同 様 の積 み 方 をしたものがみられる 。 これらの石 垣 は 、飫 肥 城 下 町 の人 々 の手 によ って築 かれ、守 り伝 えら れてきた。飫 肥 の地 は 、 飫 肥 城 の石 垣 は もちろ んのこと、各 家 々 の 石 垣 や墓 等 もそれぞ れの家 で誇 りを持 って手 入 れし てきた。 城 下 町 全 体 の 広 範 囲 にわ たって石 垣 が築 かれ 、 保 た れてきたのは 、 シラス 台 地 上 に 位 置 するこの土 地 がも ろく 、 その 土 留 めをする 役 割 もあった と考 え られ るが、 その 役 割 もまた シ ラスが 固 まってできた「 飫 肥 石 」 が担 っているところに 、 地 元 の 気 候 風 土 を 上 手 く 利 用 して生 活 してきたことが 伺 える 。 55 野石 玉石積 谷積 整層乱積 切石乱積 飫肥積 切石整層積 亀甲積 石塀 飫肥城下にみられる石垣 現 在 、 飫 肥 城 下 町 に最 も 多 く の人 が 集 まる のは 、 年 1 回 の 飫 肥 城 下 まつりである 。 県 内 外 から多 く の人 が 集 まるこ の祭 りの 前 には 、 市 内 の複 数 の 団 体 が飫 肥 城 内 の石 垣 の清 掃 作 業 を 行 う。 城 下 でも 、 各 家 では 石 垣 の手 入 れが な される。 コケの 掃 除 や 補 修 な ど、 日 々 の 手 入 れ があってこその石 垣 のあ る町 並 み といえる。 56 飫 肥 城 下 町 では 、日 南 市 飫 肥 重 要 伝 統 的 建 造 物 群 保 存 地 区 を 中 心 に 、毎 年 のように 、市 内 の石 工 や石 材 店 に よ って石 垣 が修 理 された り、新 たに 積 まれた りし ている。最 近 では 平 成 16 年 度 に 、 県 道 沿 いに立 地 する福 井 家 が、 ブロ ック塀 を 飫 肥 石 の切 石 積 みで石 垣 にし 、 さらに 槙 を植 栽 して生 垣 とし て景 観 を 向 上 させ た。 さらに、 平 成 2 2 年 度 に は 、 飫 肥 城 大 手 門 に 繋 が る道 路 沿 いに立 地 する 上 野 家 が 、 ブロック塀 を飫 肥 石 の 切 石 積 みで 石 垣 を 積 み直 した。 福 井 家 完 成 ( 石 塀 ・建 物 の 修 景 ) 福井家着工前(ブロック塀、景観にそぐわない建物) 上野家着工前(ブロック塀、自動販売機等 ) 上野家完成(石塀、建物の修景) 石 垣 以 外 にも、飫 肥 石 は 飫 肥 の人 々 の生 活 に 根 付 いており 、様 々 な 場 面 で 用 いられる 。門 柱 や石 畳 、石 塀 など そ の用 途 は 様 々 である。現 代 では 、まち なかのサインや 休 憩 用 のベ ンチなどにも飫 肥 石 が使 用 されて いる。 飫 肥 地 区 で飫 肥 石 が多 用 されるのは 、入 手 しやすいだ けで なく 、高 温 多 湿 の 土 地 柄 では 、木 材 等 では 腐 食 しやすいから である。 飫 肥 石 に よる 石 垣 や石 塀 は 、 伝 統 的 な石 垣 群 とよく 調 和 して、飫 肥 の 町 並 み景 観 を 確 実 に向 上 さ せてきた。飫 肥 飫肥石の通り名サイン 57 城 下 町 の住 民 に とって飫 肥 石 と 飫 肥 杉 は 、江 戸 時 代 から使 い 続 けて きた伝 統 的 な 地 場 の 素 材 であり、 歴 史 的 風 致 を 感 じさせる屋 敷 地 に住 まうことが 誇 り ともなって いる。 飫 肥 石 の 石 垣 を も つ所 有 者 は 、歴 史 的 な 武 家 屋 敷 の 佇 まいを 維 持 するため に、生 垣 や 庭 の植 木 を 含 めた 石 垣 全 体 を常 に管 理 して、 美 しさを保 っている。 とり わ け、 秋 の飫 肥 城 下 ま つりを前 にして、 各 家 は も ちろんのこと 、 地 区 総 出 で周 辺 環 境 を 清 掃 し ている。 日 南 市 民 や 飫 肥 地 区 を 訪 れる観 光 客 に とっても、 飫 肥 石 で 囲 わ れた屋 敷 地 と 飫 肥 杉 の住 宅 が 醸 し 出 す 歴 史 的 風 致 に、 城 下 町 を 感 じ ている。 飫肥城跡 旧伊東伝左衛門家 鳥居下公民館 稲澤家 豫章館 旧 飯 田 医 院 (守 永 家 ) 石 垣 (特 定 物 件 ) 小鹿倉家 旧山本猪平家 服部植物研究所 梅村家 飫肥重要伝統的建造物群保存地区 石 垣 (非 特 定 物 件 ) 飫肥の石垣等分布と建造物位置図 ※ 「 特 定 物 件 」 とは、 日 南 市 飫 肥 伝 統 的 建 造 物 群 保 存 地 区 において価 値 が高 いと認 められる伝 統 的 建 造 物 や工 作 物 、 環 境 物 件 のうち、 所 有 者 の同 意 を得 て保 存 ・ 維 持 すべき物 件 として定 められたもの。 「 非 特 定 物 件 」 とは、 日 南 市 飫 肥 伝 統 的 建 造 物 群 保 存 地 区 および保 存 地 区 外 において価 値 が 高 いと認 められる伝 統 的 建 造 物 や工 作 物 、 環 境 物 件 のこと。 58 2 泰平踊にみる歴史的風致 泰 平 踊 は 、 飫 肥 城 下 町 に 江 戸 時 代 前 期 か ら伝 わ る踊 りで、 初 め 町 衆 に よって踊 られていた 盆 踊 りであった。 平 部 嶠 南 は 『 日 向 纂 記 』 ( 明 治 17 年 ( 1 88 4) ) において、 「 飫 肥 ノ城 下 盆 踊 ノ事 」と して「 飫 肥 の 城 下 に 於 て 、毎 年 7 月 1 4 日 1 5 日 盆 踊 のあ り しは 元 禄 以 前 よりの 事 」 と記 載 している。 同 書 には 、 「 宝 永 4 年 ( 17 0 7) 大 手 十 文 字 の士 、 年 少 き者 ( 1 5 歳 から 3 0 歳 まで )にも 盆 踊 なさしめ られては 如 何 の趣 、公 族 伊 東 宦 兵 衛 より洞 林 公( 五 代 藩 主 伊 東 祐 実 ) に言 上 あ りけるに、 洞 林 公 許 容 あ り( 略 )」 とあり、 牛 ノ峠 論 山 が 決 着 し、 鹿 児 島 藩 との 和 解 が成 立 したのを 機 に 、飫 肥 藩 は これを祝 って 城 下 三 郷( 大 手・十 文 字 組 、永 吉・西 山 寺 組 、 前 津 留 ・ 楠 原 組 ) の 武 士 に も盆 踊 りへの参 加 を許 したこと が伺 える 。 これが 泰 平 踊 の起 源 で あると言 わ れている。 この泰 平 踊 は 、 かつ ては 毎 年 7 月 1 4 日 に総 役 所 または 広 小 路 ( 後 に報 恩 寺 ) において、 三 郷 と本 町 、 今 町 の各 組 が、 提 灯 を先 頭 に、 同 じ黒 染 の 襦 袢 、白 木 綿 の帯 の 服 装 で 、陣 太 泰 平 踊( 県 営 軽 便 鉄 道 開 通 記 念 ) 泰平踊踊り手(昭和天皇御大典) 大 正 2 年 (1913) 昭 和 3 年 (1928) 鼓 を鳴 らし、隊 列 を作 っ て 踊 る無 骨 な踊 りであった。 藩 主 が 在 国 の場 合 は 、一 門 以 下 総 役 所 の 役 人 が桟 敷 を 造 り、見 物 人 は 堂 上 や 堂 下 に 隙 間 も ないほどに多 く 賑 わ ったという。 その 後 、 規 模 の縮 小 などの変 化 があったが 、 幕 末 の 動 乱 期 である 元 治 元 年 (1 8 64 )に、 容 易 ならざる時 勢 に 武 士 に 不 相 応 な作 法 である と して、 三 郷 の 武 士 によ る盆 踊 りは 中 止 され 、 その 後 中 断 していた。 しか し、 明 治 33 年 ( 1 90 0)の 報 恩 公 三 百 年 祭 に 本 町 の高 橋 源 次 郎 の 尽 力 で 復 活 した 。 その 後 、 小 村 寿 太 郎 男 爵 の 歓 迎 会 や飫 肥 油 津 軽 便 鉄 道 開 通 記 念 、 昭 和 天 皇 の 御 大 典 などで 踊 られ 、 昭 和 1 2 年 (1 9 37 )には 、 全 九 州 郷 土 舞 踏 大 会 で優 勝 している。 泰 平 踊 の 復 活 に尽 力 した高 橋 源 次 郎 は 、 飫 肥 本 町 の人 物 である。 慶 応 2 年 ( 18 6 6) 飫 肥 今 町 日 高 源 蔵 氏 の 長 男 に生 まれ、 長 じて素 封 家 高 橋 家 を嗣 いだ 。 県 会 議 員 や貴 族 院 議 員 ( 多 額 納 税 ) を歴 任 し て いる。 また 、 宮 崎 県 内 財 界 でも 要 職 を占 め、 日 州 銀 行 取 締 役 、 宮 崎 県 農 工 銀 行 頭 取 、 宮 崎 県 軽 便 鉄 道 監 査 役 等 を務 めた 。 飫 肥 地 区 の ち っ こ う えん 名 園 「 竹 香 園 」 は 、 高 橋 源 次 郎 が 別 邸 庭 園 として 明 治 4 0 年 (1 9 07 ) に築 造 し たものだ が、 後 に日 南 市 に寄 贈 され て現 在 は 桜 の 名 所 とな っ 高橋源次郎 59 ている。 ま た 、 本 宅 の あっ た 飫 肥 本 町 の 屋 敷 地 の 主 屋 は 、 明 治 中 期 に建 設 され大 正 4年 (1915)に修 理 されたと伝 わ る。 この高 橋 源 次 郎 家 は 、 飫 肥 城 下 の 商 人 町 であ る、本 町 通 りのほぼ 中 央 に立 地 している 。店 舗 部 分 は 取 り壊 され、 昭 和 50年 代 の本 町 通 り拡 幅 工 事 による 建 物 の改 変 等 はあったが、 現 在 も敷 地 内 には主 屋 の ほか、 離 れ 、 氏 神 、 蔵 2棟 、 納 屋 、 炊 事 場 等 が残 さ 泰平踊(高橋家中庭)大 正~昭和初期 れている。 主 屋 の各 部 屋 や 廊 下 の襖 や板 戸 には 、宮 崎 県 都 城 出 身 の日 本 画 家 江 夏 英 璋 の日 本 画 が描 かれている。 主 屋 は 、地 元 の 有 力 者 であった高 橋 家 におけ る客 殿 と して使 用 されていたもの で、接 客 本 意 の 造 り とな ってい る。明 治 中 期 の 建 築 で 、大 正 4年 ( 1 9 15) に一 部 修 理 さ れている が 、 保 存 状 況 は 良 好 で ある 。 本 来 は 、 商 人 町 通 りであった本 町 通 りに面 して店 舗 兼 住 居 があった 高橋家住宅主屋 が、 早 い時 期 に取 り壊 している。 したがって、 残 され た主 屋 は 、 広 い 敷 地 の 割 合 には 部 屋 数 が 少 な い。 商 家 屋 敷 内 の 付 属 屋 として 、 裏 庭 を 取 り 囲 む ように 、 蔵 2棟 や 納 屋 、 台 所 、 屋 敷 神 、 便 所 を 配 置 し てお り 、 飫 肥 城 下 町 にお ける 商 家 の 建 物 構 成 や 配 置 を 示 す 典 型 的 な 例 として 価 値 が 高 い。 建 築 年 代 は 明 確 では ないが、 主 屋 や 納 屋 と同 時 期 である可 能 性 が 高 い。 この高 橋 源 次 郎 家 の庭 においてもしばしば泰 平 踊 が踊 られていたという。 同 家 は、 平 成 22 年 ( 20 1 0)には 、 登 録 有 形 文 化 財 として登 録 さ れるともに 、 日 南 市 に 寄 附 されて平 成 23 年 ( 2 0 11 ) 4月 から 公 開 され、 往 時 の雰 囲 気 を現 在 に 伝 えている。 同 じく平 成 22年 (2010)に登 録 有 形 文 化 財 となった い お し 五 百 禩 神 社 は 、かつては 飫 肥 藩 の藩 主 家 の 菩 提 寺 で ある報 恩 寺 である。 明 治 期 以 降 、 庭 園 に於 いても泰 平 踊 が踊 られており、 現 在 まで伝 えられている。 報 恩 寺 は 、 明 治 5 年 ( 1 8 7 2 ) に 廃 仏 毀 釈 によって 廃 寺 とな り、 その跡 地 に五 百 禩 神 社 が建 立 され た。 本 殿 は 、 明 治 9 年 ( 1 8 7 6) に 完 成 し 、 明 治 3 7年 ( 1 9 0 4) に幣 殿 及 び渡 殿 が改 築 されている。 こうはい 本 殿 は 、正 面 3間 で 側 面 2間 の 流 造 で、向 拝 が3 間 付 泰平踊(五百禩神社) き、屋 根 は 瓦 葺 である 。基 壇 は 切 石 で 、縁 を 支 える束 柱 は 帯 石 上 に のり、柱 は 一 段 高 い切 石 はまゆか 上 に 立 つ 。 向 拝 柱 下 に 長 押 を 廻 し 、 浜 床 上 に 5 段 の階 段 を 設 け 、 階 段 を 上 がる と 三 方 に 縁 が 60 ぎ ぼ し こ う ら ん あり、 擬 宝 珠 高 欄 を廻 し、 脇 障 子 に当 たる。 その脇 障 子 に獅 子 と 竹 の彫 刻 を 嵌 め、 正 面 縁 下 にも板 を嵌 めて波 の彫 刻 を入 れている。 内 部 は、 仕 切 り を 奧 にして 、 外 殿 を広 く し 、 内 殿 の 扉 は 3 間 共 開 き戸 で、 内 部 に宮 殿 を安 置 し、 前 方 に御 簾 をかけ、 天 井 は 板 張 り、外 殿 の 天 井 には 桟 を打 ち付 け ている。 神 楽 殿 及 び拝 殿 は連 続 して一 体 的 に作 られている。 神 楽 殿 は 、正 面 3間 、側 面 2間 に1 間 の向 拝 が 付 き、 屋 根 は入 母 屋 造 で瓦 葺 である。 向 拝 柱 に阿 吽 の獅 子 と象 を付 け、 この向 拝 柱 間 にあたる中 央 間 が広 く 垂 木 は 1 8 枝 、脇 の 間 は 16 枝 で、棟 が 高 く 格 調 高 い造 りである。 拝 殿 は正 面 1間 で、 間 に柱 がなく、 神 楽 殿 に接 続 している。 側 面 は3間 で、 吹 寄 垂 木 、 切 妻 造 に瓦 葺 である。 幣 殿 は 正 面 1 間 で、拝 殿 と同 じ正 面 1 間 で は あるが、 柱 間 の幅 は拝 殿 より狭 い。 側 面 1間 で吹 寄 垂 木 であ る。屋 根 は 切 妻 造 に瓦 葺 である。本 殿 側 に唐 破 風 を 付 け、植 物 文 様 の蟇 股 がある。神 楽 殿 、拝 殿 及 び幣 五百禩神社庭園と神楽殿 殿 は 開 放 的 で 建 具 が な く 、全 体 に擬 宝 珠 高 欄 を廻 し て統 一 感 のある 造 りで ある。 また、 現 在 、 商 家 資 料 館 となっている建 物 も、 一 時 期 高 橋 源 次 郎 が 所 有 しており、 本 町 の 泰 平 踊 りの 練 習 場 として 使 用 され ていた 。 建 物 は 慶 応 の 大 火 後 の明 治 3年 (1870)に山 本 五 平 によって建 てられた。 飫 肥 杉 の巨 木 を使 った切 妻 入 りの白 漆 喰 の土 蔵 造 で ある。現 在 の 建 物 は 、昭 和 5 7年 の 本 町 通 り 拡 幅 事 業 によって市 に寄 附 された ため、 現 在 地 に 移 転 し た。 61 商家資料館 現 在 伝 わ る泰 平 踊 は 、今 町 と 本 町 の 保 存 会 において伝 承 されている。踊 り に登 場 するのは 、 唄 方 、 囃 子 方 、 踊 手 である。 かつては これに万 事 踊 りの 世 話 をする 世 話 方 を 含 めて構 成 し て いたという。 囃 子 は 、 三 味 線 、 太 鼓 、 尺 八 で構 成 されている。 踊 りは 、 武 芸 十 八 般 をか たど っており優 美 である。 そ の服 装 は 、 元 禄 時 代 の 伊 達 姿 で、 大 きな 長 い朱 紐 をつ けた 編 み笠 で 面 を包 み 、 羽 二 重 の着 流 しに大 刀 の 落 とし 差 し、 腰 には 印 籠 を下 げ る。 編 み 笠 の朱 房 の結 び は ぶ た え の し め 目 や、 着 衣 の 羽 二 重 の熨 斗 目 、 着 衣 の紋 は 今 町 と本 町 で 異 なる。 泰 平 踊 ( 飫 肥 城 大 手 門 前 /今 町 及 び 本 町 ) また 、 これ とは 別 に 奴 と 呼 ばれる 踊 り 手 が おり、 手 拭 いの頬 被 り で、 襟 も 黒 白 のダンダ ラ、 尻 端 し 折 って前 垂 をつける。奴 は 、現 在 は 今 町 及 び本 町 の 両 組 で見 ら れるが、昭 和 3 5 年 ( 19 6 0) 発 行 の 『 日 向 の民 俗 芸 能 第 3 集 』 ( 宮 崎 県 教 育 庁 社 会 教 育 課 編 ) には 、 本 町 のみに 見 ら れると記 されており 、 後 年 今 町 に 付 け 加 えられ たものと 考 えられる 。 ま た、 唄 方 の 編 笠 は 踊 り 手 より 小 さく 、 朱 紐 が無 い。 ま た 、 刀 も 太 刀 で は なく 脇 差 しを 用 いる。 今 町 、 本 町 2 流 の泰 平 踊 りは 、一 時 期 踊 られ ない時 期 もあった が 、そ の姿 をほとんど 変 えるこ となく 、江 戸 時 代 から 綿 々 と飫 肥 城 下 に 伝 わ る盆 踊 り として踊 り 次 がれて おり、 近 年 泰 平 踊 に注 目 が集 まり 、 観 光 客 か ら のニーズも高 いた め 、飫 肥 城 付 近 での 定 期 公 演 や県 外 での公 演 など 、機 会 あるご とに 踊 られ て いる。 本 町 組 は 、各 月 の 第 3 日 曜 日 に 、飫 肥 城 内 や飫 肥 城 大 手 門 前 、国 際 交 流 セン ター 小 村 記 念 館 で 定 期 練 習 を行 っ たほか、 観 光 客 等 に 向 けて披 露 している。 今 町 組 においても、地 元 のみならず 、日 南 を 代 表 する芸 能 として 対 外 的 な 活 動 も多 く 行 って いる。 また、 本 町 ・ 今 町 とも、 活 動 の中 でも、 飫肥城下まつりパレードでの泰平踊披露 飫 肥 城 復 元 を 記 念 して 昭 和 5 3 年 (1 9 78 )から開 62 始 された、 平 成 2 3 年 度 で 3 4 回 目 となる 飫 肥 城 下 祭 りでは 、 毎 年 、 泰 平 踊 がパ レードの 目 玉 として出 演 しており、 こ の泰 平 踊 を 目 当 てに 市 外 からやってく る見 物 客 も多 い。 泰 平 踊 を 伝 承 する本 町 と今 町 では 、 かつては 泰 平 踊 に 参 加 する 資 格 があることが 地 区 の 成 員 であること と同 義 であ るほど重 要 な 伝 統 芸 能 であった。 各 戸 の主 人 が踊 り 手 と なり、 不 得 手 な者 は 、世 話 役 等 で そ の任 を務 めた という。現 在 は 、後 継 者 育 成 のた めに他 地 区 出 身 者 も 踊 ることを認 めているが、 そのことによ り、 市 全 体 の誇 るべき伝 統 芸 能 で あるとの認 識 が 広 まった 面 もある。 また、 地 元 の組 織 である 保 存 会 の 活 動 に よって、 飫 肥 地 区 内 住 民 の コミュ ニティ 強 化 に大 きく 寄 与 している 。 泰 平 踊 は 、江 戸 時 代 前 期 から 飫 肥 城 下 町 に 伝 わ る盆 踊 りの伝 承 で あり、飫 肥 地 区 のイ メ ー ジを代 表 する優 雅 な 踊 りが飫 肥 の由 緒 ある町 並 みと 一 体 となって、格 調 高 い 雰 囲 気 を 醸 し出 し た歴 史 的 風 致 を 生 み出 している。 今町 今町公民館 飫肥城大手門 鳥居下公民館 国際交流センター 小村記念館 四半的射場 旧 高 橋 源 次 郎 家 (髙 橋 家 住 宅 ) 本町 五百禩 神社庭園 郷土芸能館 飫 肥 城 下 町 パ レ ー ド (本 町 通 ) 泰平踊関係建造物等位置図 63 ( コラ ム) 四 半 の真 剣 勝 負 ~ 焼 酎 やヤジとと もに~ し は ん ま と 飫 肥 地 区 には 泰 平 踊 以 外 に も、 無 形 文 化 財 で、 江 戸 時 代 から 伝 わ る弓 競 技 の 四 半 的 があ る。四 半 的 は 、日 南 地 方 に伝 わ る娯 楽 性 の高 い弓 競 技 で、的 までの 距 離 が 四 間 半( 8 .2 m )、 弓 矢 の 長 さがそれぞ れ四 尺 半 ( 1. 3 7m) 、 的 の 大 きさが四 寸 半 ( 1 3. 6 ㎝ )と すべて「 四 半 」 で ある ことから四 半 的 と 呼 ば れている。 立 射 する大 弓 と 違 い、 横 向 きに 正 座 して的 を 射 るのが 特 徴 で ある。 その 起 源 は 古 く 、 戦 国 時 代 末 に書 かれ た『 上 井 覚 兼 日 記 』 には 、 天 正 1 1 年 (1 5 83 )、 島 津 義 久 の 家 老 で 宮 﨑 城 主 であった上 井 覚 兼 が、酒 宴 の 席 で余 興 として行 っていることが記 され て いる。 江 戸 時 代 から明 治 時 代 初 期 の飫 肥 地 方 では 、 子 どもたちの 正 月 遊 びとして行 わ れてい た( 山 ノ 城 民 平 『 近 世 飫 肥 史 稿 』 ) 。 四 半 的 ( 四 半 的 射 場 /飫 肥 城 内 ) 飫 肥 藩 では 、 慶 長 年 間 ( 15 9 6~ 1 61 5) 酒 谷 地 頭 の山 田 匡 得 が、 鹿 児 島 藩 への威 嚇 と藩 士 の 鍛 錬 のた め上 酒 谷 白 木 俣 に的 場 を 設 け、5 0 人 を二 手 に分 けて大 弓 を 競 わ せており、これが二 十 五 人 的 の 原 形 となっ た。 その 後 、 藩 内 では 御 賭 的 ・ 御 張 合 的 ・ 二 十 五 人 的 と 呼 ば れる競 技 が催 され たが、 併 せ て酒 宴 が 開 かれるため 、 風 紀 が乱 れる として しばしば規 制 された。 しか し、 幕 末 の動 乱 期 に復 活 し、 昭 和 初 期 までは 、 農 山 村 の 各 所 でも こ うした大 弓 競 技 が 行 わ れ ており、 その影 響 もあって、 大 人 の 間 でも四 半 的 が普 及 し、 焼 酎 を飲 みながらの娯 楽 競 技 と し て親 しまれるようになっ た。 昭 和 初 期 から 一 時 の中 断 は あったが、 戦 後 復 活 して、 昭 和 5 0 年 代 には 日 南 市 内 だ けでも 3 ,0 0 0 人 以 上 の愛 好 者 がいた 。四 半 的 では 、焼 酎 を 酌 み交 わ しなが ら競 技 を行 い 、 射 手 の 身 体 に 触 れさえしな け れば、 どんなにやじって も良 いこと になっており、 大 変 賑 やかである。 四 半 的 大 会 は 、 5 名 で 1 チームをつく り 、 5 人 がそ れぞ れ 30 本 、 合 わ せて 150 本 の 矢 を 射 って、 的 中 数 を 競 い、 飫 肥 城 下 まつりや油 津 港 まつり 等 で四 半 的 大 会 が催 されている他 、 市 内 各 公 民 館 で毎 週 のよ うに会 がある 。 娯 楽 競 技 としての 四 半 的 は 、 市 指 定 の無 形 文 化 財 と な っており、 泰 平 踊 と 同 様 に地 元 で 親 しまれて いる。 64 3 田ノ上八幡神社の弥五郎人形行事にみる歴史的風致 南 九 州 には 「 弥 五 郎 様 」 あるいは 「 弥 五 郎 どん」 と 呼 ばれる 巨 大 な人 形 をつく り、 神 社 の 祭 礼 行 列 の 先 導 役 とし て曳 き出 す 行 事 が 各 地 に伝 わ っている。この弥 五 郎 様 に 関 する祭 祀 は 、 そのほとんどが 八 幡 神 社 に伝 わ っていることから、 八 幡 信 仰 との関 わ りがあるとみられている 。 ほ う じ ょ う え 祭 日 は 各 地 で 異 なるが 、 旧 暦 8 月 1 5 日 の 放 生 会 に派 生 するものとされる 。 現 在 は 、 宮 崎 県 都 城 市 山 之 口 町 や鹿 児 島 県 曽 於 市 大 隅 町 に伝 承 されており 、 本 市 の弥 五 郎 様 と 併 せて 三 兄 弟 と する説 もある 。 本 市 で弥 五 郎 人 形 行 事 が 行 わ れる田 ノ上 八 幡 神 社 は飫 肥 城 の鬼 門 に位 置 し、 祭 神 は、 昭 和 63 年 ( 19 8 8)に 発 行 された 『 宮 崎 県 神 社 誌 』 に よ れ ば 、 ひこ ほ ほ で み の みこと じんぐ う こ う ご う おうじん 彦 火 火 出 見 命 、 神 功 皇 后 、 応 神 天 皇 等 1 6 柱 であ る。明 治 1 7 年 (1 8 84 )に 完 成 した『 日 向 地 誌 』には 、 板 敷 神 社( 現 在 の田 ノ 上 八 幡 神 社 )について 、「 社 殿 は 天 永 元 年 (1 1 10 )庚 寅 十 月 二 十 五 日 創 建 すると ころなり。 永 禄 1 1 年 ( 1 56 8) 以 前 島 津 氏 飫 肥 を 領 せ すこぶ ていちょう し時 よりの 名 社 にして祭 典 も 頗 る鄭 重 なりしが、 伊 田ノ上八幡神社 ほうない 東 氏 管 轄 の 後 も 、 封 内 尊 社 四 座 の 一 に 列 して社 禄 五 十 四 石 八 斗 を寄 附 し 殊 に崇 敬 の 神 社 な り」とあり 、古 く から 崇 敬 さ れてきた神 社 であるこ と が 分 かる。 明 治 5 年 ( 18 7 2) 、 田 ノ上 八 幡 神 社 に 近 隣 する五 座 の村 社 を 合 祀 して板 敷 神 社 とな っ た。 その 後 、 明 治 2 4 年 ( 18 9 1)に 再 び田 ノ上 八 幡 神 社 と改 称 された 。 田 ノ 上 八 幡 神 社 境 内 には 、 本 殿 、 幣 殿 、 拝 殿 が一 列 に 並 んでいる。 拝 殿 は 、 正 面 が 柱 間 こうはい 5 間 、側 面 が 3 間 で 、正 面 に 1 間 の 向 拝 が付 き 、屋 根 は 瓦 葺 で 流 造 であ る。現 状 では 正 面 と まい ら ど 両 側 面 にア ルミサッシを 入 れ、背 面 は 舞 良 戸 の嵌 め 殺 し、中 央 は 開 放 されて幣 殿 に 続 いている。 さおぶち 幣 殿 の 屋 根 は 本 殿 と拝 殿 をつなぐ 。 拝 殿 の内 部 天 井 は 、 東 側 5 分 の 3 は 棹 縁 天 井 、 残 りの 部 分 は 天 井 を 張 らず に、 上 に 車 付 きの神 輿 を 上 げている。 装 飾 とし ては 、 正 面 の 向 拝 に 伊 東 いおり も っ こ う いたかえる ま た ふなひじ き 家 の家 紋 ( 庵 木 瓜 ) を 入 れた 板 蟇 股 と側 面 に 付 けた 舟 肘 木 がある。 幣 殿 及 び 拝 殿 は その 建 時 期 が 不 明 であるが、 様 式 から 昭 和 初 期 とさ れている。 本 殿 は 、 正 面 3 間 、 側 面 2 間 の大 きさで 正 面 に 1 間 の 向 拝 を付 け 、屋 根 は 銅 板 葺 切 妻 造 こうはいばしら かにめん の覆 屋 をか けて保 護 し ている。 向 拝 柱 は 蟹 面 で、 上 部 に 獅 子 と象 の 彫 刻 を付 け 、 向 かって右 あ ぎ ょ う うんぎょう が阿 形 、 左 が 吽 形 、 獅 子 が前 に 突 き出 て、 象 が 側 面 に ある。 本 殿 3 間 のうち 、 中 央 は 建 具 げ じ ん しとみ ど がなく 、 両 側 面 は 引 き違 いに格 子 戸 ( 外 陣 ) を設 ける。 奧 は 中 央 間 と 両 側 は 蔀 戸 を嵌 め 、 内 部 ( 内 陣 ) に宮 殿 を 置 き、 神 の座 となっている。 建 立 年 代 につい ては 明 らかでは ないが、 獅 子 鼻 の彫 り方 、 木 鼻 の渦 、 板 蟇 股 の曲 線 か ら推 測 して 1 9 世 紀 初 期 より前 である とされてい る。 65 本 神 社 で 行 わ れる「 田 ノ上 八 幡 神 社 の 弥 五 郎 人 形 行 事 」 は古 くから伝 承 されており、 その形 を 一 部 変 えなが らも現 代 に伝 えら れて いる。この行 事 の 主 役 と もいえる「 弥 五 郎 様 」 は 、 秋 例 大 祭 日 に 登 場 する高 さ約 7 m に及 す お う ぶ 人 形 で、 白 衣 の 上 に 紫 色 の 素 襖 、 赤 袴 を は き、白 い髭 のある朱 面 と 烏 帽 子 をつけ 、腰 に長 刀 右 手 に槍 を持 つ姿 に組 み立 てられる。 前 述 の『 日 向 地 誌 』には 、「 往 昔 大 隅 国 くわはらぐん 桑 原 郡 に稲 積 弥 五 郎 と云 者 あ り。 彼 地 一 宮 正 八 幡 の神 体 を 負 ひ 来 り此 に 鎮 座 す。 (略) や ぶ さ め 例 祭 元 と 十 月 二 十 五 日 流 鏑 馬 二 疋 を 走 らし む 。 騎 者 は 八 重 笠 を戴 き、 弓 矢 を持 ち、 木 の的 を 3 所 に建 て置 き 、 馬 を 走 らせな がら之 を射 る。其 人 は 猟 装 束 なり。是 を射 手 と呼 ぶ 。 其 の従 者 甲 冑 を 擐 き( 身 につけ ) 、 頰 甲 を ちゅう じ ん え ぶくろ 著 て稠 人 中 を 奔 走 す。 是 を 餌 袋 と呼 ぶ 。 餌 でんりょう とは 、 鳥 獣 のこ となり 。 古 は 田 猟 に射 取 たる 弥五郎人形との記念撮影 大正~昭和初期 鳥 獣 を 袋 に 入 れて齋 せ 行 く 。 故 に、 餌 袋 持 (田ノ上八幡神社蔵) つと云 う。 義 を 取 れり と 見 ゆ。 一 つ又 長 人 弥 五 郎 とて長 一 丈 有 。 半 の 偶 人 に 衣 装 を着 せ、 長 お 刀 を 佩 び、 右 手 に長 槍 を 杖 つかしめ 、 之 を四 輪 車 に載 せ、 群 童 に挽 し めて街 上 を 巡 す 。 極 て 古 俗 な り。 然 れども 、 明 治 6 年 ( 18 7 3) 以 来 は 、 祭 日 も一 定 せず 流 鏑 馬 も廃 し たり 。 唯 偶 人 弥 五 郎 は 旧 に仍 れ り。 弥 五 郎 は 稲 積 弥 五 郎 の 縁 故 な りと 言 伝 う 。 」 と記 されており、 本 神 社 の 創 建 に 弥 五 郎 伝 説 が関 わ っていることが分 かる。 冒 頭 でも 触 れたが 、 同 様 の 人 形 行 事 は 都 城 市 山 之 口 町 と 鹿 児 島 県 曽 於 市 大 隅 町 、 日 置 市 にもあり 、 南 九 州 に おける地 域 性 ある伝 統 行 事 である。 一 説 には 、 養 老 5 年 ( 72 0)の 隼 人 の 乱 の首 長 の霊 を鎮 魂 す るために「 弥 五 郎 」と呼 んで偶 像 化 した行 事 で あるとも伝 えら れている。 この「 弥 五 郎 」 は 、 当 地 では「 弥 五 郎 様 」 も しく は「 弥 五 郎 さん」 と 呼 ばれるが 、 当 地 以 外 では「 弥 五 郎 どん 」 と 呼 ばれるこ とが 多 い。 こ れは 、 本 県 都 城 市 や鹿 児 島 県 は 旧 薩 摩 藩 に属 たことから 、 飫 肥 藩 の 中 心 地 であった当 地 と の方 言 の 違 いが現 れた ものとも 考 えられる 。 66 『 日 向 地 誌 』からは 、明 治 時 代 には 1 1 月 2 5 日 に祭 りが行 わ れていたことが 分 かる 。また 、 昭 和 5 3 年 (1 9 78 )に 発 行 された『 日 南 市 史 』にも、田 ノ上 八 幡 神 社 の秋 祭 りは 1 1 月 2 5 日 との 記 述 がある が、 現 在 は 1 1 月 2 3 日 の 祭 日 に行 わ れることが多 い。 かつては 、 前 日 に神 社 境 内 で宵 宮 祭 が 行 わ れて神 楽 三 番 と 獅 子 舞 が 奉 納 され、 獅 子 舞 等 が 奉 納 される間 、 本 殿 後 ろに 接 して設 けら れた 小 屋 に仕 舞 わ れた弥 五 郎 人 形 の骨 組 みを取 り出 し 、 氏 子 達 が中 心 となっ て 組 み立 てを 行 っていた。 その 際 、 獅 子 舞 の舞 い手 は 、 禊 ぎのた めに 本 殿 に 泊 ま り込 み 、 組 み 立 てには 参 加 しない 。 現 在 では 、 社 人 に 勤 め人 も多 いこ とから 、 前 日 の 夜 に 集 まっ て弥 五 郎 様 の 組 み立 て のみを行 う。大 正 か ら昭 和 初 期 の 古 写 真 に みられる弥 五 郎 様 の面 は 現 在 は 失 わ れて残 っていない。 現 在 は 、 古 写 真 を元 に作 製 した新 しい面 を 使 っている。 弥 五 郎 様 の面 は 夜 の間 は 外 し、翌 朝 取 り 付 ける 。前 述 の とおり南 九 州 の他 地 域 にも 伝 わ る弥 五 郎 様 であるが 、そ のなかでもこの地 域 の 弥 五 郎 様 は ひ とき 弥 五 郎 人 形 と 獅 子 舞( 田 ノ 上 八 幡 神 社 鳥 居 前 ) わ 大 きく 、山 之 口 町 の 弥 五 郎 人 形 は 4 m 、 大 隅 町 の弥 五 郎 人 形 は 、 4. 8 5m であるの に較 べ、 その身 の 丈 は 約 7 m にも なる。 白 衣 の上 に、 紫 色 の 素 襖 、 赤 袴 をつ け、 烏 帽 子 を か ぶ る。 腰 には 長 さ 5m ほどの太 刀 を携 え 、 右 手 に槍 を持 つ 。 組 み 立 て等 の事 情 か ら、 現 在 の 弥 五 郎 様 は 古 写 真 に見 る弥 五 郎 様 よ りその 大 きさは 小 さく なったが、その姿 は 勇 壮 で威 厳 が 漂 う。 翌 日 の朝 、神 社 で祭 典 が行 わ れ、神 輿 の準 備 な どが行 わ れる。 8 時 頃 、 神 輿 の準 備 が 調 うと 、 子 ど もや氏 子 等 がのぼりや 弓 矢 な どをと り、 獅 子 舞 の奉 納 も行 わ れる。 その後 、 一 の鳥 居 まで 参 道 を 下 りな がら 2 回 、 また 鳥 居 の 前 に立 つ 弥 五 郎 様 の前 で 1 回 、 獅 子 舞 を 奉 納 する 。 9 時 頃 からは 、 子 ど もや氏 子 に ひかれた 別 体 の弥 五 郎 様 と 御 神 幸 行 列 が 始 まる。 かつては 、 弥 五 郎 様 を先 頭 に 総 勢 1 0 0 名 程 の行 列 が 6 ㎞ の道 程 を歩 いたが、現 在 は 道 路 を 横 断 する電 線 などに 妨 げられ て曳 く ことは 困 難 である ことから、20 数 年 前 、移 動 し やすく 、 電 線 にも 架 から ない高 さの弥 五 郎 様 を 別 に 御神幸の行列図 作 って先 頭 に 立 て、御 神 幸 行 列 を行 っている。前 (出典:『宮崎県の民俗芸能』) 日 に組 み 立 てられた 弥 五 郎 様 は 、 境 内 下 の 鳥 居 67 の前 に立 ち祭 りを見 守 る。 この祭 り には 、 地 元 から大 勢 の 参 加 がある 。 役 割 は 地 区 毎 に 割 り 当 てられ、 地 区 から世 話 人 が 1~ 2 人 出 てその 役 を担 うことに なる。 地 区 は 、 かつて「 板 敷 」 と 呼 ばれた 地 域 全 域 にわ たり、 参 加 者 は 総 勢 1 0 0 人 を超 える 。 御 神 幸 行 列 が飫 肥 のまちを練 り歩 く と、 沿 道 周 辺 の 住 民 が総 出 で出 迎 える。 行 列 の中 の神 輿 には 、 賽 銭 が入 れられ 、 古 く からの住 民 には 行 列 を 拝 み祈 願 する人 も 多 い。 なお、 行 列 では 、 弥 五 郎 様 と 獅 子 が露 払 いの役 目 を果 たしている。獅 子 は 、辻 ご とに清 めのため に舞 い 、 祝 儀 をもらった 商 店 の前 等 でも 舞 う。 住 民 は 、 獅 子 に 頭 を 御神幸行列(別体弥五郎様) 噛 んでもらい( 厄 払 い になるとか 、 頭 が 良 く なるという)、 家 内 安 全 、 無 病 息 災 を祈 願 し て御 幣 をもら う。 途 中 、 今 町 公 民 館 で休 憩 、 ま た、下 板 敷 研 修 センタ ーで昼 食 をは さみながら行 列 は 続 く 。休 憩 をと る公 民 館 でも 、神 輿 や 獅 子 頭 を 置 く 際 には お祓 いをして敬 意 をは らっている。夕 方 4 時 頃 には 、 地 区 内 を 巡 回 した 行 列 が神 社 に到 着 する。 帰 着 の際 も 、 鳥 居 の 前 の 弥 五 郎 様 、 本 殿 へとつ ながる参 道 で獅 子 舞 の奉 納 を 行 う 。 現 在 は 電 線 の関 係 で、別 体 の 弥 五 郎 様 を 御 神 幸 行 列 に使 用 しているため、 弥 五 郎 様 のコー スが一 部 異 なってい る。 なお、田 ノ上 八 幡 神 社 の獅 子 は 、 勇 壮 で 男 性 的 な 舞 であ り、あ まり 芸 態 が変 化 せず に伝 わ ってきたと言 田ノ上八幡神社 わ れている。 雌 雄 の獅 子 は 対 照 形 で同 じ舞 を舞 う 。 この 行 事 は 、 田 ノ 上 八 幡 神 社 の秋 祭 りの 中 で催 され るが、この 祭 りでは 、境 内 での剣 道 弥五郎⼈形⾏程 神輿・獅子舞⾏程 大 会 や四 半 的 大 会 も 同 時 に執 り行 わ れる。 また 、 弥 五 郎 様 は こ の行 事 の 他 御神幸行列行程 68 に、 10 月 に 開 催 される 飫 肥 城 下 まつりにも 登 場 する。 飫 肥 城 下 まつ りは 、 平 成 2 3 年 ( 2 01 1) で 3 4 回 を 数 える 祭 りで 、 市 中 パ レード では 、 県 指 定 無 形 民 俗 文 化 財 の泰 平 踊 も 行 わ れる。他 に も地 元 の 郷 土 芸 能 披 露 が行 わ れるが、弥 五 郎 様 も祭 りの前 日 に 組 み 立 てられ、祭 りの 2 日 間 、 地 元 以 外 の 多 く の人 々 の目 に触 れることに なる 。 本 行 事 は 秋 の 例 祭 と して、 子 ども 達 が行 列 に参 加 することで 、 世 代 間 の 交 流 がなされる とと もに、地 元 に 伝 わ る行 事 に自 ら参 加 して体 験 することで、地 域 の歴 史 や文 化 、伝 統 に 興 味 をも つきっかけにもなっている。また、多 く の住 民 が 弥 五 郎 を ひく その姿 が 、氏 子 のみな らず 飫 肥 城 下 町 及 びその周 辺 の 人 々 に南 九 州 の独 自 性 を 感 じさせてく れる伝 統 行 事 として 大 切 に 引 き継 がれている。 69 4 小村寿太郎侯顕彰にみる歴史的風致 小 村 寿 太 郎 は 、飫 肥 出 身 で 明 治 時 代 を代 表 する外 交 官 である。 安 政 2 年 ( 18 5 5)、 飫 肥 藩 の下 級 家 臣 の家 に生 まれ、 藩 校 振 徳 堂 で学 んだ 。その後 、藩 費 留 学 生 として 、長 崎 留 学 、開 成 学 校( 現 東 京 大 学 ) を 経 て ア メ リ カ のハ ー バ ー ド 大 学 に 入 学 、 帰 国 後 は 、 司 法 官 を 経 て外 務 省 に 入 省 する。 日 清 戦 争 当 時 代 理 公 使 と して 清 国 と折 衝 し 、 日 清 戦 争 後 は 駐 韓 公 使 として閔 后 暗 殺 事 件 の 処 理 にあたった 。さらに 、第 1 次 桂 太 郎 内 閣 の 外 相 として明 治 3 5 年 (1 90 2) に日 英 同 盟 を 結 んでロシアに対 抗 し、 日 露 戦 争 の戦 時 外 交 小村寿太郎 を担 当 して、 ポー ツマ ス条 約 に調 印 した 。 ま た、 第 2 次 桂 内 閣 の 外 相 としては 不 平 等 条 約 改 正 の成 就 、日 露 協 約 の締 結 、韓 国 併 合 などを進 めた。 明 治 4 4 年 ( 19 1 1)には 外 相 を 辞 職 し、 神 奈 川 県 葉 山 で 死 去 した 。 小 村 寿 太 郎 は 飫 肥 地 区 出 身 者 で唯 一 の 大 臣 経 験 者 であるだ けでなく 、 日 露 戦 争 の 講 和 条 約 の全 権 代 表 を 努 め、また、関 税 自 主 権 の回 復 を達 成 する という、明 治 期 の 日 本 が世 界 の中 で自 立 する道 を 切 り 開 く 外 交 を 担 った 人 物 とし て、 外 務 省 や地 元 を 中 心 に早 く から 顕 彰 活 動 が 行 わ れてきた。 しかしながら、 全 国 的 には 、 ポーツマス 条 約 が屈 辱 外 交 である という世 論 に 押 されて、 長 い間 、 国 民 的 な評 価 は ほとんどな されなかった。 戦 後 、 司 馬 遼 太 郎 の「 坂 ノ上 の 雲 」 (昭 和 4 7 年 完 )や 吉 村 昭 の「 ポーツマ ス の旗 」 ( 昭 和 5 5 年 刊 行 、 昭 和 5 6 年 N H K ドラ マ化 )などによ り紹 介 さ れ、ようやく 小 村 外 交 の 真 骨 頂 が 広 く 知 られる ようになってきたのである。 明 治 44 年 ( 1 91 1) に 死 去 した 際 は 、 国 葬 に よって東 京 の青 山 墓 地 に埋 葬 され たが、 飫 肥 地 区 の旧 報 恩 寺 墓 地 にも 墓 が造 られ た 。 以 後 、 地 元 の 墓 前 祭 は こ こ で 執 り 行 わ れる こ と に な る 。 旧 報 恩 寺 は 、 廃 仏 毀 釈 によって廃 されてから 後 、 同 地 に 五 百 禩 神 社 が建 設 され た。 その 裏 手 には 、 旧 報 恩 寺 の墓 地 が残 っており、 歴 代 の 飫 肥 藩 主 の 墓 もここに あり、 伊 東 家 累 代 墓 地 と して市 指 定 の 史 跡 とな っている。この墓 地 内 に 作 られた 小 村 寿 太 郎 の 墓 には 、現 在 も 多 く の 人 が訪 れる。毎 年 、1 1 月 2 6 日 の命 日 には 、小 村 寿 太 郎 侯 奉 賛 会 による墓 前 祭 が 執 り 行 わ れて いる。 墓 前 祭 では 、 小 村 寿 太 郎 の 血 縁 者 や 飫 肥 地 区 の 自 治 会 、 地 元 小 中 学 校 関 係 者 等 が 参 列 している。 また、 墓 前 祭 に 先 立 ち 、 地 元 の有 志 に よって墓 地 が 清 掃 されている。 大 正 3 年 (1 9 14 )には 、 小 村 家 の 書 生 で油 津 地 区 出 身 の 桝 本 卯 平 が『 自 然 の 人 小村寿 太 郎 』 を 著 した。 さら に、 昭 和 に 入 って日 本 の 大 陸 進 出 が著 しく なり 、先 進 各 国 との関 係 が 緊 張 してく ると、 小 村 寿 太 郎 の業 績 を 評 価 する動 きが明 確 となってく る。 昭 和 8 年 ( 19 3 3)には 、 地 元 有 志 による「 小 村 寿 太 郎 侯 誕 生 之 地 碑 」 が建 設 され た。碑 銘 の 揮 毫 は 東 郷 平 八 郎 、裏 絵はがき(小村寿太郎侯誕生之地碑) 70 面 には杉 浦 重 剛 の漢 詩 が刻 まれた。 この碑 は 、飫 肥 地 区 住 民 をは じめ と する有 志 の 寄 附 により 、 飫 肥 本 町 通 り と大 手 門 通 りの 角 地 で、 町 役 人 をしていた小 村 家 の 元 敷 地 に 建 設 された 。そのた め 、お盆 の時 期 に 行 わ れる寿 太 郎 まつ り では 、この碑 の前 でも小 村 寿 太 郎 侯 奉 賛 会 によ る 慰 霊 祭 が 毎 年 と り 行 わ れて い る 。 誕 生 之 地 碑 は 、人 通 り の多 いところ でもあり、 小 村 寿 太 郎 の功 績 を 現 小村侯誕生之地碑碑文 代 に伝 える と ともに 飫 肥 地 区 の 歴 史 性 を 感 じら れる場 所 ともなっている。 昭 和 13 年 ( 1 93 8) には 、 中 国 大 連 に、 南 満 州 鉄 道 総 裁 松 岡 洋 右 らに よって、 小 村 寿 太 郎 銅 像 ( 朝 倉 文 夫 作 ) が 建 立 された 。 さらに 、 大 連 には 小 村 侯 記 念 図 書 館 が 建 設 され小 村 寿 太 郎 の手 択 本 や 写 真 等 が 収 蔵 された 。小 村 侯 記 念 図 書 館 では 、小 村 寿 太 郎 関 係 資 料 を収 集 す るために飫 肥 の地 を訪 れて、 小 村 寿 太 郎 が幼 少 の頃 に 交 流 のあった関 係 者 の聞 き 取 りを 行 っ ている。 昭 和 16 年 ( 1 94 1)の 太 平 洋 戦 争 開 戦 直 前 には 、 日 本 橋 高 島 屋 に おいて、 小 村 寿 太 郎 三 十 年 祭 記 念 展 覧 会 が 開 催 されたが 、 出 身 地 で ある日 南 市 においても、 第 二 次 世 界 大 戦 後 は 、 市 民 に よって 1 0 年 ご と の顕 彰 活 動 が現 在 まで 続 いてきた。 昭 和 2 6 年 ( 19 5 1)には 、 小 村 寿 太 郎 顕 彰 会 が結 成 され 、小 村 寿 太 郎 が 学 んだ 藩 校 の振 徳 堂 庭 先 で没 4 0 周 年 式 典 が 行 わ れた。 式 では 吉 田 茂 首 相 の 式 辞( 代 読 )等 があった 。翌 年 には 飫 肥 竹 香 園 に小 村 寿 太 郎 銅 像( 朝 倉 文 夫 作 ) が 建 立 され た。 以 後 、 この地 元 顕 彰 会 が 小 村 寿 太 郎 の 顕 彰 活 動 の 主 体 となっ て いく 。 昭 和 16 年 ( 1 94 1) には 、 宮 崎 県 出 身 の 新 聞 記 者 黒 木 勇 吉 が郷 土 の 先 覚 者 伝 と して『 小 村 寿 太 郎 』 を 刊 行 し 、 小 村 寿 太 郎 の 業 績 を検 証 した。 昭 和 2 9 年 (1 9 54 ) には 、 小 村 育 英 会 が 設 立 され 、 小 村 寿 太 郎 に続 く 人 材 を 育 成 するた めに 、奨 学 金 の 貸 付 が 始 まった 。その 後 、昭 和 3 6 年 ( 19 6 1) に没 50 周 年 、昭 和 4 6 年 ( 19 7 1)にも 没 6 0 周 年 の記 念 式 典 が行 わ れた。 また、 昭 和 4 3 年 ( 19 6 8)には 、 明 治 百 年 記 念 小村寿太郎生家 として、飫 肥 地 区 の 盆 踊 りが 寿 太 郎 まつ りと 改 称 された。こ のことからも 、 地 元 の偉 人 として 顕 彰 する 姿 勢 が伺 わ れる 。 71 この後 、 地 元 以 外 で も昭 和 5 1 年 ( 19 7 6)には 、 N H K 連 続 歴 史 ドラ マ「 明 治 の群 像 」 が放 映 され、 昭 和 5 5 年 ( 1 9 80 )から 56 年 ( 1 98 1) にか けて吉 村 昭 の「 ポー ツ マスの旗 」 が出 版 、 ド ラ マ化 されるなどして、 小 村 寿 太 郎 の 業 績 が大 き く 知 られるようになって きた。 昭 和 56 年 ( 1 98 1)の 没 7 0 周 年 では 振 徳 堂 に小 村 の胸 像 が 建 立 されると ともに 、市 内 小 学 生 に 小 村 の 業 績 や人 とな りを知 って もらうために 、市 内 の 有 識 者 が中 心 となって『 小 村 寿 太 郎 侯 小 学 生 のた めに』 が制 作 され た。 昭 和 6 0 年 (1 9 85 )には 、 日 南 市 は ア メリカのポー ツマス 市 と 姉 妹 都 市 盟 約 を締 結 し 、 日 南 市 民 と ポーツマ ス市 民 が交 流 をは じめ 、小 村 寿 太 郎 の国 際 的 な 偉 業 がよ り身 近 なものに 感 じられ るよ うになってきたといえる。 昭 和 62 年 ( 1 98 7) には 、 小 奉賛会による小村寿太郎関係書籍 村 終 焉 の地 である 葉 山 の別 荘 に 、 小 村 侯 奉 賛 会 や 日 南 市 出 身 者 によって「 小 村 寿 太 郎 終 焉 之 地 」 顕 彰 碑 が 建 立 され た。 平 成 3 年 (1 9 91 )の小 村 侯 没 80 周 年 記 念 で は 、 市 内 有 識 者 による 『 小 村 寿 太 郎 小 伝 』 が 刊 行 される ととも に、懸 案 であった小 村 記 念 館 建 設 が 市 民 の寄 附 等 に よって着 工 され、平 成 5 年 ( 19 9 3) 1 月 1 2 日 に開 館 した。以 後 、小 村 関 係 資 料 の収 集 と 情 報 発 信 の核 として機 能 するよ うになり、 小 村 寿 太 郎 顕 彰 の 中 心 施 設 となっ た。 平 成 13 年 ( 2 00 1) には 、没 9 0 周 年 記 念 として『 まんが 小 村 寿 太 郎 』と『 父 の 一 生 逆境 の裡 に自 ら玉 成 』 が刊 行 された。 平 成 1 4 年 度 には 、 日 南 市 飫 肥 重 要 伝 統 的 建 造 物 群 保 存 地 区 内 にある 小 村 寿 太 郎 生 家 の 整 備 改 修 工 事 が 行 わ れ、 市 民 に よ る 、 ひ な ま つ り など な ど の まち づ くり活 動 の 拠 点 と し て 活 用 さ れ て い る 。明 治 3 0 年 代 に 建 築 さ れ た 小 村 寿 太 郎 生 家 は 、主 屋 と 隠 居 部 屋 、 土 蔵 、 納 屋 な ど で 約 9 0 ㎡ で あ っ た が 、 明 治 時 代 後 期 及 び 大 正 1 0 年 の 2 度 にわ たる移 築 を重 ねる中 で、主 屋 が 7 部 屋 と台 所 、風 呂 場 などが増 築 され、木 造 平 屋 瓦 葺 170 ㎡ の現 在 の 形 となった。南 面 には高 さ 2m 近 い切 石 積 みの飫 肥 石 の石 垣 が並 び、南 向 きに作 られた入 口 の石 段 を のぼ っ た 先 に あ る 建 物 の玄 関 は 、 主 玄 関 と 脇 玄 関 がある。 平 成 1 7 年 ( 20 0 5)は 、ポーツマス 条 約 締 結 1 0 0 周 年 、小 村 寿 太 郎 侯 誕 生 15 0 周 年 記 念 と して、 ポーツマ ス市 民 訪 問 団 が 派 遣 され 、 国 際 シ ン ポ ジ ウ ム の 開 催 、 テ レ ビ 番 組 「 明 治 が 生 んだ 小 さ な 巨 人 、 小 村 寿 太 郎 」の 制 作 、小 村 捷 二『 骨 肉 』の 刊 行 など 大 きな事 業 が 実 施 された 。平 成 2 1 年 (2 00 9) には 、 「 めざせ 小 村 寿 太 郎 国 際 塾( 平 成 2 3 年 度 か らは 振 徳 塾 ) 」 が 開 催 されて、 多 く の小 学 生 が 語 学 や 国 際 教 育 を受 けるよう になった。 小村寿太郎侯シール 平 成 23 年 ( 2 01 1)の 没 後 1 0 0 年 記 念 で も、 ポーツマス 市 民 訪 問 団 72 ( 没 後 100 年 記 念 事 業 ) が派 遣 され 、 小 村 侯 探 訪 スタ ンプラリーの 開 催 、 伝 記 本 の 編 集 開 始 、 「 振 徳 教 育 の 日 i n 日 南 」 を 制 定 した。 日 南 市 民 を 挙 げての以 上 のよう な顕 彰 活 動 は 、 飫 肥 地 区 のみな ら ず 市 内 全 域 の児 童 生 徒 が小 村 寿 太 郎 や藩 校 振 徳 堂 をは じめ とした 地 域 の 歴 史 や 文 化 に目 を向 けるこ とに 繋 がってい る。また 郷 土 の 偉 人 と、その生 ま れ育 った 飫 肥 地 区 に 現 在 も残 る 建 造 物 が相 まってその歴 史 を 現 代 に 伝 えている。 こう して育 まれてきた思 いは 、 飫 肥 地 区 の風 土 や 先 人 を 尊 ぶ 住 民 意 識 の 礎 となっている。 73 小村寿太郎侯顕彰活動関係年表 年 代 明治39年4月16日 明治44年11月26日 大正3年 昭和8年5月26日 昭和13年10月16日 昭和16年11月 日 南 市 民 に よ る 活 飫肥にて小村男爵歓迎会 (小村寿太郎、神奈川県葉山にて死去) 桝本卯平『自然の人 小村寿太郎』 小村寿太郎誕生之地碑建設 動 日 南 市 外 で の 活 動 小村侯記念図書館・小村寿太郎侯銅像(中国大連) 小村寿太郎侯三十年祭記念展覧会(日本橋高島屋) 記念遺品展覧会(南明館(飫肥)) 遺品展覧会(飫肥国民学校) 昭和26年11月26日 小村寿太郎侯没40周年式典 小村寿太郎顕彰会発足 『小村寿太郎侯の素顔』 昭和27年11月26日 小村寿太郎侯銅像(竹香園) 昭和28年 昭和29年3月31日 小村育英会発足 昭和31年 昭和36年11月26日 しゅろ 昭和37年 渡米記念棕櫚の木を中央公園に移植 昭和41年 昭和43年11月26日 明治百年記念で「寿太郎まつり」 黒木勇吉『小村寿太郎』 昭和46年 小村寿太郎侯没60周年記念式典 遺品展・講演会 小村寿太郎顕彰会が小村寿太郎侯奉賛会を設立 昭和51年 昭和55年1月 昭和56年11月26日 小村寿太郎侯70周年式典 小村侯胸像(振徳堂) 『小村寿太郎侯 小学生のために』 昭和60年9月5日 ポーツマス市と姉妹都市の盟約を結ぶ 昭和61年 青山霊園墓地改修(在京日南の会) 昭和62年11月 「小村寿太郎終焉の地」顕彰碑建立 平成3年11月26日 小村寿太郎侯80年忌式典 『小村寿太郎小伝』 平成5年1月12日 国際交流センター小村記念館オープン 平成8年 小村寿太郎侯顕彰国際交流意見発表会 平成9年 小村寿太郎侯自叙伝里帰り 平成13年 小村寿太郎侯没90周年式典 記念講演会 終焉の地訪問(葉山町) ゆかりの地訪問(中華人民共和国大連) 『まんが 小村寿太郎』 『父の一生 逆境の裡に自ら玉成』 平成16年4月1日 小村寿太郎生家オープン 平成17年 ポーツマス講和条約締結百周年・小村寿太郎侯 誕生百五十年記念 国際シンポジウム開催 小村侯顕彰国際交流意見発表大会 ポーツマス市民訪問団 ポーツマス市へ小中学生ホームステイ 小村寿太郎侯顕彰祭 劇団いもがら「ジュタロー」 日露交歓コンサート 東京近郊の小村侯ゆかりの地市民団訪問 語学塾開講 『明治が生んだ「小さな巨人」小村寿太郎~息子 が語る父の一生~』 『骨肉』 「振徳教育」提唱 平成18年3月 『実践事例集小村寿太郎侯教材化の実践』 平成21年 めざせ小村寿太郎国際塾 御菓子「寿太郎巻」復活 平成22年 寿太郎音頭 平成23年11月23日 小村寿太郎侯没100周年式典 小村寿太郎侯探訪スタンプラリー 小村侯ゆかりの地訪問ツアー ポーツマス訪問団派遣 小村寿太郎侯特別顕彰展 小村寿太郎侯イメージシール 伝記本編集 作文・絵画コンクール 74 教育映画「小村寿太郎」(日本文化映画社) 浪曲「偉人小村寿太郎侯」 小村侯を偲ぶ会(霞友会館) 外務省『小村外交史』 NHK連続歴史ドラマ『明治の群像』 第九話「日英同盟」 第十話「日露戦争とポーツマス講和会議」 吉村昭『ポーツマスの旗』 NHKドラマ「ポーツマスの旗」 小村寿太郎胸像 振徳堂 小 村 寿 太 郎 生 家 (移 築 ) 国際交流センター小村記念館 稲沢私塾 小村寿太郎銅像 小村寿太郎墓 小村寿太郎侯誕生之地碑 小村寿太郎関連建造物位置図 75 5 鵜戸山にみる歴史的風致 鵜 戸 神 宮 は 、 日 向 灘 に面 し た鵜 戸 崎 の 海 に 面 した洞 窟 内 に鎮 座 す る。 祭 神 は ウガヤフキア エズノミコト外 5 神 で 、古 く から鵜 戸 大 権 現( 日 向 地 誌 ) も しく は 鵜 戸 六 社 大 権 現 ( 鵜 戸 詣 道 の記 ) と呼 ばれていた 。 また 、 日 向 神 話 の 海 幸 山 幸 物 語 の舞 台 とし ても知 られている。鵜 戸 神 宮 の 創 建 は 、 伝 承 に よると、 推 古 天 皇 の時 代 に六 所 大 権 現 の神 殿 を造 営 、光 喜 坊 快 久 が 勅 命 を 受 け 、延 暦 元 年 (7 82 )に神 殿 3 宇 と、 寺 鵜戸神宮本殿 院 僧 堂 を 再 建 し 、鵜 戸 山 大 権 現 吾 平 山 仁 王 護 ちょくごう 国 寺 の 勅 号 を賜 った という(「 鵜 戸 山 縁 起 」)。ま た、『 日 向 地 誌 』による と 、長 禄 3 年 (1 4 59 ) に後 花 園 天 皇 が 勅 使 を 派 遣 して岩 屋 を 見 聞 さ せたという 。 中 世 には 、日 向 国 内 は もちろんのこと、薩 摩 、大 隅 の 島 津 一 族 、肥 後 の相 良 氏 な ど、南 九 すけたか 州 諸 国 の武 士 からも尊 崇 を受 けていた。 文 安 2 年 (1445)には、 伊 東 祐 尭 が樺 山 孝 久 に対 し、 鵜 戸 六 所 大 権 現 の 起 請 文 を 書 いている。 ご おうほういんきしょうもん 文安2年鵜戸宮牛玉宝印起請文 また 、寛 正 5 年 ( 14 6 4 )、島 津 立 久 は 、鵜 戸 に おいて伊 東 祐 尭 の子 祐 国 と 会 って和 談 をして、 たつひさ 翌 年 に 、 立 久 が祐 尭 の 娘 を 「 鵜 戸 城 」 に 迎 え、 婚 姻 の祝 儀 を 「 鵜 戸 上 御 城 」 で 行 っている (「島津立久譜・新納家覚書」)。 さらに 、 天 文 9 年 (1 5 40 )からの伊 東 氏 と 島 津 氏 の抗 争 では 、 島 津 忠 広 は 伊 東 勢 の侵 入 を 防 ぐために 、鵜 戸 山 に城 郭 を構 え 、城 戸 を立 て 、垣 を結 い 矢 倉 を 付 け て防 衛 の陣 としている。一 76 方 、伊 東 方 は 隣 接 する烏 帽 子 形 に陣 を 取 り 、道 を造 り山 を薙 ぎ、昼 夜 を分 けず 攻 撃 したため、 天 文 1 1 年 (1 5 42 )、 鵜 戸 山 は 落 城 した ( 「 瀬 戸 口 入 道 覚 書 」 ) 。 江 戸 時 代 になる と、飫 肥 藩 主 伊 東 家 が 城 下 近 く に 臨 済 宗 報 恩 寺 、曹 洞 宗 長 持 寺 、新 義 真 言 宗 願 成 就 寺 の 三 大 寺 を創 建 する と ともに 、鵜 戸 山 仁 王 護 国 寺 を 手 厚 く 庇 護 した 。仁 王 護 国 寺 には 八 丁 坂 沿 いなど に尊 勝 院 、 不 動 院 、 宝 寿 院 、 大 光 坊 、 持 宝 院 、 常 福 院 、 延 命 院 、 隆 真 院 、 新 南 院 、 上 ノ 坊 、 明 王 院 、 弥 勒 院 の十 二 の 支 院 があった。 現 在 の本 殿 は 、 正 徳 元 年 ( 17 1 1)に 五 代 飫 肥 藩 主 伊 東 祐 実 が 新 たに改 築 したものを 明 治 2 2 年 ( 18 8 9)に 大 改 修 し 、さらに昭 和 4 3 年 (1 9 6 8) に改 修 し たものである 。その後 、屋 根 や本 殿 の傷 みが著 しく なったことか ら、 平 成 8 年 度 に 、 改 修 が行 わ れた。 このように幾 度 の 改 修 を実 施 し たものの、 権 現 造 の様 式 は 往 時 の ままである 。 寛 永 17 年 ( 1 64 0) 、飫 肥 藩 南 部 の榎 原 にあ った地 福 寺 の住 持 精 能 が、神 女 と 称 された 寿 法 院 ( 万 寿 ) の進 言 があった として、 鵜 戸 山 仁 王 護 国 寺 3 8 世 実 融 の 協 力 を得 て 、鵜 戸 山 大 権 現 を分 霊 した。寿 法 院( 万 寿 )に深 く 帰 依 した 飫 肥 藩 三 代 藩 主 伊 東 祐 久 は 、 万 治 元 年 ( 16 5 8)に 地 福 寺 境 内 を 社 地 として榎 原 大 権 現 を創 建 した。 延 宝 2 年 ( 16 7 4)には 万 寿 の 霊 を祀 る桜 井 大 権 現 が造 営 され、 榎 原 大 権 現 と とも に両 権 現 と呼 ばれて、 歴 代 藩 寿法院(万寿) 主 以 下 、 多 く の人 々 の 参 詣 が 絶 えな かった。 飫 肥 藩 では 、 鵜 戸 山 に 43 1 石 、 榎 原 山 に 15 0 石 を寄 進 している( 「 県 郷 村 社 以 下 寺 院 」 ) 。 榎 原 大 権 現 には 別 当 寺 として 貴 雲 山 地 福 寺 があった が、 明 治 5 年 ( 18 7 2)に 廃 寺 となっている。 現 在 の榎 原 神 社 境 内 に 残 る鐘 楼 は 、 天 保 1 3 年 (1 8 42 )に 建 立 された。 神 仏 習 合 の 象 徴 的 建 物 で、2 階 が 鐘 つき堂 と なっている。 1 階 は なめ らかな内 湾 曲 線 の まるで袴 のよう な 形 をしてい て、この 1 階 と 2 階 の バランスが 見 事 に調 和 している。ま た、本 殿 は 、宝 永 4 年 (1 70 4) に建 立 されたもの で、正 面 から見 ると 権 現 造 風 で あるが横 から見 る と 後 ろ 半 分 が 八 幡 造 風 になっている。こ れを八 ツ棟 造 と 呼 んで おり、鵜 戸 山 大 権 現 の 本 殿 と 造 り が類 似 している。また 、 出 鼻 の 瀧 やバクなどの細 工 も技 巧 をこらしている。 これ らの建 造 物 と並 んで 宮 崎 県 指 定 文 化 財 となっているのが、 楼 門 であ る。 楼 門 は 、 文 化 1 3 年 ( 18 1 6)に 建 立 された も ので、 1 階 に屋 根 がない 2 階 建 の楼 門 造 の様 式 を 持 つ 。 楼 門 造 77 榎 原 神 社 ( 本 殿 ・鐘 楼 ・楼 門 ) りの門 は おもに寺 院 に 用 いられること が多 く 、 神 仏 習 合 の 象 徴 的 建 物 であるといえる 。 門 の 両 側 に石 で 彫 られ た仁 王 像 が配 置 してあり 仁 王 門 とも 呼 んだ 。 1 階 と 2 階 の高 さの比 が 1: 1 で 近 世 の 建 築 の 特 徴 が現 れている。 鵜 戸 山 大 権 現 と榎 原 大 権 現 ・ 桜 井 大 権 現 への参 詣 は 、 そ れぞ れ鵜 戸 参 り 、 榎 原 参 りと よ ばれた 。文 化 年 中 ( 1 80 4 ~18 )に日 本 全 国 を 廻 国 した佐 土 原 の 修 験 僧 野 田 泉 光 院 も 鵜 戸 山 大 権 現 を経 て 榎 原 参 りを し ている。 ( 「 日 本 九 峯 修 行 日 記 」 ) 新 民 謡 で知 られるシャンシャン馬 道 中 は、 盛 装 した 花 嫁 が馬 の 背 に乗 り 、 花 婿 が 手 綱 を取 って鵜 戸 山 参 り をする歌 詞 である。 本 来 は 榎 原 参 りの新 婚 を歌 ったものであっ たというが、明 治 初 期 に 鵜 戸 山 への参 詣 に 代 わ っている。 このように 、鵜 戸 山 は 、江 戸 時 代 から 安 産 、 産 育 、 漁 業 、 航 海 の守 護 神 として、 シャンシャン馬(鵜戸神宮) 日 向 、 大 隅 、 薩 摩 の 人 々 から 崇 敬 され 、 全 山 法 要 の 3 月 15・1 6 日 は も とより 、男 女 と も 6 、7 才 までには 初 詣 として鵜 戸 山 参 りを 行 い 、 婚 礼 時 にも 鵜 戸 山 、 榎 原 山 参 りを 行 うのが 習 わ しとなって、 数 多 く 参 拝 者 がある 。 寛 政 4 年 (1 79 2)の 高 山 彦 九 郎 の 日 記 には 、 「 鵜 戸 山 祭 礼 正月五日、三月三日、五月五日、六月 十 五 日 、九 月 九 日 、都 て五 度 、三 月 九 日 参 詣 多 フし 、毎 月 初 卯 ま た 参 詣 多 フし 」とある(「 筑 紫日記」)。 一 方 、 榎 原 山 では 、 「 萬 寿 姫 遷 化 の 日 を 縁 に行 わ れるようになった三 月 十 五 、 十 六 日 の 縁 日 大 祭 で 、 男 女 交 際 の厳 しかった 時 代 か ら、 この大 祭 の ときは 自 由 で 、 近 郊 近 在 から 若 き 男 女 が 祭 り 参 加 に意 気 込 んだ という。 境 内 に は 樹 齢 五 百 年 を超 えて 固 く 結 びあっ た 夫 婦 杉 に 、 それを 上 回 る 樹 齢 の 夫 婦 楠 があ り、縁 結 びの願 をこめた 契 りの 紙 札 が、今 でもたく さん置 か れ、 後 をたたない 。 この 祭 り は 、 十 五 日 午 後 六 時 から始 まる 宵 祭 りが賑 や かで、 三 番 の神 楽 が 奉 納 されたあとの 嫁 女 舞 が舞 わ れるころ、 祭 りは 最 高 潮 に達 し 、 昔 は 、 終 夜 の行 事 で 、 門 前 町 には 、 出 店 、 見 世 物 で 賑 わ ったという。 嫁 女 舞 は 、 女 は 姉 さんかぶ りに赤 おこし 、 セ キナモ ン ( 箕 ) を 持 ち 、 男 は 白 衣 に袴 、 セキ( 木 造 り の男 性 器 ) を 持 って舞 い狂 う 」 という 賑 わ い振 り で、 縁 結 びと 夫 婦 和 合 の神 として 崇 敬 された 。 慶 応 3 年 (1 8 67 )に書 かれた『 鵜 戸 詣 道 の 記 』には 、「 門 前 町 に向 かって鳥 居 がある。桜 井 ・ 榎 原 大 権 現 と 書 いてあ る。 山 門 は 二 階 建 で 、 朱 色 に 塗 ってある立 派 な仁 王 門 を とおり、 右 の 方 は 桜 井 神 社 、 その 奥 に榎 原 神 社 、 ど ちらもき らびやかで、 桜 井 神 社 は 銅 板 葺 で 、 全 面 に 朱 塗 りがしてある。 垂 木 先 は 目 つき金 物 が大 変 輝 いている。 絵 で 飾 ら れた部 屋 や、 付 属 寺 院 も 78 ある。 詣 でる人 も 多 く 、 経 済 的 にも 潤 っている様 子 である。 ( 略 ) 」 とあり、 江 戸 時 代 後 期 に は 榎 原 詣 に多 く の人 が 訪 れている様 子 が分 か る。 このため 、 鵜 戸 山 と榎 原 山 には 門 前 町 が 発 達 し、 多 く の旅 館 や飲 食 業 、 土 産 品 店 等 が 軒 を並 べる ようになった 。 現 在 も、 鵜 戸 神 宮 及 び 榎 原 神 社 は 多 く の 崇 敬 を集 め 、 地 元 だ けでなく 、 観 光 客 な ど多 く の 人 が詣 でており、 ま た 地 元 との結 びつきも強 い 。 鵜 戸 山 と榎 原 山 の土 産 として 有 名 なものは 飴 で、 ウガヤフキ アエズ ノミコトが乳 代 わ りに食 し たと伝 え られる鵜 戸 山 の飴 売 りは 、 慶 応 3 年 (1 85 7) 頃 には「 飴 かい 給 へ」 と客 を 呼 ばわ りなが ら売 り 込 む 激 しさであった。(『 鵜 戸 詣 道 の 記 』)明 治 時 代 初 めには 、宮 浦 村 に飴 売 女 が 1 00 余 名 もいた という 。 ( 『 日 向 地 誌 』 ) 現 在 も、 お乳 飴 として 鵜 戸 神 宮 本 殿 横 などで 売 ら れて いる。 鵜戸から榎原への往還 『 鵜 戸 詣 道 の 記 』 で は 「 そして、 私 の 連 れ が此 処 を帰 ろうとして 、 元 来 た 道 を 行 って、 辻 堂 のある所 を 通 り 、 坂 を下 ろう とすれ ば、 そこ らじゅうの乙 女 や子 ど も が待 ち 構 え、 列 をなし て 構 えている。 その 真 ん中 を通 っていると 、 「 飴 を買 ってくだ さい」 と一 人 が 進 み寄 る と 、 同 じよ うに皆 が 駆 け 寄 ってく るので、 どうしようも なく 木 履 で 坂 を 下 ろう と急 いでいたら、 乙 女 や子 ども は 裸 足 で非 常 に 早 いの で、 私 を 逃 さず に袖 を 捉 ま え 引 っ 張 っ た 。 後 を 見 た ら 、 供 の 鮫 島 へ も 、 79 大 勢 の 乙 女 や 子 どもが 取 り 囲 んでいる。いろい ろ言 い訳 をして買 わ ないようにしようとしていた が、 逃 げられず 、顔 の色 が朱 より 赤 く 見 えたの がおかしかった。私 に 取 り す がった乙 女 や 子 どもも 離 しそうにないので 、 「 も う買 ったぞ 、 良 いだ ろう」 と 、 そこらの 飴 を 買 っ て鮫 島 に 持 たせれ ば、 ようやく 鮫 島 からも 乙 女 や子 どもが 離 れた。 ま た、いく らもたたないう ちに、他 の 乙 女 や 子 ど もが 取 り 付 こうとし たので、「 いまたく さん買 ったば かりだ 、この上 は お前 達 に用 は ない」 と言 っ たけ れど、 皆 聞 こう とは しな い。 最 後 に一 人 、 しつ こく 呼 びかけてく る乙 女 があったが、 坂 を下 りき って道 を曲 がって早 足 で歩 いていけば、 寺 師 氏 ら先 の 人 に 一 度 は 飴 を売 り 切 って、 また 取 り に 帰 る乙 女 があった 。いろ いろ売 り 口 上 を言 って、その飴 を 一 行 の 中 に 投 げ入 れて 売 ろう としたが、皆 たく さん買 って いたので、 その まま 置 いて帰 ってしまった。 」 とあり 、 幕 末 における飴 売 りの 様 子 が詳 述 されている。 また、 榎 原 山 の門 前 町 で も数 十 年 前 までは 、榎 原 あめが 売 られおり 、 近 年 飴 作 りを 復 活 させ る動 きがある。 このように 、往 時 の 面 影 を残 す鵜 戸 神 宮 や榎 原 神 社 の 門 前 町 では 、地 元 の 神 社 と 門 前 町 の結 びつき は いまでも 深 く 、 鵜 戸 神 宮 の 門 前 の売 店 や神 社 境 内 では 現 在 も 飴 が売 られている。こうし た飴 売 りの習 俗 と 鵜 戸 神 宮 と榎 原 神 社 は 、 地 域 の 信 仰 対 象 であるこ とと 相 まっ て、 日 南 地 方 にとって欠 く こ との出 来 ない歴 史 的 風 致 とな っている。 鵜戸神社境内での飴売りの様子 80 6 飫肥杉に囲まれた坂元棚田にみる歴史的風致 南 九 州 の 高 温 多 湿 な土 地 柄 で 育 つ飫 肥 杉 は 、 樹 脂 が多 く て水 を 吸 収 することが 少 なく 、 弾 力 があって曲 げに強 く 、比 重 が 小 さく て浮 力 が あり、衝 撃 によって割 れ ることの少 ないこ とから 、 木 造 船 の造 船 材 として 広 く 用 いられてきた。 江 戸 時 代 、 飫 肥 藩 では 、 藩 の 殖 産 興 業 政 策 と し て領 内 の山 々 に 飫 肥 杉 の植 林 を 推 進 した。 幕 末 には これらの杉 が伐 採 期 となり 、 瀬 戸 内 海 沿 岸 の造 船 地 帯 で 、 造 船 材 としての 飫 肥 杉 弁 甲 が大 量 に取 引 されるよ うになった。 明 治 時 代 か ら大 正 時 代 を経 て 、 昭 和 4 0 年 代 までは 、 西 日 本 の 木 造 船 の大 半 は 飫 肥 杉 で造 ら れていた。 江 戸 時 代 には 飫 肥 藩 の 専 売 品 であっ た飫 肥 杉 は、 現 在 、 宮 崎 県 全 体 で植 林 さ れるようになり 、 宮 崎 県 の「 県 の木 」 、 日 南 市 の「 市 の木 」 と して、日 南 市 のみなら ず 、 宮 﨑 を代 表 する 地 場 産 品 となってい 飫肥杉(飫肥城旧本丸)と飫肥杉林 る。 宮 崎 県 の 杉 丸 太 生 産 量 は 、 平 成 3 年 度 から現 在 まで 20 年 連 続 で日 本 一 を 誇 っており、 その杉 は 飫 肥 杉 が県 下 一 円 に 植 林 されたもの である。 日 南 市 北 部 の 山 は 、藩 政 時 代 に、利 益 の 3 分 の 2 を 領 民 に配 分 する 三 部 一 山 な ど、 民 間 の 力 を 活 用 して推 進 した飫 肥 杉 植 林 地 で 、近 代 以 降 は 、飫 肥 杉 弁 甲 材 の需 要 拡 大 に応 じて 、国 有 林 におけ る 坂 元 棚 田 周 辺 ( 酒 谷 地 区 ) の 石 橋 ( 石 原 橋 ・大 谷 橋 ) 部 分 林 制 度 による 大 規 模 な植 林 がなされるとともに、 搬 出 や運 搬 のた めの道 や 石 橋 な どが整 備 された 。 現 在 も、 酒 谷 地 区 などに は石 橋 をみることができる。 また、 索 道 による飫 肥 杉 搬 出 や切 り出 しの 様 子 が 飫肥杉の切り出し(古写真 昭和初期) 古 写 真 などに 残 されて いる。 81 日 南 市 酒 谷 地 区 は 、 そのほとんど が山 から なり、 江 戸 時 代 か らの 伝 統 である 飫 肥 杉 が 至 る 所 に植 林 されている。 明 治 時 代 後 期 からの 木 材 需 要 の 増 加 に よ って、国 有 林 を中 心 と し て山 仕 事 も増 加 し たことか ら、 酒 谷 地 区 の 人 口 も増 加 してきた。 そのため、 生 産 性 の高 い 稲 作 への 期 待 が 高 まり 、 坂 元 地 区 で 比 較 的 広 い 面 積 の緩 斜 面 があったことから、 国 の補 助 事 業 である耕 地 整 理 事 業 で 水 田 化 しよう と 計 画 され た。 坂元棚田 昭 和 3 年 ( 19 2 8)から 昭 和 8 年 (1 93 3)の 耕 地 整 理 事 業 でつく られた坂 元 棚 田 は 、 小 松 山 南 斜 面 において、 石 垣 で 規 格 的 に 仕 切 られた 連 綿 と並 ぶ 水 田 と 周 囲 の 飫 肥 杉 林 が 独 特 の 美 しい景 観 を 形 成 している。 平 成 1 1 年 (1 99 9) 7 月 に 、 農 林 水 産 省 に より日 本 の 棚 田 10 0 選 に 選 定 された 。 その成 立 は 耕 地 整 理 事 業 によるものであり 、 造 成 過 程 が 公 文 書 等 によっ て読 み解 く ことができる という点 で 他 の棚 田 に な い歴 史 的 価 値 を 有 している。 この坂 元 棚 田 がは じ めて計 画 されたのは 明 治 2 5 年 ( 18 9 2) 頃 にさか のぼるが、水 路 用 地 の 確 保 が困 難 で 実 施 に 至 ら なかった。明 治 末 期 か ら大 正 期 にか けて、米 作 りを 主 と する農 業 の 地 盤 整 備 のた め全 県 的 な耕 地 整 理 が 行 なわ れた。 南 那 珂 郡 で も大 規 模 な 耕 地 整 理 が相 次 いで行 なわ れ、 田 園 の景 観 は 一 変 する。 その ような 動 きの中 で 、 大 正 1 4 年 ( 19 2 5)、 宮 崎 県 内 務 部 耕 地 整 理 課 農 林 技 手 によって「 坂 元 耕 地 整 理 組 合 設 計 書 」 が 作 成 され、 事 業 の 計 画 が 調 っ た。 宮 崎 県 文 書 セン ター 所 蔵 の 宮 崎 県 の公 文 書 によ れば、 当 地 を「 大 部 分 が原 野 で畑 地 が点 在 して、 本 来 萱 場 として使 用 さ れてきた所 であるが、 地 味 は 肥 沃 で 南 面 する傾 斜 地 であり耕 地 として 好 適 地 であ る。 地 勢 では 、 地 区 内 の最 高 部 と 最 低 部 との 落 差 24 0 尺 ( 72m )あって、 地 形 は 南 北 に長 く 約 2 5 0 間 (約 45 0m) 、東 西 に 狭 く 約 8 0 間 (1 4 4m)ある」として いる。 この土 地 を水 田 化 する ために、開 田 地 から東 へ最 長 約 1. 6 ㎞ も 離 れた 山 林 を 流 れる 2 本 の 渓 流 から 取 水 して、 灌 漑 水 路 をひいて棚 田 へ導 水 されている。 82 耕地整理組合関係文書 (宮崎県文書センター所蔵) 事 業 の概 要 と しては 、 昭 和 3 年 (1 9 28 )5 月 1 5 日 、 「 坂 元 耕 地 整 理 組 合 」 が組 合 員 2 4 名 で設 立 。昭 和 3 年 ( 1 92 8)から 昭 和 8 年 ( 19 3 3) の 5 年 間 で 、坂 元 の 畑 ・ 原 野 ・ 山 林 な ど耕 地 が 1 町 5 反 3 畝 1 9 歩 で あったところに 、 5 町 7 反 2 0 歩 5 合 の 水 田 を 造 成 し 、 50 筆 の 土 地 ( 土 地 所 有 者 2 4 名 )を 画 一 的 に 整 備 して 1 1 9 筆 の水 田 にし 、専 業 2 2 戸 、兼 業 6 戸 、計 2 8 戸 の 農 家 の 創 出 を期 待 する 、 というものであった 。 事 業 費 予 算 総 額 は 「 1 万 9 74 7 円 8 5 銭 」 で、 その 費 用 調 達 の 方 法 は 、 ① 借 入 金 6, 0 0 0 円 ( 起 債 年 限 16 年 ) 、 ② 開 墾 助 成 金 8,015 円 57 銭 、 ③ 受 益 者 の負 担 ( とくに労 力 提 供 ) であった。 この工 事 は 計 画 通 り 昭 和 3 年 ( 19 2 8)9 月 1 日 に着 工 され、 工 事 そのもの は 計 画 より 早 く 昭 和 7 年 (1 93 2) 1 2 月 1 0 日 完 工 した。 ( 完 工 の届 出 は 2 0 年 後 の昭 和 27 年 ( 1 95 2) 5 月 1 5 日 ) なお、 完 成 後 の 農 耕 は 、 稲 作 を主 とし 、 稲 の 平 均 収 量 を反 当 2 石 以 上 に 増 加 すること を 目 指 していた 。 工 事 中 に若 干 の計 画 変 更 ( 本 幹 線 水 路 の 土 質 が悪 く 、 水 漏 れや 材 料 費 の変 更 等 ) で 総 工 事 費 が 2 万 2 , 58 3 円 9 5 飫肥杉林と坂元棚田 銭 とは なったが 、 工 期 とも順 調 に 完 工 となった 。 完 成 した 1 19 筆 の 水 田 は 、緩 傾 斜 地 で 5 畝 (約 50 0 ㎡ )、急 斜 面 地 では 3 畝 ( 約 3 00 ㎡ )で 、 馬 耕 での 能 率 ・ 利 便 性 を考 慮 した大 きさであっ た。 その 後 、 食 糧 増 産 のための開 墾 が 続 き、 坂 元 集 落 の 周 辺 は 水 田 や畑 が 各 所 に造 られ たが、 昭 和 2 0 年 ~ 4 0 年 代 の 飫 肥 林 業 におけ る 拡 大 造 林 に併 せて 、 現 在 の棚 田 以 外 の水 田 、 畑 は 植 林 されていった。 この時 期 の 坂 元 集 落 の主 な収 入 源 は 林 業 関 係 の仕 事 であった。一 方 で、棚 田 の耕 作 は 現 在 まで 綿 々 と続 けられ て いる。とりわ け、水 稲 耕 作 に もっとも 重 要 な 水 管 理 については 、山 の斜 面 地 の開 削 された 水 路 であるために、 大 雨 等 で壊 れたり 埋 もれ たりす ることが多 く 、 坂 元 集 落 の人 々 が 、 定 期 的 に 灌 漑 水 路 の補 修 や点 検 を 行 い、 限 られた 水 資 源 を大 切 に利 用 してきた 。 坂 元 棚 田 は 、 昭 和 初 期 の 耕 地 整 理 により 開 墾 された 棚 田 であり 、 中 山 間 地 の住 民 が 不 利 な条 件 を克 服 し、 遠 距 離 から水 路 を ひいて水 田 耕 作 を 続 けてきた。 その維 持 のために 、 坂 元 地 区 住 民 が総 出 で 、水 路 の改 修 や維 持 管 理 、石 垣 の 補 修 や 除 草 な ど を連 綿 と 行 ってきた。ま た、 棚 田 の 周 囲 には 、 飫 肥 杉 に 囲 まれた 美 林 が広 が り、 農 業 と 林 業 を両 立 してきた坂 元 地 区 住 民 の 努 力 が、 現 在 の 歴 史 的 風 致 を 生 み出 し ている。 83 ( コラ ム) 棚 田 の 水 源 を維 持 する ために 坂 元 地 区 の田 中 被 市 氏 は 、 当 時 を振 り返 って次 のように述 べてい る。「 坂 元 棚 田 は 、 短 期 間 に数 町 歩 を開 田 され たのですから、 多 く の石 垣 築 のできる 人 が必 要 だ ったので、 あちこちの 集 落 からも 石 垣 築 ので きる人 を雇 い 入 れておられました 。 地 区 の人 も 工 事 が 進 む に従 って、 見 よう見 まねで 習 得 され 、 私 の 父 も 工 事 の 中 頃 以 降 は 割 当 は 自 前 で築 いていました。 」 「 水 路 も整 い 、棚 田 も大 部 分 が 出 来 上 が り 、愈 に上 部 から順 次 水 が張 られ 、稲 の植 え 付 け 準 備 が 進 めら れていきました。当 初 は 漏 水 が 激 しく 表 土 が硬 く な り、植 え付 けに手 が痛 く な った ものです。稲 の出 来 も 悪 く 今 の早 期 水 稲 のシ ッテのようでその頃 は 地 干 でしたから 、干 し た稲 が その田 の 半 分 に も満 た ない程 でした 。裏 作 の 麦 、菜 種 は 良 く 、作 業 も容 易 で した 。年 毎 に 各 々 の努 力 に より今 の ような 美 田 に なりまし た。 」 ( 『 私 の棚 田 追 憶 』 ) この証 言 からも 坂 元 地 区 住 民 が 、 棚 田 の 造 成 や その後 の 水 田 土 壌 改 良 に力 を 注 いでいた様 子 が窺 える。 宮 﨑 大 学 の米 村 敦 子 教 授 による 坂 元 地 区 住 民 の 聞 き取 りでは 、 次 のような 話 が出 てい る。 「 ( 男 性 の 聞 き取 り) 棚 田 だ けで は 生 活 で き な い 。 木 材 価 格 が 良 く 、 当 時 、 畑 に 植 林 し た 。 昭 和 4 0 年 代 後 半 、山 仕 事 に も機 械 が 入 って人 がいらなく なった 。棚 田 の仕 事 は 女 の仕 事 で 、 田 植 えの 段 取 りなど 女 性 が行 う。 男 は 農 繁 期 だ け田 んぼを手 伝 った 。 昔 は 水 がよけれ ば田 ん ぼにして、 水 がなけれ ば畑 にした 。 畑 には 麦 ・ 芋 ・ 大 豆 ・ そばなど を植 えた 。 棚 田 に 馬 を 使 っていたのは 昭 和 4 0 年 代 まで。 農 耕 用 の 馬 は 小 さい。 馬 から 耕 耘 機 になり、 その後 、 ト ラク タ ーになった。 棚 田 造 成 は きつい仕 事 だ が、 米 の出 荷 が できるようにま でなった。 昭 和 4 0 年 代 の米 の生 産 調 整 の頃 、山 の仕 事 も 機 械 化 が 進 んで出 稼 ぎが 増 えた 。昭 和 5 0 年 代 、出 稼 ぎ を やめて地 域 に 戻 ってきた。 」 「 ( 女 性 の聞 き取 り) 田 植 えは地 区 の「 いかてり」 ( 共 同 体 の助 け合 いである『 結 い』 。 「 いったりきたり 」 から きた言 葉 ) で 行 う。 田 植 えの順 番 は 苗 の生 育 等 から決 めていく 。 これ は 女 性 の 仕 事 。6 月 中 下 旬 。家 の者 2 ~ 3 人 で 加 勢 の 人 の炊 事 を 担 当 。3 時 頃 に田 植 えが 終 わ り、 皆 で 酒 を 飲 む 。 そ れも楽 しみ。 秋 の稲 刈 りはだ いたい個 々 で行 う 。 嫁 いですぐの 頃 は 自 分 の棚 田 が どこか区 別 が つかず 、分 からなかった。棚 田 以 外 の場 所 にも 畑 や田 んぼがあり 、歩 い て 30 ~ 4 0 分 かけて 畑 仕 事 にいく 人 もいた。 」 このようにして新 たに 開 墾 された 水 田 では 、 その後 も 水 路 の 維 持 管 理 や修 復 、 石 垣 の 手 入 れや災 害 で 崩 れた 場 所 の復 旧 な ど、棚 田 の 水 田 を維 持 していく ための 努 力 が 続 け られてきてい る。 84 坂元棚田 坂元集落 ⽔路 坂元棚田位置図 85
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