2013年8月1日 望 み の 門 (1) 発行者:社会福祉法人 ミッドナイトミッションのぞみ会 No 6 3 2013/8/1 窓会の雰囲気を思わせたものであ�た�然し 既に昨年九月末MBK法人は解散し�今は全 くの任意団体とな�たが�それだからと言� て� 単 に 有 難 う ご ざ い ま し た�� 過 去 に 心 か ら感謝致します�とお礼を申し上げたのみで� 今回の訪独ミ�シ�ンが評価されてはならな いと思うのである� 我々の果たすべき課題は実はこれからであ る�と言うのは�日独子ども家庭アカデミ� 常務理事 �以下�ピ� タ�パンミ�シ�ン�では�も 井本 義孝 うすでに四年前二○○九年にお二人のドイツ 青年をお招きし�二○一○年には日本から二 平年より約十日早く梅雨明けとなり�連日 人の青年を送り�彼我の文化体験をした�本 猛暑が続いている�昨年六月二十日�法人創 年 は 我 々 が 受 け 入 れ る 番 で あ る� 未 来 を 拓 立五十周年記念会が地元富津公民館にて挙行 くためには青年こそその役割を担う者であろ されたことは記憶に新しい�主題は�過去に う�MBKは組織としてなくとも�地方には 感謝し未来を拓く�であ�た�訪独団員八名 未だその精神を継承し活動しているようであ は木下理事長夫妻を筆頭に�京葉後援会代表� る�のぞみ会は訪日された宣教師がスタ�ト 日独子ども家庭アカデミ�代表等であ�た� させたものである� 五月八日のケルンでのMBKミ�シ�ン関 今度はのぞみ会が新しい組織体としてこの 係者に対する理事長の感謝のお言葉を最初に MBKを支援する時と思う�そのためには青 感謝状�記念品の贈呈があり�テシ�ナ�元 年交流事業は積極的に進めたい�日本とドイ MBK理事長の答辞と乾杯の音頭をはじめ� ツ�今後の協力関係について多大な示唆を受 和やかな雰囲気の内に会は進み�シ��ア先 け新たな展望が与えられたことは誠に感謝で 生�ヘ�トカンプ先生方の細やかなお心遣い あ�た�会には四年前に来日したマリ�・ヘ のお蔭で時の経つのを忘れる程であ�た�特 ルデンさん�友人のユリア・スタンドフさん� に�元宣教師の五人の皆さんは秘書であ�た アンゲリカ・ボルフさん�元MBK職員のデ 方々を交えて�久し振りの交歓の時は正に同 イマインドさんも出席していた�残念ながら 本 部:〒293-0023 千 葉 県 富 津 市 川 名 1 4 3 6 番 地 ゆ�くりとお話しすることが出来なか�たの たちのためにお集まり下さり感謝します� 宣教師の先生 であるが�青年を中心とする交流事業を今後 社会福祉法人ミ�ドナイトミ�シ�ンのぞ 方が望みの門や も進めると共に�任意団体とな�たMBK後 み会は昨年六月二十日に創立五十周年を祝い ベテスダホ�ム 継グル�プの支援について貢献できればと考 ました�その時の主題は�過去に感謝し�未 のために�そし えている� 来を拓く�でした� て西千葉教会の キリスト教信仰により培わされてきた半世 私たちが五十年の歩みを続けて来ることが ために�生涯を 紀に亘る日独友好関係を深め�次代を担う青 出来たのは�神さまの尊さと共に多くの人々 ささげて下さ� 年たちが福祉�教育�医療等を中心に有益な の支えがあ�たことを忘れずに感謝し�未来 たことを心から 人材となるよう私たちは社会貢献することが に向けてさらに前進していこうという気持ち 感謝し�皆様方 求められていよう� を表わした言葉です� の上に神さまか 交歓会の中でヘ�トカンプ先生は�し�か そこで私たちはMBKミ�シ�ンの宣教師 らのかえりみが りと語学教育する必要をお�し��た�もと の方々のお働きと先生方を送り出して下さ� 豊かにあるよう より望ましいことではあるが�百聞は一見に た M B K ミ � シ � ン に 感 謝 し な け れ ば な ら 祈ります� 如かず�の言葉もあり刺激とな�て長期的語 ないと思いました�何故なら�宣教師の方々 また�先生方 学研修に導く道をも形成したいものである� が日本に来て下さらなか�たら�またMBK を 送 り 出 し� 望 み の 門 を 支 援 し て 下 さ � た 世界は今や電波で瞬時に結ばれる時代とな� ミ�シ�ンの支援がなか�たら�望みの門は ミ�シ�ンの方々にも深く感謝致します� た�電話・フ��クス・メ�ル全て目に見え 生まれなか�た 今や望みの門は十六の事業を行い�二五○ ない電波が届けてくれる�目には見えないも し�今日までの 人の働き人を与えられ�予算は十二億円を超 う一つのもの��祈ること�によ�て今後も 働きを続けてく えています�非常に大きく成長しました�し 固く結ばれることを信じる� ることはできな かし�最も大切なことは�望みの門の働きは か�たからです� 宣教師の方々の宣教の業として始められたと いうことです� そういうわけ 理事長挨拶 でこの度旅行団 私たちは宣教師の方々が日本において助け を組織し�ドイ を必要としている人々を愛し� 彼らに仕え� 理事長 木下 宣世 ツを訪問し�皆 それによ�てキリストを証して下さ�たこと 様方に感謝する を忘れてはならないと思います� 機会を計画した してこれからも助けを必要としている そ 次第です� 人々にキリストの愛をも�て仕えていきたい (2) 望 み の 門 敬愛する主にある兄弟姉妹の皆さん�今日 は�皆さんとドイツで再びお会いすることが でき心から嬉しく思います�又�皆さんが私 2013年8月1日 あるバウハウスは二○○二年UIA�国際建 と思�ています�どうぞ�これからも望みの 築 家 連 合 � 世 界 大 会 の 時 に 見 学 し� デ � サ 門のためにお祈り下さい� ウのバウハウスは時間がなく残念ながら断念 私たちも�皆様方をおぼえて祈ります� したが今回はぜひ訪問したいと考えていまし た�ベルリン中央駅から昨日井本常務�伊東 のぞみ会ケルン感謝会に参加して 社長と訪問したポツダムを経由�一時間半程 して途中駅からバスに乗り換え旧東ドイツの ピ�タパンの会代表 宇野 武夫 のんびりとした田舎町を通りデ�サウに着き ました� のぞみ会創立五十周年事業として企画さ れたケルン感謝会とドイツ訪問の旅にピ� バウハウスは�とても九十年前にできた建 タ�パンの会より写真記録係として参加しま 築とは思えない程よく管理されており�現在 した�感謝会はケルン大聖堂脇にある落ち着 はユネスコの世界文化遺産に登録されていま いたビ�ルと料理のおいしいお店で行われま す�バウハウスの校舎は今見るとよくある公 段を下ると地上では 立高校の様に見えますが�九十年前に新しい した�井本常務の進行により�木下理事長の 想像のできない地下 時代の建築を求めて活動しナチスに追われ� 五十年にわたる支援に対する感謝の言葉と感 三層の駅舎にな�て その後世界に広まり現在の私たちの建築があ 謝状・記念品の贈呈等�時を忘れて過ごした います�このホ�ム ると思うと感慨深いものがあります�校舎前 日独友好の会でした�ドイツの宣教師の人々 の熱い思いを聞き感動をし�献身という言葉 にはベ�テル駅方面からの路面電車が地下二 の通りは�グロピウスアレ��と建築家の名 階のホ�ムに入り反対側の街で再び地上に出 前が街路名に命名されています�近くにある について改めて考えました� て路面電車にな�ています�この地方都市の 新校舎群は�十cm厚程の断熱材を外部に使用 ここでは�私が建築家として特に感心をし た二点を紹介し旅の報告とします�まず一点 地上の景観を大切にした街づくりは�私たち した外断熱工法や�木製サ�シ�断熱複層ガ 目は�今回の訪問地であるベ�テルの街につ 経済優先の日本人の感覚では考えられない都 ラス�外ブラインドの採用等日本よりもはる いての印象です�ビ�レフ�ルト駅は�古い 市計画で あります�同じ思いは ドレスデン� か先を行く�省エネルギ�建築がつくられて 平屋建ての駅舎で駅前には広い公園風の広場 ワシントンDCの隣町アレキサンドリア�イ います� があり街は四�五階程度の建築で構成され� タリアのトリノ等景観を大切にした街の散策 帰路は別ル�トの特急に乗車�途 中 で 停 車 したり�乗替えのホ�ムが変更されたりしてベ 同行の伊東社長によれば�空が広く気持ちの を思い出しました� 良い街だ�との評価でした�ところがその公 次は�一日自由時間をいただいて一人デ� ルリンには三十分程遅れて到着したが�とても 園脇にあるガラス屋根のエスカレ�タ付の階 サウのバウハウスに行きました�ベルリンに ドイツをよく感じることのできた一日でした� 2013年8月1日 望 み の 門 (3) �過去に感謝 さり�私達もほ�と安心しました� ドイツから運ばれてきた�からし種� し未来を拓く� ハルトヴ�ク師は�翌々日シ��ア師とお 五十周年記念 会いした折も�変わらぬ祈りの方でした� 京葉後援会 木下 晃子 教 師 の 方 々 に と � て� 日 本 は 本 当 に 行事の一環とし 宣 �からし種�を蒔いてくださ�た土地�ふる て行われたこの 望みの門五十周 年記念行事の最後 さと�なのだと感じた旅でした� 訪独旅行の目的 を飾�たのが�宣 は�一方では歴 教師の方々に直接 史をふりかえる 日独�子どもを取り巻く環境�事情 感謝の言葉を述べ セレモニ�であ る今回のイベント り�もう一方は 新藤 臨床心理士 紀子 これからの未来 でした� ヘ�トカンプ師 ドイツのセレモニ�はドイツ側の熱い歓迎 を見据えて現在 とシ��ア師が予 を受けて厳かに始まり�皆に惜しまれながら の自分たちのあ 約されたケルンの 華やかに閉幕した�のぞみ会創設の夜明け前 るべき姿を再考することではないか�そのた から関わ�てこられたMBKの宣教師・理事 め私は現在のドイツ事情を見聞し日本へ持ち 長・事務局の方々のお話は全て貴重な証言で 帰ることも大切な役目の一つと考えた�ここ 有 名 な レ ス ト ラ ン に� あり�彼らを ではその一部として�子どもを取り巻く環境 五 名 の 元 宣 教 師 の 方 々 含めた多くの について述べてみたい� を 含 む 十 四 名 の ド イ ツ ドイツ人の文 ドイツの子どもチ�ンネル�略称Kika� の方々と日本から八名 は�朝の六時から夜の九時まで子ども向け番 字 通 り � 有 り が集いました� 組を放送している�深夜の時間帯には十分程 難い�自己犠 謝のあいさつ�乾 牲の上に�現 の短編映像が繰り返し放送される�主人公は 感 杯�自己紹介�中身の 在の私たちが 厚切りト�ストのベルント�四角い体の中心 濃いスピ�チ�コ�ス料理�そして感謝状の に十字の切込みが入�ており�両脇に短い手 � 成 り 立 � て 贈 呈�� ふ る さ と � を 日 独 語 で 歌 い� プ レ ゼ いる�ことの がブラブラとついている�今回のテ�マはフ� ントを差し上げ�消息を尋ねあい��とても 歴史的重みを イスブ�クやラインなどネ�トでつなが�て 時間が足りませんでした� たくさんの�トモダチ�を持つことだ�た�古 実感したひと 臭いタイプのベルントはコンピ��タの�声� 宣教師の方々がこの訪問をとても喜んで下 時であ�た� (4) 望 み の 門 2013年8月1日 にいくら勧められてもワ�ルドワイドウ�ブ ビデオで繰り返し訴えかけていた�ベルント ドイツ訪問の旅�心よりの感謝を につながることを拒んだが�まんまと の短編は�そんな子どもたちに一歩外に出て www. ネ�ト側の策略に引�かか�てデビ��させ 客観的にとらえることでそんな中傷メ�ルは 京葉後援会 奥山 啓子 られてしまう� �声� が �おめでとうございます� 根も葉もないことだと伝えているように見え これからあなたもオンラインです�何百万人も る�しかし一方ですべての中傷メ�ルが消え 五月七日朝の成田空港�望みの門の各施設 のトモダチが歓迎しています�と祝う�ベルン 去�た後にもゲ�ムや懸賞品でベルントをう 長を始め多くの方のお見送りを受け�ドイツ トの戸惑いをよそにネ�トは勝手にメ�ルを まく丸め込もう�何とか www. の中に飲み込 旅行が始まりました�機内では私のような者 送り�それに対して突然湧き出た何百万人も んでしまおうとするネ�トの脅威はあきらめ が参加してよいのだろうかと�不安と緊張で い�ぱいでしたがフランクフルト空港に着く のトモダチから二十万の�いいね�をもらい� ずにじり寄�てくる� 無数のコメントが送られてくる��ト�スト ド イ ツ も 日 本 も 少 子 化 に 喘 い で い る� 少 とシ��ア先生が笑顔で迎えてくださり�一 か�こいいな��イカシテル�ポジテ�ブな 数で貴重な子どもたちが急激に変化する生活 人ひとりの名前を呼びながら香り立つバラを コメントは受け流せる�しかしその後�ベル 環境とそれに伴�て変化する価値観の荒波の くださいました�その小さな時間が私にと� ントがう�かり言�たことがトモダチの誤解 中で叫んでいる�消費者である子どもを狙� て緊張から解放され�豊かで楽しい旅を予感 を招き�反発から突如中傷メ�ルが嵐にな� て�日替わりメニ��で挑戦してくる企業も させてもらえるものとなりました� て襲い掛かる� 多い�ある有名な教育者は言う�子どもは育 翌日八日のMBKへの感謝の集い�再び緊 �カビ生えて つ存在である�大人はただ彼らにと�て育ち 張が蘇りました�井本常務の開会の言葉に続 �この固くな�た古パン野郎� き木 下 理 事 長 の ん じ � ね え?�� 真 � 黒 に な る ま で 焼 い て や やすい環境を整えるだけでよいと� ご挨拶�感謝状を る� �パンなんか大�嫌い!�渦巻く中傷メ� ど も に と � て� 現 在 の 子 ど も に と � て 子 ドイツ語と日本語 ルに一瞬巻き込まれるベルントだが�もとも 育ちやすい環境とはどういうものか�それは で読み上げMBK とそれを無意味だと考えているため�一歩外 五十年前のそれとは同じではないだろう�し の方々�来日宣教 れて傍観し�ゴミだな�と一蹴する�と�メ� かし私たちの体は相変わらず同じ形をしてい 師の皆様にお渡し ルはたちまち消え失せる� る�新しいものを取り入れながら古い良いも し�シ��ア先生 現 在 ド イ ツ で は ネ � ト に よ る い じ め の 結 のを残す�それがいつの時代にも求められる の お 祈 り� 乾 杯� 果青少年の自殺が後を絶たず大きな社会問題 姿勢なのだと�こんな当たり前のことにまた お食事へと続きま とな�ている�別の特集番組でも青少年の不 立ち戻�てぐるぐると考えながら答えが出せ した�この頃には 特定多数による中傷がどのくらいひどく子ど ずにいる自分を発見した� 先程の緊張もどこ もたちを傷つけ�場合によ�て死に追いや� � 望みの門ピ�タ�パンの家� へやら�本来でし てしまうのか�経験者のインタビ��や再現 2013年8月1日 望 み の 門 (5) たら私共が感謝 五十年以上も前のことですから��ご不便は 京葉後援会 石城 典子 のおもてなしを 無か�たですかとお尋ねすると�そんなこと すべきところで は全く感じなか�たですよとお�し�いまし 私は五月七日から十日間ドイツ旅行に参加 す が� 笑 顔 で� た�宣教師の皆様が強い力と意志を持�て日 しました�委員会でドイツ旅行の話があ�た しかも日本 語 で 本に来てくださり�MBKの祈りがあり今も 時�� 行 き た い 人 � と 聞 か れ� 私 が 迷 う こ と 話しかけてくだ 覚えていてくださ�ていると思いました�更 なく手をあげたことで京葉後援会からの代表 さる宣教師の皆 に三・一一東日本大震災による福島原発の話 として選んで頂けました�ツア�に属しない 様に�これでは 題に及んだ時の真剣に向き合おうとする姿を 旅なので�自分の荷物は勿論�全て自己責任 いけないと思い 忘れられません�また�交換留学生として来 でやることが条件でした� つつおもてなし 日なさ�た若い方もお出でくださり�いろい 成田空港の を受けている私 ろな形で繋いでいく大切さも改めて知りまし 集合地点に近 がいました� た�そして�木下晃子先生のお祈りで会を閉 づいた時�望 じました�私の中でその余韻は旅行中ず�と みの門の何人 宣教師が思 かの施設長さ い出を語�てく 残�ていました� ださる場面では 続く福祉の街等も有意義に過ごし無事�成 んを見つけて 田に帰�てくることができました�手続きを ビ�クリ� ヘ�トカンプ先 生 が 五 十 年 以 上 前 に い ら し た 時 は 船 で 横 浜 終えて出口まで来ると�出発した時と同じ笑 � お 見 送 り に 着 い た こ と� リ ン ゲ ン・ セ ン ダ 先 生 は 看 顔で迎えてくださるお顔が��私が行けたの です�という 護師でもあ�たので治りゆく人を見守�てい は多くの方の背後のお祈りがあ�てこその旅 ので�思わず たけれど�日本での最初の活動は�障害をか だ�たと感謝の思いでい�ぱいになりました� � 連 休 後 で お かえている者の苦しみが和らぐように�毎日 理事長始め井本常務�木下晃子先生�新藤 忙 し い 時 に の中で少しでも喜びをもたらすことができる さん�伊東さん�宇野さん�石城さん�お世 大 丈 夫 で す ように配慮したこと�そしてシ�フラ�先生 話になりました�心からの感謝を申し上げま か?�と聞い てしま�た� は�十一年間の活動のうちのある期間�手工 す�ありがとうございました� そ し た ら� 芸を教えるお母様と望みの門で過ごしたこと 新生舎の三橋 をお話しくださり�印象に残りました�また� 施設長が�の ヘ�トカンプ先生に来日当時ドイツと日本で ぞみ会五十周 は下水道事情や住環境が違うので�なにしろ (6) 望 み の 門 2013年8月1日 年の最後の記念行事ですから�施設長全員の ずつ手続きをし�乗り場を捜して電車に乗� 会いによ�てはいろいろの人にプレゼントし 総意です�と言われて驚きました�見知�た た�電車は一等車だ�たが混んでいて全員皆 たいと溜めておいた小物類�出かける間際に 顔の方々があちこちに見えました�そのうち バラバラ�私は大きな外国人男性ばかりの所 お嫁さんが買�てきてくれたお寿司がぶら下 全員集合で�坂井牧師が結団式のお祈りをし だ�た�検察が来たが�二人で一枚の切符を が�たボ�ルペン�安らぎの靴下等も沢山入 てくださ�た�施設側では見送りの為に�行� 持�ていない私は後の部屋の人が持�ている れたので私にはち��と重か�た� てら�し�い�の大きな幕まで用意して掲げ と言�たらそれでOKだ�た�他の人も持� ホテルでは木下先生がにこにこしてロビ� て下さ�た�ふと�本当に総意なのかしら? ていないと言�たら�それでOKだ�たそう でお出迎えして下さりお祈りをしていただき と思�たが�皆さんの顔を眺めていると�全 で�一緒の切符の奥山さんの所には来なか� ました�無事を喜び合�て�ようやく部屋に 員がにこにこして喜んで見送�てくれている たと言�ていた�検札が適当か�日本人は真 着き荷物を置いてホ�と一息� ようにも思え少し安心した� 面目と思われてのことか判らない�約一時間 偶然か�ル�ムナンバ�は千葉の家の住所 こ の よ う に 大 勢 の 施 設 長 の 方 々 に 見 送 ら でケルンに到着�ケルン駅から二駅ばかりの と同じ1235だ�た�ロビ�は大きくない れ 一 行 七 名 は 十 一 時 二 十 五 分 に 成 田 を 出 発 所をタクシ�に乗り�アズミ�トホテルへよ が部屋は広く静かで落ち着いていた�ベ�ド しました�一行の内訳は職員の井本常務�新 うやく到着した� もお風呂の入り心地も良よか �た�しかし� 藤先生�ピ�タ�パンの会から伊東さん�宇 何 し ろ お 土 産� 西 千 葉 教 会 の ご 婦 人 た ち 石鹸が無くて�それらしいものを押してみた 野さん�京葉後援会から奥山さんに私�自由 手作りの大きめで日本的なパ�チワ�クの素 が出ない�判らなか�たので仕方が無いと思 参加の晃子夫人です�飛行機はロシア上空を 敵な手提げや西陣織の風呂敷など手分けして い�持参の歯磨きで顔を洗�た�初めての経 八時間�そしてノルウ���スエ�デン�ヘル 持ち�又私は機会があれば�渡辺悦子さんに 験だが�油症なので顔の脂が取れていいかな シンキを通り�ドイツに入り�飛行機に乗るこ 教えていた と思�たので実行し�夜の食事も取らず�未 と十二時間�同日十六時三十分にフランクフ だいた折り だ明るいのでカ�テンを引いて早々に寝た� ルトに到着� 紙を大道で 直ぐに眠れた� 十二時間という時間も食事以外は良く寝て 折�て見せ この旅の一番の目的は日本と同じ敗戦国で いたので�さほど苦にならず�あ�という間 一緒に遊び あ�たドイツのMBK�キリスト教の数ある のことでした� たいと思� 団体の中で小さな団体�から望みの門へ五十 年間の支援がありそれに対するお礼が目的の 空港にはシ�ア先生が橙色に赤の縁取りの たので折り 付いたきれいなバラを持�て出迎えて下さい 紙 や� エ コ 旅でした� ました�観光ツア�の旗の代りだそうで一同 を考えてチ 宣教師派遣の仲立ちをしたのは賀川豊彦 で�派遣された宣教師たちは日本に来て杉並 感激�フランクフルトの空港は大きい�旅行 ラシを持� の望みの門を拠点にし�半年から一年かけて 中に乗るユ�レイルパスを使えるように二人 て い た� 出 2013年8月1日 望 み の 門 (7) 先ず日本語を学びました� 部に書き送�た報告を晃子さんが翻訳したも 一部屋を借り宣教師の方々がドイツ各地から 集ります�部屋に行�たらもう�数人の方が その後�夜の繁華街に立ちトラクトを渡し のを読ませていただいて判�た� て宣教しました�日本の婦人たちが街頭に立 ハ ル ト ヴ � � ク さ ん は 障 害 を 持 つ 女 性 に 来ていた�私はトイレを調べる為にウロウロ つのは困難だ�たようで�関口孝子さんから� 編み物を教え�彼女は足を使�て出来るよう していたら�後で判�たのですが�グロ�ス 繁華街に立�ていて怖いことがあ�たと云う にな�たそうです�彼女たちに字を教えたり さ ん が�� ト イ レ で す か� 下 に 降 り て 左 � と ことを何回か聞いたことがあります�頼�て 編み物をする時�編目を数える為に計算を教 教 え て く れ た� 事 前 の 勉 強 会 で 頂 い た 写 真 集�て来た女性たちの居場所を茂原のベテス え�一緒に聖書の学びをしたそうです�この は若い時ので判らなか�たが�今は髪が真� ダホ�ムで創め�木下弘人先生とド�ラ先生 方の一番最初の受洗者は目に障害のある岡井 白 だ � た� 十 一 時 頃� 次 々 と 集 ま り 私 は テ が富津に望みの門学園を作りました�これら 久子さんだ�たそうで�岡井さんは詩を作り シ�ナ�先生と握手�ペ�タ�さんは写真と の最初の働きはほぼMBKが考え創めたよう 続けて詩集を出しました� 変わらず直ぐ分り�ペ�タ��と呼んで握手 です� 木下宣世先生も一緒に働いて組み立てたと した�ヘ�トカンプ先生もすぐわかり握手し 東京望みの門から始ま�た働きも�日本で いう有名な米軍払下げの蒲鉾兵舎はこの頃の た�勉強会で覚えた人の名前は私は大きな声 は活動する為のお金が無か�た�宣教師たち ことだ�たようです�聖書の学びや女性たち で呼んで握手した�ドイツ人同士もお互いの はドイツのMBKに何度となく手紙を書き� の学びの為には近隣の教会の牧師も協力した 挨拶が中々終らなか�たが十一時も過ぎたこ 献 金 を 募 り� 日 本 に 送 � て も ら � た� ま た� ようです�べテスダホ�ムの建築�浴場�作 とだし�シ�ンパンで乾杯しようということ 宣 教 師 さ ん 達 の お 給 料 も M B K か ら 出 て お 業所�厨房�工房等の増設建築もドイツのM にな�た� り�そのために木下ド�ラ先生はず�と望み BKの関連団体を通して絶えず寄付金が送ら しかし�グラスから違うせいか中々テ�ブ の門からお給料を貰わないで働いたのです� れてきたそうです�これらのことを頭に叩き ルに運ばれてこなか�た�今頃グラスを出し その事はドイツの宣教師さんが�ドイツの本 こみ�私達は宣教師さんを接待することを肝 て磨いているんじ�ないのと笑�た�その間 に命じました� にも写真係の宇野さんと伊東さんは写真をパ 翌朝の朝食は全員大きい丸いテ�ブルに座 チリパチリ撮�ている�二人共立派なカメラ り食べました�私は前夜食事抜きだ�たので なので皆良く撮れればいいなと思�た� お昼ご馳走を食べると云うことを忘れ�いろ 司会は井本先生で�木下先生がドイツ語で いろの物を沢山食べてしま�た� ご挨拶�シ�ア�先生と新藤さんが通訳して 十時半に目指す会場�大聖堂近くの有名な くれた�この時�日本人の自己紹介は名前を フリ��というお店に向�た�フリ��は地 云うだけにして下さい�宗教は言�てもいい 球の歩き方にも出ている有名な居酒屋で部屋 です�と言われていたのを言葉通り受け取� が沢山あり迷いそうなお店だ�たが�そこの て名前だけ言い�もし�時間があ�たら用意 (8) 望 み の 門 2013年8月1日 2013年8月1日 してきたものを 話させて下さい と云�た�しか しこれは時間が 無くて話す機会 はなか�た�そ れからようやく シ�ンパンが来 て�丁度マイク を持�て話して いたテシ�ナ� 先 生 が� 乾 杯 � 子 禁 制 の ホ � ム で 料 理 を し た 唯 一 の 男 性 に いたことです�日本人と結婚したらしい�日 な�た�もうひとつの経験は重症の障害者の 本とドイツの皆様有難うございました� 施設に行�て�足を掻く事も出来ないと云う シ�フラ�さんは一人�子で日本で二年間 障害者に一生懸命足を掻いてや�ている人が の語学研修を終えてから紫苑荘で十年間働い いるのを見た� たそうです�お母さんが日本に来て学園で手 MBKの組織は段々小さくな�てきている 編みを教えた�お母さんが七十歳の時に�皆 が�イエスの二枚の絵が思い出される�一枚 さんにお祝いをしていただいたのは嬉しい思 はカラシ種の絵�もう一枚は麦の絵です�低 い出です�私が持�ていたアンチ�コを見せ く評価してはいけません�死んでしま�たら てと言われ�そこにシ�フラ�さんの写真が 芽は出ません�死ななければ�MBKの働き 無いのがち��と不満そうにも見えました� が二つの話しのようになります�日本の方が グロ�スさんは九十二年から九十七年まで 遠くドイツの地まで来てくれて感謝します� 東京望みの門で働きそこで知り合�た人特に とや�てしま� 次のヘ� トカンプ先生は��初め ての仕事 目黒眞理さんは素晴らしい人で良か�た�木 た�先生の話は で船で富津まで来たら麦が実�ていたので� 下弘人先生とド�ラ先生が望みの門を始めた 未だ延々と続く ハ サ ミ で 刈 り 入 れ を し た の が 富 津 で の 最 初 のは素晴らし ��� 先 生 い わ く ラ イ� 盲 人� 子 供� 老 人� の仕事だ�た�望みの門がこんなにも立派に いことであ� 売春婦�障害者への伝道の仕事は難しく�精 な�て感謝するしかありません�東京望みの たと話した� 神的な成熟さをも�て事にあたらなければな 門では刺身を食べて�生の魚を食べたと云う ペ�タ�さ らなか�た� んは最初に皆 事で皆に褒められたそうです� 最初は青年を対象にして伝道していたが� 感謝状の授与�感謝の記念品のお披露目を 様有難うと感 老人売春婦を相手にしたことで目が開き�働 し�後でお渡しすることを知らせた�皆嬉し 謝をのべられ� きは足が地に着いたものにな�た�二十一年 そうなにこにこ顔であ�た� 若者の為に二 間は非常に大変な時代であ�たが�赤の学生 ン ゲ ル さ ん は 五 月 十 一 日 に 八 十 歳 に な 回ばかり西千 リ には興味が無か�た�問題があ�た時には何 り� 最 初 は イ ン ド の ジ � ン グ ル で 働 き� 次 葉教会に行� 回でも日本に行�て解決しようと思�た�日 に東京に来てべテスダホ�ムに二年間いまし たが小さな町 本に行�たとき�ヘ�トカンプ先生が泊まり た�東京の地下街を歩いた時はジ�ングルと で教会が灯台 なさいと云�たので杉並の望みの門に泊り� 同じだと思�た そうです�楽生園で も働き� の役割りが出 幼稚園生に焼きジ�ガイモの料理をした�男 日本での大事なお土産は千田という名字を頂 来るのが不思 望 み の 門 (9) 議だ�たそうだ�高齢化は�西千葉教会では 関係ないように思えた�青少年の事で印象に 残�たのは修養会や青年会のことでした�ア フ リ カ で 働 い て い た が� 仕 事 を 始 め る 前 か らイエスさまが共にいると云うことを感じて いたと話してくれました�ケルンで客として 呼んで頂きまして有難うございました�西千 州に引�越した方がいる�多くの子供が他県 に移�たりしているが施設の子はそこに留ま らざるを得ない�西千葉教会の看護師さん達 の先生がその事に気が付いて外にも出かけて 行�て活動して居る�等いろいろお話して下 さ�た�外国の人の方が情報を沢山持�てい て心配しているようでした� を選びケル�酒と共に美味しさを堪能した� ス�プもサラダもデザ�トも全て大盛で食べ きれない�ヘ�トカンプ先生はぺろりと平ら げていたが�グロ�スさんとシ�フラ�さん は�私達の胃袋はそんなに大きくないので食 べられない�と言�ていた�私も美味しいの に残す羽目にな�て残念だ�た�話しも尽き 葉教会にも皆様にも神のご加護がありますよ 向 か い 側 の 席 だ � た ヘ � ト カ ン プ 先 生 は ないが�時間を一時間も超過しているので散 うに�アフリカで凄い苦労があ�たと誰かが �この後の予定はどうな�ていますか�と聞 会とな�た�大きな声で�ペ�タ��と呼ん 云�ていました� いたので 私は�大聖堂に行き ます��とい� だからかペ�タ�が私の所に来て握手を求め マリ�ネエリザベ�ト� た ら�� そ れ で は� 私 も ご 一 緒 し ま し � う � た�私は�またお会いしまし�うね�と云�た� 若い方は五人参加� アンジ�リカ・ボンエルフ�ユリアさんキ�� とお�し��た� 井本先生は�乾杯の音頭をヘ�トカンプ先 ベルさん�若い方は今現在�給料無しのボラ ヘ � ト カ ン プ 先 生 は 日 本 で 命 の 電 話 を 始 生にや�て貰おうと思�ていたのに�テシ� ンテアで子供を導くための働きを手助けし働 められた先生だそうで�近年�美智子皇后に ナ � 先 生 が や � て し ま � た � と 残 念 そ う に いていると云うことでした�二�三年前に日 お話を聞かせて下さいと呼ばれた時には�五 言�ていた� 本に来た方も居ました� 年前の洋服 シ�レンガ�先生は手作りのカ�ドをくれ � ト カ ン プ 先 生 か ら 質 問 が あ り� 福 島 だ�たそう た�私は狭いところでウロウロしてもし�う ヘ の原発について知らせて欲しいと言われた� で素敵な先 がないと別れを楽しんでいたが�新藤さんと チ�ルノブイリの時ドイツ人はとても神経 晃子さんはいろいろの気配りで�最初から最 生だ� 質 に な � た そ う で� 五 百 キ ロ や 千 キ ロ 離 れ の日の 後まで大変だ�たと思う� こ ていてもその近辺の物は食べな�かたそう ご馳走はア ケ ル ン の 大 聖 堂 に 行 き� 皆 で 椅 子 に 座 � ですが�日本では二十キロ�三十キロで大丈 スパラ�肉� てステンドグラスやあちこち見ていたが�私 夫なのか?と云う疑問の声でした�木下先生 魚から各自 は通訳無しの話は全然わからないので�宇野 が�学者が政府側にな�ており�そんなに危 選 ん だ� 私 さんと伊東さんと三人で��塔に 登ろう�と 険でないんだよと�アピ�ルしているとか� は六月七日 云 う こ と に な � た� 狭 い 階 段 を て � ぺ ん ま 除染をするが途方もない時間とお金が掛か で終わりと で 登 � て 五 百 段� 窓 は 閉 め 切 り な の で 暑 い る�だから若いお母さん方が原発の影響を心 いうホワイ し�大汗が噴き出てくる�ハアハア息を弾ま 配して居る�身近でも子供が小さいのでと九 トアスパラ せてや�と登�た�目が廻りそうだ�た�そ (10) 望 み の 門 2013年8月1日 2013年8月1日 れでも大勢 が登�てい て時々は渋 滞で止まる と又汗が出 る�て�ぺ んに出ると 風があり気 持良か�た が�工事中 ですぐ近く ベ � テ ル に 着 い た� ベ � テ ル に は あ ら ゆ る福祉が揃�ており�住んでいるほとんどの 人が福祉に関わ�ている人達が多いという町 で�この街の素晴らしいところは�身体障害 者�心身に障害を持�ている人�赤ち�んか ら高齢者�ホ�ムレスまで居て�街で何らか の働きをしたりして無理のない暮らしをして い る と 云 う こ と で す�� 学 校� 商 店� レ ス ト ラン郵便局銀行�ホテル�住まい�生活に必 要な物はすべてそろ�ていることで�街とし ての機能がありました�今迄の日本のように 山の中や離れ小島に隔離されると云うことは なく�ベ�テルの街の外にまで開放されてい るそうです�これまで井本先生が�ベ�テル� ベ�テルと云うのを聞いていましたが�望み の門もベ�テルを目指しているのだというこ とをようやく肌で感じることが出来ました� 泊�たホテルは障害者と健常者が共に働き からと遊びに行�たら翌日に響くと思�たの ンからベ�テルへ�娘がバザ�に出して�と で又カ�テンを閉めて寝てしま�た�晃子さ 言�てくれた服を着ていたが近くに座�た女 んは飛行機の中でも眠れなか�たらしいが� 性が美しいと服を褒めてくれた� 部屋が線路に近いところで�電車が通るたび アメリカに行�た時には�アメリカの一番 に電車の 車両を数えていた そうで��長いの 大きなデパ�トで�女性店員に肩を叩かれて は五十両もあるのよ�と言�ていた�お気の �ナイス�ビ�ウテフル�と言われた事があ 毒に又良く眠れなか�たらしい�木下先生は る�この時は全身黒に�お嫁さんにもら�た スケジ��ルの関係で帰国のため朝九時半に スカ�フをしていたのだ�この次は何処で言 はお別れだ�丸いテ�ブルに全員で座り朝食 われるか?二度あることは三度あるので期待 を食べながら感想を言い合�てやがて九時半 した� にはロビ�でお見送りした� は見えな 私 達 は 大 聖 堂 の 近 く ま で 歩 き� ラ イ ン 川 か�た�伊 河畔で景色を見ながら朝からケル�酒を飲ん 東さんと宇 だ�何しろ水よりビ�ルの方が安いのだ�コ� 野さんは建築屋さんと設計屋さんなので外の ヒ�も飲んだがど�ちかの男性がおご�てく 景色を眺める癖が付いているので良く分か� れた�その後�ホテルに戻り各自チ��クア たようだ�たが�私は分からなか�た�階段 ウトしてケルン駅に向�た� をのぼりながらこれは何時取り付けたのかな ルンの駅前は物凄い騒ぎでお祭りのよ ケ とか柱の作りなどを話していた�下にはあ� う で も あ り� お 巡 り さ ん も 出 て い る� 何 だ と い う 間 に 降 り て 地 下 で 大 聖 堂 の 土 台 を 見 ろうと思�た�ビ�ルを片手�両手に持�て たら物凄い石の積み重ねだ�た�日本の厳島 人々が歩いている�駅に入り�ホ�ムで電車 や二条城の二十年ごとの建て替えの話などか が来るのを待�ていたら�百mくらい離れた ら�幕屋への話に繋が�てい�た� 目の前の道路を大勢の人が列にな�て歩いて それからは雨が降�て来たのでタクシ�に いる�や�ぱり�ビ�ル持参だ�見ていたら 乗りアズミ�トホテルへと帰�た� 一斉にこちらに向�て放尿した�目のやり場 今 夜 も お 腹 が 一 杯 で 食 べ ら れ な い と 思 い に困�た�フ�リガンかもしれない�ドイツ 誰にも連絡しないでお風呂に入り�今夜は力 のサ�カ�熱の凄さがここにも表れていると い�ぱい押してせ�けん液を出した�明るい 思�た�ジ��マンレイル一等に乗�てケル 望 み の 門 (11) 運営しているというリンデンホ�フというホテ 室�ベ�ド が�これは寝ているベ�ドで垂れ流し状態に ルで�静かな田園の中にあるホテルです�ル� が並んでい なるのだろうか?そして�ベ�ドの脇には土 ムキ�がえらく難しいコツのいる鍵でした� るところな の入�たバケツが置いてあり小さなスコ�プ 用 の 物 が 入 � て い た� 聞 く 人 も い な い の で 障 害 者 が 開 け ら れ る の だ か ら 私 達 も 開 け どいろいろ 想 像 す る し か な い が� ぎ � � と し た� ベ � な け れ ば と 思 う の だ が そ の コ ツ が よ く 判 ら あ�た�個 テルでこうなのかと重�い思いを胸に外に出 な い� 途 中 で 出 会 � た 井 本 先 生 に 開 け て も 室 に は 絵 た� ら � た� 荷 物 を 置 い て さ � そ く 女 性 だ け で な ど 掛 け 付 近 を 散 歩� 自 然 豊 か で あ ち こ ち で 満 開 の てあ�たり その後�晃子さんは一人で何処か病気でケ ルンに来られなか�た宣教師さんを訪問�そ ボ タ ン 桜 や リ ラ の 花 の 大 木 を 眺 め て 楽 し ん 小さな整理 して�男性達とは別行動で私達も三人で歩き� だ�翌日井本先生は鍵を開けるのに二十分も ダンスのよ 美味しいレストランに入�た�ここでもレス かか�て大汗をかいたらしい�皆も苦労して うな物�置 トランに恵まれた�街をぶらぶら歩いていた いた�ついに井本先生がもうこのホテルは使 いてあ�た らホテルの鍵が無いのに気が付いた�何処か えないと言�た�今朝は井本先生の案内で徒 トイレは木 で落として無くしたらしい�私はあまり心配 歩でベ�テルの街に向�たが道を間違えたら で 出 来 て しないで又作�て貰えばいいと思�たが�何 しい�途中からバスに乗りベ�テルの福祉博 いた� 物館�ベ�テルの創始者や関係者が眠るお墓 机 に 電 気 ス タ ン ド を 置 い て あ る と こ ろ も しろ普通と違うホテルなので�鍵を作る人が を訪ねた�綺麗に整備されてお花が咲いてい あ�たが一番衝撃的でよく分からなか�た物 いなくなるかもしれないと云うので�急ぎタ た�博物館では廃物利用で作�たア�ト作品 があ�た�それは�大部屋に並んでいるベ� クシ�で帰�た�そして�私が�鍵を無くした� が精巧で素晴らしか�た�休みだ�たのに開 ド�ベ�ドには土が入れてあり�マ�トの役 とハンサムさんに云�たが通じなくて新藤さ けて見せてくれたのだ�歩いていると�老人 目をしているようにも思えることだ�昔はオ んがドイツ語で云�てくれて通じた�そした や障害のある人�病を抱えていそうな人に多 ムツも足りなか�たのではなかろうか�ある ら�これからは気を付けて下さい�と無料で くであ�た�作業所では車いすの女性が作� いは�介護の人が足りなくて合理的にと考え 作�てくれた�私はどうや�てお礼をしたら いいかなと考え�持�て行�たチラシや折り ているぬいぐるみが可愛くて六月末に生まれ 出されたのか��� る孫の分まで色違いで五個買�た�孫がず� そ の ベ � ド に は 網 の よ う な 物 が 敷 い て あ 紙で兜や箱風船を沢山作り紙袋に一杯入れて と持ち続けてくれたらいいなあと思�ている り� 尿 が 土 の 中 に し み て 行 く 仕 組 み に な � 持�て行�た�ワ�カ�の仕事ぶりをチ�� が�そうなるかどうかは判らない�ここの二 ているように思えた�ベ�ドは柵がしてある クしているからか自然に厳しそうな顔つきに 階�三階を見せてくれると云うので行�てみ ので自分でトイレを出来ない人は�ベ�ドを なるリ�ダ�の女性に渡した�その時の嬉し たら�ベ�テルの昔の療養の道具や病室�個 出たり入�たりと動ける筈が無いと思うのだ そうな笑顔が忘れられない�他のワ�カ�さ (12) 望 み の 門 2013年8月1日 んも笑顔にな�た�昨日は注意されて切れて いたようだと云うおし�れな坊やも居た�鍵 の一件や歯磨きで顔を洗�た事などを話して あ�たので�奥山さんが�私の�その神経の 半分欲しい�と言�ていた�しかし新藤さん はドイツ語が話せて�ツア�コンダクタ�も やれて心理士で�良く気が付き親切�おまけ に剣道の師範でかずさの里の希望する子供に 教えている� こんな素晴らしい人が望みの門に居てくれ て嬉しいなと思い�どうして望みの門に就職 したのか聞いてしま�たら�快くいろいろな ことを話してくれた�この夕食の時�井本先 生が�私のおごりでビ�ルをどうぞ�と云う ので遠慮しないで頂いた�私達が夢中にな� て話していたのでお金を払�て先に行�てし ま�た�一緒に話しに入りたか�たのかもし れないので申し訳なか�た�リンデンホ�フ ホテルはシ�ワ�のみだ�たが鍵と違い清潔 で 気 持 良 か � た� し か し 誰 か が�� き ち ん と されて無か�たわ�と言�ていた� 五月十一日�いよいよビ�ルフエルトから ケルンに出てベルリンへ�シ�ア�先生とは ここでお別れだ�ベ�テルや車窓からは何処 でもリラの木�藤の自然のままの大木�菜の 花畑�風車が良く見えた�多いところでは推 定百本位の風車が建�ている所を見た� ベルリンのホテルはベルリン動物園の近く 2013年8月1日 望 み の 門 (13) のクラウンホ テルだ�ホテ ルに着くまで にカイザ�ウ イリアム教会 なんですよ�という内容だ�たらしい�帰り 教会を出る時はその牧師が入口に立�ていて 握手してくれた�目の見えなさそうな老人が 長いこと握手してとても嬉しそうで幸せそう な顔だ�た� で夜音楽礼拝 翌日の聖日には又カイザ�教会の礼拝に があるという 行�た�ホテルを出るとツ�ルドドイツの自 事を字の読め 転車レ�スが始まるところで少しばかり見て る晃子さんが いたが�一斉に走�た色とりどりの自転車と� 言 � て い た� 着ているスポ�ツウエアの様子がとても綺麗 女性達は荷 で見事だ�た� 物を置いて直 教会では晃子さんと新藤さんは入口の棚に ぐ教会に出か 積み上げた讃美歌を借りている�私は読めな け�教会の前 いので借りない�礼拝堂の左右には本日の讃 の屋台で売�ていたカリ�ヴ�ルストを食べ 美歌のナンバ�が大きな字のカ�ドで貼�て てから教会の中に入�た�お説教は女性牧師 あ�た�また女性牧師で昨日の牧師より若い� で�使徒行伝からのお説教だ�たらしい�私 昇天祭のためのカンタ�タを�デンマ�クの はち�ともわからない�八角形の教会全体に 合唱団と聖歌隊が讃美した�お説教はヨハネ ステンドグラスがはめてありその色は海を思 伝 で�� 神 は あ な た を 孤 児 に は し な い� 何 処 わせるような素晴らしく綺麗な色だ�た�真 にでも神は一緒に居る�と云うことだ�た� 正面に大きなイエスさまが掛か�ている�説 内容が昨夜と似ているかなと思�た�晃子さ 教 が 全 然 わ か ら な い の で 仕 方 な く� ス テ ン んに誘われて前に出ていき聖さんを受けた� ド グ ラ ス は い � た い 何 枚 あ る の だ ろ う と 数 御煎餅のようなパンと大きな聖杯に入�た葡 えた�四十×三十五×八で一万一千二○○枚 萄酒をカ�プで少しずつ回しそれをいただい だ�た�ステンドグラスも聖歌隊の讃美もう た�献金のおばさんはいかめしい顔をしてい つくしい�女性牧師は晃子さんが話してくれ たが慌てていたのか�黒のス�ツの中から出 たのには�� イエスさまは何時で も何処にで した白いブラウスの襟がき�かり半分しか出 も貴方と共に居ますよ�最後には教会も大変 ていなか�た� オルガンに詳しい晃子さんがオルガンにつ お腹が出来たので�ぷらぷらとペルガモン 方が嫌だから�路上では地図を見ないと云� いて教えてくれた��千百本のパイプがある� 博物館まで歩いた�長い列のなか並びチケ� た�お腹もすいてないし�判らないテレビに パイプオルガンでシ��ケオルガンと云うの トを買い�荷物を預け�日本語説明のイヤホ くぎ付けにな�てもし�うがないので�今夜 だそうだ�聖歌隊の場所はベランダのように ンを借りた� も何も食べないで寝た�テレビの下の方に出 浮いている中二階でそこにパイプオルガンも 二十年前に見たときより感激が薄れ�一通 る為替で円安が進んでいるのは判�た� 据え付けてあ�た�修復中の教会はアイアン り見てから広い階段に座�て�神話の世界に 五月十二日�今日も元気で目が覚めた�朝 マンと云う人の計画がベルリン市民の反対に 眺め浸�た�戦勝記念塔�テレビ塔�国会議 食後部屋に戻ると�コンコン�コンコンと云 より今の建築で進行することで落ち着いたの 事堂も近くに見えたがもういいわと中に入ら うドアをノ�クする音がするのでドアを開け だそうだ�いまだ戦争の跡が生々しく残�て なか�た� てみたら�若い黒人男性が磨きたいと掃除道 いた� 夕方帰りがけに�又カイザ�教会のロ�ク 具を持�て立�ていた�でも�未だ早すぎる 礼拝後トイレを捜してウロウロし�教育館 の音楽礼拝に寄�てみた�私は好きでも嫌い と思�たので��未だ待�て�と言�て断�た� のようなところでトイレを借りようと思�た でもなか�たが�晃子さんが�こういうの嫌 ホテルの場所は最高で�日本でいえば銀座の ら�中年女性に�ここはプライベ�トの部分 い�と言�て出たので�私も若い二人を置い ような所で何処に行くにも便利�今日は女性 だから早く出て下さい�と追い出された� て出てしまい�クラウンホテルに戻りほ�と 四人でベルリン駅まで行きそこから�ルタ� 礼拝後蚤の市を見て�電車三回乗り継ぎで した�奥山さんと新藤さんは若く元気だ�私 を訪ねてビ�テンブルグまで行くのだ�八時 ブランデンブルグ門方面に向�た�私はU番� は タ ク シ � 派 半ホテル出発�ベルリンから列車で五十分だ� S 番 の 乗 り 場 を 捜 し て 歩 き ま わ � た り す る だが�奥山さん 駅に着いたら何も無い�小さな観光案内所が よりも時間と体力温存のためにタクシ�を利 は怖いのでタク あるだけの静かな何も無い方に出たらしい� 用した方が良いと思い��タクシ�に乗ろう� シ�に絶対乗ら よその若いグル�プに付いて二十分くらい歩 と云�たが�他の人は電車派だ�たので私も ないそうだ�地 いて行�た�館に着き庭の入口を入�た所に 従�た�門のそばあたりは各種のにぎやかな 図 を 片 手 に 歩 ルタ�の奥さんのカタリ�ナさんの�躍動的 パフ��マンスがあ�た�竹の子族かパラパ きたい方だ�新 なブロンズ像が私達を迎えてくれた�館が広 ラのグル�プのような若い人達が大声で歌� 藤さんと晃子さ く学校も経営していたらしいが�性的虐待か たり踊�たりしている�とにかく二十年前よ んは字が読める ら逃れて来た修道女たちを匿�たリ�その他 り物凄くにぎやかだ�た�あちこち歩き見て ので歩く方が良 頼�て来た人を食べさせていたので�ルタ� からレストランの大きなテントの下で食事を いに決ま�てい さんは生活が忙しく大変だ�たらしい�やが した�ここも美味しか�た�餌が豊富な為か� る�私は地図を て逃げて来た女性達も結婚したりして�次第 雀が肥えて人に慣れていた� 見て隙を見せる にいなくな�たので最後に残�たカタリ�ナ (14) 望 み の 門 2013年8月1日 さんと結婚したらしい� てから遅れて発車した�途中で電車は止ま� 飴や柿ピ�等 ル タ � 博 物 館 は と て も 広 く 沢 山 の 聖 書 や たり�変更があ�たりしたがドイツでは日常 を置いたりし 印刷機�武具も飾られていた�逃げて来た人 茶飯事らしく七十パ�セント正常に走れば良 ていた�少し の為に武具も必要だ�たらしい�二�三の教 い方らしい�今日はフランクフルトまで五時 でも荷物を軽 会を見たが中には修復中で入れない所もあ� 間乗るのだ�電車で注文して何か食べたが名 くしたい�し た� 東 ド イ ツ だ � た の で 今 ま で 修 復 さ れ な 前を忘れた�ベ�テルでは�日本に居る時か かし�今回ほ か�たのだろうと云う話しにな�た�行事が ら食べたか�たシ�ニ�ツエルを注文して食 どお土産を買 無い時は静からしい�また由緒正しそうなそ べたが私が考えていたのと違�ていたのがど わない旅は無 れでいて安そうなレストランに入り私はワイ うしても不思議で�新藤さんに聞いたら� �あ いなあと思� ンやアスパラ�ソ�セ�ジを頼んだら本当に あ�オ�ス トリアとドイツでは 違いますよ� た�記念の自 美味しか�た�ここでも八重桜を見た�ドイ ドイツは大きくて厚いです�とのことだ�た� 分の物もお父 ツのあちこちで桜のお花見が出来るとは思� そうなのかと納得した� さんの物もな てもみなか�た� フランクフルトのサボイホテルはこの旅最 い�整理の時 夕方五時二十二分発の電車に乗�たら�途 後のホテルだ�未だチ��クインできないの 期で欲しい物が無いのだから仕方が無い�そ 中 で 全 員 下 ろ さ れ て し ま � た� 新 藤 さ ん は でロビ�でワイワイしながら待�た�チ�� れより�見送りして呉れた人達へのお土産を 乗�ていた電車の車掌さんに聞いたが��私 ク イ ン 後� 皆 自 由 行 動 し た い よ う だ � た の どうしようかと何回か考えた� だ�て知らないわよ�と言�て不親切だ�た� で私も一人で一時間半ばかりホテルの近辺を 五 月 十 五 日� チ � � ク ア ウ ト 後 荷 物 を 預 皆は慣れているのか黙々と歩いている�こん 歩きまわ�た�自分のいる所が何処か判らな か�て貰�て�新藤さんを解放�奥山さんは な時日本なら大変だなと思�た�新藤さんが くな�たので�タクシ�に乗り�ガレリヤは 地図を片手に独りで歩きたい�私は晃子さん 捜した電車は乗り換えなしでホテルのそばま 遠いかどうか聞いたら遠いと云う�ガレリヤ にお邪魔でし�うが一緒に行きまし�うと� で行くらしいと云うことだ�た�私はあなた でお土産を買いたいと思�ていたのだが諦め 行動を共にすることにした�高級住宅地だと 任せでち�とも心配しないので呑気だが�新 てホテルまで行�てもら�た�誰にも会わな 云うところを歩き�聖書ハウスに行�た�私 藤さんは仕事で来ているので大変だろうなと か�たので�一人でホテルのバ�に入りコ� はそこで子供用に作られたチ�コレ�トと絵 思�た�でも�ち�とも�顔や態度に現さな ヒ�とピザを頼んだ�コ�ヒ�のお代りもし 葉書を買�た�それから電車に乗りレ�マ� い�本当にたいしたものだ� てお腹が一杯にな�たので�最後の夜だけど� 広場に行�た�そこで一回りしてからベンチ に座り風景を見ていた�同じベンチに座�て 五月十四日�朝八時半までに各時チ�クア 部屋に入�て帰る支度�折り紙やチラシで兜 ウトを済ますことと言われ全員済ませ�ベル や箱�風船を折�て並べてピロ�マネ�を入 いる若い男の人が爪を噛んでいる�そのうち リン中央駅へタクシ�で移動�電車は乗車し れた�いつもピロ�マネ�と折り紙�日本の パフ��マンスをしている人の所に行き話し 2013年8月1日 望 み の 門 (15) ている�おとなしくて声もかけない二人のパ を見て歩いた�育ち盛りの孫達の為にグミや フ��マンスの人がち�とも仕事を出来ない チ�コレ�トを買い込んだ�大風呂敷に包ん でいるので何だなと思�た�全身に金や銀を でバラバラにならないようにしてから一人で 塗�て一緒に写真を撮�てお金を稼ぐらしい ジ��スとサンドイ�チを買�て食べた� バザ�実行委員長 田尻 隆 がち�とも客はいない�音楽隊もジプシ�も 乗�た飛行機は来る時と同じ席で�隣が空 居た�レ�マ�広場で奥山さんに出会い�お� 席�その隣は伊東頭領なので安心して良く寝 六月一日�土�今年も望みの門バザ�が盛 と云�て二�三分で別れた�旧市庁舎では結 た�十一時間後成田に着いたら木下牧師初め 大に行われました�五月二十九日に例年より 婚式があ�たらしいが花嫁さんは中々出てこ 数人の施設長が迎えに出てくだ�さていた� 早い梅雨入りで天候が心配されましたが降水 木下牧師が挨拶と感謝のお祈りをして下さり 確率四○%のこの日�何とか天気はも�てく ないので見るのを諦めた� 解散とな�た�事務局長から二十五日の記念 れました�開会を飾るのは今年も地元富津保 次にレ�マ�広場を後にしてマイン川の橋 を渡りゲ�テハウスに向�た�橋の欄干には 礼拝で二十年の感謝状が授与されるので礼拝 育園の元気なお友達の太鼓演奏です�生き生 きと太鼓をたたく子どもたちの表情は真剣そ 沢山の鍵が掛けてあ�た�多分私の推測では に出るように言われた� 金庫か財布を守る日本の絵馬のようなものだ 井 本 先 生 か ら は 感 想 か 報 告 文 を 二 十 五 日 と思う�知�ていたら私も鍵を持�てくるん まで提出するように言われた�お嫁さんが迎 えに来てくれていたので真�先に帰ろうとし だ�たのに�� � テ ハ ウ ス は 所 々 に 古 い 部 材 や 部 品 を た�晃子さんが握手しに駆け寄�てくださ� ゲ 使�ているが二十年前と違�て立派にな�て た�皆と握手すべきかどうか迷�たが�何時 いた�二階から下がのぞけるなどと云うこと までも名残惜しまないで�早くお別れした方 はもう無か�た�広く大きく立派にな�た分 が良いような気がして�誰とも握手せずにさ 沢山の肖像画�絵画や本が飾られていた�家 よならをした� に帰�てゲ�テ�て持てそうな顔だよねと 高齢者と呼ばれる年齢ですが�全て自分で 言�たら�夫がゲ�テの女性関係は晩年まで やりおおせた体力�健康�恵みに感謝し大い 派手だ�たらしいよと云�た�そして�野バ なる喜びを感じました�この旅では日本の教 ラ�の歌詞を読んで御覧�綺麗に纏めてある 会が行�てきた社会事業の歴史と理念�実践 けど�あれはと教えてくれた�又電車に乗り子 が少しばかり判�たような気がしました�望 供のおもち�博物館を見てホテルに戻�た� みの門では�一時代が終りこれからまた新し 夜 八 時 四 十 五 分 の 飛 行 機 に 乗 る た め に 早 く進まなければならないと強く思いました� めに飛行場へ行き�荷物を預けてから免税店 (16) 望 み の 門 2013年8月1日 新藤 紀子 かずさの里に作られたピカピカの武道場が できてもう三年がたちます�現在合気拳法の 門人は十名�今回の昇段級審査会の結果�一 番上が七級で一名�八級が一名�初級が二名 合気拳法指導員 のもので見ている私たちの心にも響いてきま した�メイン会場では職員と利用者のご家族 す�き�と日頃から一生懸命練習しているの が腕を振るう屋台村に多くのお客様が来てく でし�う�ありがとうございました� ださいました�焼きそば�お好み焼き�ラ� そ ん な 子 ど も た ち の と こ ろ へ� な ん と 我 メン�綿あめ��特に焼きそばは�今回液体 が富津市の公認ゆるキ�ラ�ふ�つん��ゆ ソ�スから粉末ソ�スに変えることで更に美 るキ�ラグランプリ二○一二 エントリ�数 味しくな�たと評判でした�どのメニ��も 八六五中第二○六位�が応援に来てくれまし 終了時間前に完売となる盛況ぶりでした� た�子どもたちも大喜びでふ�つんとのしば コンサ�ト会場での�君津ロ�タリ�クラ しの交流を楽しみました� ブ百年バンド�の演奏とフラダンスシ��は いつも開店時に混雑する売り場は今回も多 感動のエンタ�テイメントで�お客様も大喜 くの皆さまにご来場頂き�会計にも長い列が びされているようでした�またこのバザ�を できお待たせしてしまい申し訳ありませんで 支えて頂いたボランテ�アの皆さまは百名を 超え�大変心強く思いました�これからも望 みの門は地域の皆さまとともに福祉の輪を広 げていくことが出来ましたら幸いです�御協 力ありがとうございました� 2013年8月1日 望 み の 門 (17) 平成25年6月10日 単位:円 望みの門バザー収支報告書 収 入 支 出 当 日 売 上 1,529,892 材 料 費 339,533 寄 付 金 200,000 雑 費 205,847 通 信 費 3,040 本部繰入金 1,180,000 時期繰越 1,472 収 入 計 1,729,892 支 出 計 1,729,892 追加となり�全 体では七級一 名� 八 級 三 名� 初級二名�そし て秋の審査会で 初級をねらう子 どもたちが四名 と な り ま し た� どの審査会にも ドラマがありま すが�今回の目 玉は初めて審査 を受けた初級の 二 名 で し � う� 正直�大人をて こずらせるキング�で大賞に輝きそうなやん ち�な子どもたちですが�一人は審査会を目 指すようにな�てからメキメキと成長し�審 査 会 で は 口 を 一 文 字 に 結 ん で� も の す ご く か�こいい男に変身していました�堂々とし た構え�正確な技�相手の動きをし�かり見 つめ�それでいて相手が痛がらないよう力加 減をし�私はその子の相手をしながら�これ が同じ子どもなのかと�不思議というか�う れしいような�誰かに自慢したいような�い ろんな気持ちが混ざり合�た気持ちで向かい 合�ていました�もう一人は�普段の練習で はいい時と悪いときの差が激しく�審査会の 場で本当に技ができるのかやや不安がありま ③電子決裁機能:有給休暇 勤・務変更 少・額備 した�指導者として匙を投げたくなることも 品購入の申請及び決裁をします�施設内の しばしばでした�審査が開始して初�端私は みで処理できる比較的簡単な決裁を電子化 賭けに出ました�その子を一番で指名したの でき�紙 時・間の節約になります� 事務局長 西尾 建 ④文書管理機能:様式 規・程等を保存します� です��え�!�その子の表情が動きました� 逃げてしまうかもしれないという思いがよぎ 法人内の共通の様式や規程を必要時に閲覧 のぞみ会では施設規模も拡大し�施設の立 りました�しかし�その子はその場に居続け 地も富津地区�上総湊地区�東京地区に分か 出 ・ 力できます�最新版の管理が容易にな たのです�照れ照れの赤ら顔で開始した審査 れていることから情報共有の必要性が高ま� り�配布の手間や紙の節約になります�そ でしたが�技が進むにつれて技に集中してい てきておりました� の他にも法人内の予定表や職員一覧表など き�最後の得意技ではし�かりと相手を見据 を保存して共有しています� そのため�昨年よりグル�プウ�アを導入 えて大きな気合を入れ�思い�きり投げるこ し試験運用を経て今年度から本格的運用を開 このように�情報の共有や提供と管理業務 とができました� 始いたしました� の一部にグル�プウ�アを利用することで効 五月の練習中に��ねえ�僕カミもらえる?� 今 回 導 入 し た の は イ ン タ � ネ � ト を 利 用 率化を図り�労力�時間�紙などを節約する と そ の 子 は 聞 き ま し た�� カ ミ? あ あ� 認 定 したウ�ブによるコンピ��タネ�トワ�ク ことができるようになりました� 証 の こ と ね� も ち ろ ん が ん ば る 人 は も ら え システムで�一定の条件を満たせばインタ� しかし�まだ課題も多くパソコン台数の確 るよ�と私は答えましたが�それがこの子に ネ � ト に 接 続 で き る パ ソ コ ン か ら こ の シ ス 保や職員のパソコンの基本操作のスキルの習 と�てどんな意味があるのかわかりませんで テムを使用することができるものです�つま 得が不可欠です� した� り�建物が離れていても法人内のパソコンが また�今回紹介したグル�プウ�アはコン ふざけてばかりの時もありますが�毎回休 繋が�ているかのように情報の提供や共有を ピ��タ上のネ�トワ�クシステムです�必 まずくるこの子の心の中に�カミ�が何かし することが可能となります� 要とされている情報共有やコミ�ニケ�シ� らの位置を占めているのは間違いなさそうで 機能とメリ�トを紹介しますと ンはこれだけではありません� �顔と顔��声と声�によ す��カミ�を握�たまま自分の審査票をじ� ①掲示板機能:法人内又は階層ごとの連絡事 内容によ�ては� と眺めている姿を見て�その子の内部にどん 項等を発 信します�各施設に回 覧 配 ・ 布が ることも必要ですし�タイミングも重要です� 不要となりますので紙 時 な世界が動いているのか�想像して熱くなり ・ 間の節約になり あくまでツ�ルのひとつとしてうまく活用さ れることが望まれます� ます� ました� ②設備予約機能:共用する車両 部・屋 備・品の 合格した子�不合格だ�た子�みんないろ 予約をします�必要時に予約状態がすぐ確 んな困難を乗り越えてそれぞれの人生に真剣 認できます� 勝負しているのでし�う� (18) 望 み の 門 2013年8月1日 た姿勢と美しい日本語で対応されました�そ し て 年 度 末 に は�� 神 さ ま に 守 ら れ て� 今 年 も必要なものを与えられ感謝です�と言われ た言葉は忘れられません� 元職員 小中乃芙子 私共�キリスト者と言いながら�無神論者 のようにあれこれ悩み�人間ができるかのよ 東 京 望 み の 門 の 歩 み は 一 九 四 九 年� 昭 和 うに�主にゆだねず�まして寮生�退寮生他 二十四年�にドイツキリスト教協議会から視 に証・伝道の姿を見せることができないでい 察団が来日した時�日本のキリスト教界の代 る時に�中嶋先生の生き方に多くを今も教え 表者より売春問題を訴えられ�働き人を送� られております� てほしいと要請したことに始まりました�戦 さんは�初代施設長として以来二十七年間お 後の混乱状態でした� 二○一二年十月惜別主にある平安を心より 働きくださり�その後も後援会に出席し寮生� お祈りいたします� これに応じて一九五三年にドイツMBK ミ�シ�ンより婦人宣教師二名が来日され� 退寮生のために祈り続けられました� 日 本 語 の 勉 強 を 進 め な が ら� 街 頭 伝 道 が 始 私は後援会の会計担当をや�ており�いつ められました�当時YMCA職員だ�た中嶋 までもドイツの教会婦人の献金に頼らず自立 温子さんは来日第一夜を過ごした二人に出会 することを求められておりました�法的には い��この二人は日本に知り合いがありませ 少人数の施設に公の補助金は出ず�後援会費 ん�どうぞ助けてください�とドイツ人監督 やバザ�その他の努力をしつつ�東京都に少 園長 田尻 隆 者に言われました��何をどういうふうに?� 人数の施設の良さを訴え続けました�中嶋施 と思いつつ�この二人が都内だけでなく�神 設長�ヘ�トカンプ宣教師�会計担当者とし �Oさんが今度�受洗したいと言�ています�� 奈川�千葉のいわゆる赤線�青線と言われた て私が加わり�都議会で承認を得るため�都 夜中に目を覚まし�そのままあれこれと動 場所に�精力的に出向いて行くのに同行しま 庁内にある各党や関係局に現状説明と陳情に き始めてしま�たため�出勤後少々ボ��と 迷路のような場所を何回も訪問しました�こ していた朝の連絡会でこの驚きの報告を受け した� 時 色 街 を 逃 げ 出 し て も 大 施 設 の 生 活 に れが施設長としての最後の大仕事で�結果は 一気に眠気が覚めました� 当 な じ め ず� 元 の 所 に 戻 る 人 が 出 て� 借 家 を 補助金が出ることになりました� � え � � �! ど う し て? 彼 女 は 学 園 に 来 て � 望 み の 門 � と 名 付 け� ご く 少 数 を 収 容 す 中嶋施設長は�このような問題も�寮生の ま だ 三 � 月 く ら い だ し� キ リ ス ト 教 の こ と る�のがれの家�として発足�正式な開設は 難問も��困 �た�という言葉 や顔色は一切 分 か � て い る の?�� 受 洗 � て� 私 は キ リ ス 一九五六年�昭和三十一年�です�中嶋温子 お見せにならず�穏やかに話を聞き�凛とし ト 教 を 信 仰 し ま す� と い う 宣 言 と� 教 会 が 2013年8月1日 望 み の 門 (19) の存在を知�たからではなく�ず�と神さま に知られていたことを知らされたところから 新たな信仰が与えられたのだと思います�こ れまでに辛い経験や悲しい思いも数多くして 看護員 保坂 惠子 きたことと思います�その中にあ�て神さま はいつも彼女と共に歩んでくださ�ていて� 早いもので�楽生園に異動となり�一年を この神さまの恵みは突然�私たちの思いをは 迎えました� るかに超えたところから目に見えるものとし 今年も熱中症予防対策中です�歳を重ねる と温度に対する 感覚が弱くなる為�暑さや� て現れてきたのでした� 身体の水分不足を自覚しにくいこと�又�体 彼女は三月三十一日�望みの門教会イ�ス タ�特別礼拝において坂井栄一牧師より無事 の 熱 を 放 散 し に く い こ と か ら� 若 年 者 よ り そ れ を 認 め る と い う 式 の こ と で し � う� ま 洗礼を受けました�ドイツの宣教師による宣 循環器への負担が大きくなると言われていま たどうしてそんなこと言い出したんでし�う 教活動より生まれた望みの門の五十年の歴史 す�のどが乾かなくても�こまめな水分補給 ね�?�いろいろな?が職員の頭に浮かんだ にこの日�新たな信仰の友が加えられました� を行い�室内の環境を良くすること等�心が 結果�私が彼女から直接話を聞くことになり これからも望みの門はキリスト教の伝道活動 けています� ました� と 社 会 福 祉 事 業 を 力 強 く 推 進 し て い く こ と で 皆様ご高齢にて�現在の平均年齢は�八十 四歳�それぞれ病をお持ちです�無理はでき 彼女は超がつくお�とりタイプであり�い し�う� やも�とは�きり言えば超マイペ�スで学園 洗後の彼女のことを少し紹介します�学 ませんが�せめて�身体機能の維持が出来ま 受 の日課には一切興味を示さず�部屋にいるこ 園での人間関係も広がり�ステキな笑顔が多 すように週三回のリハビリをおこな�ていま とが生きがいなのかと思うくらいやる気が見 く見られるようになりました�また�職員と えなく�毎日ぼんやり過ごしていました��や 一緒に毎日の昼食作りに挑戦しています�き� だ �� や り た く な い � と 否 定 的 な 言 動 ば か うりのスライスは既に彼女の担当です�そし りの目立つ彼女が�初めて��したい�と前 て�この夏の富津海水浴場デビ��のための 向きな希望を口にしたのではないかと思いま ダイエ�トをたくらみ栄養士共々ウ��キン す�実は以前教会学校に行�た経験があるら グに励んでいます�さらに�のぞみ会で九月 しく�幼い頃彼女の中にまかれた信仰の種が� に開講される介護職員初任者研修課程受講を 学園に来たことで大きく成長しようとしてい 決め準備に余念がありません�さあ�この暑 るのだと感じました�それは�彼女が神さま い夏を熱く乗り切りまし�う�がんばれ! (20) 望 み の 門 2013年8月1日 す�歩行訓練を楽しく行うことで�自発的に 生園から特別養護老人ホ�ムの紫苑荘へこの を少しでも見つけてはコミ�ニケ�シ�ンを 参加される方も増えてきております�適度に 四月に異動して参りました�同じ法人内で同 積み重ねました�私から利用者様の名前を呼 身体を動かし�体循環�身体の活性化を促し じ高齢者施設�しかもお向かいにあるという んでの声かけは出来るようになりましたが� 立地で長年過ごして来ましたが�紫苑荘へは 先日利用者様から名前で呼んで頂けた時の感 ています� 公用車の鍵を取りに行く程度でしたので�ど 動と言�たら�! 思わずガ�ツポ�ズが出 さて�楽生園では�毎月�自治会が開催さ れ�自治会長を中心に�取り決めの確認・新 の よ う な 施 設 な の か� ど の よ う な 利 用 者 様 てしまいそうでした�でもまだまだ個人の特 しい決めごとや相談等が行われます�その中 がいるのか全くわからずまさに未知の世界に 徴や性格や嗜好品だ�たりを完璧に覚えるま で�月の楽しみの一つに�誕生会があります� 飛び込むという心境でした�それは六年前に でには至らず日々格闘中です� お誕生者の祝いと職員の出し物�カラオケ等 大学を卒業し�社会人として新しい人生を歩 措置の施設から介護保険の施設へ異動し� を楽しみます�カラオケには身体に様々な良 みだした時の期待で心や目をキラキラさせな 対象となる利用者様や関係してくる法律も全 い効果があるといわれています�意外な人が� がらも不安感を含んだ気持ちと似ていました く違い�同じ生活相談員として働いていると 思い出の歌を口ずさみ�遠い昔のお話を聞か が�楽生園での六年間で福祉には重要な要素 いう実感もあまりない時もありますが�上司 だと思われる経験を積んで来たので度胸は多 や同僚に指導して頂きながら今後も色々な経 せてくださる等�笑顔が見られます� 少つきました�経験を踏まえながらもあの頃 験を積み人間として�のぞみ会の職員として� 先日も�大正琴�向山先生�の慰問があり 懐かしい歌を合唱して�楽しい一時を過ごさ と同じく真�新な気持ちで�より多くの事を 紫苑荘の生活相談員として一回りも二回りも せていただきました�皆様が�このような催 早い段階で吸収し利用者の皆様やご家族様� 成長出来るように努力を続けていきたいと思 し事に�参加でき楽しめる前向きな気持ちが そして同じ志を持�て働く職員の方の役に早 います� く立ちたい!と心に誓いました� 大事だと感じています� それから四�月が経とうとしています�コ 今後も皆様が健康で�安全な生活ができま ピ�の撮り方すらわからず�聞くのも先輩の す様�努力したいと思います� 手を止めてしまうので申し訳なく思�ていた 私も四�月で少しは成長したはず�と信じた いです�想像以上に覚える事が多く�それに 生活相談員 飯田 篤史 加え百名程の利用者様と職員の顔と名前を一 致させなければなりません�目が回りそうで 平成二十四年七月にオ�プンした富士見の したが�最初の頃はとにかく利用者様の名前 里もおかげさまで一周年を迎えることができ 生活相談員 渡邊 由佳 を覚えて名前を呼びながらの声かけをする事 ました�現在�一階多床室三十名�二階ユニ� を目標に掲げ�毎日利用者様の所に行く時間 ト型個室三十名の全てのお部屋に入所してい 2013年8月1日 望 み の 門 六年間お世話にな�た養護老人ホ�ムの楽 (21) ただいております�利用者の方々も施設の生 題です その支えは� 活に慣れ�とてもいい顔を毎日みせてくださ 球を追いかけるのではなく�相手が今何を 利 用 者 さ ん か います�相談員さんと呼ばれたり�あんち� されたら嫌なのか�相手がどのコ�スに打と ら 頂 い た も の んと呼ばれたり�電話のお兄さんと呼ばれた うとしているのか�打ちたが�ているのか守 も 大 き く� 料 り�どの階に行�ても次から次へと利用者様 りたが�ているのかなど�粘り強く色々なこ 理・野菜の栽培 に呼ばれるので�モテモテだと錯覚してしま とに気を配れた人が勝利します�自分の事ば 方法・花の名前 うくらいです�でも�それだけこの相談員と かり書いてしまいましたが�介護の仕事も同 を知�たり�お いう仕事の重要性を感じています� じだと思 うのです��木を見て森 を見ず�と 腹 を 抱 え 大 笑 さて�今回は私の趣味について少し書かせ いうことわざがありますが�私たち介護の仕 い し た り� 涙 ていただきます�私は�中学校の頃から卓球 事は�森をみて木も沢山見る�でなければい を 流 し た り 利 をしています�今も�仕事を終えてから�木 けません�施設全体の利用者様の様子に目を 用 者 さ ん と の 更津まで練習に行�ています�卓球を始めた 向けながら�一人ひとりの体調や要望にも配 毎 日 の 会 話 の ばかりの頃は�当然ですが飛んでくる球にば 慮していく�私たち富士見の里は二年目を迎 中 に 日 々 大 切 かり集中して�スマ�シ�などのすごい球を える今�そんな温かい施設を目指しています� な物が多く�毎日が新鮮で楽しいものとな� 相手に打ち込むことばかり考えていました� たような気がします� 日�日曜営業としてデイサ�ビスでは� しかし�卓 先 球に慣れてい 運動会を行いました� くと試合で勝 パン食い競争�綱引き等様々な競技を行い てる人とそう ましたが�普段では見られないハ�スルする でない人の違 姿に職員はび�くり�ハラハラする程でした 在宅支援員 長嶋由紀子 いがでてきま が�皆さんの 真剣な姿に感動を してしまい� す�その差は 望みの門デイサ�ビスにて勤務させて頂い 今日も涙を流し大笑いしてしまいました� もちろん技術 ております長嶋と申します� 帰りの送迎の車中でも�今日一日がどんな の差もあるか 望みの門デイサ�ビスに勤務させて頂くま 日だ�たかを�聴 く事も楽しみの一つです� もしれません で介護という仕事に携わ�た事が無く�はた �楽しか�た�こんなに笑�たのは久しぶり� が練習量�情 して大丈夫かと思�た事もありましたが�皆 疲れたけど良か�たね��の一言 に喜びを感 熱�そして視 さんに支えて頂き�や�と少しずつ慣れてき じ�また頑張ろうと意欲がわいてきます� 野の範囲の問 たように感じます� また�車いすで来られていた方が杖やシル (22) 望 み の 門 2013年8月1日 零子 早いもので開所から三�月過ぎ現在八名 の 利 用 者 が お り ま す� 訪 問 看 護 は 主 治 医 の 先生からの指示のもとで看護計画を立て看 護を提供し定期的に評価・見直をしながら在 �在宅で・自分らしく生きたい�と思�て いる利用者様のお手伝いをさせていただきた いと考え�今年の二月に望みの門訪問看護ス テ�シ�ンの開所に向けての準備をしてまい りました�県への申請をはじめ多くの方々の ご協力をいただきながら�ようやく四月一日 に開所の運びとなりました� 管理者�看護師� 渡邊 バ�カ�で歩行出来る様になるなど身体状況 の変化がみられる事があります�特に集中的 なリハビリを行�てはいませんが�午後の体 操・レクや日常の生活動作を繰り返す事によ り�自然と良いリハビリにな�ているのがわ かります� これからも利用者さんが笑顔になれるよう な 行 事 や レ ク を�� 目 配 り� 気 配 を し て� 笑 顔で元気な職員�を目指し勤めていきたいと 思います� 2013年8月1日 望 み の 門 (23) 宅での利用者 ております�具体的に訪問看護ステ�シ�ン 様のお手伝い の内容を述べますと をさせていた ① 病 状 や 療 養 生 活 を 専 門 家 の 目 で 見 守 り� だいておりま 的確なアセスメントに基づいたケアとアド す�指示書を バイスで�自立した生活が送れるよう支援 頂いている病 する� 院等は�東病 ②二十四時間三六五日急変時も主治医と連 院・三枝病院・ 携し�病状の観察�急変時の処置�医療的 君津中央病 な処置が多い利用者様の場合�他のステ� 院・田中ハ� シ�ンや医療機関の訪問看護を併用する事 トクリニ� もあります� ク・白金整形 ③ 経 管 栄 養� 在 宅 酸 素 療 法� 吸 引� 在 宅 点 外科・東邦病 滴注射�等の医療処置が必要な方の在宅療 院です�また 養を支援する� 色々な職種の方々と連携をと�ています�例 ④ 認 知 症 ケ ア 専 門 士 が お り 認 知 症 の 方 の 生 えば医師や看護師・保健師・薬剤師・医療相 活リズムの調整や介護の相談� 談員・介護支援専門員・市町村の職員や地域 ⑤ 住み慣れた家で最後まで過ごせるように� 包括支援センタ�員・訪問介護員�などです� 主治医の指示による痛みの管理や症状の緩 和など対処し�ご希望があれば看取りを行 連携に欠かせないことは�顔の見える関係つ くり�と思�ており時間の合間を見て富津� います� 君 津 地 区 の 医 院・ ク リ ニ � ク や 居 宅 支 援 事 ⑥ さ ま ざ ま な 在 宅 ケ ア サ � ビ ス の 使 い 方 を 紹介し�医療と介護の橋渡しの役割� 業所を訪問しております�最近では亀田総合 病院の総合相談室の主任さんが来所されまし ⑦ 糖 尿 病 の 悪 化 や 寝 た き り 予 防� 拘 縮 予 防 や機能の回復�嚥下訓練�福祉用具の相談� た�その中で�富津市は今まで訪問看護ステ� 介護予防等� シ�ンが無く困�ていたので今回訪問看護ス テ�シ�ンが出来心強い�と話されていまし このようなサ�ビスの提供を訪問看護では た� ス タ � フ 一 同� 期 待 に 応 え る 事 が 出 来� 行�ています�お気軽にご連絡下さい� より良い看護の提供が行えるよう研鑽を重ね スタ�フ一同お待ちしております� 勤率もア�プしているような気がします� き嫌いや食べ方�箸の持ち方や食べる順序な さて先日�新生舎では新たな�食�の場面 どなど�学ぶべき事は多いところですが先ず として�外食会�なる行事を行いました�テ� は楽しんで食事ができる環境を作ることがと ブルマナ�向上を兼ねた初の試みで�三つの ても大切なような気がします� 職業支援員 山本 朋美 作業班に分かれレストランや食堂に食事に出 � たか が 食事� さ れ ど 食事�� 今 日も� 食� を笑顔で楽しむ新生舎です� 新生舎には様々な�食�の場面が見られま 掛けました� す�春のお花見や潮干狩り�秋のスポ�ツ大 一定額以内で食べられるものを上手に選ん 会など行事の時に外で食べるお弁当は格別で で食事を楽しもうという企画でしたが注文も 皆�自然と笑顔がこぼれます� まさに十人十色 という感じでした�� サラダ 毎日食べる給食にも笑顔が見られる新生舎 セ�トにしたらデザ�トが食べられないよ� ならではのイベントメニ��があるのをご存 ど う し よ う � と 悩 む 人� 自 分 一 人 で 注 文 が じ で す か? そ れ は� パ ン の バ イ キ ン グ �� ト 出来た人��栄養のバランスを考えなくち�� 世話人 齊藤 房子 レイに並んだ色々な種類の中から自分の好き と時間をかけてゆ�くりメニ��を選ぶ人� なパンを選ぶのですが�お皿を握りしめ�お 反対に職員に何 を言われても 即決�� ステ� 七 年 間 勤 め て き た ホ � ム ヘ ル プ サ � ビ 目当てのパンを見つめその時を待つ表情は真 キ!�� ご 飯 が 付 け ら れ な い よ � と 声 掛 け し ス か ら 一 年 前 に デ イ サ � ビ ス セ ン タ � へ 剣そのもの� ても�いいの!ステ�キにする�ステ�キが 異 動 し� こ の 四 月 か ら は グ レ � ス ホ � ム の顔は いい!�と単品ステ�キを美味しそうにほお の 世 話 人 と し て 勤 務 し て い ま す� 高 齢 者 そ 好きなパンを ばる人�食事が運ばれると3分で平らげる� の 介 護 の 仕 事 を し て き た の で� 障 害 の あ ゲ�トした瞬 なんて人も� る方のお世話ができるかどうか不安でい� 間�満面の笑 また自分でレジで支払う経験が出来た人も ぱ い で し た� 栄 養 管 理 や 健 康 管 理� 生 活 支 みに変わりま いました� 援も何をどこまでしていいものか戸惑うこと す�まだ月に 域 生 活 を 送 る 上 で 必 要 な ル � ル や マ ばかりでした� 地 一度しかない ナ��社会性を身につける良い機会とな�た 世話人とな�て三�月が過ぎ�利用者さん 選択メニ�� のはもちろんですが�いつも一緒に作業を共 とふれあう中で自分なりに感じたことがあり ですが利用者 にしている仲間との食事会は会話の弾む笑顔 ます�障害は個性であり�病気も個性��一 にはとても好 あふれるものとなりました� 人一人の利用者さんの個性に合わせた支援を 評で�当日は 通所事業所のため一日に一回しか�食�と することが大切なことなのではないかと�そ 若干ですが出 いう場面はなく�とても貴重な時間です�好 れぞれの個性を感じながらア�トホ�ムな支 (24) 望 み の 門 2013年8月1日 さてこの 援ができたらいいなと思�ています� 日は�七夕 先日グレ�スホ�ムの恒例行事である一泊 旅行で養老渓谷に行�てきました�長い階段 のおやつと を下りられなか�たり�その人を�こわくな して�水饅 管理者 藤崎 美智 頭�をみん いよ�と励ます人がいたり�カラオケではこ んな歌も歌えるんだ等�新発見がたくさんあ � さ さ の は さ�らさ�ら の き ば に ゆ れ なで作りま りました�坂道や階段で転ばないように�お る��と大合唱�この歌声は�ヨカデイサ� した�ヨカ 酒 を 飲 み す ぎ な い よ う に� ホ テ ル の 方 に 迷 ビスセンタ�で七月四日に�七夕の集い�を デイサ�ビ 惑をかけないように�そして何より目一杯楽 行�た時のみなさんの元気な声です�今回は� スでは�月 しんでもらえるようにと気疲れの連続でした ヨカデイサ�ビスセンタ�で恒例とな�てい 二回ほどお が�日常では見られない利用者さんの笑顔に る�七夕の集い�をご紹介したいと思います� やつ作りを 触れ�元気をもらう旅行となりました� 今年も六月の末に笹の木を全員で取りに行 行�ていま これからも微力ですが�利用者さんの笑顔 き�すぐに笹飾り作りに取り組みました�折 す�みなさ がたくさん見られるような支援ができるよう り紙を切りそろえる人�輪飾りや提灯を作る んおやつ作 努力していきた 人とそれぞれの自分のできることをや�てい り は 大 好 いと思います� ただき�色とりどりの笹飾りが完成しました� きで�張り みの門に縁 そこで�ひとりひとりが短冊に�お願い�を 切�て参加 望 が あ � て 八 年� 書くことになりました�それぞれが思い思い し ま す�� 水 饅 頭 � は 餡 を 丸 め て� 餡 の 底 に 父や母�そして に�元気ですごせますように���いつまでも 星形の白桃を入れ�葛を流し込んで冷やして 長男がお世話に ヨカデイにくることができますように���ヨ できあがりです�涼しげな和菓子の味に大満 なり�皆さんに カデイで外食に行きたい�など�みんなの願 足でした� 助けていただい いは同じ内容が多いようでした�しかし�五 私が�四月にグレ�スホ�ムからヨカデイ た恩返しが少し 十七歳のMさんは�就職したい�というお願 サ�ビスセンタ�に異動して�四�月が経ち でもできたらと いを短冊に書き�みんなをび�くりさせまし ました� 思�ています� た��Mさんから就職という言葉を聞いたの ヨカデイの利用者さんは�グレ�スホ�ム は初めてのことです�現実は厳しいかもしれ の方々が大多数ですが�これからは日中を共 ませんが�こうなりたいと思えるMさん�願 に過ごす指導員として�色々な活動をみなさ いが叶うと良いね� んと楽しんでいきたいと思�ています� 2013年8月1日 これからもよ ろしくお願いし ます� 望 み の 門 (25) 達の貴重なお話は�視覚的にもわかるように 親が大工棟梁をや�ていたこともあり�その お渡しの身の周りに置き�常に忘れないよう 威厳は強く�父親の一言で何事も覆り�異を にと心がけています� 唱えるものなら食器が飛んでくることもあり また�人の生活の奥深くまで立ち入�て相 ました�ですから�母を含め家族全員が父親 牧野まさ江 相談支援員 談にのるという経験を私は今までにした事が の機嫌を人一倍気遣う生活が続き�今の世な ありません�初めのうちは�おそるおそる先 ら�問題とな�たのではと思うほどでした� �明日もお願いしますよ�� 一日の勤務が終わり�帰宅時によく言�て 輩達の側で学ばせていただいていました� そんな中�私自身�思春期には気持ちも荒 くださるセンタ�長のこの一言は�私の心を やがて穏やかな春の日差しがさしこみ�ク れ�たくさんの方々に迷惑をかけました�救 癒してくださり�明日への活力の源とな�て ラ イ ア ン ト の 心 が に こ や か に な � て い く こ いだ�たのは�そんな私のことを最後まで信 います�本当に素敵な言葉です� と�おのずと私の考え方も皆様と同じ方向に じてくれる人�話を聴いてくれる人�また叱� てくれる人が身近にいたことです� 四 月 よ り 中 核 地 域 生 活 支 援 セ ン タ � 君 津 傾いていました� ふくしネ�トに勤務をさせていただき�早や �我以外皆師也� だからこそ今の私があると思�ています� 三�月が経ちました� 私は幼い頃より�年下の子の面倒を見るの が好きで�幼稚園の担当先生の 影響もあり� こ の 三 カ 月 の 間� 私 は� 今 日 の ク ラ イ ア ントに対する自分の対応は�決して上手とは 保育士になるのが夢でした�高校生になり� 言えない!�と自分を責めたり��こんな時� 児童養護施設で暮らす子どもたちのことを知 どのような社会資源を活用すればいいのだろ り�どこか自分に重なる部分を感じ�この子 う???�と悩んだり�知識と心のビタミン たちの話しを聞いてあげたい�少しでも笑顔 保育士 米本真知子 不足を実感していました� を増やしてやりたい�との思いを強くし�専 かずさの里に 門学校に進み保育士になりました� しかし�センタ�長をはじめ�職員間で交 きて早いもので わされる日常の一言は�徐々に私を元気にし 私たち職員の役割は�まず安心して学校に 一年が経ちまし 通�たり�遊んだりできる物心両面の環境を てくださいました� た�日々�子ど 整えることです�そして日々の生活を通して クライアントにと�て�今は�何が一番大 もたちと触れ合 社会に出た時に�一人の大人として認められ� 切かという熱い思いや信念�人生観を事ある う中�私自身の 周囲の人を助けたり�また助けられたり�社 ごとにおしみなくぶつけ合�ている先輩達の この仕事への思 会にきちんと交わることができる大人に育て 姿に感動をせずにはいられませんでした�そ の感動は�物に香りが移る如く�私の心や行 いを振り返る事となりました� ることだと思います�その為には�私自身が� 動に大きな影響を与えて下さいました�先輩 私事になりますが�幼い頃の我が家は�父 礼儀作法�あいさつ等�人々との関わりを実 (26) 望 み の 門 2013年8月1日 践し見せていくことが大切だと思います�そ あくまで�自分�ではなく��施設がどうか� の方向を転 れ故�私自身の心身に余裕がない時でも�努 という視点で評価します� 換させるこ めて元気に笑顔を見せることに心掛けており 内容については割愛しますが�結果を見て ともあるで ます� 気づかされたことは�同じ質問であ�ても五 し�う�今 本 当 に き つ い な と 感 じ る 時 も あ り ま す 段階評価に大きな差が見られたことでした� 回の自己評 が�一年経�て少しずつ子どもたちが�その それぞれの立場での回答ですが� これでは�意 価によ�て � �共感���共通理解�という点で� 幾つかの課 姿を理解してくれるようになり�嬉しく疲れ 思の疎通� まだまだ意識づけが必要であることを実感す 題が与えら も癒されます� る結果となりました� れ�今後の これからも一人ひとりの話しに耳を傾け� 見 守 り� 時 に は 叱 り� 間 違 い に は 気 付 か せ� 良 く� 少 数 精 鋭 � と 言 い ま す が�� 精 鋭 を サ�ビスの 活き活きとした暮らしとなるよう頑張りたい 少 数 雇 う ��� 少 数 に す る こ と で 精 鋭 を 育 て 質向上へ向 と思います� る��後者がより現状に合�ている気がしま けての手掛 子どもたちの心からの笑顔が増えることを す��精鋭を 育てる�そのために はまず一人 かりを見つ 願います� ひとりが意見をもち�それを発信する力を持 けることが つ必要があると考えます� 出来たことは大変有効であ�たと考えます� み る必要があり�学ぶ必 今年度も自己評価を実施しますが�昨年より 発言するためには看 要があり ます�現状に満足する のではなく� 自信をも�て評価が上げられるよう積極的に より高みを目指して支援の方法も進化する必 このチ�ンスを利用したいと思います� 要があります� 社会から求められる施設像�子どもたちか 施設長 白鳥 正道 ら求められる大人像�法人�施設の考え方� 社会的養護といわれる児童福祉施設や乳児 それらは最低限働く者として知�ておく必要 院等三年に一度は外部機関による評価を受け はあると思います� ることが義務付けられました�それに伴い毎 その基本となる 土台の上で初めて�� 自分 相談支援員 中尾 実慧 年自己評価を実施することが必要になり�方 は こ う し た い ��� こ の 方 が よ り 良 い 支 援 に 舟も昨年度自己評価を実施しました�定員九 な る � 等 自 由 に 意 見 交 換 を し� ど う し て も 今年四月一日�児童家庭支援センタ��望 名�職員十四人の小さい乳児院ですので�常 納得がいかない場合はそれがどう�根拠のあ み の 門 ピ � タ � パ ン の 家 � が 開 設 さ れ ま し 勤職員で自己評価を実施してもらいました� るサ�ビス�なのかという説明により�全体 た�子育て中のご家族�子どもさん自身や周 2013年8月1日 望 み の 門 (27) 二 階 の 相 談 室� プ レ イ ル � ム で は� 社 会 福祉士�精神保健福祉士�児童福祉司とい� た資格をも�た相談員が二名と�臨床心理士 �Y・I� 囲の方々からの悩みや相談を受ける�いわば 一名がチ�ムを組んで来所者の相談に応じま 子どもにまつわる�よろず相談所�です�自 す�電話・メ�ル・来所での相談はもちろん� 分の育児に不安を抱えている親御さんは多く 求めに応じて訪問での相談もお受けします� います�子どもと向き合い過ぎて親自身が疲 ま た 必 要 に 応 じ て 発 達 検 査 や 心 理 療 法 も 炎暑の候�玉稿をお寄せ下さ�た方々�誠 れ切�てしまい�その様子を見た子どもが不 行 � て い ま す� 受 付 時 間 等 詳 し く は パ ン フ に有難うございました�参院選は熱気感じぬ 安定にな�て�余計に親の気持ちを逆なです レ�トをご覧ください�� ままに終わ�た�自民圧勝と投票前から予想 るようなことをしてしまうなど�双方の思い 最近では�玄関前に植えたピ�マンやトマ されていたが�その通りになる時代の風潮を が裏目に出てしまう事があります� トが色付き始め�来所された方々の試食コ� 不気味に感じる�勝者は誇らず�本当に民の そんな時�いかに親と子どもが楽に向き合 ナ�とな�ています�野菜が苦手なお子さん ための政治を願う� えるかが鍵とな�てくるのではないでし�う が 今 で は�� ト マ ト も う 一 個 食 べ た い!� と さて本号は�ドイツ訪問団�特集とした� か�まず�悩みを打ち明ける事で肩の荷を下 目を輝かせるほどです�ママが�じ��お家 理事長の表敬挨拶�簡にして要を得たもので ろし�相談員に支えられて自分の育児をふり でも野菜作�てみようか?�と自然な食育が ある�はじめにドイツ語でそして次に日本語 返ります� 進んでいます� で数回に分けて話され見事なものであ�た� 客観的に見つめ直すことで自分にあ�た対 子 ど も の 成 長 は 一 人 で 抱 え ら れ る も の で 団 員 お 一 人 お ひ と り か ら 感 想 文 を お 寄 せ 頂 処法を見つけ出していくことができれば�お はありません�お子さんの健やかな成長を願 き�順不同でご記載させて頂いた�ご了承い のずと日常の悪循環から解き放たれていくこ い�共に考え�歩んでいけるようなセンタ� ただきたい�お暑い中玉稿をお寄せ下さ�た とができるのではないでし�うか� を作�て行きたいと思�ています� 方々に心からお礼を申し上げます� セ ン タ � 一 階 に は� 気 軽 に 立 ち 寄 � て 当 て� の ぞ み 会 に は こ の 四 月 よ り� 二 つ さ 頂けるようにフリ�スペ�スを設けてありま の新規事業がスタ�トした�一つは児童家庭 す�ボ�ルテント�ブロ�クなどの遊具やベ 支援センタ��通称児家セン�でもう一つは ビ�ベ�ト�授乳スペ�スがあり�お散歩途 在宅重視の在宅看護センタ�です�少子高齢 中で�おむつが替えたい��お�ぱいの時間 化社会の中�子育て支援と在宅福祉の充実は にな�ち��た�とか��子どもを遊ばせな 待�たなしの緊急性があります� がらママ友逹と話がしたい�方々などが自由 のぞみ会の事業は�し�かりと時代を見据 にご利用頂けます� えつつ歩んでいることをご理解いただければ 幸いである� (28) 望 み の 門 2013年8月1日
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