人間科学部研究年報 平成 21 年 科学教育の根本問題 ―教職実践演習への一試論― The Fundamental Problem in Science Education ―A Preliminary of Training Course in the Teaching Profession― 右山 忠史 Tadashi Migiyama There is no question that what makes our life in the modern age rich and convenient is “scientific” materials, and thus I have no intention of denying the extensive promotion of science education. Nevertheless, before it, I am often overwhelmed by a sense of crisis. The sense of crisis is rooted in a deep concern regarding the state of today’s science education. Specifically, this concern consists of two apprehensions: one is a question of whether modern science education has fallen into scientism beyond the limit of science education and if it has, it is a formidable challenge to humans. The other is an apprehension that while modern science education may produce those who acquire existing knowledge and those who expand and apply existing science, it may not guide learners to develop new science or innovate in existing science. This study will discuss how scientism education should be avoided and how science education should be as a guide for creators of science. Science(Wissenschaft)is a study of objects. It is a study where a specific object is observed and experimented on with corresponding methods to discover the laws and principles of that specific dimension. To people in the modern age, taking actions based on these scientific knowledge is “reasonable”. However, when this type of scientific recognition is judged as the only type of recognition believing that only matters that can be understood by this recognition type are true and existent, and leads to the idea that so-called “reasonable” actions are the only meaningful actions, it may create scientism-oriented humans. However, as mentioned in the preceding studies, “you” is not an object. “I” as opposed to “you” is also not an object, and thus is not recognized scientifically. Consequently, such “you” ― 52 ― 科学教育の根本問題 and “I” do not exist in the eyes of scientism-oriented people. Furthermore, goodwill based on a conviction of such “you and I” recognition is an illusion and has no significance. “You” is another name for a biological, medical, or psychological object in the view of scientism-oriented people. Therefore, if complete scientism was executed, then the faith in the purpose and mission of life itself may be lost. A “reasonable” conduct that deals effectively and appropriately to matters may be possible, but ultimately the base of why it is done may not be recognized. Now the question is what teachers should do in order to teach science without falling into scientism? First of all, science teachers themselves must overcome scientism. What draws students to scientism is not science itself but the words and behavior of scientism-oriented teachers. When science education becomes scientism-oriented education, science would nip the buds for scientific development. This is exceptionally clear when “questions” are considered. Without the “why” question, no science may experience innovation. The question of “why” is the key element in opening a new ground. 1 科学の基本概念というものは常識(日常生活に必要な思考)からでてくるものではなく、常識 ではどうにも解決のできない人間社会の問題を解決するものである。山の高さがどれくらいであ るとか、昆虫の羽の数が何枚であるとかなどは、常識を動揺させないが、地動説、原子説、進化 論のなどは常識では考えられず、しかも常識では達成されない難問をつぎつぎに解決することに よって近代社会の基礎を築いたのである。地動説がなければ大旅行はありえず現在の地球観は存 在しなかっただろう。原子説なしには物理・化学が、したがって近代産業は何もなかったであろ う。 現代のわれわれの生活を豊かにし便利にしているものが、「科学的」なものであることは間違 いないから、科学教育が大いに推進されて当然であり、私はそれになんらの異義をさしはさむも のではない。 近年、とみに大学生を相手にして感じることは、ほかの面の教育はともかく、コンピューター を含めた情報や科学の教育だけは、大いに徹底してきているということである。コンピューター に関する情報科学的知識、自然現象に関する自然科学的知識、社会現象に関する社会科学的な知 識の量からだけみれば、彼らは、われわれが同じ年頃だった頃よりも進んでいるように思われ る。 しかし、彼らを前にして、私はしばしば重大な危惧を感じさせられるのである。そうして、そ ― 53 ― 人間科学部研究年報 平成 21 年 れは同時に、彼らをそのような彼らに形成してきた、現代の科学教育に対する危惧でもある。そ の危惧とは、現代の科学教育が、科学教育の限界を超えて、科学主義(scientism)教育に陥いっ ているのではないか、そうだとすると、それは恐るべき人間の危機である、ということがそのひ とつである。もう一つは、現代の科学教育は、既成の知識を覚えている人、既成の科学を応用的 に拡充する人を作ることはしても、新たな科学を生み出し、既存の科学を飛躍的に発展させるよ うな人にまで導くということはしていないのではないか、という危惧である。 本章では、私は、科学主義教育に陥るべきではないということ、科学を創造する人への導きと しての科学教育は如何にあるべきかということ、その二つに論じてみたいと思う。 2 科学(Wissenschaft)は、対象の学である。特殊の対象を、それに対応した方法によって観察 実験し、それによって、その特殊の領域における法則ないし原理を発見していくという学であ る。現代人においては、このような科学的知識にのっとって事態に対処する行動が即ち「合理 的」なのである。 ところが、この科学的認識形式を唯一の認識形式と断定し、このような認識形式によって捉え られるもののみが唯一の実存であると信じ、いわゆる「合理的」な行動のみが、有意義な行動で あると考えるに至ると、ここに科学主義の人間が誕生すると思われる。 ところが、今までの論文において(注1)のべたように、「汝」は対象ではない。汝に対する 我もまた対象ではない。したがって、科学的に認識されない。だから、科学主義者にとっては、 その様な「汝」も「我」も実存しない。また、その様な「我−汝」の確信に基づくような行為 は、迷妄であり無意義である。 「汝」とは、科学主義者にいわせれば、生物学的・医学的・心理学的な対象であるところの他 人の別名である。したがって、もし科学主義に徹底するならば、生きることの目的・使命自体が 信じることができないものとなってしまうであろう。有効適切に事態に対処する「合理的」な行 動はなしえても、究極においては、何のためにそうするのか根拠を見失うことになるであろう。 サイエンティズムは倫理的にはヒューマニズムとは両立しえない、と思われる。K.ヤスパー スはそのことを次のように語っている。 「私が人間を、その人間について知られている範囲だけに閉じ込めてしまえば、私はその人間 の消息に通じているという思い上がりによって、またはその人間に非人間的な歪曲を加えること によって計画的にその人間を好きなように動かすことになる。これに反して根源から発するその 人間の可能性を未決定のままに残しておくとすれば、その人間は、私にとって、どこまでもその 人間であって、私が好きなように動かすことは全く不可能である。人間を単に対象的に認識しう る自然と見れば、ヒューマニズムを棄ててホミニズムにはしることになる。」(注2) ホミニズムの人にあっては、真実の利他の道徳、利他のため利他行為はありえない。結局は自 ― 54 ― 科学教育の根本問題 利に帰する利他、己の欲求の充足のための他人の利用しかありえない。 要するに、科学が己の分を超えて、科学主義にまで行くならば、人は己の生きる目的を見出し えなくなり、「我—汝」の共同体としての社会は消滅せざるを得なくなる。残るはただ利益共同 社会のみになってしまう。この科学主義の危機を、ヤスパースは「誤った啓蒙」と称し、次のよ うに語っている。 「誤った啓蒙は(悟性を単にこの悟性に与えられなければならないものを証明するために回避 することのできない道として利用する代わりに)あらゆる知と意欲と行為を単なる悟性に基づい ているということができると考えます。このような啓蒙は(単に特殊的である悟性的認識を絶対 化するのです。このような啓蒙は個人を誘惑して(共同的に問い且つ促進する知のいきた関連を 基礎としないで)丁度個人が一切であるかのように、自分自身だけで知ることができ、自分だけ に基づいて行動することができるというようなことを口にさせるようになります。人間生活は全 て例外と権威の両者によって定位されなければならないのでありますが、このような啓蒙には例 外と権威に対する感受性がかけています。簡単に申しますと、このような啓蒙は真なるものと、 人間にとって重要なものを全て、悟性の洞察によって獲得できるかのように、人間に対して自己 自身にのみ立脚させようとするのであります。このような啓蒙は単に知ろうとするだけで信じよ うとはしないのであります。」(注3) では科学を教えて科学主義に陥らせない為に教師はどうしなければならないのであろうか。 まず科学の教師自らが、科学主義をのりこえることである。生徒を科学主義に引き入れるの は、科学そのものではなく科学主義の教師の言葉であり行動であろう。「生物の生命とは蝋燭の 燃焼のようなものに過ぎない」と語り、「桜が花を開くのは生殖活動をおこなっているにすぎな い」と語る教師の言葉が生徒を科学主義に向かわせるのである。罪は教師にあるのであって、科 学にあるのではない。自らが科学主義であるがゆえに、自分の教えた生徒が次第に科学主義的言 動を示すようになるのを見て、科学教育が十分に成果を挙げたと感じる教師は、科学の知識の若 干を与える代わりに生徒から人間性を奪い去る恐れがある。 真の科学教育者は、常に科学の限界を知る人でなくてはならない。寺田寅彦はそのような科学 教育者であった。イーハトーヴォの山川草木に限りない愛情を注いだ、羅須地人協会の教師宮沢 賢治もまたそのような、農芸化学教育者であった。(注4)又、おそらく、「石をしとねに木の根 を枕、花を恋して九十年」の生涯を終わった牧野富太郎もその様な植物学教育者であったに相違 ない。 次には、子供の、神秘に対する憧憬を、こともなげに、「これこれのことに過ぎない」と決め 付け「汝」に向かっている眼をふさいでしまうようなことを教師が行ってはならないことはいう までもない。前述のような真の科学教師ならば、決して「雪は水の結晶にすぎない」ときめつ け、「花とは植物の生殖器官にすぎない」ときめつけて、子供の不可知なものに向かう眼をつぶ ― 55 ― 人間科学部研究年報 平成 21 年 すことはしないであろう。 3 以前の論文から繰り返し述べているように、「形」は「我—汝」の交わり(注5)のそれ化で あり、未だ見えない新しい「形」は、不断に「汝」に出会うことによってのみ見出される。 科学は、新しい「形」が見出されることによってのみ、飛躍的に発展しうるのである。した がって、既成の科学的知識をもって一切を割りきってしまい、一切が「それ」となり、もはや 「汝」に出会うことを求めないならば、我々は、科学を飛躍的に発展させる可能性を失ってしま うのである。「・・・・・にすぎない」という言葉は、飛躍発展を断念した言葉である。科学教 育が科学主義教育となったとき、科学は発展のための眼をつみとられてしまうのである。 このことは「問い」ということを考えてみれば一番はっきりすることである。「なぜ」という 問いがおこらすに、科学が飛躍的に発展することはありえない。「なぜ」という問いがおこるこ とが新生面をひらくための不可欠な条件であると思われる。 「問い」は「汝」に対してこそ発しうるものであって、「それ」に対して発するものではない。 既成の知識で割り切ってしまった時、我々は、山に対し草に対し社会に対し天体に対して問いか けることをしない。なぜならそれは「それ」にすぎないから。又、更には、科学主義のきわまる ところ、全ての他人をも「それ」視してしまうならば、他人に対してすら問いかけることをしな いであろう。問いもしないし、他人の「表現」を受け止めようともしないであろう。そうなれ ば、科学の新生面をひらくどころか、高次の科学を学習することすら不可能となるであろう。科 学教育は決して莫大な施設費を捻出することや、専門的知識の所有者を急造することにはない。 注 拙稿「芸術教育の根本問題」―教職総合演習への一試論 帝塚山学院大学 人間文化学部研究年報 第 9 号 2007 年 一頁―七頁 K. ヤスパース著 「現代ヨーロッパの精神的課題」橋本文夫訳 創元社 六二頁―六三頁 1964 年 K. Jaspers ; Einfuhrung in die philosophie, 1971, R. Piper & Co. Verlag, S. 69. 邦訳 草薙正夫 カール・ヤスパース著「哲学入門」新潮文庫 2005 年 一一五頁 賢治は彼の童話の中で、郷里岩手県をイーハトーヴォという名でよんでいる、羅須地人協会は、彼がそ の教育的理念を実現しようとした農民教育機関である。(宮沢賢治全集) Martin Buber, Ich und Du, 1972, Werke, Bd. 1, Schneider, S. 79. (邦訳 植田重雄 マルティン・ブーバー著「我と汝」岩波文庫参照) ― 56 ―
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