★『離別の仁川港』誕生秘話 歌ノレ노래163 『離別の仁川港』 (むくげ通信 254 号 私 『離別の仁川港』は、‘港港に女あり’の海の男 2012.9) 山根 俊郎 ★作曲家 全吾承の 1955 年のヒット曲 最近、韓国の中古 SP 販売サイトなど‘謎の 1950 マドロスの自由奔放さ(60 年代に白夜城の‘マドロ ス歌謡’で花開く)と外国航路の浪漫・希望を歌っ ている。しかし、ネーミングが暗い。「離別」と「別 れ」を強調している。憧れの外国に出港するのにな ぜ「離別」にこだわるのか?また、前年(1954 年9 年代の韓国歌謡’を漁っていて、ある発見があった。 月)ユニバーサルレコードから約5万枚の大ヒット それは、当時売り出しの新進作曲家の朴椿石、孫夕 となった『離別の釜山停車場』(胡童児=兪湖詞、 友と並び称される全吾承が 1955 年にオアシスレコ 朴是春曲、南仁樹唄P1009)の『離別の・・(題名 ードからレコードを発表している事実が確認され だけだが)パクリと思われる。 た、のである。よって、彼の3人の愛弟子である明 國煥、朴慶遠、女優で実妹・羅愛心が 1955 年にヒ ット曲をオアシスレコードから相次いで発表した。 朴慶遠が歌ったさわやかな①『離別の仁川港』 (世 鼓千=全吾承詞、全吾承曲、朴慶遠唄)も 1955 年 に流行した。明國煥のデビュー曲②『白馬よ 泣く な』(姜英淑詞、全吾承曲、明國煥唄)が A 面であ り、B 面は朴慶遠のデビュー曲③『悲哀のブルース』 (世鼓千=全吾承詞、全吾承曲、朴慶遠唄)であっ た。そして、羅愛心の歌う④『いつまで』(オンジ ェカジナ・金文応詞、全吾承曲、羅愛心唄)も 1955 年にオアシスレコードから発表された。 (朴慶遠ヒットアルバムの LP レコードラベル) 朴慶遠(1931-2007)は仁川出身。1951 年仁川中 しかし、 『放浪詩人 金サッカ』 (金文応詞、全吾 学3年(旧制)でコンクールに出場、1等になった。 承曲、明国煥唄S353)が、同じ 55 年にシン シン 翌年ソウルでのコンクールにも優勝。審査員の全吾 (新新)レコードから発売されて大ヒットした。そ 承に弟子入りした。東国大学経済学科に進学して の結果、歌手明国煥とともに作曲家全吾承は、シン 『悲哀のブルース』でデビューしたが、脚光を浴び シンに移籍してしまう。56 年には、作曲家全吾承は、 なかった。(デビュー時に誤認 55 年が正しい)そ シンシンから明国煥の『久遠の情火』 (映画主題歌・ の年(53 年)の夏に朴慶遠は釣り好きの師匠全吾承 江南風=崔致守詞、全吾承曲、明国煥唄S388)や を故郷仁川に招待して芍薬島で過ごした。全吾承は、 『私の故郷に馬車は走る』 (柳魯完詞、全吾承曲、 海を航行する外国船を見て『離別の仁川港』の曲想 明国煥唄S443)や金用萬の『孝女沈清』 (江南風= を得た。実は、全吾承の故郷は、北朝鮮の鎮南浦で 崔致守詞、全吾承曲、金用萬唄S405)や『女班長』 あった。朝鮮戦争中に家族で南に避難した失郷民で (柳魯完詞、全吾承曲、金用萬唄)などのヒット曲 あった。海を隔てたわずか三百里の北の故郷への望 を発表して、シンシンの代表的な看板作曲家になる。 郷の念で涙したであろう。その気持ちが題名に『離 一方、56 年オアシスはシンシンに対抗して、作曲家 別の仁川港』と反映したのであろう。朝鮮戦争の傷 李在鎬を迎えて『断腸のミアリ峠』 (半月夜詞、李 跡が込められている。歌手朴慶遠は萬里浦海水浴場 在鎬曲、李海燕唄 66608)や『雨降る湖南線』 (孫露 の『萬里浦の愛』(58 年半夜月詞、金教聲曲 センチ 源詞、朴椿石曲、孫仁鎬唄 66640)の大ヒットで巻 ュリ)や映画「五父子」主題歌『男性ナンバーワン』 き返しを図る。まさに、「競争が名曲を産む」であ (58 年4月封切 半夜月詞、朴是春曲 ミドパ)のさ る。オアシスレコードもシンシン(新新)レコード わやかなヒット曲がある。作曲家全吾承は、70 年代 も 1955 年に創立されてレコードの発売を始めた。 にアメリカ LA に移民して釣り三昧で暮らしている。
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