PDFファイルを読む

̶ 75 ̶
1.はじめに
サウジアラビアと日本との外交関係樹立 50 周年を記念しこの喜ばしい
式典が催される機会に、私の体験も含めて、両国間の、そして両国の人々
との間の交流関係の発展を振り返ってみたいと思います。
1955 年に両国間の外交関係が正式に樹立されて以来、このたびスルタン
皇太子が公式実務訪問されるまでの半世紀の間、われわれの絆はこのよう
な日本の皇室とサウジ王室との交流や石油エネルギーの繋がりばかりでな
く、政治・経済・文化・芸術・社会など、さまざまな次元の、裾野の広い、
間断ない、そして包括的な交流になってきていることに深い感銘を覚えま
す。
ハディース(預言者ムハンマドの言行録)には『知識 を求めるために
は、
(遠く)中国まででも旅しなさい』と出ています。また『学ぶものと
学ばないものとが同じということがありえようか?』とコーランの教えに
あり、日本サウジアラビア協会の標語『知ることが、やがて友情に変わる』
もまさに同じ精神を表したものと思われます。現在行われている日本とサ
ウジアラビアを中心とする中東イスラーム諸国間の相互理解と密接な交流
はまさに双方の長い伝統と文化に根ざすものにほかなりません。
2.歴史を回顧して
(1)日サ間に正式外交関係が設定される以前でも民間のムスリム先駆者
による巡礼が行われていたという記録があります。すなわち、1909 年に山
岡光太郎が日本人として初めてマッカ巡礼を行い、1920 年には英語からの
翻訳ではありますが、コーランの翻訳版が出版されました。ムハンマド・
ヌール田中逸平は山岡の後を追い 1924 年にマッカに赴いたが、彼が日本
がアジアの大義を鼓吹するに当たり『回教政策』が重要になることを主張
したことはよく知られています。当時欧米列強の帝国主義・植民地支配の
下にあったアジア地域諸国民との、特にムスリム社会の人々との提携を意
識していたものと解せられます。
日本人のマッカ巡礼者の数は第二次大戦以前に 20 人以上に達したとい
̶ 76 ̶
サウジアラビアと日本の友好関係の回顧と展望
われます。
(2)日本とサウジアラビアの外交的接触が始まったのはハーフィズ・ワ
ハバ駐英公使が東京モスクの開堂記念式典に出席するため日本を訪問した
1938 年にさかのぼります。これがきっかけとなって、1939 年エジプト駐
在日本大使館横山正幸公使が外交官として初めてサウジアラビアを訪問す
ることになります。このミッションは紅海沿岸のジェッダから一千キロの
砂漠・土漠の道を踏破しリヤードでアブドルアジーズ国王に拝謁し、外交・
経済関係を樹立するために交渉を行ったとされています。実際に外交関係
が設定されたのは、第二次世界大戦をはさんで 1955 年になってからのこ
とです。対外的には「友好関係の設定」の打ち合わせということになって
いますが、私が戦前の外交文書を調査したところによれば、このミッショ
ンの実態は、ワハバ公使よりのオッファーに応えて秘密裏に石油コンセッ
ション獲得に赴いたという側面が大きいと判断されます。当時、太平洋戦
争の前夜、対米関係の緊張と石油ボイコットのプレッシャーの下に、大日
本帝国は陸海空軍とそれを支える重化学工業の生命線、年間約 500 万トン
の原油供給はなんとしても必要でした。この原油獲得という目的としては
失敗に終わったミッションであったが、
それから太平洋戦争を経て 20 年後、
「中立地帯」においてアラビア石油 KK が日本初の自主開発に成功したこ
とを考えてみると、決して無駄足ではなかったといえるでしょう。
1953 年日本の経済使節団がサウジアラビアを訪れ、1955 年に両国の外
交関係が正式に樹立されました。1958 年に東京にサウジ大使館が、1960
年にジェッダに日本大使館がそれぞれ開設されました。
1960 年のスルタン交通大臣の訪日を皮切りにハイレベルの要人往来が両
国間に始まり、1971 年にはファイサル国王の訪日が実現しました。
(3)日本人アラビスト草分けの横顔
中野英治郎は前記横山ミッションにアラビア語通訳として随行し、アブ
ドルアジーズ王との謁見、ジェッダ港より陸路リヤード往復二千四百キロ
メートルの難行苦行等について詳しく『アラビア紀行』
(昭和 14 年、明治
̶ 77 ̶
書房)につづっています。
「従来このリヤードを訪ねたヨーロッパ人は、ペリ、リーチマン、ロウ
ンキエール、シェイクスピア、フィルビー、ポールグレイヴ等、主として、
数名の英国探検家、軍人、外交官に限られ、1937 年英貴族アスローン卿夫
妻の自動車による訪問およびハサ地方並びにジェッダのスタンダード石油
会社員の最近の往復などを加えても、なお僅かに指折り数えるだけに過ぎ
ない。日本人としてこの地を訪ねたのは公式にも我々三名を以って嚆矢と
する」と記しています。
非回教徒が通らなければならないジェッダから聖地メッカを迂回する
「山と山との峡のワ−デ」
、地獄谷を何度も砂の陥没 ( ガッラズ ) を体験し
ながら黙々と進んでいくラクダの隊商にダウテが古典的名著『アラビア・
デザータ』で言った「アラビアではヒトはラクダの寄生虫である」という
句を思い出します。1939 年 4 月 1 日横山公使、中野、そして商工省地質技
師三土の三人は提供されたアラビア衣装(ミシュラハ)をまとい、
「砂漠
の豹」イブン・サウード王と会見する。非常に長身で恐らく六尺一寸余り
の「豪壮な偉丈夫で、寛やかなミシュラハはわれわれのそれとは違ひ、ピ
ッタリと板についていて、幅といひ縦といひ、正に大アラビアを睥睨威圧
する風概がある」
(ママ)と感銘しています。中野はその緒言において、
「大
東亜共栄圏内には億を超える回教徒が存在する。しかも我々とこれ等回教
徒の真の心からなる共存共栄は、その背景たると同時に焦点たる西南アジ
ア方面の理解と、この理解を基礎とする諸関係の密接化なくしては、決し
て満足にこれを達成し得ざるもの……」と強調しています。
ちなみに、それから 30 有余年たってからのこと……1970 − 71 年ごろ、
奇しくもこの同じワーデ(涸谷)で……このトゲの灌木「サナム」ばかり
生い茂り、四輪駆動車でさえも砂にはまったらなかなか抜け出せない難所
で、日本の女性−文化人類学者 MK が博士論文を書くために「遊牧民の定
着化過程」についてのフィールドワークを行っていました。当初「砂もて
追われる」ような辛い経験を重ねた後、この研究者はワーデの社会開発セ
ンター所長の協力を得て調査ネットワークを広げていきました。ちょうど
同じころ、中央ネジド地方の「空白地帯」
(ルーブ・ル・ハリ)で米国人
̶ 78 ̶
サウジアラビアと日本の友好関係の回顧と展望
男性研究者 D.P. コールが遊牧アラブの一部族アール・ムッラを調査し『遊
牧の民ベドウン』という著作を出版していますが、この MK さんは半遊牧
民の移動・定着の可逆的過程とその動因をインタビュー方式で確認し、ワ
ーデ地域の水利、土地所有、農産物市場出荷システムから結婚、出産、教
育、離婚、埋葬にいたる生活実態を丹念に調べ上げた結果をとりまとめ、
米コロンビア大学と東京大学に博士論文として提出しました。この研究調
査(
『The Bedouin Village』1977 東大出版会)はヴェールに包まれていた
アラビア半島の半遊牧民の生活の全容を明らかにしたものとして内外で注
目されるところとなりました。しかも MK さんはコールと違って遊牧民の
重要な半分、すなわち女性の日常生活にも直接触れて遊牧民訛りのアラビ
ア語で心を通わせるという大きな利点があったのです。この MK さんは、
実は、私の伴侶であり、中東研究のパートナーである片倉もとこの若き日
の姿でありますので、ちょっとスペースを頂きました。
3.公正な中東問題の解決と民主化への動き
第二次大戦後の中東地域は 1947 年の国連総会によるパレスチナ分割決
議採択以来、四度にわたる中東戦争を繰り返し、さまざまな中東和平の努
力にかかわらず、残念ながら現在に至るまでパレスチナ問題は公正な解決
を見ていません。1973 年第4次中東戦争勃発時、アラブ側の緒戦優勢がイ
スラエルによって巻き返されるや、サウジアラビア等アラブ産油国は軍事
大国エジプトと提携して『石油戦略』を展開しました。経済大国日本は「非
友好国」として毎月アラブ産の輸入石油カットを受けることとなりました
(いわゆる「石油危機」
)
。同年 11 月 22 日二階堂官房長官談話に基づく中
東政策の積極的転換(平和的共存の前提で、イスラエルの全面撤退要求、
そして状況によっては、外交関係の見直し)が、年末の三木(武夫 当時
の副総理)ミッションのサウジ訪問の機会にファイサル国王の評価される
ところとなりました。
私はこのミッションに同行し三木特使のファイサル国王との会談に通訳
として立ち会いました。アブドル・ワハーブ儀典長、オマル・サッカーフ
外務大臣らが陪席。馥郁たるウード(伽羅)の香り漂う接見室で長身の国
̶ 79 ̶
王はゆったりと三木特使と眼を合わせながら、会談が行われました。三木
特使は、アラブ産油国の供給カットの措置は、日本の先進工業国としての
発展に多大の打撃を与えるのみならず、日本が経済援助を行っているアジ
ア発展途上国に悪影響を及ぼし、ひいては共産主義の浸透を招く恐れがあ
るといった、なかなか説得力ある論旨を展開し、ファイサル国王はうなず
きつつ聞いておられました。国王は米国の後ろ盾による、イスラエルのア
ラブ領土占領を非難し、特に自分が生きているうちに聖地エルサレムが解
放され、イスラームの第 3 番目の神聖なるモスク、エル・アクサーで自分
がお祈りできることを望んでいると述べられました。淡々とした表情の中
にも、中東問題の早期解決に対するご熱意がひしひしと伝わってきたこと
を昨日のように思い出します。
その年のクリスマスには日本は友好国として認められ、石油の流れは正
常化されました。これより前、
(2)で述べた通り、1971 年に実現したフ
ァイサル国王の訪日の機会に、採択された日サ共同声明において早くも、
わが国は、イスラエルの全占領地からの撤退とパレスチナの民族自決権を
明確に支持しており、これが二階堂官房長官談話の布石となったわけです。
あれから 30 年以上経過した今日、パレスチナ選挙の結果、従来 PLO の
主導権を握ってきたファトハがハマースに敗れ、中東和平の視界ゼロにな
っています。しかし、さし当たり、人道援助のチャネルはオープンにし現
実的に停戦(
「ホドナ」
)が維持され、長い目でみて解決の糸口が見出され
るよう国際社会は祈っています。このため、もちろん、
「カルテット」
(米・
EU・UN・ロシア)の努力が求められ、また日本の応分の貢献も重要ですが、
サウジアラビアの賢明な指導力と影響力、そして周辺アラブ諸国全体の総
合的外交力に期待したいと思います。
2003 年 3 月、米国主導の下、多国籍軍による武力制圧によりサッダーム
政権が倒され、民主化ドミノがイラクからパレスチナ、さらに中東イスラ
ーム地域全般へと波及することが予想されます。このようなグローバルな
民主化の風潮を背景に、サウジアラビア政府は国民の要望を受け、国内の
諸改革を進めていく姿勢を明らかにし、シーア派や女性の参加する「対話
のための国民集会」を企画し、地方議会選挙の実施などの改革に取り組ん
̶ 80 ̶
サウジアラビアと日本の友好関係の回顧と展望
でいるところと理解しています。2005 年 2 ー 3 月にはリヤード州および東
部州などにおいて地方議会が実施され、更なる進展が期待されています。
ただ、欧米民主主義の機械的適応は、伝統的イスラーム文明圏においては、
接ぎ木のように必ずしも成功しない…占領下の日本の体験を想い起してみ
ても、ただ押し付けることでなく、長い眼での現実的な叡智が必要とも思
われます。
4.経済技術協力関係の強化 1955 年の外交関係樹立以来、政府レベルの良好な関係が強化される一方、
民間レベルの親善関係も進捗しました。
日本のアラビア石油(株)はサウジアラビア政府から石油開発利権を獲
得し、サウジ・クウェート中立地帯沖合で海底油田を掘り当て、40 年余に
わたる操業を続けました。1975 年に両国間に経済技術協力協定が結ばれ、
これに基づいて 1976 年に設置された合同委員会は、以来、継続的に経済、
エネルギー、文化など幅広い分野における両国関係を討議してきました。
この協定の背景としては、天然資源のきわめて乏しい日本は教育と技術
訓練の普及によるヒト造りを軸に近代化を推進してきた経験があること、
他方サウジアラビアはエネルギー資源・オイルマネーに恵まれているもの
の、均衡のとれた経済発展のためにマンパワーの育成、なかんずく若い世
代の技術者養成が緊急に必要とされるとの共通認識に基づき、互いに協力
しようということで一致したものです。
技術・教育分野における日本の協力のシンボルとして 1993 年に開校し
たリヤード電子技術学院では、多くの日本人専門家がサウジアラビア若年
層の技術協力に取り組みました。
1997 年訪サした橋本龍太郎首相は、ファハド国王、アブドッラー皇太子
をはじめとする政府首脳と会談し、良好関係強化のための「21 世紀に向け
た包括的パートナーシップ」構想を提案してサウジ側の賛同を得ました。
この構想は翌 1998 年のアブドッラー皇太子訪日の機会に「日本・サウジ
アラビア協力アジェンダ」として正式調印され、2003 年にジェッダに開設
̶ 81 ̶
された「自動車整備技術者訓練所」等の両国官民合同プロジェクトとして
具体化されています。
また、往時日本企業はさっぱり投資をしてくれない……投資を渋る……
としてサウジ側からよく苦情が出されましたが、今は様変わりです。日本
からサウジアラビアへの投資は、最近のサウジアラムコと住友化学工業に
よる石油精製、化学コンビナート建設プロジェクトの例に見られるように
大型プロジェクトが多く、投資額は米国に次いで第二位を占めています。
他方、サウジアラビアからは、サウジアラムコの昭和シェル石油への資本
参加が注目されます。
5.文明間対話
『文明の衝突』
(サミュエル・ハンティントン 1993)の課題が全世界に投
げかけられ、さらに 2001 年同時多発テロ(9.11)の勃発以来、世界主
要文明・宗教間の対話と相互理解の必要が叫ばれ続けています。
日本でもここ数年にわたり、文明間の対話、特にイスラーム世界との対
話と相互理解を求めて、ハイレベルの政治指導者、学識経験者が貴国をは
じめ中東イスラーム圏諸国に毎年派遣され、カウンターパートとの間に緊
密な交流が行われています。2000 年3月、河野外務大臣(当時)の発意で
外務省に「イスラーム研究会」が組織されたのが皮切りでした。
イスラーム世界の人々は、普通の日本人は気づいていないけれど、日本
人に対して特別の親近感を持っているといえます。日露戦争においてアジ
アの小国日本がロシア帝国を破ったときにイスラーム世界が受けた衝撃…
…広島・長崎の悲惨な体験が、植民地支配と侵略の犠牲となった彼らの受
難とオーバーラップしているのです。日本をよく知るイスラーム教徒は、
日本人の価値観や品格がイスラームと共通するところが大きいと口を揃え
て言います。また日本の経済発展のパターン、特にその秘訣―教育と人造
りのありかたを学ぼうとしてきました。日本がイスラーム諸国民と対話を
試みる場合に、この彼らの特別な親近感が日本の貴重な資産だということ
を忘れてはなりません。
平成 16 ∼ 17 年度版外交青書の「アラブ・イスラムとの対話等」につい
̶ 82 ̶
サウジアラビアと日本の友好関係の回顧と展望
ての記述によれば、
「対中東外交を展開するにあたっては、中東諸国の理
解と支持を得ることが重要であり、そのためにはこれら諸国との間で相互
理解の基盤を構築する必要がある」とし具体的には、2004 年 9 月に「日・
アラブ対話フォーラム」第1回会合を東京で開催し、
「中東文化交流・対
話ミッション」を中東諸国に派遣したのに加え、10 月には東京で(イスラ
ム世界との文明間対話セミナー)
を開催しています。また 2005 年 9 月には、
日本政府は国際交流基金(独立行政法人)の協力の下に日本と中東諸国の
文化交流・対話の促進を目的として有識者 5 名からなる第 2 回対中東文化
交流・対話ミッションをヨルダン、イランに派遣し、2003 年の第 1 回に続
き各国有識者とのシンポジウムを開催するとともに、各国の要人との意見
交換を行っています。
このミッションに参加した有識者は、
今後の対中東文化政策に関する「報
告と提言」を作成し小泉総理大臣に提出しました。また、外務省は日本に
おける中東・イスラーム諸国の文化・社会への理解を促進するため、国際
交流基金と地方自治体と共催して中東・イスラーム理解セミナーを本邦各
地で催しています。このセミナーでは、中東・イスラーム諸国の駐日大使
および日本側有識者の講演のほか、参加者との質疑応答、中東諸国からの
留学生によるコメント発表と懇談が行われ、中央・地方を問わず日本人の
中東・イスラーム理解を深める努力が続けられています。
最近のデンマークの不祥事件についても、日本のメディアは、言論の自
由を標榜としつつもあくまで良識と責任の限界内で……と主張し、特に世
界宗教の教祖ムハンマドに対する尊敬と礼譲を守ることに留意しているこ
とはご承知の通りです。
また、最近日本人映画プロデューサー・監督の手によってイスラーム文
化と生活の実際を映像によって紹介しようとするまじめな企画も行われて
いると聞いています。さらに、
今年夏、
京都で世界宗教者平和会議(WCRP)
第 8 回世界大会が開催され、
「あらゆる暴力を乗り超え、ともにすべての
命を守るために」を目標に真剣な交流が行われる予定とうかがっています。
アラブ イスラーム学院が日本人のアラビア語習得を通じてイスラーム理
解をさらに深めていく役割を果たしておられることを祝福するとともに、
̶ 83 ̶
さらに今後のご発展をお祈りいたします。
後記
草の根の友情―――ザムザムで治った結石
絶対禁酒・男女隔離の閉鎖社会というサウジアラビアのイメージが一人歩きしていた、
アブラかアラブかとも言われた 1960 ∼ 70 年代の日本。そのころ私はジェッダの日
本大使館に勤務した。マシュラビヤという透かし窓が張り出した伝統的町並み。狭い
路地裏を水売りが派手な声を上げ、真鍮の容器をカチャカチャ、カスタネットのよう
に響かせて喉の渇きを誘う。突然ロバの絶叫調の鳴き声が街角にこだますることもあ
る。それが毎年 100 万人からの巡礼が世界の津々浦々から集まる港町ジェッダ。
当時、サウジアラビア王国は石油危機以前、いまだ無償援助になじむ発展途上国の
部類に入っていた。私の手始めの仕事は日本政府から派遣されていた地質調査団の非
石油鉱物資源探査のために「金属分光器」を引き渡すことだった。立ち上がる猛烈な
湿気の中、この分光器を載せた日本国籍の貨物船をジェッダ港に迎えるところから現
物の通関・引き渡しまで汗だくだくの一日、初めてのアラビア・サービスで達成感を
持った瞬間だった。しかし、この受け入れ手続きの無理がたたったのか、私は急性腎
臓結石に苦しむようになり、しばらく休養せざるをえなくなった。そのときメッカの
名泉ザムザムの水をお見舞いに運んできてくれたのは、家内の研究フィールドの遊牧
民の友達たちだった。ジープでワッと家にやってくると私は女性群の真っ黒いヒジャ
ーブ(べール)とブルグア(飾面)から逃れて別の部屋に隠れる。男女隔離は絶対原
則――元来は弱き性である女性を男性の欲望から守ることに起源があるらしいが、私
には自分が女性の群れから逃げ回っている「弱い性」のようにおもわれてきた。
2003 年 1 月、久しぶりにサウジアラビアを訪れ、家内の調査村ワーデ・ファトマ
に同行した。かって砂塵にまみれつつジープですら砂の道に陥没することを恐れなが
ら向かって行ったのとは大違い。立派なアスファルト道路がワーデの奥まで整備され
ていた。変わらないのは、温かい村人の人情である。あの時病床に臥せっていた私の
見舞いに来てくれた元遊牧民の友人も会いにきてくれた。相変わらず、昔のように砂
漠の薬草を煎じて飲め、ザムザムの水は効くよ……などと、私どもを相手にひとしき
り話していった。私は 30 年前に今風に言えば、オルタナテブ・メデシン(統合治療)
の恩恵を早々と受けたわけである。
̶ 84 ̶
サウジアラビアと日本の友好関係の回顧と展望
著者略歴
片倉 邦雄
Kunio Katakura
1960 年の外務省入省以来、駐アラブ首長国連邦、イラク、エ
ジプト大使などを歴任。現職は日本イスラム協会常任理事,中
東経済研究所理事、石油公団参与、同経営諮問委員会委員 、
日本大学非常勤講師、
(社)ジャパン・インターカルチャー(日
本国際青年文化協会)副会長 81A21 世紀イスラーム研究会 代表幹事。著書に『人質とともに生きて』
(毎日新聞社)
『トン考
─ ヒトとブタをめぐる愛憎の文化史』
(アートダイジェスト)
など。
̶ 85 ̶