その4

「煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、
大悲、倦きことなくして
つねにわれを照らしたまふといへり」
煩悩が眼を障えて恵みの光をみることができなくとも
如来の大悲は、あくことなく、つねに我が身を照らしたもう、と、説いています。
おはようございます。
ただ今、頂きました御讃題は正信偈の源信和上の教えを、親鸞聖人が讃嘆された御文で
ございます。訳しますと「私たちは、煩悩で目を覆われているので、わからないかも知れ
ないけれど、如来さんの大慈悲は一瞬たりともこの私を見放すことなく、ずーっとこの私
に降り注がれているのだ」となります。たいへんありがたい一句です。
浄土真宗はご承知のように阿弥陀如来一仏であります。阿弥陀さんを本尊としてお参り
させていただくわけです。
昨日は「阿弥陀」という仏は「仏身は仏心なり」
、仏さんのお姿はそのお心を映し出して
いる。だから、阿弥陀の心はお慈悲の世界であり、そのお姿が、御木像であり、御絵像で
あるということをお話させていただきました。今日はこの如来さんの「お慈悲」というこ
とについてもう少しお話をさせていただこうと思います。
■幽霊の掛け軸
石川県の松任市という町に本誓寺というお寺があます。ここは幽霊の掛け軸があること
で有名なお寺です。テレビなどでも出たりしておりますし、そこのご住職も三年ぐらい前
に本山でお話なさいましたので、そのことをお伝えされた布教使さんもおられるかと思い
ます。
日本画で幽霊の絵としては最も有名な方に円山応挙がおられます。
円山応挙はこの近くにお住まいだったのですね。堺町、といいますから、このもうひと
つ東側の通りです。それを四条通りに出てちょっと右に曲がったところに、新日本証券と
いう会社がありますが、その前に「円山応挙の生家の跡」という看板があります。実は私、
昨日発見したのです。昨日本山の帰り、四条京阪までぶらぶら歩いていましたら、円山応
挙がここにおられた、という札が建っていました。
応挙は江戸時代の半ばに活躍されました。当時は「狩野派」という画家のグループが非
常に有名だったのですが、その「狩野派」で、円山応挙の先生にあたる方で石田幽汀とい
う方がおられます。
本誓寺にある幽霊の掛け軸はその石田幽汀の作だとされているのです。日本画で幽霊を
描けば大家とされる円山応挙が有名で、
その先生の作品ですから、日本画の幽霊としては、
本家本元の幽霊の作品とされるわけです。
そこのお寺にお参りに行きましたら、
「みんさん、幽霊って見たことありますか?」と住
職がお尋ねになるのです。
みなさんはどうですか?
幽霊を見られたことありますか?
火の玉を見たとか、そう
いう方はおられるかもしれませんが、
「死んだおじいちゃんが夢枕に立った」とか、そうい
うのではなく、例えば「幽霊を見た」というのは、本物かどうか、これは確かめようがな
いわけですね。中には「わたしが見ました」、と。
「この目で見たから間違いない」、と言う
方もおられます。(「あんたがその目で見ているから間違いがあるのや」と言いたくなる場
合もありますが)
人間の目、というものはいい加減なものです。みなさんの中には白内障の手術をされた
方がおられますか?
今は便利なもので、うちの御門徒さんの中にも、「病院に行ったら、
もうほんのちょっと二,三日入院して手術したらもう退院できるし、スカーッと見えるよ
うになる」と言う方がおられます。技術が進んでいるのですね。御門徒さん、七十四,五
才のご主人が白内障の手術をされて、帰ってこられたのです。そうしたら奥さんの顔をじ
っと見て、「おまえ、ぎょうさん、シワがあったんやな」って言われたそうです。
「そんな
ことやったら、手術なんか、せんかったらよかったわ」と言って奥さんがぼやいておられ
ました。
同じことで九十四才のおばあちゃんと同居している七十四才の娘さん。九十四才のお母
さんが手術されたらしいですわ。そうしたらやっぱり帰ってきて、その辺りの桟をサッと
触って、
「おまえ、なんちゅう掃除の仕方をしてるねん」、言うてえらい怒られたらしいで
す。
人間、「この目で見ているから大丈夫」、と思っているけど、案外いい加減なもので、今
まで見えなかったら気がつかないわけですけども、よく見えるようになると、余計なとこ
ろまで気がついて、素直にきれいに見えるようになった、と喜んだらいいのですが、
「どこ
が汚い」
「シワが増えた」とか、余計なことは言わんでもええと思うのですが、まあ、「こ
の目で見た」と言っても、
「みんなで一緒に幽霊を見た」、という話はあまり聞いたことが
ないので、実際にいるのかどうかは分からないわけです。
■幽霊画の三つの特徴
さて、日本画では幽霊の絵には三つの特徴があるそうです。
一つは髪の毛を後ろになびかせている、いわゆる「後ろ髪を引かれている」こと。
二つ目に手を前に垂れること。
三つ目は足がないこと。
こう描くと幽霊らしくなるわけです。ヨーロッパではフランケンシュタインなどはトン
トントンと、歩いてきますから足がありますが、日本画の幽霊には足がありません。
この三つの特徴ですが、それぞれいわれがあってそういう姿になっているらしいです。
一つ目の「髪の毛を後ろになびかせている」のは、先ほど申しましたように、後ろ髪を引
かれている、という訳です。十年、二十年前のことを今さらのごとく、
「あの時にあんなこ
と言わなければよかった」
、今だとバブルがはじけていますから「あの時、証券会社に進め
られて、株に手を出さなければよかった。えらい損してしもた」とかですね。何かあるご
とに昔のことを悔やむ姿です。それとは逆に、いつまでたっても昔の栄光にすがっている
姿。孫と話をしていても、
「おじいちゃんの若い時は」
、「おばあちゃんの若い時は」、たん
びたんびに言う。これもやっぱり過去に縛られている姿だと思います。
これに対しまして、
「手を前に垂れている」のは将来、未来を取り越し苦労する姿だ、と
されています。まだこれから起こりもしないことを今からああでもない、こうでもない、
と詮索するわけです。最近ですと「介護保険」というのが来年からできます。そうすると、
今でも国民年金掛けるのも大変なやのに、介護保険掛けたら、生活はどないなるのやろ。
かといって自分が老後、年老いた時にはちゃんと保険で面倒みてもらえるのやろうか。ま
だ起こりもしないことが、気になって仕方がない。
親が達者な間から、「親が死んだら誰を呼ばんとあかんのやろか」とか、親の法事でも、
まだ来年か再来年やのに、
「お供養はどんな物をしたらええのやろうか」とか、まだ起こり
もしない、先のことを今からどないしょう、どないしょう、と悩んでいる姿ですね。子ど
もや孫がちゃんと世話してくれるかな? 考え出したら全くあてにならないものですから、
「今ある貯金はまだおろしたらあかん、しっかり持っておかんとあかんな」とか、将来、
未来のことをどないしょう、どないしょうと詮索する姿です。
「後ろ髪を引かれて、過去に縛れて」、
「将来、未来を取り越し苦労する」。そして肝心の
今、
「今」はどうか。今、しなければならないことに地に足が付いていない。だから3つ目
には「足がない」のです。幽霊の足がないのは「今」を生きていないからです。今、本当
にしないといけないことを考えた時、「あの時はこうやった、どうやった」
「明日はどうい
しょう、あさってはどういしょう」とかは思わないはずです。本当に今しなければならな
いこと、私の命が生きているのは今この瞬間しかないのですから、今という、そこになか
なか、地に足が付いていない。だから幽霊には足がない。
幽霊の姿としてはこうなっているわけです。
そして、口を開いたらこう言うわけですね。
「うらめしやー」
。若い人を見たら、
「うらめ
しい」。健康な人を見たら、
「うらめしい」
。円満な家族、円満な家庭や、と聞くと「うらめ
しい」と。
「そんな幽霊はいませんか?」と、ご住職は言われるのですね。そうするとみなさんの
回りの人間をあらためて見てもらったら、幽霊ばっかりのようです。私も幽霊、あなたも
幽霊、です
要するに「人間の有り様」を教えてくださっている。だからこのような姿になって、代々、
言い伝わっているのではないか、ということをそこの住職が教えてくださるのだそうです。
実はここまでの話は、西本願寺の布教使さんにお聞きしたのです。面白い話だなぁと興
味を持ちまして、一回本物の幽霊の掛け軸を見せてもらいたいなと思っていました。
実は私の家内が富山県の生まれでして、もう三年ほど前になりますが、家内がゴールデ
ンウイークに富山県に子どもを三人連れて帰っておりました。私は連休の間、ずーっと法
事がありましたので、連休が終わってから家内と子どもを迎えに行ったのです。車で夜中
に大阪を出まして、石川の金沢あたりまでだいたい二百五十㎞ぐらいですか。夜中にずー
っと走って、明け方に金沢西インターチェンジで降りて隣の松任市まで行きました。駅前
で地図を開いて本誓寺というお寺を探しました。まだ朝が早かったものですから、駅前で
暁烏敏先生の銅像を見たりして過ごしました。この暁烏敏先生というのは、明治時代、東
本願寺に清沢万之さんという方がおられまして、
「明治の親鸞」と言われて近代的な真宗の
教えを整備された有名な方なのですが、その方のお弟子さんで暁烏敏さんという方がおら
れました。この方のお生まれが松任市で、駅前に銅像が建っているのです。銅像に暁烏敏
先生の有名なお言葉で「十億の人に十億の母はあらんも、我が母にまさる母はありなんや」
と刻まれてありました。明治の初頭の方ですから、当時地球の人口がだいたい十億人ぐら
いだ、と予想されていたわけですね。今は地球上の人口は五十六億人です。どんどん増え
てとんでもないことですが。当時、十億人の人間が住んでいるとすると十億の人には十億
のお母さんがいるのだ、と。そうやけど我が母にまさる母はありません。という大変、母
親に対する思いの強い先生で、有名なお言葉ですが、それが駅前の銅像にも碑文が彫られ
ていたわけです。
そしていよいよ本誓寺へ行ったわけですが、六時半ぐらいでしたが、朝のお勤めの最中
でした。大変大きな本堂のお寺でした。私は衣だけ持って来ましたので、シャツの上に衣
を羽織って、お参りさせてもらい、本堂の下陣に座ってお経さんを聞いていました。
そうしたら朝のお勤め終わって、ご住職が下陣まできてくださって、
「どこからお越しに
なられました?」とおっしゃるで、
「大阪から来ました。ここには石田幽汀作の幽霊の掛け
軸があるとお聞きしていましたので、一度見せてもらいたいな、と思って寄せていただい
たのです。ただし虫干し法要の時しかお出しやないとお聞きしていますので、とりあえず、
お寺の場所だけでも知って、本堂を拝ませてもらおうと思って来ました」と言いましたら、
実はちょうどいいタイミングで、ある大学の先生がその掛け軸をご覧になりたいという、
お申し出があったので、今日は応接間の方に出しているのです、とおっしゃった。本当に
いいタイミングでした。「じゃあ、せっかくお越しになったのでご覧になりますか」、とい
うことで応接間へ通していただきました。
そうしたら本当に四十㎝の長さ、高さが六十㎝ぐらいの掛け軸なのですね。それに大変
鋭い目をした幽霊の絵が描いてありました。
先ほど申しました、
「三つの特徴がある、ということを私はある布教使さんからお聞きし
ていたのですが、それはそうなのですか?」とお聞きしたら、
「確かに私もみなさんにそう
いう説明をしていますので、一応うちのお寺ではそういう言い伝えが代々ございます」と
おっしゃって、「もう一つ特徴があるのですよ」とおっしゃったのです。
何かと言いますと、
「三方向正面の図」と言いまして、この幽霊が大変怖い顔で睨んでい
るわけですが、右から見ても幽霊と目が合う、正面から見ても幽霊と目が合うし、左から
見ても幽霊と目が合う。そういう画法ですね。
京都で、この辺りですと泉涌寺の涅槃図などがやはり「三方向正面の図」で、どこから
見てもお釈迦さんの涅槃図と目が合う、と。そういう描き方ですね。
それでまあ、どこから見てもグッとこう睨まれている。
「あんたはよろしいな。なんでわ
たいだけ…」
というような顔をして、
幽霊が睨んでいるわけですね。
「あんたはよろしいな。
うらめしや…」、という目で見ているわけですが、つくづく「なるほどなー」、と思いなが
ら、その幽霊の掛け軸を拝見しました。
それからそのご住職がお寺の縁起、いわれの書いたパンフレットを一冊くださいました。
帰って後で見ますと、その中に一つエピソードが紹介されていました。大変大きなお寺で、
由緒があり、いろいろな宝物があるのですね。これらは七月の二十四日から二十七日の虫
干し法要の時だけ全部陳列されて、石川県下、さらにもっと遠方からもお参りされ、その
宝物をご覧になる。
その宝物展の時に、婦人会の役員さんが宝物の説明係についてくださるわけですね。
ある日、あるおばちゃんが幽霊の掛け軸の所へ来て、ピタッと足を止めて、じっとこの
幽霊の掛け軸をご覧になって、それでボソッと、
「この幽霊は若い幽霊やね」おっしゃった
のですね。説明係の奥さんが、
「おばあちゃん、なんで若い幽霊、って分かりますの?」と
聞いたら、おばあちゃん、
「目を見たら分かります」、こうおっしゃった。もう一回説明係
のご婦人が「おばあちゃん、なんで目を見ただけで、若い幽霊、ってわかるの?」と聞き
ますと、おばあちゃんは、
「そやかて、ワシとこの嫁がこの幽霊と同じ目をしていつも私の
こと睨んどる」。おっしゃるのですね。
これはきっとおばあちゃんが家を出たり入ったりするたびに、そこのお嫁さん、
「年寄り
は気楽でええな、またどこかに遊びに行かはるのやわ」、ということでしょうか。
「いつも
そんな目で睨まれている」、と言われるのです。
また二,三日しましてね、今度は別のおばあちゃんが、お参りに来られた。やはり「三
方向正面の図」やから、ふっと立ち止まるのですね。どこかで幽霊に見られている、とい
う気がして。それでこのおばあちゃんがまた、じっと、こう見て、ボソッと独り言のよう
に、「ワシもこんな目で若い者のこと、見ているのと違うやろか」、おっしゃった。
同じ幽霊のまなざし一つとってみても、
「自分はいつもこんな目で見られているのだ」と
いう受け止めがあるかと思うと、また逆にひるがえって、
「自分もこういう目で、人のこと
を見ているのではないか」というと受け止めもあるわけですね。
「あの人はええな、この人はええな」
、本当の自分の命をいただいたことをコロッと忘れ
て、都合の悪いことはあれが悪い、これが悪い、何がつまらん、そんな目で見ているので
はないか、というエピソードが紹介されていまして、
「なるほどなー」と思ったわけでござ
います。
■如来の慈悲
それでは私たちはどうでしょう。いつも誰かに対して恨み、つらみの目で見ている、も
しくは誰かと比べないことには自分のいる場所が分からない、勝った負けた、早い遅い、
損した得した、優れているか劣っているか、若いか年とっているか、本家か分家か、いつ
も何かと比べないことには自分の置かれている場所が分からない、我々はそういう迷いの
中にいる幽霊のような存在です。
このような私たちに対して、如来さんはどんな目で見ておられるか、それが「お慈悲」
という言葉だと思うのです。
私は「お慈悲」という言葉は、
「あなたはあなたのままでいいですよ」、
「どんなことがあ
ってもあなたの人生をむなしく終わらすことのないように、私がいます」、というように救
いをといているといただいております。しかし、人を救おうというのに、この「慈悲」の
「悲しみ」という字の存在がもう一つ私には分からなかったのですね。人を救うのであれ
ば、
「喜び」とか、
「安らぎ」とか、
「楽しみ」であるとか、そういう言葉ではないのかな?
と思っていたのです。けれども仏教では「慈悲」と申しますね。
悲しみを通して救われるということはこんなことかなと思ったことが以前にありました。
私には子どもが三人いますけども、今は小学校三年になった子どもがまだ幼稚園の年長
の頃、家内も働いていましたので、ちょうど新学期の頃が忙しくて、私は寺で、どちらか
というと朝は家にいますので、女房が出かけた後、子どもの用意をするのが係でした。新
学期が始まってすぐのことでしたが、ある時、子どもが帰ってきて、しょぼんとしておる
のです。
「どうしたんや?」って聞いたら、
「忘れ物してん」と言うわけです。
「忘れ物ぐら
い、かまへんやんか」と言って、
「なにを忘れたたんや?」と聞いたら、「名札、忘れた」。
新学期そうそうで、先生も変わっているし、友達も変わっている。
「名札忘れた」か、
「そ
うかそうか、明日は忘れものないように気をつけなあかんで」と。私はまだ子どもを責め
ているわけですね。
あくる日子供が帰ってきたら、またしょぼんとしているのです。
「どうしたんや?」と聞
いたら、ムスッ、と黙っているので、
「ひょっとするとまた忘れ物したんか?」と聞いたら、
「お道具箱」と言うのです。保育園、幼稚園の子どもはお道具箱を持って行きますね。
「お
道具箱」
「お道具箱って、今朝、お父さんが、持って行きなさいと言って渡したやろ?」と
言ったら。「お道具箱、なかみ入ってへん」。
父親とは本当にええ加減なもんで、「お道具箱持ってこい」
、と言われたら箱だけ持たせ
たのですわ。そうしたらその日は幼稚園で、
「みんな、お道具箱の中に、はい、のりが入っ
ていますか? はい、のり。持っていますか?
はさみ入っていますか?
色紙入ってい
ますか?」。 先生が聞かれるのに、うちの子ども、お道具箱開いたら、中に何も入ってへ
ん。「それが寂しかった」、と言うのです。これはかわいそうなことをしたな! と思いま
した。二日続けての忘れ物で、保育園が始まってすぐにそれでした。
その時にうちの次男坊、快君っていうのですけどね、
「快君、すまん。ほんまにすまん。お父さんが悪かった、お父さんが悪かった。ごめん
な」、と言ったら、何かそれまでずっと胸のつかえがあったのでしょうね、それがとれたみ
たいで、ボロボロッと子どもが大粒の涙を流しましてね、それまでは泣かなかったのに、
「お父さんが悪かったな」と言ったとたんに泣きだしたのですね。
その時の思いは、子どもの悲しみや辛さに親が本当に寄り添う思いでした。その悲しみ
は「お父ちゃんが悪かった」、という悲しみであり、そこに子どもにとってみたら一つ救わ
れる思いがあったのではないかな、と思いまいした。
また、ある障害を持った子どもさんの話ですけれども、学校で障害があることを回りの
友達になじられたのですね。その日、家に帰って、娘がじっとしている。お母さんが「何
かあったのかな」、と思って聞こうとするのですが、なかなか口を開こうとしない。いろい
ろ話をしているうちに、どうも障害のことをなじられたみたいな話をしたのですね。
次の日、お母さんは学校に行って、学校の先生にそのことを告げるわけです。それで学
校から子どもが帰って来るのを待って、娘が帰ってきたら、
「今日、おかあちゃん、学校へ
行って昨日のこと、ちゃんと先生に言うといたで」、と言ったら、子どもがまたしゅん、と
した泣きそうな顔をするのですね。
「どうしたんや。せっかくお母ちゃん、先生に言うてき
たのに」と言ったら、
「私はお母ちゃんに学校へ行って、先生にそのことを言うてほしいの
やない。私は一緒に泣いてほしかったんや」と、子どもが言うのですね。
人からなじられた、いじめられた、その思いに誰が悪い、かれが悪い、というのではな
く、親に一緒になって、私の身に寄り添ってほしかったんや、そういうことを子どもさん
がおっしゃって、お母さんが「私が間違っていました」こんなふうにおっしゃったお話を
お聞きしたことがございます。
この「大悲」という言葉ですが、私は大谷大学の学長をされた金子大栄先生のある書物
を読みまして、大変感銘を受けたことがあります。
「大慈悲とはいかなるものであろうか。大慈悲とは罪を引き受けるということでありま
しょう。ワシが悪かったのだ、ということに涙を流して泣く、そのほかに慈悲はないので
あります。我々はどうして大きくなってきたか、といえば、親たちがどうあろうとも子ど
もが悪いのではない、私の責任である、という感覚を持って育ててくれたからでありまし
ょう。子どもの難儀は自分の至らぬからである。ということを感じながら、どんな難儀に
も堪え忍んでくださったおかげで自分は育ったのである」こういうふうに書物の中で紹介
されていました。
大慈悲とは罪を引き受ける。「わしが悪かった」、子どもはどうであろうと、親が、わし
が悪かったのだ、というふうに子どもの罪を引き受けてくださる。
「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし」。
仏さまはどんなことがあっても私たちの罪をみんな引き受けてくださる。この身に寄り
添って引き受けてくださる
ですから、今日の御讃題に頂きました。
「煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、
大悲、倦きことなくして
つねにわれを照らしたまふといへり」
親の場合は常に子どもを見ることができていないわけですね。ある時は自分の都合で誉
めているかと思うと、ある時は自分の都合で子どもの良いところも見ずに、一方的に頭ご
なしに子どもを怒ったりもしている。そういう親の有り様、親でありながら、我が子すら
見ていなかった、我が子すらちゃんと救うことができなかった、という思いに知らされる
ことであります。
「如来の大慈悲は常に我を照らしたもう」、この言葉に大変多くの方が共鳴され、浄土真
宗に深く帰依された、ということもお聞きしております。
如来さんのまなざしは、大きなお慈悲のまなざしです。私たちのまなざしは幽霊のよう
に人と比べて恨んだりつらんだりしているけれども、仏さんは「お慈悲のまなざし」で私
たちを見てくださっているのです。
最後に中川セイソン先生の「まなざし」という詩がございます。
まなざし。
まなざしに溶ける。
溶ければ私なし。ない私に話なし。
ただまなざしに溶ける。
溶けてあなたになる。
まなざし。まなざしに溶ける。
如来さんのまなざしに溶けるのだ。
溶ければ私なし。
「わしが、わしが」と言うことはない。わしが勝った、あんたがどう
や、といつも人と比べて勝ったの、負けたのと言う必要もない。
「わしが、わしが」とがん
ばることもいらない。溶ければ私なし。そしてない私に話なし。もう言葉もいらない、と
いうことですね。言葉もいらない。言葉で言わなくても分かってもらえる世界ですね。そ
してただまなざしに溶ける。如来さんの大悲に包まれる。如来の大悲、慈悲という、お慈
悲の中に包まれる。溶けてあなたになる。この私が如来さんと同じものになっていくのだ、
と。如来と同体の身と申しますか、如来に等しい存在にしていただけるのだ。
この詩をある高校で先生が読まれたら、女の子がぽっと赤くなったらしいです。誰か彼
氏からそんな目で、彼女に対してそんな詩を読んだと思ったのでしょうか。中川センソン
先生という、仏教詩人の奈良県にお住まいで、もうお亡くなりになりましたけど、今日は
この詩を紹介させていただきまして、御法話とさせていただきます。