第十章 ボーヴォワールと女性論

第十章
ボーヴォワールと女性論
1.序
『第二の性』(1949)1において、ボーヴォワールは女性論を展開しているが、そこではま
た、さまざまな女性論が引き合いに出され、それらに対して、彼女は評価あるいは批判を
下している。
本章では、まず、『第二の性』の「序文」と「第四部解放に向かって」におけるボーヴ
ォワールの女性論を概観する。そこにはボーヴォワールの、女性論を書くに至った動機、
女に関する認識、そして、女に関する諸問題に対処する姿勢が示されている。
『第二の性』の「序文」では、エマニュエル・レヴィナス(1906‒1995)の『時間と他
なるもの』(1948)が引用されている。『時間と他なるもの』は 1946 年から 1947 年にかけ
て行われた四回の講演をまとめたものであるが、そこにはレヴィナスの、女を絶対的他者
とする女性論が語られているので、その女性論を概観する。
また、
『第二の性』はカール・マルクス(1818‒1883)の女性論を引用することで終わって
いる。それは『1844 年の経済学・哲学草稿』からの引用であるが、ボーヴォワールが使用
しているのは、コスト版(モリトール訳、
『哲学著作集』第六巻)である。このコスト版に
ついて、ルイ・アルチュセールは「いままで『草稿』はコスト版の翻訳によってしか近づ
けないものであった。
やむをえずコスト版の翻訳を使わねばならなかった人ならだれでも、
重要な細部の論述がいくつか短縮され、誤解や不正確な訳で満身創痍のこの不完全なテキ
ストが、真面目な仕事の道具として役立ち得なかったことを、経験から知っている」と述
べている2。本章では、より正確な『草稿』を読むことで、マルクスの女性論を明らかにし
たい。
2.ボーヴォワールの女性論
ボーヴォワールは、
『第二の性』、
「Ⅰ事実と神話」の「序文」において、まず、女性論を
書くに至った経緯に触れている。この主題はとりわけ女たちにとっては腹立たしい主題で
あるし、新しい主題でもない。十分に論じられたはずなのに、まだ論じられているばかり
でなく、矛盾する意見が交わされている3。
確かに、女も男と同様に人間ではあるが、こうした主張は抽象的である。すべての具体
的な人間は常に個別に状況のうちにあるというのが事実だ 4。明らかに、どの女も、自己欺
瞞なしには、その性別を超えた状況のうちにあるなどと言い張ることはできない5。ここに
Simone de Beauvoir, Le deuxième sexe, Paris : Gallimard,Ⅰ1949(1986)/folio1986(2005)・Ⅱ
1949(1987)/folio1986(2002). 『第二の性』
『第二の性』を原文で読み直す会訳、東京: 新潮社、2001 年
を参考にした。
2 ルイ・アルチュセール、
「カール・マルクス『1944 年の草稿』」(1962 年)、『マルクスのために』河野
健二・田村俶・西川長夫訳、東京: 平凡社、1994 年、270 頁。アルチュセールの「カール・マルクス『1944
年の草稿』」はエミール・ボッティジェリによる翻訳が出版されたことを告げ、翻訳のみならず、解説を
も優れたものとして称賛している。
3 S. de Beauvoir, Le deuxième sexeⅠ, pp. 11‒12/13‒14.
4 Ibid., p. 12/15.
5 Ibid., p. 13/15.
1
114
は、ボーヴォワールの現象学的な基本姿勢が示されている。
ボーヴォワールは、女とは何かと問うが、その問いに答える前に、その問いを立ててい
るのが女であることに注目を促す。男だったら、人類のなかで男たちが占めている特異な
状況について本を書こうと思ったりしないだろう 6。また、男ならば、自分のことを語ると
きに、ある性をもつ個人として自己を定立することから始めたりしないだろう 7。人類とい
うのは男であって、男は女をそれ自体としてではなく、男と比較して定義する。女は自立
した存在と見なされてはいない。女は男と比べて定義され、区別されるのであって、男が
女と比べてそうされるのではない。女は本質的なものを前にした非本質的なものである。
男は〈主体〉であり、〈絶対者〉である。つまり、女は〈他者〉である8。こう書いて、ボ
ーヴォワールは、レヴィナスの『時間と他なるもの』に言及している。
、、
ボーヴォワールは、〈他者〉という範疇は意識そのものと同じように本源的であると言
う9。主体は自己を本質的なものとして主張し、他者を非本質的なものに、客体にしたいと
思う。しかし、主体は、他者と対立しなければ自己を主体とすることができないのだ 10。
このように、ボーヴォワールは、他者を自己の存在の可能性の条件と考えている。
男どうしや集団の間では、主体と客体が入れ替わる。ボーヴォワールは、男どうしや集
団の間には相互性があるが、男女の間には相互性が打ち立てられず、男は、女との相関性
を一切否定し、女を純然たる他者と規定していると述べている 11。いくつかの例外は認め
ているものの、こうした認識は、彼女が『第二の性』を執筆するに際しての立脚点である。
女はその生理学的構造によって女であり、有史以来、女はずっと男に従属してきたが、
この従属は事件あるいは生成の結果ではないとボーヴォワールは記している 12。女が男に
従属し続けてきたのは、女が従属を脱しようとしなかったからだ。フランス革命下に見ら
れたような女たちの活動は、実質のない騒乱にすぎなかった。女たちには結集する具体的
手段が欠けていたからだ。女たちは他の女たちよりも、ある男たち、つまり父や夫に密接
に結びつけられている。一組の男女は基本的単位であり、強く結びつけられているのだか
ら、社会を男女別に二分することは不可能である 13。
一組の男女は基本的単位であり、強く結びつけられているのだから、一組の男女の間に
は相互性があるとボーヴォワールは考えている。そして、こうした相互性が女の解放を容
易にしたと想像することもできるが、実際には、強い立場にいる男は弱い立場にいる女と
の間の相互性を認めようとはしない14。
ボーヴォワールが『第二の性』を書いていた当時は、世界のほとんどの国で、女の法的
地位は男と等しくはなかった。女に権利が認められている場合でも、長い間の習慣が女の
Ibid., p. 13/16.
Ibid., p. 14/16.
8 Ibid., p. 15/17.
9 Ibid., p. 16/18.
10 Ibid., p. 17/19.
11 Ibid., p. 17/19.
12 Ibid., p. 18/20.
13 Ibid., p. 19/22.
14 Ibid., p. 20/22.
6
7
115
権利の行使を妨げていた。経済的には、男と女はほとんど別のカーストに属していた 15。
このような男女の関係のうちに、ボーヴォワールは女の側の共犯性を見て取っている。
男に従属することで、女は経済的危機のみならず、自由に伴う形而上学的危機をも免れる 16。
こうした女性の側の共犯性は、実存主義のモラルの観点から女性論を展開しているボーヴ
ォワールには容認できない態度である。
続いて、ボーヴォワールは哲学者や作家たちの、女性についての言説を取り上げている
17
。また、産業革命の結果、フェミニズムの争点が理論的なものから経済的なものに移っ
たと記している18。さらに、アメリカの黒人と女性の類似点に言及し、バーナード・ショ
ーの警句「要するに、アメリカの白人は黒人を靴磨きの地位に追いやっておいて、黒人は
靴を磨くしか能がないと結論するのだ」を引用している 19。
女を男より劣っているとする言説もこうした循環論法に陥っている。ここでボーヴォワ
ールはヘーゲルを引き合いに出す。
、、、
個人や集団が劣った状況に留められているとき、個人や集団が劣等であるのは事実で
、、、
ある。しかし、理解されなければならないのは、このであるという語の含意である。
それにはヘーゲルの言うようなダイナミックな意味があるのに、それに実体的な価値
、、、
を与えるのは欺瞞である。であるは、そうなったということであり、それは現れてい
るとおりにつくられたということである。今日、女たちはおおむね男たちよりも劣等
、、、
である。つまり、女たちの状況は女たちにより少ない可能性しか与えていない。だか
ら、問題は、こうした事態がずっと続くことになっているのかどうかを知ることであ
る20 。
多くの男たちがこうした事態が続くことを望んでいる。その理由の一つは優越感を抱け
るということである 21。一見平等に見える家族のなかにあっても、ひとたび争いが生じる
と、状況は一変する。家事も尊い仕事だと言っていた男も、
「ひとりでは食っていけないだ
ろう」というような具体的な不平等を持ち出す 22。男には、女に対する社会的差別がいか
に重大であるかが分からない。女に対して好意的である男でも、女の具体的な状況を十分
15
16
17
18
19
20
Ibid., p. 20/23.
Ibid., p. 21/23.
Ibid., pp. 22‒23/24‒26.
Ibid., pp. 23‒24/26.
Ibid., pp. 24‒25/27.、、、
Ibid., p. 25/27. 「であるは、そうなったということ」はヘーゲルについて語るときによく引き合いに
出される言葉である。サルトルも『存在と無』の p.515/484 で《Wesen ist was gewesen ist》を引用し
ているが、出典を明らかにしてはいない。なお、ヘーゲルの『論理学』の本質論には「言語は動詞の Sein
において Wesen を過去時称 gewesen のなかに保持している」という記述がある。しかし、ボーヴォワー
ルは、女はその生理学的構造によって女であり、有史以来、女はずっと男に従属してきたが、この従属は
事件あるいは生成の結果ではないと記している(DSⅠ18/20)。だが、女の生理学的構造は変わらずとも、
それを受け止める状況が変われば、女の状況も変わると、ボーヴォワールは考えている。
21 Ibid., pp. 25‒27/27‒29.
22 Ibid., p. 27/29‒30.
116
に知っているとはいえない23。
それでは、どのように問題を提起すればいいのだろうか。また、誰が問題を提起するの
か。女の状況の解明に適任なのは、やはりある女たちである。多くの女たちが人間として
の尊厳を取り戻し、さまざまな問題に客観的に対処することができるようになった。そし
て、女たちは、人間にとって女であるという事実がどのようなことを意味するかをよく知
っている24。女であるという事実が女の生のどのような点に影響を与えたのだろうか。ど
のような機会が与えられ、また与えられなかったのか。そして、より若い世代の女たちに
はどのような運命が待ち受けているのだろうか。彼女たちをどのような方向に導いたらよ
いのだろうか25。
女について書かれたこれまでの書物は、公的な利益(bien public)や全体の利益(intérêt
général)の観点から書かれてきたが、ボーヴォワールは市民の私的な利益(bien privé)を
保証するものこそが公的な利益であると考えている26。そして、ボーヴォワールが採用す
るのは実存主義のモラルの観点である。
すべての主体は投企を介して超越として具体的に自己を立てる。主体は、新たな自由
へ向かう絶えざる乗り越えによらなければ、自由を実現することはない。無限に開か
れている未来に向かって発展しなければ、現在の実存は正当化されない27。
これが実存主義のモラルである。しかし、女は、人間として自律した自由であるのに、
男たちによって、自分を〈他者〉として受け入れるように強いられる世界のなかで自己を
見出し、選ぶのだ。女にはどのような道が開かれているのだろうか 28。
では、
『第二の性』、
「Ⅱ体験」、
「第四部解放に向かって」に含まれている「第十四章自立
した女」と「結論」を見ていこう。フランス法典では服従はもはや妻の義務に属するとは
見なされていないし、女性市民は有権者になった。しかし、こうした市民の自由も経済的
自立が伴わなければ抽象的なものに留まる29 。女に具体的な自由を保証してくれるのは労
働である。女が労働を行えば、女と世界との間に、男の媒介者はいらなくなる。そして、
女は自らの投企において、自分が主体であることを具体的に明確にし、自分が追求する目
23
24
25
26
27
28
Ibid., p. 28/30.
Ibid., p. 29/32.
Ibid., p. 30/32.
Ibid., p. 30/33.
Ibid., p. 31/33.
Ibid., p. 31/34.
S. de Beauvoir, Le deuxième sexe Ⅱ, Gallimard, 1949(1987)/folio1986(2002), p. 521/597. 1804 年に
発布されたナポレオン法典によって、既婚女性は法的無能力者と規定され、夫の保護を受けるのと引き換
えに、夫に対する服従の義務を負うとされた。妻の法的無能力と妻に対する夫権は 1938 年に廃止された。
また、1944 年には女性の参政権が認められた。しかし、1965 年まで、夫は妻が家庭外で働くのを妨げる
ことができた。それ以後、法的には自由に家庭外で働くことができるようになったが、働きに出ても、女
は家内労働から解放されなかった。女はある程度の経済的自立と引き換えに、二倍の仕事を背負い込むこ
とになった。つまり、女は資本主義と家父長制の二重の重圧の下にある。現在、この状況から解放される
ために女がとっている戦略は非婚である。ジャン・ラボー、『フェミニズムの歴史』加藤康子訳、東京:
新評論、1987 年とクリスティーヌ・デルフィ、『なにが女性の主要な敵なのか』井上たか子、加藤康子、
杉藤雅子訳、東京: 勁草書房、1996 年を参考にした。
29
117
的や、自分が手に入れるお金や権利に関して、責任を実感する30。
しかし、今日の労働は自由ではない。女が働くことで自由を手に入れることができるの
は、社会主義社会においてだけである31。資本主義諸国においては、女の地位は向上した
が、それによって社会構造が根本的に変化したわけではない。女たちは経済的に抑圧され
た階級においてしか経済的自立を獲得しないだろう。また、工場で仕事をしているからと
いって、家庭でのつらい仕事を免除されるわけではない 32。
とはいえ、職業をもつことで社会的、経済的自立を見出しているかなりの数の恵まれた
女たちがいる33。経済的に男から解放されている女は、だからといって、男と同じ道徳的、
社会的、心理的状況のうちにいるわけではない。若い娘が大人の生活に入っていくときに
背負っている過去は、男の子と同じではない。また、社会から同じ目で見られているわけ
でもない34。否定的な態度をとれば、確実な代償が科される 35。ここでは服装や化粧につい
て語られていて、服装や化粧の流行は男が考える女らしさを規範にしていると、ボーヴォ
ワールは考えている。女は、自分が身なりから判断されることを知っているので、たとえ
活動的でなくても、流行の衣服を着用する。その行動は、同時に、女自身の「ほんとうの
女」でいたいという心理に支えられている。同様のことが食や住に関しても言える36。
女が完全な女でありたいと望むのは、他方の性に最大限の勝算をもって近づきたいから
であるが、最大の難問が生じるのは性の領域においてである 37。ここでは性愛が問題にな
っている。愛人関係や結婚と職業の道を両立させるのは、女にとっては男よりもはるかに
困難である。男に譲歩すれば服従の身となり、拒否すれば孤独を余儀なくされる 38。反面、
自由な二人の共同生活はそれぞれに豊かさをもたらしてくれる。そして、それぞれが、伴
侶の職業のなかに自分自身の自立の保証を見出す。自活できる女は夫婦生活の束縛から男
を解放する39。
P. 539/613 では、母性が取り上げられている。フランスでは、避妊を認めるニューウィ
ルト法が可決されたのは 1967 年、妊娠中絶法が成立したのは 1974 年であった。それまで
30
31
Ibid., p. 521/597.
Ibid., p. 522/598. 社会主義の是非はともかくとして、以下のような事実はボーヴォワールの主張の正
しさを証明するであろう。1990 年にドイツは統一されたが、ドイツの大手週刊誌『シュピーゲル』が 1991
年に旧東ドイツ市民を対象として行った調査によれば、「将来への不安」を感じると答えた女性は、男性
が 13%だったのに対して、44%にのぼった。旧東ドイツでは就業年齢の女性の 90%以上が仕事を持ち、
家庭をもっても子どもができても外で働くのは当たり前だった。女性は経済的に自立していたので離婚に
積極的になることができ、一人でも十分に子どもを育てられる制度が整っていた。子育てと仕事の両立と
いう社会主義体制下での既得権の大幅削減を迫られたという点で、ドイツ統一が旧東ドイツの市民に及ぼ
した影響は、男性よりも女性に厳しかったといえる。姫岡とし子『統一ドイツと女たち 家族・労働・ネ
ットワーク』、東京: 時事通信社、1992 年を参考にした。
32 Ibid., p. 522/598.
33 Ibid., p. 523/600.
34 Ibid., pp. 523‒524/600.
35 Ibid., p. 525/601.
36 Ibid., pp. 525‒526/601‒603. ボーヴォワールは衣食住に関して次のように記している。
「女の生活は目
的に向けられてはいない。それは食料、衣服、住居など、手段以外のなにものでもないものを作ったり保
ったりすることに吸収されてしまう。そのようなものは、動物的な生活と自由な実存との非本質的な媒介
物である(DSⅡ430)/493」。
37 Ibid., pp. 526‒536/603‒615.
38 Ibid., p. 536/615.
39 Ibid., pp. 536‒537/615.
118
は、望んで生んだのではない子どもの面倒を女が引き受け、自身の職業生活を失うことに
なった。このように、自立した女は職業への関心と性的使命への配慮のあいだで分裂して
いる40。
自立を望み続けるためには努力が必要である41。しかし、甘えと敗北主義が努力の妨げ
となっている42。だがそれだけではない。ここで、ボーヴォワールは、女の上司や女医を
信頼しない人々の心情を描いている。一般に、上位カーストは下位カーストからの成り上
がり者に反対する。白人たちは黒人の医師の、男たちは女医の診察を受けにいかない。だ
が、下位カーストの人々も、固有の劣等感がしみ込んでいたり、宿命を克服した人に対す
る恨みでいっぱいになっている場合も多く、権威に頼るほうを選ぶ。とりわけ、女性の大
半は、男性崇拝に浸りきっている。女の上司は部下から、女医は患者から信頼されないの
を知って、もったいぶったり、やりすぎたりする 43。ボーヴォワールが勧めるのは、自分
を忘れて、情熱的に自分の企てに身を投じることである。しかし、自分を忘れるにはすで
に自分を知っていなくてはならないが、男たちの世界に参入したばかりの女は、まだ自分
を知ることで手一杯なのだ44。
芸術、文学、哲学は、人間の自由、創造者の自由の上に新たに世界を構築しようとする
試みである。こうした意欲を育てるには、自分を明確に自由として認めなければならない。
教育や習慣が女に課す制約が、その世界への手がかりを制限している。この世界のなかで
地位を得るための戦いがあまりにつらくても、そこから離れるのは問題にはなりえない。
しかし、世界を新たに捉えたいならば、まず、徹底した孤独のうちに頭角を現さなければ
ならない45。
わたしたちが偉大と呼ぶ男は世界の重荷をその肩に背負った者のことだが、これこそ、
どの女もしなかったし、できなかったことだ46。すべての人間が、性の分化を超えて、そ
の自由な実存の得がたい栄光を誇りと思えるようになるときに初めて、女はその歴史、問
題、疑問、希望を人類のそれらと一つにすることができるだろう。そのときに初めて、女
はその人生や作品において、自分だけではなく、現実全体を明らかにし(dévoiler)ようとす
るだろう47。女の限界を説明するために援用しなければならないのは、神秘的な本質では
なく、女の状況なのであり、状況は変化するものだから、未来は大きく開かれている48。
次に、
「結論」を見ていこう。前の章では、女に具体的な自由を保証するのは労働である
と言われたが、ここでボーヴォワールは、女が変わるには、その経済的条件を変えるだけ
で十分と思ってはならないと言っている。経済的要因が前提となるが、また必要とする精
神的、社会的、文化的な成果が、経済的要因によってもたらされないうちは、新しい女は
40
41
42
43
Ibid., p. 539/618.
Ibid., p. 543/623.
Ibid., pp. 543‒544/623‒624.
Ibid., p. 544/624. 日本でも事情は同じで、1922 年生まれの私の母は、「女医さんが主治医になると、
みんな不安になる」と言っていた。
44 Ibid., pp. 545‒546/626.
45 Ibid., p. 555/637.
46 Ibid., p. 557/639.
47 Ibid., p. 558/640. dévoiler は「開示する」である。ボーヴォワールは、人間は世界を開示することで
自己の存在を開示すると考えている。『両義性のモラル』を参照。
48 Ibid., p. 558/640.
119
現れることができないだろう49。
「結論」では、男女の関係、男女の闘いと和解が問題になっている。ボーヴォワールは、
男女の闘いは、歴史的な時期に呼応して、二つの異なった形態を取っていると言う 50。そ
の第一の形態は女が内在のうちに閉じ込められている場合であり、そのとき、女は男を内
在のうちに引きずり込もうとする。第二の形態は『第二の性』が書かれた当時のもの、女
が内在を逃れて、超越の光のうちに浮かび上がろうとするときに生じる形態である。そこ
では、男の超越と女の超越が、互いの自由を承認し合うのではなく、他方を支配しようと
する51。
しかし、こうした闘いは誰の得にもならないのだから、対立する両者が純粋な自由のな
かで向かい合うなら、和解は容易にできるだろう。だが、こうした問題の複雑さは、それ
ぞれがその敵の共犯者であることから来ている。女は責任放棄の夢を追い、男は疎外の夢
を追う52。女のうちに自己を疎外するために、男は女を抑圧すると、また、当時の多くの
男たちにこうした傾向が見られるとボーヴォワールは述べている53。だが、こうなると、
男はその分身の奴隷であり、その分身を恐れ、敵意をもつ 54。
ボーヴォワールが言いたいのは、こうした悪循環を断ち切ろうということである。女が
責任放棄の夢を追うのも、男が疎外の夢を追うのも教育に起因する。
「結論」では、教育の
重要性が繰り返し説かれている。そして、
『第二の性』は相互承認への呼びかけをもって終
わっている。
女を解放することは、女が男とともに支えている関係のなかに女を閉じ込めることを
拒むことであって、その関係を否定することではない。女が自分は自分のために存在
、
していると言おうとも、やはり男のためにも存在し続けるだろう。相互に主体として
、、
承認し合いながらも、各々は他方にとっては他者のままだろう。男女の関係の相互性
は、人間が二つの切り離されたカテゴリーに分けられていることから生まれる、欲望、
所有、愛、夢といった奇跡を消し去りはしないだろうし、わたしたちを感動させる、
与える、征服する、結ばれるといった言葉は、その意味を保つだろう。人類の《分割》
がその本当の意味を明かし、人間のカップルがその真の形を見出すのは、逆に、人類
の半分の隷属状態と、隷属状態がもたらす偽善のすべてがなくなるときである55。
49
50
51
52
53
Ibid., p. 570/655.
Ibid., p. 561/644.
Ibid., pp. 561‒562/644‒645.
Ibid., p. 563/647.
Ibid., pp. 563‒564/647. 「Ⅰ事実と神話」の「第三部神話第一章」には次のように記されている。「女
は〈他者〉に見えると同時に、無をかかえている男の実存とは対照的に、存在の充実とも見える。
〈他者〉
は、主体の目から見て客体として立てられることで、即自として、それゆえ存在として立てられる。実存
者が抱いている欠如が女によって具現されているので、女を介して再び一つとなることで、男は自己を実
現したいと思うのだ(DSⅠ234/242)。男が〈他者〉を切望するのは、
〈他者〉を所有するためだけでなく、
〈他者〉によって確認されるためでもある。自分の同類である男たちによって確認されることは、彼に耐
えざる緊張を要求する。だから、男は外から来る視線が自分の人生、企て、彼自身に絶対的価値を与えて
くれることを望むのだ(DSⅠ290/300)」。
54 Ibid., p. 564/648.
55 Ibid., p. 576/662.本論文、
「 第七章ボーヴォワールの承認論Ⅰ」と「第九章ボーヴォワールの承認論Ⅱ」
120
3.エマニュエル・レヴィナスの女性論
ボーヴォワールは『第二の性』
、
「Ⅰ事実と神話」の「序文」において、
「女とは何か」と
問い、女が自らについてことさらに問わなければならないのは、男が〈主体〉であり、
〈絶
対者〉であるのに対して、女が〈他者〉であるからだと述べ、脚注で、レヴィナスの『時
間と他なるもの』(1948)56に言及している。
こうした考えは、E.レヴィナスによって、
『時間と他なるもの』に関するエッセイ
において極めて明確な形で表現された。彼は自分の考えを次のように表現している。
《他者性がある存在によって肯定的に、本質として担われているような状況はないの
だろうか。同じ類の二つの種の対立のうちに単純には入らないような他者性とはどの
ような他者性なのだろうか。絶対的に対立する対立者、その対立は対立者とその相関
者の間に立てられうる関係によってまったく影響を受けず、対立はその項が絶対的に
他なるものに留まることを可能にするが、そのような対立者は女性的なものだと、私
は考える。性は何らかの種差ではない……性差は矛盾でもない……性差は二つの補完
的な項の二元性でもない、というのも、二つの補完的な項はあらかじめ存在している
全体を前提にするのだから……他者性は女性的なものにおいて出現する。それは意識
と同等ではあるが、意識とは反対方向の項である。》
レヴィナス氏は、女も自分にとっては意識であるということを忘れていないと思う。
だが、主体と客体の相互性を示さずに、故意に男の視点を取っているのは驚くべきこ
とである。彼が女は神秘であると書くとき、男にとって神秘なのだと暗に言おうとし
ているのだ。その結果、客観的でありたいと思ってなされているこの記述は、実際は、
男の特権の主張になっている57。
ボーヴォワールが引用し、批判しているのは、
『時間と他なるもの』の「性愛(エロス)」
の箇所である。レヴィナスは、それに先立つ「出来事と他なるもの」において、他なるも
のとの関係が可能になる場に身を置くことになるのは、苦悩によって自分の孤独の痙攣に、
また死との関係に至った存在、すなわち実存者だけであり、性愛の関係が他なるものとの
関係の典型であり、性愛が神秘との関係の分析の基礎となるだろうと述べている58。
レヴィナスにとって、他なるものとの関係は〈神秘〉、すなわち主体によって捉えられ
ない他者性との関係である59。しかし、彼は他なるものを、主体がその到来に対して何も
を参照。アクセル・ホネットは、『承認をめぐる闘争―─社会的コンフリクトの道徳的文法』において、
マルクスとジョルジュ・ソレルとサルトルを承認論の系譜に位置づけ、サルトルの貢献を評価している。
一方、ナンシー・フレーザーはホネットとの対話集 Redistribution or recognition?──A political‒
philosophical exchange で、サルトルと並べて、フランツ・ファノンとボーヴォワールの名前を挙げてい
る。
56 Emmanuel Lévinas, Le temps et l’autre, Paris: Presses Universitaires de France, 1983.『時間と他
者』原田佳彦訳、法政大学出版局、1986 年と『時間と他なるもの』合田正人訳、東京:筑摩書房、1999
年を参考にした。
57 S. de Beauvoir, Le deuxième sexe Ⅰ, p. 15/17‒18.
58 E. Lévinas, op. cit., p. 64.
59 Ibid., p. 63.
121
なしえないような出来事と、主体が何らかの仕方で向き合うような出来事に分けている。
前者は死と未来であり、後者は他者との関係、他者との対面、顔との出会いである60。
そして、レヴィナスは、他者との関係がどのようなものであるかを語り始める。日常生
活においては、孤独や他者性は節度の名のもとに包み隠されているが、他者の他者性が純
粋なものとして現れるような状況はないのだろうか 61。それに対する答えが、上記の引用
文に示されているように、女性的なものとの関係においてである。
すでに述べたように、『時間と他なるもの』にはいくつかの他なるものがある。死、未
来、他者そして女性的なものである。レヴィナスは、他者はその他者性ゆえに他者なのだ
と随所で述べているが62、性愛の関係を、他なるものとの関係の典型と考えている。実存
者が「主観的なもの」のうちで、また「意識」のうちで成就されるのに対して、他者性は
女性的なもののなかで成就されるのである。それは意識と同等ではあるが、意識とは反対
方向の項である63。
それでは、他なるものとの関係の典型である女性的なものとの関係とはどのようなもの
であろうか。レヴィナスは、愛は永遠に逃れるものとの関係であり、女性的なものはその
神秘のうちに退くと述べ、こうした事実を恥じらいと表現している64。そのとき、主体は、
女性的なものを認識しないし、女性的なものに融合することもない。レヴィナスにとって、
認識することは対象を呑みこむことであり、他方で、融合は主体の脱自によってなされる
が、そのとき主体は対象のうちに吸収され、いずれの場合も他なるものは消滅する 65。
また、レヴィナスは、他なるものを特徴づけるのは自由ではなく、他者性であると考え
ている66。自由な人間どうしの関係は、争いを招き、一方が無きものとされ(anéanti)、交
流(communication)は挫折すると言うのである67。彼が面前に置くのは、もうひとりの実存
者ではなく、他者性なのである 68。つまり、彼は実存者であるが、彼が性愛の対象とする
女は他者なのである。
さらに、所有したり、認識したり、把握することは対象に力を振るうことでもある 69。
レヴィナスは性愛のうちに、相手を呑みこむことも、相手に吸収されることも、相手に力
を振るうこともない交流があると考えている70。
レヴィナスは、女性的なものという観念において重要なのは、認識が不可能であるとい
うことだけではなく、光を逃れるという存在様態であると述べている。こうした、意識と
は逆方向の、光を逃れる運動を、レヴィナスは女性的なものの超越と呼んでいる。女性的
なものの存在の仕方は隠れるということであり、こうした女性的なるものとの可能な関係
60
61
62
63
64
Ibid., p. 67.
Ibid., p. 74.
Ibid., p. 75, p. 80.
Ibid., p. 81.
Ibid., p.78. レヴィナスは、女性的なものの神秘は、文学的な意味においてではなく、存在の構造
(l’économie de l’être)において理解されるべきであると考えている(TA78‒79)。
65 Ibid., p. 78.
66 Ibid., p. 80.
67 Ibid., pp. 80‒81.
68 Ibid., p. 80.
69 Ibid., p. 83.
70 Ibid., p. 81.
122
の一つが「穢すこと( profanation)」なのである71。
「穢すこと」は愛撫から始まる。愛撫は主体の存在様態であるが、愛撫は自分が何を探
しているのかを知らない。愛撫は逃れる何かとの戯れのようであり、……何か他なるもの、
つねに他であり、つねに手が届かず、つねに来るべき何かとの戯れである。愛撫は、こう
した内容のない、純粋な未来を待つことである72。
また、レヴィナスは他者との関係について、それは他なるものの不在であるが、純然た
る不在でもなく、純粋な無という不在でもなく、未来という地平における不在であり、時
間であるような一つの不在であると述べている 73。この未来という地平とは、ひとりの個
人の生命が形成されうるような地平であり、レヴィナスはこうした生命の形成を、死に対
する勝利と呼んでいる74。
「性愛(エロス)」に続く、『時間と他なるもの』の最終章には「生殖能力(fecondité)」
という表題が付いている。レヴィナスは、性愛を介して息子をもつことで、死に勝利する
ことができると考えている。
4.
カール・マルクスの女性論
『1844 年の経済学・哲学草稿』は、マルクスが 1843 年 10 月から 1845 年 2 月までパ
リに滞在していたときに書かれ、1932 年に、モスクワのマルクス=エンゲルス研究所から
アドラツキーの編集により出版された『マルクス=エンゲルス全集』第一部第三巻におい
てその全体が公開され、その際に、『経済学・哲学草稿』と名づけられた75。
『草稿』のフランス語への翻訳に関して言えば、1920 年代にアンリ・ルフェーブルとノ
ルベルト・グーターマンが抄訳を行い、Revue marxiste に発表し、この翻訳の一部が Karl
Marx, morceaux choisis(1934)に収められた。また、前述のように、1937 年にモリトール
によって翻訳されたが、それは不完全なものであり、1962 年にエミール・ボッティジェリ
による翻訳が出るまで、『草稿』の完全で、正確な翻訳はなかった76。
『草稿』は、アダム・スミスの『国富論』などを読みながら記した、主として、経済学
に関するノートであるが、国民経済(概して言えば私的利益の社会)における労働者と資
本家の関係を人間の視点からも考察している。
『第二の性』の「結論」の相互承認を呼びかける節に続いて、ボーヴォワールは、マル
クスの『草稿』を引用している。
、、
「人間(homme)の、人間に対する直接的で、自然で、必然的な関係は、男性(homme)
71
72
73
74
75
Ibid., p. 79.
Ibid., p. 82.
Ibid., pp. 83‒84.
Ibid., p. 84.
Karl Marx, Ӧkonomisch-philosophische Manuskripte, Werke, Ergänzungsband, 1. Teil,1932 (以下、
Werke, Erg. 1 . Teil と略記する). 『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳、東京:岩波書店、1964 年
と『マルクス パリ手稿 経済学・哲学・社会主義』山中隆次訳、東京:お茶の水書房、2005 年を参考
にした。
76 Eva Lundgren-Gothlin, Sex and Existence: Simone de Beauvoir's The Second Sex , trans. from
Swedish by Linda Schenck, London: Athlone,1996, p. 279, n.8.
123
、 、、、、、、、、
の、女性に対する関係である」と、マルクスは言った77。
「この関係の性格から、どの
、、、、
程度まで人間が自分自身を類的存在( être générique)として、人間として理解したか
が明らかになる。男性の、女性に対する関係は、人間(être humain)の、人間に対する
関係のうちでもっとも自然なものである。したがって、そこで、どの程度まで人間の
、、、
、、、
自然的態度(comportement naturel)が人間的(humain)になっているか、あるいは、ど
、、、
、、、
の程度まで人間的本質(être humain)がその自然的本質(être naturel)になってい
、、、、、
、、
るか、どの程度までその人間的自然(nature humaine)がその自然(nature)にな
っているかが明らかになる」
。
これ以上うまく言うことはできないだろう。与えられた世界のただなかで、人間は
自由の王国を勝利させる役割を担っている。この至高の勝利をかち取るためには、な
によりも、男たちと女たちが、両者の自然的分化を越えて、自分たちの友愛をはっき
りと示す必要がある78。
そして、『第二の性』はここで終わっている。ボーヴォワールは「これ以上うまく言う
ことはできないだろう」と言っているが、引用されている部分の意味を理解するのは容易
ではない。「類的存在」とはどのような存在なのだろうか。「人間的である」とは、人間の
どのようなあり方なのだろうか。そして、マルクスは「自然」をどのように捉えているの
だろうか。
引用されている箇所は、『草稿』の「第三草稿」、〔二〕〔私的所有と共産主義〕、
(1)に
あり、そこで論じられている共産主義は、私的所有の最初の積極的止揚ではあるが、まだ
粗野な共産主義である。それでは、ボーヴォワールが引用した箇所に下線を付して、マル
クスの原文を見て行こう。
、、
、、
共同体の性的快楽の餌食や下女としての女性に対する関係のうちに無限の堕落が
現れているが、その堕落のなかで人間は自分自身に対して存在している(ist die unend
‑liche Degradation ausgesrochen, in welcher der Mensch für sich selbst existirt,)。
、、、、、、、、
、、、
というのも、この関係の秘密があいまいではなく、決定的に、公然と、あらわに表現
、、、、、、、、、、
、、、、 、、、、
されるのは、男性の、女性に対する関係においてであり、直接的で、自然的な類的関
係(Gattungsverhältniß)79の捉えられ方においてだからである。人間(Mensch)の、
、、
、、、、、、、、
人間に対する直接的で、自然的で、必然的な関係は、男性((Mann)の、女性に対する
、、
、、、、
関係である。この自然的な類的関係においては、人間の、自然に対する関係は、直接
的に、人間の、人間に対する関係であり、同様に、人間の、人間に対する関係は、直
、、、
接的に、人間の、自然に対する関係であり、すなわち人間自身の自然的規定である。
したがって、この関係のなかに、人間にとって、どの程度まで、人間的本質が自然に
77
ここで、ボーヴォワールは、
「『哲学著作集』、第六巻。強調しているのはマルクス」という脚注を付け
ている。
78 S. de Beauvoir, Le deuxième sexe Ⅱ, pp. 576‒577/662‒663.
79 『マルクス
パリ手稿 経済学・哲学・社会主義』では「交接関係」となっている。
124
、、
なったか、あるいは、自然が人間の人間的本質になったかが、直観的事実に還元され
て、感性的に現れる。それゆえ、この関係から、人間の発展段階の全体を評価するこ
、、 、、、、
とができる。この関係の性格から、どの程度まで人間が類的存在(Gattungswesen)と
、、
して、人間として自己となり、自己を理解したかが読み取れる。男性の、女性に対す
、、、、、、、、
る関係は、人間(Mensch)の、人間に対する関係のうちでもっとも自然的な関係で
、、、
ある。したがって、そこに、どの程度まで人間の自然的態度(natürliche Verhalten) が
、、、、
、、、
人間的に(menschlich)、あるいは、どの程度まで人間的本質(menschliche Wesen)
、、、
、、、、、
が人間にとって自然的本質(Natürliche Wesen)に、どの程度まで人間の人間的自然
、、
(menschliche Natur)が人間にとって自然(Natur)になっているかが示される。
、、 、、、
この関係においてはまた、どの程度まで人間の欲求が人間的欲求になっているか、し
、、
たがって、どの程度まで人間にとって他の人間が人間として欲求されているか、どの
程度まで人間はその個別的存在において同時に共同的存在(Gemeinwesen)であるか
が示される80。
、、
、、
「共同体の餌食や下女としての女性に対する関係」とは、粗野な共産主義における、男
性の、女性に対する関係である。こうした関係を「共同体との普遍的な売春の関係」とし
て批判しながら、マルクスは女性論を提示しているが、それは、彼の人間論の一部である
はずだから、マルクスの人間論を手掛かりにして、女性論を見ていくことにする。
マルクスは、
「人間は、実践的にも理論的にも、自分自身の類をも他の事物の類をも自分
の対象とするから類的存在である」と言っている 81。また、マルクスによれば、動物はそ
の生命活動とひとつであるが、人間は、自分の生命活動そのものを自分の意欲や意識の対
象とする類的存在であり、意識している生命活動を持っている 82。それゆえ、自分の生命
活動を自分の意識の対象とする類的存在としての人間は、自分の性関係の性格を理解し、
その理解の程度が人間の発展段階を示しているとマルクスは考えているのだ。
また、マルクスは、
「生命活動の様式のうちには、一つの種(species)の全性格が、その類
的性格が見られるが、自由な意志的活動が人間の類的性格である」と言っている83。さら
に、人間は、対象的世界の加工において、はじめて現実的に類的存在として確認されると
言われている84。
マルクスは自然について次のように言っている。
K. Marx, Werke, Erg. 1 . Teil, S. 535.『経済学・哲学草稿』、129‒130 頁。『マルクス パリ手稿 経
済学・哲学・社会主義』、132‒133 頁。
81 K. Marx, Werke, Erg. 1 . Teil,, S. 515.『経済学・哲学草稿』
、93 頁。『マルクス パリ手稿 経済学・
哲学・社会主義』、80 頁。
82 K. Marx, Werke, Erg. 1 . Teil, S. 516.『経済学・哲学草稿』
、95 頁。『マルクス パリ手稿 経済学・
哲学・社会主義』、82 頁。
83 K. Marx, Werke, Erg. 1 . Teil, S. 516.『経済学・哲学草稿』
、95 頁。『マルクス パリ手稿 経済学・
哲学・社会主義』、82 頁。
84 K. Marx, Werke, Erg. 1 . Teil, S. 517.『経済学・哲学草稿』
、97 頁。『マルクス パリ手稿 経済学・
哲学・社会主義』、83 頁。
80
125
、、、
、、、
自然の人間的本質は、社会的人間にとってはじめて現存する。なぜなら、ここにはじ
、、
、、
めて自然は、人間にとって、人間との紐帯として、他の人間に対する彼の現存として、
また彼に対する他の人間の現存として、同様に人間的現実の生活基盤として、現存す
、、、
、、
るからであり、ここにはじめて自然は人間自身の人間的なあり方の基礎として現存す
、、、
、、、
るからである。ここにはじめて人間の自然的なあり方が、彼の人間的なあり方となっ
、、
ており、自然が彼にとって人間となっているのである。それゆえ、社会は、人間と自
然との完成された本質統一であり、自然の真の復活であり、人間の貫徹された自然主
義であり、また自然の貫徹された人間主義である 85。
ここで、マルクスは、性関係や血縁関係といった自然的な関係は人間と人間を結びつける
紐帯であると言っている。また、人間は身体という自然として、他の人間の前に現れる。
さらに、自然は、人間の衣食住という生活基盤として、人間の人間的なあり方の基礎とな
る86。
したがって、自然的なものと関わるという一見すると自然的なあり方が、実は、性関係
や血縁関係ならびに人間相互の現存においては、直接的に人間どうしを結びつけ、その他
の人間関係、たとえば生産関係においては、自然的なものを媒介として、人間どうしを結
びつけ、人間の人間的なあり方を成立させているのだ。そして、こうした社会のうちに生
きるという人間的なあり方が人間的本質であり、それを成立させているのが自然であるか
ら、自然は人間的本質でもある。だが、視点を変えれば、その自然はあくまでも人間の対
象としての自然であり、人間化された自然である87。
マルクスは、男性の、女性に対する関係は直接的な関係であると言っているから、男性
にとって女性は、性愛の対象であり、現存する対象である。それでは、男性と女性のあい
だには、自然的なものを媒介とした間接的な関係は存在しないのだろうか。
5.結
レヴィナスの女性論に描かれている女は、光のない世界に追いやられている。その夫で
ある、実存者にして主体である男は、争いを回避するという口実のもとに、妻との関わり
を極力避けようとするが、息子を得るための性交渉は欠かせない。それは、男にとっては
「穢すこと」であり、その妻にとっては「恥ずかしいこと」である。結局のところ、
「性愛」
と「生殖能力」の章で語られているのは、男女の関係に関してこのように考えるように人
K. Marx, Werke, Erg. 1 . Teil, SS. 537‒538.『経済学・哲学草稿』、133 頁。
『マルクス パリ手稿 経
済学・哲学・社会主義』、135‒136 頁。
、、、、、、、
86 マルクスは国民経済のもとでの住環境について次のように述べている。
「汚ならしいもの
、人間のこの
、、、、、、、、、
、、、、
頽廃、堕落、文明の下水溝の汚物
(これは文字どおりに解すべきだ)が、人間にとって生活基盤
となる。
、、、、
、、、、
完全な不自然な放任、腐敗した自然が、人間の生活基盤となる」
(Werke, Erg. 1 . Teil, S. 548. 『経済学・
哲学草稿』、151‒152
頁。『マルクス パリ手稿 経済学・哲学・社会主義』
、155、、、、、、
頁)。
、、、
、、、
87 マルクスは、
「人間的感覚、諸感覚の人間性は、感覚の対象の現存によって、人間化された自然によっ
て、はじめて生成する」と述べている(Werke, Erg. 1 . Teil, S. 541.『経済学・哲学草稿』、140 頁。『マ
ルクス パリ手稿 経済学・哲学・社会主義』、140 頁)。
85
126
格形成された男女の間での「性愛の現象学」なのである。それどころか、女には人格すら
なく、ただ子を産むための、しかも息子を産むための手段と見なされているように思われ
る。
ボーヴォワールも言っているように、『時間と他なるもの』は男の視点から書かれてい
る。レヴィナスが当然のこととして描く女性論は、彼自身を表現している。男にとって女
は神秘であろうが、女にとっても男は神秘である。しかし、男と女がパートナーであるな
らば、日々、小さな争いを乗り越え、協力して生活を築くなかで、相手への理解や信頼は
相互に深まるはずだ。レヴィナスは性差別論者であり、その女性論は時代錯誤的であるば
かりでなく、欺瞞である。
また、本章では、マルクスの人間論を手掛かりにして、その女性論を理解しようと努め
た。マルクスが『草稿』を書いていたとき、人間はまだ人間的な存在への途上にあった。
マルクスは、男の、女に対する関係は人間の人間に対する関係であると言っているから、
彼にとって、女は人間である。しかし、それはあくまでも自然としての人間、男性の性的
対象としての人間であって、マルクスは女を類的存在と見てはいない88。もし、女も類的
存在であるならば、自由な意志的活動や対象的世界の加工を行なう存在であるはずだ。そ
して、その場合には、女の労働も視野に入ってくるだろう89。
こうしたことを考慮すると、マルクスの女性論を手放しで称賛することはできないが、
性の二重規範が支配的であった十九世紀の中葉において、男性に性関係への反省を促し、
愛の相互性に言及したことは評価に値する。
ボーヴォワールの女性論は、まず、女が経済的に自立し、それに伴って、精神的、社会
的、文化的な変化が生じることを期待し、また、男女が相互依存の悪循環を断ち切り、自
由な主体として相互に承認することを提唱するものである。また、そこでは、これらを実
現するための教育の重要性が繰り返し説かれている。
こうしたことはすべての人間関係に言いうることだが、依存の性格や認識の違いが争い
の種になっている。しかし、こうした争いを克服しなければ人類に未来はないだろう 90。
ボーヴォワールの女性論は、1970 年代には女性解放運動の理論的拠り所となった。その後、
現在に至るまで、ボーヴォワールの示した方向に沿って、国連、EU、また日本でも、さ
まざまな女性政策が進められている91。
88
エーリッヒ・フロムは、
「マルクスはとくに男性と女性のあいだの愛の中心的意味を、人間の人間にた
いする直接的な関係として表現した」と述べて、ボーヴォワールと同一の個所を引用している(『マルク
スの人間観』樺俊雄訳、東京:第三文明社、1977 年、62‒64 頁)。
89 クリスティーヌ・デルフィはマルクスについて次のように記している。
「マルクスによって用いられ、
ついで他の人々によって用いられた概念はすべて、労働者の地位の構造的・理論的定義として男性労働者
の社会的待遇を取りあげている。女性労働者は目に見えていない。一方では、労働市場の分析に女性労働
者が欠落しており、他方では、女性労働者の家内労働と搾取が既定のことと見なされている(『なにが女
性の主要な敵なのか』、208 頁)」。
90 ボーヴォワールは、
『第二の性』、「Ⅰ事実と神話」の「第三部神話、第一章」で、「こうした自由の承
認を実際に実現する友情、寛大さは容易な徳ではない。それらは確かに人間の最高の成就であり、それに
よって、人間はその真理のうちにあるが、この真理は絶えず生じ、絶えず消える闘争の真理であり、それ
は人間が刻一刻と自己を克服することを要求する」と述べている(DSⅠ232/240)。
91 杉藤雅子、
「ヨーロッパ統合とジェンダー統合が女性にもたらしたものは 第一部 EC/EU の女性政
策の立案と実施(1)男女雇用機会均等推進行動計画の推移」、
『時の法令』、1996 年 5 月 30 日号、東京:
雅粒社。
127