第三共和制と聖別化されるモリエール

第三共和制と聖別化されるモリエール
永 井 典 克
「モリエールの言葉」としてのフランス語
フランス語は「モリエールの言葉」と呼ばれることがある。どのよう
な経緯でそのように呼ばれるようになったのであろうか。
18 世紀の啓蒙思想家たちは、モンテスキューは英国とイタリアへ、
ディドロはロシア、ヴォルテールは英国とドイツというようにヨーロッ
パ中を旅し、新しい思想を学ぼうとする君主たちと交わった。マルク・
フュマロリが指摘するように、18 世紀、全ヨーロッパにフランス文化
が広まり、ヨーロッパの知識人はフランス語で会話を交わしていたので
ある 1)。その結果、「ウィーン、ペテルスブルク、ワルシャワの宮廷で、
ヴェルサイユと同じように」人々がまったく同じ表現、同じ口調で会話
しているのを聞くことが出来た 2)。このような状況を受けて、18 世紀に
はモリエールの作品がイタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマ
ニア語、英語、ドイツ語、ロシア語など様々な言語に翻訳され、諸外国
で上演されるようになっていた 3)。モリエールの作品の多くが散文で書
かれていたということも翻訳されるのに都合が良かったのであろう。そ
のため、まずフランス人以外の人々がフランス語を指し示すのに「モリ
エールの言葉」と呼び始めることになった。
例えば、イギリスの風刺雑誌パンチの 1874 年の年鑑に「シェイクス
ピアとミルトンの言葉、モリエールとヴォルテールの言葉、シラーとゲ
ーテの言葉はそれぞれ何百万人もの話し手がいるが、『愛』の言葉は誰
もが話すことができる」という記述がある 4)。英語ならばシェイクスピ
アとミルトン、フランス語ならばモリエールとヴォルテール、ドイツ語
ならばシラーとゲーテが代表的作家として考えられていたようだ。20
世紀初頭に活躍したイギリス出身の批評家フランク・ハリスは、フラン
31
ス革命後の新しい思想に適応するためにさまざまな分野で「モリエール
の言葉」が流入し、その影響力が4倍に膨れ上がったために、英語はシ
ェイクスピアの時代よりも貧しいものになったと嘆いている 5)。
ところが、もともとフランス人にとってフランス語は、モリエールと
同時代の「悲劇作家ラシーヌや哲学者パスカルの言葉」であった。パリ
文法学会により 1826 年から 1840 年にかけて刊行された雑誌『フランス
語と言語一般に関するジャーナル』には、大半の学校でフランス語の学
............
習がなおざりにされているため「ラシーヌとパスカルの言葉が最もそれ
を尊ばなければならない人々によって損なわれているのは嘆かわしいこ
とである」との記述が見受けられる 6)。ギリシア語、ラテン語に堪能な
フランス人の若者が、フランス語の文章を文法やスペルの間違いなしに
書くことができないことも多かったのである。
フランス人が自国語を「モリエールの言葉」と見なしていなかったの
も当然と言えば当然なことで、17 世紀にはモリエールは国王の寵愛を
受けていたとはいえ一喜劇作家であり、国民的作家であるとは必ずしも
評価されていなかったのだ。例えば、19 世紀にアシェット社から「フ
ランスの大作家」シリーズが刊行され、文学研究の必須参照文献となっ
たが、このシリーズ中のモリエール全集においては、モリエールが死ん
だ時のことが次のように説明されている。
当時の唯一の新聞であった『ガゼット紙』はしばしば同時代の作家、
特に何らかの公的な資格を得ている作家の名前を挙げている。『ガ
ゼット紙』はこうした作家の宮廷やアカデミーや他の場所における
成功を報告している。そして、作家が死んだときには、多少なりと
も賞賛の念を込めた追悼記事を載せていた。しかしモリエールに関
しては、『ガゼット紙』は生存中も決して彼の名前を紙面に載せな
かったし、死んだときにも1行の記事も出さなかった 7)。
ところが 19 世紀にはモリエールは「フランスの大作家」シリーズか
32
第三共和制と聖別化されるモリエール
ら全集が出ているように、「フランスの大作家」の仲間入りをしている。
事実、19 世紀に刊行されたフランスの知の大全である『19 世紀ラルー
ス』は、彼のことを「喜劇作家のなかで最も偉大な作家」と位置付けて
いるのである。この事典によれば、モリエールは、死後 100 周年を迎え
たときに、全身像を建てるべく寄付が募られたが、寄付金が集まらずに
胸像に変更されたくらいの作家であった。しかし、1873 年の死後 200
周年行事は盛大に行われた。19 世紀には、この「偉大な作家」は、「古
今東西にわたる喜劇の精髄の化身」となっており、彼の作品は「登場人
物の行動と物語から得られる教訓という道徳的側面においては非の打ち
所がない」と考えられるようになっていたのだ。
こうして、外国人だけでなく、フランス人もフランス語を「モリエー
ルの言葉」と呼ぶようになる。それだけでなく、道徳的と評価されるよ
うになったモリエール作品は教育に用いられるようになった。第三共和
制においてジュール・フェリーによる学校改革が行われたときには、聖
典扱いされるようにすらなるのだ。そしてモリエールは今日でもフラン
スの教育において特権的地位を占めている。
つまり、フランス語が「モリエールの言葉」と称されるのは、単に外
国人がフランス語を指し示すのに使っている呼称をフランス人が引き受
けたというだけの問題ではないのだ。それはフランス人に喜劇作家モリ
エールを自らの国の代表として選ばせるようなパラダイムシフトが 19
世紀にあったということを意味している。この小論では 18 世紀から 19
世紀末に至るまでのモリエール評価の変遷を追いかけることで、モリエ
ール作品の評価に起きた変化を明らかにしたい。
18 世紀:「社交界のしきたりの制定者」としてのモリエール
アントワーヌ・ド・レリスの『演劇辞典 8)』によれば、フランスの演
劇界はこの「有名な作家にして優れた俳優」に多くを負っている。レリ
スはモリエールの生涯について詳しく知りたければ、「誰もが持ってい
るモリエール全集の巻頭にあるグリマレによるモリエールの生涯」より
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も、「ヴォルテールによる解説を参照するよう」に勧めている。
事実、18 世紀にモリエールの評価は高まってくるが、それにはヴォ
ルテールが一役買っていた。この時代に出版されたモリエール全集のほ
とんどの版に、ヴォルテールによる『モリエールの生涯』がつけられて
いたからである。ヴォルテールによればモリエールは「身分が高い振り
をする人々、才女気取りや衒学趣味、法曹、医者のラテン語」の呪縛か
ら人々を解放した人物であり、
「社交界のしきたりの制定者」であった。
ルイ 14 世の宮廷に集う大貴族達の多くは、国王の偉大さ、輝か
しさ、威厳を真似しようとした。それよりも階級が下の者たちは、
大貴族達の尊大さを真似した。さらに、馬鹿げてみえるまで傲慢な
振る舞いをし、人から褒めそやされようという欲望を持つ多くの
人々がいた。この過ちは長く続いた。モリエールはしばしば、この
欠点を攻撃した。
(ヴォルテール『ルイ 14 世の世紀』「第 32 章芸術について」
)
それだけでなく、ヴォルテールは、宮廷人やパリの町の人々がモリエ
ールの芝居を観に来たのはルイ 14 世がモリエールの才能を認めたため
だが、人々が「良き判断をくだすのに君主の決定を必要としたことは、
国家にとってあまり名誉あることではなかった 9)」としている。市民が
モリエールの芝居を理解できるかどうかは、フランス国家の名誉にかか
わる問題だとヴォルテールは認識していたことになる。実際、モリエー
ル作品はやがてヴォルテールの予感通りに国家の問題となっていくだろ
う。
19 世紀:「フランス精神」の代表としてのモリエール
19 世紀七月王政期にはブルジョワが台頭してくる。モリエールの
『町人貴族』の主人公のように、貴族階級を模倣しようと望みながら、
古典的教養に欠けるブルジョワは神話の英雄たちの姿を描いたラシー
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ヌ、コルネイユなどの作家の作品よりも、グランド・オペラのように分
かりやすいスペクタクルを好んだ。このようなブルジョワには、社交界
のしきたりを描いてくれるモリエールの作品は教科書であり、身近に感
じることができるものであった。19 世紀はまた、国民意識が芽生えて
くる時代でもある。「社交界のしきたり」は容易に「社会のしきたり」
へ、そして「国のしきたり」へと変化していく。このとき、モリエール
作品の意義は大きく変化した。
まず解説者が変わった。18 世紀モリエール全集にはヴォルテールに
よるモリエール紹介が付けられていたのに対して、19 世紀のモリエー
ル全集には批評家サント=ブーヴによる紹介文が付けられている。この
全集はエッツェル社刊行のものであった。ジュール・ヴェルヌの作品を
出版したことで知られるエッツェルは『教育娯楽雑誌』を発刊するなど、
書籍の教育的意義を意識していた 10)。実際、モリエールの作品は教育的
であると考えられるようになっていた。サント=ブーヴによる文はモリ
エール像に生じたこの変化を明らかにしている。彼は「私としては、よ
り多くの人にモリエールを愛させるということは、社会に有益なことの
ように思われる 11)」と主張しているのである。
モリエールを愛すること、心から本気で愛すること、それがどうい
うことか知っていますか。それは自らのうちに多くの精神的な短所、
悪い癖、悪徳に対する保障を有するということである。それは、モ
リエールと相容れないもの全て、彼の時代に彼を受け入れなかった
もの全て、私たちの時代において彼が耐えられないであろうもの全
てを愛さないことである 12)。
この評価はただサント=ブーヴ一人に留まるものではない。批評家イポ
リット・リュカはヴォルテールによる評価を受け継いでいるが、啓蒙思
想家のようにモリエールを「社交界のしきたりの制定者」と評価するの
ではなく、「夫と妻、息子と父が果たすべき義務 13)」の制定者と位置づ
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けるのである。このような評価はまだモリエールが「社会」にとって有
益な存在であり得るというものでしかない。しかし、国民意識が芽生え
つつある時代において、「社会」にとって有益な存在であるモリエール
から、「フランス国家」にとって有益な存在としてのモリエールに変身
するのにそれほど時間はかからなかった。その変身は「フランス精神」
というキーワードを軸に起きた。
例えばフランソワ・ジェナン François Génin なる人物は、フランス語
が民衆のものであり、「理性とフランス精神の代弁者 14)」であるモリエ
ールこそフランス語を代表する存在であると述べている。彼は自著『モ
リエール語彙比較辞典』において、フランス語の誕生について以下のよ
うな説を展開している。
フランス語は2回形成され、今のような形になった。一度目の形成は
10 〜 15 世紀にかけてラテン語からゆっくりと変化することで生じた。
二度目の形成は 16 世紀ルネサンスにおいて学識者たちがそれまでフラ
ンス語に起きた変化を否定したことで生じたものだ。このため、フラン
ス語は最初の変化で生まれた民衆の言葉と、学識者の言葉に分かれてし
まった。後者は「ニザールが『アカデミック精神』の過剰と呼ぶものに
より貧しいものとなった 15)」ため、ジェナンは前者のほうがより優れて
いると言う。そして、フランス語の精神を救うためには古代の民衆の言
葉に戻らなくてはいけないと結論づけられる。勿論、モリエールこそ古
代の民衆の言葉を伝える人物に他ならない。
ここでジェナンが自説の補強に持ち出したデジレ・ニザール Jean
Marie Napoléon Désiré Nisard とは当時、影響力を誇った批評家である。
ロマン主義批判の論陣を張ったことで知られている。主な著書に『フラ
ンス文学史』(1854)があるが、これは大学の教員・研究者を養成する
ためフランス革命時に設立された高等師範学校で教鞭を執った時の成果
であった。第二帝政から第三共和制にいたる期間、高等師範学校という
フランスの教員養成の最高機関において、どのような教育がなされたか
を、私たちはこの著作にかいま見ることができる。実は「フランス精神」
36
第三共和制と聖別化されるモリエール
という概念は、まさにこの本において提示されているのだ。
文学史とは「ある国の文学作品で、生き続けたもの、魂に働きかけ続
けたもの、公教育の重要な部分であり続けたものの歴史である 16)」とニ
ザールはまず定義する。彼によれば、それは「国の魂」そのものであっ
た。そしてフランスという国の魂である「フランス精神」とは「実用精
神」のこと、つまり「有益な知識」を愛することであった。フランス文
学は「古今東西にわたる人間生活の理想」を描いているため、人間に
「有益な知識」を提供する。人々はフランス文学が与えてくれるこの知
識によって人が為すべき「義務」の概念に至るのだ 17)。
「フランス精神」のような愛国思想は、当時生まれつつあった国民感
情の当然の帰結であった。ニザールは自分たちがフランスを愛している
のは「ここでは全てが理性に適っている」からだと分析している 18)。つ
まり、彼の提唱する「フランス精神」は「理性」によって支えられてい
るものなのだ。そして「理性」を最も正確に映し出す像は、「フランス
語」に他ならない。フランス語は「思考の論理的順序に従う」言語であ
るからだ 19)。ニザールに従えば、「フランス精神」を最もよく描けるの
はフランス語を最も巧みに操る文学者ということにならざるを得ない。
そして、このような作家の代表がモリエールなのだ。フランスには、
「モリエール以上に想像力、感性、理性を持っていた詩人はいないし、
それらをより完璧な割合で持っていた詩人もいない 20)」のだから。モリ
エールの作品は人間の生き方を教えてくれるものだとニザールは主張す
る。
モリエールの芝居を観たとき、人は人間への友愛の念を持つ。他の
作家たちは山頂にとどまっているが、モリエールは私たちの只中に
生きている 21)。
このニザールの評論は広く支持され、「フランス精神」は流行語のよ
うになった。サント=ブーヴはヨーロッパ中の国から文学者が集う会議
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があったとしたら、ニザールの「フランス精神」は容易に受け入れられ
るものではないだろうと非難している 22)。それはアテネ人の前でアテネ
人を賞賛するのは容易なことだが、「ペロポネソス人の前でアテネ人を、
アテネ人の前でペロポネソス人を賞賛しなくてはならないときには、聴
衆を納得させるだけの十分な能力が必要である」とソクラテスが引用さ
れ説明されているように、「フランス精神」という概念に問題があると
いうよりも、ニザールの議論の進め方には説得力がないと彼は考えてい
たからである。シャルル=ジュリアン・ジャネル Charles-Julien Jeannel
もニザールの影響を受けた評論家の一人である。すでに見てきた通り、
モリエールは道徳的であると評価されるようになっており、ジャネルも
著書『モリエールの道徳』のタイトルから予想できるようにその評価を
受け継いでいた。彼は「天才モリエールは、著名な数名の古代ギリシア
天才作家とともに、『人間精神』の最も明白な化身の一人である」との
文に続けて、「モリエールは最も純粋な『フランス精神』を代表する人
物の一人である 23)」という一文を記している。この「フランス精神」と
いう単語にはニザールの『フランス文学史』を参照せよとの注が入って
いるように、ジャネルの言う「フランス精神」はニザールが主張したも
のであった。つまり、ジャネルは「フランス精神」と「道徳」が切って
も切り離すことができないものであるということを示している。
こうして「道徳的」で「理性的」なモリエールは「フランス精神」を
代表する作家となっていく。すでに彼の作品は教科書に組み込まれるよ
うになっていたが、最終的に次の第三共和制の時に公教育の一部に正式
に組み込まれることになる。第三共和制の学校改革の柱の一つがまさに
道徳教育であったからである。
第三共和制の学校改革、聖別化されるモリエール
第三共和制は 1870 年の普仏戦争の敗北と同時に生まれた。セダンの
戦いでプロシアが勝利したのは国が優れていたのではなく、その教育者
が優れていたからだとフランスの指導者たちは考え 24)、自国の公教育の
38
第三共和制と聖別化されるモリエール
整備を急いだ。そして、1882 年ジュール・フェリーにより学校改革が
行われることとなった。この改革は義務・無償・中立という近代公教育
の3原則を確立したものである。この3原則のうちの中立性(laïcité)
とは宗教的中立性のことであり、公教育から宗教勢力を排除することを
目的としていた。そこで特に問題となったのは道徳教育であった。道徳
教育はそれまで宗教教育と結びつけられていたが、ジュール・フェリー
は道徳教育を宗教から分離させようとしたのだ。当然、この分離に宗教
家たちは激しく抵抗した 25)。第三共和制の学校教育にモリエールが如何
に取り込まれたかを調査したラルフ・アルバネーズ Jr は「第三共和制
は、1789 年の革命を国民意識の中心に組み入れることに成功した 26)」
としているが、フィリップ・アリエスによれば、第三共和制の政府も
「少なくとも中等教育においては、宗教教育が再編成され、その地歩を
固めるのを阻止することができなかった 27)」ようで、ジュール・フェリ
ーが目指した宗教的中立性を保つ道徳教育の実現は簡単なものではなか
った。
ジュール・フェリーが学校改革の中心に道徳教育を据えていたこと
は、1882 年の義務教育に関する法律についての彼の説明からも明らか
である。この法律は「特定の教義を教えることは義務教育のプログラム
から除外すること」と「公民教育と道徳教育を最も大切にすること」と
いう互いに矛盾することのない二条項によって互いに補完されると彼は
説明している 28)。彼はまた義務教育における「読み書きは、最初の道徳
教育の手段でしかない 29)」と考えていたが、その根拠は 18 世紀の数学
者にして哲学者、政治家でもあったコンドルセの次の言葉に求められて
いる。
初等学校では、読み書きが教えられる。これに加えて、算術の四
則、土地や建物を正確に測る簡単な方法、地方の産物や農業と工業
...............
の技術についての初歩的な説明、基礎的な道徳観念とそこから引き
............
出される行為の規範の説明、最後に、子供の理解できる範囲での社
39
会秩序の原理の説明が付け加えられる 30)。
では、この道徳教育では何が教えられるのであろうか。
ジュール・フェリーによれば、この道徳には英雄が成し遂げたような
行為は含まれるものではない。「自然界における不平等のなかで最初に
あらわれた、最も不当で、最も時代遅れなものであり、最も粗暴なもの」
は「筋肉の力」であり、その「筋肉の力」の代表が古代神話の英雄エル
キュール(ヘラクレス)やテゼ(テセウス)であるからだ 31)。確かに、
かつて社会は英雄の力を必要としていた。しかし、現代では、「公権力
は国民の意に従い、治安は国民の財産」となっている。かつての理想的
憲兵であったエルキュールが、都市の秩序を維持しようと考えたとして
も、武器携帯許可証を携行することなく怪物を追い払おうとすれば、た
だちに警察官により警察署に連行されるとジュール・フェリーは説く 32)。
また、カリキュラムにおいてはフランス語の教育が中心にくるべきで
あり、古代語の教育は制限的なものになるだろう。コンドルセの言うよ
うに、革命後の「今日ではあらゆる偏見は消滅しなければならないのだ
から、古代人の言語を長期にわたって深く学習すること、つまり彼らが
残した著作の講読を必要とするような学習は、有益であるよりも有害で
ある 33)」からであった。さて、新しい教育がそのようなものであるとす
るならば、まさにギリシア・ローマ古典をお手本に英雄の物語を描いた
ラシーヌ、コルネイユら 17 世紀の古典主義悲劇作家たちの作品は歓迎
されない。一方、18 世紀以来、ブルジョワの道徳を描いたと評価され
るようになっていたモリエールは、「国民意識の特徴を与えられたフラ
ンスの代表」となる 34)。さらにジュール・フェリーは、文学はニザール
によって定められたカテゴリーに沿って教えられるべきだと考えてい
た。「フランス精神」の提唱者であるニザールの思想は 1860 年代にはフ
ランスの教育に極めて大きな影響力を持っていたのである 35)。新しい道
徳の教科書に採用されるのに、モリエールは理想的な存在であった。こ
こにモリエールがフランスの教育において特権的地位を獲得する原因が
40
第三共和制と聖別化されるモリエール
あったのだ。
実際、ジュール・フェリーの右腕として初等教育を指揮し、教育の宗
教的中立性(ライシテ)を推進したフェルディナン・ビュイッソン
Ferdinand Buisson が編纂した『初等教育事典 36)』には、モリエールは
「おそらくフランス文学で最も偉大な人物であり、サント=ブーヴがあ
らゆる民族の天才たちが集う会にフランス代表として送ることを提案し
たであろう作家である 37)」と説明されている。衣装、言語、風習の違い
にもかかわらず、人間の奥底に存在するものを描写したモリエールの作
品は、「圧制者や、自らの欲望のために全てを捧げる暴君を憎ませ」、
「節度のない人々を笑うことを教え」、「守銭奴、偽善者、自惚れ屋、偏
屈者が失っている良識、優しさ、人間らしさといった全てのものを説き
勧める」ものであった。このようなことが第三共和制の初等教育におい
て教えられたのだ 38)。
最後にモリエールが第三共和制においてどのような存在となったかに
ついて、文学史家のフェルディナン・ブリュヌティエール Ferdinand
Brunetière の証言を確認しておこう。高等師範学校、ソルボンヌ大学で
教鞭を執りながら、『両世界通信』の編集長を務め、1893 年にはフラン
ス学士院メンバーに選出されていた彼の見解は、第三共和制期の大多数
の人々の意見を代弁するものである。彼は「文学の警視総監」と呼ばれ
ており、19 世紀フランス文学史においてニザールの後を継いだ人物と
目されていた 39)。
彼は「文学作品の寿命に最も貢献するものは何か」という問いに対し
て、「ある文学作品を不滅にし、聖別するものは、国民精神の最も内的
な資質に適合するものをその作品が持っていることである 40)」と答えて
いる。数世代のフランス人がそこに自らの姿を見出し得たものこそが真
の傑作と呼ばれるに相応しいということだ。彼によれば、そのような傑
作はラシーヌの悲劇、ボシュエの説教、モリエールの喜劇やヴォルテー
ルのコントなどであった。フランス人はヴォルテールのうちに自分たち
が持つ「皮肉な笑い」を、ボシュエのうちには「雄弁さ」を、ラシーヌ
41
のうちに「燃え上がる情念の炎」を見出してきた。そしてフランス人は
モリエールのうちに「率直で、誰にでも通じる、健全な笑い」を持つ自
分たちの姿を見出してきたのだ。ブリュヌティエールはこれらの「偉大
な詩人、偉大な作家に我々が負っているものを忘れないようにしよう」
と言う。フランス人にとってモリエール、ラシーヌ、ボシュエ、ヴォル
テールは、イギリス人にとってのシェイクスピア、ミルトン、バイロン、
イタリア人にとってのダンテ、ペトラルカ、ジャコモ・レオパルディと
同じ存在であり、フランス精神を正確に表現する存在であるからだ 41)。
さて、フランス人がそこに自らの姿を見出すというモリエールの笑い
は、古代フランスに住んでいた「ゴール人の精神」と呼ぶべきものであ
るとブリュヌティエールは指摘する。その精神とは対等な仲間の間で楽
しむ冗談の精神である。「この精神は常に趣味のよいものであるとは言
えない 42)」との注が急いで入れられているように、この精神は「悪意」
や「誤魔化し」を含むものであり、必ずしも品のよいものではない。し
かし、モリエールが古代フランスに住んでいたゴール人の気質を継いで
いるという事実そのものが、この喜劇作家の特別な地位の証明となって
いるとブリュヌティエールは力説する。
もし祖先を探したならば、あのコルネイユのように祖先がローマ人
である作家もいるだろう。ラシーヌのように祖先がギリシア人であ
る作家もいるだろう。モリエールの祖先はゴール人だ。それが彼の
人気の秘密である 43)。
フランスにおいても、「ラシーヌやコルネイユに飽きることがあると
言わざるを得ない」と彼は言う。サント=ブーヴですらこの二人に飽き
たことがあるではないか。しかし、あからさまで露骨な言葉や、慎みの
ない行為にも怯むことのないフランス人の先祖ゴール人の後継者たるモ
リエールには「いまだかつて少しでも飽きることはない 44)」のだ。こう
してモリエールは単に「フランス精神」の代表というだけでなく、「ゴ
42
第三共和制と聖別化されるモリエール
ール人の精神」、すなわち古代からの純粋な「フランス精神」の持ち主
であると認定された。もはやモリエールを批判することは、フランスを
批判することと同じであり、許されることではなくなったのだ。
ブリュヌティエール自身はしかしニザールと異なり「道徳」を絶対視
してはいなかった。彼はフランス人のモリエールへの愛着には行き過ぎ
ている側面があることに気付いていた。「愛好者」ではなく「信奉者」
がついてしまうと、崇拝の念はやがて「盲信」となり、耐え難いものと
なるのは世の常である。モリエールについても同じことが起きていて、
「すでに丁寧に軽く触れただけでも、叫び出す崇拝者」が出現していた。
ブリュヌティエールは、このような状況を指して「モリエールは『神』
になりつつある 45)」と述べている。実際、ラルフ・アルバネーズ Jr によ
れば、ブリュヌティエールが危惧を表明した 1880 年代にはすでに『守
銭奴』L’Avare、『学者きどりの女たち』Les Femmes savantes、『タルチュ
フ』Tartuffe、『人間嫌い』Le Misanthrope の四作品が教育に適切な教材
として公式にリストに載せられていた 46)。聖なる存在となったモリエー
ルの作品は聖典として学校教育に取り込まれていたのである。
以上のようにモリエールの作品は 17 世紀から 19 世紀の間にその評価
が大きく変化してきた。その変化は、特に第三共和制の学校改革によっ
てもたらされ、モリエール作品は権力機構に取り込まれ聖別化されてい
ったことが明らかになった。モリエールの個々の作品の解釈、特に公式
に教科書に載るのに相応しいとされた四作品『守銭奴』、『学者きどりの
女たち』、『タルチュフ』、『人間嫌い』を中心に作品解釈がどのように変
化したのかは次の機会に見てみることにしたい。
本稿は、平成 23 年度成城大学特別研究助成金「フランス公教育におけ
るフランス語古典文学の位置づけが作品受容に及ぼした影響」の研究成
果である。
43
註
1)Marc Fumaroli, Quand l’Europe parlait français, Editions de Fallois, 2001.
2)Louis-Antoine de Caraccioli, L’Europe française, Turin-Paris, Veuve
Duchesne, 1776, p. 169.
3)cf. Paul Lacroix, Bibliographie Moliéresque, Auguste Fontaine, 1875, p. 147207.
4)Punch’s pocket book for 1874, London, Punch Office, p. 186.
5)Frank Harris, The Man Shakespeare and his tragic life-story, New York,
Frank Harris, 1921, p. xviii.
6)C.-L. Marle, Journal de la langue française et des langues en général, Vol. 1,
Chez M. Marle, 1827, p. 516-517. 傍点筆者
7)Oeuvres de Molière. Tome 1, “Les Grands Ecrivains de la France”, Hachette,
1873, p. ii.
8)Antoine de Léris, Dictionnaire portatif historique et littéraire des théâtres,
Jombert, 1763.
9)Voltaire, Vie de Molière, Lausanne, chez François Grasset & Comp., 1772, p.
11-12.
10)私市保彦『名編集者エッツェルと巨匠たち―フランス文学秘史』新曜
社 2007 年
11)Oeuvres de Molière, précédées d’une notice sur sa vie et ses ouvrages, par
M. Sainte-Beuve, J. Hetzel, 1869, p. 27.
12)Ibid.
13)Hippolyte Lucas, Histoire philosophique et littéraire du théâtre français
depuis son origine jusqu’à nos jours, C. Gosselin, 1843, p. 92.
14)François Génin, Lexique comparé de la langue de Moliére et des écrivains du
XVIIe siècle, Librairie de Firmin Didot Frères, 1846, « Dédicace à J. P.
Béranger ».
15)Ibid., p. iv.
16)Désiré Nisard, Histoire de la littérature française, Tome 1, F. Didot frères,
1854. p. 9.
17)Ibid., p. 15-16.
18)Ibid., p. 21.
19)Ibid., p. 26.
44
第三共和制と聖別化されるモリエール
20)Nisard, Histoire de la littérature française, Tome 3, p. 140.
21)Ibid.
22)Sainte-Beuve, Causeries du Lundi, T. 15, Garnier Frères, 1862, p. 209-210.
23)Charles-Julien Jeannel, La Morale de Molière, E. Thorin, 1867, p. 1-2.
24)A. Prost, Histoire de l’enseignement en France, 1800-1967, Colin, 1968, p.
184.
25)原聡介「教育思想の系譜」フランス教育学会編『フランス教育の伝統
と革新』大学教育出版 2009 年 42–43 頁
26)Ralphe Albanese Jr., Molière à l’Ecole républicaine, de la critique
universitaire aux manuels scolaires (1870-1914), Stanford French and Italian
Studies, California, Anma Libri, 1992, p. 4.
27)フィリップ・アリエス
中内敏夫・森田信子編訳『「教育」の誕生』
藤原書店 1992 年 197 頁
28)Jules Ferry, « Lettre du ministre de l’Instruction publique aux instituteurs, en
date du 17 novembre 1883 », dans Discours et Opinions de Jules Ferry,
publiés avec commentaires et notes de Paul Robiquet, Tome IV, Armand
Colin, 1883. p. 259.
29)Jules Ferry, De l’égalité d’éducation, conférence populaire faite à la salle
Molière le 10 avril 1870, Au siège de la société, 1870, p. 14.
30)コンドルセ「公教育の全般的組織についての報告と法案」阪上孝編訳
『フランス革命期の公教育論』岩波文庫 2002 年 16–17 頁
傍点筆者
31)Jules Ferry, De l’égalité d’éducation, p. 4.
32)Ibid., p. 5.
33)コンドルセ 38 頁
34)Ralphe Albanese Jr., p. 56.
35)Ibid., p. 40.
36)Dictionnaire de pédagogie et d’instruction primaire, publié sous la direction
de F. Buisson, Librairie Hachette et Cie., 1882.
37)『初等教育事典』のモリエールの項目は文学史家のポール・アルベー
ル Paul Albert が担当している。
38)初等教育における中立的道徳としては、「学校を愛しなさい」、「教師
を愛しなさい」、「友人を愛しなさい」、「将来に備え、『互助会』に加
入 し な さ い 」、「 卒 業 後 も 学 校 を 愛 し な さ い 」 と ま ず 教 え ら れ た 。
Xabier Darcos, L’Ecole de Jules Ferry 1880-1905, Hachette, 2005, p. 120121.
39)Ralphe Albanese Jr., p. 120.
45
40)Ferdinand Brunetière, « L’Idée de Patrie », dans Discours de combat, Perrin
et Cie., 1900, p. 140.
41)Ibid., p. 141.
42)Ibid.
43)Ferdinand Brunetière, Études critiques sur l’histoire de la littérature
française, vol. 1, Librairie Hachette et Cie, 1880, p. 137.
44)Ibid., p. 138.
45)Ibid., p. 138.
46)Ralph Albanese Jr., p. 182.
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