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目 次
研 究 トマス・ワレン:『リヴァイアサン』(ヘッド版)の印刷者
髙野 彰 1
結論による論理関係の構築
― 第 1 部:定言的三段論法からのヒント、そしてその先へ
賴 偉寧 19
日本外務省による大谷家文書調査
池内 敏 29
名古屋大学で無償公開されている教材
― 教材のオープン化と大学図書館の役割 ―
山里 敬也 43
研究ノート 高木三家と埋御門 ―「西高木家陣屋と高木家文書」補遺 ―
石川 寛 70
報 告 『水田文庫貴重書目録』編集後記
編集規定・投稿規定
中井えり子 55
CONTENTS
Research
Thomas Warren : a printer of Leviathan(head edition)
Building a Logical Relation from a Conclusion
― Part I: The hint from categorical syllogism and beyond
TAKANO Akira 1
Wai Ling Lai 19
An Investigation of the Otani Family’s Documents
by the Ministry of Foreign Affairs of Japan
IKEUCHI Satoshi 29
Free Educational Resources Provided by Nagoya University
Opening educational resources and the role of university library
YAMAZATO Takaya 43
Research Note
The three Takagi families and the Uzumi Gate (Uzumimon):
The Nishi Takagi's Governmental Residence (JINYA) and
the Takagi Family Documents (Supplementary Material)
ISHIKAWA hiroshi 70
Report
A postscript of The Mizuta Library of rare books in the history of
European social thought : a catalogue of the collection held at
Nagoya University Library
NAKAI Eriko 55
Introduction to Contributors
研 究
トマス・ワレン:『リヴァイアサン』(ヘッド版)の印刷者
Thomas Warren : a printer of Leviathan(head edition)
元跡見学園女子大学教授
Formerly professor of the Atomi University
髙 野 彰
TAKANO, Akira
Abstract
Thomas Hobbes’ Leviathan (head edition) was published in 1651 by Andrew Crooke. It has
two other editions, Bear edition and Ornament edition.
Head ornament is used on 36 books and pamphlets between 1636-62 which show
sometimes four printers' names. First printer is John Norton, second Alice Norton, third
Thomas Warren and fourth Alice Warren. Alice is John’s wife. After his death she begins to
print. Alice remarried Thomas Warren in 1642 and he begins to print in 1643. Warren is dead
in 1661, but Alice begins to print from 1660. These four printers are members of John’s
family, and they continued to use the head ornament for a long time.
Their head ornaments are distinguished by a slender face, a pointed leaf at the upper center
and a bundle of clothes. These characterics are shown on every head ornaments on Table 1.
After 1645, a damage at the upper right corner is added to these.
But head ornament was used by two other families. First is Bonham Norton and his child
Roger Norton. Second is Christopher Barker and his eldest son Robert Barker. Their head
ornaments are distinguished by a round face, a flower bud at the upper center and a bundle of
clothes with fringes.
Leviathan’s head ornament is distinguished by a slender face and a damage at the upper
right corner. It is the same head ornament as John Norton family’s and a printer of the family
in 1645-66 is Thomas Warren. So Leviathan’s head ornament was printed by Thomas Warren.
If Roger Norton prints it, he should not use John’s ornament but Roger’s ornament, that is, the
ornament with a round face, a brocken flower bud without a damage at the upper right corner.
Leviathan has another big ornament (crowned head ornament). But any examples by John
Norton’s family can not be found.
In 1649 Roger Norton printed The great exempler of sanctity and holy lives with a crowned
head ornament (Wing T342) (sig. a1r). Its ornament has a small damage at the left flanked
stalk upon a small head. Since then, its damage is shown on Wing A3147 (sig.*1r) (1650),
T405 (sig.A1r) (1651) and J91 (sig. a2r) (1653) and others. But Leviathan’s crowned head
ornament has not a damage at the same place. So Roger is not a printer of the crowned head
ornament of Leviathan (head edition).
Second half of Leviathan (head edition) begins with mermaid initial I. It has a damage near
the upper center of the border. Richard Cotes used a same damaged mermaid initial I (Wing
L2071). So he is the printer of the mermaid initial I of Leviathan (head edition).
On table3, Letter ‘m’ is recurred between sig. 2C-2Z, and letters ‘c’ and ‘d’ are recurred
between sig. E-2B. But letter ‘m’ is not used before sig. 2B and letter ‘c’ and ‘d’ are not used
after sig. 2C. Then, Leviathan (head edition) is divided into two and composed by two
compositors.
Adding the fact on the printers of head ornament and mermaid initial I to these, it comes to
a conclusion that Leviathan (head edition) is divided into two and first part (sig.A-2B4) is
printed by Thomas Warren and second part (sig. 2C-3D4) by Richard Cotes.
Signature A consists of outer and inner sheets. But some inner sheet is turned inside out by
mistake and folded. So some sig. A are misbound as A1, A3, A2, A4.
Signature A4’s text of Leviathan (head edition) begins with ‘THE INTRODUCTION’.
‘THE’ is printed by two kind of types. Roman capital is the first print with signature ‘B’ and
swash italic capital is revised print without signature ‘B’.
Keywords
Thomas Hobbes(トマス・ホッブス),
Leviathan (head edition)(
『リヴァイアサン』(ヘッド版)),
Thomas Warren(トマス・ワレン),Bibliography(西洋書誌学)
,Printing history(印刷史)
トマス・ホッブス(Thomas Hobbes)は17世紀
の哲学者である。彼は1588年にイギリスで生まれ
た。この時代はイギリスにとって激動期である。
彼が活躍し出す頃はクロムウエルの革命期に当た
り、難を逃れてフランスに亡命する。そのときに
執筆したのが旧約聖書ヨブ記にでてくる海獣レビ
ヤタンからその名を取った『リヴァイアサン』
(Leviathan)である。
この本は彼が亡命先のパリでゲラを校正し、イ
ギリスで1651年にアンドルー・クルク(Andrew
Crooke)から出版された。印刷者名はない。出版
自体は禁止されなかったが、教会を痛烈に批判し
たことから、発禁となる。お陰でイギリスの日記
作家サムエル・ピープス(Samuel Pepys)はこの
本が「元来値段は八シリングだったので、わたし
は中古品に対して二十四シリング出したが、三十
シリングで売られている」と書いている(注 1 )。
二種類の海賊版が出たのも発禁が要因となった
と見て良い。この二点は、海賊版と言うこともあっ
て、書名、出版社名、刊年がそのまま示された。
そのため最初の本を含めた三点は扉を飾っている
オーナメントによって識別、呼称されることにな
る。「人間の頭」で飾った「ヘッド版」(head)
、
枝を抱えて立っている「熊」を飾った「ベア版」
(bear)、「小さな図柄」を三列並べた「オーナメ
ント版」
(ornaments)である。ヘッド版が真正版、
残りの二点が海賊版ということになる。本稿では
このヘッド版の印刷について考察する。
この本は次のような構成になっている。
Folio in 2: engraved title leaf, A-Z4, Aa-Zz4
Aaa-Ddd4, folded broad printed table
1 .Engraved title leaf:
2 .A折丁
[A1r]
Title page(図 1 )
[A1v]
[blank]
r
A2
TO | MY MOST HONOR'D FRIEND Mr
FRANCIS GODOLPHIN | of Godolphin.
[A3r]
The Contents of the Chapters.
[A3v]
Errata.
[A4r] [headpiece ornament]THE |
INTRODUCTION.(pp.1-2)
3 .B1r-Dddv(pp.3-396): text
1636-62年のヘッド・オーナメント
ノエル・マルコム(Noel Malcolm)は『リヴァ
4
イアサン』(ヘッド版)の前半部分(sig. A-2B )
をロジャー・ノートン(Roger Norton)、後半部分
4
(sig. 2C-3D ) を リ チ ャ ー ド・ コ ー ツ(Richard
Cotes)が印刷したといっている。その決め手と
したのが国王(Crowned head)・オーナメントと
「人魚飾りのイニシャル」Iに生じた欠損の有無
であった。しかし『リヴァイアサン』(ヘッド版)
と呼称する由来となったばかりでなく、印刷者を
特定する最も重要な判断要素となるヘッド・オー
ナメントについては一言も触れていない。他の例
を未見だからと言う。そしてジャクソン(W.A.
Jackson)もロジャー・ノートンとリチャード・
コーツが印刷者だと、根拠を示さないままに言っ
ている(注 2 )。本項では彼らの主張を再検討し、
印刷者を特定する予定である。
図 1 は『リヴァイアサン』(ヘッド版)の扉で
あり、ここにはヘッド・オーナメントが示されて
いる。これまでこのオーナメントの全貌が語られ
ることはなかった。しかしEEBO(Early English
Books Online)というデータベースで、「s.n.」(出
版者や印刷者名が表示されていない、と言う意味
の略表示)などを検索語にして検索すると、表 1
に示したように、非常に興味深い結果が得られる。
こ の オ ー ナ メ ン ト は36点 も の 本 や 小 冊 子 で、
1636-62年という長期に渡って使われ続けたばか
りでなく、時には、4 人の印刷者名が示されてい
ることも判明した。この 4 人とはどんな人物であ
ろうか。
1 .London, Printed by John Norton, 1636
(STC.1349)
(図 2 )
2 .London, Printed by A.N. 1641
(Wing C1641)(図 3 )
3 .London, Printed by T.W. 1646
(Wing C1943)(図 4 )
4 .London, Printed by Alice Warren, 1662
(Wing D2481)(図 5 )
一人目はロンドンの印刷者ジョン・ノートン
(John Norton)である。彼は1621-40に活躍し(注
3 )、ヘッド・オーナメントを1636-39年に使っ
ている。
二 人 目 の 人 物「A.N.」 は ア リ ス・ ノ ー ト ン
(Alice Norton)と言い、ジョンの妻である。ジョ
ンが1640年に死去すると、彼女は彼の跡を継いで
印刷業を始める。しかし彼女がヘッド・オーナメ
ント付き出版物を自分の名前で出したのは1641-
42年のことであった。
三人目の人物は「T.W.」、即ち、トマス・ワレ
ン(Thomas Warren)である。ジョンの死後、ア
リスは1642年に再婚する(注 4 )。その相手がワ
レンであった。1662年の図 5 は、印刷者が「Alice
Warren」だと言っているし、1646年の図 4 や1649
年の図 6 は「T.W.」
(トマス・ワレン)がヘッド・
オーナメント付きの印刷をしたことを示してい
る。アリスがワレンと再婚し、ワレンが印刷業を
引き継いだことがわかる。トマス・ワレンは1643
年から、死去するまで、ジョンの印刷所を切り回
していた。
最 後 が ア リ ス・ ワ レ ン(Alice Warren)( ア リ
ス・ノートンの再婚名)である。ワレンは1661年
に死去するが、その前年からアリスは印刷業を再
開した(Wing 2581A)。もっとも、上記 4 に示し
たように、ヘッド・オーナメントを使ったのはそ
れから 2 年後の1662年のことになる。しかしこの
印刷所は1666年のロンドンの大火で焼失してしま
う(注5)。前述した 4 人はいずれもジョン・ノー
トンの家系のものばかりであり、その彼らが連綿
としてヘッド・オーナメントを使い続けてきたこ
とがわかる。
彼らのヘッド・オーナメントはどんな特徴を
もっているのであろうか。図 2 - 6 を見ると、印
刷者名の示されているヘッド・オーナメントの顔
は細長い。オーナメントの上部中央は先の尖った
木の葉で飾られ、左右から始まる布の束は下部で
大きく垂れ下がることから、中央で一回束ねられ
ている。これらの特徴は、図 7 (Wing B462)の
ように、印刷者名の示されていないヘッド・オー
ナメントにも共通するので、表 1 に示したヘッ
ド・オーナメントはすべて同一の図柄になる。
1645年からは特徴がもう一つ追加される。図 9
からわかるように、この年に印刷されたオーナメ
ントの右上端付近に欠損が生じ、最後の1662年
(図11)までの全ヘッド・オーナメントが同じ状
態にあるからである。欠損の有無は図 7 や図 8 と
1645年の図 9 を比べればわかる。
細長い顔と丸い顔のヘッド・オーナメント
これまでジョン・ノートンの家系で用いていた
「ヘッド」オーナメントについて述べてきた。し
かしヘッド・オーナメント(のデザイン)を使っ
ていたのはジョンの家系だけではなかった。ジョ
ン・ノートンの遠縁に当たるボナム・ノートン
(Bonham Norton)( 図12)(1619年 ) と そ の 子 ロ
ジャー・ノートン(Roger Norton)(図13)(1654
年)の家系も使っている。もう一つは図14(1585
年)や図15(1596年)に示したように、初代クリ
ストファー・バーカー(Chistopher Barker)に始
まり、長男ロバート(Robert Barker)
(STC. 1133)
(1601年)へと繋がっていく家系である。
図12-15からわかるように、両家のオーナメン
トはいずれも丸顔である。上部中央の飾りは丸い
蕾の形をし、下部に垂れ下がった布束にはフリン
ジが付いている。クリストファーの場合、丸い蕾
は当初壊れていなかったが(図14)、1596年には
壊れている(図15)。ボナムの場合は、最初から
丸い蕾が壊れている(図12)。それに対して、ジョ
ンの家系のオーナメントは尖った木の葉とフリン
ジの付かない布束なので、彼らのとでは明確に識
別できる。表 1 はいずれもジョンの家系のヘッ
ド・オーナメントと見て良い。
では『リヴァイアサン』のヘッド・オーナメン
ト(図10)はどんな状態にあるのであろうか。『リ
ヴァイアサン』の図10も1645年の図 9 と同じ箇所
に欠損が見つかる。ヘッド・オーナメントの顔は
細長く、上部中央は尖った木の葉で飾られ、下部
の垂れ下がった布束にフリンジは付いていない。
図10は図 9 と同じ版面(block)で刷られたと見
て良い。このデザインはジョンの家系のオーナメ
ントに合致する。ジョンの家系ではワレンが1643
年から印刷業を引き継ぎ、1661年まで業務を続け
ている。従って1651年に出版された『リヴァイア
サン』(ヘッド版)のヘッド・オーナメントはト
マス・ワレンが印刷したことになる。前述したよ
うに、マルコムはロジャー・ノートンが印刷した
と言っているが、もし彼が印刷したのであれば、
ジョンの家系のオーナメントではなくて、自分の
家系のオーナメント、即ち、右上端付近に欠損が
無く、丸顔で、壊れた蕾のヘッド・オーナメント
を使ったのではないだろうか。
国王・オーナメント(Crowned head ornament)
『リヴァイアサン』(ヘッド版)はヘッド・オー
ナメントの他に、もう一つ大きなオーナメントを
使っている。図16に示した国王・オーナメントで
ある。しかし現在のところ、ジョン・ノートンの
家系の人物がこのオーナメントを使った事例は見
つかっていない。
マルコムはロジャー・ノートンが印刷した1650
年の「Wing A3147」中の国王・オーナメント(sig.
*1r)(図18)が『リヴァイアサン』(ヘッド版)
の図16と全く同じだと言い、ロジャーを『リヴァ
イアサン』(ヘッド版)の印刷者と見なしている
(注 6 )。
そこでロジャーの用いた国王・オーナメントを
辿ってみよう。古くは1649年の図17(Wing T342)
(sig. a1r)がある(注 7 )。この図の中心より左側
に小さ目の側顔があり、それを覆った房の最上部
が欠けている。この出版物についてマルコムは何
も言っていないが、1650年の「Wing A3147」(sig.
*1r)(図18)には欠損がないと、言っている。し
かし図18からわかるように、これにも欠損が見え
る。その後も1651年の「Wing T405」
(図19)(sig.
A1r)、1653年 のWing「J91」(sig. a2r)、1654年 の
「J89」(sig. a1r)、1656年 の「S640」(sig. A2r) な
どと欠損オーナメントの使用が途切れることはな
い。ロジャーは1649年から欠損のある国王・オー
ナメントを使い続けてきたことがわかる。ところ
が1651年の『リヴァイアサン』(ヘッド版)の国
王・オーナメント(図16)には欠損がない。ロ
ジャーは『リヴァイアサン』
(ヘッド版)の国王・
オーナメントを印刷していないはずである。
人魚飾りのイニシャル(Mermaid initial I)
『リヴァイアサン』(ヘッド版)の後半(sig.
2C-3D4)の冒頭は「人魚飾りのイニシャル」I
で始まる。図20である。この絵は太い枠で囲まれ、
上部中央付近は欠けている。これと同じ状態のイ
ニシャルIを使っているのがリチャード・コーツ
である。図21(Wing L2071)は1650年に彼が印刷
した出版物中のイニシャルであり、同じ箇所に欠
損が見られる。そして図22(Wing L2060)は同年
の別の出版物のイニシャルであるが、これには欠
損がない。欠損は1650年に生じたことがわかる。
『リヴァイアサン』(ヘッド版)中の「人魚飾りの
イニシャル」Iはコーツが印刷したと見て良い。
植字工(Compositor)
本稿で「印刷者」と言ってきたが、それは一作
業者の意味ではなくて、印刷所を指している。そ
して次に述べるのはその印刷所での植字工の作業
である。『リヴァイアサン』(ヘッド版)に使った
特徴のある活字がどのページのどの活字に出現す
るかを示したのが表 2 であり、それらを視覚的に
示すと表 3 になる。表 3 を見ると、活字「m」は
折丁2C-2Zで繰り返し使われている。そして活字
「d」と「c」の 2 字は折丁E-2Bを網羅している。
しかし活字「m」が折丁2Bより前に使われること
はないし、活字「d」と「c」が折丁2C以降に使
われることもない。これは『リヴァイアサン』
(ヘッド版)の植字工が 2 人いて、彼らが折丁2B
4
と2Cを 境 に し て 前 半(sig.A-2B ) と 後 半(sig.
4
2C-3D )に 2 分割して作業したことを示してい
る。
これに、ヘッド・オーナメントとイニシャルI
の使用者を重ね合わせると、『リヴァイアサン』
4
(ヘッド版)の印刷作業は前半(sig.A-2B )と後
4
半(sig. 2C-3D )とに二分割され、前半はトマス・
ワレン、後半はリチャード・コーツが分担したと
言う結論になる。先に、『リヴァイアサン』(ヘッ
ド版)の前半部分の担当者はロジャー・ノートン
とする、マルコムやジャクソンの主張を提示した。
しかし異なった結果になったことは明らかであ
る。
折り畳み違い(Misfolding)
『リヴァイアサン』のA折丁は二折の紙を 2 枚
重ねて一折丁にしている。つながり具合はA1と
A4そしてA2とA3であり、後の一対が内側になる。
正常に折り畳めば、各紙葉はA1、A2、A3、A4と
順番に並ぶはずだが、下記に示した順序に並んだ
本がある。
[A1r] title page [A3r] The Contents of the Chapters.
A2r
TO | MY MOST HONOR'D FRIEND Mr
FRANCIS GODOLPHIN | of Godolphin.
[A4r] THE | INTRODUCTION.
本来であれば、一対の紙を 2 枚重ねて山折りに
すれば、折記号順そしてページ順に並ぶ。ところ
が、内側の一対を裏返しにして山折りにしたこと
から、上記のように、折丁内の順序が狂ってしまっ
たのである。
誤植訂正(Misprint)
A折丁の[A4]は「THE INTRODUCTION」で
あるが、この「見出し」は2種類の活字で刷られ
ている。
1 .THE | INTRODUCTION 折記号Bあり(図
23)Roman
2 .THE | INTRODUCTION 折記号Bなし(図
24)Swash italic
図24からわかるように、
「THE INTRODUCTION」
はSwash italicで印刷する予定であったが、植字工
が「THE」をローマン体で組んでしまった(図
23)。そして印刷中にそのことに気付き、「THE」
をSwash italicで組み直した。それが図24である。
「A4」の表ページの指示語の行には折記号「B」
も示されていた。そこで「THE」を修正するのに
合わせて、折記号「B」を削除し、印刷し直した。
そのためA4の表ページは2種類出来てしまった。
図23が修正前、そして図24が修正後の印刷と言う
ことになる。これまでのところ、どちらか一つだ
けを修正したという例は見つかっていない。修正
は二カ所同時に行われている。
日本の大学図書館における『リヴァイアサン』
(
「ヘッ
ド」版)の所蔵一覧
表 4 は日本の大学図書館で所蔵する『リヴァイ
アサン』(「ヘッド」版)の一覧である。ここには
本稿で指摘した点も盛り込んでいる(注 8 )。
最後に
本稿を執筆するに当たり、多くの方から援助を
頂いた。中でも名古屋大学附属図書館研究開発室
の中井えり子氏からは本稿を執筆する機会を与え
ていただいた。同図書館情報サービス課調査支援
係には資料の収集でお手数をおかけした。そして
東京大学経済学部資料室の援助も忘れることは出
来ない。こうした方々からの援助がなければ、本
稿はまとめられなかったかもしれない。心からお
礼を申し上げる。もっとも、内容については至ら
ないことも含めてすべて筆者の責任であることは
言うまでもない。
注
p.127.
・図版は特に但し書きがなければ、EEBOからの引用
である。
4 Greg, W.W. 'Alice and the stationers' Library 4th ser.
15(no.4)
(1935). pp.499-500.
1 ピープス、サミュエル『サミュエル・ピープスの
日記』岡照雄,海保眞夫訳 東京 : 国文社,2003。
第 9 巻 p. 310.
5 Farr, Harry. 'Philip Chetwind and the Allott copyrights'
Library. 4th ser., vol.15(no.2)
(1934), p.160.
6 印刷年は1645年と表示されているが、EEBOでは
2 Malcolm, Noel, ed. Thomas Hobbes. Leviathan.
Oxford, Clarendon Press, 2012. Vol.1 Editorial
1649年となっている。
7 Malcolm, Noel, ed. Thomas Hobbes. Leviathan.
Carl
Oxford, Clarendon Press, 2012. Vol.1 Editorial
3 Pollard, A.W. & Redgrave, G.R. A short title catalogue
8 この表は川又祐「ホッブズ『リヴァイアサン』初
introduction. pp.211-3. Jackson, W.A.
Pforzheimer Library. ii, pp.492-3
of books printed in England, Scotland, &
Ireland and of English books printed abroad. Vol.3: A
printers' and publishers' index ... by Katharine
Pantzer... London, Bibliographical Society, 1991.
introduction. p.212.
版Head版(一六五一年)の異刷について」『政経
研 究 』( 日 本 大 学 ) 第51巻 第 1 号(2014年 6 月 )
表 2 を参考に作成した。
表 1:ヘッド・オーナメント
年度
STC 1636
1636
1637
1638
1639
Wing 1641
1642
1645
1646
1648
1649
1650
1651
1662
番号
1349
1503
1350
19303
10217.5
B462
B5334
C1941
D1921
E186
E2679B
H2475
M2731
O606
P3865
P4300
R2197
S1001AD
S3416
S5943
U15
A3538
C6171
G955
I1042
U16
W1186
C4346
C1943
L559
S5199
B4892
G700
H2246
D2481
N868
印刷者
John Norton
John Norton
John Norton
John Norton
John Norton
A.N.
A.N.
A.N.
A.N.
A.N.
A.N.
T.W.
T.W.
Alice Warren
A. Warren
出版社
Head Beast
書 名
○
A sermon preached at Paul
Robert Wilson
○
Ram-Alley
○
A sermon preached at Paul
○
The rose, and lily
○
Articles to be inquired
○
○ A large supplement of the Canterburian
○
The Duke of Buckingham
Robert Lunne
○
Bussy D'Ambois a tragedie
○
○ Two speeches spoken jn the house
○
A letter of that most religious
○
The petition of the House of Commons
○
○ The speech of Denzill Hollis
○
A prisoners letter to the Kings most
○
○ Ovatio Carolina. The triumph of King
○
○ The protestation of the archbishop
○
Ten propositions delivered by Master
○
Sir Beniamin Rudyerd his speech
Nath Butter
○
The charge of Scotland
○
The charitable pestmaster
John Francklin
○
An argue, which hitherto amongst all
○
The true form of church government
○
Apologeticall animadversions of certaine
○
○ A copie of a letter written from His
Richard Lownds ○
Gods good servant, and the kings good
H.T.
○
○ The Irish occurrences, or A true relation
○
The true form of church government
Richard Lownds ○
○ A preparative for the fast
Joshua Kirton
○
The city alarum, or the weeke of our
R. Lunne
○
Bussy D'Ambois a tragedie
○
The late storie of Mr. William Lilly
Tho. Knight
○
Stanbrigii Embrion relimatvm
○
The spoiles of the forest of Deane
Joshua Kirton
○
○ The truth of the Christian religion
Andrew Crooke ○
Leviathan
○
The history of imbanking and drayning
John Martyn
○
Playes written by the thrice noble,
表 2:活字の出現場所
A
C
D
I
m
y
2H1r, 48(〈A〉rts
S1r, 18〈C〉ommon
2B4r, 22〈C〉onstitution
E2r, 13〈D〉eliberation
S1v, 29〈D〉ebate
K2r, 16(〈I〉
mpossible)
2C1v, 30(Drea
〈m〉)
2L2r, 38(ca
〈m〉
e
2R4v, 19(hi〈m〉
self
2N4v, 28(an〈y〉
2K1v, 10(〈A〉
braham
U1v, 19〈C〉ommand
2N3r, 26(〈A〉postles
Y1r, 28〈C〉om-
G1v, 31〈D〉ishonourable
M2r, 30〈D)ominion
P2v, 47(〈I〉
nstitution)
2F2r, 12(Co〈m〉
memoration)
2N4v, 36(〈m〉
ade)
(〈m〉
I
position
2Z3r, 40
2P1v, 18(B〈y〉)
T3r, 2(〈I〉
nterpreters)
2H4v, 30(Exe〈m〉
plary
2P2r, 28(Supre
〈m〉e
2X3r, 24(ma〈y〉)
表 3:活字の発生場所
t.p.
v
v
to
27
29
D
28
30
59
61
60
62
91
93
92
94
123
125
124
126
155
157
156
158
187
189
188
190
219
221
m
220
222
A
E
I
N
R
X
BB
FF
con.2
2
3
5
con.1
1
4
6
32
34
35
37
31
33
36
37
64
66
67
69
I
63
65
68
70
96
98
99
101
95
97
100
102
128
130
131
C
133
127
129
132
D
134
160
162
163
C
165
159
161
164
166
192
194
195
197
191
193
C
196
m
198
224
226
227
229
223
225
228
230
B
F
K
O
S
Y
CC
GG
8
10
11
13
7
9
12
14
40
42
43
45
39
41
44
D
46
72
74
75
77
71
73
76
78
104
106
107
109
103
105
108
110
I
136
138
139
141
135
137
140
142
168
170
171
173
167
169
172
174
200
202
203
205
199
201
204
206
232
234
235
A
237
231
233
236
238
C
G
L
P
T
Z
DD
HH
16
18
19
21
15
17
20
22
48
50
51
53
47
49
52
54
80
82
83
85
D
79
81
84
86
112
114
115
117
111
113
116
118
144
146
147
149
143
I
145
148
C
150
176
178
179
181
175
177
180
182
208
210
211
213
207
209
212
214
240
242
m
243
246
239
241
244
245
D
H
M
Q
U
AA
EE
II
24
26
23
25
56
58
55
57
88
90
87
89
120
122
119
121
152
154
151
153
184
186
183
185
216
218
215
217
247
248
248
247
249
251
250
A
252
285
287
286
288
317
319
318
320
349
351
350
352
KK
LL
254
256
261
263
m
253
255
262
264
290
292
293
295
m
289
291
294
y
296
322
324
325
327
321
323
326
328
354
356
357
359
353
355
358
360
381
CCC
383
386
388
389
DDD
391
394
396
382
384
387
390
392
395
OO
SS
YY
385
PP
TT
ZZ
266
268
269
271
265
267
270
272
298
300
301
303
297
299
302
304
330
332
333
335
329
331
334
336
362
364
365
367
361
m
363
366
368
393
MM
QQ
UU
AAA
274
276
277
279
273
275
278
280
306
308
309
311
305
307
310
312
338
340
341
343
337
339
342
344
370
372
373
375
369
371
374
376
NN
282
281
A
RR
XX
BBB
284
m
y
283
314
316
m
313
315
346
348
345
y
347
378
380
377
379
表 4:Leviathan, 1651年版の所蔵一覧
所蔵機関
東北大学
関東学園大学
千葉商科大学
放送大学
国立国会図書館
慶應義塾大学
駒澤大学
駿河台大学
成蹊大学
成城大学
専修大学
中央大学
東海大学
東京経済大学
東京大学経済学部
東京大学文学部社会学研究室
日本大学経済学部
日本大学法学部
一橋大学
明治大学
立教大学
早稲田大学
神奈川大学
横浜市立大学
日本大学国際関係学部
北陸先端科学技術大学
名古屋大学
2
Head
Bの有無
×
1
1
1
1
1
1
×
×
×
×
×
×
1
1
×
×
1
1
1
1
2
3
1
1
2
×
×
×
×
×
×
×
×
×
1
1
×
×
1
1
×
○
京都外国語大学
京都大学経済学部
京都大学文学部
京都産業大学
大阪市立大学
大阪経済大学
大阪産業大学
関西学院大学
関西大学
近畿大学
奈良大学
広島経済大学
高知大学
1
1
1
1
1
1
3
1
1
1
1
×
×
×
×
○
×
×
×
×
×
×
Pforzheimer
Scola ed.
1
1
○
×
折間違い
Aaa3
A2,A3折間違い
Aaa3
A2,A3折間違い
Aaa3
Aaa3
A2,A3折間違い
Aaa3
Aaa3
図1:Leviathan,1651年(Wing H2246)
(名古屋大学附属図書館蔵)
図2:A sermon(STC 1349,1636年)
図3:Bussy D'Ambois
(Wing C1641,1641年)
図4:Bussy D'Ambois
(Wing C1943,1646年)
図 5 :The history of
imbanking and drayning.
(Wing D2481)
(1662年)
図6:1649年のオーナメント
(Strabrigii Embrion relimatvm)
(Wing S5199)
図7:1641年のオーナメント
(A large supplement)(Wing B462)
(名古屋大学附属図書館蔵)
図8:1642年のオーナメント
(The Irish occurrence)(Wing I1042)
図9:1645年のオーナメント
(The city alarum)(Wing C4346)
図10:1651年のオーナメント
『リヴァイアサン』(Wing H2246)
(名古屋大学附属図書館蔵)
図11:1662年のオーナメント
(The history of imbanking)
(Wing D2481)
図12:1619年のボナムの
ヘッド・オーナメント
(A meditation vpon the Lords prayer)
(STC 14384)
(Bonham Norton)
図13:1654年のロジャーのヘッド・オーナメント
(Tessera Romana)(Wing M126)
(Roger Norton)
図14:1585年のC. バーカーのヘッド・オーナメント
(Delle caggioni)(STC 9193)
図15:1596年のC. バーカーのヘッド・オーナメント
(The examination of Mr. Thomas Cartwrights)
(STC 23463)
図16:(『リヴァイアサン』(Wing H2246)
(1651年)
(名古屋大学附属図書館 水田文庫)
図17:The great exemplar of sanctity
and holy life(Wing T342)(sig. a1r)
(1649年)(Roger Norton)
図18:The pattern of catechistical doctrine
(Wing A3147)(sig. *1r)
(1650年)(Roger Norton)
図19:XXVIII sermons(Wing T405)
(sig. A1r)(1651年)(Roger Norton)
図20:Mermaid I
『リヴァイアサン』
(名古屋大学附属図書館蔵)
図23:修正前『リヴァイアサン』
(名古屋大学附属図書館水田文庫)
図21:Mermaid I(Cotes)
(The temple)
(Wing L2071)
(1650年)
図22:Mermaid I(Cotes)
(The harmony)
(Wing L2060)
(1650年)
図24:修正後『リヴァイアサン』
(名古屋大学附属図書館ホッブス文庫)
研 究
Building a Logical Relation from a Conclusion
― Part I: The hint from categorical syllogism and beyond
結論による論理関係の構築
― 第 1 部:定言的三段論法からのヒント、そしてその先へ
Institute of Liberal Arts and Sciences
教養教育院教養教育推進室
Wai Ling Lai
賴 偉 寧
Abstract
In a previous paper (Lai 2014), I have introduced a research writing pedagogy called the
Logical Writing Process Cycle (LWPC). Under LWPC, the basis of writing a research paper
is the development of the paper’s thesis statement – or research conclusion in some sense, by
providing a convincing support for the statement. In order for LWPC to be satisfactory, there
must be, among other things, clear and step-by-step instructions on how to build a convincing
support for the thesis statement. The purpose of this paper is to provide the first of a three-part
instruction series on how to do it. The paper will begin by introducing the core of the
convincing support, which is a logical relation between the thesis statement and its premises.
The hint of building a logical relation based on a conclusion can be found in the basic
concepts of categorical syllogism (section 2). And a recipe on how to logically construct a
categorical syllogism from a conclusion is formulated (section 3). However, the logical
construction of categorical syllogism is rather arbitrary and limited in application (section 4).
In order to learn a more natural and powerful way of building a convincing support for a thesis
statement, the primary step is to learn how to identify and build a premise that bears a direct
inferential relation to the thesis statement (section 5).
先行研究において、著者はロジカル・ライティング・プロセス・サイクル(LWPC)
と呼ばれるライティング教授法を紹介した。LWPCにおいて、研究論文の基礎は論文
のティーシス・ステートメント(thesis statement)
、すなわち、ある意味では研究の
結論を構築することであり、同ステートメントに対する説得力のある裏付けを供与
することである。LWPC が満足のゆくものとなるには、とりわけ、どのようにすれ
ばティーシス・ステートメントについて説得力ある裏付けを構築できるのかについ
て明確で段階的な指針が不可欠となる。本論の目的はその方法に関する 3 部構成の
指針シリーズの第 1 部を供与することである。まず、説得力のある裏付けの核心部
分を導入する。それはティーシス・ステートメントと前提との間の論理的な関係に
ある。結論に基づく論理的関係を構築するうえでのヒントは、定言的三段論法の基
本的概念の中に見出すことができる(第 2 節)。さらに、結論から論理的に定言的三
段論法を構築するための方法を系統的に説明する(第 3 節)。しかしながら、定言的
三段論法を構築する作業はある程度恣意的であり、適用可能な範囲は限られている
(第 4 節)。ティーシス・ステートメントについて説得力ある裏付けを構築するため
の、より自然で肯定的な方法を習得するうえで最も重要なステップはティーシス・
ステートメントと直接的な推論関係を担う前提をどのようにして識別して構築して
いくかを理解することなのである(第 5 節)。
Keywords
research writing(リサーチ・ライティング)
,logical relation(論理的関係)
,
,
categorical syllogism(定言的三段論法)
,thesis statement(ティーシス・ステートメント)
logical writing process cycle(ロジカル・ライティング・プロセス・サイクル)
1. Logical Relation and Its Role in Research Writing
1.1. Logical relation
Two statements are said to be in a logical relation if the truth or falsity of one statement has an inferential effect on the
other. For example, consider the two statements in Eg-1:
(Eg-1)
Statement-1: Peter is in Nagoya.
Statement-2: Peter is in Japan.
In Eg-1, Statement-1 is logically related to Statement-2 because if Statement-1 is true, then Statement-2 is also true
by inference (this is fundamentally because, as a matter of fact, Nagoya is one part of Japan). In other words, the truth of
Statement-1 bears an inferential relation to the truth of Statement-2. A logical relation is an inferential relation.
Now we are looking at the logical relation example through the perspective of an inferential relation connecting the
truth of one statement with the truth of another. But we can also look at the same logical relation from a different
perspective; that is, if Statement-2 is false, then Statement-1 is also false by inference. This is the perspective from an
inferential relation that connects the falsity of one statement with the falsity of another. Accordingly, a logical relation
can be understood not only from the perspective of an inferential relation between the truths but also from the
perspective of an inferential relation between the falsities.
1.2. The research writing pedagogy
In the paper, “Logical Thinking Skills in Academic Writing: An introduction to a research-writing course at Nagoya
University” (Lai 2014), I have introduced a research writing pedagogy called the Logical Writing Process Cycle, or
LWPC. As the name suggests, LWPC focuses on the logical thinking education in academic writing, which is
specifically employed to help students develop a clear and convincing research idea in the writing process. In order for
LWPC to be satisfactory, it is important to demonstrate how exactly logical thinking skills can be applied to research
writing.
In research writing, the place where logical thinking skills are mostly needed is the development of the paper’s thesis
statement. Under LWPC, the entire process of writing a research paper focuses on the development of the paper’s thesis
statement. And such a development is a process of logical argumentation.
The first and foremost task in the development is the creation of a preliminary thesis statement that is clear enough to
establish the direction for the writing process. Having had the thesis statement in place, the rest of the development
process is to polish up the statement until it is equipped with a convincing support.
Building a convincing support for the thesis statement is building a logical relation that connects the statement with
its supporting premises. Since logical relation is an inferential relation between the truths (as well as the falsities), it
forms the base of a convincing thesis statement in research writing. Recall that a convincing thesis statement is capable
of causing someone to believe that the statement is true (Lai 2014, p. 5). Accordingly, making the thesis statement
convincing is establishing the proof that the thesis statement is true by reference to its supporting premises; i.e. by
demonstrating that the premises are true.
In the development process, the thesis statement takes the shape of a hypothesis in the early stage, but in the final
stage, after collecting and finalizing all the supporting evidences, it will be transformed into the research conclusion of
the paper.
Since the thesis statement is the research conclusion, and since LWPC starts with the thesis statement, the key to
building the convincing support, as well as the key to making LWPC a satisfactory pedagogy, lies in understanding how
to build a logical relation from a conclusion to its premises.
2. A Hint from Categorical Syllogism
To begin with, there is a hint from categorical syllogism that we can build a logical argument from a conclusion.
Categorical syllogism is a classical logical argument invented by Aristotle. Like every other kind of logical argument,
the base of a categorical syllogism is an inferential relation that connects the argument’s premises to its conclusion.
What is special about categorical syllogism is that it contains only three statements, and the inferential relation that
connects the premises and conclusion is deductive. Consider the argument in Eg-2.
(Eg-2)
Statement-3: All human beings are mortal.
Statement-4: Peter is a member of human beings.
Statement-5: Peter is mortal.
Eg-2 presents a typical categorical syllogism. The argument contains three statements: Statement-3 and Statement-4
are the argument’s premises, whereas Statement-5 is the argument’s conclusion.
The two premises have their own names in a categorical syllogism. Statement-3 is called the major premise, and
Statement-4 the minor premise. The reason for the naming is straightforward: The major premise comprises a logic term
called the major term, and the minor premise comprises a logic term called the minor term. It is the major term that
defines the major premise, and the minor term that defines the minor premise.
Apart from the major term and the minor term, there is a third logic term called the middle term. The middle term is
what the two premises have in common, and it is in virtue of the middle term that the major term and minor term are
connected.
The three logic terms are the fundamental architects of a categorical syllogism, and for this reason, categorical
syllogism is also regarded as the three-term logic.
The following diagram illustrates the technical relationship in the categorical syllogism.
(Middle&term)&
!
Major!Premise: !
!
Minor!Premise: !
!
Conclusion:
!
!
!All! human&beings !are! mortal. !
! Peter !is!a!member!of ! human&beings. !
! Peter !is! mortal. !
(Major&term)&
(Minor&term)&
As a validity rule, both the major term and minor term must reappear in the argument’s conclusion (Copi and Cohen
2015. p. 219). The major term functions as the conclusion’s predicate term (P ), whereas the minor term functions as the
conclusion’s subject term (S ). Since the major term and the minor term are the architects of the major premise and the
minor premise respectively, and since the major term and minor term also function as the conclusion’s predicate term
and subject term respectively, we can get a basic idea about what the premises should look like by studying the
conclusion alone. That is, the conclusion contains the essential component of each of the two premises! By studying the
conclusion, we know that the conclusion’s predicate term must be in the major premise, and the subject term must be in
the minor premise. This is the hint about how to get to the premises from a conclusion.
3. Building a Categorical Syllogism based on a Conclusion: the Recipe!
Based on the hint from the three-term argument, together with the validity rules of categorical syllogism that specify
the location of the three terms in the argument (ibid. p. 221), a recipe can be formulated to show exactly how a
categorical syllogism is developed based on a conclusion!
According to the validity rules of categorical syllogism, the conclusion of a categorical syllogism can be only one of
the four kinds; namely (i) the conclusion that is universal affirmative (All S is P ), (ii) the conclusion that is universal
negative (No S is P ), (iii) the conclusion that is particular affirmative (Some S is P ), (iv) the conclusion that is
particular negative (Some S is not P ).
And according to the rules (ibid. p. 221), there are only four valid forms for the three terms to be located in a
categorical syllogism, depending on the kind of the conclusion.
Without going into details, there are fifteen valid forms of categorical syllogism derived from the kind of the
conclusion and the location of the terms (ibid. p. 250), and each of them has a unique name. In the paragraphs that
follow, I shall only demonstrate the practical steps of building one particular form of categorical syllogism, called Darii.
But the basic concept behind the recipe is common to all the other fourteen forms.
3.1. The recipe of building Darii based on its conclusion
Step 1: Study the conclusion.
Since we start building the argument from its conclusion, the first step is to study the conclusion and make sure that it
falls into one of the four valid forms. For demonstration purpose, the argument called Darii has been chosen in this
recipe. Its conclusion is in the form of particular affirmative (Some S is P ) (ibid. p. 250).
As an example, let’s consider the following conclusion.
(Step 1)
Conclusion:
Peter is a teacher.
Clearly, what the conclusion expresses is in the form of particular affirmative. It is about a particular individual,
“Peter”, and the individual’s being “a teacher”.
By studying the conclusion, we can obtain some clues about the two premises to be established.
First, both premises must be affirmative. As far as a valid categorical syllogism is concerned, an affirmative
conclusion should be followed by two affirmative premises (ibid. p. 239 - 240), whereas a negative conclusion should be
followed by only one negative premise. Since we are now building a categorical syllogism based on an affirmative
conclusion, in the following steps we must establish two affirmative premises.
Second, since the conclusion’s subject term is also the argument’s minor term, we know that the minor term is “Peter”.
In like manner, since the conclusion’s predicate term is also the argument’s major term, we know that the major term is
“teacher”.
Step 2: Allocate the space for the premises.
The second step is merely mechanical. Allocate, right above the conclusion, a two-line space for the premises. Write
“Major Premise” on the first line, and “Minor Premise” on the second. In a valid categorical syllogism, the major
premise is always placed on the first line, the minor premise the second.
(Step 2)
Major Premise:
Minor Premise:
Conclusion:
Peter is a teacher.
Step 3: Accommodate the major term and the minor term.
The third step is also mechanical. Place, according to the validity rules of categorical syllogism, the major term and
the minor term on their appropriate premise location. According to the formal structure of Darii, the major term occupies
the predicate position of the major premise, and the minor term the subject position of the minor premise. We also need
to add the quantifier, “All” or “Every”, in front of the subject position of the major premise. The major premise of Darii
is a universal affirmative statement.
(Step 3)
Major Premise:
Minor Premise:
Conclusion:
All/Every … teacher.
Peter …
Peter is a teacher.
Step 4: Accommodate the middle term.
Step 4 is another mechanical step. So far we already know the location of the major term and the minor term in the
argument. The blank area in the major premise and the minor premise are the locations of the middle term. Since we still
do not know what the middle term is, for now just fill the blank areas with the word, “Middle term”.
(Step 4)
Major Premise:
Minor Premise:
Conclusion:
All/Every Middle term teacher.
Peter Middle term.
Peter is a teacher.
Step 5: Find the middle term.
Step 5 is the most crucial and difficult step of building a categorical syllogism. We must now consider what could be
the crucial middle term.
Finding an appropriate middle term is really crucial for building a categorical syllogism. The function of the middle
term in the argument is to bridge the major term, which is the conclusion’s predicate term, with the minor term, which is
the conclusion’s subject term. Thus whether the subject and predicate in the conclusion are properly connected – and
hence justified – or not fundamentally depends on whether the middle term is appropriate or not.
To establish the connection between the major term and the minor term, there must be, on the one hand, a connection
between the middle term and the major term in the major premise, and on the other hand, a connection between the
middle term and the minor term in the minor premise. And in order for the whole connection to be proper, the middle
term must be distributed in at least one of the two premises, meaning that the term must designate the whole of the
category of objects with which the major term or the minor term is connected. If the middle term is not distributed, then
it is possible that the major term and minor term are connected to different part of what the middle term designates, and
therefore are not necessarily connected with each other (ibid. p. 238).
Returning to the construction of our argument, we can see from Step 4 that the middle term occupies the subject
position of the major premise as well as the predicate position of the minor premise. And according to the formal
structure of Darii, the term that occupies the subject position of the major premise is distributed. The concept regarding
how the three terms are connected is illustrated below.
The illustration shows the distribution of the middle term by showing that the category designated by the middle term
is a member of the category designated by the major term. It also shows that the category designated by the minor term
is a member of the category designated by the middle term. In this way, the minor term is guaranteed a connection with
the major term.
From the illustration, we can somehow get an idea about what the middle term should look like. The candidate for the
middle term can be found in the category that is smaller than “teacher” but larger than “Peter”.
One suggestion is given below.
(Step 5)
Major Premise:
Minor Premise:
Conclusion:
The argument is built!
Every Mei graduate is a teacher.
Peter is a MEI graduate.
Peter is a teacher.
4. Going Beyond Categorical Syllogism
The recipe of building Darii illustrates exactly how a categorical syllogism can be built from its conclusion. Most of
the steps in the recipe are purely mechanical. And the idea behind them is applicable to all the other forms of categorical
syllogism.
However, the method is rather arbitrary, and it has very limited applications.
First of all, it is necessary to refer to the validity rules of categorical syllogism in order to build the argument. The
locations of the logic terms as well as the nature of the premises were already decided by the rules, leaving very limited
room for flexibility.
But most importantly, categorical syllogisms are classical deductive arguments that are based on the inferential
relations between categories or classes of objects (ibid. p. 217). Under this argumentation method, building an inferential
relation between P and Q will have to be accomplished via an inferential relation between the class that contains P and
the class the contains Q, rather than P and Q exclusively. In this way, the explanation of the inferential relation between
P and Q is given by means of things other than this P and this Q; i.e. by means of all the other Ps and Qs in the
respective classes. But in building an inferential relation between P and Q, we want to know what is it about this P and
this Q that makes one inferred from another.
The method is no doubt very powerful; even a novice in logic can easily understand the inferential relation it
demonstrates. However, it is rather counterintuitive, especially during the process of everyday reasoning, to construct an
inferential relation based on a relation between classes of objects. Detectives, for instance, do not normally draw their
inferences based on the relation between a class of criminals and a class of crimes.
5. A New Approach to Logical Thinking Education
In order to learn a more natural and powerful way of building logical relations based on a conclusion, one needs to
learn logical thinking skills that are radically different from those offered by conventional logic studies.
Based on the account given in section 2, for a thesis statement to be convincing, there must be an inferential relation
linking the statement with the supporting premises so that the thesis statement can be proven true by demonstrating that
the premises are true. In order for this to be possible, one needs to know how to identify and build the premises that bear
an appropriate inferential relation to the thesis statement. Specifically speaking, it involves knowing (i) how to
distinguish between the premises that constitute a convincing support for the thesis statement and the premises that do
not, (ii) how to build a premise that is necessary for supporting the thesis statement, (iii) how to find and eliminate the
obstacles that are blocking the inferential relation between the necessary premise and the thesis statement. In the rest of
the paper, I shall only highlight the first two skills. This would be enough to demonstrate the basic idea about how to
make a thesis statement convincing.
5.1. Distinguishing between two kinds of premises
Premise, according to Irving Copi, is what provides the ground or reason for a conclusion (ibid. p. 7). But treating a
premise as a reason can be quite misleading. There are many kinds of reasons. And not every reason for a conclusion
can be also the premise for the conclusion. Being able to draw a principled distinction between the premises that
constitute a convincing support for the thesis statement and others that do not is essential to identifying and building the
appropriate premises for the statement. But this is not an easy task. Most of the students I came across had a difficulty to
do so. Consider the following exercise.
Class Exercise: Judge which one of the reasons (in either Group A or Group B) constitutes a
convincing support for the conclusion.
Group A
Group B
Peter is in Nagoya because
Peter has a house in Nagoya.
Peter is in Nagoya because
Peter is not in Tokyo.
All the graduate students taking my course were asked, during the first lesson, to do a class exercise similar to the one
shown above. But unfortunately, most of them failed the excise. For instance, nearly 90% of the forty students who
enrolled my course in the first semester of 2015 chose the reason in Group A.
Contrary to what it seems, the reason in Group A, “Peter has a house in Nagoya”, does not constitute a convincing
support for the conclusion, “Peter is in Nagoya”. Even though it is true that Peter has a house in Nagoya, it does not
follow that Peter is in Nagoya. On the other hand, Peter could well be in Nagoya even though he does not have a house
there. Thus whether Peter has a house in Nagoya or not has no direct inferential effect on Peter’s being in Nagoya. The
1
reason does not bear a direct inferential relation to the conclusion.
The reason in Group B, “Peter is not in Tokyo”, does constitute a convincing support for the conclusion, “Peter is in
Nagoya”. There is a direct inferential relation linking the two. The easiest way to see this is to imagine what if it is false
that “Peter is not in Tokyo”. If it is false that Peter is not in Tokyo, then Peter is in Tokyo. And if Peter is in Tokyo, then
Peter cannot be in Nagoya – hence it is false that Peter is in Nagoya. From this perspective, the reason bears a direct
inferential relation to the conclusion; the reason is the premise for the conclusion.
5.2. A different perspective: the method of falsification
The students failed the exercise because they failed to see the relation between premise and conclusion from a
different perspective. Undeniably, the relation between a premise and conclusion can be quite tricky. Even though there
is an inferential relation linking a premise to a particular conclusion, it might not be easily spotted, especially to the
untrained eye. This is shown by the fact that nearly 90% of the students failed to choose the correct premise. Although
the premise, “Peter is not in Tokyo”, bears a direct inferential relation to the conclusion, “Peter is in Nagoya”, the truth
of the former is not immediately followed by the truth of the latter. Peter’s not being in Tokyo is not directly followed by
Peter’s being in Nagoya. There are other possibilities that are blocking the inferential relation that link the truth of the
premise to the truth of the conclusion. Thus it might be difficult to detect the presence of an inferential relation linking
one statement to another if we only consider the relation from the perspective of how the truth of one statement is
connected to the truth of another.
In order to effectively identify the presence of an inferential relation, we need to look at the relation from a different
perspective. This way of detecting the inferential relation was already hinted in the exercise above. It is called the
method of falsification.
The method of falsification works by falsifying a premise and see if the result has a direct inferential effect on the
conclusion the premise is thought to be supporting. This way of identifying the appropriateness of a premise is highly
effective. We can see straightaway whether the premise is appropriate or not. If the falsification of the premise directly
results in the falsification of the conclusion, then the premise bears a direct inferential relation to the conclusion.
1
The reason may nevertheless be used to support the conclusion if a direct inferential relation with the conclusion is established
through the inclusion of some additional premise or premises. The definition of “direct inferential relation” will become clearer as
we move on.
5.3. Building a Necessary Premise
So far I have explained that a direct inferential relation linking the premise and the conclusion is what constitutes a
convincing support for the conclusion. Furthermore, we now have a method to effectively identify whether the
convincing support is present or not. The next important step is to learn how to build a premise that bears a direct
inferential relation to a conclusion.
The meaning of “direct inferential relation” is defined by the direct inferential effect on a conclusion. For instance, a
premise bears a direct inferential relation to a conclusion if the falsification of the premise directly results in the
falsification of the conclusion; e.g. if it is false that Peter is not in Tokyo, then it is also false that Peter is in Nagoya.
Similarly, if the truth of a premise directly results in the truth of a conclusion, then the premise is also regarded as
bearing a direct inferential relation to the conclusion; e.g. if it is true that Peter is in Tokyo, then it is also true that Peter
is not in Nagoya.
But regardless of the form of the direct inferential effect, if a premise has a direct inferential effect on a conclusion,
then the conclusion shares the same truth condition with the premise. For example, the statement, “Peter is in Nagoya”,
shares basically the same truth condition as the one, “Peter is not in Tokyo”. Nagoya is not Tokyo; hence for Peter to be
in Nagoya is for Peter to be not in Tokyo. Accordingly, in order to build a premise that bears a direct inferential relation
to a conclusion, we must build a premise with which the conclusion shares basically the same truth condition.
One way to build such a premise is to build a Necessary Premise, or the premise that is necessary for proving the
conclusion to be true.
The Necessary Premise of an argument basically functions as the basis for supporting the argument’s conclusion. It is
a premise the falsification of which guarantees the falsification of the argument’s conclusion. The Necessary Premise
provides, among other things, a justification for the existence of the conclusion. It may not be sufficient for making the
conclusion true, but without which the conclusion is certainly false or not possible. Thus the presence of a conclusion
suggests the presence of at least one premise that is necessary for making the conclusion possible.
The idea that every argument has a premise that functions as the basis of the argument is not really new.
Contemporary studies of argumentation schemes have postulated the presence of one special premise in each argument
scheme (Arthur Hastings, 1963; Douglas Walton, 1996). Hastings calls such a premise the “Toulmin warrant”, whereas
Walton calls it the “Major premise”. But both of them see it as a generalization or rule that functions to link other
premise or premises to the conclusion (Walton 2010, p. 9). However, the exact nature of the premise remains largely
unclear in the contemporary studies, and as a result the method of building such a statement is rather arbitrary.
On the contrary, the nature of the Necessary Premise is very clear. It is what justifies the existence of the conclusion in
an argument, and there are straightforward and systematic steps of getting to the premise based on the conclusion. Very
briefly, since a Necessary Premise is the one the falsification of which guarantees the falsification of the conclusion, we
can treat the falsification of a Necessary Premise as the counterstatement to the conclusion. In this way, the steps of
building a Necessary Premise become really straightforward as long as a conclusion is in place. First of all, we study the
conclusion carefully, and then find, by comparing it with the research conclusions of some previous studies that are
significantly different from the present one, a counterstatement to the conclusion. Once the counterstatement is ready,
we can then find a reason for rejecting the counterstatement and build a statement that summarizes the reason (in
basically the same way as building a thesis statement). The statement that rejects the counterstatement is the Necessary
Premise. To illustrate the idea with a very simple example, if a thesis statement is: “Peter is in Nagoya”, then a possible
counterstatement to it is: “Peter is in Tokyo (hence not in Nagoya)”. As a result, a Necessary Premise for the thesis
statement is the rejection of the counterstatement; hence “Peter is not in Tokyo”.
The Necessary Premise built in this way shares the same truth condition as the thesis statement, and therefore
constitutes a direct inferential support for the statement. After building a Necessary Premise, the remaining task of
making the thesis statement fully convincing is to develop, based on the Necessary Premise, a sufficient ground for
proving the statement to be true. The way to do it is by building additional premise or premises that eliminate the
obstacles blocking the truth connection between the Necessary Premise and the thesis statement.
6. Conclusion So Far
So far I have presented the first of a three-part instruction series on how to build a logical relation from a conclusion.
A step-by-step account of such a logical construction is vital to the success of the application of LWPC, the core of
which lies in the logical argumentation based on a paper’s thesis statement.
The best hint of the logical construction comes from the basic concepts of categorical syllogism. Based on the hint, a
recipe was formulated to show exactly how a categorical syllogism is developed based on a conclusion! But the
construction method of categorical syllogism is rather arbitrary and it has a very limited range of applications.
In order to help the LWPC users develop a natural and powerful skill of the logical construction, the primary step is to
help them develop the ability to identify the premises that bear an appropriate inferential relation to a thesis statement.
For this purpose, a method called “falsification” was introduced. The falsification method uses an unconventional
perspective of logical relations to help identify the appropriate premises that bear a direct inferential relation to the thesis
statement. It paves the ground for learning how to build a Necessary premise for the statement.
In this paper, I have provided only a brief account about what a Necessary premise is and how to build one. A
comprehensive account on why a Necessary premise is needed and a step-by-step recipe on how to build one will be the
focus of the second part of the instruction series. In the second part, we shall also look at the sufficient conditions for
proving a thesis statement to be true.
Reference
Burbank, R. A. Three Term Logic: Beyond the Limits of True and False. BookSurge Publishing. 2007.
Copi, I. M., Cohen, C. Introduction to Logic. 12th ed. Pearson: Prentice Hall. 2005.
Hastings, A. C. A Reformulation of the Modes of Reasoning in Argumentation. Ph. D. dissertation, Northwestern University. 1963.
Lai, W. L. “Logical Thinking Skills in Academic Writing: An introduction to a research-writing course at Nagoya University” in
Annals of Nagoya University Library Studies. No. 12; pp. 1-8. 2014.
Walton, D. Argumentation Schemes for Presumptive Reasoning. Mahwah, N.J.:Erlbaum. 1996.
Walton, D., Reed, C. Macagno, F. Argumentation Schemes. Cambridge. 2010.
研 究
1)
日本外務省による大谷家文書調査
An Investigation of the Otani Family’s Documents
by the Ministry of Foreign Affairs of Japan
名古屋大学大学院文学研究科
Graduate School of Letters, Nagoya University
池 内 敏
IKEUCHI, Satoshi
Abstract
The Ministry of Foreign Affairs of Japan believes that Takeshima is a part of Japanese
territory. This belief has been derived from a series of works by Kawakami Kenzo, which
came to fruition in "A Historical and Geographical Study of Takeshima (1966)." Kenzo's
argument concerning the Edo period was founded on an investigation of the historical archives
of the Otani family's documents by the Ministry of Foreign Affairs of Japan (Kenzo actually
conducted the investigation). This paper comprehensively examines the reflection of the
aforementioned investigation in "A Historical and Geographical Study of Takeshima" and
discusses the structure of the current views of the Ministry of Foreign Affairs of Japan.
Keywords
Takeshima(竹島)
,Kawakami Kenzo(川上健三)
,
the Genroku era ban on crossing the sea to Takeshima(元禄竹島渡海禁令)
,
Otani family documents(大谷家文書)
はじめに
1951年 9 月 8 日に調印されたサンフランシスコ
平和条約は翌年 4 月28日に発効し、わが国は独立
を回復した。この調印と発効の間にあたる1952年
1 月18日、李承晩韓国大統領はいわゆる李承晩ラ
インを設定し、その内側に竹島を取り込んだ。こ
れに対して日本政府はただちに抗議を行い、1953
年 7 月13日には「竹島に関する日本政府の見解」
を明らかにし、竹島領有をめぐる日韓間の四回に
わたる見解往復が始まった。
このときの日本政府見解を基礎づけたのが、当
時外務省条約局第一課事務官であった川上健三の
仕事である。上記1953年 7 月付の日本政府見解は
実際には具体的な論証が何もなされないもので
あったが、同年 8 月付で刊行された外務省条約局
『竹島の領有』には 7 月付の日本政府見解を基礎
づけた史実が具体的にもりこまれた。この80頁余
の小冊子は、実際の執筆者が川上健三であること
が明記された。のち内容を大幅に増補して刊行さ
れたのが川上健三『竹島の歴史地理学的研究』
(1966年、古今書院)であり、これは300ページに
及ぶ大作である。
竹島の領有に関わる日本政府見解は、そのご現
在に至るまで、この『竹島の歴史地理学的研究』
に全面的に負っていることは、別途論じたことが
ある(拙稿[2014]、拙著[2016])。その折にも
触れたが、『竹島の領有』から『竹島の歴史地理
学的研究』に至るあいだに、とりわけ江戸時代に
かかわる記述は飛躍的に詳細なものとなった。そ
の飛躍をもたらしたのが外務省による大谷家文書
の調査(実際には川上健三を中心とする調査)だ
ろうことも、前掲の拙稿・拙著で触れた。
その調査は、1955年に大谷家で実施され、引き
続く1955年 1 月から半年ほどのあいだ東京の外務
省へ大谷家の古文書を借り出して継続調査が行わ
2)
れている 。本稿は、このときの大谷家文書の調
査が『竹島の歴史地理学的研究』にどのように反
映されたかについて検討を試みるものである。そ
の際、竹島領有権に関わる日本政府見解とのかか
わりで、「調査が…どのように反映されたか」を
検討したく考える。
ところで現在、竹島領有の正当性を主張するわ
が国官邸および外務省は、二つの論理的な柱を立
てている。そのひとつは「わが国は遅くとも17世
紀半ばには竹島の領有権を確立した」であり、い
まひとつは「1905年 1 月より前に韓国が竹島を領
有していたことが有効に証明されないかぎり、竹
島は『わが国固有の領土』である」というもので
ある。後者の主張は、卑見によればきわめて近年
になってから主張され始めた見解であり(拙稿
[2015])、川上健三『竹島の歴史地理学的研究』
の時代にはそうした主張は存在しなかった。した
がって、本稿では二本柱のうち前者―「わが国は
遅くとも17世紀半ばには竹島の領有権を確立し
た」と大谷家文書調査がどのように関連するかを
見極めたく考える。
1 .外務省による大谷家文書の借用
(1)竹島問題と大谷家文書
大谷(大屋)家は和田姓の末流と称し、大谷の
3)
名乗りは戦国期にまで遡る 。近世初頭には鳥取
藩領米子を拠点として海運業に活躍した家であ
る。注 3 に引用した『大谷家由緒実記』によれば
大谷九右衛門尉勝宗をもって初代と数えるが、勝
宗の父にあたる大谷玄蕃実貞の甥甚吉が越後から
の帰途、磯竹島(ないしは竹島。現在の鬱陵島)
に漂着し、それが豊富な資源に恵まれた無人島で
あることを知り、旗本阿部四郎五郎に願い出て、
4)
やがて元和 4 年(1618) に竹島渡海を許す奉書
(いわゆる竹島渡海免許)を得るに至ったという。
その後、やはり米子にあった村川家とともに鳥取
藩からの支援を受けながら連年の竹島(鬱陵島)
渡海事業を継続したのである。
船は二艘ないしは三艘だてに数十人が乗り込
み、まず米子から隠岐へ渡り、そこから松島(現
在の竹島)を船路の目印ないしは途中の繋留地と
しつつ竹島(鬱陵島)へ到達した。竹島(鬱陵島)
へは数か月滞在しながら主として蚫・海驢猟を
行った。竹島(鬱陵島)渡海にかかわる老中連署
奉書(鳥取藩主あて)は発給されたが、松島(竹
島)渡海にかかわる老中連署奉書は存在しない。
また松島(竹島)の史料上の初見は1650年代初頭
のことである。そうしたなか、日本政府は、「竹
島渡海免許」を得て米子から竹島(鬱陵島)へ渡
海の途次に松島(竹島)が活用された史実をもと
にして、「わが国は遅くとも17世紀半ばには竹島
の領有権を確立した」と主張する。
一方、元禄 5 年(1692)、竹島(鬱陵島)で朝
鮮人漁民と初めて競合してからは収穫を挙げられ
なくなり、翌年、竹島(鬱陵島)にいた朝鮮人 2
人を鳥取藩領へ連れ帰り、その 2 人を朝鮮に送還
するのを契機にして竹島(鬱陵島)をめぐる日朝
外交交渉が始められた。交渉は紆余曲折をたどっ
たが、元禄 9 年(1696) 1 月28日に日本人の竹島
(鬱陵島)渡海を禁止する幕府命令が下り(元禄
竹島渡海禁令)、結論がだされた。その後、村川
家は竹島渡海復活嘆願を行いながらも認められ
ず、また大谷家は竹島渡海に代わる事業の保障を
求めたが認められなかった。しかしながら、川上
の見解では、元禄竹島渡海禁令の文面には竹島
(鬱陵島)渡海を禁止するとのみ記されていて松
島(竹島)渡海禁止は明示されていない(注 2『大
谷家由緒実記』にも元禄竹島渡海禁令が筆録され
ている)以上、元禄竹島渡海禁令ののちも松島(竹
島)への渡海は継続された可能性があるとみてい
る。それを踏まえて日本外務省のパンフレット
『竹島 10のポイント』は、そのポイント 4 にお
いて「日本は17世紀末、鬱陵島への渡海を禁止す
る一方、竹島への渡海は禁止しませんでした。」
と主張する。
現在、大谷家文書はおおよそ三か所に分散して
所在する。ひとつは大谷家にある原文書群であり、
これが最も数量的には多い。二つめが米子市立山
陰歴史館にある原文書とコピー本である。原文書
は、大谷家から部分的に移管されたものだが数量
的には多くない。またコピー本は、大正期に米子
町誌編纂に際して大谷家文書の調査が行われた際
に作成された謄写本を電子複写したものである。
その内容は、大谷家にある原文書から抜粋したも
のと思われ、数量的には大谷家に所在する原本の
数には及ばない。なお、米子市立図書館にも同じ
複写本が配架されている。三つめが東京大学史料
編纂所の謄写本であり、これは明治年間に謄写さ
れたものである。数量的にはさらに少ない。
大谷家とともに竹島(鬱陵島)渡海事業に従事
した村川家の文書は、先述した大正期の米子町誌
編纂のとき作成された謄写本の複写本が山陰歴史
館と米子市立図書館にあり、また東京大学史料編
纂所に明治に謄写されたものが所在する。現在の
村川家には古文書は何も伝来しないとのことである。
以上を踏まえると、竹島問題にかかわる日本側
主張を江戸時代の活用実績を踏まえて立論しよう
と考えたとき、大谷家文書の分析は重要な位置づ
けを与えられることになる。したがって、川上健
三は外務省職員として大谷家文書の調査分析を行
うこととなった。その際、1955年の大谷家におけ
る文書調査が実地にどのように行われたかは具体
的には分からない。しかしながら、1955年 1 月に
大谷家文書を借用して東京の外務省へ持ち出した
際の記録が大谷家に残されており、その借用証に
列挙された古文書名と現在大谷家に伝来する古文
書原本とを照合することで、間接的ながら文書調
査の様子を探りうる。
(2)1955年に借用された大谷家文書
現在、大谷家には「外務省よりの来信書巻(昭
和二十八年)」と上書きされた茶封筒が残されて
おり、そのなかに1955年 1 月13日付の大谷家文書
5)
の借用証 と計43通の文書名が列挙された目録が
ある。その目録内容を記載順のままに整理し、現
在大谷家に伝来する文書に振られた整理番号と対
照させ、また川上健三『竹島の歴史地理学的研究』
で引用された箇所と対照させて一覧としたのが表
1「借用文書と利用状況」である。また、上記借
用証とほぼ同時期(同年 1 月17日)に川上から大
谷家当主にあてられたて礼状もまた同じ茶封筒に
入れられている。おそらくは前年のうちに大谷家
における古文書の実地調査があり、その際に十分
に検討できなかったものについて借用を依頼した
6)
ものと推測できる 。一方、借用した古文書の返
却期日は正確には分からないが、部分的には外務
省の手元に複写物を残し、おおよそは半年を経て
7)
返却されたものと思われる 。
さて、表1「借用文書と利用状況」によれば借
用史料のうち実際に活用されたのは 8 件11点にな
るが、この表を参照にしつつも川上健三『竹島の
歴史地理学的研究』の記載順にしたがって、大谷
家文書の利用状況を確認してゆきたい。
① 川上健三『竹島の歴史地理学的研究』のなか
で大谷家文書が最初に活用されるのは、「第一章
歴史的背景 第二節竹島に関する知見とその経営 一日本人の竹島認知 (1)文献に現れた松島・竹
島」(51-52頁、およびそれに関連する65頁の注
21)である。この項では、三代大谷九右衛門勝信
が延宝 9 年(1681)に幕府巡検使に差出した請書
表1「借用文書と利用状況」
★
★
01
天和元年十二月廿三日 両島寄合についての証文
1
1-25
02
六月二十一日付 阿部四郎五郎より松島渡海に関する書状
1
2-5
03
十二月五日付 宗悦より松島のみちに関する書状
1
1-10
04
正月十六日付 荒尾修理より野鴨二対に対する礼状
1
2-48
05
正月廿八日 山崎主馬より竹島の花入竹預入
1
2-59
06
十二月三日 大久保和泉守より百合草みち等の礼状
1
2-41
07
十一月廿七日 同
(1) 2-40?
08
大久保和泉守より栴檀板に関する書状
★
09
亀山勝右衛門より同
1
2-40?
★
10
亀山庄右衛門より竹島松島産物に関する書状十三通の内
2-25,2-27,
2-32,2-33
7 (2-3,2-24,
2-26,2-28,
2-29,2-30,
2-36)
11
阿部忠右衛門より五月廿一日付書状 二通の内
1
2-4
(1) 2-31
12
三月十四日付阿部四郎五郎よりの書状 四通の内
1
2-16,2-18
13
八月二日付 阿部四郎五郎より松島渡海の舟に関する書状
1
2-23
14
阿部四郎五郎より御用材の事につき他所の者に関する書状二通
2
2-19,2-20
★
15
九月五日付 亀山庄右衛門の書状 松島云々
1
2-34
★
16
九月四日付 阿部権八郎の書状 同
1
2-35
17
正月十七日付 安養寺権〔猪〕之助の書状
1
2-60
★
★
18
三月十六日付 大谷九右衛門 御請(七代?)
1
4-8
19
元文六年二月勘定奉行へ廻米連中へ加への願 二通の内
1
3-38,3-40
20
延享二年四月 鳥府表より御尋ありし時勝房口上写
1
3-46-1
21
みちの絵図
1
1-6
22
朝鮮人目録 二通
2
1-32,
1-33?
23
先祖より持伝書類之内目録
1
6-43
24
寛文六年朝鮮漂流記
1
1-11?
25
元禄六年殿様御用の竹嶋松島産物書上目録
1
1-30
26
大谷家由緒実記 上(六代までの事)
1
1-1
27
□(勝)房江戸逗留中願書差出し、吟味の為出頭命ぜられし時内密扣、
三冊の内
1
28
元文五年四月御公儀江御訴訟之御請云々 五冊の内
1
4-23
29
元禄六年朝鮮人召連し時扣
1
1-31
30
元禄七歳江戸諸事扣
1
1-36
31
大谷九右衛門船頭口上之覚
1
1-34
32
天明五年四月 鳥府日記
1
4-27
33
阿部四郎五郎書札写
1
5-25
34
享保九年四月三日 口上之覚
1
3-22,
23
35
串蚫進上の覚 大谷善兵衛
合計四十三通 1
(43)
01 ~ 35は筆者の付した整理番号で、川上による借用証に添えられた文書目録の順番である。整理番号の
頭に★を付したものが、川上健三『竹島の歴史地理学的研究』で利用されたことが確認できるもの。文
書名のあとに示したアラビア数字は点数で、もとの目録に記されたアラビア数字のままであり、( )書
きの数字は池内が補ったものである。そののちに示した「1-25」
「2-5」等々は、目録に記された文書名と
大谷家文書目録を対比しながら、大谷家文書の整理番号で対応すると筆者が推測したものを記してある。
を12行にわたって引用し、その文面に「松島(竹
島)」なる名は見えないものの「竹島の道筋にあ
る小嶋」という表現で現在の竹島が記されている
ことを述べる。なお、この史料は大谷家文書の整
理番号1-20に該当すると思われるが、表1中には
見えないから借用文書のなかには含まれない。お
そらくは実地調査の折に採録済みだったろうと推
測される。
② ①と同じ項に、元文 5 年(1740) 4 月に四代
目九右衛門勝房が寺社奉行に提出した「御公儀江
御訴訟之御請」に関する一件書類が 4 行ほど引用
され(52-53頁、およびそれに関連する65頁の注
22)、史料文面に「松島」なる島名の現れること
が提示される。この一件史料は注22によれば同文
のもの 5 冊あるという。現存する大谷家文書に含
まれる史料との同定ができないが、表1・整理番
号28に現れるので借用文書である。
③ やはり①と同じ項、②の史料引用にすぐ引き
続いて寛保元年(1741) 6 月10日付で四代目九右
衛門勝房が長崎奉行所に差出した口上書(大谷家
文書3-43か)が 2 行ほど史料引用されるが、これ
は借用史料には含まれない。注23によると、その
典拠は『竹島渡海由来記抜書控』だともいう(5253頁)が、これは『竹島の領有』を執筆する際に
島根県蔵史料として掲げられている。ほかにも同
文面の史料で「寛保元酉年附長崎御奉行様御役人
中様宛奉願上候口上之覚」があるが、「これは村
川市兵衛と連名のものであって、内容は全然異
なっている。」というから川上はこの史料をも実
見しているはずだが、これまた借用史料に含まれ
ない。これら資料を提示して川上が述べたかった
のは、いずれも史料中に「松島」なる島名が現れ
るから、江戸時代日本では既に「松島」の認知が
なされていたことを例示しようとするものである。
なお、『竹島渡海由来記抜書控』は先述のよう
に『竹島の領有』執筆に際しても利用されていた
が、その折には利用は一か所にとどまった。実は
同一史料が大谷家文書中にもあり(大谷家文書
3-32)、借用史料には含まれないが、川上『竹島
の歴史地理学的研究』のなかでは以下④~⑦のよ
うに再三にわたって利用される。
④ 65頁注21、①~③と同じ項目における注記で
ある。
⑤ 72頁 第一章・第二節一(3)松島・竹島の
経営〔ロ〕竹島渡海免許の項、および関連する82
頁注36、83頁注38。竹島渡海免許の史料文面提示
と、その免許発給の前史についての説明である。
⑥ 83頁、84頁 第一章・第二節一(3)〔ニ〕松
島・竹島の経営の項。ここでは、竹島渡海免許の
のち「大谷・村川両家は、その独占的事業とし
て、船に葵の紋を打ち出した船印を掲げて、毎年
交代で竹島(欝陵島)に渡航してあわびの採取、
みち(あしか)の猟獲、檀木や竹の伐採等に従事
し、またその渡航の途次松島(今日の竹島)にも
立ち寄って漁猟に従事した」と述べる。この記述
は拙稿[2014]でも述べたように、現在の日本政
府見解に、ほぼそのままの表現で踏襲される。
⑦ 89頁、90頁は項目としては⑥と同一である
が、ここでは竹島(鬱陵島)での収獲物を幕閣に
献上する点について史料引用しながら述べる。
⑧ 表1・整理番号26に見える『大谷家由緒実
記』(大谷家文書1-1、1-2)は72頁の記述⑤と重
複し、それに関連する83頁注39でも利用される。
また83頁でも利用されるが、これは⑥と重複する
記述である。
⑨ 川上健三『竹島の歴史地理学的研究』第一
章・第 二 節 一(3)
〔 ハ 〕 松 島 渡 海 免 許 の 項 は、
73-83頁の小さからぬ紙幅を使って「松島(竹島)
渡海免許」の存在を証明しようとする。
「松島(竹
島)渡海免許」は原本も写本も伝来せず、免許に
関わる史料や言及する史料は一次史料・二次史料
を問わず存在しない。にもかかわらず、川上は大
谷家文書中に含まれる複数の書簡類を用いて「松
島(竹島)
渡海免許」の存在を証明しようと試みた。
73頁で引用された〔万治 3 年(1660)〕 9 月 4
日付、大屋九右衛門あて阿倍権八郎政重書簡(大
谷家文書2-35)は表1・整理番号16、また74頁で
引用された〔万治 3 年(1660)〕 9 月 5 日付大屋
九 右 衛 門 あ て 亀 山 庄 左 衛 門 書 簡( 大 谷 家 文 書
2-34)は同じく整理番号15である。75-76頁で引
用された11月16日付大屋九右衛門あて亀山庄左衛
門書簡(大谷家文書2-27)
、77頁で引用された 9
月 7 日付大屋九右衛門あて亀山庄左衛門書簡(大
谷家文書2-33)、78頁で引用された 9 月 8 日付大
屋道喜あて亀山庄左衛門書簡(大谷家文書2-25)、
81頁で引用された 6 月22日付大屋九右衛門あて亀
山庄左衛門書状(大谷家文書2-32)は、いずれも
表の整理番号10にみえる借用史料である。また、
80頁で引用された万治 2 年(1659) 6 月21日付大
屋九右衛門あて阿部正継書状(大谷家文書2-5)
もまた整理番号02の借用史料である。
つまり、川上による大谷家文書調査の成果はこ
の松島(竹島)渡海免許の実証にあったと言える
ほど多くの史料をこの項の記述に活用している。
ただし、この論証が成り立たないこと、つまり松
島渡海免許なるものの存在は実証できないことは
拙著・拙稿で繰り返し述べてきたところである。
そして、川上の調査と分析および論証にもかかわ
らず、現在、日本外務省は竹島領有の正当性を主
張するに際して、松島(竹島)渡海免許について
は言及しない。
⑩ 89頁で引用された11月22日付(年未詳)大屋
九 左 衛 門 あ て 亀 山 庄 左 衛 門 書 状( 大 谷 家 文 書
2-31)は表の整理番号09にみえる借用史料、90頁
で引用される『米子村川大谷両家竹島渡海書上
写』は借用史料中に含まれず、また大谷家文書と
の比定ができないが、いずれも竹島(鬱陵島)で
の収獲物を幕閣に献上したことを例示するのに引
用されたものである。
⑪ 表の整理番号01にみえる借用史料「天和元年
酉ノ十二月二十三日付大屋九右衛門あて村川市兵
衛書状(大谷家文書1-25)は92頁で引用される。
それは、大谷家・村川家の竹島(鬱陵島)渡海事
業における収支決算の方法を天和元年(1681)か
ら変更したことを述べたものである。
2 .大谷家文書の追加調査
(1)川上事務官依願ノ件
先述の「昭和二十八年」と上書きされた茶封筒
のなかには、「条約一課 川上事務官依願ノ件」
と青鉛筆で上書きされた封筒も封入されており、
そこには外務省用箋 2 枚にペン書きで書かれた川
上健三からの調査依頼が記される。また、その依
頼に応じた返答書面 5 枚(神戸移住あっせん所用
箋を使用)もまた同封されており、うち 3 枚はペ
ン書きで 2 枚は鉛筆書き、そして 4 枚目の裏面に
もペン書きでメモが記される。これら依頼と応答
の用箋に違いのあるところから見ても、東京にい
た川上が関西地方の外務省関連機関の何者かに郵
便で問い合わせを行い、その人物が大谷家を訪問
して史料を点検しなおしたと想定できる。質疑と
応答は以下のとおりである(一部省略した)。
[史料 1 ]川上健三の質問
一御城銀御貸についての借状 「鳥取県郷土史」
記載
二元文五年四代勝房御訴訟に関する扣(五冊中の
一冊借用)
竹嶋渡海制禁について元禄九年八月に鳥府で
仰渡された時の請書
↑◎十年とハ
元禄元年丑九月となっているが、他の扣では
何となっているか
三寛保元酉年六月十日付長崎御奉行所宛願(同
文、元文五年寺社奉行宛のもあり)
この中に出てくる文字 渡海制禁か禁制
*矢印および傍線は原文のママ
[史料 2 ]右に対する返答
一「御城銀御貸についての借状」の件
(中略)
二元文五年四代勝房御訴訟に関する扣
竹島渡海制禁について元禄九年八月に鳥府で仰
渡された時の請書の日附は
十
『元禄元年丑九月 日』
右の通りになっております(あとから書入れた
様でもなく同じ墨色で並んで記入あり)
尚、引つゞきの文で渡世之願状の日附は
『元禄十年丑九月廿一日』
とはっきり記載されてあります。
在宅の四冊中、村川の記事の記載された一冊に
だけこの項あり、他三冊は省略されて見当りま
せん。
三寛保元酉年六月十日附長崎 宛願
同年月日 差出人 宛名 すべて同じで異文の
(中略)
語の前後に並んだ文言を知りたかったのではな
尚、元文年中の寺社奉行宛文書中、禁制及び制
かったか。
禁の使ひ方は左の様になってゐます。
川上の問いに対する返答([史料 2 ])が川上の
禁制
手元に届いたか否かに関わらず、川上が「制禁」
一元文五年申(Aと同文)寺社御奉行様御役
「禁制」の用語法の違いに無頓着であったことは、
ママ
『竹島の歴史地理学的研究』における「制禁」「禁
人中様宛 )
制」および類似する用語「禁止」が実際に使われ
一元文六年酉二月(御勘定御奉行所様御役人
た様子を見れば明瞭である。表 2 に示したよう
中様)宛(Aと同文)
に、同書中における用例では「制禁」は191頁の
制禁
一か所のみであり、しかも引用史料中の文言であ
一元文六年酉二月 御勘定御奉行所様御役人
る。それ以外は「禁制」と「禁止」が 8 か所ずつ
中様 宛
乍恐御改奉申上候口上覚(ABと全く異文) で同数である。そして「竹島への渡海が禁制され」
「竹島への渡海が禁止され」が混在する以上、二
つの語に使い分けがあったとは到底考えられな
さて、[史料 1 ][史料 2 ]が大谷家に伝来する
8)
い。
ことについての穿鑿を脇に置き 、川上が何を気
繰り返しになるが、川上は「制禁」「禁制」の
にかけていたか考えてみたい。
用語法の違いを知りたかったわけではない。川上
川上は三項目に分けて質問を行い、返答もそれ
が「本当に知りたかったこと」は、実は返答者に
に対応して三項目となっている。最初の質問は、
知られたくない事情が川上にあったのではなかっ
竹島(鬱陵島)渡海に際して鳥取藩が大谷家に資
たか。だから彼が「本当に知りたかったこと」を
金貸付を行ったことについて『鳥取県郷土史』
(1932年、鳥取県)にはどのように記載されてい
直接的に問うのではなく、「制禁か禁制か」が史
るかを問うたものであり、返答書面の 1 枚目から
料上にどう現れているか調べさせることを通じ
3 枚目にかけて長文の史料引用がなされるが、
て、彼が「本当に知りたかったこと」を第三者に
[史料 2 ]では省略した。
知られることなく確認したかったのではなかった
二つめの質問は史料上での年代表記についての
か。そして返答は、おそらく川上を満足させるも
確認であるかのように見えるし、返答者も質問の
のではなかった。川上の質問を表面的にしか把握
意図をそのように把握して返答している。また、
できなかったからである。
三つめの質問は史料中にみえる用語「制禁」「禁
制」が統一的に使用されているのか、あるいは文
(2)採用されなかった史料
脈に応じて異なる意味合いで用いられているの
右の質疑で川上が何を知りたかったか。それを
か、用語法についての質問のように見える。そし
見究めるカギは表1にある。
て返答者も、質問の意図をそう解釈して返答して
表 1 「借用文書と利用状況」にみえる43点の史
いる。しかしながら、川上の意図はそうしたとこ
料は、わざわざ借り出して半年以上も川上の手元
ろには無かったに違いない。
にあった史料であり、重要箇所は複写したともい
おそらく二つめの質問は年代表記の確定に意図
う。したがって、借り出した資料の全点について、
があったのではなく、
「竹嶋渡海制禁について元
川上はひととおり目を通したと考えるのが素直だ
禄九年八月に鳥府で仰渡された時の請書」につい
ろう。そして、 8 件11点のみが『竹島の歴史地理
て調べさせるところに意図があっただろう。そし
学的研究』に盛り込まれ、そこに書かれた内容が
て三つめの質問も、「制禁」「禁制」の用語法の違
竹島を日本領とする日本政府見解を基礎づけた。
いを調べさせたかったのではなく、
「制禁」
「禁制」
さて、大谷家から借り出して東京の外務省に保
なる語が現れる前後の文章表現を調べ上げて報告
管され、川上もまたおそらくは通読したに違いな
させたかったのではなかったか。二つめの質問も
いが、『竹島の歴史地理学的研究』に反映されな
実際の関心は「制禁」にあることは、挙げられた
かった史料のひとつに次の[史料 3 ]がある。表
史料名からも見当がつく。ここでも「制禁」なる
1 の整理番号19にあたる。
表2「制禁と禁制」
元禄九年(一六九六年)正月二十八日には、幕府は竹島(欝陵島)への渡航禁止措置を決定するが、この措置
と関連して…(p.53)
…この書物が幕府によって竹島渡航が禁止された後における編著であるにもかかわらず…(p.54)
このように、諸文献からみて、わが国では元禄九年(一六九六年)の竹島渡航禁止以前はもちろん、その以後
においても、…(p.56)
…元禄九年(一六九六年)には、幕府は竹島への渡海禁止を決定するに至るのである。(p.93)
これを要するに、幕府の竹島渡海禁制以後、朝鮮国政府としては同島を自国領土としての認識のもとに、…(p.177)
竹島渡海禁制以後の欝陵島に対する朝鮮国政府の統治と経営が、上述のとおりであったとすれば…(p.181)
…他方、元禄九年(一六九六年)の幕府の竹島(欝陵島)渡海禁制以後、明治時代の初期に至るまでの間に…(p.190)
ただし、竹島への渡海が禁制された後でも松島(今日の竹島)への渡海が禁止されたわけではなかったことは、
元禄九年正月廿八日付の竹島渡海禁制に関する奉書に「向後竹嶋え渡海之儀制禁可申旨被仰出候云々」とあっ
て…(p.191)
…八右衛門は、石州浜田浦の回船問屋会津屋清助の子で、禁制を冒して竹島(欝陵島)に渡り密貿易を行った
というかどで…(p.191)
…竹島渡海禁制後の著作である宝暦年間(一七五一―六三年)の…(p.191)
竹島渡海禁制(p.192に二ヶ所)
元禄九年(一六九六年)、幕府によって欝陵島への渡海が禁止された後の竹島の開発・経営については、その事
実を示す積極的証拠はこれまでのところ見出されない。…欝陵島渡海禁止後は、たんに無人の孤島たる竹島の
局地的な開発としての意味しかなくなったため、これに関する資料が乏しいのは当然である。しかしながら、
天保八年(一八三七年)の八右衛門の竹島密貿易事件の判決等からみても、今日の竹島への渡海が禁止されて
いなかったことは明らかであり、…(p.276)
[史料3]
(貼紙・異筆)
「七代勝房代 一通
元文六年二月付、御勘定御奉行へ口上之覚
「長崎貫物割符並に御廻米船借り連中御加え
二ヶ条御頼」「3-38」」
乍恐御断奉申上候口上之覚
一此度従国主之御作舞を以、御公儀様江乍恐私共
御歎キ之願書奉差上候、先以御奉行様江御取上
被為遊被下候御儀、難有仕合ニ奉存候、然者国
主より御公儀様江被為仰上候上、至極被入御念
候得而、段々と私共手前御吟味之御事ニ御座候
趣、其方共御公儀様江奉差上候御願書ニ何と奉
申上、御憐愍之筋不相見候、然上ハⓐ以前之通
竹嶋松嶋両嶋之渡海を御願奉申上内存ニ而有之
哉と御尋御座候、依之私共申上候ハ、全以前之
通両嶋之渡海之儀奉願候儀ニ而ハ無御座候、嶋
渡海之儀者先年御制禁ニ被為仰付候上、重キ御
事ニ御座候得者、此段無是悲仕合奉存候、然共
(ママ)
台徳院様御代元和四年より 符
常憲院様御代元禄年中迄御太恩之御威光を以両
人之者共取続渡世仕来候処ニ右之仕合御座候得
而、及大困窮至極難儀仕候ニ付、不顧恐御歎之
御願申上度奉存候、天道ニ相叶万一御憐愍之筋
相下り申候節ニ至、御役所様より私共江存寄之
儀も有之候哉と御尋之首尾も御座候ハヽ、乍恐
ⓑ長崎貫物之割符并御廻米之船借り連中江御加
江被為遊被下置候様ニ御願申上度奉存上候、書
付を以則国主江申上候趣ニ而御座候、乍恐一重
ニ御慈悲相下り候様ニ奉願上候、以上
元文六年酉二月
伯耆米子之町人 大谷九右衛門(印)
(大谷家文書3-38)
*下線は引用者。以下同様。
右の史料は、元文 6 年(1741)に 4 代目大谷九
右衛門勝房が江戸幕府勘定奉行にあてて家業の保
障を求めて訴えたときの書面である。元禄 9 年
(1696) 1 月28日付の元禄竹島渡海禁令によって
竹島(鬱陵島)渡海事業に終止符を打たれた大谷
家としては、何とかして家業の再生産を保障する
措置を求めたく思い、元文 5 年にも寺社奉行・長
崎 奉 行 に あ て て 訴 え を 起 こ し て い る( 拙 著
[2016])。元文 6 年の動向もそれと一連のものと
みてよいだろう。そこでは竹島(鬱陵島)渡海事
業の復活ではなく、まったく異なる事業としての
「長崎貫物之割符并御廻米之船借り連中」(右史料
傍線部ⓑ)への加入を求めるものであった。
この史料で注目したいのは傍線部ⓐである。勘
定奉行から「以前のとおり竹嶋松嶋両嶋の渡海を
お願い申し上げようという心づもりなのか」と尋
ねられた大谷九右衛門は「以前のとおりに両島渡
海のことをお願い申し上げるのでは全くありませ
ん。島への渡海は先年御制禁に仰せつけられまし
たし…」と返答したというのである。ここで「竹
嶋松嶋両嶋の渡海」「両島渡海」ときて「島への
渡海は先年御制禁に仰せつけられました」とされ
る以上は、最後に出てくる「島への渡海は先年御
制禁」にいう「島への渡海」は明らかに「竹島松
島両島への渡海」を指すから、「島への渡海は先
年御制禁」というのは「竹嶋松嶋両嶋の渡海の御
制禁」のことである。そして、この御制禁とは元
禄竹島渡海禁令を指す。
先述したように、川上は、元禄竹島渡海禁令の
文面には竹島(鬱陵島)渡海を禁止するとのみ記
されていて松島(竹島)渡海禁止は明示されてい
ない以上、元禄竹島渡海禁令ののちも松島(竹島)
への渡海は継続された可能性があると主張した。
しかしながら、元禄竹島渡海禁令は、「竹島(鬱
陵島)は鳥取藩領ではない」
「松島(竹島)は鳥
取藩領ではない」とする元禄 9 年 1 月23日付鳥取
藩返答書を踏まえて出された法令である以上、禁
令の文面には「松島(竹島)渡海禁止」が明言さ
れていなくても、それが含意されていることは確
実である。そのうえ幕閣も大谷家当主もともに元
禄竹島渡海禁令は「竹島松島両島渡海禁制」と理
解していたことが明らかである(拙著[2016])。
右の[史料 3 ]は、幕閣も大谷家当主もともに元
禄竹島渡海禁令を「竹島松島両島渡海禁制」と理
解していたことを教えてくれるもう一つの証拠で
ある。
おそらく[史料 3 ]を見た川上は、ほかにも同
様な史料があるかないか、とりわけ容易に目につ
くようなところに含まれていて見過ごしていたり
はしないかが気がかりとなったに違いない。それ
は、彼の元禄竹島渡海禁令解釈を否定するもので
あり、17世紀末には竹島が日本領ではなかったこ
とを幕閣も渡海事業者たちも認識していたことを
示す史料である。
遅くとも17世紀半ばには日本の竹島に対する領
有権は確立し、それは1905年の竹島日本領編入の
閣議決定まで連綿と続いていたと論じたい者たち
にとって、[史料 3 ]はまことに厄介な邪魔もの
であった。ほかにさらに厄介で危険な史料が隠れ
てはいないだろうか。これが川上の懸念であった。
それを誰かほかの人物に確認してもらうのに、よ
もや「竹島松島両島渡海禁制」なる語はほかに出
てくるか、などとは聞けなかっただろう。それで
「制禁」「禁制」なる用語はほかの史料でどのよう
に出てくるか、という問いのかたちになったので
ある。
そして川上は[史料 3 ]を葬り去ることとし、
『竹島の歴史地理学的研究』では、元禄竹島渡海
禁令の文面には「竹島(鬱陵島)渡海禁止」とし
か書かれていないと強調したのである。
おわりに
竹島領有権にかかわる日本政府見解は、その学
問的根拠をいまだに50年前の川上健三『竹島の歴
史地理学的研究』に負っている。その後の研究が、
川上の見解が成り立たないことを様々な点で立証
しているにもかかわらず、日本政府見解は相変わ
らず川上見解を出ることがない。
本稿でとくに問題としたのは、日本外務省のパ
ンフレット『竹島 10のポイント』がいまだに「日
本は17世紀末、鬱陵島への渡海を禁止する一方、
竹島への渡海は禁止しませんでした。」と主張す
る点である。これもまた川上健三『竹島の歴史地
理学的研究』に依存した見解である。
近年の研究にしたがえば、17世紀末の元禄竹島
渡海禁令では、竹島(鬱陵島)だけでなく松島(竹
島)も渡海禁止の対象とされたことははっきりし
ている。それは、禁令の成り立ちから論証できる
だけでなく、禁令後の幕閣・大谷家当主双方が
「竹島・松島渡海禁制」と呼んでいた史料が存在
するからである。そして、川上健三は、大谷家文
書の原本調査を通じて、『竹島の歴史地理学的研
究』の書かれた当時から、元禄竹島渡海禁令が竹
島(鬱陵島)・松島(竹島)両島渡海禁制である
ことをおそらく把握していたに違いないのであ
る。本稿で述べ来ったように、川上が調査した大
谷家文書の目録と『竹島の歴史地理学的研究』で
活用された史料とを比較検討すれば、元禄竹島渡
海禁令が竹島(鬱陵島)・松島(竹島)両島渡海
禁制であることを示す史料を入手しておきながら
黙殺し、まるで逆の主張を行っていたことがはっ
きりするからである。
竹島領有権にかかわる日本政府見解は、こうし
た仕事に依拠してできあがっているのである。
( 3 ) 竹島(鬱陵島)渡海の濫觴は往々にして「大谷
甚吉」に求められ、それが大谷家の先祖としてこ
れまで理解されてきた。
たとえば、川上健三『竹島の歴史地理学的研究』
は、「…元和四年(一六一八年)に竹島(欝陵島)
渡海を免許された大谷甚吉の子孫、三代目九右衛
門勝信が延宝九年(天和元年=一六八一年)に幕
府巡検使に差出した請書にも…」
(51頁)とか「…
伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛は、藩主
松平新太郎を通じて幕府から竹島(欝陵島)渡海
の免許を受け…」(71-72頁)、「…米子で廻船業を
営んでいた大谷甚吉は、元和三年(一六一七年)
注
( 1 ) 新鳥取県史編纂事業による鳥取県史資料編〈西
越後からの帰帆の途次難風に遭って竹島(欝陵島)
伯耆編〉を編纂する過程で、同編が収録対象とす
に漂着し…」(72頁)などと記し、その後の研究
る米子市域で江戸時代まで活動の跡を遡りうる旧
もおおむね川上の記述にしたがってきた。
家の史料所在調査を行った(2014年 2 月)。大谷
しかしながら大谷家の由緒書にしたがうと、大
家はそうした調査対象の一つであった。筆者は、
屋甚吉は大谷家の系譜上では実は傍流に位置す
鳥取県史編さん室職員二人とともに大谷家の資料
る。大谷玄蕃実貞(米子大谷家初代の父)は、伯
調査に同行し、大谷家御当主とも直接にお話をし
耆国会見郡小鷹城主杉原盛重に補佐して仕える武
て伝来の資料を拝見するとともに資料の写真撮影
士であったが、盛重没後に杉原家が分裂して騒動
を行った。その折に、研究のために大谷家伝来の
となり、大谷実貞も討ち死にした。大谷実貞には
史料を活用することについてご快諾を得るととも
幼い男子が二人あり、実貞の甥大屋甚吉が二子を
に、今後における史料の公開に関わって検討を重
守るのに米子へ移住したという。その二子のひと
ねてゆくことについてご相談にあずかった。
なお、
「大谷家」は、文献史料上は再々「大屋家」
りが米子大谷家初代の大谷九右衛門尉勝宗とな
り、大屋甚吉は「竹島渡海開祖」として位置づけ
とも記されるから、もともとは「おおや」だった
られた。大谷勝宗には武家として再興する意思が
のだろうが、現在の大谷家では「おおたに」とおっ
残っていたので、甚吉をして竹島渡海免許の出願
しゃっている。
をさせ、また由緒ある「大谷」の代わりに「大屋」
( 2 ) 大谷文子編『大谷家古文書』(一九八三年、私
家版)の22-24頁に、以下の記述がある。
昭和二十九年十二月十七日、突然、外務省神戸
出先機関の移民斡旋所長の入江氏が来訪され、竹
と名乗らせたとする。
以下に、大谷家に伝わる由緒記(『大谷家由緒
実記』)の冒頭から竹島渡海が禁止された元禄の
あたりまで、途中を割愛しながら引用しておく。
島問題に関して、大谷古文書の調査をしに外務省
の係官が来るので協力してほしいとの要請があっ
予カ先祖元和田姓ノ末流也、往古兵火ニテ系図
た。年が明けて三十年一月十二日に、外務省事務
焼失ス、尤中古ヨリ家系近代迄有之所、享保三
官川上健三氏と入江氏が来られ、早速古文書をひ
年戌十二月廿七日夕、土蔵焼失シテ再系図ヲ始
ろげて調べにはいられた。川上事務官は翌日も来
其外書類殆ント絶タリ、尤但州大屋谷ニ引籠リ
られて、参考資料にする為しばらく借用したいと
隠士ト成ル濫觴并ニ杉原家ヨリノ召ニ応シ出仕
申し出られ、四十三通を持ち帰られた。略意を書
ス由緒等、漸ク過去帳ノ裏ニ書顕有之、尚焼ケ
いた附箋がついていたので調べ易かったとの書状
残リノ書記或ハ先祖ヨリ言伝等分明成ル事共ヲ
を頂いたりして、この古文書は八ヶ月後に丁重な
集メ当家世代ノ片脇ニ荒増シ書顕シ置者也、
礼状と共に送り返され、韓国側が当局の動きに神
和田九右衛門良清龍眠院
経を尖らせているので、此の度の調査の事は他言
和田一族、応永乱ニ悉ク衰微ス、剰ヘ良清幼時
しない様にとの御注意があった。
父ニ別レ殆ント隠遁ノ身トナル、于時文正頃前
福島家旗下ト成、於木曽三千貫文之食地配分暫
則彼島ニ石碑アリ、浄本ト号ス、後チ竹島院ト
ク勤仕中、福島氏陰謀ノ企因有之、良清強諫セ
贈号ス、世代同様不可怠供養、于時実貞二人ノ
ル故却及危急、累代ノ主従ニテハ無之、暇乞捨
幼男成長シ、宗領九右衛門勝宗・二男兵左衛門
ニテ立去リ、但州大屋谷ニ蟄居ス、後チ杉原氏
ト号シ、同人ハ隣町ニ別家ヲ致ス者也、
懇望之旨使者雖至来、難仕二君及断之所、播磨
守直召ニ因テ嫡孫玄蕃ヲ差出ス、尤古主ヲ憚リ
大谷九右衛門尉勝宗 竹有院 寛文二年寅十二月
廿一日卒、九十七歳
本姓和田ヲ除キ蟄居地名ヲ取リ大谷玄蕃ト号
於米府大谷家元祖是也、竹島渡海開祖勝宗甥甚 ス、客分ニテ家老ノ上ニ立ツ、良清永順ハ弓矢
吉也、具ニ前ニ書顕有之略ス、尤竹島渡海村川 ノ道ヲ絶チ父子月花ヲ友トシ光陰ヲ送ル、良清 差加ル由緒ハ、勝宗故有テ時々御城代エ任ス、 齢尽キ、則大屋谷ニテ卒去ス、永順薙髪シテ山
村川市兵衛儀モ由緒有テ毎々於安倍御館ニ参会 遊ト改、伯州会見郡小鷹ニ蟄居ヲ移ス、
ス、或時四郎五郎君勝宗ヲ召サレ、甚吉ヨリ御 和田瀬兵衛尉永順 高樹院
訴訟申上、竹島渡海村川差加呉候様御取持ニテ 永順ハ父良清卒テ後薙髪シテ山遊ト号ス、実貞
則市兵衛連名シテ及出願、尤勝宗名前差出可然 好ニ任セ小鷹ニ移居ス、永禄四年辛酉正月廿六
旨安倍公ヨリ御進メ被成候得共、勝宗未タ再武 日卒ス、同所浄土宗源光寺ニ葬ル、則石碑有ル、
ノ志有之故、達テ御断申上ル、則安倍君御帰国 大谷玄蕃実貞 松柏院
之砌市兵衛・甚吉両人御召連被成、則江府相詰 実貞ハ但馬国大谷ヨリ伯耆国会見郡小鷹城主ノ
御訴訟申上之所、竹島渡海不可有異儀之旨、御 召ニ因テ出仕、于時杉原家宗領短命ニテ卒ス、
老中ヨリ因伯御太守新太郎光政公江御奉書以被 嫡男幼年ニテ末家成レ共同苗播磨守勇名有之
為仰出、甚吉竹島開基故、右之御奉書頂戴仕、 故、吉川元春ノ吹挙ニ因テ則家督相続ト成リ、
則渡海中手前致所持全於戦場不異、為一国伐従
実貞補佐ス、盛重勇将ナル故威風関東西ニ独歩
誠空居島見顕、日本土地ヲ廣メ、御式帳戴之段
ス、惜哉程ナク盛重卒去ス、男子二人有之、跡
抜群之可為功之旨、因茲両人共九年振リニ壱度
目争論ヨリ事起リ終ニ杉原家滅亡ス、濫觴ハ同
宛参勤独礼御目見被為仰付、并ニ御時服・御熨
役何某謀叛ニ因テナリ、則玄蕃実貞八幡社傍ニ
斗目拝領、渡海舩ニハ御紋之舩印等拝領、具別
テ討果、其身討死致シナハ杉原家再建無覚束、
記ニ有リ、如前記勝宗再武ノ志有之故発願ヨリ
依之乱軍打破リ、再但州大屋谷ニ蟄居ス、于時
甥甚吉名前差出、其身ハ隠士タリシニ惜哉甚吉
杉原家血脈殆ト絶タリ、誠ニ武運拙ク我々整ノ
於竹島ニ病死ス、故無拠勝宗自身ノ名前ニテ諸
イ企画ヲ致シ先祖ノ英名ヲ汚スヨリハト一族再
事相勤、尤甚吉儀部屋住、殊更年来商売体業ス、
武ノ思殆ト絶タリ、因之玄蕃ニ幼男子両人有之、
村川ハ年長、其上本苗浪人立居申故、筆頭書載
甥甚吉右二児ヲ守護シテ伯耆国米子ニ引越居住
御訴訟申上故、渡海御免御奉書ニモ村川市兵
ス、実貞元和二年仲秋未七日大屋谷ニテ卒去ス、
衛・大屋甚吉ト有之、尤勝宗名前差出ニ於テハ
法名松柏院、則高野山地宝院ニ霊牌日牌寄付有
当家竹嶋開基ト云、筆下ニ有付筋毛頭雖無之、
之也、其頃雖富家ト無業ニテハ往々難叶、右甚
商民ニ下リ今更無益事聊不申発、因茲和田勿論
吉廻舩ヲ業トス、于時元和三年越後国ヨリ帰帆
中古ヨリ大谷マテモ秘シ甚吉同様大屋九右衛門
之砌、風ト竹嶋エ漂流、甚吉全島巡見ス、所朝
ニテ継目御目見申上者也、末世子孫迷トモ可成
鮮国相距コト四五十里、人家更ニ無之空居之島、
筋故豫テ為心得書顕置也、
所務有之故、渡海勝手ト相考ヘ漸ク湊山下ニ帰
帆ス、于時因伯御太守新太郎光政公御幼稚ニテ、
于時西御本丸御入用御材木御用被為仰付難有奉
畏、寛永十五年寅二月、右御用木献上、両人共
米府為御城代安倍四郎五郎公御越之砌ニテ、早
参府、則御目見被為仰付、首尾能相勤、大猷院
速御注進申上所、則甚吉江府江御召、御詮議之
様御代之御事也、付リ、西御本丸御書院床板并
上元和四年竹嶋渡海御免ノ御奉書頂戴、難有渡
ニ御書棚板至テ今竹嶋栴檀ト云々、御用木献上
海致ス所、元禄九年御制禁、右濫觴ハ在別記、
之時御紋之差札至今所持仕居申事、
粗ホ勝房カ座ノ脇ニ書顕有之故略ス、全ク竹島
渡海開基ハ甚吉ナリ、年経テ竹島ニテ病死ス、
一竹嶋渡海発願如前記勝宗再武有之故、其身名前
不出、甥甚吉願主ト成ル、則御奉書写左之通、
従伯耆国米子竹嶋先年舩相渡之由候、然者如其
御穿鑿ノ上、津々浦々引舩御差出、御手当厳重
今度致渡海度之段、米子町人村川市兵衛・大屋
之事也、無程米府湊帰帆致ス、則伯耆守様エ御
甚吉申上候付而、達上聞候之処、不可有異儀之
達申上、追々江府御注進、暫時勝房宅エ唐人御
旨被仰出候之間、被得其意、渡海之儀可被仰付
預、其後鳥府為召、舩頭・水主共召連、勝房後
候、恐々謹言
見藤兵衛致出府、唐人道中為警固、江州君組士
元和四年戊午 五月十六日
之内加納郷右衛門・尾関忠兵衛出府之事、則於
永井信濃守 尚政
鳥府御吟味之上、唐人江府エ為召、御穿鑿相済、
井上主計頭 正就
長崎迄御指下、長崎ヨリ順々御送帰ト成ル、
土井大炊頭 利勝
元禄九年春、竹嶋渡海御禁制之旨、御老中様ヨ
酒井雅楽頭 忠世
リ因伯御太守伯耆守様エ御奉書至来、其写
松平新太郎殿
(中略)
先年松平新太郎因州伯州領知之節相窺之、伯
大谷九右衛門勝房 貞光院 宝暦四年戌閏二月廿
州米子之町人村川市兵衛・大屋甚吉竹嶋江渡
四日卒
海至于今雖致漁、向後竹嶋江渡海之儀制禁可
勝房七歳ノ時父勝信卒ス、別家藤兵衛後見ス、
申附旨被仰出之候、可被存其趣候、恐々謹言
元禄六年江府エ相詰申様被仰出、勝房未幼年ニ
元禄九年正月廿八日
付後見ノ藤兵衛則為九右衛門ト差出様被仰付、
土屋相模守 政直
奉畏翌七年戌春、藤兵衛仮ニ九右衛門ト名乗リ
戸田山城守 忠昌
致参府、三月廿八日例之通御目見被為仰付、首
阿部豊後守 正武
尾能相勤、則御殿中先格之通詰所蘇鉄間也、其
大久保加賀守忠朝
節相勤御屋鋪方左之通
大久保加賀守 阿部豊後守 戸田山城守
土屋相模守 松平伯耆守殿
伯耆守様ヨリ右御奉書ヲ以竹嶋渡海御制禁被仰
渡、無是非御請申上ル、右制禁濫觴ハ先達テ連
右御老中
帰唐人御送帰以後、朝鮮国王ヨリ竹島儀唐土地
柳沢出羽守 牧野備後守 右
相違無之由通達有テ頻ニ懇望、因茲噯相成、国
秋元但馬守 加藤佐渡守 内藤丹波守
王ヨリ竹嶋之儀従往古日本ノ御支配相違無之
松平弾正尹 右若年寄
旨、則証文御取付被遊、其上ニテ朝鮮国エ御預
久世出雲守 右御奏者
相成故、私共竹嶋渡海御制禁之事、
相模守其節御在江戸ニ付、同四月御目見被仰付
付リ、当時ノ御威勢ハ中々以朝鮮国王懇望タ
首尾能相勤、其節之御役人様方左之通、
リ共容易ニ御任セ被成間鋪モノヲ、乍恐常憲
御家老荒尾志摩様御参府中
院様御代柳沢一件ニテ其頃御静謐不成時節彼
御聴役 吉田平馬 同 太田次左衛門
是折悪敷故、御制禁被仰出トカヤ、惜テモ有
同 高木太左衛門
餘ト先祖ヨリ聞伝書載ス、
御奏者 岩越次郎兵衛
于時勝房竹嶋渡海御制禁以後家業ヲ失ヒ、雲州
元禄七年、如例竹島渡海致所、彼島唐人大勢参
エ立去願差出所、公方様エ名前達タル者他所エ
リ居申体、渡海舩中少人数ニテ無拠帰朝、其旨
難被遣、追而可被為在思召間、他国エ出ル事御
御達申上ノ所、伯耆守様ヨリ御公儀エ御注進、
差留之旨被仰出、則先当時為取続料米子御城下
御評議之上、其翌八年渡海舩中鉄砲・鎗・刀御
魚鳥問屋座口銭九右衛門一人之家禄被仰付置
免、御威光ヲ以致渡海之所、去年ヨリ亦唐人大
旨、当所御城主荒尾成倫様御書判被為置御奉書
勢竹嶋雖参居申、押而此方之舩港エ漕入タリ、
ヲ以被為仰付、重々難有御請申上、則永米府家
俄ニ唐人乗舟同島大坂浦ト申所江退ク、于時唐
続誠ニ本源院様御厚恩堅不可忘却、尚右奉書至
人両人陸ニ相残、一人通辞有之、舩頭共打寄遂
子々孫々迄大切ニ守護可致事、是全先祖竹島渡
吟味処、不埒之申分ニテ不得止コト、則唐人両
海開基ニ因ル由緒ナリ、偏ニ公方様御餘光故ト
人召捕乗舩、隠岐国迄帰帆、同所御出張御役人
難有奉存旨、勝房寛保年中江府エ相詰メ罷在節、
寺社奉行様エ具ニ奉達御聴候所、尤ノ御仕向ト
( 8 ) [史料 1 ]が大谷家に伝来することについての
御意被為成候御事、
説明は不可能ではない。川上の意向を受けて大谷
(以下略)
家を訪問した何者かが、その来訪理由を提示する
*
(大谷家文書1-2 )
のに川上の書面を差し出すことはありうるからで
*古文書の整理番号は、大谷文子による整理番 ある。しかしながら、返答書面たる[史料 2 ]が
号にしたがった。以下同様
大谷家に伝来する理由はなかなか説明しづらい。
( 4 ) いわゆる竹島渡海免許は老中連署奉書であり、
それが返答書である以上は、川上の手元に送られ
そこに署名した 4 人が揃って老中であるというの
なければ意味がない。果たして川上は返答を見な
は元和 8 年以後なので、元和4年の発給というの
かったのだろうか。
はあり得ない。関連する対馬藩政史料との比較検
討や藤井譲治による老中連署奉書の年代比定の研
参考文献
究を参考にして、筆者はこれまでこの免許の発給
池内敏[2014]「竹島領有権の歴史的事実にかかわる
日本政府見解について」『日本史研究』622
時期を寛永元年(ないしは 2 年)と推定してきた。
( 5 ) 借用証は外務省用箋(罫紙)に記されたもので、
―――[2015]
「「竹島は日本固有の領土である」論」
『歴
史評論』785
以下の通り。
―――[2016]『竹島 もうひとつの日韓関係史』中
借用証
公新書2359
左記の通り借用致しました
昭和三十年一月十三日
外務省条約局第一課
外務事務官 川上健三
大谷弘様
( 6 ) 礼状ははがきで、あて先は大谷弘様、差出は外
務省条約局第一課川上健三となっている。消印は
昭和三十年一月十七日で、
(東京)芝(郵便局)の
もの。文面は以下の通り。
先日来、一方ならぬ御世話に預りました。貴重
な御先祖の記録を心よく拝見させてくださいまし
た上、拝借までできて心より御礼申しあげます。
十分注意して保管致しますから、しばらく拝借さ
せて頂きたく存じます。また何かと不明の点につ
いて御教示頂かねばならぬと存じますが、何卒よ
ろしく御願申上げます。
先は取あへず御禮まで
( 7 ) 外務省用箋に記された次の書面が大谷家に残さ
れている。
酷暑の折柄いかがお過ごしですか。
貴重な御資料を長期に亘って借用いたし申訳
ママ
なく存知ておりますが、文書中の重要個 所の複写
も数日中に終了する手筈になっていますので、終
り次第早速返却いたします。
右とりあえず
昭和三十年七月二十六日
外務省アジア局第五課
大谷弘様
研 究
名古屋大学で無償公開されている教材
― 教材のオープン化と大学図書館の役割 ―
Free Educational Resources Provided by Nagoya University
Opening educational resources and the role of university library
名古屋大学教養教育院
Institute of Liberal Arts and Sciences, Nagoya University
山 里 敬 也
YAMAZATO, Takaya
Abstract
The report also introduces free educational resources provided by Nagoya University and
presents the results of the ratio of the commercial textbook usages in Department of Science
and Department of Engineering of Nagoya University. The results suggest that the
percentages of lecturers who create their own teaching materials are rather high. So we are
ready to publish open education resources. However, the launching of open educational
resources does not advance because of lack of copyright clearance office. For launching of
open educational resources, copyright clearance, a grant of the bibliography information
(metadata), and appropriate platform that contributes to a wide recognition of the published
contents are necessary. The author thinks that a university library should have this function.
In this report, an opinion of the author on the opening of the educational materials and the role
of the library is also described.
Keywords
Free educational resources(無償教材)
,open educational resources(オープン教材)
,
copyright(著作権),metadata(メタデータ)
,university library(大学図書館)
1 .はじめに
教材のオープン化について調べているうちに、
ひょんなことから漫画家・岡崎京子に辿り着い
1)
た 。岡崎作品の特徴として、過去や同時代のテ
キスト、漫画、音楽、映画などからの膨大な引用
が交錯していることが挙げられる。熱心なファン
による、だれの、どの作品から、どのように引い
ているかを探究している様を「オープンソース」
と関連づけて天声人語に紹介されていた[1]
。エ
リック・S・レイモンド著『伽藍(がらん)とバ
ザール』を引いて、情報の公開と共有、そして自
由な改良が「高品質の創造的作業」を生むのに最
適な方法と書いてある。
教材のオープン化で取り上げられるものにオー
プン教材がある。オープン教材とは、インター
ネット上に無償公開された教材を指し、誰でも自
由に利用でき、また、改変や再利用もできる[2]、
[3]。たとえば、学習者はインターネット上のテ
キスト、画像、ビデオなどのオープン教材を自由
に用いて学習でき、また、教育者はオープン教材
の各素材を自由に改変・編集、あるいはそれらを
まとめて教育目的に利用できる。
オープン教材で無くても無償公開されている教
材は多数ある。教材の改変・編集などの二次利用
を認めていない点がオープン教材と異なるが、学
習者として利用する場合は問題無い。たとえば、
大学の機関レポジトリなどを通して公開されてい
る学術論文、査読を経ていない状態の論文(プレ
プリント)、電子化された学位論文、紀要などの
研究成果や教育目的で用いられる講義ノート、参
考資料などである。これらは教材として誰でも利
用可能である。
これら無償公開されている教材は、自学自習用
の教材として用いられるだけで無く、教材を核と
した教育・学習コミュニティの自由な形成と広が
り、そしてそのコミュニティから生み出される新
たな知的な活動も期待できる。先に紹介した岡崎
京子ファンの活動が良い例である。たとえば、学
1) 留学生になぜ日本で勉強したいと思ったのか、
と尋ねると、漫画、アニメで日本に興味を持ったか
ら、と答える学生が多いが、本学の附属図書館に漫
画が無いのは残念である。たかが漫画、ということ
なのかも知れないが、されど漫画である。現代日本
「カルチャー」を語る上では外せない。勝手ながら、
そろそろ蔵書に加えても良いように思う。
習者であれば、ネット上の学習コミュニティを通
じて、互いに学びをより良くすることができ、ま
た、教育者であれば、無償公開されている教材を
活用することで、より良い教育実践が期待できる。
このような教育・学習コミュニティの活動は集合
知として新たな知を生み出す源泉となりうる[3]
。
教材の無償公開をはじめるきっかけとなったの
は2001年 に 米 国・ マ サ チ ュ ー セ ッ ツ 工 科 大 学
(MIT) が 始 め た オ ー プ ン コ ー ス ウ ェ ア
(OpenCourseWare: OCW)である。翌2002年には、
OCWに刺激を受けたユネスコがオープン教材の
概念を創始している[2]。日本でも2005年から
OCWが始まり、名古屋大学も2005年12月から名
大の授業(名古屋大学OCW)をスタートさせた。
そして、2012年にはユネスコがパリOER宣言を採
択し、ユネスコ加盟国が教材のオープン化を推進
することになる。最近では大規模オンライン講義
(Massive Open Online Course: MOOC)とも呼応し、
教育のオープン化は教育革命(破壊的イノベー
ション)をもたらす、とマスコミでも取り上げら
れている[5]。
一方で、教材のオープン化には課題もある。具
体的には、教材への書誌情報の付与と広く認知さ
れるように公開するための仕組み、そしてその教
材を利活用する際の条件(著作権など)の明示で
ある。
書誌情報とは、本を探すために付与される、著
者名、書名、発行所、発行年、著作権、利用条件
などの情報のことで、これらをまとめたメタデー
タとして教材と共に提供される。検索システムは
メタデータを手がかりに検索を行うのでメタデー
タが適切に付与されていなければ教材がオープン
化されたとしても、インターネット上で認知され
ず(検索対象とならず)結果として利活用されな
い。さらに、オープン化された教材がどのような
条件で利用できるのか明示されていないと正規講
義での利用はむずかしい。たとえば、その教材が
個人利用のみを認めているのか、授業形態での利
用も認めるのか、教育目的以外での利用も認める
のか、改変・編集などの二次利用も認めているの
か、などの条件が明記されていないと利活用が進
まない。
教材のオープン化には、教材の利用条件を明確
にすれば良い、と書いたが実際にはこれが難しい。
授業で使う教材に他人の著作物が含まれることは
当然であるが、いざ、そのような教材を、著作権
処理を行うこと無くインターネットで公開するこ
とはできない。ところが、著作権処理、つまり、
著作権者から許諾を得る手続きを代行する組織が
大学には無く、教材を作成する教員自ら行う必要
がある。教材に含まれる他人の著作物は多岐に渡
り、その数も多い。こうなると、著作権処理に手
間がかかり、結果として教材は公開されない。こ
れでは、教材のオープン化がもたらす果実、すな
わち、教育における破壊的イノベーションは得ら
れない。
以上のように、教材のオープン化の推進には、
教材への書誌情報の付与と広く認知されるように
公開するための仕組み、そしてその教材を利活用
する際の条件(著作権など)の明示が必要となる。
筆者はこの機能を図書館が持つと良いと考えてい
る。
たとえば、図書館において蔵書目録を作成する
ことは必須であり、そのためのノウハウがある。
蔵書目録は利用者が必要とする図書を探し出すた
めに付与される情報である。しかるに、教材への
メタデータ付与にも展開でき、かつ、大学の他の
組織が行うより有効であることは容易に想像でき
る。また、これまでも大学図書館は大学の教育研
究に関わる学術情報の体系的な収集、蓄積、提供
を行ってきており、この過程で各種学術情報の利
用条件についての知見も大学の他の組織より持っ
ていると考えるのが自然である。これは、教材の
オープン化で必須となる著作権処理などの権利処
理においても活用できることを示唆する。たとえ
ば、教材を作成する教員に替わり出版社への問い
合わせを行い、権利処理を適切に行う。あるいは
(著作権上問題とならない)代替素材への差し替
えを教員へ提示することで、教材の利用条件を緩
和し、より利活用しやすい形態での教材制作を促
す。そのような利用に資する(著作権フリー)素
材の収集もあろう。さらには、たとえば、本学附
属図書館で提供されている情報の道しるべ
(PathFinder)を拡張することで、教材作成に資す
る素材の提供もあろう。そしてオープンサイエン
スに呼応した形での研究情報(オープンデータも
含む)の公開促進に加えて、研究情報として公開
されている様々な素材を教材として利用できるよ
うに整備することなどがあろう。すなわち、大学
の教育研究に関わる学術情報の体系的な収集、蓄
積、提供に加えて、新たな学術情報の発信へも貢
献できるよう図書館の機能を強化すれば良い。
このような視点は、何も著者がはじめて言い出
しことでは無く、平成22年12月に発表された文部
科学省科学技術・学術審議会・学術情報基盤作業
部会がまとめた「大学図書館の整備について(審
議のまとめ)-変革する大学にあって求められる
大学図書館像-」でも指摘されており、また、平
成28年 2 月 9 日に東大で開催された「これからの
デジタル・アーカイブ」シンポジウムにても、吉
見俊哉東大副学長より、学術資料のデジタル化と
メタデータ付与、そして利活用される際に必須と
なる権利処理システムの重要性が指摘された。以
上のように、大学図書館に学術情報の発信に必須
となる機能の追加、すなわち、学術情報へのメタ
データの付与と権利処理は、これからの大学図書
館のあり方を議論する上でも重要になる。
本稿では、教材の無償公開とその経緯、著作権
の課題など教材のオープン化にかかる事柄を取り
上げて述べていく。本稿では無償公開されている
(改変・編集などの二次利用は認めない)教材と
(二次利用も認める)オープン教材に分けて議論
を展開していく。また、名古屋大学で無償公開さ
れている教材を紹介しつつ、名古屋大学理学部お
よび工学部の市販教科書の利用率から、教員が自
ら編纂した教材を用いて授業展開している割合が
高いことを示す。これは、オープン教材の素地が
高いことを示唆するが、教材を適切に公開するた
めの支援組織が存在しないため、教材のオープン
化が進んでいない。
先に述べたように、教材のオープン化には、著
作権処理と書誌情報の付与、そして広く認知され
ように公開するための仕組みが必要となる。本稿
では、教材のオープン化のコンテキストで、この
点についての著者の考えを披露したい。
本稿は次のように構成される。
まず、第 2 章では教材のオープン化の成り立ち
について述べる。とりわけ、教材の無償公開をは
じめるきっかけとなったオープンコースウェア
(OpenCourseWare: OCW)について紹介し、OCW
に刺激されオープン教材の概念を創始したユネス
コと2012年にユネスコが採択したパリOER宣言に
ついて紹介する。
第 3 章では、教材をインターネット上へ公開す
る際に留意すべき著作権について述べる。
第 4 章では、名古屋大学における無償教材の公
開サイトである「名大の授業」を例にとり、無償
教材の製作と公開について述べる。また、名大の
授業以外に無償公開されている教材についても紹
介する。なかでも、川邊岩夫名誉教授が名古屋大
学学術機関レポジトリで公開している一連の教材
は、授業等での講義ノートをまとめたものでは無
く、純粋に後進のために作成されたものであり、
賞賛に値する。
第 5 章では、名古屋大学理学部および工学部に
おける市販教科書の利用率についての調査結果か
ら、教員が自ら編纂した教材を用いて授業展開し
ている割合が高いことを紹介する。これは、教材
開発ニーズが高いこと示唆する。また、教材開発
時に問題となる著作権の取り扱いを、著作権者で
ある商用出版者や学協会と一緒になって協議して
いる大学学習資源コンソーシアムの活動も紹介す
る。
以上を踏まえ、第 6 章では、教材の無償公開と
図書館の役割について、筆者の考えを述べる。
最後に第 7 章でまとめる。
2 .教材のオープン化
本章では、教材のオープン化の成り立ちについ
て述べる。教材の無償公開をはじめるきっかけと
なったオープンコースウェア(OpenCourseWare:
OCW)について紹介し、OCWに刺激されオープ
ン教材の概念を創始したユネスコと2012年にユネ
スコが採択したパリOER宣言について紹介する。
2.1 無償教材とオープン教材
インターネット上で公開されているデジタル・
コンテンツには著作権があり利用が制限されてい
る。たとえば、映画、音楽、あるいは書籍などは
利用が制限されていて、それらに付与される著作
権を遵守すべきことは当然である。しかしながら、
教育目的であれば、もっと自由に利用できる素材
があってもよい。このような考えのもと、教員あ
るいは個人が、教育・学習を目的とした各種デジ
タル・コンテンツ(教材)を作成し、インターネッ
ト上に無償で提供している。本稿では、そのよう
な教材を無償教材と呼ぶ。
無償教材の代表的なものがオープン教材である。
ここで、オープン教材とは、教育・学習目的でイ
ンターネット上に無償で公開されたテキスト、画
像、ビデオなどのデジタル・コンテンツ(教材)
を指し、誰でも自由に利用できるだけで無く、改
変や再利用の二次利用もできる。つまり、無償教
材の権利を緩和し、改変や再利用も認めた教材で
ある[3]。
さて、無償教材は利用者が無償で利用できるこ
とに特徴をもつ。これにより、教育・学習の向上
に寄与する目的をもつ。このためには、教材自ら
が無償で利用可能であることを示す必要があり、
通常は、教材が提供されるサイトにその旨の記載
がある場合が多い。
一方、オープン教材は、オープンソースと同様
に、自由な改良ができる。このため、オープン教
材では、単に無償で利用可能なだけで無く、オー
プンでかつ再利用可能であることを示す必要があ
る。従って、
オープン教材には「クリエイティブ・
コモンズ・ライセンス」のような国際的に認知さ
れている権利情報が付与されていることが多い
[7]。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスを付与
することで、誰でも、自身が作成した各種デジタ
ル・コンテンツを自身のホームページなどからイ
ンターネット上に公開することができる。このよ
うに提供される無償教材/オープン教材も多数あ
るものと思われるが、実際には、学習者、教育者
に認知してもらえないと(端的に言えば、検索に
ひっかかり、かつ、教材として認めてもらえなけ
れば)利用されない。
これに対し、教材の無償公開を目的としたサイ
トを通して提供される場合もある。むしろ、この
形態での提供が一般的である。代表的なサイトと
してはOCWがあり、それ以外にも大学が運営す
るサイトが多数ある。また、オープン教材の横断
検 索 を 提 供 す る OER Commons や 企 業 に よ る
iTune U、YouTube EDU もある。さらに、2006年
にサルマン・カーンが始めた Khan Academyなど
もある。これらの詳細は文献[3]に詳しい。
2.2 オープンコースウェア
教材の無償公開の始まりは2001年に米国マサ
チューセッツ工科大学(MIT)が始めたOCWに
端を発する。2001年 4 月のニューヨークタイムズ
紙に掲載された記事によると、MITは教材を無償
で提供することでオープンソースと同様の効果を
教育分野でも狙うことが述べられ、また、MITは
OCWによって、研究だけで無く教育面でもイニ
シアチブを取ることを目指す、と学長自ら述べて
いる[8]。
OCWは、シラバス、講義スケジュール、講義ノー
ト、講義ビデオ、課題、試験、参考資料などの教
材をデジタル化し、インターネット上に無償で提
供していく活動である。提供されるものは、大学
等で学期単位あるいは通年単位のコースなど正規
に提供された講義を対象にしている。正規に提供
された講義の他に公開講座、退職記念講義(最終
講義)や特別講義なども公開されている。
MITは2007年に全てのコースとなる1,800コー
スを公開、さらに2010年には訪問者が 1 億人を超
え、世界中のほぼ全ての国からのアクセスがあっ
たと発表している[9]。
日本はMITの取り組みをいち早く取り入れた国
の一つである。2004年 8 月にMIT OCWの創始メ
ンバの一人であるMIT・宮川繁先生から日本の主
要大学に対してOCWが紹介され、2005年 5 月に、
大阪大学、京都大学、慶應義塾大学、東京大学、
東京工業大学、早稲田大学の 6 大学がOCWの開
始をアナウンスしている。日本OCW連絡会の発
足も同時にアナウンスされ、その後、2005年12月
には名古屋大学、九州大学、北海道大学が日本
OCW連絡会に加盟し、OCWを始めている[4]。
OCWは世界的にも広がりをみせ、2005年には
オープンコースウェアコンソーシアム
(OpenCourseWare Consortium: OCWC) が 設 立 さ
れている。2006年 4 月には京都大学にてオープン
コ ー ス ウ ェ ア 国 際 会 議 が 開 催 し て い る。 日 本
OCW連絡会もOCWCと歩調をあわせる形で、同
会議にて日本オープンコースウェアコンソーシア
ム(Japan OpenCourseWare Consortium: JOCW)の
発足をアナウンスしている。
OCWCは 当 初MITの 付 随 す る 組 織 だ っ た が、
2008年に独立、2014年にはオープンエデュケー
シ ョ ン コ ン ソ ー シ ア ム(Open Education
Consortium: OEC)へ改名し、世界の教育のオー
プン化の推進、普及、そして支援をプロモートし
ている。JOCWはOCWC設立当初から理事(Board
of Governor: BoG)を出していて、現在はJOCW
会長である大阪大学・竹村治雄先生がBoGの一人
と な っ て い る。 本 稿 執 筆 現 在 で、 加 盟 組 織 は
40 ヶ国280を超え、提供されるオープン教材の数
は29カ国語の 3 万モジュールを超える。
2.3 ユネスコによるオープン教材の概念の創始
とパリOER宣言
ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)は、
MITがOCWを 始 め た 当 初 か ら 注 目 し て お り、
2002 年には発展途上国におけるOCWのインパク
トに関するシンポジウム(Forum on the Impact of
Open Courseware for Higher Education in Developing
Countries)を開いている。
OCWが大学の正規な講義を対象にしているの
に対し、オープン教材の概念はもっと広く、教育
に係わるリソースの全てを包含する概念であり、
2002年にユネスコが創った概念である[10]。
さらに、ユネスコは2010年にパリで開催された
オ ー プ ン 教 材 の 世 界 会 議(World Congress on
OERs)にて、オープン教材の総括と展望をOER
宣言にまとめた。これは重要なステップであり、
前JOCW事務局長の明治大学・福原美三先生は
「UNESCOでOER宣言を採択するということは、
各国の政府代表がOERを推進することを約束した
という意味もある。OERに関する様々な問題課題
を解決して前へ進めることに関して、政府の代表
のコミットメントが出たということである。」と
述べている[10]。
余談だが、オープン教材の世界会議に日本政府
から派遣されたのは福原先生と放送大学・山田恒
夫先生のお二人のみであり、文科省からは人が
行っていない。このことに象徴されるように、日
本ではオープン教材があまり認知されていない。
たとえば、ユネスコのホームページにはOER宣言
の英語だけで無く、フランス語、スペイン語、中
国語、ロシア語を始め、ポルトガル語、カタルー
ニャ語、トルコ語、韓国語、タイ語、キニヤルワ
ンダ語、ドイツ語、ヒンドゥー語、ペルシャ語、
グジャラート語、イタリア語の翻訳が掲載されて
いるが日本語が無い。これに業を煮やし、JOCW
現会長の大阪大学・竹村治雄先生、放送大学・山
田恒夫先生、筆者らがOER宣言の翻訳を行い、
JOCWホームページで公開している[11]。原文
のcultureを文化で無く、教養と訳したところもあ
り、興味深い。
3 .教材のオープン化と著作権
先に述べたように、無償教材は、誰でも自身が
作成した各種デジタル・コンテンツを無償教材と
して自身のホームページなどからインターネット
上に公開することができる。ただし、作成した教
材の知的財産権が発生しない状態(パブリック・
ドメイン)、もしくは再利用を許可する必要があ
る。
無償教材に付与されているライセンスとしては
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの表示-
非営利-継承(CC BY-NC-SA)がある。このラ
イセンスでは、自由に共有(どのようなメディア
やフォーマットでも資料を複製したり、再配布で
きる)、翻案(資料をリミックスしたり、改変し
たり、別の作品のベースにしたりできる)が認め
られる。このための条件として、表示(適切なク
レジットを表示し、ライセンスへのリンクを提供
し、変更があったらその旨を示すこと)、非営利
(営利目的での利用は認めない)、継承(資料を加
工・改変した場合は元の作品と同じライセンスの
下に頒布しなければならない)がある。
さて、実際に授業で利用されている教材には他
人の著作物が含まれていることが多い。教員自ら
作成した教材であっても、他人の著作物が含まれ
る。このことはある意味当然であり、より良い授
業展開のためには必須である。たとえば、新聞記
事のスクラップや他人の作った図や画像などを含
んだ補助教材がそれにあたる。大学の対面授業で
事前の許諾無しに他人の著作物を教材として利用
できる著作権法の例外規定(著作権法第三五条:
学校その他の教育機関における複製等)が適用さ
れるために、通常は問題とはならない[12]。以下、
教育機関でのコピー(複製)の条件を示す[13]。
1 .営利を目的としない教育機関であること
2 .授業等を担当する教員等やその授業等を受
ける学習者自身がコピーをすること(指示
に従って作業してくれる人に頼むことは可
能)
3 .授業の中でそのコピーを使用すること
4 .必要な限度内の部数であること
5 .すでに公表されている著作物であること
6 .その著作物の種類や用途などから判断し
て、著作権者の利益を不当に害しないこと
(ソフトウェアやドリルなど、個々の学習
者が購入することを想定して販売されてい
るものをコピーする場合は対象外)
7 .慣行があるときは「出所の明示」が必要
しかしながら、このような教材を無償教材とし
てインターネット上に公開することはできない。
なぜなら、同条件を適用することができないため
である。
では、他人の著作物を含む教材をウェブサイト
で配布するためには、どうすればよいか。ひとつ
の解釈が、他人の著作物を引用の範囲内である、
とするものである[12]。当然のことながら、引
用を適用するためにはその要件を満たす必要があ
る。具体的には、以下の通りである。
引用を適用させる要件
1 .すでに公表されている著作物であること
2 .他人の著作物を引用する必然性があること
3 .引用部分が明瞭に区別されていること(引
用部分に「」をつけるなど)
4 .引用の範囲が必要最小限であること
5 .自分の著作物を主、引用する著作物を従と
しての主従関係があること
6 .原則として原形を保持して掲載すること
7 .原著者の名誉を損害したり、原著者の意図
に反した仕様をしたりしないこと
8 .出典を明示すること
なお、引用の範囲内であれば翻訳しての利用は
できるが、それ以外は認められないと考えるのが
自然である(引用適用要件 6 )。OCW等で公開さ
れている教材に含まれている他人の著作物は、引
用の範囲内で公開されているものが多い。
さて、原形を保持して引用している無償教材の
場合は問題とならないが、オープン教材の場合は
改変や再利用も認めるため、やっかいである。
二次利用もできるようにするためには、適切に
引用した他人の著作物であっても、その著作権者
から許諾を得る必要がある。しかしながら、その
作業は膨大となり、現実的では無い。実際、オー
プン教材をうたった教材であっても、この点があ
やふやなまま公開されているものがあり、その二
次利用については注意が必要である。
米国においては、フェアユースと呼ばれる例外
規定があるが、日本にはフェアユースにあたる条
項が無いために、オープン教材の二次利用は慎重
にすべきである[5]。日本版フェアユースを認め
よう、との動きもあるが、まだまだ時間がかかる
であろう。さらに、環太平洋経済連携協定(TPP)
の合意に伴い著作権法が改正されることなり、著
作物の二次利用、とりわけ現在は黙認されている
二次創作物について不安が拡がっている[14]。
著作権侵害が「非親告罪」となり、権利者の告訴
がなくても捜査機関の判断で立件できるようにな
るためである。
ところで、無償教材として公開されている教材
の多くは教育目的(非営利)での利用に限定して
いるものが多い。先に例示したCC BY-NC-SAを
付与されている教材がそうであり、また、OCW
等で公開されている教材も営利目的での利用は認
めていない。ところが、営利目的での利用を認め
ないと教材の利用が進まない、との議論もある
[5]。たとえば、オープン教材のモデルとなった
オープンソースは営利目的での利用を認めている
ため、広く普及することになった。また、営利企
業がオープンソースの改善に積極的にかかわるよ
うになり、業務レベルでも利用できる質の高い
オープンソースが多数生まれてきた。このような、
営利企業も巻き込んだ教材の改善を目指すべきと
の声は強いが、教育現場にはそのような認識が殆
ど無い、と筆者は感じている。
営利目的で利用するためには教材自体の魅力を
高めることが必須だろうから、そのような改変は
ウェルカムである。ただし、改変された教材もオー
プン教材として利用できなければ意味がない。つ
まり、オープン教材としてのライセンスの継承の
みを認めておけば十分ではないかと考える。たと
え営利目的で利用されても、オープン教材として
利用できるのであれば、デメリットは少なく、む
しろ、オープン教材の普及には好都合のように思
えてならない。以上の理由からCC BY-NC-SAで
は無く、CC BY-SAが良いとの考えである。
また、クリエイティブ・コモンズより更に簡便
で自由度の高いライセンス策定の動きもみられ
る。しかし、これらの動きはライセンスそのもの
の多様化に繋がり、結果として使い勝手が悪くな
る。多種多様なライセンスをひとつの包含した、
つまり、より簡素化したライセンスが望まれるが、
これも定着するまでには、まだまだ時間がかかり
そうである[5]。
4 .名古屋大学で無償公開されている教材
4.1 名大の授業
名古屋大学でOCWが始まったのは、2005年12
月からである。本稿執筆時点で、丁度10年となる。
名古屋大学でOCWを始めるに至った経緯につい
ては文献[15]に詳しい。名古屋大学では、同大
学OCWを「名大の授業」と呼び、教養教育院教
養教育推進室にある名古屋大学オープンコース
ウェア運営協議会が管理・運用を担っている。
名大の授業では、大学の正規講義(アーカイブ
も含む)に加えて、退職記念講義(最終講義)、
公開講座も公開している。このうち、正規講義に
ついては、各部局の部局長によって推薦された講
義を中心に、その講義ノート、ビデオ、シラバス
などを無償教材として公開している。
名大の授業のコース制作は概ね次のように行わ
れる。
まず、 6 月頃に各部局長宛に名大の授業の協力
教員の推薦を依頼する( 7 月末締切)。
推薦された教員へは、名大OCW委員会から本
事業についての説明を行い、講義ノート、ビデオ、
シラバスなどの教材の提供を求める。なお、名大
の授業では 1 分間授業紹介と呼ぶ、担当教員によ
る短い授業紹介ビデオを当初から掲載しており、
この撮影についても協力を求める。
担当教員から教材が提供されると、著作権処理
が行われる。ここで著作権処理とは、教材として
無償公開した場合に問題のある箇所が無いかの確
認作業であり、通常 2 か月程度かかる。その後、
著作権の問題が無いように教材の修正を行う。最
終的には担当教員に確認を依頼、了承され次第公
開している。
以上のプロセスは最短でも 3 か月ほどかかり、
2 年を超えるものもある。コース制作に時間がか
かる理由は著作権処理にある。
先に述べたように、他人の著作物であっても、
著作権者からの許諾を得れば良い。ところが、出
版社に問い合わせても、有料の場合が殆どで、ま
た、オープン教材としての公開を認めるところは
殆ど無い。また、図版や写真など筆者と異なる者
に著作権がある場合や、著者が多数いるため結果
として該当する著作権者に問い合わせすること自
体ができない場合がある。このように権利関係が
複雑な図書が相当数あり、また、出版社等が権利
関係をきちんと把握していない事例も多い。
以上を踏まえ、名大の授業では、他人の著作物
が含まれている教材については引用の範囲内で対
処している。著作権処理にかかる作業の殆どが、
他人の著作物が適切に引用されているか否かの確
認である。この作業に相当の時間を割いているの
が現状である。
4.2 その他の教材
ここでは、名大の授業以外に名古屋大学で公開
されている教材を紹介する。これらの教材は、い
わば、学部・研究科レベルで公開されているもの
であり、筆者が調べた範囲では、理学部で公開さ
れているもののみであった。実際には教員が自身
の所属研究室のホームページ等で公開しているも
のもあるかと思われるが、それらは除いてある。
残念ながらここで紹介する教材が、教材の改変や
編集などの二次利用を認めているかどうかはその
旨の記載が無いため不明である。
表1 名古屋大学理学部が無償公開している教材
Title:
What's 理学
URL:
http://www.sci.nagoya-u.ac.jp/student/what.html
Title:
理学部紹介映像(大学発教育支援コンソー
シアム)
URL:
http://bunshi3.bio.nagoya-u.ac.jp/~nagoya/hs/
hs.html
以上に加えて、本学附属図書館が運用する学術
機関レポジトリで公開されている教材もある。学
術機関レポジトリとは、研究論文・学位論文・学
会発表論文・教材などを収集し、インターネット
により無償公開していく活動であり、OCWの図
書館版とも言える。
名古屋大学の学術機関レポジトリで公開されて
いる教材にはOCWで公開されている教材も含ま
れているが、特筆すべきは、教員が作成した教材
が公開されていることである。とりわけ、川邊岩
夫名誉教授が名古屋大学学術機関レポジトリで公
開している一連の教材は、内容が素晴らしく、同
レポジトリのダウンロードランキングの上位を占
めている。川邊岩夫先生のお話では、授業ではと
うていカバーできない広範囲な内容を、ご自身の
自らの研究・教育基盤を強化するために執筆され
たとのことで、実際にその科目を担当したことは
無いとのことである。これは驚きである。ご自身
の研究・教育活動を振り返る意味もあろうかと思
うが、きちんと分かりやすく教材としてまとめた
ことは賞賛に値する。
表 2 学術機関レポジトリで公開されている教材
Title:
物質科学を学ぶための電磁気学の基礎事項
URL:
http://hdl.handle.net/2237/16108
Title:
物質科学を学ぶための統計力学の基礎事項
URL:
http://hdl.handle.net/2237/16107
Title:
量子力学の基礎事項
URL:
http://hdl.handle.net/2237/16109
Title:
物質科学を学ぶための解析力学の基礎事項
URL:
http://hdl.handle.net/2237/16106
5 .教材開発ニーズと大学図書館の役割
3 章で述べたように、教材の無償公開のネック
のひとつに著作権がある。具体的には、他人の著
作物を含む教材の扱いである。
引用の範囲内であれば教材の無償公開も可能で
あるが、オープン教材として公開するためには、
原著作者から許諾を得る必要があり、この手間が
オープン教材の進展を妨げていると考えられる。
一方で、教員自らが編纂した教材(パワーポイ
ントを含む)を利用して授業を展開している教員
も多数いると予想される。「教育機関」でのコピー
(複製)の条件下での利用であれば何ら問題なく、
むしろ教員にとっても望ましい形態である。
本章では、名古屋大学理学部および工学部にお
ける市販教科書の利用率についての調査結果か
ら、教員自らが編纂した教材の利用状況について
述べ、教材開発ニーズが高いことを導く。次に、
教材開発時に問題となる著作権の取り扱いを、著
作権者である商用出版者や学協会と一緒になって
協議している大学学習資源コンソーシアムの活動
を紹介する。
5.1 名古屋大学理学部および工学部における教
科書の利用率
名古屋大学理学部および工学部そして名古屋大
学大学院工学研究科について調査した。調査は、
2010年度の名古屋大学理学部シラバス(講義数:
380)および同工学部シラバス(講義数:884)に
記載されている市販教科書および市販参考書の利
用の有無を学年毎に集計した。なお、名古屋大学
では学部 1 年生は教養教育院の科目を履修する。
従って、調査したデータに教養教育院で開講され
る科目は含まれていない。理学部あるいは工学部
で学部 1 年向けに開講されているものが対象であ
り、数は少ない。
図 1 に学部講義における市販教科書の利用率を
示す。
数学演習、物理学実習、化学実験など演習・実習・
実験に力を入れていることを背景に、独自に編纂
した教科書を利用している講義が多いように思わ
れる。
一方、図 2 に示す学部講義における市販参考書
の利用率から明らかなように、市販参考書の利用
率については、全体で 5 割程度あり、半数の講義
で参考書を指定している。理学部、工学部での差
異は無く、また、学年による違いもみられない。
なお、図 2 には明記していないが、参考書の指定
がある講義では、ほとんどの教員が 2 冊以上の参
考書を指定している。
同様に、名古屋大学大学院工学研究科シラバス
(講義数:1993)についても調査した。なお、工
学研究科については、教科書として担当教員が編
纂した資料を使う旨の記載がある場合はその数も
調査した。
図1 名古屋大学工学部および理学部における市販教
科書の利用率
図2 名古屋大学工学部および理学部における参考書
を指定している講義の割合
学部 1 年を除くと、理学部および工学部のいず
れも学年が高くなるにつれ市販教科書の利用は低
下している。これは、学年が高くなるにつれて教
員が編纂した講義資料(パワーポイントを含む)
を利用した講義が増えるためだと思われる。また、
理学部と工学部を比較すると、理学部における市
販教科書の利用が少ない。全体としては工学部で
は教科書の利用率が 5 割に達しているのに対し、
理学部では 2 割である。工学部の場合、いわゆる
積み上げ式のカリキュラムが組まれていることが
多いと推測する。このため、定番教科書がそこそ
こあり、また、ここのデータのみからは分からな
いが、工学系大学の標準的なカリキュラムが存在
することが伺える。一方、理学部では、たとえば、
図 3 に大学院における教科書等の利用率を示
す。ここでは、学年の違いではなく、講義形態、
すなわち、講義およびセミナーによる違いについ
て示し、それぞれにおいて教科書、参考書、論文、
資料、そして記載無しについて調査した。
より専門性の高い大学院の講義では、市販教科
書の利用は少なく、たかだか 1 割しかない。さら
に、教員自ら編纂した講義資料を配布している講
義は、シラバスにその旨明記されたものだけでも、
3 割ある。恐らく、教科書の指定が無い講義(記
載の無い講義が 6 割ある)においても、その殆ど
において教員が編纂した講義資料(パワーポイン
トを含む)が利用されているものと思われる。
参考書については 4 割の講義で指定があり、そ
の殆どが 2 冊以上である。これは、学部と同じ傾
向である。
興味深いのは、研究室あるいは研究グループ単
位で行われるセミナーについては、市販教科書の
利用が 6 割あり、多くは英文教科書である。また、
教材として最新の論文を指定している講義も 3 割
近くあった。
大学院の講義、かつ、セミナーという、より専
門性の高い講義で英文ではあるとは言え、市販教
科書の利用率が高いのは意外と思われる。しかし
ながら、欧米の定番教科書は、500ページを超え
るものも多く、かつ、内容も初歩的なレベルから
丁寧に書いてある場合が多い。このため、これら
の教科書が好まれるものと推測する。
図3 名古屋大学大学院工学研究における教科書、参
考書、論文、資料の利用率
以上の調査結果から、批判を恐れず結論を導く
とすると、以下があげられる。
教員自らが編纂した教材(パワーポイントを
含む)を利用した講義は、学年が進むにつれ
て増え、大学院では特に顕著である。
教科書としては、定番教科書でなければ利用
されず、特に大学院では、内容が充実(ペー
ジ数が多い)している英語の定番教科書が好
まれる。
学術領域の専門化が進み、その結果として 1
つの講義でカバーする内容が広くなり、結果
として 1 つの教科書で全てを網羅できなく
なっている。これは参考書が複数指定されて
いることからも伺える。
5.2 大学学習資源コンソーシアムの取り組み
先にみたように、専門性の高い講義ほど市販教
科書の利用率は下がる傾向があり、教員自ら編纂
した講義資料(パワーポイントを含む)を用いて
いる講義が多いことが分かった。また、参考書も
2 冊以上指定されている。教科書、参考書に加え
て、論文、補助資料もあろうから、 1 つの講義で
利用される他人の著作物は相当数にのぼると予想
される。一方で、これらの教材の全てを使って授
業展開しているとは考えにくく、むしろ、授業で
必要となる部分を抜き出し、それらを編纂した資
料を用いて授業展開しているものと想像される。
これまでの教材のオープン化の世界的な潮流、
あるいは本学における川邊先生の例に見られるよ
うに、教員自ら編纂した講義資料は価値が高く、
それ故、オープン教材として公開した場合の意義
は大きい。しかしながら、現在の著作権法は、た
とえ教育目的であっても教材のインターネット上
の公開は認めて無く、(現実問題として)唯一で
きることが、教員自ら全て作成するか、あるいは
他人の著作物は引用の範囲に留めて、改変・編集
などの二次利用は認めない、無償教材としての公
開のみである。
以上の状況を鑑み、(教科書・参考書を取り
扱っている)学術出版物の出版社や(論文誌を取
り扱っている)学協会と大学の間でコンソーシア
ムを組織し、著作物の二次利用の促進を目指す動
き も あ る。 大 学 学 習 資 源 コ ン ソ ー シ ア ム
(Consortium for Learning Resource: CLR)では、コ
ンソーシアム加盟大学内における学術出版物の二
次利用を、著作権者となるコンソーシアム加盟出
版社・学協会からの許諾無しで利用できる、いわ
ゆる包括契約を結ぶことを目指している[16]。
い わ ば、 一 般 社 団 法 人 日 本 音 楽 著 作 権 協 会
(JASRAC)と同様に、著作権の管理委託を受け
ることで、著作権管理に係わる手続きを代行する
ことを想定している。こうすることで、教員は面
倒な権利処理を行わなくても自信が作成する教材
にCLR加盟出版社の著作物を含めることできるよ
うになり、また、出版社も権利の保護を満たしつ
つ著作物の利用が促進することで、利用に応じた
収入が期待でき、双方にとって望ましい運用が期
待できる。
2015年 9 月現在で19の大学が加盟している。残
念ながら、学術出版物を扱う出版社は、中小・零
細出版社も多く、このため本コンソーシアムの事
業に対して警戒を示しており、遅々として進まな
いのが現状である。ただし、出版物の電子化の波
は避けて通ることはできないため、今後、進展し
ていくことが期待される。一方、学協会について
は、その会員の多くが大学関係者であることもあ
り、概ね好意的である。
6 .教材のオープン化と大学図書館の役割
CLRの活動は、電子化した教材の利用促進に寄
与することが期待できる。とりわけ、CLR加盟出
版社の著作物であれば相応の対価を支払うことで
インターネット上に公開できる点は大きい。これ
により、授業時間外に行う自学自習用の教材とし
て用いることができるだけで無く、公開された教
材を核とした教育・学習コミュニティの自由な形
成と広がり、そしてそのコミュニティから生み出
される新たな知的な活動も期待できる。
一方、教材のオープン化という意味では不十分
である。教材の改変・編集などの二次利用ができ
ないためであり、オープン化で享受するであろう
「高品質の創造的作業」が期待できない。以上を
踏まえ、筆者の愚考を述べたい。
平成22年12月に文部科学省科学技術・学術審議
会が発表した「大学図書館の整備について(審議
のまとめ)-変革する大学にあって求められる大
学図書館像-」によると、インターネットの普及
に代表される社会全体における電子化の進展と学
術情報流通の変化と大学を巡る環境変化から、大
学図書館に対し、学習支援及び教育活動への直接
の関与を求めている[17]。中でも教育活動への
直接の関与として「大学におけるe-Learningへの
取組みについて、大学図書館における学習、教育、
研究への関わりが強調される中で、その教材作成
への関与、教材の整理・提供といった面での貢献
が期待されている。」とあり、注目される。とり
わけ、教員自ら編纂する教材開発への直接的な関
与だけで無く、(開発された教材も含む)教材の
整理・(オンラインによる提供も視野にいれた)
提供(公開)についてこれまで以上に取り組むこ
とが期待されている。
これまで述べてきたように、教材開発のボトル
ネックは著作権処理であるが、この機能をもつ組
織は大学には無い。筆者が知る限りでは、東京大
学、京都大学に著作権処理を行う専門の部隊があ
る が、 そ れ と てOCWや 大 規 模 オ ン ラ イ ン 講 義
(Massive Open Online Course: MOOC)を遂行する
ために設けられたもので、いわゆる大学全体の著
作権処理を行う組織は無い。名古屋大学において
もOCW事業の一環として著作権処理を行ってい
るが、OCW(名大の授業)で公開される教材以
外は対象としていない。
大学には知財を扱う部署もあるが、たとえば名
古屋大学の場合は研究の過程で生み出さされる知
財を対象にしており、教材、ましてや他人の著作
物を利用するための処理を代行する機能は無い。
著作権を取り扱うためには、それなりの知識と、
また、それを適切に処理するためのノウハウ、そ
してそのノウハウの蓄積が必要になる。これは、
単に教材開発という側面だけで無く、教育のオー
プン化、研究のオープン化、大学のオープン化な
どの一連の流れにも寄与できる。著作権処理を大
学図書館の新たな機能(サービス)として整備す
べきである。
先に紹介したCLRも大学図書館に籍をおく教員
が中心となって組織され、学術出版社・学協会
(著作権者)と大学(著作物の利用者)の間を取
り持つことを想定している。このような動きも図
書館に著作権処理機能を持つべき理由を後押しす
る。
ところで、先の学術審議会の報告では大学図書
館の基本的機能として「大学図書館は、これまで、
大学の教育研究に関わる学術情報の体系的な収
集、蓄積、提供を行うことで、教育研究に対する
支援機能を担ってきた。」とある[17]。これは、
開発された教材の収集、蓄積、提供も機能として
持っていることを示唆する。たとえば、機関レポ
ジトリがその機能を果たすが、オープン化という
視点で考えると不十分である。
インターネット上で学術情報を適切に扱うため
には、メタデータ(いわゆる書誌情報)の付与と
充実がかかせない。一般に検索システムでは、こ
のメタデータを手がかりに検索を行う。ここでメ
タデータとは、検索の対象となるデータを要約し
たデータのことで、たとえば教材の場合、教材の
タイトル、著者名、キーワード、抄録、著作権者、
(改変可能かどうかなどの)ライセンス、発行年
月日などの書誌情報がメタデータである[7]
。メ
タデータが適切に付与されてはじめて検索できる
ようになる。筆者の浅はかな考えでは、メタデー
タの付与は図書館のもっとも得意とする業務と思
われる。この機能を強化することで、大学から提
供される様々な学術情報が広く参照され、活用さ
れる。教材だけで無く、あらゆる学術情報へのメ
タデータの付与も図書館が担うべき業務である。
ポイント.智場 #119 特集号 オープンデータ、
pp.125-134, 2014.
[8] CAREY GOLDBERG, Auditing Classes at M.I.T.,
on the Web and Free, International New York Times,
April 4, 2001. http://www.nytimes.com/2001/04/04/
us/auditing-classes-at-mit-on-the-web-and-free.html,
7 .まとめ
本稿では、教材のオープン化と名古屋大学にお
ける教材の無償公開について紹介した。また、教
材のオープン化と図書館の役割について筆者の愚
考も述べた。
教材のオープン化に限らず、教育、研究、そし
て大学のオープン化は進展していくものと考えら
れる。これらの流れは、国、地方公共団体、独立
行政法人、公共企業等が保有している公共データ
をオープンデータとして公開することとも付合
し、オープン化されたあらゆるデジタルコンテン
ツ・データを活用し、教育・研究を推進する時代
が早々に訪れると考えられる。加えて、大学には
新たな知見を編み出す役割もあり、大学がオープ
ン化する意義は大きい。
これまで述べてきたように、大学図書館は教育、
研究で生み出される学術情報資源のオープン化の
中核を担う可能性を秘めている。とりわけ、著作
権処理、メタデータの付与など大学のオープン化
ではたす役割は大きいと考える。
参考文献
[1] 天声人語.市場主義と異なる原理があちこちで.
朝日新聞朝刊、2000年02月20日.
[2] 福 原 美 三.Open Educational Resourcesの 最 新 動
向と将来展望.cybermedia forum, no.14. 2013.
(参照 2015-12-28)
[9] Shigeru Miyagawa. MIT OpenCourseWare: A
Decade of Global Benefit. MIT Faculty Newsletter,
Vol. XXIII No. 1, September/October 2010. http://
web.mit.edu/fnl/volume/231/miyagawa.html,( 参 照
2015-12-28)
[10] 福原美三.オープンエデュケーションの現状と
展 望.NPO法 人CCC-TIES 報 告 集、vol.5、pp.311, 2014.
[11] 日本オープンコースウェアコンソーシアム.パ
リOER宣 言 の 日 本 語 訳.http://jocw.jp/jp/?p=79、
(参照 2015-12-28)
[12] 九州大学附属図書館付設教材開発センター.大
学教育における他人の著作物を含む電子・オン
ライン教材の作成と利用に関するQ&A.第 2 版、
九 州 大 学 附 属 図 書 館 付 設 教 材 開 発 セ ン タ ー、
2014.
[13] 文化庁.著作権テキスト~初めて学ぶ人のため
に~平成27年度.
[14] 朝日新聞.二次創作、黙認と違法の差は TP
Pでコミケ出品者恐々.2016年 1 月 9 日.
[15] 山里敬也.名大の授業.名古屋大学附属図書館
研究年報、第 5 号、pp.51-55、2006.
[16] 大学学習資源コンソーシアム、http://clr.jp、
(参
照 2015-12-28)
[17] 科学技術・学術審議会 学術分科会 研究環境
[3] 重田勝介.オープンエデュケーション-知の開
基盤部会 学術情報基盤作業部会.大学図書館
放は大学教育に何をもたらすか.第 1 版、東京
の整備について(審議のまとめ)-変革する大
電機大学出版、2014.
学にあって求められる大学図書館像-、文部科
[4] 福原美三.日本におけるオープンコースウェア
学 省、 平 成22年12月.http://www.mext.go.jp/b_
の 現 状 と 課 題・ 展 望. 情 報 管 理、vol.49, no.6,
menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/toushin/
pp.301-312, September, 2006.
attach/1301607.htm、(参照 2015-12-28)
[5] 渡辺智暁.教育のオープン化と高等教育の再編
可能性.intelplace #118, March, 2013.
[6] 渡辺智暁.著作権とライセンスから見たOpen
Educational Resourcesの 未 来.cybermedia forum,
no.14. pp.23-31, 2013.
[7] 林雅之.オープンデータを理解するための10の
報 告
『水田文庫貴重書目録』編集後記
A postscript of The Mizuta Library of rare books in the history of
European social thought :
a catalogue of the collection held at Nagoya University Library
名古屋大学附属図書館研究開発室
Nagoya University Library Studies
中 井 えり子
NAKAI, Eriko
Abstract
In The Mizuta Library of Rare Books in the History of European Social Thought : A
Catalogue of the Collection Held at Nagoya University Library, explanatory notes such as the
arrangement and format of bibliographical records, process of editing, some problems
encountered while editing book-form catalogs utilizing online catalogs are not mentioned.
Therefore, besides describing the aforementioned notes, I introduce several copies, such as
copies with both cancellandum and cancellans, and copies not identified through the English
Short Title Catalogue (ESTC) record of the Mizuta Library that are worthy of special mention.
Keywords
Mizuta Library(水田文庫), The Mizuta Library of Rare Books in the History of European
Social Thought : a Catalogue of the Collection Held at Nagoya University Library(水田文
庫貴重書目録), book-form catalogs, copies with both cancellandum and cancellans, variant
states, copies not in ESTC
はじめに
2014年11月に出版された、英文『水田文庫貴重
書目録』The Mizuta library of rare books in the history
of European social thought : a catalogue of the
collection held at Nagoya University Library.(Tokyo,
Edition Synapse; Abingdon, Routledge, 2014. 国内販
売元:極東書店)の編集に携わった。
「水田文庫」は、日本学士院会員・名古屋大学
名誉教授水田洋氏(みずた ひろし 1919年生)
の旧蔵書からなる名古屋大学附属図書館所蔵の近
代西洋社会思想史関連の図書及び雑誌からなるコ
レクションで、1,636点7,264冊に及ぶ(目録編集
当時)。本書はそのうち、1850年までに刊行され
た洋書(図書・雑誌)2,239冊の目録である。
その編集作業の方法とそれに伴う問題点を記録
に残すとともに、編集中や上梓後に発見した珍し
い版本を、本稿で紹介したい。
最初に、『水田文庫貴重書目録』の簡単な構成
や体裁を記しておく。
1 .目録の構成
水田洋名誉教授の近影と蔵書票
図版一覧
図版 カラー 5 点、白黒45点
序文 慶應義塾大学経済学部教授
坂本達哉氏
謝辞 水田洋教授略歴
水田文庫の統計的概要
略語
目録(図書 1604点)
目録(雑誌 32点)
書名索引
2 .図書の書誌レコードの体裁と構成
⑴ 書誌記述の構成
各々のレコードは次のように記述した。
一連番号.標目形 [改行]
タイトル:タイトル関連情報/責任表示.
版表示.巻数表示.出版事項.
(シリーズ名)
[改行]
形態事項 [改行]
注記 [注記の種類ごとに改行]
折記号(Signatures:) [改行]
参照書誌(References:)
[改行]
水田文庫本に関わる注記事項 [改行]
旧所蔵者情報
(蔵書票、署名等) [改行]
合冊本の製本状態 [改行]
水田文庫請求記号(Mizuta || 4 桁のアラビ
ア数字)
⑵ 体裁
1 )配列
著者のアルファベット順とし、同一著者
の複数の著作は書名のアルファベット順に
配 列 す る。 著 者 不 詳 の 書 誌 は、Anon.
(Anonymous) と し て、 最 初 に 配 列 す る。
書誌レコード単位で一連番号を付与する。
2 )参照
共著者、訳者、匿名著作の想定される著
者で、標目形にない著者を本文中に参照注
記を作成する。
3 )合冊本
個々の書誌ごとに書誌を作成し、どの本
に合冊製本されているかわかるようにする。
1 冊目 With this is bound: 合冊されてい
る書誌すべての著者名,(一連
番号)を記載
2 冊目以降 Bound with: 1 冊目の著者
名,(一連番号)を記載
3 .雑誌の書誌レコードの体裁と構成
⑴ 構成
各々のレコードは次のように記述した。
タイトル.版表示.出版事項.[改行]
雑誌の初巻の巻号(刊年等)-最終巻の
巻号(刊年等)[改行]
責任表示[改行] 注記 [改行]
参照書誌 [改行]
水田文庫請求記号(Mizuta || Sに続けて
1
3 桁のアラビア数字).水田文庫所蔵巻
号
〈出版年〉
⑵ 体裁
雑誌は、NACSIS-CATで、図書とは別ファ
イルになっているため、雑誌の目録は図書の
目録とは別扱いとし、図書の目録のあとに、
別体系の一連番号を付して掲載した。
個人編集の雑誌もあるが、すべてタイトル
順に配列した。
またThe Mirrorは、水田文庫に初版、 4 版
および 5 版を所蔵しているが、初版は雑誌に、
4 版と 5 版は図書として登録されている。こ
のように雑誌の版によっては、図書として登
録されていることもあるため、図書のところ
に配列したものもある。
このような場合は、図書と雑誌の両方の目
録から引くことができるように参照を入れた。
Ⅰ.編集作業
1 .書誌レコード
国立情報学研究所(以下NII)のNACSIS-CAT
に登録した書誌レコードを、名古屋大学蔵書検
索Online Public Access Catalog( 以 下OPAC) に
ダウンロードしたものをベースとした。
1800年以前刊行本の書誌レコードは、『稀覯
書の書誌記述』等に準拠して記述している。詳
細は、II. 3. 西洋初期刊本の書誌レコードの項
を参照のこと。
2 .書誌データの編集
⑴ 基本標目の選定と標目形の統一
冊子体目録やカード目録と異なり、オンラ
イン目録では、標目の順番を気にする必要が
あまりなく、複数の著者名リンクフィールド
に対して、順序に厳密な規則がなく、まちま
ちである。そのため基本標目を選定した際、
同一人物と思われる著者の標目形にばらつき
があるものを統一した。
⑵ 句読点、スペースの調整
OPACでは、画面によっては、フィールド
の末尾にピリオドが表示されないため、必要
に応じて、付与した。句読点やスペースは、
各エレメントを区切る役目があるため、その
まま活字にすると違和感がでる場合がある。
出版年の前にあるカンマの前の半角スペース
を削除するなど、調整した。
また、西洋初期刊本のタイトル、タイトル
関連情報や責任表示は、明確に区別されない
で記述されていることが多いため、印刷され
ているとおりに転記するなど、あえて区切り
記号としての句読点を使用しなかった場合が
ある。
⑶ 参考書誌(References)の記述統一
冊子体のStandard citation forms for published
bibliographies and catalogs used in rare book
cataloging. 2nd ed. (Washington, D.C.: Library
of Congress, Cataloging Distribution Service,
1996)のフォーマットに準拠して記述を統一
2
した 。
⑷ 用語の統一
注記でよく記述される、タイトル頁(t.p.)、
略標題紙(half-t.p.)などの用語を統一した。
用語決定にあたっては、できる限り短い形に
するという方針とした。
⑸ 折記号の記載
西洋初期刊本に、一部の文庫やコレクショ
ンを除いて折記号は付与していないが、水田
文庫の貴重書目録作成にあたって、版本識別
のために必要と考えられ、付与することにし
た。ただし、時間的な余裕がなく、1800年以
前の刊本のうち、多巻物以外の刊本に限定し
て付与した。
折記号の付与は新規の目録作業であるた
め、特別に元跡見女子大学教授高野彰氏の指
導・協力を得た。
⑹ 1801年以降刊行物の個別データ処理
1801 年以降の刊本は、NIIの諸規則に従っ
て登録されたNACSIS-CAT の参加機関と共
有の書誌レコードであるため、決定的な間違
いがない限り、作成館の記述によっている。
そのため、記述の仕方に違いがみられ、より
記述の統一が必要であった。
また、水田文庫本の欠落頁や蔵書票の貼付、
書き込みなどの個別データは所蔵レコードか
3
らの転記が必要となった 。
⑺ 合冊本の整理
前述したように合冊の状態を記述するた
め、OPAC上で合冊製本されている書誌を検
4
索し、現物から第1冊目を確定した 。
3 .書名索引の編集
形式は、「タイトル, エントリー番号」とし、
索引に記載するタイトルの文字数は、スペース
を含め、60字を上限とし、同じタイトルが二つ
以上ある場合は、タイトルはひとつにまとめ、
エントリー番号を列記した。ギリシア文字のタ
イトルは、末尾に記載した。
書名索引の作成手順は次のとおりである。
⑴ OPACの書誌・所蔵レコードをExcelファイ
ル形式でダウンロードする。
⑵ ファイルより、一連の書名(タイトル、シ
5
リーズ名、各編の書名 、内容注記)及び請
求記号を抽出し、それらの書名と請求記号を
併記して、アルファベット順に配列した作業
用のExcel形式のリストを作成する。
⑶ 注記に記述されていても、機械的に抽出で
きない書名を手作業で拾い出し、上記のリス
トに付加する。
⑷ 本文原稿の初校の校正刷をもとに、請求記
号とエントリー番号を対照させたExcel形式
のリストを作成する。
⑸ 上記の「書名リスト+請求記号」のリスト
と「エントリー番号+請求記号」のリストを
対照して、書名索引を作成する。
Ⅱ.編集に伴う問題点
1 .OPACを利用した冊子体目録
冊子体目録を想定したシステムが作られてい
ないため、フィールドや区切り記号でぶつぶつ
と切られている書誌要素を、一つのレコードと
してまとめるという作業を手作業で行わなけれ
ばならなかった。
2 .NACSIS-CATの課題
NACSIS-CATの出発点の趣旨が、参加機関が
作成した書誌レコードを共有して目録作成の省
力化を図るものであるため、原則として稀覯書
6
を除いて他機関と書誌レコードを共有している 。
また、稀覯書の目録規則は、1800年以前の刊
本を対象としている。従って、1801年以降1850
年までに出版された刊本を含む水田文庫貴重書
目録の書誌記述は、1800年以前に出版された版
本と書誌データの精粗の差をそのまま反映する
こととなった。
そのため今回の冊子体目録では、1801年以降
の刊本の書誌記述には、判型や多巻物の各巻頁
数を記述せず、水田文庫の版本が持つ個別の書
誌的特徴は、OPACの所蔵レコードの注記から
転記することとした。
共有している書誌レコードは、作成された時
期により、また目録規則の運用の違いやシステ
ム環境の進歩等により、記述内容にばらつきが
生じるため、冊子体目録としてそのまま使用す
ると、統一した記述ではなくなってしまう。
NACSIS-CATへ の 西 洋 古 典 籍 の 登 録 に つ い
て、書誌作成の基準を規定するとともに、規則
類の適用方針を明確にすることにより、西洋古
典籍の登録も促進され、各版本の識別同定がし
やすくなろう。
3 .西洋初期刊本の書誌レコード
1800年以前出版の版本の目録作成は、以下に
列 記 し た 規 則 類 に 準 拠 し て い る。 し か し、
NACSIS-CATの目録作成基準に合わない部分が
生じ、それを合致させるために「中央館西洋古
典籍整理規定(案)」を作成し、運用している。
・『目録システムコーディングマニュアル』文
部省学術情報センター編 文部省学術情報セ
ンター 1998-.ルーズリーフ
・『目録情報の基準』第 4 版 文部省学術情報
センター 1999
・『英米目録規則(第 2 版日本語版)』
(AACR2)
日本図書館協会 1982
・『稀覯書の書誌記述』国立 一橋大学社会科
学 古典資料センター 1986(一橋大学社会
科学古典資料センター Study Series,no. 11)
・ Anglo-American cataloging rules. 2nd ed., 1998
revision. Ottawa, Canadian Library Association;
Chicago, American Library Association, 1998.
・ Descriptive cataloging of rare materials (books).
Washington, D.C., Library of Congress, 2007.
しかしながら、「中央館西洋古典籍整理規定
(案)」で、各規則類をどこまで適用するかを決
め て あ っ て も、 ど う し て も ユ レ が 生 じ る。
OPAC上(NII登録書誌)では、あまり目立たな
くても冊子体目録にそのまま転記すると統一性
に欠ける印象がぬぐえない。例えば次のような
不統一ができてしまった。
・転記の原則
大文字使用法と"I / J"、"U / V" " W"の現代形
への変換については、版本識別に必要なことも
あり、印刷されているとおり記述し、VTでそ
の他の形を記載することで、様々な検索キーに
耐えられるようにするのが、合理的に思われる
が、規則類によって方針が異なる部分であり、
規則の適用方法が難しい。
・タイトル及びタイトル関連情報等の記述
書誌データの編集作業の項でも触れたよう
に、西洋初期刊本のタイトル、タイトル関連情
報や責任表示は、明確に区別されずに印刷され
ていることが多く、タイトル関連情報とするか、
注記にするかについて、ユレがでる。
しばしばタイトル頁に印刷されている“In
two volumes”など、全何巻で出版されたかの
記述は、タイトル頁上の印刷されている場所と
も関連しているせいか、タイトルに含めるのか、
注記に記述するのか、記述するフィールドの決
7
定が難しい 。
・多巻物の各巻頁記載のフィールド
多巻物の各巻頁記載は、全巻を通じて頁付け
がされており、第 2 巻以降に前付け頁がない場
合は、形態事項を形態事項(PHYS)に、各巻
ごとの頁付けの場合は注記(NOTE)に記述す
る場合等があるが、冊子体では統一できなかっ
た。
・注記の記述
多 巻 物 以 外 の1800年 以 前 刊 行 本 に 折 記 号
(Signatures) を 付 与、 参 照 資 料(References)
、
水田文庫本のみに関する特徴的な書誌記述、及
びその他の記述方法の統一については、検討事
項が多く、以前から部内で作成していた、「注
記集」「参考資料集」を適宜整備し、「中央館西
洋古典整理規定案」は「名古屋大学西洋古典整
理規定案」として、2015年度内に学内で、使用
開始の予定である。
Ⅲ.特筆すべき書誌の紹介
8
1.削除紙葉が残っている版本
紙葉が差し替えられているにもかかわらず、
削除紙葉が残っている版本が、水田文庫には 2
点あり、そのうち一点は、高野彰著『洋書の話』
(朗文堂 2014)のp.84-86で紹介されているの
で、そちらを参照していただきたい。
もう一点は、折記号 f の右下に折り目をつけ
たまま残された削除紙葉(cancellandum)があ
り(図1-1)、差し替え紙葉(cancellans)も、こ
の削除されるべき紙葉の前に綴じられている
(図1-2)。
本書はティレル著の『自然法の簡明な探求』
9
である 。もともと 1 葉に印刷されていたTo the
bookseller の部分の活字を大きくして組版を変
え、 2 葉に印刷しなおしたものである。
従って、本書の折記号は、次のようになる。
8
8 π 2 8
8
A b-e f f B-2C
ちなみに、同じ書誌で差替えられていないま
まの版本が、本学のホッブズ・コレクションに
含まれている(Hobbes I || 275)。こちらの折記
8
8
8
号は、A b-f B-2C となる。
(図1-1)削除紙葉
(図1-2)差し替え紙葉
10
2 .異刷(state)
前述の『洋書の話』p.195-196の異刷の事例
と類似した事例と考えられるヴォルテール著
『哲学辞典』(初版1764年)の1765年刊行の英語
11
版がある 。
この著作は出版事項とタイトル頁のヴィ
ニェット(vignette 装飾模様)は異なるが、組
版が同じで頁付のミスまで同じ版本の一つが
水田文庫にあり(Mizuta || 1819)、もう一つが
ホッブズ・コレクションIIに収められている
(Hobbes II || C 5)。タイトル頁だけを差し替え
て同時出版したと考えられる(図2-1,2-2)。
出版者が印刷されておらず、Errataがない。
一方、水田文庫本(Mizuta || 0248)
(図3-1)は、
出版事項とErrataがあることはT148096と同じ
で あ る。 し か し、Errataの 紙 葉 が あ る 場 所 が
T148096と異なり、本文の最後にある(図3-2)。
12
しかも、ESTCにリンクされているECCO の画
像(British Library所蔵本)のErrataと比較すると、
その内容がわずかであるが異なる。その違いは、
ESTC T148096本は、水田文庫本のErrataにはな
いp.297の脚注の修正が増えていることである。
13
HathiTrust Digital Library で公開されている
カリフォルニア大学本は、T148096本のErrata
とは、綴じられている位置が異なり、巻末にあ
るが、同じ内容であるので本稿に掲載する(図
3-3)。
(図2-1)水田文庫本 タイトル頁
(図3-1)水田文庫本 タイトル頁
(図2-2)ホッブズ・コレクション本
タイトル頁
もう一つの事例は、ジョン・ブルース(Bruce,
John, 1745-1826)の『英領インド統治計画史論』
(Historical view of plans, for the government of
British India)のESTCには採録されていない異
刷である。この著作は、1793年に匿名で二つの
版が刊行されたことがESTCのレコードからわ
かる。
一つはESTC番号がT148096で、出版事項は、
London : printed for J. Sewell, Cornhill; and J.
Debrett, Piccadilly, M.DCC.XCIII.で、Errataが、p.
xiiの後にある。もう一つはT147333で、出版地、
(図3-2)水田文庫本 Errata
(図3-3)カリフォルニア大学本 Errata14
ロンドン大学のゴールドスミス文庫本の画像
が全文データベース化され、The Making of the
Modern World: Part I: The Goldsmiths'-Kress
Collection, 1450-1850として、商用サービスで提
供されているので、この版本を調べてみたとこ
ろ、やはり二つの版(no. 15632とno. 15633に該
当)がある。No. 15632は、出版地、出版者の
表記がなく、Errataが本文の最後にあり、ESTC
T148096と同じ内容である。No. 15633は、出版
地、出版者の記載があり、Errataは本文の最後
にあって、水田文庫本と同じ内容である。
ゴールドスミス文庫本は、水田文庫本と同様
にいずれもp.369がp.371と間違って頁付けされ
ており、書誌データに記載されている。ESTCレ
コードには、何も書かれていないが、ECCOに
よれば二つとも同様に頁付けが間違っている。
上記を整理すると、1793年刊行の版本は 4 つ
あり、ESTCに採録されている 2 種のほかに、
出版事項が、London : printed for J. Sewell, Cornhill;
and J. Debrett, Piccadilly, M.DCC.XCIII.と あ り、
Errataが 本 文 末 尾 に あ り、 そ の 内 容 がESTC
T148096と異なる版本と、出版地、出版者の表
記がないが、Errataが本文の最後にあり、ESTC
T148096と 同 じ 内 容 の 版 本 が あ る。 前 者 が
Goldsmiths'-Kress文庫のno.15633で後者がno. 15632
である。
すなわち、水田文庫本はESTCに採録されて
いる 2 つの版本のいずれでもなく、Goldsmiths'Kress文庫本のno.15633と同じ版本であると考
えられる。水田文庫本にないp.297の脚注の修
正部分は水田文庫本は無修正のままであるの
で、刷としては、水田文庫本の方が古いと考え
られる。さらに、Errataがなく、本文が修正さ
れていないESTC T147333本がさらに古いと言
えよう。
また、異刷の他の例として、トマス・ホッブ
ズ著『リヴァイアサン』初版のhead版がある。
1651年刊行の『リヴァイアサン』の真正初版
はhead版とよばれる版本であることは周知のこ
とであるが、さらにこのhead版にも刷りの異な
る版本があると言われている。水田文庫本の
head版のほかに、本学のホッブズ・コレクショ
ンにもhead版があり、双方を比較することがで
きる。この比較調査は、高野彰氏に依頼し、そ
の結果は本年報の本号に掲載されているので、
詳細はそちらを参照していただきたい。
3 .ESTCに収録されていない版本
アンソニー・コリンズ著の『自由思想につい
て』(1713年 ロンドン刊)の仏語訳本が水田
文庫にある(Mizuta || 0451)。
Discours sur la liberté de penser / par Mr. ollins
; traduit de l'anglois & augmenté d'une Lettre
d'un médecin arabe ; avec l'Examen de ces
deux ouvrages par Mr. de Crouzas. tome
premier, tome second. Nouvelle édition
corrigée. A Londres :[s.n.], 1766. 2 v. in 1 ;
17 cm. (8vo)
Tome 1: XII, 168[i.e. 268]; t. 2: VIII, 211,
[1]p.
以上は、その簡略書誌であるが、タイトル、
出版者(この書誌では、出版者不明)、出版年、
版型の一致するESTCレコードは、T101511一
点しかない。しかし、この書誌データには各巻
の頁数が記載されていないため、同定できない。
ESTCにリンクされているECCOの書誌データ
によれば、画像の版本は、British Libraryの所蔵
本である。ESTCのデータは 2 冊本で、合冊さ
れていないほかは、tome 2 に略標題紙があるこ
とや、その他の書誌レコードの記述内容も水田
文庫本と同一である。
一方、本学の18世紀フランス自由思想家コレ
クション(以下自由思想家本という)の 135 ||
ZIYUSISO || 133.3 || Cも、タイトル、出版者(こ
の書誌でも、出版者不明)、出版年、判型は、
水田文庫本やESTC本と同じ八折本である。
しかし、水田文庫本と自由思想家本とは頁数
が 次 の よ う に 異 な り、 さ ら に 標 題 紙 の ヴ ィ
ニェット(図4-1, 4-2)も、版本全体の印刷活
字の書体も異なる。
水田文庫本 Tome 1: XII, 168[i.e. 268]; t.
2: VIII, 211,[1]p.
自由思想家本 Tome 1: XVI, 200; t. 2: VIII,
188 p.
ESTC本にリンクされているECCOの画像を
見比べると、自由思想家本と同じであった。
わかった一例である。
次は、ESTCの書誌が見当たらない例である。
エリアス・ニューマン(Newman, Elias 生没
年不詳)の『真の哲学』Philosophia vera, or, A
new system of philosophy, natural, moral, and
divine, very concise, but comprehensive, much
desired by, and very interesting to mankind in
general. (Mizuta || 1274) は、ESTCの み で な く、
15
COPAC 及び Library of Congress Online Catalog
でも書誌が見当らない。タイトル頁の出版事項
は、London, Printed for the author, 1768.とのみ印
刷されている(図 5 )。
し か し な が ら、The critical review, or, annals
16
of literature. Vol. 26(London, 1768) で 書 評 が
取り上げられており(p.74)
、Pr. Is. と記載され
ているので、private issue(私家版)であったこ
とがわかる。また、その書評の内容から推測す
ると、著者ニューマンの主張は賛同が得られず、
その後出版されなかったと考えられる。そのた
め、英国図書館や英国の大学図書館でも所蔵さ
れていないのであろう。
(図4-1)水田文庫本 タイトル頁
(図5)『真の哲学』タイトル頁
(図4-2)自由思想家本 タイトル頁
この例は、本学に類似の版本があったこと
と、ECCOが利用できたことにより、水田文庫
本がESTCの書誌とは異なるものであることが
おわりに
以上の『水田文庫本貴重書目録』の書誌の作成
にあたっては、目録作成中も、その後にわかった
類似の版本との比較調査についても、高野彰氏に
ご指導いただいた。また、本稿に記述した名古屋
大学における目録規則に関することは小島由香氏
(図書情報係長)に、書誌調査およびOPACの目
録修正には、調査支援係および図書情報係に大変
お世話になった。
この場を借りて、御礼を申し上げる。
誌は次のとおりである。
Tyrrell, James, 1642-1718.
A brief disquisition of the law of nature, according
注
to the principles and method laid down in the
1 水田文庫受入時に、図書と雑誌の区別を決定でき
Reverend Dr. Cumberland's (now Lord Bishop of
ないものもあり、図書の請求記号を付与したもの
Peterborough's) Latin treatise on that subject ...
に、雑誌も混在していた。そのために上記 2 ⑴図
London : Printed, and are to be sold by Richard
書レコードの書誌記述の構成で記載した形式の請
Baldwin ..., 1692. (Mizuta || 1785)
求記号がついた書誌も雑誌の目録も含まれる。
2 現在は、新しい方針のもとで、インターネット上
で更新されている Standard Citation Forms for Rare
10 異刷については、高野彰『洋書の話』p.192- 194を
参照。
11 この版本の簡略書誌
Materials Catalogingのフォーマットに準拠。http://
Voltaire, 1694-1778.
rbms.info/scf/(2015.10.30参照)
The philosophical dictionary for the pocket /
3 名古屋大学では、1801年以降の刊本の個別データ
は、所蔵レコードの注記フィールドに記入している。
4 合冊されている複数の書誌に、同一の資料ID、同
written in French by a society of men of letters ...
London : Printed for S. Bladon ..., 1765.
(Mizuta||1819)
一請求記号が付与されているため、それらのいず
12 ECCOは、Eighteenth Century Collections Onlineの略
れかで検索すれば、合冊されている書誌全部が一
称で、18世紀に英語または、英語で刊行された印
覧できる。
刷物を収録したデジタル全文データベース。
5 多巻物でも合冊本でもないが、一冊の本の各編
(part)が、個別のタイトル頁を持っている場合は、
書名索引に掲載した。
6 『目録情報の基準』第 4 版 4.2.3 図書書誌レコー
ドの作成単位による。
7 Descriptive cataloging of rare materials (books)の
1D3. Statements about illustrations or volumes参照。
8 この項の用語や校合式については、高野彰『洋書
の話』p.69を参照。
9 カンバーランド著『自然法に関する哲学的探求』
(1672)の英語による要約本。この版本の簡略書
13 ミシガン大学やハーバード大学をはじめとする米
国の大学図書館を中心とした学術・研究図書館の
共同デジタルアーカイブ。
14 http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc2.ark:/13960/
t50g3xg2j;view=1up;seq=649(2016.2.9参照)
15 COPACは、英国の大学図書館コンソーシアムの
総合目録。
16 The critical reviewは、1756年から1817年までロン
ドンで出版された批評誌で、編集には、シュモレッ
ト(Smollett, Tobias George, 1721-1771)
、ハミルト
ン(Hamilton, Archibald, 1719–1793)らがあたった。
研究ノート
高木三家と埋御門 ―「西高木家陣屋と高木家文書」補遺 ―
The three Takagi families and the Uzumi Gate (Uzumimon):
The Nishi Takagi's Governmental Residence (JINYA) and
the Takagi Family Documents (Supplementary Material)
名古屋大学付属図書館研究開発室
Nagoya University Library Studies
石 川 寛
ISHIKAWA, hiroshi
Abstract
This paper examines the background of the Uzumi Gate (Uzumimon) in the governmental
residence of the Nishi-Takagi family, former retainers of the shogun. After the Battle of
Sekigahara, the three Takagi families ― Nishi, Higashi, and Kita ― came to their lands in Tara
and Toki Township, Ishizu County, Mino Province. First, they all lived together in a single
family compound. The Uzumi Gate (Uzumimon) derives from the gate of this shared place
of residence. Therefore, the Uzumi Gate (Uzumimon) was known from the Edo period under
the appellation“the Symbolize Gate of the three Takagi families”in memory of its historical
association as being located at the place where the three Takagi families of the House of Takagi
first came to their lands. Even through the Meiji period and thereafter, the gate was a shared
memory for both master and servant in the House of Takagi.
Keywords
The House of Takagi(高木家)
,Takagi Family Documents(高木家文書)
The Nishi Takagi's Govermental Residence(JINYA)
(西高木家陣屋)
垣市上石津町域︶を宛がわれ、知行地に在住し参勤交代をおこなう旗
戦の功績により近江・伊勢と国境を接する時・多良両郷︵現岐阜県大
代、養老山地東部一帯に勢力を張る土豪であった高木家は、関个原合
名 美 濃 衆 と も 呼 ば れ る 交 代 寄 合 の 格 式 を も つ 家 柄 で あ っ た。 戦 国 時
〇石︶、北家︵一〇〇〇石︶、東家︵一〇〇〇石︶の三家からなり、一
美濃国上石津郡時・多良両郷を領有した旗本高木家は西家︵二三〇
はじめに
の状態になる。まずは挿図2から埋門の位置を確認したい。
る改変を示す付箋が貼られているが、挿図2は付箋をはがした最初期
家陣屋の全容を示す屋敷図の一部分である。絵図原本には数次にわた
永五︵一八五二︶年に下屋敷が造営された。挿図2は天保焼失前の西
建物をほぼ焼失してしまう。程なくして上屋敷が再建され、遅れて嘉
西高木家陣屋は天保三︵一八三二︶年三月四日の火災により主要な
一 西高木家陣屋と埋門
高木三家の陣屋は揖斐川の支流である牧田川が形成した河岸段丘上
東 石 垣 は 幅 約 一 〇・ 四 メ ー ト ル、 高 さ 三・ 一 メ ー ト ル、 奥 行 六・ 九
西 の 石 垣 に 挟 ま れ た 門 で あ り、 現 在 は 石 垣 の み が 残 る︵ 写 真 参 照 ︶。
木家屋敷と同じ低位段丘上の、西高木家陣屋内に存在した。埋門は東
埋門は西家の上屋敷より一段低い、伊勢街道・北高木家屋敷・東高
に位置した。伊勢から美濃の時・多良・牧田をへて関个原に通じる伊
メートルあり、西石垣は六メートル程はしって上屋敷が位置する上段
本として多良郷宮村に陣屋を構えた。
勢街道が段丘上の低位面を南北にはしり、その街道沿いに東高木家・
斜面地の石垣に連続する。石垣間の間口は約三・五メートルで、二間
ている資料があること、および挿図2の記述から、石垣上に二間×一
北高木家の屋敷があった。西高木家はそれよりも一段高所となる高台
〇間半︵約三・六×一九メートル︶の櫓門形式の建物が設けられてた
に石垣を擁して上屋敷・下屋敷を建設した。西家・東家・北家の通称
近代になり多良を離れた東高木家と北高木家の陣屋跡については開
と考えられる。
規模の門施設が想定されている。また、埋門を指して﹁櫓門﹂と称し
発が進み遺構がほとんど残っていないが、維新後も同地に居住しつづ
は伊勢街道をはさんだ陣屋の位置関係に由来する︵挿図1︶。
けた西高木家については、高大な石垣や一族の墓石群、主屋や長屋門
などの建造物の一部が現存しており、旗本陣屋の貴重な遺構として二
挿図2にみえる通り、伊勢街道から枡形を通って西高木家陣屋の敷
にかけて﹁西高木家陣屋と高木家文書﹂展を開催し、附属図書館が所
附属図書館研究開発室では指定記念として二〇一五年二月から三月
の坂を登った先に、伊勢街道を見下ろすように表門が建っており、そ
は別にあり、上屋敷に向かうには埋門を通る必要はなかった。埋門前
ると城郭における大手門を髣髴させるが、しかし西高木家陣屋の表門
地に入ると、馬屋や外繋のある埋門前の空閑地に出る。埋門は一見す
蔵する西高木家文書のなかから陣屋に関わる古文書や屋敷図などを紹
た認識があったことを示すのみで、その背景を説明することはできな
屋、大工部屋などであり、それほど重要な施設が配置されていたわけ
進 む と 裏 門 に た ど り 着 く。 そ の 間 に あ る の は 井 戸、 侍 部 屋、 作 事 小
それでは埋門のなかにはどのような建物があったのか。埋門を入り
れをくぐれば上屋敷の玄関に到着する。
かったが、その後の調査により新たな資料がみつかり、埋門をめぐる
側 か ら 南 側 に 登 り 口 が 変 更 さ れ て い る が、 表 門︵ こ の と き は﹁ 表 仮
敷再建図である。挿図2と同じ部分を切り取り示してある。井戸の北
この傾向は再建後に顕著となる。挿図3は天保三年の火災後の上屋
ではなかった。
由緒も有之﹂とする資料を出陳した。残念ながら、展示会ではそうし
介した。そのなかに西高木陣屋に存在した埋門を指して﹁御三所様御
〇一四年に国の史跡に指定された。
2
高木三家の由緒が判明した。そこで、高木三家にとって埋門がどのよ
うな意味をもっていたのか、本稿で改めて紹介したいと思う。
1
八五七︶年頃の屋敷図をみても、やはり埋門と裏門の間に建物はみら
の間の敷地には建物が存在しない。大垣市が所蔵している安政四︵一
門﹂
︶は上屋敷と同じ段丘面上に再建されている。一方で埋門と裏門
様御承知置可被下候、右御内意迄如斯御座候、以上
も 平 生 之 御 修 覆 御 普 請 等 ニ 者 御 相 談 御 手 伝 之 儀 者 無 御 座 候、 左
被 置 候 分 近 年 朽 損 シ 候 ニ 付 御 破 損 被 仰 付 候 儀 ニ 御 座 候、 先 年 迚
の西高木家陣屋の火災は、その北高木家屋敷で発生した火事が類焼し
埋門裏の敷地に隣接して北高木家の屋敷地が存在したが、天保三年
り、これが﹁板ニ而御囲被置候分﹂なのであろう。その板塀が近年朽
る。 挿 図 3 に み え る 埋 門 石 垣 の 上 を は し る 朱 線 は﹁ 塀 ﹂ を 示 し て お
焼け残った冠木柱扉等をそのままに板塀で囲っていたことが判明す
ここからは天保三年の類焼後、埋門は元のごとく櫓門に再建せず、
たものであった。そのため両家の接する埋門と裏門の間の敷地は、以
ち損じてきたため﹁御破損﹂を仰せ付けたのである。それは﹁先年大
以上から、通行や防御とは別の視点から埋門の役割を考える必要が
ここでいう﹁御破損﹂とは、西高木家の御用日記に﹁御高塀ニ御仕
伝人足の必要はないと判断したという。
替﹂とあること、修復用の材木の見積書が存在していることから、古
は、下屋敷再建からしばらくした慶応元︵一八六五︶年であった。こ
調べた上で、今回は﹁平常少々之御修覆ニ而も無之、大分之御普請﹂
上、十月十四日に﹁先年御普請之節﹂と同じように手伝人足等を提供
家臣の川添専左衛門が北高木家家中の加藤養左衛門に面会し、内談の
御 三 所 様 御 由 緒 有 之、 御 旧 例 も 御 座 候 儀 一 応 御 咄 合 等 も 可 有 御
珍重奉存候、然ハ埋御門此節御修覆被仰付候儀致承知候、右者
合 ニ 候 得 者 一 応 御 尋 得 貴 意 置 度 無 御 腹 蔵 御 報 可 被 仰 下 候、 右 之
被 成、 右 先 年 御 普 請 之 節 者 御 相 談 被 仰 進、 御 手 伝 人 足 等 も 御 差
勤 珍 重 奉 存 候、 然 者 此 方 様 埋 御 門 此 節 御 普 請 被 仰 付 候 趣 御 承 知
二度登場する。両家が西高木家単独の修復普請に懸念を示しているの
るとの認識をみせている。﹁御由緒﹂という言葉は短い書状のなかに
ここで東高木・北高木の両家は、埋門には﹁御三所様御由緒﹂があ
段為可得貴意如斯御座候、以上
出ニ相成候様御承知被成候ニ付此度者如何御取計ニ相成候哉御
はこの﹁御由緒﹂ゆえであった。そして﹁御旧例﹂もあるので改めて
両家からの再びの問い合わせに対して西高木家は改めて焼失以前の
考えを尋ねたのである。
者 則 御 手 伝 人 足 御 差 出 被 進 候 儀 ニ 御 座 候 得 と も、 此 度 者 左 程 之
ように復元するのではなく平常の修復であることを繰り返した上で、
御 同 様 之 節 者 格 別 御 手 重 之 事 ニ 付 此 方 様 より御 相 談 被 仰 進、 其 砌
義 ニ 而 者 無 之、 御 類 焼 之 砌 ニ 冠 木 柱 扉 等 残 居 候 処 江 板 ニ 而 御 囲
心 得 迄 ニ 御 内 々 御 問 合 之 趣 致 承 知 候、 右 者 先 年 大 御 普 請 御 建 替
御 手 紙 致 拝 見 候、 如 仰 寒 冷 之 節 御 座 候 得 共 各 様 弥 御 安 泰 被 成 御
以下のように回答した。
座 哉 ニ 奉 存 候、 御 修 覆 之 儀 ニ 者 御 座 候 得 共 御 由 緒 も 御 座 候 御 廉
西高木家が埋門の普請に着手することを伝え聞いた東高木家では、
5
すべきか西高木家へ問い合わせた。これに対して西高木家は同日付で
御 手 紙 致 啓 上 候、 寒 冷 之 節 御 座 候 得 共 各 様 弥 御 安 泰 可 被 成 御 勤
とみて、翌十五日に今度は連名で次のような再照会をおこなった。
﹁御三所様御由緒も有之﹂とする認識がみられるのである。
の と き の 修 復 普 請 を め ぐ る 三 家 の や り と り の な か で、 埋 門 を 指 し て
右の返報を受けて東高木家と北高木家は再び内談し、過去の書類を
板を撤去して高塀を設けることを意味していると思われる。
7
あるだろう。
二 埋門の普請
6
4
天保三年の火災後により被害を受けた埋門の修復普請がなされるの
御普請御建替﹂とは違い平常の修復普請であったため両家へ相談・手
後火除地として建物を設けなかったのである。
これには天保三年の火災が関係していた。
れない。火災後、埋門裏の敷地に建物は建てられなかったのである。
3
被進候儀弾正様ニも深ク御大慶被成候﹂と伝えていた︵弾正は西高木
り手伝人足等を提供してもらうとし、
﹁懐古不忘之思召ニ而一応御尋
﹁如古御再建被成候節﹂は先年の建て替えのとき同様に相談し両家よ
頃 西 様 計 御 持 分 之 様 ニ 相 見 へ 申 候、 依 而 北 様 御 相 談 之 上、 此 度
門 也、 依 而 先 年 御 修 覆 之 節 も 人 足 等 御 両 所 より差 出 被 成 候 由、 近
建 被 成 候 ニ 而 只 今 ニ 而 者 御 囲 ひ 内 ニ 相 成 申 候、 全 体 御 三 所 様 御
銘 々 御 家 作 御 引 移 被 成 候 由、 中 頃 西 様 御 厩 屋 并 表 通 御 高 塀 等 御
左之通り御取計事
も 前 々 古 形 之 通 人 足 等 差 出 被 置 候 得 者 後 年 之 規 矩 ニ 茂 相 成 候 間、
ことであったため、慶応元年の一連のやりとりのなかには明言されて
右之趣者古老より申伝也、依而為心得記置候
埋門をめぐる﹁御三所様御由緒﹂とは何か。三家にとっては自明の
家当主の高木貞広︶。
いない。そこで少し遡って先例を検討することにしたい。
ここから埋門の由緒が高木三家の多良入郷時にまで遡ることが判明
門を譲り、そこに三家がしばらく﹁御同居﹂した。埋門はこの時の門
︵一六〇一︶年八月とされる 。そのとき下多良村の小寺了琢が自身の
す る。 関 个 原 合 戦 後、 高 木 三 家 が 時・ 多 良 郷 に 入 郷 し た の は 慶 長 六
埋門の普請は慶応元︵一八六五︶年が初めてではなかった。類焼前
三 埋門の由緒
になるが、西高木家の書状にみえるように﹁大御普請御建替﹂がなさ
れており、それが埋門普請をめぐる﹁御旧例﹂になっていた。その一
家は表通︵伊勢街道︶に沿って高塀を建てたので埋門は塀のなかに隠
に由来したのである。その後、三家はそれぞれが屋敷を構え、西高木
難しいため、小寺が譲った﹁自分之門﹂と現存遺構の﹁埋門﹂が一致
也﹂と認識されていたことがわかる。
れてしまったが、それでも埋門は、その由来から﹁全体御三所様御門
は伝わっていないが、名古屋市蓬左文庫が所蔵する東高木家文書のな
するのか否かは明らかでない。入郷時に三家が同居したという由緒か
近年大破し建て替えなければならない状態にあることを伝え、
﹁先年
東高木家を訪れ、家臣の川添専左衛門と内談に及んだ。土屋は埋門が
う人物がいるので、﹁了琢﹂は彼の先祖と思われる。
士帳をみると、御中小姓席御広間入御医師格として﹁小寺良琢﹂とい
なお、自分の門を差し上げたとされる小寺了琢については、西家の
変貌を遂げていったとも考えられる。
ら、小寺から譲られた門が現存遺構にみられるような豪壮な埋門へと
現存資料の状況から一七、八世紀の高木家陣屋の変遷を追うことが
かに東御役所が作成した﹁文化十二年乙亥二月ヨリ 埋御門大破ニ付
大修覆新規ニ御建替瓦茸ニ被成候ニ付西様より
御相談前後取計一件﹂と
あろう。
題する資料が現存していた。おそらく慶応期に参照した書類の一つで
文化期の埋門修復に関する資料は附属図書館所蔵の西高木家文書に
つが文化十二︵一八一五︶年の大修覆であった。
9
御修覆之節も御両所様より
人足等差出被成候由承り及申候﹂こと、防火
右資料によると、この年の二月十三日に西高木家家老の土屋舎人が
8
同家家臣の立木新八郎へ同様の申し入れをおこなった。そして東高木
のため瓦葺としたい旨を相談した。この後、土屋は北高木家へも訪れ
がこだわった理由も理解できる。三家それぞれが屋敷を構えた後も、
木家陣屋内の建物でありながら、その修復普請に東高木家や北高木家
以上のような埋門をめぐる﹁御三所様御由緒﹂を踏まえると、西高
埋門は﹁御三所様御門﹂として存在していたのである。
この後、東高木と北高木の両家は﹁古形茂有之﹂ので人足を差し出
右 埋 門 者 往 古 御 三 所 様 多 良 江 御 引 移 之 節、 下 多 良 村 小 寺 了 琢 自
され、
﹁埋御門大修覆﹂が着手されたのであった。
手伝いに差し出すと回答した。そして同年六月、両家から人足が遣わ
すことに決め、三月四日、土屋へ両家より人足十五人ずつ計三十人を
分 之 門 を 差 上 候 ニ 而、 右 ニ 御 三 所 様 共 暫 御 同 居 被 為 入、 追 々 御
は﹁附言﹂として次のように書き留めている。
実はこのときに埋門の由緒が思い起こされていた。その内容を川添
家でも北高木家へ相談に及び対応を協議した。
10
むすびにかえて
西高木家陣屋跡の石垣現況測量調査報告は、埋門東石垣の南面最下
段に陣屋跡全体のなかで最大となる一メートルをこえる大型石材が使
われていることから、
﹁埋門が本陣屋において象徴的な施設であった
ことを示している﹂とする。埋門が象徴的な建物であったとすること
は本稿の検討からも首肯できるが、その象徴性は﹁御三所様御由緒﹂
との関わりのなかで位置づけるべきであろう。
現在、埋門跡の東石垣の上には﹁高木三家入郷地﹂と刻まれた一基
九〇二︵明治三十五︶年秋に、当時の西高木家当主であった高木貞正
の石碑が建っている︵写真参照︶。多良入郷三〇〇年を記念して、一
と東高木家当主の高木貞嘉が建立したものである︵北高木家はこのと
きすでに多良を離れていたので参加せず︶
。十一月二日に除幕式が執
り行われ、雨天のなか高木三家の旧臣ら八〇人程が集まった。
このとき参列した西高木家旧臣の大嶽弁之丞久憲は祝辞のなかで高
木家の歴史を次のように振り返った。
(ママ)
茲 ニ 高 木 三 家 ハ 往 古 天 正・ 文 録 年 中 濃 州 高 須・ 今 尾・ 駒 野 城 主
ナ リ シ ニ、 慶 長 度 徳 川 家 ニ 随 身 セ ラ レ 同 年 濃 州 多 良・ 時 両 郷 之
内受領ニテ三家同伴入郷シ同居之古跡ニ記念ノタメ地鎮祭建碑
祭及除幕式執行竣功ヲ告ク︹以下略︺
埋門跡地が高木三家﹁同居﹂の地であったとの記憶は、維新後三〇
年を過ぎても高木家主従に共有されていたのである。いわば多良にお
ける高木三家のはじまりをつげる記念すべき場所︵古跡︶が埋門跡地
であった。埋門はその象徴として建っていたのである。
﹁高木三家入郷地﹂碑が埋門石垣に建立されたのは、そこが文字通
︵1︶
本 稿 の 執 筆 に 際 し て は 次 の 図 録・ 報 告 書 を 参 考 に し た。 特 に 陣 屋 に 関
しておく。
する基本事項やデータは報告書に多くを依拠していることをお断り
年度︱﹄︵大垣市教育委員会、二
名古屋大学附属図書館2015年春季特別展図録﹃西高木家陣屋と高
木家文書﹄︵名古屋大学附属附属図書館・附属図書館研究開発室、二
〇一五年、執筆・編集は石川︶
。
﹃大垣市埋蔵文化財調査概要︱平成
〇〇七年︶
。
﹃岐阜県史跡 旗本西高木家陣屋跡 主屋等建造物調査報告書﹄︵大垣
市教育委員会、二〇〇九年︶
。
﹃ 岐 阜 県 史 跡 旗 本 西 高 木 家 陣 屋 跡 ︱ 測 量 調 査・ 発 掘 調 査 報 告 書 ︱﹄
︵大垣市教育委員会、二〇〇三年︶
。
あ︶にみえ
なお、出典表記について、アルファベットからはじまる番号は附属図
書館所蔵の西高木家文書、﹁高ナ﹂からはじまる番号は名古屋市蓬左
文庫所蔵の東高木家文書の分類番号を指している。
︵2︶﹁御焼失一件日記﹂︵F・7・1・5あ︶
。
︵3︶
﹃西高木家陣屋と高木家文書﹄屋敷図3。
前掲︵1︶
︵4︶ 火除地のことは﹁為取替申御書付之事﹂︵A・1・3・
る。
︵
︵
︶
︵C・1・3・2︶。
﹁寛政五年 御家中士帳并御役附﹂
︶ 前掲︵1︶﹃岐阜県史跡 旗本西高木家陣屋跡︱測量調査・発掘調査
報告書︱﹄二三ページ。
︵8︶
高ナ51・586。
︵9︶
︵F・1・1・1︶
。
﹁先祖書﹂
︵6︶
。
﹁日記 三番﹂慶応元年九月十四日条︵F・3・1・311︶
︵7︶
︵F・7・1・72︶
。
﹁埋御門御修覆并ニ御高塀積り立帳﹂
御日記﹂慶応元年十月︵高ナ51・537・4︶
。
︵5︶ 以下の記述・引用は特に断らない限り次の資料による。﹁埋御門御囲
御普請ニ付東様より内尋応答手紙入﹂︵F・7・1・73あ~お︶。﹁冬
50
12
18
科研費
付記 本稿は JSPS
の助成を受けたものです。
15H03237
︵ ︶﹁日記﹂明治三十五年十一月二日条︵H・2・3・19︶
。
︶
﹁祝辞﹂
︵H・2・4・88︶
。
︵
11 10
13
り"高木三家が入郷した地"だったからである。
13 12
11
北高木家陣屋
門
伊勢街道
表門
東高木家陣屋
馬屋
枡形
牧田川
門
埋門
上屋敷
西高木家陣屋
鎮守
墓所
下屋敷
馬場
家中屋敷
家中屋敷
大神神社
挿図1 高木三家陣屋図
「多良高木家陣屋阯図」(『岐阜県史蹟名勝天然紀念物調査報告書』第三回 1928年に収録)をもとに作成。
写真(左) 埋門石垣につづく主屋東石垣。手前右の石垣が埋門の西石垣。
写真(右) 現在の埋門跡。石垣に建っているのが「高木三家入郷地」碑。
挿図2 天保類焼前屋敷図(部分、F7-4-47) 一部加筆した。
青丸が表門、朱丸が埋門、緑丸は裏門。上部が上屋敷。
挿図3 天保再建上屋敷図(部分、附属図書館所蔵絵図) 一部加筆した。
青丸が表仮門、朱丸が埋門、緑丸は裏門。上部が上屋敷。
名古屋大学附属図書館研究年報
編 集 規 定
1.目的
本誌は学術情報または大学図書館に関わる活動及び研究成果を公表する目的で、名古屋大
学附属図書館研究開発室が編集・発行するものである.
2 .編集委員会
編集委員会を名古屋大学附属図書館研究開発室内に設置する.編集委員会は本誌編集に関
わる一切の業務を管掌する.
3 .査読
投稿原稿の採否は、編集委員会が依頼する査読者による査読を経て編集委員会で決定し、
速やかに筆頭著者に通知する.なお、査読結果に応じて原稿の書き直しを求める場合があ
る.
4 .校正
初校正は著者の責任でおこなう.
5 .別刷
別刷50部を著者に寄贈する.それ以上を希望する場合は著者が費用を負担する.また、同
内容のPDFファイルを提供する.(著者自身によるWeb等での公開を妨げない).
6 .著作権
投稿論文の著作権は著者に帰属する.ただし、著者は、名古屋大学附属図書館研究開発室
が投稿論文を印刷物として発行すること、Web上で公開することを許諾する.
名古屋大学附属図書館研究年報
投 稿 規 定
1.編集目的に合致する未発表原稿であれば投稿資格は問わない.
2 .原稿は電子メール、郵送のいずれかで、下記まで投稿すること.
〒464-8601 名古屋市千種区不老町 名古屋大学附属図書館研究開発室内
『名古屋大学附属図書館研究年報』編集委員会
E-mail : [email protected]
3 .原稿には下記項目を記した投稿申込書(形式自由.メールの場合は本文に記せばよい)を
添付すること.
a)原稿の種類:原著論文、資料紹介、調査報告、その他
b)タイトル(和文・欧文)
c)著者名(和文・欧文)
d)所属(和文・欧文)
e)要旨/ Abstract(和文・欧文)
f)キーワード(和文・欧文、論文の内容を大表するものを適当数)
4 .原稿を電子ファイルで投稿する際の形式はプレーンテキスト、Microsoft Word、一太郎、
PDF形式に限る.
5 .原稿は、十分な余白をとり、用紙1枚あたり下記指定文字数で作成すること.
和文(縦書き)の場合: 2 段組、31字32行(1,984字)
和文(横書き)の場合: 2 段組、22字44行(1,936字)
欧文(横書き)の場合:1段組、106ストローク47行(4,982字)
6 .原稿は本文及び図・表・図版(写真)も含め、原則、刷り上がり20ページ以内とするこ
と.
7 .文献の書誌事項は、科学技術情報流通技術基準SIST-02-1997「参照文献の書き方」に従っ
て記すること.
8 .その他不明な点があれば、編集委員会まで照会すること.