MAEHANA Shoji

なぎさ歩めば・・
非常に抒情的で平易な旋律。楽曲構成も大変に分かりやすい三部形式で、一頃合唱に携わ
った人々は、例外無くその美しい和音を懐かしむと言う。この作品と「大地讃頌」しか知ら
ない身としては危険な想像だが、佐藤はこの手の抒情的な作品では、主要主題を提示した後、
それをピアノ伴奏乃至管弦楽などの器楽で繰り返して強調するのが好みであるようだ。
5.教会の神様
古田 幸 作詩
中田喜直 作曲
おかあさんが死んでから
教会へ来てよかったな。
さびしい日がおおい。
神様に聞いてほしいことがいっぱいある。
おとうさんやおにいさんは
神様に力になってもらいたいこともある。
神様なんていないというけれど
教会へ行くと
私はやっぱり神様をしんじる。
私はおかあさんにあえるようなきがする。
<おかあさんのばか>
みゆき
お母さんを脳出血で亡くした小学 6 年生の古田 幸 さん。幸さんのおかあさんは、幸さん
が 6 年生の夏の 1964 年(昭和 39 年)
、突然プールの事故で亡くなった。東京杉並区の水泳
大会に出場しようとして、シャワーを浴びた時脳出血で倒れたと言う。学校の先生をしてい
るお父さんと中学生のお兄さんとの 3 人の生活が始まる。一家で唯一の女手となった幸さ
んが、日々の生活を綴った詩の数々が残され、それに音楽を付けたのが組曲「おかあさんの
ばか」である。
~1~
写真集「おかあさんのばか」
「母の日」
「おかあさんのばか」
本曲「教会の神様」は、組曲の第 13 曲=終曲である。さまざまな葛藤の後、教会で何か
の救いを得た、そう思いながら歌いたい。幸さんについては、彼女自身の姿を撮った写真と
詩を合わせて紡いだ、細江英公による写真集がある。この写真集では、前半無表情であった
幸さんも、後半ではお父さんとお兄さんとともに少しずつ笑顔を取り戻して行く様子が活
写されている。本組曲は必ずしも写真集と連動している訳ではなく、人の心は或る位置から
別な位置へ一直線に動くものではないので、組曲がそのまま幸さんの心を軌跡を時系列的
に表現しているものではない。しかし、終曲の幸さんには少なくとも笑顔があったと思いた
い。最近復刻出版された写真集「おかあさんのばか」の巻末に、40 年を経た 2004 年の古田
幸さんの短い手記が添えられている。
「理解ある夫と二人の子供と幸せに暮らしています。常に、家族を大切に過ごしてきました。
これからも健康第一に、楽しく明るい家庭を築いていきます」。
<表現上の注意点>
~2~
団員から質問があった。
「おとうさんやおにいさんは神様なんていない」の部分。
「いない」
は強く否定するように歌うべきだろうか、と。私は、この組曲の終盤では幸さんの心が現実
と少しは折り合っていて、他の家族も同様だと思っている。その時点では、幸さんのお父さ
んもお兄さんも、
「いない!」などと強く否定する事は無かったろうと思う。蛇足ながら岡村
先生から指摘のあった注意点を補足しておく。
①冒頭、3 連符を意識して、
「おかあさんがしんでから」の「お」が、アウフタクトになら
ないように注意。
②「おとうさんやおにいさんは」の部分、付点 2 分音符の
は、
の三連符風に 2
+1 で歌う。楽譜通り 3+1 の弾んだリズムでよりも、伴奏の 3 連符と合っていた方が聴き
やすいからである。
③同じ場所、旋律はセカンド・テナーである事を意識して、特にトップは抑え目に歌う。難
しい事だが、
「鶴」や多くの黒人霊歌、それに「いい日旅立ち」などに於いても、常にこう
言う要求はなされるものである。
③「きいてほしいことが いっぱい」まで f のまま、
「ことが」のところにある dim.は、
「あ
る」のところまで先送りする。
④「教会へ行くと」この音節で、
「と」で伸ばすパートは、次にトップが同じ歌詞を単独で、
しかも ff で歌う部分を妨げない。具体的には「と」を大きいまま引っ張らない。
写真集より左「雨の日」、中・右題名不詳
6.大地讃頌
大木惇夫 作詞
佐藤 眞 作曲
母なる大地のふところに
大地を愛せよ 大地に生きる人の子ら
われら人の子の喜びはある
その立つ土に感謝せよ
~3~
平和な大地を 静かな大地を
母なる大地を
大地をほめよ たたえよ土を
たたえよ ほめよ
恩寵のゆたかな大地
たたえよ 土を
われら人の子の
母なる大地を ああ
大地をほめよ
たたえよ大地を ああ
たたえよ 土を
大地讃頌は、1962 年に大木惇夫の作詞で佐藤眞が作曲した「混声合唱とオーケストラの
ためのカンタータ『土の歌』」の終曲(第 7 楽章)である。
「土の歌」は原爆による破壊を経
て、日本が無から立ち上がるという内容の組曲である。何もないところから植物の芽が出て、
自然の恵みを受けて育って行く喜びを一杯に表現した詞である。瓦礫から復興する日本を、
深い悲しみとおずおずとした希望から、やがて逞しく復活へと向かう姿を通して詠ってい
る。この詞の心に即して佐藤眞は、平和と繁栄への讃歌としてこの曲を作曲している。単独
で演奏される事も多いが、これは一連の宗教曲であるので、各楽章の関連を考えながら歌う
べきだと思う。全体の構成は次の通りである。このような過程の上に最後の第 7 楽章「大地
讃頌」があると言う事を意識したい。
第 1 楽章「農夫と土」
:自然の恵みの神秘、土への感謝が描かれている。
第 2 楽章「祖国の土」
:人は皆土に生まれ、土に還って行くという意味の詩。
第 3 楽章「死の灰」:原爆について取り上げられ、人間と科学の汚さが描かれている。
第 4 楽章「もぐらもち」:前章と同じく原爆を扱い、モグラに例えて人間を皮肉っている。
第 5 楽章「天地の怒り」:天災と人間悪について描かれている。
第 6 楽章「地上の祈り」:大地への想いと反戦の祈りが示されている。
育む土
大木惇夫は、北原白秋門下でクリスチャン詩人。しかし単なる人道主義者ではない。戦時
中は「あの旗を撃て」
「海を征く歌」などの戦時歌謡を書いて、国民の戦争意識を高揚させ
ていたという面もある。また、彼は戦争中、海軍の報道班員としてジャワ島に渡っている。
国民全体が戦争へ駆り立てられた時代、そして戦後の焼け跡の上での価値観の大転換。その
時代に詩人の心に何があったのかは分からない。とは言え、生死の線を彷徨うほどの葛藤の
上に書かれた詩である事は、容易に想像がつく。戦後は一時戦争協力者として、戦中彼をも
てはやしていた文壇から、完全に無視されて不遇を囲っていた時期もあった。そんな事もあ
~4~
って、この詞を書くにあたっての思いには、多くの複雑な要素が含まれていれるのだろうと
思われる。
バ ラ ー ド
7.積丹譚詩曲
上元 芳男 作詩・作曲
た
て
のが
どどろん どどどど
哀れ 衣川館から逃れ来た
どどどろん どどどど・・・・
幻の武者 義経よ、
な
おまえ
なぜに 哭く、
汝 は このひたむきなメノコをも捨て
ぐんじょう
積丹の 秋の夕べの海よ 海よ。
くら
群 青 の 昏い海越えて
はるかのオロシャに消え去ったのか。
そうげん
西風を 呼び
しらなみ
白涛を
ほうまつ
泡沫を
はた また モンゴルの草原に
チンギスハンとして よみがえったのか。
立て
飛ばし
も
藻を ちぎり
そして また
岩を 噛み
水の面を
きりぎし
にしん
も
断崖 崩し
く
乳色に染めなして
き
鯡 の群来た
ほ
な
遠いあの日の夢よ。
おどろ おどろと 吼えて哭く。
そうらんの 歌声雄々しく
そして いま
銀鱗は躍る 一起こし千両の
らくじつ
落日は
ひと お
さか
あかあかと 燃え
壮んなる沖揚げのドラマよ いまいずこ。
暮れゆくぞ、
ま
ああ 伝説の海。
岬に ひとり
み
ひ
とも
神威灯台に 未だ 灯は点らず、
お
たたず
佇 むは
見下ろせば
青春を捨てた放浪の旅人か。
身の毛もよだつ絶壁を
彼の胸浸す悲愁に応えて
はす
こた
うみどり
レクイエム
斜に切り舞う海鳥の
とどろき鳴るは 海の鎮魂歌。
せつ
切ない叫びは
その昔
積丹よ 積丹、
恋に敗れて この海に
ああ
身を投げ果てたシララ姫の
カムイオプカルシに
と
わ
永久の
エレジー
ひ
恨みの 悲歌か。
秋の陽は
落ちてゆく・・・・。
*文字:原詩にあり、作中不採用になった詩句。
作曲者註=
られる。
・チンギスハン:ジンギスカン(成吉思汗)。モン
・シララ姫:積丹岬の北端、現在の入舸町に住んでいたア
ゴル史上最強の英雄。・カムイオプカルシ:「神が槍を作
イヌエカシの娘。奥州から逃れ来て一時ここに滞在した
る場所」の意。アイヌの文化の神オイナカムイが、人間に
義経との別離を悲しみ、海に身を投げ岩に化したと伝え
作物の作り方や漁の方法を教えたが、この場所でけもの
~5~
や魚をとる槍の作り方を教えたという。現在の神威岬灯
地に逃れたと言う伝説が各地に残る。一時滞在したため
台のあたり「水無」(みずなし)と呼んでいる所。
に「判官館」と呼ばれた新冠の山上や、この積丹のシララ
*以上伝説資料を提供された前田克己氏に、作曲者より
姫伝説がその代表例である。さらに、義経は北方に至り、
心からの感謝が捧げられている。
ロシア(オロシャ)に渡ったとか、モンゴルに現れて成吉
編者註=
思汗となったと言う俗説も、一時流布したものである。
義経:北海道には源義経が平泉衣川館で討たれず、蝦夷
積丹の岩場
落日
本作に於いては、前回演奏の折バスの鈴木徹氏によって書かれた「上元芳男先生と『北の
バ ラ ー ド
譚詩曲 』
」からの引用より文章を始めたい。
★
★
★
バラード
上元芳男先生と「北の譚詩曲」
バス 鈴木 徹
上元芳男先生は 1989 年(平成元年)10 月、北海道文化賞を授与された。本写真は、札幌
メールクヮイアと女声合唱嶺の会との、合同交歓会で撮影されたもの。最前列中央で花束を
手にして着席しておられるのが、上元先生ご夫妻である。(写真省略)
かねてから「自然や人から受けた鮮烈な思い出が残る地域を取り上げて、北海道を表現し
バ ラ ー ド
たい」と考えておられた先生は、第一部「オホーツク譚詩曲」を 1990 年に完成されたが、
その後肝臓癌に罹り、闘病生活を余儀なくされる。若い頃、バスの前部座席に乗車しておら
れて衝突事故に遭い、出血多量で病院に運ばれ、輸血を受けられたことがあった。全治して
退院以来ずっと元気でおられたのだが、歳を取られてからのこと、親類の方が亡くなられた
時、お通夜・告別式で寝不足が続いて風邪をひかれ、体力が落ちたことが引き金で、若い頃
の輸血がもとでの肝臓癌の発症だったのだろう、というのが主治医の推測であったそうで
ある。
バ ラ ー ド
男声合唱組曲第二部「積丹譚詩曲」は、
「あと一年の命」と宣告されてからの、そうした
闘病生活の中での先生の強い意志と努力によって、1993 年 10 月に完成したものである。
バ ラ ー ド
む か し
「オホーツク譚詩曲」に出てくる、
「砂丘にひとときまどろんで、わたしは古代の夢を見た」
~6~
の「わたし」も、
「旅人はしばし佇み」の「旅人」も、先生ご自身なのである。また、
「積丹
バ ラ ー ド
譚詩曲」に出て来る、
「岬にひとり佇むは 青春を捨てた放浪の旅人か」の「旅人」もまた、
先生ご自身を指している。そして 1995 年 1 月 22 日、かでる 2・7 での札幌メールクヮイア
の定期演奏会で先生は、札メールの合唱団員でもある長男の悠さんに付き添われて、客席で
鑑賞して下さった。尚、その後も「四小節も書くと息切れするが、死ぬ時までの時間を有効
に使いたい。作品は我が子。ようやく巡り会えると思うと期待は大きい」とおっしゃりなが
ら、作曲を続けられた。1996 年 4 月永眠。合掌。
(元団長)
上元芳男先生(1912~1996)
バ ラ ー ド
<積丹譚詩曲について>
この北の譚詩曲の第 2 曲は、オホーツクとは異なり、積丹の秋の 1 日、それも夕べの短
い時間を描写する。曲はベートーベンの「運命」主題を思わせる冒頭、激しく波が積丹の岩
場を打って始まる。中間部で旅人は、絶壁から海を見下ろしながら、源義経との悲恋で名が
残るシララ姫伝説に思いを馳せ、遥かなモンゴル高原まで夢想はひろがる。
にしん
く
き
大陸に飛んだ意識が眼前にもどった時、目前にはソーラン節とともに 鰊 の群来が力強く
現れるが、その幻も日が傾くうちに消えて行き、旅人は、微かに聞こえるソーラン節ととも
に、落日を眺めながらただ 1 人岬に佇んでいる自分を見出す。
~7~
鰊漁:浜での作業 1919 年(大正 8 年)
鰊の群来=海の白濁 2011 年(平成 23 年)
◎ロシア民謡
ロシア民謡については、「鶴」についてのみ言及する。この美しい歌曲は、ラスール・ガ
ムザートフ(1923~2003)と言うロシア人(ダゲスタン人)が、1965 年の広島の原水禁大
会に参加した時の印象をもとに書いた詩に、1969 年ヤン・フレンケリ(1920~1989)が作
曲したものである。広島の千羽鶴を見て思った、「鶴となって天国に行って下さい。戦場の
死骸を見ながら、彼らの魂も鶴となって舞い上がって幸せに生きてください。
」との内容を
詩として表現している。近年久しく鮫島有美子の「鶴」が人口に膾炙されているが、鮫島の
出している CD の詩は、原詩とは相当かけ離れたものである。
広島の折り鶴
「原爆の子」像
<鮫島有美子の「鶴」>
作詩:R.ガムザートフ
ロシア語訳詞:S.フェオクチーストフ
日本語訳詞:中村五郎
作曲:R.フレンケリ/編曲:青木望
空とぶ鶴の群れの中に
美しい鶴の群れ あなたはそこにいる
あなたはきっといる
ルルル・・・
きっと このわたしをまっている
激しいたたかいの日も 空に群れてとぶ
いくさにいのち捨てても
~8~
死んではいない
激しいたたかいの日も 空に群れてとぶ
あなたはきっといる きっと生きている
美しい鶴の群れ あなたはそこにいる
このわたしを待っている
ラララ・・・
この詩は、ガムザートフが当初書いたアヴァール語(ダゲスタン共和国の言語)の詩を、
S.フェオクチーストフがロシア語訳し、それに対して 1969 年にフレンケリが作曲した。戦
場で散った戦友は死んでしまったのではなく、鶴に姿を変えて群れをなして大空を飛んで
いるのだと偲んでいる。日本では鮫島の他ダーク・ダックスによる録音でも知られている。
しかし、上記にて触れたように、このロシア語訳の時点で相当に意訳されているため、原詩
とは趣を異にしている。
<ガムザートフの詩「鶴」の原文直訳>
作詩:R.ガムザートフ/訳詞:中島章利
時々私は兵士たちのことを思う
血まみれの戦場から帰ることのなかった彼らのことを
兵士たちはいつか、わが大地で眠りについたのではなく
白い鶴に姿を変えたのだ、と
彼らはあれから今もずっと
飛び続け、私たちに空から話しかけている
そのせいではないだろうか、空を見上げて
幾度となく悲しげに私たちが押し黙るのは?
空を飛んで行く 疲れた楔形の群れが
夕暮れの霧の中を飛んで行く
その列の中にある小さな隙間は
もしかすると、私が入る場所なのかもしれない!
いつの日か私も鶴の群れと一緒に
この青灰色のもやの中を飛んで行く日が来る
空から鳥のように声をあげながら
地上に残る人々
みんなと別れていくのだ
~9~
ダゲスタン共和国
そして同じ詩を、ガムザートフの友人であるユダヤ人の詩人ナウーム・グレーブニェフが
ロシア語に訳したのが以下であり、現在我々が歌っている歌詞となっている。
<グレーブニェフ訳の「鶴」>
作詩:R.ガムザートフ
ロシア語語訳詞:N.グレーブニェフ
作曲:Y.フレンケリ
日本語訳詞:坂山やす子
Ahー
Ahー
Ahー
Ahー
私はふっと思う 傷つき帰らぬ兵士ら
異国の土に眠り いつしか白い鶴に
鶴は昔から今も 訪れては声伝う
それ故か いつも切なく 声もなく 空見守る
Ahー
Ahー
Ahー
Ahー
日暮れの霧の空を 疲れた渡り鳥が飛ぶ
あの列の中の隙間は もしや 私の為に
やがて鶴の群れとなり 青い夕もやを飛び立とう
大空へ 鶴の言葉で 世の人々 偲びつつ
Ahー
Ahー
Ahー
Ahー
これはどう考えても、グレーブニェフの詩の方が原詩に近いと言える。ところでダゲスタ
ン共和国は、10 の民族によって構成され、大きくコーカサス系民族とテュルク系民族に分
~ 10 ~
かれる。住民のほとんどはイスラム教徒で言語はアヴァール語、ただし 13 世紀に遊牧帝国
を築いたアヴァール人と、直接血縁関係があるかどうかははっきりしない。1999 年、ダゲ
スタン共和国はシャミル・バサエフが率いるチェチェンのイスラム原理主義者たちの攻撃
を受けた。それはロシア連邦によるチェチェン共和国侵攻の一因ともなっている。このよう
な事情のため、1965 年当時のガムザートフが、当時のソビエト連邦にどういう感情を抱い
ていたかは、或る程度想像出来るのではないだろうか。
鶴の群れ
唱歌の四季
三好 晃 編曲
この曲集については、非常に有名な唱歌を集めており、特に考察する必要も認められない
と思ったが、やはり若干の分析が必要かと思い、それぞれ簡単に触れておく。本作はもとも
と童声合唱のために書かれた故に、声部の分離が簡単な反面、2 台のピアノによる伴奏用に
作曲されたためかピアノの譜面が大変細かく工夫されている。
春=朧月夜
高野辰之 作詞
岡野貞一 作曲
ほ か げ
1.菜の花畠に、入日薄れ、
2.里わの火影も、森の色も、
は
田中の小路をたどる人も、
見わたす山の端、霞ふかし。
かはづ
春風そよふく、空を見れば、
蛙 のなくねも、かねの音も、
夕月かかりて、にほひ淡し。
さながら霞める 朧月夜。
*里わ:漢字では「里回」「里廻」と書き、「人里辺りの」の意
1914 年(大正 3 年)
「尋常小学唱歌 第六学年用」に初出。検定教科書が用いられるよう
になった 1948 年(昭和 23 年)から小学校 6 年生の音楽教科書に於いて採用されている。
詩は 1 番 2 番とも脚韻を踏み、各行 4+4+3+3 音で構成されている。特に 2 番の「も」音の
繰り返しが印象的である。初めの 2 行に視覚的描写を置き、第 3 行で体性感覚、聴覚に言
及し、最後の 1 行で締める起承転結の一種ともなっている。曲はこれに弱起で始まる 3 拍
~ 11 ~
子のリズムをあてはめている。しかし通常この曲は、強拍からの単純な 3 拍子で歌われる
事が多いところ、三好は転と結の行だけ弱拍から起こすように指示している。意味が分かり
にくい。
朧月夜
田毎の月
編曲の仕方としてはやや複雑。この曲集の全ては、最初はユニゾンで始まるが、この曲に
ついては 2 番冒頭がいきなり 3 度下の変イ長調に展調し、同じ 2 番の転と結ではさらにホ
長調に飛ぶ。全編ピアノが、16 分音符を主体とする、流れるような伴奏で合唱を助ける中、
このホ長調の部分だけ 32 分音符を伴う細かく跳ねるようなアルペジオが彩る。「蛙」の鳴
く音を表わしているのかとも思う。この「蛙のなくね」はハ長調に戻ってもう 1 度繰り返さ
れ、全編の終わりとなる。生前上元先生は、この曲を名曲であると絶賛されていた。先生の
「長いから、外国の有名なものだから名曲なのではなく、例えば『朧月夜』のように短くて
も名曲はあります。」との趣旨の言葉が印象的だった。
作詞の高野辰之は長野県豊田村(現在の中野市)に生まれ、隣の飯山市で小学校の教師を
していた時期があった。しかし、岡野貞一が作曲し、高野が作詞したとする説には、学術的
に疑問点も多いと言う。一般に文部省唱歌は、合議制で作曲されたと言う実態があり、法律
的には官有物と看做されている。即ち、旋律、歌詞ともに複数の委員がいるため、岡野・高
野という組み合わせについての具体的な証拠が薄弱である。その上、仮にこの 2 人が作詞
と作曲を担当したとしても、多くの別の委員が関わって校訂されたのは間違いないと言う
問題があり、自筆原稿の発見による作者確定などの学問的な作業はこれからである。
高野辰之
岡野貞一
~ 12 ~
夏=茶摘
作詞・作曲者不詳
1.夏も近づく八十八夜
ひ よ り
2.日和つづきの今日このごろを
野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは茶摘みぢやないか
心のどかに摘みつつ歌ふ
「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
すげ
摘まにゃ日本(にほん)の茶にならぬ」
あかねだすきに菅の笠」
初夏に見られる茶摘みの光景を歌った歌である。1912 年(明治 45 年)に刊行された「尋
常小学唱歌 第三学年用」が初出。小児が 2 人組で向かい合って行う、手遊び歌としてもし
ばしば用いられる。この手遊びでの繰り返しの動作は、茶葉を摘む手つきを真似たものとも
言われる。歌詞の由来は、1・2 番とも、第 3・4 節は京都府綴喜郡宇治田原村(現:宇治田
原町)に伝わる茶摘み歌「向こうに見えるは茶摘みじゃないか。あかねだすきに菅の笠」
、
「お茶を摘め摘め摘まねばならぬ。摘まにゃ田原の茶にならぬ」から取られたのではないか
と言う説がある。一方で、宇治田原町に於いて伝承・記録されている茶摘み歌には、該当す
る歌詞は無いとする説もある。本唱歌の最後の一節にあるように、茶を摘む際には茜の襷を
掛けて行われる。茜は、止血剤として知られている。素手の作業ゆえ、指先に怪我をしやす
い茶摘みという作業に際して、襷の茜成分を擦り込みながら作業を継続すると言う先人の
知恵が、この装束にあるとの分析もある。また歌に歌われた菅笠は、現在では布の手拭に取
って代わられたが、戦前には笠が普通だった。八十八夜は立春(2 月 4 日頃)から数えて 88
日目の事で、現在の暦では 5 月 1 日か 2 日に当たる。昔はこれを過ぎると遅霜も無く気候
が安定するため、茶摘みが始まるのが一般的であった。
茶摘み風景
菅笠
音楽としてはあまり奇を衒っていない。前奏に 2 小節間 3 拍子を織り交ぜるのがやや珍
奇かと言ったところだ。伴奏もゆったり目の 8 分音符主体である。
秋=紅葉
~ 13 ~
高野辰之 作詞
岡野貞一 作曲
も み じ
1.秋の夕日に 照る山紅葉
たに
2.渓の流れに 散り浮く紅葉
濃いも薄いも 数ある中に
波に揺られて 離れて寄って
松をいろどる 楓や蔦は
赤や黄色の 色さまざまに
山のふもとの 裾模様
水の上にも 織る錦
あまりにも有名な紅葉の歌。1911 年(明治 44 年)「尋常小学唱歌(二)
」にて発表され
た。作詞者の高野辰之は、碓氷峠にある信越本線熊ノ平駅(現在は廃線)から紅葉を眺め、
その美しさに惹かれてこの詞を作ったと言う。日本人としては、当然菅公の「この度は幣も
とりあへず手向山 紅葉の錦神の間に間に」を意識しての作詞だろう。「もみじ」は唱歌の
中では初期に作られた合唱曲として知られる。1951 年(昭和 26 年)から小学 3 年生若し
くは 4 年生の音楽の教科書に採用され、幅広く小学校で歌われており、和音について良く
勉強出来る曲との評価もある。小学校で歌われる編曲では二部合唱になっていて、前半の 8
小節は低音部が高音部の 1 小節後ろを追い駆けて行くカノン形式、3 行目の 4 小節は低音
部が高音部の 3 度下を歌うと言うように、様々な合唱の要素が含まれている。
普通にへ長調で始まるが、
「赤や黄色」から急に一時変ニ長調に転調し、ピアノには途中
イ長調を主幹とした半音階の不思議な伴奏が現れる。またへ長調に戻り、半音階の部分を回
想しながら静かに終わる。
紅葉
雪に駆ける
冬=雪
作詞・作曲者不詳
あられ
1.雪やこんこ 霰 やこんこ。
2.雪やこんこ 霰やこんこ。
降つては降つては ずんずん積る。
降つても降つても まだ降りやまぬ。
山も野原も 綿帽子かぶり、
犬は喜び 庭駈けまはり、
枯木残らず 花が咲く。
猫は火燵で丸くなる。
か
こ た つ
~ 14 ~
1911 年(明治 44 年)の「尋常小学唱歌(二)
」が初出。元気に弾むように雪中の喜びを
歌う。歌詞「こんこ」の正確な意味・語源は不明で諸説があるが、
「来む」
(来い = 降れ)
と関係がある言葉と思われている。特に、1.「来む来む」
(降れ降れ)2.「来む此」
(ここに
降れ)の 2 説が有力とされる。
「来む来む」説の場合、語源的には本来は「雪やこんこん」
となる。これについては、別の曲の歌詞の最初の部分と一緒になる事を避けたと言う説があ
る。瀧廉太郎作曲、東くめ作詞の幼稚園唱歌に「雪やこんこん」という曲があり、こちらは、
初めの歌詞が「雪やこんこん あられやこんこん」になっているのである。国語学者の大野
晋によれば「コンコン」は、もとは「来ム来ム」であり、「雪よ、もっと降れ降れ」が最初
の意味であったとしている。
冒頭の伴奏は 2 拍子の中に 3/8 を無理やり入れて始まる。上に響く C の音がきらびやか
で、5 小節目からの左手の C-D の繰り返しとともに、雪が乱れながら一杯降って来る様子
を表わす。練習番号 3 の間奏で、伴奏に 3 連符が現れるのと低音の 8 分音符に「コンコン」
と歌詞がつくようになり、練習番号 4 の冒頭反復に於いて、単調さからの救いとなってい
る。5 からは前奏にあったような 3/8 の音型が再び現れ、転調を伴って存分に暴れまわりな
がら、この単純な曲を懸命に装飾している。
夕焼け小焼け
中村雨紅 作詞
草川 信 作曲
1.夕やけこやけで 日が暮れて
2.子供がかえった あとからは
山のお寺の 鐘がなる
まあるい大きな お月さま
お手々つないで みなかえろ
小鳥が夢を 見るころは
からすといっしょに かえりましょ
空にはきらきら 金の星
夕焼け小焼けは、1919 年(大正 8 年)に発表された中村雨紅の詞に、草川信が 1923 年
(大正 12 年)に曲をつけた童謡である。1923 年に「文化楽譜 あたらしい童謡・その一」
に発表された。田舎の夕暮れを歌った叙情的な歌詞と、ゆったりとして歌いやすい Fa と Si
が無い所謂「ヨナ抜き音階」の曲がよく溶け合って、日本の代表的な抒情歌となっている。
関東大震災によってこの作品に関連するものはほぼ焼失してしまったため、原本は勿論、震
災前に出版された本や印刷に関わる紙型まで無くなってしまったが、人手に渡って奇跡的
に残った 13 部の楽譜が元で世間に広まった。
~ 15 ~
中村雨紅
草川信
野口雨情の弟子である作詞者の中村雨紅が残した数多くの作品の中で、最も広く知られ
ているのがこの作品である。作曲者の草川信は童謡運動の旗手として活躍した人物で、後に
音羽ゆりかご会を創設し、川田正子・孝子姉妹を育てた「最後の童謡作曲家」海沼實の師匠
に当たる。中村には他に、著名な作品として、
「揺籃のうた」
「汽車ポッポ」
「どこかで春が」
「緑のそよ風」などがある。
この歌の情景は、雨紅の故郷である東京府南多摩郡恩方村(現在の東京都八王子市)のも
のである。彼の生家の近くにある「夕やけ小やけふれあいの里」前には「夕焼小焼」バス停
が設置され、高尾駅と陣馬高原下を結ぶ路線のバスが停車する。2006 年 11 月までは、不定
期にボンネットバスの夕やけ小やけ号が運行されていた。また、JR 八王子駅の発車メロデ
ィは、各番線でアレンジは異なるものの、2005 年 12 月 25 日より全ての番線でこの曲が使
用されており、同駅のコンコースにはこの歌をイメージした壁画と歌碑が屋根の段差部分
に取り付けられている。
夕焼け小焼けで・・・
作詞者の中村雨紅は、1916 年(大正 5 年)に東京府北豊島郡日暮里町第二日暮里小学校
の教師となり、1918 年(大正 7 年)に日暮里町第三日暮里小学校へ転勤した。第三日暮里
小学校在職中に夕焼け小焼けの作詞が行われたため、現在の荒川区立第二日暮里小学校に
は「夕焼け小焼けの記念碑」が、荒川区立第三日暮里小学校には「夕焼け小焼けの記念塔」
が建立されている。また、作曲者の草川信は、1917 年(大正 6 年)より 1927 年(昭和 2
~ 16 ~
年)の間、東京府豊多摩郡長谷戸小学校の音楽教師であったため、同校校門横には顕彰碑「夕
やけこやけの碑」がある。
夕焼け小焼けふれあいの里
夕焼け小焼けの記念碑
唱歌の四季と言う事で、この曲集は当初春夏秋冬の 4 曲で構成されていた。それに対す
るアンコール用として「夕焼け小焼け」が追加され、評判が良かったために、今日では 5 曲
目として正式に楽譜として出版されている。ア・カペラで始まるこの曲は、途中からのピア
ノが相変わらず細かい 8 分音符により流麗に伴奏される。そして 2 番まで歌った後にまた
1 番に戻ってからは、ピアノがさらに細かい 6 連符で歌を盛り上げる。最後まで単純な合唱
部分と対照的な華麗なピアノ、と言うのがこの曲集の特徴だろうか。
流布されている混声合唱版に比して、男声合唱で歌うこの編曲では、場面場面による音色
の変化に気をつけたい。混声版では男声と女声が交互に歌う部分があり、例えば「朧月夜」
にしても「茶摘」にしても 1 番は男声のみ 2 番は女声のみに編曲されている。
「茶摘」以降
もそう言う部分が多く、これを男性だけ表現するのは大変困難だと思われる。
フィンランド讃歌について
A.詩日本語訳
Finladia Hymni
Oi, Suomi, katso, sinun päiväs' koittaa,
Ja ettet taipunut sa sorron alle,
Yön uhka karkoitettu on jo pois,
On aamus' alkanut, synnyinmaa.
Ja aamun kiuru kirkkaudessa soittaa,
おお、スオミ 汝の夜は明け行く
Kuin itse taivahan kansi sois'.
闇夜の脅威は消え去り
Yön vallat aamun valkeus jo voittaa,
輝ける朝にヒバリは歌う
Sun päiväs' koittaa, oi synnyinmaa.
それはまさに天空の歌
夜の力は朝の光にかき消され
Oi, nouse, Suomi, nosta korkealle,
汝は夜明けを迎える 祖国よ
Pääs' seppelöimä suurten muistojen.
Oi, nouse, Suomi, näytit maailmalle,
おお立ち上がれスオミ 高く掲げよ
Sa että karkoitit orjuuden,
偉大なる記憶に満ちた汝の頭を
~ 17 ~
おお立ち上がれスオミ 汝は世に示した
抑圧に屈しなかった汝の姿を
隷属のくびきを断ち切り
汝の夜は明けた 祖国よ
B.発音上の注意
①ö と ä について:ö は英語の“bird”の“ir”に近い発音(英語の発音記号「ə」
)で、ä は
“cat”の“a”に発音に近い。
②歌詞“yön uhka karkoitettu on jo pois”“uhka”の“h”は発音する。
③“yön uhka karkoitettu”と“on jo pois”の間にくぎりを置いた方がフィンランド語とし
て自然。
”karkoitettu”は 1 つの言葉なので、その方が単語としてはっきり分かる。
④“taivahan kansi”の“han”の“h”は発音する。H 音を発音しないフィンランド語の
言葉は無いかと思う、との事。
⑤”si”と”sy”は区別あり。“si”は英語の“Cinderella”の“Ci”で、
“sy”はドイツ語
の“ü”に似ている。
⑥歌詞“kiuru”は「キュール」ではなく「キーウル」と発音。
⑦フィンランド語の“r”は、Youtube で渉猟した歌唱例で 1 人だけ巻き舌の発音があった
が、通常巻き舌にはしない。
⑧歌詞“kuin itse taivahan kansi sois, ”で、
“kuin itse ”は「クイニットゥセ」と発音。
また“taivahan kansi”の“han”の“h”は発音する。
⑨“u”
:例えば英語の“book”の“oo”と同じように発音すると、フィンランド語の発音に
近い。
(協力:ラウラ・コピロウ)
*なお楽譜の頭にある“Ei hidastellen”は「遅すぎないように」と言う意味である。
C.交響詩フィンランディアの成り立ちと改稿
「フィンランディア」が作曲された 1899 年当時、フィンランドは形式上自治を許されて
いたとは言え、ロシア皇帝が大公を兼ねるフィンランド大公国として、帝政ロシアの圧政に
苦しめられていた。とりわけニコライ 2 世即位後は、フィンランドのロシア化が強力に推
し進められ、これに反発したフィンランド人による独立運動が起こっていた。シベリウスが
作曲した当初の曲名は「フィンランドは目覚める」
“Suomi herää” で、新聞社主催の歴史
劇の伴奏音楽(作品 26)を 8 曲からなる管弦楽組曲とし、その最終曲を改稿して独立させ
たものであった。フィンランドへの愛国心を沸き起こすとして、帝政ロシア政府がこの曲を
演奏禁止処分にしたのは有名な話である。
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フィンランディア冒頭
「フィンランディア讃歌」は 1941 年に詩人のヴェイッコ・アンテロ・コスケンニエミによ
って歌詞がつけられ、シベリウス本人が合唱用に編曲した。
フィンランドを擬人化した乙女
合唱曲としては、原曲から若干の改稿がなされている。楽譜にあるように、第 4 小節の冒
頭及びそれと同じ音型の箇所にはスタッカートが付されている。詩人はこれに敬意を表し
て、この部分の詩は“soittaa”などのように撥音の言葉を選んでいる。しかし第 3 小節の 4
拍目のように 8 分休符が付されている音型では、フィンランド語として上手く歌詞を付け
る事が出来なかったようだ。これを勘案して今度は作曲家の方が、合唱曲にする際にこの 8
分休符を取り去っている。
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