原主水の生涯 高木一雄 『原主水の生涯』 著者:高木一雄 (キリスト教史研究家) 東京教区ニュース 235号(2006年8月)~242号(2007年5月)に連載 無断での転載を禁止します。お問合せは東京教区広報部まで。 千葉は千騎 原は万騎 本佐倉城主 (千葉県印旛郡酒々井町本佐倉字城之内) 千葉常胤 (ちばたねつぐ) には男子6人がいて下総国 各地に城を構えさせ千葉六党と言われていた。 それ から数えて7代目の千葉胤宗 (つぐむね) の弟宗胤 (むねつぐ) が下総国原ノ郷 (千葉県香取郡多古町染 井字原) に住み原大隅守 宗胤(はらおおすみのかみむねつぐ) となった。 いわゆる原姓の起こりであった。 応永年間 (1394年~1427年) 第3代原四郎胤高 (はらしろうた だたか) が下総国生実城 (おゆみじょう) (千葉市中央区南生実) に入り、 代々の居城とした。 その 後 三男胤房 (つぐふさ) の次男原朝胤 (は らともつぐ) が臼井城 (佐倉市臼井) に入り胤清 (つぐきよ) 、 胤栄 (つ ぐしげ) 、 胤義 (つぐよし) と3代続いたが北条一族の滅亡と共に滅 びてしまった。 その 第5代目が原主水佐胤信 (はらもんどのすけつぐ のぶ) であった。 すなわち原一族は高城 酒井 栗飯原 石橋 豊島 椎名 印東 など諸氏との婚姻関係によって宗家の千葉一族を凌ぐ万騎の大将に なってしまったわけである。 原主水佐の誕生 天正15年 (1587) 下総国印旛郡臼井城主 (6万石) 原刑部少輔 胤義 (はらぎょうぶのしょうつぐよし) の嫡男として生まれ幼名を吉丸と 言った。 そして 母は同じく下総国小見川城主 (千葉県香取市小見川) 栗飯原俊胤 (あいはらとしつぐ) の一族であった。 やがて 両家とも相 模国小田原城主北条氏政に属したが、 天正18年 (1590) 6月に 滅びてしまった。 一説によると母方の栗飯原俊胤は敗北と共に野に下ったが、 文禄元 年 (1592) 本佐倉城主となった徳川家康の五男武田信吉に仕え本 佐倉から下妻 日 水戸へと移ったものの慶長8年 (1603) 9月11 主君の死により牢人してしまった。 その 後鏑木 (かぶらぎ) と名 乗って江戸浅草にある鳥越神社の神主になったという。 原一族の滅亡 下総国臼井にある長谷山宗徳禅寺 (ちょうこく さんそうとくぜんじ)(佐倉市臼井台1277番 地) の史料によると天正18年 (1590) 3 月1日豊臣秀吉が相模国小田原城主北条氏直 を攻めるべく3万2千の兵で京を発したため千葉一族の重臣である 父原胤義は総本家の千葉国胤 (くにつぐ) が死去したので8千の兵を 率いて小田原城へと向かった。 実際には臼井2千人 本佐倉3千人 だったという。 そして 宮城野口や湯本口を守ったが捕らわれてしま い6月18日江戸で自害させられてしまった。 一方 千葉重胤 (し げつぐ)・栗飯原俊胤兄弟も竹の花口や早川口を守ったが敗れてしまっ た。 ところで4月3日北条攻めの先鋒として豊臣方の徳川家康軍が多古 に陣したが、 4 月26日に豊臣秀吉が関東各地で北条方の総攻撃を 命じたため臼井城を守っていた祖父原胤栄 (つぐしげ) は5月18日 に徳川家康の武将酒井家次 (さかいいえつぐ) と本多忠勝 (ほんだただ かつ) に攻められてしまった。 そして 生実城へ逃れたものの野田原 (千葉県匝瑳市野手) で戦死してしまった。 現在位牌だけが臼井の宗 徳禅寺にある。 原主水佐の徳川家仕官 天正18年 (1590) 6月28日 徳川家康は小田原の陣の論功行 賞で豊臣秀吉から関東八ケ国の中 武蔵国 国 下総国 上総国 上野 相模国の五ケ国240万石をもらった。 そこで7 月5日 小田 原を開城させると8月1日には関東の江戸に入った。 そして 旧北条 方の拠点であった川越 岩槻 前橋 大多喜などに譜代の家臣を配 置した。 それと 同時に関東一円での北条方の懐柔策として多くの北 条方旧臣を召し抱えている。 それらを 『 徳川実記 (とくがわじっき) 』 にみると 「 北条の侍ともを召出し…」 とある。 慶長5年 (1600) 7月2日 徳川家康は伏見から江戸に入ったが 大坂方に備えて旧北条方の武将の子供たちも仕官させている。 すな わち14歳になる臼井城主原胤義の嫡男吉丸 (胤信) や東金城主酒井 政辰 (さかいまさたつ) の嫡男金三郎 (政成) などであった。 一説によ ると原主水佐胤信は徳川家康の側室の従姉弟でもあったという。 伏見の原主水佐 慶長3年 (1598) 8月18日 長4年 (1599) 閏3月3日 豊臣秀吉が亡くなった。 続いて慶 豊臣五大老の一人であった加賀国金 沢城主前田利家(まえだとしいえ)も亡くなった。 そこで 同じ豊臣 五大老の一人である徳川家康は、 閏3月13日に伏見の屋敷から指月 (しげつ)の岡にある伏見城へと移った。 すでに 正月10日には前 田利家によって豊臣秀頼(とよとみひでより)が伏見城から大坂城 へと移されたからであった。 慶長5年 (1600) 8月1日 徳川家康が関東出兵中 伏見城は石 田三成(いしだみつなり)や大谷吉継(おおたによしつぐ)に攻め られ城を守っていた鳥居元忠(とりいもとただ)は戦死してしまっ た。 そこで 急遽伏見へと引き返した徳川家康は9月15日 美濃国 関が原で石田三成方と戦い勝利を収めてしまった。 そして9 月23 日には大坂城を接収して9月28日には大坂城西の丸に入ってしまっ た。 続く翌慶長6年 (1601) 3月23日には新しく木幡山(こわ たやま)に築城した伏見城へと入っている。 その 間徳川家康は原主 水佐を従わせ普請現場を監督していたという。 原主水佐の受洗 慶長5年 (1600) 大坂城西の丸にいた原主水佐は大坂のキリシタ ン寺でイエズス会ペトロ・モレホン神父から洗礼を受けている。 そ れは慶長5年 (1600) 9月28日から慶長6年 (1601) 3月 23日の間に大坂城にいたからであった。 ちょうど 慶長元年 (1596) から慶長8年 (1603) までの8年間 淀川河口の天満 橋近くのキリシタン寺にはペトロ・モレホン神父が日本人修道士2 3人と常駐していたからであった。 その 頃 大坂市中にはイエズス 会のキリシタン寺が2ケ所あり、 借家ではなく立派な建物であった という。 それに 市中にはかつては小西行長が設立した病院もあり、 繁昌していたという。 その時代 大坂市中は豊臣秀頼の支配下にあり、 徳川方とのパイプ 役であった奉行片桐且元(かたぎりかつもと)は自分の子供がキリ シタン寺の施療院で病気を治してもらっていたため、 宣教師に対し ては好意的であった。 それに 日本全国にはイエズス会士が109人 もいて活躍していたときでもあった。 江戸の原主水佐 慶長8年 (1603) 2月12日 徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ 江戸に幕府を開いた。 そのため 原主水佐も江戸へ下って御徒歩衆 (おかちしゅう)となり1,500石が給され、 与力30人が付属 されるようになった。 16 歳のときである。 すなわち 政治の中心が 京・大坂から江戸へ移ったわけであった。 その頃 すでに慶長4年 (1599) 4月7日 伊勢国に潜伏してい たフランシスコ会ヘロニモ・デ・ヘスス・カストロ神父が徳川家康 によって見出され、 許可をもらって江戸八丁堀あたりに 「 ロザリオ の聖母教会 を献堂していた。 そして 京の信者笹田与右衛門(ささ だようえもん)など4人が常駐して活躍していた。 ところが慶長6年 (1601) 閏11月2日には駿河町から出火した 火災により焼けてしまった。 記録によると 「 江戸市中一宇も残らず」 としてある。 それからまもなく、 3 来て修道院 同宿養成所 ほどになっていた。 人のフランシスコ会士が江戸へ 施療院などを設立し信者が1,500人 駿府の原主水佐 慶長10年 (1605) 2月28日 徳川家康は将軍職を嫡男徳川秀 忠に譲り駿河国府中に隠退するとした。 66 歳のときである。 そこ で慶長11年 (1606) 3月15日には江戸を発して3月20日府 中に入り4日間滞在した。 そして 慶長12年 (1607) 2月17日 から駿府城の修築が始まり、 再度2月29日江戸を発って3月11 日府中の仮屋敷に入り、 7 月7日新装成った駿府城へと入った。 ま た、 その 間7月3日には城下の町割りもできて徐々に家臣たちも江 戸から移ってきている。 いわゆる、 その 中に原主水佐や小笠原権之 丞 (おがさわらごんのじょう) などが城下に屋敷を構えたわけであっ た。 それにおたあ ジュリアなども侍女として城中で仕えるようになっ た。 慶長12年 (1607) 閏4月18日 イエズス会日本準管区長フラ ンシスコ・パシオ神父は江戸へ行く途中 駿府で徳川家康に挨拶を した。 そのとき 城下には家臣・町人に多くのキリシタンがいたため 伏見のジェロニモ・デ・アンデリス神父に任せた。 そこで 慶長17 年 (1612) 2月には徳川家康の許しを得て、 駒形あたりに岡本大 八名義でキリシタン寺をつくり、 伏見のジュアン道寿 (どうじゅ) と ペトロ角助かくすけを住まわせた。 聖フランシスコ帯紐の組 慶長12年 (1607) 頃 原主水佐は駿府城下で聖帯紐の組 (せい おびひものくみ) (在世フランシスコ会) に所属した。 20 歳のときで ある。 すでに 慶長13年 (1608) 頃より城下の竹屋小路の小笠原 権之丞屋敷には小さな礼拝堂があった。 そして 慶長16年 (1611) 5月にはボナベンツラ・ディエゴ・イバニエス神父が徳 川家康から許されたため、 一年間滞在して外濠の草深御門近くにキ リシタン寺と施療院をつくり聖ヤコボに捧げた。 留守番の同宿 (どう じゅく) は傑心 (けつしん) ではなかったろうか。 その 後 相模国浦 賀修道院にいたセバスチャン・デ・サン・ベルマロハ神父が常駐す るようになった。 ところで慶長16年 (1611) 江戸修道院長ルイス・カブレラ・ イ・ソテロ神父の報告書によると 「 彼は御殿に勤めている女の一人 を誑 (たぶら) かした。 まことに 大きな、 日本では従来未だ一度も聞 いたことのない罪である」 としている。 事実 野尻彦太郎の妹と交 際していたらしいが、 慶長19年 (1614) 9月21日の 『徳川実 記』 には 「 原主水に密通の女房 ともある。 駿府のキリシタン追放 慶長16年 (1611) 8月 徳川家康は駿府の側近本多正純の与力 パウロ岡本大八とキリシタン大名有馬晴信との贈収賄事件の発覚に 「 耶蘇は夷狄 (いてき) の邪法 とまで決め付けてしまった。 そして 翌慶長17年 (1612) 3月11日 南蛮記利支旦之法 天下可停止 之旨(なんばんきりしたんのほうてんかていしすべきのむね) 」 を 言 明して駿府町奉行彦坂光正 (ひこさかみつまさ) にキリシタンの登録 をさせた。 それを 当日の 『台徳院殿御実記(たいとくいんでんごじっ き) 』 によると 「このごろ 天主教は倫理を害し風俗をやぶる事をし ろしめし、 厳に禁制せしめられんとて御家人10人ずつ一隊とし、 隊ごとに検査を命ぜらる。 原主水某年頃邪宗に惑溺するゆへ此制を 恐れて亡命す」 とある。 そこで駿府の家臣に53人が発覚したため3月17日触書をもって 諸大名にキリシタンの召し抱えを禁止させ、 併せて4月24日駿府 のキリシタン家臣18人の中 転ばない14人を追放してしまった。 その筆頭が原主水佐であった。 彼は大坂方面にいたらしい。 キリシタン禁教令 慶長17年 (1612) 8月6日 幕府は法令をもって全国的にキリ シタンを禁制とした。 その 頃追放された原主水佐は播磨国・攝津国 などを転々としていた。 とりわけ 大坂方の宇喜多秀家(うきたひで いえ)旧臣明石掃部(あかしかもん)の娘婿岡平内(おかへいない) とは親しかったため所々に匿われていた。 それというのも 宇喜多旧 臣は関が原での敗北によって大坂方の再起を狙っていたからであっ た。 翌慶長18年 (1613) 12月23日 幕府は日本にいる宣教師や 主なるキリシタンをことごとく追放するとした。 そこで 宣教師たち は遠くマニラやマカオへ送られたが、 京・大坂のキリシタン71人 は津軽国へ流されてしまった。 それも 大坂方の残党や大坂方に味方 する外様大名が宣教師の援助によって動いては困るからであった。 武蔵国岩槻へ逃れる 慶長19年 (1614) 8月28日 原主水佐は江戸幕府と大坂方の 反目に乗じて母方の粟飯原(あいはら)一族を頼り岩槻城下へと隠 れた。 それも 天正18年 (1590) 8月9日徳川の知恵袋と言われ た三河三奉行の一人高力清長(こうりききよなが)が岩槻城主 (2万 石) として入ったとき、 北条方の旧臣粟飯原一族を召し抱えたからで あった。 現在 岩槻の仏眼山浄国寺(ぶつがんざんじょうこくじ) (岩槻市加倉1丁目25‐1) には粟飯原家の碑が残されている。 かつて岩槻城主高力清長は慶長11年 (1606) のフランシスコ会 上長アロンソ・ムニヨス神父の報告書によると 「 城下にキリシタン 寺の用地を寄進してもよい」 としていた。 その 頃 岩槻城下では聖 フランシスコ帯紐の組講のメンバーであるイネスとイザベラ夫婦が 活躍していたからである。 だが 翌慶長12年 (1607) 正月26日 高力清長は79歳で亡くなり孫の高力忠房の時代になっていた。 そ の後 芝村 (川口市) の長徳寺住職寒松(かんしょう)和尚の日記に よると元和九年 (1623) 江戸札ノ辻の処刑から救われたメンバー の一人竹屋権七郎(たけやごんしちろう)の妻ルヒイナが赦されて 城下の飯塚村へ帰っている。 駿府への護送 元和元年 (1615) 5月12日 駿府町奉行 彦坂光正は大坂方の残党狩りにより岩槻城主 高力忠房(こうりきただふさ)に原主水佐の 捕縛を依頼した。 そのため9月13日 (10月16日) に捕まり、 9 月21日 (10月 24日) には駿府に護送され、 川辺牢 (静岡市西門町一丁目周辺) に 収容されてしまった。 ところが、 そこには 市中で捕まった キリシタンの中 ペトロ角助 九郎 転ばないジュアン道寿 ペトロ宗休 ジョアン庄次郎 ヨハキム助 マヌエルの5人がいた。 そしてさらに レオンと ディエゴ清安の3人が入れられたが、 その 中マヌ エルとレオンは転んで釈放されている。 その後 9月29日 (11月1日) 原主水佐など残る7人は牢内の仕 置場で額に十字の烙印を焼かれ、 そしてさらに 東海道筋の見付近く の安倍川畔で手足の指を切られ、 腰の腱を外され放逐されてしまっ た。 そこで 近くの河原にある小屋へと逃げ込んだが、 そこには ペト ロ宗休の妻マルタとシモンがいて介抱してくれた。 だが ジュアン道 寿とペトロ角助は間もなく亡くなってしまった。 牧ケ谷村耕雲寺 『駿府政事録』 によると原主水佐と親しい岡平内は慶長4年 (1599) 頃 父岡越前守家俊(おかえちぜんのかみいえとし)と 共に宇喜多家を追われて江戸で徳川家康に召し抱えられた。 そして 慶長12年 (1607) 頃から駿府に扈従(こしょう)してきていた。 そこで原主水佐は岡平内の父と関係のあった安倍川の上流にある牧 ケ谷村の耕雲寺 (静岡市牧ケ谷281番地) の住職によって匿われた わけである。 やがて 原主水佐は傷も癒えて江戸へ行くのであったが、 江尻の湊から船に乗ったのであろうか、 そこには 駿府からペトロ宗 休が頻繁と往来していたのである。 元和元年 (1615) 5月 大坂の陣が終わると幕府はキリシタンの 取り締まりを一層強め、 元和2年 (1616) 8月8日の禁令では、 キリシタン本人の体を不自由にして放逐するのはもとより、 匿った 者も死罪とした。 そのため 岡平内兄弟はもちろんのこと父親である 岡家俊も死罪となり、 耕雲寺の住職も自害させられてしまった。 そ の上 耕雲寺は慈悲尾村の曹洞宗増善寺の末寺であったが、 臨済宗 に替えられてしまった。 江戸のフランシスコ会士 慶長18年 (1613) 5月12日 江戸のフランシスコ会士は八丁 堀あたりにあったとされるキリシタン寺が壊されると新鳥越村にあ る浅草溜 (台東区浅草4丁目) に聖堂を造った。 そこには 慶長13年 (1608) 以来 ルカス・サラス修道士がレオ嘉右衛門と粗末な藁 小屋で病人の収容所を造り、 約200人を収容していた。 だが 元和 2年 (1616) 4月10日密告され壊されてしまった。 その頃 江戸周辺にはフランシスコ・ガルベス神父 サン・フランシスコ神父 レス神父 ディエゴ・デ・ ディエゴ・デ・ラ・クルス・デ・パロマ ペトロ・バプチスタ・ポレス・イ・タマヨ神父 イグナ シオ・デ・ヘスス神父などが活躍していた。 そして 『 元和年録家譜』 によると浅草寺裏手の千束周辺には体を不自由にされたキリシタン が集まっていたという。 原主水佐の活躍 元和2年 (1616) 4月17日の徳川家康死去によって駿府城には 城代が置かれた。 そこで 多くの旗本 まった。 その 頃 江戸市中には帯紐の組のメンバー (在世フランシ スコ会) が移り住み、 浅草 (台東区) 区) 御家人などは江戸へ移ってし 千駄ヶ谷 (渋谷区) 牛込 (新宿 保木間 (足立区) などに隠れ住むようになった。 元和4年 (1618) 6月22日 再度長崎に潜入したディエゴ・デ・ サン・フランシスコ神父は元和6年 (1620) 江戸に出て7ヶ月間 滞在し男子12組 女子4組の聖帯紐の組講を組織した。 やがて 彼 らは潜伏キリシタンとして捕らわれ転ぶ者もいたが、 それら 子孫は 類族とも呼ばれ元禄2年 (1689) 頃の調査によると江戸町奉行知 行所に70人 江戸の旗本知行所に915人もいた。 原主水佐の捕縛 元和9年 (1623) 7月27日 第2代将軍徳川秀忠が辞任し、 同 日第3代将軍に徳川家光が就任した。 かれは 祖父徳川家康に倣いキ リシタンを徹底的に弾圧するとした。 そのため 江戸市中では帯紐の 組のメンバーなど50人が捕まり伝馬町牢に入れられてしまった。 その端緒はかつて駿府で原主水佐の部下であった1人のキリシタン が金に困って南町奉行所 (呉服橋) の米津田政(よねづたまさ)に訴 え出たからであった。 今日でも日本キリシタン史の標準書とされているレオン・パジェス の 『日本切支丹宗門史』 によると 「 原主水の一旧臣が彼をキリシタ ンの頭目として江戸の町奉行エノキダ・カムビョーエに訴え出て同 時に2人の修道者のゐることを明かした。 さらに 彼は帯紐の会の会 頭 修道者の宿主や若干の目ぼしいキリシタンの名簿を提出した」 とある。 いわゆる2 人の修道者とは江戸町奉行所に自首したイエズ ス会ジェロニモ・デ・アンデリス神父 (55歳) と鎌倉の海岸で捕まっ たフランシスコ会フランシスコ・ガルベス神父 (47歳) のことであっ た。 江戸伝馬町牢獄 慶長8年 (1603) 正月に江戸幕府が創設された頃 江戸の牢獄は 常盤橋外 (中央区日本橋本石町) にあった。 それが 慶長11年 (1606) の町割で志り縄(しりなわ)町の牢屋同心の屋敷へと移 されることになった。 それは 江戸町奉行所支配下であって牢屋奉行 は葛飾郡石出村に住む北条旧臣の本多図書(ほんだずしょ)が 代々石出帯刀(いしでたてわき)を襲名して務めるようになった。 役高は300俵 十人扶持であり同心50人と小頭2人 下男38 人が付属され旗本の扱いであった。 時あたかも慶長18年 (1613) 6月4日 江戸市中ではキリシタ ン狩りが始まり、 登録された3,500人の中 1,500人が捕 まったが、 なおも 転ばない者たちが収容されてしまった。 そして 元 和9年 (1623) 9月頃に原主水佐が捕まったときの、 牢屋奉行は 第2代石出帯刀吉深(よしみ)の時代であり、 牢は急ごしらえの大 牢が一棟だけあったようである。 それに 牢内では男女別々とはいえ 身分による差別はなかったようであった。 いわゆる2 人の修道者も 士分の原主水佐も他の囚人たちと一緒であったようである。 その 後 牢屋敷は200余年間に3回も大きな火災があり、 その 都度拡張さ れていったようである。 処刑の日時と場所 元和9年 (1623) 閏8月24日 第3代将軍に就任したばかりの 徳川家光が京から江戸に帰った。 そして9 月7日父親である前将軍 徳川秀忠も江戸へ帰った。 そこで 将軍徳川家光は父の助言や老中土 井利勝(どいとしかつ)、 永井尚政(ながいなおまさ)、 酒井忠世(さか いただよ)などの意見を容れて10月13日 (12月4日) の仏滅日に 牢内のキリシタン50人を火焙りにするとした。 そして 刑場を選ぶ のには猶も30日間を要したわけであった。 その頃 江戸の刑罰場(けいばつば)は千住街道沿いの旧鳥越村から蔵 屋敷造成のため浅草山近くの新鳥越村 (台東区浅草七丁目) に移され たばかりであった。 だが、 そこは 残酷極まりない火焙りを行なう場 所ではなかった。 それに 江戸参府の諸大名にも見せ付ける場所とし ては最も賑わいのある東海道入り口の芝口にある広場しかなかった。 そこで江戸城から一里半の札の辻 (港区三田三丁目) の山の斜面に決 定したわけであった。 火焙りの準備 元来 火焙りの刑は最も重罪とされ、 放火犯人だけに適用されてい た。 その 方法は 『刑罪大秘録』 によると磔刑とは異なり一本の柱 (長さ二間の五寸角) に釣竹で固定して縛るのであった。 磔刑の場合 だと縄で縛りつけるが火焙りとなると焼けてしまうからであった。 また、 『 刑罪書』 によると 「 火罪壱人分御入用 把 萱七百把 大縄二把 中縄十把 として 「 薪二百 とある。 従って50人の火 焙りとなると厖大な量の薪や萱を準備するのであった。 次に立ち合い人は北町奉行島田次兵衛利正(しまだじへいとしまさ)、 南町奉行米津勘兵衛田政(よねづかんべえたまさ)、 牢屋奉行石出帯 刀吉深(いしでたてわきよしみ)、 それに 伝馬町□□小屋頭藤左衛 門(とうざえもん)などであった。 それら 処刑の記録は幕府が延宝8 年 (1680) 8月23日に第5代将軍徳川綱吉が就任すると天和2 年 (1682) 2月19日 すなわち第4代将軍徳川家綱時代以前の 延宝7年 (1679) までのキリシタン古証文を悉(ことごと)く焼 却処分させたため今日では詳しい記録が残されていない。 刑の執行日 元和9年 (1623) 10月13日 伝馬町牢内のキリシタン男子 51人は裏門から3組に分けられ出発した。 先ず第一組はジェロニ モ・デ・アンデリス神父 父 次に第二組はフランシスコ・ガルベス神 そして第三組は原主水佐が先頭となり後手に縛られ首に縄をか けられて馬に乗せられ、 他の者たちも縛られたまま歩いて従うので あった。 そして□□ 小屋頭藤左衛門の先導で多くの□□たちに付き 添われ、 名札を掲げられながら今日の室町―日本橋―京橋―銀座― 新橋―浜松町―三田―芝口と引き回されるのであった。 さて、 札の辻に着いてみると、 そこには 柱が47本と少し離れて3 本が立てられ、 側には多くの薪や萱が積み上げられていた。 そこで 町奉行は一人の囮(おとり)を使い一同に棄教を迫ったが誰一人として 応じる者もなく却って見物人の中から男女2人が同じく処刑される ことを申し出たという。 因(ちなみ)に囮となった転びキリシタンは 間もなく殺されたといい、 また 見物人の中から処刑を申し出た男女 は伝馬町牢に入れられ後日処刑されたという。 処刑の史実 初めに47人のキリシタンが柱に縛られ町奉 行の合図により藤左衛門配下の者たちが風上 より一齊いっせいに火を放った。そこには ジェ ロニモ・デ・アンデリス神父 (55歳) ンシスコ・ガルベス神父 (47歳) フラ 原主水佐 胤信(たねのぶ) (36歳) が見せつけられていた。 そして 第2回目に 3人が処刑されたわけであった。 そのとき、 江戸市中からは多くの 人々が集まり広い野原や周りの丘は群衆で一杯であったという。 ま た江戸参府の諸大名も立ち止まっていたらしいが、 市中に残ってい るキリシタンたちも見ていたという。 そして 三日三晩屍(しかばね) が焼け尽きるまで番人が立っていたらしく、 それが 終わるとキリシ タンたちは殉教者の聖遺物を拾い集めたという。 今日 それら処刑された50人の中 37人の名前だけがわかって いる。 また 処刑された日については日本側史料にも外国側史料にも 一致して 「 寒い日 だったとしている。 だが 正しい場所について 『徳川実記』 には 「 江戸に入る門戸 とあり、 『 万年記』 には芝 とだけある。 そして 外国側史料であるイエズス会クリストヴァン・ フェレイラ神父やフランシスコ会ディエゴ・デ・サン・フランシス コ神父の報告書 それに 『オランダ商館日記』 などには 「 東海道 に沿った海の見える小高い丘 とだけある。 曽かつて芝浦は遠浅の 製塩の地であり遥か房総の山々がよく見えたという。 原主水佐の叫び 元和9年 (1623) 10月13日の 『徳川実 紀』 によると 「 天主教の徒(とも)追捕せら れ火刑に処せらる。 其内に原主水といへるは 其かみ罪有て追放たれしか、 再び又罪を犯し ければ指を切り命ばかりを助けられし」 とあ り、 「こたび 又天主教の徒に入て遂に厳罰を 蒙り・・・」 とある。 また 『日本切支丹宗門史』 によると原主水佐は刑場で群衆に向かっ て 「 私は異教徒の誤謬を憎んできた。 この 理由で長年前から火焙り になる今日まで追放でも何でも甘受して参った。 私が極端な責苦に も耐へてきたのは唯一救済に導いてくれるキリシタン宗の真理を証拠 (しょうこ)だてんがためである。 私の指は全部切られ足の腱も切 られ而(しか)も初めから私の行きつく所を知った。 私のこの切ら れた手足が何よりの証拠である。 私は私の贖い主であり、 また 救い 主であらせられるイエズス・キリスト様の御為に苦しみを受けてい ま命を捨てるのである。 イエズス・キリスト様は私には永遠の報酬 に在すであろう」 と 叫んだ。 二人の目撃者 その時代 日本教区長ディオゴ・コレア・ヴァレンテ司教は日本に 入れずマカオにいた。 そこで ローマへ殉教者の報告をするのは日本 管区長代理のクリストヴァン・フェレイラ神父であった。 ところが 偶然にも札の辻で処刑を目撃したのは江戸の隠れ家にいたイエズス 会ディオゴ結城了雪(ゆうきりょうせつ)神父 (50歳) であった。 彼は京・大坂から奥州のディオゴ・カルワリオ神父を手伝うべく江 戸にいた。 もう 一人は伝道士シモン遠甫(えんぽ)に代わって元和 6年 (1620) 以来江戸で活躍していた伝道士アレイシヨ・イウン (48歳) であった。 彼はラテン語はできなかったが処刑後の寛永元 年 (1624) 正月4日大坂でフェレイラ神父が殉教者の報告書を作 成するとき証人となっている。 寛永3年 (1626) 2月17日付 マカオ発のジョアン・ロドリゲ ス・ジラン神父の報告書によると 「この 人はちょうど我らの聖なる ジェロニモ・デ・アンデリス神父とその同伴者が江戸で処刑された 時に、 そこに 滞在していた」 とある。 その頃 イエズス会士の江戸の隠れ家は東海道南品川宿より池上み ちに入る畑の中にあったらしい。 曽(かつ)て法善寺の火葬場があっ た所としている。 『 江戸御府内備考』 の中 文政11年 (1828) の品川宿小屋頭藤左衛門の先祖由緒書によると寛永12年 (1635) 12月より品川宿小屋頭となった長九郎が品川寺(ほん せんじ)と妙国寺の間の道満屋敷(どうまんやしき) (419坪) に 住んでいたが、 そこは 曽てキリシタンが住んでいた所だったとある。 いわゆる品川溜のことである。 現在の京浜急行青物横丁駅 (品川区南 品川二丁目) あたりであった。 殉教者の埋葬 後に宗門改役所で作成された 『宗門穿鑿式(しゅうもんせんさくし き)』 によるとキリシタンの刑死者は屍体が盗まれないように埋葬さ れていたらしい。 当然ながら札の辻での処刑者の後始末は品川宿小 屋頭長九郎配下の者たちが行なっていた。 一説によると埋葬した場所は近くの高輪車町(たかなわくるまちょう) の小山ではなかったろうか。 著者不明とされる 『望海毎談(ぼうか いまいだん)』 によると寛永13年 (1636) 刑場とされる跡地には 如来寺が創建されている。 明治30年 (1897) 荏原郡大井村へ移っ たが、 大正12年 (1923) 9月の関東大震災により廃寺となった らしい。 今も隣には線香の絶えない高輪泉岳寺がある。 殉教地の由来 元和9年 (1623) 10月に原主水佐など50人が処刑された札の 辻の小山には150年たった明和8年 (1771) に桜田元町から海 見山無量院智福寺(かいけんざんむりょういんちふくじ)が移ってきた。 境内地は1,767坪あったというが度々の山崩れにより昭和41 年 (1966) 7月練馬区上石神井へ移ってしまった。 元治2年 (1865) 智福寺第12世群誉和尚(ぐんよおしょう)の写本 『智福寺開山一空上人略伝記』 によると 「 其後此地公儀入用のこと 出来ければ当寺を何れへ転ぜんと彼是聞繕(かれこれききつくろい)し に喜安といふて品川の辺に遁世(とんせい)し暮すものあり。 日々上 人のもとへ来り法を聴き庵をたずね終日念仏を修しけるが、 寺地の こと承り幸い近辺にては麻布領芝上高輪田町といふ所なり。 最も此 地刑罰の処にして他の事に用ふべき地にあらず。 仏閣を建立し、 鳧鐘 (ふしょう)を鳴し経陀羅尼(だらに)を誦し法事をなさば罪科によりて 罰せられしもの苦海出浮(くかいしゅっふ)の縁ともなり……」 とあ る。 この 和尚は承応3年 (1654) 4月10日亡くなっている。 三人の福者 元和9年 (1623) 10月13日 殉教した50人の中 デリス神父 札の辻で ジェロニモ・デ・アン フランシスコ・ガルベス神父 シモン遠甫(えんぽ)修道士の3人は慶応3年 4月4日 (1867年5月7日) ローマ教皇 ピオ9世の使徒聖ペトロ・聖パウロ殉教 1800年を記念した 『マルティルム・リガ タ・サングイネ』教書により福者と認定され、 6月6日 (7月7日) 列福されている。 それは安政6年 (1859) 8月にパリ外国宣教会士によって日本布 教が再開されたことによりキリシタン時代にローマへ報告されてい た史料に基づくものであったが一般日本人殉教者の史料は乏しく原 主水佐胤信(たねのぶ)は含まれないことになってしまった。 江戸殉教者の讃美 昭和26年 (1951) 12月4日 原主水佐たち50人が処刑され た札の辻が殉教地と確定されると第一回の巡礼がカトリック学生連 盟によって行なわれた。 そして 昭和31年 (1956) 12月4日殉 教地跡に 「 元和大殉教記念碑 が建てられた。 現在はカトリック高 輪教会 (港区高輪四丁目7―1) に移されている。 それからおよそ400年たった今 札の辻は何もなかったように 人々が往来している。 それに 語り継ぐ人々も少なくなってしまった。 ただ昭和34年 (1959) 2月21日に東京都教育委員会が史跡に 指定してくれ、 昭和43年 (1968) 3月1日 現在の三田ツイン・ ビル西館 (港区三田三丁目7番地) の広場に建てられている。 「 跡 元和キリシタン遺跡 智福寺境内 都旧 の碑だけが記憶を蘇らせてくれ ている。 そして 近くの横断歩道橋にも鮮やかに札の辻と記されてい る。
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