大吉天神宮納帳﹄の﹁連歌田

老のくりごと︱八十以後国文学談儀︱︵2︶
﹃大吉天 神 宮 納 帳 ﹄ の
﹁連歌田 ﹂
何人かの人に、
﹁連歌田﹂のあらましと、永禄八 年 の 原 文 書
であることがきわめて貴重であることを興奮気味に語った。
染田の天神講が、神社の拝殿を連歌所にしていたこともあっ
て、ぜひいつか苗代神社︵朝日町縄生︶を訪ねてみたいと思
った。ところが、それも竹内氏が車で案内して下さり、何人
大阪俳文学研究会で、故岡本勝氏蒐集の﹁岡本文庫﹂閲覧
くもとのままの遺構を残しているものと思われる。この拝殿
現在の建物は明治の再建だが、小高い岡の上にあり、おそら
かの人といっしょに出向くこととなった。神社は式内社で、
のため、平成二十二年八月十八日に、三重県三重郡朝日町歴
で、戦国時代に武将たちが集まって連歌を行なっていたこと
島津忠夫
史博物館に行った。二階の一室で、多くの会員は熱心に俳書
にしばし思いを馳せたのであった。
私が﹁連歌田﹂に関心を持ったのは、
﹁千句 連 歌 の 興 行 と
を調べていたが、私は企画展﹁明治の歌人 橘東世子・道守
展﹂にも興味があり、途中で階下の展示場に行った。特に予
その変遷﹂
︵
﹁連歌俳諧研究﹂ 、昭和三十二年十二月︶を書
見て、あっと驚いた。そこには、朝日町の今昔のうち、中世
があることに何となくひかれていたので、ついでに常設展を
和泉書院刊︶に改定を加えつつ収めているが、主旨は変わっ
角川書店刊︶
、島津忠夫著作集第二巻﹃連歌﹄
︵平成十五年、
いた頃にさかのぼる。それは、﹃連歌の研究﹄︵昭和四十八年、
備知識はなかったのだが、この小さな町に立派な歴史博物館
の一画に、
﹃大吉天神社納帳﹄の一枚のパネルがあり、
﹁天神
ていない。そこには、一、大阪府泉北郡浜寺町字船尾︵堺市
一度展示を確かめ、学芸員の竹内弘光氏に話したところ、そ
の文書とある。何人かの関心のありそうな人とともに、もう
解説によれば、苗代神社蔵とあり、永禄八年︵一五六五︶
吉二年︵一四四二︶十一月﹁三村宮へ両殿御寄進本役事﹂
︵
﹃開
二、染田の天神社の天神講田のこと。三、堺市開口神社の嘉
の寺︶で法楽連歌が行なわれていた名残かと想定したこと。
老から小字﹁連歌田﹂に拠ると聞き、三光法師の大雄寺︵浜
西区浜寺諏訪森町︶の三光川にかかる﹁連歌橋﹂の由来を古
ふな お
宮連歌田﹂の文字が目に入ったからである。
の原本を預かっているからと言って特別に見せていただくこ
あ ぐち
とができた。私は、その時、即座に染田の天神講のことがよ
口神社文書﹄焼失か︶に、
﹁右は公方より御寄進の連歌所也﹂
く また
ぎり、杭全神社の﹁連歌田﹂
の写本のことを思い出していた。
3
1
5
千句田として連歌所の維持にあてるための田地を寄進し、大
のこと。六、安井道頓の祖父道是が、郷社熊野権現杭全社に、
山崎の離宮八幡宮の﹃万記録﹄に見える﹁れいせん連歌講﹂
水三男著作集第二巻、昭和四 十 九 年、校 倉 書 房 刊︶
。五、大
三男氏﹃日本中世の村落﹄
︵昭和十 七 年、日 本 評 論 社 刊。清
進注文﹂に﹁連歌田分なる免田﹂が記されていること︵清水
と見えること。四、
﹁東寺領山城国下久世荘明応八年 年 貢 未
と接触することが多かったものと思われる。
あたりは、往還の途上にあたるところで、戦国武将も連歌師
を固める意味があった。
﹃宗長日記﹄
﹃宗牧紀行﹄など、この
り、気心を通じ合い、その文芸の座を楽しむとともに、同盟
茶などと同じく、一味同心で、その座をともにすることによ
ないかと思われる。当時の武将が連歌の座を好んだのは、お
連歌座は永禄八年よりもっと以前から行なわれていたのでは
この資料は﹃朝日町史﹄
︵昭和四十 九 年 刊︶に 翻 刻 さ れ、
後日、竹内氏の教示により、
﹃四日市市史﹄
︵第十六巻、平成
阪大学含翠堂文庫︵土橋文庫︶に、
﹁連 歌 田﹂と い う 写 本 が
あることなどを記している。
七年刊。稲本紀昭氏執筆︶
にも紹介されていることを知った。
お
ておきたい。
︵しまづ ただお/大阪大学名誉教授︶
んど連歌研究者の目に触れていないと思われるので、紹介し
ては、郷土史の方々の精査を待ちたいが、この資料は、ほと
この資料の細かい分析や、この資料に見える地侍などについ
﹃大吉天神宮納帳﹄は、永禄八年の原資料︵表紙中央に﹁大
吉天満宮納帳﹂
、右に﹁永禄八年
乙﹂
、左に﹁十二月吉日﹂と
丑
栗田監物寄進
ある︶が現存していることが極めて貴重で、最後の丁に、
天神宮連歌田
在所金綱大あせはたより出候 此外公方壱斗監物取候
四斗は海禅寺へ出候
壱反 六斗納 作人平右衛門
在所金井かいがら田
壱斗八升納 作人彦四郎
在所金綱下なわう南のかいと
三斗納 作人清次郎方
在所あ□□
な
三斗納 作人清左衛門方
とあり、縄生城主で、栗田監物が中心になって、在地の城主
たちが連合して連歌の座を持ち、千句興行や月次連歌が行な
われ、その費用としての﹁連歌田﹂
であったことが知られる。
4
老のくりごと