鄭義信氏の陳述書

陳述書
鄭 義信(ちょん うぃしん)
目 次
1 略歴
2 新宿梁山泊を退団した理由
3 退団後の無断上演並びに無断改変
4 劇団「青脈」に対する無断上演許可
5 「人魚伝説」上演中止(2005年)申し入れと、その結果
6 「それからの夏」上演中止申し入れ
7 2007年6月6日付けの手紙「盗作」に関する反論
8 結論にかえて
1 略歴
私は、1957年、兵庫県姫路市に生まれました。
横浜放送映画専門学校(現・日本映画学校)美術科に学び、松竹で美術助手
につきましたが、その後演劇に活動を転じ、劇団『黒テント』を経て、198
7年1月、劇団『新宿梁山泊』の旗揚げに参加し(1995年1月に退団)、
その後、映画脚本にも参加し, 『月はどっちに出ている』などの脚本を執筆し、
現在まで映画と舞台の両方で脚本・戯曲を執筆してきました。
主な作品・受賞歴は以下の通りです。
89年 『千年の孤独』にて
「テアトロ賞」
93年 『ザ・寺山』にて
第 38 回岸田國士戯曲賞
94年 『月はどっちに出ている』にて
キネマ旬報脚本賞
毎日映画コンクール脚本賞
日本アカデミー賞優秀脚本賞 ほか
96年 映画『岸和田少年愚連隊』(我妻正義氏と共同脚本)にて
ブルーリボン作品賞
99年 『愛を乞うひと』にて
キネマ旬報脚本賞
日本アカデミー賞最優秀脚本賞
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第1回菊島隆三賞
アジア太平洋映画祭最優秀脚本賞
おおさか映画祭最優秀脚本賞 ほか
00年 『ロはロボットのロ』にて
平成12年度東京都優秀児童演劇選定優秀賞
02年 『僕はあした十八になる』にて
芸術祭賞大賞
第二十八回「放送文化基金賞」テレビドラマ部門賞
第九回上海テレビ祭白玉蘭賞(マグノリア・アワード)審査員特
別賞 ほか
03年 『OUT』にて
第五十七回「毎日映画コンクール」脚本賞
04年 『血と骨』にて
キネマ旬報脚本賞
日本アカデミー優秀脚本賞
『六月のさくら』にて
芸術祭賞優秀賞
第二十七回姫路市芸術文化賞「芸術賞」
『まげもん』にて
2004 年度岡山市民劇場賞「演出賞」
05年 『うみのほたる』にて
ギャラクシー賞月間賞・同奨励賞
芸術祭賞優秀賞
07年 『すみれの花咲く頃』にて
ギャラクシー月間賞
2 新宿梁山泊を退団した理由
ここに今さら、退団理由について述べるべきではないかもしれませんが、本
件紛争に到る原因のひとつでもあると考え、報告いたします。
1987年に劇団『新宿梁山泊』の旗揚げに参加してから、1995年に退
団するまでの約9年間、常に、代表である金守珍氏の罵詈雑言に耐える日々で
ありました。彼は独善的な人物で、自分の気に入らないことを発言する劇団員
に対しては、徹底的に糾弾いたしました。たとえ自分に非があったとしても、
時には暴力を駆使してでも自分の主張を通そうといたしました。また自尊心が
著しく高く、自分が傷ついたと感じた相手を決して許そうとはしませんでした。
私(鄭義信)が退団した後も彼の罵詈雑言は止まることはありませんでした。
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たとえば、近く提出する予定の CD-R は、私が新宿梁山泊を退団した後、
1997年、新宿梁山泊と懇意にしていたプロダクション社長を介して、私が
テレビドラマの仕事を紹介していただいたことに金守珍氏がいたく腹を立て、
私の留守番電話に吹き込んだテープの音声を録音したものです。プロダクショ
ン社長は単に、私の電話番号をテレビプロデューサーに教えただけであるにも
かかわらず、金守珍氏は激昂してヤクザまがいの恫喝を留守番電話に吹き込ん
だのです。
私が新宿梁山泊を退団した大きな原因は、金守珍氏の人間性に対する不信感
からですが、9年間在籍していた新宿梁山泊という劇団と劇団員には愛着があ
り、できれば彼らの今後の力にもなりたいと思っておりました。私が新宿梁山
泊時代に書き下ろした著作が彼らにとって何らかの助けになればと、退団する
際に「ひとこと断ってもらえば、作品上演を許可いたします」と言いました(決
して、著作権や上演権を譲ったわけではなく、事前に上演の許可願いを出して
もらうことを条件にこれからも上演してもいいと発言いたしました)。
しかし、以下に詳述いたしますが、金守珍氏は私のその発言を自分に都合よ
く曲解し、私に何の連絡もなく、私の著作を無断上演、無断改変し、著作者で
ある私を無視し続けてきました。金守珍氏の度を越した私の著作物に対する扱
いは、著作権者としては許しがたいものでありました。何度も無断上演、無断
改変を止めるよう申し入れ、覚書(甲2)まで交わしたにもかかわらず、その
約束はことごとく反故されてしまいました。
金守珍氏がこれほどまでに、著作者を蔑ろにするのは、上記のような性格の
発露のためではないかと思われます。
そこで、私は、私の著作物を守り、これ以上の私の著作に対する無断上演、
無断改変を許さないために、やむなく、本申立に到った次第であります。
3 退団後の無断上演並びに無断改変
私(鄭義信)が1995年1月に新宿梁山泊を退団した後、金守珍氏が著作
者である私の断りなく、無断上演並びに無断改変した作品は以下の5作品です。
①、1995年4月、「人魚伝説」新宿公演での無断上演並びに無断改変
②、1996年8月、「愛しのメディア」韓国公演での無断上演並びに無断改
変
③、1998年9月、「人魚伝説」北京公演での無断上演
④、1999年、「千年の孤独」新宿紀伊国屋ホール公演での無断改変
⑤、2002年「映像都市」を劇団「青脈」に無断上演許可
私は退団するにあたって「ひとこと断ってもらえば、作品上演を許可いたし
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ます」と申しました。にもかかわらず、これまで一度も著作者である私に「上
演許可願い」
(金守珍氏は本来なら、作家に対して願い出る「上演許可願い」
―高校演劇ですら、「上演許可願い」を提出いたします―を私に一度も提出し
たことがありません)はおろか、公演の通知も報告もなく、あまつさえ無断改
変まで行なってきました。上演された5作品のうち3作品が海外公演であるた
めに、露見しないと考えたとしか思われません。
1999年の「千年の孤独」公演に関しても、同様になんの報告も「上演許
可願い」も提出されておりませんでした。ところが、さすがに国内公演である
ため、公演約半年前に発覚いたしました。これまでの度重なる無断上演並びに
無断改変の経緯を鑑みて、このとき、私は金守珍氏との間に覚書(甲2)を交
わし、「上演にあたっては原作者に無断での作品の変更、改訂はいたしません」
と明記させました。そして、ペナルティーとして、使用料を30万円支払わせ
ることにしました。金守珍氏はこれに応じ、30万円の使用料が振り込まれま
した。つまりは、この覚書により、「千年の孤独」は私(鄭義信)の著作であ
り、私が著作権者であること、そして金守珍氏は公演の許可を取らなければな
らないことを明確に認めたのであります。
しかし、このような覚書を交わしたにもかかわらず、その後、金守珍氏は「千
年の孤独」劇中の女性の役を男性に変えるという作品に大きなダメージを与え
る重大な無断改変を行いました。しかも、その事実を隠ぺいするために、金守
珍氏は私に招待状、公演案内、公演チラシ等を何一つ送ってきませんでした。
そこで、制作部に問い合わせたところ、「忘れていました」という虚偽の発言
を繰り返され、覚書も反故にされたこともあって、その余りの身勝手さに対し、
この直後の7月頃、私は新宿梁山泊の制作担当の三浦伸子氏に「以後、鄭義信
作品の上演は一切認めない」旨を伝えました。
4 劇団「青脈」に対する無断上演許可
ところが、2002年4月頃、金守珍氏は韓国の劇団「青脈」に対し、私の
作品「映像都市」の上演を私に無断で許可を与え、またも大問題となりました。
このとき、新宿梁山泊に問い合わせたところ、金守珍氏からの回答はなく、
「知
らぬ存ぜぬ」で、韓国の劇団に責任をなすりつける態度でした。その後、劇団
「青脈」から私宛に、正式の謝罪文と「上演許可願い」が出され、ようやく一
件落着しました(甲3)。
5 「人魚伝説」上演中止(2005年)申し入れと、その結果
これほどまでに私の著作権を蔑ろにしてきた金守珍氏は、その後、2005
年3月には「人魚伝説」の韓国上演を一方的に通告してきました。(甲4。例
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によって「上演許可願い」はありませんでした)。前述しました通り、私は既
に、1999年に、「以後、鄭義信作品の上演は一切認めない」旨を金守珍氏
に表明してあり、その態度を変更する気はありませんでしたので、これ以上の
無断上演並びに無断改変を防ぎ、自作品を守るために、協同組合日本シナリオ
作家協会を通じて、改めて上演中止を申し入れました(甲5)。すると、これ
を不服とする金守珍氏から弁護士を立てて争うと言って来たので、私も準備し
ておりました。
当初、金守珍氏の代理人は2005年の日韓友情年の招聘作品として、
「人
魚伝説」を上演する旨を伝えてきました(甲6)。ところが、こちらの調査に
よると、新宿梁山泊が招聘作品として文化庁に助成金を申請したのは「人魚伝
説」ではなく、唐十郎氏の「唐版風の又三郎」でした。そのことも併せて追求
すると(甲7)、金守珍氏の代理人は「提案についてご同意いただけないとの
ことですので」という理由で、「人魚伝説」の上演中止を伝えてきました(甲
8)。こうして、金守珍氏の代理人は、私の著作権や上演権を認め、一応の決
着を見ました。
6 「それからの夏」上演中止申し入れ
2005年の「人魚伝説」上演中止で一応の決着を見たと思っていたのです
が、しかし、どうやら、私の著作権や上演権を認めたのは金守珍氏の代理人だ
けであって、金守珍氏自身はちがうようでした。
というのは、それから 2 年後の今年4月、またも「それからの夏2007」
の無断上演が決行される気配となったからです。
(甲9。原題は「それからの
夏」であり、題名からして無断改変であります)。何度も上演不許可と中止要
請の手紙を送りましたが(甲 10、12)、金守珍氏の独善的な主張はますますひ
どくなるばかりで、まったく聞く耳を持たず(甲 11)、おまけに、上演間際に
なって、仮チラシを送りつけてきました(甲1)。そのチラシには、「ぴあ発売
7月5日」とあり、上演日も8月1日からと記載されておりました。
今回も、金守珍氏から例によって「上演許可願い」も提出されず、またもこ
ちらの出鼻を挫くことを明らかに意図した上演間際になっての 6 月6日付けの
手紙(甲 11)であり、これに対してはもはや話合いによる解決は不可能となり、
裁判所に申立するほか方法がなくなった次第です。
7 2007年6月6日付けの手紙「盗作」に関する反論
金守珍氏は、今回、問題となりました「それからの夏」の無断上演と無断改
変を正当化するために、6 月6日付けの手紙の中で、とうとう私の作品を「パ
クリ」「盗作」呼ばわりするに至りました(甲 11)。2年前、「人魚伝説」の韓
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国上演を一方的に通告してきた金守珍氏の手紙には、
「貴殿が在団中に書いた
作品は、劇団・新宿梁山泊にとって代表作でもあり、いい作品を残すことがで
きたと誇りに思っています。また、人生の出会いの中で、貴殿と貴重な時を共
に過ごしたことは、宝だとも考えております。もちろん戯曲家として尊敬の念
を持っております」(甲4。2枚目4行目)と書かれていました。しかし、ど
うやら、このとき私が韓国上演を許可しなかったため、私に対する評価が天か
ら地へとコペルニクス的転回を遂げたようです。
しかし、このコペルニクス的転回にはまったく首尾一貫性がありません。
第一に、金守珍氏は本年 6 月6日付けの手紙の中で「今年劇団20周年にあ
たり、今一度、劇団の辿ってきた歴史を検証するためにも、鄭氏の作品を上演
しなければならないと考えております」と述べています(甲 11。2枚目22行
目)。しかし、私の劇団在籍は9年間、これに対し、新宿梁山泊は私が退団し
た後、11年間も活動を続けてきました。劇団在籍中の私の主要作品が「盗作」
であると主張されるのなら、私が退団してから10年以上なるというのに、な
ぜそのような「盗作」を上演しようとするのでしょうか。
「もし、劇団の告発
がなかったら、取り返しの付かない問題になっていたことは、想像に難くあり
ません」(甲 11。2枚目5行目)と述べておきながら、なぜそのような危ない
「パクリ」「盗作」の上演を強行しようとするのでしょうか。
また、盗作である「文書としての証拠も十分残っています」(甲 11。2枚目
8行目)と指摘された「人魚伝説」の文書とは一体いかなるものでしょうか。
「人魚伝説」は新宿梁山泊で上演された以外に、
「新劇」という雑誌に掲載さ
れた最初の稿も存在します。それと、新宿梁山泊時代の私の著作はペヨトル工
房からほとんど発行されています。完成したこれらの作品を「盗作」の告発の
対象とせずに、もし、創作過程で作られた準備稿の一部をあえて「盗作」とし
て訴えるのだとしたら、それは単に私を落としこめたいがための卑劣な方便と
言わざるを得ません。
また、金守珍氏が「盗作」だと主張する中に、たとえば「カルメン夜想曲」
と「パイナップル爆弾」があげられていますが(甲 11 。1枚目真中のB)、
「パ
イナップル爆弾」と単にヤクザの抗争劇であるというだけで「盗作」呼ばわり
しています。これは名誉毀損と言うほかありません。
以下、参考までに、金守珍氏により「盗作」と指摘された著作について、コ
メントいたします。
A「人魚伝説」
「若者のすべて」
:五人兄弟であることと、兄弟二人がボクサーになるシチ
ュエーションが同じですが、私自身が五人兄弟であり、ストーリー自体は私
の少年時代をモチーフとしております。
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「卒塔婆小町」:老婆と詩人という登場人物が同じですが、話される内容が
相違。
B「カルメン夜想曲」
「パイナップル爆弾」:単にヤクザの抗争が同じだけ。
C「チネチッタ・映像都市」
「ニューシネマパラダイス」:映画館が舞台であるというのが同じだけ。
D「青き美しきアジア」
「ザ・フィールド」のオマージュとして書いたものでありますので、登場人物、
ストーリー展開が似ているのは当然ですが、韓国済州島の死者婚礼(死んだ人
間に婚礼をあげさせる)と、妻を殺した窓際会社員の話が大きなテーマとなっ
ているので、まったく違った作品となっています。
E「明日、ジェルソミーナと」
「道」:これは題名からご判断いただけるように、「道」の中の「ジェルソミ
ーナ」という女性へのオマージュとして書き上げました。わたしはもともと
松竹で美術助手をやっていて、映画に対する愛情と尊敬が強いのです。しか
し、この作品も原作とはまったく相違したものに仕上がっていると思います
(一部、原作の引用あり)。
また、金守珍氏は、
「盗作」を「苦労して書き換えてきたのは劇団員です」(甲
11。2枚目9行目)と書いていますが、事実無根です。私の作品はたびたび再
演を繰り返しましたが、再演のたびに俳優が変わり、戯曲に不都合な点が多々
生じました。そこで、戯曲に手を入れる必要が生じましたが、それを担当した
のは私(鄭義信)自身であり、演出家(金守珍氏)や劇団員に改訂を任せたこ
とは一度もありません。
以上から、詰まるところ、金守珍氏は、私の映画への愛情を「盗作」と決め
つけ、そして「盗作」を自分たちが「苦労して書き換えた」から自分たちの作
品であるという論理を展開していますが、これが事実としてもまた論理として
も支離滅裂なものであることがお分かりいただけたかと思います。
金守珍氏自身の無断上演、無断改変を正当化するためには、前述の、2年前
に自ら表明していた私への評価を根本から否定するほかなかったことに、何よ
りも金守珍氏自身の破綻が証明されていると思います。
8 結論にかえて
今回、金守珍氏は、本年 6 月6日付けの手紙の中で「法的手続きにおいてわ
れわれの障害をもたらすのであれば、われわれも受けてたちます。鄭氏が在団
中に書いた著作物を徹底的に洗い出し、彼の原作に対する責任や劇団に対する
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背任について明らかにしたいと思います」(甲 11。2枚目下から9行目)と、
恫喝ともとれるような内容を記述しています。
しかし、無断上演、無断改変で迷惑を蒙っているのは私(鄭義信)であり、
金守珍氏や新宿梁山泊ではないはずです。にもかかわらず、自分たちが被害者
のごとき振る舞い、あまつさえ、自分たちの犯罪を押し隠すために、私の著作
が盗作である証拠を「徹底的に洗い出す」といった、あきらかに問題すり替え
の訴えにはあきれるほかありません。
また、上の記述には「背任」とありますが、「人魚伝説」ほかの私の著作が新
宿梁山泊にこれまでいかなる不利益をもたらしたでしょうか。「人魚伝説」は
「シティロード」読者投票において一位に輝き、
「千年の孤独」ではテアトロ
賞を受賞しました。ほかの作品も観客から大いに支持されたと自負しています。
にもかかわらず、「背任」とは具体的に何をもって指すのでしょうか。
ともあれ、いかに私を落としこめようとも、私の著作に対する権利はどこま
でも私にあります。今回、「それからの夏」の上演を許したならば、それを皮
切りに金守珍氏は私の著作を際限なく無断上演、無断改変し続けるでしょう。
それを決して、許すわけにはいきません。
しかも、本件は単に私と金守珍氏の問題にとどまらず、著作権者全体に対す
る大いなる危機と感じています。なぜなら、著作権者に何ら断ることなく、自
由に無断上演、無断改変が行なわれていいはずがありません。それなら、すべ
ての著作者が同じ憂き目に会っても許されるという結論になってしまいますが、
本件はそのような忌々しい事態を助長する大変憂慮すべき紛争だからです。
最後に、著作者並びに著作物に対して、何ら愛情も敬意もなく、単なる観客
動員のための手段としてしか考えていないことに対して、怒りを通り越して、
悲しみすら覚えます。
以上、陳述致します。
2007年7月5日
東京地方裁判所 殿
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