明治時代に退化した男女「対等」

2012 年度総会記念講演会記録
明治時代に退化した男女「対等」
―新島八重の生涯に見る近代日本―
講
師
同志社大学大学院教授
佐 伯 順 子 氏
年月日 : 2012 年5月 26 日(土)
時
間 : 14:15~15:45
会
場 : 文化会館 3 階大会議室
浦安市国際交流協会(UIFA)
目
次
ページ
登壇者プロフィル
1
会場写真
3
1.開会の挨拶と講師プロフィル紹介:浦安市国際交流協会前会長 徳田八郎衛
5
2.講演内容:明治時代に退化した男女「対等」―新島八重の生涯に見る近代日本―
同志社大学大学院教授 佐伯順子氏
6~17
3.質疑応答
4.資
料
18
19~29
登壇者プロフィル
開会の挨拶:徳田八郎衛(とくだ・はちろうえ)
浦安市国際交流協会前会長
司 会
者:藤原祥隆(ふじわら・よしたか)
UIFA 翻訳・通訳ボランティア委員会
講 演
者:佐伯順子(さえき・じゅんこ)氏
東京都出身
学習院大学文学部史学科卒
東京大学大学院比較文化専攻博士課程修了 学術博士
帝塚山学院大学専任講師、助教授、教授
同志社大学文学部社会学科教授(新聞学専攻)
現在、同志社大学大学院社会学研究科メディア学専攻教授
国土庁国土審議会近畿圏整備特別委員等を歴任。NHK 教育テレビ「知るを楽
しむ 歴史に好奇心 明治美人帖」(2006 年5月放送)の講師も務めた。
著書
『遊女の文化史』中公新書
『「色」と「愛」の比較文化史』岩波書店(サントリー学芸賞受賞、
山崎賞)
『「愛」と「性」の文化史』角川選書
『「女装と男装」の文化史』講談社メチエ
『文明開化と女性』(叢刊・日本の文学 16)新展社
『恋愛の起源―明治の愛を読み解く―』日本経済新聞社
『泉鏡花』ちくま新書
『一葉語録』岩波現代文庫
『日本文学の「女性性」』二松学舎大学学術叢書
『日本のこころ』共著 講談社
『浮世絵春画を読む』(下)共著 中公叢書 ほか
-1-
-2-
会場写真
講演する佐伯順子教授
講演会(1)
司会:藤原祥隆
講演会(2)
NHK ラジオ収録
講演会後の交流会
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1.開会の挨拶と講師プロフィル紹介:浦安市国際交流協会前会長 徳田八郎衛
ようこそお越しくださいました。早速、本日の講師である佐伯順子先生のご紹介をさせていただきま
す。既にお手元に経歴書をお配りしており、ここに書いた通りですが、まだお読みになっておられない
方もいらっしゃると思いますので、簡単にご紹介いたします。
先生は、東京都のお生まれですが、小学校、中学校は関西で卒業されております。高校、大学、大学
院は東京で学ばれ、大学院を出られた後は、また、大阪で教鞭を執っておられます。先生のご専門は比
較文化史ですが、このようなご経歴ですので日本の東西文化を注意深く観察してこられました。
先生の講演が決定した後、比較文化に興味のある方に前もって、
「専門的なご質問がおありの場合は返
事をください」とメールを送りましたら、どの方からも、
「なぜ、お前のような非文化人が、このような
比較文化史の専門家を存じ上げているのか。まずそれを述べよ」と非文化的で非学術的な返事がきまし
た。先生のご経歴にも関係しますので、ちょっとご紹介します。20 年ほど前のことです。さえないおじ
さん達が5、6人で出版の難しさを話しておりました。ある人が「大手出版社からは本を出せない。ま
た学術専門書店からの出版になった」とこぼすと、他の人たちも「大手から出版できても要求が厳しく
て、半年で 5000 部ぐらいは売れないと増刷してくれない」と嘆いていました。そしたら、ある先生が「う
ちの大学の文学部には、まだ院生だけど修士課程の卒論をまとめて中公新書から出したら、よく売れて
第二版まで増刷されている人がいる」と言いました。私は、すぐに、日本一の浦安図書館に行って、著
者の名は分からないのですが、こういう本があるそうですが、と言ったら、その第二版が購入されてい
ました。それが講師紹介にも記している中公新書『遊女の文化史』という立派な本です。更に後になっ
てから、この優秀な大学院生の博士課程の論文『「色」と「愛」の比較文化史』が岩波書店から出版され、
サントリー学芸賞を授与されたことを知りました。私は、それで二度びっくりしました。と言いますの
は、私が存じ上げている経済学や政治学の方々、たとえば政治評論家の西部邁さん、今度、JICA 会長に
就任されました田中明彦さん、経済学の、ご存じ竹中平蔵さんなど、皆、いい本を7冊も8冊もお書き
になり、その後でサントリー学芸賞をもらわれております。お歳も 40 代の上の方です。ところが、二つ
目の著作でしかも 20 代のお仕事でこの賞をもらわれた方は、佐伯先生以外知りません。
本当に才能のおありの方と思います。先生からたくさんの本を頂いて、私共の事務所に展示してござ
いますが、やはり読みやすいのは雑誌に寄稿された解説文です。京都の山科盆地にありますミネルヴァ
書房が去年の3月から月刊誌を出しております。研究の「究」と書いて「きわめる」というのだそうで
す。当時、先生は、ドイツにおられたそうですが、3月号からずっと筆を執って、毎月、良いエッセイ
を書いておられます。今日の講演でファンになられた方は、この雑誌(300 円)を購読いただけたらと思
います。
もう一つお伝えしたいのは、先生は、政府のさまざまな委員をされておりますし、大阪府や京都府の
男女共同参画の委員なども務めておられますが、我々のようなローカルの小さい会も大切にされており
ます。ご自分も能の能管を吹いておられまして、能楽堂にもよくいらっしゃいます。特に、小学生にど
うすれば能に興味を持ってもらえるかの活動も地域でやっておられます。
そういう地域活動を通じて、私も先生にお目に掛かりました。本日は、時宜にかなった題目でありま
す。先生が、以前から言及されているように、明治時代になって女性の権利を主張するようになったの
はハイカラな米国帰りの女性が多かったのですが、先生は、社会の底辺の女性にいつも温かい目を向け
てこられました。江戸時代の方が日本社会全体としても、これらの薄倖な女性に温かかったのですが、
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明治時代には逆に厳しくなりました。その状況を様々な本や雑誌に書いておられます。私自身も本日の
講演を楽しみにしております。先生、よろしくお願いします。
2.講演内容:明治時代に退化した男女「対等」―新島八重の生涯に見る近代日本―
同志社大学大学院教授 佐伯順子氏
ただ今、ご紹介いただきました同志社大学に勤
めております佐伯順子と申します。今日は、この
ような機会を与えていただき大変光栄に思いま
す。本日の題目は、明治時代に退化した男女「対
等」で、この題目は徳田さまがお考えくだいまし
た。私の研究テーマは、文学やメデイアにおける
女性の描かれ方であり、明治時代を中心に考察し
ているなかで、樋口一葉の日記や作品の現代語訳
を出版しております。ちょうど、来年の大河ドラ
マの女性主人公は、明治、大正、昭和まで生きた新島八重が取り上げられるということで、私といたし
ましても明治の女性がドラマの中で皆様に関心を持っていただけるのはありがたい機会だと思っており
ます。
本日の話は、新島八重に焦点を当てるというよりも、彼女の人生を幕末から明治の時代変化と女性観
の側面から見たときにどのように見えるかを中心に話をさせていただき、今後の日本社会や八重の人生
が何を教えてくれるかを、皆様と共に考えていきたいと思っています。明治時代とはどのような時代で
あったのか、改めて振り返ってみます。
明治という時代は、皆様もご存じの通り文明開
化の時代と言われ、さまざまな価値観が江戸時代
と比較して大きく変化した時代でありました。そ
うした動きの中で、女性と男性の関係性について
もかなり大きな変化を生じたと言えます。まず、
女性と男性は平等なのだ、対等なのだという意識
が明確に芽生えてきたことが大きな変革です。歴
史の教科書などで、明治時代は四民平等であると
学ばれたと思いますが、士農工商という身分もな
く、人間は対等であるという近代的な平等意識が、
明治期に台頭いたしました。そこで、
女性と男性の平等という意識がどのように具現化されたかというと、
明治政府はまず、教育の男女平等という考えを打ち出しました。明治5(1872)年に発布された学制に
おいて、一般の女子と男子が等しく教育を受けるべきとの方針を示しました。
初等教育の段階だけですが、
男女平等にしなければならないという思想が明示されたことは重要であると考えます。
それからもう一つは、
「人権」意識の台頭です。女性にとってこれがどのような形で現れたかといいま
すと、お手元にお配りしております資料 1.「娼妓解放令」(本講演録の後部に添付)をご覧ください。
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明治5年に出されておりますこの解放令で、娼婦は解放せねばならないと書いてあります。女性が体を
売ることは、女性の人権を傷つけることであるという発想が、近代的な女性解放思想として生まれてい
ます。このことは、女性の歴史を考える上で非常に重要な事実です。具体的にどのような文言か、資料 1
をご覧いただきますと、
「人身を売買するは古来の制禁の処、年季奉公等、種々の名目を以て其実売買同
様の所業に至るに付、娼妓・芸妓等雇入の資本金は贓金と看做す」とあり、人権の観点からいうと、人
身売買は非常に由々しきことであって、その具体的な形として娼婦という存在をとらえています。江戸
時代には、吉原や島原の遊郭を幕府が公認していたわけですが、明治新政府は、人身売買は人権侵害ゆ
えに禁止すべきであり、それが近代的な女性観として打ち出されています。ただし、一つ複雑なところ
があるのですが、「同上の娼妓・芸妓は人身の権利を失うものにて、牛馬に異ならず」と書かれており、
身を売る女性は、人権を失っているのであるから人間ではなく、牛馬と同じであるとされています。
こうした表現が新しい差別意識を生みだしました。ここでは、牛馬に借金を返せというのは理屈に合
わないから、娼妓達の借金をチャラにしてあげましょう、と言っているのですが、親切か不親切かよく
分からない文言でありまして、明治になって、近代的な女性の解放や自由の考え方が生まれた一方で、
性的な仕事をする女性達に対する差別意識が強まったのです。こうした歴史的事実には二つの側面があ
ります。女性が体を売ることは人権侵害に当たるという、女性の人権を重視する考え方と、逆に、娼婦
を牛馬とみなすことで、実質的に彼女たちの人としての尊厳を傷つけているという側面です。当時、貧
しい女性達はこれ以外に仕事がなかったことも多く、やむなくこうした仕事している女性たちを牛馬と
一緒と称することも、一種の人権侵害であり、彼女達にとってプラス面とマイナス面が混ざっていたよ
うに思います。ちなみに、なぜ明治5年に「娼妓解放令」が出されたか。これは内圧によるものではな
く、マリア・ルーズ号事件というある種の外圧によって出されたということが注目点だと思います。
この事件を簡単に説明しますと、清国のクーリーがペルー国籍の船から逃亡してイギリスの軍艦に保
護された後、日本側に引き渡された事件で、奴隷の逃亡事件です。クーリーを解放する時に、ペルー側
が「日本にも遊女・娼婦がおり人権が侵害されている」と批判しました。平たく言えば、お前の国には
人身売買の女性がいるのに偉そうなことを言えるのかということです。そこで、国際社会からみて娼妓
の存在は恥ずかしいことなのだとの自覚が、外圧によって生まれた結果、
「娼妓解放令」が出されました。
こうした外圧による国内の政治的な変革は、現代もありがちな日本の歴史の特徴ともいえるかもしれま
せん。
ただ、さきほども申し上げたように、この仕事以外に生活を成り立たせることができない女性達も多
く、結局、この法令の実質的効力はありませんでした。解放して借金をチャラにするから娼婦を辞めな
さいと言われても、本人たちも途方にくれるということがありましたので、実質はこういう仕事が存続
していくことになりました。とはいえ、明治の女性の歴史を考える時、この法令をひとつの転換点とみ
なすことはできると思います。
さらに、女子教育の発展に努めなければならないという動きに呼応して、女性を読者に想定した雑誌
が発行されることも重要です。日本の女性は、文明開化の社会にふさわしい、教養を身に付けた存在に
ならねばならないと、啓蒙的な女性雑誌が多く出版されております。その中で代表的なものが『女学雑
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誌』で、明治 18 年に創刊されました。実際の紙面が資料 2にありますが、現代のものと随分趣が違う
ということにお気付きかと思います。現代の女性雑誌は、ファッションであったりグルメであったり、
生活面の情報誌の性格が強いのですが、明治の女性誌は、新しい時代の日本女性はいかにあるべきか、
ひたすら硬い評論記事がたくさん並んでおりまして、現代の女性誌とは趣を異にしています。
われ ら
どういう議論が掲載されているか、具体的にみてゆきましょう。
『女学雑誌』の発行の趣旨には、
「吾等
はは
われ ら
まも
そだ
われ ら
あね
われ ら
みちび
おし
われ ら
つま
われ ら
たす
なぐさ
じょう
の母となりて吾等を護り育て吾等の姉となりて吾等を 導 き教へ吾等の妻となりて吾等を助け 慰 め其 情
はな
ごと
その あい
みつ
ごと
ぼう ぶ
よ
ありさま
なめ
あきら
もの
すなわ
ふ じん じょりゅう
は花の如く其愛は蜜の如く暴武なる世の有様をして滑らかにかつ 耿 かならしむる者は 即 ち婦人女 流 な
り」とあります。女性が社会においていかに貴重な存在かを世に知らしめようとする内容であります。
せいよう がくしゃ
げん
こくない ふ じん
ち
ゐ い かが
もっ
その くに
さらに、左下の方をご覧いただきたきますと、「西洋学者の言に国内婦人の地位如何を見れば以て其国
ぶんめい
こう げ
文明の高下をさとるべし」、つまりその国の女性の地位がいかなるものかを見れば、その国の文明の度合
わがくにげんこん
ふ じん
み
にっぽん
な
かい くわ
くに
いが分かるという説です。では、我が国はどうかといえば「我国現今の婦人を見て日本は尚ほ開化せし国
あら
い
い
これ
い
ことわり
に非ずと云はれんに今ま之を言ひとくべき 理 なき」とあります。日本女性の地位が本当に文明開化にふ
さわしい状態になっているかを問うていくわけです。そして、是非、文明開化にふさわしい日本女性の
おうべい
地位を確立したいという問題意識と志の下に、雑誌が創刊されたと主張されます。引用の末尾には、
「欧米
じょけん
わが くにじゅうらい
じょ とく
あわ
くわんぜん
も はん
つく
の女権と吾国 従 来の女徳とを合せて 完 全の模範を作り」、つまり、明治時代は欧米のさまざまな文物が
入ってくる時代でしたが、女性観に関しても、欧米社会の女性の権利意識と日本古来の女性の徳を結び
つけ、日本社会にふさわしい道徳的女性を養成するために、この雑誌を出版しますよ、という高い志が
示されているのです。
『女学雑誌』に限らず、明治時代に出された女性雑誌はほぼ同じような問題意識を
持っていました。今、当時の女性雑誌の復刻版を回覧いたしますが、どの雑誌を見ても、新しい女性像
をめざす熱い意思が書かれております。
さて、新島八重が生きた時代は、こういった女
性に対する考え方が大きな変化を被った時代であ
りました。これらの雑誌は、男性が編集して、女
性が記事を書くというパターンが見られました。
女性自身が「明治になって自分たちは自由に活動
しなければいけない」と自覚するようになり、明
治の前半にこうした新しい時代に生きる女性とし
ての問題意識を持った具体的な例として、例えば、
岸田俊子さんがいます。彼女は「同胞姉妹に告ぐ」
という評論を明治 17 年に発表して、ここに書かれ
ているような、力強い当時の女性に対するに書か
れているような、力強い当時の女性に対する問題提起をしております。かいつまんで読んでみますと、
「人
間世界は男女をもて成りたるものにて、男子のみにて世の中を作るべからず。社会一日女子無くば人倫は
滅び国は絶ゆるに至るべし」と力強い言葉で男女平等を訴えております。その次に清水(古在)紫琴を紹
介いたします。彼女も先ほど紹介した『女学雑誌』にさまざまな記事を書いておりますが、特に、『こわ
れ指環』は、明治 24 年に発表した小説で、彼女自身の人生と照らし合わせながら、新しい時代の女性に
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とって理想的な結婚はどういうものかということを女性の立場から書いております。このように、女性に
とって、明治という新時代は大変熱い時代であったということができるかと思います。
ところが、こうした新しい考え方と同時に、こ
れに矛盾する動きも生じました。それは女性の社
会的、公的な活動を抑圧する動きです。たとえば、
明治 17 年の「町村会法」では、選挙権を男子のみ
に限りました。さらに、明治 23 年には「集会及政
治結社法」で、女性の政治活動が禁止されるとい
うことになりました。また、明治 26 年の「新聞紙
条例」で、女性は新聞、雑誌を発行してはいけな
いという、女性の言論活動を制限するような条例もでき、明治 31 年には「明治民法」が発布されます。
これは、女性の私生活を抑圧するものになりました。
具体的に紹介しますと、資料 3の「明治民法における女性の地位」をご覧ください。第 733 条「子
は父の家に入る」あるいは、第 788 条「妻は婚姻によりて夫の家に入る」
、第 801 条「夫は妻の財産を
管理す」などの条文が見られます。明治民法では家族間において、財産については、父親や夫の権限が
女性のそれより勝るという考え方が明示されています。さらに、悪名高い姦通についての法律がありま
すが、これは、奥さんが夫以外に恋人を作った場合、現場に居合わせた夫が相手と妻を殺しても罪にな
らないという、とんでもない法律でした。実際にこれを実行して罪にならなかった人もいます。このよ
うな女性差別的な法律が明治 31 年に出されたことは残念なことです。本日のタイトルで「明治時代に
退化した男女『対等』」と申し上げました。具体的にどこが退化したのかと言えば、こうした点に現れ
ていると思います。
ここで新島八重ですが、
彼女は、弘化2(1845)
年から昭和7(1932)年
まで、長生きをしています。
会津に生まれて、実兄、山
本覚馬を頼って京都に来
て、同志社を創立した新島
襄と知り合って結婚しま
した。彼女の内面的性格を
みますと、ここにも書かれ
ていますように、会津戦
男装姿の新島八重
争時に断髪、男装して会津若松城に籠城しています。多分、これは大河ドラマでもドラマチックに描かれ
るのではないかと思います。女性として生まれてきたけれど、男性と対等に戦闘に参加しようとした、大
変意欲的な女性で、彼女の積極的な内面を知ることができます。こういう女性が、さきほど申し上げたよ
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うな抑圧的な社会制度に囲まれて、非常に欲求不満に陥ったであろうということは想像に難くないわけで
す。男装に関しては、新島八重以外にも、明治の初めに男性と対等に何かを行おうとして男装した人が何
人かいました。例えば、ここで紹介している福田英子ですが、彼女は、16 歳の時、髪を切って男子生徒
のような格好をして通学したので、
「マガヒ」
(まがいものの意)とからかわれました。それから、佐々木
豊寿さんも女性民権家で知られている方ですが、彼女も少女時代に男装して馬に乗っていたと言われてい
ます。世代的には、これらの女性たちは新島八重より若い世代になりますが、八重の場合は、戦争に参加
するという、非常に分かりやすい形で男の活動に参加しました。このように分かりやすい形でなくても、
男性と同じような教育を受け、民権家等として社会で活躍したいとの意識を持った女性は、男の格好をす
る必要に迫られる状況にありました。つまり、明治時代は、男女平等と言いながらも、これからご説明す
るように、男女差別的な考え方がだんだんと主流化していったために、意欲的な女性としては欲求不満を
抱えざるを得なかったのです。より著名な女性の例をあげますと、お札になっている樋口一葉は日記の中
で、しばしば新聞を読んで、日本の政治や外交のだらしなさに憤懣を覚えるが、女性としては何もできな
いのが残念であると書いています。男であったらよかったな、という意識も書き残しています。明治時代
は、何かやりたいと思う女性にとっては、必ずしも開放的な時代ではなかったということが伝わってきま
す。
「男装する女性たち」
(前ページ)の写真は、八重が帯刀した写真ですが、宝塚のようなイメージもあ
り、袴は今でいうパンツのようなものでした。明治 30 年代になると、女学生が袴をはいて自転車に乗り
闊歩するようになります。袴は明治の女性にとって、動きやすい、パンツ感覚の衣装であると考えれば良
いと思います。
さて、活発でありな
がら内心抑圧的な感覚
に至ったであろう八重
は、新島襄と出会い結
婚することになります。
新島襄は、アマースト
大学という米国の大学
に留学して帰国します
が、米国の教育や家庭
看護婦姿の新島八重
生活に多大の影響を受
けて、現在の同志社大学を創立することになります。新島襄については同志社でもいろいろ学ぶ機会があ
りますが、八重さんについては、同志社にいても意外と注目されていませんでした。襄と八重の関係で興
味深いのは、米国から帰国した襄が「自分は決して顔の綺麗な女性が良いとは思わない。ただ、内面的に
良い処のある、学問のある女性を望む」と言っていたことです。
襄は、
「日本の婦人の如き(学問)なき女子と生涯共にする事は一切好ましく不存候」とかなり辛辣に、
当時の日本女性を批判しております。襄が、現地でハーディ夫妻の影響を受けたということは『サンデ
ー毎日』の連載「八重と新島襄」(保阪正康)でも指摘されていますが、明治8年の書簡の中で、「自分
の理想にかなうような知的な女性が日本にみあたらないので、一生、結婚できないかもしれない」と悲
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観的な思いを抱いていたということがわかります。
最初に紹介いたしました明治5年の学制のめざし
た男女平等な教育は、初等教育だけという状態でし
たから、襄の目から見るとまだ日本女性の社会的地
位は高くないとの印象があったのでしょう。そんな
襄が好感を持った女性こそが八重だったのです。襄
が八重のことを語った有名な言葉は、
「彼女の顔は
決して美しくはないが、心はハンサムだ」というも
のです。そこで NHK の女性デイレクターに、
「ハン
サム・ウーマン」と命名された経緯があります。
余談になりますが、私は、一昨年一年間、ベルリンで過ごしておりました。帰国して一年になります
が、日本にいると当たり前に見ていることが、米国やドイツに行くとすごく奇異に感じることがありま
す。多分、皆様も海外に滞在されたご経験がおありで、同じような気持ちになられることがあると思い
ますが、日本で朝、テレビをつけてニュースを見ていると、大体 20 代位の同じような髪形の女性が3人
位並んでいて似たような印象なのです。それもどの局を見てもそうなのです。なぜ、あそこまで若い女
性を並ばせなければならないのか、意味不明なのです。ドイツからフランスの学会に出張し、フランス
で日本研究をされている研究者の方々も言っておられたのは、フランスでは、中年の女性キャスターが
ご自分の経験を生かしていろいろな意見を言うことが多いけれども、なぜ日本のテレビでは、見た目重
視の、若い女性ばかり起用するのかということでした。日本のメディアへの違和感が、自分だけのもの
ではないのだと確認できました。このことを考えると、明治8年の段階で、僕は可愛い子ちゃんでなく
ても良いんだよ、という襄の女性観は、かなり進んだ女性観であったと思います。そして、新島八重は、
襄と婚約してからキリスト者になりまして、受洗して、襄もキリスト者ですから、キリスト者同士の夫
婦ということになりました。
明治の結婚を考える上でキリスト教は大変重要
な要素になっております。キリスト者同士の夫婦
は、他にもありまして、ここにあります若松賤子
と巌本善治夫妻は、ともに協力して明治の女子教
育に貢献しました。厳本はまさに、
『女学雑誌』を
長年主宰した男性でありましたし、妻の若松賤子
もこの雑誌に執筆し、明治の女性啓蒙に大きく貢
献したカップルでした。興味深いことに、若松賤
子は、八重と同郷の会津若松の出身で横浜のプロ
テスタントの英語塾で学んで「小公子」を翻訳、
明治 22 年に横浜で厳本と結婚しております。この時代、啓蒙的な活動をしたキリスト者夫婦は他にも
見られました。明治時代はまだ儒教の影響があり、女性は男性よりも三歩下がって歩くという考え方が
強く、明治の女性雑誌の記事でも、西洋流の男女平等を主張しつつ、日本は儒教道徳の国であるから、
- 11 -
女性は男性を立てて内助の功に徹しなければならないとの考え方が同時に説かれていました。若松賤子
と巖本善治の夫婦が、協力して社会貢献したカップルであったのは、二人ともキリスト者であったため、
儒教道徳とは異なる、男女平等な関係を実践できたからです。
明治のキリスト者夫婦として注目すべき存在
としては、他に石坂美那子と北村透谷の二人がい
ます。彼等もキリスト教式で、明治 21 年に結婚
しました。北村は、残念ながら若くして自殺して
しまうのですが、明治の雑誌に盛んに新しい恋愛
観や女性観を書いて、当時の社会に影響を与える
言論活動をした人です。彼らの結婚には、実質的
な恋愛結婚の実現という歴史的な意義もありま
した。
明治時代は結婚も、当事者にとっては不自由な
時代で、当時は、
「脅迫結婚」という表現があり、
親や親戚が当事者の意思に構わず結婚相手を決
めるというやり方が知識階層の主流でした。「脅
迫」というのは強烈な言葉ですが、実際に、親が
脅迫まがいに相手を決めたので、仕方なく結婚し
たという話が、先ほどの『こわれ指環』の中でリ
アルに描かれています。そういう中で、自分の好
きな相手と自由に結婚するということは画期的
なことであり、それは「脅迫結婚」に対する「自
由結婚」という用語で当時のメディアで語られていました。この「自由結婚」は、今でいう恋愛結婚に
あたります。「脅迫結婚」はお見合いすらなく、結婚式場で初めて顔を合わせることが当たり前のよう
に行われていました。まあ、それはそれで良い悪いは必ずしも言えなくて、結婚生活が長続きしないわ
けではなく、むしろ、恋愛結婚が普及すると共に離婚の割合も上昇すると言われているので、どちらが
良い悪いは一概に言えない問題ではあるのです。ただ、少なくとも、当事者の女性の意思を尊重して結
婚するのは、明治時代には一般的な風習ではありませんでしたので、そうした社会背景に照らしても、
石坂美那子と北村透谷の結婚は、先駆的な「自由結婚」でした。そして新島襄も自由選択の結果、八重
と結婚したことになります。大河ドラマでどの程度、このあたりの社会背景や周辺のカップルたちの様
子が描かれるかどうか分かりません。彼等がドラマに登場しないとしても、こういう状況の中で八重と
襄が結婚したことを押さえておくと、味わい深くドラマがご覧いただけるのではないかと思います。た
だ、歴史の皮肉という気がするのは、透谷は、今申し上げたように若くして人生に悩んで自ら命を絶っ
てしまい、残された妻の美那子は、長い未亡人生活を送る中、米国に留学したり、英語塾を開いたりな
ど、社会、教育活動をしました。一方、襄と八重の場合は、襄が病没しましたので、やはり未亡人とし
ての八重が、看護活動等で社会貢献する結果となりました。また、若松賤子の場合、妻のほうが病没し
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てしまいますので、夫が残され、明治女学校でスキャンダルに見舞われるなど晩年はトラブルもありま
した。賤子が長生きしていれば、ステキな男女共同参画型の夫婦としてロールモデルになったと思うの
ですが、いずれも、明治時代の新しいタイプの夫婦が、配偶者の死によって長く添い遂げられなかった
のは残念です。
では、新島八重の時代に、国際的な感覚をもって
活躍した女性達として、ほかにどんな人物がいたの
かをみてみます。有名どころでは、米国に留学後、
女子英語塾を開いた津田梅子や、海外公演で人気を
博した川上貞奴がいます。貞奴は、もと芸者をして
いた女性で、川上音二郎と結婚して海外で芸を披露
して、特に、1900 年のパリ万博の公演で、国際的
に知られるようになりました。帰国後、帝国女優養
成所を開設して、女優の養成に貢献しました。彼女
達が、大河ドラマでどのように描かれるのか、その
あたりも見どころではないかと思います。
他に、海外経験により国際感覚を身に着けた明治
女性として、夫に同行して海外に在住した、鍋島胤
子、鍋島栄子らあげられます。胤子は夫を残して亡
くなりますが、洋装写真が残されており、鍋島直大
の二番目の妻栄子も、本格的なドレス姿が似合うフ
ァッション感覚を身につけた様子が写真から伝わ
ります。こうしたセレブ女性は、鹿鳴館の貴婦人と
して知られるようになりますが、新島八重は、鹿鳴
館の夫人や貞奴のように一般的に知られた存在で
はなかったにもかかわらず、そこに目を付けた
NHK は慧眼であると思います。
では、当時のメデイアの中で、八重がどういう形で出てくるのかデータベースで探してみました。お手
元の資料 4をご覧ください。これは明治 30 年1月 17 日の『読売新聞』ですが、「雑報」欄のいろいろ
な社会的記事の中に、新島八重の記事があります。これは八重が看護婦として貢献したことに触れた記事
にいじま や
へ
どう し しゃ ゝ ちょう
ふくざわ ゆ きち し
とも
わがきょういく
かい
だい とう
です。紹介文を見てみますと「新島八重子は旧の同志社々 長 にして福澤諭吉氏と共に我 教 育 界の二大頭
しょう
こ にいじまじょう し
み ぼう じん
だん し
しの
と 称 せられたる故新島 襄 氏の未亡人なり」と書かれ、さらに「快活にして剛健なるはほとほと男子を凌
にいじまじょう
ぐものあり」と、男勝りであるという評判が、当時のメデイアの中でも伺えます。面白いのは、
「夫新島 襄
し
だいめい
はく
や
へ
こ
ないじょ
ちからあず
すくな
氏をして大名を博せしめたるもの八重子が内助の 力 預かってまた 少 からずとかや」とありまして、新島
襄が成功したのも八重の内助の功が素晴らしかったからであると書かれています。男勝りであるが、内助
の功もあったという褒め方に興味深いものがあります。
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八重は、津田梅子や川上貞奴ほど、現代日本では著名人ではありませんでしたが、当時の新聞には取り
上げられるほどの存在でありました。男勝りという点に関しては、藤本ひとみさんが 2010 年に出版され
た『幕末銃姫伝』
(中央公論社)の中で、そうした八重の内面を取り上げておられます。資料 5にこの小
説の一部分を引用しております。「大蔵の話を聞くたびに八重は、あせりにかられる。たった三日違いで
生まれた大蔵が機会を与えられ、鍛えられて飛躍を遂げているというのに、自分は肌に合わない縫い物と
おしゃべりに埋もれている。そう考えると、いても立ってもいられない気持ちになるのだった」と、同年
輩の男性が社会で実力を発揮する機会を与えられるのに対し、女性である自分が、裁縫など、自分の意思
にそぐわない家庭内の仕事をやらされていることに、残念な思いを抱いています。また、少し先には、
「八
重は海を渡っていく海舟のことを考えた。彼に会ってみたかったが、女が男に会いたいなどということは
言い出せるものではなかった。海舟が横井小楠に会うのを楽しみにしているように、自分も海舟に会うの
を楽しみにしたい。海舟から、いろいろなことを聞いてみたかった。だが、それは今の世の中では望めな
いことなのだ。男に生まれたかったと八重は思う。男なら、寝方一つにしても自由だった。女は横向きに
寝なければならない。それが慎ましやかで気品のある寝方とされていた」と、男性に生まれたかったとい
う意識も描かれています。
「銃を習うことができたのは奇蹟的だった。高木家の母堂は、道で八重と会う
といまだに目を見開く。女と銃の取り合わせを、どうしても受け入れられないのだろう。思い通りになっ
たことを感謝しなければならない」――人生に対するいろいろな希望や夢があっても、女だからできない
ことが多い。だから男に生まれたかったと、
『幕末銃姫伝』では八重の内面を想像しています。このよう
な気持ちは、新島八重だけの思いではなく、樋口一葉や佐々木豊寿、福田英子といった、明治に生きた女
性達が共有していたものです。そういう思いや考え方が、同時代に解消されたかというと、必ずしもそう
ではありませんでした。
それは、明治の女性雑誌や女子教育が、社会的貢献をしたり、公的な場で女性が自己主張することを奨
励したのではなく、逆に、女性は家庭に入るべきとのメッセージを強く発信していた背景によります。
女性の役割は、母親として子供を育てることであると、女子教育の方針でも、女性雑誌のビジュアルで
も説かれています。女性雑誌の中の「家庭の団欒」の口絵で、日向ぼっこをしているお爺ちゃまのそばに
お孫さんがおり、母親らしき人とお祖母さんらしき人が部屋の中で縫い物をしている様子が伺えます。父
親の姿はわかりにくく、子供と父親の関わりが薄い日本の高度成長期の家族モデルは、明治の女性雑誌に
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もみられるのです。最近の週刊誌「サンデー毎日」
の記事に、おじいさまが子育てをする「イクジイ」
がトレンドであるとの記述がありましたが、ここ
でも、父親ではなく、祖父が子育てをフォローし
ている印象です。
また、明治の女性雑誌では、家族写真が好んで
掲載されました。西郷侯爵の家族写真では、侯爵
が真ん中に座り、その周りを子供と奥様が囲んで
います。家長である侯爵は洋装で、周りの家族は
着物を着ています。これはシンボリックな意味を
もち、明治以降の服飾において、洋装は進歩的な
文明を暗示していて、和装は江戸時代の古風な日
本的美徳を示唆しています。男性がリードし女性
が従うという、ある意味封建的な夫唱婦随の女性
像、家庭像が明治以降に雑誌メディアによって刷
り込まれます。
こうした動きに対抗しようとして、明治の終わ
りから大正にかけて、女性が自分達の手で女性解
放を実現しようと言論を展開したのが、この雑誌
「青鞜」です。女性の歴史を学ぶ上で重要な雑誌
とされていますが、長続きはしませんでした。一
部の女性達が先端的なことを主張しましたが、5
年位で終わり、より長く続いた雑誌は、さきほど
も紹介したようなタイプの、家庭向きの情報誌的
なものでした。父親不在の家庭で女性達が家庭を
支えるという構造が、戦後民主主義的社会の中で、
むしろ強化されていくということが重要です。
現代の日本社会とてらしあわせるために、資料 6の表をごらんください。男は仕事、女は家庭という
考え方がありますが、あなたはこの考え方に賛成しますか、それとも反対ですかという、女性と男性の役
割についての意識調査です。昭和 62 年の時点では、賛成する男性が多くみられます。平成2年は若干少
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なくなるのですが、やはり日本の社会では、こうした男女の役割に賛成の傾向が続いています。
こうした男女の役割に関する国際比較表(資料 7)をみてみます。内閣府の男女共同参画室が海外に
向けて、日本の男女共同参画の現状を報告した英語の報告書です。夫は家計を支え、妻は家庭にいるとい
う考え方をどう思うかについて、意識調査の国際比較の結果、日本、韓国、米国、スウェーデン、ドイツ
で比較すると、日本社会は他の国に比べて、男は外で働き、女は家庭を守るという考え方が非常に強いこ
とを示しています。韓国と日本を比較すると、韓国では、上記の考え方は日本ほど強くありません。すな
わち、韓国では、女も外で働くという考え方が、日本よりも強いということです。近年、韓国ドラマが日
本女性に人気があります。日本女性は、韓国ドラマを見ていると、韓国女性が自分の意見をよく主張する
ので、すっきりするのではないかと思います。その意味で、来年の大河ドラマで描かれる八重の生き方に
期待するのですが、今の『平清盛』がなぜ人気がないかというと、あまりに登場する女性たちが辛気くさ
くて、見ていると暗くなるので、その辺りが女性の視聴者を獲得しにくい理由なのかもしれません。時代
背景からして仕方ないともいえますが。
次に資料 8ですが、これは、結婚生活で妻と夫がどのように時間を使っているかに関する調査です。
妻は、各国共、家事、育児に携わっていますが、夫の比較では、日本の夫は家事、育児をやる時間が極
端に少ないと言えます。
次に、日本女性の労働力率の変化(資料 9)ですが、1960 年、75 年、85 年、95 年、2005 年と比較
してみますと、1960 年代の女性は結婚、出産時期にも働いていたので、M字カーブが見られません。実
は、産業化する前は、農業とか一次産業で女性は結構働いておられたので、M字カーブは見られません
でした。1960 年代は、地域社会で女性達も畑仕事をするなど働いていたので、男女の性別役割が産業化
以降ほどは明確化していなかったのです。しかし、だんだん社会が都市化、産業化されると、女性の領
域が家庭に限定され、M字カーブが生まれます。明治以降に男女平等が「退化」したという理由はこの
ことです。
次に、
「女性の社会進出に関する指数」の国際比較(Human Development Index(HDI)― 資料 10)
があります。この中に Gender Empowerment Measure(GEM)及び Gender Gap Index(GGI)があ
りまして、上位に行くほど女性の社会的活躍がみられるといえますが、これを見ると、日本は、GEM が
42 位で、GGI が 79 位と、両指標とも高くありません。明治以降、女性の地位が退化した部分と進化し
た部分があると述べましたが、現状では国際比較上、日本女性の社会的地位は高くないといえます。
こうした現状のなか、来年の大河ドラマで女性主人公がどのように描かれるか、大いに注目されます。
過去の大河ドラマの女性主人公の数をチェックしてみますと、女性単独主人公は8作ありました。幕末か
ら明治期に女性主人公が多い傾向がありまずが、女性主人公が集中した時期が、1986 年の男女雇用機会
均等法の施行の時期にあたるのが興味深いと思います。
そこで、なぜ、今、新島八重を主人公にしたドラマが作られるのか。八重は現代に何を問いかけるのか
を考えます。女性主人公は少数派ですから、その意味で女性を取り上げることには意義があります。
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また、八重を初めとする女性達が、幕末から明
治期に、男性との平等を目指して男装したという
ことを最初に紹介しましたが、女性が男装によっ
て社会貢献をめざすという物語的なモチーフは、
今でも引き続き存在しています。
古くは 1972 年から 73 年にヒットした池田理代
子さんの『ベルサイユのばら』という漫画の中で
主人公が男装で描かれています。70 年代というと
古く感じられるかもしれませんが、男女雇用機会
均等法以前、女性が社会的に活躍するためには男
性として生きる必要があったという背景と密接に
結びついています。2007 年には『派遣のオスカル』
というテレビドラマが作られ、男中心の会社社会
の中で自己主張しようとする派遣社員の女性が、
男装のオスカルを憧れの対象とする様子が描かれ
ています。
八重と実質的に同じ思いを抱いている日本女性
は、メディアの中でも、現実の中でも少なからず
存在するのです。一方で、現代のマスメディアの中では、明治の女性雑誌のような良妻賢母のイメージが
よく見られますが、新島八重自身は、子供がいませんでした。明治時代以降の良妻賢母像は出産を前提と
していますが、
八重は文字通りの母親ではなくとも、
目が不自由な兄を助けたり、看護婦として働いたり、
愛情にあふれた女性でした。このあたりが、ドラマでどのように描かれていくか、興味深いものです。川
上貞奴も子どもがいませんでしたが、日本社会では、人徳や愛情がなくても、物理的に出産し、家庭にと
どまっているだけで良妻賢母と思われがちです。しかし、八重は、京都でお茶のお弟子さんを持って、一
定の社会貢献をしておりますし、人徳のある人間であるかどうかは、出産したか否か、仕事をしているか
いないかには無関係、と強調しておきたく思います。
「良妻賢母」は、ただ単に家庭にいるという意
味ではなく、多様な社会貢献も含むと再定義する
必要があります。いろいろな女性の生き方を幅広
く認めることによって、今後の日本社会自体が持
続可能な社会になり得ると思いますので、日本女
性の社会的地位の国際比較を鑑みても、新しい可
能性を模索することが必須と思います。来年、新
島八重がどのようにドラマで描かれるかについ
て、皆様と共に見守ってゆきたいと思います。ご
清聴ありがとうございました。
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3.質疑応答
Q1.とても素晴らしい講演をしていただき、ありがとうございました。先生はいろいろな委員会の委員
をしておられるとお聞きしましたが、日本はなぜ男女平等がうまくいかないのか。その理由の根幹は何
か。これが問題なのだというのがありましたら教えてください。
A1.大変核心的なご質問をいただきました。私も常々、考えておりますが、私なりに思いますのは、ま
ず、日本の労働状況の物理的な過酷さがあげられます。遠距離通勤、長時間労働による、ワーク・ライ
フ・バランスの歪みが極端であるため、女性が結婚、出産して仕事を続けることが難しい条件が多いの
です。女性自身が勤務の継続を望んでも、遠距離通勤や残業が多い状況ですと、妊婦さんが通勤するの
は難しくなってしまいます。15 年前に米国に住んでおりましたときには、小規模な町であったこともあ
りますが、徒歩や車で少し行けば職場があるという状況で、こうした、職住近接といった、働きやすい
労働条件であれば、女性も男性と同じように働けます。日本企業の体質及び心理的側面がそのようにな
っていないということが大きいのではないかと思います。
日本のメデイアでは、男性の長時間労働を前提とし、それを家庭で妻が癒すというタイプのメッセージ
が連綿と流され続けています。たとえば、仕事に熱中する夫を妻が陰で支え、成功に導くといったパタ
ーンで、そうした男女関係がとても麗しい夫婦関係として描かれます。こうしたパターンを全く否定す
るものではありませんが、あまりにもそういう型にはまったメッセージが多すぎると思います。こうい
う雰囲気に囲まれて育つと、私自身も含めて、そういう妻に憧れ、自分も仕事のできる夫を持って、あ
あいう妻になりたいわ、という価値観を内在化してしまう危険性があります。メディアがそのような画
一的なメッセージを発信すると、それに影響された人達が増え、悪循環ができあがり、その循環を断ち
切るのが難しくなります。洗剤や料理関係のCMも、お母さんがやさしく洗濯したりご飯を作ったりし
てくれるというパターンが多いのですが、最近では男性が洗濯や料理をする場面もありますので、男女
平等を推進するためには、そうした、メディアのなかの男性像も変えていかねばならないと思います。
Q2.日本の政治はけしからんことが多く、企業も不祥事が多発してどうにもならない状況になってい
ます。これは政治家や企業経営者が男性であるからで、女性にもっとこれらの要職についてもらっては
どうかと思いますが、先生はいかがお考えですか。
A2.1カ月位前に神奈川県の松沢元知事の講演会で、まさにこのことを質問いたしましたところ、松
沢氏によれば、男性政治家は仕事をするにあたって、利益誘導に弱い傾向があるが、女性は政治的な信
念にもとづいて行動する傾向があるので、女性がもっと政界に進出することが必要ではないかとおっし
ゃっていました。私もうれしく聞きましたが、これに関連して思うことは、かつて料亭政治というもの
があり、それが女性の政治参画を阻む大きな障害になっていたのではということです。なぜ、日本の政
治家達は、料亭でないと突っ込んだ話ができないのか、非常に不思議な習慣だと思っています。明治時
代でも、伊藤博文が貞奴を可愛がっていた、また、他の政治家達も新橋辺りの花柳界で交際していたと
いう事実があり、戦後も、そのようなことは続いておりました。しかし、料亭政治がなくなり、白日の
もとに政策を議論する習慣がもっと定着すれば、女性も参画しやすくなり、利益誘導ではなく、信念を
持った政治、政策が実現できる可能性も出てくると思います。
以上
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4.資
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料
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資料 1.「娼妓解放令」
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資料 2.「女学雑誌」第1号
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資料 3.「明治民法における女性の地位」
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資料 4.明治 30 年1月 17 日 讀賣新聞 「雑報」の新島八重に関する記事
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資料 5.「幕末銃姫伝」藤本ひとみ著 本文一部引用
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資料 6.「女性に関する意識調査」
(総理府 平成2年)
資料 7.「国際比較 “男性は仕事、女性は家事”に関する調査」
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資料 8.「国際比較 “夫婦の時間使用配分”について」
資料 9.「日本女性の労働力の変化」
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資料 10.「国際比較 人間開発指標(HDI)」
以 上
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2012 年度総会記念講演会記録
明治時代に退化した男女「対等」
-新島八重の生涯に見る近代日本-
講師
同志社大学大学院教授
佐 伯 順 子 氏
2012 年5月 26 日
主催:浦安市国際交流協会(UIFA)
発
行:2012 年 10 月 20 日
編集発行:浦安市国際交流協会総務部会
編集担当:曽根 弘信
住
所:〒279-0003 浦安市海楽1-29-12 TM ビル3階
Tel&fax.:047-381-5931
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