横浜山手病院について 29. 閑話編:布施家と星家 (3)

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雑
聖マリアンナ医科大学雑誌
報
Vol. 44, pp. 95–98, 2016
横浜山手病院について 29. 閑話編:布施家と星家 (3)
うち だ
かずひで
内田 和秀
(受付:平成 28 年 6 月 7 日)
索引用語
星良,島崎藤村,明治女学校,佐藤昌介,有職読み
夫人の長逝,間もなく例の中傷事件等,凡て「黙移」
はじめに
に書きましたからこゝには略しますが,いかに圖ぶ
前稿では良が厭世的になった経緯や,淡と豊世の
とい私もこの中傷事件には自殺しようとまで思ひ惱
関係について書簡を交えて紹介した。本稿では書簡
みました。」と記すと共に,「その日私は,死なうと
掲載書籍に関して再び述べた後,島崎藤村について
まで思ひつめて,さまよふ如く墓地の間を歩いてゐ
言及する。
ると,」と述べている。更に「いま思ふと,當時は,
私としての來るべきものが,遂に一時に押し寄せた
書簡掲載書籍について (2)
形で,どれが先きとも後とも解きほぐして順序を立
良の抑うつ状態に関連して当該書籍は,良の著書
てることが出來ないほどに,いろいろのことが錯綜
において精神状況に一切触れていないと指摘してい
し,」と当時の混乱振りが書かれている。
るが1),これは事実に反する。良の著書からフェリス
明治学院の藤村
和英女学校時代の抑うつ状態を示す部分を引用し,
筆者の論拠とする2)。
「三度目の夏休みを迎へた時,
倉が戀しくなって,學課など手につかぬやうになり
1886 年 9 月,島崎春樹 / 藤村 (1872 年 3 月 25 日–
1943 年 8 月 22 日)3)4)は,共立学校 (神田淡路町 2 丁
目 3 番地),現在の開成中学校・高等学校 (荒川区日
暮里 4-2-4) に入学し,木村熊二 (本シリーズ 12 参
照) の指導を受けた5)6)。1887 年 9 月藤村は,東京府
下荏原郡白金村玉縄台 (現港区白金台 1 丁目) で開校
した,明治学院普通学部本科 (現明治学院高等学校)
に入学し,1888 年 6 月 17 日に熊二から受洗した。
明治学院の同級生には馬場孤蝶 (本シリーズ 22) や,
ました。しかしこれは例のあくがれごゝろではなく,
随筆家,英文学者で慶應義塾大学教授となる戸川明
憂欝に堪へがたく,うち拂ひやうのない不快に困じ
三 / 秋骨 (1871 年 2 月 7 日–1939 年 7 月 9 日) がい
て,かの山荘へ逃げたくなる。いよいよ厭世が本格
た3–5)。秋骨は 1895 年に帝国大学文科大学英文科選
的になったのでした。
」と記述されている。また,明
科に入学し,ケーベル博士 (本シリーズ 25) に傾倒
治女学校時代の抑うつ状態を示す部分では ,「さな
した3)。1891 年 6 月 24 日,明治学院を卒業した藤村
きだに當時は何かと煩悶の絶頂にあったころで,獨
は,雑貨店マカラズヤ (横浜市伊勢佐木町) の店番を
歩と信子の事件は起り,校舎は類焼する,若松賤子
するが,同年 9 月頃に熊二の紹介で,巌本善治 (本
私の心は去年と著しく異るものがあり,とかく明快
を缺き欝々として居りました。これにはお冬さんの
死も原因の一つにちがひないけれど,それだけでは
ない,嘗て知らぬ矛盾に悩み,煩悶する。けれども
その煩悶の正體が何であるかは自分にも摑めないの
でありました。
」引用文中の三度目の夏休みは,1894
年 8 月を示す。これに続き,「秋になると,また鎌
2)
シリーズ 25) が主宰する「女学雑誌」の編集者になっ
た (善治は 1883 年 4 月に熊二より受洗)5)。1892 年 2
聖マリアンナ医科大学 麻酔学教室
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内田和秀
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月,同誌に発表された北村門太郎 / 透谷 (とうこく,
1868 年 12 月 29 日 –1894 年 5 月 16 日 )
道大学大学文書館に問合せたところ,大学は昌介の
の評論
履歴資料 3 点を所蔵しており,その 1 つは昌介自身
「厭世詩家と女性」に感銘を受けた藤村は,同年 3
が 1888 年 4 月頃作成したもので,生年月日は 21 日
月か 4 月頃,善治の自宅 (麹町区三番町) の応接間に
と一致する。いま 1 つは没年月日の記載から 1939
おいて,透谷に紹介されたのが初対面であった5)。そ
年 6 月 5 日以降に作成された人事記録で,生年月日
3)4)
れとは別に,同年 5 月に善治の紹介で透谷 (京橋区
は 21 日に相当する和暦に二重消去線が引かれ,11
弥左衛門町 7) を訪ねて感化されたとも言われてい
日相当に訂正されている。3 点目は上記人事記録を
る 。対面した時期および場所が異なり,整合性が認
清書したものと考えられている。大学文書館は訂正
められない。同時期,藤村は本所区北二葉町の栗本
の根拠が明らかでないことから,昌介本人が記載し
5)
。
た履歴資料を採用したと説明している。文部省 (1923
余談であるが,藤村が尊敬した人には透谷の他に,
年 12 月 28 日付 ) の公文書 (国立公文書館デジタル
鋤雲 (本シリーズ 7) に漢詩の指導を受けていた
5)7)
長谷川辰之助 / 二葉亭四迷 (1864 年 4 月 4 日–1909
アーカイブス「佐藤昌介叙勲ニ付上奏ノ件」) に昌介
年 5 月 10 日)4) や,国木田哲夫 / 独歩 (1871 年 8 月
の履歴書が含まれているが,生年月日は 11 日に一
30 日–1908 年 6 月 23 日)3)4) がいる。
致する。以上より筆者は大正,昭和の公文書 2 点を
重視し,11 日説を支持するものである。
明治女学校の藤村
藩校時代に昌介と机を並べた友人には,南部藩士
原直治の次男で,第 19 代内閣総理大臣 (在職期間:
藤村関連事項を含む明治女学校の沿革を表 1 に示
す5)8)。1892 年 9 月,編集者の仕事を秋骨に譲り,藤
1918 年 9 月 29 日–1921 年 11 月 4 日,首相官邸 HP
村は善治に紹介された星野天地 (本シリーズ 28) の
歴代内閣参照) に就任した原敬 (はらたかし,1856
斡旋で,明治女学校の英語教師に就任した5)。ここで
年 3 月 15 日–1921 年 11 月 4 日) がいた4)。
藤村は佐藤スケ / 輔子 (1871 年 8 月 1 日–1895 年 8
一方藤村は,輔子に対する恋愛上の苦悩と,教師
月 13 日) に巡り合い,恋に落ちた。しかし輔子に
と生徒という立場に関する自責の念に耐えかね,退
は早くから婚約者がいた。後述する昌介の従兄弟に
職して関西への旅に出た5)。藤村の衷心は天知により
あたる,鹿討豊太郎である5)9)。
輔子に伝えられ,彼女は旅から戻った藤村と面会す
9)
るが,藤村の思いは遂げられることはなかった。
彼女の異母兄である佐藤昌介 (1856 年 12 月 11
昌介の生年月日には,1856 年 12 月 21 日説4)10)11)と
1895 年 5 月,輔子は豊太郎と結婚した5)。間もなく
彼女は,重い悪阻 (おそ / つわり) から腎臓と心臓が
弱り,1895 年 8 月 13 日午前 6 時半に死去したと言
同年同月 11 日説 3)9)12-16)がある。21 日説をとる北海
われている9)。
日-1939 年 6 月 5 日) は,南部藩士佐藤昌蔵の長男
3)
として花巻に生まれた。彼の年譜を表 2 に示す 。
10)
表 1 明治女学校の沿革
時 期
1885年9月30日
1886年7月
1887年3月
1887年9月
1890年8月30日
1892年1月
1892年7月19日
1892年9月
1893年1月
1894年4月21日
1894年4月
1895年12月
1896年2月5日
1897年4月13日
1904年4月
1904年7月
1909年春
出 来 事
明治女学校(校長:木村熊二、麹町区飯田町1丁目7番
地)が認可
寄宿舎(飯田町1丁目6番地)を新設
巌本善治が教頭に就任
麹町区飯田町3丁目32番地に新校舎・寄宿舎が落成
麹町区下六番町6番地への移転願を提出
巌本善治が校長に就任
佐藤すけが普通科を卒業
島崎藤村が教師に就任
島崎藤村が辞任
佐藤すけが高等科を卒業
島崎藤村が再任
島崎藤村が辞職
校舎が類焼
東京府下北豊島郡巣鴨村字庚申塚に移転
巌本善治が校長を辞任
呉くみが校長に就任
廃校
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布施家と星家 (3)
表2
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佐藤昌介の年譜
時 期
出 来 事
南部藩藩校 作人館修文所に入所
1870年
大学南校に入学
1871年5月
修文館(横浜)で英語の学習
1872年1月
1874年3月
東京外国語学校に入学
1874年12月
同校は東京英語学校に改称
1876年7月
同校を終了
1876年9月
開拓使札幌農学校に入学
1880年7月
同校を卒業、開拓使御用掛に就任
1882年7月
渡米
1883年10月
Johns Hopkins University (MD)に入学
1886年6月
同大学を卒業
1886年8月
帰国
1886年12月
札幌農学校教授に就任
1894年4月
札幌農学校校長に就任
1899年3月
農学博士号を取得
1907年9月
東北帝国大学農科大学学長に就任
1918年4月
北海道帝国大学総長に就任
生没年月日は本文に掲載したため、ここでは省略した。
1988: 361–362, 451, 579–580, 625, 941, 1137.
4) 講談社出版研究所編.講談社日本人名大辞典,
初版,講談社,東京,2001: 613, 678, 869, 928,
1287, 1536, 1652.
5) 伊東一夫編.島崎藤村事典,新訂版,明治書院,
東京,1982: 106–107, 110–112, 161–162, 444–
446, 623–637.
6) 藤田美実.「明治女学校」に関する覚え書.立正
大学文学部論叢 1981; (71): 27–51.
7) 松島栄一編.日本史の人物像 11,初版,筑摩書
房,東京,1968: 268–271.
8) 青山なを.明治女学校の研究,重版,慶應通信,
東京,1982: 787, 823–839.
9) 及川和男.藤村永遠の恋人 佐藤輔子,初版,本
の森,仙台,1999: 11–270.
10) 逸見勝亮.札幌農学校の再編・昇格と佐藤昌介.
北海道大学大学文書館年報 2007; 2: 29–48.
11) 北海道大学大学文書館編.佐藤昌介とその時代
おわりに
有職 (ゆうそく / ゆうしょく) 読み 17–19)あるいは,
故実 (こじつ) 読み19–23)と言われる,漢字の伝統的で
特殊な読み方がある。個別的な通則のない伝承であ
り,年中行事の呼び名,地名,人名,書名などで用
いられている20)。本稿で既述した原敬は,有職読み
において「はらけい」である。実際,岩手県盛岡市
本宮における原敬記念館 (Hara-Kei Memorial Mu‐
seum) では,有職読みが用いられている。また,木
戸孝允 (本シリーズ 16) は本来「きどたかよし」と
読むが,筆者は密かに「きどこういん」と呼んでい
る。
本報では書簡掲載書籍1)の誤りを指摘すると共に,
藤村と関係者について簡単に述べた。続報でも引き
続き藤村について言及する。
謝
辞
御助言を頂きました盛岡市先人記念館主任学芸員
増補・復刊,初版,北海道大学出版会,札幌,
中浜聖美様および,北海道大学大学文書館 井上高
2011: 238, 後ろから 1.
聡様に深謝申し上げます。
文
12) 中島九郎.佐藤昌介,初版,川崎書店新社,札
幌,1956: 17.
13) 蝦名賢造.北海道大学の父佐藤昌介伝,初版,
西田書店,東京,2007: 5–7, 20, 207.
14) 秦郁彦編.日本近現代人物履歴事典,第 2 版,
東京大学出版会,東京,2013: 274.
15) 国史大辞典編集委員会編.国史大辞典第 6 巻,
初版,吉川弘文館,東京,1993: 410–411.
16) 臼井勝美編.日本近現代人名辞典,初版,吉川
献
1) 布施協三郎.若き洋画家布施淡,初版,布施協
三郎,柏,2012: 7–425.
2) 相馬黒光.広瀬川の畔,初版,日本図書セン
ター,東京,1999: 3–312.
3) 日本キリスト教歴史大事典編集委員会編.日本
キリスト教歴史大事典,初版,教文館,東京,
39
内田和秀
98
弘文館,東京,2001: 476.
初版,吉川弘文館,東京,1991: 768–769.
17) 荻生待也.日本人名関連用語大辞典,初版,遊
子館,東京,2008: 155, 210.
18) 廣池千九郎.ひろひかき.史学普及雑誌 1893;
(9): 13–14.
19) 松村明編.大辞林,第 3 版,三省堂,東京,
2006: 908, 2584.
20) 国史大辞典編集委員会編.国史大辞典第 5 巻,
21) 山田俊雄.国文学解釈と鑑賞 1960; 25(10): 68–
75, 37.
22) 新村出編.広辞苑,第 6 版,岩波書店,東京,
2008: 1011.
23) 日本大辞典刊行会編.日本国語大辞典第 8 巻,
初版,小学館,東京,1976: 152.
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