消費欲望とマーケティング - 水越康介 私的市場戦略研究室

消費欲望とマーケティング
―消費者の主体性の検討―
指導教員名:水越康介
学修番号:07159178
氏名:上田貴大
枚数:21 枚
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消費欲望とマーケティング―消費者の主体性の検討―
1. はじめに
2. 消費者行動研究の変遷
3. 心理構造からみる意思決定への関与の限界
3.1 無意識への関心の高まりとザルトマンの ZMET 調査
3.1.2
ZMET 調査とメタファー
3.2 ユングとフロイトの認識の相違
3.3 ユングの元型概念
3.4 ソシュールの言語概念から考察する集合的無意識
3.4.1 ランガージュとラング
3.4.2 集合的無意識との関連の検討
3.5 消費者の類似性とマーケティング
4.
欲求の充足に隠された構造
4.1 ボードリヤールの消費概念からみた消費者の欲望
4.2 象徴交換による社会システムの破壊の可能性
4.3 個人の権利の主張とインターネットの普及が消費に及ぼす影響について
4.3.1 モンスタークレイマーの出現
5.
欲望の限界と可能性
5.1 欲望の限界―つくりだされる欲望―
5.1.1 広告のメッセージと消費欲望
5.1.2 マーケティングに超越する欲望
5.2 欲望が生み出す可能性
5.2.1 消費欲望と生産者の双方向的関係―欲望が創造するもの―
6.
結論
7.
【参考文献】
2
1. はじめに
本稿の目的は、個人の権利の礼賛やインターネットの普及などによって消費の「主体」
としての地位を確立したように見える消費者の検討を行うことである。現代の消費者は自
身の欲望の充足、効用の最大化という目的のために多くの手段を利用しながら消費行動を
行う。企業もニーズ(特に顕在的な)という消費者の「欲望」に沿うような商品の開発を
第一としているように感じる。それ自体は間違ったことではないし、マーケティングの概
念からすれば非常に好ましい状態であると言えるかもしれない。
ただ、こうして考えてみると、消費者の欲望とは果たして絶対的なものなのかという疑
問がわいてはこないだろうか。たとえば、私達の意思決定や行動の源泉は各個人という限
定的かつ特別であり、主体的な立場にのみ依拠するものであろうか。先進国ではモノが供
給過多になり、似たような商品が数多く溢れかえっている。こうした現代社会の中で“個
人の価値観や知識”といったものに起因する意思決定によって多くの情報の取捨選択を行
い、日常の消費行動を満足に行っていると自負する消費者も少なくないように思える。CM
やイベントなど企業側の PR によって購買意識が喚起されることもあるだろうが、ネット上
のクチコミサイトの利用や商品に対する豊富な知識によって以前と比べると“合理的”に
なった消費者はブランドや機能をよく見定め、企業に対して力を持つようになった。いま
や消費行動という舞台で主役としてふるまっているように見える。
しかし、いくつか疑問が出てくるのだ。たとえば自己に対してはどうか。多くの人々は
自分の個性を疑わず、自分の行動は他の誰でもない「自己」それのみによって決定されて
いると考えているかもしれない。果たしてそうだろうか。彼らの考える「自己」とは、認
識可能である意識下の自分の考えや行動に基づく「自我」ではないだろうか。また、消費
行動には彼らには見えていない外的な圧力や抗うことのできない何らかの要素が含まれて
はいないだろうか。
そこで、まずは消費者行動研究の歴史を振り返り、消費者の欲望やそれに基づく意思決
定とはどういったものとされてきたのかを分析したい。人間はどのように考え、消費行動
を行っているのか。現在に至るまで、消費者行動に関する数多くのモデルが提唱され、最
近では脳科学分野の発展によってニューロマーケティングといった手法も発展している。
しかし、入力された情報がどのようなプロセスを経て消費という行動に結びつくのかとい
ったモデルは発展しても、人の欲望の源泉や直接的な行動、態度に表れない深層心理など
に関するモデルの確立はいまだ十分とは言えない。研究対象も消費者個々人のケースがほ
とんどであり、個人レベルの製品選択や意思決定、情報プロセスの解明といった研究ばか
りが蓄積されてきた。
だからこそ、個人の集まった先にある集団、文化、社会構造といった切り口で消費者を
捉え直すことに大きな意味があるのではないか。ユングやボードリヤールの議論は、先述
した疑問に従来のマーケティング研究とは違ったアプローチを提供してくれる。これらの
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議論を踏まえたうえで、栗木や石原の研究によって消費欲望の限界と可能性を論じ、消費
者主権というイデオロギーの裏に隠された、ありのままの消費者と生産者の関係を明らか
にしていきたい。
2. 消費者行動研究の変遷
この章では、現在に至るまでの消費者行動の歴史を振り返りたい。既存の研究の流れが
どのように生まれたか、研究の発展によって何が明らかになってきたのかを分析すること
で、現在の消費者研究の課題が明確になると考えるからである。
消費者はなぜ商品を買うか。どのような要因によって、消費者に選ばれるブランドとそ
うではないブランドに分かれるのか。青木(2010)は、こうした消費者行動に対する研究
の萌芽をスコット(Scott)による広告心理学の研究に見ることができ、その後はスターチ
(Starch)やワトソン(Watson)による広告心理研究や、コープランド(Copeland)によ
る購買動機研究などに辿り着くことを紹介している。今回は多くの研究者によって組織的
な研究がなされるようになった 1950 年代以降の消費者行動研究の発展を見ていく。
・1950 年代
第二次大戦後いち早く大量消費社会に突入した米国で、消費者行動を研究しようとする
試みが盛んになった。この時代の研究の中心は、モチベーション・リサーチ(動機づけ調
査)と呼ばれる研究であり、「人はなぜモノを買うのか?」「どうすれば購買意欲を刺激で
きるか?」といった問いに対して、精神分析学の概念や手法を用いて接近するものであっ
た。また、社会学や社会心理学、経済心理学などに基づく研究も積極的に援用された。(青
木、2010、p.32)しかしモチベーション・リサーチ自体は、消費者の無意識下の深層心理
までを有効に分析する手法がなく結果の一般化も困難だったため、表舞台からは姿を消す
ことになった。
・1960 年代
異なる学問的背景を持った研究者が数多く参入し、多方面での研究が急速に進展した。
50 年代からの研究の流れとしてブランド・ロイヤルティ研究が盛んになり、60 年代後半に
は消費者行動の包括的概念モデルとして、ハワード=シェス・モデルなどが提案された。
これらの研究の多くは、消費者の行動を刺激とそれに対する反応によって捉えようとした
点で、刺激‐反応(S-R)アプローチと呼ばれる研究の流れを形成していった。
(青木、2010、
pp.32-33)
・1970 年代
それまでの「刺激‐反応」アプローチから「消費者行動情報処理」アプローチへという
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パラダイム転換が起こった。認知心理学などの影響を受けた消費者情報処理アプローチは、
消費者が情報を探索・取得・処理していく内的プロセスに注目した研究だった。中でもベ
ットマン(Bettman)による「消費者選択に関する情報処理理論」はその後の消費者行動
研究に大きな影響を与えることになった。
・1980 年代
ベットマン以降、「消費者情報処理パラダイム」が形成されていき、その精緻化を試みる研
究が多くなっていった。その例として、消費者が行う情報処理の水準と様式は「動機づけ」
の強さと「能力」の程度によって規定されるとする「二重過程モデル」や、説得的コミュ
ニケーションによる態度変化を中心的ルートと周辺的ルートに区分した「精緻化見込みモ
デル」が挙げられる。一方で、これら情報処理理論への反論として、感情などの非合理的
側面を強調する非認知的モデルや消費の経験的側面を強調する消費経験論やポストモダン
アプローチといった流れがおこった。
・1990 年代以降
消費者行動研究は更に多様なものとなり、ブランド知識構造や消費経験論といった広範
囲の領域で研究が進んだ。最近では、行動経済学の影響から意思決定における感情の役割
への関心が高まり、脳科学研究の進展によって fMRI(機能的核磁気共鳴断層画像法)や
PET(陽電子放射断層撮影法)などの非侵襲的方法によって、消費者の情報処理と脳の活
動部位との関係が解明されつつある。(青木、2010、p.35)
以上のように発展してきた消費者行動研究であるが、ここで注目したいのは 1950 年代の
モチベーション・リサーチに関する研究である。上記のようにモチベーション・リサーチ
自体は衰退していったが、今日ではザルトマンによる ZMET(ザルトマン・メタファー表
出法)など、消費者の深層心理理解への重要度は高まっている。機能面だけでは満足でき
なくなった現代消費社会の消費者の欲望を満たすためには、情緒性など深層心理に着目し
たマーケティングによって他社との差異化と消費者の潜在的なニーズへの同質化を図るこ
とが必要になってくると言えるのではないか。
3. 心理構造からみる意思決定への関与の限界
どの文化圏にも共通して存在し、変化しにくい普遍の思考や感情がある。正義、刑罰、
子供の保護、病弱者への看護などである。もちろん文化や個人の価値観によって、その概
念や心情の形態は異なる。しかし、何が正義であるか、という正義という概念に入る“変
数”に違いはあれども、正義という概念がどの文化圏にも共通して存在し、それぞれに似
通った面があるという事実には納得できるのではないだろうか。また、メタファーや物語
における登場人物などに類似点が見られることも少なくない。たとえば、西遊記の孫悟空、
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民話に登場する妖精パックに見られる“トリックスター”といった概念は有名であろう。
それらの思考や感情はどういった構造に由来し、消費者行動にどう影響しているのだろう。
この問いに関して重大な秘密を握っているであろうものが「無意識」ではないだろうか。
現在では一般的な「無意識」という概念だが、フロイトやユングらによる働きによって我々
がはっきりとその存在や働きを認識できるようになったのは 20 世紀に入ってからと、歴史
的に見ればつい最近のことである。本章ではユングの深層心理の理解を中心に、
「意識下の
消費者自身の意思決定への関与の限界」について論じたい。
3.1 無意識への関心の高まりとザルトマンの ZMET 調査
60 年代や 70 年代のように先鋭的な消費者行動モデルが数多く出現しなくなった 90 年代
以降、消費行動に対しての「無意識」の重要性への理解、関心は年々深まってきているの
ではないだろうか。代表的な研究に、ザルトマンの ZMET 調査を挙げることができる。彼
が著書の中で紹介している ZMET 調査の実践例を紹介したい。
この調査はヒスパニック系アメリカ人二世を対象とし、その目的は現代のアメリカ社会
において彼ら自身がヒスパニック系住民であることについてどのような思いや感情を持っ
ているか調査することである。「参加者たちは、インタビューの約1週間前に、このトピッ
クについて日頃思っていることや感じていることを表している写真や絵を集めてくるよう
依頼された。参加者にはそれぞれ1対1の個別インタビューが行われ、彼らの思考や感情
が、日々の行動にどのような影響を与えているのかが探られた。また、彼ら二世の思考や
感情が、親の世代である一世や子の世代である三世と比べて、どのように異なるかについ
ても調べられた。参加者が持参した写真や絵は、様々な思考や感情、行動を表現したメタ
ファーであると考えられている」(Zaltman、2003、邦訳 p.130)この調査では、対象者で
あるヒスパニック系アメリカ人が選んだ“お面をかざしている男女のカップル”の写真に
ついての質問を通して調査者は参加者の深層心理を探っていく。それでは実際のインタビ
ュー例を見ていこう。
3.1.2
ZMET 調査とメタファー
「【質問例1】調査者―では、この写真について説明していただけますか。まず、この写真
に何が写っていますか。参加者―2人の男女、カップルが座っています。
(中略)2人とも、
顔の前に何かお皿のような、お面のようなものをかざしています。お面は表情を表してい
るようではありますが、本当の表情ではありません。自分がいったい何者であるか正体を
隠しているような感じです。」(Zaltman、2003、邦訳 pp.134-135)調査はこの後、お面に
ついての参加者の答えを起点として参加者の深層心理に迫っていく。
「不安に感じると、そ
の結果どうなるのか」、「心を開いて、とはどういう意味か」など調査者は自分の解釈や仮
説をおしつけないよう注意しながらインタビューを進めていく。
「お面をかぶるということ
は、スペイン語だけを話すということか」など調査者の解釈が含まれた質問は効果的では
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ない。調査者の解釈が反映された質問によって参加者の答えに影響が及ぶことがあるから
である。あくまで「効果的な質問を介して、参加者の思考や感情の扉を参加者自らが開け
るように促し、様々な窓から中を覗き込んで、そこに何が見えるかを語ってもらうように
努めるのである。」
(Zaltman、2003、邦訳 p.132)なぜザルトマンはこのような調査方法を
とるのであろうか。その理由は、ザルトマンがメタファーを非常に重要視し、上記のよう
な ZMET 調査ではメタファーを利用して参加者の深層心理を表出できるためである。彼は、
従来のマーケティング調査法では「なぜ商品 B よりも商品 A を好むのか」や「問題解決の
ために製品を利用する消費者は、その問題自体についてどう感じているのか」などという
問いの答えを出すためには力不足であると述べている。その理由として、マーケターが調
査法の長所と短所を十分に把握しておらず、選択した調査法に向いていない事柄に対して
も調査結果を拡大解釈しがちだという点があげられる。
彼はメタファーについてこのように定義している。
「ある物事を別の物事を介して表現す
ること。本書では、アナロジーや比喩などを総称してメタファーと呼ぶ。
」
(Zaltman、2003、
邦訳 p.16)ザルトマンは、マーケターにとってメタファーを利用することは特に潜在的ニ
ーズを満たす新製品やサービスの提供につながる効果的な手段となると言う。なぜなら消
費者の想像を超えるようなイノベーションに関連する新製品やサービスについての調査を
する場合、言語ベースの調査では消費者の真意を捉えきれないからである。未知の製品に
ついて突然どう思うかと尋ねられても、適切に表現するのは難しい。しかし、複数の心象
イメージを利用したメタファーによってその製品の印象を尋ねれば消費者も対象について
より深く考えをめぐらすようになり、マーケターは顧客の深層レベルの思考に焦点をあて
ることができるようになるのである。
さて、ザルトマンは思考や感情、学習の 95%は「無意識」という認識外で起こるという
研究を紹介しながら、我々の意識的な意思決定という“神話”の脆弱性を指摘している。
また、「深く掘れば掘るほど、異なる消費者が、ある物事に関して重要な思考や感情を共有
していることがわかる。こうした類似点こそが、消費行動に大きな影響を与えている」
(Zaltman、2003、邦訳 p.169)と一般的な表層レベルのマーケティング調査の限界を論じ
ながら、異なった意見を持っている消費者の間に共通して存在する思考や感情の存在につ
いても言及している。この無意識レベルでの人類の思考の普遍性という疑問に向き合った
のがフロイトと並ぶ「無意識」研究の功労者であるユングである。
3.2 ユングとフロイトの認識の相違
ユングとフロイトは共に「無意識」を研究の対象とし、師弟関係にもあったが両者の間
には無意識に対する決定的な認識の違いが存在した。その相違はユングとフロイトの決別
の原因ともなった。ではその相違とはどういったものなのか。ユングはフロイトとの見解
の違いについてこう言及している。
「フロイトにおいては、無意識は―少なくとも比喩的に
は―すでに行為する主体として現れていたとはいえ、しかし本質的にはこの忘れられ抑圧
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された内容の集積場所にすぎず、臨床的な仕事もそれらの内容を使って行われるにすぎな
い。したがって彼の見解によれば、無意識はもっぱら個人的な性質のみをもつ。
」(Jung、
1968?邦訳 1999、p.28)我々が生きている中で経験する様々なことは一度意識された後、
あるものはそのまま記憶され、またあるものは忘れられる。ただ忘れられたように思われ
ていた欲求や願望が実は記憶されており、それが集積している場所が無意識という場所で
ある。そして、その無意識という場所に欲求や願望が隠されるという「抑圧」の原因が、
性的な“心的外傷”(トラウマ)や性欲である。これがフロイトの理解であった。
一方ユングは、患者のヒステリー症状などの根源をフロイトのいう性欲だけに求めはし
なかった。「ユングは性欲のほかにも、たとえば食欲、種保存欲なども人間の無意識の中に
存在していて葛藤を生じさせていると考えました。」(船井、2005、p.30)ユングは無意識
の表層的な層を個人的であると認めながら、その下に「個人的に経験され獲得されたもの
ではなく、生得的な」
(Jung、1968?邦訳 1999、p.28)層があり、それは超個人的な性質を
持っていると述べた。無意識を個人的な経験のみに由来すると捉えるのか、それだけでは
ない普遍的な面の存在をも認めるのか。患者の症状の原因を性欲のみに求めるのか、その
他に複数の原因を主張するのか。(もっともフロイトの解釈も変遷し、晩年には生の欲動と
死の欲動について論じたように、症状の原因を単純な性欲のみに求めはしなくなった。)こ
の二点がユングとフロイトとの見解の大きな違いとなった。
3.3 ユングの元型概念
ところでユングは、
「本来根底に横たわる主体である自己は自我よりもはるかに規模が大
きい。自己は無意識をも包括するのに反して、自我は本質的に意識の中心点」であると言
い、主体には遺伝的な心的構造である「集合的無意識」が内在すると主張した。
(Jung、1960、
邦訳 1987、p.126)人間が誕生した時、意識は存在せず無意識のような状態にある。この段
階では、自己と無意識には同一性があると考えてよいだろう。生まれるまで外的な情報に
触れることはない赤子は誕生の瞬間、確かに己に与えられた“天与”のもの以外を持って
いない。赤子は純粋に彼そのものであり、自己は自身の主体である。しかし、我々は成長
につれ、個人的な経験によって様々なことを感じ、学習していく。その中で獲得したもの
が無意識の中から自我を芽生えさせ、その肥大を促し、自我は無意識から乖離していく。
自我が確立されていくことで、誕生の瞬間に主体であった自己は少なくとも意識下の主役
という立場を自我に受け渡すことになっていく。もちろん自己の影響がなくなるのではな
く、夢などを通して意識に「補償」とユングが呼んだ働きかけを行う。
そして、集合的無意識について「心全体の中で、個人的体験に由来するのでなくしたが
って個人的に獲得されたものではないという否定の形で、個人的無意識から区別されうる
部分のことである。個人的無意識が、一度は意識されながら、忘れられたり抑圧されたた
めに意識から消え去った内容から成り立っているのに対して、集合的無意識の内容は一度
も意識されたことがなく、それゆえ決して個人的に獲得されたものではなく、もっぱら遺
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伝によって存在している。」(Jung、1968?邦訳 1999、p.12)と定義している。また、集合
的無意識の内容にはいくつかの形式があることを示唆した。ユングはそれらを元型と呼び、
元型には太母、老賢者、トリックスターなどの概念があると主張した。太母を例にとれば、
女神や大地、海、太魚や蛇など枚挙にいとまがないほど多くのシンボルがこのイメージに
当てはまる。
さてユングは、パラノイア性分裂病患者の空想と古代ローマの密儀宗教であるミトラ教
の儀典書との類似という事例を集合的無意識の存在の証明としている。ここで大きな疑問
が出てくることは当然である。その類似関係の原因は何かという点だ。渡辺(1987)も言
うように、古代ローマ時代に繁栄したミトラ教のイメージは 20 世紀初頭の患者の空想に時
間的に先行しており、文献を読んだり、人づてに聞くことで、患者にあらかじめその空想
イメージが伝わっていた可能性を否定することはできないからである。ユング自身は患者
がそのイメージについて知っていた可能性を強く否定しているが、実際にはその可能性を
否定することはできない。ただ、本論文ではそのような存在(集合的無意識)を認めると
仮定した上で進めていきたい。厳密に言えば一般的に我々に馴染み深い(意識/無意識)
という区別を、ユングにならって(意識/個人的無意識/集合的無意識)に区別するとい
うことである。無意識の他に集合的無意識が存在するという理解ではない。無意識に見ら
れる個人的な側面とそうではない側面に個人的無意識と集合的無意識という名称と意味を
つけることで両者の区別を行うという意味である。個人的な経験に基づく無意識では“な
い”というネガティブな形での存在の確立ではあるが、これは致し方ないことであると思
う。
3.4
ソシュールの言語概念から考察する集合的無意識
3.3 でも述べたようにユングの研究で印象的なものは、やはり元型概念であるだろう。し
かし、ここでユングが元型につけたそれぞれの具体的なイメージについて掘り下げ、その
イメージの正誤について議論することはあまり意味がないと考える。ここで重要なのは、
各文化圏で普遍的に存在するイメージに重なり合う(類似している)面があるということ
までであり、ユングによる元型の恣意的な区別が集合的無意識の全てを包括しているわけ
でもないだろうし、その区別がどの文化圏の概念を説明する際にも都合の良いものになる
わけがないだろうからである。仮にあるイメージが存在するとしよう。しかし、それを言
語として表現すれば、その表現はその言語を用いる文化圏の影響を少なからず受けざるを
得ない。「ある集団が抱えている価値観、規範意識は、その集団に属する個々人に発しなが
ら、その個人の意思をこえ、個々人の上に君臨する社会的圧力となる。(中略)言語は最も
大きな社会的事実として、個々人に課されるものであるとしたのである」
(田中、1993、p.59)
丸山(1993)が紹介している例を挙げよう。私たち日本人は虹という太陽光線スペクト
ルを紫・藍・青・緑・黄・橙・赤の七色とみなす。しかし、英語では同じスペクトルを六
色に区切り、また二色や三色にしか区切らない文化圏も存在する。これは彼らに色の違い
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を判別する能力がないということではない。虹というある現実を、言語によってどう区切
るかによって見える世界が違ってくるのである。ということは、ユングが研究の中で見出
したアーキタイプは普遍的無意識をどの文化圏においても適切に説明できる概念ではなく、
彼の属する社会によって影響を受けた視点から見た普遍的無意識なるものの一面なのだ。
これは言語を用いる表現をせざるを得ない人間にとって、当然のことであると言える。ま
たユング自身も元型とは内容的に決まっているイメージのようなものではなく、イメージ
を形成する可能性のある“形式”であると述べている。「遺伝されるのはイメージ〔そのも
の〕ではなく〔イメージの〕形式であり、この形式はこの意味でちょうど同じように形式
が決まっている本能に対応している。元型そのものの存在は、本能そのものの存在と同様、
具体的に働かないかぎりは確認することはできない。」(Jung、1968?、邦訳 p.105)
つまりユングの元型概念で理解しなければいけないことは、各個人の中にイメージを形
づくる形式が遺伝的に受け継がれ、その働きによって太母やトリックスターといったよう
なイメージが複数の人々によって出力されることがあるということなのだ。イメージ形成
における心理構造の一部は人類に普遍的なものであると考えても、だからといってその心
理構造から生み出されたイメージが同一である必要はなく、また同一である可能性もある
のだと言える。
さて、言語学の考え方を用いれば、普遍的な無意識概念があるとしても、それを異なる
言語圏の人々の間で共有することは難しい。ただし、これでは集合的無意識の詳細につい
ての説明を放棄しているようにも考えられるので言語学の概念を用いるべきかの是非は問
われるが、一方で言語学の考え方は集合的無意識の理解のために新たな視座を提供してく
れる。
3.4.1 ランガージュとラング
言語学に興味深い概念がある。それはソシュールの提唱したランガージュ、ラングとい
った考えである。丸山(1994)はソシュールの考えを紹介しながら、ランガージュとラン
グについて次のように述べている。
「ソシュールはまず人間のもつ普遍的な言語能力、抽象
化能力、象徴能力、カテゴリー能力およびその活動をランガージュ(langage)と呼び、こ
この共同体で用いられている多種多様な国語体をラング(langue)と呼んで、この二つを
はっきりと分けました。」(丸山、1994、p.61)たとえば日本人の子供であっても、生まれ
たときからフランスにいればその子はフランス語を話すようになるだろうし、イタリアに
いればイタリア語で話すこととなるだろう。ランガージュとは仮にどの文化圏で生まれた
としても、その土地で使われている言語の使用を可能にさせる人間の生来の能力と言える
のである。また、ラングとは「ランガージュがそれぞれ個別の社会において顕現されたも
のであり、その社会固有の独白な構造をもった制度」(丸山、1994、p.61)なのである。
ところで、丸山が述べているようにランガージュを呼吸や歩行という本能とはっきり区
別しなければいけない。人間には話すことができるようになるという可能性が生まれつき
10
与えられてはいるが、ラングという社会的な制度がなければランガージュが言葉を話すな
どといった形で顕在化することはない。ラングとランガージュは相互依存的な関係にある
と言えるのである。
3.4.2 集合的無意識との関連の検討
このようなソシュールの考えを集合的無意識の概念の理解に用いれば、ユングの考えた
集合的無意識とはソシュールの言うランガージュにおける抽象化能力、象徴化能力のよう
なものだと考えることはできないだろうか。元型というアプリオリに人々に与えられたイ
メージ形成の可能性は、ソシュールの想定した<人々が生来持っている普遍的な言語能力
=ランガージュ>に類似する面があると思う。そしてイメージ形成能力を有する普遍的な
心理構造は、各個人が属する文化や言語の影響を受けながら具体的なイメージをつくりだ
す。そのイメージは同じ文化圏の人々の間では似通ったものになる可能性が高いだろうし、
ソシュールがラングと呼んだ社会構造に相似があれば、異なった文化圏同士においてもイ
メージの類似が認められることがあるかもしれない。
我々は日常生活において、自分のものの見方が心理構造や言語という社会制度によって
影響を受けているとは特に意識せずに過ごす。そういった概念は近年の個人の権利、個性
といった概念と相容れるものではなく、時代にそぐわないからであるからかもしれない。
しかし、同じ心理構造を持ち同じ文化圏からの影響を受ければ、特に自我の支配が及ばな
い無意識の中でのイメージ形成に関しては、個人的というよりも集団的なものに近くなる
という認識が必要なのではないだろうか。
3.5 消費者の類似性とマーケティング
これまで見てきたユングの研究を用いれば<我々自身(自己)の意思決定に意識下の我々
が影響を与えることができるのは我々の個人的な経験によって発達した自我による関与の
みであって、潜在的に我々の中にある心理構造によって形成された(個人的な無意識とは
異なる)集合的無意識が意思決定に与える影響が存在する>と仮定することができるだろ
う。また言語学の概念を用いて説明したように、我々が意識下で行う意思決定は完全に個
人的なものに由来するものではなく、社会的な制約を受けざるを得ないものであることを
認めることができる。特に無意識下でのイメージ形成の際にはそれが顕著であり、その影
響はザルトマンの言うように決して小さいものではないのだ。
消費者が行う意思決定の真の理由については、いつの時代でも議論が起こる。マーケテ
ィングリサーチを行い、消費者によって異なった意見が集まる。マーケターはそれらのデ
ータを単純に用い、消費者が個人のアンケート結果に表れる商品の評価に基づき購買を行
うと判断する。ターゲットを定め、対象の顧客の意見を反映した商品を市場に出すが、売
上が伸びない。よくある話だろう。実際のところ消費者は自分の行動の理由を意識下の説
明のみで語り尽くすことはできないのだ。消費者は、無意識的に自分たちの行動の理由を
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機能性に優れているだとか値段が安いという“もっともな理由”で説明することで、主体
としての自我の立場を守っていると言えるかもしれない。このように考えれば、これまで
マーケターを悩ましてきた消費者の意思決定への疑問に対し、無意識レベルでの消費者同
士の類似に着目するザルトマンのような調査方法をとることは顧客の潜在的なニーズをよ
り正確に把握するために効果的であり、既存のマーケティングの限界を打破する可能性を
秘めている。
ユング自身も認めているように、集合的無意識の実在をポジティブな方法で証明するこ
とは困難であるし、そもそも無意識(意識できないもの)を完全に把握することは不可能
である。「無意識の心が実在していることは、それが意識されうる内容として現れて在るこ
とによってのみ認識される。それゆえ、われわれは、無意識の内容を実証できるかぎりで
のみ、無意識について語ることができる。」(Jung、1968?邦訳 1999、p.29)しかし、日常
生活で当たり前のように認める本能という人類に普遍的な行動が存在しているならば、
我々の中にそのような普遍的な心理やイメージを表象させる心的構造が存在することも不
思議ではないとは言えないだろうか。もしそうだとしたら、消費者は自分自身の中にある
明確かつ個性的な価値観や欲望に基づいて消費をしているというよりも、単に他者との「差
異」を求めて消費を行っているだけなのかもしれない。それでは消費者の多様性とは実は
見せかけで、彼らは様々な商品に与えられた特徴や合理的な利点を自分自身の意思決定の
「大義名分」とし、その商品の“記号”によって自分自身の個性を懸命に取り繕っている
のであろうか。この疑問は次章のボードリヤールの議論に引き継ぐことにしよう。
4. 欲求の充足に隠された構造
4.1 ボードリヤールの消費概念から見た消費者の欲望
消費の第一義的な目的は個人的な欲求を満たすためであるのか。この問いに対してボー
ドリヤールは、ヴェブレンの誇示的消費の分析を用いて「消費は個人的な享楽とは一切関
係ないことで、(中略)それは、社会的行為者の意識に反映される以前に諸行動を決定して
しまうひとつの強制的な“社会制度”である」
(Baudrillard、1972、邦訳 p.4)と批判的な
立場をとった。彼は社会システムという構造それ自体によって私たちの欲望がつくりださ
れていると考えた。そして「産業社会は、中間階級に移動性のチャンスを与えはするが、
それも相対的チャンスでしかない。例外的ケースを除くと、職業上の軌道は短く、社会的
惰性は強い」
(Baudrillard、1972、邦訳 p.16)と述べ、階層の現実的移行性と諸個人の野
心の過剰の間には埋めがたい溝があることを主張した。移動性と成長の流布されたイデオ
ロギーの中を生きる消費者には、希望する権利は認められる。しかし、その欲求の実現に
は現実的可能性という堅牢な障壁が存在する。消費者はその障壁の存在を認知しながら、
可能性が与えられているという微かな望みによって“少しだけ余計に希望する”のである。
つまりボードリヤールの考える消費者の欲求とは、
「豊かな社会によって<解放された>消
12
費力ではなくて、システム自身の機能、システムの再生産と延命の過程が要求する生産力」
(今村、1992、p.164)なのである。そして、「かれらの野心の水準は、正確に、事実によ
って養われる現実主義と雰囲気的イデオロギーによって維持される非現実主義の妥協の産
物である」(Baudrillard、1972、邦訳 p.16)とあるように、欲求は独立的で不可侵なもの
ではなく、非常に束縛を受けた絶望的な立場に置かれたものなのである。
4.2 象徴交換による社会システムの破壊の可能性
それでは、彼が指摘したような強制的な社会システムによる圧力を破壊するためにはど
うすればよいのだろうか。ボードリヤールは、そのキーワードとして「象徴交換」の論理
をあげた。彼は以下の四つの論理を紹介しながら、消費の独自な領域を定義した。その四
つの論理とは、「一、使用価値の機能的論理
論理
四、価値/記号の論理
二、交換価値の経済的論理
三、象徴交換の
第一の論理は、実践的操作の論理である。第二の論理は等
価の論理である。第三の論理は両義性の論理である。第四の論理は、差異の論理である。」
(Baudrillard、1972、邦訳 p.59)というものである。彼によれば、四つの論理は順に効用、
市場、贈与、地位の論理とも言え、物はそれぞれの論理の中で道具、商品、象徴、記号と
しての役割を果たす。今村(1992)も述べているように、象徴交換を除く三つの論理は重
なり合う面を持っており、「使用価値‐交換価値‐記号価値の三重の論理は、近代社会の論
理として一体である。」
(今村、1992、p.171)
一方で象徴交換とは近代社会のシステムの論理とは異質のものである。ここで象徴交換
について詳しく説明しよう。ボードリヤールは象徴交換の例として“クラ”というシステ
ムを紹介している。クラとはパプワニューギニアのトロブリアンド諸島などでみられる交
易であり、「腕輪、首飾り、装身具の連鎖状の贈与と流通に基づく象徴交換システムであっ
て、これを中心に価値と身分の社会システムが組織される。
」
(Baudrillard、1972、邦訳 p.3)
クラで交換される腕輪も首飾りも、それ自体はただの貝殻である。しかし、クラに参加す
る人々にとってそれは非常に価値があるものなのだ。なぜか。それは、<交換されるもの
だから>である。そして、象徴交換の圏内において腕輪と首飾りは道具でも商品でも記号
でもないのである。「それは交換価値も使用価値も記号価値ももたない。与えられる(贈ら
れる)物がそれ自体象徴交換価値である。贈物は人格によって独自化されたユニックな性
格を持つ。人格間の狭い範囲の中でのみ、贈物は贈物であって、それはこの狭い空間を出
て、商品や記号のように流動しない。」(今村、1992、p.172)
象徴交換のシステムの中で、物は一般的な価値を失う。役に立つ有用性という価値、市
場が保障していた価格という価値、他のモノとの差異の中で自らの価値を見出す記号的な
価値、これらは全て意味を失う。人と人との具体的な関係のみが物に価値を与え、それゆ
えにその価値は「愛と攻撃がひとつになった両義性」を伴ったものになる。そして、ここ
での物には人間関係の外に持ち出せるような剰余価値は一切残らない。つまり、
「象徴交換
は、社会空間のあらゆるレベルでみられる諸々の価値(使用価値、交換価値、記号価値)
13
あるいは諸々の「意味」の「生産系」や「蓄積過程」を徹底的に「消尽する」(解消する)
ことを意味する。」
(今村、1992、p.174)このように、ボードリヤールは消費から消尽への
転換を図ることによって生産と蓄積によって成り立っている現代の社会システム、
“記号的
価値体系”を解体できると考えたのである。
4.3 個人の権利の主張とインターネットの普及が消費に及ぼす影響について
それではボードリヤールの生産中心批判を踏まえ、現代の消費者の分析を行いたいと思
う。一般的には現代の民主主義社会において、各個人の意思が尊重され消費行動の際も(予
算制約はあるにせよ)自由に購買ができるということは自明の権利だと考えられている。
たとえば私たちが食事をするためにスーパーで一番高い牛肉を買い、百貨店でブランド品
を購入しても身分・階級の違いなどによる禁止の圧力を受けることはないし、それらの差
別は許されるべきではない。江戸時代の百姓のように、白米での食事や絹織物の着衣を禁
じられることへの不当性はわざわざ述べるまでもない。いまだに国や文化、宗教上の理由
などによって禁止される行為があることは確かに否定することができない。
(ここで考える
禁止行為の対象は消費者自らの意思決定の結果による代償や証としての意味のそれではな
く、それらの圧力を本人の意思とは別に恣意的に受けざるを得ない、外的で身勝手な圧力
である。)しかし、先進国での消費を対象に考えれば、もし万が一にでも「消費」という一
連の行為の中で消費者自身の意思や権利が侵されれば、彼ら自身がその抑圧の不当性への
主張をすることやその抑圧から解放されること、さらに“復讐”を成し遂げることはそう
難しいことではないだろう。なぜなら、近代における「個人の権利」の賛美という社会的
な力の高まりとインターネットという強大な“武器”によって、消費者は彼らが彼らに敵
対する立場の身分・階級と戦う際の“戦場のルールの変更”と“武器による自身の力の向
上”によって戦いを断然有利にすることに成功したからである。以前とは比べものになら
ないほど多様な情報を容易に入手できるようになり、不満があれば SNS や HP 上で自分の
意思を社会に向け自由に発信できるようになった消費者は、インターネットという大きな
力と消費者同士の結びつきという絆を獲得した。この点では、消費者はもはやボードリヤ
ールの主張したような「孤立で無関心な群集」ではないのかもしれない。
ただしここで問題になるのは、それらの不当な圧力から彼らが解放されると見込まれる
のは、彼ら(消費者)自身がその不当性を十分に認識している限りにおいてに限りという
ことである。言いかえれば表面的な圧力の撲滅と、消費者自身の地位の向上が実現した現
代社会では、まさにこの権利の尊重と地位の向上によって消費者自身が盲目的になってお
り、ボードリヤールの主張にあるような社会システムといった見えざる抑圧に対してあま
りに無頓着ではないかということである。更に無頓着であるばかりか、消費者自身の力の
高まりによって、消費者を苦しめる新たな「圧力」を彼ら自身が積極的に創りだしている
かもしれないのである。
14
4.3.1 モンスタークレイマーの出現
たとえば日本では「お客様は神様」といった概念が根ざしており、「モンスタークレイマ
ー」なる消費者の存在もしばしば指摘されている。このような消費者はかなり特殊ではあ
るが、考えるべき事柄は、消費者がサービスの送り手に要求する過剰な質とその見返り(料
金)との不均衡についてではない。社会全体が消費者を過剰に擁護する傾向にあることと、
一方でそれらの擁護によって消費者自身が傷つけられるという自己破壊が生じているので
はないかという仮説についてである。矛盾するように思えるが、この仮説の検討には消費
者を生産者、物やサービスの供給者として捉え直すことが必要になる。当たり前のようだ
が一般消費者は純粋に消費だけに没頭することはできない。生きるため、自分の欲求を満
たすため、家族を養うためなど理由は個々人によって違うが、労働し、お金を稼ぐことが
消費の前提として要求される。このように考えた時、ある消費者は労働の中で労働者の立
場となり他の消費者と対峙せねばならない存在へと変換される。そして、互いの消費行動
を合理的で満足のいくものとするために共同していたはずの仲間は、その消費行動のため
に不可避な労働の段階では厄介な敵として登場するのである。
この事実を考えれば、消費者の権力の高まりは一方で労働者としても生きねばならない
消費者自身を圧迫するものになるという見方を否定する事はできない。このジレンマが上
記のモンスタークレイマーの出現を許してしまう理由の一つとなるだろう。労働者として
働く消費者は、自身の労働時に要求された(消費者に対しての)サービスという過払い分
を消費行動の際に取り返そうとする。この連鎖によって一般常識を欠いた消費者のように
見えるモンスタークレイマーが現れる。モンスタークレイマーは決して一般消費者の知ら
ない世界から来た怪物などではなく、ごく当たり前の消費社会のシステムに隠された問題
が露呈した結果と捉えることができるのだ。自身の欲求に従い、それを阻害する要因のほ
とんどを撃退することができるように見える現代の消費者だが、ボードリヤールが指摘し
た潜在的な圧力はもちろん自分達が撃退している顕在的な不具合をつくりだしているのは
他ならぬ消費者自身であると言えるのかもしれない。
5.
欲望の限界と可能性
第2章でも見てきたように、これまでの研究によって提唱された消費者行動のモデルの
多くは消費者の欲望を絶対視し、そのような欲望に従順に適応するマーケティングが主流
とされてきた。しかし、第3章、第4章で参考としたユングやボードリヤールの議論を用
いれば、そのような(特に個人における)消費欲望の絶対性、不可侵性に懐疑の念を抱く
ことができる。一方でボードリヤールの言うように消費者の欲求が既存の権力の維持、再
生産の役割を担わされるというような新たな可能性を生まない、受動的なものなのかと言
えばそうでもないとも感じられる。この章では欲求の限界と可能性についてマーケティン
グとの関連から議論していきたい。
15
5.1 欲望の限界―つくりだされる欲望―
インターネットの普及による影響が大であろうが、消費者の知識は飛躍的に向上し、大
量のスポット広告を打てばそれに比例して商品の売り上げが伸びるといった認識はもはや
非常識な考えである。もちろん広告によって商品を認知してもらうことは購買のための第
一歩であるが、いかに商品の認知から実際の購買まで繋げてもらうかがマーケティングの
最大の課題であるだろう。とは言え、消費欲望がそれらの広告にまったく影響を受けず、
自発的な自身の欲望にのみ依存して消費の意思決定を下すというかというとそうではない。
「われわれは想像可能なあらゆる対象に対して消費欲望を抱くわけではない。われわれが
消費欲望の対象としてリアリティを感じるのは実際に企業が市場に供給している商品であ
る。つまり、マーケティングが適応しようとして商品を供給する消費欲望は、そのマーケ
ティングによる商品の供給がつくりだすものなのだ。消費欲望に応じて商品を供給すると
いう消費者主権型のマーケティングが同時に消費欲望を規定してしまう。」(栗木、1996、
p.22)消費欲望は市場の商品によって初めて具体化され、商品がなければ消費者の内にある
欲望は顕在化しないのである。消費欲望は基本的に商品に先んじて現れることはなく、消
費者は商品が供給された後に自分たちがそれを欲していたことに気づく。しかしマーケテ
ィングの一般的な概念では、消費者がそれを欲したのは、彼らが潜在的なニーズを有して
いたためであると考えられる。このような強引な合理化によって生産を正当化することを、
ボードリヤール(1972)は「生産秩序の内在的目的性の隠蔽」と厳しく批判したわけであ
る。
とは言え、消費者はマーケターの思惑通りに消費を行うわけでもないので<この商品は
あなたたちの潜在的なニーズを満たすものなのです。>と馬鹿正直に宣伝しても、恐らく
売上は伸びないだろう。消費者は意思決定を無理強いされているような、押し付けがまし
い広告は望まないからである。それでは、実際の購買に繋げるためにどのようなマーケテ
ィング操作が行われているのだろうか。
5.1.1 広告のメッセージと消費欲望
栗木(1996)はバルトによる分析を参考にしながら、広告におけるメッセージの二重構
造こそが消費欲望形成の鍵であると説明している。それではまずバルトの広告分析を見て
いきたい。彼は広告には「事実二つのメッセージが含まれていて、そのからみあいそのも
のが広告の言語活動の特殊性を形づくっている」(Barthes、1985、p.70)と分析している。
彼の言うメッセージの一つ目とは広告の表現を字義どおりに受け取ることで得られるも
のである。バルトは“黄金の料理”という表現をその例に用いた。説明は必要ないだろう
が、ここでの“黄金”という表現はその料理が黄金=Gold という金属に似た物質を含むな
どといった意味ではない。黄金のように価値がある料理といった意味で使用されている。
バルトが言うように、この第一のメッセージには「表現の面(文の統辞関係)」と「内容の
面(字義どおりの意味)
」とが含まれているので、この「第一のレベルには、たしかに十分
16
なある記号表現の全体があり、その全体がこれもまた十分なある記号内容の全体に関係し
ている。」
(Barthes、1985、p.71)つまり、第一のメッセージは各言語圏における構造である
ラングに深く関係していると考えられ、バルトはこのメッセージを外示(デノテーション)
のメッセージと呼んだ。
一方、第二のメッセージは広告そのものに対する“総合的”なものであり、「その記号内
容は、あらゆる広告のメッセージを通じて、唯一であり、つねに同一である。ひとことで
言えば、それは、広告された製品のすばらしさである。」
(Barthes、1985、p.71)このメッセ
ージの目的は<製品が価値あるものだと理解してもらうこと>なのである。ではこのメッ
セージの記号表現とはというと、それは「修辞にもとづく種々の文体的特徴となるが、し
かしこれらの特徴は、さきほどメッセージの全体から捨象した字義どおりの文に組み込ま
れているので、第二のメッセージの記号表現は、実際には、第一のメッセージ全体によっ
て形づくられているということになる。だから、第二のメッセージが、第一のメッセージ
を共示すると言うのである。」(Barthes、1985、p.72)
ではなぜこのようなメッセージの二重性が生まれるのだろうか。広告が商品を買ってほ
しいということを伝えたいために行われるのなら、単に<この商品を買って下さい>と言
えばいいものだが、先述したようにそれでは消費者を説得することができない。商品を買
ってほしいというメッセージは滑稽なほど明白に伝わるだろうが、肝心の消費者からの応
答=購買は見込めない。そこでメッセージの二重性に意味がでてくる。
それでは以上の分析を踏まえ、栗木(1996)の議論に移っていくことにしよう。栗木は
バルトの言う第一のメッセージは字義どおりに受け入れられるとまでは言えず、その解釈
はその表現が広告に属するものであるという理解があってから行われるものだと主張した。
この主張は消費者の広告観をより厳密に理解するために考慮すべきであろう。ただ、栗木
も基本的にはバルトの指摘した広告の持つメッセージの二重性の議論の意義を認め、それ
を受け継ぐ形で考察を行っている。
栗木によれば、広告表現の理解において特に重要なことは<広告とは、広告されている
商品やサービスに価値があるということを示す>という知識であり、それが消費者の間で
も常識となっている点である。この知識にとらわれると、
「広告された商品がほんとうに価
値があり、消費に値するように思えてしまう、ということが起こるのである。」
(栗木、1996、
p.32)広告とは価値あるものを宣伝するもののはずだったのに、広告されるから価値がある
ものとされるという論理の逆転が起こりかねない。しかし、栗木も指摘するようにこのよ
うな商品の価値規定は無意味であるし、「それでは、何の理由もなく広告によって消費欲望
が喚起されるといっているのと変わらないのである。そして、何の理由もなく、その根拠
が不確かなのであれば、消費者は、広告された特定の商品を消費しようとは思わないであ
ろう。」(栗木、1996、p.32)
では、広告はどのように消費欲望を形成すると言うのか。その鍵こそがバルトの言う第
一のメッセージであり、栗木の言う「広告メッセージの未完結で多様な可能性を残した構
17
造」である。栗木が山藤(1995)の批評を用いて紹介するサントリー・モルツの CM の例
では、往年の名選手を集めてドリーム・チームをつくったのに選手たちはどこかぱっとし
ない。消費者は現役時代のなじみ深いパフォーマンスとのズレに違和感を抱きながらも、
それゆえに引き寄せられるのである。しかし、それだけではない。
「この CM がユーモラス
なのは、勝負の力学から逸脱するスーパースターたちのネガティブな部分が描かれている
ことに尽きるわけではない。CM に描かれた勝負の世界の明暗は、みごとなまでにお定まり
のストーリーである。そこに、スポーツを観戦するときの、紋切り型のパターンに酔って
いる自分を見出し、そんな自分に対す嘲笑をも感じさせるのが、この CM の面白さである。」
(栗木、1996、p.26)
この CM のメッセージには多様な解釈が許されている。ドリーム・チームなのにどこか
ぱっとしない選手。このチームは強いのか、弱いのか。自分は往年の名選手像とのギャッ
プに親しみを感じているのか、それともこのような物語に酔う自分が好きなのか。栗木は
こうした「両義性」とは快楽の源泉であると述べ、消費者はこのような第一のメッセージ
の「両義性」に集中することよって第二のメッセージ=<この商品には素晴らしい価値が
あるので買ってください>という意志、広告の本来の目的に対する意識を低下させていく。
しかし、いくら集中してもこの物語の答えなどは出ず、第一のメッセージの意味は不安定
な状態であり続ける。「この霧散しそうな快楽の対象をつなぎとめるためには、第一のメッ
セージの外に意味の基点を求める他ない。そのとき、このとらえどころがなくあいまいな
物語のさまざまな位相をたばねる中心として最も手近な場所に、第二のメッセージは位置
しているのである。常識に支えられた第二のメッセージの相対的な安定性は、この CM の
多様なメッセージを組織化する中心として第二のメッセージを浮上させる。」
(栗木、1996、
p.34)かくして第二のメッセージは無意識的に受け入れられることとなり、消費者の中に<
この商品は消費に値するものだ>という価値観が生じるのである。以上の分析から考察す
ると、消費者の欲望とはやはり操作される対象であり、何かを生み出すような可能性を秘
めてはいないのだろうか。
5.1.2 マーケティングに超越する欲望
この疑問に向き合う消費欲望の可能性についての議論の前に、消費欲望が完全にマーケ
ティング操作の枠を超えられないものであるか検討していこう。答えはもちろん否である
ことはこれまでの議論で理解できるだろう。広告分析で見たように、広告は栗木の言う「一
種のトリック」を用いて消費欲望に操作が到達することを助ける。しかし、当然ながら「消
費欲望とマーケティングのあいだに予定調和的な関係が成立するわけではない。」(栗木、
1996、p.23)栗木も指摘するようにこの面を強調しすぎれば、消費欲望に絶対性があるなど
という、行き過ぎた議論に繋がってしまう。だが消費欲望を完全にマーケティング操作し
きれないが故に、広告はメッセージの二重性という構造を利用せざるを得ないとも言える。
栗木は操作の不完全性によってマーケティングが消費欲望を規定できないという可能性を
18
完全に排することはしないが、現実問題として消費欲望はマーケティングによってつくり
だされていながら、同時にマーケティングに超越していると言っておかしくはないのであ
る。
5.2 欲望が生み出す可能性
それでは消費欲望はどのようにマーケティングを超越していくのか。そして何を創造す
るのか。マーケティングによって市場に供給された商品が受け入れられない、広告を打っ
ても消費者はマーケターの想定したような反応を示さないといった認識は周知であるが、
ここでは消費欲望が商品に及ぼす影響を紹介しながら、消費欲望に秘められた可能性につ
いて論じたい。
石原(1982)は消費欲望を二つのタイプに仮定し、生産と消費の相互作用を分析した。
その二つのタイプの一つめは「自然的欲望」と名づけられるものである。この欲望は食欲
や睡眠欲、性欲など人間の本能に基づくものだと考えられてきたものであり、より厳密に
言えば「特定の対象と結びつかず、特定の充足方法を予定しない欲望を抽象的欲望と名づ
けるならば、自然的欲望は抽象的欲望だということができる。」
(石原、1982、p.44)このタ
イプの欲望は、生物によって根源的欲求である本能のように社会的関係がなくとも現れる
ものという理解でよい。
二つめは「具体的欲望」である。5.1 で述べたように消費者は自らの欲望を市場の商品を
通して認識できる。言い換えれば、
「抽象的欲望が財の消費の過程でその対象に含まれた具
体的な有用性を感知することによって、はじめて具体的な表現を与えられる。」
(石原、1982、
p.44)つまり具体的欲望は消費という行為の中で生じるものなのである。ということは、一
つめの内生的な欲求とは異なり、このタイプの欲望は商品や生産からの影響を受ける欲望
なのである。しかしこの特徴は、これまで論じてきた「つくられた欲望」、「権力のための
社会基盤の再生産」といった悲観的な議論を強調するためのものではない。消費という生
産に影響を受ける場にいるからこそ、自分(消費者)の欲望に影響を生じさせる生産者、
マーケターへ影響を及ぼす可能性があるのである。その鍵が、消費者の反応とマーケティ
ング戦略の「ズレ」にある。
5.2.1 消費欲望と生産者の双方向的関係―欲望が創造するもの―
石井(1993)が述べるように、ヒット商品のコンセプトや機能の説明は極めて「理論的」
なものになっている。「それがどれだけ消費者の要求にかなったものか、それを必要とさせ
る社会的背景はどのようなものだったかを理論的・必然的に整然と述べることができ、し
かもそれはきちんと製品開発のための技術語に翻訳できるようになっているのが普通であ
る。」(石井、1993、p.9)しかし、マーケターが初めから消費者欲望や社会的背景に基づく
ニーズを的確に把握し、混乱なく商品開発のプロセスを経てきたかというとそうではない
と石井は指摘する。
「開発の意図や目的と最終的に市場で認められた製品コンセプトとは最
19
初から一致していたわけではないとか、あるいは自明に見えるコンセプトでも紆余曲折の
中から現れてきたものである、一見して混乱したプロセスが組織内の開発プロセスにおい
て見られるのである。」
(石井、1993、p.13)
石井は東レの眼鏡レンズ拭き“トレシー”という製品の成功を紹介しているが、そこに
生産者と消費者の認識のズレが製品に与える影響を見ることができる。もともと眼鏡ケー
スなどの付属品として企画・開発されたこの製品であったが、特に大々的なマーケティン
グはされなかった。しかし、百貨店の眼鏡売り場で思いがけない好評を得て、「単なる眼鏡
の付属品あるいは販促用製品としてではなく、それ独自の市場を持った製品としてその地
位を確立し始めたのである。」
(石井、1993、p.21)この眼鏡拭きのヒットの理由は、これま
でのレンズの汚れをとるという目的の他にファッション用品、それに伴う贈答品という意
味が消費者によって見出されたからである。これに対応するように東レも色柄やサイズを
充実させ、トレシーは大ヒット商品になったのである。これは生産者の意図と実際の消費
現場で消費者が見出した意味の“ズレ”が製品に影響を及ぼし、市場の形成を成し遂げた
という消費欲望の創造性、可能性の象徴的な事例だろう。消費者の「具体的欲望」の顕在
化には商品の存在が不可欠であるが、そうした欲望は生産者から影響を受ける対象として
のみ存在するのではない。消費とは商品を通して生産者、マーケターと対話する場であり、
消費者と生産者は商品を媒介として「双方向的な関係」を形成すると言えるのである。
6.
結論
本稿の目的は消費者の主体性を検討することであった。この検討にあたって、3 章では消
費者自身が自分の意思決定にどこまで関与していると言えるのかを考察した。ユングの集
合的無意識の存在の有無について十分な証明をすることは難しい。だがザルトマンの調査
のように、消費者の(消費者自身も気づいていないかもしれない)本心を探るためには無
意識に目を向ける必要があることが認められる。そしてザルトマンは、表面上は異なった
嗜好をもつように見える消費者同士が実は似通った意識をもっていたことを指摘した。
この結果は各消費者の意思決定の個別性や特殊性に疑念を生じさせるものであろう。こ
の原因がユングの言うような遺伝的に受け継がれる無意識によるものなのか、それとも同
じような文化の中で過ごしたという後天的な理由のみによるものなのかは分からない。し
かし、この事実は現代のマーケティングでは一般的な“消費者の多様性”という概念に対
立するような結果であり、非常に興味深い。消費者は実のところ自分の本心などよく分か
っておらず、他者との差異性を求めているだけなのかもしれない。一方で消費者は孤独を
好まない。このために、消費者は他者との違いを望みながら他者からの承認を得たいとい
った矛盾した願望を同時に抱えている。よって消費によって商品やサービスを獲得し、そ
の記号によって自分を個別化する。しかし、その記号は他の記号との関係において成立す
るものであって、それ自体が独立して価値を表現できるものではない。この特徴によって、
20
消費者の矛盾するように思える願望が同時に実現するのであり、現代において消費行動の
最大の意味とは新たな効用を得ることよりも、この相反する願望の実現のためであるとい
うのは言い過ぎであろうか。
とは言え、消費者の欲望や意思決定が価値を持たないものであるわけではない。石原が
言うように具体的欲望は市場の商品の供給を必要とし、マーケティングの影響を受けるも
のであるが、同時に消費行動を通してマーケティングや商品に刺激を与え、石井が紹介し
た眼鏡拭きの事例のように商品の改良ばかりか新たな市場の創造を促す存在になり得るの
である。ボードリヤールが指摘したような既存の社会システムの再生産のためだけに欲望
があるのではなく、既存のシステムによってつくられた欲望は(それが当初再生産のみを
目的としてつくられた欲望だとしても)その構造自体を破壊する可能性を秘めているので
ある。栗木による広告分析ではマーケティング操作によって欲望がつくられる過程を見て
いったが、広告に見られるメッセージの二重性とは消費欲望のマーケティング操作からの
乖離を抑止するためのトリックであって、この事実は消費欲望のマーケティングからの超
越の可能性を証明するものでもあるのだ。
以上の分析によって導き出されることは、消費者の主体性とは消費者自身が思っている
ほど絶対的なものではないが、消費者の欲望はマーケティングやメディアによって完全に
操作される対象ではなく、それらに影響を与え変化を及ぼす可能性を秘めたものだという
ことである。インターネットを利用した企業サイト、SNS などの影響によって今後の消費
欲望とマーケティングの関係は、より双方向的なものとなっていくだろう。この流れの中
で大事なことは、消費者と生産者の関係のバランスである。強引なマーケティングによる
消費欲望の操作や、逆に消費欲望の過剰な保護、尊重は互いにとって良い結果をもたらさ
ない。強引なマーケティングは当然ながら消費者の反感を強めるものである。しかし、表
面的な“消費者ニーズ”ばかり尊重しても、それが消費者の真のニーズではないかもしれ
ないし、消費者の期待を大きく超えるような商品は創造できないだろう。石井(1993)は
ニーズとシーズとの連結をつける「プロトコル局面」についてこう述べている。
「プロトコ
ル局面とは、シーズとニーズが対話するプロセスであることを強調する方が現場の気持ち
にあっているようだ。それとは確定されていないあいまいなシーズとニーズが出会い、相
互にそれがなんたるかを確認し合う、そういったプロセスがプロトコル局面ではないだろ
うか。」(石井、1993、p.17)企業は消費者のニーズを鵜呑みにしていればいいわけではな
いし、また技術発展によるシーズを商品に転換するだけでいいわけでもない。企業と消費
者は絶えず双方向的な関係を維持することが必要であり、その結果としてシーズとニーズ
の結びつきは、
「あらかじめ予定されていたかのように必然的に結びつきあったように見え
る」のである。
最後に本稿での答えを出したいと思う。いったい消費者には主体性といったものがある
のか。その答えは、“消費者は主体性を秘めており、状況に応じてそれを発揮するが、消費
の主体とは考えることはできない存在である”としたい。では、生産者が主体なのかとい
21
うとそうでもない。これまで論じてきたように、両者は影響を与える存在、与えられる存
在と、代わる代わる立場を変えながら消費という舞台で対峙してきた。両者にこのような
両義的性格を与えるものは何なのか。それは消費の場という構造自体である。こう考えれ
ば消費者と生産者のどちらがイニシアティブを取るのかという議論は無意味なものになる
だろう。「近代資本主義社会は、あらゆる領域でモビリティが高く、諸構造の構造化的編成
は前に指摘したように内部にズレや遊戯をはらんでいるのです。構造化プロセス自体が、
さまざまの両義性空間をつくりだし、(中略)この両義的な境界領域こそ、特定の社会構造
からの「自由」の可能性をつくるのです。」(今村、1992、p.41)このように消費構造には
消費者主権というイデオロギーと、主体であるはずの消費欲望をつくりだすマーケティン
グとの間のズレが存在し、そこに両者の立場を入れ替える可動性が存在している。つまり、
消費構造がつくりだす消費者と生産者の立場の不確定性が消費の場における“偶有性”を
生み出し、それこそが思わぬヒット商品や市場、そして文化をつくる源泉だと言えるので
ある。
7.【参考文献】
青木幸弘(2010)『消費者行動の知識』日本経済新聞出版社。
杉本徹雄(1997)『消費者理解のための心理学』福村出版株式会社。
Jung.Carl.Gustav (1968?)(林道義訳『元型論』紀伊國屋書店、1999 年)
※引用元の論文の原題は、Der Begriff des kollektiven UnbewuBten、Uber die Archetypen
des kollektiven UnbewuBten、Die psychologischen Aspekte des Mutterarchetypus で
あり、Rascher 版の全集九‐Ⅰ巻に収録されている。
Jung.Carl.Gustav (1960) Psychologische Typen,9.,revid.Auflage,Rascher Verlag,Zurich
u.Stuttgart(高橋義孝・森川俊夫訳『心理学的類型Ⅱ』人文書院、1987 年)
船井哲夫(2005 )『心を読み解くユング心理学』ナツメ社。
渡辺学(1987)
「元型概念の成立―初期ユングにおける解釈と現実」
『倫理学』5、pp.55-64.
筑波大学倫理学研究会。
Baudrillard.Jean (1972)Pour une critique de leconomie politique du signe, Editions
Gallimard(今村仁司・宇波彰・桜井哲夫訳『記号の経済学批判』法政大学出版局、1982
年)
Baudrillard.Jean (1970)La Societe de consummation, Editions PLANETE(今村仁司・
塚原史訳『消費社会の神話と構造』紀伊國屋書店、1979 年)
Baudrillard.Jean (1968)Le systeme des objets, Editions Gallimard(宇波彰訳『物の体系』
法政大学出版、1980 年)
今村仁司(1992)『現代思想の基礎理論』講談社。
藤井友紀(2003)「ボードリヤールと他者性―他者性の喪失問題考察に向けて―」『立命館
22
産業社会論集』第 38 巻第 4 号 pp.199-221。
Bataille.Georges (1949)LA PART MAUDITE, Les Editions de Minuit(生田耕作訳『呪
われた部分』二見書房、1973 年)
田中克彦(1993)『言語学とは何か』岩波書店。
丸山圭三郎(2001)『言葉とは何か』筑摩書房。
栗木契(1996)
「消費欲望の超越性と被規定性:マーケティングとの関連で」
『六甲台論集.
経営学編』第 43 巻 1 号 pp.21-37。
Barthes.Roland(1985) L’ aventure semiologique, Editions du Seuil(花輪光訳『記号学の
冒険』みすず書房、1988 年)
石井淳蔵(1993)『マーケティングの神話』日本経済新聞社。
石原武政(1982)『マーケティング競争の構造』千倉書房。
橋爪大三郎(1988)『はじめての構造主義』講談社。
ミトラ教-Wikipedia-
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%A9%E6%95%99
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