第31回 オラトリオとフィリッポ・ネーリ ∼絵画とともに聴く古楽

∼絵画とともに聴く古楽
須田 純一(銀座本店)
第31回 オラトリオとフィリッポ・ネーリ
アレッサンドロ・スカルラッティ:
オラトリオ
「聖フィリッポ・ネーリ」
エステヴァン・ヴェラルディ指揮
アレッサンドロ・ストラデッラ・コンソート
マリオ・ヌヴォリ
(テナー、聖フィリッポ・ネーリ)他
■CD:94037(2CD+CD-ROM)輸入盤オープンプライス <BRILLIANT>
※原語歌詞と英訳歌詞、伊・英語による解説はCD-ROMに収録
普段、耳にはするけれどその意味はよくわ
読書や対話、説話を軸としていました。そうし
からない。そういう言葉がたまにありません
た中で「ラウダ・スピリトゥアーレ」
という既存
か。音楽用語においてもそういう言葉や単語
の旋律に宗教的歌詞を付けた歌を用いて神
がしばしばあるように思うのですが、今回取り
に祈りを捧げていたのです。
この歌による祈り
上げる オラトリオ という言葉もその内のひと
こそ、オラトリオ の基となったのでした。
つではないでしょうか。
ネーリの活躍した時代、ちょうど音楽は過
「ハレルヤ・コーラス」で有名なヘンデルの
渡期でした。複雑な多声音楽であるポリフォ
『メサイア』や、旧約聖書の創世記とジョン・ミ
ニーから、楽器伴奏付きの単声音楽モノディ
ルトンの「失楽園」を基にしたハイドンの『天
へと中心が移行していった時期なのです。一
地創造』など、オラトリオ と呼ばれるジャンル
部の知識人にしか理解できない難解で複雑
でも有名作品は多く、特にこの連載が扱って
なポリフォニーではなく、
よりわかりやすく感
いるバロック時代には数多くの作品が作ら
情を直接訴えかけられるモノディの利点を生
れ、オペラと並ぶ重要なジャンルとしての地
かすことによって、ネーリは 歌による祈り と
位を確立していました。普段何気なく目にし、
いう民衆にも理解しやすい信仰の形を作り上
耳にするこの オラトリオ という言葉、では一
げていったのです。
日常の緩やかな規則の中
体どういうジャンルの音楽のことを指すので
で実践できるこのネーリの教えは、その後の
しょうか。そこで、今回はバロック音楽に欠か
ローマ・カトリックの規範となり、やがては教
せない オラトリオ というジャンルとその起
皇や枢機卿さえも教えを受けに来るように
源、そしてそれに深く関わった人物をご紹介
なったそうです。当時の教皇庁としては、多く
しようと思います。
の民衆を取り込んでいたプロテスタントに対
まず、オラトリオ とはどんな音楽を指すの
抗するため、民衆を取り込む力の強かった
か、
ということですが、簡単に言ってしまえば、 ネーリの教えを参考にしたかったのでしょう。
「キリスト教の宗教的な内容を持つ劇的作
さて、祈りの中で何度も神秘的な体験をし
品」
となるでしょうか。今ではほとんど使われ
たネーリは死の27年後の1622年、列聖され、
ませんが、日本語では 聖譚曲 と訳されてい
聖フィリッポ・ネーリとなりました。彼自身が、
たようです。聖なる物語を扱った音楽という内
オラトリオ の登場人物となり得る存在となっ
容はこの訳語からも類推できます。語源を探
たのです。
そして実際に彼を主役としたオラト
ると元々オラトリオとは祈祷所を意味した単
リオが登場しました。それがアレッサンドロ・
語だったようで(ラテン語でoraは祈りを意味
スカルラッティの『 聖フィリッポ・ネ ーリ』
します)、神に捧げる祈りを歌にしたところか (1705年)
です。
ら始まったと言われています。
その祈りの歌を
この作品は、ネーリ自身が、信仰、希望、愛
実践し、オラトリオ という音楽ジャンルの成 (慈愛)
という概念と対話する中で、勇気付け
立に大きく寄与したのが、
フィリッポ・ネーリと
られ、信仰を強くしていくという内容です。内
オラトリオ会でした。
容だけ示すとなんだか宗教的過ぎて取っ付
フィリッポ・ネーリは、1515年フィレンツェ
きにくく思われるかもしれませんが、
これが、
に生まれ、
ドミニコ会の厳格な教育を受けま
実に趣向を凝らした音楽的にもすばらしいオ
した。16歳でローマへ行き、慈善活動に心血
ラトリオなのです。合奏協奏曲の様式を取り
を注ぎ、1551年に司祭となります。
その明るく
入れた冒頭の合奏から、
ドラマティックでヴァ
おおらかでユーモアを欠かさない人柄に惹
イオリンやチェロがオブリガード楽器として活
かれて集まった人々と
「祈りの会」を創立、老
躍するアリアなど、実に多種多様な音楽が次
若を問わず指導を受ける人々が大勢集まっ
から次へと飛び出てくる大変聴きごたえのあ
たそうです。
この会の会合が「オラトリオ」
と呼
る作品です。ただ聴くだけでも面白く、
さらに
ばれる祈祷所で行われていた事から、やがて
内容を理解しながら聴くとより面白いという、
「オラトリオ会」
と呼ばれるようになりました。 聴き込んでいけばいくほど面白みを増してい
ネーリの指導は、祈りを中心に置いたもので、 く作品なのです(例えば第2部9曲目のフィ
▲グイド・レーニ:「聖フィリッポ・ネーリの幻視」
ローマ、サンタ・マリア・ディ・ヴァリチェッラ教会
(キエザ・ヌオーヴァ)
リッポのアリア「私は馬のごとく地を蹴り」で
は、
まさに駿馬が地を疾走するかのような激
しい付点のリズムが刻まれる推進力に満ちた
アリアとなっています)。ヘンデルの作品のよ
うに劇的な合唱や壮大な合奏は出てこない
のですが、その音楽の密度、多様さにおいて、
ヘンデルの最高峰の作品とさえ比肩しうる、
真の傑作と呼べるオラトリオだと断言できま
す。アレッサンドロ・スカルラッティは古楽隆
盛の現在でさえ、正統に評価されているとは
言い難い作曲家ですが、
こうした音楽を聴く
とその偉大さを痛感する事が出来ます。
さてフィリッポ・ネーリは17∼18世紀のイ
タリアではかなりの人気の聖人だったらしく、
絵画においてもよく取り上げられていたよう
です。それらの中では今回掲載したグイド・
レーニの作品「聖フィリッポ・ネーリの幻視」
が 最も有 名な作 品でしょう。これは実 際に
ネーリが活動していたオラトリオ会の総本山
とも言えるローマのサンタ・マリア・ディ・ヴァ
リチェッラ教会に飾られています。天才レーニ
の卓越した技術により、祈りの最中、聖母子の
幻視を見たというネーリのエピソードがその
まま絵画化されています。見上げるネーリの
上には聖母子と無数の天使が描かれており、
なんだか天上の歌声が聞こえてきそうな、
ド
ラマティックな画面となっています。
図らずも オラトリオ という音楽の一大ジャ
ンルの生みの親のような存在となったネーリ
ですが、現在の知名度は高いとは言えませ
ん。
しかし、その明るくおおらかで親しみやす
い人柄で人々を魅了していた彼が、
もし音楽
を用いていなかったら、我々もその後誕生し
たすばらしい数々の教会音楽を楽しむ事は
出来なかったかもしれません。オラトリオ と
いう単語を見かけたら、その誕生に大きく寄
与した好人物フィリッポ・ネーリの名前も思い
出してみて下さい。