ドメニコ・スカルラッティの背景

ドメニコ・スカルラッティの背景
サチヴェレル・シットウェル 著
門野良典 訳
1
2
3
4
A Background
for
Domenico Scarlatti
1685–1757
written for his
two hundred and fiftieth
anniversary
by
Sacheverell Sitwell
1935
Faber and Faber Limited
24 Russell Square London W.C. 1
Printed in Great Britain by
R. MacLehose and Company Limited
The University Press Glasgow
All rights reserved
5
スカルラッティの
学徒にして弟子
ヴィオレット・ゴードン・ウッドハウスに捧ぐ
6
凡例
「A Background for Domenico Scar本書は Sacheverell Sitwell 著,
latti, 1685–1757, written for his two hundred and fiftieth anniversary」(Faber and Faber Limited, London, U.K., 1935) の全訳であ
る.底本には初版本(ハードカバー,168 ページ)を用いた.脚註は
原書中で著者により加えられたものをそのまま配し,その際註を指す
数字は章毎に 1 からの通し番号とした(原書ではページ内のみの通し
番号).また,18 世紀以前の音楽および関連する芸術分野の動向,社
会状況などについて不案内な読者のために訳注を施し,右括弧付きの
番号に対応したものを巻末に纏めて掲示した.
7
目次
1
序
1
2
ナポリ
7
3
ヴェネチア
23
4
ローマ
28
5
ポルトガル
35
6
再びナポリ
45
7
二組の結婚式
50
8
スペイン
57
9
ダブリンへの訪問
73
10
スカルラッティの音楽におけるスペイン固有の表現
76
11
ナポリへの帰還
83
12
エピローグ
88
13
あとがき
102
8
著者付記 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
114
訳注 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
116
訳者解題 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
156
9
1 序
これから以下のページで扱おうとしている主題は如何にも向こう見
ずなものである.同じように重要な芸術家の中でも,これほどわずか
にしか取り上げられない例もないだろう.だが,そのような沈黙の理
由を見つけることもさほど難しくはない.まず第一に,ドメニコ・ス
カルラッティについて実質的に分かっていることと言えば,彼の人生
の主要な日付についてだけである.彼はナポリに,ローマに,そして
マドリードに,とそれぞれ十年ばかりいたが,それで彼についての情
報はおしまいである.ドメニコ自身の消息を伝えるような事物は何も
現存していない.実際,彼からのさして重要でない書簡が二三通残っ
ているだけである.というわけで,この主題についてはイタリアおよ
びスペインでの困惑するような沈黙以外にはほとんど何も材料がな
く,一英国人であるバーニー博士 1) だけが主な情報源である.
これほど論じられることの少ないもう一つの理由は,ある意味語る
べきことがないからでもある.というのも,スカルラッティが書いた
数百曲もの作品はすべて同じ様式の下で構想されたものだが
2)
,そ
れらはおのおのが独立した曲であって相互にまったく関連がない.し
かもクープランやラモーのハープシコード作品が持っているような絵
になる表題も知られていない.その点でスカルラッティのソナタは,
議論の対象として実に不便な代物である.スカルラッティの最も熱烈
な賛美者でさえ,この六百曲になろうというほぼ同じ長さの作品群に
1
ついて,相互に区別する表題もないまま純粋に技術的な検討の結果を
見せられても単に辟易するだけだろう.実際,かってそのようなこと
は誰も試みたことがない.何故ならそれは明らかに達成不可能な仕事
だからである 3) .このようなわけで,彼の作品は依然多くの人々の楽
しみの一部であるにも関わらず,この昔日のイタリアの大作曲家につ
いては情報の欠如,およびこれといった取っ掛かりのなさ.という二
つの事柄が組み合わさってかくも深く長い沈黙が生み出されたわけで
ある.
しかしながら,まずはここでスカルラッティの偉大さを確認してお
こう.作曲家としての彼は,一つの楽器のみに対しそのエネルギーを
集中したという特徴によってショパンと同じような異彩を放ってい
る.その性格という点ではこれほど異なる二人もいないが,ただ一つ
の楽器だけのために作曲を行ったという面では近縁の間柄である.だ
が,こうして相互に名前を引き合いに出したからといってどちらに
とっても相手を貶めることにはならない.おそらくスカルラッティの
側からすれは,単一の様式に,というかそれのみに自身のすべての創
意を溢れんばかりに注ぎ,あれほどの際限もない表現や雰囲気の多様
さを込めることが出来たという点で,彼の天分はショパンよりも遥か
に驚異的と言ってもよいだろう.これらの短い作品群は時間にしてせ
いぜい二三分程度のものだが,相互に異なった雰囲気を表現するとい
う点で実に見事である.これほどショパンと違った作曲家はいないと
いうことは既に断った通りで,彼の名に言及した理由は単にスカル
ラッティの偉大さが彼に比すべきものであることをはっきりさせる
2
ためだけなのである.実際,スカルラッティをリストと比較する方が
もっと容易であろう.両者にはショパンにはないある種の技巧的な気
配で共通するものがある.もちろんそれはスカルラッティの演奏家と
しての類い稀な腕前が反映しているからである.
演奏という立場から見てのドメニコ・スカルラッティの重要さは,
彼が知られている限り最も優れたハープシコード演奏者であったと
いうことにある.この点について,ヘンデルという証拠
4)
は最終的
な結論とされるべきものである.他のいかなる偉大な音楽家もこの種
の技芸の専門家ではなかった.我々はバッハの素晴らしい演奏を想像
し,あるいはモーツァルトの卓越した技能や即興についての直接的な
報告を信じるものではあるが,いずれの場合もこの楽器はそういった
活動の一部分をなすに過ぎず,彼らの偉業の一側面でしかない.リス
トが現われる以前,ドメニコ・スカルラッティは歴史上最も偉大な鍵
盤のヴィルトーゾであった.
スカルラッティが卓越した演奏技巧の持ち主だったことについて
は,彼の人生の状況に直接関わっている音楽の中にそのいくつかの理
由が見いだされる.彼の作品は生前にはほとんど出版されることがな
く,従って初心者のためにその装飾音を簡単にするなどといったこと
は彼にとって全く関心の外であった.それらは彼自身の演奏のためだ
けに作曲されており,個性的であるという点ではおよそ一世紀の後,
リストの最も初期の見せ物的な作品が現れるまではピアノ音楽の中
にも全く例がないほどである.これらリストの作品においても技巧性
はそれ自体で目的になっている.スカルラッティ,リストいずれの音
3
楽も演奏家に対して最高度の技能を要求する点では共通である.しか
し,もちろん両者は単に一世紀の時に隔てられているというだけでは
ない.それぞれの技巧性という点では彼らが同じ次元に属していると
しても,その発想と主題においてはほとんど重なるものがない.何故
ならスカルラッティはおよそ彼自身およびその庇護者だけのために
作曲したからである.つまり,仮に表面的な技巧の華やかさにおいて
スカルラッティとリストの間に類似点があるにしても,前者の音楽は
リストの技巧魔的な意図によるものとは全く異なった種類のもので
あり,資質の豊かさ,想像力の多面性といった点においてスカルラッ
ティはむしろショパンに肩を並べるのである.
彼の作品はその生前に版刻されることはほとんどなかったが*1 ,ア
マチュア演奏家が入手出来る限りの手稿本を蒐集した.聞くところに
よると,サンチーニ僧正(1778 年–1862 年)は少なくとも三百四十
九曲のスカルラッティによるオリジナル作品,あるいはソナタを所有
していた.時が経ち,彼が演奏するのを聴いたことがある人々が絶え
てゆくにつれて,スカルラッティの音楽も丸ごと忘却の彼方へと消え
ていったに違いない.その復活がリストのおかげだったことは重要で
ある.人々をスカルラッティへ注目させ,ウィーンで 1839 年に出版
*1
ドメニコ・スカルラッティは唯一冊,
「ハープシコードのための練習曲(Essercizi
per gravicembalo)」を出版したが,それはアストリア皇太子に献呈され,1746
年以前にヴェネチアで印刷されたものである.
(訳注:この注釈はファリネッリ
からの情報としてバーニーによって伝えられたものだが,その後の研究により
「練習曲」は 1738 年あるいは 1739 年初頭にロンドンで出版されたことが明ら
かになっている.)
4
されたツェルニー編集による二百曲のソナタを率先して予約したの
は彼である.しかし,スカルラッティの信者達は常にある一定の範囲
でウィーンに存在していたように見える.というのも,スカルラッ
ティの第一の権威であるバーニー博士は,その詳細な情報の大部分を
幸運にもウィーンで会うことの出来た様々な人々から得ているから
である.中でも主要な人物はマドリードでスカルラッティの侍医だっ
たロージエ博士であった.だがこれは 1772 年のことで,次の世紀,
1830 年代までにはスカルラッティのウィーンにおける信奉者達はほ
とんど消滅していたに違いない.というわけで,やはり最初にスカル
ラッティを再発見した功績はリストに帰せられるべきもので,それに
ふさわしく 1839 年版は彼に献呈されている.すべて,あるいはほと
んどすべてのスカルラッティの作品が印刷された版によって利用可能
になったのはようやく 1910 年,アレッサンドロ・ロンゴによって五
百四十五曲のソナタ全曲版十一巻が出版されてからである 5) .
音楽における彼の位置づけについて,いくつかの一般的な記事に
よって我らが英雄の偉大さと重要さを確かなものにしたところで,今
度はその個別的な事柄に立ち入る必要がある.スカルラッティについ
て分かっている正確な情報としては,高々二ページかそこらを埋める
程度のものでしかない.それ以上詳しいことが分からない以上,我々
の目標としては彼の背景,あるいは周辺を照らすことによって,彼が
成そうとしたことすべての類い稀な特徴をより容易に理解できるよう
にすることでなければならない.というのも,スカルラッティをこれ
ほど魅力的なテーマにしているのは正にこの情報の欠如そのものだか
5
らである.この困難に対する唯一の可能な解決策は,彼の音楽に注意
深く耳を向け,彼の周辺の事物を色鮮やかに描き出すことである.そ
してこの作業は我々を歴史上最も奥まった場所へと導くというさら
なる楽しみをもたらしてくれる.当地は言うなれば閉ざされた趣味の
小部屋とでも呼ばれるべき世界である.この時期の両シチリア,スペ
イン,およびポルトガルの忘れられた歴史について,専門家ならもっ
と別の方向でよりよい仕事をしたであろうが,我々としても長年にわ
たって興味を抱いてきたことを言いわけにしてこの課題に取り組ん
でみることにしよう.もっとも,専門家であればあるほどこれら忘れ
られた人物達に対してはより冷淡でもあり得るだろう.それにしても
この段階で彼らにご登場願わなければならず,一方で,彼らについて
の情報がドメニコ・スカルラッティの功績についての新たな見方をも
たらし,新しい外観を与えられたその背景が,ドメニコに—というよ
り彼のみに—属する独特の性格を説明することに役立つのはおそら
くずっと先のことでしかない,というのは何とも残念なことではあ
るが.
6
2 ナポリ
幕が開くとそこは地中海である.だがその波しぶきは日がな誰彼に
かまわず降りかかっている.何故なら誰もその輝きを目に留めないか
らである.海辺はといえば漁師と「乞食(lazzaroni)」で溢れてはい
るが,その意味では無人島の初々しい砂浜の如くあられもない姿であ
る.実際,海は空席の劇場に対してではなく,舞台から目をそらし桟
敷席を見上げてばかりいる観衆に向って演技をしているのだ.これは
街中すべての家が日差しを遮るために建てられ,そのせいで海側の窓
はブラインドか鎧戸で覆われているからである.もちろんその街とは
ナポリのことである.雑踏の中,あるいは街中の歌声からもそれとす
ぐ分かるだろう.
この永遠の都ではちょうどその熱い活気が最高潮に達しようとして
いる.それは「南」の首都,一つの巨大で永続的な都市である.これ
がバルコニーや展望台からナポリを一望して誰もが抱く印象だ.それ
だけでなく,我々がそれについて書いている当時,人口という点でナ
ポリに匹敵するような都市は全ヨーロッパ中でも他にたった二つしか
存在しなかった.それはロンドンとパリである.修道士と修道女の街
ローマの路が人で溢れるなどといった懸念はほとんど無用であった.
ヴェネチアは衰退しつつあった.イタリア中で随一の大都会といえば
ナポリだった.これは議論の余地のない事実として,以下でその街の
声に耳を傾けているのが何年のことなのかを明らかにする前にはっ
7
きりさせておかなければならない.街からは混乱した音の喧噪が立ち
上っている.テノールの歌声が辻々で聞こえ,彼らの歌は露天商の叫
び声でかき消されあるいは中断される.サンタ・ルチアの港はカキと
マカロニを食べる人々で溢れている.ヴァイオリン弾きやハープ奏者
は気の向くままに船着き場で楽器を奏でる.湾の穏やかな水面さえギ
ターのつま弾く音を返すかのようである.実際,そこは音楽の王国な
のである.さて,今やそれが 1685 年であることを,そしてその日付
を選んだわけが件の人物,我々がこれからその活動について調べてみ
ようとしている人物の生まれた年だからである,ということを明かし
てもよいだろう.
以下は,一世紀後にバーニー博士が彼の「音楽の旅(Musical Tour)
」
の中でナポリについて語った部分である:「私はイタリアであらゆる
音楽的贅沢と洗練によって我が耳を楽しませることが出来るとすれ
ば,それはナポリでしかないと期待していた.他の都市への訪問は仕
事の一環であり,自分自身に与えた課題をかたづけるためのもので
あった.しかし,その地には喜びへの期待に胸を弾ませながら着い
たのだった.二人のスカルラッティ,レオナルド・レーオ 6) ,ペルゴ
レージ 7) ,ポルポラ 8) ,ファリネッリ 9) ,ヨンメッリ 10) ,ピッチン
ニ
11)
,トラエッタ
12)
,サッキーニ
13)
,そして声楽,器楽を問わず
他に無数の第一級の輝かしい音楽家達を輩出した場所にあって,音楽
の愛好者たるものが最も楽天的な期待を抱く以外に一体何をするべき
というのだろうか?... 音楽の演奏の仕方においても,ナポリでは他の
どこにも比べるべくもない,恐らく世界中どこにもないようなエネル
8
ギーと炎に満ちている.それはほとんど憤激と紙一重の情熱であり,
緩やかにまた地味に始まった楽章においてさえも最後にはこの性格が
噴出してオーケストラをめらめらと燃え上がらせる,といったことが
ナポリの作曲家に共通して見られる.毛並みのよい馬の如く,彼らは
支配されることに我慢できず,その動きを能う限りの速さまで懸命に
加速する.ジョンソン博士 14) によれば,シェークスピアは悲劇にお
いて常に喜劇になる機会を伺っているとされるが,オーケストラの様
は正にそのような風情である 15) .」
このような文章は消え失せて忘れられた世界に光を当てないだろう
か?というのも,バーニー博士が言及した作曲家達は,若い方のスカ
ルラッティという孤立した例外を除いて現代世界にとっては完全か
つ全面的に無名だからである.そして我々の関心の的は正にこの若い
方のスカルラッティであり,彼は 1685 年 10 月 26 日にナポリで生ま
れた.彼の父であるアレッサンドロ・スカルラッティはより幅広い才
能の持ち主にしてもっと堂々たる偉人であり,軽くて洗練されたロコ
コ趣味が誕生する直前,スペイン的偉大さが凋落する時期に属してい
る.スペインの副王に支配されたナポリは,陰鬱さと放縦さが同居し
ているという点で恐らくマドリードやセヴィリアよりもっと深くま
た完全な典型例かもしれない.だが,その喪に包まれたような雰囲気
は,生来意気軒昂として快活なナポリ人にとって常に破壊と反抗の対
象であった.貴族といえば,その大部分にはノルマン人かアラゴン人
の血が流れており,みな教会に兄弟姉妹がいたと言われているが 16) ,
彼らは時として陰で陰謀や抗争に手を染める一方で,それとは対照的
9
な儀礼の陰鬱さの中に生きていた.だがこの情熱的性格は,それを気
ままに楽しめる富裕階級だけのものでもなかった.というのも貧しい
階級の活力は法律やお城の伝統に支配されることなく,生き生きとし
た身振りや劇的な芸術,あるいは即興の天分といったものの中にその
直接的な表出先を見い出したからである.そして,何と言ってもそれ
は音楽の中においてであった.
この芸術における彼らの才能という点で,年長のスカルラッティこ
そは最も卓越した主人公の一人である.彼は音楽について知られてい
るありとあらゆる形式,特にオペラについて実験を行っており,現在
用いられる古典音楽の語法すべては彼の創意によるものとされてき
た.実際,アレッサンドロはイタリア古典音楽の作曲家中で最も偉大
な人物である.しかしながら,彼の音楽は我々の耳にとって完全に未
知のものだ.その重要性を確認するためにヴィニョーラ 17) あるいは
ベルニーニ 18) を持ち出さなければならないとは,一人の芸術家の身
に起こったこととはいえ,これは実に奇妙な運命である.
アレッサンドロ・スカルラッティはナポリ楽派の栄光であったが,
彼はナポリ生まれではなかった.しかも,確たる証拠もなく彼はシチ
リアのトラパニ生まれと信じられており
19)
,その街は他のイタリア
のどこからも遠く隔絶しているという点ではアウター・ヘブリディー
ズ諸島
20)
の港町の一つに例えられるほどである.だが,トラパニ
とナポリは直接航路で結ばれており,アレッサンドロ・スカルラッ
ティが幸運を求めてやってきたのもかの街であった.彼は 1684 年か
ら 1702 年まで,そして再度 1709 年から 1719 年までそこで暮らし
10
た.彼が 1702 年にナポリを去ってフィレンツェ,さらにローマへと
移り住んだ時,息子のドメニコは十七才であった.従って,ドメニコ
の音楽教育はナポリにおいて行われたに違いなく,それはバーニー博
士が称賛する例の音楽学校の中であっただろう
21)
.かくも時を経た
現在においてそれら学校の質を評価することは不可能だが,全くの忘
却の彼方に失われたナポリ楽派の遺産がどれほどのものであったかを
示すものとして,E. J. デント教授の「アレッサンドロ・スカルラッ
テの生涯」から以下の言葉を引いておこう.「確かに言えることとし
て,アレッサンドロ・スカルラッティの最上の弟子はモーツァルトで
ある.我々が基本的にモーツァルト風だと大雑把に考えている諸々の
様式的特徴は,モーツァルトが前半世紀のイタリア人達から学んだも
のである.実際,モーツァルトはある程度までスカルラッティの仕事
を再現し,自身の中でレーオの巨大な力強さ,デュランテ 22) とペル
ゴレージの甘美さ,ヴィンチ 23) のエネルギッシュな俊敏さ,および
ロリオスチーノの際どいユーモアといった要素を,スカルラッティだ
けに属していた旋律の高貴な美しさと統合したのである 24) .」これは
いわばドメニコ・スカルラッティの隣の教室での様子というべきもの
であった.
ナポリでは作曲だけでなく,演奏においても他のどこにも見られな
いほど多くの機会が与えられていた.この点に関しては,世紀の終わ
り近くの著作であるバーニー博士の記事中にも豊富な証拠が見られ
る.しかも,これから引用する以下の抜粋を読むに際して注意すべき
点は,バーニー博士の訪問当時,既にナポリの音楽学校は衰退しつつ
11
あったということである.ドメニコ・スカルラッティの若年時代はこ
れらの記事からおよそ二世代前,ナポリ楽派の様式がまだその純粋さ
を保っていた時期に属している.この初期の時代,史上最も偉大な歌
手達がナポリで養成されていた.ファリネッリ,カッファレッリ,セ
ネジーノ,エジツィエッロといった以下のページの中で再び出会うこ
とになる名前はドメニコ・スカルラッティの同時代人であった.彼ら
はすべてカストラート,あるいは男性ソプラノで,つまりはあの残酷
な手術の産物だったが,初期のロッシーニに至るまでのイタリア・オ
ペラの栄光の真の理由は彼らの存在にあったのである.
カストラート歌手にまつわるあらゆる疑問は,音楽史の中でも最も
好奇心をそそる章を形成している.彼らが史上最も完成した歌手で
あったことは疑いなく,その音楽教育についてのバーニー博士の記事
は短いながらも大変興味深い.バーニーはナポリの音楽院訪問につい
て記述しており,寄宿舎にいるカストラートとも会っているが,その
様子は後宮や金角湾のこちら側ではなかなか見る機会がないもので
ある.既に時代が下った当時はそれほど多く残ってはいなかったもの
の,スカルラッティがまだ若かった頃のカストラート達はその絶頂に
あり,音楽院は花開いた野心家達で溢れていた.
以下はバーニー博士の言葉である 25) :
「今朝若いオリバーとともに
彼の聖オノフリオ音楽院に行き,少年達がそこで練習し,眠り,食事
をとるすべての部屋を訪ねた.階段で最初の段から飛び上がったのは
トランペッターで,勢いよく吹く準備ができるまで楽器に向かって大
声を出していた.二段目はフレンチホルンで,同じように唸ってい
12
た.共通の練習室ではいわゆるダッチ・コンサートというものが行わ
れていて,七八台のハープシコード,それよりも多いヴァイオリン,
沢山の歌声,これらがみな違うことを違う調性でやっていた.他の少
年達は同じ部屋で書き物をしていた.それでも休日だったので普段こ
こで勉強や練習をする者の多くが不在であった.」
「同じ部屋にあるベッドはハープシコードや他の楽器の椅子として
使われている.三十人ないし四十人の少年が練習している中で,同じ
曲を練習しているのはたった二人しか見つからなかった ... もう一つ
の部屋ではチェロが練習していた.さらにフルート,オーボエ,その
他の管楽器が三つ目の部屋で,ただしトランペットとホルンを除いて
である.彼らは階段か屋上で遠慮しながら練習せざるをえなかった.」
「この音楽院には十六人の若いカストラートがいて,彼らは風邪を
引かないよう,他の少年達より暖かい宿舎の上階に自分たちだけで静
かにしていた.というのも風邪をひくとその繊細な声が目前の演奏に
適さなくなるだけでなく,声そのものを完全にかつ未来永劫失ってし
まう危険があったからである.」
「これらの学校で年間の休暇といえば秋であり,しかもそれはたっ
た数日である.少年達は冬場には夜明けより二時間前に起床し,その
時点から夜八時まで,夕食の一時間半を除いてぶっ通しで練習する.
何年も続くこのような忍耐に才能とよい教育が伴えば,必ずや偉大な
音楽家達を生み出すに違いない.」
この,スクィーア博士 26) のアカデミー,後宮,およびトランぺッ
ト工場といったものの混合物は,バーニー博士によってまるで我々の
13
目前にあるかのように活写される.彼は後の方でカストラート達の製
造に関する調査結果について述べている.その習慣は既に当局によっ
て非難されており,彼らのほとんどはアプーリアのレッチェ出身で
あった.その地域はロココ芸術の一大中心地であり,ナポリと同じぐ
らい数多くの作曲家や歌手がそこから輩出したが,彼らの教育は例外
なく首都で行われた.アプーリアは法律の令状が及ぶ範囲からは少し
外れていたのかもしれず,そのおかげで首都ならば処罰を科せられる
ような手術を行うことができたのであろう.しかし,この野蛮な変身
によって声を保持するという目的が如何に希にしか成功しなかったか
を示す証拠として,声を潰してしまった多くのカストラートの歌声が
教会の合唱隊,時には街頭でさえ聞かれる,とバーニー博士は書いて
いる.
同じ日の後半について,バーニー博士はナポリに良質の音楽がふん
だんにあることを例示する小景を報告している.「この日,大臣閣下
と夕食を共にするという栄に浴し,午後には一人の肥った聖ドメニコ
会の修道僧の演奏で大いに楽しませてもらった.彼は喜劇の歌を演奏
しに来ており,自身でハープによる伴奏をしながら,ピッチンニとパ
イジェッロの軽喜歌劇の中にある数多くの滑稽な場面を引いて,カ
ザッチア 27) にほとんど劣らない喜劇の力強さと,彼より遥かに優れ
た美声でもってそれらを歌って見せたのであった.」
かの南国の街では,当時の一日はこんな風であった.というのも,
ナポリといえば何にも増して音楽だったからである.これが黄金
の浜辺の風土であった.ナポリとは音楽そのものを意味していた.
14
これこそはあのジャン・ジャック・ルソーが彼の音楽辞典中の「風
土(Genius)」という項目に記したことである.「Vas, cours, vole á
Naples.(行け,もちろんナポリを盗みに.)」彼の頭の中では二つの事
物が同義語であった.音楽とはナポリの芸術であり,それは正にヴェ
ネチアにとっての絵画と同じである.今日我々がナポリを想うときに
忘れているのはこのことである.
その街は音楽における世界の中心であり,この章の始めの文章はそ
の特異な性格へと読者の注意を引くように案配されている.街の古い
家は湾を見渡す絶景に背を向けるかのように建てられていることに気
づく.海は演技をしているかのように描かれ,その演技は空席の劇場
に対してではなく,舞台から目を背け,常に桟敷席ばかりを見上げて
いる観衆に対してのものである.これはナポリの住人達が外での気晴
らしよりは自分達の内輪の問題により強い興味を抱いていることを
表現するやり方の一つである.スカルラッティを描写するにあたり,
これによって彼が他のあらゆる生粋のナポリ人達同様,浜辺の輝く水
上風景よりは街の楽しみに興味を持っていた,という風に語ること
が容易になる.現実主義的な人生観を持つナポリ人は,単に「別荘生
活(viilleggiatura)」,あるいは聖人の祝日にピクニックに出かけるだ
けのために田舎に通うのである.また田舎へ行くにしても,それは夏
の暑さの中で涼を求めてだけのことであって,その冷気や涼風といっ
た実利に比べれば綺麗な眺めなどどうでもよいのだ.そして一年の残
りの間,彼らはこれ以上ないほど密集して建てられた家々の中で身を
寄せ合っているのである.比較的静かなのはシェスタ(昼寝)の時間
15
帯だけで,残りは一日中声の喧噪に溢れ,夜の時間が一日の中で最も
騒々しい.
これが「南」の首都である.我々が話題にしている当時,そこでは
現代の都会の空虚な喧噪よりはましな生活の充実があった.少なくと
もジャズ音楽というその街に固有の音楽を持っているニューヨークで
すら,そのスケールという点ではトレド通り(Via de Toledo)の周辺
で見られたであろう目や舌を楽しませる生活の豊かさに比べるべくも
ない.これが古いナポリのブロードウェイだった.そして,そこには
今の時代の劇場や映画館はなかったものの,ごちゃ混ぜになった宗教
行事の行列や単なる見物人の方が,銀幕上の登場人物全員,あるいは
劇場から通りに溢れ出た全観衆と比べてさえ遥かに絵になっていた.
異なる宗派に属する修道士と修道女について,その現われる順番に参
照してみるのもよいだろう.というのも,ナポリは他のどの都市より
も大きな人口の修道僧達を抱えていたからである.巨大なショヴェル
型の帽子を被った「セヴィリアの理髪師」中のドン・バジリオのよう
なイエズス会師達:靴を履いた,あるいは裸足のフンラチェスコ修道
会師:その格好から名前を採った白黒の装束のドミニコ会師:聖マル
タンのベルベデーレ(展望台)から街へと降りてきた,アトラス山脈
地方のイスラム教徒のような白装束のカルトゥジオ修道会師:名前の
ごとく黒装束に身を包んだ聖フィリッポ・ネーリ 28) のオラトリオ修
道会師:黒地に赤い十字架のトリニティ修道会師:白い隠者姿のカマ
ルドル修道会師:その薬剤部で最上の香油が作られ,ナポリで最も有
名なポマードに混ぜられるオリヴェト山の修道僧達:ベネジクト修道
16
会師,セルヴィテ修道会師,カプチン修道会師,セレスチン修道会師,
セアチン修道会師,等々,これらすべてともっと多数の修道士達であ
る.修道女の方もこれに劣らず夥しい:聖キアラ会の修道女達,彼女
らは貴族の生まれで,それぞれ二人の小間使いを従え,修道院から出
ることは許されなかったものの,ぶどう棚の庭の中,喜劇の情景の図
柄のマジョルカ・タイルで覆われたベンチの上で催されるサロンの集
まりには最上の賓客が集っていた:これら王女の従者達から,茶色の
ローブにサンダルを履き,幅広の麦わら帽を頭巾とともにきつくその
顔に縛り付けていたカプチン修道会の托鉢尼まで,さらには,気の向
くままに移動しては托鉢する路上の修道女達から,黒と赤の豪華な衣
装に身を包み,ナポリ中で最も贅沢なロココ風の生活をしている聖
グレゴリオ・アルメノ会の修道女達まで,と実に多彩である.これら
様々な修道会は,自分たちの発案になる特別な甘い菓子類を決まった
機会,ある特定の季節,ある祭事,結婚の祝宴,あるいは普段の晩餐
会の席で販売するという特権を有していた*1 .これらチョコレート,
あるいは橙花油,ベルガモットまたはライム風味の砂糖菓子は,修
道院同士の競争もあって百種類もの異なる形へと多様化し,氷菓子,
シャーベット,菓子の類は職務上ですら完全に異教的な名前で呼ばれ
ていた.
*1
この手の習慣についてはイタリア中でその例が見られる.例えばペルージアで
は,聖ルチアの修道女達はそのピニョカーテ(pignocate)とオッサ・ディ・モル
テ(ossa di morte)という骸骨の異なる骨の形に焼かれ砂糖をまぶしたケーキ
によってイタリア半島中で有名である.ラランデ,
「イタリアの旅」iv,p. 270
を参照.
17
これが仮に何にも増してその行列や聖人の祝祭で世界的に有名な都
市の街路における宗教的な見せ物だったとすれば,そこにはまた潰え
ぬ幻想を抱き続ける由緒正しい物乞い達もいた.何しろ彼らは二千年
来そうやって見物のために都に詣でることを仕事と心得ているからで
ある.さらには軍隊もいた.ただし,その兵士達よりも衝撃的なのは
群衆の中で目立っている不幸なガレー船の奴隷達であった.彼らは鎖
をじゃらつかせながら武装した警護兵の下を対になって役務の場へと
行進していった.その囚人服の様々に異なる色は彼らが犯した罪を表
していた.何人かは血のような赤い服で,それは殺人の色であった.
明るい黄色は詐欺と不品行を表していた.このように彼らはその恥辱
の中で街中を引き回されていった.
商店はといえば,今日においてさえナポリの比較的貧しい地区でも
そうであることを思い出すべきだが,これらは東洋風のモデルに習っ
た造作をしており,通りに向って開け拡げで,奥の暗がりは寝室や居
間の役を果たし,その店先には果物や野菜のありとあらゆる明るい色
彩,宗教関連の小物屋のロウ細工や金ピカの人形,あるいは安物の派
手な小間物,こういったものすべてがところ狭しと区別なく並べら
れ,少しでも光が当たるところで通りがかりの客の目を引こうとして
いた.戦慄を誘う血なまぐさい肉屋の店先に隣接するのは,メロンや
瓜を一杯に並べた店だったり,あるいはモッツァレラチーズの小総を
扱う店もあれば,無数に異なる形と大きさのマカロニを売る店もあ
る,といった具合である.このような街自体の色合いに加え,ナポリ
平原に住むカンパニア属の農民達は,古代から伝わる目も眩むように
18
多彩で贅沢な金細工の宝飾を施した民族衣装を纏っていた.あるい
は,ぶどうつるが高く伸びるカプア平原からまっすぐに街の中心まで
やってくるのは,伝統の白装束,ワイン染みの付いたプルチネッラの
白を纏った人々で,それらは夏場に農地で働いている時には裸になる
ためにすぐに脱ぎ捨てられ,またそうして彼らはぶどう棚の間であた
かも裸体像の時代,彫刻の黄金時代がいまだ続いているかのように裸
ではしごの上に立っていた.ゲーテはそのイタリア訪問の折に彼らに
ついて記しており,そこで彼は裸の男達が馬に乗って海へと入って
いくあの異教的な光景を目のあたりにしている
29)
.それに劣らず裸
だったのは「乞食(lazzaroni)」,あのだらだらと托鉢をする海辺の物
乞い達である.その数はナポリ中で四万人を超えていた.カプリやイ
スキア出身の漁師とその連れ合い達の姿は,現代芸術にとって失われ
た可能性の一つとして直ちに我々に理解されるべき規範を表してい
た.それは海辺で見られる古代風の女性達がピカソのモデルであった
頃,彼の天才の一断面を正確に擬人化したようなものである.彼女達
が砂浜に沿って走り,あるいはびくを片手にポーズをとる様は,あた
かも現代絵画が最も偉大であり得た時代の始まりにあるかのようで
あった.
この文脈で訂正する機会を与えられるべき誤った見方として,ドメ
ニコ・スカルラッティの生きていた時代のナポリには見るべき画家が
いなかった,という見方があろう.これはまったく真実からはほど遠
い.ナポリ派の欠陥はといえば,それが小規模な形で伝承されるには
あまりに豪壮に過ぎたということである.彼らはフレスコ画の巨匠で
19
あり,イーゼルの上に載るような絵の画家ではなかった.当代随一の
画家はソリメーナ(1657 年–1747 年)であり,偏った趣味の持ち主
でなければ,ナポリの聖パオロ・マジョーレ寺院の聖具室にあるシモ
ン・マグスの壁を飾るフレスコ画を眺めることで,ソリメーナが嫌わ
れ者の「機械論者」の中でも第一人者であることを認めるであろう.
彼の傑作は恐らく「ヘリオドロスの歴史」であるが,それはジェズ・
ヌオーヴォの巨大な教会の壁面すべてを覆い尽くしている.彼の手に
なるその他のフレスコの佳作としてはモンテ・カッシーノの修道院教
会にあるものや,同じく奇妙に場違いな環境にある作品としてアッシ
ジの修道院の食堂のものがある.その弟子,フランチェスキエッロと
して知られているフランチェスコ・ディ・ムーラ 30) は無名の大画家
である.ナポリ中でムーラの作品を擁しないような教会は皆無と言っ
てもよい.だが,その最上の作品はナポリの上手にある聖マルタン・
カルトゥジオ修道会で見られる.ナポリ絵画への攻撃に対して反論す
るためにもう二人名前をあげるとすれば,それはセバスチァーノ・コ
ンカ 31) とジュゼッペ・ボニト
32)
であろう.前者の手になるナポリ
の聖キアラ教会にあるフレスコ画,あるいはまたシエナの聖マリア・
デラ・スカラ慈善院の礼拝堂にあって一つの特別な事件とでもいうべ
き「プロバチカ」,あるいは「シロームの池」33) ,そのトリックのよ
うな透視図中の列柱を伴う作品は,彼の腕前がどれほどだったかを示
す証拠である.かの「プロバチカ」は聖バーソロミュー病院にあるホ
ガースのフレスコ画 34) に匹敵するともいえるだろう.
同時代の建築家と言えば,ナポリにはあの偉大なフェルディナンド・
20
サンフェリーチェ(1675 年–1750 年)がいた.彼は,フィッシャー・
フォン・エルラッハ 35) がウィーンにそうしたようにナポリにその足
跡を残した.サンフェリーチェは正確にドメニコ・スカルラッティと
同時代人である.彼は巨大な宮殿のデザインに長けており,その中で
は貴族達が未婚既婚を問わず大勢の関係者と同居していた.一方で彼
が得意としたのは幾何学的に二重の構造を持つ階段であった.二つ例
を挙げれば,セッラ・カッサーノ宮,および彼自身の豪邸である.後
者は依然彼の名前で呼ばれており,二つの部屋はソリメーナの最も美
しいフレスコ画で飾られていた.だが,今やそれらは白い上塗りを施
されており,その記憶すら失われてしまった.サンフェリーチェのも
う一つの佳作は聖ジョヴァンニ・エ・カルボナーラの修道院にある彼
の階段である.その図書館は一つの稜堡上に星形に広がっている.サ
ンフェリーチェは建築家であるとともに詩人兼画家であり,音楽をよ
くしたことでも知られる.彼がスカルラッティと知古であったことは
如何なる合理的な疑いをも入れない.その他の群小芸術家はさてお
き,ソリメーナとサンフェリーチェという二人のエネルギッシュな芸
術家を擁していたナポリという街が絵画芸術に事欠いていたなどとい
う非難はあたらない.彼らの匠みは,あれほどふんだんにある音楽か
らの理にかなった当然の帰結に過ぎない.
実際,偉大な音楽家が幼時と青年期を過ごすのにナポリほど素晴ら
しい中心地はなかった,という確信を持って我々はナポリを去ること
が出来よう.もしその街の活発さが我々を必要以上に引き止めたと
すれば,その生涯についてほとんど知られていないドメニコ・スカル
21
ラッティのような場合には,彼の置かれた特定の環境の状況を知るこ
とが決定的に重要だからである.音楽はナポリの魂であり,その音楽
について触れることなくナポリに言及することは無駄であろう.もし
それが今や忘れられてしまったとすれば,それはあたかもヴァネチア
絵画全体が消滅し,一点の作品も残らず名前のみが残っているかのよ
うなものである.仮に平均的な人間はドメニコ・スカルラッティの作
品を一つ二つしか知らないとしても,彼が当時のイタリア時代の唯一
の生き残りであるという事実は,それ自体でその出生の背景について
のこの長々しい記事を提示する十分な理由になるだろう.
22
3 ヴェネチア
今や我々はナポリを発つ時であり,そしてドメニコ・スカルラッ
ティが向ったのはヴェネチアであった.1708 年の一年間,彼はそこ
でガスパリーニとベルナルド・パスクィーニの下で学んだ.ヴェネチ
アは,音楽の中心としてはナポリの次に過ぎなかった.そして当時の
ナポリとヴェネチア両方を描写するにあたり,恐らく「ダンシアド
(The Danciad)」の第 4 巻からの引用に勝るものはないだろう
36)
.
詩人はそこで偉大な芸術の都への想像上のグランド・ツァー 37) を描
いている:
To happy convents, bosomed deep in vines,
Where slumber abbots, purple as their wines:
To Isles of fragrance, lily-silvered vales,
Diffusing languor in the panting gales:
To lands of singing, or of dancing slaves,
Love-whisp’ ring woods, and lute-resounding waves.
But chief her shrine where naked Venus keeps,
And Cupids ride the lion of the deeps;
Where, eased of fleets, the Adriatic main
Wafts the smooth eunuch and enamoured swain.
23
ぶどう棚に深く抱かれし幸福な修道院へ,
そこにはまどろむ修道士達の,ワインのように紫の顔:
香り漂う, 百合のように銀白色の谷の島々へ,
うなる強風のなかで,広がる気怠さよ:
奴隷のように歌う,あるいは踊る者達の地へ,
愛を囁く樹々の,そして琵琶の如く響き渡る波の地へ.
しかしその社殿を守る主は裸身のヴィーナス,
そしてキュピドは深淵のライオンに跨がる;
そこでは艦隊が船足を緩め,アドリアの大海原では,
髭のない宦官や女に心を奪われた色男たちが漂う.
これらの行を読んでいると,熱い南方からヴェネチアへとまるで魔法
で移動したかのようである.カプリとイスキア,崖に咲く黄水仙や
らっぱ水仙の香りが漂う島々が,水仙の広がるパエストゥム 38) の平
原と同じ呼吸の中で喚起される.すると,詩は魔術的な爬行,言葉の
覚醒剤によって,あたかも丘の上で想起されたローマからヴェネチア
の退廃へと移りゆく.その街の永続する謝肉祭の一断面として,深淵
へと堕ちたライオン 39) がキュピドに跨がられ,花冠に飾られて朽ち
ていく様が描かれ,一方でその腐敗の経済的な側面は裸身のヴィーナ
スの殿社に露になっている.一番最後の対句は衰退の驚くべきイメー
ジで,文字通りボスポラスの腐った水が大理石で出来たヴェネチアの
埠頭に打ち寄せるかのようだ.波間を滑るカイーク 40) はゴンドラに
置き換えらる.すると次の瞬間,セネジーノあるいはエジツィエッロ
24
の声が,名もないままに水面の上に響くかのようである.実際,これ
以降ヴェネチアの退廃について言うべきことは何もない.あらゆるす
べてがこの最後の対句にある.
しかしながら,ヴェネチアでの彼の滞在については報告されるべき
出来事が少なくとも一つある.そしてこれによりスカルラッティは
我々英国人に属する最も興味深い,また忘れられた天才と直接的に関
わりを持つのである.しかも,語り手はバーニー博士に口述してお
り,彼の実際の言葉によって描かれているのだ.それはトマス・ロー
ジングレイブという人に関するもので,彼は音楽一家の出であり,恐
らく英国の音楽史上最も著名な「挫折した天才」の例であろう.その
当時,ロージングレイブは齢二十歳かそこらで,イタリアで修行中で
あった.バーニー博士が記して曰く,「ロージングレイブ自身が語る
ことには,彼はローマに行く途中ヴェネチアに到着し,ヴィルトーゾ
の異邦人としてある貴人の館での芸術団体(academia)の会合に招
待された.そこで彼は衆目の中ハープシコードの前に座らされ,一座
の人々をその『名人芸(della sua vitrú)
』の見本としてトッカータで
楽しませるようにと頼まれた.そして彼が言うには,普段よりも勇気
が出て指もよく動いたので,あとから受けた大きな喝采からみても,
自分の演奏が大切な友人達をはじめ,その場の人々に何がしかの印象
を与えたように思えた.ガスパリーニ夫人を伴って来ていた一人の学
者によりカンタータが一曲歌われた後,黒い衣装に黒いかつらを被っ
た姿でその部屋の片隅に立ち,ロージングレイブが演奏する間静かに
じっと聞いていた一人の威厳ある若者が,ハープシコードの前に座る
25
ように促されて演奏を始めるや,ロージィ曰く,頭の中でその楽器に
むかって千回もこん畜生と呟いていた.そのような楽節の演奏もそれ
がもたらす効果もそれ以前にまったく聞いたことのないものだった.
その演奏はあまりに彼自身の演奏を凌ぎ,到達可能と考えられる限り
のあらゆる完璧さに達していたので,もし何処であれ自分の弾いた楽
器と一緒に見えるようなところに立たされていれば,彼は自分の指を
切り落としてしまっていたことだろう.... ロージングレイブは一月
の間楽器に触れないことを宣言した.」この黒い衣装に黒いかつらを
被った若者こそは,他でもないドメニコ・スカルラッティであった.
ロージングレイブが受けた印象はあまりに強烈だったので,彼はいわ
ばスカルラッティの信奉者となり,彼についてローマへと赴くなど,
数年の間ほとんどずっと付きっきりであった.そして本書の途中で見
るように,彼らの友情はもっと後まで,ロージングレイブの脳髄が鬱
病の悲劇によって曇らされ,その天才がもはや用を成さなくなるまで
続くのである.
ヴェネチア滞在中,スカルラッティが知古を得たもう一人の友人は
ヘンデルであった.彼もガスパリーニの下で学んでおり,スカルラッ
ティとは同じ年に生まれた全くの同時代人だった.彼らは恐らくお互
いに同伴者としてローマまで旅し,後年になって再びロンドンで相ま
みえることになる
41)
.ヘンデルはハープシコード奏者としてほとん
どスカルラッティに引けを取らない程の腕前を持ち,また彼のスカル
ラッティに対する尊敬の念は非常に大きかったので,その最晩年にお
いてすら彼の名前が挙るだけで目に涙を溜めるほどであったという.
26
メインウォリング 42) によれば,スカルラッティの側もそれに劣らず
ヘンデルの名前には敏感に反応し,その名前が挙がる度に胸で十字を
切っていた.実際,このヴェネチアでの短期滞在がスカルラッティに
とって一つの重要な節目であったに違いない.
27
4 ローマ
我々はローマへとやってきた.ドメニコ・スカルラッティはここで
十年間,1709 年から 1719 年まで暮らしていた.その前年,彼は当
時ローマにいた故ソビエスキー王の寡婦,ポーランド女王マリア・カ
ジミラ 43) の私的なオペラの作曲家として彼女に仕え始めている.ド
メニコはこの人生の初期の頃にあって,どうやらオペラ作曲家として
の父親のキャリアを追うという大望を抱いていた.実際,彼はこの十
年間に無数のオペラやカンタータを書いているが,間もなくこれは自
分の道ではないと悟ったであろう.1715 年にはサン・ピエトロ大聖
堂の宮廷楽長に任ぜられ,その正式な雇用の一環としてミサ曲やサル
ヴェ・レジナ(聖母讃歌)を作曲しなければならなかった.しかしな
がら,もっと重要な影響はオットボーニ枢機卿と彼のサークルからの
ものであった.ピエトロ・オットボーニ枢機卿は 1690 年に紫衣の司
教位へと任ぜられたが,これは縁故主義の素早い成果であった.とい
うのも,彼の叔父である教皇アレクサンダー 8 世は高々二年間しかそ
の座を維持しなかったからである.枢機卿は熱烈なアマチュア芸術家
であり,自身でオペラを書き,またスカルラッティ父子やヘンデルの
庇護者でもあった.しかし何にも増して彼はかの偉大なコレッリの擁
護者であり,コレッリは枢機卿の邸宅で毎週月曜日の室内楽コンサー
28
トを主宰していた*1 .ドメニコ・スカルラッティにとって,この比較
的小さな音楽分野での活動が大きな刺激となったことは否定出来な
いだろう.実際,コレッリのおかげでナポリよりはローマでより多く
の室内楽を聞くことが出来た,ということはあり得る.それ以外に,
ローマはナポリよりも他のヨーロッパ各地へ旅程にして数日近いとこ
ろにある.一方で古代遺物と教皇座の重要性という組み合わせによっ
て,あらゆる外国人がローマに引きつけられていた.というわけで,
彼のローマでの十年間がその人生と音楽の形成に重大な影響を与えた
ことは間違いないと考えられる.
ローマが持つ感覚的な効果が彼に影響を与えたことも否定できな
い.誰であれ鋭敏な感覚の持ち主であれば,十年間もローマにいなが
らその環境の力から逃れ続けることは不可能だろう.スカルラッティ
が一瞬であろうとローマに考古学的な興味を抱いたなどと想像する必
要はないが,誰であろうと彼のようにスマートで,言葉の最上の意味
で教養があり,想像力豊かな精神の持ち主であれば,過去と現在の文
明の中心としてのローマ,実に文明の永遠の源泉としてのローマから
の印象を心に刻んだに違いない.加えて,我々が話題にしている時代
のローマは廃墟になっている部分を除いてきれいで新しく,まだ建築
*1
アルカンジェロ・コレッリ(1653 年–1713 年)は,イーモラ出身で,1685 年に
ローマに落ち着いた.彼は以後三十年あまりにわたってその庇護者であるオッ
トボーニ枢機卿の邸宅に起居し,毎週コンサートを開き,無数の作品を作曲し,
友人であるカルロ・マラッタの助けを借りて絵画蒐集を行った.その貪欲さの
果実として,彼は六万ポンドもの資産とそれら絵画を枢機卿に遺贈し,卿は絵画
を受け取ったものの現金については彼の親族に分配した.
29
家の手から離れて間もない状態であったことを思い出すべきである.
このような環境の組み合わせは,我々が扱っている種類の精神にとっ
て田舎の不活発さや貧困の単調さよりも常に人を活気づける背景とな
るに違いない.ベルニーニのローマはちょうど完成したところで,そ
の噴水のきらめきはまだ活きいきとしていた.
その街ではおよそ八万人ほどが暮らし,狭い居住地域では壮麗な建
物が圧倒的な偉容を誇っていた.聖マリア・デリ・アンジェリ教会と
ヴァチカンの間に横たわるローマ全体が優美さと華麗さのために大変
なエネルギーを使っている,という印象をどれだけ誇張してもし過ぎ
ることはなかった.ローマはその後百五十年以上経って教皇権威の黄
昏とともに崩壊していったゴミと乞食の街ではなく,現代社会の洗練
された都会だったのである.ピラネージ
44)
やパンニーニ 45) が朽ち
た遺跡の列柱を褒め讃えることを止め,彼らの眼前にある現代世界を
描こうとする時には常にローマという街のこの局面を眺めることに
なる.
ここで,外交使節がヴァチカンに到着した折のサン・ピエトロ広場
をパンニーニに基づいて描き出してみよう(というのも,この主題は
後のスカルラッティにとって重要だからである).まるで港の埠頭と
埠頭の間にある船だまりのように広大に開けたその空間は,車輪を転
がしばねを軋ませながらも水晶と金で出来た古代の二輪馬車のよう
に輝く大型四輪馬車で溢れている.傾いて敷石の上に覆い被さろうと
する馬車の前を傭兵や走る歩兵達が先導し,あたかも海のものが陸へ
と揚がってきたような,あるいは海を渡るネプチューンの殻が浜へ現
30
れたかのようである.馬達は霧の舞う虹の中をギャロップで翔るよう
促される.一方,この到着を見下ろすように据えられた彫像群が,多
数の柱列からなる巨大な埠頭を飾っている.行進が停止すると,まだ
ら色のスイス傭兵がその釜槍を地面へと向ける.そして,噴水が風の
中でその色をきらめかせている間,枢機卿とその随行員達がベルニー
ニの手になるスカラ・レジア(教皇の階段)を昇って司祭の王国の宮
殿へと入っていく.その東方的な司教帽を想えば,ここはイシス神の
司祭達の学舎であり,世界統治という古代の歴史から古代ナイルの寺
院を取り出してきたようなものであろう.これこそは陰や亡霊のよう
な古代ローマの力であり,その壮麗さを保っている事物の中にいまだ
残っているものである.
以上はサン・ピエトロ広場であるが,同じようにナヴォーナ広場も
ある.絵画や銅版画を見ると,その場所は人で埋め尽くされている.
というのも,そこはローマで広く空いている唯一の場所であり,謝肉
祭の群衆がどんちゃん騒ぎをするのは正にそこでだからである.彼ら
が近づいて来る様を聴くために,我々はもう一度パンニーニの絵画を
眺めてみよう.サルタレロ 46) のうねりと混乱が近づくにつれ,それ
は辻々で新たな踊り手を呼び込みながら行列のように進み,膨れ上
がった群衆は最後には広場で爆発してその噴水で冷やされた空気全体
を乗っ取ってしまう.そこにはベルニーニによる世界四大河川,ドナ
ウ,ガンジス,ナイル,およびラプラタ川を表す噴水があり,実際滑
稽なことにそこではつぼから地球の四つの隅へと水が注がれ,仮面の
下で全地域へと恩恵をもたらすべく競い合っている.この場所は古い
31
ローマの円形競技場,ドミチアヌス帝の闘技場でもあり,普段ならし
ばしば興奮した静けさや恐怖のスリルが支配するところだが,群衆に
よってこれ以上の騒音を知らないといった状態になる.謝肉祭シーズ
ンにおけるナヴォーナ広場は教皇のローマの生命力そのものであり,
この「南」の豊穣さこそはヴェネチアや他の街での同じ祭に足りない
ものだった.それは民謡の中心であり,マンドリンの楽園であった.
同地では一世紀後,謝肉祭の期間中に仮面をつけたパガニーニと
ロッシーニが群衆の前で演奏した,という興味深い挿話もある.最近
の記憶に至るまで,この途方もなく人気のある祝祭の様々な可能性が
尽きることはなかった.18 世紀前半には,喜びに溢れたこの光景の
美しさはその頂点にあったと想像出来る.そして,17 世紀に水があ
るところすべてにばらまかれた雑草だらけの噴水のホラ貝や数多くの
怪異な仮面,あるいはそれらが見られる壁の上で,どの角度から見て
も乾いて空っぽになった口は,人々を仮装へと誘うものだった.一年
の残りは奨励された楽しみ以上の悔い改めの期間であり,謝肉祭が嵌
めを外す最も完全な機会だったと想像出来よう.
ローマに暮らす活きいきとした知性が被ったであろう影響につい
て,これをどう説明するにしても考慮されるべきもう一つの点は,
ローマへ送られることが当時既にあらゆる芸術家の教育の一部分と
して認知されていた,という事実である.ヨーロッパのどれほど牧歌
的な遠隔の地においてさえも,地方の名士達が地元の才能を奨励し,
彼らが協力して新米をローマへ送っていた.フランス芸術院(アカデ
ミー)がルイ 14 世によって創設されたのは 1666 年という遠い過去
32
まで遡る.これ以前においても,既に先駆け的な存在としてプッサン
やクロード・ロランがローマで学んでいた.従って知識人社会という
観点から見れば,その構成員は生まれながらにしてローマ人というこ
と以外にはほとんどあり得なかった.これはスカルラッティとヘンデ
ルの出会いがよく証明するところでもある.数年毎に新しい世代の画
家達が到着し,芸術についての終わりなき議論を続けていた.その点
でローマはかつて部分的には大学として,またその意見を無視するこ
とは出来ないという意味で一部には当時の芸術学校として機能して
いたのであり,ちょうど今日の画家達がパリの動向に遅れないようし
なければならないのと同じであった.ローマはまた名声を得る可能性
という点でも最上の中心地であった.というのも,人士達にまつわる
ニュースはそこからヨーロッパ中の教養ある社会へと素早く広がって
いったからである.
ドメニコ・スカルラッティは次の旅行先へと向うにあたり,疑いも
なく上記と同じ理由でその目的地をロンドンへと定めたのだろうが,
もちろんイタリア外への旅という意味では彼にとって初めてのもの
であった.これは 1719 年のことで,恐らくロンドンに到着した時に
はちょうど彼の友人ヘンデルとボノンチーニ 47) の間でオペラ上の競
争が繰り広げられている最中であったに違いない.スカルラッティの
ロンドン滞在の詳細は全くの闇に包まれており,例外としてはヘンデ
ルとの旧交を暖めたであろうこと,および彼のオペラ「ナルチーゾ
(Narciso)」が 1720 年 5 月 30 日に上演されたことである
48)
.かく
も短い滞在であったことから,その可能性についてこれ以上拡大し,
33
あるいはそのあり得たかも知れない結果について眺める必要もない.
彼が二年後に敢行したもう一つの外国旅行の方が遥かに重要である.
なぜならこちらは彼のその後の全人生を変えることになったからで
ある.
34
5 ポルトガル
この旅行の目的地はリスボンである.そしてスカルラッティが到着
した当時,かの地は派手好みのジョアン 5 世(1706 年–1750 年)の
治世だったが,ジョアンはオリエント以外では恐らく歴史上最も浪費
的な専制君主であった.この特別な個性の持ち主の成せる偉業を考え
れば,彼の祖先を調べてみるだけの価値はあるだろう.
ポルトガルは 80 年間スペインの支配下にあったが,元の国王の非
嫡出子系子孫の代表だったブラガンサ公によってようやくその独立を
果たすとともに,彼を国王に戴くことによりその君主制を再興した.
ジョアン 4 世を名乗ったブラガンサ公は,彼の子孫達が婚姻を通し
て組み込まれたブラガンサ家の血を守るという通常の相続関係からは
外れていた.というのも,彼の母親は城の警護をしていたフリア公の
娘,ヴェラスコ嬢だったからである.ジョアン 4 世は才芸に秀でた音
楽家であった
49)
.音楽だけが彼の全人生の目的であり,自身も大い
に注目に価する作曲家であった.彼の妻は第 8 代メジナ・シドニア公
爵の娘,ルイザ・フランチスカ・デ・グスマン嬢で,彼女もスペイン
の血を引いていた.彼らには二人の息子があり,後のアルフォンゾ 6
世およびペドロ 2 世となる.そして我々の調査の主題であるジョアン
5 世は後者ペドロ 2 世の息子で,メジチ家の末裔に属するバヴァリアノイベルクのマリア・ゾフィア・イザベルとの間に生まれた.
ジョアン 5 世は,祖父の創造的な側面を除けば彼と同じ音楽的情熱
35
の持ち主であった.そして彼はこういった傾向,さらには他の如何な
る自身の趣味娯楽についても,歴史的にほとんど例がないほど存分に
耽ることが出来たのであった.これはブラジルでの金鉱の発見のおか
げであり,それによって彼は数多くの浪費的な活動を支えることが出
来たのである.中でも最も有名なのがマフラの宮殿であり,(スペイ
ンの)エスコリアル宮を顔色無からしめるべく設計された.その建物
はいまだ現存しているが,その他の彼の建築物はほとんどが 1755 年
のリスボン大地震 50) により消滅した.従って,贅沢さにおける彼の
趣味がどういうものだったかを知るためには,ドイツ製銀器とベレム
の王室専用大型四輪馬車のコレクションを眺めてみる必要がある.こ
ういったものは取るに足らない代物で,彼の治世の残骸に過ぎない.
しかし,それらは彼の驚くべき顕示欲を立証している.ドイツ製銀器
はリスボンの国立博物館にあるが,それらは総数一千点を超え,金あ
るいは銀製の皿や琺瑯の晩餐用食器,手洗用品,食卓用のセンター
ピース等からなる.だがもっと特別なのは有名な金製の朝食器類で,
フランスの最も偉大な銀細工師であるフランソワ・トマス・ジュルマ
ンの手になるものである.彼の仕事は他にはほとんど残っていない.
その他の作品としてはゴダン,あるいはクジネットによるものがあ
る.ドイツ銀器は宮廷の途方もない贅沢さがどんなものであったかを
具体的に示すものである.だが,ベレムの王室専用馬車の眺めはその
最も数奇な運命の変転を確認させるものだ.
最上の大型四輪馬車はべっ甲で装飾されたジョアン 5 世の戴冠式用
のもの,およびデ・フォンテス侯爵が使節として 1716 年に教皇クレ
36
メント 11 世に拝謁した際に使用したものである.後者は三台あり,
その様子はちょうど前の章で我々が描いた通りで,それらの馬車がサ
ン・ピエトロの列柱の下に到着したところを想像したところであっ
た—ただし,その召使い達が着ていた風変わりな模様のある華やかな
お仕着せについては説明を省いてしまったが.それら三台の馬車は象
牙の建具や金襴緞子のカーテンを用い,かつて海上で優位に立ってい
たポルトガルを象徴すべく,ネプチューンや他の海神の巨大な寓意像
の彫刻を備えていた.これらの騎馬行列は言葉に尽くせぬほど壮麗な
制服を身に着け,公衆への見せ物として圧倒的なものであったに違い
ない.ジョアン 5 世は次から次へと使節をローマへ送ったが,それは
彼の目的が最終的に達成され,ベネジクト 13 世がリスボンの枢機卿
区を総大司教区へと格上げするとともに,ジョアンに教皇と同じよう
な祭服の着用と,枢機卿のそれを真似た典礼を行うことを許可するま
で続いた.最後に,その治世の終わりの年,フランスとスペインの国
王にそれぞれ与えられていた「最もクリスチャンである」および「最
もカトリックである」という称号に対応するために,彼には「フィデ
リッシマス(Fidelissimus)」,即ち「最も信心深い」という称号が授
与された.
しかしながら,我々の話にとってこの国王が重要なのは,彼の音楽
への愛着ゆえである.ジョアン 5 世は皇帝レオポルド 1 世 51) の娘,
オーストリアのアンナと結婚したが,彼女はその父方からみて確実に
音楽的であった.従ってドメニコ・スカルラッティの人生においてあ
れほど大きな部分を占めることになった彼らの娘,バルバラ王女が単
37
に優れた音楽的才能の持ち主というだけでなく,スカルラッティの利
発な弟子にして卓越したハープシコードの演奏者であった,というこ
とについてそれほど驚くにはあたらない.実際,スカルラッティは彼
女の音楽教師を務めるべくリスボンに到着したが,ジョアンは王女達
全員に当代一流のハープシコード奏者の指導を受けさせるべく教師を
雇ったのであって,バルバラ王女自身はその頃まだ幼く,その才能の
ほんのわずかな片鱗を示しているに過ぎなかったであろう*1 .以下に
見るように,自身の音楽教師に対する尊敬の念をバルバラ王女が実行
に移し,スカルラッティが彼女に終生仕えることを受け入れることに
なったのは彼女の結婚の折であった.
ところで以下は余談だが,本書の執筆者が数年前にロンドンで見た
豪華な赤漆のハープシコードとその椅子は,もしかするとあれをドメ
ニコ・スカルラッティが演奏したかもしれない,と考えたくなるよう
な代物であった.それは,ジョアン 5 世から彼の愛人であった一人の
修道女への贈り物で,彼女が暮らしていた修道院から後になって出て
きたものだった*2 .この素晴らしい楽器,赤漆の作品の中でも想像し
うる限り最も美しい楽器が造られたのはおよそ 1720 年頃で,それが
ジョアン 5 世の持ち物だったことからも,スカルラッティがリスボ
ンを訪問した折に国王の前でそれを弾いた可能性は全くあり得なくも
*1
バルバラ王女は 1711 年生まれであった.従ってスカルラッティがリスボンを訪
問した当時,彼女はまだ十歳でしかなかった.
*2 恐らくリスボン近郊,オディヴェラスにあったシトー修道会の修道院で,そこは
ジョアン 5 世と女子修道院長パウラとの密会の場であった
38
ない.
これらの音楽的活動についての描像を完全なものにし,またそうす
ることでドメニコの庇護者であるバルバラ王女が育っていく音楽的
背景を明らかにするために,ジョアン 5 世がその治世の晩年にカッ
ファレッリとエジツィエッロという当時最高のカストラートの庇護者
となることは言及しておくべきだろう.リスボンのオペラはヨーロッ
パ随一であり,これらの歌手もその一員であった王宮の合唱隊は当時
最も素晴らしい歌手達の集まりであった.ジョアンの息子でバルバラ
王女の弟であったドン・ジョゼは引き続きこの贅沢なオペラの庇護者
となった.カッファレッリに献呈されたペレスのオペラ「アレッサン
ドロ・ネル・インディー(Allessandro nell’ Indie)」では,一団の騎
馬軍団全体が古代マケドニアの密集軍と共に舞台に現れる.国王の乗
馬教師の一人が乗用馬に跨がり,ペレスが乗馬学校で作曲した行進曲
に合わせ,美しい毛並みの馬の大きな歩幅に合わせて行進する.王
室合唱隊はといえば,それはベックフォード 52) がポルトガルを訪問
した 1787 年という後になってすらヨーロッパで最も素晴らしいもの
であった.それは以下の彼の「書簡集」からの抜粋に明らかである.
「ポルトガル女王の礼拝堂は,その声楽および器楽の優美さという点
で依然としてヨーロッパ第一である.教皇のそれも含め,他の如何な
る組織もこれほどの音楽家の集団を誇れるようなところはない.彼ら
は女王陛下(マリア 1 世*3 )の赴くところへは何処へでも付き従う.
*3
マリア 1 世(1777 年–1816 年)はドン・ジョゼ 1 世の娘で,その父の弟ドン・
ペドロ 3 世と結婚した.従って,彼はバルバラ王女の弟ということになる.そ
39
彼女が鷹狩りのためにサルヴァテッラへ行く時も,あるいは健康のた
めの狩猟にカルダスの川岸に向う時もそうである.これら自然の岩場
や山中にあってさえ,彼女は一群の歌い手達,ウズラのように福々し
く,ナイチンゲールのように喉を鳴らし美しい声音を響かせる人々に
囲まれている.女王陛下の手の内にあるヴァイオリンやチェロの奏者
は全員第一級で,オーボエやフルート奏者の中でも彼女の集めた人達
は他に並ぶものがない... これを書き記すことは私にとって恥ずべき
ことなのだが,今朝も私は自分のために用意された別棟の中で何時間
もの間一語も読むことなく,一行も書かず,あるいは全く言葉を発す
ることなく過ごしてしまった.私のすべての能力は,オレンジと月桂
樹の茂みの彼方から響く管楽器のハーモニーへと吸い取られてしまっ
たのだ.」
彼の治世の初期,ちょうどスカルラッティがリスボンを訪問した
頃,こういった音楽上のお膳立てはまだ完全ではなかった.というの
も,想像するところ恐らく最上の歌手達はロンドンに集まっていて,
ヘンデルのオペラ作曲家としての失敗がより決定的なものになるまで
はリスボンでの需要を満たせなかったと思われるからである.このよ
うな規模でのイタリア・オペラの上演スタイルがロンドンで一旦崩壊
してしまうや,リスボンが音楽生活の中心となり替わった.
ところで絵の裏側はあまり気分の良いものではない.ジョアンは
その宗教的な頑迷さ故にぞっとするような挿話を残しており,それ
の 1786 年の死によって女王は正気を失った.彼女はナポレオンの軍隊によって
ポルトガルからブラジルへと追いやられ,リオ・デ・ジャネイロで死去した.
40
はチャンドラーの「リンボルフ
53)
」302 ページに引用された以下の
1706 年 1 月 15 日付け(これはジョアンの治世の最初の年である)の
書簡中で,筆者であるウィルコックス博士によってバーネット司教,
後のグロウセスター司教に宛てて証言されたものである.
「閣下,12 日の閣下の命に従うべく,最近の火刑判決に関する印刷
されたものすべてを送りました.私はすべての過程を眺めましたが,
それは最近のリンボルフおよびその他により出版された内容と一致し
ております.宣告された五名のうち四名が実際に焼かれました.アン
トニオ・タヴァネスは,引き回しの後,異例の執行猶予により刑を免
れました.ヘイトール・ディアスとマリア・ペンテイラは生きながら
焼かれ,他の二名はまず絞首の後焼かれました.刑の執行は大変残酷
なものでした.女は炎の中で半時間ほど,男の方は一時間以上生きて
おりました.現国王*4 と二人の弟君は窓辺で男が焼かれる間,長時間
にわたり心を動揺させる言葉が聞こえるほど大変近い場所に鎮座され
ていました.しかし,その男が乞うたのはもう数本の薪のみだったに
もかかわらず,彼はそれをすら得ることは出来ませんでした.ここで
はこのように生きながら焼かれる者はベンチに座らされ,十二フィー
トほどの高さで支柱に縛られて,薪からはおよそ六フィートほどの高
さに置かれます.風が多少とも入れ替わる間,男の身体の後ろ側は完
全に焼き崩れました.そして彼が自身で振り向くと,話すことを許可
される前にその肋骨が露出しました.火が弱まるとまた補充され,常
*4
修道女を愛人に持つという罪は,国王に対しては明らかに免責されたようだ!
38 ページ参照.
41
に同じ程度の熱さになるように維持されました.しかし,あらゆる哀
願にもかかわらず,その哀れな状態を切り上げて死へと送り出すよう
大きな薪を使うことを許されませんでした.これを恐怖もなく読むこ
とが出来る者の心は何と頑丈なことでしょう!」
この衝撃的な場面は,彼の治世の間,それほど間を置くことなく何
度も繰り返された.そして読者の中には,ドン・ジョゼ 1 世の治下で
行われた 1760 年のタヴォラの陰謀に対するもっと恐るべき処刑
54)
を思い出す方もおられよう.これがポルトガルというところであっ
た.だが,フランスも大差はない.ルイ 15 世治下におけるダミアン
の処刑 55) はこれに劣らず恐ろしいものである.あるいはまた(英国
で)「’45 年」の反乱 56) 後ジャコバイト運動家達に対して行われた裏
切り者への迫害も,その時代への批判として何ら恥辱を免れないもの
であった*5 .
これら 18 世紀の王子達は,我々の目から見るとまるでその国に寝
そべっていた巨大な絶滅動物中のある種族の生き残りのようにも見え
る.彼らはその時代の恐竜で,特別な食事で養われていたのだ.ヨー
ロッパはそういうもので溢れていた.ルイ 15 世と彼の「鹿の園 57) 」
を,フリードリッヒ大王 58) と彼の宮殿および手榴弾兵を,はたまた
アウグスト強健王 59) と三百六十五人の子供達を思い出せばよい.そ
の種族は恐らくあまりに類縁関係が深いために,常に似たような行動
を取るのである.ドレスデンにある多数の絵画,かのツヴィンガー宮
*5
ヨーク城の牢獄では,反乱者をそれで八つ裂きにした巨大な鉄製のナイフと
フォークをつい最近まで見ることが出来た.
42
「緑の円蓋(Grünes Gewörbe)60) 」
,
殿のスケッチ,マイセン陶磁器,
こういったものはあの大柄なザクセン人アウグストの精神的な遺産で
ある.彼はまた音楽にもご執心であった.しかし,それはドイツの小
君主達全体に見られる無数の例の中の一つの類型であり,それを詳し
く検討することで我々もスウェーデンのグスタフ 3 世と彼のドロット
ニングホルム劇場
61)
,あるいはスタニスワフ王とナンシーのエレと
ラムール 62) ,サヴォイのヴィットリオ・アメデオ 2 世とその庇護を
受けたユヴァッラ 63) ,そして他でもないポルトガルのジョアン 5 世,
といった人物像を知ることになるであろう.だが,彼らを擁護するな
らば,その富を潜水艦や毒ガスに浪費するようなことはなかったとは
言えるだろう.どんなに酔狂な君主も,最もケチ臭い戦争よりはまし
である.
君主によるその当時の典型的な庇護がドメニコ・スカルラッティに
もほどなく与えられようとしており,それによって彼は王室の女性達
専属の従者となる.以後二十五年にわたり,彼は実質的に一般公衆の
前から全面的に姿を消すことになった.ドメニコはスペイン国王と王
妃の私的家庭内芸術家となる運命にあり,彼の雇用条件はドレスデン
の鍛冶職人ディングリンガー,あるいはマイセンとニンフェンブルク
の製陶工場でマルコリーニやブステッリといった塑像職人が交わした
専従契約と似たようなものであった.その結果,スカルラッティの音
楽は同時代人にはほとんど知られることがなく,例外は彼がイタリア
を去る前に完成していた作品だけとなった.
一方,ポルトガルという風変わりな背景に照らしてスカルラッティ
43
のイメージを想像してみるのは魅惑的である.ジョアン 5 世の時代は
ポルトガル文化史上二番目に偉大な時期であり,多くの点でマヌエル
王時代 64) に肩を並べるものである.ジョアンは典型的な「遅ればせ
のルネッサンス」の君主で,もしあのメッシナのようにリスボンを破
壊した 1755 年の大地震がなければ,この忘れられた時代の興味ある
特徴全体を明らかにするための手がかりに事欠かなかったであろう.
背景の過半は東洋的である.何故ならこの頃は偉大な色絵陶板画の時
代であり,教会や修道院の壁という壁,部屋の装飾,階段のパネル,
さらには建物の正面までもがすべて陶板の風景や琺瑯細工の人物像で
覆われていたからである.アズレージョの芸術 65) はポルトガルでの
み鑑賞され得るもので.それはローマの大理石,またアムステルダム
の煉瓦と同じようにかの国に典型的なものなのである.
44
6 再びナポリ
リスボンでのスカルラッティの滞在期間はロンドンでのそれと大差
ないものだったようだが,この訪問の結果は彼にとって生涯にわたる
重要な影響を及ぼした.一方,さらにもう八年が経過しようとしてお
り,その間彼は主にナポリとそこから他の街への旅の中で過ごした
と想像される 66) .これは 1721 年から 1729 年まで,ちょうどスカル
ラッティの生涯における成熟期にあたり,彼のハープシコードソナタ
の相当数がこの時期に作曲されたに違いない.スカルラッティはその
人生の次の段階であちら側の世界へと消え去ってしまうので,出回っ
ていた彼の作品の大部分はこのナポリ滞在期での収穫であったと考
えられる.サンチーニ大僧正の蒐集になるスカルラッティの三百四十
九曲の作品は,全五百四十五曲からなる 1910 年に出版された決定版
とは対照的に,事実上彼が最終的にナポリからスペインへと移り住む
までに完成した作品のほぼすべてに対応しているのであろう
67)
.ド
メニコ・スカルラッティの特徴的な雰囲気はナポリのそれである.こ
れは以下の事実からも強調されなければならない.というのも,どう
いう奇妙な誤解からか,一般的には彼の音楽の雰囲気が 18 世紀ヴェ
ネチアに典型的なものというレッテルを張られる傾向ばかりが幅を
利かせており,例えばピエトロ・ロンギ 68) の絵と同列に扱われてい
るからである.この誤った帰属は,彼の音楽から考案されたバレエ,
「ユーモアある淑女達(The Good-humoured Ladies)」によってさら
45
に強調されることになったが,これはディアギレフが舞台をわざわざ
ナポリからヴェネチアへと転換したもので,なぜかと言えばレオン・
バクストが常々 18 世紀ヴェネチアの舞台設定でやってみたいと希望
していたからであった.だが,これ以上真実から遠いものはない.つ
いでに言えば,ゴルドーニ 69) の演劇はスカルラッティの音楽とはど
んなわずかな親近性もない.それらの性格は本質的に異なるものであ
る.ゴルドーニは世紀半ばから世紀末の典型であった.彼はレイノル
ズ 70) ,ジョンソン博士,ギャリック 71) の同時代人である.これとは
対照的に,スカルラッティはバッハ,ホガース,ヘンデルの時代に生
きていた.
スカルラッティの音楽は豊かで成熟した環境の特徴を備えている
が,一方で同時代のヴェネチアの精神が生み出したものよりはずっと
機敏で快活である.E.J. デント教授が要約して言うその「小奇麗に作
り上げられた形式,奇想天外な転調,その巧妙な主題展開,特徴的な
音形の再現における風変わりな型」,これらすべての特徴は,紛うこ
となくあらゆる点で都会的である.仮にナポリの狭い通りがヴェネチ
アの路地と同じように混み合っているとしても,そこには視線を阻む
運河の陰もなければ水面から立ち上る倦怠や浮き漂う軽薄さもない.
その代わり,それらの通りは車輪の軋む音や馬やラバのいななきで活
気を帯びているだろう.ヴェネチアは老衰へと沈んでいくところで,
過ぎ去った偉大さを嘆いていた.ナポリはそうではなく,当時でさえ
これから首都に躍り出ようという勢いであった.そこはイタリアのど
の街よりもそれにふさわしいにもかかわらず,二世紀もの間宮廷の中
46
心ではなかった.そして我々が語っている当時,それ相応の王国の首
都としての街の重要性はこれからという段階にあった.ブルボン朝の
支配の忘れられた側面ついて長々と論じることはこの論考にとって何
の役にも立たないが,そのブルボンの治世下でナポリにはヨーロッパ
で最初の広い道路,同じく最初にガス灯で照明された通り,そしてイ
タリアで最初の鉄道が敷設されることになるのであった
72)
.あらゆ
る点から見て,18 世紀前半のナポリはこれから偉大な街になろうと
いう段階にあったのだ.
そして音楽生活の面においても,ナポリでは我々が関心を持って
いる年代にかけてさらなる発展が起こりつつあった.年長のスカル
ラッティは 1725 年に他界したが,バーニー博士がナポリに関する記
事の冒頭で言及したその他の作曲家達は大輪の花を咲かせつつあっ
た.我々が出来ることはせいぜいその名前を列挙することぐらいであ
る.レオナルド・レーオ,ペルゴレージ,ポルポラ,ファリネッリ,
ヨンメッリ,トラエッタ,サッキーニ,これらにデュランテ,ヴィン
チ,ロリオスチーノの名を加えてもよい.このリストはいくらでも長
くなるが,しかしそれら全部の中で世紀を超えて我々と接触を持って
いるのはドメニコ・スカルラッティ唯一人である.これら死者達に対
する興味を復活させようという如何なる試みについても,もしそれが
なされるとすれば生き残った人についての我々の知識を拡大すること
によるのが最上の方法であろう.その点,ドメニコを最も偉大なエネ
ルギーと活動性に満ちたナポリという環境の中に置いてみれば,そこ
で彼の才能の力と多彩さを説明することは実に容易であった.
47
ドメニコ・スカルラッティはこの時期の終わりに作曲家としてまた
演奏家としての能力の絶頂にあった.その芸術は彼という孤高の巨匠
のためのものであった.直接的に競合するような作曲家は皆無に等し
かったであろう.なぜなら,一般的に言ってナポリにはハープシコー
ド音楽の楽派というものがなかったからである.しかしながら,史上
最も偉大な歌手達,そして恐らく最も偉大な声楽作曲家の楽派がとめ
どなく豊かな実りをこれらの年月にもたらしつつあった.1712 年に
ナポリで自らの学校を開いた偉大なポルポラは当時既にドイツへと
移っており,そこでヘッセ・ダルムシュタットの皇太子に宮廷楽長と
して仕えていた.ファリネッリ,ポルポリーノ,カッファレッリ,セ
ネジーノは彼の弟子であった.しかしその作曲家としての地位はザク
セン人ハッセ*1 によって占められていた
73)
.彼は年長のスカルラッ
ティの弟子であり,当時においては極めて重要な音楽家であったが,
その音楽についてはどれほど知識を積んだ学者も判定を下すことは困
難であろう.というのも彼の作品はフリードリッヒ大王による 1760
年のドレスデン包囲攻撃によってほぼ完全に壊滅してしまったからで
ある.ハッセはアウグストス 3 世の求めに応じてほとんど全ての作品
を版刻出版できるよう集めていたところで,プロイセンのカノン砲撃
によりそれらは灰燼に帰してしまったのだった.だが,彼らナポリ派
作曲家の卓越した技巧性がドメニコ・スカルラッティの技巧性の背景
として極めて大きなものであったことを語るために,もうこれ以上こ
*1
ハッセは 1725 年,ナポリでドメニコ・スカルラッティがハープシコードを演奏
するところを聴いている.
48
のような忘れられた音楽家達の細かい経歴に触れる必要もなかろう.
カストラート達が歌う装飾音の持つ恐るべき性質に比べれば,鍵盤に
おける曲芸はずっと穏当で理にかなったもので,むしろ地味とさえ言
える.それは技巧のための技巧ではあったが,装飾のための装飾では
なかった.
49
7 二組の結婚式
スカルラッティが今や連れ去られようといていたのは,このような
絶え間ない噴火活動のさなかからであった.彼は実質的な意味で一般
公衆の喝采から完全に引き離され,残りの人生を風変わりな宮廷の楽
しみのために捧げることになったが,その宮廷は田園生活を好み,自
らの首都に近づくことはほとんどなかった.その仕事の申し出は恐ら
く経済的にも魅力のあるもので,少なくとも都落ちを承諾したといっ
た推測はあたらないものだったろう.
ドメニコ・スカルラッティがアストリア皇太子の宮廷楽長に就任す
べくスペインへと旅立ったのは 1729 年,彼がほとんど四十五歳にな
ろうという頃であった.というのもちょうど同じ年,スペイン王フィ
リペ 5 世の生存する最年長の息子であったアストリア皇太子は,ポ
ルトガルのジョアン 5 世の娘,マリア・マグダレーナ・バルバラ王女
と結婚するところであった.この結婚は彼女の父親にとって途方もな
い浪費を見せびらかす格好の口実となり,それはヴェンダス・ノヴァ
スの王宮において頂点に達した.上質の石材で造られ,家具をはじめ
快適さに必要なものすべてを備えたこの宮殿は,宮廷を特にこの機会
に一夜だけ迎えるために建造された.王宮の近くには水がなかったた
め,わざわざ十マイルも離れたペゴエスに造らせた泉から大変な費用
をかけて運びさえしたが,ジョアン 5 世はその場所にももう一軒,王
室用別荘を建てたのであった.
50
要するに何事もおろそかにはされなかった.何故ならそれは二組の
結婚式となるべきものだったからである.即ち,アストリア皇太子が
バルバラ王女と結婚するだけでなく,彼の妹,マリア・ヴィットリア・
デ・ボルボンがポルトガルの王位継承者ドン・ジョセと結婚すること
になっていた.この結婚の結果アストリア皇太子によって独立した所
帯が営まれることになり,その宮廷楽長という職務がドメニコ・スカ
ルラッティに提示され,彼もそれを受け入れたのだった.
実際,彼の仕事はバルバラ王女に仕えるというものであり,その交
渉は王女の側からの発意によってなされたもので,ほぼ十年前に遡る
スカルラッティのリスボン訪問が直接の契機になったのであろう.彼
のハープシコード奏者としての腕前に関する報告は,ナポリのポルト
ガル大使,あるいはジョアン 5 世がナポリ経由でローマの教皇の下
に常時派遣していた使節によって裏付けが取れていたであろう.既に
語ったように,音楽はジョアン 5 世の血の中に流れていた.そしてこ
れから目にするように,それはスペイン・ブルボン朝の血統の中では
もっと強いものであった.
フィリペ 5 世がルイ 14 世の孫である(ルイ 14 世の皇太子ルイ・グ
ラン・ドーファンとその妻バイエルンのマリア・アンナの次男)こと
は思い出されさるだろう.彼はヴェルサイユ生まれで,アンジュー公
という肩書きの下,ルイ 14 世の宮廷で育てられた.1700 年にスペイ
ン・ハプスブルグ最後の王カルロス 2 世が他界すると,ルイ 14 世は
その孫を継承者として王位に就かせるべくスペインに送り出した.ス
ペイン継承戦争は彼を君主として認める結果になったが,その間彼は
51
早くも 1702 年にはサヴォイのマリア・ルイザと結婚していた.この
結婚による子息はルイス 1 世とフェルナンド 6 世であった.フィリ
ペは重度の憂鬱質で,1724 年にはルイス 1 世に王位を譲るべく退位
したのだったが,ルイスはそれからわずか七ヶ月で病没し,フィリペ
は再び国王となった.これにより次男のフェルナンドがアストリア皇
太子となり,同時に王位継承者となったわけだが,彼こそはこれから
以下のページで我々が関心を寄せる人物である.
一方,フィリペはエリザベッタ・ファルネーゼとの二度目の結婚に
よりもう四人の息子の父親にもなっていた.即ち知恵おくれで相続か
らは外された長子,未来のスペイン王カルロス 3 世,未来の両シチリ
ア王フェルナンド 4 世,そしてもう一人の息子フィリペで,彼は母
親エリザベッタ・ファルネーゼを経由してパルマ公の地位を継承し,
パルマのブルボン家の祖先となった.これらは史上最も込み入った王
朝の複雑な詳細を記したものである.しかし我々のここでの直接的な
関心の的は初代のブルボン・スペイン王であるフィリペ 5 世,および
その成人した最年長の息子であるアストリア皇太子,後のフェルナン
ド 6 世である.彼らの妻はそれぞれ,エリザベッタ・ファルネーゼ
(フェルナンドの継母にあたる),およびポルトガルのバルバラ王女で
あった.既に断ったように,ドメニコ・スカルラッティは最後に名前
を挙げた王女の所帯に属していた.
アストリア皇太子は 1713 年に生まれた.従って彼はその結婚当
時,まだ十六歳であった.彼らが最初に顔を合わせた折,バルバラ王
女の器量がよくなかったのでアストリア皇太子は見るからに衝撃を受
52
けたようだったと記録されている.しかしほんの数年しか経たない間
に彼はバルバラ王女を熱愛するようになった.彼らがお互いを最初に
認めたのは,恐らくはつい先ほど触れたヴェンダス・ノヴァスの王宮
であったに違いない.このほとんど平屋建ての建物は,その忘れられ
た庭の一部分とともに今日まで残っているものの,今では騎兵隊の兵
舎に転用されている.しかし,このヴェンダス・ノヴァスの王宮はほ
ぼ二世紀もの間施錠されて住む者もなく,宮廷が再び斧槍兵と黒人の
給仕,奇矯な服装の矮人達や,吃音の最悪の発作に襲われたかのよう
に即興詩と戯れる吟遊詩人達からなる随員とともに到着する日を空し
く待つのみであった.
上記はベックフォードの「書簡集」にこだますポルトガルの宮廷で
ある.彼は自身が眺めたこの類いの従者達について記述しており,そ
れはジョアン 5 世亡き後ほぼ四十年にわたってその豪奢な宮廷が没落
していく途上,ポルトガルが 1755 年のリスボン大地震によって破壊
された後のことであった.しかし,この二組の結婚式が行われた時に
はその場面はもっと遥かに風変わりで,スペイン宮廷の出現によりさ
らに込み入ったものになっていたであろう.王家の面々が集まったと
ころは,それだけで一見に価する眺めであっただろう.というのもそ
の分ち難い分岐の網で絡み合ったカルロス 5 世とルイ 14 世の子孫達
は,それ自体で一つの人種を成していたからである.こういった奇妙
な状況において彼らがこれだけの人数一度に集まったことで,ヴェン
ダス・ノヴァスの二組の結婚式の挿話全体はおとぎ話のような非現実
味を帯びてくる.それはあたかも「白鳥の湖」あるいは「眠れる森の
53
美女」が事実として生起し,歴史として証明されたかのようである.
かの屋根の下でこの一夜を過ごした人達ほど興味深い集まりは想像で
きない.そして,そのおとぎ話のような非現実性は,婚姻を取り結ぼ
うとするカップルの若い年齢によってさらに強められる.彼らはまだ
ほんの子供であった.
ポルトガルのドン・ジョゼと結婚することになるマリア・ヴィット
リア王女は,フィリペ 5 世と二度目の妻エリザベッタ・ファルネーゼ
の間に生まれた最年長の娘であった.彼女はわずか十四歳だった.彼
女の異母兄であるアストリア皇太子は十六歳,マリアの実弟で後のパ
ルマ公,ナポリ王にしてスペイン王カルロス 3 世の年齢は十一歳だっ
た.それは彼らが生きた信じられないような状況を描き出すもので,
その後カルロス 3 世とその姉は 1729 年から 1777 年まで,何と四十
八年もの間二度と再び会うことはなかったのである.彼女はその夫,
ポルトガルのジョセ 1 世が他界した後スペインに戻り,カルロスは彼
女に会うために長旅をおして出向いたが,何となれば姉と弟は相互に
深い愛情で結ばれていたからであった.しかし,宮廷人の中でも最も
誠実で情愛深い,と同時代の作家に書かれているにもかかわらず,皺
だらけの老王女は弟と共にそのあられもない姿を晒しながら馬上から
猟をする,という彼らの楽しみを抑えることは出来ず,しかもそのよ
うな最も激しい活動にも全く動じないように見えるのであった.
このように長い別離は王家の家族に共通のものだった.というの
も,全く同じ状況が,不満足な解決しかない状態で次の世代,カルロ
ス 3 世の子供達にも起こったからである.カルロスは 1759 年,スペ
54
イン王位に就くためにナポリから引き揚げ,八歳の少年だった三男の
フェルディナンドをナポリ王として残していく一方で,次男であのゴ
ヤの肖像でおなじみのスペイン王カルロス 4 世を連れ帰った.だが,
その後時を経てカルロス 4 世はナポレオン戦争のために自身の王国
から追放され,二人の兄弟は 1759 年から 1817 年まで五十八年もの
間再会の機会がないままであった.その際,弟に会いたいというスペ
イン王の臨終の望みもナポリ王の狩りの時間を縮めることは出来な
かった.
ヴェンダス・ノヴァスでのこの対になった子供達の結婚式のための
集まりは,木立が鬱蒼としたエストレマデューラと高地のカスティー
リヤ平原を通っての家路という壮大な旅行の序曲でもあった.それは
少なくともたっぷり二週間はかかろうというものだった.アストリア
皇太子と皇太子妃はラバに跨がり,あるいは輿に乗せられ,旅の間中
ほとんどの夜をテントの中で眠ることになったであろう.最も大きな
砂漠のキャラバン隊も,その随行員の数と荷役用動物の隊列の規模に
おいてこれを凌駕することはなかっただろうと思われる.これらの動
物達は痩せた田園地帯の草を食べ尽くしてしまったに違いない.想像
するに,ポルトガルへ出かける旅の途上でその蓄えは帰路に備えて残
しておいただろうが,彼らが居ない間にガチョウの群れは農場に囲い
込まれ,羊は屠殺処理され,要するにこの小さな軍隊の帰路のために
用意したものはすべてなくなっていたことだろう.彼らがエストレマ
デューラを進み,樫の木立や豚の群れの間を通ってスペインの高地の
中心,カスティーリヤの色彩の中へと旅する様子を想像してみたいの
55
は山々だが,残念ながらそのための紙幅はない.
56
8 スペイン
ドメニコ・スカルラッティはマリア・バルバラ王女に仕えるために,
彼女が正に結婚した年に到着した.アストリア皇太子は果たすべき如
何なる公務も持っていなかったように見える.スペインの政府は事実
上,極めて有能な彼の継母であるエリザベッタ・ファルネーゼの手中
にあった.彼の父親であるフィリペ 5 世はあらゆることを全面的に彼
女の差配に任せており,エリザベッタがこの国を支配し,その外交方
針にも決定的な介入を行った.アストリア皇太子と皇太子妃は国王と
王妃が住む同じ宮殿の一角で暮らしていた.その所帯は独立していた
ものの,自分達の宮殿は持っていなかった.フィリペ 5 世はエスコリ
アル宮に恐れをなしており,そこを公務で訪れることを必要最小限に
抑えようとしていた.恐らく彼はスペインに来る遥か以前からパドリ
デロ,あの先祖達が祭られた円蓋の建物についていやというほど聞か
されることになったであろう.彼の前任者でハプスブルグ家最後のス
ペイン王,カルロス 2 世については,その知られているあらゆる場面
で恐ろしい死の影が顔を出す.この封建制の,あるいは家紋の亡霊と
も言うべき人物はほとんど話すことが出来ず,また虚弱で生殖能力も
なかった.しかもほぼ二十歳になるまで授乳によって育てられ,その
楽しみはと言えばバターを塗ったキャベツで蝶を捕まえること,そし
てパドリデロにたむろして時々棺の蓋を開けて眺め,その出自の刻印
である自分の長い顎や亜麻色の毛髪と腐敗し崩れいく祖先達のそれを
57
見比べることの二つことのみであった.彼の為すことすべては古代エ
ジプト王朝の形式主義のように融通がきかない厳格な作法によって縛
られており,その四十年に渡る生涯を想い描いてみることは歴史的に
も興味が尽きない.相当に遅れてではあったが,カルロス 2 世もまた
最終的にはパドリデロに安置された.フランス出身の彼の後継者フェ
リペ 5 世が,何にも増してこのぞっとするような遺体安置所に埋葬さ
れることに恐怖を感じたことは理解できる.以下で我々が目にするよ
うに,この身の毛もよだつ先祖たちの義務から逃れることができたス
ペインの君主は彼とその息子だけであった.この点でもそうだが,父
親と息子は知られている限りすべての性格がお互いよく似ていた.だ
が,その中でも最も強い共通点は音楽への情熱だったといっても過言
ではない.この相互に通じ合う性癖についての証拠は山のように残っ
ている.
しかし,スカルラッティをスペインに船出させた以上,まずはその
地理的状況を明確にする必要がある.彼が公務上行く必要があった場
所は高々三カ所に限られていた.すなわちマドリード,アランフェ
ス,およびラ・グランハである.フィリペ 5 世は南方へ向うことは
ほとんどなかった.というのも,比較的贅沢なセヴィリアですら彼に
とって不愉快だったからである.彼のお気に入りの逗留地はラ・グラ
ンハで,その次がアランフェスであった.後者はマドリードからおよ
そ三十マイルほどのところにあるが,帝国時代に行われた改変や付加
物によって様式的な性格が大きく変わってしまっておりほとんど検討
に価しない.いずれにせよ,フィリペ 5 世によって完成されたものは
58
ほんの一部で,残りはカルロス 3 世およびカルロス 4 世の仕事だが,
この二人は以下のページで取り扱う範囲を超えている.
一方,ラ・グランハはフィリペ 5 世とフェルナンド 6 世時代に備え
ていた特徴の大部分を依然として保持している.ヴェルサイユ生まれ
でフランス人として母国への郷愁を抱いていたフィリペは,首都から
は十分離れていてなおかつ遠すぎないような場所でフランス趣味の宮
殿と庭園を造営することを望んでいた.彼は 1720 年にセゴヴィアで
狩りをしていてそのような場所を見つけ,その土地をエル・パラルの
修道士達から購入した.ちょうど次の年から造営が始まり,1723 年
までにはフィリペはそこに居住していた.宮殿はテオドーロ・アルト
マンス 74) によって建設されたが,その設計は生涯の大部分をトリノ
でサヴォイ公ヴィットリア・アマデオ 2 世に仕えて過ごしたあの忘れ
られた天才,シチリア出身の建築家ユヴァッラによるものだった.彼
はバロック時代最初期の芸術家で,実際のところフェルディナンド・
ビビエーナ 75) にも劣らない劇場建築の大家であった.
ラ・グランハの栄光である庭園と噴水は,エリザベッタ・ファル
ネーゼの主導で 1727 年から造営が始まった.そこには主にフレマン
とティエッリ 76) の手になる記念碑的な噴水が少なくとも二十六基あ
り,それらはヴェルサイユにあるものに勝るとも劣らない.中心は
「ダイアナの浴場」で,群れなす二十人の妖精達に取り巻かれ水の中
から姿を現す女神像からなる.もう一基,「名声」の泉からは百三十
フィートの高みへと噴水が吹き上がる.実際の庭はルネ・カルリエ
とブートゥロウ 77) の設計に基づいて造られているが,その三百五十
59
エーカーもの敷地はあまりに広大なために,計画の完成には少なくと
も三世代のフランス人彫刻家と庭師を必要とした.結局竣工したのは
カルロス 3 世の治世の終わり頃になってからである.豪華な家具を備
えた宮殿内部は 1918 年の壊滅的な火災によって破壊され,今や見る
影もない.しかしラテン十字の形に建てられ,ナポリのソリメーナの
設計になる大理石の祭壇を備えた聖堂には,エスコリアルから巧く逃
れることができたフェリペとエリザベッタ・ファルネーゼの墓が置か
れている.
このラ・グランハの王宮とその庭園は,1729 年までには実際上ほ
ぼ使用に耐えるようになっていた.それらはアストリア皇太子とその
妻がスカルラッティとともに居住し始めた当時からそれほど大きくは
変わっていない.年間に三日間ある例外を除いて噴水は停止している
が,それでもそこは際立って美しい場所である.そして,その景色た
るや想像を絶するほど素晴らしい.遥か昔に没した奇妙な住人達がこ
の希薄な大気の中で夏を過ごしていたことを想うと,水上の音楽にも
さらなる美しさが付け加わるというものである.
ラ・グランハといえばその人工的な環境である.まずはその空中に
いるかのように現実離れした状況がある.というのも,そこはナポリ
とほぼ同じ緯度にあるとはいえ,何といっても海抜四千フィートとい
う標高はヴェスヴィオの火口よりも高い.ほとんど年間を通じ,山側
に向って数分も歩けば雪を見ることが出来る.夏の暑さにとってラ・
グランハよりも快適なところは何処にもないだろう.そして冬場に
は,狩りを終えて林から戻って来ると,凍った外気をよそに音を立て
60
て燃える炎がずっと心地よく見えたに違いない.そして以下に見るよ
うに,獲物を追うこと以外の余暇の時間の中心は音楽であった.
ラ・グランハの次にはマドリードの宮殿について説明しなければな
らない.我らが英雄が新婚のアストリア皇太子夫妻とともに首都に到
着した 1729 年というこの年,昔ながらの王宮はまだ健在であった.
だが,それは 1734 年の降誕祭前夜に焼失し,多くの名画が炎の中に
消えていったに違いない.ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン,ヒ
エロニムス・ボッシュ,ティツィアーノ,ルーベンス,およびヴェラ
スケスの絵画が破壊されたことは分かっている.これを機にフィリペ
はトリノからユヴァッラを招聘し,ユヴァッラは敷地千七百フィート
四方,高さ百フィート,七百フィート × 四百フィートという中庭付き
の宮殿の模型を用意した.この模型はいまだ現存している.だが,ユ
ヴァッラはその次の年,計画が実行される前にマドリードで他界し,
その際弟子サッケッティを最上の建築家としてフィリペに推薦してい
た.サッケッティはずっと慎ましい計画を提案し,今日ある巨大な王
宮の造営が始まった.それはベルニーニがルーヴル宮のために用意し
て却下されたデザインから採ったものだが,この興味深い事実は一般
にはあまり知られていないようである.宮殿の建設はフィリペ 5 世,
フェルナンド 6 世の治世の間も続いたが,ティエポロのフレスコ画に
よる玉座の間の装飾については,その完成がカルロス 3 世に委ねられ
れた.
1787 年にマドリードの王宮を訪ねたウィリアム・ベックフォード
は,その内部について興味深いスケッチを残している.国王(当時は
61
カルロス 3 世)はお定まりの狩りの遠出のために不在だったが,ベッ
クフォードは実に巧みに王宮の雰囲気を描写しているので誰も王の不
在に気づかないほどである.彼が通り過ぎる部屋という部屋には金色
の鳥籠が立っており,その一つ一つの籠の中で面白く風変わりな鳥が
大きな声でさえずっている.それらのさえずりに混じって響くのは音
楽時計が一定の間隔でチャイムを鳴らす音で,あたかもグラス・ハー
モニカの低音のように耳に忍び込んで来る.その静けさを破るものと
言えば数人の年老いた家令達のほとんど聞こえ難い足音ぐらいで,彼
らは皇太后エリザベッタ・ファルネーゼの時代に流行した生地のカッ
トとファッションの宮廷衣装に身を包み,注意深く静かに足を滑らせ
て鳥籠の前に進むや.その中の囚人達によく訓らされた鳥が好みそう
なご馳走を差し出すのであった.王宮の各部屋を眺めているうちに,
ベックフォードは人目を引く「式典の間(Sálon de los Funciones)」
あるいは「大演舞場(El Coliseo)」と呼ばれる部屋に行き当たった.
天井画はラファエル・メングス 78) によって描かれており,それは彼
の主要な作品の一つであった.ここで君主達の中でも最も音楽的で
あったフェルナンドとバルバラがファリネッリやエジツィエッロの
美声を聴きながら恍惚のうちに心をとろけさせていたのである*1 .あ
*1
ここで一つ間違いがある.メングスをスペインに呼んだのはカルロス 3 世で,
それは 1761 年,フェルディナンド 6 世が没して二年後のことであった.フュー
スリの「画家の辞典」中の雄弁な記述によれば,スペインに来て数ヶ月後,彼は
「過剰な仕事とある種の嫌悪感から消耗症にかかってしまったが,それは優れた
実績の報いとしてあまりにしばしば引き起こされるのであった」とあり,彼はそ
のせいで一旦ローマに戻った.メングスは 1773 年になってスペインに帰ってき
た.従って,メングスはこの天井画を描かなかったはずで,恐らくそれはナポ
62
あ,ベクフォードの喜びはどれほどだったろうか!だがその前年の夏
にはこの大劇場的な集合住宅はすでに二つの部分に分割されており,
一方はパルマ公の王子フェルナンドを住まわせるための祖末な長屋状
の小部屋になっていた.その美しい屋根も容赦なく分割された.いく
つかの場所ではまだカーテンの足や襞を見ることが出来たが,大工や
漆喰職人がものすごい勢いで作業をしており,数日の間に白い水漆喰
が以前の栄光を覆い隠してしまったであろう.
王宮についてのベックフォードの記述は,少なくともそれらの部
屋の一つで今でも確認できる.これは「ガスパリーニの間(Sálon de
Gasparini)」と呼ばれる部屋のことで,その名前の芸術家の手による
言葉に尽くせぬほど豪奢な絹織物の垂れ幕で飾られている.部屋には
依然として無数の音楽時計が収まっており,多くはフェルナンドとバ
ルバラの治世当時に由来している.だが,素人へ警告しておけば,ブ
エン・レティロとカポディモンテにある陶磁器は例外なくカルロス 3
世時代以後のものである.もしフェルナンドとバルバラ時代の名残を
欲するのなら音楽時計で満足する必要がある.
スカルラッティにとって知られていたに違いないもう一つの宮殿
はブエン・レティロのそれである.これはマドリード郊外にあったも
ので,その主な興味としては,宮殿が 1734 年に焼失した折に多くの
ティツィアーノの最上の絵画が炎の犠牲になり,またヴェラスケスの
リの画家コッラード・ジャクィント(1699 年–1765 年)によるものだった.ま
た,私の最も確かな記憶によれば,件の部屋はアランフェスにあるもので,マド
リードではない.
63
全作品のうち少なくとも三分の一がこの際に消滅してしまったことで
ある.宮殿にはヴェラスケスの最上の作品の一大コレクションが所蔵
されていたが,それらは版刻されて後世に残されることすらなく,王
室の私的なコレクションの一部として部外者には閉ざされていた.ブ
エン・レティロにはまた劇場としての歴史がある.というのも,宮殿
がコンデ・デュク・デ・オリヴァレス(ヴェラスケスによる素晴らし
い肖像画の主である)により 1630 年にフィリペ 4 世のために造営さ
れた際,そこに劇場が付設され,ロペ・デ・ヴェガ 79) の演劇が最初
に演じられたからであった.
火災の後も宮殿は廃墟のままであったが,劇場の方はフェルナンド
6 世によって新たに再建された.以下の記述はジョセフ・タウンシェ
ンドによる「1786 年および 1787 年のスペイン周遊紀行(A Journey
through Spain in the years 1786 and 1787)」からの引用である.「ブ
エン・レティロの宮殿は長く見捨てられた建物の群れであった.そし
て私がそれを見た時には崩壊の淵にあった.劇場は巨大で庭に向って
開かれており,必要な時にはそれが背景の一部になるように作られて
いた.ここでフェルナンド 6 世はしばしば一般公衆をオペラで楽し
ませたが,オペラこそはポルトガルのバルバラ王妃が耽溺したもので
あった.『カゾン(El Cason)
』と呼ばれる巨大な大広間はルカ・ジョ
ルダーノ 80) による天井画で飾られているが,これは彼の趣味,創意,
見識、そしてその模倣の能力を伝える記念碑である*2 .天井の最も主
*2
この今でも複製芸術博物館として存在しているホールは,火災で焼け残った昔
日のブエン・レティロの残骸である.そのフレスコ画はカルロス 2 世の命によ
64
要な屋根の部分では,ブルゴーニュ公フィリップ善良王に金の羊毛を
与えるヘラクレスが表現されている.それに従属する区画ではパラス
と神々がタイタンを鎮めている場面が見られ,それに応えてスペイン
の君主閣下が地球を支配しているように見える.残りの部分は寓意的
な図象で埋められ,美しく描かれている.控えの間には『グラナダの
征服』が収められている.巨大な大広間からは楕円形の部屋を横切っ
て庭に出るが,その部屋は全体が窓ガラスで覆われており,天井は太
陽の誕生を表現し,祈祷者が犠牲を捧げようとしている間,万国の
人々がその神を崇拝する様子が描かれている.これもまた同様にジョ
ルダーノの仕事である.」
すぐに気がつくように,これらベックフォードやタンシェンドによ
る説明ではフェルナンドとバルバラの音楽的嗜好について同じように
力点が置かれている.「ファリネッリやエジツィエッロの美声」がこ
れらの宮殿で響くのは,スカルラッティがスペインに到着してほんの
数年後のことである.それにしても,ファリネッリについての話はそ
の全体がまるでおとぎ話のようだ.
この最も偉大なカストラート,そして恐らくは史上最も卓越した技
巧と美声の持ち主は,エリザベッタ・ファルネーゼに乞われてその夫
の憂鬱症を治療するべく 1736 年にスペインに赴いた.フィリペは既
に憂鬱症のせいで 1724 年に一度退位したものの,その息子ルイス 1
りルカ・ジョルダーノによって描かれた.ジョルダーノは 1692 年から 1700 年
までスペインに滞在した.だが,タウンシェンドによって描写された控えの間
や楕円形の部屋はもはや存在しない.
65
世の死によりたった七ヶ月で復位しなければならなかったことは想い
出されるべきだろう.フェリペに対するファリネッリの歌唱の効果は
奇跡的な治癒といってよいものだったが,それは毎日続けられる必要
があった.ファリネッリは十年にわたり,毎晩同じ四つの歌でフィリ
ペの病んだ心を和らげた.つまり彼はその歌全部をおよそ三千六百回
も繰り返したというわけである.ファリネッリは非公式の首相の役を
演じ,五万ポンドという給金をもらい,スペイン最高位の勲章の一つ
であるカラトラヴァ騎士団の爵位に叙せられた.ファリネッリには他
の誰でもなく国王だけのために歌うという厳格な契約上の制約が課せ
られていた.聞くところによると,ある時エリザベッタ・ファルネー
ゼはこの契約を盾に,アストリア皇太子夫妻に対してすら彼の歌を聞
かせることを拒んだとされる.
しかしながら最も興味深い点は,フィリペ 5 世が没した 1746 年以
降もファリネッリがその職に留まり,今やフェルナンド 6 世となっ
たアストリア皇太子のために全く同じ仕事を続けたという点である.
実際,彼は父親にも増して熱心なファリネッリの庇護者となり,カス
トラートにより大きな裁量を与えるとともに,その政治への影響力も
減るどころか増大させることになった.同じ四つの曲がフェルナンド
のために毎晩歌われた.彼のお気に入りは,ファリネッリがその弟子
であったポルポラのオペラ「エウメネ(Eumene)」中の歌「かの船
は(Sonqual nave)」だった.ファリネッリは二十年間,あるいはそ
れ以上の長きにわたって二人の国王の下で王室の愛顧を受け続けた.
彼がロンドンで歌い,ポルポラのオペラの成功によってヘンデルがオ
66
ペラの舞台を去ってオラトリオに専念するようになったというあの若
い頃の大騒動から既に四半世紀の時が流れていた.実際上この間ずっ
と彼は世間からは失われた存在であった.ファリネッリに対する愛顧
を終わらせることになるのは国王のみであった.1759 年にフェルナ
ンド 6 世が他界すると,彼はカルロス 3 世によって年金を与えられ
てボローニャに引退した.そこで彼は 1782 年まで裕福に暮らし,彼
との会談に関するあの魅力的な記事を残したバーニー博士の訪問を受
けた.
ベックフォードによって伝えられた他のカストラートとして,エジ
ツィエッロはその名前の持つ響きが風変わりな鳥のさえずりやトリル
のような声音を驚くほどよく暗示している.彼が師匠ドメニコ・ジッ
ツィからそう呼ばれた,ということを知るのは何とも幻滅である.エ
ジツィエッロはファリネッリ後において最も偉大なカストラートで
あった.1742 年,彼はリスボンにおいてジョアン 5 世の前で歌い,
二年後にはフェルナンドおよびバルバラとの契約でマドリードにおい
てペルゴレージ作の「スキロのアキレウス(Achille in Sciro)」で歌
うことになった.もう一人の偉大な歌手であるカッファレッリは,こ
のマドリードでのオペラに出演するために遥々ポーランドからやっ
て来なければならなかった.カッファレッリはあらゆるカストラート
の中でも最もグロテスクな存在であり,正にその宦官的な性格からま
るでトルコのおとぎ話,もっと言うなら「アラビアン・ナイト」の登
場人物のようにさえ見える.だが,彼は実際に歴史上の生きた人物で
あり,つい二世紀前までは教養あるヨーロッパ世界全体にその名を知
67
られていた.彼はかってポルポラの弟子だったが,ポルポラは彼を単
一の声楽的な訓練のみに専心させ,それが完璧になるまで何と五六年
もの間それを続けさせたのであった.エジツィエッロと同じく,カッ
ファレッリもリスボンでバルバラ王女の父親であるジョアン 5 世に雇
われている.カッファレッリは六十五歳という年齢に達してもまだ歌
い続け,ナポリのサン・ドラートの爵位を買ってそこで優雅に暮らし
た.亡くなったのは 1783 年で,莫大な遺産と爵位を甥に残している.
ここでカストラートについてこういった詳細を取り上げているわけ
は,それ自体で興味深いことに加え,フィリペ 5 世やその息子フェル
ナンド 6 世の音楽的傾向を示す証拠として重要だからである.彼らの
妻であるエリザベッタ・ファルネーゼとバルバラ王女も正にその夫と
同じく高い音楽的趣味を持っていた.実際,二人の国王は性格的に入
れ替わることも出来たが,妻達に関してはそうはいかない.
エリザベッタ・ファルネーゼは陽気な知性の持ち主であったが,陰
謀家でもあった.彼女の手段はアルベローニ枢機卿であり,その目的
は彼女の息子達の扶持としてナポリの王国とパルマの公爵位を守るこ
とであった.彼女の継子達は既にスペインを与えられていたが,エリ
ザベッタは自らの息子達にも相続分を確保することを望んでいた*3 .
*3
ファルネーゼ家は二つのことで有名である.即ち,
「肥満」と「多産」である.こ
れらの特徴のうち後者は今でもブルボン-パルマの一族中にその例を見ることが
出来る.現在のパルマ公は十八人兄弟の一人で,その妹であるツィタ皇后には
八人を下らない子供がいる.[訳註:原書出版当時(1935 年)のパルマ公はエン
リコ 1 世(1873 年–1939 年)であった.その父ロベルト 1 世(1848 年–1907
年)には二人の妻に十二人ずつ計二十四人の子供がおり,ロベルトは二十四人中
第四子にあたる.ツィタ(1892 年–1989 年,二十四人中第十七子)は 1911 年
68
後のスペイン王カルロス 3 世は若い頃にパルマに,ついでナポリに送
られ,そこで王となった.エリザベッタが相続人であったパルマの領
地は,カルロスから彼女の第二子フィリペ王子に引き継がれた.とい
うわけで,これに関する限りエリザベッタの計画は無条件に成功した
と言え,大きくて扱いにくいスペイン君主制を先の皇帝カルロス 5 世
の前例に倣ってスペインとナポリに分割することは,息子達のために
王位を確保するという彼女の計画の一部分であった.
一方,バルバラ王女は音楽に対する知性のみを持っていたように見
え,その他のことについてはほとんど無知同然と言ってもよいほど
だったことが暗示されている.彼女の情熱の対象は音楽であり,その
師スカルラッティとの関連で言及される場合には,常に彼女が弟子の
中で最も卓越した演奏家だったという仮定がなされている*4 .その外
貌は劣性ブラガンサ型のそれで,皇帝レオポルド 1 世から受け継いだ
浅黒い肌に厚い唇といった特徴を備えていた.
この君主と我らがカルロス 2 世がほとんど完全な一対になっている
ことは記されてよいだろう.カルロスはその特徴的な浅黒い肌をハプ
スブルグの祖先から受け継いでいた.既に述べたように,レオポルド
1 世は相当な腕前の音楽家であった.そして,その血とかの作曲家兼
国王ジョアン 4 世の血とは共同してバルバラ王女を生んだのである.
*4
にオーストリア・ハンガリー帝国最後の皇帝カール 1 世に嫁いだ.]
バルバラ王女は最上音が G まで届くハープシコードを持っていた(これは特に
彼女のために書かれたスカルラッティの作品によって証明されている).J. B.
トレンド氏は最近スペイン王宮で特別な便宜を受けてこの楽器を探したものの,
その所在を突き止めることは出来なかった.
69
もし彼女の容貌を知りたければ,その大叔母にあたるブラガンサのカ
タリーナの肖像を眺めればよい.その当時スペインの女王や王女達が
纏っていたヴェラスケスの宮廷衣装に身を包み,バルバラ王女も実に
興味深い姿を見せたであろうに違いない.
相続の規則によって極端に長い間血統を保ち続けた結果どうなった
かが,他でもないフェルナンドとバルバラという人物の中に例示され
ている.音楽がこの風変わりな夫婦の気晴らしであった.ファリネッ
リ,エジツィエッロ,カッファレッリに対する庇護は,ドメニコ・ス
カルラッティを抱えていたこととは分けておくべきである.しかし,
この音楽家がスペインで過ごした二十五年間はその経歴の中で最も謎
めいた部分である.彼の雇用についての詳細を見つけ出すことは全く
不可能といってよい.ドメニコの立場はほぼ間違いなく上級執事とい
うところで,主人の決めたお仕着せを着用しなければならなかったこ
とも確実である.しかしながら,彼についてのこの奇妙な沈黙の理由
を見つけ出すことは難しくない.ナポリではドメニコは音楽の専門家
社会のただ中にいた.その作品は蒐集され,註釈が施された.だがマ
ドリードでは,ましてはアランフェスやラ・グランハでは教養ある社
会とは全く接触がなかった.国王,そしてアストリア皇太子夫妻は憂
鬱症に嘖まれており,音楽への愛着以外の如何なる教養も持ち合わせ
ていなかった.彼らには友人もなく,社会の中で自分達以外の誰をも
気にかけることもなかった.外部世界との接触を保ち続けたのはエリ
ザベッタ・ファルネーゼだけであった.1746 年に彼女の夫が没し,エ
リザベッタがセゴヴィアの木立の中に佇むリオ・フリオの宮殿に一人
70
寂しく引退した後,フェルナンドとバルバラは周囲の従者達を除いて
孤独の中に取り残された.エリザベッタはフェルナンドにとって継母
に過ぎなかったことが思い出されるべきだろう.そしてこの時までに
彼女の息子達はパルマと両シチリアを確実に手中にしていた.1766
年にエリザベッタが亡くなったとき,彼女の生涯の事業は完成したの
であった.
事実,エリザベッタはフェルナンドやバルバラよりも長生きした.
こう言うと,日付を気にしなくて済むように後者二人の人生について
も結末をつけたくなる.父親と同じくエスコリアルへの恐怖を抱いて
いたフェルナンドとバルバラは,自分達が選んだ教会に埋葬されるこ
とを固く心に決めていた.バルバラ王女はこの目的のために自身の出
費でマドリードにラス・サレセス・レアルスの巨大な女子修道院を建
立した.それは規模において第二のエスコリアルであり,マントノン
夫人のサン・シル 81) をまねた設計で,自身が寡婦になったときの隠
棲の場所でもあった.実際には彼女は夫より一年先に他界し,そのた
めにフェルナンドは悲しみのあまり着替えることもせず,髭も剃らな
ければ顔も洗わず,夜着のままでラ・グランハの庭園をさまよってい
た.彼はファリネッリの歌による気晴らしさえも拒絶し,次の年,両
人のためのラス・サレセス・レアルスの墓の用意が整わないうちに死
去した.彼らの治世は 1746 年から 1759 年までで,その間に子供は
いなかった.その死はファリネッリがイタリアへ帰る合図となり,彼
はナポリからやって来てスペインの王位を継いだ新国王カルロス 3 世
から莫大な年金を受け取った.
71
この数年前にあたる 1754 年,スカルラッティはナポリに戻ってい
る.だがこの点については後回しにし,彼のスペインで滞在について
分かっているあらゆる情報に照らして議論を続けよう.以下に見るよ
うに,この四半世紀という長きにわたる流浪の間に,彼がこの国以
外の地でも活動していたことについてある程度の証拠が挙っている
のだ.
72
9 ダブリンへの訪問
この時期における,スペインの外でのスカルラッティに関して知ら
れている唯一の詳細情報はたった一つの挿話に関連するもので,それ
は彼が英国人の友人であるトマス・ロージングレイヴを訪問したこと
である.ロージングレイヴはローマから英国に戻るとハノーバー広場
にある聖ジョージ教会のオルガニストに任ぜられた.これは 1725 年
のことであった.だが,間もなく不幸が彼を襲う.その顛末は大変興
味深いので,ここでバーニー博士の著書から引用することにしよう.
「この選定が決して数年の後,彼は移り気な性格の女性に好意を抱き,
彼女ともっとも確かに結ばれていると感じていたその時に女から拒
絶された.これによるかの恋人の落胆はあまりにも甚だしく,一時的
に奇行に走るなど正気を失ってしまった.彼がよく語っていたことに
は,女の残酷さはあまりにひどかったので彼の心は完全に壊されてし
まい,その宣告を受けた時心の『琴線』がぷつんと裂ける音が聞こえ
たほどだった.そしてそのことがあって以来,彼の精神の病は『クリ
ペイション(crepation)』と呼ばれるようになったが,それはイタリ
ア語の動詞で裂けるという意味の『クリペーレ(crepare)』に由来す
る.この不幸の後,哀れなロージングレイブはいかなる種類の雑音に
対してもひどく感情的にならずには耐えられなかった.教会でオルガ
ンを演奏している間,近くで誰かが咳をしたり,くしゃみをしたり,
勢いよく鼻をかんだりすると,彼は即座に演奏を中断して教会の外に
73
走り出て,見るからに苦痛と恐怖に苛まれた様子で,古傷が彼を痛め
つけクリペイションを弄ぶといって泣き叫んでいた.」
ロージングレイヴは最終的に聖ジョージ教会の職を辞することを余
儀なくされ,ダブリンへと引退した.ドメニコ・スカルラッティが彼
を訪ねたのはその場所で,1740 年のことであった.もう一人の目撃
証人であるコックス大執事が語るには,「ロージングレイヴはあらゆ
ることがらについて完全に分別があったが,その心に最も近いこと
となるとそうはいかなかった.そのことが話題になるといつでも彼
は正気を失ってしまった.」依然としてロージングレイヴのハープシ
コード演奏,特に即興は素晴らしいものであった.そして自分で作
曲するだけでなく,友人であるスカルラッティの没後にその「練習
曲(Lessons)」を編集し,ジョン・ジョンストンによってチープサイ
ドのハープ・アンド・クラウン社から出版させるほど元気であった.
ロージングレイヴはその生前,粗野な和声と派手な転調で不評を買っ
たが,こういった悪口はそれ自体で現代の聴衆の興味をそそるに十分
である*1 .
スカルラッティが彼に会うために遥々マドリードからダブリンまで
やって来たわけは,昔日の友人に対する彼の親愛の情が並々ならぬも
のだったからに違いない.これは 1740 年の秋の出来事であった.こ
の訪問について他に分かっていることといえば,スカルラッティが帰
*1
セルゲイ・ディアギレフはロージングレイヴの音楽をコンスタント・ランバート
氏から紹介され,彼の音楽のいくつかを基にバレエを製作しようと意図してい
たが,自身の死により実現しなかった.
74
路ロンドンに立ち寄ったことぐらいである.これについては,1741
年にロンドンで上演された二つのパスティッチョ・オペラ「ペルシア
のアレッサンドロ(Alessandro in Persia)」と「メロペ(Merope)」
のためにスカルラッティが歌の作品を提供していることによって証明
されている.彼がこの機会にヘンデルを訪ねたことはほぼ確実と思わ
れるが,この英国への旅は謎に覆われている.現在に比べれば当時の
ダブリンが全く遠隔の地ではなかったを考え合わせると,この挿話に
ついて全くの沈黙が支配していることはなおさら奇妙に思われる.人
口という点では,ダブリンはヨーロッパ第三の都市であったが,ヘン
デルがダブリンで「メサイア」を最初に上演したことは,そこが音楽
の中心の一つとして重要な場所だったことの証しであろう.というわ
けで,これらの島々へのスカルラッティの訪問についての沈黙の謎は
益々深まるばかりである.彼の再登場によって英国では大変な興奮と
論争が巻き起こったに違いないと想像できるが,実際にそうだったと
してもその痕跡は全く残っていない.要するに,彼のロンドンとダブ
リン訪問については何も分かっていないのである 82) .
75
10 スカルラッティの音楽におけるスペイン固
有の表現
さて,スペインに立ち戻って考えるに,我々が先のページを通して
明らかにしようとしていたのは,ドメニコ・スカルラッティが自らの
環境に鋭い自覚を持っていた社会の著名な構成員だったという点であ
る.ナポリ派からは音楽家であるとともに画家でもあったサルバトー
レ・ローザ 83) ,あるいは詩人兼建築家のフェルディナンド・サンフェ
リーチェのような人物が輩出した.ナポリではまだ諸芸術はお互い
別々になってはいなかった.そこでは音楽がすっかり生活の一部分に
なりきっており,その魅力を知らぬものなど何処にもいなかった.同
様に,それら諸芸術のエネルギーや運動が集中することで音楽家は作
家や画家と懇意になった.さらに,スカルラッティは十年以上もロー
マで暮らしていたが,そこはあらゆる芸術の首都であった.従って彼
が自らの環境に対して見る目を持っていたと仮定することは至極当然
のことである.
このことは,もし彼のソナタをナポリやローマで書かれたものと二
十五年間スペインで過ごした間に作曲されたものとに分けることが出
来たとすれば,あらゆる疑念をも超えて確実に証明することが出来た
であろう.しかし,ここで出来る仕事はちょっとした技術的な検討だ
けである.本書のページを通して非専門家が出来ることといえば,彼
の背景を照らすことだけだ.スカルラッティが風変わりながらも想像
76
しうる限り最も鋭敏な二人の音楽愛好家に仕えていたこと,またファ
リネッリやエジツィエッロといった器量の芸術家と常日頃からの同僚
であったことを明確にすることで,音楽による肖像画としての彼の活
動についての描像を完成させることももっと容易になるはずである.
このような検討作業で主に興味をそそる点といえば,スカルラッ
ティがどの程度までスペイン音楽の影響を受けたかを検証することで
あろう.というのも,我々がビゼー,シャブリエ,ドビュッシー,ア
ルベニスの中で知っているスペイン固有の表現がスカルラッティの中
にも現れているからである.バーニー博士はこの点をよく分かってい
た.彼曰く,「スカルラッティの作品中には車力,ラバ追い,そして
市井の人々によって歌われた曲の旋律を再現した楽節が数多く見ら
れる.」これはマニュエル・デ・ファリャについての B. J. トレンド
の著作中でも再度指摘されている.「ドメニコ・スカルラッティの和
声様式が示すもう一つの興味深い特徴は,その内部ペダル音 84) に対
する嗜好である.それはしばしば人を驚かす不協和音になり,前世紀
の編集者はそれらを慎重に消し去ったものであった.そのような楽節
は,恐らくスカルラッティがスペインのギター音楽に馴染んでいたこ
とに由来している.ハープシコードというものはギターの撥くような
音響効果を生々しく暗示できる.そしてこういった音響は,恐らく現
代ピアノの震動がショパンにとってそうだったようにスカルラッティ
にとって刺激的だったのだろう.*1 」
*1
貴重な情報として,バーニー博士はボローニャに引退していたファリネッリか
ら数台のスペイン製ハープシコードを見せてもらったことを語っている.その
77
スカルラッティの後,スペイン固有の表現はそのかすかな反響が
ウェーバーによるジプシー・オペラ,「プレチオーザ(Preciosa)」序
曲,あるいはグリンカの「マドリードの夏の夜」の中に再び聞かれる
ようになるまで,ほとんど一世紀の間音楽に現われない.ただし,実
際にスペインで暮らしたもう一人のイタリア人,ボッケリーニの音楽
中にその影響の痕跡が見られることも事実である.貧困から実質的な
餓死という末路を辿ったこの不運なヴェネチア人は,四十年以上もの
長い時間をマドリードで過ごした.モーツァルトの偉大な権威である
M. ジョルジュ・デ・サンフォアは 1851 年に出版された A. ピックォ
トによるボッケリーニついての旧著の改訂版(1930 年版)を紹介する
にあたり,彼が発見したと称するボッケリーニ作品中のスペイン大衆
音楽の確かな痕跡の例を挙げている.この博学の著者によれば,未出
版のままシュトットガルトの図書館に保存されているバレエ音楽では
それがもっと顕著であり,曲全体がスペイン舞踊音楽のリズムに基づ
いているという.もしそうであれば,それは特徴的な国民的リズムが
本格的な作曲家によって取り上げられた最初期の例の一つであろう.
百二曲の弦楽四重奏と百二十曲の五重奏曲の作曲家であるボッケリー
ニがこのような無名のうちに沈んでしまった以上,彼の作品が陥った
忘却からいくつかを救い出してみてもせいぜい慈善事業にしかならな
いだろう.トマス・ベッカム卿がボッケリーニによる交響曲を上演し
たが,これは始まりに過ぎない.しかし私が想像するに,ボッケリー
ナチュラル鍵は黒く,シャープとフラットの鍵は真珠層で覆われていて,楽器自
体はヒマラヤ杉の箱に収まっていた.
78
ニほどの感受性と教養を備えた音楽家ならば,わずか十五年先立って
スペインに到着した先達であるスカルラッティの手稿譜をいくつか所
有していたとしても不思議ではない.
というわけで,ドメニコ・スカルラッティは,他の作曲家がその死
後ようやく一世紀になって模倣するようになる効果の先駆者として認
められるだろう.そして彼のソナタのうち,いわばスペインの影響の
下で書かれたと思しき後期の作品群は、奇妙なことに全曲版の中では
脈絡もなく現われる
85)
.もしそれらが集められて彼のまとまった作
品として確実に提示されれば,スカルラッティについての一般的な評
価はこれらの新しい証拠に基づいて全面的に改訂される必要がある
だろう.それらは彼の際立った個性を確信を持って証明するものであ
り,今日の我々にとっても十分興味深い響きをもっているものの,当
時においては全く前例のないものだった.
この新しい材料の追加によって我々のスカルラッティに対する意見
は劇的に変わるだろう.彼はあまりにも長い間,昔日の大家の中で最
も好意的な意味で風変わりであると見なされてきた.作品のどのペー
ジをでたらめに開いても退屈したりがっかりするような危惧はない
が,同時にその新奇さ故に,最も幅広い趣味の音楽家ですら彼の作品
中で一番使い古された三、四曲以上のものをレパートリーに加えるこ
とはなかった.よく検討された一群のスカルラッティの作品が音楽会
のプログラムで取り上げられるといったことは皆無であるように見
える.もしこれが本質に関わることで,彼の作品がコンサートホール
でよりも家庭においてよく響くから,というのであれば無視されると
79
いう責めも理由や考えがあってのことになる.それにしても,スカル
ラッティは完全な照明の下で公衆の前に姿を現われなければならず,
彼自身でその陰を照らす手だてはない.だからこそ,スカルラッティ
は利用可能なすべての証拠という光の下に召喚されることが重要なの
である.
この目的のために前のページの言葉をもう一度繰り返そう.「ハー
プシコードというものはギターの撥くような音響効果を生々しく暗示
できる.そしてこういった音響は,恐らく現代ピアノの震動がショパ
ンにとってそうだったようにスカルラッティにとって刺激的だった
のだろう.」スペインには本格的なギター音楽の作曲家集団が常に存
在していたように見える.この事実はセゴヴィア氏が奏でるソル,ト
ローバ,あるいはタレガの作品を聞いたことがある者には自明なこと
であろう.彼らの存在はこの点についての疑問の余地のない証拠であ
る.さて,ドメニコ・スカルラッティのような立場にある音楽家なら,
数日もしないうちにマドリード中のあらゆる同時代の才能と知り合い
になることは必定であり,従って彼がその楽器の専門家の演奏からも
同じように霊感を受けたことはあり得るだろう.それはうら若いスペ
インの淑女にレッスンを与えるべく雇われたような演奏家だったかも
知れないし,あるいはまた流しのギター奏者だったかも知れない.後
者について言えば,当然のことながら最も活気のある音楽は彼らのも
のであった.これに関連して興味深く思い出されるのは遡ること百五
十年前,トレドのエル・グレコの私的な生活について我々まで伝わっ
ている唯一の挿話で,音楽好きな彼が自前で音楽家を雇って演奏させ
80
ることに大いに散財したことである.この音楽は恐らく路頭で聞かれ
たフラメンコの類いであろう,というのも当時他に音楽といえば教会
にしかなかったからである.エル・グレコが暮らしていた当時,トレ
ドは依然アラビア語とスペイン語の二重言語の都市であり,音楽はス
カルラッティの時代ほどには洗練されていなかっただろう.しかし,
それでもその特徴的な雰囲気は 18 世紀の三十年代四十年代にはまだ
損なわれていなかったと思われる.カサノヴァの「回想録」やベック
フォードの「書簡集」の中にあるファンダンゴ 86) の話は舞踊が持つ
活気や熱狂的な性格の証拠である.そのような音楽に見られるより緩
やかで物悲しい楽節は音楽家にとってより大きな影響を与えただろ
うし,この頃のスカルラッティの音楽にも確かにいくつかの例が見ら
れる.
当時の背景としての一般大衆の暮らしぶりについては,そこから
色々な場面を写して見せたゴヤのタペストリーの中に見られる.それ
らの日付は五十年ほど後のものだが,スペインという国はその変化が
実にゆっくりとしているので,世紀の終わりに見られた風物は世紀半
ばにおいてもそのまま真実であっただろう.これらの風刺画でゴヤが
意図したのは,典型的かつ伝統的なスペイン庶民の姿を開示すること
だった.最新流行の衣装には何の関心も示しておらず,タペストリー
中の服装はおおよそフィリペ 5 世やフェルナンド 6 世時代の使用人
や中流階級が纏っていたものだろう.ある程度の真実味を持って,こ
れらの場面がまた「ギターの撥くような音響効果を生々しく暗示して
いる」とも言えるだろう.描かれた情景の幾つかはこれ以上のものが
81
ない,というほど秀逸である.実際,我々は先の引用を「その音響は
恐らく現代ピアノの震動がショパンにとってそうだったようにゴヤに
とっても刺激的だった」と言い換えてもよいだろう.
スペインとはそういうところであった.それをスカルラッティの中
に探すこともまた魅力的な作業である.あたかもラバ追いの歌のよう
に,それは途切れ途切れに現われる.時としてギターをつま弾く音は
古代の門柱へ,またイタリアの建築物へと導く意味のない前奏曲で
あったり,あるいは名人芸へと高められたその土地固有の表現の中に
ある一つの全体風景となる.これは全く卓越したハープシコードの作
曲家の技によるものだが,既に述べたように彼はリストが現われるま
では最高の演奏者でもあった.このスペイン的な光景をさらに引き延
ばしたいという誘惑は大きいが,スカルラッティの生涯に関わる部分
はこれでほぼ尽くされている.
82
11 ナポリへの帰還
スカルラッティの庇護者であるアストリア皇太子がフェルナンド 6
世として王位に就いた時,彼は既に齢六十歳を超えていた.だが,実
際のところスカルラッティはマリア・バルバラの死に際してフェルナ
ンドが髭も剃らず,顔も洗わずに夜着のまま公園を徘徊したというあ
の挿話に立ち会うことはなかった.その後間もなく 1759 年に国王は
没したが,スカルラッティはそれに先立つ 1754 年,四半世紀という
長きにわたる勤めを全うしたところでナポリへ戻るための暇乞いを申
し出た.彼はちょうど七十歳の誕生日の直前にその地に到着し,明ら
かに死を覚悟して帰宅した.だがその終焉はやや遅れた,というのも
没したのはそれから三年後の 1757 年と伝えられているからである.
その時の年齢は七十二歳であったろう 87) .
スペインからナポリへの帰還に際し,大量に溜まっていた手稿が運
ばれたに違いなく,その後それらは失われた.二十五年もの実質的な
流浪の後,彼の名声が如何ばかりであったかは測り難い.ナポリ音楽
の世界で最も著名な名前の一つを所有していたことで,その存命中は
忘却から免れていたことだろう.そして,ナポリ楽派の最も偉大な歌
手達とあれほど親密な関係にあったことで,彼についての記憶はナポ
リで長く保たれたに違いない.しかし,実際のところイタリアでは彼
の名声が最高の演奏家,また最も独創的な作曲家としてあまりに高
かったために容易に忘れられずに済んだのであった.この二十五年の
83
間にスカルラッティは恐らく一度ならずナポリに戻ったと思われる.
何故なら既に見たように,彼にとってはダブリンという遠隔の地を訪
ねるための休暇を得ることさえさほど困難ではなかったように見える
からである.従って,スカルラッティが不在の間も彼の名声は保たれ
た,と推測しても大丈夫だろう.
ここで最後にもう一度,無知な我々はバーニー博士によって助け
られることになる.それは彼がウィーンで 1774 年に行った会合につ
いての記録で,相手はスペイン宮廷の主要な侍医の一人,熱心なア
マチュア音楽家だったロージエ博士である.「彼はその類い稀な肥満
体にもかかわらず,実に活動的で教養に溢れた精神の持ち主であっ
た.
」バーニー博士は,彼が身につけた様々な能力のうちでも特に「そ
の賢明な耳により世界中のあらゆる場所で『お国の音楽(national
music)』を聞いた」ことについて語っている.このロージエ博士こ
そは,スカルラッティがスペインで大衆音楽からの影響をどれほど受
けたかをバーニー博士に教えた人物である.彼はバーニー博士から現
代音楽の生き証人とされている.この博学な英国人からの引用を続け
よう 88) .「ロージエ氏はスペインでドメニコ・スカルラッティと大変
懇意になり,七十三歳だった彼はロージエ氏のために数多くのハープ
シコード練習曲を作曲してくれた.ロージエ氏は今もそれを所有して
おり,親切にも私に写させてくれた.それらが写譜された本の中には
四十二曲の作品が含まれており,その中のいくつかは緩やかな楽章か
らなる.私は長年にわたってスカルラッティ作品を収集しているが,
その中で以前に見たことがあるのは三,四曲ぐらいであった.これら
84
の作品は 1756 年に作曲されたが,スカルラッティはあまりに肥って
いたために以前のように手を交差することができず
89)
,そのため彼
がまだ若い頃,その弟子にして庇護者でもあった故スペイン女王がア
ストリア王女だった時代に彼女のために書いたものほどには難しくな
い*1 .」
「スカルラッティがしばしばロージエ氏に語ったことには,彼はそ
の練習曲(lessons)であらゆる作曲のルールを破ったことを分かっ
ていたが,これらルールからの逸脱がはたして耳を聾するものだった
だろうか,と聞いた.そして,そんなことはない,という答えに対し
て,才能ある者が注意を払うべきルールは『音楽がその対象である
感覚(=耳)を不快にさせるようなことだけはしない』ということで
あって,これ以外のルールはないに等しいと考えている,と語った.」
「スカルラッティの作品中には,車力,ラバ追い,そして一般民衆
が歌う音楽の節回しを真似する楽節が数多く見られる.彼がよく語っ
たことには,アルベルティやその他多くの現代作曲家の音楽はハープ
シコードという楽器が持つ演奏上の要求を満たしていない,というの
もそれは他の楽器によっても同程度,あるいは恐らくもっと巧く表現
出来るように見えるからである.しかし自然が彼に十本の指を与え,
しかも彼の楽器はそれらすべてを必要としている以上,それらを使わ
ない理由は何処にもないのだ,と.」
バーニー博士の著作から引かれたこれらの文章は,スカルラッティ
*1
1756 年にスカルラッティの年齢は七十三歳ではなく,七十一歳であった.この
点についてバーニー博士は誤っている.
85
について我々に伝わっている実質的な一次資料という意味では最後の
もので,その直接的な興味はさておき,同時代の権威筋の意見の中で
スカルラッティがどのように位置づけられていたかを示す記事として
貴重である.バーニー博士がスカルラッティをイタリア音楽における
主要な栄光の一人であると考えていたことは明らかである.しかし,
音楽の栄光はまもなくイタリアから離れていく運命にあった.器楽に
おける優位に比べれば,オペラにおけるイタリアの支配は遥か後まで
続いた.スカルラッティが没してまだ十年も経ない頃,ヨーロッパで
最も目を引く作曲家はイタリア人ではなく,ハイドンであった.既
にスカルラッティの存命中に,彼と同じ年生まれの二人の大作曲家,
バッハとヘンデルによってイタリア音楽の崩壊とドイツ音楽の隆盛が
もたらされようとしていた.その意味で,後にスカルラッティが忘却
されたことはいわば結論を先取りしたものであった.スカルラッティ
はナポリ楽派の中でも名前が知られている,あるいはその作品が普通
の音楽会の常連客にすぐそれと分かる唯一の作曲家である,という奇
妙に孤立した立場にいるわけだが.ナポリ楽派全体として見れば,後
の楽派による新たな発見と創意に際してあまりに多くの素晴らしい音
楽が破壊されまた放棄される,という運命を辿ったのであった.
しかしながら,彼らナポリ楽派の中で生き残った一人の音楽家の中
に,失われた素晴らしさの痕跡のいくつかを辿ることは出来るはずで
ある.バーニー博士がナポリの音楽を楽しむためにその地を訪れ,ナ
ポリ音楽の性質として炎,軽快さ,諧謔,といったスカルラッティか
ら受ける表面的にせよ第一の印象をそのなかに見いだすとき,それは
86
一人の作曲家について正しいことは彼が属している集団全体にも当
てはまるという我々の仮設の正当性を示している.彼の父親,アレッ
サンドロ・スカルラッティはナポリ派作曲家の中で最も偉大であっ
た.彼の息子がその子孫全体の中でも特別に風変わりであったとはと
ても考えられない.そしてその最後の規範,退廃の果実は,そのよう
な諸々の特徴が熟れ過ぎて崩壊していく過程に現われる.これがチマ
ローザやパイジェッロにおいて証明されたことで,彼らにとって軽快
さは意味のない素早さとなり,力強さは甘美さと見分けがつかなくな
り,そして創意は早口で息もつかないおしゃべりへと堕してしまっ
た.もし諧謔と軽快さがナポリ的天分の一側面を形作るとすれば,カ
ストラートの歌唱に例示されるような長大な装飾といった方面に匹敵
するのは,スカルラッティの音楽中であれほど目立った役を演じてい
る豊かな技巧性,処理の練達さである.いずれにせよ,世の中におい
て彼の音楽は些事の一つに過ぎないが,それは素晴らしい出来映えを
示している.また完璧さを軽々と纏っており,それは彼が意図した通
りあたかも空気のようである.
87
12 エピローグ
音楽は誰にとってであれ何をも意味することが出来る(これは音楽
に与えられた最も偉大な特権である).だが,少なくとも一人の人間
にとって,スカルラッティの音楽はその本質において他の鍵盤音楽と
は異なっている.この恐らくは孤立した意見は,その違いが音楽の大
衆性にあるということについては耳を傾けてもらえるかも知れない.
ベートーベンのピアノソナタは魂の葛藤を表現したものである.そし
てその魂とは,時としてベートーベンのそれよりはやや単純なものと
思われるだろう.対照的にショパンは大衆的であるが,それは彼自身
の優雅さや幻滅のポーズとそのさまざまな陰のみから来るのである.
おそらくそれは大衆音楽という以上に彼の個性から来る音楽なのだ!
ドラクロワの言葉の中でも,ショパンのような人物は以前には存在せ
ず,彼についてのあらゆる事物,その音楽,外貌,演奏といったもの
は彼という特異な存在の全体をなす一部分である,という点だけは正
しい.シューマンはというと(これもまたあの孤立した意見による
と)現実性—真の見せかけというあの古典的な意味における現実性—
を獲得した全くのロマン主義芸術家に見える.詩はるつぼの炎によっ
て変転し,音楽は詩という意味で一つの経験となる.もしシューマン
のアラベスクはトウモロコシ畑の脇での散歩などではないというのな
ら,比喩的表現というものは感覚の芸術ではない.シューマンの音楽
は極めて本質的に他者の存在によって大衆化されているが,それは滅
88
多に一人を超えることはなく,けっして二人を超えることはない.だ
が,我々はこれが正しいかどうか確信が持てるほどにはシューマンの
性格を十分に知らないのではないだろうか?
これとは対照的に,そしてもう少しスカルラッティの近くへと戻る
と,モーツァルトはその鍵盤音楽に込めた意図がいつも誤解されてき
た作曲家のように見える.彼のピアノ作品は(ピアノ協奏曲はそれ自
体で一つの世界を形成しており,その全体性において彼の交響曲の仲
間である),その中に地獄の風景,あるいは意志の深い決意といった
ものを探すべきところではない.四つの偉大な「幻想曲」といくつか
の子供時代の作品を別にして,モーツァルトのピアノ作品とは正に彼
の理想世界への放浪と見なされるべきものである.これは必然的に
ベートーベンよりも深い感受性の世界であり,それはより詩的な想像
によって照らされ,霊感の息吹によって即興詩を遠く新しい方角へと
導く際立った能力によって描かれている.彼の第二主題の美しさは,
まさしくそれらが詩的即興の性格を帯びると仮定することによっての
み説明可能である.モーツァルトの最も素晴らしい作品の一つを例に
とれば,クラリネット五重奏曲(第一楽章)の中盤に現われる優美な
雰囲気は,少なくとも謙虚な詩人の心にとっては突然の天啓,詩の説
明し難い恩寵である.これがもし彼のもっと重要な器楽作品の一つに
おいても証明されるとすれば,それはモーツァルトの孤立した想像力
の中に,そしてまた孤独に向き合いその想像の虜になるような彼の作
品の中にこそ益々期待されるべきものである.しかしながら本当のこ
とを言えば,これら単純に見える作品の限りない美しさは芸術におけ
89
る一つの奇跡である.それらを生んだ霊感がどのようなものだったに
せよ,我々が想い描くことは不可能である.実際,モーツァルト自身
がこれを認めている.「以前もそうでしたが,僕が全く没頭して一人
陽気になっている時—例えば旅行の車中,美味い食事の後の散歩,あ
るいは夜中によく眠れない間,そういう時こそは僕にアイデアが次か
ら次へ,また豊富に浮かんで来る最上のタイミングなのです.それが
どこからどういう風に来るのか僕には分かりませんし,強制すること
もできません.」こういったことをいくら説明しようとしても望みは
ない.だが,それらの持つ魅力はもっと理解しやすい.そしてこのよ
うな理解はまさしくキーツ 90) が自身を次のように表現した以上によ
く達成されたことはなかった.曰く,「モーツァルトの調べによるが
如く,目覚めていた*1 .」これら美の経験が持つ恐ろしい効果はそん
な風であった.もっとも,誰の胸にせよそれが取り憑くことは滅多に
なかったが.
モーツァルトのピアノ作品の中でもより控えめ目なものではその芸
術の崇高さに触れることはなかったとしても,彼の様式感覚と装飾音
の持つ繊細な微妙さによって作品は一定レベルの魅力を与えられる.
そのような瞬間には,この効果を最も優美な化粧漆喰の装飾に例える
こともあながち不適当ではないだろう.その点でモーツァルトはロコ
コ時代の最も練達の作家の一人であった.そしてオーストリアと南ド
*1
1818 年 10 月 29 日付けの彼の兄への書簡.実際のところキーツを覚醒させ続
けこの比喩へと導いたのは「——夫人」
,一人の「東インド人」への想いであっ
た.
90
イツにおけるこの繊細な芸術の成果を知るものは,このように語るこ
とが何らモーツァルトの群小作品を損なうことにはならないと認め
るだろう.これらのアラベスク模様はその快い角度の配置が称賛を誘
う.トリルや装飾音は独特である—だが音楽は大衆的ではない.
ここでスカルラッティに戻るなら,その違いは我々にとって直ち
に明らかになる.彼の音楽は,例えるならばジョージ・クルックシャ
ンク 91) の素描のように大衆的なものである.我々は詩の世界におけ
るもう一つの実例でその違いをさらに定義することも出来るだろう.
キーツやシェリーの詩には大衆の気配がない.対照的に,アレクサ
ンダー・ポープの詩は人物達で活きいきとしている.「髪盗人(The
Rape of the Lock)92) 」は現代詩の瞬間的な息吹である.人物達がそ
のような曖昧な世界へと入り込むに際し,その信じ難いほど繊細な物
語の綾は破綻を来すことがない.あるいはそれら大衆が生きているど
のような瞬間にも何ら臆するところはない.彼らは自身の置かれた環
境に全く満足し,気楽に振る舞っている.その中に郷愁や不満といっ
たものは微塵もない.キーツやシェリーの中では既に不平不満の時代
が始まっていた.「ダンシアド」の中でさえ,ポープは彼の同僚達の
愚かさに対して文句を言っているというよりは,彼が明らかにそう考
えた知識の時代においてその無知さ加減を非難しているのである.ア
レクサンダー・ポープとスカルラッティの間に親近性を認めることは
恐らく不当なことではないだろう.しかし,二人の主題における喧噪
と撹乱,特に彼らの中にある辛辣で冷笑的な知性のために,この二人
はモーツァルト,バッハ,あるいはヘンデルの中に期待してはならな
91
いような精神の分裂へと導かれるのである.アレクサンダー・ポープ
とスカルラッティは二人ともほぼ確実に街で暮らす友人を好んだで
あろう.ことにポープという存在はロンドンが生み出したものであっ
た.スカルラッティは何よりもまずナポリ人であった.彼は往来に慣
れた人のような機敏な神経さえも持っていた.田舎暮らしをしていた
人間にスカルラッティのような音楽は書けなかっただろう.彼には無
駄にする時間などなく,自身の主張をジャズ音楽家のように明快にか
つ素早く提示する必要がある.作品がもつそれぞれの特徴は開始部を
聞くだけで直ちに明らかで,仮に途中で驚きが待っていることを確信
できる場合でさえそうである.神経質さ,敏感さという観点から見る
と,スカルラッティはハイドンよりも痩せて素早い.肩幅も広くな
く,農民の血もなく,生まれつきというよりは教育によって誠実さを
身につけ,その知性においてもっと冷淡で辛辣である.ハイドンにつ
いてそう語られ,また容易に信じられることだが,彼は自分自身に霊
感を与え楽しませるために暖炉用器具,書籍,あるいは家具の小間物
にちょっとした工夫をし,想像上の煉瓦とモルタルを使って小さな
家々や場面を作り出したのだった.しかしスカルラッティの心には既
に出来事が蓄えられていただろう.彼は何かを発明する必要には迫ら
れていない.というのも彼の精神過程は直接観察したことを音楽の言
葉へと転換することにあったからである.
ハイドンは,その「時計」交響曲のアンダンテ楽章で彼自身の体系
を完璧に例示して見せる.この曲は,それ自体でおとぎ話のように
完結した構造物である.しかも「シンデレラ」や「眠れる美女」より
92
ずっと短い時間で話が進む.音楽の雰囲気はあまりに完成している,
あるいはもっとこなれた言い方をすれば何でも完備しているので,食
器棚が満杯であるとさえ言えるかもしれない.食器棚は満杯,そして
色々な時計のチャイムもあれば,鳥籠が一つ,猫のためのミルク皿も
ある.しかし,そこで台所は家庭的な手入れのよさを引っ込めて,天
井の高い,時計しかないような空っぽな部屋へと変わる.その部屋に
は壁に沿って両開きの背の高い扉がついているが,それを開けて部屋
に入って来るのが誰なのかは知る由もない.だが,そこには冷笑的な
ものはない.誰もが居眠りをする間,ネズミが走り回り時計が時を刻
む音がするだけである.そしてこの比類なき作品は終りとなり,我々
は過去へと旅をした感覚になるが,そこでは皆が眠っていたのだっ
た.時計は動き続けており,住人はまた目覚めることもあろう.生命
という幻想は,まさにその不在という事実によって語られる.何故な
ら時計は依然として動いており,従って命は鼓動し,息をしているに
違いないからである.するとこの見捨てられた部屋を訪れる目的は,
同居人を起こすことなく旅立つことであり,その後には答えられない
謎を残す.恐るべき問いはまだ口の端にすら上っていない.従ってそ
れは何か死んだ友人の夢のような性質を帯びる.人は夢が終わりにな
るのを残念に思う一方で,それによって当惑するような問いを発せら
れずに済んだことでほっとしている.そして,その間ずっと彼にとっ
て喜ばしい夢に調子を合わせた声が音楽の中で人格化され,くよくよ
せずにそれが続く限り楽しむように,と語る 93) .
「時計」交響曲は,バーニー博士がそう賛美した文脈の中でのハイ
93
ドンを示す最上の例である.事実,バーニー博士自身は知る由もない
が,彼はベートーベンに近づくにつれて自分の性格をあまり出さなく
なる.彼はハイドンであり,彼が称賛するのもハイドンなのである.
それはベートーベンの先駆者としてのハイドンではない.バーニー博
士は,彼の時代の作曲家の中でスカルラッティとハイドンを最も尊敬
していたように見える.彼らがお互いに近づいた時こそが,バーニー
博士を最も満足させた時であった.「時計」交響曲は,その中で両者
が互いにそれほど離れていない格好の例である.しかし,先に暗示し
たように,その仕事ぶりは全く異なる性格を帯びている.我々はこの
点を強調するために,さらに次のように主張しよう.即ち,両者の仕
事上の習慣は全く正反対のものだったに違いない,ということであ
る.ハイドンはその人生で毎日五六時間を仕事に当てるという習慣の
持ち主だった.その膨大な成果が物語るように,彼の習慣は規則正し
さの極を行っていた.ハイドンが極めて時間に几帳面な性格であった
ことは確実で,毎日正確に同じ時間だけ机の前に座って仕事をしたに
違いない.彼の残りの時間も同じような規則性をもって過ごされたこ
とが想像出来よう.ハイドンは霊感がもたらす熱狂と興奮のうちに仕
事を終える自分の姿を思い描くことが出来る.それは何ヶ月も机に向
うことなく,そして数日のうちにすべてを仕上げてしまうベルリオー
ズのような仕事ぶりではない.ハイドンは常時霊感を受けている人
で,ゆっくりと仕事をし,計画をよく考えられた自身のペースで仕上
げる.スカルラッティはといえば,その本質的にラテン的な性格故
に,どちらかといえばベルリオーズ流に仕事をしたことだろう.だが
94
スカルラッティの形式は,あの常軌を逸した天才のバビロン風な枠組
みにくらべればずっと小綺麗で簡明であり,彼の側ではそのような猛
烈な努力を必要としなかった.スカルラッティのソナタは恐らく非常
に迅速に書かれ*2 ,注意深く仕上げられたに違いない.そして,同様
の気質を持つ他の作曲家について我々が知っていることから判断する
と,彼はそれらの多数を一度にまとめて書いたとも考えられる.その
多くは同一の問題に対して様々な角度から攻略したもので,問題の異
なる局面,あるいは解決を表現している.
そこで,彼の音楽とその周辺についての我々の知識に照らしてスカ
ルラッティの性格を構成してみよう.彼はラテン人,ナポリ人であ
り,恐らくもっと確実にシチリア人であった.イタリアで最大の都市
の出身で,もしナポリに住んでいなかったとすれば四十五歳までは
ローマで暮らしていたが,そこは芸術の都であった.その父親はイタ
リアで最も著名な音楽家であった.一方ナポリにおいて,彼は歴史上
知られる限り最も数多い楽派の集まりの中心にいた.ナポリの楽派に
比べれば,ドイツ音楽ではその名声の最盛期ですら一握りの名前しか
出て来ない.スカルラッティはその才能を受け継ぎ,それを若くして
完成させた.彼は既に二十五歳になる前にイタリアで最高のヴィル
トーゾであった.我々が先に証明しようとしたように,ローマとナポ
リにはアマチュア音楽家および音楽に関心を持つ芸術家という大きな
*2
スカルラッティのソナタ完全版に含まれる全五百四十五曲中,アンダンテある
いはアダージョといった楽章は八十三曲しかないと言われている.残りは軽快
さとスピードそのものである.これがその作者の最も特徴的な性格なのだ.
95
社会集団が存在した.ウィーンはといえば,モーツァルトやベートー
ベンの時代にはナポリよりもずっと小さな街であった.そこには何の
芸術的伝統もなかった.あるいはイタリア的でもなかった.ナポリに
とって音楽が意味したものは,ヴェネチアにとっての絵画と同じで
あった.音楽はこの南の都市にとって栄誉と名声だったのである.
その後二十年間,スカルラッティは自身の楽器のために途方もない
数の作曲を行う余暇に恵まれた.二十年間という時間は如何なる精力
的な芸術家にとっても堂々たる量の材料を蓄積するのに十分である.
その長さはそれだけでショパンの全活動期間に匹敵する.しかし,彼
がイタリア人であった以上に強調されるべきことは,ナポリ人だった
という点である.スカルラッティは偉大な街を我々に描いてみせる.
そしてその街では身振りが言葉に代わる役を果たす.そこにいるのは
ハレやアイゼナッハの市民ではなく,活発な火山のすぐ隣で暮らす古
風な街の住民達であった.雪は滅多に降らないものの,夏の暑さは
シェスタを必要とする.これ自体は一日の規則的な時間を中断するも
のである.スカルラッティの音楽は頭脳を最高速で競争させるような
働き方を表している.そして彼の芸術の持つ限界の故に,スカルラッ
ティは宗教的な主題のためにその精力を無駄に費やさずに済んだ.こ
の問題は歴史的にイタリアのあらゆる表現芸術を悩ませてきたもので
ある.彼の音楽がそのようなものと無縁であったことは喜ばしい限り
である.
そうして,今度は四十五歳の彼が世間の名声から完全に身を引くよ
うな職を受け入れるのを目にする.彼は自らの仕事を続ける保証を与
96
えられたものの,これほど絵に描いたように現実離れした状況はな
い.そこで我々が示そうと務めたことは,スペイン宮廷での音楽がそ
れほど孤立していたわけでなく,また彼という人物によって体現され
る限りにおいて,音楽は実際に日々の出来事に関するものだったので
あり,それは金銭で購い得るような世俗的事物のなかでも最上のもの
だったということである.彼がスペインで過ごした二十五年の間に多
少ともイベリア風に染まったとしても驚くにはあたらない.外国の地
で四半世紀も過ごしてそのような「移植」による影響を受けずに済む
者はいない.スカルラッティのような活発な知性の持ち主が,スペイ
ンで何らその強烈で苦い血の刻印を受けずに過ごすことが出来たとす
れば実に奇妙であろう.今日においてすら,かの地はヨーロッパの何
処よりも個性的である.18 世紀初頭においては別世界であり,その
中で自足していた.ドルノワ夫人 94) の寓意的な主題によるあの「ス
ペイン紀行(Voyage en Espagne)」という本で描き出されるスペイ
ンは,それがたとえ奇妙だとしても決して大袈裟なものではないこと
を我々も知っている.というのもスペインは 1660 年と 1729 年の間
にはほとんど変わっておらず,もしドルノワ夫人が実際にはスペイン
に行ったことがなく,彼女の娘や姉妹の話を編集しただけだというこ
とが正しいとしても,それは単に証拠が二倍になるとうだけであって
事実は何も変わらない.もしそれが想像による傑作ということであれ
ば,現実がそれと矛盾しないようにしよう!しかし,あらゆる状況は
それが真実であることを示している.いずれにせよ,これら有名なお
とぎ話の著者にしても,六十年後のスペイン宮廷の実情ほど空想的で
97
ありそうもない世界を考えもつかなかっただろう.ファリネッリやエ
ジツィエッロという名前はその永遠のよすがである.一方で彼らの仲
間にドメニコ・スカルラッティを加えることで,そういった奇妙さは
手で触れられるような確かさを帯びる.哀れな国王と王妃は彼らの極
端な日常と繊細な趣味の証しであるこれら音楽家によってその哀愁を
いくばくかは慰めることができた.ジョアン 5 世は単に戦の準備をす
る独裁者というよりは感受性のある人間として提示される.富は戦艦
に使われるよりは音楽に費やされた方が余程ましである.金色の大型
四輪馬車,銀の皿,あるいは一夜の宿だけのために建てられた宮殿,
これらすべての浪費については議論もあるし,もっと容易に論破でき
る現代の対応物もある.
スカルラッティがナポリを死に場所として戻ったとき,その老い先
短い人生にとってはあたかも陶酔が過ぎり,正気に戻ったような感じ
になっただろう.かくも長い不在の後にあっても彼は裕福な状況に
あったと願いたいし,またそのように想像するところである.彼がナ
ポリに戻った後,庇護者であるフェルナンドとバルバラが他界するま
でまだ五年もあったことを考えれば,多分スカルラッティは十分な年
金を与えられたであろう.実際,国王夫妻は彼よりも長生きした.一
方,伝えられるところによれば,スカルラッティが賭博好きだったた
めに家族は極貧の状態に陥り,彼の友人であるファリネッリの寛大さ
に助けられたという.
今やナポリはフェルナンドの異母弟であるカルロス 3 世が支配者と
なっていた.彼の治世はナポリの黄金時代として記録されるだろう.
98
その街はかってないほど栄え,カゼルタ宮殿 95) の造営などの偉大な
仕事が着手された.このローマ的な壮麗さを持つ計画,奴隷による最
後の仕事*3 は実際スカルラッティがナポリに戻る直前の 1752 年に開
始された.カルロス 3 世はスペイン王位の継承者であり,スカルラッ
ティが過ごした晩年は,ヨーロッパ史上最も偉大なスペイン統治とい
う政治的幻想の中にあった.スカルラッティの人生の大半はスペイン
に仕えることで過ぎていった.そしてこの期に及んで最後にもう一
度,彼の背景としてスペインと両シチリアを強調しておきたい.ちょ
うどゴヤがその同時代人のスペイン王であるカルロス 4 世あるいは
フェルナンド 7 世に属していたように,スカルラッティもかの二重王
国に属していた.それは消え失せた王国だが,ポーランドやブルゴー
ニュという失われた土地と同じぐらい確固として存在していたので
ある.
ここで最後に,これらの小気味よく素早い響きに耳を傾けてみよ
う.それ以前にも,また以後にもこれほど大衆的な性格の音楽はな
かった.そしてこの特異な才能を拡大鏡で眺めると,あの王宮の恐ろ
しげな居所という隔絶した世界が必ず目に入って来る.あらゆる日常
生活,また普通の人間のあらゆる混乱と興奮がこれらの音楽を通して
あの幽霊のような王とその小柄な王妃の所有物となった.喧噪に満ち
*3
カゼルタでは 1765 年に百六十五人のトルコ人奴隷,および百六十人の洗礼を受
けた奴隷が雇われており,後者は他よりはましな待遇を受けていた.彼らは非
常に劣悪な労働を強いられ,常に逃亡しようと試みたため,二百五十人の兵士が
見張っていた.—ラランデ,
「イタリア紀行(Voyage en Italie)
」
,第 4 巻,p.
121.
99
た南の街での日常生活の繁栄がその静けさを満たした.というのも憂
鬱な静けさは,音楽時計のチャイムによってであろうととにかく打ち
破られる必要があるからである.我々がドメニコ・スカルラッティの
音楽に耳を傾けるときには,そのような風変わりな音によって音楽が
中断され,ファリネッリやエジツィエッロの歌声が聞こえて来ること
を想像しなければならぬ.スカルラッティの庇護者達は,かってどの
ような博物学者や植物学者をも悩ましたことがないような過剰な純血
主義による特異な幻影であった.この幽霊のような怪物の種族は隔絶
した世界に生きており,既に述べたように恐竜の一種族の生き残りに
例えられる.そして彼らは大の音楽好きであった.音楽のみが彼らを
憂鬱から守ってくれるのであった.
以上,スカルラッティの様々な局面について眺めてきたが,要する
にこれが偉大な作曲家にして演奏家の生活だったのである.その活動
範囲の狭さにも関わらず,彼は依然として音楽芸術において最も重要
な人物である.あらゆる芸術の中でも,これほど単純な素材からこの
ような完璧さと目も眩むような多彩さを引き出したものはほとんど見
当たらない.この点においてドメニコ・スカルラッティに匹敵し得る
のはショパンのみである.そしてもし我々がより心穏やかな存在を望
むとすれば,それはスカルラッティの方である.そして我々は,スカ
ルラッティが我が身とその願いや失望のみに囚われず,多くの人々に
取り巻かれ,生命感に満ちた建築によって生気を与えられ,伝統に包
まれて,最後には魔法のような機会を与える土地へと活動を拡げ,そ
こで自身の熟練と詩情とが史上希に見る一致を示すのを眺めるのであ
100
る.彼自身の音楽の魔法という世界から陶酔的な宮殿への道程は唯の
一歩,あるいは短い船足に過ぎなかった.
101
13 あとがき
このあとがきのある部分はあまりに場違いなことを語っているよう
に見えるかも知れない.しかし,私としてはそれが私の主題を遠から
ず補うものであることを以下に示したいと思う.私自身も含め,人類
の中にはスカルラッティの音楽に最初に触れた瞬間からその独特の
魅力に取り憑かれた種族がいる.それと直ちに分かる紛れもない個性
こそは,スカルラッティの主要にして最も際立った特徴である.そし
て私を含む多くの人々が,子供時代の最初期の記憶を通じてその真実
味を証言できるであろう.私自身について言えば,モーツァルトが分
かる以前にスカルラッティを習い憶えていた.スカルラッティについ
て,その意味ありげな特徴を正確に記述するのは難しいが,それは何
にも増して軽快さと諧謔からなっている.これらの特徴が作用すると
き,そこにあるのはまさにスカルラッティであって他の誰でもないだ
ろう.
私が二十歳になる前,彼の音楽に対する初めの頃の興味はディアギ
レフ一座の「ユーモアのある淑女達(Le donne di buon umore)
」の一
見して信じられないような気品と軽快さに,さらには賓客として受け
た様々なもてなしの中でも,本書を献呈した偉大な芸術家 96) によっ
てその没後滅多に弾かれることのない彼のソナタがハープシコードで
奏された多くの忘れ難い夕べによってさらに強められた.そして,わ
ずかのことしか知られていない彼の生涯について,いつしかその長い
102
空白を埋めてみたいという強い興味を抱くようになった.一方でその
対象が,他にも実に多くの理由で私の注意を引いた彼の周辺の事物へ
と移ったことで,私のスカルラッティに対する興味は二倍になるとい
う効果をもたらした.しかしながら,スカルラッティが取り結んだ他
の興味ある事物へのつながりは二重の意味を持つ.即ち,彼は古典楽
派の中でその音楽がどんな意味にせよ今日まで生き残ったと言える唯
一のイタリア人であり,さらに,彼はこの時代における南イタリアと
スペインの融合を体現していたのである.これは当時他にはもう一つ
しか例を見ないような結合であった.件の人物はルカ・ジョルダーノ
である.もちろんここは彼の仕事を議論するような場ではない.しか
し,スペインに来てエスコリアルの階段やトレド大聖堂の天井に描か
れたそのフレスコ画を眺めた人々は,そこを去るまでに彼の画家とし
ての技量がどれほどであったかについての見方を一新していることだ
ろう.スカルラッティの雇用に関する状況という点において,彼の人
生とこの忘れられた芸術家の間には,前者のスケールが遥かに大きい
ことは別としても何がしかの共通点がある.しかし,これについて興
味をかき立てられる個人的な理由をここでもう一度説明しておく価値
はあるだろう.
人生の相当部分をイタリアで過ごした人間にとって,スペインとい
うもう一つの選択肢は特異で分かりやすい魅力を持っている.私につ
いて言えば,それは 1907 年あるいは 1908 年のある日,ヴェネチア
の大運河で目撃した忘れ難い光景に始まったのかもしれない.ゴンド
ラに揺られて午後の時間をのんびりと過ごしていた私は,近くの豪邸
103
「ロレダン宮」にある水門付近の騒がしい混乱で我に返った.鉄の門
が開け放たれ,木製のタラップが下ろされると,すぐさま長身で白い
顎髭を蓄え,私の記憶が正しければ黒い衣装に身を包み,そして確か
なことには巨大な黒いソンブレロを纏った老人が一人階段を降りてき
た.そうして彼は小さな黒人の給仕に寄りかかりながら板の上を渡っ
て待ち受けるゴンドラに収まった.豪華なお仕着せを着た六人のゴン
ドラ漕ぎが赤と黄色の縞模様に彩色されたオールを掲げる間,黒人の
給仕は老人に従って乗りこむと舳先に立った.そして次の瞬間,ゴン
ドラは日陰から陽光の下へと滑り出し,彼方へと遠ざかっていった.
あの老人は誰かという我々の問いに対して返ってきたのはスペイン僭
王との答えだった.実際,それはドン・カルロス 97) の乗船であった.
この伝奇物語的な光景の影響によって,私はスペインという国やそ
の歴史,そしてまさにスペインの歴史そのものであるかの一族の悲哀
に対する興味をかき立てられたのだった.それは私がスペインに行く
何年も前のことだったが,後に私のマドリードでの最初の日,ご多分
に漏れず午前中をプラド美術館で過ごしてヴェラスケスやゴヤと懇
意になった後に私は闘牛に出かけた.そこで目にしたのは,ボックス
席に座り,群衆に生気付けられ,あるいはマタドールからの挨拶を受
け,長いマンティラ(スペイン風レースのスカーフ)の下に隠れもな
い鷲のように鋭い容貌の,まさにゴヤの描く王家の偉大な一族中の人
物をその身に体現したような女性であった.この人物とはイザベラ王
女 98) ,アルフォンソ王 99) の叔母で,彼女はすべての闘牛を観覧し,
本書中でしばしば言及した王宮ラ・グランハに住んでいた.彼女の類
104
い稀な容貌はまるでもう一つの過去からの映像のようであった.そし
てイザベラ王女が最後の両シチリア王の弟であるジルジェンティ伯爵
と結婚した,という事実は私にとってさらに興味深いものだった.
しかし,ドン・カルロスの一族は本書でしばしば言及した国王とそ
の王妃の男子直系の中でも財産を失った分家ではあるが,幸運にもそ
の封建的なあるいは家紋の消えることのない特徴を保持していたので
あろう,彼に関わるすべての事物が実に特異な魅力を放っている.ド
ン・カルロスは私がヴェネチアで見かけた後一二年して他界し,その
息子ドン・ハイメはパリで二年前,アルフォンソ王と和解した後に没
した.この分家一族の中で現在も存命の男子はドン・カルロスの弟ド
ン・アルフォンソ・カルロス 100) だけである.生き証人としての彼の
血には他の誰よりもヨーロッパの歴史が流れ込んでおり,今や齢 86
歳になるこの老紳士のことを伝説的な光背なしに考えることは出来な
い.そして,恐らく英国の作家で彼について文章を捧げた者は他に誰
もいないだろうことを考えると,彼の中にフィリペ 5 世やフェルナン
ド 6 世とのつながりを,あるいはその点について言えばカルロス 5 世
およびルイ 14 世とのつながりを容易に見ることが出来る以上,それ
について書いておく必要性は切迫したもので,目に見える過去への保
険でもある.
ドン・アルフォンソ・カルロスは 1849 年にロンドンで生まれ,い
まだオーストリアはエベンツヴァイエル,あるいはフロースドルフ等
にある彼の城で生活している 101) .その住居は叔父であるブルボン家
最後の末裔シャンボール伯爵
102)
から相続したものである.エベン
105
ツヴァイエルに住むオーストリアの友人は,子供の頃に受けた彼につ
いての伝説的な印象を私に描いてみせてくれた.そこではドン・アル
フォンソ・カルロスは妻のドンナ・アンナ・デ・ラス・ニーヴェスと
共に馬上にあった.スペインの色である緋色と金色のお仕着せを着た
二人の騎手が彼らを先導していた.その後で高いシルクハットを冠
り,黒い長ズボンに金色の拍車を着けたドン・アルフォンソが黒い馬
に跨がっていた.一方ドンナ・アンナ・デ・ラス・ニーヴェスは彼の
横で白い軍馬に乗っていた.緋色と金色を纏ったもう二名の騎手がし
んがりを務めていた.ちょうどこの夏,私はもしかすると近郊の地で
この伝説的なカップルを一目垣間見ることが出来るかも知れない,と
いう希望の下にエベンツヴァイエルを訪ねたのであった.もちろん老
齢で,貧窮のために彼らの暮らしぶりも変わってしまい,以前のよう
に外出はしていないかも知れない,という危惧はあったが.残念なが
ら私が訪問した折に彼らはちょうどエベンツヴァイエルを離れてい
たので,彼らを一目見たいという私の好奇心は満たされないままであ
る.私は村の商店で絵葉書を買うに際して,彼らがどれほど村人達か
ら愛されているか,また村に居る時には黒人女性の給仕「ポッペッタ
夫人」が恭しく後ろから付いていく先を「まるで子供のように」二人
で散歩をする様子を教えられることで満足するしかなかった.
この伝説的な一組の生存者にまつわる興味は,1934 年にドンナ・ア
ンナ・デ・ラス・ニーヴェスの回想録第一巻が出版されたことで異様
106
なまでに高まった*1 .これは 1872 年–1876 年の第二次カルリスタ戦
争に関するもので,そこで彼女自身が主要な役回りを演じたのであっ
た.マリア・デ・ラス・ニーヴェス王女はその出自という点で夫に劣
らず注目に価する,というのも彼女はポルトガルの王位要求者ドン・
ミゲルの六人の娘の長女であり,父親はドン・ジョアン 5 世の男子直
系の子孫なのである.彼がポルトガルから追放された 1834 年以降,
かってヨーロッパの事件には必ず出てきたミゲルという名前がヨー
ロッパの政治にほとんど現われなくなったという事実を考えると,全
員が美貌で知られた六人姉妹の娘達がいまだ生きているということが
信じられないくらいである.第二次カルリスタ戦争が勃発したとき,
マリア・デ・ラス・ニーヴェス嬢はまだ二十歳にも満たない年齢だっ
たが,当時スペインに赴き,夫の軍隊の先頭で目覚ましい軍功を立て
た.夫の兄ドン・カルロスが主力部隊を指揮する一方で,小部隊がド
ン・アルフォンソ,および昨年まで存命だった最後の両シチリア王の
弟カゼルタ伯爵に任された.マリア・デ・ラス・ニーヴェス嬢はすべ
ての戦闘で前線に立ち,その白い軍馬の上から兵士達に檄を飛ばして
いた.彼女は生まれながらの軍人であった.実際,その思い出は一人
の将軍に関する回想で,とても二十歳の少女の思い出とは思えないも
のである.
伝奇物や敗者の夢物語の愛好者なら,八十二歳になる老王女がその
*1 「回想録(Mis
Memorias)」,マリア・デ・ラス・ニーヴェス・デ・ブラガンサ・
イ・デ・ブルボン著,マドリード,エスパサ-カルペ,1934.第二巻は追って出
版される予定.(訳注:1936 年以前に出版されている.
)
107
運動に参加してから既に六十年以上も経った後に綴ったこの回想録中
の想いに誰もが心を動かされるだろう.カルリスト側にとって,自分
達の側に勝機があるかに思われた時が何度かあった.彼らはスペイン
北部のほとんどすべてを手中に収め,バスクとズアーヴの連隊に分か
れた彼らの軍隊は,王女が兵士達と戦場の苦労を共にし,毎日のよう
に白い軍馬に跨がって現われ,そこで勇気と素晴らしい精神を示すこ
とで大いに活気づいていた.王女は軍服を纏い,アストラカン織の裏
地のあるズアーヴ型の短上着を着ていた.軍服の上着はメダルで覆わ
れ,金箔を施した乗馬用鞭を持ち,その頭に金色の飾り房を付けた明
るい赤のバスク風ボンネット,あるいはベレー帽を冠っていた.
この長引いた戦争の行方は少なくともおよそ二年の間はっきりしな
いものだったが,最後にはカルリスト側が負けいくさを戦っているこ
とが誰の目にも明らかになっていった.彼らの勢力は弱体化し,最
後には敗北を認めなければならなかった.そしてドン・カルロス,ド
ン・アルフォンソ・カルロスと王女はアルフォンソ 7 世の軍に降伏
する前に前線を超えてフランスに入らなければなかった.彼らは最初
に乗ることの出来た列車で戦場からまっすぐロンドンへと旅し,ドー
バー通りのブラウンホテルに到着したが,その時にはまだ汚れて埃を
被った軍服姿で,彼らが戦った戦闘の跡も生々しいままであった.
第二次カルリスタ戦争はこうして終結し,その日から今日まで六
十年もの間,ドン・アルフォンソ・カルロスとドンナ・マリア・デ・
ラス・ニーヴェスはスペインに戻らなかった.この本の出版はあたか
も僭王自身の手で 1745 年についての長文の物語が書かれ,六十年後
108
の 1805 年に出版されたかのようである
103)
.この異様に長い期間を
彼らはほとんどオーストリア国内,主にエベンツヴァイエルで暮らし
たが,そこではフランスとスペインの軍隊が彼らの城の門越しに見え
る.スペインから彼らに付き従った使用人達の第二,あるいは第三世
代が周辺の居所に住んでおり,いわば小さなスペイン人居住区を形成
しているのである.だが,彼らは既にその母国語を話さなくなって
いる.
この城に加え,ドン・アルフォンソ・カルロスはフロースドルフに
も城を持っている.この城は彼の甥ドン・ハイメから相続したもので
ある.既に触れたように,先にこれを引き継いだのはシャンボール伯
爵からであった.そこではブルボン家最後の人物がチュイルリー宮か
ら来た従者達の世話を受けながら暮らしていた.彼ら従者達は 1830
年にシャルル 10 世の列車に乗って王宮を去り,護衛とともに彼の休
暇の旅のお供をしてフランスの海岸地方へ,ハリウッドへ,そして最
後にはオーストリアのグラーツへと向ったが,王はそこで客死した.
それから従者達はその孫であるシャンボール伯爵(アンリ 5 世)に仕
え始めた.聞くところによれば,これら中世の風変わりな姓を名乗る
人々は何世代も生きており,実際チュイルリーでは数世紀に渡って仕
え,中世フランス語の訛りあるいは方言を話していた.シャンボール
伯爵の所帯は「食味係(officiers de la bouche)
」をはじめとして伝統
的なやり方に則って組織され,食べ物は巨大な銀の深皿に入れられて
ダイニングルームに運び込まれた 104) .これら同じ従者達の子孫の何
人かは依然としてフロースドルフにいてドン・アルフォンソ・カルロ
109
スに仕えているが,そのスペイン人の給仕達と同様に彼ら自身の言葉
を忘れてしまっている.
私としては,こういった詳細が法律上フランスとスペインの国王で
あるこの老紳士にまつわる特別な興味の何がしかを伝えてくれるので
はと期待している.王位要求者が関わるところには,常に憂鬱な伝説
の感覚が付きまとう.素人のジャコバイト運動家はヴィクトリア女王
以降「軍団」という順位にあるが,彼らもこのような記事に同情を感
じるであろう.これこそはスチュワート家に伝説の光背を与えるもの
「ボリス・ゴドゥノフ」における偽ドミ
である.芸術に関して言えば,
トリーの場面に特別の厚みを与えるのもこれなのだ.ジャコバイト運
動家は著者と同じようにソビエスキー・スチュワートや王位要求の情
念に興味を抱くであろう.しかし,それがドン・アルフォンソ・カル
ロスのような正統かつ伝説的な重要性を持つ人物に関わることとなる
と,この興味はたちまちそのようなレベルを超える.彼のブルボン・
ハプスブルグ・デステという姓は正にヨーロッパの歴史を体現してい
る.そして我々の想いの中ではドンナ・デ・ラス・ニーヴェスも伝説
的人物という点でいささかも見劣りしないと言える.彼らが生きてい
る限り,少なくともこのような小さな注目には価するのである 105) .
多くの歴史家達はこれらの人物について多分あまりに性急に当然の
結論を出すと思われるが,我々はその中に遠い過去から現在まで絶え
ることなく伝わってきた家紋にまつわる数多くの事物が亡びていくの
を眺める.ドン・カルロスという名前は,遥か昔ヴェネチアでの午後
にその名を初めて耳にし,その持ち主を垣間見て以来,私にとって正
110
に伝説への中毒,酩酊そのものだった.存命であるが故に我々が長々
と取り上げたその弟は,スカルラッティの庇護者であるフィリペ 5 世
からの長子相続制による男子直系の子孫である.彼の妻マリア・デ・
ラス・ニーヴェス王女は,スカルラッティの学徒にして弟子であった
バルバラ王女の父親,ドン・ジュアン 5 世の直系の子孫である.ド
ン・カルロスの光景はスペインに対する最初の興味を著者にかき立て
た.一方皇太子ドン・カルロスの弟夫妻は正規の 18 世紀スペインと
ポルトガルの歴史を形作る二つの家族の直系の子孫である.スカル
ラッティは憂鬱症の犠牲者であるスペイン国王に二十五年間も仕え
た.恐らくそれ故に,このスペイン・ブルボン家最後の法的かつ名目
上の直系男子である人物について述べることは,彼らにあれほど長い
間親密に関わった人物の歴史についての結語として全くふさわしい.
例えば,英国のジェームス 2 世の歴史を扱うに際し,彼の子孫の憂鬱
症やその伝説的運命に触れて結語とすることに何の不都合もないだろ
う.実際,私は過去の一時代における人物達についての扱いがほとん
どを占める著作の末尾にこのようなスペインの歴史についてのあとが
きを加えることにいささかも躊躇しなかった.特異で伝説的なスカル
ラッティの雇用状況によって彼への興味をさらに強められた読者の少
なくとも何人かは,そのような歴史にも関心を持つことは確実だから
である.スカルラッティの人生においてはすべてが,あるいはほとん
どすべてが謎に包まれている.そして著者の意見によれば,彼が関わ
りその中で生きた歴史の一側面については,いずれにせよあのスペイ
ンにおける悲劇の代表者達が我々の目前からいなくなるまでは当然の
111
結論といったものに達することはない.そうなった時に初めて我々は
これらの言葉を取り下げることになろう.
ドメニコ・スカルラッティはその活きいきとして大衆的な音楽を
フェルナンドとバルバラの気晴らしのために用意した.この二人は憂
鬱のために人間の世界からは常時疎外されていたが,それはちょうど
彼らの子孫達が常にスペインから追放されていたのと軌を一にしてい
た.しかし,スカルラッティの音楽はその軽快さの背中に易々と我々
を乗せて風変わりで独創的な世界へと運ぶことで,我々自身に対して
も全く同じ効用をもたらすことが出来る.同じことが出来るような創
作家は他に誰もいない.正気と狂気の境目,あるいはその淵に生きて
いた王と王妃にとってそれがどれほど魅力的であったとしても不思議
ではない.スカルラッティの驚くべき特徴はその平衡感覚にある.彼
は前代未聞の速さで移動し,一瞬の閃光によってその雰囲気を創り出
す.現実にそうだったように街の通りや広場を人々で満たし,彼の仕
事を完成させるのに一二回瞬きをする間しかかからない.
というわけで,このあとがきの最後の言葉もスカルラッティの成熟
過程に関わった彼の庇護者達へと我々を連れ戻すことになる.彼のス
ペインにおける二十五年間について,そこにある事実と言えば二三行
書くだけで済む程度のものだけである.もし私がその短い文節を不必
要に長く引き延ばしてしまったとしたら,ここで読者に許しを乞わな
ければならない.弁解するなら,それはあの長い雇用に関わるあらゆ
る可能性,あるいは関わった人物達すべてにまつわる興味の故であ
る.スカルラッティの人生という空白のカンヴァスを完成させるには
112
こうするしかないのだ.さもなければ,単にいくつかの日付を記録す
る以上のことは出来ず,彼の残りの人生すべては謎と沈黙に包まれた
ままであろう.
113
著者付記
本書の準備に際し,グローブ音楽辞典およびブリタニカ百科事典中
の記事に負うところがあることをわざわざ申し述べる必要はないだろ
う.バーニー博士は最もしばしば参考にしたもう一つの権威である.
E. J. デント教授への特別な謝意も表しておかねばならない.ドメニ
コ・スカルラッティの父親についての彼の著作「アレッサンドロ・ス
カルラッティ」の生涯は,私にとってナポリ楽派の作曲家達に敬意を
表する上で情報の鉱脈である.また,彼からは親切にもその他一二の
点について貴重な情報を頂いた.スカルラッティにおけるスペイン的
主題の利用という興味ある問題については,J. B. トレンド氏の著作
「マヌエル・デ・ファリャ」(ニューヨーク,1929 年),「音楽と文学
(Music and Letters)」誌の 1922 年 4 月号中の二つの論文,および
1927 年刊の「音楽四季報(Musical Quarterly)」の中で議論されて
いる.この問題はどうやら作曲家ホアキン・ニンによって最初に提起
されたようであるが,問題の幅は論じ尽くすにはあまりに大きく,こ
の主題についてはなされるべきことが多く残っている.マリピエロお
よびアレッサンドロ・ロンゴによるスカルラッティについての論文も
参照した.しかしながら,一般的に言ってスカルラッティについては
情報も少なく,書かれた批評も驚くほど限られている.なお,スカル
ラッティ親子についてのフィリップ・ラドクリフによる興味深い論文
が「音楽の遺産(The Heritage of Music)」第 2 巻(オックスフォー
114
ド大学出版局,1934 年)に見られる.最後にお断りしておかなければ
ならないが,本書中でフェルナンドとフェルディナンドという名前が
ともに出て来るのは,フェルナンドが同じ名前のスペイン形,フェル
ディナンドがそのイタリア形だからである.例えば,スペインのフェ
ルナンド 7 世に対して両シチリアのフェルディナンド 1 世という具
合である.
115
[訳注]
1. Charles Burney(1726 年–1814 年)英国の音楽家.教会のオ
ルガニストを勤める傍ら作曲も手がける.1769 年にオックス
フォード大学より音楽学士および博士の称号を贈られた後,音
楽史の研究のために二度にわたりヨーロッパ大陸各地を旅行
し,「フランスとイタリアにおける音楽の現状」,「ドイツ,オ
ランダ,... における音楽の現状」
,
「一般音楽史」,
「メタスター
ジオの手紙と思い出」といった著作を出版した.これらの著書
の中にはドメニコ・スカルラッティに関する記事が多数散見さ
れ,彼がドメニコに並々ならぬ関心を寄せていたことが伺え
る.[なお,バーニーの著作は現在(2009 年)ファクシミリ版
が Travis & Emery Music Bookshop (London, U.K.) から出
版されており,比較的安価に入手可能である.]
2. スカルラッティの鍵盤音楽は,その大部分が二部形式の単楽章
ソナタからなる.ここで「ソナタ」という名前は作曲者自身に
よって付けられた名称であるが,いわゆる古典派が確立した
「ソナタ形式」とは全く無関係で,当時は歌唱を伴う曲を「カ
ンタータ」と呼んでおり,「ソナタ」はこれに対する器楽曲と
いうほどの意味だったようである.
3. 後にこれを初めて成し遂げたのがラルフ・カークパトリックの
大著,「ドメニコ・スカルラッティ」(プリンストン,1953 年)
116
であったことは断るまでもない.カークパトリックはその序文
の中で本書に刺激を受けたことに言及しているが,訳者から見
るとその伝記的な部分の基本的な構成はまさにシットウェルの
著作のそれをそのまま踏襲していると言える.
4. 17 世紀末から 18 世紀初頭にかけてのローマでは,スウェーデ
ン女王クリスチーナ(Kristina, 1626 年–1689 年)を中心とし
た貴族社会のサロンにおいてルネッサンス期のユマニスムに
も似た芸術活動が行われ,女王の死後,「アルカディア・アカ
デミー」として組織化された.その主宰者となったのがオット
ボーニ枢機卿 (1667 年–1740 年) であった.カークパトリック
によれば,「オットボーニ枢機卿邸で毎週催される室内楽リサ
イタル,
『詩的音楽アカデミー(Accademie Poetico-Muscali)
』
は全ヨーロッパ的に有名であった.ここでコレッリは彼のソナ
タ演奏を指導し,音楽を指揮した.あるいはここでアレッサン
ドロ・スカルラッティの手になる数多くのカンタータが初めて
唱われた」とある.ヘンデルはドメニコとともにこの様なコン
サートの一つに呼ばれてオルガンとハープシコードの腕比べを
行い,前者についてはヘンデルが,後者についてはドメニコが
勝利したと伝えられている.ヘンデルは 1707 年から 1709 年
にかけてヴェネチア,ローマ,ナポリを周遊しており,この有
名な腕比べはおそらくローマに滞在していた 1709 年頃に行わ
れた,というのがカークパトリックの見立てである.
5. ロンゴ版はリコルディ社(Ricordi,ミラノ)から出版され,五
117
百曲を含む全十巻(各巻五十曲ずつ)と補巻(四十五曲)から
なるが,その後の研究により新たに十曲(K. 41, 80, 94, 97,
142, 143, 144, 204a, 204b, 452, 453)が付け加えられており,
現在ではカークパトリックの著書にある五百五十五曲がほぼ完
全な目録とされている.(これらに加えて近年発見されたソナ
タもいくつか存在する.)また,この目録に基づいた K. ギル
バート校訂の全曲版がウジュール社(Heugel, パリ)から出版
されている.ただし,カークパトリックの番号付けで同じ 204
番を与えられている曲(204a と 204b)は長さや内容から見て
二つの独立な作品と考える方が自然で,この番号付けはカーク
パトリックが “555”という数に意図的に合わせるために行った
操作という見方も否定できないようである.[なお,ロンゴ版の
問題点については註 85 を参照.リコルディ社からは E. ファ
ディーニ校訂による新版も出版中である.]
6. Leonardo Oronzo Salvatore de Leo(1694 年–1744 年)イタ
リア・バロック後期の作曲家.サンタ・マリア・デッラ・ピエ
タ・ディ・トゥルキーニ音楽院で学んだ音楽家のひとりで,ナ
ポリで活躍した.
7. Giovanni Battista Pergolesi(1710 年–1736 年)イタリア・バ
ロック後期の作曲家.ガエターノ・グレコ,フランチェスコ・
フェオの下で学ぶ.生前はオペラ・ブッファや幕間劇で世に認
められ,特に「奥さま女中」がヒットしたが,間もなく結核に
冒されて二十六年という短い生涯を終えている.病を得てから
118
は宗教音楽の作曲にその情熱を傾けており,「悲しみの聖母騎
士団 (Cavalieri della Virgine dei Dolori)
」に委嘱を受け,そ
の死の直前に完成した「悲しみの聖母(Stabat Mater)」はバ
ロックの名曲として名高い.夭折の天才としてモーツァルトと
並び称される所以である.
8. Nicola Porpora(1686 年–1768 年)イタリア・バロック後期
の作曲家にして声楽家.その生涯の前半において,出身校であ
るナポリのポベリ・ディ・ジェズ・クリスト音楽院や聖オノフ
リオ音楽院で声楽の教育者として活躍.弟子としてファリネッ
リ,カッファレッリ等の名カストラートを育てたことで名声
を博す.1725 年以後ヴェネチアに落ち着き,ピエタ教会等で
教鞭をとる.その間ヘンデルに批判的なイングランド皇太子
のサークルに誘われてファリネッリとともにロンドンに赴き,
同都で「国王派」ヘンデルとオペラ興行を競うなどした.また
1748 年以後,ドレスデンの宮廷ではかつての弟子ヨハン・ア
ドルフ・ハッセとその妻ファウスチーナ(ボルドーニ)とも緊
張関係となりその地位を退くことになった.その後しばらく
ウィーンに滞在し,若いヨーゼフ・ハイドンに薫陶を与えた.
最後はナポリで没している.
9. Falinelli(本名 Carlo Broschi,1705 年–1782 年)イタリアの
史上最も著名なソプラノカストラート歌手.その音域は三オク
ターブ半あったといわれている. ポルポラの薫陶を受け,1720
年にナポリでデビューする.イタリア全土およびウィーンで活
119
躍し,1734 年から 37 年にかけては,英国で反国王派オペラの
サークルに招かれてポルポラとともにロンドンで活動した.そ
の美声と発声技術は驚愕の的であり,バーニーのそれを始め多
くの記事がヨーロッパ各国に残っている.1737 年にフェリペ
5 世の妻イザベラ・ファルネーゼに招かれてマドリードのスペ
イン宮廷に赴き,そこでその美声によって無気力状態で床に臥
せっていたフェリペを起き上がらせた,という歴史上有名な
「音楽療法」を施した.この功により王室専属の歌手として以
来二十年余にわたりスペイン宮廷に仕えることになった.フェ
リペ 5 世は彼の好む僅か四曲のアリアを毎晩ファリネッリに
寝室で歌わせ,その代償として年額五万フランを与えたとい
う.同王の没後,フェルナンド 6 世の治下では,ファリネッ
リは台本作家メタスタージオや多くのイタリア人歌手をマド
リードに呼び寄せ,同地でのイタリア・オペラの隆盛をもたら
した.即位前のフェルナンドに嫁いだマリア・バルバラととも
に 1728 年ごろにスペインに赴き,彼らの音楽教師として宮廷
に仕えていたドメニコ・スカルラッティとは 1757 年のドメニ
コの死まで同僚であった.フェルナンド 6 世の没後,1759 年
にボローニャに引退し,同地で没した.バーニー博士は 1770
年代にボローニャでファリネッリと面談し,そこでドメニコに
関する様々な証言を得ている.[ちなみに,1994 年には彼の前
半生(スペイン宮廷に仕えるまで)を描いた映画「ファリネッ
リ,イル・カストラート(Farinelli, il Castrato)」(ジェラー
120
ル・コルビオ監督)が公開されて話題になった.]
10. Niccolo Jommelli(1714 年–1774 年)イタリア・バロック後
期の作曲家.ナポリ出身,聖オノフリオ音楽院でフランチェス
コ・フェオ等に(1725 年–)
,またサンタ・マリア・デッラ・ピ
エタ・ディ・トゥルキーニ音楽院でニコラ・ファーゴ等に師事
(1728 年–).当時ナポリにいたハッセの装飾付きレシタティー
ヴに大きな影響を受け,後にそれをさらに発展させたとされ
る(ド・ブロスはそれを自身が聴いた中で最上のものと評して
いる).1741 年からはボローニャで仕事をし,マルチーニ神父
からも教えを受けるとともに,数多くのオペラを作曲してヨー
ロッパ各地に供給した.その後ヴェネチアに移り,ハッセの推
薦で 1745 年ごろから Ospedale degli Incurabili の音楽監督を
務めた.
11. Niccolo(または Nicola)Vito Piccinni(または Piccini,1728
年–1800 年)イタリア・バロック後期の作曲家.クリストフ・
ヴィリバルト・グルックとの音楽的対立が論争(グルック・
ピッチンニ論争)を引き起こしたことで知られる.ナポリでレ
オナルド・レーオやフランチェスコ・デュランテ [註 22)] の下
で教育を受けた.1766 年には王妃マリー・アントワネットに
よってパリに招かれたが,グランド・オペラの監督達は意図的
にピッチンニとグルックとの対立を企み,両者に同じ題材(
「タ
ウリスのイフィゲネイア( Iphigenie en Tauride)
」
)を同時に
取り扱うよう仕向けた結果,パリの聴衆は二つに分かれてその
121
優劣を争うことになった.両派の争いは 1780 年にグルックが
パリを去った後も続き,後にはサッキーニ [註 13) 参照] を新
たなライバルに仕立て上げようとする試みも成された.1784 年
には王立音楽学校(この学校から誕生したものの一つが 1794
年に設立されたパリ音楽院である)の教授となるも,1789 年
のフランス革命勃発にともないナポリへ戻り,最初はナポリ王
フェルディナンド 4 世によって厚遇されたが,彼の娘がフラン
スの民主主義者と結婚したことで寵を失った.その後九年間彼
はヴェネツィア,ナポリ,ローマなどで不安定な生活を送った
が,1798 年にパリへ戻っている. 人々は彼を熱狂的に迎え入れ
たが経済的には苦境が続き,最期はパリ近郊のパッシーで他界
している.
12. Tommaso Michele Francesco Saverio Traetta(1727 年–1779
年)イタリア・バロック後期の作曲家.ポルポラに弟子入り
し,1751 年にナポリで上演されたオペラ「ファルナーチェ(Il
Farnace)」で最初の成功を収めた.その後 1759 年にパルマの
宮廷音楽家の地位を得て,当時フランス趣味に浸っていた宮廷
でオペラ作品を手がけるとともに,ロシア宮廷(エカチェリー
ナ 2 世)からの委嘱に応じて作品を供したりもした.
13. Antonio Maria Gasparo Sacchini(1730 年–1786)イタリア・
バロック後期の作曲家.フィレンツェ出身で,ナポリの聖オノ
フリオ音楽院で教育を受けた.ナポリでのオペラ・デビューを
皮切りに,ヴェネチア,ロンドン,パリと移動しながら活躍,
122
最期はパリで没した.
14. Samuel Johnson(1709 年–1784 年)英国の文学者.ジャーナ
リストとして身を起こし,詩,随筆,小説,評論など様々な分
野に渡って旺盛な執筆活動を行うとともに,
「英語辞典」
(1755
年)の編集を行う等,英語による文化全体に大きな貢献をした
ことで知られる.
15. C. バーニー,
「フランスとイタリアにおける音楽の現状」
(The
Present State of Music in France and Itary, ロンドン, 1771
年),「ナポリ」の部分(pp. 291-358).引用は冒頭 p. 291 と
末尾 pp. 357-358 から. (なお,バーニーの原書中ではトラ
エッタとサッキーニについての言及はなく,著者が追加したも
のであろう.)
16. 当時の封建貴族は主に長子が家督を相続するため,他の兄弟姉
妹は他家に行き先がなければ僧籍に入ることが多かった.
17. Giacomo (または Jacopo) Barozzi (または Barocchio) da Vignola, (1507 年–1573 年)しばしば単に Vignola と呼ばれる.
16 世紀マニエリスム期のイタリアの建築家.
18. Gian Lorenzo Bernini(1598 年–1680 年).バロック期を代表
するイタリアの彫刻家,建築家,画家.ナポリに生まれ,ロー
マで活躍.特に彫刻家として著名で,「プロセルピナの略奪」,
「ダヴィデ」,「アポロンとダフネ」(ローマ,ボルゲーゼ美術
館)
,
「聖テレジアの法悦」
(ローマ,サンタ・マリア・デッラ・
ヴィットーリア教会堂コルナロ礼拝堂),四大河の噴水(ロー
123
マ,ナヴォーナ広場)などはバロック彫刻を代表する作品とし
て名高い.建築ではサン・ピエトロ広場などを手がけた.
19. その後の研究により,アレッサンドロがシチリアのトラパニ
生まれであることを示す記録が見つかっている.(R. Pagano,
Alessandro and Domenico Scarlatti - Two Lifes in One,
Trans. F. Hammond, Pendragon Press, New York, 2006)
20. ヘブリディーズ諸島(Hebrides)はスコットランド北西方の大
西洋上に浮かぶ五百以上の島嶼の総称で, アウター・ヘブリ
ディーズ諸島は主にノース・ウイスト島,サウス・ウイスト島,
ルイス島,バラ島からなる.英国においては「最果ての地」の
代名詞で,日本でいえば北の北方四島,南の小笠原諸島あたり
に相当する.
21. カークパトリックによれば,バーニーによって語られるナポリ
の音楽学校(主要なものは四つ)のいずれにおいても,そこで
ドメニコが正規の音楽教育を受けたという記録は残っていな
い.そもそもアレッサンドロ自身がこれらの学校にそれほど深
く関わっていなかったというのが実態のようである.
22. Francesco Durante(1684 年–1755 年)イタリア・バロック後
期の作曲家.シチリア出身,ナポリのポベリ・ディ・ジェズ・
クリスト音楽院でガエターノ・グレコに,次いで聖オノフリオ
音楽院でアレッサンドロ・スカルラッティに師事.ローマでは
パスクィーニにも教えを受けたとされる.1725 年から聖オノ
フリオ音楽院においてアレッサンドロ・スカルラッティの後任
124
教授,1742 年からはサンタ・マリア・ディ・ロレート音楽院で
ニコラ・アントニオ・ポルポラの後任として院長を務め,没す
るまでこの職にあった.その門下からヨンメッリ,パイジエッ
ロ,ペルゴレージ,ピッチンニ,ヴィンチらが輩出した.この
時代の作曲家には珍しくオペラを手がけておらず,主に教会音
楽の作品で名を成した.
23. Leonardo Vinci(1690 年–1730 年)イタリア・バロック後期
の作曲家.ポベリ・ディ・ジェズ・クリスト音楽院出身.「ア
ルタセルセ」に代表されるオペラ作品で高い評価を得た.
24. E. J. Dent, “Alessandro Scalratti: His Life and Works”,
(Edward Arnold, London, 1905), pp. 201-202. なお,この著
作は現在ファクシミリ版が入手可能である.
25. この訪問は 1770 年 10 月 31 日のことで,彼の著作「フランス
とイタリアにおける音楽の現状」
(The Present State of Music
in France and Itary, ロンドン, 1771 年)pp. 324-327 からの
引用である.なお,この部分のより完全な引用がカークパト
リックの著書の第 1 章(pp.9-10)に見られる.
26. チャールス・ディケンズの小説中の登場人物.サディスティク
な教育者という役回りである.
27. 当時(1770 年代)ナポリでは Giuseppe Casaccia(バリトン),
Antonio Casaccia(テノール)といった歌手が活躍していた.
[例えば 1777 年夏に上演されたチマローザの dramma giocoso
(喜劇風音楽ドラマ)
「L’Armida Immaginaria」の歌手として
125
彼らの名前が見える.]
28. Filippo de Neri(1515 年–1595 年)イタリア・カトリック教会
神父,彼が創設した「オラトリオ信徒団(Congregation of the
Oratory)」 は.ローマで慈善活動を行った.Neri(Nero)は
イタリア語で「黒い」を意味する.(ゲーテの「イタリア紀行」
中で彼についての挿話を読むことが出来る.)
29.「第二次ローマ滞在(6 月)」中の記事.(「イタリア紀行」,相良
守峯訳,岩波文庫版,下巻 p.17)
30. Francesco de Mura(1696 年–1782 年)イタリア・バロック後
期の画家.ナポリでフランチェスコ・ソリメーナ,ドメニコ・
ヴィオルタに師事し,主にナポリとトリノで活躍した.その後
期には新古典主義な画風で知られた.
31. Sebastiano Conca(1680 年–1764 年) イタリア・バロック後
期の画家.ナポリでフランチェスコ・ソリメーナに師事.1706
以後ローマに居を構える.当時ローマで活躍していたカルロ・
マラッタと共作したりしている.イタリア各地で活躍するとと
もに,1718 年からはローマの聖ルカ・アカデミー(16 世紀末
にツッカリによって創設された教皇庇護下の芸術家団体)の会
員に選出され,後にはその長を二度務めた.1752 年にナポリ
に戻り,カルロス 3 世に重用された.マニエリスム風の象徴と
隠喩に満ちた画面構成に特徴があるとされる.
32. Giuseppe Bonito(1707 年–1789 年) イタリア・バロック後
期–ロココ期の画家.ナポリのフランチェスコ・ソリメーナの
126
下で学ぶ.都市民衆の生活風景,コンメディア・デラルテの登
場人物などの風俗画を得意としていた.
33. エルサレムで神に捧げる生け贄を洗い清めるための池を指す.
旧約聖書(イザヤ書),ヨハネの福音書等で関連する記事が見
られる.
34. William Hogarth(1697 年–1764 年)18 世紀英国を代表する
画家.歴史画,宗教画から肖像画,風刺画まで,題材も技法的
にも極めて幅広い作風を誇り,批評家としても活躍した.ここ
で引用されている聖バーソロミュー病院の壁画は「ベセスダの
池とよきサマリア人(The Pool of Bethesda and The Good
Samaritan)」と題された作品(1736 年–1737 年)で,歴史画
の代表作の一つと言われている.
35. Johann Bernhard Fischer von Erlach(1656 年–1723 年)オー
ストリア・バロック期の建築家.ハプスブルグ帝国時代の建築
様式に大きな影響を与えたことで知られる.グラーツ出身で,
職人であった父親の工房で訓練を受けた後,十六歳からローマ
で研鑽を積み,ベルニーニ [註 18) 参照] 等の薫陶を受けた.そ
の後しばらくナポリ副王に仕えた後,1687 年にオーストリア
に戻り,以後宮廷建築家としてヨーゼフ 1 世はじめ三代の皇帝
に仕えた.なかでもヨーゼフ 1 世時代にはウィーンにおいて凱
旋門をはじめ数多くの記念碑的建築を手がけ,そのベルニーニ
風の様式は以後数十年にわたりバロック建築の規範となったと
される.
127
36. 英国の詩人,アレクサンダー・ポープ(1688 年–1744 年)の
諷刺詩.三つの時期に異なる版で出版され,最初の版(「三巻
本 Danciad」
)は 1728 年に出ている.二番目の版は「Danciad
Variorum」として 1735 年に出版され,三番目は「The New
Danciad」として四巻本の形で 1743 年に出版された.最後の
版では以前のとは異なる英雄が登場する.内容としては女神
「退屈(Dullness)」をことほぎ,彼女の使者達が大英帝国に腐
敗,痴愚,下品さをもたらしていく様を描くというもの.ポー
プは,「ガリバー旅行記」など,散文による諷刺で名を成した
ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift, 1667 年–1745 年)
と同時代人であった.
37. 18 世紀には,英国上流階級の青年が教育の総仕上げとしてヨー
ロッパ大陸周遊の大掛かりな旅行(=グランド・ツアー)を試
みることが流行した.
38. イタリア,カンパニア地方にある古代ローマ時代の遺跡.ナポ
リから南東八十五キロメートルほどの海岸にほど近い場所にあ
る.(1998 年には,ユネスコ世界遺産に登録された.)
39. ライオンはヴェネチアの守護聖人である福音史家聖マルコを象
徴し,有翼のライオン像がヴェネチア共和国の国旗にも描かれ
ている.聖マルコ寺院前の大広場にあるライオン像も有名.
40. 主にボスポラス海峡(地中海東部)で使われる,細長い船体を
した手こぎボート.
41. これはヴェネチアでの出会いから十年余後のことで,スカル
128
ラッティが 1719 年 8 月にヴァチカンの職を辞してからの動静
を指している.当時のフランチェスコ・コリニャーニの手書き
の日記中,1719 年 9 月 3 日の書き出しの部分に「スカルラッ
ティ氏が英国に向けて旅立ったため,サン・ジョバンニ・イン・
ラテラノ教会にいたオッタヴィオ・ピトーニ氏が楽長に就任し
た」とあり,これが彼の英国訪問を示す唯一の証拠とされてい
る.しかしカークパトリックによると,英国側には彼の訪問を
跡づけるような証拠は一切残っていない.一方,1720 年 9 月 6
日にはポルトガル女王マリアンナの誕生日のためにスカルラッ
ティが作曲したセレナーデがほぼ確実に作曲者の指揮によって
リスボンで上演されようとしており,そのリハーサルのタイミ
ングまでにはスカルラッティはリスボンに到着していたと考え
られる.これらの状況から,スカルラッティが実際にロンドン
を訪問した可能性は低い,というのがカークパトリックの説で
ある.(近年ポルトガルで発見された記録からは,スカルラッ
ティが 1719 年 11 月 29 日にリスボンの宮廷に仕え始めたこと
が明らかになっており,カークパトリックの説を裏付ける形に
なっている.)
42. John Mainwaring,ヘンデルの最初の伝記「Memoirs of the
Life of the Late George Frederic Handel」(ロンドン,1769
年)の著者.
43. Marie Casimire Luise de la Grange d’Arquien(1641 年–1716
年)フランスの貴族の娘で,幼時にポーランド王ブワディスワ
129
フ 4 世へ輿入れするルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガに女官
として同行,長じてポーランド貴族と結婚し,その夫と死別後
の 1665 年にヤン・ソビエスキーと再婚.ヤン・ソビエスキー
は後に軍人出身として初のポーランド王(ヤン 3 世)となり,
オスマン・トルコによる第二次ウィーン攻囲(1683 年)でトル
コ軍に勝利したことから全ヨーロッパ・キリスト教世界を守っ
た英雄として扱われている.マリア・カジミラはヤン 3 世が
1696 年に他界した後 1699 年にローマに居を構え,故スウェー
デン王妃クリスチーナに替わる「アルカディア・アカデミー
[註 4) 参照]」の会員として活動した.カークパトリックによれ
ば「マリア・カジミラは,歴史家が一様に賞賛の念を持って語
るような人物ではなかった.彼女は高齢になってもなお問題を
起こすような気質を持ち合わせていたようである.その若い頃
にはとびきりの美貌の持ち主だったようだが,そのせいか嫉妬
深く,自己中心的で,つまらない陰謀に手を染めるような人物
であった」とある.
44. Giovanni Battista Piranesi(1720 年–1778 年)イタリアの画
家,建築家.いわゆる「眺望画(veduta)」,すなわち広角で都
市やその中の空間風景を描いた.なかでもローマ市内の歴史遺
物を含む都市風景を版画で描いた一連の作品がよく知られてい
る.また,架空の巨大な地下構造物や機械仕掛けの幻視的な描
写である「監獄」シリーズも著名.
45. Giovanni Paolo Pannini(または Panini,1691 年–1765 年)
130
イタリアの画家,建築家.ピラネージと同じく,ローマ市内の
古代遺跡,あるいは都市風景を描いた一連の眺望画で著名.ま
だ写真がなかった時代,このジャンルの絵画は名所旧跡といっ
た観光スポットをグランド・ツアーの客へ案内するためのポス
ターのような役割も果たした.
46. 13 世紀のナポリに由来する活発で陽気な舞踊.当時の音楽に
ついては現存しているが,実際の踊りがどのようであったかに
ついては分かっていない.速い三拍子の音楽で,特徴的な跳躍
(イタリア語で saltare)のステップからその名が来ている.元
来はナポリの宮廷舞踊であるが,本文にあるローマの謝肉祭や
モンテ・テスタッチオのワイン収穫祭での人気のある伝統舞踊
の一つでもある.1831 年にローマの謝肉祭を見たメンデルス
ゾーンは,その交響曲第 4 番「イタリア」の終楽章にこの舞曲
を用いている.
47. Giovanni Battista Bononcini(1670 年–1747 年)イタリア・
バロック期の作曲家,チェロ奏者.モデナ出身.父,兄弟とも
に音楽家で,ボローニャでチェロ奏者として学んだ後,ミラノ,
ヴェネチア,ローマ等で仕事をし,1720 年から十年以上ロン
ドンに滞在してオペラ作曲家として活躍している.1720 年末
のシーズンにおいて王立劇場で上演された彼のオペラ「アスタ
ルト(Astarto)」はヘンデルのオペラを凌ぐ成功を収めたとさ
れ,その後しばらくヘンデルと人気を競っていた.
48. これはスカルラッティの作品に基づいて,ロージングレイブの
131
手によりロンドンで上演されたことが分かっている.カークパ
トリックによれば,この上演にスカルラッティ自身が関わって
いた具体的な記録は残っていない.
49. João IV(1604 年–1656 年)ブラガンサ朝の初代ポルトガル王
(在位:1640 年–1656 年)
.当時スペイン・ハプスブルク家の王
の下にあったポルトガルを革命により独立へと導いた功績によ
り「再興王」(João o Restaurador)と呼ばれる.芸術,特に
音楽の庇護者として知られ,パレストリーナを擁護する論考,
あるいは「現代音楽の擁護(1649 年)」といった著作をものし
ている.また彼の作曲になる「Crux Fidelis」は四旬節の間に
聖歌隊により奏される人気作品の一つである.
50. リスボン大地震.1755 年,カトリックの祭日(万聖節)であっ
た 11 月 1 日,午前 9 時 20 分頃に発生,西ヨーロッパの広い範
囲を強い揺れが襲った.地震の規模はマグニチュード 8.5 と推
定されており,津波による死者一万人を含め五万五千人–六万
二千人が犠牲になったとされる.リスボンはこの地震と津波に
より壊滅的な被害を受け,宮殿や図書館,16 世紀の独特のマヌ
エル様式 [註 64] の建築が崩壊.わずか半年前にこけら落とし
を祝ったばかりのオペラ座をはじめ,地震の揺れに持ちこたえ
た建物も火災により焼失した.テージョ川沿いに建っていたリ
ベイラ宮殿(現在のコメルシオ広場の位置にあった)も地震と
津波で崩れ,七万巻の書物やティツィアーノ,ルーベンス,コ
レッジョらの絵画も失われた.(国王ジョゼ 1 世とその家族は,
132
祭日を市郊外で過ごすためにたまたま街を離れており,幸運に
も難を逃れている.)リスボン大地震はヨーロッパの精神世界
にも衝撃を与え,ヴォルテールの小説「カンディード」のよう
な作品を生み出すなど,20 世紀のホロコーストにも比される
影響をもたらしたとされる.
51. Leopold I(1640 年–1705 年)ハプスブルク家の神聖ローマ皇
帝(在位:1658 年–1705 年)
,オーストリア大公,ボヘミア王,
ハンガリー王(在位:1655 年–1705 年).無類の音楽好きで知
られ,ウィーンの宮廷楽団は当時のヨーロッパ屈指のレベルに
あった.オーストリアやボヘミアの小貴族達もウィーン宮廷を
習って音楽を奨励し,クレムス,ザルツブルグなどでもウィー
ンと肩を並べるほど音楽が盛んになった.レオポルド自身もい
くつかのオラトリオや舞踊組曲を作曲している.その五十年近
い治世の間に宮廷の影響は国全体に広く及び,低地オーストリ
アやボヘミアでは教会音楽も盛んに行われ,今日まで及ぶ「音
楽大国」の基礎を形作った.レオポルドは三度結婚しており,
三度目の妻エレオノーレ・マグダレーナとの間に生まれた十人
の子女の一人,マリア・アンナ・ヨーゼファ(1683 年–1754 年)
がジョアン 5 世に嫁ぎ,マリア・バルバラの母となった.一方,
その「文弱」ぶりを見透かされてか,在位中にオスマン・トル
コの攻撃(第二次ウィーン包囲,1683 年)を受けている.最後
はルイ 14 世と争ったスペイン継承戦争(1701 年–1714 年)の
最中に没した.
133
52. William Thomas Beckford(1760 年–1844 年)英国の作家.
父親(ウィリアム・ベックフォード)は英国ホイッグ党の有力
者で大富豪,五歳のときに当時九歳だったモーツアルトを家
庭教師にしてピアノを習ったりもしている.1781 年の成人と
ともに莫大な遺産を相続し,翌年いわゆるグランド・ツアー
(英国上流階級の青年が教育の総仕上げとして行うヨーロッパ
大陸周遊)の一環としてイタリアを旅し,1783 年にはその紀
行文「夢,目覚めの思考,そして出来事(Dreams, Walking
Thoughts and Incidents)」を出版した.1786 年にフランス語
で書いた「ヴァセック(Vathec)」は彼の代表作で,ゴシック
小説の傑作とされているが,発表当時はその内容が醜聞となり
大反響を巻き起こした.ちなみに,彼がポルトガルやスペイン
を訪問していた 1787 年は,ちょうどゲーテがあの「イタリア
紀行」で描いた大旅行(1786 年–1788 年)を行っていた時期と
重なっている.
53. Philipp van Limborch(1633 年–1712 年)オランダの神学者.
数多くの神学に関する著作で知られている.ここで引用され
ているのはその著書の一つ「異端審問史(Historia Inquisitio-
nis)」のことで,これを英国長老派教会の神学者である Samuel
Chandler(1693 年–1766 年)が英訳出版したものである.
54. ポルトガル王ジョゼ 1 世は 1758 年 9 月 3 日,愛人宅から王
宮テント(当時は 1755 年のリスボン大地震からまだ復興途上
にあり,王宮は豪華なテントで営まれていた)への帰路銃撃さ
134
れ,軽い怪我を負った.下手人は間もなく捉えられて拷問の後
処刑されたが,この暗殺を企てたとしてタヴォラ家の名前が挙
り,一族郎党全員が捕らえられて裁判で全員が死刑に処せられ
た.女王マリアナ等の取りなしにより婦女子は減刑されたもの
の,その他については国王の眼前で刑が執行された.
55. ロベール=フランソワ・ダミアンはルイ 15 世の暗殺を企てた人
物.1757 年 1 月 5 日,ルイが馬車に乗ろうとしたところをナ
イフで襲撃した.王はかすり傷しか負わなかったものの,ダミ
アンはフランスで最も重い刑である八つ裂きの刑に処された.
56. 英国では 1688 年に名誉革命が起こり,議会がスチュアート朝
のカトリック王ジェームス 2 世を追放し,その娘と夫のオレン
ジ公ウィリアムを王として迎えた.これは臣下である議会が王
位継承に口を挟むという点で革新的であったが,それ故に反発
を感じる人も多く,追放されたジェームスを支持する勢力も一
定の影響力を持っていた.これらジェームス王の支持者をジャ
コバイトと呼び,彼らの取った政治的・軍事的行動をジャコバ
イト運動と呼ぶ.ここで「’45 年」の反乱とは,1745 年に起き
たジャコバイト運動最後の軍事反乱で,ジェームス 2 世の息子
チャールスがフランス・ルイ 15 世の助けを借りてジャコバイ
ト支持者の多いスコットランドから上陸し,一時はイングラン
ドまで攻め入るほどであったが徐々に劣勢に転じ,1746 年に
カロデンの戦いでの敗北で反乱の幕を閉じた.
57. Parc aux Cerfs. ルイ 15 世は美男で女性関係も派手であった.
135
愛妾ポンパドゥール夫人や,その後に続くデュ・バリー夫人を
溺愛したことは有名で,特に前者は好色なルイ 15 世のために,
フォンテンブローの森にいわゆるハレムにあたる「鹿の園」を
開設し,そこで若い女性を数多く囲っていたと言われる.
58. Friedlich II(1712 年–1786 年)第三代プロイセン王(在位:
1740 年–1786 年).前父王が軍事のみに関心を寄せたことから
「兵隊王」とあだ名されたのとは対照的に,音楽や文学を解する
典型的な啓蒙専制君主として知られ,その功績を称えてフリー
ドリヒ大王(Friedrich der Grosse)と尊称されている.後の
英国王ジョージ 1 世の娘で洗練された宮廷人であった母親から
の影響か,若い頃からフルート演奏をクヴァンツに師事し,自
らもフルートのための作曲を手がけるなど芸術的才能の持ち主
であった.また,ヴォルテールとも親交があり,「反マキャベ
リ論」を書いて匿名で出版もしている.一方で即位後は小国プ
ロイセンの強大化を目指し,ハプスブルグ家に対抗して戦争に
明け暮れる日々を送った.大王の宮廷はフルート奏者のクヴァ
ンツ(1728 年–1773 年に在職)に加え,ハープシコード奏者と
して C.P.E. バッハ(1740 年–1767 年に在職),ヴァイオリン
の名手で作曲家のベンダ(Franz Benda),グラウン(Johann
Gottlieb Graun)ら当代一流の音楽家を擁しており,瀟洒なサ
ンスーシー宮とともに宮廷ロココ文化の一中心となっていた.
C.P.E. バッハが晩年の父バッハを大王に紹介したこと(1747
年)から「音楽の捧げもの」が作曲された逸話はあまりに有名
136
である.
59. August II Mocny(1670 年–1733 年)ポーランド・リトアニア
共和国の国王(在位:1697 年–1706 年/1709 年–1733 年),ザ
クセン選帝侯(在位:1694 年–1733 年).ザクセン選帝侯とし
てはフリードリヒ・アウグスト 1 世(Friedrich August I)と
称した.身長百七十六 センチメートルという恵まれた体躯の
持ち主で,三百六十五人とも三百八十二人とも言われる庶子を
もうけたことから「強健王」のあだ名がついている.(庶子の
人数が不明確な理由は,彼が全体のうちわずかしか公式に認知
しなかったからである.)政治的にはスウェーデン王国との戦
争で連敗し,その親ロシア的態度がポーランド貴族の離反を招
いたとされる.
60. ドレスデン美術館の最も著名な収蔵品群の一つで,ザクセン王
家の宝物館.
61. Gustav III(1746 年–1792 年)スウェーデン王国のホルシュタ
イン=ゴットルプ朝第二代の国王(在位:1771 年–1792 年).
二十五歳で即位後クーデターにより議会を支配していた貴族達
の特権を廃し,1790 年には絶対王政を復活させた.典型的な
啓蒙専制君主の一人と言われ,ルソー,ダランベール,ヴォル
テールなどの思想家,哲学者とも交流があった.ドロットニン
グホルムには特に彼のお気に入りだった離宮(現在ユネスコ世
界遺産に指定)があり,そこでは華やかな舞踏会や演劇が毎年
開かれ,北欧のヴェルサイユ宮殿とまで賞賛されるようになっ
137
た.国王はそこで仮面舞踏会の最中に暗殺され,その忌まわし
い記憶を封印するために宮殿は劇場もろとも閉鎖されて二度と
使われることはなく.その結果今日まで 18 世紀当時のままの
姿で保存されることになった.
62. StanisÃlaw Leszczyński(1677 年–1766 年 2 月 23 日)ポーラ
ンド・リトアニア共和国の国王(在位:1704 年–1709 年/1733
年),後にロレーヌ公(在位:1737 年 –1766 年).ポーランド
王としてはスタニスワフ 1 世とも称される. 本書原文ではフラ
ンス語名スタニスラス(Stanislas)で表記されている.前出の
アウグスト 2 世とポーランド王位を争った人物.スウェーデ
ンの後ろ盾を得て一時は王位に就いていたが,全くの傀儡だっ
たと言われている.1733 年,アウグスト 2 世が死去すると王
位継承戦争が勃発,スタニスワフは娘婿であるルイ 15 世の支
持を得ていたものの自前の軍隊を持たず,ロシアの圧倒的な軍
事力の前で退位を余儀なくされた.その後,ルイ 15 世からロ
レーヌ公国を与えられてその地で余生を過ごした.ナンシーは
ロレーヌ公国の中心都市の一つで,スタニスワフは自らの威を
示すために建築家エマニュエル・エレ(Emanuel Héré)
,およ
び鍛冶職人ジャン・ラムール(Jean Lamour)の手を借りて都
市全体をロココ趣味の巨大な宮殿へと作り替えた.
63. Vittorio Amedeo II(1666 年–1732 年)サヴォイア公(在位:
1675 年–1720 年).ブルボン家とハプスブルグス家の間で起き
たスペイン継承戦争ではハプスブルグ側に付き,ユトレヒト講
138
,次い
和(1714 年)後にシチリア王(在位:1714 年–1720 年)
でそれと交換にサルデーニャ王(在位:1720 年–1730 年)と
なった.サヴォイア公国は現在のイタリア北西部,フランス東
部サヴォイア地方,ニース,ジェネーヴ等を含む地域で,その
首都はトリノであった.1714 年にはフィリッポ・ユヴァッラ
(Filippo Juvarra,1678 年–1736 年)が首席宮廷建築家として
トリノに招かれ,宮殿,教会などの建築や都市計画で腕を振
るった.その優雅に洗練された後期バロック様式の建築群は,
トリノの街並を実質的に変えてしまった,とまで言われる.ユ
ヴァッラはスカルラッティと同じ庇護者の下で働く,というこ
とが何度もあった人物で,カークパトリックの著書でも詳しく
紹介されている.
64. マヌエル 1 世(Manuel I , 1469 年–1521 年)がポルトガル王
(在位:1495 年 - 1521 年)の時代,同国はヴァスコ・ダ・ガ
マによるインド航路の発見と商業航路開設,またブラジルの発
見とその植民地化等によって経済的に潤い,政治・文化的にも
黄金期を迎えた.宮廷には芸術家や科学者が数多く招かれ,王
室の庇護が与えられた.また,リスボンのジェロニモス修道院
(1551 年)やベレンの塔(1521 年),トマールのキリスト教修
道院(1481 年に回廊を増築)といった華麗な建物が造営され
た.これらには,アフリカ・アジアの珍しい動物,珊瑚やロー
プなど海に関するものをモチーフとした装飾が過剰なほどに施
されており,このポルトガル独自の建築様式は後に 19 世紀に
139
なって「マヌエル様式」と呼ばれるようになった.
65. アズレージョ (ポルトガル語: azulejo)は,ポルトガル・スペ
インで生産される染め付け陶板(タイル).ポルトガルにおけ
る主要な建築装飾であり,教会や宮殿といった公共建築から一
般家屋まであらゆるものに見られる.その起源はペルシャの工
芸まで遡るとされ,イスラム教徒により 15 世紀ごろにスペイ
ンを経由してもたらされた.この工芸は今日に至るまで様々な
様式の変遷を重ねながらポルトガルで五世紀以上にわたり連綿
と続いており,同国を代表する風物の一つである.
66. カークパトリックによれば,スカルラッティは少なくとも 1722
年まではジョアン 5 世の宮廷音楽家として仕事をしていた記
録が残っている.その後については 1755 年の大地震もあって
か記録が残っていない.また,1724 年にはローマに戻ってお
り,その 4 年後の 1728 年にはローマ人夫妻の娘で当時十六歳
だったマリア・カタリーナ・ジェンティーリとローマで結婚し
ている.この間,1725 年にはアレッサンドロがナポリで他界
している.(近年ポルトガルで発見された記録によれば,スカ
ルラッティは 1727 年 1 月から 1729 年 12 月頃まで「病気療
養」としてローマに滞在していたことが明らかになっている.)
スカルラッティがナポリで多くの時間を過ごしたかどうかはと
もかく,この期間に起きた「父親からの解放と独立」が後のス
カルラッティに大きな意味を持っていた,というのがカークパ
トリックの見方である.
140
67. これは興味深い仮設である.そこで訳者はカークパトリックの
著書巻末にあるソナタのカタログでミュンスター手稿(サン
チーニ僧正が蒐集したもの)に含まれるソナタと第一原典(
「練
習曲」,ヴェネチア手稿,その他年代出版あるいは写譜された
年代が分かっているもの)との対応を確認してみた.すると,
ミュンスター手稿と第一原典とが完全に対応しているのはむ
しろ年代が遅いヴェネチア手稿第 X–XIII 巻とパルマ手稿 XV
巻(写譜された年代は 1755 年以後)で,最も初期の「練習曲」
(1739 年出版)三十曲中,ミュンスター手稿に含まれるのは十
八曲,その次に出たロージングレイブによる追加版では対応す
るものが含まれない,など抜けが多いことが分かった.もちろ
ん出版・写譜された年代と作曲年代が同じかどうかは現状では
謎のままだが,少なくともこの状況がサンチーニの集めたソナ
タの作曲年代を主にスペインに渡る前の作品である,とする仮
設を支持しているようには見えない.
68. Pietro Longhi(1701 年–1785 年)イタリア 18 世紀の画家.主
に同時代の日常生活や風俗を描く画家としてヴェネチアで活躍
したことで知られる.
69. Carlo Osvaldo Goldoni (1707 年–1793 年)イタリア,ヴェ
ネチア出身の劇作家,台本作家.前世紀のモリエールの作品を
モデルに,それまでもっぱらコメディア・デラルテの即興仮面
劇として演じられていたイタリア喜劇を劇場にふさわしくより
洗練された形式へと発展させた.また,ガルッピと組んでオペ
141
ラ・ブッファ(喜歌劇)の分野でも新風をもたらした.1761 年
以後はフランスの宮廷に職を得てパリに移り,そのイタリア劇
場のためにフランス語でも少なからぬ作品を残した.
70. Joshua Reynolds(1723 年–1792 年)英国の画家.トマス・ゲ
インズバラとともに 18 世紀の英国画壇を代表する画家として
知られている.まだ二十歳代の 1749 年から 1752 年にかけて
約二年間イタリアに滞在し,古典絵画の巨匠達の作品を研究.
後に「グランド・スタイル」と呼ばれる画風を身につけた.肖
像画を得意とし,生涯に三千人以上とも言われる同時代の著名
人達の肖像を描いている.王立芸術協会の最初期のメンバー
の一人で,それが母体となって 1768 年に発足した王立芸術院
(Royal Academy of Arts)の初代会長を務めた.
71. David Garrick(1717 年–1779 年)英国の俳優,台本作家.劇
場支配人として演劇の興行にも携わり,18 世紀英国の演劇界
に大きな影響を与えた.ジョンソン博士 [註 14)] の弟子で,友
人としても親交があった.
72. スペインのカルロス 2 世(ハプスブルグ家)が 1700 年に他界
後,その王位を継いだのはブルボン家のフランス王ルイ 14 世
とマリア・テレサ(カルロス 2 世の姉)の孫アンジュー公フィ
リップ(フィリペ 5 世)で,以後スペインでは 20 世紀までほ
ぼ絶えることなくブルボン朝の時代が続いた.[ただし,フィ
リップの即位に対してブルボン家の勢力拡大を恐れたオースト
リア・ハプスブルグはイギリス,オランダと連合でスペイン継
142
承戦争(1701 年–1714 年)を起こし,これらの国とスペイン・
フランスとの間で長い戦乱が続いた.ブルボン朝の王位が確定
したのはユトレヒトの講和(1714 年)以後であり,これによ
りナポリ王国はオーストリアに割譲され,1733 年–1735 年の
ポーランド継承戦争でカルロス 3 世が奪回するまでハプスブ
ルグの支配下にあった.] ドメニコがスペインに渡った当時は
ちょうどこのフィリペ 5 世の治世であった.本書の「あとが
き」では,フェルナンド 7 世(1808 年,1813 年–1833 年)他
界後に起きた王位継承を巡る分裂とそれに引き続く内線(カル
リスタ戦争)の記事が見られる.
73. Johann Adorf Hasse(1699 年–1783 年).ドイツ・バロック
後期の作曲家.ハンブルグ近郊出身.ブラウンシュバイク,
リューネブルグの宮廷歌手として出発し,そこで初めて作曲し
たオペラが認められて 1724 年にナポリに留学,ニコラ・ポル
ポラの下で学ぶ.ポルポラとは必ずしもうまくいかなかったよ
うだが,アレッサンドロ・スカルラッティとは良好な子弟関係
にあった.その後ヴェネチア(1727 年–),ドレスデン(1730
年–),ロンドン(1733 年–)と活躍の場を移し(その間ヴェネ
チアで知り合ったプリマドンナ歌手,ファウスチーナ・ボル
ドーニと結婚),1739 年以降再度ドレスデンに落ち着き,1763
年まで宮廷楽長の職にあった.その後しばらくウィーンで活躍
し,最後に妻の生地ヴェネチアに戻ってそこで没した.晩年の
ウィーン時代は丁度モーツァルトの活動時期と重なっており,
143
その才能を高く評価していた言葉が伝わっている.
74. Teodoro Ardemans (原書では Theodore Artemans) スペイン
人の建築家.ユヴァッラの設計に基づいて最初に宮殿の建築を
手がけた.
75. Ferdinando Galli Bibiena(1656 年–1743 年)イタリア・バ
ロック期の建築家,画家.劇場建築からオペラ,祭典の大道
具・小道具,装飾品のデザイン等でヨーロッパ中に盛名を馳せ
たビビエーナ一族の一人.その名前は初代ジョヴァンニ・マリ
ア・ガッリ(Giovanni Maria Galli,1625 年–1665 年,画家)が
フィレンツェ近郊のビッビエーナ(Bibbiena)出身であること
に由来している.フェルディナンドはジョバンニの長子で,や
はり建築家であったフランチェスコの兄にあたる.ボローニャ
で生まれ,カルロ・シニャーニの下で絵画を,ジウリオ・トロ
イリの下で建築を学び,シニャーニの推薦でパルマ公に仕える
とともに,ピアチェンツァのファルネーゼ家の仕事も手がける
ようになった.この間,劇場の書割りのデザイン等で世に知ら
れる.その後一時期,カルロス公(後のカルロス 4 世)の仕事
をしていたが,カルロスが神聖ローマ皇帝に就任後,ウィーン
でフィッシャー・フォン・エルラッハ [註 35) 参照] との競争に
敗れてボローニャに戻っている.その後もマントヴァの王立劇
場の建築等で活躍した.
76. René Frémin(1672 年–1744 年)はフランスの彫刻家.ラ・グ
ランハでは 1738 年まで仕事をし,庭園用の壷や彫刻の製作に
144
あたった.Jean Thierry については詳しいことは分かってい
ない.
77. René Carlier(?–1722 年)はフランスの建築家.ラ・グラン
ハ庭園設計の途中に他界し,その後を引き継いだのが Esteban
Boutelou とされる.
78. Anton Raphael Mengs(1728 年–1779 年)ドイツの画家,ボ
ヘミア出身でローマ,マドリード,ニーダーザクセンで活躍
し,その画風はバロックと新古典主義の境界とされる.画家の
父親に伴われて 1741 年にローマに出,そこでの仕事で画家と
して認められた.1754 年にはヴァチカン絵画学校の校長に任
じられている.ローマではヴィンケルマンとも親交があった.
カルロス 3 世の招請を受けて 1750 年代後半にマドリードに赴
き,その後 20 年近くにわたって滞在する間にここで引用され
た天井画をはじめ彼の作品の中でも最上と言われるものを製作
した.1777 年にローマに戻り,最期は貧窮のうちに没した.
79. Lope de Vega(1562 年–1635 年)スペイン・バロック期の劇
作家,詩人.マドリード出身.スペイン文学の中ではセルヴァ
ンテスに次ぐ重要な地位を占め,生涯に数千とも言われる膨大
な数の戯曲を書いたが,そのうち現在までに伝わっているのは
大小合わせて四百二十五編の作品のみである.早熟で,十二歳
の時には既に四幕物の戯曲をものしたとされる.マドリードで
イエズス会の王立学院に学ぶ傍ら戯作を続け,現存する最初の
戯曲「ガルシラソの偉業」(1579 年)を書いている.学業の途
145
上でポルトガルとの戦争に兵士として出陣し,その後アヴィラ
司教に拾われてアルカラ大学を卒業,庇護者と同じ僧職の道を
目指すも,当時台本を書いていた劇団の座長の娘で人妻の女優
エレナ・オソリナと恋愛関係になるなど,僧職とは縁遠く波乱
に富んだ「バロック的」人生を送ることになる.スペインが大
敗を喫したアルマダの海戦(1588 年)では九死に一生を得て
生還,トレドでアルバ公爵に仕えるなどした後 1595 年にマド
リードに戻り,以後もその地で起伏の多い人生を送りながら劇
作家として活躍した.
80. Luca Giordano(1634 年–1705 年)イタリア・バロック後期の
画家,版画家.ナポリ出身,リベラ,ピエトロ・ダ・コルトー
ナの下で修業を積み,ナポリ,フィレンツェで活躍.その筆致
の速さから「速描きのルカ(Luca Fá-presto)」とあだ名され
る.スペインのカルロス 2 世の招請を受けて 1692 年から十年
ほどマドリードで宮廷画家として仕えた.その間,ブエン・レ
ティロ以外にもマドリードの王宮,エスコリアル宮,トレドの
離宮などの装飾を手がけている.その色彩豊かな画風はヴェロ
ネーゼの装飾性とコルトーナの「グランド・スタイル」を融合
させたものと評され,スペインで高い人気を博した.また,後
のティエポロに似ていることからティエポロの先駆けとも言わ
れている.
81. Saint-Cyr はマントノン夫人が創建した学校で,名門の出なが
ら経済的に恵まれない女子のための教育機関であった.ルイ
146
14 世の後援を得て,サン・ドニ修道院からの基金を元に運営さ
れた.マントノン夫人はこの学校で指導者としても大きな役割
を演じた.ルイが亡くなる前後の 1715 年にはここに隠棲し,
そのまま 1719 年に没した.
82. このスカルラッティのダブリン訪問について,カークパトリッ
クは著書の註で,いかなる証拠からも正当化されないと述べて
いる.この説の元になっているのは,W. H. Grattan Flood の
論文「ドメニコ・スカルラッティのダブリン訪問,1740–1741
年」
(Musical Antiquary, I, 1910 年, pp. 178-181 )であるが,
カークパトリックによると当時英国ではドメニコの叔父にあ
たるフランチェスコ・スカルラッティが活動しており,これ
が同姓による混乱の原因になったのだろうとしている.(パス
ティッチョ・オペラに歌を提供したのもこの叔父であったとさ
れる.)
83. Salvatore Rosa(1615 年–1673 年)イタリア・バロック期の
画家,詩人,ナポリ出身で,ローマ,フィレンツェでも活躍し
た.ローマではクロード・ロランとの知遇を得ている.その主
要な表現手段は絵画であったが,その他にも音楽家,詩人,台
本作家,版画家などの顔を持ち,諷刺詩で名をなすなど多彩な
才能の持ち主であった.絵画では特に風景画が高い評価を受け
ている.
84. オルガン点とも言う(音楽用語).バスの持続音で不定長,そ
の間上の声部の和声は自由に変転し展開されていく,という意
147
味では一種の非和声音を形成する.その名の由来はパイプオル
ガンのペダル鍵盤(足で弾く)の曲中に比較的多かったことか
ら来ている.
85. ロンゴ版のスカルラッティ全集では,ソナタはロンゴによる
「様式的」な分類に基づいた番号付けがなされており,後にカー
クパトリックがソナタの出版,あるいは写譜された年代順に並
べ直した番号付けと大きく異なっている.ロンゴ版はその分類
の基準の曖昧さに加え,彼によって加えられた数多くの「修正」
が原典の姿を歪めるものとしてカークパトリックの厳しい批判
の対象になっており,現在ではスカルラッティのソナタはカー
クパトリックが付けた番号で呼ばれることがほとんどである.
(しかしながら,最初にほぼ全曲を出版したというロンゴの功
績に敬意を表し,ロンゴ番号が併記されることも多い.)ただ
し,スカルラッティのソナタについては自筆譜が一切残ってい
ない,という極めて特異な事情から,カークパトリック番号で
すら実際の作曲年代順と対応している証拠はなく,この点は常
に考慮しておく必要がある.
86. ファンダンゴとはフラメンコの一種.そもそもフラメンコ自体
が成立したと考えられているのが 18 世紀末で,その名(「フラ
ンドルの音楽」の意)を冠して呼ばれるようになったのは 19 世
紀も半ば以降とされている.フラメンコはスペイン南部,アン
ダルシアに起源を持ち,そこでジプシー(ヒターノ)
,改宗ムー
ア人,スペイン系ユダヤ人の文化的混交物として生まれたと考
148
えられており,最近の研究ではアフリカやキューバの民族音楽
の影響も指摘されている.スカルラッティが生きていた 18 世
紀はフラメンコがちょうど祝祭行事として発展しつつあった時
期にあたる.ファンダンゴ自体は三拍子系の歌唱を伴う舞踊
で,特にジプシー音楽からの影響が強い.スカルラッティの作
品でその影響が指摘されるものとしては例えばソナタ K. 492
などが挙げられる.
87. カークパトリックによれば,スカルラッティは 1757 年 7 月 23
日にマドリードのレガニトス通りにあった自宅で亡くなり,聖
ノルベルト修道院(1845 年に取り壊されて現存せず)に埋葬
されたことが分かっている.彼が晩年にナポリに戻ったという
この章の記事はある種の空想として読まれるべきものだろう.
88.「ドイツにおける音楽の現状」,Vol. I, pp. 247-249.
89. 原書が出版された当時,彼の肖像として現在よく知られている
ドミンゴ・アントニオ・デ・ヴェラスコによる油彩画は所在不
明になっており,それを基にして 1867 年に作られたリトグラ
フ(アルフレッド・ルモアーヌ作,本書の口絵)がその一部分
を伝えるのみであった.カークパトリックは,ヴェラスコによ
る半身像を基に,スカルラッティが晩年に肥満になったという
バーニー博士の記述に疑念を呈している.一方,バルバラ王女
がその晩年に極端な肥満体になったことは残された肖像画から
も明らかで,スカルラッティがこちらに配慮した可能性も指摘
されている.
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90. John Keats(1795 年–1821 年)英国ロマン派の詩人.寓意叙
事詩「エンディミオン(Endymion, 1818 年)」,ミルトン風無
韻詩による哲学的叙情詩「ハイペリオン(Hyperion,未完)
」等
で知られている.結核を患い,1819 年頃からローマで療養す
るも病状は好転せず,二十五歳で夭折した.
91. George Cruikshank(1792 年–1878 年)19 世紀英国の著名な風
刺画家,挿絵画家.スコットランドの著名な風刺画家アイザッ
ク・クルックシャンクの息子としてロンドンに生まれ,幼時よ
り兄とともに父親の手伝いをしながら技術を学んだ.1810 年
代には政治や世相の諷刺で名を馳せ,1820 年代以降は挿絵画
家としても活躍.
92. ポープによって書かれた擬似英雄詩.1712 年に二部からなる
初版が出版され,1714 年には五部に拡張されたものが再版さ
れた.ポープの知人にまつわる事件を題材にし,それを諷刺す
るために書かれたもので,出版後大いに人気を博し,彼の出世
作ともなった.
93. この一節は本書中の白眉であるが,一面において当時の流行で
あったアンリ・ベルグソンの思想(例えば「創造的進化」を参
照)を彷彿とさせるものがある.
94. Marie-Catherine Le Jumel de Barneville, Baronne d’Aulnoy
(1650/ 1651 年–1705 年)フランスの作家.自らの作品を「con-
tes de fée (fairy tales,おとぎ話)」と呼んだことから,この
文学ジャンルの創始者の一人と見なす向きもある.ただし,そ
150
の内容は同時代人のシャルル・ペロー(1628 年–1703 年)に
よる民話に取材した「童話」とは大分趣を異にし,幻想談や空
想冒険談を会話体で記したもので,ここに引用の「スペイン紀
行」以外にも英国を舞台にした作品が知られている.
95. ナポリの北にあるコムーネの一つカゼルタにある王宮.宮殿の
建設は当時ナポリ王だったカルロス 3 世の命により,新たに
行政上の壮麗な首都を作るべく 1752 年に始められた.ルイー
ジ・ヴァンヴィテッリの指揮の下,ヴェルサイユを念頭に造営
が進められたが,1759 年にカルロスはスペイン王位についた
ため三男フェルナンドに引き継がれ,1780 年にようやく完成
を見た.その規模は部屋数千二百室と二十四の庁舎に劇場まで
付属するという壮大なもので,1996 年にはユネスコ世界遺産
にも登録されている.
96. Violet Gordon-Woodhouse (旧姓 Gwynne,1872 年–1951 年)
英国のハープシコードおよびクラヴィコード奏者.20 世紀前
半に起こった古楽器復興の動きの中にあって,特にこれら二つ
の楽器の流行に大きな役割を果たしたことで知られている.一
方で,夫以外に四人の男性と一つ屋根の下で暮らす「五角関係」
が知れ渡るなど,その私生活は醜聞の種ともなった.
97. カルロス・マリア・デ・ボルボーン・イ・アウストリア=エス
テ(Carlos Marı́a de los Dolores Juan Isidro José Francisco
Quirin Antonio Miguel Gabriel Rafael de Borbón y AustriaEste, 1848 年–1909 年)ブルボン家のスペイン王位およびフラ
151
ンス王位要求者.カルリスタの王としてはスペイン王カルロス
7 世,フランス王としてシャルル 11 世(Charles XI)を自称
した.
ここで少し先回りして本節の話題であるカルリスタ戦争につい
て紹介しておこう.ナポレオン戦争の後,ウィーン体制下のス
ペインではブルボン家のフェルナンド 7 世が王位にあったが,
フェルナンドには息子がおらず,子供は四度目の結婚でようや
く得た幼いイサベル王女のみであった.サリカ法典を基礎とし
た「王位継承法」では次の王は弟のドン・カルロスになるはず
であったが,フェルナンドは 1830 年にサリカ法を廃し,ドン・
カルロスをポルトガルに追放するとともに,イサベルを王位継
承者とした.1833 年にフェルナンドが没してイザベルが即位
(イサベル 2 世)すると,ポルトガルではドン・カルロスも即
位を宣言してカルロス 5 世を名乗り,これを支持する北部農村
部とカタルーニャの民衆が反乱を起こして内戦状態になった.
「カルリスタ」とは「カルロス支持派」の意味で,ここからカ
ルリスタ戦争と呼ばれる.カルロス 5 世による戦争は第一次カ
ルリスタ戦争と呼ばれ,結局カルロス 5 世側の敗北に終わった
が,その後も内戦状態は続き,規模の大きな戦争としては三回
に及んだ.本節で登場するドン・カルロス(カルロス 7 世)は
第三次カルリスタ戦争 [本書では第二次となっているが,通常
は 1846 年から二年あまり続いたカタルーニャ蜂起(カルロス
6 世を担いだ)を第二次カルリスタ戦争と呼ぶ] の主役である.
152
98. Isabel Francisca de Borbón y Borbón(1851 年–1931 年)女
王イサベル 2 世と王配フランシスコ・デ・アシースの長子,弟
が後のアルフォンソ 12 世である.本書出版当時のスペイン王
はその息子アルフォンソ 13 世で,彼女はその叔母にあたる.
1868 年,両シチリア王家のジルジェンティ伯ガエターノ(フェ
ルディナンド 2 世の四男)と結婚.ガエターノはイサベルの両
親といとこ同士で,精神不安定の症状を抱えており,1871 年
にルツェルンで自殺した.自身は共和制成立で王家がフランス
へ亡命した 1931 年にパリで他界.
99. アルフォンソ 13 世(Alfonso XIII, 1886 年–1941 年)前述の
アルフォンソ 12 世の息子.ちなみに,スペインの正統派王は
イザベル 2 世–アルフォンソ 12 世–アルフォンソ 13 世と続い
たのに対し,その間カルリスト側はカルロス 5 世–カルロス 6
世–ファン 3 世–カルロス 7 世(本節のドン・カルロス)–ハイ
メ 3 世–アルフォンソ・カルロス 1 世(本節のドン・アルフォ
ンソ・カルロス)と続いた.現在のスペイン国王ファン・カル
ロス 1 世(1938 年–)はアルフォンソ 13 世の孫にあたる.
100. Alfonso Carlos de Bourbon, Duke of San Jaime(1849 年–
1936 年)アルフォンス・シャルル 1 世(Alphonse-Charles I)
として相続権上のフランス王位要求者であり,またアルフォン
ソ・カルロス 1 世(Alfonso Carlos I)としてスペイン王位要
求者でもあった.妻はポルトガルのマリア・ダス・ネヴェス王
女(Infanta Maria das Neves,本書では Nieves)
.本書刊行の
153
翌年に他界した.二人の間に子供はなく,カルリスト(スペイ
ン王位の要求者)はパルマ公ザビエルに引き継がれた.
101. エベンツヴァイエルはザルツブルグから東に六十キロメート
ルほどのところにあるトラウン湖(Traunsee)湖畔の小都.
夏場のリゾート地としても知られている.フロースドルフは
低地オーストリア(同国東端)にあるランツェンキルヒェン
(Lanzenkirchen)という村にある城(Schloss Frohsdorf)で,
現在は同国郵政公社の所有になっている.
102. Henri Charles Ferdinand Marie Dieudonné d’Artois, Comte
de Chambord(1820 年–1883 年)フランス王シャルル 10 世の
孫にあたり,支持者たちから「アンリ 5 世」と呼ばれた.1871
年に普仏戦争敗戦を受けて第二帝政が崩壊し,選挙の結果王党
派が議会の多数を占めたことから彼のフランス王即位が確実な
情勢となっていたが,議会で白旗(フランス王国旗)を棄てて
三色旗(フランス革命時に制定)を国旗として受け入れること
を求められてこれを拒否したため結局即位はならず,政治体制
は共和制(第三共和制)へと引き継がれた.
103. ここで言及されているのは 1745 年のジャコバイトによる最
後の反乱で,僭王とはスチュワート朝ジェームス 2 世の息子
チャールスを指す.
104. 今日のフランス料理の原形がアンリ 2 世(1519 年–1559 年)に
嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスによってイタリアから持ち
込まれたことはよく知られている.それ以前のフランス宮廷料
154
理は古代ローマ風の宴会料理のようなもので,大皿に盛られた
料理を一度にテーブルに並べていたとされる.
105. ドン・アルフォンソ・カルロスが他界して五年後の 1941 年に
妻のマリア・ダス・ネヴェスもウィーンで亡くなっている.
155
訳者解題
本書の著者,サチヴェレル・シットウェル(Sacheverell Reresby
Sitwell,1897 年–1988 年)は英国生まれの詩人・作家である.姉は詩
人として著名なイーディス(Edith Sitwell,1887 年–1964 年),兄は
作家として名を成したオズバート(Osbert Sitwell,1892 年–1969 年)
で,彼らは一時期(およそ 1915 年–1925 年頃)小さな文学グループ
「シットウェルズ(The Sitwells)
」として活躍し,E. M. フォースター
や V. ウルフらのブルームベリーグループと並び称される時代もあっ
た.日本でも姉のイーディス・シットウェルについては早くから紹介
され,ある程度知名度もあるようだが,二人の弟については英文学の
専門家以外にはほとんど知られていないのではなかろうか.実際,彼
らの作品で邦訳されたことがあるのはサチヴェレルの「Mozart」(邦
題「楽聖モツアルトとその作品」,岡澤武訳,1943 年,大陸通信社)
のみである.
サチヴェレルは初め詩人として出発し,姉イーディスの励ましも
あって彼女が主宰する雑誌「Wheels」に詩を寄稿する傍ら姉達の芸術
活動に協力したりしていたが,処女出版詩集が批判に晒される一方で
芸術批評「Southern Baroque Art」
(1924 年)が高い評価を得たこと
もあって,その後作家に転じている.美術・建築評論,紀行文,評伝
など多岐なジャンルに渡って多くの著作があり,その中には本書以外
に音楽家の評伝として上述の「Mozart」
(1932 年)と「Liszt」
(1934
年)の二巻が知られている.本書が 1935 年出版であることから,わ
156
ずか数年ほどの間にモーツァルト,リスト,スカルラッティと三人の
大音楽家の評伝をものしたことになる.本書はその中で最も小規模な
著作であるが,その影響力は小さくなかった.何故なら R. カークパ
トリックが彼の大著「ドメニコ・スカルラッティ」に取りかかるきっ
かけを作ったのは紛れもなく本書だったからである.カークパトリッ
クはその序文で「シットウェルの小著に刺激を受けた」ことを明言し
ており,実際にも彼の著作でスカルラッティの伝記的部分を扱った前
半は本書を補完し,さらなる肉付けを施したものと言っても過言では
ないだろう.訳者が本書の原書を手にした理由も,あの名著の先触れ
となった著作がどんなものであったかを知りたいという好奇心からで
あった.
シットウェルに原書の執筆を促したきっかけが,ちょうどスカル
ラッティの生誕二百五十周年という節目の年での記念イベントにとい
うことであったことはその副題からも明らかだが,彼自身が元々スカ
ルラッティに対して強い興味と親近感を持っていたことは本書を一読
すれば直ちに了解できるであろう.カークパトリックはその後十数年
に渡る空前の博捜によってスカルラッティの生涯に関する周辺事実
をかき集め,スカルラッティの人物像に迫るというシットウェルの意
図をさらに発展させたと言えるが,シットウェルの著作自体はむしろ
18 世紀ヨーロッパというより広い視点での時代背景を読者の前に再
現して見せることに力点を置いており,その意味ではカークパトリッ
クの著作と相補的な関係にある.ちなみに,本書はドメニコ・スカル
ラッティに関するモノグラフとしては二冊目(これに先行したのはド
157
イツの W. ゲルシュテンベルクによる 1933 年の著作)だが,作家に
よる一般読者向けの評伝としては恐らく最初の著作である.
ところで,ドメニコ・スカルラッティといえば「鍵盤音楽の大家」
として名前だけは本邦でも広く知られているが,それとは裏腹に彼の
作品が実際に演奏される機会は実に希であり,たとえ取り上げられた
としても Essercizi 中の作品をはじめ一握りの有名な作品ばかりであ
る.「よく検討された一群のスカルラッティの作品が音楽会のプログ
ラムで取り上げられるといったことは皆無であるように見える」とい
う状況は今日でも変わりがない.思うにその大きな理由の一つは,彼
の作品が真の魅力を発揮するためにはハープシコードという楽器を必
要とするからだろう.ピアノという楽器なしにショパンの音楽を想像
出来ないのと同じく,ハープシコードの響きなしにスカルラッティの
音楽の魅力を理解することは難しい.(現代のピアノで弾いても魅力
的な曲は確かに存在するが,ハープシコードの音になった時の響きと
は別次元のものである.)実は訳者も自身でハープシコードを弾くよ
うになる以前は,バッハやラモーと比べて特にスカルラッティの作品
に興味があるというわけではなかった.ところが自分の楽器を持って
触れ始めた途端,彼の作品の虜になってしまったのである.その音響
世界はさながら万華鏡の如く,ハープシコード=古楽器という固定観
念にも似た常識を完全に覆す.スカルラッティのソナタというレパー
トリーがある,というだけでも,ハープシコードがピアノと同じよう
に,しかもピアノとは全く別の楽器として,もっと広く世の中に普及
する価値がある,と真面目に考えているのは訳者だけだろうか.
158
それにしても本書を読みながらつくづく感じたのは,21 世紀の日本
を生きる我々にとって 17–18 世紀のヨーロッパという世界が如何に
遠い存在であるか,ということである.ルネッサンスを生んだ 15–16
世紀がしばしば脚光を浴びることに比べ,バロック芸術やその背景と
なったヨーロッパ社会の具体的な姿が日本で紹介される機会はそれ
ほど多くはない.それは我々が幼少時に聞かされた外国の「おとぎ話
(空想)」の世界でしかなく,あるいは単に知識としてある世界,「市
民(=ブルジョワ)革命」によって消え失せた「アンシャン・レジー
ム」の世界である.我々は普段「バロック音楽」を聞きながら,その
背景世界と今日の間に大きな断絶が横たわっていることを意識した
りはしない.シットウェルは哀惜を込めてそれを「歴史上最も奥まっ
た趣味の小部屋」と呼んでいる.彼が描き出す「音楽の都ナポリ」や
「真新しいローマ」は訳者にとって新鮮な驚きに満ちた世界であった.
だが,スカルラッティが生きていたピレネー山脈の向こう,イベリア
半島の国々ではそれらにも増して不思議な世界が繰り広げられてい
た.本書の「あとがき」からは,執筆当時の 1935 年頃においてもス
ペインでは 18 世紀的世界の残光がいまだきらめいていたことが知れ
る.当時のヨーロッパはちょうどヒトラーが世界恐慌後の社会情勢の
不安定化に乗じて政権を奪取したところで,あの破滅的な世界戦争へ
大きな一歩を踏み出そうという暗い時代でもあった.そのような世相
にあって,シットウェルがスカルラッティの生きていた世界に諦めに
も似た郷愁を抱いていたであろうことは想像に難くない.
本書は今から七十年以上も前の著作であり,同時代へのメッセージ
159
という点ではややアクチュアリティが減殺されている部分もあるが,
ドメニコ・スカルラッティの音楽を愛する者にとっては依然として彼
の生きていた世界とその音楽への案内役を果たしてくれる手頃な本で
ある.スカルラッティについて日本語で読めるまとまった著作が文字
通り皆無という現状を憂う彼のファンとして,本訳書が少しでもそれ
を好転する役に立てばと希望する次第である.
偉大な音楽家にしてドメニコ・スカルラッティの学徒,スコット・
ロス没後二十年の春に,
2009 年 3 月 訳者記
160
[翻訳者プロフィール]
門野良典(かどのりょうすけ)
1958 年生まれ.東京大学理学部卒.同大大学院博士課程中退.
現在,高エネルギー加速器研究機構教授.
(総合研究大学院大学教授,筑波大学客員教授を併任.
)
専門は物理学(理学博士).
趣味でピアノ,ハープシコードを弾く.
サチヴェレル・シットウェル
ドメニコ・スカルラッティの背景 訳者—門野良典 ([email protected])
〒305-0044 茨城県つくば市並木 4-8-39
http://www2.accsnet.ne.jp/∼rkadono/
私家版—2009 年 12 月 1 日
印刷—松枝印刷株式会社 c by Ryosuke KADONO
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