19 大平正芳政権の対外政策 ――デタントと新冷戦の狭間で、 マルチラテラルとバイラテラルの追求―― 小川 祐介 (赤木研究会4年) ! 序 説 1 大平政権の外交政策 2 問題意識――この論文で明らかにしたいこと " 国際システム 1 国際環境の変化――デタントから新冷戦へ 2 太平洋周辺諸国――対日関係を中心に # 国内政治(1)立法府 1 国内政治の環境 2 野党の動き 3 自民党内の動き $ 国内政治(2)行政府 1 省庁の姿勢 2 官邸主導型政策形成の試み % 国内政治(3)民間――財界 & 総理大臣大平正芳 大平正芳の人となり 2 大平の政策思想 ' 1 結 論 20 政治学研究4 1号(2 0 0 9) ! 序 説 1 大平政権の外交政策 昭和5 3(1 9 7 8)年1 2月1日日比谷公会堂。ここで、大平正芳が第9代自由民主 党総裁に選任された。そして内閣総理大臣に就任することになる。 大平は、自分がどういう政策をやるかということをはっきりさせてから総理に なりたいという思いを持っていた1)。そのため、大平は勉強会を設置し、学者や 官僚を集め、政策を形成し、 『大平正芳の政策要綱資料』としてまとめた。総理 大臣になった後、これを元につくられたのが、九つの研究グループである。この 研究グループを使って、長期的な政策を立案しようとしたのだ2)。 その一つが猪木正道教授を座長とする総合安全保障研究グループである。 この総合安全保障という考えは、総裁選挙に立候補するにあたって出された 「一つの戦略、二つの計画」の戦略にあたるものである。総合安全保障論とは、 「集団安全保障体制」(日米安全保障条約と節度ある質の高い自衛力の組み合わせ)を 柱とし、それを補完するものとして、経済・教育・文化等の内政を充実させると ともに外交努力を行い、国内外に信頼を醸成するというものである。 そして、その安全保障と並ぶ外交の大きな柱の一つが、総合安全保障研究グ ループとともに発足した環太平洋連帯研究グループによって研究がなされた、環 太平洋連帯構想である。大平は、太平洋を「内海」とする諸国によるマルチラテ ラルな関係を構想していた。これは、二国間外交から多国間外交へ、全世界的な 問題に対処するという質的な変化が起こったのであり3)、消極外交から積極外交 へと足を踏み出したのである。またこれは、当時最大のイシューであったエネル ギー不足に対応するための資源供給源の確保という面もあった。 この二つが大平政権発足当初からの長期的な外交政策といえよう。 その一方で、世界はデタントから新冷戦と大きく環境を変化させてきていた中、 大平は、日本の首相としてはじめて、アメリカとの関係を「同盟」と公の場で口 にした4)。これはアメリカとのバイラテラルな関係を強化しようとしているとい えよう。大平が「同盟」を口にしたのは、米国のリーダーシップの重要性を指摘 するとともに、対米関係を良好に維持することを西側の一員として目指したもの であるといえる。 以上三点が、大平政権における長期的外交政策の大きな柱であり、本稿では、 21 これらを研究の対象とする。 2 問題意識――この論文で明らかにしたいこと 本稿が明らかにしたいのは、大平政権の大きな外交戦略の形成がどのようにな されたのかである。そのため、政策相互の関係や政策に影響を与えたアクターや 要素を分析する。 その手法として本稿では、ケネス・ウォルツの3レベル分析5)を参考にする。 つまり、日本をとりまく国際システム、日本という国家、大平正芳個人の三つに 大きく分けることで、三つの政策に対して、それぞれどのように影響を与えたか 分析する。 一つ注意しておきたいのが、ウォルツが戦争の原因を分析するのに三つのイ メージによる分析を行ったのに対して、本稿では日本での一時期の平時における 外交政策を分析する。したがって、ウォルツの分析枠組みはあくまで援用にとど まる。 ! 国際システム 1 国際環境の変化――デタントから新冷戦へ (1) デタントの終焉と新冷戦へ デタントといわれる米ソの緊張緩和が進んだ1 9 7 0年代前半。それも1 9 7 0年代半 ばを過ぎるとその様子が変わってきた。デタントの目標が不明確であったことや、 米ソのデタントの認識がずれていたために、徐々にデタントは行き詰ることとな る6)。 さらに、ソ連が勢力圏の伸長、軍事力の拡大を進めていくことでデタントの退 潮が明らかになっていく。パリ和平協定を結んだ後、ソ連は北ベトナムに援助を し、サイゴンが陥落することになる。さらには、1 9 7 5年秋から1 9 7 6年にかけてア ンゴラ内戦にキューバ兵を派遣する。その他、クーデターや紛争に間接的に影響 を及ぼすことになる。 これら間接的な脅威に対し、直接的脅威となったのは、ソ連の SS2 0の東欧配 備である。これによって、西欧諸国はソ連の核の脅威に現実的にさらされること になった。これに対して西欧諸国はアメリカをなんとしてでもヨーロッパに引き 込もうとする。このため、ヨーロッパでは再び米ソが対峙せざるを得なくなるの 22 政治学研究4 1号(2 0 0 9) である。 さらに、日本にも関係があることとしては、1 9 7 9年1月には国後、択捉両島に ソ連軍が駐留していることを防衛庁が確認したことがある。ソ連の南下も、兵器 の拡充に止まらず、日本付近への駐留というところまで来ると、さすがに危機感 が高まるのは避けられない。 このように、ソ連の西側諸国に対する脅威はより直接的になっていく。これに より、東西の緊張関係は高まることになるのである。この雰囲気の中デタントか ら「新冷戦」へと時代の認識が移り変わっていくことになる。その認識の表れと して、1 9 7 6年2月1 6日フォード大統領が「もうデタントという言葉は使わない」 9 7 8年3月1 7日に と明言したことが挙げられよう7)。また、カーター大統領は、1 ウェークフォレスト大学における演説で「ソ連側には軍事力を行使しようとする 不吉な傾向がある」と述べ、 「このような変化に対応するため、われわれは外交、 経済、軍事の面で十分な対策を持ち続けなければならない」と説いた8)。すでに デタントは終わろうとしていたのが1 9 7 0年代後半であったのである。 そして、この緊張関係が頂点に達したのが、1 9 7 9年1 2月2 7日のソ連軍によるア フガニスタン侵攻である。これはソ連軍自身による直接的勢力拡大であり、軍事 侵攻である。今までとは異なるこのソ連のアプローチによって、米ソの関係は再 び冷戦状態となることが確固としたものとなるのである。 このような環境にあって、かつてのような全方位外交が難しい状態にあって誕 生したのが、大平政権であり、その間に、デタントにピリオドが打たれる事件が 起こったのである。今まで以上に軍事的安全保障に気を配らねばならない状況に、 大平政権は置かれたのである。 (2) 米国単独のシステムの終焉 デタント期における大きな変化は、アメリカ単独のシステムに陰りが見えたこ とである。それまでは、アメリカとソ連の二極であり、西側諸国はアメリカ一国 が庇護するような状況になっていた。 しかし、米ソの核パリティが達成され、米ソ間にある種の平等な関係が出来上 がった。それに加えて、ベトナム戦争における戦費が膨大であったことなどから、 アメリカの余裕はなくなったといえる。さらに、金ドル兌換停止というニクソン ショックにより、アメリカの金融パワー9)も減衰してしまった。 そのため、アメリカの力は絶対的にも相対的にも低下することとなり、西側同 23 盟諸国は今までのようにアメリカに頼るばかりではいられなくなり、己のことは 自ら対処しなければならなくなってしまったのである。 これはもちろん日本にも大きな影響を与えた。デタントによって緊張が弛緩し、 秩序が動揺し、不安定感が生まれたため10)、新たな枠組みを作る必要が生まれる。 しかしながら、それを今までのようにアメリカに頼りっきりにするわけにはいか なくなったのである。日本は少なくともアジア・太平洋における新たな枠組みを 構築する努力をする必要に迫られたのである。そのために今までの消極的外交か ら積極的外交に転換せざるを得なくなったのである。 (3) パワーポリティクスに足を踏み入れた日本 パワーポリティクスから一歩離れたポジションを維持しようとしてきた日本外 交であるが、1 9 7 8年に締結された日中平和友好条約によって、パワーポリティク スに足を踏み入れることになった11)。 この条約には「反覇権条項」と言われるものがある。これは第二条「両締約国 は、いずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても 覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいか なる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する」というものである。 この反覇権はソ連を対象にしたものではないと日本は主張するが、中国は明らか にソ連をその対象としているのであり、米中ソの三国によるパワーゲームの一端 を日本も担うことを強いられるのである。このように、日本は日中平和友好条約 締結によって米中ソ三大国のパワーポリティックスに足を突っ込んだ以上、全方 位外交は難しくなったと考えるべきである12)。 したがって、日本は全方位外交に代わる外交方針を打ち出さねばならず、より 積極的、能動的な外交政策の実施が求められることとなる。さらに、バランス・ オブ・パワーの観点から見れば、米中かソのどちらかの陣営につく必要がある。 米ソのどちらをとるのか、日本は選択を迫られているのである。 2 太平洋周辺諸国――対日関係を中心に (1) アメリカ アメリカは、二と二分の一戦略から、一と二分の一戦略への転換をはかった。 前者は、二箇所で大きな戦争を戦い、一箇所の中規模戦争に対処するというもの である。これはソ連を仮想敵とし、欧州、アジアでの二箇所と中東をその対象地 24 政治学研究4 1号(2 0 0 9) 域としている。これがベトナム戦争の疲弊から、一と二分の一戦略となる。アジ アはその対象からはずれたのだ。 こうしたアメリカの戦略の転換から、アジアでアメリカが担っていた役割を日 本が肩代わりしなくてはならなくなる。そうすることで、 「日本の自衛努力の改 善によって、米軍は、たとえば日本から遠く離れた地域、特にインド洋における 日米の海上交通路の防衛のようなほかの重要な任務に一層の関心を振り向けるこ 1 3) とができるようになろう。 」 これに加えて、ソ連の軍事力強化の認識が広まったことでアメリカは日本に軍 備強化を求めることになる14)。日本の防衛政策に積極的な評価をしている軍や国 防総省15)に対して、アメリカ議会は日本の軍備支出の低さを問題視していた。こ の背後には、ソ連の脅威に加えて対日貿易赤字の深刻化がある16)。 1 9 7 9年秋頃、日本の予算策定が行われる時期には、国防総省関係者から日本の 防衛力増強要求が出てきた。例えば、1 9 7 9年1 0月2 0日に来日したブラウン国防長 官は「 『日本の防衛費は米国、欧州諸国に比べるとまだ少ない』と述べ、間接的 1 7) のだ。 表現で防衛費増額を要請した」 これが1 9 7 9年のソ連のアフガニスタン侵攻を期に、国防総省に加えてかねてか ら日本の防衛力増強には反対していた国務省までが日本の防衛力増強を要求する ようになる。防衛力整備計画の達成要求をはじめ、1 9 8 0年5月の大平首相訪米時 には、カーター大統領から「中期業務見積もり」の繰上げを要請された18)。中期 業務見積もりとは、 「防衛計画の大綱」を達成するための防衛庁の内部資料であ る。政府計画でもないこの資料の早期作成を要請されるというのは、アメリカ側 からの並々ならぬ要請であることを物語っている。 自由主義諸国は、日本に対して「西側の一員」として目に見える形での貢献を 期待し始めていた。 「7 8年5月に渡米した福田にブレジンスキー特別補佐官はし 1 9) し きりに、 『大国となった日本は、太平洋地域で責任を果たすべきだ』と強調」 たという。そうした要請に対応するものとして、環太平洋連帯構想はアメリカ側 にとって受け入れやすいものであった。これは前述の一と二分の一戦略に関係す るのだが、国務省の委託を受けたブルッキングス研究所が太平洋地域の経済に焦 点をおいて研究したものによれば、 「アメリカは力点を NATO・中東に置き、ア ジアに手を回す余裕がなくなっているだけに、その穴埋めを太平洋地域国家で相 2 0) を考えていた。また、1 9 7 9年7月に出 互負担し、相互防衛を行おうとの戦略」 されたアメリカ議会のパンフレットである「太平洋地域経済機構に関する報告 25 書」が作られて以来、アメリカでも環太平洋連帯についての議論が盛り上がって いた21)。 さらには、日本が「環太平洋演習(リムパック)」に参加したことで、ANZUS (オーストラリア・ニュージーランド・米3国相互安全保障条約)に日米安保が重な りあうことで、軍事的意味でも太平洋地域でのアメリカの負担が小さくなること が見込まれる。ただ、このようなアメリカを包含している体制をアメリカは望ん でいるようである。というのは、 「米国の対日安全保障コミットメントに対する 日本人の信頼感が低下し続ける場合には、 」 「独自のかつ全面的な再軍備への動き が出てくる可能性があ」り、 「日本と中国を含む他のアジア諸国との軍事的つな 2 2) という危機感も同時にもっていたからであ がりの強化への動きが考えられる」 る。 このようにアメリカはアジア・太平洋地域における日本のプレゼンスの向上を ある程度望む姿勢にあり、日本が総合安全保障や環太平洋連帯構想などでそれに 応えるとともに、日米を「同盟」と明言したことで、軍事的意味も含めて日本と の関係が良好であることを確認しているように思われる。 (2) ソ 連 ソ連は1 9 7 0年代後半において、前節に書いたようにアグレッシブに動いてきた。 日本がその脅威の対象になるものとしては、ベトナムからの基地利用権獲得23)、 国後、択捉の駐留、航空母艦ミンスクや揚陸強襲艦イワン・ロゴフのウラジオス 0の極東配備25) トック回航24)、爆撃機バックファイアや中距離弾道ミサイル SS2 などがあげられる。これらは日本に対して極めて大きな軍事的脅威を与えている。 さらに、1 9 7 9年1 2月2 7日にはアフガニスタンに侵攻し、日本のソ連脅威論を飛 躍的に高め、防衛力拡大の流れをつくることになる。さらには、ソ連を敵視する ことになり、全方位外交のような外交から、対ソ強硬外交という色合いが濃くな る。 (3) オーストラリア 1 9 7 3年、イギリスは欧州共同体に加盟した。このことでオーストラリアは新た な一歩を踏み出さねばならなくなった。というのは、今まで英連邦の一国として、 イギリスへの依存度が高かったわけであるが、イギリスが欧州共同体に加盟した ことで、英連邦の紐帯が弱まることが懸念された。元々北半球の動きからの疎外 26 政治学研究4 1号(2 0 0 9) 感26)を持っていたオーストラリアにとってこれは大きな問題であった。そして、 何とかして日米欧の枠の中に入っていきたいと強く願うようになったのである。 ここにオーストラリアにとっての日本の重要性が出てくる。 日本にとってのオーストラリアとはいかなるものなのか。日本はオーストラリ アに資源・食糧を中心とした経済安全保障を依存している。 「もしオーストラリ アが日本への資源・食糧供給を制限するといえば、日本経済は石油ショックと同 2 7) と言われるほどである。日本にとっ 様のショックをうけることになるだろう」 てのオーストラリアは、資源の輸入相手国であるとともに、工業製品の輸出相手 国でもある。例えば自動車は、アメリカに次ぐ二番目の輸出相手国である28)。 その一方、オーストラリアにとっての日本はどうであろうか。オーストラリア からアジアを見るとき、そこには「北からの脅威」というアジア像がある29)。特 に日本に関しては第二次世界大戦の脅威というのが戦後も根強く、それはアメリ カの対日占領方針より強硬な主張をしたことに表れている。 しかしながら、1 9 7 0年代後半のオーストラリア一般の対日感情はきわめて良好 である30)。日本はかつてのように「北」の脅威として認識されているわけではな い。とはいうものの、アジア全体をオーストラリアが脅威に感じていることには 変わらない。そして日本は自らがかつて脅威であると認識されていて、またいつ でも再び脅威と取られうるということを全くわかっていないという問題がある。 オーストラリアは日本が攻めてこないという誓約書としての平和条約を欲して 「 『日本に資源を供給しないと日本は武力で いる31)。さらに、日本との貿易には、 とりにくる』 、だから『日本に対して資源輸出を制限するようなことをしてはな 3 2) が存在している。このようにオーストラリアにとっての らない』という論理」 日本というのは無条件の友好国というわけではなく、常にある程度の緊張関係を 持っているのである。 大平首相が1 9 8 0年1月にオーストラリアを訪問した際、オーストラリアのフ レーザー首相に対して環太平洋連帯構想を提案した。これに対してフレーザー首 相は、前向きな姿勢を示し、環太平洋連帯構想は前進することになる33)。ただ、 ここでフレーザー首相から、ASEAN 諸国の団結に混乱を生じさせないよう留意 することを注文される34)。ここにもオーストラリアの「北からの脅威」が見え隠 れする。特に ASEAN に関しては混乱による難民の発生とそのオーストラリアへ の流入の懸念がある。 このように、何らかの新たな枠組みを必要としていたオーストラリアにとって、 27 日本の環太平洋連帯構想は十分に価値があり、その形成過程に加わることで、自 らの外交を利することに!がると考えたのであろう。 (4) ニュージーランド ニュージーランドもオーストラリア同様、イギリス偏重の外交関係から脱却す ることが避けられなくなっていた。オーストラリアに似た点が多いニュージーラ ンドであるが、対日関係における特徴は、対日輸出が農産物中心であり、貿易関 係は南北関係に似た垂直的関係である点である。また、 「ニュージーランドに とって日本は最大の貿易相手国であり、資本の供給国であるが、日本にとっては、 3 5) 対ニュージーランド貿易は、貿易総額のわずか0. 7パーセントに過ぎない。 」 このような関係から、ニュージーランドは日本市場での関税などによる障壁が 低くなることが重要になってくる。経済関係を深める枠組みが重要となる。した がって、大平首相から環太平洋連帯構想の打診があったときに積極的姿勢をみせ た。 (5) 太平洋島嶼諸国 太平洋島嶼諸国の日本への関心の向け方には大きく分けて二つの種類があると いえる。一つは、天然資源に恵まれている国々である。パプア・ニューギニア、 ソロモン、フィジーなどがそれにあたり、将来的には産業の発展も見込まれる36)。 彼らには輸出相手として日本は見えてくる。 もう一つは、天然資源が乏しく、人口や国土が小さい国々である。これらの 国々はインフラも不十分で外国の援助や技術協力が必要である。この提供者とし て日本に意味がある。 しかしながら、駐フィジー大使等を歴任した斎藤鎮男は、 「 『環太平洋連帯構 3 7) と述べている。 想』にどの程度関心を寄せているか疑問である」 (6) 中 国 中華人民共和国は、ソ連と距離が生じ、1 9 7 3年のニクソン訪中以来明らかにア メリカ寄りの姿勢をとっている。その後、1 9 7 3年の日中共同宣言、1 9 7 8年の日中 平和友好条約と日本との関係も緊密化した。 また、長年反発してきていた日米安保体制にも「びんの蓋論」などに基づいて 積極的な評価をしはじめていた。日本を手放しで歓迎しているとはいえないが、 28 政治学研究4 1号(2 0 0 9) 以前より関係を良くすることで、米中ソの三角形をより自らに有利になるように アメリカに極めて近い日本を味方に付ける動きをとるようになったのである。 (7) 東南アジア とかく東南アジアというと、日本の軍拡に対して極度の警戒心を持っていると 思いがちであるが、1 9 7 0年代も末に近づくとむしろその逆の姿勢をとるように なってきた。 ソ連は精力的に勢力を伸張し、東南アジアにおいてもベトナムと協定を結ぶな ど拡大を続けていた。そのため、 「7 9年の7月、バリ島の ASEAN(東南アジア諸 『日本は、もっ 国連合)会議で、園田直外務大臣は、ASEAN の空気が一変して、 3 8) とい と、軍事強化せよ、武器援助をしてくれ』と、頼まれて大いにこまった」 うほど日本の軍事力の拡大に前向きな姿勢を示している。こうした環境にあって は、総合安全保障はむしろ軍事を中心に進めやすい。 ASEAN は「アジアにおける相対的な米国の“アジア離れ”とこれに反比例し 3 9) ことになった。 た日本の政治的役割の増大に注目し、急速に日本接近をはかる」 しかしながら、特に大平政権初期のころは、ASEAN は日本の環太平洋連帯構 想に対して、日本が綺麗事だけで提唱しているとは思ってはない。 「ASEAN をは 4 0) のである。また、 じめとする各国は、なお日本の出方に警戒心を解いていない」 「環太平洋連帯構想によって、福田ドクトリンで表明されたアジア重視の姿勢が 4 1) 後退するのを懸念した。 」 東南アジア諸国は、日本の環太平洋連帯構想などには警戒心をもってはいたも のの、ソ連が積極的に動き出し、米国がアジアから手を引き始めたことで、日本 への期待を高めることになる。これによって日本が積極的な外交姿勢をとりやす くなったといえる。 ! 国内政治(1)立法府 1 国内政治の環境 (1) 国内冷戦――保革伯仲 1 9 5 5年以来、日本の議会における政党の勢力は大枠が固定化されていた。5 5年 体制である。 1 9 7 6年1 2月5日、日本国憲法下初の任期満了選挙が行われた。結果は自民党の 29 大敗であった。自民党は公認漏れの無所属当選者を入党させ2 6 0議席とし、よう やく過半数を維持するといったような状況42)になり、保革対立は議席数の上で拮 抗することとなるのである。これが保革伯仲である。 大平は、この与野党伯仲から脱し、安定政権を回復しようと、解散に打って出 た。しかしながら、予想に反し自民党は大敗した43)。こうして保革伯仲の状況は 大平政権全期間に渡って続くのである。 自民党と社会党は外交政策においても大きな違いがある。講和条約締結時の対 立をはじめ、社会党は日米安保体制への反対、日本の中立化など、自民党とは異 なる外交姿勢を持っている。この保革伯仲の状況にあって、自民党は野党の外交 姿勢にも配慮せねばならなくなる。 (2) 角福戦争――保守党内の対立 自民党という政党は、保守合同以来、党内には派閥が存在し、それらは対立を 繰り返している。自民党の歴史においてもっとも深い対立であり、有名なのが、 田中角栄の田中派と、福田赳夫の福田派の対立である。前者は吉田自由党の流れ をくみ、後者は鳩山民主党を源流に持つ。この大きな二つの流れに他の派閥が合 従連衡し、政権がつくられた。その中でも、田中角栄と福田赳夫の対立は激しい ものであり、その様は「角福戦争」と呼ばれるほどである。 大平政権は、大平率いる宏池会が田中派の協力を得、総裁選において福田を破 り、誕生したものである。そうした経緯から、大平と反主流福田の対立は、角福 代理戦争とも言われ、大きな対立となった。 後に4 0日抗争といわれる対立を引き起こし、自民党内から二人の総理大臣候補 が出るまでになるこの激しい対立が、外交政策の円滑な立案、実施に影響を与え る可能性もある。 ただ、田中や福田といった大物が総理大臣をすでに経験していることから、大 平は小派閥の中曽根を除き最後の大物として、長期政権を担いうる状況にあった。 このため、大平は短期的な目標よりも長期的目標を立てて、政策を実行し易かっ たと言える。 2 野党の動き 保革伯仲の中にあって、野党はどう自民党と戦おうとしたのか。結論から言え ば、野党が結束することはなく、バラバラに行動していたために、自民党を倒す 30 政治学研究4 1号(2 0 0 9) ことはできなかった。 4 0日抗争の中、自民党は大平、福田の二人の総理大臣候補が首班指名選挙に出 るという自民党はじまって以来始めての出来事に見舞われた。この時、野党から 出馬したのは社会党の飛鳥田一雄である。結果的には大平が総理大臣に選出され たが、野党が結束して飛鳥田に投票していれば、大平、福田を上回り自民党政権 を倒すことが出来たかもしいれない。しかしながら、そのようなことはなく、各 党バラバラの動きをした。 このような中、防衛政策について特徴的な動きを示しているのが公明党である。 公明党は「7 0年代中期の保革伯仲状況において政界再編の中核として政権に接近 4 4) 、現実主義化した。かつては日米安保体制に反対の姿 しうる段階へと進展し」 勢を示していたが、安保条約廃棄を事実上棚上げした。これは、公明党がソ連に 対して自民党と同じレベルの脅威認識を持っていた45)ことに関係する。 さらに、公明党は元来非武装論を否定しており、領域保全能力を持つ部隊の必 要性を説いてきた46)。ただ、それが国民の理解を得られるかが懸念されていたの だ。しかし、国民の合意を得られると確信し、 「領域保全論」を正面きって打ち 出したのである47)。 また、社会党でさえ、 「公明党との連合政権協議の過程で『現実主義的』な方 4 8) のである。このように、野党にあっても 向に一歩を進める姿勢を示していた」 「自衛力」や「自衛隊」に対してただ反対するのではない政策を打ち出し始めた のである。こうした環境にあって、必ずしも自民党はかつての野党に近づくよう な防衛政策を打ち出す必要はなかったのである。 3 自民党内の動き 「角福戦争」に代表されるような自民党内の大きな対立軸として、自由党系と 民主党系の二つがある。この二つの大まかな外交姿勢を見てみる。自由党系は対 米依存、軽武装を基本姿勢としている。一方、民主党系は自主外交対米協調、自 衛力保持である。 しかしながら、自由党系である大平首相は環太平洋連帯構想など積極外交によ り自主外交を行い、総合安全保障論など自衛力を高める姿勢をとった。このよう に比較すれば民主党系の思想から出てくるような政策を大平政権がとっていたの である。また、福田派は、ある意味での福田ドクトリンの継続である環太平洋連 帯構想49)に反対はできないといったような状況に置かれているのである。 31 さらに福田派は多くのタカ派議員を抱えている。こうしたタカ派議員は自衛力 を高める総合安全保障論に反対するよりむしろ軍拡の隠れ蓑としてそれを使おう とも考えられた。また、日米「同盟」発言に関しても、そもそも福田派の祖であ る岸信介が日米安全保障条約改定に熱心に取り組み、日米をより同盟関係といえ るような体制にしようとしたことから、日米「同盟」発言を批判するとは、イデ オロギー的に考えにくい。このようにして、本稿の対象とする三つの外交政策に 対して、大規模な派閥レベルの反対は起こりにくい状況にあったといえる。 4 0日抗争にあらわれているように、総裁選のしこりが残る党内は常に政策より も政局に目がいってしまっている。それに対して大平は長期的な視点を持った政 策に目を向けていた。このように党内の空気と大平の思いにはズレが生じていた のである。したがって、政局に繋がりにくい政策においては、大きな対立が起こ る可能性が低い環境にあったのではないだろうか。 自民党内は戦のような雰囲気に包まれながら、政策論争がされにくい状況に あったといえ、外交政策においてはむしろ大平の政策が実現されやすくなってい るといえそうである。 ! 国内政治(2)行政府 1 省庁の姿勢 (1) 外務省 1 9 7 8年末から台頭しだした防衛庁などによるソ連脅威論に対して、外務省は抵 抗を示していた。これには園田直外相の影響が大きい。そもそも反ソ勢力が強力 であった外務省であるが、園田のリーダーシップのために、反ソ姿勢は全く表面 化しなかった50)。 防衛庁との対立はそれだけにとどまらない。国会答弁において防衛庁への警戒 感が高まる。国会答弁における安全保障問題の主務官庁は外務省であった。しか しながら、1 9 7 8年頃からその役割を防衛庁が担うようになったり、これを戦前の 事態の再来と見て、自衛隊の主張が自民党右派と結びつき外交政策の根幹を動か すことになるのではないかと危険視していたのだ51)。 しかし、防衛費増額には前向きであった。外務省が気にしていたのは、日米関 係を良好にしておくことである。また、1 9 7 9年に入ると「外務省は日本の安全保 障のあり方を米国の世界戦略とより密接に関連付ける視点から見直す」ように 32 政治学研究4 1号(2 0 0 9) なってくる52)。1 9 7 9年5月には大平首相の訪米に備えて、アメリカの要求に応え る姿勢を示す必要があったからである。さらに、1 9 7 9年1 2月ソ連のアフガニスタ ン侵攻に対して、アメリカが反ソ姿勢を強硬にし、日本にも協力を求めてきた。 これに応えることから、さらには外務省から園田が去っていたこともあり、外務 省は反ソ的姿勢になっていく。そして、防衛庁とはよきパートナーとなっていく。 安全保障政策にこのような態度をとった外務省であったが、環太平洋連帯構想 に対しては、反対の姿勢をとっていた。まず、大平が進めていた官邸外交への拒 否感がある。大平の環太平洋連帯構想は首相就任前に外務省に相談なく打ち出さ れた構想ゆえに、積極的な態度をとらないのは当然である53)。さらに外務省は 「アジア・太平洋」という呼称に固執していた54)ために「環太平洋」という呼称 にも抵抗感があったのであろう。 (2) 防衛庁 大平内閣においての防衛庁の大きな動きとしては、ソ連脅威論の急速な台頭が ある55)。それはソ連軍の能力が向上したうえ、日本周辺での活動が大きくなって きていたからである。そして、防衛白書などにおいてその脅威論を積極的に公表 するようになっていた。 かつてはアメリカの要求に応えるという形で正面装備だけが整えられる傾向に あった56)。予算編成の際にペンタゴンから防衛庁や自民党国防族にコンタクトを 9 7 0年代に入ると とるという形で要求が来ていたようである57)。しかしながら、1 防衛庁は実際に戦うことを念頭に装備体型の洗い直しを行った58)。 ただ、防衛庁は防衛費についてアメリカの要求を気にしなくなったというわけ ではない。やはりアメリカ議会が問題視する防衛費の対 GNP 費が低下すること は回避しようとしている59)。ただ、大蔵省出身の山下元利長官は予算増を伴う防 衛費拡大には消極的であった60)。 (3) 通産省 大平政権の初期の問題はエネルギーであった。ここで主なアクターとなるのが 通産省である。かつて田中政権時におきたオイルショックに対処するため、なり ふりかまわぬ資源外交を展開した。このとき、その日本の態度がアメリカの逆鱗 にふれたのである。そのトラウマがある通産省はそれほどアグレッシブに動くこ とはなかった。 33 こうした中、通産省は太平洋地域の経済関係を重視していた。例えば財界人の 集まりである太平洋経済委員会(PBEC)に力を注ぐなど、民間の動きをサポー トしていた。 2 官邸主導型政策形成の試み 大平政権の特徴の一つとして政策研究グループがあげられる。ただ、学者など をブレーンとして政策作りをする手法は以前にも行われていた。大平の特徴は、 「当面の政策課題を前にしてそれに対する個別の答えを出すという目的からでは なく、 『政策の枠組み』 、すなわち長期的・根本的問題に関する政策的対応の知的 枠組みを作り上げることを、これらの政策研究グループに期待したというところ 6 1) にある。 」 官僚というのは目の前の課題を解決することに忙殺されがちである62)。した がって、そうした個別問題を離れたところで、大戦略を形成するというところに 大平政権の意図があると思われる。 このように官邸主導で政策を立案することのメリットとして、党内、省庁間の 調整という手間を省けるところにある。小泉政権がテロ対策特別措置法などを驚 くべき速さで立法できた理由の一つが官邸主導で行ったことにある63)。大平は官 邸主導の政策立案をすることによって、自らの政策実現を容易にしようと考えた のではないだろうか。 ! 国内政治(3)民間――財界 世論調査などによると「8 0年代初頭の世論が、中立主義的な自衛隊についての コンセンサスを形成している一方で、軍事同盟としての安保に対しては、依然と 6 4) して積極的評価を与えていないことを示している。 」 財界においては、タカ派的防衛力増強論が多い65)。例えば永野重雄日本商工会 議所会頭や日向方斉関西経済連合会会長の発言などが注目される。 永野は、フランスのように産油国に武器を売ってでも石油を確保すべきなので はないだろうかという趣旨の発言をしている66)。国内の軍拡というよりも輸出を 含めた軍需産業の拡大を意図した発言と考えられる。日向は防衛費の増額や徴兵 制の研究を検討すべきであると述べているのだ。こうした発言は一体いかなる意 図の上で行われているのであろうか。 34 政治学研究4 1号(2 0 0 9) まず、軍備拡大要求はある意味公共事業のような役割を期待されている67)。ま た、軍需は額が小さくもうからないが、兵器開発の資金を国が提供し、そこで得 られた先端技術を民間に転用することが期待される。さらに対米関係への危機感 もある。アメリカが軍事力増強を言ってくるのに対し、対処しなければ対米関係 が悪化し、日米経済摩擦が大きな問題となって噴出するのではないかという懸念 があった。豊田英二トヨタ自動車工業社長は「日米経済摩擦は、自動車だけで解 決の答えが出せる問題ではありません。 」 「別にずっと重要な問題があって」 「防 6 8) と述べている。また、財界のタカ派的発 衛問題は、その一つではないですか」 言は、共産主義からの自由主義の擁護であるともいえる69)。 これらの背景により、財界からは防衛力増強に対して積極的な意見が多く聞か れた。ただ、経団連会長の土光は財界内のタカ派発言を批判している70)。 ! 総理大臣大平正芳 1 大平正芳の人となり 大平正芳は総理大臣になるまでに、官房長官、外務大臣、大蔵大臣、通産大臣、 政調会長、幹事長など政府、党の重要ポストを歴任した。 鈍牛といわれていた大平だが、実際は頭がきれる人物だったようで、外国首脳 などからの評価は非常に高い。また読書家であり、学者への信頼が厚い。また敬 虔なクリスチャンとして有名で、それもあってかカーター大統領と肌のあう関係 でもあった71)。 大平は功名を求めて政治を行うというより、小さなことを積み重ねながら問題 に対処し、問題を静かに無事に解決するということを得意としていた。 大平は総理大臣になるにあたって、自らの考えをまとめようとし、実際それを 発表した。名声というより国家国民のための政策を考えて実行しようとした人物 であったと思われる。 2 大平の政策思想 (1) 政策一般 すでに述べたとおり、大平は研究会を設置し長期的な政策をつくる努力をした。 研究会の委員に対しては大平政権だとかいうことは気にしないよう要求し、委員 を集めるにあたっては3 0∼4 0歳代を中心にするように指示している。これは、 35 7 2) 「自分が死んでも、じわじわとその政策が浸透して行くであろう」 ことを狙った ためである。 (2) 外交政策 大平は、内政と外交を一体と考え、内政を充実させるため、国民の利益を高め るために外交があると思っていた73)。 大平は今日の世界は、既にトップ外交の時代にはいったと考えている。これは 瞬時に判断せねばならない外交問題が次々に出てきたためである74)。そして、外 務省は首相外交の準備省的性格を持つものになってきていると認識していた75)。 大平はパワーポリティックスから脱却し、積極外交を展開しなければならない と考えていた76)。そして、対米依存は衰退し、多極的なアプローチをもった積極 外交を展開すべきだと考えている77)。ではアメリカに依存しない外交を行うにあ たってどのような国家を重要視していたのか。 大平は自由陣営との協力を重要視していた。その理由は、日本の輸出相手とし て適切であること、自由主義・民主主義を国是としている国に信頼感や親近感を 持てること、人的交流の実績があること、平和条約調印国の全てが自由陣営であ ることであるとしている78)。 また大平は、 「若い時から、日本は海洋国であり、もし将来、大陸と太平洋諸 国との二者択一を迫られるケースがあれば、太平洋国家を選択するべきであると 7 9) という。特にオーストラリア、ニュージーランド、 いう考え方を持っていた」 カナダは、共通の政治的信条に立脚して、アメリカとともに、アジア・太平洋地 域の平和および繁栄の達成という共通の目標を追求する重要なパートナーであり、 日本にとり安定した食糧や資源の供給先でもあると考えていた80)。 ただし、大平は対米関係を軽視したわけではない。対米関係こそ日本の外交の 基軸であると考えていた。 「我が国外交の基軸は、日米友好関係の維持、強化に あることは申すまでもありません。今後とも率先して国際社会に受け容れられる 8 1) と述べて 経済運営に努め、世界の期待に応えてまいる必要があると考えます」 いる。その理由は、 「日本の平和と安全を確保することは政治の最大の責務であ り、そのためには節度ある自衛力とこれを補完する日米安全保障条約とからなる 安全保障体制を堅持することが必要で」あるということなのである82)。 大平がこのようにマルチラテラルの関係と日米のバイラテラルの関係双方に目 を配った理由には、第四次中東戦争が考えられる。第四時中東戦争当時、OAPEC 36 政治学研究4 1号(2 0 0 9) (アラブ石油輸出国機構)はイスラエル寄りの国家には石油を売らないと言い出し た。このため中東の石油に依存していた日本は、対米依存からの転換を図った。 しかしながら、この日本の行動に対してアメリカが反発し、日米関係がぎくしゃ くした83)。それへの対処を田中内閣の外務大臣として尽力した経験から、対米関 係に注意を払うようになったのではないかと思われる。 (3) 安全保障政策 大平は、安全保障問題に関して、国民的な議論を行う気運を醸成し、ナショナ ル・コンセンサスのようなものを打ち出すべきと考えている。このように考える 所以は、国の平和を保つには国民自らの国を守る決意が必要であると大平が思っ ていたからである84)。 1 9 7 9年の訪米を前にして、大平の頭の中はソ連の極東進出が大きな比重をしめ 「自国の防衛力だけで国の安全を確保するこ ていた85)。しかしながら、大平は、 とはできない時代である。われわれは、この総合安全保障体制をより強固にする 8 6) と考えてい ため、今後とも、日米安全保障条約を堅持してまいる必要がある」 た。 しかし、米国の力の相対的低下により、大平が米国と組んだ従来の「集団安全 保障体制」ですら不十分であると考えたため、より積極的な外交が必要だと考え 「防衛を従来の狭い防衛政策論議の枠から取り るようになる87)。それもあって、 出し、それを広い対外政策・国家戦略の枠組みの中に位置づけること」が「総合 安全保障」の狙いであった88)。 積極的な日本外交の一つとして、アジアの平和を創り出すために、日、中、米、 ソ四国がこの地域の安全確保の道を、虚心に探求し、話し合う雰囲気をつくり上 げる必要があり、その努力の中に日米安保条約を位置づけるべきだと考えてい た89)。 ただ、大平は話し合いだけで解決する問題であるとは考えていなかった。大平 はリアリズム的な視点で国際政治を見ていた。それは「世界にある現実の力がと 9 0) とい もかくもバランスがとれているから平和が維持されておるのであります」 う発言に現れている。 ただ、大平は日本のパワーを増大させようとしていたのではない。 「わが国の 9 1) と述べているし、 防衛力は厳密に防衛的なものだけに限られなければならない」 防衛費増額には常に消極的姿勢を示していた92)。 37 (4) 通商政策 大平は通商政策において民間・自由を重んじた。太平が、佐藤内閣で通産大臣 になった時には、民間主導型ということを言って、通産省の役人を驚かせた93)。 9 4) とも述べて 民間に対して「あまり立入った干渉がましいことはすべきでない」 いる。 自由貿易に関しては、 「日本もみずからの経済を自由化しなければならないこ とは当然の責任であり、また利益でもあります」と述べ、その経済外交の主役は 自由企業体制をとっているのだから経済界の指導者がやるべきだと考えていた。 そして、 「政府のこの分野における主たる任務は」 「民間人の活動にどのように有 9 5) ということである。 効に奉仕するかにあるのではないかと思います」 ! 結 論 ここまでの議論をここでまとめることとしたい。 デタントの終焉とアメリカの相対的力の衰退で、日本に自主外交を展開する必 要が生じた。その中での自国の姿勢として総合安全保障が戦略として立案された といえる。かねてより国民全体が安全保障問題を議論する必要を感じていた大平 にとって、単なる防衛費増大など狭い範囲ではなく、総合的な対外政策としてと らえるために案出されたのが総合安全保障であった。 これは財界・防衛庁・自民党タカ派、後には外務省などの推進もあって防衛問 題を中心に進めやすい政策であった。 また、国内においては資源・エネルギー問題への対処として、対外関係におい ては米国の対日防衛力増強圧力への対処としての役を担うことになった。そして、 それを歓迎するような国際環境があり、総合安全保障はスムーズに進むこととな る。 前述のような国際環境の中、新しいシステムとして、あるいは資源・エネル ギー問題に対処するものとして環太平洋連帯構想が位置づけられる。かねてより、 太平洋諸国の連帯を考えていた大平の思想に対し、国内では外務省の強い反対に あうことになる。 しかし、オーストラリアやニュージーランドが賛成し、また太平洋のウェイト を下げたい米国にとって格好の枠組みであった。このように、場合によっては国 内で消滅しかねない政策であったものを、官邸主導外交で展開することで、外圧 38 政治学研究4 1号(2 0 0 9) を利用して推進された政策といえるのが、この環太平洋連帯構想である。 この構想がマルチラテラルなものであったのに対し、バイラテラルのアプロー チをとった政策が、日米「同盟」発言であるといえる。これは日米関係における 双方の不安を払拭するとともに、リアリズムの視点を持った大平がパワーポリ ティクスの視点から国際関係の安定化を模索した結果であるといえる。 また、かねてから対米重視の姿勢を持っていた大平の思想信条のようなものが 影響してもいる。 以上三つの政策は以下のような関係にあると考えられる。新たな国際環境の中、 自国の姿勢としての総合安全保障と、それを支えるシステムが環太平洋連帯構想 である。そして、同構想が日米関係と排他的なものではなく、むしろ日米の線 (バイ)の関係を面(マルチ)で補完するものであることの証しとしての日米「同 盟」発言なのではないだろうか。 このように三つの政策は大平の以前からの思想に国際環境がマッチしたもので ある。そして、それを可能としたのは国内のコンセンサスというより、むしろ外 国からの陰陽両面からの影響によるものである。外圧に屈したというより、外圧 を上手く利用して、自らの思想を具現化しようと試みたのが大平外交といえるの ではないだろうか。 注 1) 長富祐一郎「大平政策研究会の意義」『去華就實』(東京、財団法人大平正芳記 念財団) 、<http : //www.ohira.org/cd/book/kyokasyuujitsu/ky_23.pdf>(アクセス 日:2 0 08年11月9日) 。 2) 渡辺昭夫「国際政治家としての大平正芳」『大平正芳政治的遺産』 (東京、財団 法人大平正芳記念財団) 、<http : //www.ohira.org/cd/book/se/se_03.pdf>(アク セス日:2 0 08年1 1月9日) 。 3) 大来佐武郎『エコノミスト外相の二五二日』 (東洋経済新報社、198 0年)2 1 2頁。 4) 1 9 7 9年5月2日、ホワイト・ハウスにおける歓迎式の際の答辞。 5) Kenneth N.Waltz,Man,the state,and war: a theoretical analysis (New York: Columbia University Press, 1 9 5 9)において、戦争の因果関係を三つのイメージ、 個人、国家、国際システムに分ける方法を用いている。 6) 田中明彦・中西寛編『新・国際政治経済の基礎知識』(有斐閣、2 00 4年)8 0―81 頁。 7) 田久保忠衛「国際情勢と日本の防衛政策第5回――デタントの誕生から崩壊ま 7頁。 で」 『世界週報』、1 9 8 0年6月3日、4 0―4 8) 田久保忠衛「国際情勢と日本の防衛政策第4回――カーター政権の登場」 『世界 39 週報』、19 8 0年6月1 0日、5 6頁。 9) この金融パワーとは、スーザン・ストレンジ『国際政治経済学入門』 (東洋経済 新報社、1 9 9 4年)で述べられている金融における構造的権力のこと。 1 0) 五百旗頭真編『戦後日本外交史〔新版〕 』 (有斐閣、200 6年)1 7 3頁。 1 1) 田久保忠衛「いまこそ直視せよ超大国外交の現実」 『中央公論』109 9号、1 978年 2 4頁。 1 0月1日、1 1 4―1 1 2) 同上。 13)「日米安全保障関係――東アジアの安全と安定のための鍵―米上院軍事委太平洋 5頁。 研究グループ報告書―」 『国防』2 8巻、5号(1 9 79年5月)72―8 1 4) 大嶽秀夫『日本の防衛と国内政治』 (1 9 8 3年、三一書房)29 4頁。 1 5) 同上、2 94頁。 1 6) 同上。 1 7) 同上、2 98頁。 18) 西脇文昭「 『同盟の重み』を問いかけられる――大平首相5カ国歴訪同行記」 9頁。 『世界週報』6 1巻2 1号、19 8 0年5月2 7日、24―2 19) 田原総一朗「連載日本の運命を決める人々第二回大来佐武郎外相“特殊国家” 8頁。 脱却を図る日本外交」 『中央公論』9 5巻6号、1 9 80年5月、267―29 2 0) 嶌信彦「環太平洋連帯構想の意味するもの――資源小国・日本の政治大国化志 1頁。 向か」 『エコノミスト』5 8巻6号(毎日新聞社、1980年2月1 2日)5 6―6 2 1) 小島清「八〇年代は“太平洋経済の時代”――OPTAD(太平洋貿易開発機構) 4頁。 形成促進の雰囲気をつくれ」 『世界経済評論』2 4巻4号、1980年4月、4―1 22)「日米安全保障関係――東アジアの安全と安定のための鍵―米上院軍事委太平洋 5頁。 研究グループ報告書―」 『国防』2 8巻、5号(1 9 79年5月)72―8 2 3) 五百旗頭真、前掲書、1 8 4頁。 24) 田久保忠衛「国際情勢と日本の防衛政策第1回――“ソ連の脅威”が防衛意識 8頁、1 979年9月1 7日に を高める」 『世界週報』6 1巻1 9号、19 8 0年5月1 3日、1 2―1 公表さ れ た“The United States, China and Japan”,Report to the Committee on Foreign Relations, United States Senate, p. 4 0を引用。 2 5) 曽野明「米ソの世界戦略と日本外交――親しまれ信頼される国に」 『月刊自由民 7頁。 主』2 88号、1 9 8 0年1月、6 1―6 2 6) 大河原良雄「日豪・日米関係をめぐって」 『世界経済評論』24巻5号、198 0年5 月、2 8―38頁。 2 7) 長坂寿久『北を向くオーストラリア』 (サイマル出版会、1978年)3頁。 2 8) 同上。 2 9) 同上、1 34頁。 3 0) 同上、1 77頁。 3 1) 同上、1 74頁。 3 2) 同上、1 78頁。 3 3) 長富祐一郎、前掲論文。 34) 村川一郎「国際貢献への道を開いた大平外交(戦後保守政党と外交〔24〕 )」『月 40 政治学研究4 1号(2 0 0 9) 刊自由民主』5 4 4号、19 9 8年7月、8 8―9 3頁。 35) ネヴィル・ベネット 「南半球から日本を仰ぎ見れば」『中央公論』 10 0巻13号、 1985 年1 2月、80―86頁。 36) 斎藤鎮男「環太平洋連帯構想と太平洋諸島――太平洋諸島サミット会議に出席 して」 『世界経済評論』2 4巻6号、1 9 8 0年6月、2 5―34頁。 37) 同上。 38) 田原総一朗、前掲論文。 39) 嶌信彦、前掲論文。 40) 同上。 41) 若月秀和『「全方位外交」の時代――冷戦変容期の日本とアジア1 97 1∼80年』 (日本経済評論社、2 0 0 6年)29 8頁。 9頁。 42) 石川真澄『戦後政治史』 (岩波新書、1 9 9 5年)13 8―13 43) 同上、1 45頁。 44) 大嶽秀夫『日本の防衛と国内政治』 (1 9 8 3年、三一書房)33 4頁。 45) 同上、3 41頁。 46) 同上、3 36頁。 47) 同上、3 37頁。 48) 同上、3 52頁。 49) 五百旗頭真、前掲書、1 7 8頁。 50) 大嶽秀夫、前掲書、2 7 8頁。 51) 大嶽秀夫、前掲書、3 0 6頁。 52) 若月秀和、前掲書、2 8 9頁。 53) 長富祐一郎、前掲論文。 54) 渡辺昭夫、前掲論文。 55) 大嶽秀夫、前掲書、2 7 0頁。 56) 大嶽秀夫、前掲書、2 8 4頁。 57) 鈴木善幸「検証戦後日米首脳会談―8―自民党国防族に接触するペンタゴン―― 「日米同盟」を初めて口にした大平首相」 『エコノミスト』69巻10号、1 991年3月 5日、8 2―87頁。 58) 大嶽秀夫、前掲書、2 8 4頁。 59) 大嶽秀夫、前掲書、2 9 4頁。 60) 同上。 61) 渡辺昭夫、前掲論文。 62) 高級官僚数名に対するインタビューによる。 63) 信田智人『冷戦後の日本外交―安全保障政策の国内政治過程』 (ミネルヴァ書房、 2 0 06年)88―92頁。 64) 大嶽秀夫、前掲書、3 4 2頁。 65) 同上、3 22頁。 66)『朝日新聞』1 9 8 0年3月2 3日。 67) 児玉進「財界人の防衛発言――その本音と系譜」 『朝日ジャーナル』2 2巻15号 41 (通巻1 1 04号) 、1 9 8 0年4月1 1日、15―1 8頁。 6 8) 同上。 6 9) 大嶽秀夫、前掲書、3 2 5頁。 7 0) 同上、3 29頁。 7 1) 鈴木善幸、前掲論文。 7 2) 長富祐一郎、前掲論文。 7 3) 渡辺昭夫、前掲論文。大平正芳「日本外交の座標」 『春風秋雨』(鹿島研究所出 版会、1 9 66年)<http : //www.ohira.org/cd/book/hr/hr_16.pdf>(アクセス日:2008 年1 2月2 1日)。昭和4 1年4月5日自民党本部主催政治大学「わが党の外交政策」。 7 4) 大平正芳『旦暮芥考』 (鹿島研究所出版会、1 9 7 0年)1 5 6頁。 7 5) 同上、1 57頁。 7 6) 大平正芳「平和国家の行動原則」大平正芳回想録刊行会編『大平正芳回想録< 資料編>』(鹿島出版会、1 9 8 2年)<http : //www.ohira.org/cd/book/si/si_19.pdf> (アクセス日:1 2月2 1日)。 7 7) 同上。 7 8) 大平正芳「日本外交の座標」 『春風秋雨』 (鹿島研究所出版会、1 966年)<http : //www.ohira.org/cd/book/hr/hr_16.pdf>(アクセス日:2 00 8年12月21日) 。昭和41 年4月5日自民党本部主催政治大学「わが党の外交政策」。 7 9)「環太平洋の連帯」大平正芳記念財団編『大平正芳 人と思想』(財団法人大平 正芳記念財団、1 9 9 0年)<http : //www.ohira.org/cd/book/hi/hi_37.pdf>(アク セ ス日:2 0 08年1 2月2 1日) 。 80) 第72回国会における外交演説。 81) 第87回国会における施政方針演説(昭和5 4年1月2 5日) 。 8 2) 同上。 8 3) マイケル・シャラー『 「日米関係」とは何だったのか――占領期から冷戦終結後 まで』 (草思社、2 0 0 4年)43 7頁。 8 4) 大平正芳「日本外交の座標」 『春風秋雨』 (鹿島研究所出版会、1 966年)<http : //www.ohira.org/cd/book/hr/hr_16.pdf>(アクセス日:2 00 8年12月21日) 。昭和41 年4月5日自民党本部主催政治大学「わが党の外交政策」。 8 5) 伊藤昌哉『実録自民党戦国史』 (朝日ソノラマ、198 2年)4 8 5頁。 8 6) 第十五回自衛隊高級幹部会同における訓示(昭和54年4月23日 防衛庁)。 8 7) 渡辺昭夫、前掲論文。 8 8) 同上。 8 9) 大平正芳「平和国家の行動原則」大平正芳回想録刊行会編『大平正芳回想録< 資料編>』(鹿島出版会、1 9 8 2年)<http : //www.ohira.org/cd/book/si/si_19.pdf> (アクセス日:1 2月2 1日) 。 9 0) 大平正芳「日本外交の座標」 『春風秋雨』 (鹿島研究所出版会、1 966年)<http : //www.ohira.org/cd/book/hr/hr_16.pdf>(アクセス日:2 008年12月21日) 。昭和41 年4月5日自民党本部主催政治大学「わが党の外交政策」。 9 1) 大平正芳「平和国家の行動原則」大平正芳回想録刊行会編『大平正芳回想録< 42 政治学研究4 1号(2 0 0 9) 資料編>』(鹿島出版会、1 9 8 2年)<http : //www.ohira.org/cd/book/si/si_19.pdf> (アクセス日:12月2 1日) 。 92) 大嶽秀夫、前掲書、3 4 9頁。 93) 菊池清明「平常心で外交をやる人」大平正芳記念財団編『去華就實』 (財団法人 大平正芳記念財団)<http : //www.ohira.or.jp/cd/book/kyokasyuujitsu/ky_22.pdf> (アクセス日:12月2 1日) 。 94) 大平正芳『旦暮芥考』 (鹿島研究所出版会、1 9 7 0年)10 8頁。 95) 大平正芳「日本外交の座標」 『春風秋雨』 (鹿島研究所出版会、1 966年)<http : //www.ohira.org/cd/book/hr/hr_16.pdf>(アクセス日:2 00 8年12月21日) 。昭和41 年4月5日自民党本部主催政治大学「わが党の外交政策」。
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