プロジェクト・ワーク 絆 リサとペィチーたちの一年 リサ かおり・かえで・たつや・ゆい 87878787 私たちは87(ペィチー) です。ペィチーは「白 痴」の台湾語読みです。 つまりバカの意味です。 私たちは、毎日、バカな ことばかりしています。 例えば、こんな感じです。 日本人留学生 私たち東方の応外科には、日本人の留学生 がいます。赤星リサという女の子です。私たち は、リサちゃんとよんでいます。お父さんが日 本人で、お母さんが台湾人です。お父さんが 台湾で働いているので、リサちゃんの妹もうち の学校の美術学科で勉強しています。 あるとき、先生が、リサちゃんを呼んで、こんな ことを聞きました。 T:あなたは、日本のどこからきましたか R:大分県です T:あなたのお爺ちゃんとか曾お爺ちゃんとか、それ とも親戚の人で、昔、台湾にいた人はいませんか R:さあ…。なぜですか T:ほら、この本にこんなことが書いてありますよ。 植民地時代台南の日本人 先生は、リサちゃんに 『岳帝廟前』という本を 見せてくれました。その 本には、こんな絵が 載っていたのです。絵 の下には、「母子與赤 星老師遭遇道謝」と書 いてあります。 この話を聞いた私たちは、リサちゃん に尋ねてみました。 私たち:これ、リサちゃんのお爺ちゃんじゃな いの リサ:さあ、聞いたことないけど… 私たち:じゃあ、ちょっと、うちでお父さんとお 母さんに聞いてみたら? リサ:うん それからしばらくして、私たちは、また リサちゃんに聞いてみました 私たち:どうだった リサ:えっ、なに? 私たち:あの本の「赤星老師」のこと? リサ:うーん、何か全然関係ないみたい 私たち:そう… 私たちは、ちょっとガッカリしました。 ところが、夏休みが終わってから、先生が リサちゃんと私たちにこんなことをいました 先生:赤星家は、熊本県の地方の名家らしいよ。ほら、この 『地名事典』や『家系事典』にも出てるよ。 私たち:へえー。すごーい! 先生:リサちゃんのお父さんは、大分県のひとだよね。 リサ:はい。 先生:でも、おじいちゃんや曾お爺ちゃんはどうなんだろう。 それから、あなたのうちの家紋はどんなのかわかる。 リサ:さあ、ちょっと…。でも、うちで聞いてみます。 次の週、私たちは、また先生とリサ ちゃんに会いました。(2012/9/?) 先生:どう、家紋はわ かった。 リサ:はい、こんなので す。 先生:ああ…。これは、 「鷹の羽」だから、熊本 の赤星一族と同じじゃ ないかな。 赤星一族の家紋 先生:ほら、この家系事典 にも、赤星の家紋は「鷹の 羽」と書いてあるだろう。熊 本の赤星一族は、もとは菊 池氏で、菊池氏は、藤原北 家の系統らしい。で、藤原 北家は、「並び鷹の羽」の 紋を使っていたと書いてあ るよ。 私たち:ああ、ほんとだ! リサの発言 リサ:あの、お爺ちゃんに聞いたら、お爺ちゃんのお爺ちゃん は、熊本の人だそうです。 先生:えっ、やっぱりそう…。 リサ:はい 先生:おもしろいね…。この前の本に書いてあった「赤星老 師」もひょっとしたら、リサちゃんの遠い親戚かも…。 リサ:はい…。そうかもしれません。 先生:みんなで、もうちょっと、調べてみようか? 私たち:ええ、いいですね! 私たちは、先生と一緒に「専題研究」で、こ のテーマを取り上げることにしました。 台湾の人は親日的だと言われています。 例えば、去年の東日本大震災の時、台湾の人々は、180億円 もの義捐金を日本に送りました。 一方、韓国や中国の人たちは、いまも日本を侵略国家だといっ て嫌っています。 台湾もかつては、50年間も日本の植民地になっていました。 植民地時代には、台湾人と日本人が対立することもありました。 それなのに、台湾と日本は、なぜこんなに友好的な関係が続 いているのでしょうか わたしたちペィチー・グループは、昔、台南にいた「赤星老師」 のことを手がかりにして、リサちゃんと一緒に、この問題を考え てみることにしました。 もう一つの手がかりーー先生は、私たちに もう一つヒントをくれました(2012/9/?) 先生:ほら、これは樺山資 紀という人の史料にあった んだよ。 私たち:ふーん 先生:樺山資紀は、植民地 の最初の台湾総督になっ た人だよ。これは、赤星弥 之助という人が、樺山資紀 に書いた手紙なんだ 私たち:ほんとだ! ひかりが発見したこと(2012/9/?) 今日は、ひかりちゃんが、ネットでおもしろいものを みつけてきました。 赤星統家という昔の武士の物語です。 統家は、竜造寺氏と対立していて、竜造寺氏が大友 氏と連携したので、大友氏と争っていた島津氏と連 携したというのです。 つまり、赤星一族は、薩摩(鹿児島)と関係が有った のです。 かえでが発見したこと それからかえでちゃんは、赤星中尉という人 の忠義祠を探しました。 あとで調べると、この忠義祠のことは、植民地 時代の本にも書いてありました。(鈴木『台湾 旧慣冠婚葬祭と年中行事』p484) ネットで調べる――インターネットで「赤星」をキー ワードに、検索してみるといろいろなことが分かって来ました。 赤星弥之助は、資産家で、古美術の収集家だった。 弥之助の弟は。カリフォルニアの葡萄王といわれた 長沢鼎だった。 弥之助は樺山資紀の親戚だった。 赤星弥之助の長男鉄馬は、日本に始めてブラック バスを移入した人だった。 鉄馬の弟四郎や六郎は、有名なゴルファーだった。 更に調べると… 西郷隆盛の一族も菊池氏の出身であること が分かりました。 樺山資紀の一族は、椎原家を仲介にして、西 郷家や大山巌と親戚関係であることも分かり ました。 樺山資紀の孫に当たる白洲正子は、有名な 作家でした 赤星弥之助と関係がある本 私たちは、ネットで、赤星弥之助のことが書いてある 本はないか、探しました。 すると、『益田鈍翁をめぐる9人の数寄者たち』という 本の一章が、「赤星弥之助」という題になっているこ とが分かりました。 先生は、本が好きな人なので、ネットで購入してくれ るといいました。 私たちは、とても期待しています。 赤星老師は? 一方、赤星老師がどんな人だったかは、なか なか分かりませんでした。 でも、先生が、台湾には、植民地時代の総督 府文書が大量に残されていると言いました。 私たちは、国史舘に申請して、この史料(『公 文類纂』)をネットで利用できるようにしました。 すると… 赤星老師の経歴(2012/10/?) みつかったのです! 赤星勝次郎という名前の先生がいました。 この人は、1913年に台湾に来て、教員免許 を取得し、まず鳳山公学校の教諭を務めたあ と、1917年には、台南第一公学校の教諭に なっているのです。 あの赤星老師は、この人に違いありません! 赤星老師の出身地 さらに、おもしろいことに、赤星老師の出身地 は、熊本県だったのです。 履歴書に、「原籍:熊本県熊本市迎町88、士 族」と書いてあります。 武士階級だったので、城下町に住んでいたの かもしれません。 赤星一族関係図(熊本県菊池市赤星村) 菊池一族(藤原北家流) ? (赤星始祖) 西郷隆政 蒙古襲来絵詞 鹿児島赤星家 鷹の羽 元寇(文永の役:1274)で戦って、 鹿児島 衣服の血が赤い星のようだったので、 西郷家 将軍から赤星の姓をもらった 磯永孫四郎(長崎海軍伝習所、五代と同僚) ―― 菊池武時に協力? 西郷家 椎原家┬大山巌 橋口文蔵 菊池武時南朝忠臣 赤星武生武時八男 弟 従道・吉次郎 薩摩島津 竜造寺氏と対立。娘が殺された。 寅太郎 竜造寺が大友氏と結んだため、 菊次郎 統家は、島津氏と結んだ。 長沢鼎―留学―五代友厚 台湾探索 AS 砲の権利獲得 英国グラバー邸 初代台湾総督 神戸築港で巨富 米国カ州の葡萄王 伊澤修二 肖像(黒田清輝) 海軍大臣 文部大臣 米留学 上田万年 宜蘭庁長 親高(以上:事績通考 1840) 磯永彦助(兄) [養子] ・資英 西郷武光 親家 統家 磯永弥之助 沢柳政太郎 京都市長 隆準 樺山愛輔-黒田清輝 赤星鉄馬 西郷九兵衛 薩摩へ(元禄頃) 隆秀 ? 総督府 実業家 参事官 国際交流基金 画家 四郎 五郎 六郎 ゴルファー ブラックバスの輸入 台湾 GC 設計 Open 優勝 1934 年 骨董売却 拓大理事長 第1回 J. 吉祥寺赤星邸[現存] 新淡水 GC 設計 朝鮮で牧場(軍馬) 1969 年 祖父(熊本の人) | 白洲正子 祖父(次男、系図なし) | ? 東京学錦城中卒 熊本県熊本市迎町、士族 台湾総督府 東京私立錦城中学卒 父親 台南第一公学校 総督府国語学校卒 台南一小阿公店分校 鳳山公学校教諭 台南第 1 公学校教諭 →家紋 並び鷹の羽 赤星義雄 台湾の奇習 台湾芸術新報発行 高雄州郡視学 屏東女子公学校長 岡山農業専修学校長 赤星末男 本島警察官昭和美談集 赤星正徳 安平城異聞 雲林忠義祠 赤星中尉 赤星羽壽 赤星シヅ 赤星目之助 赤星友介 赤星端 赤星三郎 赤星泰 赤星武光 目次1 赤星弥之助 赤星鉄馬 赤星四郎 赤星五郎 赤星六郎 赤星有隆 赤星統家 樺山資紀 樺山資英 白洲正子 黒田清輝 長沢鼎 西郷隆盛 西郷従道 西郷菊次郎 西郷隆準 五代友厚 山本権兵衛 目次2 赤星勝次郎 赤星端 赤星義雄 赤星末男 赤星正徳 赤星羽壽 赤星武光 赤星目之助 赤星泰 赤星中尉 目次3 宮崎滔天 平井数馬(六士先生、 熊本) 毛利琢磨 小原国芳 国府種徳(孫文の台湾 での工作に関与) 国府種武 参考文献:赤星 益田鈍翁をめぐる七人 の数寄者(第3章:赤星 弥之助→弥之助の妻 シズは樺山資紀の姪。 p68) 参考文献:樺山・西郷 父、樺山資紀 西郷都督と樺山大将 台湾全誌 白洲正子自伝 西郷隆盛 西郷菊次郎 参考文献:熊本県 熊本県史 新熊本市史 菊池市史 玉名市史 砥用町史 益城町史 菊池一族 菊池武光 九州大名の研究 菊池氏三代 中世の神社と社領 南北朝期九州守護の研究 出水叢書 近世の農村構造と農民生活 江戸時代人づくり風土記・熊本 大日本近世史料・細川家史料 古写真に探る熊本城と城下町 近世大名の領国支配の構造 藩法集(熊本藩) 熊本藩年表考 横井小南 肥後細川氏の研究 肥後文献解題 熊本藩侍帳集成 近世における在町の展開と藩政 幕藩制の成立と近世の国制 熊本藩町政史料 熊本藩農業水利史 肥後藩国事史料 熊本の明治秘史 講座日本歴史7近世1 熊本県教育史 明治の熊本 市史研究くまもと(雑誌) 参考文献:鹿児島 島津家文書 島津家文書目録. 第1 分冊、第2分冊 -- 改訂 版. 山本博文 編. 東京 大学史料編纂所, 2002.1. 樺山資紀略年譜 1983:台湾探査 1996:初代台湾総督(学務部長伊澤修二) 欧州視察(海軍拡張計画) 海軍大臣 警視総監(かつて鹿児島で最初の警察官養成) 文部大臣(上田万年、沢柳政太郎登用) 参考:ラジオドラマ「樺山資紀」1939(皇民化劇) 樺山資紀と赤星家(『父、樺山資紀』1988=井澤弘編、 解説:広瀬順晧=国会図書館憲政資料室) 三浦、大久保、赤星五郎、岸田弘の諸氏のすすめによって、私が樺山大 将の略伝のようなものの執筆を引き受けることとなったp169 橋口、赤星、千田等近親のものとの来往p326 M12/7/28:益満赤星同袖高田邸に至るp330 M13/1/21:愛輔留学を示談に及び己来を頼託す。本日赤星氏へ金三百 円銀行より貸借を頼談すp332 明治14年の政変、北海道開拓使事件=薩州出の五代友厚と中野梧一 等が開拓使に…p344 M20/317:赤星家内子供司軍にて舞子へ赴き…p381 M20/11/9:文蔵並びに赤星、同じく来る12日汽船にて英国へ航する筈p 386=アメリカ M20/12/18:八田大佐餅原早崎両大尉赤星等出迎えすp389=英国 最初の台湾総督府官僚(『台湾全誌』) 民生局長:水野遵 内政部長:牧朴眞 外務部長:杉村濬 殖産部長:橋口文蔵 学務部長:伊澤修二 内政部庶務課長:後藤祐吉郎 内政部警保課長:千々岩英一 内政部土木課長:竹下康之 殖産部農務課長:押川則吉 殖産部商工課長:仁禮敬之 淡水税関長:野村才二 参事官兼税務課長:中村純九郎 参事官兼税務課長:樺山資英 参事官兼税務課長:大久保利武 参事官:西郷隆準 参事官:服部甲子造 官房秘書課長:木下新三郎 官房記録課長兼用度課長:木村匡 秘書官:鈴木四教 台北県知事:田中綱常 台中県知事:児玉利國 台南県知事:古壯嘉門 その他:古壯韜、龍國信熊、安田偸逸、 有川貞壽、志水直、柴原亀二、水野 良助、相良長綱、河野主一郎、島田 祐信、永田巌、宮内盛高、西郷菊次 郎、伊集院兼良 赤星義雄 臺灣藝術新報:日治時期重要的電影相關雜誌。創刊時間為1930年9月, 原編輯者為橋本白水,每本大約20頁左右,發行3期之後便停刊。之 後,赤星義雄接手經營臺灣藝術新報社,並於1935年8月以該刊「創 刊號」名義繼續發行,擔任發行人暨編輯者,之後並由其子赤星末男 繼續編輯,頁數增至40多頁。赤星義雄並經營「臺灣藝術通信社」, 發行《臺灣演藝と樂界》雜誌。該刊物之內容分為電影、演劇、音樂、 文學等等,其中,關於電影方面的資料,包括影評、介紹、廣告、影 人及電影圈動態等等的消息相當豐富。 洪雅文 撰 裏川大無,《臺灣雜誌興衰史》,1939 橋本白水 4000-1.jpg 《臺 灣藝術新報》第5卷1期。 PDF檔:PDFFiles/1176.pdf 本數位作品授權行政院文化建設委員會國家文化資料庫存檔及網際網路永久非商業性使用。 著作權 授權狀態:[20040518,] 2004-05-18 中文 黒田清輝と樺山家 樺山家所蔵品 湖畔 読書 樺山資紀 森中 樺山愛輔の従兄弟 赤星義雄:著作 赤星南風「皇民化劇を旺んにさせたい」『台湾芸術新報』5/5、 1939.5.1 赤星南風「台湾芝居に代る皇民化劇」『台湾芸術新報』5/7、 1939.7.1 赤星南風「台湾芝居を断然禁止せよ」『台湾芸術新報』5/8、 1939.8.1 赤星義雄「本島演劇の聯盟を期待す」 『台湾芸術新報』5/11、 1939.11.1 赤星義雄編『臺灣の奇習』 臺北 : 財界之日本臺灣總支社, 昭和10[1935] 國立中央圖書館臺灣分館 SX 0759 102ア 附註 臺分已另拍微捲. 排架號:629 参考:無記名「皇民化劇の勃興を希む」『台湾婦人界』9月号、 1938年 赤星末男 赤星末男編『本島警察官昭和美談集』 臺北 : 臺湾藝術新報社, 昭和12[1937] 國立中央 圖書館臺灣分館 SX 0718 24 赤星義雄の子 赤星四郎 1934年間世界高爾夫名將Water Hagen(左一)與日本高爾 夫名人赤星四郎(左二)到台灣高爾夫俱樂部視察 赤星四郎と台湾ゴルフ界 1934年2月間,趁日本高爾界名人赤星四郎訪台之機,敦 請該氏對本俱樂部正在規劃改建之球場提出意見,並基於 赤星四郎之建議更大規模改建為6,530碼、標準桿70桿的 Championship Course 因此該俱樂部自全長僅1,224碼六 洞時代至此十數次之擴建,18洞的建設工程始完成。 新淡水球場興建於1969年,由日本球星赤星四郎與「台灣 高爾夫之父」 陳金獅共同設計規劃而成。 ... http://www.golf.net.tw/course/taiwan/mark-2.asp 赤星弥之助 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説. 赤星弥之助: あかぼし-やのすけ 1853-1904 明治時代の実業家。 嘉永(かえい)6年生まれ。磯長孫四郎の子 で赤星家の養子となる。東京にでて,金貸し 業その他の事業に関係し財をなした。明治 37年12月19日死去。52歳。薩摩(さつ ま)(鹿児島県)出身。 美術人名辞典索引 赤星弥之助:あかぼし やのすけ 実業家。鹿児島県生。裏千家円能斎に茶湯 を学び、天下の名器の蒐集につとめた。ま た井上馨の邸宅を購入し、山雲床の席を写 し、たびたび茶事を催した。明治37年 (1904)歿、52歳。 右の弥之助像は黒田清輝画(平塚市立美 術館蔵) 赤星弥之助の家族 赤星弥之助は薩摩の出身で、長沢鼎氏は実兄。 長沢氏がイギリス留学の際に同行した五代友厚に師事し、神戸港の築 港工事を引き受けて大金を得た。 旧薩摩藩の海軍御用掛をやり、日清戦争後は、母方の親戚に当たる樺 山愛輔のエージェントをやった。 英国アームストロング社(本社マンチェスター)の代理店となって、鉄砲商 を営み巨万の財をなした。 48歳という若さで亡くなっているものの、子宝にも恵まれ、長兄が鉄馬、 その下に次男兵造(早世)、喜介、四郎、五郎、六郎。その他に、長姉シ マ、次女てる、三女トヨ、四女房子、五女フミ、末妹がスエがいた。六男六 女で、母親の静は十三歳で結婚しお腹が空くのには随分と歳月が過ぎた 事だろう。 赤星弥之助邸 赤星弥之助は樺山資紀(かばやますけのり)と親戚関係で薩摩系の御用 商人である。明治37年頃に東小磯425外地籍約一万坪へ別荘を構えた。 門を入ると広い砂利道を囲んで植え込みがあり山の麓にある洋館の玄 関に続く、ジョサイヤ・コンドル設計である。 赤星鉄馬とブラックバス(Wiki) 鉄馬は明治37年(1904)、父親が47歳で没すると、大学を卒 業した鉄馬は帰国して赤星家を継ぎ、大阪の開業医の娘と 結婚。政府関係者の視察に随行して、新婚旅行で世界一周 した。しばらくは父親の事業を引き継いでいたが、武器商い は肌に合わず、文化面にシフトを変え、日本で最初の学術財 団である『啓明会』を設立した。 大正7年の6月22日には箱根・芦ノ湖にブラックバスを初め て放流している。ブラックバスを選んだ理由は、「食べて美味、 日本人の嗜好に十分適するもの。これが第一。釣魚として面 白く、しかも1年中釣れ、見た目もよく大型に生育する。市場 に出して価値のあるもの」として実行に移した。 赤星鉄馬 赤星鉄馬(あかほしてつま)1883(明治16)年~1951(昭和26)年 享年68歳。 赤星弥之助(1855-1904)、静の長男として1883(明治16)年1月11日、東京に生まれる。 鉄馬15歳。 東京中学卒業後アメリカに留学。 ロレンズヒルズ高校、ペンシルバニア大学卒業。 父弥之助は留学の際、「おもいっきり楽しんで来い、ただ一つだけ、何でもいいからアメリカのスポーツを 習得して来い。日本にもハイソサエティーな人間が居る事を思い知らして来い。」と鉄馬に月2000円、現 在のお金に換算すると2800万円を仕送りしていた。 ホテルから高校に通っていたり、車に乗り回していたり、その頃の新聞にも掲載されたりもしていたらしい が、学業の方も優秀だったように言われている。27歳で帰国し結婚する。 弥之助の死後は家を引き継いだ。 本邸は東京・麻布の鳥居坂にあり、現在の国際文化会館である。 後に家を売り、母親の静は大磯の別荘に、鉄馬は吉祥寺に三万坪の土地を買って引っ越す。 ワングリーンがあったというから広大な敷地だったのだろう。 現在はその一部を成蹊大学が使っている。 弥之助の死後は跡を継ぐものの直接的な軍需産業にはなじめず、牧場経営を中心にしていたが、素封 家として社会にも貢献していたらしい。 父親が亡くなった後も弟達もアメリカの高校、大学に進み、卒業している。 兄弟みなゴルフが好きで日本ゴルフ界に貢献しているが中でも、六郎は第1回日本オープン優勝者でも ある。 鉄馬は東京ゴルフ倶楽部が発足したときの発起人の一人、樺山愛輔(日本製鋼所社長)に誘われ、会員 になっている。 1945(昭和20)年には神奈川県大磯に疎開する。 1951(昭和26年)11月9日。68歳で病没。 長沢鼎(Wiki) 長澤 鼎(ながさわ かなえ、本名:磯永彦輔、1852年 - 1934年3月1日)は江戸時 代の薩摩藩士。薩摩国出身。13歳の時藩命でイギリスに留学し、後にカリフォル ニアに渡り「カリフォルニアのワイン王」「葡萄王」「バロン・ナガサワ」と呼ばれる。 経歴 [編集]生家は代々天文方で、父親の磯永孫四郎は儒学者。 1865年(慶応元年)、13歳のときに森有礼、吉田清成、五代友厚、鮫島尚信、寺 島宗則らと共にイギリスに留学する。他の留学生はロンドン大学に入ったが、長 澤は年齢が入学年齢に達していないために、スコットランドのアバディーン・グラ マー・スクールに通う。貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの実家に世話になるが、 藩の財政事情が悪化し多くの薩摩藩英留学生が帰国すると、慶応三年、森ら6名 で渡米しトマス・レイク・ハリスのキリスト教共同体「新生社」に入る。後にハリスは 他のメンバーに帰国促したが、長澤は唯一人アメリカに残り、教団の経営のため にワイン醸造をニューヨークのブルックリンでジョン・ハイド博士から学び、葡萄農 園を中心とする農業で財政を支えた。 1875年、教団はカリフォルニアのサンタローザにワイナリーを開いた。し かし新生社の異端思想に対し、新聞が反教団キャンペーンを行ったため に、ハリスが引退すると教団は事実上解散した。 1900年長澤はワイナリーを教団から買い取り、品質向上に努力し、彼の ファウンテングローブ・ワイナリーをカリフォルニア州10大ワイナリーのひ とつにまで育て上げた。彼のワインは米国内のワインコンクールで好成 績を納め、イギリスに輸出された最初のカリフォルニアワインもナガサワ・ ワインである。 生涯独身を貫き、83歳で死ぬと、ワイナリーは甥の伊地知共喜が継ぐ。 その一部はパラダイスリッジ・ワイナリーとして継承されている。 長沢鼎の肖像 長沢鼎に関する書籍 1983年日本を訪れた レーガン元大統領は 「長沢は日米国に貢献 した。」と彼を称えまし た。 白洲正子自伝 カバーに掲げた写真は、宮中 へ参内するため大礼服を着て、 庭で撮影している所へ私が幼 稚園から帰って来たので、つい でに撮ったものである。祖父は そっと抱いたつもりでも力が強 いので息苦しく、おまけに沢山 つけた勲章のとげとげが背中 にささって痛かった。不機嫌な 顔つきをしているのは一生懸 命我慢していたからである。 西郷菊次郎 西郷菊次郎肖像(西郷菊次郎と台湾 より) 赤星勝次郎(公文類纂10074-4-20) 1893:生まれ(原籍:熊本県熊本市迎 町88、士族) 1911:東京私立錦城中学卒 1913:総督府国語学校臨時教員講習 科終了 1913:乙種公学校教諭免許取得 1913:鳳山公学校教諭 1914:鳳山公学校山仔頂分教場教諭 1913:鳳山公学校翁公園分教場教諭 1917:台南第一公学校教諭 1919:苓雅寮公学校長 1922:甲種公学校教諭免許取得 1923:楠仔第一公学校長 1926:高雄州郡視学 1928:兼任高雄州郡属東港郡勤務 1928:昭和大礼記念章授奨 1929:鳳山郡勤務 1931:叙勲八等瑞宝章 1932:屏東女子公学校長 1933:叙従七位 岡山農業専修学校長 雲林忠義祠 http://talin5814.web.fc2.com/war/iwe_stud y/9/choni_temple.htm 赤星羽壽 府県族籍:熊本県平民 旧氏名:野中羽壽 出生年月:明治9年6月26日 産地:熊本県菊池郡加茂川村 原籍:同上 M30/6/10:台湾総督府測候所技手 T7/11/13:台湾総督府燈台看守 赤星泰 府県族籍:熊本県士族 旧氏名:渡辺泰 出生年月:明治21年3月11日 産地:熊本県上益城郡浜町 原籍:同上 M40/3/27:熊本県八代中学全科卒業 T1/10/1:台湾総督府民生部財政局勤務ヲ命ズ 赤星三郎 府県族籍: 旧氏名: 出生年月:明治31年1月3日 産地:熊本県下益城郡西砥用村 原籍: T7/3/9:熊本県立済々興卒業 T7/7/13:大阪住友銀行雇 T11/4/1:下益城郡西砥用村尋常小学校訓導心得 T13/6/17:台湾運輸株式会社 赤星永喜 府県族籍:熊本県下益城郡西砥用村 旧氏名: 出生年月:明治14年8月10日 産地: 原籍: M44/2/10:後備役陸軍歩兵伍長台東庁巡? 査 毛利琢磨 台湾でエスペルゼン式教授法を実践 熊本県玉名郡士族 宮崎滔天(Wiki) 宮崎 滔天(みやざき とうて ん、明治3年12月3日 (1871年1月23日) - 大正 11年(1922 年)12月6日) は、日本で孫文達を支援し て、辛亥革命を支えた革命 家、および浪曲家である。 浪曲家としての名前は桃中 軒 牛右衛門(とうちゅうけ ん うしえもん)。 『三十三年の夢』(全集1:p26) 余や此寒村の名族たる古の所謂郷士の家に生まれて、旦 那々々と崇められ… 父は…撃剣の道場を開いて子弟を教導せられ…、手作りの 西瓜を馬に着けて、親ら村中の老人、病者を恵み廻り玉ひし ことも記憶せり、時に酒に酔ふて大声を発し大手を広げて無 作法に歌い舞ひ玉ふその面影の恐ろしかりしこと…、豪傑に なれ、大将になれと、日に幾度となく余が頭を撫でて繰り返し 玉ひしこと…。 常に戒めて、畳の上に死するは男子何よりの恥辱なりと教え 玉ひたり 而して、余が親類縁者や、村中の老爺、老婆等は、皆言を極 めて兄様のようになりなさいと煽りたり
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