おはようございます。本日は前回に引き続き「幸せと不幸せ」についてお話しさせて頂き ます。 前回は、「福禄寿」を正しく動かすことが大事だとお話ししました。今回はそれを踏まえて、 苦しみを消し、幸せを得るために目を向けて頂きたいこと、世の中を見極め、真実に気付く 大事についてお話ししましょう。 お気付きですよね。既に物質文明は行き詰まっています。お金を出して取り寄せれば現 地に行かなくても世界各国の食べ物を口にできますし、次から次へと開発される新しい品 物を手に入れることができます。しかし世の中が進歩すればするほど、便利になればなるほ ど、逆に直感や実感がにぶくなり、人心がよごれ、身体能力も落ちていきます。こうした現実 を冷静に受け止めた時、もはや物質のみでは本当の価値には到達できないこと、そして心 の大切さを知らねばならない時に来ていると感じます。 まず第一に、自分勝手な価値観という色眼鏡で見ているうちは、本当のものは決して見 えません。形だけに執着することをやめさえすれば、実は形あるものなど存在しないことに 気づきます。 財産、地位、名誉など、人が作り出したいつか壊れてしまう有限のものは、心や魂にとっ て本当に必要でしょうか。魂を救い、因縁の解消ができるかどうかは、形あるものに執着を 持たないことが、必要なのです。 執着を捨てる方法の一つとして、天道には「感謝の誠」という活動があります。家の中や 地域をほうきで掃いて、磨いて、片付けて、心を込めて掃除をすれば、たまっていた悪い気 もすっきりとふき取られます。掃除はその場所だけでなく人の心の汚れもきれいにします。 ただただ一生懸命掃除をすることで、見えない悪い気や心の汚れ、執着心も消えていきま す。 社会にも世界にも、「目に見える汚れ」と「目に見えない汚れ」があります。世界にたまっ た悪い気を心を込めて清掃していけば、世界を変えることすらできるのです。 おしゃか様の弟子のひとりに清掃で悟りを開いた僧がいます。冥迦様とおっしゃいます。 冥迦様はとても物覚えが悪い方でした。自分の名前さえ忘れてしまうほどでしたが、おしゃ か様から与えられたほうきで、くる日もくる日も何年も一心不乱に掃除を続けるうちに、心の 塵や垢をまでも落とし、悟りの境地に達したのです。 世のため人のために、一つのことを一心に行うことは、どんな立派な地位や優秀さにもか なわない大きな徳を積むことができるのです。天道では、この冥迦様にならい、一心に実践 することをもって自分を修め、世直しをしていく感謝の誠の活動を大切にしています。 感謝の誠の実践はお掃除だけではなく、社会奉仕や自然環境保護運動、自然の恵み に感謝する農業も行います。感謝の誠を通して、執着を捨て去り、自分の生き方を見つめ なおす機会となります。 次に人生に於ける苦しみの尺度、幸せの計りを考えてみましょう。人はよく、他人と自分 を比べては、自分の不幸を嘆き、人生に苦しみます。でも、それは単に他の畑が良く見え ているだけで、他の人も、必ず悩み苦しんでいます。自分の人生は自分の為にあります。 因縁を解消し、自分自身が徳を積んで、過ちを反省し改める為の人生であることに気付け ば、他人と見比べる必要はありません。 また、ねたみやおごりなども、他人との比較から生まれます。このようなマイナスの感情に とらわれ続けていると、日常生活にも悪影響を及ぼし、悲しい人生となってしまいがちで す。 他人の不幸を自分の境遇に照らし、優越感を持つ場合もあります。自分一人、あるいは 家族、同族のみの幸せを求めた結果、次には大きな不幸を招いてしまいます。これが厳し い因果応報の鉄則なのです。 小さな考えから脱するには、与える幸せを知ることです。 全ての苦しみの根底には執着があります。他人の動きにとらわれるうちに、幸せを得る好 機を逃すこととなって、後悔やねたみや苦しみが絶えず生じることとなってしまいます。この 苦しみを解消するには、執着を捨てること。与えることです。今の境遇を受け入れ、他に幸 せを与え続けること。他人の幸福が自分の犠牲の上にあるならば、これほどの幸福はない のです。 天道総天壇領導理事長、徐錦泉明師は常に与えて求めない心を説かれます。「すべて の者が幸福になってこそ真の幸福が得られます。収穫があれば皆に分け与え、寄ってくる ものを決して拒んではいけません。どうぞいらっしゃいともろ手を広げて迎え入れる心の広 さが壁を破ります。 おいしい蜜があれば人は自然とよってきます。寄ってくる人々に対して笑みを絶やさず、 求めに応じて喜んで密を差し出すのです」。 徐錦泉明師は客家のお生まれです。与えて求めない、客家の教えを守り続け、集まる信 者さんには必ず食事を出されました。五十年以上たった今もその精神は変わることなく、弥 勒寺に参拝にこられる信者さんに、「ご飯は食べたか。ご飯を食べて帰りなさい」と気さくに 声をかけられます。皆のおなかを満たすことを第一に考えられています。 昭和39年に天道に入って以来、多くの方に人道を伝え、縁を結んでこられました。皆で 伝道に赴くときにはご飯を何升も炊いて全員におにぎりを作って持たせ、来る人には必ず 食事をふるまわれていました。しかも組織のお金を一切使わず、私財をなげうって人々に 惜しみなく与えられてきたのです。来ていただいたからには喜んで帰ってもらいたいという おもてなしの表れでした。与えてもとめない心。それが私達が本来持っている、神仏と同じ 大愛であり、幸福です。 しかし与え続けても、その根本が定まっていなければ、身体や精神、魂を苦しめるだけの ものとなってしまいます。その根本、根源こそが、天道で説くところの魂の救いなのです。魂 の救いのもとで、見返りを求めず与え続ける幸せこそが、本当の幸せです。永久に崩れるこ とのない至福です。 それでもまだ、ただお金や欲の為に、自分の尊い一生を、いたずらに終わらせてしまい ますか。世の中には形ある財産や地位というものを重視する価値観が多くあります。出世の ためには一切、身の振り方を反省せず、他への思いやりも持たず、また家族の幸福のため には隣の不幸を何とも思わない。より美しく、多く、広くと衣食住を求め、それを実現しようと 心を擦り減らし、身を削り、最も幸福だと錯覚する。ところがそうまでして築いた山のような財 産は、時として子孫に争いを生み、罪業をつくり、一族を堕落へと導く種となってしまいま す。 これでは本当に幸福な一生と言えません。働いていた時に流した苦労の汗と悲しみの涙 が一変してしまうのです。その時に初めて、物質を支配したかに見えた一生が、実はその 物質の奴隷であったということを実感します。 本来、人の心は人を大きく愛することを欲します。魂は神仏を信じることを願います。心の 働きは自己を犠牲にしても、人を救うようにできています。魂は自らを顧みず、大いなる天 の意志に沿うことを求めています。 たとえ、一生を終える時に、一銭のお金も無く、粗末な衣服を身に被い(まとい)、その一 生が魂の救済に尽くしたものであって、多くの人に喜びや笑顔を与えるものであれば、心の 平安を得、魂は安らいで、この世の修行を終えた時に、魂の故郷へと帰ります。 8月3日、旧暦壬辰歳6月16日、今日の徐言 「人道でつくられる偏りのない世界」 人は天地の要であり、人のあり方によって、世界は変わっていきます。 人道でつくられるもの。それは偏りのない世界です。偏れば悪念が生じ、悪循環を生み ます。一視同仁の人道をもってすれば、美しい心が結ばれる平等幸福社会が創られるので す。
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