平成 24 年 1 月 19 日 「生活子育て相談から視える課題」 カトリック大阪大司教区 こどもの里 館長 荘保 共子 私は、宝塚で育ちましたが、戦後疎開先の福島で生まれました。戦前、父は台湾で「疱瘡」のワク チンを作っていましたが、戦争のため作れなくなり日本に戻り福島で牛を使って作っていたとのこと。 国産の「疱瘡」の接種者第 1 号が私の姉と聞かされています。戦後、日本の医学が全てアメリカナイ ズされ、真理が曲げられる事を許せなかった父は、勤めていた北里微生物研究所を退職、日本では職 に就けなかったのでJICAに入り、昔のセイロン等、第 3 国で家畜の病気、特にセタリアという寄 生虫を中心に研究していた学者、獣医でした。その後、国連のFAO職員としてソマリア、スーダン、 コンゴ、ケニヤにて、現地の獣医を育てながら自分の研究をしていました。そんなことで、私も、ア フリカ諸国を旅行するだけでなく、 2 年ほどソマリアで一番尊敬する大好きな父と生活していました。 アフリカに行くために訪れたアジア諸国は今より貧しく、アラブ諸国は今より穏やかでした。私が釜 ヶ崎に「怖さ」を感じなかったのは、いろんな国の人たちと出会ってきた経験にあると思っています。 釜ヶ崎の子どもたちとの出会い 釜ヶ崎の子どもたちとの最初の出会いは、22 歳の時、教会の青年会の活動で、西成市民館で行な われていた「土曜学校」という子どもたちに勉強を教えるボランティア活動に参加したときでした。 その日、 「釜ヶ崎の子どもたち」と出会って、衝撃を受けました。当時私は、 「幼児生活団」で働いて いたのですが、そこの子どもたちと西成市民館で出会った子どもたちのあまりの違いにショックを受 けました。何が違うかと言うと目の輝きが違ったんです。なんでこんなきれいな目をしているのか。 やることは粗暴だし、言葉も荒いのですが、その子らの目の輝きに圧倒されてしまいました。その目 に引かれて、すぐ市民館にある「わかくさ保育園」に転職しました。それまで釜ヶ崎のことは名前さ え知りませんでした。 アフリカ行きのためわかくさ保育園を退職、帰国後、同和地区にあるひかり保育園で働きながら 金井愛明牧師の「いこい食堂」や、サントリーの「今宮診療所」にあった愛徳姉妹会の「寸法直し」 の店でボランティアをしていました。その寸法直しの店員から「結核」の病をもらい、全治はしまし たが今も1センチの穴が肺に開いています。その間、自由に安心して遊ぶことが出来ない釜ヶ崎の子 どもたちの「遊び場」を保障したいとの想いがつのり、聖フランシスコ会のハインリッヒ神父のお姉 さん宅にホームステイし、ドイツにて幼稚園と保育所で研修させてもらいました。 1977 年、ハインリッヒ神父が、老人対象の「ふるさとの家」の 2 階を子どもたちの場として解放 してくださり、学童保育「子どもの広場」を開設しました。公園やゲームセンターに足を運んで一人 ひとり子どもに声をかけると、すぐに 60 人を超える子どもが集まってきました。 ① 子どもの「ごっこ遊び」を介して日雇労働者の子育ての困難さ と 子どものしんどさをを知る 子どもたちは、大人の世界を模倣して、その模倣を繰り返すことによって、自分の中に生活のエッ センスとして取り入れていきます。子どもたちがする「ごっこ遊び」の中に、親子の生活が見えてく るんです。 事例1 実寸の 4 畳半、或いは 3 畳の大きさにブロックを組んだ住まい。その部屋にお父さんとお 母さんがいて・・・ 「よっしゃ!今日は、仕事行ってくるわ。」 「行ってらっしゃい。」 ・・・・ しばらくして・・・・ 「あぶれたわ。酒ひっかけに行くわ。」 「もう父ちゃんはいつも酒ばっか り飲んで!」 え? あぶれた?あぶれたって何?あぶれたって 3 歳、5 歳の子がいうんです。失業のことだったん です。 1 隣の部屋では、2 人の子が重なり合って「ウッフン、アッフン」 事例2 学校ごっこで先生役はいつも学校に行っていない子。自分が先生から言われたことを言い ます。「なんで毎日学校へ来えへんねん」「だって、お父ちゃんおれへんもん。」「なんでお らんのや?」 「飯場行ってる。」あるいは「出張行ってる。 」 え? 飯場って何?子どもを置いて、どこに出張してるの? 「あぶれ」や「飯場」等日雇い労働の形態等も、子どもたちの遊びから教わりました。そして、ご っこあそびや激しいまでの遊びの裏に見え隠れしていたのは、生活そのものの不安定さでした。それ は日雇いという就労形態で生活を支える保護者の抱える問題だったのです。日雇ですからお父さんは、 朝 4 時に起きて仕事に行きます。残された子どもは自分でご飯をして、自分で出かけなければならな りません。だけど、段々夜更かしするようになってだんだん寝坊して、遅刻して、そのうち長期欠席 になる。 「じゃあ、お父さん、やっぱり一緒に生活して子どもを学校に送り出してください」と言っ て、お父さんが仕事を減らし子どもの面倒を優先すると、今度は現金が入ってこない。なので、足ら ずを生活保護でみてもらいたいと相談に行くと、 「お父さんは仕事できますよ。出来ないなら子ども を施設に預けなさい。 」と言われる。 「いやいや、一緒に生活したいんや。もういいです。 」となる。 母子家庭なら「母子寮」がある。しかし、父子家庭には「父子寮」は日本の福祉制度にない。日雇労 働者が父子で子どもと一緒に生活するということは、大変なことなんです。 ようやく釜ヶ崎の現実を子どもを介して知ります。この日雇労働で就労する父を持つ子どもと関わ るということは、基本的な生活習慣を身につける環境作りから子どもの生活権の保障、住まいの確保 など、教育以前の問題である「子どもが生きる」それ自体への手助けをすることでした。 でもそれ は、なにも父子家庭だけではありませんでした。生活を保障された母子家庭に於いても、種々の病気 を抱えている母を持つ子どもと関わるという事は、 「子どもが生きる」それ自体への手助けが必要で した。 ② 釜ヶ崎に、生活の不安定な家族のための一時避難・保護場所を! 生活の不安定は家族にたびたび親子分離をもたらします。親が病気になった、出産する、家賃を払 えずロックアウトされた、 そんな時、子どもは突然いなくなります。児童相談所に保護されるのです。 その間、子どもたちは学校に行けず、知らない場所で一歩も外出することなく親が引き取りに来るま で、今日か今日かと、ひょっとしたら迎えに来てくれないのではないかと不安の毎日を過ごさねばな らないのです。子どもたちに面会に行くうちに、釜ヶ崎の中に一時保護する場があれば、子どもたち は住み慣れた地域で同じ学校に通い同じ友だちと過ごし、親に面会に行ったり逆に親が仕事を終えて からでも面会に来れるじゃないか。出来るかぎり環境を変えずに子どもの心の安定を図り地域の中で 子どもを守ることは、子どもの最善の利益であり子どもの権利擁護になると考え、子どもたち・親子 を受け入れてきました。遊び場は、寝る場所がなかったり、親からの暴力があったり、借金の取立て があったり、そういうことから逃げてきた子どもたち、親子の緊急避難の場にもなりました。ただ、 避難中の親子の生活費等はすべて、こどもの里の負担でしたので、仕事の合間に路上バザーを開催し、 資金を調達しました。 この活動が行政からの依託という形になり必要経費を負担しなくて良いようになったのは、1977 年から 23 年経った 2000 年のことです。里親に認定され、一時保護委託で子どもが宿泊出来、長期に わたる子どもの生活の場は「家庭養護寮」として指定されました。そして、2010 年には、小規模住 居型養育事業に移行し「こどもの里ファミリーホーム」となりました。 ③ 釜ヶ崎の子どもたちの生き様から知った子どもたちのもつ力 釜ヶ崎の子どもたちの生き様のごく一部の事例です。 事例 3 お金を 100 円ちょうだい」と手を出している子ども ただただ、 「そんなことしない方がいいよ」と、何回も繰り返す小学 4 年と 5 年の兄妹に伝えていた。 その理由を、彼らが中学を卒業してから話してくれた。兄妹は度々大阪から電車で 1 時間ほどの父親 の実家に借金をしに行かされた。その日も交通費を渡され借りに行ったが、余りに何回もなので家の 2 前で足がすくみ、敷居をまたぐことが出来なかった。帰りの電車賃のなかった 2 人は、そのまま線路 づたいに歩いて帰って来たという。父親に怒られ、そして 2 人はパチンコ屋に行き、 「100 円ちょうだ い」とおっちゃんたちからお金を集め、或いは、手伝いをして小銭を稼ぎ、父親に持っていっていた のだ。 事例 4 朝寝坊してなかなか学校にいこうとしない女子中学生の心のおくにある悲しみは? 日雇いのお父さんと知的障がいを持つお母さんと Y ちゃんの3人で生活していた。両親とも文盲で あったため、中学入学の手続き等両親の代行をしていた。入学後、徐々に登校が遠のいていった。朝 寝坊してなかなか学校に行こうとしない。どうにかこうにか中学校を卒業。後、自立したいからと就 職活動のため。 事例 5 の子と共に、こどもの里で生活していた。 ある日、2人でお酒を飲んで帰って来たように思えるのだが、部屋に入るなりYちゃんが泣き出し た。1時間もっと号泣し続けたか、ようやく泣き咽ぶ合間に吐き出すように言った言葉は「大人は汚 い」 「大人は大嫌い」 「誰も助けてくれへん」「この体の血を替えてほしい、私の中にもお母ちゃんの 血が流れている。汚い、替えて・・」と右手で左腕を何度も何度も 捥ぎ取った。ただ聴くしかなかった。 Yちゃんは嗚咽しながら話した。 「アパートの管理人が小学 5 年の時、自分の上に乗ってきた。隣の 部屋にいたお母ちゃんに助けて!助けて!って言ったけど助けてくれへんかった・・・。大人は汚い。 誰もたすけてくれへん」 なにも言えなかった。 「学校に言ったらおまえの母ちゃんパンパン(売春 婦)やと言われる。学校なんか何もおもろないわ」と、また泣き崩れた。そして最後に彼女はこう叫 んだ。 「それでも私のお母ちゃんや、お母ちゃん大好きやねん!」と。そしてまた泣き崩れた。 この言葉に体が震えたのを覚えています。こんな体験がYちゃんにあったんです。 「話してくれて ありがとう」それしか言えませんでした。放課後、飛んでくるように毎日こどもの里に遊びに来てい た、ふくよかな笑顔いっぱいのYちゃんに、こんな大変なことが背後にあるとは想像も出来ませんで した。こんな辛い悲しみを背負いながら中学時代を過ごしてきたのです。そりゃ、学校どころではあ りません。それなのにまだ「お母さん大好き」と言えるこの子の心に衝撃が走りました。この子たち の目の輝きはそういうことなのか、そして人を許すというのはこういうことなのか、と大切なことを 教えてもらいました。この体験が私の原点となりました。 彼女は、生活は苦しいけれど、頑張り屋の夫と母親思いの3人の子どもたちに恵まれ、精神病と認 知症を患っている母親を引き取り、家族皆で協力しながら介護し、3 年前に天国へ見送りました。現 在Yちゃんは、喘息を抱えながら私が受け持っている子ども家庭支援の境界性人格障害を抱える母親 の介護の仕事をしています。週日の午前、買物や通院に付き添い、掃除をし、投薬の管理をしてくれ ています。 事例 5 何度見つけて連れ帰っても家出を繰り返す小 6 の女の子。 小学校卒業後、突然いなくなる。 姉を追いかけるように弟 2 人も施設に入所。そして、両親は消えた。 小学校卒業後、突然いなくなったFちゃん。実は小学校を卒業後、自分から施設に行き中学の 3 年間を過ごしていた。帰る場所のなかったFちゃん。その日、家出を繰り返していた訳を話してくれ た。実は実父から性虐待を受けていたと言うのだ。家に帰ると父親が手を出してくる、それを見た母 親はふしだらな女の子だと包丁を持って追い出す。家を出るしかなかった。恐らく事情を知っていた 同級生が 5~6 人、Fちゃんの家出の度に一緒に家出をして彼女の辛い秘密を支えていた。そんなこ とを考えも出来ない私は、家出の度に追っかけ、見つけ出し、家に連れ帰っていた。その繰り返しで、 助けを求めて家出をしていることに気がつかない私に見切りをつけ、Fちゃんは自分から児童相談所 に駆け込んだのだ。 いったい私は何を見ているんやろう、家出をするたび探し出して家に送り返していた私は、子ども に向き合うと言いながら、何も見ていない自分をいやと言うほど知らされました。 事例 6 小学4年から毎日「今日の宿題はこれ」とこどもの里で宿題をし、 3 本を読みあさるほっぺにそばかすのある明るい小学 6 年の女の子。 友達と 2 人、いつも元気にやってきて宿題をしていたJちゃん。時々、メモ用紙を持ってやってく る。メモには「ミルクがありません。米がありません」と書かれている。現金の代わりに、現物を渡 し対応する。明るいJちゃんの顔に一瞬暗い影がよぎる。すまなさそうな様相にこちらも何も言わな い。本来なら親が来てしかるべきことを子どもにさせる。4 人の弟を持つJちゃんが小学 6 年の時、 最後の運動会だと見に行った。ところが探してもいない。友達に聞くと「風邪ひいたというとったで」 。 昨日あんなに元気だったのにおかしいなと思いながら観ていると、私の背中をトントンと叩く人がい た。友達のお母さんだ。 「あんた知らんかったん?あの子学校いってないんやで。 」実はJちゃんは不 就学児だった。5 年の弟も学校にいっていなかった。私は跳んで行ってお母さんに話を聞いた。両親 は既婚者同士で 5 人の子どもたちを入籍できずにいるとのこと。つまり子どもたち 5 人共、戸籍も住 民票もないのだ。Jちゃんとその友達と弟たちは 3 年間も私たち大人に対して、自分たちが学校に行 っている演技をし続けていた。学校をあきらめていた親子は、皆が学校にいる間家で勉強し、皆が帰 ってくると家から出てあそびにきていたのだ。「学校に行きたい?」と聞くと、 こっくりとうなずき、どっと涙を流した。学校側は6年間も学校に行ったことが無い彼女に1~2 年遅らせて就学させようとテストをした。算数は出来なかったが、国語はバッチリ。友達と宿題をし 本を読んでいたからだ。運動会から3日後、彼女は 6 年生に弟は 5 年生に入学した。その後も戸籍を とるために、出生証明書の確保、母親の前夫と 5 人の子ども間の親子関係不存在の証明のために家庭 裁判所にも行った。その存在すら知らなかった母親の前夫との子ども、彼女からは姉に当たる人にも 初めて会った。4 人を抱える生活が待っていた。姉弟がばらばらになる施設入所を拒否したJちゃん に、後見人としてサポートすることで彼女を筆頭に生活保護を受給し、子どもたちだけの生活が始ま った。一番下の弟がまだ4歳のときだ。高校を卒業して老人施設で2年働いた彼女は、学校の先生に なりたいと生活保護のケースワーカーに相談に行った。「生活保護をもらっている人が大学に行くな んて、もってのほか。自分の置かれている立場を考えろ」と健もほろろに追い返されタと言う。高飛 車な行政の言葉に 2 年間の一口 1000 円のカンパをつのった。お蔭で短を卒業出来た。いつも明るい そばかすのある女の子の生き様だ。 事例 7 たびたび万引きをする小 6 の男の子 両親と姉一人兄 3 人とM君の 7 人家族。彼が小学 3 年のとき、母親と姉、長男が家出。日雇いの 仕事 5 年生の時。残された 3 人兄弟は施設行きを拒否、この家族を良く知っていた近所のおばさんが 後見人となり、3 人の子どもだけの生活が始まった。まだ中学生だった上の兄は地域のすし屋で放課 後働き、真ん中の兄は新聞配達をし、彼は掃除、洗濯、食事つくりの役目を持たされた。それだけで なく、学校に行く前3人ともおばさんの店出しを手伝わされていた。釜ヶ崎の古道具屋は早朝 4 時か ら開店する。きつい仕事だ。育ち盛りの 3 人の男の子の食事を任されていたM君は、いつもおかずが 足らないと出費予定額では賄いきれず、買い物をして帰る内ポケットには肉のパッケージが度々入っ ていた。他に、鉛筆や消しゴムを万引きする子もいた。要するに、生活する上で必要なもの、お菓子 でなく食材や学校の必需品を失敬していたのだ。 子どもたちには、いろんな力がありました。 問題解決力、自己治癒力 レジリアンシー、人と つながろうとする力、感じる力、個性の力、親を慕う力等は、輝く子どもの『内なる力』と『生き る力』です。 子どもたちの親を想う力には脱帽です。人は皆生まれながらにすばらしい力を持って います。過酷なしんどさを抱えた子ども程その生き様に光が注がれる様に思えてなりません。 当初、私はいろいろ子どもに教えてあげようとしていました。しかし、子どもたちと遊び、関わる 中で、何かしてあげようなどと思っていたことがどんなに傲慢な気持ちであったか、とんでもない勘 違いをしていたと悟らされました。子どもと付き合うということは、子どもの生活そのものと付き合 うことです。今まで私が生きてきた中で私が得た「ものの見方」 「感じ方」 「考え方」から釜ヶ崎の子 どもたちの生活をみると、 「非常」なことばかり。自分の物差しでことを判断しても何もできない自 分、器に入りきらない自分がいるばかりでした。まず、自分の物差しを疑い、それまで当たり前と思 っている世界を疑い、手放さなければ、子どもたちと付き合うことは出来ませんでした。子どもたち が抱えている困難の事実を、 「これもありか」と受け入れると、そこに「新しいものの見方」 「新しい 4 感じ方」 「新しい考え方」をしている自分に出会いました。釜ヶ崎の子どもたちが、20 年以上自分が 築いてきた「偏見」という衣を、一枚ずつ剥がしていってくれたのです。価値観をひっくり返してく れたのです。一人の子どもとの出会いは、新しい自分との出会いでもありました。それはまさに、自 分の生き方を問われ、何が大切かを教えてくれたのです。 ④ 子どもの不利益=親のしんどさ・抱える問題→親の人権をいかに擁護するか =支援の課題 子どもたちとつき合うということは、子どもが生きていること、子どもの生活そのものと向き合 い、それをサポートしていくことだと教えられました。結局、大人たちのしわ寄せを子どもが生まれ ながらにして背負って生きている、子どもの不利益は親のしんどさでした。だから子どもが生きると いうことは、 大人の生活、 しんどさも見ていかなければならず、親との関わりも大切になってきます。 子どもはどんな親であっても大切で大好きな「宝」ですから親を非難するだけでなく、何とか親子が 生きていけるようにしたいと考えていま す。主人公は子どもです。その子どもが親を自分達の仲間と思っている限り、私たちがどんなに困っ た親、どうしようもない親だと思っても、やはりそのつながりの中で見なくてはいけません。ここで は、家庭はないけれど、家族がしっかりとあります。 生活子育て相談から見える課題 その親が抱える問題とは、精神疾患や依存症ゆえに生活に子育てに支障が生じることです。長い間、 私は、起きる諸問題にただただ取り組み解決策を探すだけでした。でも結局何の有効な解決策はあり ませんでした。精神疾患者には精神疾患を治すこと、アルコール依存者にはアルコールを止めさすこ と、薬物依存症には薬物を止めさすこと、そうしないと何も変わらない、それが解決策だと考えてい たのだと思います。しかし覚醒剤絡みの母親と子育て上の問題が多くなり、「いったい覚醒剤ってな に?」と依存症そのものに疑問をもつようになりました。すると依存症のことも全く知らない自分に 気が付きました。 先ず、依存症とは何か知ろう。 依存を止めさすのでなく、依存症と付き合ってうまく子育てできる方法を知ればいい。 依存症であるためにどんな事が出来ないのか。どんなことを助けて欲しいのか知ればいい。 と思うようになりました。ちょうど大阪で「ダルク女性ハウス代表で当事者でもある上岡陽江さんの 話を聴く機会に恵まれました。そこで、思いもよらなかった言葉に出会い、目からうろこが落ちまし た。 「覚醒剤は、その人が死なないで生きていくための『自己処方』」 「覚醒剤依存者は、暴力をはじめとする理不尽な体験そのものを生き延びたサバイバーで、尊敬さ れるべき人」というのです。当事者の話を聴くことの重大さを知りました。 「生き延びたその後、今度は生きつづける為に様々な不自由をかかえる人」 私たち支援者は、当事者から生きるための様々な不自由を聴けばいいのだ、と気がつきました。 当事者とはどんな当事者からも当事者の話を聴けばいいのだ。そうすれば、支援して欲しいことが分 かるはずです。 その1、養育者が養護施設等で育ったり、或はその成育歴に「家庭」という経験がない親、と その養育者のもとで育っている子への支援のあり方 事例 8 兄妹 3 人がばらばらに生活している母子家族。 ≪+ギャンブル依存症+金銭管理能力欠如≫ 施設で育った母親のギャンブル依存症によって月の 3 分の 2 はお米もないというネグレクト状態で、 里子として迎え入れたのが5年前。中学生の兄と小 2 のAちゃん。その時1歳だったMちゃんは乳児 5 院に保護された。高校に入学した兄は、母親のもとに戻り母親と二人で金銭管理に努め、Mちゃんが 小学校に入学する時にはAちゃんも共に引き取り、家族が揃って生活するという目標を立て実家に戻 る。しかし、残念なことに、兄は数ヶ月もたたないうちに高校を辞めてしまう。高校生の兄一人の肩 には重すぎたのだろう。優しいという長所が弱点と現れてしまったのかもしれない。少年院には行か ずに済んだが執行猶予付で保護司の管理下にもいた。しかし彼は、一向に面会にも行かない母親に代 わり、乳児院とその後の養護施設にMちゃんの面会に時々ではあるが出向いていた。 いよいよ春には小学生になるMちゃん。兄は派遣の仕事で相変わらず自分の生活だけで精一杯の様 子。このままではAちゃんもMちゃんも大人になるまで施設での生活を余儀なくさせられる結果にな りそうだ。乳幼児期を母親と過ごしていないMちゃんが気がかりだ。母親もMちゃんにどう接してい いのかわからない。まず、Mちゃんが、 「おうちへ帰る」といえる環境作りから始めようと、当事者 である母親と兄、そして児童相談所、生活保護、Mちゃん、Aちゃん各担当とのケース会議を持った。 二人の話を通して今更ながらに驚き分かったことがある。二人には希望というか、こうなったらいい のにという家族の夢がない。と言うか、夢はあるが具体性がない。Mちゃんを「おかえり」と迎え入 れるために何をどうしたらいいのか分からない。例えば、一つの鍋をみんなで囲って食べるという、 いわゆる団欒をイメージ出来ない。 それは、母親も家庭=ホームを体験していないという生育歴に起因する。ならば、この家族の離散 状態は母親だけの責任でない。ひろく社会的責任でもある。つまり、母親自身が子ども期に子どもの 権利が守られず放置され続け、そのまま大人にならせてしまったという社会的構造・背景の責任であ る。私たちに出来ることは、Mちゃんを迎え入れるための準備の仕方、やり方等、具体を一つ一つ丁 寧に伝え、何をどうしたらいいのかイメージして自活的行動を促すことと考えた。強い仲間がいる。 Aちゃんだ。掃除・洗濯は完璧、料理も何とか。3月の下旬。初めてのMちゃんの「帰宅」は大成功! この経験をバネに、月 1 回「帰宅」作戦を開始。2 年間の時を経て、Aちゃんは高校に無事入学。 せめてAちゃんとMちゃんが同じ場所で生活してはと、ファミリーホームに住むAちゃんのもとに、 大舎制の施設に住むMちゃんを迎え入れることが出来た。次のステップは、母親のコミュニケーシオ ンのスキルアップだ。とにかく、丁寧に細かく出来ることを一つ一つ増やし、自信を持ってもらい、 母親のエンパワメントに期待するしかない。そして、ファミリーホームに住むAちゃんとMちゃんに は、退所した後、生活していく上で不自由や混乱が生じないよう、出来るだけ色々な生活体験をして もらえるように、工夫したい。それが、我々がお母さんにできる支援のあり方だと思っている。 その2、 うつ病や境界性人格障がい等の精神疾患を抱えながら子育てする母親 と その養育者のもとで育っている子への支援のあり方 事例 9 境界性人格障がいの母親と小学 1 年生と 4 歳の幼児の母子家庭 ・・・・・法整備が必要な具体例 母親の子どもへの愛情は思うように動けない自分を責めるほどにあり、子どももお母さんを慕い心 配し大切に思い大好きである。しかし、母親は薬の影響で眠気がひどく朝時間に起きられない。買い 物や食事作り、掃除、洗濯、風呂、保育園送迎もなかなかままならない。小学校へは週 3 回遅刻で登 校する状態である。 たとえどんなに母親が子どもを思っていても、子どもの立場から見ると子どもの置かれている状態 は大変である。朝ご飯は用意してない、時間も分らず学校へ、部屋はどこに何があるか分らないぐち ゃぐちゃ状態、風呂もたまにしか入れない、下着、服はどうするの、晩御飯は?宿題なんかどこです るの?まさにネグレクト状態である。 そんな中、子どもたちはといえば、まさに子どもたちの持つ力を発揮。何とか問題を解決しようと 食べるものがないと近くのコンビニに走りパンかおにぎりを買ってくる、何とかきれいな下着を探し て服を着て学校へ走る、 『あっ!また始まってる』勇気を出して教室へ入る。お母さんは今日はしん どくなければいいなぁと心配しながら家へ。思いっきり遊ぼうと外へ(自己治癒力)、帰るとご飯がな い、弁当を買いに走る。大好きなお母さんを必死に助ける。お母さんといっしょに居たいから、感じ る力をいっぱい持って・・・・・・。 この親子に子どもが虐待されていると、区児童虐待防止・子育て支援連絡会議(区要保護児童対策 6 地域協議会)の区保健福祉センター地域保健福祉課・子育て支援室を中心に、家事援助と子育て支援 が始まる。 現行の社会資源として① 障がい者手帳より 家事・介護ヘルパー ② 〃 訪問看護婦 ③ 母子家庭より 母と子の共励会 ④ 大阪市子ども家庭支援員 ⑤ ファミリーサポートセンター(時間 900 円) がある。 どの資源を利用するかは実務者ケア会議で討議され、当事者に勧め了解を得た後、手続きを経て開始 される。 然し、 「痒い所にはなかなか手が届かない」のが現状である。子どもにとって家庭は当然として、 次に主に一日を過ごす場所は、保育所であり学校である。この母親にとってその保育所への送迎とそ の学校への送り出しが困難で、まず朝の時間の支援が必要なのだ。ところがヘルパーは、起きられな い母親の代わりに子どもを保育所に送迎することは出来ないし、学校に送り出すこともできない。母 親本人が送迎するのを、送り出すのをヘルプするのがヘルパーの仕事なのだと断られる。そして子ど もは保育園に行かず家の中で過ごすか、或いは、遅刻して登校するか休学することとなる。幸い西成 区の殆どの保育所は、子どもの利益を考え保育所が送迎困難な家庭に迎えに行っている。学校も一部 電話して起こしたり時々迎えに行ったりしている所もあるが、大半は子どもが登校するのを待ってい て、時間通りに登校させない母 親に『これは虐待ですよ』と説教しているのが現状だ。この母子が「いっしょにいたい」という希望 を持っているのなら、その希望を尊重して、母親の病気がもとでネグレクトにならないようにするた めの支援方法を考え編み出す必要がある。ヘルパーの仕事枠の法基準の整備を要す。 その3、 金銭管理能力が欠如している親 と その養育者のもとで育っている子への支援のあり方 事例 10 お金を大人にせびる子ども、パチンコ店で足元のパチンコ玉を拾い集め、 大人たちに「100 円ちょうだい」と手を出している子ども 生活保護費を受給しながらも、とにかく家賃を払わず、1 年に 1 度はロックアウトをされる。とき には、母親が保護費の封筒をそのまま持って家出する。その度に子どもたちは児童相談所に一時預り となる。敷金はもう支給される可能性はない。となると、子どもたちの帰宅は難しくなり、どこかの 施設に措置されることになる。さーて、どうするか。前回に立て替えた敷金はまだ 1 円の返済もない。 う~~ん。 事例 11 生活費全てを 5 日で使い果たすギャンブル依存症の母親 中学 2 年の長男が、大人を前にぽろぽろ涙を流しながら訴えてきた。 「助けて欲しい。食べるもの が何もない。 」と。母親がパチンコにその月に支給された生活費と家賃代を全てつぎ込んでしまい、 あとは家から一歩も出ないと言う。3 家庭を作り直すため、高校 2 年で母の元に帰った長男は、その 後、心理的浮き沈みで高校を中退。せめて高校を卒業してから帰宅するべきだったと後悔している。 緊急保護から 9 年の月日が経ち、2 人の妹たちは、今も里親の下で生活している。生活する上での力 を蓄える努力を日々継続している。長男はと言えば、定職に着けず、彼が助けるはずの生活保護の母 親に住まい、食事、携帯代も依存している。長女もあと2年で自立せねばならない。その時には是非 妹もいっしょに帰したい。この状態を何とかしようと母親、長男と家族会議を開く。実態は、やはり 未だに家賃、携帯代が未納状態。けれど、子どもは引き取りたい。ならば、それを目標に母親と金銭 管理をいっしょにしょうと計画を立てることにする。長男は自立してもらうしかない。計画を始めて 半年、今ようやく、滞納分の家賃を支払い、電気代を支払い、母親分の滞納携帯代を支払い終えた。 その間、食事代は月 1 万円あるかなしか。とにかく借金をゼロの状態に持っていかないと進まないの で、食料を支給する。 7 長男は未だに家にいて、昼間は寝ているらしい。確かに彼もネグレクトの影響をもろに受け妹たち を守ってきた被害者だ。 「長男を責めないで」母親の言葉である。母親は、たばこ銭がなくなると現 れ、手伝いをしてアルバイト料を請求する。それでも、長男より前に進もうと努力している。今は、 1 週間に 1 度、子どもたちと里親の家で夕食を作り、食事を共にする。少しずつだが目標に向かう家 族を、こんなことで支援することしか今は出来ていない。 その4.アルコール依存症を持ちながら子育てする親 と その養育者のもとで育っている子への支援のあり方 事例 12 アルコール依存症の父と小 4 女児の父子家庭のケース ・・・大人になってその子は「自死」 夜 11 時頃、またまた 4 年生のTちゃんが泣きながら里に来た。聴くと、 「もう、うち、いやや!い つも、人が寝た後に『酒買って来い』と起されんねん。買いに行かんかったら殴られるし・・・・・。あ んなお父さんとは暮らすのんいやや。酒やめるまで帰れへん。」 翌日、お父さんを呼んで、 「夜中は 起しません。今度起したら児童相談所に子どもを預けます」という誓約書をTちゃんの前で書いても らい、2 は仲良く帰る。何の誓約にもならないことを、繰り返していた。 ある日、こどもの里の前の西成警察の塀のところに珍しくおばさんが倒れていた。Tちゃんはその おばさんを見つけるや否や、駆け寄っていっておばさんの手を握り締めながら「おばちゃん、どない したん? 大丈夫? おばちゃん」と声をかけた。ちょうど側を通りかけていた3人の警察官に彼女は、 「お巡りさん。このおばちゃん何とかしたって!」と叫んだら、警察官が「ほっとけ、ほっとけ」と 聞く耳持たず。それを聞いてTちゃんは、警察官に向かって「このおばちゃんが死んだらアンタラの せいやで!」と怒り出した。その一部始 終を見ていた私は、ドキン!とした。知らん顔をしている私を知った。Tちゃんのお父さんはしょっ ちゅう道端で倒れる。彼女はその小さい体で酔っぱらった背の高いお父さんを抱え込み、介抱してい る。お父さんと重なったのかもしれないし、お母さんがいないことも関係していたのかもしれない。 が、そういう心の優しさを持つ。命に関わることになると怒りを顕にする。凄い感性である。しかし これは、本当は子どもが背負うものじゃないお父さんのアルコール問題を抱え込んでの結果なのかも しれない、アルコール依存症を持つ父親を、自分が守らなアカン。面倒みたらなアカン。抱え込んで 生きていかざるを得ないのだ。一人の子どもが背負うべき責任の範囲を超えて背負っていくと、 「私 がこれだけ背負っているんだから、私のしんどさも誰か背負ってよ」と警察官に向かったのかもしれ ない。 Tちゃんのお父さんは彼女が 6 年生の時、肝硬変で他界、彼女は施設に措置された。中学校卒業後、 退所した彼女は、お父さんのような 20 歳年上の男性と暮らし始めた。20年の歳月が過ぎ、一昨年 彼女が自死したとの知らせを受ける。その1年前に男性が病死していた。彼女が小学校 6 年生の時、 別の支援方法はなかったのだろうかと心が痛い。 事例 13 小児麻痺による身体障がいとアルコール依存症を抱えた母親 と 小 6 男児の母子家庭のケース ・・・大人になって その子が「アルコール依存症」 三角公園に野宿する母子がいた。平野から出てきたと言う。自分の障がいの事で、色々戦ってきた ようだった。学校にいってなかった子どもは、新今宮小中学校(あいりん学園)に入学。廃校になる 最後の 4 人の卒業生の一人となった。 ドヤ住まいでは、母親を負ぶって階上の部屋へ運んでいた。段々 と酒の量が増え、D君に甘えることが多くなってくる母親を、受け入れ抱え込んで生きるしかなかっ た。母親の移動のための度々の呼び出しに仕事もなかなか継続できにくい状況の中、D君は音信不通 と成る。その間に母親が自宅で死亡発見される。D君と連絡がついてから、三角公園で「母親を偲ぶ 会」を挙行。一人ぼっちに成ったD君は次第に酒を飲み始めた。新今宮小中学校卒業から 28 年。43 歳になったD君は今、独り者で母親と同じアルコール依存症を抱えている。どんな支援が有効だった のか、今もわからないでいる。 事例 14 アルコール依存症の母親の気を引こうと、 8 線路に飛び込み接触事故を起した小 5 の男児 2011 年の出来事だ。地下鉄のホームで電車を待っていたYちゃんは、ホームに入ってきた電車を みて、急に線路に飛び降りた。幸い接触程度で助かった。 「今度こそ、やめる」とお母さん。こども の衝動的行動からみても、子どもへの負担が重過ぎる。このまま放置しておくことは、子どもの命に 関わるのではないかと緊急保護を子ども相談センターに依頼提案したが、 「保護するほどでない」と の判断。母親の禁酒宣言は 3 日坊主だった。治療に繋がるまでには至らずじまい。どうしたら母親の 気持ちを汲み取り、寄り添えるのか、どのようにして治療につなげられるのか、お母さんのエンパワ メントは? 支援の手立ては見つかっていない。 その5.薬物依存症を持ちながら子育てする親 と その養育者のもとで育っている子への支援のあり方 事例 15 たびたび悪さをし 喧嘩をする「非行」少年。 とても友だち想いの、母親想いの優しい子でした。でも時々暴れる。彼の背後には、母の内縁の夫 の彼への暴力があった。今でこそ、児童虐待として児相や警察が動くが、当時はまだ「子ども権利条 約」もなく、 「子どもの権利」についての社会的認識も乏しく、躾として片ずけられ、彼の悲壮な叫 び、自分を否定されることの訴えが、 「非行」として本人だけの責任として迫られていた。 (今も変わ りませんが・・・)私には手の打ちようがなかった。 自分の存在を否定され続けた彼が、自死することなく生きているのは、自己処方として選んだ覚醒 剤があったからだ。今も彼は、刑務所の出入りを繰り返している。義父からの暴力が無ければ、こん な人生を歩んでいなかったと思わずにいられない。まさに彼は被害者なのだから。 事例 16 養護施設で育ち物依存の後遺症をもつ母親 と、 母親を見守る不登校の中 2 の男児S君の母子家庭ケース ⇒ 親の死亡、病気、蒸発、貧困により独りぼっちになった 15 歳以の児童への支 援・・・・・法整備が必要な具体例 「私は養護施設の玄関先に産まれてすぐに置かれていたんだそうです」S君のお母さんの言葉であ る。 「18 歳で施設を退所する時、施設側が母の母親を探し出してくれたんだけど、 『会いたくない』 と拒否されたみたい。施設を出てから、母の母親から『会いたい』と連絡があったが、今度は母が『会 いたくない』と断ったと言っていた。母はいつも『温かい家庭』を夢見て追っかけてる」とS君が話 してくれた。父親が借金ばかりするので別れる事になり,S君が父親の役割もして、お母さんが一人 ぽっちにならないよう側にいた。だから学校はほとんど行ってない。何時から薬をしたのか知らない けど、常に気持ちは不安定ということだ。 引越しをしてきて鶴見橋中学に所属、そこで西川先生(鶴中の生活指導担当)にと出会うことで、 この母子に変化が生まれた。母親の入院のため子ども相談センターに保護されるものを、中学校があ と数ヶ月という事でこどもの里での里親依託を希望された。クラスには入れないS君の別室での勉強 が始まった。 小学校の基礎からの出発である。理解力のあるS君の学力はぐんぐん伸び、高校に入学。 高校生活に慣れた 2009 年の 2 学期の初め、退院した母親との再統合生活が始まった。時々薬物に依 存したり自分への母親の甘えに耐えられなくなると里にやって来た。愚痴の聞き役となった。一しき り話すと気を取り直して「やっぱり帰るわ」と帰る。再生活が始まって 1 年半経った 2011 年の年始 の夜、携帯がなった。 「今、警察から連絡がきてんけど、電車に跳ねられたって」母親が自死したの である。 「俺がお母さんの怒り受け入れなくて、俺が反抗して反発してお母さんが夜 9 時に出ていっ て死んだから、俺のせいや」とS君は悩む。 悩みながらも彼は大学に行って中学校の先生になるんだと、大学受験にむけて勉強している。これ から一人ぽっちになり大学に進むとなると、受験費用、入学費、授業料、住宅費、生活費と大変だ。 せめて、住宅費と生活費だけでも児童福祉法の中で確保しておこうと里親への措置を決定した。 生活保護受給は、昼間の普通大学生には支給されない。夜間の大学に通学し、且つ昼間就職してい る場合なら生活費の不足分は支給されると言うのが現行の制度です。貧しく育った子や一人ぽっちの 子は普通に大学に行く権利がない選択肢がないというのでしょうか。不条理です。日本人全ての国民 9 に基本的人権が守られるのであるなら、貧富の差や家族の有無で選択さえできないと言うのはおかし いです。事例 6 でもふれたが、事例 6 は 1990 年の出来事です。あれから 22 年。子どもへの福祉行政 の意識、とりわけ「こどもの権利」への認識に何の変化も見られないということは、社会福祉という 分野だけでも「こどもの人権」と言う認識が共有されてないと言う証明です。ちなみに、日本国が「こ どもの権利条約」に批准した年は 1994 年です。これから、本気で法的整備が必要です。未来を担う のはこの子どもたちなんです。 事例 17 向精神薬を飲みながら薬物依存症を抱える母親が、虐待のSOSを発信。 母子家庭なので4人の子どもたちは施設保護。 残された たった独りの母親は、ほったらかしでいいの? ⇒ 親子分離で独りになった母親への支援・・・・・法整備が必要な具体例 母親自身が大変な虐待の中で育った。子どもは大好き。だが、時々自分の気持ちを抑えられなくな り、ゴミ袋に子どもをつっこみ廊下に出してみたり、裸にしてみたりする。ターゲットになる子は何 時も同じである。この日は裸にし、冷蔵庫に入れてしまった。我に返った母親は、通っている保育所 にSOSの電話をかけた。駆けつけた保育士は、まだ冷蔵庫にいる子どもを救出。その子はすぐに保 護された。残りの 3 人も向精神薬に荒れ狂う状況の中、いずれも保護された。 子どもたちが家にいる時は、保育園の先生や学校の先生と何らかの関わりがあった。子ども家庭支 援員も、子どもたちが家にいなくなり訪問を終えた。子どもたちの、時には母親ともどもの緊急避難 場所であったこどもの里にも顔を見せてくれる度合いが減った。今、推測するに、お母さんの周りに いる人たちは、薬物依存症を抱える仲間だと思う。何とかそれによって、 「生きられている人たち」 だと思う。それでは、施設措置された子どもたちの再統合なんてありうるんであろうか。こども相談 センターが母親に再統合に向けて、示唆なり何なりアプローチしているとは思えない。これも、法的 整備が急がれる。 事例 18 「お母ちゃん、注射せんといてや」 「おっちゃん、あの女の人と寝んといてや」という6歳の子 覚醒剤をやめようと西成を出、他区にアパートを見つけ、新しい保育所に入園。たが、月に 1 回ど うしてもやってくる。自分一人で来るならいいのだけれど、今回は子どもを一緒に連れてきて以前の 保育所に預け、6 日も雲隠れ。 その間こどもの里で緊急保護。我がままだけどしっかりもののAち ゃん。しばらくぶりで色々話してくれた。その中に「お母ちゃん注射すんねん。注射せんといてやっ て言うてんねん。 」 「こっち来た時、おっちゃんの所に女の人泊まってん。お母ちゃんが子どもの目前 で、或いは子どもが見ることのできる場所で注射を打つのは良くないことをお母さんに告げ、子ども と本当に住みたかったら、治療しようよ。と勧める。大阪ダルクや自助グループ等治療に乗っかるま で一時Aちゃんを預けようということになり、翌日子ども相談センターに同行する。 その6. 性被害を受けた子どもへの支援 事例 19 肉親から性虐待を受け続けていた 2 人の少女、高校になってやっと保健の先生に相談。保 護された後の 2 人の行方は? 肉親から性虐待を受け続け、高校になってやっと保健の先生に相談。保護されるも 15 歳以上にな ってからの施設への行き場所がなく、こどもの里に措置された。措置された当時の年齢は高校 2 年と 高校 3 年生。たまたま、どちらも母方の祖父からの性虐待を小学高学年から受け続けていた。あとで 分かったことだが、どちらもこの 2 人の母親が父(祖父)から性被害を受けていた。つまり、家庭の 中で身体への境界線がそもそもなかったのである。性加害者は身近な人がほとんどだ。顔見知りだか ら子どもは安心してついていったりする。そこを利用するので、同意があったか無かったかの点が執 濃く問われる。 高校 3 年の子は、表明の後警察に訴え出た。それは、母親自身が性被害によって精紳を病み言語化 も困難になっていることから、娘の決断にエールを送り全面協力したから出来たことだ。しかし、こ れは家族内性虐待の連鎖といえないだろうか。そんなことがあるのだ。被害者であるのに検事の取調 べは執拗に思い出したくないことを再現させる。性被害専門の女性弁護士に依頼し、祖父と対面せず 10 に裁判を進めてくれた。性被害には珍しいということだが、10 年の実刑判決だった。 ほとんどの被害者は、裁判になると細かい行為の説明を求められ、開示せねばならないことから訴 えることも出来ないでいる。そのことを思うと、本当に良く耐えたとつくづく感心するし、子どもの 持つエネルギーと輝く子どもの「内なる力」 「生きる力」を感じる。 一方、高校 2 年の子も、小学生の時は家族内で身体を触りあうことは当たり前の事で、おかしいと は思わなかったという。でも、中学校で友達の話を聴いていると何か自分はおかしいと思うようにな った。勇気を出して保健の先生に話してみた。嫌なことはイヤといっていいと言ってくれた。でも、 他人に話したことによって、 「うそつき」 「汚い」 「家族の恥をさらした」 「あんたが誘ったんやろ」と 家族から新たな中傷を受け、新たな傷が心についてしまった。2 次被害だ。それでも裁判までは出来 なかったけれど、高 3 の子の勇気ある行動に感化され、本人の口から謝ってもらうことを目標にした。 「そうでないと先に進めないから」と語った。 子どもは生来すばらしい力を持っています。その力が尊重され、大切にされればちゃんと育ってい きます。ところが、私自身を含め、大人の差別や偏見が子どもの内なる力の芽を傷つけ、つみ取り、 生きる力を奪ってしまっているケースが少なくありません。外からの力によって、自分を大切にする 自分の尊さや自分のすばらしさを信じられなくさせられた子どもたちが、また自分のかけがえのなさ に気づくよう働きかける援助は、その子の持つ力を信頼することから始まります。自分を信じ、受け 入れてくれる人々の支えがあり、自分の尊厳、自信を取り戻すことが出来ると思い、この 2 人の側で 信じていたいと思います。 その7. 乳児期・幼児期を母親といっしょに生活していない子 と 再統合により生活して起こる母子間の相互関係問題への支援のあり方 事例 20 どこか遠慮がちな ぎこちない関係の親子 或いは「かわいくない」と言い切る親 ① 親子であるのに、互いに遠慮がちにぎこちない関係のお姉ちゃんと母。その妹には自然なスキ ンシップができる母。 ② お姉ちゃんはかわいいけど、どうも妹はかわいくないと言い切る母。姉と妹の成育歴を見てみ ると、 ①は、妹の出産のため姉が 1 歳半から 2 歳半の間乳児院に預けられていた。 ②は、姉は元気で産まれ抱きながら母乳を飲ませていた。妹は未熟児で産まれ、保育器で 1 ヶ月間 をすごす、そのため、抱きながら母乳を飲ませたことも無い。 0 歳から 3 歳までの時期は愛着関係を深めるのにとても大事な時期である。その間に母子が離れ離 れになることによって、事例のような親子関係が生じる。日本ではまだまだ乳児院なる施設が存在す るが、 里親依託にすること。或いは、病院も保育器での親とのかかわりに配慮することが重要となる。 その 8 父親を亡くした後の母子への支援のあり方 事例 21①・Tくん父 2010.5.24病気により帰天、母は二重人格・統合失調症を抱えるが父がいた ことで 家庭を維持してきた。父の死後、男性との関係が露わになり、こどもの目の前で大 量の薬を飲み自殺未遂をする。子どもが携帯で緊急を知らせた。結局子どもファミリーホー ムへ措置される。 ②・Aくん父 2010.12.11病気により帰天、母は知的障がい・癲癇の病を持つ父がいたこ とで家庭が維持できていた。父の死後、一人では生活と育児が難しくなり 4人兄弟は自立 支援施設へ措置される。 ③・Yちゃん父 2008.現場事故により帰天、母は境界性人格障がいを抱えていた父がいた ことで家庭が維持されていた。突然の事故死に母は感情のコントロールができず子どもに 当たる。変容する母の様相に子どもの心理的負担は重篤と自立支援施設へ措置される。 大変な病気を抱えながらも支えてくれる、理解してくれる人の存在があって、何とか家庭を維持、 子どもとの関係も 母がしんどい時は父がカバーしてきたが、その存在が居なくなるという事は、即 11 家庭としての歯車が合わなくなり、子どもとの関係も難しくなる。父親の代わりはできなくても、チ ームを組んで支え、理解して関わっていくことはできないものかと思う。 この①②③のケースの子どもは皆施設措置されてしまいました。 支援者として自覚しておきたいことがあります。 子ども権利条約第12条に、 「子どもは自分に関係あることについて自由に自分の意見を表す権利を 持っている」とあります。私たち大人はどこまで 《子どもの意見を表す権利》 を認め、聴いてい るでしょうか。子どもの表した意見を、 「意見である」 「いや、意見ではない」と決めている大人の姿 は見えないでしょうか。12条は、本当に日常的に守られているでしょうか。とても不安に思っていま す。9条には、 「子どもは、親といっしょに暮らす権利をもっています」と 《親と引き離されない権 利》が書かれています。 「但し、それが子どもにとってよくない場合は、離れて暮らすことも認めら れます」と続きます。 事例17でも触れましが、私が大阪市子ども家庭支援員としても関わって来た家族でも4家族の子ど も10人の親子分離を強行しました。 「別れるのいやや~おねがい、おねがい~いやや~」と泣き叫ぶ 子どもたちを無理矢理、児童相談所に置いてきました。親子を引き裂くのは、「それは、子どもの権 利を守るため」 。果たして本当にそうなのか。ひょっとして子どもの意思と人権を奪ってしまったの ではないかと不安になります。 ケース会議は、殆ど当事者不在の中、その人が生きること、即ち「人権」が守られるように支援す るために開かれます。が、ひょっとしたら「人権のため」という大義名分で、恐ろしいほど「その人 自身の生存権、生きることを奪ってしまう」決定をしているかもしれません。会議や決定が、人権擁 護と人権蹂躙の背中合わせにあることを、しっかり自覚し謙虚である必要があることを忘れてはなら ないと思います。 その9 内縁の夫からの母子への暴力に対する対処方法 この課題への一番の困難は、被害者の心の変化である。殴られ蹴られ顔が腫れている状態の時は、 警察にも訴えに行き、もう別かれるというが、暴力を振るう人で怖い存在であってもいつもいつも怖 いわけではなく優しいときもある、結局頼れるところはそこしかないのであろう。またもとのさやに 納まる。つまり、 母子の自尊感情の低さに課題がある。自尊感情を高めるプログラムが必要とされる。 その10 親の死亡、病気、蒸発、貧困により一人ぼっちになった児童への支援 再掲事例 16 一人親家庭で母が自死。残された17歳の子どものその後の困難 事例 22 こども相談センターも関わらなかった15歳の子ども ・・・児童自立生活援助事業を施行 2009 年 12 月のこと。NPO 釜ヶ崎支援機構が支援する「自転車リサイクルセンター」で 15 歳の S 君が働いている。ドヤ(簡易宿泊所)住まいで、外食しているので、何とかできないかという相談。 15 歳という年齢に驚いて児童相談所に連絡した方が良いと伝えると、何と、その児相から回りまわ ってきたというのである。 精神障害を抱え子育てが難しかったお母さん。学童の弟たちは、施設入所。高校を中退した彼は、 母と共に西成に転居。彼が家出中、母が入院。帰宅するも誰も居らず、子どもらの溜まり場となる。 見かねた祖母が、彼を連れて児童相談所に行き、相談する。しかし、彼が高校に通っていないことや 施設入所を拒否する彼を保護することなく、ハローワークに行って相談するように言われたという。 困った祖母は、ハローワークに連れて行くも、そこでも「ジョブカフェ」に行って相談するように言 われる。<ジョブカフェとは、平成 15 年に国が策定した「若者自立・挑戦プラン」の中核的施策に 位置付けられたもので、地域の実情に合った若者の能力向上と就職促進を図るため、若年者が雇用関 連サービスを1箇所でまとめて受けられるようにしたワンストップサービスセンターのこと> そ のジョブカフェの相談員が、NPO 釜ヶ崎支援機構から出張勤務しており、NPO 釜ヶ崎支援機構の「自 転車リサイクルセンター」で引き受けることになったという。外食で一人で食べるのではなく、せめ て夕食でもいっしょにと、夕食はこどもの里で取るように誘う。1 月 26 日からは、こどもの里で宿 泊生活するようにした。 12 この S 君のようなケースは、少年院を退所した子どもたちにも当てはまります。こどもの里では対 処できず、地域のシルバーハウス「おはな」にお願いせねばなりません。西成には義務教育を終了し た児童への社会的養護の拠点がありません。そこで、こどもの里ではこの義務教育終了児童の生活 援助の場をも『事業』として施行していきたいと考えています。 <事業の基本方針>は? 児童自立生活援助事業は、義務教育終了児童等が自立した日常生活および社会生活を営むこと ができるよう、共同生活する住居において、日常生活上の援助及び生活指導並びに就業の支援(以 下「児童自立生活援助」という。)を行うものとする。また、退所した後においても、必要に応 じて継続的に相談その他の援助を行うものとする。 <対象児童>は? この制度における対象児童は、義務教育を終了した 20 歳未満の児童等であって、次のいずれか に該当するもの。 (1) 小規模住居型児童養育事業を行う者若しくは里親に委託する措置又は児童養護施設、情緒障 害児短期治療施設若しくは児童自立支援施設に入所させる措置を解除されたもの。 (2) 前号に規定する児童以外の児童で、都道府県知事(指定都市および児童相談所設置市の市長 を含む。 )が児童の自立のために援助及び生活指導等が必要と認めたもの。 まさに、S君に適応します。児童相談所は『義務教育終了児童』より相談、申し入れがあったのに、 『共同生活する住居において、相談その他の日常生活上の援助及び生活指導並びに就業の支援を行わ なければならない。 』という児童福祉法に違反しているのです。 その11 家族と生活するも 生きづらさを「非行」行為で叫んでいる児童への支援 子どものいろんな問題は病める社会の反射鏡、社会のそれを映して見せてくれる だから、野宿生活者を訪問する子ども(「子ども夜まわり」) と 野宿生活者を襲撃する子ども がいる。 どちらも自分を探して。 釜ケ崎は一般社会では「怖い」場所らしいです。と言いますのは、私自身釜ヶ崎に住んで 40 年近に なりますが、「怖い」と思った事は一度もありません。それどころか、こんなに人間らしい街、こんな に人があたたかい街は日本の他地域にはないんじやないかと思ってます。この子たちがいれば、日本 の未来はまだ捨てたもんじゃないとも思っています。しかし現実は、 「西成」というだけで差別があ るし、ましてや釜ケ崎となったら差別はもう一つ厳しいです。この中にいるときと違って子どもたち が一歩外に出たときに受ける差別。子ども達は、自分達が特別な地域にいることに初めて気づきます。 だけど、その差別に負けないで欲しい。自分の育った街のこと、日雇い労働のことを誇りにして、そ れを盾にして生きていって欲しいと思っています。 中学校を卒業したばかりの 2 人が初めて労働センターから日雇いの仕事にいきました。朝4時に起 き、地下足袋で作業をし、帰って来るなり、「土方のおっちゃん総理大臣よりえらいで。あんなえら い仕事しているんやなあ」と尊敬も尊敬です。続いて「めちゃ恥ずかしかった」と言うのです。仕事 が終わって帰るとき、服を着替えられなくて汚れたまま地下鉄に乗ったら、皆、サーっと引いていっ たと言うんです。たった 1 日で日雇いの仕事のすごさとその人たちが差別されていることを体験して きました。この話を聞いたのは 1982 年でしたが、この年に横浜の山下公園で3人の労働者が中学生 に殺された襲撃事件がありました。このことを踏まえて、 「おじさんたちの仕事を知っていますか」 とか「おじさんたちにいたずらをしたことがありますか」などのアンケートを取りました。すると、 日雇い仕事の内容をこの地域の子どもでも1人も知らなかったのです。酒を飲んでる姿は知っていて も働いている姿は知りませんでした。また爆竹や花火をならしたことがあるとか、滑り台の下で寝て いる人に上からビンを投げたとか、いたずらもいっぱいしていました。そこで、まず、自分達の父親 の仕事でもある日雇いの仕事がどんな仕事か知らせたい、そしてなぜ野宿しているのか知らせようと、 夜野宿する人を訪問する夜回りを始めました。学習会で話をするだけでなく、実際に子どもたちと一 13 緒に出かけていって身体で体験してもらいたいと考えました。今年で 26 回目になります。 よく寄せ場にいたら世界が見える、社会の縮図だと言われますが、本当にその通りで、不況が来た ら真っ先にしわ寄せが来るし、外国人も少数民族のアイヌや琉球の人もいます。この寄せ場の中から 学ぶことがたくさんあります。なんでこんなに沢山の外国人がいるのか、とくにフィリピン人が多い のは何故か? 日本やアメリカの企業が進出して土地や生活源を奪っている構造問題があります。そ こで実際にフィリピンに行ってみたり アイヌに行ったり、野宿する人のそばに行って話を聞いたり、 いろいろ現実から学んでいます。それは学校では教えてくれないことです。地域や世界のことに目を 向けて、自分達が生きていていいんだ、生きていくんだという自信を持ってもらいたい、何よりも自 分自身を大切に思える心を持ってもらいたい、そのために学習会をしています。 この夜まわり活動で、私たち大人が想像もしなかった「子どもの力」に出会いました。野宿者へ の関わり方です。路上で寝ている人を見つけると、何のためらいも無く、 「こんばんは。体大丈夫で すか?」と駆け寄り声をかける。 「ありがとう。大丈夫やで。あんたらこそ風邪引きなや」とおじさ んたち。大人には到底出来ない業です。自分の関わり方を恥じました。 子どもたちのこの自然な無垢な「人と繋がろうとする力」は、野宿者からの最高の褒め言葉「あ りがとう」をいっぱい浴びて、傷ついた子どもの心にふつふつと他者へのいたわり・心配の心が息吹 き、それが自分自身への愛しさと自信を息吹かせます。一方野宿者と言えば、寂しく怯えながらいる 寝床に子どもらの訪問を受け、 「これで明日もまた頑張れるわ」と生きる気力を取り戻してくれます。 子どもらの訪問を飴玉を用意して待っていたり、中にはこどもの里までわざわざぬいぐるみを持って きたり、子どもらが勧めてくれたから相談に来たという人もいます。夜まわりでの子どもと野宿者と の出会いは、お互いがエンパワメントされあう関係を生み出しました。 ・地域共同体は非行の原因又は誘引となった状況に対して責任がある。 《修復的正義》 しかし、抱えさせられている生きることのしんどさを溜め込み、友だちの目を気にして人に助け をもとめることが出来ず、不安を爆発(切れる)させてしまう子どももいます。爆発先は自分自身へ 向かうか、他人に向かうかです。子どもたちによる「いじめ」や「野宿者襲撃」、ガラス割等の「学 校内暴力」がそれです。 2007 年 3 月。釜ヶ崎の中で、夜まわりにも参加していた小学 5 年生の子にこの出来事が起きまし た。大阪市が行政代執行と称して公園から野宿者を排除しその生活道具を廃棄処分にしている映像が 駆け巡っていた頃です。子どもの「非行」行為は病める社会の反射鏡です。子どもは大人たちの行動 に力を得て、野宿者を襲いました。そしてその行為を諌められると、学校の中で暴れました。この子 がしでかした事はこの子が悪いからでしょうか。この子の責任でしょうか。この子の親と家庭の責任 でしょうか。果たして周りの大人、地域社会、日本社会には責任がないのでしょうか。 子どもの行動を通した心の叫びに耳と心を傾け、子どもたちをこのような状況に追い込んでしま った大人の責任を考えあいたいと、西成市民館で集会を開きました。西成区児童虐待防止・子育て支 援連絡会議、西成区人権啓発・教育企画会議、西成区社会施設連絡会、わが町にしなり子育てネット、 こどもの里共催、西成区青少年育成推進会議後援等,行政・福祉・教育・医療関係の施設や団体のメ ンバーや職員、地域住民と6名の労働者等81名が集まり考え話し合いました。でも後が続きません、 一発花火で終わってしまいました。 「地域共同体は非行の原因又は誘引となった状況に対して責任が ある 《修復的正義》 」という認識は共有出来ませんでした。結局その子は、 「加害者」として家庭か ら学校から地域から排除され処罰されました。 さらに彼に寄り添って在るはずの 1962 年に釜ヶ崎地区に配置された日本唯一の学校ケースワーカ ーが、残念ながら同じ 2007 年 3 月に廃止となりました。西成区児童虐待防止・子育て支援連絡会議 今宮中学校区毎月ケヤ会議で扱われる 100 件以上のケースを抱えながらも、 「あいりん特別対策事業 は特別なもの、平等ではない」との教育委員会の判断の結果でした。生活指導の教員がケースワーカ ーの仕事を担っていますが、授業を持ち昼間全く学校から出られない教師が果たしてどこまで地域に 潜む不就学児を見つけ出されているのか、果たしてどこまで生徒の家庭の問題を受け止め生徒の主体 的側面に立って生徒のもつ社会的問題を理解し福祉的社会資源の利用など援助出来ているのか、1 月 ~3 月に起きていた 14 今宮中学校区の子どもたちによる「野宿者襲撃」にどう対応してこられたのか、果たしてどこまで地 域と連携しておられるのか疑問です。 いま日本社会は毎年 3 万人以上の自死者と多数のうつ病者を生み出しています。一日平均 90 人が 自らの命を絶っています。 「非行」といわれる子どもたちも「非行」行動が出来なかったら、病気に なっていたかとっくに死んでいたかもしれません。生まれながらの「非行の子」「不良の子」はいま せん。生まれたときは皆真っ白でした。 「非行」には必ず背景があります。周りのものが問題だと感 じたり、無駄に思えることも、すべて起こるべくして起こっているように思えます。どんな過酷なこ と、社会的評価からはずれることであっても、その人が生きていくためにはそのプロセスが必要だっ たのじゃないかとも思います。 こどもの里で小学校・中学校時代を毎日のように過ごしていた二人を、自死で亡くしています。一 人は 20 代で自分の家で電気コードを巻きつけて死にました。 一人は南港の海で溺死しました。警察 より本人の名前とともに確認の電話がかかってきました。もう 30 代になっていて 20 年近くも連絡も なかった子でした。なぜこどもの里にと警察に尋ねたところ、ポケットに電話番号を書いた紙切れが 入っていたので、その番号との関連を調べるためとのことでした。何とも言葉がありません。ただ無 力感が襲いました。 二人とも「非行」からほど遠い問題はいっぱい抱えながらもおとなしい子でした。 この子たちが「非行」行為をして暴れてくれていたら、死なないでいまも生きているだろうにと思わ ずにおれません。 子どもたちとその親たちが背負わされ抱えている生活と生きることのしんどさは、個々の人、個 別家族が怠けた結果からではなく、社会環境、社会構造に原因がある。 その社会環境とは、 (ア) たとえば同質を求める地域 や 正常をもとめる学校。 常識と非常識 ・ 正常と異常 ・ 地域共同体の同質性と多様性 → 排除か共生か *森 毅氏(京都大学名誉教授 数学者) 『はみだし数学のすすめ』 健康(正常)強迫症 = いじめの構造 ⇒「異常」な地位のままで生きられる関係 ( 「正常」は「異常」を持たぬことでしか定義できない。つまり、集団の中では皆が「正常」でな ければいけない。それは「異常」を捜して、 「異常」を排除することで達成される。だから、みんな が「正常なよい仲間」になろうとしたって、いじめは解決されない。いじめられないためには、仲間 のなかで「異常」な地位のままで生きられる関係をつくることしかない) * 石川 憲彦氏(もと東大病院の小児科・精紳科医) 長年「医療と教育を考える会」や「障がい児を普通学校へ」の運動に携わる 障がい児の苦手なところを補う = 「正常」な人間に合わせる ⇒「できなさ」をさらけ出して生きられる関係 (苦手なところを補ってあげて、それで人生うまくいくと考える時、そこに想定されて いるのは「ふつう」とか「正常」な人間という、世の中で評価される人間の「標準的」 「理想的」な形。社会が期待するイメージに合わせようとして、 「ほんのちょっと助け てあげたらうまくいく」 、そんな姿を生み出してきた。いまその傾向が強まりつつある。 そして、その「障がい」が外見的には分かりにくいために、親も教師も「あきらめて」 くれない分、本人たちは精神的にも追い詰められることになる。 《2次障がい》) (イ) *たとえば二面だけの日本の自立観 ①何でも自分で出来る ②経済的・職業的 人生の主体者として生きられない、力を否定されているひとがいる= 人権侵害 *福祉先進国の自立観 は、 15 「自立とは、誰もが、地域社会の中で、個別のニーズや意識、希望などを 最大限尊重した最善の支援を受けながら、自らの人生の主体者として生きること」 「北欧をはじめとした福祉先進国で共有されている普遍性に根ざした自立観」は、ヘブル語のシャ ロームの概念に裏付けられた人は皆つながりあった存在だと言う社会認識から「人の力、助けを借り ること」は当たり前で、 「できない部分については、福祉サービスで補っていくというのが基本的な 考え方」です。 一方、 「わが国の自分で出来るようになる自立観と経済的・職業的自立観」は、私たちの社会認識 が「人に迷惑にならないように」 「人様の世話にならないように」生きることが当たり前で、「人の力 を借りること」は恥をさらすことであり、人の哀れみを受けることになり、「人の手を借りずに、何 でもかんでも自分でできるようになら」なければならない考え方です。 この自立に対する考え方の違いは、野宿生活者(ホームレス)層からも読み取ることができます。 各欧州国の野宿生活者の 20%が 25 歳以下です。ひきこもりの多くが路上で生活しているそうです。 わが国では、フリーターもひきこもりも家族が抱え込み家族に依存するため路上に出て行きません。 家を出たとしても路上でなくネットカフェで寝泊りしています。家族に依存するひきこもりは、家庭 内暴力、親殺し子殺し等悲惨な事件が生まれる可能性が高くなります。 この「自分でなんでもするべし」の社会認識は、「世間の目・他人の評価」を気にせずにはいられ ません。自分の家族の行動が世間の「人並みな常識=正常」の範疇にいるのか否かが大問題となっ てきます。こうした社会認識の下で、今、わが国に求められるのは、 【自立とは、誰もが、地域社会 のなかで、個別のニーズや意識、希望などを最大限尊重した最善の支援を受けながら、自らの人生 の主体者として生きること】との自立観の共有だと思います。 誰も(子ども、障がい者、野宿者、病弱者、等) が 主体者として生きていける多様性社会の実現のためには、 『自立観』の共有と社会的、法的整備が必要。 ① ② ③ ④ ⑤ 意識変革、啓発、教育活動、社会的、法的整備とは 人の力を借りることの大切さの啓発 「自立観」の啓発と共有 援助を必要としている人がアクセスできる多様な社会資源を創る 社会資源の提供者がエンパワメントの視点と方法とスキルを持つ 地域共同体(コミュニティー)のあり方への意識変革をもたらす 年代の米国は、福祉、医療、保健、法律、教育分野において司法、立法、行政が民間 NPO と手を携え て、虐待防止を国の最優先課題にした時代でした。そして、90 年代子どもの虐待統計件数が激変。 身体的虐待が 46%、性的虐待が 50%も減少しました。 世界に遅れること 5 年。 「子ども権利条約」に日本が批准したのが 1994 年です。そして初めて子ど もの虐待の法整備が始まりました。ようやく 2000 年に児童虐待防止法が制定されたました。 しかしまだまだ法的整備が不十分なため、子どもへの性的虐待が発覚しても加害者を拘束することが で きない場合が多く、それどころか、加害者と同居する被害児童を保護することもできないこともあり ます。専門的な援助や治療方法を必要とする性的虐待の被害児童のためのシェルターや、治療的施設 の必要性も理解されていません。 同じように、今政治的・社会的運動なしに野宿者襲撃問題はなくなりません。子どもたちによる 野宿者襲撃が社会問題としての認知を得るには、「野宿者の人権」という認識が必要。そして野宿者 の人権が尊重されるような政治的力が必須です。「日雇を仕事とする人」及び「その家族、とりわけ 子どもたち」への見方も偏見に満ちたままです。ホームレスの人を見て、私はあの人たちとは違う普 通のまともな人間だと思うことで優越感や安心感を得たりするかもしれません。子どもに対しては大 人が、障がい者に対しては健常者が、ことの決定権を独占し続けてきたという社会構造的力関係が差 別と偏見を生み出し、増長し温存しています。彼らの人権は社会的に認められていません。 16 と同じように、生活保護法等の社会的制度の変革がなされるには、「必要な援助をうけ主体者とし て生きることが自立観」という認識の共有が必要です。 共有するための一つの例として、釜ヶ崎には「あいりん子ども連絡会」があります。子ども権利条 約に日本が批准した翌年の 1995 年に発足しました。福祉や教育上、最も困難な状況に置かれている 釜ヶ崎の子どもたちの生活を、少しでも「子ども権利条約」の理念に近づけたいとの思いを実現する ために、釜ヶ崎で子どもに関わる仲間同士の、子どものための情報交換や相互支援のためのネットワ ークづくりを進め、それぞれが持つ知識、技能、資源等を活用しあうことが、その開催の趣旨です。 子どもとその家族の顔が見える者が、毎月1回、60 家族以上 130 件ほどのケースの支援方法を相談し ています。この会議を雛形として、2002 年に行政が設置した「西成区虐待防止・子育て連絡会議」の もと、各中学校校区での実務者ケース会議の設置が勧められ、2006 年からは全 6 校区で開催されてい ます。日本でも画期的な連絡会ですが、これからの課題は当事者の参画です。当事者の持つ問題解決 力をいかに発揮できるか、そのためのシステムづくりです。 もう一つ西成区には「わが町にしなり子育てネット」という地域ネットワークがあります。子ども の権利、子どもの育つ力、子どもを育む力を支援する活動をみんなで進めるネットワークを拡げるこ とが目的で 2000 年に立ち上がりました。お母さんたちの子育てサークル、ボランティアグループ、 大阪市地域子育て支援事業、官公署他関係団体、児童青少年施設、公立・私立保育所、公立幼稚園、 学童保育所唐 70 団体のネットワークです。これも、意識変革や啓発を促します。 今、私達が、社会的弱者となっている人々、子ども、障がい者、野宿労働者、野宿者、病者の人権 に対する見方を変えていかねなければなりません。人とのあり方、「常識」・「正常」・「社会的評価」 とは何か、見直してみる必要があります。多様性とは 多様な人々が共存、共生できる社会の創造と いう理念を表す言葉であり、人は皆その価値において等しく尊いという人権概念を核にして、人は皆 違うからこそ尊いとの認識に立つ考えです。人種、民族、国籍、出身地区、性別、障がいのあるなし、 年齢、性的指向、学歴、外見、収入、宗教などの違いによって差別されることなく、一人ひとりの個 性が尊重される多様性社会の実現を目指す必要があります。 35 年と言う月日が経ち、ハイテクを利用した子どもの遊び文化は驚くほど大きく変化しました。し かし、子どもたちの生活の困難さ、子どもたちが背負わされている生きることのしんどさは、その問 題も含め何も変わっていません。子どもが親を慕い思う気持ちに圧倒されながら、個々の子どもと親、 或いは個々の家族への具体的な支援のあり方をどう考えていくかがいつまでたっても大きな課題で す。 これからの社会福祉のあり方は、課題解決を困難にさせている大きな原因が、実は私たち大人社会 にあると考え、諸問題を個々人の、或いは個別家族の病理に閉じ込めてしまうのではなく、広く社会 的構造・背景で捉え、地域社会を巻き込んだ社会環境の整備改善による解決を目指し、当事者のニー ズ・希望を尊重した当事者のエンパワメントを支援していくことだと思っています。 次ページ説明図をそえます。 ☆★☆こどもの里の理念☆★☆ (主要事業、関係する過去の実績、成果及び「こどもの里」の子どもたちの置かれている状況、ニー ズ等の現状認識) 大切にしたいこと(具体的になにをしてきたか、していきたいか) 釜ヶ崎の「生きる力をもった子どもたち」自身が作り出した場 ① 必要とする人は、誰でも利用出来る場であること 《安心な場》 乳児、幼児、小学生、中学生、15 歳以上、 「健常」児、「障がい」児、国籍などの区別なく、利 用できる場である。 釜ヶ崎及び近辺の子どもたち ・ 近隣の学童保育閉鎖のため行き場のなくなった「障がい」児 17 ・ 他の地域で受け入れられる場のない「障がい」児 ・ 夫の暴力や内縁の夫に見捨てられて逃げて来たり、行き場のなかった親子(日本人、外国 人) ・ こどもの里で育った社会人(ボランティアの場また休息の場として) ② 遊び場、休息の場であること 《愛されているという実感があり、失敗しても大丈夫な自由な場》 遊びを通じて自分の能力を知り、自分に自信を持ち、自分自身と他者を大切にすることを手助け する場。 そして、青年達、保護者たちがホッと一息でき、ありのままの自分でいられる場である ・ 日常の一人一人の遊びの助け ・ 夏、冬のキャンプ、ハイキング、子どもまつり、運動会、クリスマス会、乗馬セラピー等 イベントの計画 ・ 子どもたち、保護者、こどもの里で育った人々がホッとできる休息の空間 ③ 命こそ宝、正義と平和の学習の場であること 《生きているだけですばらしい、自信と自己尊重な場》 様々な家庭環境の中で、幼いうちから背負いきれないほどの重荷を負わされている子どもたち。 その子どもたちが、自分たちが住む釜ヶ崎とういう地域を知り、釜ヶ崎とそこに生きている自分 と仲間に向けられる偏見、差別や軽視、そこから起きる矛盾や様々な問題と自ら闘い、打ち砕く 事の出来る人になるよう助け、自分と同じように抑圧されている人たちにも心をはせる場である ・ 学習会や他の集会に参加することにより 学校では教えてくれない大事なこと、社会の中で抑圧されている人たちのことを学び、 社会や世界の本当の現状を知り、自分の生き方を見つめ直す機会を作る場である * 学習会を通して…イベントに参加したり、研修旅行で現地に行き、その他の人々と交 流する機会を提供(フィリピン、タイ、アイヌモシリ、在日生野研 修、沖縄) * 特にフィリピン ブハリン地方の草カードを作る青年グループと出会い、友だちとな り交流が継続している。(90、93、95、97、00 年に訪問) 彼らの自 立を支援する ・ 夜まわりにより 日雇い労働者に対しての差別や偏見をなくし、また労働者との出会いによって自分も相 手も一人一人が大切な存在であることに気付き、自尊心を回復し、人を大切にしていく 場である * 野宿せざるを得ない人たちへの子どもたちの襲撃が多発する中、夜まわりを通じて野 宿を強いられている労働者と直接出会い、話す機会を提供 * “人を人として”あるため、社会を観る視点を育てる機会を提供 * 夜まわりを通して…全国各地の小学生、中学生、高校生たちへと拡がる * これからの社会を担う若い人たちに釜ヶ崎の現状を知らせ、自分自身と自分たちの社 会を見つめ直す機会を与える場となる ④ 利用する子どもたちや保護者の抱える様々な問題を 受け入れられる場であること 《受け止めてくれる人がいる場》 18 次のステップに進むための生活相談ができる場であると同時に、緊急非難ができる場である。 何かあった時にも安心して利用でき、その解決のために協力しあう。 切迫した状況には、速やかに対応する。 ・ 心身ともに健康でいることができるための生活習慣獲得への手助け・生活相談 * 就学保障…不就学児の就学手続き援助、専門学校や短大進学の資金援助 * 不登校、家出や親の問題等の相談 * 外国人親子…定住許可ビザ獲得の援助、離婚調停の手伝い支援、国籍獲得の支援 * 「障がい」児及び幼児の送迎援助 * 生活権の保障(夜まわりで出会った高齢者、子ども)…住居獲得の資金援助、生活保護の手 続き * 生活費の援助…生活費援助の場の提供(内職、バザー手伝い) ・ 緊急避難一時宿泊の場の提供…家族一家(サラ金、倒産) 母子(暴力) 子ども(家出、自立、出産) ・ 生活の場の提供、里親委託先…里子の受け入れ …大阪市家庭養護寮<2001.8.1~> …ファミリーホーム (小規模住居型児童養育事業)<2010.3.1~> ⑤ より弱い立場の友だちと社会の谷間に置かれている友だちと、共に助け合って生きていける場 であること 《必要な生活の場、仕事の場等、新しい福祉地域文化を創造する場》 必要に応じて、その人に必要な生活の場を協力して創り出せるように。 ・ 「障がい」児とその家族とのかかわりと支援 ・ 国籍の違う子どもや親とその家族とのかかわりを支援 ・ 働く場のない青年たち、また「障害」者の自立・社会参加の手助け * 仕事に役立つ知識や能力を身につける機会をつくる * 働ける場を創り出していく * グループホーム・児童自立生活援助事業・地域生活支援事業をする これらのことを通して、子ども自身が「無条件に遊んだり、学んだりできる権利があるんだ」 、 「差 別されず働ける権利があるんだ」ということを感じ、負い目なく、子どもらしく、人間らしく生きて いけるように願い日々活動しています。 現在、地域で、こどもの里で育った青年たちがジュニアリーダーとして働いていることは、子ども たちを理解する上でもプラスになっています。傷ついた分だけ人への思いやり、優しさは、子どもた ちの心を包み込んでいます。また、逆に子ども達は、大人達の疲れた心、乾いた心を癒してくれてい ます。 また、 「こどもの里」OB、OGの二世たちが、またこどもの里を利用しにぎわっていることは、 誇りに思っています。 事例 23 NO.④にある国籍獲得の支援 NO.④にある国籍獲得の支援についてお話ししたいと思います。突然、身重のフィリピン女性と2 才の子どもの母子がこどもの里を教えてもらったと訪ねてきました。出産一ヶ月前となり、仕事がで きず、家賃が払えなくなりアパートを追い出されたというのです。2 才の女児 Y ちゃんは一言も話せ ませんでした。Y ちゃんの父親は妻子持ちの日本男性、Y ちゃんが生まれると同時に足が遠のき、母 親は Y ちゃん一人を部屋の中に残し、外から鍵をかけて夜の仕事に行っていたといいます。母親以外 19 誰とも接触がなかった Y ちゃんは一言も発しませんでした。即、地域の保育園に Y ちゃんを通わせま した。Y ちゃんは父親に認知されておらず、胎児と一緒に認知してもらい日本国籍を取得したいと願 った母親は、弁護士を介して大変な事実を知ります。皆さんはご存知だと思いますが、日本人を父親 とし、母親が外国人の場合、その子が日本国籍を取得できるのは、子が胎内にいる間に父親が認知し なければならないという法律です。出産 3 日前に認知された妹は日本人となりました。 しかし姉の Y ちゃんはフィリピン国籍のままです。 「2 人の母としてこれは悲しい。どうしても日 本国籍を取得させてやりたい」と願った母親は、この法律は国籍差別だと、出生後に日本人の父親が 認知した場合も日本国籍を認めるよう、本人の代理人として日本国籍確認訴訟を起こしました。1995 年のことです。1998 年 9 月大阪最高裁判所の判決は「棄却」 。同年 11 月最高裁判所に上告。最高裁 での判決は大阪高等裁判所と同じ、敗訴棄却されました。2002 年の 11 月です。しかし、彼女の戦い は大きな成果をもたらしました。日本国籍を有する子を育てる外国人の母親に特別在留許可が認めら れたのです。 出産 3 日前に認知させた妹の存在により、 Y ちゃんの母親がその第 1 号となったのです。 本当に長い戦いでした。彼女の頑張りによってどれだけ沢山の外国人の母親に光を当てたかはかりし れません。 おわりに ・これからもいつも制度からこぼれる子どもたちの必要性に応えていく こどもの里は、地域の子どもの「しんどさ」に向かい続け、子どもを地域に生きる人として考えて います。だから釜ヶ崎に在る事にこだわっています。その延長に一時保護と生活の場の提供がありま す。子どもが親を慕い思う気持ちに圧倒されながら、個々の子どもと親、或いは個々の家族への具体 的な支援のあり方をどう考えていくかが、いつまでたっても今後の課題です。 そして、昔も今も結局しわ寄せが来るのは弱い人たちのところです。勿論、虐待防止法のように制度 が出来よくなった部分もありますが、どんな制度が出来ても、その制度からこぼれ落ちる子どもたちは います。私たちは、そういう子どもたち、一番困っている子どもたちの必要性に、子どもたちの『内な る力』と『生きる力』を信じてこれからも応えていきたいと思います。 そして、子どもや若者だけでなく、障がいのある人もない人も、地域の住民も高齢者も、野宿生活 者も全ての人が互いを尊重し、互いの価値を認め合い、喜び合え、誰もが主体的に主人公として生き られ、自分らしくいられる場になれたらいいなと願います。 参考: ハワード・ゼア著 森田ゆり訳 「責任と癒し」 築地書館 西野博之著 「居場所のちから」 教育史料出版会 久田則夫著 「真の意味での自立とは」 カリタスジャパンニュース 森田ゆり著 「癒しのエンパワメント」 築地書館 20
© Copyright 2024 Paperzz