人権についての一考察 (Study of International Human Rights)

人権についての一考察
松
井
志菜子*
Study of International Human Rights
Shinako MATSUI*
Key words : 人権思想、自然法、法の支配
1
はじめに
現代社会において人権という言葉が人々の話題に上る機会が多い。
例えば戦争により生じる難民問題や、人種、民族、宗教などの違いによる不
当な差別、迫害や弾圧、化学兵器や生物兵器の使用による大量殺戮や後遺症、
軍事政権や独裁政権による人権抑圧、先住民族の民族自決権の問題、人身売買、
女性や子供への虐待や過酷な労働、独立運動に伴う犠牲、自然災害や環境破壊、
人口問題、文盲に起因する人権問題。国内外を問わず様々な障害による機会の
平等や選択の自由の剥奪、国籍や思想、信条の違いによる理不尽な処遇などで
ある。
人権問題は、一見、世界の国々や諸地域の政治制度や社会体制、歴史、文化、
慣習などの相違が原因となる様に思われる。しかし、もつと深い所にある人間
の心の中に潜む意識、無意識を問わない差別意識、階級意識、特権意識、選民
意識などに起因するところが人権問題の難しいところである。
人は歴史を学ぶことによって現実を直視し、理想の未来を思い描くことがで
きる。私たちは過去の人類の思想や行動から叡智を学び、自由と平等と平和の
実現に向け努力する。
世界には沢山の国々や地域がある。それぞれ人種、民族、文化、言語、慣習、
風土、宗教、信仰、思想、政治体制、価値観が異なる。多様性を受け入れるこ
とが平和共存への第一歩であろう。その実現のために様々な人権条約を締結し、
国際機関の活動や議論、討論を尽くし、政治的、外交的手段を通じて、人権侵
*原稿受付:平成16年5月13日
*長岡技術科学大学経営情報系
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害の著しい地域や国に対して、指摘、申立て、調査、審議、検討、提言、要請、
勧告、助言、非難、調停、仲裁などによる超国家的な相互協力が不可欠となっ
ている。
しかし実際問題として、それらは人道的見地あるいは道徳的、倫理的見地か
らの活動であり、実効性に欠ける側面も併せ持っている。それは人権問題を起
こす主体が、その地域や国を支配する者や機関、組織であることが多く、国家
主権の侵害問題、内政干渉が問われるからである。また何が公正、中立、正義
であるかは、その地域や国々の歴史や民族、人種の特有の慣習、価値観、宗教
的な信仰の違いによって異なることもあり、微妙な問題を含んでいる。そのた
め人権抑圧や人権侵害の判断基準の設定も必要であろう。
現代社会は、国際法上、強制力のある手段や方法、例えば法整備や条約作り
に、世界中の国々や地域が参加し、団結して協力できる国際機関や国際組織作
りや体制作りに努力している。特に、法的な拘束力は、いわゆる自由主義や民
主主義国家、地域であっても、法を遵守するために、国内法や地域内の法の新
設、改正など、多くの変更義務を課し、実効性のある実現は決して容易なこと
ではない。また国家体制の異なる地域や国々に対しては、政治的、外交的な働
きかけも重要であり、有用な手段となる。
この章は、人権思想の生成発展の歴史を紐解くことにより、現代社会の複雑
に利害の絡む国際社会に生きる私たちの人権とは何かを考え、具体的に解決し
ていかなければならない問題点を探ろうとするものである。
福沢諭吉は、「学問のすすめ」の冒頭で「天は人の上に人を作らず、人の下に人
を作らずといえり」と述べた。諭吉がどの様な意味を込めてこの言葉を述べた
かはわからない。
しかし、正に人は生を受けた瞬間から自由、平等であり、ひとりの人として
の尊厳を有し、誰からも支配や搾取されない存在である。生まれながらの自由、
平等は人権問題を語る基盤となっている。
人が誰でも平等に有する権利、人権という言葉がどこから生まれたのか。そ
して人権思想はどの様に発展してきたのかを見ていこう。
2
人権思想の萌芽
2.1
人間社会に芽生えた法
人が持つ権利、その人権は誰が守り、何によって保障されるのか。
現在社会に存在する多種多様な人権問題の解決手段、方法はあるのか。
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人権についての一考察
歴史を紐解くと様々な人々に対する支配や搾取、弾圧からの開放手段が採ら
れてきた。その自由への開放手段は、ある時には君主や王、領主による人民へ
の加護として上から与えられ施されるものであり、ある時には人民が多くの犠
牲を伴いながら闘い、取り戻したものである。
自由主義思想、民主主義思想を知る現代に生きる我々は、人が生まれながら
にして持つ人権が、何であるかは漠然とでも感じることができる。
しかし、自由や平等が制限され、言論が統制、弾圧され、徹底した議論や討
論ができない地域や国に生活する人民は、人権という人が生れながら当然に有
する権利を実感すらできない状況に置かれている。まして精神的な統制、言論
弾圧、肉体的拷問、物質的枯渇、飢餓など厳しい状況の中で生命の危機を侵し
てまで圧制を弾劾し、不当な弾圧と闘い、自由や平等を獲得する行動を起こす
ことは至難である。それは近年、現代社会にも存在する。奴隷制度や人種差別、
民族弾圧、戦争反対を唱えることの難しさは想像するに難くない。
歴史を紐解くと、支配者側からの人権回復、自由と平等への開放措置は、人
民を統括するのに都合のよい範囲内での恩恵を授ける限定的なものの域を出な
い。これは今、現在の社会にも存在する現実である。民衆は何とか生命の灯を
ともし続け、不自由で貧しい生活の疲弊の中から、自分たちが搾取され続け隷
属的な立場に置かれていることに次第に気づき始める。それを気づかせるのは
厳しい現実の日常生活を行っている人々自らではなく、支配階級や宗教家、思
想家、哲学者達の啓蒙思想の浸透によるところが大きい。人権思想の歴史の始
まりである。人は皆、誰でもが当然の権利として、誰にも搾取されず、自由や
平等に、人間らしく生きる権利を持っている。いつの時代でも、どの様な政治
体制の下に生まれようが、である。ひとりひとりが普遍的に有する権利、人権
の保障と確保が人権思想の発展の歴史となっている。
人類の誕生以来、社会生活を営むようになった人々は、たとえ家族のような
小さな社会でも、それぞれの社会秩序を築いてきた。秩序や規則を守ることで、
無用な衝突を避け、平和共存を実現しようとしてきた。
2.2
法の発展
エジプト文明、メソポタミア文明、古代ギリシア文明、ヘレニズム文明の栄
えた頃、ローマ帝国時代もずっと人類は社会の規則を創り、社会秩序の形成に
叡智を絞ってきたことは、法といわれるものが既に存在していたことから明ら
(1)
(2)
(3)
かであろう。
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例えば当時は宗教を基礎として法が存在していた地域がある。古代ギリシア
において、外人法は、各ポリスの同じ宗教の人々を市民、宗教を異にする者は
外人として蛮人扱いをし、イスラエルの民は客人と扱うなど現代の国際私法の
萌芽が見られる。すなわち人種、民族、文化、言語、慣習、風土、宗教、信仰、
思想、政治体制、歴史、価値観などが異なる国や地域の人々を平穏に受け入れ
ようとしていた。
人種や民族は生まれつきであり、どの様な文化や言語、慣習や風土を持つ国
や地域に生まれるかに選択の余地はない。政治体制、社会構造、思想、価値観
を選択して生きるには膨大なエネルギーと知識、判断力が不可欠である。異国、
異文化、異人種、異民族、異なる言語、異なる慣習や風土、異宗教や信仰、異
なる政治体制、辿ってきた歴史や多様な価値観などをできるだけ認め合い、受
け入れ、軋轢を無くし、共存できる環境を創ろうとの現れと認めてよいであろう。
(1)ギリシア万民法 バビロニア法であるハムラピ(Hammurapi)法典は、自由市民、下級市民(外
国人)、奴隷に分けた。市長には治安を維持し、自由市民を保護する義務があった。保護の方法と
して損害賠償制度があり、被害者の本国法を適用し市が損害賠償をした。各ポリス間の交流が盛
んになると条約による解決方法が生まれた。各ポリス内の実質規定を定め、各ポリス間の争いに
ついては抵触規定を適用するなど、現在の実質法と抵触法の構造がこの時代から確立していた。
また不法行為に関する条約もあった。訴えはどの地域や国の裁判所に提起するのか。裁判はどの
地域や国の裁判所が行うのか。例えば加害地のポリスの裁判所か、不法行為地のポリスの裁判か
などである。裁判権、管轄権、裁判管轄権の問題についての条約が既に存在したことは注目すべ
きである。
これらギリシア万民法の時代に続くヘレニズム時代、特にプトレマイオス朝の時代においては、
現代の契約使用言語による準拠法選択や準拠法国や地域の裁判所において審理するなどのルール
が確立していた。
ギリシア万民法がポリス単位の法であったことは、現代社会におけるアメリカ合衆国に州単位
の法制度があり、かつ各州間の抵触は州際私法によって解決を図る構造と同じである。また現代
の欧州連合(EU)の法的統合において、各国がそれぞれの実質法を有しながらも、欧州連合
(EU)加盟国間あるいは欧州連合(EU)と世界各国との条約締結によって渉外的事案の紛争解決
を図るのと同じである。
(2)ローマ万民法 ローマ帝国の時代はギリシア時代と異なり統治する領土のスケールは広大になる。
ローマ万民法はギリシア万民法を基礎に創設した。市民の間の紛争解決に適用する市民法(ius
civile)と、市民対外人、外人間に適用する万民法(ius gentium)の2つに分かれていた。重要な
ことはギリシア万民法もローマ万民法も抵触法ではなく、実質法であったことである。 ius はラ
テン語で、 jus と同義であり、権利、法、正しい、法秩序などの意味がある。現在、正義を justice
というのは、この語源である。
ローマにおいては、訴えの提起があると法務官(praetor)が厳格な市民法に基づき原告の請求
が法的な請求権に基づくか否かを審査する。請求権に基づく場合には原告に訴権を付与し、請求
権に基づかない場合には訴えを却下した。訴訟になると審判員(iudex)が事件の審理をして判決
した。法務官は厳格な市民法の法規に囚われず、柔軟に請求を認め、具体的妥当性の要求に応え、
法の進化、衡平化が行われた。
万民法は実質法ではあるが、渉外的事案の解決に適用した。その性格は、現代の実質法、例え
ば、わが国の民法や商法などのの実質法の中に、実際には渉外的事案にしか適用しない条文があ
り、それらの規定を実質国際私法と呼んでいることと符合する。
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人権についての一考察
またローマ万民法は商事関係の事案にしか適用せず、身分関係については各民族固有の法、民
族の性質や習慣に密着した家族法などに任せれていた。この点については、次のフランク時代の
属人法主義へと続いていく。
(3)フランク時代(476〜987)の属人法主義 現在のフランスの領土一帯はガリア(La Gaule, Gallia)
と呼ばれた。紀元前58年〜51年にローマ時代のユリウス・カエサル(C. Jilius Caesar)の遠征によ
ってローマ帝国の属州となった。ガリア人(ゴール人 Galli, Gulois)にもローマ法を適用した。5
世紀に入り、ガリアはフランク族(Francs)、ブルグンド族(Burgondes)、西ゴート族(Wisigoths)
などのゲルマニア民族の侵攻を受けた。476年に西ローマ帝国が崩壊し、フランク・サリー族の王
クロヴィス(Clovis)はローマ帝国軍を破り、ガリアにおけるローマ帝国の支配を終わらせた。フ
ランク王国は、クロヴィス、メロヴェ王朝(période mérovingienne)、カルロス王朝(période
carlingienne)、シャルルマーニュ(カール大帝 Charlemagne, Carolus Magnus)と時代が進む。
フランク時代の属人法主義は種族法主義の時代ともいう。なかでも西ゴート族の王アラリック
2世(Alaric Ⅱ)は、506年テオドシウス法典(Code théodosien)を簡素化したアラリックの簡単
書(Breviarium Alaricanum, Bréviaire d' Alaric)を編纂した。これは西ゴート・ローマ法(lex
romana Wisigothorum)と言われ、528〜565年に編纂したユスティニアヌス法典が11世紀に注目さ
れるまで重宝に使われた。
ゲルマニア族の部族の慣習法を成文化した種族法にはサリカ法典(Lex Salica)、リブアリア法
典(Lex Ribuaria)、ブルグンド法典(Lex Bergundionum)、西ゴード法典(Lex Wisigothorum)な
どがある。サリカ法典(Lex Salica, Loi des Francs saliens)はフランスにおいては現在に至るまで生
きている。フランスに女王が生まれないのは、女性が不動産すなわち土地、王国領土を所有する
ことができないとしたサリカ法典に由来すると言われている。属人法の決定は、嫡出子について
は父の属人法(lex paterna)、非嫡出子については母の属人法(lex materna)、妻の属人法について
は夫の属人法(lex mariti)、奴隷についてはリブアリア法典にある貨幣投げやローマ法に拠るなど、
裁判所が適用する属人法の決定は属人法宣言によって決まった。
また不法行為は被害者の属人法、相続は被相続人の属人法、婚姻は夫になる人の属人法、所有
権は売主の属人法、契約は、契約の能力については各当事者の属人法、契約の方式についてはロ
ーマ法、契約の実体については債務者の属人法などであった。
属人法は一見、容易に決まりそうに見える。しかし民族間の戦いや制圧の歴史を繰り返すうち
に移民族間の婚姻による交わり、種族の混淆によって属人法の決定が困難になってきた。異なる
民族間の争いに複数の属人法が出てくることになり、10世紀には実質的に属地法を採用した。フ
ランク族は王クロヴィス(Clovis)支配の時代にキリスト教に改宗した。このキリスト教の人種的
偏見を除去する道義的な教えは属地法主義への移行に大きな役割を果たした。
様々な宗教を信じる人々がいる国あるいは地域においては、同じ宗教であればその宗教による
法により、異なる宗教の人々の紛争には実質的に別の法を適用することが現代でもある。これを
人際的抵触といい人際法規定を適用する。
裁判所は属人法の決定を止め、絶対的属地主義の採用に変えた。これは後の封建時代でも使っ
ている。
人種的偏見も障害が取れ、ガリア・ローマ人、ゲルマニア人などの種族間の差異は狭まり、生
活様式も影響し合い同化していった。ゲルマニア人はローマ化し、ガリア・ローマ人はゲルマニ
ア化した。人々も自分の種族法や部族法を意識することもなくなり、慣習法は属人法主義から属
地法主義へと移行した。かつてローマ法はローマ皇帝が人民を統治するために創ったのに対し、
ゲルマニア法は旧き良き法と言われた。
2.3
封建時代の絶対的属地主義
封建時代はその土地の領主の法に従った。すべてのものが土地と結びつく。
例えば人の国籍は出生地による。その人が自由人か農奴かは土地が決める。人
は封土(fief)を所有することにより貴族となるなどである。土地と裁判権と紛
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争解決に適用する準拠法は密接不可分の関係にある。絶対的属地主義の構図で
ある。
フランク王国はシャルルマーニュ(カール大帝 Charlemagne, Carolus Magnus
768−814年)の死後、統一が弱まる。王国の領有を巡る争いが起き、ヴェルダ
ン条約(Traité de Verdun 843年)が結ばれた。このヴェルダン条約による領地分
割は、その後、何世紀にも亘りフランス、ドイツの国境争いの種となる。
ヨーロッパ大陸の封建時代は11〜12世紀、13〜15世紀、16世紀と大きく分け
られる。
南フランスには、11世紀末から12世紀初期にかけたイタリアのーマ法研究の
復興運動に続き、ユスティニアヌス法典が伝わった。それ以降、ローマ法の原
則の適用が広まり、慣習法となっていった。南フランスの慣習法は成文法化し、
統一的安定性を保ち理解しやすかった。北フランスの慣習法はゲルマニアの慣
習法を基礎とした。成文法化しない慣習法は統一性安定性を欠いた。北部フラ
ンスと南部フランスの格差については、教会法とローマ法が緩和した。この北
部フランスの成文法地域と南部フランスの慣習法地域の地理的な区分は、18世
紀の革命時代まで続いた。
11〜12世紀には法廷地法(lex fori)の時代であった。紛争解決に適用する法は、
身分、法律行為、能力に係わらず、法廷地の法を用いるというものであった。
13〜15世紀は、封建制度は、現在のドイツのザクセン地方、中央ヨーロッパま
で広がり、絶対的属地主義もヨーロッパに浸透していった。14世紀のイタリア
では、バルトルス(Bartolus)が人法(statuta personalia)には属人法、物法
(statuta realia)には属地法と分類した。法規分類説である。イタリア学派と呼ば
れる。16世紀は中央集権の時代である。フランスでは専制君主制(régime
monarchique)の時代であった。またローマ法、ゲルマニア法、教会法を中心に
発展してきたヨーロッパ大陸法と、判例法として発展してきたイギリスのコモ
ン・ロウ(common law)との大きな二つの法の発展が明確になり、学問的にも
法学者の議論が盛んとなる。フランスにはデュムラン(Charles Dumoulin 1500〜
1566)、ダルジャントレ(Bertrand d' Argentré 1519〜1590)、ドイツにはサヴィニ
ー(Friedrich Carl von Savigny 1779〜1861)、イタリアにはマンチーニ(Pasquale
Stanislao Mancini 1817〜1888)などの法学者がいた。
封建時代の領主や貴族などの特権階級は封建体制を支えた農奴の開放を何度
か行った。そして遂に1779年の革命前夜、ルイ16世(Louis XVI在位1774〜1792)
は農奴制を廃止した。1789年のフランス革命に至るまでには長い道のりがあつた。
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人権についての一考察
次の節で思想の流れを見ていこう。
3
人権思想の発展
3.1
自由の基礎法
憲法は自由の基礎法と言われる。それは憲法が如何に人権を守るか。その目
的達成のために如何に国家権力に制限を加え、人権保障のための統治機構を如
何に活用していくかを規定するからである。憲法の条文の構成は、人権規範条
文が目的であり、その実現手段として統治機構の条文を規定する。わが国の憲
法第97条(4)は基本的人権が永久不可侵であることを宣言する。第96条(5)は憲法
改正の手続に慎重を要するよう硬性憲法である旨の規定がある。また第98条(6)
で憲法よりも上位の法はない、国の最高法規であることを規定する。
わが国の憲法は第二次世界大戦後、連合国側の国、主としてアメリカ合衆国
の草案を受け入れる形で創られた。その草案はアメリカ合衆国憲法の影響は大
きいが、いろいろな国々の憲法を参照して創ったものである。
17世紀、アメリカ大陸にイギリスから移民が移り住んだ。憲法を創り独立国
家としての体裁を整えていった。憲法を起草する際、その精神にヨーロッパに
おいて育まれてきた自然権思想が脈々と流れ、人権思想に深く浸透しているこ
とは言うまでもない。1776年、人権宣言を盛り込んだバージニア州の権利章典
に次いで、13州はジェファソン(Thomas Jefferson 1743−1826年)を中心に起草
した独立宣言(Declaration of Independence 正式には The Unanimous Declaration of
the Thirteen United State of America)を採択した。これは自然法や社会契約論の考
え方を採りいれ、イギリス議会の決定による様々な圧政からの解放を目指した
ものである。
次に各国の憲法の根底に流れる人権思想の醸成を見ていこう。
(4)憲法第97条 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努
力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵す
ことのできない永久の権利として信託されたものである。」
(5)憲法第96条 「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発
議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会
の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すもの
として、直ちにこれを公布する。」
(6)憲法第98条 「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国
務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」
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3.2
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人権思想の発展
(1)国家の3要素
領土、人民、統治機構(政府)が国(国家)の3要素である。この場合の国
は国際機関や特定の国家が国として承認しているか否かは問わない。国は国家
の基本法を有する。国家の基本法は憲法である。必ずしも憲法という名で呼ば
れなくてもいいが、憲法には、①地域あるいは国という統治団体の存在を基礎
づける基本法、すなわち、地域あるいは国の統治の基本を定める法という意味
と、②自由主義に基づいて定めた国あるいは地域の基礎法という意味の2つが
ある。
①地域あるいは国には、必ず統治する政治権力とそれを行使する統治機構
(政府)がある。そして政治権力や統治機構(政府)の活動を規律し、その相互
の関係を規律する規範が憲法である。従って国家形態、統治形態は絶対王政、
立憲君主制、共和制に拘らず、また社会主義国家、民主主義国家にも拘らない。
この意味の憲法は、いかなる時代であろうとどの様な国あるいは地域にも存在
する。
②18世紀末の近代市民革命期に専断的な権力を制限し、人民の権利を保障す
る立憲主義思想に基づく憲法の意味である。政治権力を握る人々の暴走を制限
し、人権を守る(人権保障)に主眼がある。これは憲法学における憲法が、近
代において一定の政治的理念に基づいて制定した憲法であり、国あるいは地域
を統治する国王や君主の政治権力を制限して、国あるいは地域の人民の権利や
自由を守ることを目的としていることを示す。
(2)判例法
英米法(Anglo-American law)、特にイギリスにおいてコモン・ロウ(common
law)とエクイティ(equity)の2つの判例法の発展があった。
コモン・ロウ(common law)は中世において国王裁判所である common-law
court(コモン・ロウ裁判所)において運用され発展した法である。エクイティ
(equity)は衡平、公正とも言われ、コモン・ロウ裁判所とは別の大法官裁判所
(Court of Chancery)において14世紀末頃から発展した判例法である。フランス
は司法官が衡平(équité)に考慮し、裁判に用いることによりフランス法に組入
れていった。
イギリスにおけるエクイティはコモン・ロウの補助的な注釈、若しくは、付
録(gloss or appendix)として生まれ、コモン・ロウを基礎とした(Equity
follows the law)。しかしコモン・ロウ裁判所が保守化するに従い、先例違背を認
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人権についての一考察
めないなど硬直化の傾向が強くなり、救済方法(remedy)の欠陥や裁判の不公
正に不満が出た。またコモン・ロウでは適切な対処が難しい新しい事案もあり、
(7)
実質的な裁判拒否が行われた。エクイティ(equity)
はコモン・ロウによって
は救済されず、不満を募らせる一般市民への救済方法として正義と衡平の観点
から判断を行い、コモン・ロウとは別の法体系として発展した。正義と衡平の
見地から大法官(Lord Chancellor)の裁量による個別的、恩恵的な救済への道を
開いたのがエクイティである。エクイティは信託(use 後に trust)、特定履行
(8)
(specific performance)
を命じ、差止命令(injunction)を与えるなどの分野で
発展した。エクイティ(equity)の発展により法の厳格性は緩和された。大法官
(Lord Chancellor)は、通常、行政官吏でもあり聖職者でもあった。従って自由
裁量で判断、斟酌し、エクイティの法原則を創るに際し、カノン(教会法)法
(cannon(church)law)およびローマ法(市民法 civil(Roman)law)を参考に
した。しかし国王ヘンリ8世(1509−1547)の時代、トマス・モア(Sir Thomas
More 1478−1535)が大法官に任命(在位1529−1532年)された以降、大法官裁
判所(Court of Chancery)においても先例主義を採り、エクイティも厳格性を強
め硬直化していった。時代は封建時代から資本主義社会へと移行する。エクイ
ティにおいても法の安定性が要求されるようになる。
コモン・ロウはノルマン人がイギリス征服後、国王の裁判所が裁判を通じて、
5〜6世紀にイングランドに侵攻した後、定住していたゲルマン族のアングル
人(the Angles)、サクソン人(the Saxon)、ジュート人(the Jutes)などの慣習法
を基礎として築いた判例法である。この判例法はイングランド全域に共通する
法として王国の一般慣習法(universal custom of the realm)、すなわちコモン・ロ
ウと呼ばれた。コモン・ロウは、法はもともと存在し、それを国王や裁判所が
発見すると考えた。ゲルマニア法の考え方である。すなわち旧き良き法(慣習
法)の背後には法の支配という法優位の思想があった。たとえ絶対王政の君主
(国王)といえども法には従わなければならない。法は国王や人民が創るもので
はなく、議会も旧き良き法を発見して条文に置き換えるだけであるし、裁判所
も旧き良き法に従い裁判をするという思考である。
他方、ローマ法は、法は君主(国王)が創り、人民を統治する手段とした。
この両者の違いは時代が進むにつれ法の支配と法治主義の違いに発展すること
になる。資本主義社会が発展し、個人の自由と平等が強調され、契約自由の原
則と財産権が尊重され、経済的強者と弱者による富の偏在が生じ貧富の差が出
てくると、再び具体的妥当性の要求が高まった。国会の立法を通じての法社会
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の醸成化の時代へと移っていく。
(7) エクイティ(equity) エクイティ(equity)は、ラテン語の aequitas 、すなわち、水平化
levelling に由来する。
(8)特定履行(specific performance) 契約違反に対し、債務を契約通りの履行強制するエクイティ
(equity)の救済方法。因みに、コモン・ロウ(common law)上は、金銭賠償が原則である。
(3)自然権思想
イギリスにおける法の支配は、しかし本来の意味とはかけ離れ、国王や貴族
など特権階級の身分を守るために使われ、人民の人権保障には無縁の封建的性
格の強いものであった。
その後イギリスのロック(John Locke 1632〜1704年)、フランスのルソー
(Jean-Jacques Rousseau 1712〜1778年)などの啓蒙思想家が近代自然法、自然権
思想を説いた。自然法は古くプラトン(Plato)、アリストテレス(Aristotle)など
の思想家が説いていた。ストア哲学に採りこみ、キケロ(Cicero)などが普及した。
ローマ法の研究は、東ローマ帝国のユスティニアヌス皇帝(527−565年)の
ローマ法大全(Corpus Juris Civilis)に集約した。その後のヨーロッパの国家統
一のための法の基礎となる。ローマ法の継受(Reception)という。
ロックの自然権思想は、①人間は生まれながらにして自由かつ平等であり、
生来の権利(自然権:生命、自由、財産:life, liberty, property)を持つ
②自然
権を確実なものとするために社会契約を結び、政府に権力の行使を委任する
③政府が権力を恣意的に行使し、人民の権利を不当に制限する場合には、人民
は政府に対抗する権利を有するというものであった。ロックの思想は、①の自
然権思想、②の自然権保障を目的とした信託された権力としての政府、契約に
基づく政府、すなわち人々の権利を守る目的のために政府を作り、③の抵抗権、
すなわち人権を侵害する為政者、政府、公権力に抵抗する権利の主張は、やが
てルソーの思想とともにフランス革命に影響を与えた。ルソーは既存の自然権
思想を批判しながら社会契約説を論理的に説き、人民主権の観念を確立し直接
民主制を説いた。法を人民全体の意思であるとした自然権思想の影響は大きか
った。この様な統治に対する法的制限と、それによって実現しようとする権利
自由の保障を中核に据える近代的な憲法は中世の自然権思想から生成発展して
きたものである。
その後、自然権思想はアメリカ大陸に渡り、アメリカの独立宣言(1776年)
に反映した。アメリカ合衆国憲法は今日に至るまで修正を続けている。独立当
初の1789年の修正箇条においては、信教の自由、言論、出版の自由、集会の自
-36-
人権についての一考察
由、政府への請願権、財産権の保障(修正第1条)、所有権の不可侵(修正第3
条)、人身の自由(修正第4条、第5条、第6条)などの権利を規定し、近代市
民社会の基礎となる国民主権(主権在民)、基本的人権の尊重、権力分立の原理
を説いている。この自然権思想、自然法に基づくアメリカ合衆国憲法は、革命
の気運が高まるフランスに影響し、フランス人権宣言(「人と市民の権利の宣言
(Déclaration des droits de l' homme et du citoyen)」(1789年)に読み込まれた。フラ
ンス人権宣言は、人は生れながらにして自由かつ平等であることや博愛精神を
(9)
明確にし、抵抗権についても規定した。
更に第二次世界大戦後、太平洋を渡
(10)
りわが国の憲法第13条に、生命、自由、幸福追求権として具体化した。
(9)Déclaration des Dorits de l'homme et du Citoyen de 1789 Art.1er.-「Les hommes naissent et demeurent
libres et égaux en droits. Les distinctions sociales ne peuvent ê fondées que sur l'utilité commune.」 Art.2.「Le but de toute association politique est la conservation des droits naturels et imprescriptible.」
(10)憲法第13条は、個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重を規定する。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利について
は、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
(4)成文憲法と硬性憲法
立憲的憲法は一般的に成文憲法の形を採る。なぜならば成文法は慣習法に勝
るという近代合理主義の考え方と、近代自然法が説いた社会契約説、すなわち
国家は自由な国民の社会契約による組織であり、憲法は社会契約を具体化した
根本的な契約であるため、文書の形で明確化し安全確実を期すという考え方か
らである。また立憲的憲法は硬性憲法であることが多い。なぜならば社会契約
説の立場では憲法改正は主権者である国民のみが行うことができるからである。
すなわち立法権が立法権自体を生み出した憲法を簡単に改正することは許され
ず、憲法は立法権を拘束するからである。憲法改正は厳格な手続を要する。
では慣習法の形態を採るイギリスの場合にはどの様になっているであろうか。
イギリスには成文憲法は存在せず、不成文憲法である。また条文の形を採らな
い軟性憲法である。従って憲法慣習を除き、立法権が他の法律を改正するのと
同じく、通常の立法手続によって憲法改正は可能である。憲法保障の一つの現
れと言えよう。
4
自然権思想と憲法制定権力
4.1
憲法制定権力と国民主権
憲法は自由の基礎法である。それは憲法が人権を守り、国家権力を制限する
制限規範であることを意味する。また憲法は立法権を有する国会に対し、また
-37-
松
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志菜子
行政権を有する内閣に対しても権限を授ける授権規範でもある。
近代憲法の制定は、すべての人間は生まれながらにして、自由、平等である
という自然権思想に基づいている。すべての価値の根源は個人にある、すなわ
ち憲法の主体は国民一人一人であり、国民一人一人が憲法制定権力の保持者で
ある。すなわち国民一人一人が憲法を創る力を有することを意味する。国民主
権、主権在民である。自然権思想と国民主権、憲法制定権力とは密接な関係に
ある。国民の憲法制定権力は憲法条文において国民主権として表現することか
ら、人権規定と主権原理も密接不可分の関係といえる。
4.2
わが国の憲法
わが国の憲法は第3章に国民の権利及び義務を設ける。中世の自然権思想に
端を発した自然権思想を具体的な条文に現したものである。憲法は第3章の条
文が中核であり根本規範となる。また憲法の条文には価値序列がある。人権規
定が最も重要な条文であり、人権規定の基本には個人の尊厳、個人の尊重があ
る。個人の尊厳、個人の尊重は個人主義とも言え、全体主義に対峙する言葉で
ある。中世ヨーロッパにおいて生まれた個人主義はヨーロッパの長い歴史、そ
の中で育まれたキリスト教精神や価値観を無視する訳にはいかない。わが国の
憲法は個人を尊重し、個人の尊厳に重心を置く中世ヨーロッパの自然権思想を
採り入れた。個人の尊重は異なる存在である自分と他人の存在を深く問い、自
我の確立やエゴについて思考を深めたソクラテスやプラトンのギリシア哲学に
始まる西欧哲学の一つの流れから出てきた。
それとは対照的に自我を主張せず、自然と一体、宇宙と一体という東洋的な
和の精神を尊び、個人を前面に出すことはむしろ控え他者との和、自然界との
調和を重んじるアジアの風土、仏教や儒教の教えが人生観にまで浸透していた
わが国の国民には、第二次大戦後の現行憲法の制定には違和感があったかもし
れない。
人間が最高であり、自然界の他の生き物、動植物などは、人間が支配、克服
すべきものというヨーロッパの考え方は、しかし近年の環境破壊や物質文明の
様々な問題を引き起こしている。戦後、急速に西欧化し、弊害を巻き起こして
いるヨーロッパ文明、アメリカ文明に警鐘を鳴らす意味からも、アジアの風土
に馴染んだ自然との調和、一体性に根ざした東洋思想や和の精神を紹介するよ
い機会かもしれない。
昨今、憲法改正の論議が盛んである。戦後、半世紀以上、戦争をせずに平和
-38-
人権についての一考察
を維持してきたわが国の国民は、自由と平和、民主主義の重要性を知り、十分
な審議、討論を尽くし自分たちの未来を決定していく力を培ってきた。また国
際的な視野も養い、長期的な国際情勢を解析し、地球人としての自覚も醸成し
てきたと思われる。今、時代が大きく変わろうとするときに、改憲するか否か
は別として、憲法について議論し、人権について思索を巡らすことは良い機会
(11)
であろう。
(11)憲法前文
わが国の憲法の前文には、「そもそも国政は厳粛な信託によるものであって…」との文言がある。
これは正に国民から信託された社会契約による政府であることを現している。憲法の前文には、
沢山の人権の歴史から学んだ人類の叡智が盛り込まれている。評価は個人の自由である。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫
のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が
国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるも
のであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国
民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。
われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するので
あつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意
した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めて
ゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく
恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、
政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と
対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」
5
法の支配と立憲主義
5.1
法の支配と法実証主義
法の支配は、いわゆる英米法系の諸国、特にイギリスにおいて発展してきた
ゲルマニア法的な法思想である。専断的な国家権力の支配を排斥し、権力を法
により拘束し、国民の権利、自由を擁護することを目的とする基本原理である。
法は正しいものである。悪法は法ではない。人間を超え、絶対的に存在するの
が法である。中世の法優位の思想から生まれ、実定法を超える法の存在を認め
る考え方である。ギリシア時代、ローマ時代の自然法論であり、キリスト教や
スコラ哲学における神学的な自然法論である。中世末から近世初めの宗教戦争
などを経て、伝統的な自然法思想を神学から開放し、新たな基礎と内容を与え、
(12)
合理的社会哲学の形成の要望に応えようとした自然法である。
法が正しいのは人民の権利を守るからである。権利という言葉はわが国が江
-39-
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戸の鎖国時代から開国に向けヨーロッパの法を研究し、憲法制定や法の編纂を
行っていたとき、啓蒙思想家であり哲学者であった西周が recht, right に権理を当
てたのが始まりと言う。英語の right 、ドイツ語の Recht 、フランス語の droit 、
イタリア語の diritto など、権理には「正しい」の意味が含まれている。理に適
った正しいことを主張するから権理なのであって、権利だから主張するのでは
ない。正しいこと、権理を守る、権理を保障するのが憲法であり、憲法が正し
いのは当然ということになる。
人権保障がなぜ正しいのか。
それは人として理に適った正しいことを主張するのが人権であるからである。
(12)法実証主義 自然法主義と対峙して使われる言葉に法実証主義がある。法実証主義は自然法主義
とは異なり、実定法以外に法はないと考える。すなわち条文以外は法ではなく、従って実定法で
あけば悪法も法になりうる。
5.2
違憲立法審査権
わが国の憲法はアメリカ独立宣言の流れを採りいれた影響もあり、法の支配
を具体化している。実定法である憲法よりも上位に人を超えた叡智があり、そ
の価値を具体化、実定化するのが憲法であると考える。例えば、①憲法の最高
(13)
法規性。憲法第10章に規定がある。
②権力によって個人の権利は侵されない。
(14)
憲法第3章の規定である。
③法の内容、手続の公正を要求する。手続の公正
は適正手続(due process of law)という。英米法系において、人権は手続保障で
もあり重要な役割を負う。現に憲法第3章の規定のうち第31条以下が法定の手
続保障である。適正な手続に拠らなければ国民は処罰されない。④裁判所の役
割を尊重する。これはアメリカ合衆国が立法、司法、行政の三権分立を徹底し、
権力の恣意的行使を排除し統制する権限を裁判所が有することに由来する。違
憲立法審査権は裁判所が有する。すなわち議会が立法した法を憲法に適合する
か否かを審査、決定する権限を裁判所が有している。わが国の憲法第6章の規
定のうち第81条に規定する。
例えば人は生まれながらにして自由かつ平等であり、生命、自由、財産、幸
福追求権を持ち誰からも侵されないという自然権思想は、実定法の存在に係わ
らず、すなわち憲法以前から存在するという考えである。自然法主義の発想で
ある。仮に憲法改正により人権を認めない、あるいは、国民主権を否定するよ
うな改正は憲法制定以前に存在する自然法の考え方に反し、その様な憲法改正
は許されない。
-40-
人権についての一考察
(13)憲法第10章最高法規
第97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の
成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すこと
のできない永久の権利として信託されたものである。」第98条「この憲法は、国の最高法規であつ
て、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その
効力を有しない。日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守すること
を必要とする。」第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この
憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」
(14) 憲法第3章は、国民の権利及び義務を規定する。第10条「日本国民たる要件は、法律でこれを
定める。」第11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障す
る基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」第
12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しな
ければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のために
これを利用する責任を負ふ。」第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸
福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする。」第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、
社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。華族その
他の貴族の制度は、これを認めない。栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はな
い。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受けるものの一代に限り、その効力を有す
る。」第15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。すべて公務
員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。公務員の選挙については、成年者による
普通選挙を保障する。すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、
その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。」第16条「何人も、損害の救済、公務員の罷
免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、
かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。
」第17条「何人も、公務員の不法行為によ
り、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めるこ
とができる。」第18条「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除
いては、その意に反する苦役に服させられない。」第19条「思想及び良心の自由は、これを侵して
はならない。」第20条「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国
から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式
又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活
動もしてはならない。第21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保
障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」第22条「何
人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外国に移
住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。」第23条「学問の自由は、これを保障する。」第24
条「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相
互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚
並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等
に立脚して制定されなければならない。」第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活
を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向
上及び増進に努めなければならない。」第26条「すべて国民は、法律の定めるところにより、その
能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。すべて国民は、法律の定めるところにより、
その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」第27条
「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関す
る基準は、法律でこれを定める。児童は、これを酷使してはならない。」第28条「勤労者の団結す
る権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」第29条「財産権は、これ
を侵してはならない。財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。私
有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。第30条「国民は、法律
の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
」第31条「何人も、法律の定める手続によらなければ、
-41-
松
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その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」第32条「何人も、裁判所に
おいて裁判を受ける権利を奪はれない。」第33条「何人も、現行犯として逮捕される場合を除いて
は、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、
逮捕されない。」第34条「何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を
与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ拘禁されず、要
求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければな
らない。」第35条「何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けるこ
とのない権利は、第33条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及
び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。捜索又は押収は、権限を有する司法官憲
が発する各別の令状により、これを行ふ。」第36条「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対に
これを禁止する。」第37条「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁
判を受ける権利を有する。刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、
又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。刑事被告人は、いかなる
場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することがで
きないときは、国でこれを附する。」第38条「何人も、自己に不利益な供述を強要されない。強制、
拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠と
することができない。何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪と
され、又は刑罰を科せられない。」第39条「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪と
された行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の
責任を問はれない。」第40条「何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律
の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。」
5.3
法治主義
法の支配と対比して使う言葉に法治主義がある。
法治主義は、国会(議会)が制定した法によって統治(rule by law)すべきで
ある、という考え方である。第二次世界大戦前のドイツやフランスなど大陸法
系諸国が形式的法治主義を採る法治国家であった。対象は被治者である人民で
ある。法治主義ないし法治国家は、法による行政や司法という権力に対し歯止
めをかけ制限する。この点、憲法によって権力を制限する法の支配も同様であ
る。法の支配も法治主義も立憲主義の現れといえる。国家の基本法、すなわち
憲法に基づき政治を行う立憲主義を、英米法系諸国は法の支配で、大陸法系諸
国は法治主義によって具体化、実現しようとした。
権力を制限する必要性はどこにあるか。権力は法に基づいて政治を行う。し
かし法が悪法である可能性もある。権力形態は絶対王政、君主制如何を問わず、
また必ずしも民主主義である必然性も無い。法の内容が法治主義の法と法の支
配の法とでは全く異なる。
法の支配の対象は統治者、権力者である。法の支配は個人主義的な原理であ
り、個人の自由や権利を為政者や政府、国家の干渉から護ることが基礎にある。
法の内容が合理的であるという実質的要件を包含し、人権の観念と結びついて
いる。19世紀、法の社会化への要望が高まるなど社会情勢が変化した。国会主
-42-
人権についての一考察
権(sovereignty of Parliament)の進展と共に、国会は自由な立法ができ、結果的
に法の社会化が実現した。
しかし法治主義の場合は法の内容の合理性を問わない形式的な法である。法
実証主義の考え方である。ドイツは第二次世界大戦前のナチズムに対する反省
から、法の内容の正当性を厳格に要求する。不当な内容の法を憲法に照らして
排除する違憲立法審査権を採用し、実質的法治国家に移行している。すなわち
実質的法治主義の法の内容は、正しい法でなければならない。従って現在の法
治主義は英米法系の法の支配に近づいている。
5.4
イギリスとアメリカ合衆国における法の支配
法の支配に基づく英米法系諸国においては裁判所の地位は高く、裁判所に対
する信頼は厚い。すなわち法の支配(rule of law)の中には、法の優位(supremacy
of law)、司法権の優位(judicial supremacy)の考え方がある。権力や権力者や行
政から独立した司法権、司法裁判所を通じて個人の権力を護ろうという現れで
ある。イギリスにおいては法適合性の判断権者は法の発見者であり、行政が法
に適合するか否かは裁判所が審査する。他方、イギリスは議会への信頼も厚い。
議会の創る法は正しい法である、と考えるからである。イギリスに違憲立法審
査権が未だにないことは、この信頼に由来する。しかし議会が憲法に適合する
か否かの判断は議会自身が行うため厳格性には疑問がある。
この様に第二次世界大戦前、形式的法治主義を採ったドイツ、フランスなど
の法治国家においては、議会が憲法に適合するか否かを問題にすることもなく、
議会が憲法に拘束されるべきであるという発想自体がなかった。三権分立の抑
制均衡という意識の萌芽は、第二次世界大戦後の民主主義の発展と立憲主義の
(15)
確立への時間を待たなければならない。
イギリスから独立を果たしたアメリカ合衆国においては裁判所への信頼は厚
いが、議会に対しては不信感がある。アメリカには先住民族が古くから居たが、
イギリスの植民地時代に人々を移住させた歴史がある。アメリカ大陸に移り住
んだ人々は、イギリス本国からの不当な課税などイギリス議会の植民地政策に
対する不満を募らせ独立の気運が高まった。イギリス議会への不信から生まれ
た国、アメリカ合衆国においては、議会が創る法を裁判所が違憲審査するのは
当然の流れであった。アメリカ合衆国の裁判所は法適合性および憲法適合性の
判断権者である。憲法適合性は違憲立法審査権のことである。アメリカ合衆国
(16)
の違憲立法審査権は、1 Cranch(5 U.S.)137(1803)判決において確立した。
-43-
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志菜子
この事案において、アメリカ合衆国の最高裁判所が、連邦議会が制定した法の
憲法適合性、すなわち合憲性を審査し、違憲立法審査権を初めて行使した。
John Marshall 主席裁判官は、アメリカ合衆国最高裁判所はアメリカ合衆国憲法
の最終的な解釈権を有し、連邦や州の立法部は最高裁判所の憲法解釈に従わな
ければならないと述べた。違憲立法審査権の確立に大きな役割を果たした。ア
メリカ合衆国は行政が法に適用しているか否かも裁判所が判断する。議会が法
に適用しているか否かの憲法適合性も裁判所が判断する。すなわち行政のみな
らず、議会、立法権の憲法適合性の判断も裁判所の判断に委ねている。
イギリスもアメリカ合衆国も法の支配の国である。イギリスが議会尊重、議
会優位の議会中心主義であるのに対し、アメリカ合衆国は法の支配を徹底し、
議会、行政、裁判所と対等の関係にある。立法、行政、司法の三権分立(権力
分立)を徹底した。アメリカ合衆国の大統領拒否権(presidential vito)は、正に
議会が創った法を行政府(ホワイト・ハウス)が拒否することからも明らかで
あろう。
この違憲立法審査権は、わが国の憲法第81条の規定に反映している。
(15)立憲主義の歴史 ①古典的立憲主義 古代ギリシア、ローマ時代の政治権力に対する歯止めや分
断による相互牽制、権力の濫用防止の試みはあった。古典的立憲主義である。古典的立憲主義は
中世の封建体制や近代的絶対王政の時代に後退した。②市民革命期による近代立憲主義の萌芽
市民は次第に戦争や過酷な課税など絶対王政に対する不満を募らせた。文化面は躍動的なルネサ
ンスの新風が吹き、個人の自由や権利を意識するようになる。権力者の横暴に苦しむ市民階級は
国王や君主、貴族など一部の特権階級に対し、国家は国民ひとりひとりの自由や権利を守るため
に存在することを文書により確認する主張を始めた。例えば1776年のアメリカのヴァージニア州
における権利章典は国民の生まれながらの自由と権利を守るために政府を創り、かつ政府の権力
に憲法により歯止めをかける内容を文書で現した。市民革命による近代立憲主義の萌芽である。
③近代立憲主義 19世紀、自由国家の下、近代憲法は各地で実定化した。市民の経済活動は活発
になり自由や平等を手に入れ、個人の自由意思による経済競争が加速した。国家は、経済的、政
治的に個人に干渉せず放任であった。自由競争が経済社会を活性化し社会の調和を保つと思われ、
国家は社会の最小限の秩序維持と治安の確保の消極的な役割を果たした。自由国家、夜警国家、
消極国家という。当時のイギリスやフランスは議会中心主義であり、優位に立った議会は法によ
る人権保障を目指した。アメリカ合衆国は議会への不信から厳格な三権分立を押し進めた。ドイ
ツや日本の近代化は遅れ、19世紀後半に政策の一環として憲法を掲げた立憲主義である。④現代
立憲主義 自由国家における放任は資本主義の発展をもたらすと同時に、巨大な富を得た経済的
強者と競争社会から取り残された経済的社会的弱者に分かれた。新たな階級社会が出現した。憲
法の保障する自由や平等は実質的になくなり、経済的社会的弱者の救済が必要になった。国家は
むしろ積極的に市民の生活に干渉を始める必要性が出てきた。。積極国家、福祉国家、行政国家と
呼ばれる。例えばドイツの1919年ワイマール憲法は社会権を保障した最初の憲法である。当時ド
イツは社会国家の理想を掲げ、社会権の保障だけではなく比例代表制を定めた。議会における審
議に重点を置いたリベラルな憲法であった。しかし次第に議会制の機能は弱まり崩壊し、後にナ
チズムの台頭を許すことになる。わが国も近代化の遅れを取り戻すため、また近代立憲主義思想
や自然権思想が開国、明治維新により外から受入れたものであり、国民に根付かず、やがて全体
主義へと歩みを進めていった。
-44-
人権についての一考察
(16)Marbury v. Madison アメリカ連邦最高裁判例 Marbury v. Madison(1803)は、アメリカ合衆国
建国(独立宣言)
(1776年)当初の判例である。原告は William Marbury 他、被告は James Madison
国務長官である。1800年、大統領選挙と連邦議会選挙において与党連邦党(Federalists)は共和党
に敗けた。共和党の新政権の大統領はジェファーソン(Thomas Jefferson)が就任した。連邦党は
勢力温存を画策し、司法部、裁判所に連邦党員の残存に努力した。マーシャル国務長官は、国務
長官在職のまま合衆国連邦最高裁新長官 Chief Justice Marshall となった。連邦議会は、連邦裁判所
の組織に関する法律、ワシントン特別区の治安判事任命に関する法律、連邦巡回裁判所と裁判官
職を新設する法律を次々と制定した。原告 Marbury も連邦党員の治安判事として任命される予定
であつた。任命手続は大統領が候補者を挙げ、連邦上院に指名、上院が助言と承認を行ない、大
統領が任命し、国務長官押印後、任命書に発送する手順である。ところが、原告 Marbury の任命
手続が深夜に及び、辞令は上院から送付されアダムズ大統領(John Adams)の署名後、マーシャ
ル国務長官(John Marshall)による国璽押印、封緘はしたが、原告 Marbury に届かなかった。原
告 Marbury らは、被告 Madison 新国務長官に辞令交付に関する照会をした。新政権の共和党は連
邦党員である原告 Marbury らの任命を望んではいない。判決は正式な手続を経た任命は成立し、
原告らの法に基づく辞令交付を受ける権利を認め、権利侵害に対する法的救済申立として大統領
の免責に裁判所の審査が及ぶとした。またある法律が憲法に抵触する場合、裁判所は憲法を最優
先して判断すべきであり、裁判官は憲法擁護義務がある。合衆国憲法は最高法規であるとした。
建国直後の連邦政府内の構造や連邦政府と州政府との関係を明確にした。結果は請求の根拠とな
った法律が憲法に違反するため原告の請求は認めなかった。判決文は「... certainly, all those who
have framed written constitutions contemplate them as forming the fundamental and paramount law of the
nation, ...」とし、連邦法および州法のアメリカ合衆国憲法への適合性の判断権は司法権に属する
とした。違憲審査権の確立とアメリカ合衆国憲法前文の「...in Order to form a more perfect Union,
establish Justice, insure domestic Tranquility, provide for the common defense, promote general Welfare,
and secure the Blessing of Liberty to ourselves and out Posterity」という法の支配の精神の実現の一歩
が踏み出された。移民の国であるアメリカ合衆国は三権分立を徹底し、司法権は独立している。
裁判所は多くの人権問題に取り組み議論を尽くし、幾重の判例を積み重ねている。真の人権尊重、
自由、平等、平和の実現、社会正義実現への道を模索し努力している。
5.5
大陸法系諸国の法治主義
第二次世界大戦前の法治主義を採る大陸法系諸国は形式的法治国家である。
法適合性の判断権者は裁判所である。但しフランスにおいては行政事件の取扱
いは行政機関のひとつである行政裁判所が行った。行政機関が自ら判断した。
行政事件は行政の組織が機能し、正当な活動か否かなど行政運営に関する問題
を扱い、国や公共団体と国民との間の争いである。フランスは1789年にフラン
ス革命により立憲主義へと傾いた。16世紀初めからフランス革命まで3世紀に
わたる専制王政期(period de la monarchie absolue)、アンシャン・レジーム
(Ancient Régime)であった。裁判所は専制王政と結びつき国王の意のままとな
った。国民にとり人権侵害に加担する裁判所は信頼を失った。裁判所や裁判官
に対する不信はフランス革命後も根強く残り、現代も裁判所よりも行政に信頼
と期待が寄せている。法の憲法適合性審査は裁判所ではなく、憲法院という行
政機関が行った。第二次世界大戦前、フランス、ドイツにおいては行政が法に
適合するか否かの判断を行政裁判所が行った。第二次世界大戦後、ドイツにお
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いては法の憲法適合性は特別裁判所として創設した憲法裁判所が行う。すなわ
ちドイツの司法裁判所には違憲立法審査権はない。ドイツには憲法に対する忠
誠を強制する憲法忠誠がある。第二次世界大戦後のドイツの憲法の重要な特徴
である。憲法を批判する言論活動には刑罰規定がある。憲法忠誠は闘う民主政
ともいう。民主主義は闘って勝ち取るものである。憲法秩序の破壊に対する抵
抗権である。ナチズムへの猛烈な反省から生まれた憲法の精神に反するものに
自由を与えないという考え方である。
因みにわが国の憲法第99条に憲法尊重擁護義務の条文がある。日本国憲法は
国民に憲法に反対する自由を認める。憲法を尊重し擁護する義務の主体は国会
議員、裁判官、その他の公務員である。憲法を創ったのは国民であり、憲法改
正も自由である。この点、ドイツの憲法忠誠と異なる。これを価値相対主義と
いう。第二次世界大戦後の大陸法系諸国の法治主義は実質的法治主義といい、
ドイツ、フランスなどは実質的法治国家である。いずれにせよ法の憲法適合性
の判断は第二次世界大戦後である。
5.6
三権分立と議院内閣制
アメリカ合衆国が徹底した三権分立を実現しているのに対して、ドイツ、フ
ランスなどの大陸法(Continental law, Civil law)系諸国はイギリスも含め、第二
次世界大戦前は議会中心主義であった。議会中心主義は、司法、行政、立法の
3権が対等ではなく、議会に優位性を持たせたものである。議院内閣制はその
表れである。議院内閣制は内閣が議会に対して責任を負う。内閣総理大臣や首
相は議会から選ばれ議会が内閣を統制する。他方、アメリカ合衆国の大統領は
国民が直接選挙により選ぶ。議会中心主義のヨーロッパ諸国とは異なる点であ
る。またイギリスは法の支配の精神を尊びながら議会中心主義であり、他の大
陸法系諸国と異なる。
5.7
ヴァイマル憲法
(1)ヴァイマル憲法の成立
1914年に第1次世界大戦は始まり、1918年ドイツは降伏した。敗戦による多
額の賠償金を抱えて経済は破綻していた。1917年にはロシア革命が起き、1922
年ソビエト社会主義共和国連邦国家が成立した。ドイツは1919年にマルクスの
社会主義を選択せず、国民主権と自由主義を掲げ、社会権を保障したヴァイマ
ル憲法を制定した。当時、土地を持つブルジョワ達は財産を守るため、ソビエ
-46-
人権についての一考察
トの様な社会主義革命を防止しようとした。ヴァイマル憲法は社会権を保障し、
社会国家的な公共の福祉を規定した。敗戦後の経済破綻、人々の生活疲弊や増
大する労働者の不満などを資本主義体制の社会国家、社会権の保障を充実する
ことによって乗り切ろうとしていた。
(2)ヴァイマル憲法の崩壊
しかしヴァイマル憲法は1929年に始まる世界恐慌の中、ナチズムの独裁政権
の台頭を許した。敗戦の混乱、経済恐慌、失業者の増大の中で選挙が行われナ
チスは第一党になる。1933年、大統領はヒトラーを首相に任命し、ヒトラーは
ヴァイマル憲法の手続きに従い政権に就いた。1933年、ヒトラーは民族及びラ
イヒの困難を除去するための法を制定し、ライヒ政府に法律制定の権限を与え
た。このときヴァイマル憲法による議会制民主主義は崩壊した。
ヴァイマル憲法による議会制民主主義の崩壊の原因は、ひとつは制度的要因
に起因する。小政党の議会への参加が可能となり、議会は審議や討論の場では
なく各々の根本的な価値観が異なる立場の主張の場となった。議会は様々な主
張の調整は困難を極め、妥協や歩み寄りによる統一的な意見の集約や決定がで
きず、機能不全に陥った。また直接公選制のもと大統領に首相の任免権や緊急
命令発動権限などの強大な権限を与えたことが、議会制民主主義の崩壊の原因
にもなった。ヴァイマル憲法は徹底した自由主義を採用し憲法に反対する自由
も認めた。それは憲法と議会制を攻撃することをも可能にした。
もうひとつはドイツの歴史的な社会的要因がある。ドイツは立憲主義の後進
(17)
国であった。
議会制民主主義や自然法主義、自然権思想が一般市民の間に定
着していなかった。またビスマルク憲法下の法実証主義の影響が大きく、法に
よっても侵しえない人権思想が人々に根付いていなかったため、共産党やナチ
(18)
スの攻撃を受けてしまった。
(17)立憲主義と社会国家 立憲主義は、国家は国民生活に濫りに介入すべきではないという消極的な
権力観を採る。立憲主義の目的は個人の権利や自由の保障にある。この意味においては社会国家
思想と基本的に一致し、実質的法治国家思想(立憲国家)とは矛盾しない。第二次世界大戦後の
ドイツの社会的法治国家という概念は、この趣旨である。国家権力が人民の人権保障の役割を担
うのは、社会権が憲法上、保障されたことと呼応する。社会権は人々の生存保障や物質的保障を
実社会の現実生活において実現するものである。現代社会の自然権として、憲法上、保障される
ようになった。しかし人権の本質はあくまでも国家からの自由である。国家による過度な干渉は
許されない。自由権の保障が基本にあり、自由国家が基本である。社会国家は社会的経済的弱者
救済のための社会権の保障という補充的な役割を担うにすぎない。国家は立憲主義の自由国家が
基本であり、社会国家思想が補充する関係にある。国家権力が人民の人権保障の役割を担うのは、
社会権が憲法上、保障されたことと呼応する。社会権は人々の生存保障や物質的保障を実社会の
現実生活において実現するものであり、現代社会の自然権として、憲法上、保障されるようにな
った。しかし人権の本質はあくまでも国家からの自由である。国家による過度な干渉は許されな
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い。自由権の保障が基本にあり、自由国家が基本である。社会国家は社会的経済的弱者救済のた
めの社会権の保障という補充的な役割を担うにすぎない。国家は立憲主義の自由国家が基本であ
り、社会国家思想が補充する関係にある。第二次世界大戦後、自由主義、民主主義を推し進め、
個人の尊重、自由、平等の実現の立場に立ちつつも、社会国家的な規定を盛り込んだ憲法制定や
政策を実施した国々は多く見られた。1949年制定ボン基本法、1946年フランス第4共和国憲法、
1948年イタリア共和国憲法などである。
(18)カール・シュミットとハンス・ケルゼンの論争 カール・シュミット(Karl Schmidt)は議会制民
主主義の否定論者であった。真の民主主義は国民が歓声、拍手喝采すなわちアクラマチオ
(acclamatio)により支持するものである。議会制は民主主義と相反する制度であるとしてナチス
のヒトラー独裁を擁護した。他方、ハンス・ケルゼン(Hans Kelsen 1881−1973年)は、徹底した
審議、討論を行う議会制こそが民主主義の基礎であるとしてヴァイマル憲法を守ろうとした。議
会制民主主義によって実現しようとしたことは社会の多様な考え方、価値観、利害関係を十分な
議論、討論によってお互いの立場を理解し、歩み寄ることで妥当な解決を図るというものである。
自由(liberal)を守るための民主主義である。自由と民主主義は密接不可分の関係にある。ドイツ
の現行憲法のボン基本法の第1条には自由で民主的な基本秩序が根本価値であると謳う。
(3)ボン基本法
ヴァイマル憲法は徹底した自由主義を掲げたが、ナチズム台頭を許してしま
った。その反省からボン基本法を創った。ボン基本法には次の様な方針が盛り
込まれた。機能しなかった議会制民主主義への反省から、議会における意思決
定は十分な審議、討論と共に妥協も必要であること、根本的な価値観が一致し
ていること。そして比例代表制の弊害防止のため得票数の5%がないと議席は
取れない、すなわち弱小政党は議席を取れない5%条項を採用した。また強大
な大統領の権限を名目化し憲法に反対する自由を認めない憲法忠誠の思想を採
用した。大統領の権限の名目化はアメリカ合衆国やフランスとは異なる考え方
である。また憲法忠誠の思想も、フランスやわが国の憲法が第二次世界大戦後、
憲法を批判する自由(liberal)を尊ぶ立場とも異なる。
5.8
立憲主義と民主主義
立憲主義と民主主義との関係は密接である。国民が権力支配から自由である
ためには、国民が自らの意思により能動的、積極的に政策決定や統治行為に参
加する民主制度が必要であり、民主制度が確立した体制において初めて権力支
配からの自由の確保が可能となるからである。民主主義は個人の尊重を基礎と
する。民主主義は人民の自由と平等が確保されて初めて機能する。民主主義は
多数者支配の政治を意味するものではない。少数意見が尊重され平等に議論や
討論に参加できて初めて民主主義といえよう。自由と民主の結合は近代憲法の
核ともいえる。第二次世界大戦後のヨーロッパの民主主義国家が、この意味で
民主的国家あるいは法治国家的民主政と呼ばれる。立憲民主主義は人権保障を
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人権についての一考察
目的とした民主主義であり、少数者の人権への配慮を目的とする自由と結合し
た民主主義である。充分な審議、討論が正当性の根拠となる。違憲立法審査権
を規定するわが国の憲法第81条は立憲民主主義(19)の観点に立ったものといえる。
(19)多数決主義的民主主義 区別すべきは多数決主義的民主主義である。これは力の政治に結び付き
易く人権保障とは必ずしも結び付かない。多数決主義的民主主義によると、わが国の憲法第81条
(違憲審査権)は国会が多数決で創った法を15人の最高裁判所裁判官が違憲無効にすることから民
主主義に反する規定と考える。もっとも15人の最高裁判所裁判官を国民が選んだのであれば別で
あるが。他方、立憲民主主義の考え方は、民主主義は自由という目的達成の手段にすぎない。自
由主義は多数決民主主義より高い価値として優先する。従って憲法第81条(違憲審査権)が多数
決主義的民主主義に反するとしても、自由主義のための規定であり優先すると考える。
参考文献
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書 1995年
「ハンムラビ法典」飯島紀 国際語学社
「情報公開法」石崎正博、田島泰彦、三宅弘編 三省堂 1997年
「若者たちと法を学ぶ−人権感覚ブラッシュアップ−」伊藤博義 有斐閣 1993年
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「世界の人権の旅」川人博編著 日本評論社 1997年
「アメリカ法入門 総論」木下毅 有斐閣 2000年
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「現代東欧史 多様化への回帰」ジョセフ・ロスチャイルド著 共同通信社 1999年
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「国際紛争 理論と歴史」ジョセフ=S. ナイ著 田中明彦、村田晃嗣訳 有斐閣 2002年
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「憲法と人権」中村義孝他編 晃洋書房 1996年
「図説国際法」〔第2版〕西井正弘 有斐閣 2001年
「2003年度版わかりやすい国連の活動と世界」財団法人日本国際連合協会 2003年
「フランス法概論(上巻)」野田良之 東京大学出版会 1955年
「国際人権法概論」〔第2版〕畑博行、水上千之編 有信堂 1999年
「国際法講義−現状分析と新時代への展望−」〔新版増補〕波多野理望、小川芳彦編 有斐閣大学
双書 1998年
「国際関係学講義 新版」原彬久編 有斐閣 2001年
「ローマ法」原田慶吉 有斐閣 1996年
「人権」樋口陽一 三省堂 1996年
「国連法」藤田久一 東京大学出版会 1998年
「Introduction to English Law イギリス法(上)
(下)」Philip S. James 矢頭敏也監訳 三省堂
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「アメリカ憲法入門」〔第4版〕松井茂記 有斐閣 2000年
「基本的人権の事件簿」〔第2版〕棟居快行、赤坂正浩、松井茂記、笹田栄司、常本照樹、市川正
人著 有斐閣双書 2002年
「ドイツ法入門」〔改訂第5版〕村上淳一、ハンス・ペーター・マルチュケ 有斐閣 2002年
「憲法解釈ノート〔人権〕」森本精一 法学書院 1996年
「国際法 新版」山本草二 有斐閣 1994年
「国際法入門」横田洋三編 有斐閣アルマ BASIC 1996年
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「入門国際人権法〔訂正〕」久保田洋 信山社 1997年
「概説フランス法」山口俊夫 東京大学出版会 1991年
「イェーリング 法における目的」山口廸彦 信山社 1997年
「イェーリング法学論集」山口廸彦訳著 信山社 2002年
「ドイツ法概論ⅠⅡⅢ」〔訂正〕」山田晟 有斐閣 1990年 1987年 1989年
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人権についての一考察
Collected Works of Rudolf von Jhering(1st set of Vols.15), ed. By Prof.M.Yamaguchi ; Der Geist
der römischen Rechts ; Der Kampt um's Rechts ; Der Zweck im Recht ; Vorgeschichte der
indoeuropäer ; Die Entwicklungsgeschichte des römischen Rechts ; Das Trinkgeld, Scherz
und Ernst in der Jurisprudenz ; Juris
-51-