正常圧水頭症 治療の可能な成人の痴呆症

病気のプロフィル
No.
24
正常圧水頭症
─治療の可能な成人の痴呆症─
水頭症 hydrocephalus といえば、小児の水頭症を思い浮かべがちであるが、大
人にも水頭症は存在し、痴呆症の原因分類の重要な項目になっている。
正常圧水頭症は最初の病名提唱から数年のうちに治療の可能な成人の痴呆症
(treatable dementia) として注目され、今日では、医学の各専門分科を越えて、広く知
られるようになった(ただし、筆者の手もとにある日本の内科学教科書─1975年版
にはまだ病名さえも登載されていない)。
水頭症とは
中枢神経系では髄液
(脳脊髄液cerebrospinal fluid)
の産生と吸収は平衡を保ってい
て、この平衡のもとに中枢神経系は正常に機能している。
この平衡が破綻すると、脳室内に髄液が過剰に溜まり、脳室壁を圧迫して脳室は
拡大する。一般に脳室内の髄液圧は高まり、脳圧亢進症状が発現する。この状態が
水頭症である。
交通性水頭症と非交通性水頭症
水頭症には脳室系と脊髄くも膜下腔とのあいだ
が交通している交通性水頭症 communicating hydrocephalus と交通していない非交通
性水頭症 non-communicating hydrocephalus とある。
水頭症では一般に髄液圧は高いが、ここで対象にするのは髄液圧は正常で、脳室
が拡大している慢性の交通性水頭症 chronic communicating hydrocephalus である。
最初の病名提唱
1965年に Adams らおよび Hakim と Adams は、髄液圧の高い小児の水頭症に対し
て、髄液圧は正常範囲内で、脳室が拡大している慢性の交通性水頭症を慢性症候性
潜在水頭症 chronic symptomatic occult hydrocephalus と命名し、次いで正常圧水頭症
normal pressure hydrocephalus という病名に改めた。
この病気も、「病気のプロフィル」シリーズ No.
22で取り上げたリウマチ性多発
筋痛症と同様に、病気の単位として認められてからまだ33年にしかならない比較的
新しい病気である。
以下、この病気を normal pressure hydrocephalus の頭文字をとってNPHの略名で呼
ぶことにする(この略名は内科学用語集や医学辞典にも採用されている)。
正常な髄液圧を示す小児の水頭症
小児の水頭症にも髄液圧が正常な例が少なく
ない。Hammockら(1976)は、このような例にもNPHの用語を用いているが、佐藤
(1982)
は、次に述べるような理由によって、これに反対している。
1
AdamsらやHakimとAdamsが最初にNPHの病名を提唱したときに用いた "occult
hydrocephalus" の用語には頭蓋縫合の癒合後に進展した水頭症という意味が込めら
れているから、NPH の用語は成人の水頭症に限るべきであると。
筆者もこの意見には賛成である。
症
候
水頭症というと、われわれ年代の者は直ぐ小児水頭症の「福助頭」を思い浮かべ
がちである。小児水頭症の頭部のX線写真をみると、顔の部分に比べて脳頭蓋の部
分は異常に大きく、頭蓋の縫合は解離している。しかしNPHではこのような所見は
認められないか、あってもごく軽度である。これは頭蓋縫合の癒合後に発生した水
頭症であるからだろう。
三主徴
歩行障害(歩行失行)、尿失禁、および痴呆の三つの症状が主徴としてあ
げられよう。
これらの症状が発現する順序は患者によって異なり、歩行障害と尿失禁が先行す
ることもあれば、痴呆が先行することもある。
精神神経症状
記銘力は早くから障害されるが、読むこと、書くこと、相手の話
を理解することは不十分ながらも出来る。また単純な計算も時間はかかるが、出来
る。ふつう失語症状は見られない
(三山
1995)。
やがて自ら発動して行動しようとする傾向は希薄になる。思考と行動は緩慢にな
り、見当識は失われる。さらに進展すると、何事にも無関心で、注意力は散漫にな
り、人格も変化してくる。
ふつう脳神経症状はないとされているが、Karp (1973) は3例のNPHに脳神経症状
を認めている。
歩行障害
歩行は痙性で、失行 apraxia としての特徴を示す。患者は一見小脳失調
症を思わせる不安定な姿勢で歩行するが、実態は小脳失調症に見られる歩行ではな
い。初めは不安定な姿勢を立て直し、立て直ししながら歩行しているが、そのうち
立て直そうとしなくなる。
運動機能障害はほとんど下肢に限られる。筋力は比較的よく保たれているが、筋
強直は強く、腱反射は亢進している。
尿失禁
尿の失禁は患者の60%に発現する特異性の高い症状であるが、発生の仕
組みを考えると、意外とむずかしい。単純に痴呆症の部分症状とはみなしがたい。
治療をしなければ、上述の症状は改善と増悪を繰り返しながらゆっくりと進行し、
数年のうちに重い痴呆状態と歩行障害から無動状態になり、次いで意識混濁をきた
すようになる。
治療が無効で、重症化の一途をたどるものもある。
NPH に糖尿病が多いという報告がある Jacobs
(
1977)。これは脳室拡大による二次
性の糖尿病と推測されている。
2
検査の所見 髄液は水様透明で、細胞増多はないか、あっても軽度で、タンパク
質や糖などの化学成分のレベルにはとくに変化はない。髄液圧は200㎜H2O以下の
正常範囲内にある。
CTおよび MRI 画像で脳室系の全体または一部が拡大している
(図1)。
図1. NPH患者の脳のCT画像
70歳の男性。脳室はほぼ左右対称性に拡大し、
脳溝は消失傾向にある
(主治医:岩重健一氏)。
成人層における NPH の分布
今日ではNPHは脳神経外科の重要なレパートリーの一つになっている。しかし患
者は最初から脳神経外科を訪れることはなく、先ず内科か痴呆症専門施設を訪れる
であろう。筆者らが経験した症例のうち1例は最初に整形外科を訪ねているが、こ
れは例外的であろう。
ある痴呆症専門家は「この病気は有名になった割にわれわれの眼に触れる機会は
少ない」と述べているが、果たしてそうであろうか。
外国の痴呆症専門施設では全痴呆患者の約9%をしめている(表1)。筆者自身はこ
の数年間で4例診ている。診断のむずかしい例をも含めて、意外と多い病気ではな
いかと推測される。
もっとも、一定の年齢の成人層における痴呆症の頻度については、内外ともにあ
まり信頼できるデータがない。これは、診断基準をはじめとして、痴呆症の疫学的
調査にはむずかしい点が多々あるからであろう Erkinjuntti
(
et al. 1997)。
病
因
論
1970年代の後半から1980年代の前半にかけて CT や MRI が導入されてから脳室
系の画像解析が進み、動物モデルも開発されて、NPHの病因と病態についての知識
3
は一段と進展した Fujiwara
(
1994,
表1.
設楽ら
1996)。
欧米の痴呆症専門施設における痴呆症の内訳
原因不明の痴呆症(主にアルツハイマー病)
47.7
アルコール痴呆
10.0
正常圧水頭症
9.4
多発梗塞性痴呆
6.0
脳腫瘍
4.8
ハンチントン病
2.9
薬物の副作用による痴呆
2.4
頭部外傷による痴呆
1.7
仮性痴呆
6.7
その他の痴呆
6.7
不明
1.7
%
欧米の六つの痴呆症専門施設で診断された痴呆症の内訳 Wells
(
1979)。
特発性のNPHと続発性のNPH NPHには中枢神経系に有意な病変が証明されない
特発性正常圧水頭症 idiopathic normal pressure hydrocephalus と、表2に示す
ような基礎疾患が推定される続発性正常圧水頭症 secondary normal pressure
hydrocephalus とある。
表2.
続発性正常圧水頭症の基礎疾患
くも膜下出血
その他の脳の出血性病変
破裂動脈瘤、脳内出血、脳室内出血など
脳の外傷
慢性髄膜炎(結核性髄膜炎、
クリプトコッカス髄膜炎など)
脳腫瘍
脳の手術
Bagley (1928)
, Folz & Ward (1956)
, Kibler et al.
(1961)
,
Hill et al. (1967), Karp (1973) より編成.
Bagley の業績 Adamsらおよび Hakim と Adams が対象にした NPH の大部
4
分はおそらく特発性であろう。ところが、これらの報告をさかのぼること三十数年
前に Bagley の先駆的仕事があった。
Bagley (1928) は、実験と臨床の両面から、くも膜下出血が水頭症の原因になるこ
とを証明している。改めて評価されるべき素晴らしい業績である。
基礎疾患と NPH 発症までの期間
Kiblerら
このことに関しては Folz と Ward (1956)や
(1961)などの断片的な報告しかなく、実態をうかがうのが大変むずかし
いが、筆者の推測も入れておよその見当をつけてみよう。ベッドサイドではこの種
の知識も必要である。
一般に脳内出血が基礎になっているNPHの場合には、水頭症は数週間のうちに発
現する。他の病気が基礎になっている場合には、出血の場合より遅く、平均してお
よそ2ヵ月後に発現する。脳の外傷が基礎になっている場合にはさらに遅く、数年
は要するらしい。
当人が意識していないような頭部の打撲がNPHの原因になり、このようなものは
特発性のNPHのなかに含まれている可能性があると指摘する研究者もいる。まだしっ
かりした医学的根拠がある訳ではないが、簡単に子供の頭を殴る癖のある親には聞
かせたいことである。
脳室系拡大と正常髄液圧との関係
脳室系が拡大していながら髄液圧が正常であ
る現象の仕組みについては、基礎と臨床医学の両方から六つの論文が出されている
(Hakim 1965, Geshwint 1968, Hoff & Barber 1974, Hakim et al. 1976, Sahar 1979, Sklar
et al. 1981)。これらのなかで最初に注目を集めたのは Hakim の仮説
(1965)で、こ
れだけを紹介しておく。
Hakimは脳室系を液体で充たされた一つの閉鎖容器とみなし、パスカルの法則を
適用した。
容器に加わる力を F 、液圧を P、内壁の面積を A とすれば、容器に加わる力 F は
の式で表されるという。
F = PA
脳室が拡大するにともなって上昇する圧を水頭症における液圧効果hydraulic press
effect という。
脳室壁の面積が拡大すれば、比較的低い髄液圧でも脳室全体にかかる力は大きく、
脳室は拡大したままの状態にとどまるか、あるいはさらに拡大し続ける。
具体的に、例えば
180㎜H
2O
程度の髄液圧でも、上述の液圧効果によってすでに
拡大している脳室には高い圧とみなされる。
以上は Hakimの説であるが、佐藤
(1982)
によれば、
NPH では脳室内の圧と脳
組織内の圧との間にはかなりの差があり、ゆっくりとではあるが、脳室は拡大し続
けるという。
診
断
三主徴、画像上の脳室の拡大、および正常な髄液圧が診断の主要な基準になろう
5
(表3)。
Adams ら (1965) 以来、腰椎穿刺による症状の改善を指摘する報文が 2、3 あるが、
NPHのなかでこのような例はごく少数と推測される。腰椎穿刺による症状の改善を
診断基準にとりあげている報文はまだ一つもない。
表3. NPH 診断の基準
三主徴
歩行障害(歩行失行)
失禁
痴呆
髄液圧:200㎜H2O
以下
脳室の拡大
文献から集約した診断の基準。脳室髄液圧の持続測定、
気脳撮影法、アイソトープ大槽造影法などの特殊検査
による所見は除外してある。
画像診断
上に述べたように、CT や MRI などの画像診断法が開発されてから、
脳室系の拡大ばかりでなく、深部白質の梗塞病変、ビンスヴァンガー型の梗塞病変
への移行、全般的な脳萎縮などについても検討できるようになった。
NPHの診断またはシャント術適用の判定のために脳室髄液圧の持続測定法、気脳
撮影法pneumoencephalography、アイソトープ大槽造影法 isotope cisternography など
の検査がおこなわれているが McCullough
(
et al. 1970, Hiratsuka et al. 1973, Lamas &
Lobato 1979, 佐藤
1982)、これらの検査のなかには気脳撮影法のように
NPHの症状
を悪化させて応急の対応を迫られるものもあるから、これらの検査は脳神経外科に
まかせたほうがよい。
治
療
尿素やマンニトールなどの高張液の点滴静注、ステロイド剤の大量療法、腰椎穿
刺による髄液の排除などの内科的治療法があるが
(半田,
西川
1978)、その効果は一
時的か、ほとんどないと考えてよいだろう。結局は出来るだけ早く診断し、近親お
よび患者の諒解を得て脳神経外科に回すべきである。そこにおいて、手術をするか
どうかについて再び慎重な検討がなされるはずである。
シャント術
この痴呆症の中核症状である歩行障害および認知障害cognitive
failure、その基礎になっている脳の病変を外科的に取り除く方法の一つとして、
1970年代の前半からシャント術 shunting が盛んにおこなわれるようになった。
6
シャント術は脳室から髄液を排出する方法で、脳室-心房吻合術ventriculo-atrial
shunting と脳室-腹腔吻合術ventriculo-peritoneal shunting がある。
シャント術によって症状が劇的に改善してほとんど健常な状態に戻る例もあるが、
一般に症状がはかばかしく改善しない例が多い Black
(
1980, Larsson et al.
半田と西川
(1978)
1991)。
はシャント術を施行した43例の
NPH のうち74%に症状の寛解
を認めている。Weinerら(1995)によると、三主徴のうち歩行障害が最もよく改善す
るという
(表4)。
痴呆症状が進行しているほどシャント術が効果を発揮しにくく、脳皮質下に多数
の梗塞巣が認められる場合には、手術の効果があがらない (Shukla et al. 1980)。
結局のところ、進行した NPH ではシャント術によって症状が元に戻らず、早期
診断-早期治療が NPH でも大切なことが分かる。これからは NPH への対策はこの
一点にしぼられるであろう。
表4.
37例の
NPH 患者におけるシャント術の効果
三主徴
改善率
歩行障害(37例)
86
認知障害(28例)
46
尿失禁
43
(22例)
%
Weiner et al. (1995)
シャント術後の合併症 シャント術後の合併症については、ごく最近出版された
ばかりの次の論文がきわめて有用で、内科、外科医両方に一読を奨めたい。
Yukinaka M et al. (1998) Cerebrospinal ascites developed 3 years after venticuloperitoneal shunting in a hydrocephalic patient. Internal Medicine 37: 638-641
謝辞:樋口雅則博士の協力に深謝する。
柳瀬敏幸(1998. 8. 4.)
7
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