Ecole Preliminaire de Pianoの初版について

Title
『バイエルピアノ教則本』Ecole Preliminaire de Pianoの初版について
−複数の初版とその版数および刷りの解明−
Author(s)
小野, 亮祐; 多田, 純一
Citation
北海道教育大学紀要. 教育科学編, 66(1): 195-205
Issue Date
2015-08
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/7814
Rights
Hokkaido University of Education
北海道教育大学紀要(教育科学編)第66巻 第1号
Journal of Hokkaido University of Education(Education)Vol. 66, No.1
平 成 27 年 8 月
August, 2015
『バイエルピアノ教則本』École Préliminaire de Pianoの初版について
― 複数の初版とその版数および刷りの解明 ―
小野 亮祐・多田 純一*
北海道教育大学釧路校音楽教育教室
*
大阪健康福祉短期大学
A Study of the First Edition of École Préliminaire de Piano:
Elucidation of Plural First Editions and Impressions
ONO Ryosuke and TADA Jun’ichi*
Department of Musiceducation, Kushiro Campus, Hokkaido University of Education
*
Osaka College of Social Health and Welfare
概 要
日本のピアノ教育で最も古く,また現在も幅広く用いられている教則本がフェルディナン
ト・バイエルによる『バイエルピアノ教則本』あることは言を俟たない。本研究では,この『バ
イエル』について先行研究が発見した4つの資料に加え新たに発見した2つの資料の合計6種
類の初版の検討を行った。
その結果,これら6つの初版の異同についてはごく微細なものであることが分かった。一方,
日本で広く流布している『バイエル』の原著であるアドルフ・ルートハルト校訂版と,これら
の6つの版との異同がかなり大きいことが明らかになった。この成果により,今後『バイエル
研究』を行う際には版の選択を慎重にする必要があり,ルートハルト校訂の日本の『バイエル』
を使用する場合は,初版とかなり異なるものであることに留意すべきである。
はじめに
教員養成機関におけるピアノ教育まで『バイエル』
は幅広く使用されているが,日本で出版されてい
日本のピアノ教育において,最も長く使用され
る『バイエル』の多くは,ペータース社から出版
ている教則本は,言うまでもなくフェルディナン
されたアドルフ・ルートハルトAdolf Ruthardt
ト・ バ イ エ ルFerdinand Beyer(1806-1863) に
(1849-1934)による校訂版(以下ペータース版
よる『バイエルピアノ教則本』
(以下『バイエル』
と呼ぶ)を「原著」として底本に使用している。
と呼ぶ)
である。今日でも子供のお稽古をはじめ,
さらに研究者も所属機関において発行されている
195
小野 亮祐・多田 純一
紀要などにおいて「原著」としてペータース版を
このように,日本のピアノ教育において,今も
使用している。
なお重要な役割を担っている『バイエル』につい
それにも関わらず,そのことが指摘され,具体
ての論考は毎年のように発表されるが,いずれも
的に研究されはじめたのはごく最近のことであ
先行研究を反映させることなく,理由もなく版を
る。初版はÉcole Préliminaire de Pianoというタ
選択している。その根底には「どの『バイエル』
イトルであり,1850年頃に出版された。
もたいした違いはない」という考えが横たわって
この初版を最初に資料として使用した研究とし
いるように見えるが,初版とペータース版には非
て,初版と日本で出版された『バイエル』に示さ
常に多くの違いが見られることはすでに指摘され
れる指使いの違い,そしてその変遷を考察した研
ており,明治期に音楽取調掛において使用された
究が挙げられる(多田 2009)。その後,初版本で
版は初版に非常に近い版であることも指摘されて
あることを精査する研究(安田ほか2009)および,
いる(多田 2011)。多田によると,初版とペーター
ペータース版に示されるスラーの特徴を考察した
ス版には音および記号の違いが250箇所に見られ
研究(安田・村尾ほか2009)が行われ,ペーター
ると明確に報告されている。すなわち,ごく一般
ス版と初版には多くの違いがあることが明らかに
的な方法で先行研究を検索すれば,理由もなく版
された。また,多田純一は明治期から昭和初期に
を選択して研究を行うことの安易さについては指
国内で出版された版を比較することで,
『バイエ
摘されても当然であるにも関わらず,そのことを
ル』の受容と変遷について明らかにした(多田
意識していないことが明白である。この状況は早
2011)
。安田寛の著書(安田 2012)では初版に限
急に改善される必要がある。なせなら,どの版を
らず,これまで光が当たってこなかったバイエル
資料として使用するかによって研究結果に違いが
という人物の足跡,彼の音楽の根源を探ることで,
生じるだけでなく,研究が進むにつれ日本のピア
バイエルの死後約150年経ってはじめて伝記が示
ノ教育現場において使用される楽譜の内容に変化
された。この本の出版により,現時点でのバイエ
が生じれば,教える内容もまた変化するからであ
ル研究は一応の終結を得たように見えなくもな
る。初版とペータース版には非常に多くの違いが
い。しかしながら,初版およびエディションに関
見られることはすでに指摘されていることはすで
する研究については,まだ様々な課題が残されて
に述べた通りであるが,では日本で出版される多
いる。
くの『バイエル』を初版と比較することを試みる
特に重要なことは,この初版についての研究は
場合,「どの初版と比較すればよいのか」という
2009年以降順次その研究成果が発表されているに
新たな問題が提示される。本研究では今後『バイ
も関わらず,未だペータース版が原著ではないと
エル』研究が行われるにあたり,使用される資料
いうことが浸透しているとは言えず,また,他の
の前提を提示するために,初版の刷りの問題につ
研究者による新たな『バイエル』の研究にも反映
いて検討し,整理しておく必要がある。
されていないことである。
本研究は,今後のピアノ教育および『バイエル』
過去3年間にあたる2011年から2013年に発表さ
研究に一石を投じるものである。
れた『バイエル』についての論文を検索すると,
論文検索サイトCiNiiでは4件の論考を検索する
ことができ(渡邉・岩佐 2011,山崎・森 2012,
1)
,いずれもインターネッ
石井 2012,益子 2013)
トにて全文を閲覧することが可能である2)。これ
らの4本の論文および研究ノートでは初版につい
3)
て触れられた文章はなく,注記さえ見られない 。
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1. 本研究の目的と『バイエル』初版の基本
情報
1. 1 本研究での『バイエル』初版の書誌情報
上の同定方法
『バイエル』の初版についての先行研究である
『バイエルピアノ教則本』École Préliminaire de Pianoの初版について
安田ほか(2009)および,安田(2012)の研究を
①少なくとも1851年1月号であることから,そ
手がかりにしながら,まず書誌情報上での『バイ
の直近に出版されていること。
エル』初版の同定方法を明らかにしてゆきたい。
②題名がドイツ語(Vorschule im Klavierspiel...)
安田ほか(2009)および安田(2012)によれば,
と,括弧書きでフランス語(École préliminaire
『バイエル』の初版は1850年8月に出版されたと
de Piano)で書かれドイツ語とフランス語が併記
4)
している 。また,安田ほか(2009),安田(2012)
されたものであること。
の研究によれば,当時の音楽文献カタログである
③ショット社から出版されていること。
ホフマイスターの月刊楽譜カタログHofmeister
④価格が3フローリン36クロイツァーであるこ
Monatsberichte(以下,ホフマイスターカタロ
と。
5)
グ) 1851年1月号に『バイエル』の初版が掲載
の4点である。
されているという。これを手がかりに初版の出版
また,ショット社からは1899年までの自社出版
時期およびそれ以外の詳しい書誌情報を明確にし
物をすべてカタログ化したショット社出版カタロ
ておきたい。ホフマイスターカタログ1851年1月
グ(Verzeichniss des Musikalien-Verlags von B.
号における『バイエル』の記述部分は図1のとお
Schott’s Söhne in Mainz)が1900年に出版されて
りである。これより明らかなことは,
おり今回我々は入手し検討を加えた(図2)。
図1 ホフマイスターカタログ1851年1月号
図2 ショット社出版カタログ(p.131)
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小野 亮祐・多田 純一
ここに『バイエル』に該当するものが,書かれ
○フローリン○クロイツァーの通貨表示の方が,
た言語別に5種類列挙されていることがわかる。
○マルク表示よりも古い。したがって,前述の書
これらにはすべて同じ作品番号101が与えられ,
誌情報で初版と同定され得ても,「刷」レベルの
それぞれの題名と書かれた言語が明記されてい
微妙な時期の違いと異同があることがわかる。安
る。上から順に書かれた言語別に列挙すると,1)
田ほか(2009)の研究ではすでにその点について
ドイツ語・フランス語併記版,2)英語版,3)
4つの資料について検討されており,多田私蔵楽
英語・フランス語の併記版,4)スペイン語・フ
譜①,イェール大所蔵楽譜,グートマン販売楽譜,
ランス語の併記版,5)ドイツ語・フランス語・
ウィーン所蔵楽譜の順に印刷されて出版されたこ
ロシア語の併記版である。このうち一つ目のもの
とが明らかにしている。
は先のホフマイスターカタログ掲載のものと題目
本論では,前述の新たに発見した多田所蔵楽譜
6)
及び言語が一致している 。
②とベルリン所蔵楽譜を加えて,先行研究で検討
また,
筆者がショット社に問い合わせたところ,
されてきたものを含むすべての初版のエディショ
同社の資料で確認されるところで最も古い『バイ
ン研究を行うことで,初版研究をより精緻化し,
エル』は,プレートナンバーが10139番であり,
オリジナルの『バイエル』像を明らかにすること
7)
1850年に出版されているとのことであった 。
を第一の目的としている。
以上をまとめると,ショット社から出版され,
ドイツ語・フランス語併記で書かれ,プレートナ
2.
『バイエル』のエディション研究
ンバー10139番が付与されたものであれば,書誌
情報上それは『バイエル』の初版であると同定さ
2. 1 ふたつの初版の異同
れ得るのである。
ここでは,多田私蔵版であるふたつの初版につ
いて,その違いを検討する。
1. 2 本研究の目的と取り扱い資料について
ふたつの初版はいずれもショット社から出版さ
従来,安田(2009)において最初に発見され検
れ,同様のタイトル,そして金額が表示されてい
討された4つの初版に加え,我々は新たに,2つ
るが,表紙の扉絵は違っている。また,記載され
の初版の書誌情報の条件に該当する『バイエル』
ている支店の数は多田私蔵版①にはマインツ,ブ
を発見した。これらすべての一覧が表1である。
リュッセル,ロンドンの3店,多田私蔵版②には
いずれもショット社から出版されプレートナン
上記の3店にライプツィヒ支店が加わっている。
バーは10139,使用言語はドイツ語とフランス語
違いは表紙だけではなく,表紙を開くと現れる女
であり,先ほどの書誌情報上の初版の条件に合致
の子とピアノの絵にも見られる。グランドピアノ
する。しかしながら値段の記載には変化がある。
を弾く女の子の絵は,よく見比べると詳細が違っ
表1 本稿で取り扱う『バイエル』初版と考えられる版
出版社
プレートナンバー
言語
価格
多田私蔵楽譜①
ショット社
10139
独・仏
3フローリン36クロイツァー
多田私蔵
イェール大所蔵楽譜
ショット社
10139
独・仏
6マルク25ペニヒ
イェール大学図書館
グートマン販売楽譜
ショット社
10139
独・仏 価格記載なし
ウィーン国立図書館
ウィーン所蔵楽譜
ショット社
10139
独・仏 価格記載なし
ウィーン国立図書館
多田私蔵楽譜②
ショット社
10139
独・仏
多田私蔵
ベルリン所蔵楽譜
ショット社
10139
独・仏 1マルク50ペニヒ
198
3フローリン36クロイツァー
所蔵
ベルリン国立図書館
『バイエルピアノ教則本』École Préliminaire de Pianoの初版について
ている。
女の子の顔の輪郭や楽譜に違いが見られる。そ
の他,カーテンや女の子のドレスのしわ,ピアノ
のデザインにも違いが見られ,絨毯の模様やピア
ノの足の形も微妙に違っている。このように,表
紙とその次の挿絵に違いが見られることから,い
ずれかが早く出版され,いずれかが遅く出版され
たことがわかる。
図4 多田私蔵版②女の子とピアノの絵の一部
しかしながら,同じプレートナンバー10139を
持ち,金額も一致することから,いずれも間違い
なく初版である。エディション研究では基本的な
ことであるが,同じプレートナンバーを持つ限り,
すべて初版として扱われ,初版の何版目,および
何刷目なのかが問題となるのである。初版の研究
でも特に詳細な成果を得たクリシュトフ・グラボ
図3 多田私蔵版①女の子とピアノの絵の一部
フ ス キChristophe Grabowskiと ジ ョ ン・ リ ン ク
John Rinkによる研究においても同様の取り組み
を行っている。世界中の図書館に所蔵されている
ショパンの全作品の初版を可能な限り網羅し,そ
れぞれが何刷目なのかについてまとめられた成果
がカタログとして出版されている(Grabowski &
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小野 亮祐・多田 純一
Rink 2010)
。
『バイエル』の場合でも同様に,初
いが,原典版として出版する際にはg音とh音の
版第1版なのか,初版第2版なのか,またそれぞ
和音を楽譜に示し,校訂報告で「恐らくミスであ
れの版の第何刷りなのか,の問題が残っている。
る」と記載されるような箇所である。このような
これまでの考察により,表紙と女の子の絵につ
箇所でも2つの版は一致している。
いては違っていることが明確になった。では,楽
譜部分の内容についてはどうだろうか。それぞれ
を比較すると,序文以降は一画一点,すみずみに
おいて一致しており,その特徴は初版における不
備において判明する。
No.19 第8小節の例では,第3線が最も長く,
その次に第1線が長いところまで一致している。
図7 多田私蔵版①(左)②(右)No.78 第8小節
続いて,この初版が持つミスの特徴である45
ページのプレートナンバーのフォントの大きさが
挙げられる。45ページ以外のページすべてにおい
てほぼ統一されているが,45ページのみ明らかに
大きな文字となっている。このページのフォント
図5 多田私蔵版①(左)②(右)No.19 第8小節
の大きさも一致しており,完全に同じ銅版を使用
して印刷されたことがわかる。以上の情報からふ
No.32 Seconda. 第8小節の例では,二重線と第
たつの初版の特徴は以下のようにまとめることが
5線が交差している点が一致している。
可能である。
1.タイトル,プレートナンバー,金額が一致。
2.表紙の扉絵および女の子の絵は不一致。
3.序文以降において割り付けその他の内容が一
致。
4.小節線および2重線からはみ出た5線の特徴
まで細部にわたって一致。
5.初版における特有のミス(No.78およびp.45
のプレートナンバー)が一致。
図6 多田私蔵版①(左)②(右)No.32 Seconda.
第8小節
6.表紙に見られる支店の数は多田私蔵版①の方
が少ない。当時ショット社は支店を増やしてい
た。
音の不備はNo.78 第8小節に見られる。この小
節の4拍目はg音とh音の和音である方が自然で
これらのことから,楽譜部分は完全に同じ銅版
あるが,初版ではh音の単音となっている。バイ
を使用しており,現存している資料の限りでは多
エルの故意なのか編集者のミスなのかは判明しな
田私蔵版①は初版第1刷,多田私蔵版②は第2刷
200
『バイエルピアノ教則本』École Préliminaire de Pianoの初版について
あるいは後続版である。
絵は3つの楽譜で一致している。
序文は単純に比較が可能である。多田私蔵版②
2. 2 初版および後続版の比較考察
とイェール大所蔵楽譜は同様の内容を持ってい
続けて初版および後続版の比較考察を行う。こ
る。さらにグートマン販売楽譜とベルリン所蔵楽
こで言う後続版についても,10139のプレートナ
譜も同様である。ところがウィーン所蔵楽譜のみ
ンバーを持っている限りは初版に違いはない。初
が他の楽譜と違って短くなっている。途中までは
版第何刷なのか,あるいは銅版を変更して印刷し
全く同じであるが,フランス語の方で見てみると
た新たな版なのか,ということが問題となる。
第4パラグラフと第5パラグラフが省略されてお
ここでは先に考察したふたつの初版のうち,多
り,ここでも表紙と同様にウィーン所蔵楽譜のみ
田私蔵版②を用いて比較考察する。イェール大所
が違っていることがわかる。
蔵楽譜,
グートマン販売楽譜,ウィーン所蔵楽譜,
続いて具体的な楽譜部分を比較する。No.78 第
そして小野亮祐が入手したベルリン所蔵楽譜であ
8小節における4拍目のg音とh音の問題は先に
8)
る 。
述べた通りであるが,イェール大所蔵楽譜では今
表紙については,多田私蔵版②とイェール大所
日の我々が演奏している和音になっている。この
蔵楽譜は同様の表紙の絵を持っている。ただし,
和音は,グートマン販売楽譜とベルリン所蔵楽譜,
金額や支店の数記載に違いが見られる。多田私蔵
さらにウィーン所蔵楽譜も同様に和音となってお
版②は3フローリン36クロイツァー,イェール大
り,恐らくイェール大所蔵楽譜以降で修正された
所蔵楽譜は6.25マルクの標示となっている。
と考えることが可能である。
他の楽譜を見てみると,グートマン販売楽譜と
すなわち,本研究で用いている多田私蔵版①お
ベルリン所蔵楽譜は同じ表紙である。グートマン
よび多田私蔵版②は,初版第1版の第1刷および
販売楽譜にはグートマン音楽書店の印鑑が押され
その後続版となり,イェール大所蔵楽譜以降は初
ているが,それ以外は支店の数も4つで一致して
版第2版の第1刷あるいはその後続版に分類され
おり,金額は記載されていない。ウィーン所蔵楽
る。その他の作品を比較すると次のような例が見
譜とベルリン所蔵楽譜を比較すると同じ表紙であ
られる。
るが,
支店の表記の仕方が違っている。すなわち,
表紙だけを見ると,多田私蔵版②とイェール大所
蔵楽譜が同様,グートマン販売楽譜とベルリン所
蔵楽譜が同様,ウィーン所蔵楽譜のみが違ってい
るということになる。
続いて女の子の絵を見ると,多田私蔵版②と
イェール大所蔵楽譜はほぼ同様であるが,絵の手
首の切れ方,カーテンやピアノに微妙な違いが見
られる。表紙と同様にこのふたつの楽譜には微妙
な違いが見られる。
グートマン販売楽譜とベルリン所蔵楽譜の絵で
図8 多田私蔵版②(左)イェール大所蔵楽譜(右)
No.78 第8小節
は,グランドピアノからアップライトピアノに変
化し,完全に違った絵になっている。このことは
No.87 Seconda. 第9小節では,多田私蔵版②と
恐らくピアノの普及率などに関係していると思わ
イェール大所蔵楽譜のいずれも右手がト音記号と
れる。ウィーン所蔵楽譜とベルリン所蔵楽譜を比
なっており,明らかなミスが見られる。
較しても同様である。表紙とは違って,女の子の
201
小野 亮祐・多田 純一
うに,イェール大所蔵楽譜とグートマン販売楽譜
以降の版あるいは刷りの違いを示していると言え
る。
No.91 第9小節左手のc音であるが多田私蔵版
②とイェール大所蔵楽譜のいずれも問題なく符
尾,ぼうがある。しかしながら,グートマン販売
楽譜では明らかに抜け落ちており,ベルリン所蔵
図9 多田私蔵版② No.87 Seconda. 第9小節
楽譜も同様に書き足した形跡が見られる。この箇
所では,ウィーン所蔵楽譜で修正されている。
このミスはグートマン販売楽譜とベルリン所蔵
楽譜に引き継がれ,さらにウィーン所蔵楽譜でも
同様に引き継がれている。このように,ミスが後
の版まで修正されずに引き継がれる例も見られる。
No.86 Prima. 第14小節の右手のオクターヴ記号
にわずかな違いが見られる。
図11 多田私蔵版②(上)グートマン販売楽譜(下)
No.91 第9小節
このようにそれぞれの初版にはミスや,それを
図10 多田私蔵版②(上)イェール大所蔵楽譜(下)
No.86 Prima. 第14小節
多田私蔵版②は小節の最後まで点がかかってい
るが,イェール大所蔵楽譜ではe音とd音の間で
補う修正が見られ,それらを追うことで出版され
た順を概ね明らかにすることが可能である。
3.結 論
徐々に消えるように切れている。しかしながら,
現存する6冊の初版を比較考察した結果,『バ
グートマン販売楽譜とベルリン所蔵楽譜では修正
イエル』初版の刷りと版は以下のようにまとめら
されて小節の最後まで点がかかり,ウィーン所蔵
れる。
楽譜でも微妙ながらも点が最後までかかってい
本研究で使用した多田私蔵版①および多田私蔵
る。このことは,表紙や女の子の絵で見られたよ
版②は,初版第1版の中で刷りが違っているが,
202
『バイエルピアノ教則本』École Préliminaire de Pianoの初版について
第1版であることが重要である。恐らく多田私蔵
細な違いである。すなわち,日本で使用されてい
版①は初版第1版第1刷,多田私蔵版②は初版第
る『バイエル』は原著とは程遠いものであり,研
9)
1版第2刷である 。
究で使用する場合には細心の注意を払う必要があ
続いてイェール大所蔵楽譜以降は初版第2版以
る。今後,『バイエル』についての論考を発表す
降ということになる。比較した4つの版の中では,
る場合に,国内版の『バイエル』を資料として使
イェール大所蔵楽譜が最も古く,グートマン販売
用する際には,「日本で使用されている『バイエ
楽譜とベルリン所蔵楽譜がほぼ同時期,ウィーン
ル』」という一文が常に必要であることが求めら
所蔵楽譜が最も遅く出版された版であると考える
れるであろう。
のが自然である。イェール大所蔵楽譜は多田私蔵
版②と同様の表紙を持っているため,第2版第1
刷で考えるのが自然である。また,ウィーン所蔵
【注】
楽譜は他の2冊にはない付録の作品が追加されて
1)2013年12月11日検索。
(http://ci.nii.ac.jp/)
いる。よって,ウィーン所蔵楽譜は初版第3版と
2)前田美樹による子どもの歌についての論考(前田
言うことが可能である。
グートマン販売楽譜とベルリン所蔵楽譜のどち
らが先に出版されたのかを特定することは不可能
であるが,No.91 第9小節左手のc音の例を見た
場合,恐らく同様の版ではないかと思われる。
再度まとめると,現存する資料から知り得る『バ
2012)でも『バイエル』についての言及があるが,収
録種別が研究論文および研究ノートではなく研究資料
のため,ここでは対象に含めない。
3)さらに遡ると,三好(2010:182)では「基礎資料と
なるバイエルは,
『標準版バイエルピアノ教則本』
(1983,
全音楽譜出版社)を使用する。これは『バイエル』原
著の日本語対訳本である」と述べられている。また,
青山(2009)では「分析はバイエルの作品として出版
イエル』初版の版と刷りは,以下のように結論づ
された原版としてドイツ ペータース社による原典版
けられる。
を用いて行った」(青山 2009:2)と述べられている。
このように,明確に「原著」としてペータース版を使
表2 『バイエル』初版の版と刷り
用する場合も見られる。
4)ただし,この情報は本来本論文筆者である多田が手
に入れた情報である。
詳しくは安田
(2012)p. 123を参照。
初版第1版
第1刷 多田私蔵版①
第2刷以降 多田私蔵版②
初版第2版
第1刷 イェール大所蔵楽譜
第2刷以降 グ ートマン販売楽譜,ベルリ
ン所蔵楽譜
初版第3版 刷不明 ウィーン所蔵楽譜
5)本研究で参照したのは,インターネット上で電子デー
タ 化 さ れ, デ ー タ ベ ー ス 化 さ れ た も の で あ る。
(“HofmeisterXX” : http://www.hofmeister.rhul.ac.uk/
(アクセス日2013年12月21日)
)
6)安田ほか(2009)や安田(2012)では,同カタログ
からプレート番号10139を同定しているが,我々が入手
したものには記されていない(図2参照)
。安田(2012)
p.89を見る限り,おそらく,これらの研究が参照して
いるのはショット社所蔵の同カタログで,あとから何
者かによってプレートナンバーを書き加えられたもの
であろうと考えられる。
7)実際のメールのやり取りは,多田によるもので2008
本研究では複数の初版を比較することでこれら
の版と刷りの順を解明することができたが,それ
は,それぞれの版に違いが見られることで解明で
きることであった。しかしながら,それらの違い
は,バイエル自身が出版した初版と,ルートハル
トが校訂した実用版とは比較にならないほどに微
年11月12日並びに同年同月21日に複数回にわたって行
われた。問い合わせ先はショット社の資料室員である
Monika Motzko-Dollmann氏である。
8)小野の調査によると,ベルリン国立図書館には資料
番号6337から6337-7まで8種類の『バイエル』と,さ
らにbisとして出版された曲集も所蔵されている。また,
ロシア語版『バイエル』も所蔵されており,別稿にて
改めて論じる予定であるが,このロシア版は興味深い
203
小野 亮祐・多田 純一
多くの特徴を持っている。
9)「初版第1版第1刷」という表記に違和感を与える可
能性があるためここで説明を加える。通常の原典版の校
訂報告を読めば初版first edition第1版first impression,
pp.121-126。
安田寛・村尾忠廣・多田純一・長尾智絵(2009)
「バイエ
ル教則本初版とペータース版のスラーの異同について」
『日本音楽教育学会 第40回プログラム』p.4。
第2版Second impressionという言葉は頻繁に使用され
渡邉さらさ・岩佐明子(2011)
「ピアノを通した表現指導
ている。第1版も第2版も初版である。略語ではFE1
の試み--バイエルからブルグミュラーへ,表現する喜
(フランス初版第1刷)やGE2(ドイツ初版第2刷)
びを知るために」『名古屋経営短期大学紀要』第52号,
と示される。しかしこれは暫定的なものであって,同
pp.63-72。
時に第1版の中で表紙のみが違うなどの微細な違いが
Grabowski, Christophe; Rink, John (2010) Annotated
判明し,まったく同じではなく新しく印刷されている
catalogue of Chopin’s first editions. Cambridge:
場合に刷りとして数える。その場合に使用される英語
Cambridge University Press.
も版と同様にimpressionである。それぞれの版は音や
記号に明らかな変更あった場合に版いう言葉を使用し
ているのであって,実際にはさらに多くの刷が存在し
ている。そのため,本論では第1版第1刷という具合
に表記する。詳細はGrabowski;Rink 2010を参考にし
ていただきたい。
[楽譜]
Beyer, Ferdinand
1850, École Préliminaire de Piano á l’ usage exclusive
des Elèves de l’age le plus tender ET DÈDIÈE AUX
MÈRES DE FAMILLE Contenant les Principes de la
Musique et 106
【引用・参考文献】
青山雅哉(2009)「ピアノ教則本の特徴(Ⅰ)~バイエル
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『富山大学人間発達科学研究実践総合センター紀要:
教育実践研究』第6号,pp.117-129。
多田純一(2009)「『バイエルピアノ教則本 op.101』にお
ける指使いとその変遷」大阪健康福祉短期大学紀要『創
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多田純一(2011)
「日本における『バイエルピアノ教則本』
の受容と変遷」『音楽教育史研究』第13号,pp.53-68。
前田美樹(2012)
「「子どもの歌」ピアノ指導法⑴『バイ
エルピアノ教則本』と『メトードローズピアノ教則本』
の比較から」『青森中央短期大学研究紀要』第25号,
pp.41-51。
益子州出男(2013)「バイエルピアノ教則本の弾き方の研
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三好優美子(2010)「バイエルピアノ教則本 抜粋テキス
トにおける編纂についての調査報告」『東京女子体育大
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山崎浩隆・中川(森)みゆき(2012)「「バイエルピアノ
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安田寛(2012)
『バイエルの謎 日本文化になった教則本』
東京:音楽之友社。
安田寛・多田純一・長尾智絵(2009)「バイエル教則本初
版本の研究」,
『奈良教育大学紀要』第58巻第1号,
204
Exemples, Etudes, Exercices Gammes et petits
Morceaux PAR FERD. BEYER, Op.101, Mainz,
Schott.(多田私蔵版①)
1850?, École Préliminaire de Piano á l’ usage exclusive
des Elèves de l’age le plus tender ET DÈDIÈE AUX
MÈRES DE FAMILLE Contenant les Principes de la
Musique et 106
Exemples, Etudes, Exercices Gammes et petits
Morceaux PAR FERD. BEYER, Op.101, Mainz,
Schott.(多田私蔵版②)
185?, École Préliminaire de Piano á l’ usage exclusive
des Elèves de l’age le plus tender ET DÈDIÈE AUX
MÈRES DE FAMILLE Contenant les Principes de la
Musique et 106
Exemples, Etudes, Exercices Gammes et petits
Morceaux PAR FERD. BEYER, Op.101, Mainz,
Schott.(イェール大学Sterling Memorial Library, MT222
B573)
出版年不明 École Préliminaire de Piano á l’ usage exclusive
des Elèves de l’age le plus tender ET DÈDIÈE AUX
MÈRES DE FAMILLE Contenant les Principes de la
Musique et 106
Exemples, Etudes, Exercices Gammes et petits
Morceaux PAR FERD. BEYER, Op.101, Mainz,
Schott.(ウィーン国立図書館蔵,MS37151.Mus)
出版年不明École Préliminaire de Piano á l’ usage exclusive
des Elèves de l’age le plus tender ET DÈDIÈE AUX
MÈRES DE FAMILLE Contenant les Principes de la
Musique et 106
Exemples, Etudes, Exercices Gammes et petits
Morceaux PAR FERD. BEYER, Op.101, Mainz,
『バイエルピアノ教則本』École Préliminaire de Pianoの初版について
Schott.(ウィーン国立図書館蔵,MS88282-4.Mus)
出版年不明 École Préliminaire de Piano á l’ usage exclusive
des Elèves de l’age le plus tender ET DÈDIÈE AUX
MÈRES DE FAMILLE Contenant les Principes de la
Musique et 106
Exemples, Etudes, Exercices Gammes et petits
Morceaux PAR FERD. BEYER, Op.101, Mainz,
Schott.(ベルリン国立図書館所蔵,6337)
B. Schott & Söhne (1900) Verzeichniss des MusikalienVerlags von B. Schott’s Söhne in Mainz, Mainz
(小野 亮祐 釧路校准教授)
(多田 純一 大阪健康福祉短期大学非常勤講師)
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