ワルシャワ - 出版文化国際交流会

第 54 回ワルシャワ国際ブックフェア
名 称
54th Warsaw International Book Fair
会 期
2009 年 5 月 21 日 ( 木 ) ~ 24 日 ( 日 )
開場時間
21 日 ( 木 )10:00-18:00 ビジネスデイ
22( 金 )、23( 土 )10:00-19:00
24( 日 )10:00-17:00
会 場
ワルシャワ文化科学宮殿
主 催
Ars Polona S.A.
参 加 国
31 カ国
出展社数
約 500 社
特別ゲスト
欧州評議会
展示面積
10,000㎡ ( 日本ブースは 18㎡ )
入場者数
5,2000 人
入 場 料
7zl( 約 300 円 )
報告:橋元 博樹 [( 財 ) 東京大学出版会 営業局販売部 ]
夏の日のように暑いウィーン空港で、そこまで一緒だった日本人観光客とは別の方角に進み、
なんども掲示を確認しながら、ワルシャワ行きの、日本ではもう見ることのできなくなったプロ
ペラ機にたったひとりの日本人として乗り込み、1 時間と少しのあいだ飛んだ後に無事到着した、
ややうす曇のワルシャワ空港で出迎えてくれたのは、大使館職員の浅野優さんだった。
おつかれでしょう、と浅野さんは、通る声で私に車に乗るよう促した。そして、ホテルまでの
30 分、よく整備され、両側には木立の並ぶ大きな道路を大使館の車で走りながら、ポーランド
についてひととおりのレクチャーをしてくれた。大使館職員とはいっても、彼の本職は西洋政治
史の研究者なのだそうだ。つい数年前まで岡山大学で講師として教鞭をとっていたという、その
話し方は研究者らしくとても論理的で、初対面の私にとってもとてもわかりやすかった。
ホテルに到着していったん荷物を部屋においてから、ラウンジで実務的な打ち合わせを行い、
翌日からの簡単なスケジュールの確認をする。なにか困った事があったら連絡してくださいと、
お互い携帯の番号を交換したあと、浅野さんをフロントで見送って、時計を見ると夕方の 7 時
であった。曇ってはいるものの、外はまだ昼間のように明るい。そういえば、この季節は 9 時
くらいになってようやく暗くなると、浅野さんが教えてくれた。そのかわり冬は逆に 3 時ごろ
から、はやばやと暗くなるそうだ。ポーランドに住み始める日本人はこの落差にすっかりと、ま
いってしまうのだという。
日本を発ってからほとんど寝ていなのに、気分が高揚しているせいか一向に眠くならないの
ポーランド で、夕食のついでにブックフェア会場のあ
る、街の中心まで歩いてみることにした。
会場の「文化科学宮殿」はホテルから歩い
て 20 分ほど、ワルシャワ中央駅のすぐ近
くのオフィス街にある。いまでこそ周りに
近代的なビルが建ち始めているが、以前は
そのあたりではたった一つ、その建物だけ
が屹立していたという。それでも、周りを
それなりに高いビルに囲まれた今でも、そ
のゴチック様式の宮殿だけは、異彩を放ち、
重厚な威圧感をかもし出しているのが、遠
目からでもはっきりと感じとれる。社会主義時代にソ連によって建てられ、まるで監視するかの
ように都市を見下ろしていたこの建物は、ソ連支配の象徴、「スターリンからの贈り物」と、い
までもワルシャワの人たちにはとても評判が悪い。
搬入は大使館側でやりますのでぜひ観光してきてください、という浅野さんの言葉に甘えて、
次の日は、夕方まで市内を散策することにした。雲のほとんど無い青空に、初夏の日差しのなか、
街中のオープンカフェでは人々がくつろいでいる。日本で、私たちが通常思い描く、重く陰鬱と
したポーランドのイメージからは遠く離れた、新緑と太陽に囲まれた豊かな都市が、ここにはあ
る。ポーランドは観光宣伝が下手なのですよ、と後に田邊大使がおっしゃっていたが、たしかに
観光客らしいグループともほとんど出会わず、ましてや日本人観光客などどこをさがしても見当
たらない。でも、そこがまた良いところだった。
前夜――レセプション
約束の 5 時半に日本ブースに行くと、
浅野さんが大使館のポーランド人職員、
マチェックさん、ヤチェックさんの 2 人
と搬入を終えて、ちょうど展示作業に取
り掛かるところだった。ブタペストのブッ
クフェアから、朝、送られてきた 20 個ほ
どのダンボール箱が手際よく開梱される。
ワルシャワでの日本ブース出展は、しば
らくのあいだ途絶えていたのだが、復活
して今年で 3 年目を迎えるとあって、大
使館職員にとっては手馴れた作業だ。つ
ぎつぎに書籍が並べられる様子を見ながら、極力彼らの足手まといにならないように、私も作業
に加わる。400 冊を「芸能・文化」
「マンガ」
「語学」「写真集」「一般書籍」とそれぞれまとめ
10 ポーランド
て配架していると、ほどなくしてアナウンスが流れた。
7 時から、ホールでレセプションが始まるというので、残りの作業を 2 人の現地職員に託して
浅野さんと 2 人会場へとむかう。まだ、設営や展示作業の最中のブースが多いのだろうか、会
場の、それほど大きくないホールにはひとがまばらだ。主催者を代表して ARS ポロナ社のグジェ
ゴシュ・グゾフスキ社長が挨拶。文化大臣や出版社の代表、欧州評議会の代表と、挨拶が続く。
欧州評議会は、昨年のイスラエルに次ぐ今年の特別ゲストである。国や地域ではなくて、こうい
う “ 機関 ” が特別ゲストとはいささか不自然な感じがしなくもないが、同評議会はこのほどその
歴史を記念した The Council of Europe, 60years in Existence. The Foundation and Adaptation of
Legal Standards を出版した。つまり今回の特別ゲスト扱いは、その 60 年にわたる活動の功績
を讃えて、というわけだ。
ワルシャワ大学グリークラブの、繊細で、ときに力強い合唱のあと、会場を移して立食パーティ
が行われた。そのころになるとどっと人がおしよせ、そして、そこにはおそらくポーランド出版
界の主要な人物が一堂に会しているのだろうが、残念ながら私には誰一人としてわからない。そ
ういうわけなので、私たちはおいしいポーランド料理をいただくことを、この日の最後の仕事と
し、翌日に備えて会場を後にした。いよいよ明日からブックフェアが始まる。
1 日目――ビジネスデイ
54 回目を迎えるワルシャワ国際ブックフェアは、ヨーロッパではフランクフルトに次ぐ長い
歴史を持つ。今年は 31 カ国から約 500 の出展者が集まった。東京国際ブックフェアのように、
印刷会社や IT 企業や関連産業のブースがあるわけではなく、500 の出展者のほぼすべてが出版
社である。他の産業に頼らなくても、出版社だけでこんな華やかなブックフェアが開催できるな
んて、なんともうらやましく感じた。国外の参加はクロアチア、ブルガリア、インド、ギリシャ、
ウクライナ、ドイツ、イギリス、アメリカ合州国、そして日本。また、15 年間不参加だった中
国が今年は参加した。中国ブースでは、教育、科学、芸術分野の出版社、ディストリビュータ、
印刷会社の代表が顔を見せていた。
初日はビジネスデイなので商談の場となるが、2 日目から一般の市民が入場すると、迷路のよ
うな会場は、あっという間に多くの人で身動きが取れなくなる。宮殿の入口には入場券を購入す
る人たちで、いつも長蛇の列ができていた。とにかく、一年に一度、ここに来ればいろいろな
本が手に入る、それも街の書店より安く。社会主義体制下でも、56 年のスターリン批判以後は、
西側出版社のブースがあった、という。その時代でさえ、ここでは、西欧の書籍を手に入れるこ
とができたのだ。
そういうわけで、54 回を経て、すっかりこのブックフェアはワルシャワ市民に定着していた。
やはり、期間中の徹底した読者サービスの結果であろう。20 パーセント、時には 50 パーセン
トを超える割引。
児童書の出版社のブースでは、読み聞かせが行われ、小さい子供たちでにぎわい、
文芸出版社ブースでは、有名な著者のサイン会が開かれていた。そして、Nike Literary Award、
Magellan Award、“the Most Beautiful Book of Year” など、期間中に行われるいくつもの授賞式が、
ポーランド 11
会場のにぎやかさをいっそう際立たせてい
た。
一般の参加者は入場できない、ビジネス
デイの初日、会議室ではプロフェッショナ
ル向けの各種セミナーが開催され、それぞ
れのブースが版権交渉の場となる。この日、
向かいの出版社ムーザの編集長が、来年の
ショパン生誕 100 周年を記念して、ショ
パンにまつわる写真集を日本で翻訳出版で
きないかとの相談のために、日本ブースを
訪れていた。ムーザは、村上春樹の翻訳を
出している大手文芸出版社だ。出版してもらえそうな日本の出版社を紹介してほしいというのだ
が、さすがにダイレクトに紹介することもできないので、日本で版権を扱うエージェントを紹介
した。日本で出版したいのだが、という同じような問い合わせは会期中いくつかあったので、そ
のたびごとに、エージェント一覧が掲載されたパンフレットを渡すことにした。
またこの日は、大使公邸の昼食会に招かれていた日である。昼前に浅野さんと会場を後にして
大使公邸へと向かう。中心地からそれほど遠くはないが、いっそう緑の多い、静かなところに、
大使館と隣り合わせに大使公邸がある。ようこそいらっしゃいました、と出迎えてくれた田邊大
使は、食事中、笑みを絶やさず、政治、経済、哲学についての豊かな見識を背景に会話を途切れ
させることのない、とても博識な方であった。ポーランドはまだまだ日本企業が進出するであろ
うこと、そしてポーランドの観光資源はとても豊かであることを、強い調子で述べられるその話
し方からは、日々、日ポの交流にご尽力されている様子が伺えた。
会期中、大使館のとりくみの熱心さには本当に頭が下がった。日本ブースにはアルバイトの学
生とともに常に職員1、2名が張り付いているという体制で、ブースへの来訪者対応という通常
業務のほかにも、オープニングセレモニー、講演会、茶道・書道のワークショップなど、日本を
紹介する数々のイベントが、大使館主催で行われた。そのたびごとに、チラシの配布、設営準備、
講師の応対、来訪者の誘導という作業が、浅野さんの指揮の下、てきぱきと進められていくので
あった。
ブース運営と関連の業務は、日本大使館広報班のスタッフを中心に行われる。日本人がびっく
りするような正確な日本語を使うヤチェック・メイディクさん、ドライバー、カメラマンなどい
くつもの業務をこなすマチェイ・ネルツさん、東大大学院にも留学経験のあるハンナ・ザミウカ
さん、そして、ついこの間まで学生として神戸に住んでいたマルタ・コスマラさん、彼女は再び
日本で研究することを望んでいるという。そのほかにも忙しい官務の合間を縫って、公使の白石
和子さん、文化班班長の牧野道子さんも会場に足を運んでいらっしゃっていた。
12 ポーランド
2 日目――日本ブースのオープニングセレモニー
ブックフェア 2 日目。この日(金曜日)
から、一般客が入場する日だ。11 時から
は日本ブース前で、恒例となった、田邊大
使とブックフェア主催者代表のグゾフスキ
シャ氏によるオープニングセレモニーと
テープカットが行われた。田邊大使が、
ポー
ランド語で挨拶。全権大使と主催者代表が
こうしてオープニングセレモニーを行うな
んて、それだけに日本大使館のこのブック
フェアへの意気込みが伺える。
一般客が日本ブースにも途切れることなく訪れる。以前から聞いていたようにポーランドの日
本への関心は高い。日本語ブームなのだろうか、自分の名前をカタカナで書いて欲しい、という
リクエストが次から次へと寄せられ、アルバイトの学生たちがなれた手つきで折り紙に書いてい
く。自分の名前だけではなく、家族全員の名前を告げる年配の来場客がいるために、ブースの周
辺はすぐに人だかりができてしまう。もちろん、中に入って書籍を手に取ってみる人たちも多く、
彼らのうち大部分は、武道、茶道、建築、料理などの写真集や、あるいはマンガやコミックが目
当てのようだったが、なかには東京大学出版会の英文書籍 The Japanese Legal System などの、
硬い専門書を手にとって真剣に立ち読みしている若い男性もいた。
しかし、購入したい、という要望には、
今回もやはり応えることができない。この
本は展示のみです、でもブックフェア終了
後は日本大使館の日本文化センターに寄贈
されますので、そこに行けば誰にでも閲覧・
貸し出しができます、と残念そうな面持ち
で学生たちが答えていたのが印象的であっ
た。
明日から週末ですからもっと混みます
よ、と浅野さんに言われ、なるべくこの
日のうちに会場全体を見てまわることにし
た。大小さまざまな大きさの部屋が繋がってできたこの会場は、通常の見本市などが行われるだ
だっ広い空間があるわけではなく、
まるで幾重にも重なる迷路のような配置になっているために、
なかなか全体像を把握することができない。それもまた、味があっていいのではないかと思うの
だが、ようするにワルシャワには、大規模な見本市を開けるような、コンベンションセンターが
ないのだ。
地図を片手に会場内を歩きながら、マルタさんに通訳をお願いして、いくつかの人文学術系出
版社ブースのスタッフに話を聴いた。
ポーランド 13
パ イ ン ス ト フ ォ ー ヴ ィ・ イ ン ス テ ィ
テュート・ビダブニチィ(国立出版研究
所)は、1946 年創業の国立の老舗出版社。
日本文学研究の第一人者ミコワイ・メラノ
ビッチ訳による芥川の『河童』を出版した
出版社でもある。従業員はおよそ 20 名。
ブースで対応している人は皆ベテランらし
き年配の男女であり、そのへんが、いかに
も国立の会社らしい。以前は 160 店舗の
書店と直接取引をしていたが、3 年前から
2 つのホールセラー(取次)と取引を始め
たので、書店への送本がよりスムーズに行われるようになったという。わたしは、1950 年から
この出版社の本を買い続けているよ、と老年の女性が大きな声で、私たちに向かって話しながら
通り過ぎていった。
PWN は、学術系の最大手出版社。大き
な看板を掲げた、部屋の一角を占めるブー
スには、いつも大勢の人がにぎわっていた。
学術書や人文書のほかに、テキストや百科
辞典なども刊行するようだ。また、
大手ホー
ルセラーであるアジムトを子会社に持つグ
ループ会社の学術出版部門でもある。従業
員 150 名。1951 年に国営企業として設立
したのが、民主化に伴って民営企業化した。
ビダブニストフォ・ナウコーベ・スホラ
ル(スホラル学術出版)は、学術書を中心
とした小さな出版社。1993 年創業というから民主化以降の、雨後の筍の勢いで設立された新興
出版社のうちの一つだろう。現在は 7 人の従業員で、刊行の 10%が英、仏、独の翻訳という。
10 のホールセラーと取引をしており、そのほかに書店との直取引も行っているという。編集責
任者のウカシュ・ゼブロフスキさんが、ポーランドの人文書・学術書の初版は 500 部から数千
部といったところだ、と教えてくれた。
ポーランドでもほとんどの大学に出版部が存在するものの、イギリスを除くヨーロッパのその
ほかの大学出版部と同じように、それほど活発な活動を行っているわけではないようだ。それで
もワルシャワ大学出版のように主だった大学出版部はこのフェアにも出展していた。グダンス
ク大学出版は、ポメラニア地方ではもっとも大きい大学の出版部で、10 人のスタッフを擁する。
年間の刊行は 90 点ほど。この日は販売部の 2 人がブースに来ていた。モノグラフとテキストの
刊行が中心である点は、日本の大学出版と同じだが、1点あたりの刊行部数は少なく、テキスト
は 500 部、モノグラフに至ってはわずか 200 部である。販売は、ホールセラーなどには委託せ
ずに、すべて自前で行っている、という。
14 ポーランド
そして、最後にもう一つ、ムーザについ
て触れておこう。先ほども述べたが、同社
は村上春樹の訳書を刊行している大手文芸
出版社である。ポーランドで、村上がはじ
めて紹介されたのは 1995 年の『羊をめぐ
る冒険』
。日本文学者、アンナ・ジェスリ
ンスカ・エリオットの訳でウィルガという
児童書出版社から出版された(この辺のい
きさつは、訳者自身のエッセイ「ポーラン
ドの村上春樹」
〔
『国文学』95 年 3 月号〕
『世
、
界は村上春樹をどう読むか』
〔2006、文藝
春秋〕
に詳しい)
。しかし当時は、
日本に特別に興味がある人たちを除いて、それほどは売れなかっ
たという。その後 2003 年に、そのころには世界的に有名になっていた村上作品を、このムーザ
が次々と翻訳出版し始めた。今では『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』『世界の終わ
りとハードボイルド・ワンダーランド』など、主だった作品はほぼ翻訳されている。
おりしも、
日本では新作『1Q84』が、
発売前からネット書店で 1 万部の予約を記録したなどと、
大いに話題となっていたころだ。ポーランドでの村上の初版は約 3,000 部だというから、もち
ろん日本の販売数と、過剰な加熱ぶりには及ぶべくもないが、それでも国内人口の約 3,800 万
人という数字から勘案すると、この初版部数は決して少ない数ではない。それに、そのほかにも
英語版も輸入されており、
学生などはそちらで読んでいるケースも多いようなので、実際にはもっ
と読者はいるはずだ。
村上作品の精神的なもの、
哲学な世界観に、
読者は惹かれるのでしょう。ムーザの編集長は、ブー
スに貼られた村上春樹のポスターの前で、そう話してくれた。
3 日目――講演会・書道ワークショップ、日本学科
3 日目は、あいにくの雨。それでも土曜
日とあって会場入口には、傘をさした人た
ちの長い行列ができる。そしてこの日は、
大使館主催のイベントの一つである、講演
会が開かれる日だ。私も講師の一人として
発言することは、専門家として派遣される
ことがきまったときからスケジュールに組
み込まれていたのであったのだが、やはり
見知らぬ土地でまったく知らない人たちの
前で話すのは緊張するもので、その日は朝
からどことなく落ち着かずにいると、もう
ポーランド 15
一人の講師である水野芳正さんがブースに
現れた。水野さんは、講談社を定年で退職
したのち、外務省の日本文化発信プログラ
ムでポーランドに派遣され、現在はコペル
ニクス大学で、日本語と日本のポップカル
チャーを教えている。定年退職とうかがっ
ていましたがとてもそうはみえません。率
直にそう感想を述べると、編集者は年をと
りませんから、と笑っていた。
通訳の岡崎=ピンドゥル・東子・アンナ
さんと、簡単な事前打ち合わせをしている
間、ブースでは、この日のもうひとつのイベントである、書道のワークショップが始まった。水
野さんと同じく日本文化発信プログラムの派遣で滞在している、高瀬佳代さんが、参加者のリク
エストをきいて、ここでもまた一人一人の名前を、墨で、とても丁寧に書いていくのである。あ
あ、なるほど、昨日学生たちが折紙に名前を書いていたのは、これの簡易版であったか、と納得。
ブース前には、すぐさま昨日を超える行列ができたのはいうまでもない。
さて、2 時からいよいよ講演会がはじま
る。講演とはいっても、持ち時間は一人
30 分なので、準備やパソコンのセッティ
ング、そして通訳の時間を勘案すると、話
す時間は、正味 15 分にも満たない。事前
に浅野さんとメールでやり取りをしながら
準備するうちに、ポーランドの人たちに、
日本の書店店頭の雰囲気に触れていただく
のが良いのではないかということになり、
日本を発つ前に日頃からお世話になってい
る東京の書店員の方々に頼んで、店内風景と書棚の写真をたくさん撮らせてもらっていた。そし
て、この日の私の演題「日本の出版産業」にふさわしい写真を、スクリーンに投影。つまり、ス
トアプロモーションから見える日本の出版物や書店事情について、レクチャーするということに
した。
30 分という時間は、あっという間だった。異国での、講演会の講師という大役を、なんとか
こなせたのは、60 人の聴衆に混じって、前列で私の発言に一つ一つに反応し頷いてくださった、
田邊大使はじめ大使館の皆さん、そしてワルシャワ大学日本学科の先生方の、寛容な視線のおか
げである。
講演会を終えブースに戻ると、その、ワルシャワ大学日本学科の岡崎恒夫教授とロムアルド・
フシチャ教授が出迎えてくださった。
ポーランドの大学では日本研究がとてもさかんです、と 2 人の先生方が話してくれた。実は、
私は当初「日本語学科」とばかり思っていたのだが、そうではなくて「日本学科」であったようだ。
16 ポーランド
すなわち、ワルシャワ大学では日本の政治、文化、社会、歴史についての体系的な日本学の研究・
教育を行っているのである。2006 年の入試の倍率は 30 倍にも及び、これは全ての大学の学科
における最高倍率であるという。それくらい日本研究への人気は高く、そして日本学科は難関な
のだ。アテンドをしてくれたアルバイトの学生たちは 4 人ともワルシャワ大学日本学科の 2、3
年生だが、彼女たちの日本への関心の高さと、専門知識の深さには驚かされた。
ズザンナム・ムロジェスカさんは禅の研究をしているという。アニャ・パシェコさんは日本文
学ファンである。村上春樹の翻訳事情などは彼女に教えてもらった。そして、モニカ・チェルネ
スカさんは明治時代の修身の教科書を、アニャ・シュトトラさんは東京裁判でA級戦犯として処
刑された軍人松井岩根を、研究しているという。正直に告白すれば、私が話を合わせられるのは
かろうじて村上春樹ぐらいのもので、松井岩根なんて何の知識も持ち合わせていない。とにかく
彼女らの日本のディテイルへのこだわりには、ただ驚くばかりであった。
4 日目――茶道ワークショップ、アンケート、そして販売について
気がかりだった講演も無事終わり、現地
出版事情の調査もマルタさんや浅野さんの
おかげでスムーズに運んだので、最終日は
終日ブースにはりつき、いささかリラック
スした気分で訪問者の対応をおこなった。
今 年 は 国 交 樹 立 90 周 年 と い う こ と も
あって、年間を通していろいろなところで、
日本文化を紹介する催し物が行われた。こ
のブックフェア会場での一連のイベントも
その記念事業の一環であるが、そういった
事情をぬきにしても、ポーランドの人たち
の日本への関心は高い。11 時からブース前のスペースで始まったポーランド人女性の裏千家に
よる茶道の実演も、
昨日の書道のワークショップにも劣らない長さの行列で終始にぎわっていた。
アニメやマンガが人気なのは最近の傾向であるが、こうした日本の伝統文化に対する関心も、や
はりそれ以上に高いのだ。
その関心の高さを反映してのことだろう、恒例となっている国際交流基金/出版文化国際交流
会作成のアンケートも、200 を超える数があつまった(この数は世界各国で行われる同様のア
ンケートの回収数と比較しても、じゅうぶんに遜色のない数字である)。集計結果によると「日
本ブースを訪れた目的」として、
「偶然通りかかったから」をあげているのは 12 名と少なく「日
本に関心かあるから」が 177 名と圧倒的に多い(一方で「ビジネス」をあげているのが 7 と少
ないのは残念だが)
。また関心の高いジャンルは「文化」
(86 名)がもっとも多く、次いで「芸術」
(49 名)
、
「マンガアニメ」
(46 名)
、
「歴史」
(43 名)という順番であった。
購入したいというリクエストは、やはりこの日も多かった。しかし、日本からの日常的な書籍
ポーランド 17
の流通ネットワークがない以上、販売は困難である。一番の障壁は、じゅうぶんな需要予測がた
たないということだろう。たとえば、4 日間で日本円にして 100 万円(正味)程度の売上が見
込めるのであれば、注文を受けて、後に日本の取次会社や貿易会社がまとめてポーランドに届け
るということも可能だろう。だが、そうならなかった場合のリスクを誰が負うのか。
もっとも、日常的に日本とポーランドの間で書籍の流通網があれば、殆どの問題は解決する。
しかしいまのところ、国内の書店・取次には日本の書籍を扱うところはない。ヨーロッパ地域で
の日本の書店はパリのジュンク堂書店(経営は喜久屋)が有名だが、その他営業所としてはロン
ドンに丸善と紀伊國屋書店があり、またロンドンとパリに日本出版貿易の拠点がある。これらの
都市のようにそれなりの数の邦人が住んでいるのであれば、日本の書店が出店する可能性はある
のだろうが、ワルシャワの在留邦人はわずか 500 人であり、ポーランド全体でも 1,200 人であ
る(ロンドンは 28,000 人、パリは 12,000 人)
。
日本の書店が出店することは無理としても現地書店の一角に日本の書籍コーナーができないも
のだろうか。
日本人や、日本語のわかるポーランド人は、少々高い運送料を払っても Amazon.co.jp などの
ネット書店で購入するという。だが、ネット書店は専門家による目的買いには適していても、書
物との偶然の出会いの場を提供してはくれない。やはり店頭などで書籍をじっさいに手にとって
みることのできる環境があって始めて、読者の裾野を広げることができる。日本語に堪能な研究
者だけが、日本の書籍を求めているのではない。このことは、日本ブースで写真集などを手に取
る人たちの多さを見て感じた。必ずしもじゅうぶんに日本語を使いこなすことができないであろ
う彼らは、目的の書籍を定めて、Amazon.co.jp で購入するなどということは、おそらくしない
だろう。
彼らのように、日本の書籍との偶然の出会いを求めている読者が、ワルシャワには大勢いるの
だ、と思う。
ポーランド出版事情について
1、はじめに
ブックフェアの運営と日本出版事情の紹介の他に、「専門家」として派遣された私に課せられ
ていたもう一つの仕事は、ポーランド出版事情の調査である。そのことについて、ここで報告し
ておきたい。
IPA(国際出版社連合)の発表する各国出版点数一覧を見ても、ポーランドの数字は明らかに
されていない。そもそも国内人口 3,800 万人の市場が、日本の出版産業にとってじゅうぶんに
魅力的ではないという理由もあるのだろう、ポーランド出版産業の実態は、日本にいては把握
することが困難である(そうしたなか、マンガの翻訳事情に関しては、在ポーランドのマンガ
専門出版社 Waneko 社代表の綿貫健一郎氏によるレポート「ポーランドにおけるマンガ市場」
(2008.3、ジェトロ)があり、私も派遣前に拝読してずいぶん参考にした)。
今回、ポーランドの出版コンサルティング会社である、ビブリオテカ・アナリシス社代表のウ
18 ポーランド
カシュ・ゴウェビエビスキさんにブックフェア会場でお会いできたことは、とても幸運であった。
彼は Book Market in Poland という書籍の著者でもある。以下は 同氏へのインタビューをもと
に構成したポーランド出版市場の概要である。かなりの部分を Book Market in Poland の記述と
データで補っているが、同書の英語最新版は 2006 年(ポーランド語版は毎年刊行)なので、部
分的に統計の年度が古い点はご容赦願いたい。また、ブックフェア事務局が、その日に行われた
イベントなどを伝えるために毎日、会場で発行・配布していた 4 頁のニュース、INFORMATOR
TARGOWY も参照している。
2、販売金額、出版社数、刊行点数、
2008 年度の書籍販売金額は 2,910 mln PLN、日本円に換算するとおよそ 900 億円である。単
純に日本の書籍市場と比較しても 10 分の1にしかならないが、対前年度比は 12%という驚く
ほどの伸び率を見せている。理由は『ハリー・ポッター』など有力なベストセラーに恵まれたか
らだという。今年は、やや前年度を割るかもしれないが、それでも長期的にはこの伸張のトレン
ドは続くという。
自由選挙の実施が民主化のスタートだとしたら、1989 年から数えて、今年で民主化 20 年目
を迎える。この 20 年間の出版市場は、およそ右肩上がりを続けている。理由の一つはやはり社
会主義時代の終焉とともに、自由な言論体制がはじまり、多くの国内出版社が活動を開始したか
らであり、もう一つは、国外の有力出版社(リーダーズダイジェスト、ハーレクイーン、ピアソ
ンエデュケーションなど)が新しい市場をもとめて参入してきたからである。
もっとも 90 年代の GDP の驚異的な伸びは著しく、相当なインフレも経験したようだが、そ
れがある程度落ち着いた現在でも、出版市場の伸張は止まらず、今後も同様の伸張が続くと予想
される。このような長期的伸びの理由として挙げられるのは、①有力出版社の財務体質の堅実さ
②豊富な企画力③流通コントロール技術の向上④プロモーション効果である。また、増え続ける
教育への投資、新設大学や教育制度改革による教科書の買い替え、あるいはビジネスのための専
門書需要の増大など、好材料はいくつもある。
出版社数は 26,700 社(2007 年)
。ただし、市場の大手出版社への集中度が高く、上位 200
社で全体の売上の 98%を占める。
刊行点数は 1998 年に 24,000 点であったが 2007 年は 21,810 点。点数だけを見ると減少し
ているが、1タイトルごとの刊行部数は増加傾向にある。また、2008 年は年間で生産した総部
数以上の書籍が売れたという。
3、流通と取次について
ホールセラーのシェアは 43.6%
(2007 年)
。現在、活動しているホールセラーは 40 社ほどだが、
日本のような大手の寡占状態にあるわけではない(もっともこの点に関しては世界の中でも日本
のほうが特殊だが)
。リーダー企業のアジムトのシェアはせいぜい 10%程度である。その他、ハ
イパーマーケットを主要な取引とするオレシェスクや、有力書店チェーンを傘下に納めるマトラ
ス、大規模書店エムピックやハイパーマーケットのテスコの取引先であるプラトンなど、数社が
競っている状態である。
ポーランド 19
だが、ブック・インフォメーション・センターの調査によると 1999 年には 550 社が、2003
年には 365 社が活動していたということなので、年を追うごとにその数は激減しているという
ことになる。ホールセラーの市場占有率は、1999 年 52%から 2007 年 43.6%と、減少してい
るものの、企業の撤退数ほど激減しているというわけでもないので、やはり企業間競争による淘
汰がおこなわれたのであろう。実際、消滅したホールセラーの多くは地方の零細企業である。
4、取引形態と流通マージン
出版社―取次―書店、あるいは出版社―書店間の取引形態は、基本的に買切だが、書店がリス
クを避けるために、出版社に委託取引を要求することもある。こうした委託取引は、通常は小売
店で販売されないかぎり出版社の売上とはならないが、なかには日本の出版業界独特の返品条件
付売買
(つまりわれわれ出版業界でいうところの
「委託」)が行われることもあるという。それでも、
返品率は8%と低めに抑えられている。マージンは平均で書店 30%、取次 16%である。
5、書店について
市場全体の書店シェアは、95 年の 62%から 2004 年の 42%、2007 年の 39%にまで下がっ
ている。また、99 年の 2,900 店から 2004 年の 2,520 店、2007 年の 2,510 店と、その数も減
少しており、現在でも撤退・廃業は止まらないといわれている。それでも、ハイパーマーケット
やショッピングモールの書店、そしてナショナルチェーン書店は業績を伸ばしているから、ここ
でも苦戦を強いられているのは地域の独立系書店である。
リーダー企業はエムピックとマトラスである。エムピックはおよそ 100 の店舗をもつ新興の
チェーン店。本店と思われるワルシャワの店舗は、CD、文房具、カフェなどを併設している 4
階建ての複合店だ。マトラスは 111 店舗の小売チェーンのほかに卸業もかねる。このエムピッ
クとマトラスで書店販売のおよそ 25%を占める。
6、他の流通チャネルについて
39%を占める書店以外の販売チャネルとして、通信販売(ブッククラブ含む)25%、イン
ターネット 10%、訪問販売 3%、スーパーマーケット 12%、新聞販売所 11%がある(いずれ
も 2007 年)
。インターネット、スーパーマーケットや新聞販売所の伸びが著しい。ネット書店
大手はメルリンであり、アメリカの Amazon は参入していない。
また、新聞の販売ルートを利用した書籍流通が、これからの新しいチャネルとして注目を浴び
つつある。
7、流通における課題について
日本での再販売価格維持制度にあたるような、定価販売制度はいまのところ無い。それでも、
従来、書店はほとんどディスカウントを行っていなかったのが、(そしてそれがブックフェアに
多くの人が魅力を感じる要因でもあったのだが、)近年はエムピックのような強い販売力をもつ
大型チェーン書店が、大幅なディスカウントを始めているという。そうなると体力のない、地域
の独立系書店は太刀打ちできない。地域からこうした独立系書店がなくなっていくのが現在の問
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題であるという。
そのほかにも、エムピックに対する業界的な風当たりは強い。なぜならばエムピックはそのバ
イイングパワーを背景にして、強い交渉力で出版社に無理な条件を突きつけてくるからだ。例え
ば、自社チェーン店舗だけに、新刊刊行の2週間前の先行発売を許可せよ、などということを要
求するという。
実際、このような「不公平な競争」をテーマとするシンポジウムが、ブックフェア会場でも行
われていた。2 日目に行われたブックセラーニュースという業界誌主催のシンポジウムでは、出
版者、書店人、図書館人、出版研究者の、それぞれの代表者が参加し、「出版市場のネガティブ
な現象とそれらの迅速な除去のために選択すべきアクション」についてのディスカッションが行
われた。この席上、出版研究者が、エムピックによる「優越的地位の乱用」を問題にする場面が
あったようだ。INFORMATOR TARGOWY によると、エムピックは市場の独占的な地位を利用し
て、競争上の合意事項を破るという違反行為を行っている。その不当性について、出版学会会長
が、
政府の「消費者保護と公正競争に関する監督官庁」に告発した、という記事が報じられていた。
グレイ・マーケット――。つまり、現在、出版市場で問題とされていることは、小規模な出版社、
独立系書店の体力をさらに弱くする「不公正な競争」が行われているということである。こうし
た状態がこのまま続けば、零細企業は市場からの撤退を余儀なくされることは明らかである。
ゴウェビエビスキさんの話によれば、現在、定価販売制度導入の議論があるという。もともと
定価販売は社会主義時代への後戻りだ、という論調が強く、こうした議論が浮上するたびに見送
られてきた。しかし、今回は業界団体の足並みがそろい、おそらく 3 年後には制度化されるだ
というといわれている。定価販売制は、
独立系書店と小規模出版社の保護のためにも必要である、
と彼は言う。
8、まとめ
3,800 万人(そのほか国外に 1,000 万人)というポーランド語のマーケットは、他の国と比較
して決して大きいとはいえないが、民主化以降の勢いが衰えないからか、販売額は伸張している。
流通面では、大規模なホールセールやチェーンストアが登場することによって次第に整備されて
いる一方で、独立系の書店が廃業に追い込まれ、書店の寡占化が進むといった問題も起こってい
る。
ところで、ここでの対処法としてあげられているのが定価販売制度の創設であるといった点は
どう考えればいいのだろうか? 時に、病気への対処がその病気そのものよりも悪い結果をもた
らすことがある。情報量が少ないため、なんとも判断しかねるところだが、再販制度をめぐる昨
今の日本の議論を思い起こせば、定価販売制度を導入した後のポーランド出版産業が、その後ど
のような競争秩序を形成するのか、大いに興味のあるところだ。
おわりに、謝辞をかねて
以上が、ブックフェア、ならびに現地出版事情の報告であるが、最後に、もう少しだけ、ワル
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シャワ大学のフシチャ先生との会話について、書いておきたい。
言論と出版の自由は何よりも守らねばなりません――。私の講演を聴きにきてくれたフシチャ
先生は、文化科学宮殿前のレストランで、昼食にしては遅すぎる食事をふたりでとりながら、流
暢な日本語でそう語ってくれた。80 年代の連帯運動に、知識人としてかかわり初の自由選挙、
統一労働党の解散という、社会主義体制の崩壊と民主社会の誕生を経験した彼にとって、言論・
出版の自由という言葉は、当然、私たちが考える以上に重い意味を持つ。
街を歩いていても、文化科学宮殿以外には社会主義の痕跡がありませんね、というあとから考
えればいささか間の抜けたような私の問いかけに対して、あたりまえですよ、レーニン像は私た
ちがこの手で壊しましたからね、と穏やかだが確信に満ちた口調で彼は答えてくれた。こんな日
がくるなんて、あの時は本当に嬉しかったです。
そして、こう続けた。
最近は社会主義を懐かしむ展覧会がときどき行われますよ。昔の日用品などを展示して、ただ
懐かしむだけのイベントです。しかし、社会主義の記憶を残すのだとしたら、本当に必要なのは
そんなものではなくて、秘密警察の実態です。秘密警察が人々に何をしたのかという事実を、展
示することですよ。
他国からの支配、そしてそれに対する蜂起と抵抗という歴史をもつポーランドでは、結婚式の
招待状にも検閲が必要だった時代がある。だが、そんなときでも、言論統制下の弾圧を覚悟しな
がら、労働者や市民らによる、命がけの幾多の出版活動が地下で行われていたという。そう考え
れば、民主社会になってまだ 20 年しか経たない、この国の出版界で語られる「言論の自由」と
いう言葉や、市場での「公正な競争」という言葉は、いまもって、日本で私たちが使うときとは、
比べ物にならないほどの解放と緊張に満ちたリアリティのある響きをもっているに違いない。
いまはもう塗りつぶしてしまったけれど、と目の前に聳え立つゴシック建築を指差しながら、
フシチャ先生はやや興奮した口ぶりで、最後にこんなことも教えてくれた。あの建物の正面入口
の上には “imienia Józefa Stalina(ヨシフ・スターリン記念)” と刻まれていたのですよ。私はや
はりあの建物は壊すべきだと思いますよ。
食事をすませ、フシチャ先生を地下鉄の駅まで見送り、会場へ戻ろうとひとり文化科学宮殿の
玄関を通り抜けるとき、私はその文字の痕跡を探してはみたのだけれども、もちろん見つかるこ
とはなかった。
浅野さんには、本当になにからなにまでお世話になった。フシチャ先生の、なににも代えがた
い貴重な話を聴くことができたのも、ポーランドの出版事情に関してはおそらく第一人者である
ゴウェビエビスキさんのインタビューを行うことができたのも、すべて彼のアレンジのおかげだ。
この、刺激的な日々を用意してくれた浅野さんに、私はどのように感謝したらよいかわからない。
大使館職員の皆さんとワルシャワ大学日本学科の学生さんのご尽力にもお礼を申し上げたい。
彼らの日本への理解の深さには頭が下がるが、こういう人たちがポーランドと日本の架け橋に
なっているのだと思うと、とても心強い。
また、講演のための店内の写真を取らせていただいた日本の書店人の皆様にもこの場を借りて
お礼を申し上げる。私的な旅行も含めて外国の書店を訪問するたびに思うのであるが、日本の書
店における棚作りの創造性は、世界でもトップレベルであることは間違いない(その素晴らしさ
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を、今回どれほど伝えられたかと思うといささか心許ないが)。
最後になったが、このような貴重な機会を提供してくださった石川専務理事はじめ出版文化国
際交流会の皆様、現地大使館と連絡をとって日本ブース運営にご尽力くださった国際交流基金の
皆様、そして私を派遣専門家として推薦してくださった大学出版部協会の皆さんにも、深い感謝
の気持を捧げたい。
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